羊飼イエス・キリスト教会
羊飼イエス・キリスト教会主日礼拝説教

2014年 1月 26日

武内 明


『キリストの従順と忍耐

マタイ12:9~21

 (1)「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、『安息日にいやすことは正しいことでしょうか。』と言った。これはイエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。『あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。』(912)」・・
 民衆の期待を集めたナンバーワンのメシヤ候補、イエスには、最高議会サンヘドリンから"メシヤ観察団"が送られ、観察が続けられていました。  中風の人が癒されたときや、マタイの家の宴会でイエスにつぶやいた彼らです(9章)。

 この「会堂」は、原文ギリシヤ語では"彼らの会堂"となっています。そして、彼らとは、安息日を巡ってイエスを試みるパリサイ人たち、サンヘドリンを頂点とするイスラエルの指導者たちのことです。「会堂」は、彼らが建て、運営管理していました。
 会堂は彼らが支配していました。この「片手の萎えた人」は、たまたま会堂にいたわけではありません。書かれているように、「イエスを訴えるため」に、彼らが置いたのです。彼らは白々しくも、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」とイエスに問いかけます。彼らの答えは当然「否」です。しかし、この問いは、悪魔が、公生涯にはいられる前のイエスを試みたのと同様、彼らが、イエスが病を癒し、奇蹟を起こすことができることを知っているからこその試みです。
 イエスに敵対し、十字架につけた彼らイスラエルの指導者たち。イエスと同時代に生きた彼らは、神に敵対しましたが、イエスが行なわれた奇跡の事実は認めていました。現代は巧妙に仕組まれた異端の時代であり、神が啓示された「聖書」に書かれた、イエス・キリストの神のわざを、  敵対者たちでさえ認めていたイエスの奇蹟を  いまだに異教の神話や空想物語と同様に扱う、少なくない数の学者やクリスチャン(?)がいます。そして、悲しいことに、悪魔の策略であるそうした"にせものの教え"に惑わされ、だまされる人たちが大ぜいいます。
 しかし、私たちは御霊によって証します。聖書は神のことば、神のメッセージです。そして、聖書に示された「ひとり子の神イエス・キリストは、御父に服従して、処女降誕され、聖書に書かれたすべての奇蹟と、その聖書にもおさめきれない多くの奇蹟を人々の間で行なわれ、自らの十字架の血により、人類のすべての罪の贖罪を果たして、死なれ、葬られ、三日目に復活されて、40日の間、ご自分を弟子たちに現された後、弟子たちと天使たちの見ている中で天に昇り、御父のもとに帰られた」というのは真実であることを。
 そして、歴史のこの事実を否定する教えは、それは、キリスト教ではありません。イエス・キリストの福音、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる信仰義認の恵みは、この歴史的事実の上に成り立っているのです。

 イエスは彼らに言われました。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(1112)」・・
 パリサイ人たちの罠は巧妙であり、彼らの"口伝律法"によっても、安息日に命にかかわる重病の人を治療することは義務でもあり、許されていました。けれども、この「片手のなえた人」の「片手のなえ」は、命にかかわる緊急を要する病とは言えないものです。
 パリサイ人たちは、自らを「心優しく、へりくだっている者」と言われた、あわれみ深いイエスが、イエスを必要としているその人を放っておかれるようなことがないことを、これまでの経験から十分知ったうえで、「片手のなえた人」を会堂に置いたのです。
 パリサイ人たちの問いに対する、11節のイエスの応答は、パリサイ人たちの間にある矛盾を突いた皮肉です。安息日に、他人が癒されることを禁じたパリサイ人も、自分の財産に関わることでは寛大でした。当時は、羊を襲う獣を捕らえるために、穴が掘られ、その穴に家畜が落ちることがあり、それが安息日であっても、穴に落ちた羊など家畜を助け出すことが一般的に行なわれていたからです。

 12節が、パリサイ人たちに対するイエスの答の結論です。「人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。」というのは、「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(10:31)」と言われたことに同じです。そして、人間の優位性は、人が、神のかたちに造られているからにほかなりません。
 これは、仏教や汎神論や進化論、はたまた多神教の霊的環境の中で疑問もなく育った日本人には抵抗のある思想です。彼らの多くが、命に優劣はなく、動物の命も人間の命も同じであると、根拠もなく漠然と信じているからです。それは、育った環境の中で身についてしまった、輪廻転生などの循環論的世界観、宇宙観によるものです。

 以前、人を殺して、「ゴキブリの命も人間の命も同じだ。」とうそぶいた少年がいました。この少年の価値観は、この霊的環境の中で育った彼が必然的に導き出した結論です。
 しかし、聖書は違います。この世界を創造された神の真理は違います。神は、ご自分と心において交わるものとして、ご自分のかたちに人を造り、物質世界を治めるようにされたのです。それゆえ、「人間は羊より、はるかに値うちのあるもの」なのです。だから、安息日に、羊を助けてよいなら、神のかたちに造られた人間を助けるのは当然であり、正しいことなのです。そして、これもまた、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。(12:7)」と言われる神の御こころの現れです。
 この世界の時間は、創造の初めから、再創造の終わりに向かって、一直線に確実に進んでいます。また、私たちに前世などというものはなく、人は、永遠のいのちを受ける者と、第2の死である永遠の火の燃える池に入れられる者とに二分されます。人が行き着く先は、この2つ以外にないのです。

 (2)そして、イエスが、「手を伸ばしなさい。」と言われたので、彼が手を伸ばすと、手は直り、もう一方の手と同じようになりました。ここで、イエスは、彼に信仰を求められてはいませんが、従順にイエスにしたがっている彼の姿から、そこに信仰があったことがわかります。また、「手は直り」の直訳は、「すべて健康に戻る」であり、イエスの癒しが完全であったことを表しています。ルカによれば、なえた手は右手であるので、なえていた右手が、健康な左手と同じようになったということです。

 イエスが癒されたのを見て、パリサイ人は会堂を出て行きました。そして、「どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(14)」とあります。・・
 パリサイ人の面目は丸つぶれです。「イエスを滅ぼす相談」とは「イエスを殺す相談」です。マルコとルカも、この様子を同様に記録しています。マルコの福音書には、「そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。(マルコ3:6)」とあり、ルカは、「彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。(ルカ6:11)」と書いています。
 パリサイ人たちは、自分たちが最も厳格に守ってきた"口伝律法"による安息日の規定に従わないイエスに対して、分別を失うほど怒りを燃やし、宗教的には相容れない親ローマのヘロデ党の者たちとまで一緒になってイエスを葬る相談をしたのです。
 このイエスを葬る彼らの計画はここに初めて現れ、それは取り消されることなく、イエスの十字架に至ります。

 「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。(1516)」・・
 イエスが、パリサイ人たちの陰謀の相談を知ってそこを立ち去られたのは、イエスが言われている、「わたしの時」、つまり、「十字架の時」がまだ来ていないからです。
 また、「こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。(4:25)」とあるとおり、弟子たちとともに、癒しを求める大ぜいの人々がイエスにつき従っていました。そして、イエスは、ここでも、ご自分を信じて癒しを求めるすべての人を癒されました。
 イエスを葬る計画はここに初めて現れましたが、イエスが、癒された人たちに、「ご自分のことを人々に知らせないように」戒められたのは、十字架に至る「イエス殺害計画」と、イエスのメシヤ性を証する癒しのわざが、リンク(関係)する事柄であるからではないかと思います。ただ、それがどのようにであるのかわわかりません。

 (3)「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。(イザヤ 42:14)』」・・
 これは、イザヤ書42章からの引用です。
 「わたしのしもべ」は、神のご計画を遂行するために神が選ばれた器です。それは、イエス・キリストを初め、預言者たち、イスラエルの残りの者、また、私たち新約の教会です。そして、この引用聖句は、イザヤ書の4曲の「しもべの歌」といわれているものの1つです。マタイがここで、これらのことが預言の成就であると言っているように、この「しもべの歌」は、初臨におけるイエス・キリストの姿です。
 この引用聖句は、イエス・キリストによって、地上に神の義が打ち立てられ、救いが異邦人に及ぶことの預言です。そのために、神は、最愛の御子に白羽の矢を立てて召されたのです。
 そして、「わたしは心優しく、へりくだっている」と言われたお方は、その御ことばのとおり、また、ここにあるとおり、いたんだ葦やくすぶる燈心である、最も弱い人たちを思いやる心のある方です。
 そして、「公義を勝利に導くまでは。」とあります。この「公義」は、神の義の現れであるキリストの福音、その福音の要(かなめ)であるイエス・キリストの十字架の贖罪を表しています。ここに、御父への服従と、その使命を成し遂げるイエス・キリストの忍耐があります。
 そして終わりに、「異邦人は彼の名に望みをかける。(21)」とあるとおり、私たちは、主が忍耐の末に勝利して勝ち取ってくださった十字架の贖罪により、イエス・キリストを信じる信仰によって救われたのです。しかし実際のところ、異邦人であろうと、ユダヤ人であろうと、すべての人の希望は、イエス・キリスト以外にはありません。イエス・キリスト以外に、救いの道はないからです。
 イエス・キリストは、ご自分の使命である十字架の贖罪を果たすまで、父なる神に服従して、この上ない忍耐と謙遜をもって地上生涯を歩まれました。それは、神の子とされた、キリストにならう私たちにも神が望んでおられることです。