メッセージ

ヨハネ4:35~38「目を上げて」 19.01.13.

序)
 新年が明けて2週間が過ぎようとしています。もうお正月気分もなくなり、平常の生活リズムに戻られたことと思います。私たちは何かを作るとき、すぐにできるというものではありません。多かれ少なかれ時間がかかります。それは物を作るのもそうですし、人間関係を築き上げるのにも時間がかかります。それは、福音宣教についても同じことが言えます。福音の種を蒔いたらすぐに刈り取れるのかというとそうではありません。今朝は、その福音の種蒔きについて共に教えられたいと願っています。

 イエス・キリストは、今朝の箇所で作物を通して福音宣教について話しておられます。作物は種を蒔いたらすぐに芽を出して実を結ぶというものではありません。時間がかかります。それと同じように福音宣教も、福音の種を蒔いたらすぐに実を結ぶというものではありません。やはり、作物と同じように時間がかかります。中には、福音に触れてすぐに信じる方もおられます。でも、多くの方はすぐに信じるというわけではありません。人によって違いますが、何年もかかられる方が大勢おられます。作物をされている方は、種を蒔いて芽が出て収穫する日が待ち遠しいことだと思います。それは福音の種蒔きも同じです。しかし、そればかりではありません。イエス・キリストは35節で「     」と話されました。このイエス・キリストが引用されたものは、当時のことわざです。このことわざは、時間がかかることを表しています。ですが、イエス・キリストはそのことわざに対して、それだけではないことを話されています。35節の後半のことばは、すぐに刈り入れられることを話しておられます。
 「どうしてすぐに刈り入れられるのか」と言いますと、イエス・キリストは36節で「     」と話しておられます。この36節前半では「刈る者」しか話されていません。蒔く者については話されていないのです。何故なら、種を蒔く人と実を刈り取る人は違うからです。作物の場合は、種を蒔く人と実を刈り取る人は同じです。もし違っていたなら、それは窃盗ということになります。ところが、福音宣教の場合は違います。福音という種を蒔く人と、その実を刈り取る人は必ずしも同じではないことが話されているのです。作物の場合、自分で種を蒔いて育てたけれども、何らかの事情でその畑から退かなければならなくなったとします。植えて育てたものはそのままその畑に残ります。畑に残された作物は成長し実を結びます。その畑を別の人が手に入れて刈り取ったら当然喜びます。でも、最初に種を蒔いて育てた人も一緒に喜ぶでしょうか。多分そのようなことはないと思います。「せっかく自分が育てたものなのに」と思ってしまうのではないでしょうか。
 ところが、福音宣教の場合は違います。その実を刈り取った人は当然喜びますが、その福音の種を蒔いた人も喜べるのです。私が献身して神学校に入りますと奉仕教会に遣わされました。これは授業のカリキュラムの1つで必須科目です。ですから、奉仕教会で奉仕しないと授業の単位が得られないのです。初めての奉仕教会に遣わされて「教会学校で教えてください」と言われました。今まで教会学校で奉仕したことがありませんでしたし、子どもに話をするなんて考えもしなかったことでした。必死で奉仕したことを思い出しますが、1年間奉仕して別の教会で奉仕することとなりました。するとその後、「教会学校で担当していた子どもが洗礼を受けた」ということを聞きました。そのとき「教会学校の奉仕をしていて良かった」と思いました。別に私は、その教会に属している者でもありませんが、イエス・キリストを信じたことを聞きますと、福音の実を刈り取った人と同じように喜ぶことができるのです。福音の実の収穫は、蒔く人と刈り取る人の両方が喜ぶことのできるものです。

 37節で、イエス・キリストは「     」と話されています。最初の「ですから」とは、福音の種を蒔いた人が必ずしも実を刈り取るものではないという、35節のことばを指しています。すなわち、それはすでに福音の種が蒔かれているということです。先程も話しましたように、一般社会では種を蒔く人と実を刈り取る人は同じです。ところが、福音の種を蒔く人と福音の実を刈り取る人は必ずしも同じ人ではないのです。他の人が福音の種を蒔いて、別の人がその福音の実を刈り取ることがあるのです。そのようなことは少なくはありません。
 ある教会では、次のような話しを聞きました。それは「この教会は、教会に来られてすぐに信じる決心をされる方が多い」というのです。それは何故かと言いますと、その教会では幾つかの家庭集会が開かれているのです。家庭集会というのは、教会員の家を開放して、そこに未信者の方々が集って聖書の学びをするというものです。ところが、その教会の家庭集会の殆どは牧師が出席しないというのです。何故なら、「牧師が出席すると堅苦しくなるから」というものです。では、誰がみことばの学びの責任を持っているのかと言いますと、その家庭を解放されている方や一緒に参加している教会員の方です。その教会の家庭集会には1つの原則があって、「決して教会員1人で開かない」ということで、3~4人の教会員が集うことが原則らしいのです。その責任を持っている方がメッセージをされるのではありません。メッセージではなく、聖書の学びをしながら日常生活の話しをされているようです。具体的には、ある個所を学び、その感想を話し合いながら日常生活に適用するというものです。その家庭集会に集う中で「信じたい」という思いが起こされ、教会の礼拝に集うようになり、信じる決心をされるというのです。これは礼拝のメッセージを通して信じる決心をされたのではありません。もうすでに、家庭集会という場において、その下準備がなされていたのです。もうすでに、福音の種が蒔かれていて実を結んでいたのです。あとは、その実を収穫する時季を待てば良いだけだったのです。
 私たちは一生懸命福音の種蒔きをしています。ですが、なかなか実を結ぶには至りません。ですが、福音の種蒔きは大切なことです。私たちが知らない所で、蒔いた福音の種が実を結び他の人が刈り取るということがあるのです。また、別の人が福音の種を蒔いて私たちが福音の実を刈り取るということもあるのです。テレビやラジオ、またインターネットを通して福音の種蒔きがなされています。それらを通して福音の実を刈り取ることもあるのです。そのようなことを思いますと、それらの働きのためにも祈っていく大切を知らされるのではないでしょうか。

 別の人が福音の種を蒔いて、別の人が福音の実を刈り取るというのは初代教会の中にも見受けられます。使徒の働き8章を見ますと、そのことがよく分かるのではないでしょうか。ステパノの殉教を契機として、エルサレム教会への迫害が厳しくなり、使徒たち以外はユダヤとサマリア諸地方に散らされたことが1節に書かれています。そして、ピリポという人はサマリア地方に行き福音宣教の働きに励みました。すると、その中からイエス・キリストを信じる人たちが起こされたのです。そのことを聞いたエルサレムにいた使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリアに遣わしました。そして、2人が信じた人たちの上に手を置くと、「聖霊を受けた」と17節の最後に書かれています。これはペテロとヨハネによるものではありません。「神の導きだ」と言えばそれまでなのですが、その前にピリポがサマリア地方で福音の種を蒔いていたからです。ヨハネは、このとき今朝の箇所のイエス・キリストのことばを思い出したのではないでしょうか。
 稲沢教会の時のことですが、集会にアンケート用紙を入れて記入していただいていました。200人程の方々がアンケートに協力してくださいました。何回も記入された方もおられますが、そのような人は1人と数えました。すると、「小さい時に教会学校に行っていた」とか「昔、教会に行ったことがある」という方が40%程おられました。これを東海宣教会議の分科会の「子どもへの伝道」を担当していたときに報告したことがあります。半分以下ではありますが、この数字を高いと取るか低いと取るかです。私個人としては「高い確率で教会に来られる」と捉えています。福音の種を蒔いたらすぐに刈り取れるというものではありません。実がなるまでは時間がかかります。それと同時に、他の人も福音の種を蒔いておられるのです。だから、すぐに刈り取ることもできるのです。福音の種を蒔いているのは、私たちだけではありません。昨年度の総会で東海福音放送協力会に献金することが決議されましたが、それを提案したのはこのことをも含んでいるからです。
 弟子たちは、イエス・キリストと一緒にサマリア地方に来たとき、今から福音の種を蒔こうと思ったかもしれません。「今から福音の種を蒔いて、その実がなるまでは時間がかかる」と思ったかもしれません。しかし、イエス・キリストは、「すぐに福音の実を刈り取ることができる」と話されました。何故なら、福音の種はすでに蒔かれているからです。このイエス・キリストのことばは、私たちに大きな励ましとなるのではないでしょうか。私たちが蒔いている福音の種の実は、必ずしも私たちが刈り取ることはできないかもしれません。でも、その幾つかは他の人が刈り取られるのです。ですから、決してムダなことではないのです。

結)
 実を刈り取ることは、どちらかと言えば目立つものです。そして、種蒔きは地味で目立たないものです。でも、その福音の実の収穫は、刈り取るにも蒔く人にも両方に喜びをもたらすものです。35節でイエス・キリストは「目を上げて畑を見なさい。」と言われました。目の前にある現実だけを見ますと大変なように思えます。しかし、福音の種は私たちが知らない所でも蒔かれているのです。そのことを覚えて、この新しい年も福音宣教の働きに仕えていきたく願わされます。

詩篇103:1~5「神のみわざを覚える」 18.12.30.

序)
 本日は、今年最後の主日礼拝です。今年も、この教会で神であられる主に礼拝を献げ続けられたことに感謝したいものです。ともすると、私たちは1年間教会で主に礼拝を献げることが当たり前のように思ってしまいます。しかしながら、そうではない方々もおられます。イヴ礼拝でも触れましたが、今年の漢字は災いの「災」という字でした。北海道・大阪・島根での大きな地震、西日本豪雨や台風などで被害に遭われた方々の中には、教会で礼拝を献げられなかった方々もおられます。そのことを思いますと、1年間教会で主に礼拝を献げ続けられたことは感謝なことであると改めて思わされます。本日は、今年最後の主日礼拝ということで、詩篇103篇から共に教えられたいと願っています。

1)目標
 1~2節の前半では「ほめたたえよ」ということばが、3回も繰り返し書かれています。これは、神をほめたたえることを強調しているからです。しかも「主をほめたたえよ」と命令形で書かれています。では、何故強調しているのでしょうか。それは、著者が神をほめたたえることのできない状況の中に置かれているからです。キリスト者は、神を信じ神の導きを信じています。ですから、いつも喜び神をほめたたえることができるのがキリスト者です。では、この著者は神をほめたたえることができない状況の中に置かれているということは、神を信じていない人なのでしょうか。いいえ、そうではありません。この著者も神を信じているのです。にも拘わらず、神をほめたたえることのできない状況の中に置かれているのです。このようなことは、神を信じているキリスト者である私たちにもあることではないでしょうか。確かにキリスト者は、神を信じ神の導きを信じています。そして、いつも喜び神をほめたたえることのできる者なのですが、そうでもない時もあるのです。神をほめたたえることのできない状況の中に置かれることもあるのです。また、神に従おうとする思いと同時に、神に逆らおうとする思いを経験することもあるのです。
 何度も話していますが、聖書に命令形で書かれているのはできないからです。私たちもそうです。できている人やしている人に命令形を使うことはしません。命令形で言うのは、できていなかったりしていないからです。勉強している子どもに「勉強しなさい」とは言いません。「遊びなさい」とは言うかもしれませんが。片づけている人に「片づけなさい」とは言いません。神も同じです。神は私たちが完璧でないことを御存知です。ですから、その足りないところを受け入れてくださっています。ですが、「それで良い」と言われているのでもありません。私たちを受け入れてくださっていますが、同時に私たちの成長をも願っておられるのです。
 パウロはローマ7:15~25で「     」と告白しています。パウロは善を行おうと思いながらも、善を行うことのできない自分を経験しているのです。そのような中でパウロは、信仰の戦いをしているのです。善を行いたいと思いながらも、善を行うことができない。このようなキリスト者は、キリスト者として失格なのでしょうか。いいえ、決してキリスト者として失格ではありません。このようなパウロの姿こそが、本当のキリスト者の姿でもあります。何故なら、神を信じる前までは、このような信仰の戦いをすることはありませんでした。神に逆らいどうしで、善を行えないことに対しても悩むことはありませんでした。神を信じるようになって初めて、神に逆らうことに対して悩むようになったのです。これはある面では霊的な進歩であり、信仰の成長でもあります。しかし、だからと言って「このままで良い」というのでもありません。キリスト者は、神をほめたたえる者ですから、どのような状況の中に置かれようとも神をほめたたえることができるようになる。これが私たちキリスト者の目標でもあるのです。

2)神の導きを巡らす
 では、どのような状況の中に置かれようとも、神をほめたたえられる者となるには、どうすれば良いのでしょうか。その秘訣が2節の後半に「     」と書かれています。ここでも「忘れるな」と命令形で書かれています。先程も話しましたように、「忘れるな」と命令形で言われているということは、忘れてしまう者だからです。この「忘れるな」というのは、「思い巡らせ」ということでもあります。すなわち、今まで神は私にどのようなことをしてくださったのかを思い巡らすことが、神をほめたたえることにつながるのです。その具体的なことが3~5節にかけて書かれています。
 その1つは、あなたの全ての咎を赦されるからです。この1年の歩みを振り返りますと、必ずしも「神に従い続けた」とは言えないでしょう。神の御心に反したことをしたかもしれません。それは知りながらであれ、知らなかったことであるかもしれません。でも神に謝るなら、神はその咎の全てを赦してくださいます。神に謝って赦されたいものは何もないのです。何故なら、私たちが信じている神は赦しの神だからです。神は審く方ですが、審くことが目的ではありません。イヴ礼拝でも話しましたように、私たちを神の審きから救うために、私たちの咎を赦すために、神はイエス・キリストをこの世に誕生させてくださったのです。そして、そのイエス・キリストは私たちのためにとりなしてくださっています。私たちは、そのイエス・キリストのとりなしによって生かされているのです。そのイエス・キリストのとりなしに目を留めるとき、人は神をほめたたえることができるのです。
 2つ目は、全ての病を癒してくださるからです。病には2つあります。それは肉体的な病と精神的な病です。私の知人の牧師は3年前の10月にうつ病を発症され、牧師を退職し団体の休職教師となられています。そして、今年のクリスマス礼拝に3年ぶりに出席できたということでした。家族はクリスマス礼拝に出席されながら、自分は出席できないことに苦しんでおられたようです。でも、クリスマス礼拝に3年ぶりに家族と共に出席できたことを通して、当たり前のことが当たり前でないことを学べたことを神に感謝されていました。その方は、まだ完全に癒されたわけではありません。でも、神は徐々に快復へと向かわせてくださっていることに感謝されています。肉体的な病であれ、精神的な病であれ、病の中に置かれているというのは苦しいことです。ですが、その病の中にも神の恵みに目を留めることができたら、どれほど素敵なことでしょうか。その神の恵みに目を留めるとき、人は神をほめたたえることができるのです。
 3つ目は、いのちを穴から贖ってくださるからです。「穴」とは、死または滅びのことです。それは、永遠の苦しみを意味しています。贖うとは、自分の負債と同等のものを他人が犠牲を払って負うことです。神は罪を嫌われる方であり、その罪を審かれる方です。イヴ礼拝でも触れましたが、神の審きを受けることは災いでもあります。今年の漢字は「災」という漢字でした。イエス・キリストが私たちの代わりに十字架に架かって、災いである神の審きを受けてくださいました。私たちは、そのイエス・キリストによって贖われたのです。そのイエス・キリストの贖いを信じるなら、人は神の審きから救われるのです。そのイエス・キリストの十字架による贖いに目を留めるとき、人は神をほめたたえることができるのです。
 4つ目は、恵みと憐れみの冠をかぶらせてくださるからです。恵みとは、受けるに価しないのに受けられることです。仕事をして賃金を受けるのは恵みではありません。それは報酬です。私たちが贖われたのは、私たちが何か良いことをしたからではありません。私たちは何もしていないのです。むしろ、私たちが神にしていることは、神が願っておられるものと反対のことです。しかし、神は私たちを憐れんでくださり、イエス・キリストをこの世に誕生させてくださり、私たちの代わりに十字架に架けて審きを行われたのです。これが神の恵みであり憐れみです。先週過ごしましたクリスマスの意味に目を留めるとき、人は神をほめたたえることができるのです。
 5つ目は、あなたの一生を良いもので満ち足らせてくださるからです。神は私たちに必要なものを全て御存知です。今の私たちに何が一番必要であるのかを知っておられます。そして、その必要なものは必ず与えてくださいます。マタイ6:33に「    」と書かれています。神の国と神の義をまず求めるのです。神の国と神の義を求めるとは、神を信頼することです。その神への信頼は、今までの神の導きを思い巡らすことによって増し加えられます。今まで様々なことを経験されてきたことを思います。しかし、その様々な経験があって今があることは確かなことではないでしょうか。それら一つひとつを神が導いてくださって今があるということは、これからも神は必要を満たして導いてくださいます。
私たちは将来についていろいろと考え不安を抱いてしまう者です。来月行われますJBCユース冬集会は、エレミヤ29:11~12から「将来」をテーマとして行われます。今、そのメッセージ準備をしています。ここで神が約束されているのは、「災いではなく…与えるためのものだ。」というものです。将来は見えないものですし、経験したことのないものですから分かりません。分からないということは不安です。ですから、不安が生じるのは仕方のないことです。でも、神は「災いではなく平安を与える。希望を与える」と約束してくださっているのです。あとは、その神の約束を信じるしかないのです。それを信じるには、今までの神の導きに目を留めるしかありません。先程も話しましたように、様々な経験があって今があるのですから、これからも神は必要なものを必ず満たしてくださいます。そこに目を留めるとき、神をほめたたえることができるのです。

結)
 5節の後半に「     」と書かれています。鷲は力強く空を舞っています。そして、「新しくなる」というのは、羽毛の生え変わりを表しています。これは困難に直面しても、神のみわざによる導きに目を留めるとき、人は新しく変えられて力を得た鷲のようになるということです。そして、その神をほめたたえることができるのです。今年1年の神のみわざによる導きに目を留めつつ、明後日から始まります新しい年、神をほめたたえる1年とされたいものです

出エジプト記32:1~14「唯一の神」 18.12.23.

序)
 今日はクリスマス礼拝です。この後に共に食事をし、クリスマスを祝う会が行われます。ところが、今朝の箇所は「クリスマスとは全く関係がない」と思われる箇所です。皆さんは「十戒」という映画を見られたことはあるでしょうか。もう60年以上も前に作成された映画です。イスラエルの民は、エジプトで奴隷生活を強いられていました。神は、そのイスラエルの民を奴隷生活から救い出すために一人のリーダーを立てられました。それがモーセという人です。そのモーセの生涯を描いているのが十戒という映画です。今朝は、その箇所からイエス・キリストの誕生を思い巡らされたいと願っています。

1)優先順位の問題
イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷の生活を強いられていました。ですが、神はモーセをリーダーとして立て、また神の奇蹟によってエジプトの地から出ることができました。すなわち、奴隷生活から救い出されたのです。十戒の映画の中で有名なシーンの1つは、イスラエルの民が海の前まで来たのですが、エジプトの軍隊が後ろから迫ってきました。イスラエルの民はモーセに「何故自分たちをこんな目に遭わせるのか」と文句を言い出します。すると、神は海を2つに分けてイスラエルの民を渡らせましたというものです。そしてイスラエルの民は荒野の中を歩き、ようやくのことシナイ山に着きました。リーダーであるモーセは、神の命令によってシナイ山に登りましたが、どれだけ待ってもモーセは降りて来ませんでした。イスラエルの民はモーセがどうなったのかが分かりません。リーダーがいなくなったのですから不安が生じました。そのために何をしたでしょうか。32:1にモーセの兄アロンに「さあ、われわれに…造ってほしい。」と願ったのです。彼らはモーセのことを心配したのではなく、自分たちの今後のことを心配したのです。自分たちのことしか考えない何という自己中心な人たちでしょうか。でも、それが人間であり私たちではないでしょうか。
イスラエルの民は、シナイ山に着くまでに様々な神の奇蹟を経験してきました。では、彼らは神の奇蹟を経験してきたにも拘らず、その神を信じることができなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。彼らは神を信じていたのです。しかし、自分に何か起こると自分のことしか考えられないのです。出エジプト記20章には十戒が書かれています。その第2戒である4節に「あなたは…造ってはならない」と書かれています。ここで注目したいのは、「自分のために」ということばです。
私たちは見えないものに対して不安を抱いてしまい、何か見える形にしたいと願いやすくなります。例えば「愛」ということにおいてもそうです。何度も「愛は行動が伴うもの」と話しています。しかし、それは愛する側の方に語られていることであって、愛される側に語られているものではありません。ですが、今回は愛される側の方です。愛される側の方は、そのことばを信じるしかありません。なのに、信じることができないで見える形に表されるのを願うのは、自分のためであって相手のためではありません。そのことは信仰においても同じことが言えます。見えるものによって安心するのは自分のためであって神のためではありません。偶像崇拝は信仰的なように見えますが、実は信仰的なものではなく自分のためのものなのです。「自分はこの神に拠り頼んでいる」という安心感を得るためのものであり、結局は自己満足にしか過ぎないのです。この「自分のために」というのは、私たちも陥りやすいものです。では、この問題を解決する方法はあるのでしょうか。あります。それは優先順位の確立です。何よりも、神を最優先することです。私たちは自分を最優先しやすくなります。だからこそ、神を最優先するのは大切なことです。何故なら、神は私たちを愛してくださり、私たちの今までの歩みを守り導いてくださっているからです。

2)モーセのとりなし
神はイスラエルの民が偶像を造ったことを知られ、モーセに山から下りることを告げられます。そのイスラエルの民について、9節の最後で「これは、実にうなじを固くする民だ。」と告げられています。この「うなじを固くする民」というのは、馬の手綱を引いても馬が従わないことになぞられたもので、強情さを表現しています。イスラエルの民は、出エジプト記24:3と7節で「主の言われたことはすべて行います」と誓ったのです。この民の誓いは、神がエジプトからイスラエルの民を救い出し、ここまで導いてくださったことを通してのものであり、神の恵みを経験してのものです。しかし、優先順位が確立されていなかったがために、自分たちが誓ったことをもすっかり忘れてしまったのです。彼らは神の様々なみわざを通して、ここまで守り導かれてきたのです。それにも拘らず、自分たちがなした誓いを忘れてしまったのです。
皆さんは彼らの行いをどのように受け取られるでしょうか。「何と恩知らずの者か」「自分たちが誓った誓いを果たすことができないのか」と思われるでしょうか。確かに恩知らずです。さらに言うならば、恩を仇で返すようなものです。受けたことを忘れてはいないかもしれませんが、それを当然のように思い込み仇で返すというのは、人として最低のことではないでしょうか。また、自分が誓ったことを守らないのも情けないことです。しかし、このことは私たちにも起こりやすいことでもあるのではないでしょうか。御存知の方が多いと思いますが、キリスト教の結婚式には誓約というのがあります。結婚式の中で、互いに誓い合います。その誓いの中に「堅く節操を守ることを誓いますか。」という一文があります。その誓いの中で、2人とも「はい、誓います」と答えられます。ところが、その誓いを破られる方がおられます。これは、今朝の箇所のイスラエルの民と同じです。
神に対して恩を仇で返すようなことをするイスラエルの民に対して、神は「彼らを絶ち滅ぼす」とモーセに告げられました。その神に対して、モーセはイスラエルの民のためにとりなします。そのモーセのとりなしによって、神はイスラエルの民への審きを思い直されました。このときのモーセは、自分が神に審かれても構わないほどの思いをもって、イスラエルの民のためにとりなしたのです。このモーセの行為は、イエス・キリストと重なるところがあります。私たちは、神に審かれても当然の者です。そのような私たちの罪のために、イエス・キリストが代わりに神の審きを受けてくださったのです。以前にも話しましたが、赦しと償いは別物です。自分がしたことに対しては、私たちはきちんと償う必要があります。人は自分の罪を償うことなく赦されるわけではありません。私たちの代わりにイエス・キリストがご自分の命をもって償ってくださったのです。それが十字架です。イエス・キリストの十字架は、私たちが受けなければならない神の審きをイエス・キリストが代わりに受けてくださったものです。何故、そうされたのでしょうか。それは私たちを愛してくださっているからです。イエス・キリストは、そのためにお生まれになられたのです。
モーセは、イスラエルの民のために神にとりなしました。イエス・キリストも同じです。今も私たちが神の審きを受けないのは、イエス・キリストが神にとりなしてくださっているからです。旧約聖書を読んでいきますと、「何と身勝手なイスラエルの民だ」ということを思わされます。ですが、そのイスラエルの民は、まさしく私たちの姿でもあるのです。イスラエルの民の生き方は、私たちの生き方そのものでもあります。そのように捉えて旧約聖書を読んでいくとき、本当に神の憐みというものを深く思わされます。先程も話したように、私たちは神に審かれて当然の者ですが、神の審きを受けないのはイエス・キリストがあなたのためにとりなしてくださっているからです。

3)唯一の神
私たちは、神の憐みとイエス・キリストのとりなしを受けています。でも、その神よりも自分を優先してしまいやすい者です。そのような私たちが、神を何よりも優先することのできる者となれるにはどうすれば良いのでしょうか。それは神が唯一であると覚えることです。十戒の第1戒に、「あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない」と書かれています。これを聞かれると、ある方は「キリスト教の神は心が狭い」と思われるかもしれません。多くの日本人の神観は、「八百万の神」という多神教です。そして、「日本の神の方が心は広い」と言われます。そのことを否定はしません。むしろ、「確かにその通りかもしれないな」と思ったりもします。
ただ、日本人が抱いている信仰と聖書が語っている信仰とは違います。日本人が抱く信仰とは、ただ単に信じるというものではないでしょうか。ところが、聖書が語る信仰とは愛することです。ですから、日本の宗教には信じるときに「誓約」はありませんが、キリスト教には信じるとき「誓約」があります。キリスト教の結婚式に行われる誓約と同じです。キリスト教の結婚式の誓約の中に「堅く節操を守ることを誓いますか」という一文があることを話しました。それは特別に愛すべき人は一人だからです。「愛」という漢字の真ん中には「心」という漢字が入っています。愛の中心は心であって、心がこもったものなのです。それは「この人を特別にする」ということです。だから、聖書は浮気をすることを禁じているのです。そして、キリスト教の神を信じるのも同じ誓約をします。それは信じる神は一人だからです。すなわち、神は唯一だからです。もし神が唯一でないなら、このような誓約はなかったでしょう。聖書は「神を信じるというのは、神と結婚するのと同じである」としています。ですから、いろいろな神を信じても良いのなら、それは結婚しても浮気をしても良いとういことと同じなのです。「キリスト教の神は心が狭く、日本の神は心が広い」というのは、その通りなのかもしれません。でも、そうなるとどうなるでしょうか。浮気をされた人に、「良いじゃない、あなたが愛している人は多くの人を愛せる人なのよ。心が広い人なのよ。」ということになります。そう言われたらどうでしょうか。そうなのかもしれませんが、それを受け入れることはできないのではないでしょうか。神も同じです。神は「わたし以外に、ほかの神々があってはならない。」と語っておられるのです。キリスト教の信じるとは愛することです。ですから、神は「あなたが愛すべき神は私だけである」と語られているのです。何故なら、夫や妻が唯一であるのと同じように、神も唯一だからです。

結)
 十字架に架かり死なれたイエス・キリストは、甦られたとき弟子のペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と3度も尋ねられました。キリスト教の信じるとは愛することです。そして、神は私たちを愛してくださっています。その神の愛を見える形として表してくださったのがイエス・キリストの誕生でありクリスマスです。その神を、そのイエス・キリストを愛し続ける者として歩まされたく願わされます。

ガラテヤ4:4~5「救いの神」 18.12.16.

序)
 先週の木曜日に、女性クリスマス会が行われました。今回のランチは、テレビで放映されていたブッシュドノエル風ハンバーグが作られました。皆で美味しく頂きました。クリスマスを前にしての放映で、女性クリスマス会ランチの良いヒントをいただきました。準備をする側にとっては、ある面「救い」ということができるのかもしれません。今朝は、救いの神について共に教えられたいと願っています。

1)計画されている方
第1に、神は計画されている方です。4節に「時が満ちて」と書かれています。このことから、イエス・キリストは突然誕生されたのではないことが分かるのではないでしょうか。「時が満ちる」とは、以前から計画されていて、その時が来たことを意味しています。ですから、神はイエス・キリストが誕生されることを以前から計画されていたのです。そして、その計画されていた時が来たのです。イエス・キリストの誕生は、当時の文化や歴史的背景、または人々の心の状態などがマッチしていたのです。それらのことから知らされるのは、神は信じる者にだけ働かれる方ではないということです。世界の歴史や文化や人々の心の中にまで働くことのできる方です。神は私たちのために一番良い時に、一番良い方法をもってイエス・キリストを誕生させてくださったのです。何故でしょうか。それは私たちを愛してくださっているからです。神は私たちを愛するが故に、最善の時に最善の方法を用いられたのです。イエス・キリストの誕生は、神が以前から計画されていたことだったのです。
「計画する」というのは、そのことが実現するために準備することを意味してもいます。いくら計画しても、そのために準備しなければ決して実現することは決してありません。例えば、会社であれ教会であれ、どのような組織にしても計画を立てて目標設定をします。それで終わりではありません。それを実現するために、あらゆる準備をします。その準備は非常に細かいものです。「いつまでにあれをし、いつまでにこれをする」と計画を立て、できる限りのことをして備えます。神が計画されるというのも同じです。神が計画されるということは、その実現のためにあらゆる備えをされるということでもあります。イエス・キリストの誕生は、ルカ2:11に「あなたがたのため」と書かれています。イエス・キリストの誕生はあなたのためなのです。神はあなたを愛しておられ、あなたのために計画をもってイエス・キリストを誕生させてくださったのです。私たちは様々なことを経験します。その経験は必ずしも自分にとって良いことばかりではありません。苦しい時もありますし悲しい時もあります。神はそのことも御存知です。Ⅰコリント10:13の最後に書かれているよう、脱出の道も備えてくださっているのです。その経験を通して、私たちは神のすばらしさを知るようになるのです。神はいつでも、あなたのために最善の備えをしてくださっているお方であり、計画されているお方なのです。

2)具体的に働いてくださる方
第2に、神は具体的に働いてくださる方です。神は私たちのために最善の備えをして計画されている方ですが、それだけではありません。4節に「神はご自分の御子を…遣わされました。」と書かれています。これは実行されたことを表しています。すなわち、神は備え計画されるだけでなく実行される方でもあるということです。その神の実行は、訳の分からないようなものではなく具体的なものです。神は大人としてのイエス・キリストを遣わすこともできました。30歳になられたイエス・キリストを突然現すこともできたのです。そして、弟子たちを集め、十字架に架かって私たちの罪を贖うこともできました。でも、神はそのようなことをされませんでした。神はイエス・キリストを突然現されたのではなく、マリアという女性から誕生させられたのです。イエス・キリストは一人の人間の赤ちゃんとして誕生され、幼少時代を過ごされ大人になられたのです。普通の人間と同じ過程を歩まれたのです。神は私たちの理解を超えたお方です。先程も話しましたように、大人としてのイエス・キリストを送られることもできたのですがされませんでした。何故でしょうか。それは、神は順序をもって事を行われる方だからです。秩序をもって行われる方だからです。
神は、ご自身が「必要だ」と思われたときには奇蹟を行われます。ですが、そうではない場合は奇蹟を起こされません。「奇蹟を起こされない=神は働かれない」ということではありません。世界の秩序の中で神は働いておられるのです。私たちは生かされている中で苦難に遭遇するとき、「少しでも早く解決されたい」と願います。でも、その多くはすぐに解決されないのではないでしょうか。そのようなとき、「何故神は働いてくださらないのか」と思うことがあります。でも、それは神が働いておられないのではなく、神は世界の秩序の中で順序立てて働いてくださっているのです。私たちは苦難を経験しますが、その苦難の中で神は最善の時と方法を備えて働いてくださっているのです。イエス・キリストの誕生はそのことを示しているのです。
また、それだけでなく、その後に「律法の下にある者として」と書かれています。「律法の下にある」とは、罪の支配の中にあるということです。これは、私たちと同じ立場に立たれたということです。「具体的にどういうことか」と言いますと、今は冬ですが夏は雨が降り、川の増水で中州に取り残されるというニュースを聞くことがあります。一般人は安全な所から心配したり、「あっちに回れ」とか指示したりします。でも、レスキュー隊はロープを渡して中州まで行き、遭難者と一緒に川を渡って安全な所まで導いてくれます。遭難者の痛みや苦しみや冷たさを一緒に経験されながら、安全な所まで連れて行ってくれます。神も同じです。神は遠い所から私たちを見下ろして、進むべき道を指示されるような方ではありません。私たちがいる所にまで降りて来られ、私たちと一緒に歩み私たちの進むべき所に導いてくださる方です。私たちが受ける苦しみや悲しみなどを一緒に受けられ、私たちを良い方に導いてくださるお方です。イエス・キリストが赤ちゃんから誕生されたことの意味は、そのようなものがあるのです。

3)目的をもっておられる方
第3に、神は目的をもっておられる方です。神は私たちのために計画され具体的に実行してくださる方ですが、それは何のためでしょうか。4:5に「     」と書かれています。ここには、イエス・キリストが誕生された目的が書かれています。そこには、神は目的を持っておられる方であることを示してもいます。神は目的を持って、あなたのために計画され具体的に実行してくださるお方です。では、その目的とは何でしょうか。ここには、2つのことが書かれています。1つは贖い出すためです。贖うとは、相当する金品を差し出すことです。すなわち、犠牲を払うことです。例えば、私が運転していて事故を起こしたとします。そして、私は保険に入っていなかったとします。事故を起こしたのですから弁償しなければなりません。でも、お金がなく弁償することができません。そのために、知り合いが代わりに負ってもらうことになったとします。その知り合いは、私のために犠牲を払ったわけです。これが贖いです。
人は神に対して罪を犯しています。聖書が語っている罪とは犯罪的なことではなく、神から離れて生きることです。本来、人は神とより良い関係を築きながら歩む存在として造られました。ところが、人はその神との関係を壊してしまいました。そして、神から離れ自分のことを最優先する生き方をするようになりました。この生き方が聖書の語っている罪です。人はその罪によって、不安や恐れを抱くようになりました。何故なら、神から離れてしまったからです。神はそのような罪の中に歩む者に審きを下されます。その神の審きから救うためにイエス・キリストは遣わされたのです。イエス・キリストは、私たちが神の審きから救われるためにお生まれになってくださったのです。それは私たちを贖うためです。私たちが受けなければならない神の審きを、イエス・キリストが代わりに受けてくださいました。それが十字架です。イエス・キリストは、その十字架に架かられるためにお生まれになられたのです。イエス・キリストがお生まれになられた目的の第1は、私たちを神の審きから贖うためです。
第2は5節の後半に書かれていますように、子としての身分を受けるためです。「子としての身分を受ける」とはどういうことでしょうか。それは本来の価値を発揮するということです。人は神から離れたために、自分がどのような存在であるかが分からなくなりました。そのために、不安や恐れを抱いて生きるようになりました。それは迷子と同じです。迷子は表面的に装っていたとしても、心の中は不安と恐れでいっぱいです。決して平安や喜びはありません。迷子が平安や喜びを取り戻すには、親の許に戻るしかありません。私たちの人生も同じです。私たちが本当の平安と喜びの人生を歩むには、神の許に戻るしかないのです。クリスマスコンサートで話しましたように、お金はそのお金を作った人間の手許にあって価値を発揮することができます。人も神の許に戻ることによって、自分がどのような存在であるかを知り、自分の価値を発揮することができるのです。「子としての身分を受ける」とは、自分の存在を知り、平安と喜びの人生を歩むことでもあります。神は、私たちが本当の平安と喜びの人生を歩むことを願っておられます。イエス・キリストが誕生された目的はここにあります。神は目的を持ってイエス・キリストを送ってくださったのです。

結)
神は計画されている方であり、具体的に実行される方であり、目的を持っておられるお方です。それら全ては私たちのためです。私たちが本当の平安と喜びの人生を歩むことができるためです。そのために、イエス・キリストをこの世に誕生させてくださったのです。何故でしょうか。それは私たちのことを愛しておられるのは勿論のこと、私たちが暗闇の人生から平安と喜びの人生へと救い出すためです。まさしく救いの神なのです

Ⅰヨハネ4:7~21「愛の神」 18.12.09.

序)
昨日は、Mグレというゴスペルクワイアを招いてのクリスマスコンサートが行われました。週報にも書かれていますように、16名の大人の方々が来てくださいました。クリスマスは、私たちが感謝と喜びをもって生きることができるために、お生まれになられたイエス・キリストの誕生を祝うときです。それは神の愛のしるしでもあります。今朝は、その愛の神について共に教えられたいと願っています。

1)愛は神から出ている
ヨハネは7節で「愛は神から出ているのです」と語っています。第1に、愛は神から出ているのです。そのことを聞かれますと、「愛は私たちの内にもある」と思われる方もおられるかもしれません。確かに、私たちの中にも愛はあります。では、私たちの中にある愛とはどのようなものでしょうか。その愛というのは感情的なものではないでしょうか。しかし、聖書が語っています愛というのは、感情ではなく意志そのものです。自然と心の中で湧いてくるものではなく、決断して実行するものです。何度も話していますが、赦しが伴う愛が聖書の語る愛です。
では、赦すとはどういうことでしょうか。もし、「赦すとはどういうことですか」と聞かれたら何と答えられるでしょうか。赦しというのは、本来受け入れることのできないものを受け入れることです。よく子供同士でケンカしたとき、泣いている子の親が泣いている自分の子に「赦してあげなさい」と言うことがあります。そのような光景を時々見ることがあります。子供はどうでしょうか。その親のことばに対して駄々をこねたりします。何故でしょうか。受け入れられないからです。泣いている子供にとって、されたことが受け入れられないのです。だから駄々をこねて赦すことができないのです。また、愛しているけれども赦せない愛もあります。その代表的なのがストーカーです。愛が赦す方にではなく憎む方に進みます。しかし、聖書が語っている愛は赦しが伴う愛です。その愛は神から出ているのです。
神の愛は赦しが伴う愛です。先程「赦しとは受け入れられないものを受け入れること」と話しました。神の愛は赦しが伴う愛であるならば、本来は受け入れられないものがあったことを示してもいるのです。神が受け入れられないものとは何でしょうか。それは罪です。神は愛なる方であると同時に、義なる方であり聖なる方でもあられます。そのために、罪をとても嫌われる方です。その罪を犯した人間を受け入れるには、「受け入れよう」という決断をしなければなりません。神様はご自身の意思で、「罪を犯した人間を受け入れよう」と決断してくださったのです。ですから、神の愛というのは感情から湧いてくるようなものではなく、ご自身の意志で決意されたものであるということができます。
ある方は「神が私を愛してくださっているのなら、何故このような苦しい経験をしなければならないのか」と言われたりもされます。その理由は愛しておられるからです。健全ではない親は、子供を虐待したり育児放棄したりします。でも健全な親は、自分の子供を心から愛します。でも「愛しているから」と言って、「自分の子供に苦労をさせないのか」というとそうでもありません。健全な親であればあるほど、自分の子供が自立することができるためにも苦労をもさせるのではないでしょうか。それは何故かと言いますと、子供が大人になったとき人生の壁にぶち当たっても乗り越えられるようになるためです。親は子供の能力も知っています。ですから、その子供の能力にあった苦労をさせるのではないでしょうか。小さな子供に、大人でも大変な苦労をさせることはしません。また、兄弟なら同じように扱うのかというとそうでもありません。個性を考えて、その子供に見合った苦労をさせるのではないでしょうか。
それと同じように、私たちも人生の中で様々な苦労を経験します。「何故苦しい経験をするのか」と言いますと、神がその人を愛しておられるからです。また、それだけではありません。神は、その人がその苦しみを乗り越えられることを知っておられます。先週見ましたように、神は全てのことを御存知です。だから、「どのような苦しみなら大丈夫か」をも御存知なのです。苦しみというのは、嫌なものであり受けたくないものです。でも、神はその人がその苦しみを乗り越えることができるのを御存知なのです。私たちが受ける苦しみは、私たちに乗り越えることができるからです。また、乗り越えられるように神は備えてくださっています。私たちが苦しみを経験するのは、神に愛されているからです。本当の愛は、その神から出ているのです。

2)愛は行動が伴う
第2に、本当の愛は行動が伴います。そのことは聖書のいろいろな箇所に書かれています。例えば、ルカ15:11以降でイエス・キリストが譬え話をされた放蕩息子の箇所にも見ることができます。父親には2人の息子がいます。ある日、弟息子は父親に「財産のうち私がいただく分をください。」と要求し、受け取ると遠い国に旅立ちました。そして、遠い国に行って財産を放蕩してしまいました。ところが、飢饉が生じて彼は食べるのにも困り果ててしまいました。そのとき、弟息子は父親のことを思い出したのです。そして、父親の許に戻って謝り、子供としてではなく使用人の一人として使ってもらおうとして帰りました。すると、20節に「まだ家までは遠かったのに…駆け寄って彼の首を抱き、くちづけした。」と書かれています。このところから、父親がどれほど弟息子を愛していたのかというメッセージを聞きます。父親は弟息子を捜し歩いていたのです。決して、家の中で待っていたのではありませんでした。捜し歩いていたということは、行動していたということでもあります。父親は「この日に弟息子に会える」という確信はありませんでした。この日に弟息子に会えたのは、父親が弟息子を愛するが故に毎日捜していたからです。すなわち行動していたからです。それはいつからかでしょうか。弟息子が遠い国に旅立った時からです。弟息子は、遠い国に行って遊び呆けていたとき、父親のことなど頭の中にはよぎらなかったことでしょう。ましてや、父親が自分のことを一生懸命捜し歩いていることなど知る由もなかったと思います。弟息子が知ろうが知るまいが、父親は愛するが故に捜し歩くという行動を起こしていたのです。
御存知のように、父親は神を表し弟息子は私たちを表しています。私たちが気づこうが気づかまいが、神は私たちのために行動を起こされているのです。私たちが意識しているときにだけ働かれているのではありません。私たちを愛してくださっている神に対して背を向けていた時でも、神は私たちを愛するが故に様々なことをしてくださっているのです。ヨハネはⅠヨハネ4:11で「     」と語っています。これは何を語っているかと言いますと、「神は行動を起こして愛してくださっているのだから、あなたがたも行動が伴う愛を実践するように」と勧めているのです。行動を起こすと、時間や労力が取られてしまいます。それは犠牲を払うことでもあります。その人のためにどれだけの犠牲を払うか。それは、その人をどれほど愛しているかということでもあるのはないでしょうか。
健全な親は、自分の子供のために犠牲を払うことを惜しむことをしません。ともすると、その犠牲は時にはムダになってしまうこともあるかもしれません。ヨハネは、Ⅰヨハネ4:20~21で「     」と語っています。「何故私が」と思うときもあることでしょう。でも、それは神があなたを愛しておられるからです。家族のために、教会の兄弟姉妹のために、教会のために、友人や隣人のために、犠牲を払うことを惜しまない。本当の愛は、犠牲を払うという行動が伴うものです。そして、何よりも神は犠牲を払って私たちを愛してくださっているのです。

3)キリストの誕生が神の愛のしるし
神は私たちを愛するが故に行動を起こしておられます。その代表的なものがイエス・キリストの誕生です。ルカ2:11に「     」と書かれています。まず注目したいことばは「あなたがたのために」ということばです。神はあなたのために行動を起こしてくださいました。それはあなたを愛するからです。イエス・キリストの誕生の目的は、私たちの罪の贖いとなるためです。「贖い」ということばは、教会ではよく用いられることばですが、世間一般ではあまり使われないことばです。一般的に、贖いとは相当する金品などを差し出すことです。キリスト教での贖いとは、犯した罪に対して、相当するものを代わりに差し出すことです。人は神に対して罪を犯しました。その罪を赦されるには命を差し出すしかありません。しかし、自分の命を差し出すなら生きて赦されるということはできません。神は私たちが生きて赦される方法を取ってくださいました。それがイエス・キリストの十字架による死です。私たちの命の代わりに、イエス・キリストがご自身の命を献げてくださいました。これがキリスト教の贖いです。それは神が私たちを愛してくださっているからです。神はご自身の愛をイエス・キリストの誕生という形で表してくださったのです。神はご自身の一人子であられるイエス・キリストを犠牲にすることを惜しまないほど私たちを愛してくださっているのです。それは、私たちが生かされていることに感謝し、喜びをもって生きる者となるためです。だから、御使いは「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と告げているのです。
次に注目したいことばは「救い主がお生まれになりました」ということばです。「何からの救いなのか」と言いますと、神の審きからの救いです。神は聖い方ですから罪を嫌われます。ですから、当然罪ある人間を審かれます。その神の審きから救うために、イエス・キリストは生まれてくださったのです。人は神に対して罪を犯したがために、神の審きを受けなければなりません。神の審きを受けることが分かっている人には感謝や喜びなどはありません。あるのは憂いや不安だけです。人は神に対して罪を犯してしまったがために、心に憂いや不安が生じてしまうのです。だから何かに頼ろうとしてしまうのです。そして、その頼るものも罪の故に歪んだ見方をしてしまい、見えるものに頼ってしまうのです。人は本来目には見えませんが確かに存在されている神に頼る者として造られたのですが、罪の故に歪んでしまい見えるものに頼るようになったのです。そのために、いつまでも憂いや不安をぬぐい去ることができないでいます。
それは神を信じている私たちも同じです。神を信じた者は確かに自分の罪は赦されました。でもそれは、罪がなくなったのではありません。ただ罪が赦された罪人にしか過ぎないのです。ですから、見えるものに頼ってしまいやすくなり、憂いや不安を覚えてしまいます。クリスマスは、そのような私たちが「いやそうではない。私はイエス・キリストによって罪が赦され、神の審きから救われた。何故なら、そのためにイエス・キリストはお生まれになられたのだから」ということを再確認する時でもあります。その再確認をするとき、私たちの中に感謝と喜びが生まれます。そのために、イエス・キリストはお生まれになられたのです。
最後に注目したいことばは、「この方こそ主キリストです」ということばです。使徒4:12に「     」と書かれています。ペテロはユダヤ教指導者たちの前で告白しました。「この方以外には」とは、イエス・キリスト以外に私たちを本当の意味で生かすことのできる方はおられないということです。何故なら、私たちのためにお生まれになられたのはイエス・キリストの他にはいないからです。最初から「あなたを生かすために」という目的をもって生まれたのはイエス・キリスト以外にはおられません。ですから、イエス・キリストの誕生は神の愛のしるしということができます。

結)
私たちが信じています神は、愛の神です。私たちを赦すために「行動」という犠牲を払ってくださいました。そして、その愛を見える形としてイエス・キリストを誕生させてくださいました。私たちも愛を見える形として表すことのできる者とされたいものです。そのような者へと成長できるように共に祈っていきましょう。

詩篇139:1~18「全知全能の神」 18.12.02.

序)
 今日からクリスマスを待ち望むアドベントに入りました。世間ではクリスマスは浸透しており、イースターも浸透しつつあります。でも、アドベントはそうではありません。アドベントカレンダーは売られるようになりましたが、浸透しているとは言えないのではないでしょうか。今年は、次週の教会学校のメッセージ箇所をと思っています。今日お話しされた方には申し訳ありませんが、今日の箇所は23日となります。神は私たちのためにイエス・キリストをこの世に誕生させてくださいました。今朝は、その神はどのような方であるかを共に教えられたいと願っています。

1)全てを知っておられる方
 第1は、神は全てを知っておられる方です。1節で著者は「主よ…おられます」と告白しています。ここに、「あなたは私を探り」と書かれています。これは調査することであり、隅々まで調べ上げることを意味しています。すなわち、神は私たちの隅々まで知っておられる方です。何度も話していますが、神は私たちの長所も短所も全て御存知です。時々「自分にこんな能力があるなんて気づきませんでした」と言われることを聞きます。しかし、神は私たちが自分では気づいていないことをも御存知なお方です。何故でしょうか。13節以降に書かれていますように、神は私たちを造られた方だからです。ですから、私たちの隅々まで調べ上げ、私たちの全てを御存知なのです。
神は、今の私たちがどのような者かというのを知っておられるだけではありません。2節以降は将来のことを示しています。神は、私たちの過去や現在だけでなく将来のことをも御存知なお方です。そして、私たちが何時・何処で・何を経験するかを全て御存知です。しかも、4節に「     」と告白されています。「ことばが私の舌にのぼる前に」とは、「ことばとして出る前に」ということです。これは、私が祈る前から神は知っておられるということです。そのように聞かれますと、「知っておられるのに、何故祈る必要があるのか」と思われるかもしれません。以前にも話したことがありますが、祈りは神と自分との関係の深さを表しています。知っておられるけれども神に祈るのは、それだけ神と自分との関係が深いからです。私たちは関係が深ければ深い人には深い話しをします。しかし、関係の浅い人には込み入った話はせずに表面的なことで終わるのではないでしょうか。祈りも同じです。祈りは自分と神との関係の深さを示すバロメーターでもあります。
その神は、今の私たちのことだけでなく、これからの私たちのことをも全て御存知なるお方です。私たちの全てを御存知でありながら、私たちを守り導いてくださることが5節で告白されています。「取り囲み」ということばから、Ⅱコリント5:14の「キリストの愛が私たちを捕らえているからです。」というみことばを思い起こされます。「何故この箇所が思い起こされるのか」と言いますと、以前の聖書では「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と訳されていたからです。私たちの全てを御存知でありながら、私たちを守り導いてくださるのは、神が私たちを愛してくださっているからです。ただそれだけなのです。そして、私たちはその神の愛に捕らえられており取り囲まれているのです。私たちは自分を知れば知るほど、神に愛される価値のない存在であることを知らされます。何よりも自分のことを優先し、神の愛に正しく答えることのできない自分。なのに、何故そこまで神は愛してくださるのでしょうか。著者は、その神のことを6節で「     」と告白しています。神は私たちの頭では理解できない方です。何故なら、私たちの理解を越えたお方だからです。ただ確かなことは、そのような私たちの理解を越えた神が私たちの全てを知った上で、私たちを愛してくださり、私たちの歩みを守り導いてくださっているのです。神は私たちの全てを御存知なるお方なのです。

2)何処にでもおられる方
私たちは、その神の愛に捕らえられ取り囲まれています。ですから、著者は7節で「     」と告白することができたのです。この告白から、第2に神は何処にでもおられるお方ということができます。ある注解書によると、「天は高さを表現し、よみは低さを表現している」と書かれています。また、「暁は東の果てを表現し、海は西の果てを表現している」と書かれています。すなわち、神は私たちが何処にいようともおられる方であることを示しています。少し違いますが、オバテヤ4節に「     」と書かれています。当時は人が空を飛ぶことなどは思いもしないことです。ましてや星の間に住むなど考えもしなかったことでしょう。ですが、現代は宇宙ステーションが作られ、星と星の間で生活するための実験がなされています。捉え方によっては、「聖書は宇宙ステーションを予想している」とも受け取れるものです。人がたとえ宇宙に行ったとしても、神は「そこから引き下ろす」と告げられているのです。何故でしょうか。それは、神はそこにもおられる方だからです。地球という星から離れたら神はおられないのではなく、宇宙の果てにまで行ったとしても、神はそこにおられるのです。まさしく、神は何処にでもおられるお方なのです。
私たちは「神から離れたい」「神から隠れたい」と思っても、決して神から離れることはできませんし隠れることもできません。「誰も見ていないから分からない」「暗くすれば分からない」と思ったりしますが、決して神に隠すことはできないのです。そして、神は私たち一人ひとりがどのような歩みをしているかを御存知です。それは過ちを犯してしまうことだけでなく、人に知られることのない良い行いにおいても神は知っておられます。神に妨げとなるものは何一つありません。何故なら、神は何処にでもおられる方だからです。
また、これは何も場所的なことだけではありません。心の状態のことも含むことができます。「天・暁・光を喜びのとき」と捉え、「よみ・海・やみを悲しみのとき」と捉えることもできるのではないでしょうか。神は、私たちが喜びのときにだけ共にいてくださるのではなく、私たちが悲しみや苦しみという辛い中にあるときにも共にいてくださいます。辛さというものが、私たちを神から切り離す妨げとはならないのです。神は、私たちがどのような所にいようとも、どのような状態の中にあろうとも、私たちと共にいて導いてくださるお方です。神はそれほど偉大なる方です。その神は、何故私たちを導いてくださるのでしょうか。それは私たちを愛してくださっているからです。ところが、私たちは神の導きを忘れてしまいやすいのではないでしょうか。その神の導きを覚えるにはどうすれば良いのでしょうか。17~18節前半で、著者は「     」と告白しています。神がなしてくださったみわざを思い巡らしています。聖歌の中に「数えてみよ主の恵み」という歌があります。神がなしてくださった恵みを数えることは大切なことです。何故なら、神の恵みを数えるとき、自分がどれほど神に愛されているかを覚えることができるからです。私たちが何処にいようとも、どのような状況の中にあろうとも神は共にいてくださいます。何故なら、神は何処にでもおられる方だからです。

3)共にいてくださる方
第3に、18節の最後にも書かれているように、神は共にいてくださるお方です。著者は「私はなおも、あなたとともにいます」と告白しています。決して、著者は自分が頑張って神と共にいようとしているのではありません。「神が共にいてくださるから、自分は神と共にいることができる」と告白しているのです。私たちが何処にいようとも、どのような状況の中にあろうとも、神は私たちを守り導いてくださるのは、いつも神が私たちと共にいてくださるからです。最初にも話しましたように、神は私たちの全てを御存知なるお方です。私たちの弱さも全て御存知です。私たちは見えるものに頼ってしまいやすいという弱さを持っています。神はそのような私たちの弱さも御存知です。そのために、神は共にいてくださるということを見える形で表してくださいました。それがイエス・キリストです。イエス・キリストが誕生される前に、天の御使いはヨセフに現れて告げたことばが、マタイ1:22~23で「     」と書かれています。また、イエス・キリストご自身もマタイ28:20で「見よ…ともにいます」と語られました。
創世記~黙示録まで、神が共におられることが繰り返し書かれています。何度も話していますが、繰り返し書かれているというのは、強調されていることを表してもいます。では、何故強調されているのでしょうか。それは、私たちが「神は共にいてくださる」ということを忘れてしまいやすいからです。イザヤ41:10でも「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」と告げられています。私たちは不安の故に恐れを覚えてしまいます。その恐れによって、神が共にいてくださることを忘れてしまいます。だからこそ、神は繰り返し繰り返し共にいてくださることを告げられているのです。だからこそ、聖書に耳を傾けることが大切なのです。何故なら、神が共にいてくださることを再確認することができるからです。神が共におられることを再確認できますと、「不安や失望」から「平安や希望」へと見方が変えられます。
神は、何時でも・何処でも・誰にでも共にいてくださいます。先程も話しましたが、共にいてくださることを見える形として表しされたのが、イエス・キリストの誕生でありクリスマスです。だから、神はマリアが妊娠したことに悩んでいたヨセフの所に御使いを送り、それが神のみわざによるものであることを伝えられたのです。そして、聖書はその後にイザヤ7:14のみことばを引用し、神が共におられることを示しています。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、神が共にいてくださることの見えるしるしなのです。神は、いつもあなたと共にいてくださるお方です。

結)
神は、私たちの全てを御存知であられ、何処にでもおられ、いつも共にいてくださる方です。まさしく、神は全知全能なるお方なのです。神がそのような方だから、私たちがどのような状況の中にあろうとも守り導くことができるのです。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを前にして、そのことを深く覚えたいものです。そして、クリスマスに備えていきましょう

ヨハネ4;31~34「福音に生きる」 18.11.25.

序)
 いよいよ、来週からイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを迎えるアドベントに入ります。1年が過ぎるのは「アッ」という間ですが、今年もイエス・キリストの誕生を心から祝える年としたいものです。先週は「福音の力」と題して、福音は人の顔つきを変えることのできる力があり、生き方を変える力があり、宣べ伝える力があることを見ました。私たちがその福音に生きるには何が必要でしょうか。今朝は、その福音に生きることについて共に教えられたいと願っています。

1)遣わされた者であることの自覚
 まずは、自分が神に遣わされた者であるということの自覚です。34節に「わたしを遣わされた方」と書かれています。イエス・キリストは、いつも「自分は父なる神に遣わされた存在である」ということを意識されていました。派遣というのには使命が与えられています。使命のない派遣はありません。何の使命もなく遣わされて、ただ世間話をして戻って来るほどばかばかしいものはありません。それは時間の無駄です。イエス・キリストに与えられた使命は、人々の罪の身代わりとして十字架に架かって死ぬことです。イエス・キリストは、自分が何のためにこの世に遣わされているのかを知っておられました。イエス・キリストはいつもそのことを自覚しつつ、弟子を始め人に接しておられたのです。「使命を自覚する」というのはイエス・キリストだけでなく、私たちキリスト者についても同じことが言えます。私たちキリスト者は、神からこの世に遣わされた存在なのです。一人ひとりに使命が与えられているのです。ですから、「私は神から使命が与えられて遣わされている」という自覚が大切です。
 では、キリスト者に与えられています使命とは何でしょうか。それは神を証しすることです。この使命の自覚がないとどうなるでしょうか。「自分の生活は自分のものだから、自分の好きなように用いられる」という考え方になってしまいます。確かに神を信じてはいるでしょう。でも日常生活においては、神は関係ないのです。自分の心を満たしたい思いが何よりも優先してしまいます。昔の私がそうでした。神を信じていながら、神から遣わされているという自覚がありませんでした。神から遣わされているということは、教会から遣わされているということでもあります。「具体的にどのようにして教会に仕えるのか」ということを考えたこともありませんでした。ある日、ある先生の礼拝説教を通して、自分の生活が間違いであることに気づかされました。それまでは、奉仕を依頼されても「仕事が忙しくてできません」で片づけていました。会堂掃除すらしませんでした。自分の生活のことしか考えていませんでした。ところが、「自分に与えられている使命は何か」「具体的にどのようにして教会に仕えることができるのか」というのを考えたとき、自分の生活は自分中心であったことに気づかされたのです。そして、教会中心へと変えられました。完全に変えられたわけではないと思いますが、多くの点で教会のことを意識するように変えられました。今までは、ただ何となくキリスト者生活を送っていましたが、神から遣わされているという自覚が与えられてからは、様々な奉仕を引き受けるように変えられました。神から遣わされているという自覚は大切なことではないでしょうか。

2)御心を行う
 次は、御心を行うことです。イエス・キリストに与えられた神の御心とは何でしょうか。それは、救い主としての働きをすることです。イエス・キリストの救い主としての働きは2つあります。1つは、人間の罪の身代わりとなって十字架に架かって死なれることです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって死んでくださいました。本当なら、私たちが自分の罪のために十字架に架かって神の審きを受けなければならなかったのです。しかし、イエス・キリストが身代わりとなって十字架に架かって神の審きを受けてくださったのです。それは私たちが神から罪の赦しを受けるためです。そのために、イエス・キリストはこの世に来てくださったのです。もう1つの神の御心は、弟子たちを訓練することです。イエス・キリストは、十字架に架かられ死なれたあと甦られ、天に昇られることを知っていました。イエス・キリストが天に昇られたあと、この世において福音を伝えるのはイエス・キリストの弟子たちです。彼らが福音を宣べ伝えることができるようにする必要がイエス・キリストにはあったのです。これもイエス・キリストに与えられた使命であり神の御心です。だから、イエス・キリストは弟子たちを身近に置かれたのです。イエス・キリストは、この2つが自分に対する神の御心であることを知っておられたのです。
 では、キリスト者に与えられています神の御心は何でしょうか。それは神を証しすることです。神を証しするには2つあります。1つはイエス・キリストを伝えることです。イエス・キリストを伝えるとは福音を伝えることでもあります。このサマリアの女性は、町に行って人々にイエス・キリストのことを話しました。また、イエス・キリストの弟子であるアンデレやピリポは、イエス・キリストの所に兄弟や友人を連れて来ました。この時のアンデレやピリポは、弟子になったばかりでイエス・キリストのことを完全に知っていたわけではありません。このサマリアの女性もそうです。この日に初めてイエス・キリストと会ったのですから、イエス・キリストのことを完全に知ったわけではありません。でも、彼らは自分の知っている範囲の中でイエス・キリストのことを伝えたのです。彼らは「聖書には○○と書かれています」というようなことは話しませんでした。「聖書には○○と書かれています」というのも福音を伝えることです。ともすると、私たちは「福音を伝える」というのはそういうことと思いやすいのではないでしょうか。確かに「聖書には○○と書かれています」というのも福音を伝えることですが、イエス・キリストのことを伝えるのも福音を伝えることなのです。何故なら、イエス・キリストを伝えることが福音を伝えることのスタートだからです。
 神を証しすることのもう1つは、与えられています務めを忠実に行うことです。昔いました教会には歯科医師の方がおられました。今もおられるのですが、その歯科医院はいつも多くの人が来られています。同じ教会の方が、このような話をされました。別の歯科医院に行ったとき、以前治療してもらった歯を見られて、「丁寧に治療されていますね」と言われたそうです。その人は「○○歯科医院で治療してもらったのです」と答えましたら、その先生は「○○先生は丁寧ですからね」と言われたというのです。その話を聞いて、私は以前に教会員の歯科医師の方が「歯科という働きを通して神を証しする使命が自分には与えられている」と前から話されたことを思い出しました。そして、「だから丁寧に治療されているのか」と思わされました。これは歯科医だけでなく、どの仕事においても同じことが言えるのではないでしょうか。自分に与えられています仕事を通して神を証しする。その使命を自覚すると、仕事に対する取り組み方が違ってくるのではないでしょうか。それは直接的な福音宣教ではありませんが、すばらしい神の証しとなります。これも神の御心の1つです。

3)みわざを成し遂げる
 最後は、みわざを成し遂げることです。みわざについてですが、ここでは「使命」と捉えても良いと思います。イエス・キリストは、神から与えられました使命を成し遂げられました。完成されたのです。でも、それはイエス・キリストが神であられ、不可能なことが何一つない方だからです。でも、私たちは違います。私たちは不完全なものです。ですから、神から与えられた使命を完成することはできないかもしれません。でも、目標を持つことはできます。イエス・キリストも、この4章の時点ではみわざを成し遂げてはおられません。ですが、神から与えられている使命を成し遂げることを目標として歩まれていたのです。私たちもそうです。目標をもって、それに向かって歩むことは大切です。目標のない人生は、今自分が何をすれば良いか分かりません。目標のないキリスト者生活も同じです。神を信じていても、今キリスト者として何をすれば良いか分かりませんから、ただ漠然として生活になってしまいます。では、「キリスト者の使命・目標は何か」と言いますと神を証しすることです。
 神を証しすることが神の御心であり、神のみわざを成し遂げることなのです。「みわざを成し遂げる」ということは先程も話しましたように、まだ成し遂げていないことを意味しています。ですから、「みわざを成し遂げる」ということは続けることでもあります。すなわち、神を証しし続けるのです。その証しの仕方は、一人ひとり違うことでしょう。人には得手・不得手というのがありますから、「全て同じように」ということはできないでしょう。そこには、一人ひとりが「自分には何ができるのか」ということを祈り考える必要はあるでしょう。それが「具体的にどのようにして神を証しするのか」ということに繋がっていくのではないでしょうか。
 これは、ただ単にキリスト者個人にのみ当てはまることではありません。教会においても同じことが言えるのではないでしょうか。教会も目標を持つことが大切です。教会の使命も神を証しすることです。では、「私たちの教会が具体的にどのように神を証ししていくのか」を考えますと、私たちの教会は30~40代の方々をターゲットとして活動しています。それは10年後・20年後の教会を見据えてのことです。そのために英語教室・読み聞かせ・オリーブの会などをしています。また、今年度は親子集会をも新たに始めました。それらは大切なことだと思います。何故なら、それが神を証しすることの具体性だからです。そして、それが神のみわざを成し遂げることではないでしょうか。ですから、これらの活動を続けてしていきたいと願わされます。

結)
 イエス・キリストは、ご自分の使命を自覚され、その使命に向かって歩み続けることを「わたしの食べ物」と話されました。私たちは「みことばは霊的な食べ物」と信じています。確かにその通りです。でも、みことばを蓄えることだけでは意味がありません。食べ物は身体の中に蓄えるためのものではありません。生きる力に変えてこそ意味のあるものです。霊的食べ物であるみことばもそうです。日々の生活の中で実践してこそ意味のあるものとなります。そして、みことばを蓄え実践することが福音に生きることでもあります。私たち一人ひとりも、福音に生きる者として歩まされていきましょう。

天におられる父なる神様。私たちは、あなたを証しする者としてこの世に遣わされています。そのことを自覚し、自分に与えられています務めを通してあなたを証しし続ける者として歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン

ヨハネ4:27~30「福音の力」 18.11.18.

序)
 早いもので、今年も残すところ1ケ月半を切るようになりました。この1ケ月半に、感謝祭やクリスマスコンサート・女性クリスマス会・クリスマス礼拝と祝会・クリスマスイヴ礼拝などが行われます。これらは一人でも多くの方に福音を伝えるために計画されたものです。今朝は、その福音について共に教えられたいと願っています。

1)顔つきを変える
 まず、福音は人の顔つきを変えることができます。イエス・キリストと出会ったサマリアの女性は、神を礼拝したい思いが与えられ、礼拝において大切なのは御霊と真理による礼拝であることを知らされました。そして、イエス・キリストご自身がキリストであることも知りました。丁度そのときに、イエス・キリストの弟子たちが井戸の所に戻ってきました。弟子たちは、イエス・キリストがサマリアの女性と話しをしているのを見て驚きました。何故、彼らは驚いたのでしょうか。前にも触れましたが、当時は男性が見知らぬ女性と話しをすることはありませんでした。しかもイエス・キリストが話しているのは、ユダヤ人が避けていますサマリア人です。そのことで驚いたのかもしれませんが、「それだけではなかったのではないか」とも思わされます。もしそれだけなら、「何をお求めですか」とか「何故彼女と話しておられるのですか」と聞くはずです。しかし聖書は、そのように聞く人は誰もいなかったということが書かれています。ただ弟子たちは驚いただけなのです。そのことを考えますと、弟子たちが驚いたのは、イエス・キリストがサマリアの女性と話していることに驚いたのではなく、彼女の表情に驚いたのではないかと考えられます。
 このサマリアの女性は、イエス・キリストを救い主と信じたことによって、生き生きとした表情に変えられたのです。弟子たちは、このサマリアの女性の過去については何も知りません。このとき初めて会ったのですから、その前の彼女の顔つきがどのようなものであったのかは全く知りません。ですが、イエス・キリストとの会話の中で生き生きとしている表情に驚いたのではないでしょうか。昔、私が奉仕していました教会でこのようなことがありました。秋の特別伝道集会が行われているときのことです。その日に一人の男性が案内の奉仕をされていました。そして、伝道会に来られる方に、その男性はニコニコしながら座る場所に案内されていました。そこに一人のクリスチャンの婦人の方が、御主人を連れて伝道会に来られました。そして、案内された所に座られました。そして、伝道会が終わったあとご夫妻一緒に帰られました。数日後、この婦人の方から次のような話しを聞きました。それは、「あの案内をしていた男性は、昔は大酒飲みでよく留置場に入れられていた。アルコールがなければ生きていけない男だったのに、何故あのように喜んで奉仕しているのか不思議だ」と家で話していたというのです。このご主人は警察官だったのです。そして、この案内をされていた男性は、イエス・キリストを信じたあと、いつもニコニコしながら教会に来られ、喜んで奉仕されていました。福音というのは、その人の顔つきを変えることのできる力があるのです。

2)生き方を変える
 次に、福音はその人の人生を積極的人生に変えることができます。サマリアの女性が井戸に水を汲みに来た時間は、今の昼の12時頃でした。その時間帯は暑いですから、誰も井戸に水を汲みに来ることはありません。そのような時間帯に、このサマリアの女性は水を汲みに来ていたのです。それは人目を避けるためです。自分の過去に触れられたくありませんし、自分のことで「あれこれ」と噂話を耳にしたくないから、誰もいない時間帯に水を汲みに来ていたのです。人と会うのを避けるというのは、消極的な生き方です。積極的な生き方をしようとするなら、人と出会いは避けることができません。このサマリアの女性は、自ら積極的な人生を放棄していたのです。ところが、イエス・キリストと出会いイエス・キリストを救い主と信じてからは、彼女の生き方が180度変えられたのです。消極的人生積極的人生に変えられたのです。彼女は「自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。」と28節に書かれています。以前の聖書の訳ですと「自分の水がめを置いて町へ行き」と訳されていました。水がめを運ぶ女性の映像や写真を見ますと、頭の上に水がめを乗せています。以前の訳ですと、水がめを頭の上に乗せたままイエス・キリストと話していたが、その水がめを置いて町に行き、人々にイエス・キリストのことを話しに行った光景が頭に浮かびます。ところが今の聖書の訳ですと、サマリアの女性は水がめを置いてイエス・キリストと話しており、その水がめを置いたまま町に行ってイエス・キリストのことを話しに行った光景が頭に浮かぶのではないでしょうか。水がめを頭の上に乗せたままでの会話より、水がめを置いての会話の方が自然のように感じられますから、このように訳されたのではないかと考えられます。どちらの訳が正しいかは分かりませんが、一つ言えることはサマリアの女性は急いて町に行って、イエス・キリストのことを人々に話したということです。
 でも、よくよく考えてみますと、このサマリアの女性は誰にも会いたくなかったから、日中の暑い時間帯に井戸の水を汲みに来たのです。ところが、今は自分の方から人に会いに行ったのです。当時は、女性から男性に声をかけることはありませんでしたから、多分町の女性に話したと考えられます。暑い時間帯ですから、女性は家の中で家事をしていたと考えられます。そのように考えますと、このサマリアの女性は一軒ずつ回って29節のことを話したのではないかとも考えられます。先程も話しましたが、このサマリアの女性は人目を避けていたのです。ですから、当然自分の方から他人に声をかけることはしなかったでしょう。しかし、イエス・キリストと個人的な出会いをしてからは、自分の方から人に会い声をかけるように変えられたのです。これはとても大きな変化ではないでしょうか。何故そのように変えられたのでしょうか。イエス・キリストと個人的な出会いをするまでは、このサマリアの女性は自分の過去やこの世のものばかりに目が向けられていました。しかし、イエス・キリストと個人的な出会いをしたとき、彼女は自分の将来と神に目を向けるように変えられたのです。
 このサマリアの女性は、自分の幸福を掴みたいために、自分を守ることで精一杯でした。それは手を握り締めているようなものです。「これだけは放したくない」と思うとき、私たちは自分の手をギュッと握り締めます。でも、手を握り締めたままでは新しいものを掴むことはできません。新しいものを掴むには、握り締めた手を開くしかありません。手を開きますと、今まで握り締めていたものが落ちてしまいます。ですが、握り締めていたもの以上のものを掴むことができるのです。Ⅱコリント5:17に「     」と書かれています。このサマリアの女性は、イエス・キリストと個人的な出会いをし信じることによって、全てが新しくされたのです。福音とは、人を積極的前向きに変えることのできる力があるのです。

3)宣べ伝える
 最後に、福音はイエス・キリストを宣べ伝える力を与えます。このサマリアの女性は、イエス・キリストによって造り変えられました。過去やこの世にものに目を向けていましたが、将来と神に目を向けられるように変えられました。また、消極的。否定的人生から、積極的・肯定的人生に変えられました。それを経験したサマリアの女性は、そのイエス・キリストのことを人々に宣べ伝えられずにはおれませんでした。それで彼女は、町に行って人々にイエス・キリストのことを話したのです。イエス・キリストが彼女に「わたしのことを人々に話しなさい」とか「福音を伝えなさい」と言われたのではありません。また、彼女はしぶしぶイエス・キリストのことを話したのでもありません。自分から喜んで町に行って、人々にイエス・キリストのことを話したのです。今までは自分を守ることに精一杯だった彼女でしたが、福音が彼女の中に入ることによって、今までのものは全て力を失ってしまったのです。そして、新しい自分に造り変えられたのです。
 イエス・キリストの弟子であったマタイもそうでした。彼は取税人でしたが、イエス・キリストと個人的な出会いをしたことによって、イエス・キリストの弟子となり最後まで従い続ける歩みをしました。同じ取税人のザアカイもそうです。イエス・キリストと個人的な出会いをするまでは、不正な税金の取り立てをしていました。何故不正な取り立てをしていたのかと言いますと、「お金が全てである」という考え方に固執していたからです。「物質的なものが自分を幸せにする」と考えていたからです。ところが、イエス・キリストと個人的な出会いをした後は、不正な取り立てを止めることができました。「物質的なものではなく関係が自分を幸せにする」ということを経験したからです。パウロもそうです。イエス・キリストと個人的な出会いをするまでは、キリスト教を迫害していました。彼は「それが正しい」と思っていたのです。ところが、イエス・キリストと個人的な出会いをした後は、そのイエス・キリストを宣べ伝えるように変えられました。そのパウロは、ピリピ3:8で「     」と語っています。本当に価値のあるものを知ったパウロは、その他のものは相対的な価値しかないことを知ったのです。それで本当に価値のあるものとそうでないものとを整理することができたのです。そして、このサマリアの女性も本当に価値のあるものを見出すことができたのです。
 今までサマリアの女性は、人に会うことを恐れていました。何故なら、自分のことを良く評価してくれないからです。彼女は人の評価を気にし恐れていました。だから、人と会いたくなかったのです。しかし、本当の価値を見出した彼女は、もう人の評価を恐れることから解放されました。それは自分のことを知っている方が、ありのままの自分を愛し受け入れてくださっていることを経験したからです。だから、そのイエス・キリストを宣べ伝えられずにはおられなかったのです。これも福音の力です。

結)
 「福音はことばだけだ」と思われるかもしれません。しかし、ローマ1:16には「福音は…神の力です。」と書かれていますように、全ての人に救いをもたらす神の力なのです。福音は人を造り変えることのできる力があります。造り変えられるということは生き方が変えられることでもあります。福音は人の生き方を変えるほどの力のあるものです。私たちは、それほど力のあるものを神から委ねられているのです。その福音を一人でも多くの人に伝え続ける者として歩めるように祈っていきましょう。

ヨハネ4:19~26「まことの礼拝」 18.11.11.

序)
 今年度は「ふさわしい礼拝を献げる」を教会標語としています。それに向けて①神に喜ばれる礼拝、②聖なる礼拝、③生きた礼拝を献げることを努めています。礼拝とは儀式的なものですが、単に儀式的なもので済ませてしまうのではなく、集います一人ひとりが心から神に感謝し神を喜ぶ礼拝を献げていきたいと願い掲げたものです。今朝は、その礼拝について共に教えられたいと願っています。

1)何処で
 礼拝は何処で献げればよいのでしょうか。サマリアの女性はイエス・キリストに、20節で「     」と言いました。20節の「この山」とはゲリジム山のことです。イスラエルの民はヨルダン川を渡ってエリコの町を陥落させました。そして、次にアイの町を討ちました。その後ヨシュアは、モーセに告げられたようにゲリジム山の上に祝福を置き、エバル山には呪いを置きました。イスラエルの民がカナンの地に入って祝福のことばが置かれた山が、サマリア人が礼拝しているゲリジム山だったのです。それを根拠として、サマリア人はゲリジム山で礼拝していたのです。ところが、ユダヤ人はエルサレムが礼拝する場所としていたのです。何故なら、そこに神殿が建てられているからです。すると、イエス・キリストは21節で「女の人よ…時が来ます。」と話されました。これは「場所に囚われずに神を礼拝する時が来る」ということです。実際に、イエス・キリストが甦られた後は、何処ででも神を礼拝していました。何故でしょうか。それは、神は一定の場所におられる方ではないからです。私たちが何処にいても神は居てくださいます。ですから、教会はどの場所に建てられていても神を礼拝することができるのです。場所に囚われず神を礼拝することができるのです。
 では、「場所に囚われずに神を礼拝することができる」というのであれば、「教会に行かなくて家で礼拝をしても良いのではないか」という疑問も出てくるかもしれません。でも、そういうことではありません。Ⅰコリント14:33に「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」と書かれています。「平和の神」とは、「秩序のある神」という意味です。ですから、自分勝手な礼拝は許されているわけではありません。たとえその場所で賛美され、聖書の教えが説き明かされていたとしても、教会の秩序を乱した礼拝であるならば、神はそのような礼拝を受け入れてはくださいません。何度か話していますが、昔の私がそうでした。「教会の礼拝に行かなくても、祈りと聖書朗読とメッセージの本を読んでいれば良い」と勝手に捉えて、教会の礼拝に出席しなくなりました。ですが、これは間違いなのです。何故なら、そこには教会がないからです。教会とは、神が目的をもって召し集められた群れですから、神が建て上げられたものです。その教会を抜きにした礼拝を神は受け入れてはくださいません。イエス・キリストが話されているのは、秩序を乱した礼拝ではなく、場所に囚われてはいませんが秩序のある礼拝のことです。
 すると、「野外礼拝はどうなのですか?」と思われる方がおられるかもしれません。教会が話し合って決めたものであるなら、それは教会の秩序をもって行われる礼拝ですから問題はないでしょう。今はネット社会ですから、教会の礼拝をライヴでネット配信されている教会もあります。その目的の1つは、教会に来られない方が共に礼拝を献げられるためのものです。ですから、止むを得ず教会に来られない方がネットで共に礼拝を献げるのなら良いのですが、「教会に行かなくてもネットで礼拝できるから」というのは間違っています。礼拝の場所は重要なことではありませんが、秩序をもって礼拝を献げることは重要なことです。

2)どのように(御霊によって)
 次に、どのようにして礼拝を献げれば良いのでしょうか。旧約時代の礼拝は、場所が定められており犠牲の方法も定められていました。申命記12章には「選ばれる場所」ということばが繰り返し書かれています。これは神が選ばれる場所で犠牲を献げることを告げています。また、アロンの2人の息子ナダブとアビフは異なる火を神に献げたため死んだことがレビ記10:1に書かれています。それは、神が異なる方法で献げることを禁じられていたからです。この2人は神に仕える祭司でしたから、神の教えを無視して行ったとは考えにくいものです。おそらく、2人の息子は「この方がより良い」と思って、善意からしたものと考えられます。ですが、神はその方法を受け入れられませんでした。神への善意の思いがあったとしても、神が定められた方法と違った仕方であるならば神は受け入れられなかったのです。神が求めておられたのは儀式的な方法だったのです。ところが、新約時代の礼拝はそうではありません。事細かな儀式的なことや場所については囚われていないのです。そして、神が求めておられるのは御霊と真理による礼拝です。
 では、その御霊と真理による礼拝とはどのようなものでしょうか。まず、御霊による礼拝について見てみたいと思います。イエス・キリストは、3章でのニコデモとの会話の中で5~8節で「     」と話されました。人は神に造られたとき、いのちの息を吹き込まれました。その「いのちの息」とは霊のことです。それによって、人は霊的な者として霊的な神と交わりを持つことができるようになりました。ところが、人はサタンの誘惑によって神に罪を犯してしまったがために、その霊も歪められてしまいました。そのため、人は神ではなく別のものと霊的な交わりを求めるようになったのです。これが聖書の語る罪です。すなわち、神から与えられた霊が歪められている状態のことです。
 その歪められた霊が神にいのちの息を吹き込まれた時の状態に戻るには、御霊なる神の働きしかありません。ローマ8:14~15節に「    」と書かれていますし、ガラテヤ4:6にも「    」と書かれています。聖書は、人が神にいのちの息を吹き込まれた時の状態に戻るには、御霊なる神の働きしかないことを語っています。また、ローマ8:26~27には「     」と書かれています。御霊なる神は人の心を探られます。今の自分が神に対してどのような状態であるかを探らせてくださいます。そして、間違いであることに気づかせて悔い改めへと導いてくださいます。これらは全て御霊なる神の働きによるものです。
 では、何によって間違いであることに気づき悔い改めへと導かれるのでしょうか。「人は自分が間違いであることに気づいたら悔い改められるのか」というとそうでもありません。「間違いである」と気づいても認めようとはしません。認められるようになるには、本当の意味で神の愛を知らなければできるものではありません。自分が間違った道を歩んでいるのに、それでも神は私を審いたり見捨てたりすることなく、愛し続け守り導いてくださっていることに気づいたとき、人は自分の間違いを悔い改めることができます。そのことに気づかせてくださるのも御霊なる神の働きなのです。人は御霊なる神の働きによらないと、悔い改めへと導かれることはないのです。

3)どのように(真理によって)
次に、真理による礼拝について見てみたいと思います。真理とは「真実」とか「理性」と言っても良いかもしれません。先程、「人を悔い改めに導くのは御霊なる神の働きによる」と話しました。それは確かなことですが、それには真理を知る必要があります。ホセア6:6に「     」と書かれています。真実を知るには理性が必要です。「神を知る」というのは、「理性をもって神を知る」ということでもあります。それは、「神はどのような方であるか」を理性をもって知ることです。日本のことわざの1つに、「いわしの頭も信心から」というのがあります。これは「信じる対象は何でも良いから信じる心が大切である」というものです。確かに信じる心は大切ですが、それと同時に信じる対象が何であるかを知ることも大切です。
 正しい神知識がありませんと、心から神を礼拝することはできません。もし神が「審きの神」であるならば、「止むを得ないから」という心が伴わない形式的な礼拝になってしまいます。最近では耳にしませんが、昔は「礼拝を守る」ということばをよく耳にしました。これは私の個人的なものですが、「守る」と聞きますと形式的なもののように聞こえてしまいます。「義務的なもの」と言いましょうか、消極的なもののように聞こえてしまうのです。私の中で「礼拝は守るものなのか」というのを自問自答していた時がありました。そして、「礼拝は守るものではなく献げるものである」という結論を出しました。それは礼拝が義務的な消極的なものではなく、積極的なものだからです。礼拝を積極的なものとするには、神についての正しい知識が必要です。
私たちは聖書を通して、「神はどのような方」であると知ることができるでしょうか。それは先程も話しましたが、神はこの世界を造り人を造られた方です。その神を神と認めずに私たちは自分勝手に歩んでいました。そのような私たちを神は見捨てることをされず、なおも愛し続けてくださいました。そして、その愛を見える形として表してくださいました。それはイエス・キリストの十字架によってです。神は私たちを審くことができたのですが、私たちを審くことをされず、私たちの罪のためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、そのイエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架に架けて審かれました。そして私たちの罪を赦してくださいました。神はそのような愛と憐れみと慈しみに富んだお方です。その神を知るのは御霊なる神の働きと同時に、真理によるものでもあります。

結)
その神の私たちへの行為に対して、私たちが心から感謝と喜びをもって献げる礼拝が、御霊と真理による礼拝なのです。以前にも話しましたが、「神が喜ばれることと神を喜ぶことのどちらが大切なのか」という疑問を持たれた方がおられました。先程ホセア6:6を見ましたが、神が喜ばれることは愛と憐れみと慈しみに富んだ神に感謝と喜びをもって礼拝することです。すなわち、神が喜ばれることは神を喜ぶことです。これからも感謝と喜びをもっての礼拝を神に献げていきたく願わされます。