08年 8月 3日
「あわれみ深い忠実な大祭司」
ヘブル人への手紙 2章14〜18節
※今回は2名のレスポンスを掲示します
レスポンスその(1)
死はすべての終わりではない。イエス・キリストは確かに十字架上で
死なれたが、三日目に死者の中から復活を遂げられた。イエスがそれを
成し遂げて、希望を私たちに与えてくださった。しかし、イエスが復活を
遂げられて後も、依然として、死はこの世界に蔓延し、人々にとって恐怖
であり悲しみである。だとしたら、イエスは何を成し遂げられたのか。
何が私たちの希望なのか。この件に関してこの手紙の筆者は、私たちを
助けるために神が人となられたことを指摘している。私たちは、キリストが
人として生まれ、なだめの供え物になられたことに驚嘆を隠せない。
神が、イエスという肉体を持ち、私たちと同じようにこの世で過ごし、
泣き、笑い、そして喜びに体を打ち振るわされた。呼吸をしていないと
窒息をし、重力に身を任せ、試みと苦しみをも受けられた。私たちの
弱さを十分に知っていてくださり、私たちと神との間をとりなしてくださる
大祭司キリスト。この方こそ、私たちの希望なのだ。
レスポンス(2)
遠い遠い昔祭司は神と人々の間を取り持つ役を担われた。神は聖なる
お方であり、人はみな、生まれながらに罪がある。水と油が交わらない
ように、聖さと罪は交われない。人々は最上の家畜や初物を携え、
祭司を介して神に捧げ、赦しや憐みを請い、祝福をいただいた。それでも
なお、人には罪がある。だから、大祭司は年に一度、幕屋の奥に入り、
自分を含む人々の罪を清め贖う儀式を、厳粛に取り持った。人のすること
には限界がある。祭司が取り持っていたこれらの贖いを、昔、キリストは
担ってくださった。人となり血と肉を身にまとわれ、最上の家畜のように
ほふられた。その十字架の死と復活によって私たちを死の恐怖から解放
し、日々の苦しみも、キリストを介して神に祈れるようにしてくださった。
経験した者でなければ分かり合えないことがある。同じ経験でなくても、
本質的に同じような経験によって共感できることがある。
キリストが十字架で苦しみを受けられたから、彼は、私たちのどんな
苦しみや悲しみにも寄り添うことができる。そのような憐れみ深い
大祭司を、神が私たちのために遣わしてくださった。
ありのままで神に祈る幸いを、キリストが成し遂げてくださった。
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