羊飼イエス・キリスト教会
羊飼イエス・キリスト教会主日礼拝説教

2014年 2月 2日

武内 明


『ベルゼブル論争①

イエスに貼られたレッテル


マタイ12:22~29

 (1)「そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。『この人は、ダビデの子なのだろうか。』これを聞いたパリサイ人は言った。『この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。』」(22~24)・・
 この「悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人」がいやされた奇蹟は、マタイだけが記しています。これ以前、9章32節でも、イエスは「悪霊につかれた口のきけない人」の悪霊を追い出されていますが、これも、マタイだけが書きとめています。そして、両方とも、その場にいた群衆は驚き、それに対するパリサイ人たちの反応も同じです。
 9章で、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言い、ここでは、「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言っています。
 この類似は、何を意味するのでしょう?
 イスラエルは、バビロン捕囚から帰還したこの時代までのおよそ500年間、ペルシヤを始め、ギリシヤ、ローマに支配されていました。そして、ローマの圧政のもとにあったこの時代、旧約聖書に預言された救い主メシヤを待望する機運が人々の間に満ちあふれていました。そのため、自称メシヤや、バプテスマのヨハネのように、メシヤと噂される者が多く現れました。そうした中にあって、律法学者やパリサイ人たちは、"メシヤにしかできないいやしのわざ"というものを人々に教えていました。
 それは、①癩病のいやし  旧約時代、癩病がきよめられた例は、預言者エリシャによるアラムの将軍ナアマンだけです  、②口のきけない人から悪霊を追い出すこと(悪霊の追い出しは行なわれていましたが、それは悪霊の名前を聞き出してその名前を呼んで追い出すという方法でした。)、③生まれつきの盲人のいやしなどです。
 そして、パリサイ人たちは、これらの奇蹟を行なうことのできる人はメシヤであるとも教えていたのです。イエスがここで行なわれた奇蹟、「悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人」のいやしと、9章の「悪霊につかれた、口のきけない人」のいやしは、まさに、パリサイ人たちが教えていたメシヤにしかできないメシヤのわざです。
 そのため、それを見た群衆は、同じ様に驚いたのです。この「驚く」の動詞は、9章より強い驚きを表していますから、群衆の驚きが一層強烈であったことがわかります。それは、悪霊によるこの人の障害が、口がきけないだけではなく、目も見えなかったことにもあるのかもしれません。この2人の人の障害は、いずれも悪霊によるもので、悪霊が追い出されたことで、その身体的障害がいやされたのです。この人は、目が見え、口がきけるようになりました。
 そこにいた人々は言いました。「この人は、ダビデの子、すなわちメシヤなのだろうか。」と。
 マタイは、マタイの福音書を同邦のユダヤ人のために書きました。イエスによるこの2つの奇蹟をマタイだけが啓示しているのはそのためです。なぜなら、イスラエルの共同体に属し、先ほど述べたイスラエル文化の背景を知るユダヤ人以外、異邦人には、「この人は、ダビデの子なのだろうか。」というような、この奇蹟に対する反応は出てきませんし、また、この悪霊追い出しの記事の意味も、読んだだけではわからないからです。
 パリサイ人は、「この人は、ダビデの子なのだろうか。」という群衆の反応を聞いて、「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言いました。(24)
 ベルゼブルについては、10章25節で述べましたが、もう一度説明します。ベルゼブルは、第2列王記に書かれたカナン人の神、「バアル・ゼブブ(蝿たちの王)」  元はバアル・ゼブル?  」が変化した名前で、「王バアル」という意味です。そして、この時代、ベルゼブルは、ここに「悪霊どものかしらベルゼブル」とあるように、サタンを表しています。
 イエスは、イエスに敵対するパリサイ人指導者たちから、「悪霊どものかしら」、また「ベルゼブル」といったレッテルを貼られ、サタンの仲間であるかのように言われ、喧伝(けんでん)されていました。それは、イエスを亡き者にしようとする彼らの謀略です。人に貼られたレッテルは、それ以外のものとして人を見えなくしてしまう効果があります。まして、そのレッテルをイエスに貼ったのはイスラエルの指導者、権力者です。
 彼らがイエスに貼った「ベルゼブル」のレッテルは、人々の目を盲目にし、イエスがメシヤであることの数々のしるしを見えなくします。それは、「この人は、ダビデの子なのだろうか。」という、否定の答えを前提とした、権力者におもねる群衆の問いにも表れています。
   そして、このパリサイ人たちの見解、また意向は、そのまま、彼らの"口伝律法"の集大成である『タルムッド』に反映され、そこに、「イエスは過越の祭りで殺されねばならなかった。なぜなら、魔術を使ってイスラエルを誘惑したからである。」と、イエスの死刑を正当化して書かれています。しかし、そこで注目すべきことは、彼らは、歴史のイエスを認め、イエスが行なわれた奇蹟を認めているという点です。また、これは、『聖書』以外の書物で、イエス・キリストの存在とその史実を知ることのできる第一級の資料です。  
 イエスは、これまでも、ご自分のことを彼らがそう呼んでいるのをご存知であったでしょうが、直接、彼らがそう言うのをお聞きになったのは、これが初めてであったのではないでしょうか。それは、ご自分に貼られた「ベルゼブル」のレッテルについて反論されているのは、ここが初めてだからです。

 (2)「イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。『どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。』(25~27)」・・
 「彼らの思い」とは、「ベルゼブル」のレッテルを貼り、メシヤであるイエスの権威を失墜させて、イエスを群衆の期待から引き離すことです。また、どの国でも、町でも家でも、内輪もめして争えば、その社会は荒廃し、立ち行かなくなることは、私たちの日常知るところです。同じように、サタンがサタンを追い出して仲間割れしたら、サタンの国が立ち行かなくなることは自明の理です。
 サタンの名前が最初に出て来る聖書箇所は、「サタンがイスラエルに逆らって立ち」とある第一歴代誌21章1節で、「神の敵対者」という意味です。しかし、「サタン」には、それ以外に、「訴える者」、「なじる者」、「試みる者」、「誘惑者」などの意味があります。
 そして、黙示録に、「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇(黙示12:9)」と書かれているように、サタンとは、悪魔であり、アダムを誘惑した蛇のことです。
 そして、「神の国」があるように、サタンに従い天の御国を追放された堕天使である悪霊たちの社会、「サタンの国」も実在します。今の世は、「この世を支配する者」と呼ばれるサタンの支配下にあり、神の摂理のもとに、サタンの支配が許されています。このイエスとパリサイ人の「ベルゼブル論争」は、「神の国」と「サタンの国」とのせめぎ合いであり、この世の支配権と自分たちの延命を賭けたサタンの決死の戦いです。
 そして、私たち教会の働きも、ここでイエスが働き、戦われているように、人々を、「サタンの支配から神に立ち返らせる(使徒26:18)」ことにあります。実に、このような全宇宙的な栄(は)えある使命を、小さな私たちに与えてくださった神に感謝します。
 「もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。(27)」
 「あなたがたの子ら」というのは、あなたがたの同邦、あるいは仲間という意味で、パリサイ人の中には悪霊の追い出しをする者がいました。そして、その権威は神からの賜物であると教えていたようです。27節は、イエスが、彼らのそうした矛盾を突かれたものです。

 (3)「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。(28)」・・
 聖書には、形態の異なるいくつかの「神の国」が啓示されていて、一口に「神の国」と言っても、簡単にはわからない面もあります。しかし、共通するのは、そこは、神が臨在され、神がご支配されているところであるということです。そこが神の国、神の王国です。
 28節は、イエスの重ねてのメシヤ宣言でもあります。「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」というのは、「約束のメシヤであるわたし(イエス)がここにいるのだから、あなたがたが待ち望んでいた神の国は、すでに来ている」というメッセージです。それは、悪霊の追い出しは、いま見たとおり、ベルゼブルによるはずがなく、ベルゼブルによるのでないなら、神の聖霊によるものであり、メシヤのわざであるからです。イエスのメッセージは、その福音同様、理路整然として論理的で、誰にも反論することのできない力があります。それが、神の真理に基づいているからです。

 29節。「強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。(29)」・・
 これは、何か物騒な話ですが、イエスは、人々のよく知る"ラビの譬(たと)え"を用いて語られることも多く、これもその1つなのかもしれません。
 この「強い人の家」とは、サタンが支配するこの世界のことです。「家財を奪い取る」とは、サタンに支配されている人を開放することです。また、「その人を縛る」とは、サタンに対する勝利を意味します。
 サタンは、イエス・キリストが再び来られるまで、神の摂理の中で、この世を支配することが許されています。サタンは、初臨のイエスを阻んで、その使命と働きを損なおうとしましたが、イエスはサタンの働きを封じて、この地に「神の国」をもたらされました。
 そして、十字架の血によって全人類の贖罪を成し遂げ、サタンの最後の砦である「死」を滅ぼされ、サタンの頭を踏み砕かれたのです。イエス・キリストの勝利は完全です。死を滅ぼされたキリストは、その福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました(Ⅱテモテ1:10b)。
 神によって新しく生まれた私たちもまた、キリストにあって世に打ち勝ったのです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です(Ⅰヨハネ5:4)。信仰のあるところに罪はなく、死もないからです。
 神の福音の要(かなめ)、イエス・キリストの十字架の血を無駄にすること、すなわち、信仰を失うことのないように、ぶどうの木である主イエス・キリストにしっかりと結ばれ、御国を目指して、信仰によって歩んでまいりましょう。