メッセージ

Ⅰコリント4:14~21「生きる力」  17.03.19.

序)
 先週は1週間の休みをいただきありがとうございます。娘も無事にTCUを卒業することができました。これも神であられる主の導きと皆様のお祈りによるものです。TCU時代に様々なことを経験させられてきたと思いますが、私たちも様々なことを経験させられてきたのではないでしょうか。ですが、神は最善の方法をもって導いてくださり、私たちに生きる力を与えてくださいました。今朝は、その生きる力について共に教えられたいと願っています。

1)気づくこと
 人に生きる力を与える第1は気づくことです。パウロは14節で「     」と語っています。パウロはコリント教会の人々に何を気づくことを願っているのでしょうか。それは先々週の礼拝で見ましたように、本来の人としての生き方です。その第1は神の定めに従うということでした。私たちは日々様々なことを経験します。その中には、喜ばしいこともあれば苦しく悲しいこともあります。特に、苦しく悲しい事柄については「仕方のないことだから」と否定的に捉えてしまいます。ですが、それを「神から与えられたもの」と積極的に受け留め、「このことを通して神はすばらしいことをしてくださる」と信じ、目の前の事柄を忠実に果たしてくことが神の定めに従うということです。
 第2は愚かな者となるということでした。私たちが生かされています社会の常識は、「やられたらやり返す」というものです。そのような社会の中にあって、悪に対しても善をもって行うことが聖書の語る「愚かな者」です。しかし、それはキリストのためでもあります。何故なら、そのことを神が願っておられるからです。また、それだけでなく神ご自身がそのように私たちに接してくださったからです。その神から受けた愛を覚えつつ悪に対して善を果たしていくのです。
 第3は見本的な生き方をするということでした。ともすると、私たちは「クリスチャンとして模範的な生き方をしなければならない」と捉えてしまいます。ですが、神は模範的な生き方を私たちに求めてはおられません。見本的な生き方を求めておられるのです。それは「このような者をも愛してくださり用いてくださる」という生き方、「このような者であっても変えられる」という生き方です。
 そのことをコリント教会の人たちに気づいてもらうことを願い、パウロは9~13節で語ってきたのです。そして、神が願っておられるのは教会内で争ったり競争し合ったりするのではなく、互いに励まし合い助け合って教会を建て上げていくことにも気づくことを願っているのです。それには、神が一人ひとりを通してすばらしいことをしてくださると信じ、神から受けた愛を覚えつつ仕返しするのではなく良いことを行い、互いに励まし合っていくことです。パウロはそのことを願い、コリント教会にこの手紙を書いているのです。

2)証しを通して
 人に生きる力を与える第2は人の証しです。パウロは何らかの事情によって、コリント教会に行くことができませんでした。そのため、自分の代わりとしてテモテをコリント教会に派遣することにしました。そのテモテについて、パウロは17節の中程で「テモテは…忠実な子です。」と語っています。この「忠実」というのは、以前にも話しましたように、与えられている責任をきちんと果たすだけのことではありません。どのような結果が出ようとも、それが神にとって最善のことであり、そのことを通して神はすばらしいことをしてくださると信じ、与えられている責任をきちんと果たすことです。パウロは、テモテをそのような人であると紹介しているのです。
 教会は神であられる主を信じる者が集まる所です。しかしながら、その教会に集まる私たちは完全な者ではありません。弱さを持っていますし、欠けた所のある者です。そのような人が集まる所ですから、当然その群れは完璧な群れでもありません。教会というのは、完璧な群れではなく欠けだらけの群れなのです。ともすると、私たちは欠けた所があることを問題にしてしまいやすくなります。ですが、欠けた所があるのは本当の問題ではありません。何故なら、神はそのことを御存知の上で、一人ひとりを選ばれ信じる者としてくださり、教会のメンバーに加えてくださったからです。ですから、教会には欠けた所がたくさんあります。でも、神はそのことを御存知の上で一人ひとりを加えてくださったとういことは、神にとってそれは大きな問題ではないということです。何故なら、神はそのような欠けた所を通して、ご自身のすばらしさを現してくださるからです。本当の問題は何度も話していますが、「それらの問題を通して神はすばらしいことをしてくださる」と信じ、神に望みを抱きつつ取り組むかどうかです。これが問題の中心点です。
 パウロがテモテを「忠実な子」と呼んでいるのは、「テモテは神に望みを抱きつつ、目の前にある事柄に取り組んできましたし、コリント教会においても同じように取り組んでくれる」と信頼しているからです。だから、パウロはテモテをコリント教会に派遣したのです。それは、テモテの証しを通してコリント教会の人々が、「神を信じる生き方とはどのようなものなのか」を学び、自分たちの生活に活かすことを願っているからです。そして、神はそのテモテの証しを用いられました。コリント教会は、テモテの証しを通して「神にある生き方」を学んだのです。そして、神は私たちの証しも用いてくださいます。教会での交わりの中で、日々の歩みの話しを聞いて励まされ力づけられることがあります。それは神を信じている人にだけでなく、まだ神を信じていない人に対してもそうです。証しは福音宣教だけでなく、人に生きる力をも与えるものでもあります。

3)神の臨在
 人に生きる力を与える第3は神の臨在です。20節に「     」と書かれています。ここに書かれています「神の国」とは、天の御国のことではありません。では、「何処なのか」と言いますと、神がおられる所が神の国なのです。パウロは3:16で「     」と語りました。神を信じる者の中には、聖霊なる神が内に住んでくださっています。神を信じる者の中に聖霊なる神が内に住んでくださっているならば、その人自身の中に神の国がなされているのです。ですから、今朝の箇所で言われている「神の国」とは、神を信じる者のことなのです。神を信じる私たちの中に神の国がなされているのです。
 その「神の国はことばではなく力にある」とパウロは語っているのです。その力とは何でしょうか。それは信仰の力です。では、信仰の力とは何でしょうか。聖書の教えを守り行うことでしょうか。ある意味ではその通りです。しかし、聖書の教えを守り行うというのも2通りあります。それは消極的に守り行う方法と積極的に守り行う方法です。消極的というのは、形式的にということでもあります。当時のユダヤ教指導者らがそうでした。彼らは厳格に律法を守り行っていました。でも、それは自分のためであり自分中心のものでした。自分たちが神に「義しい」と認められたいがために行っていたものです。そのため、他人に対する思いやりのようなものはありませんでした。そのことをイエス・キリストは批判されました。
 それに対して、積極的な方法とは他人に対する思いやりのあるものです。別の表現をすれば愛することです。本当の愛は行いが伴います。神も私たちを愛するが故に、その愛を行いをもって示してくださいました。それがイエス・キリストの十字架による死と復活です。そして、イエス・キリストも「良きサマリヤ人」の譬え話を通して、愛は行いが伴うものであることを話されました。本当の愛は自分を犠牲にするほどの力のあるものです。だから、パウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」と語っているのです。
 パウロはコリント教会の人々に、その愛を見えるかたちとして現すことを求めているのです。何故なら、神は人を愛する者として造られたからです。しかも、その愛は人間的な愛ではなく、自分の敵をも愛する愛・自分に害を加える人をも愛する愛です。自分に害を加える人を憎み、自分を愛してくれる人を愛するのは誰にでもできることです。しかし、自分に害を加える人を愛することは誰にでもできるものではありません。ですが、それができる者へと変えられたらどれほど素敵なことでしょうか。「そのようなことは人にはできない」と思えます。確かに、そのようなことは人の力ではできません。それができるには、神に愛されていることを経験しなければできないことですし、同時に神が内に住んでくださらないとできないものです。
 では、何故神が内に住んでくださるとできるようになるのでしょうか。何度も話していますが、人が生きることができるのは希望があるからです。自分に害を加える人を愛するというのは、何か自分が損をしたように思えたりもします。実際にそうだと思います。ですが、その損と思えるようなことを通して、神はすばらしいことをしてくださいます。神が内に住んでくださるということは、そのことを信じられるということでもあります。ですから、神が内に住んでくださいますと、自分に害を加える人をも愛することができるのです。生きる力は、神が内に住んでくださるという神の臨在がなければできません。その神は信じる者の内に住んでくださいます。これは神の私たちへの約束です。私たちの中にも神が内に住んでくださっているのです。神の臨在によって、人は生きる力が与えられるのです。

結)
 エゼキエル18:23に「     」と書かれています。神が願っておられることは生きることです。あと半月ほどで今年度も終わり新年度が始まります。私たちは新年度も様々なことを経験することと思います。そのような中で生きる力を与えてくださる神に目を向けつつ歩まされたいと願います。

Ⅰコリント4:9~13「人としての生き方」  17.03.05.

序)
 今年度も残すところ1ヶ月となりました。今年度の歩みも様々でしたが、何よりも守り導かれたことに感謝したいものです。この3月は卒業の月でもあります。受験生は追い込みの時です。近所で犬の散歩で出会う中学生も受験生です。合格することは大切ですが、合格がゴールではなく、入学した後どのように歩むかが大切なことです。それは信仰においても同じです。信仰を持つことは大切ですが、信仰を持つことがゴールではなく、信仰者としてどのように歩むかが大切なことです。今朝は、本来の人としての生き方について共に教えられたいと願っています。

1)神の導きに従う
 本来の人としての生き方の第1は、神の導きに従うことです。パウロは9節の前半で「神は私たち使徒を…引き出されました。」と語っています。これは当時スタジアムで行事が行われるとき、出演者がスタジアムの中に登場します。その最後に、死刑に処せられる人が登場します。そして、その処刑に処せられる人同士や獣と戦わせるのです。変な言い方ですが、行事の前座として行われるのです。パウロはそのことを譬えて9節の前半で語っているのです。それは、「神に従う信仰とは毎日が戦いの連続である」ということです。ある方は、「信仰を持ては何の戦いもなく平安な日々を過ごすことができる」と思われています。確かに、神が共にいて守り導いてくださるという平安は与えられていますが、それは何の戦いもないということではありません。日々、信仰の戦いを経験するものでもあるのです。
 ですが、パウロは「その信仰の戦いは運命的なもので仕方のないもの」とも捉えてはいません。9節で「決まった者のように」と書かれています。すなわち、「信仰による戦いは神によって導かれているもの」と捉えているのです。ですから、パウロは「自分は神の導きに従順に従う戦士である」と理解しているのです。「もう仕方のないことだから」というような、半分諦めのような気持ちで戦うのではなく、「これは神が導かれたものであり、このことを通して神はすばらしいことをしてくださる」と信じて、自ら積極的にその戦いに参与することを表しているのです。
 私たちも信仰の戦いを経験します。ともすると、信仰を持たなかった方が楽なようにも思える時もあります。「神への信仰を持たなければ、こんなことで苦しむ必要はなかったのに」と思う時もないことはありません。ですが、信じてしまったのです。何を信じたのでしょうか。今の自分が神に愛されていることを信じたのです。その神の愛の現れとして、イエス・キリストがこの世に来られ、私の罪の身代わりとなって十字架に架かり、父なる神の審きを受けてくださったことを信じたのです。そして、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって、自分の罪が赦され神の審きから救われることを信じたのです。さらに、その神がいつも共にいてくださり、全てのことを働かせて益としてくださり、あらゆることから守ってくださることを信じたのではないでしょうか。また、私たちはこの世を全うして死にますが、再び神によって甦ることも信じました。これらは、全て神のみことばによる約束です。私たちが信じたものは、神のみことばによる約束です。
 私たちの目の前に生じる全ての事柄は、神の導きによるものです。私たちに求められていることは、その導かれた事柄を避けるのではなく、それに対して忠実に果たしていくことです。以前にも話しましたが、忠実に果たすとは与えられている事柄をきちんと行うことではありません。このことを神は用いてくださり、神のすばらしさを現してくださることを信じて行うことです。私たちが今すでに経験している事柄や、これから経験します事柄の全ては神の導きによるものです。そして、神はそれらを用いてご自身のすばらしさを現してくださいます。私たちは、そのことを信じて神の導きに従う者として歩まされたいものです。

2)愚かな者となる
 本来の人としての生き方の第2は、愚かな者となることです。この「愚かな者となる」というのは、以前にも見ましたが「この世から見た愚かさ」です。この世から見た賢さというのは結果です。「要領の良い人は得をする」という見方です。そのような社会の中で、正しいことを「正しい」として生きていく生き方は、この世から見れば愚かなことのように思われがちです。ある方は「何故そこまでして」と言われます。ですが、それは神が私たちに求めておられることだからです。
 イエス・キリストは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と話されました。それはローマ12:21に書かれていますように、悪に対して悪をもって行うのではなく、善をもって行うことでもあります。私たちは自分に害を加える人に対して、同じような方法で仕返しをしようと考えます。ですが、神はそうではなく、その人に自分を愛するように愛し、その人のために祈り、正しい仕方で接することを求めておられます。私たちが悪に対して善を行うのは、神が私たちにそのことを求めておられるからです。
 ですが、それだけではありません。パウロは10節で「キリストのために愚かな者です」と語っています。パウロがこの世から見て愚かな者になるのは、神が求めておられるからだけではありません。それがキリストのためでもあるからです。では、「キリストのため」とはどういうことでしょうか。「神が求めておられるから従う」というのは、ある面では消極的な行為であり、自ら進んでするものではありません。しかしながら、「キリストのために行う」というのは積極的な行為であり、自ら進んですることを示しています。では、何故キリストのために行うのでしょうか。それはキリストを愛しているからです。パウロがこの世から見て愚かな者となれるのは、イエス・キリストを愛しているからです。すなわち、神への愛がパウロを動かしているのです。
 そのように考えますと、「パウロの神への愛は何と大きなものだろう」と思います。そして、「私なんかそれほど大きな愛はない」と思ったりもします。ですが、それはパウロがすばらしいからではありません。パウロは神から受けた愛をただ実践しているだけに過ぎないのです。パウロは、まだイエス・キリストを信じていなかったとき、イエス・キリストを信じている人を迫害していました。パウロは神に逆らっていたのです。しかし、神はそのようなパウロに対して同じような仕返しをされたのではなく、それでもパウロを愛し続けパウロの罪を赦されたのです。パウロ自身が「悪に対して善を行う」というわざを経験したのです。ですから、パウロがすばらしいのではなく神がすばらしいのです。
 その神は、私たちに対しても同じことをしてくださいました。神は私たちの造り主なるお方です。私たちは、その神に聞き従うことをしないで自分の考えに頼り自分中心に生きていました。ですが、神はそのような私たちを審くことをしないで愛し続けてくださいました。そして、何よりもイエス・キリストをこの世に送ってくださり、そのイエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架につけて審かれたのです。神は悪を行う私たちに善をもって接してくださっているのです。私たちは、それほど神に愛されているのです。神の私たちへの愛は、パウロへの愛と同じ深さなのです。ですから、私たちがキリストのために愚かな者となるのは、私たちが一生懸命努力することによってではありません。神の愛を深く覚えることによってなのです。これからも、その神の愛を深く覚えることができるように祈っていきたいものです。

3)見本を示す
 本来の人の生き方の第3は、見本を示すことです。パウロは12節の前半で「私たちは…働いています。」と語っています。パウロが苦労して自分の手で働いている理由は、Ⅰテサロニケ2:9に「     」と書かれていますように、コリント教会の人々に負担をかけないためです。ここに「労苦と苦闘を覚えて」と書かれています。ここに書かれています労苦とは、継続的な肉体的苦痛を表しています。そして「苦闘」とは、継続的な精神的苦痛を表しています。パウロは、肉体的苦痛と精神的苦痛の中にあって、自分の使命である福音宣教の働きを続けていたのです。
 パウロが自分の手で働いているもう一つの理由は、Ⅱテサロニケ3:7~9に「     」と書かれていますように模範を示すためです。と言いますのは、その後の11節に書かれていますように、テサロニケ教会の中には働かない人がいたからです。パウロは神に愛され神を愛している人は、自分の手で働くものであることを示していたのです。では、コリント教会に対しては何を示していたのでしょうか。12節の後半から13節の前半にかけて、「はずかしめられるときにも祝福し…慰めのことばをかけます。」と書かれています。このような姿は、この世からすれば愚かな生き方のように見えます。何故なら、仕返しをしないからです。ですが、パウロは「これ以外の方法で神に従う生き方はできない」と確信しているのです。何故なら、神に愛され神を愛しているからです。
 ところで、先ほど見ましたⅡテサロニケ3:9の「模範」と訳されていますことばは、本来は「見本」ということばです。Ⅰテモテ1:16に「     」と書かれています。この「見本」ということばと同じです。パウロは見本的な生き方をしていたのです。イエス・キリストを信じる前のパウロは、やられたらやり返すという生き方をしていました。自分の願いを叶えるためなら、どのような方法を用いても構わないと思っていました。そのようなパウロが、そうではなく悪に対しても善を行う人へと変えられたのです。
 パウロは自分自身の生き方を通して、「あのような人であっても、このような人に変えられる」ということを示していたのです。過去の歩みがどうであったかは問題ではありません。私たちはついつい過去を問題にしてしまいますが、その過去の問題は大きな事柄ではないのです。いや、むしろ過去の問題が用いられているのです。何度も話していますが、イエス・キリストを信じることによって見方が変え、生き方が変えられたのです。今まで否定的に見えていたものが、肯定的に見られるように変えられたのです。ですから、パウロは「自分は見本的なもので良い」と確信していたのです。パウロの生き方は模範的な生き方ではなく、見本的な生き方でした。模範的な生き方は苦しいものですが、見本的な生き方は楽なものです。イエス・キリストは模範を示されましたが、私たちは見本を示すだけで良いのです。このような者であっても神は愛してくださり、共にいて導いてくださり、用いてくださるという見本的な生き方で良いのです。

結)
 16年度も約1ヶ月で終わろうとしています。1ヶ月後は17年度が始まります。17年度の歩みがどのようなものになるかは分かりません。ですが、全ては神の導きであり、その神に導きに対して要領よくするのではなく、正しく応えていくことができるように祈って祈り備えていきたいものです。そして、「このような者をも愛し用いてくださる」という見本的な歩みができるようにも祈っていきましょう。


Ⅰコリント4:6~8「自分の分を知る」  17.02.26.

序)
 今私はダニエル書を読んでいます。その中に、バビロニア帝国のネブカデネザル王が人間社会から追い出され、野の獣と共に住み、牛のように草を食べることになる記事が書かれています。それは宮殿の屋上から眺めつつ、「ここまで国が強くなったのは自分の力によるもの」と言ったことに対して、神であられる主が「国はあなたから取り去られた」と告げられたからです。そのように、物事が順調に進みますと「自分の力によって」と錯覚してしまいやすいのが私たちではないでしょうか。そのような錯覚に陥らないようにするのに気をつけることを今朝は共に教えられたいと願っています。

1)高慢にならない
 私たちが気をつける第1は高慢にならないことです。私たちが「高慢」ということばを聞きますと、それは何か偉そぶっている態度や思い上がって人を見下す態度を思い浮かべやすいのではないでしょうか。しかし、聖書に書かれています「高慢」とは、そのようなことではありません。聖書が語る高慢とは、6節の中程に書かれています「書かれていることを越えないこと」です。すなわち、「分を越えない」ということです。では、この6節に書かれています「書かれていること」とは何かと言いますと、それは聖書に記されていることです。では、聖書は何を記しているでしょうか。
 その1つは、人は神によって造られた存在であるということです。神はこの世界を造られたとき、生き物を造られ人を造られました。人は「神のかたちとして」造られた特別な存在ですが、やはり神によって造られた存在であることには変わりありません。人が神によって造られたということは、人を治めているのは神ご自身であるということです。ですから、人は神に従い仕える存在とされているのです。そのことが聖書に記されています。
 2つ目は、人は罪人であるということです。神は人を造られたとき一つの約束を結ばれました。それは「善悪の知識の木の実を食べてはならない」というものでした。しかし、人はサタンの誘惑によってですが、その神との約束を破り、食べてはならない善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。人は神のみことばに従う存在とされているのに、そのみことばに従いませんでした。そのために、罪が人の中に入り神に対して罪ある者となってしまいました。これが聖書が記している2つ目です。
 3つ目は、人は神に対して罪ある者となりましたが、それでも神に愛されている存在であるということです。神に罪を犯してしまった人間を神は見捨てることをされず愛してくださいました。そのことは旧約聖書を見ても明らかです。人は神に何度も何度も逆らい続けました。確かに、神の懲らしめというものはありましたが、それでも神は人を見捨てることをされず導かれました。それは神が人を愛しておられるからです。
 旧約聖書を見ますと、神はイスラエルの民を愛し導かれているように思えたりもします。確かに、焦点はイスラエルの民に合わされています。しかし、神を全く信じていない異邦人をも神は生かしておられ、審くことをされてはいません。それは神を信じていない異邦人をも含み、神によって造られた全ての人を神は愛しておられるからです。人は罪という性質を持っていますが、神によって造られた存在であることには変わりありません。人は神によって造られ、神に愛されている存在なのです。
 そのことは私たちにおいても同じです。私たちも神によって造られた存在であり、神に愛されている存在なのです。私たちはそのことを忘れてしまいますと、自分中心に考えるようになってしまいます。そして、何事においても自分中心に考えやすくなってしまいます。ですが、私たちは神に造られた存在であり、神に愛されている存在です。「自分が何者であるか」をいつも覚えつつ、自分の分をわきまえて歩まされたいものです。

2)誇らないこと
 私たちが気をつける第2は誇らないことです。7節に書かれています「すぐれた者」とは、「区別する」とか「他よりも優れている」という意味を持ったことばです。それは「特別である」ということを意味します。他人より抜き出ている人について「あの人は特別だ」と言ったりします。それがこの「すぐれた者」と訳されていることばです。コリント教会の一部の人たちには特別なものがありました。その特別なものとは何かと言いますと賜物です。コリント教会には、特別な賜物が与えられていた人が多かったのでしょう。そして、その自分に与えられています賜物を他の人の賜物と比較していたのです。
 賜物の比較というのは、「与えられているか与えられていないか」ということだけではありません。「どれほど用いられているか」という比較もあります。用いられ方の頻度によって優劣をつけてしまうこともあります。そして、「よく用いられている人ほど優れている」と判断してしまいやすくなります。ですが、賜物というのは用いられ方の頻度によって優劣がつけられるものではありません。何故なら、賜物は神が必要としてその人に与えられたものだからです。その賜物に優劣をつけるとしたら、それは神が与えられたものに優劣をつけることにもなります。これは間違っています。神が与えてくださるものに優劣をつけることはできません。何故なら、神が与えてくださるものは全てすばらしいものだからです。
 その神が与えてくださる賜物の目的が、Ⅰペテロ4:10~11に「     」と書かれています。賜物の目的は、全てのことにおいてイエス・キリストを通して神が崇められるためです。ですから、コリント教会の問題点は賜物の優劣ではなく、「誰によって与えられたのか」という認識の足りなさだったのです。そのため、よく用いられる賜物を持っている人は自分を誇るようになったのです。しかし、賜物は先程も話しましたように、神がその人に与えてくださったすばらしいものです。その賜物は「どれだけ用いられているのか」で評価されるものではないのです。大切なことは、神が与えてくださった賜物を生かす機会があれば感謝して用いることなのです。
 また逆に、与えられている賜物を用いないことも良くないことです。イエス・キリストは「タラントの譬え話」をされました。各々の能力に応じて、主人はしもべに1タラント・2タラント・5タラントを預けました。2タラントと5タラントを預けられた人は、その預けられたものを用いました。しかし、1タラント預けられた人は、それを用いなかったために主人に叱られ、与えられたタラントを取り上げられてしまいました。この譬え話は、自分に与えられている賜物を感謝して用いることの大切さが話されているものでもあります。
 賜物は神から与えられたものですから、誇ることは良くないことですが、感謝して用いないことも良くないことです。与えられている賜物について、「何のために賜物が自分に与えられているのか」を考え、感謝して用いていく者とされたいものです。「自分が何者であるか」を忘れてしまうとき、与えられている賜物を誇ったり用いなかったりしてしまいます。改めて「自分が何者であるのか」を意識することは大切なことであると知らされるのではないでしょうか。

3)満足しないこと
 私たちが気をつける第3は満足しないことです。8節に書かれています「満ち足りています」とは、充分に食べて満足している状態を表していることばです。では、コリント教会の人たちは、何に充分満足しているのでしょうか。それは救いについてです。彼らはイエス・キリストを信じ、自分たちの罪が赦され神の審きから救われたことを確信していました。そのため「もうこれで充分だ」と捉えてしまったのです。コリント教会の人たちは、「自分たちが信仰のゴールに到達した」と錯覚していたのです。
 そのようなことは、私たちの中にも起こり得ることです。「それはどういうことか」と言いますと、救いの確信を持つまでは熱心に神を求めますが、救いの確信が与えられたら神を求める熱心さが冷めてしまうということです。そのような人たちに対して、神は何と言われているでしょうか。黙示録3:14~18節に「     」と書かれています。ラオデキヤの教会は救いの確信を得たことによって、神への熱心さが冷めてしまったのです。16節の神のみことばはとても厳しいものではないでしょうか。神が求めておられることは、救いの確信が与えられた後も神に対して熱心であることです。
 では、「熱心である」というのはどういうことでしょうか。特に、日本人は熱心であることが「美徳」のように捉えられがちではないでしょうか。確かに、熱心であることはすばらしいことです。ところが、ともすると私たちは自己満足のための熱心さになってしまいやすくなります。自己満足のための熱心とはどういうことかと言いますと、自分の気に入ることや重荷のあることには熱心なのですが、そうではないことに対しては熱心ではないということです。一番危険なことは、そのことに気づかないで「自分は熱心である」と錯覚してしまうことです。
 それはどういうことかと言いますと、ある方が「私は○○の奉仕がしたいのですが」と申し出されたとします。教会としては良いことなので「お願いします」と返事をします。すると、その方はそのことに熱心に奉仕をされます。ところが、別のことをお願いしたとき、それに対しては熱心ではなく忘れてしまうということがなくはないです。そして、自分については「熱心である」と思われてしまうことです。
 これは聖書が語っています熱心さとは違います。聖書の語る熱心さとは、「自分が気に入る」とか「重荷がある」ことではなく、与えられるどのような働きに対しても忠実に仕えるということです。何故なら、その働きは神から与えられたものだからであり、私たちはその神に仕えるしもべだからです。8節のみことばを読みますと、コリント教会の人たちは王になっていたようです。王とは仕える立場ではなく仕えられる立場です。おそらく、コリント教会の人たちはそのようには思っていなかったでしょう。ですが、パウロの目から見たらそうだったのです。彼らは求めていたものが与えられたことによって満足し、自分たちが神のしもべであり仕える存在であることを忘れてしまったのです。
 満足が悪いことではありません。しかし、信仰の満足というのはありません。何故なら、信仰は成長し続けるものとして与えられたものであり、その信仰の成長はこの世を全うするまで続けるものだからです。だからパウロは、信仰の満足に対して警告しているのです。人は肉体的・精神的に成長する存在として造られました。そして、神によって新しく造り変えられた者は、霊的に成長する存在とされているのです。私たちはそのような存在とされているのです。ですから、自分の信仰に満足せず成長することを祈り求めていきたいものです。

結)
 先々週の礼拝で、「キリストに似るとは、神を愛し人を愛すること」と話しました。イエス・キリストは、神を愛し人を愛されました。そのイエス・キリストが来られた目的がマルコ10:45に「     」と書かれています。イエス・キリストが来られた目的は、仕えられるためではなく仕えるためです。このことから神を愛し人を愛するとは、神に仕え人に仕えることでもあると知らされるのではないでしょうか。私たちは、そのイエス・キリストに似ることを目指している者です。そうであるならば、私たちも仕えられることではなく、仕えることを目指す必要があります。それには「自分は神のしもべである」という自分の分を知ることが大切ではないでしょうか。45節の前の44節に「     」と書かれているようにです。キリストに似る者として、神と人を愛し仕え続ける歩みができるように祈っていきたいものです

Ⅰコリント4:1~5「変えられた者として」   17.02.19.

序)
 昨日は、24節季の雨水でした。季節としては雪から雨に変わる時季で、春が近いことを感じさせる時季です。季節も少しずつ変わっていきますが、キリスト者は新しい価値観に生きる者へと変えられた者です。しかしながら、すぐに変わるものでもありません。季節も少しずつ変わるように、キリスト者も少しずつ変えられていくものです。では、その新しい価値観に生きる者へと変えられた歩みをするために気をつける点は何でしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)キリストのしもべ
 新しい価値観に変えられた者が気をつける第1は、キリストのしもべとしての自覚です。1節に書かれています「私たち」とは誰のことでしょうか。それは3章に書かれていました「教会指導者」と捉えることができますし、又は「全てのキリスト者」と捉えることもできます。しかし、6節には「以上私は…言ってきました。」と書かれています。このことから、1節の「私たち」とはパウロとアポロのことを指しており、さらには教会指導者を指していると考えるのが妥当でしょう。パウロは「教会指導者であれ、キリストのしもべの一人に過ぎない」ということを語っているのです。さらに、教会指導者は神の奥義の管理者でもあります。この「管理者」ということばは「家を整える者」という意味で、主人から家のしもべたちの上に立てられ指示する人のことです。言うなれば、しもべたちのリーダー的な存在です。ですから、管理者というのは主人ではなく、主人に仕える存在ですから、しもべの一人なのです。だから、パウロは1節で自分たちのことを「キリストのしもべ」と語っているのです。
 教会指導者は、単なる信者とは違う特別な存在のように受け取られやすいのですが、決してそうではありません。教会指導者もキリストのしもべの一人であり、キリストに仕える存在であり、決して特別な存在ではありません。教会員の一人に過ぎないのです。これがバプテスト教会の特徴の一つと言いましょうか、会衆派教会の特徴の一つです。ただ任されています働きが違うだけのことです。そして、イエス・キリストを信じる全ての人も「キリストのしもべ」とされています。ここに集っておられます一人ひとりもキリストのしもべなのです。私たちはキリストに仕える者、神に仕える者として立てられているのです。
 私たちは牧師や宣教師という教会指導者を正しく理解する必要があります。そうでないと、牧師や宣教師を特別な存在のように捉えてしまいやすくなります。スポーツで言うならば、牧師が監督で、教会役員がコーチで、他の教会員が選手のように捉えてしまいます。しかし、そうではありません。監督は神ご自身なのです。そして、牧師は選手の中のキャプテンなのです。ですから、一人の選手に過ぎないのです。そのことを正しく理解していないと、牧師や宣教師などの直接献身した人を特別視してしまいやすくなります。
 ですが、そちらの方にあまりにも固執してしまいますと、偏ったものになってしまいます。それは教会指導者を同じレベルに置いてしまい、誰が教会指導者であるかが分からなくなるというものです。確かに教会指導者もキリストのしもべの一人ですが、神から特別な働きを委ねられているのです。管理者とは「家を整える者」という意味ですから、その働きが委ねられているのです。ですから、教会指導者は「教会を整える者」として立てられているのです。スポーツでは、キャプテンが選手をまとめて同じ目標に向けて進ませていくのと同じように、教会指導者は教会員をまもとめて同じ目標に進ませていく働きが委ねられているのです。そのことを正しく理解していないと、年齢的なことや信仰年数で教会指導者を評価してしまいやすくなります。教会指導者も教会員も同じキリストのしもべであり、ただ神から委ねられている働きが違うだけなのです。私たちの教会がそのことについて正しい理解を持った群れとして歩まされたいものです。

2)忠実であること
 新しい価値観に変えられた者が気をつける第2は忠実であることです。パウロは2節で「     」と語っています。先程、管理者である教会指導者も教会員も同じキリストのしもべであることを見ました。そのキリストのしもべである教会指導者に忠実さが求められているとしたら、同じキリストのしもべである教会員にも忠実さが求められているということです。すなわち、神を信じる全ての人には忠実さが求められているのです。
 ここで注目したいことがあります。それは「良い結果を出すことが求められているのではない」ということです。あくまでも忠実であることが求められているのであって、良い結果を出すことを求められているのではないのです。先週も触れましたが、私たちは結果を気にしてしまいます。良い結果が出れば喜びますし、良くない結果が出たときは心が沈んでしまいます。そのようなことが悪いわけではありません。何故なら、私たちはそのような者だからです。しかし、そのような結果に拘ることから解放されているのが、新しい価値観の中に生かされている者です。
 では、「忠実である」というのはどういうことでしょうか。私たちが思い浮かべやすい忠実というのは、「与えられている責任をきちんと果たすこと」と捉えやすいのではないでしょうか。そのような捉え方は間違いではありません。しかし、聖書が語っています「忠実」とは、さらに踏み込んだものです。何故なら、聖書に書かれています「忠実」ということばは、「信頼する」という意味のことばだからです。ある面、「信仰」と似ています。私たちは「神は最善の時に最善の方法をもって事を行ってくださる」と信じていますし、「全てのことを働かせて益としてくださる」とも信じています。そして、全てを神に委ねています。この「全てを神に委ねている」というのは、自分の用いられ方や結果を全て神に委ねているということです。ですから、「どのような方法で用いられようとも、どのような結果が出ようとも、それが神にとって最善のことであり、そのことを通して神は益としてくださる」と信じることです。
 そのことを信じて、自分に与えられている務めをきちんと果たしていくことが、聖書の語っている「忠実」なのです。私たちは与えられている務めを忠実に果たした後、願っていた結果が出なかったとき、「何故神はこのような結果を出されたのか」とつぶやいてしまうなら、それは聖書が語っている忠実さではないのです。私たちは、ついついそのようなことをつぶやいてしまいやすい者です。「こんなに一生懸命しているのに何故」と。ですが、パウロはピリピ2:14で「     」と語っています。私たちはそのようなことを聞いても、ついついつぶやいてしまいます。何度も話していますが、「分かったらできる」というものではありません。ですが、つぶやいてしまったとき、このことを思い出していただきたいのです。聖書の語る忠実さとは、結果がどうであれ神は全てを働かせて益としてくださることを信じ、与えられている務めに責任をもって果たしていくことです。私たちがそのような者として歩み続けられるように祈っていきたいものです。

3)審かないこと
 新しい価値観に変えられた者が気をつける第3は審かないことです。審くとは決めつけることです。私たちは他人に対して「あの人はこういう人だ」と決めつけてしまいやすいですし、自分自身についても「私はこうだ」と決めつけてしまいやすいのではないでしょうか。そのことは私自身もしてしまうことです。ですが、この決めつけは結果を見ての判断です。しかし、神は結果を見て判断される方ではありません。もしそうでしたら、私たちは神から良い評価を受けることはできません。何故なら、私たちは弱く失敗を繰り返してしまうからです。
 神が結果を見て判断される方ではないのは、旧約聖書を見ても明らかです。旧約聖書の登場人物は失敗の繰り返しでした。イスラエルの民もそうでした。彼らはエジプトから出て荒野での生活の中で、神に不満ばかりをつぶやいていました。確かに神の懲らしめを受けはしましたが、約束の地であるカナンの地に導き入れられました。ヨシュアの後の時代は、偶像崇拝をし他国人に支配されたりもしましたが、神に祈り求めたとき神は救い出してくださいました。王朝時代も神はイスラエルの民を導かれました。そして、イスラエルの中からイエス・キリストが誕生されました。また、個人的にはアブラハム・モーセ・ダビデなどもそうでした。彼らは失敗を繰り返しましたが、その所泥子で神は彼らを助け導かれました。むしろ、そのような者と共にいてくださいました。何故なら、神は結果で決められる方ではないからです。私たちは結果ですぐに決めつけてしまいやすいですが、神は結果で決められはされません。神はご自身が選ばれた者に全力をもって愛し続けてくださる方なのです。私たちは、その神の愛を受けているのです。
 だから、パウロは5節で「先走ったことをしてはいけません。」と語っているのです。この「先走った」ということばは、「時の前に」という意味です。それは、神が来られる前のことを表しています。これは、3節に書かれています「人間による判決」と対比されています。この「人間による判決」とは、直訳しますと「人の日による判決」ということで、人が判決する時のことを表しています。ですが、審きというのは人の時ではなく、神の時になされるものであり中心は神ご自身なのです。
 神は、ご自身が選ばれた者を愛し続け共にいてくださいます。そのような人を私たち人間が審いてはいけないのです。それは自分自身をも含めてです。だから、パウロは3節の後半で「私は…さえしません。」と語っているのです。それは4節にも書かれていますように、パウロ自身にやましいことが少しもないということではなく、神に愛され神が共にいてくださる存在だからです。何故なら、神はパウロを「聖なる者」とされました。以前にも話しましたが、聖書に書かれています「聖」とは「区別する」という意味です。汚れたものの中から選び出して区別することを表しています。ですから、「聖なる者」とは神に選ばれた者なのです。そして、私たちも神から「聖なる者」とされているのです。神は私たちを選んでくださったのです。ですから、私たちも神の愛を受けている存在なのです。そのような自分を結果などで決めつけることは間違っているのです。それよりも、そのような自分が神に愛され神が共にいてくださっていることに感謝することの方が大切なのです。

結)
 私たちは新しい価値観に変えられた者です。しかしながら、そのことを忘れてしまいやすい者でもあります。私たちが新しく変えられたことを覚え、キリストのしもべとして歩み、与えられている務めを忠実に果たし、人を審くのではなく受け入れる者とされるように祈っていきたいものです

Ⅰコリント3:18~23「新しい価値観で生きる」 17.02.12.

序)
 今年の新年礼拝で「新しい」という漢字について触れました。「新しい」というのは気持ちの良いものですが、期待と不安を抱くこともあります。特に卒業を控え、新しい歩みをされる方はそうではないでしょうか。イエス・キリストを信じる人は、新しい価値観で生きる者と変えられました。では、新しい価値観で生きるとはどういうことでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)愚かになる
新しい価値観で生きる第1は、18節の最後に書かれていますように、この世から見て愚かになることです。この「愚かになる」とはどういうことかと言いますと、「自分を捨てる」ということです。では、「自分を捨てる」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストはマルコ8:34で「     」と話されました。事実、イエス・キリストが弟子たちを呼び寄せられたとき、弟子たちはどうしたでしょうか。マルコ1:17~18には「     」と書かれています。また、20節には「     」と書かれています。弟子たちは自分の持っているものや家族を置いて、イエス・キリストに言われるままに着いて行ったのです。ですから、「自分を捨てる」とは、「自分の考え方を持たない」ということでしょうか。「思考能力をなくして、ただ言われることだけを忠実に果たしていく」ということでしょうか。実は、そうではありません。
 「着いて行く」というのは、自分の前に誰かがいることを表しています。着いて行く側は、その先のことを相手に委ねています。そこには自分の判断はありません。ですが、何を委ねているのかと言いますと、目的地に着くことを委ねているのです。しかし、その目的地に安全につくためには注意を払います。例えば、車で着いて行くとき、その目的地に着くまでの運転は様々なことに注意を払います。その注意は目的地に無事に着くためのものです。「イエス・キリストに着いて行く」というのも同じです。私たちが目指している所は、「キリストに似る」というものです。「キリストに似る」とは、神を愛し人を愛し続けることです。私たちはそのような者となるために立てられているのです。そのような者として歩み続けるためには、やはり自分で考えるというのは必要なことです。先々週の礼拝でも話しましたように、キリストに似る者となるためにイエス・キリストを土台としますが、その土台の上に建てる建て方は一人ひとり異なります。そこには自分の設計図が必要です。ですから、「自分を捨てる」というのは「結果は神に委ねますが、それまでの過程は自分で考える」ということです。それは、神を愛し人を愛し続けるという目標に達するために、今まで得てきたものを用いるということです。今まで自分のためにそれらを用いてきましたが、これからも神を愛し人を愛し続けるために用いるということです。これが「自分を捨てる」ということです。
 また、着いて行くというのは、そこには案内者が共にいることを表してもいます。イエス・キリストが「わたしに着いてきなさい」と言われたとき、そこにはイエス・キリストが共にいてくださることをも表しています。イエス・キリストが共にいてくださるのですから、これから生じる全ての出来事に対して、イエス・キリストが守ってくださるのです。私たちがイエス・キリストに着いていくことを決心したのなら、イエス・キリストがいつも私たちと共にいてくださっているのです。確かに、不安や恐れを抱いてしまうことがあるかもしれません。そのような状況の中に陥ったとしても、イエス・キリストが共にいて助けてくださいます。何故なら、「わたしに着いてきなさい」ということばの中には、そのことが含まれているからです。
 パウロは、コリント教会の人たちに「愚かになりなさい」と伝えました。それは、イエス・キリストが譬え話で話された金持ちのように、コリント教会の人たちがなっているからです。あの愚かな金持ちは、穀物が沢山獲れたことに満足して、倉庫を増やし、自分の魂に「安心して食べて飲んで楽しめ」と言いました。彼が得たものを自分のために用いようとしたのです。しかし、神は「愚か者。お前の魂は今夜お前から取り去られる。そうしたら、お前が用意した物は、一体誰のものになるのか。」と彼に言われました。そして、イエス・キリストは「自分のために蓄えても、神の前に富まない者はこの通りです。」と話されました。パウロが語っています「愚かになりなさい」とは、「愚かな金持ちのようになりなさい」というのではなく、この世から見れば愚かに見えるかもしれませんが、今まで得たものを神のために用いるということです。それによって、神はその人を祝福してくださいます。何故なら、神が共にいて守り導いてくださるからです。新しい価値観で生きる第1は、この世から見て愚かになることです。

2)神を誇る
 新しい価値観で生きる第2は、神を誇ることです。パウロは21節で「だれも人間を誇ってはいけません。」と語っています。これは文字通り「人を誇ってはならない」ということではありません。人間は神によって造られた被造物です。ですから、人間を誇るというのは「ある特定の被造物を誇る」ということです。それは人によっては、人間かもしれませんし社会的地位かもしれません。或いはお金かもしれませんし学歴かもしれません。パウロは「そのようなものを誇ってはならない」と語っているのです。そのようなものに囚われるのではなく、私たちを導いてくださっている神に目を留め、その神を誇ることを私たちに求めているのです。その理由が21節の後半に書かれています。新改訳聖書には書かれていませんが、元々のことばには「何故なら」ということばが書かれています。特定のものを誇ってはならない理由は、「すべてはあなたがたのものだから」というのです。この「あなたがた」とは、神を信じる者のことを指しています。全ては、神を信じる者に与えられたものなのです。22節に「     」と書かれています。教会指導者であれ、命であれ、死であれ、現在であれ、未来のものであれ、どれも神を信じる者を支配することはできないのです。支配するとは「こだわる」ということです。ここには書かれていませんが、過去においてもそうです。ある方は「今まで私は○○だったからダメです」ということばを使われます。しかし、神を信じる者は全てのことにこだわることから解放されているのです。ですから、「今までこうだったから、これからもそうだろう」という考え方からも解放されているのです。何故なら、そこに神が働いてくださることを信じているからです。
 神は私たちの理解を越えた大いなる方です。あらゆるものを用いて私たちを導いてくださいます。今までもそうだったのではないでしょうか。様々な人との出会いがありました。その人との出会いは、全て自分にとって喜ばしい人ばかりではなかったと思います。傷つけられたこともあったでしょう。しかし、神はそのような私たちを御存知であられ、ここまで導いてくださったのです。ですから、私たちが誇るものは私たちの全てを御存知であり導いてくださっている神なのです。
 Ⅰコリント1:31で、パウロは旧約聖書を引用しつつ「誇る者は主を誇れ」と語っています。また、ガラテヤ6:14では「イエス・キリストの十字架以外に誇りとなるものが決してあってはなりません。」と語っています。何度も語っていますが、イエス・キリストの十字架は罪の赦しだけではありません。もしそうであるなら、「イエス・キリストの十字架以外に感謝するものが決してあってはなりません。」と書かれていたことでしょう。しかし、ここでは「誇りとなるものが決してあってはならない」と書かれているのです。それは、イエス・キリストの十字架によって生き方が変えられたからです。イエス・キリストの十字架を信じる前までは、過去の自分のこだわりや将来に対する不安によって、被造物に頼った生き方をしていました。しかし、イエス・キリストの十字架を信じることによって、それらのものから解放された生き方へと変えられたのです。イエス・キリストの十字架は、私たちの生き方を変えることのできる大いなるものなのです。だからこそ、イエス・キリストの十字架以外に誇りとなるものが決してあってはならないのです。私たちが誇るものは、私たち一人ひとりを導いてくださっている神ご自身です。これが新しい価値観で生きることの第2です。

3)キリストのもの
 新しい価値観で生きる第3は、「キリストのものである」という捉え方です。パウロは21~22節を通して、被造物の全ては私たちが本来の人として望みをもって歩むことができるために与えられたものであることを語りました。神は私たちのために、あらゆるものを備えてくださっていますし、あらゆるものを用いてくださいます。何故そこまでしてくださるのでしょうか。それは23節に書かれていますように、私たちがキリストのものだからです。
 では、「キリストのもの」とはどういうことでしょうか。1つは所有権を表しています。私たちは「私のものは私のもの」という捉え方をしています。最近は交通事故死の方が少なくなっており、昨年は67年ぶりに4千人を下回りました。また、自殺される方も減少しつつあり、5年前までは3万人以上の方々が亡くなっておられましたが、1昨年は約2万5千人の方々が亡くなられています。これは交通事故死の6倍以上の数字です。自殺される方の理由は様々でしょう。「全員」とは言いませんが、そこには「自分の命は自分のもの」という捉え方をされている方が多いのではないでしょうか。しかし、聖書は「私たちの身体も命も私たちのものではなくキリストのものである」と語っています。私たちの身体も命も神から与えられたものです。「与えられた」というよりも、「預けられたもの」と言って方が正しいかもしれません。ですから、自殺や自虐行為はしてはいけないことです。私たちは、自分の命や身体を大切に扱う必要があります。何故なら、私たちの命や身体の所有者は神だからです。
 「キリストのもの」ということの1つは所有権ですが、もう1つは従属性を表しています。私たちの命や身体が神のものであるならば、その命や身体は神のために用いられる者であり、神に従うものでもあります。そのようなことは分かっているのですが、ついつい自分のことを優先させてしまうのが私たちではないでしょうか。「それを治しなさい」と言われて、「はい治します」と言ってすぐにできるものではありません。分かっているけれども、なかなかできないのが私たちではないでしょうか。そのような私たちが、さらに神に従い用いられる器とされるにはどうすれば良いのでしょうか。その1つは、今までの神の導きを思い巡らすことです。私たちの弱さを御存知の上で、神は私たちを愛し導いてくださいました。ここに至るまでは様々なことがあったと思います。しかし、神は最善を尽くして導いてくださったのは確かなことです。その神の導きを思い巡らすのは大切なことです。もう1つは祈ることです。今までの神の導きを主巡らすとき、私たちの内に出てくるものは神への感謝です。その神に感謝するのは大切なことですが、それと同じように「その神に従うことができますように」という祈りも大切なことです。何故なら、私たちの命も身体も神に従うものとして与えられているからです。
 「キリストのもの」ということの最後は、全ての責任は神が負ってくださるということです。毎月聖書通読と教会活動表を出していますが、先月の通読の聖書箇所はエレミヤ書でした。エレミヤという人は、南ユダ王国が滅ぼされる前に神から遣わされた預言者でした。彼は南ユダ王国の人々に「罪を悔い改めて主に立ち返るように」と訴え続けました。しかしながら、結果としては主に立ち返ることはしませんでした。そのために、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。エレミヤが派遣された目的の結果から見れば、エレミヤの働きは成功しなかったように見えます。しかし、神の目から見ればそうではありません。何故なら、エレミヤは最後まで神に従い続けたからです。結果は大切なことですが、その結果よりももっと大切なことは過程です。「神に対してどのように歩んだか」が何よりも大切なのです。そして、結果は神が負ってくださるのです。エレミヤの働きは成果を見ることはできませんでしたが、その結果は全て神が負ってくださったのです。それは私たちの歩みにおいても同じです。結果は全て神が負ってくださるのです。「キリストのものとされている」とは、そういうことでもあるのです。

結)
 聖書の価値観は、この世の価値観とは全く違ったものです。この世の価値観は、「より良い結果を出すものほど価値がある」というものです。あくまでも結果主義です。しかし、聖書の価値観は結果ではなく過程です。私たちを造り、私たちを生かし、私たちを用いてくださる神に対してどうであるかです。それは、この世から見れば愚かなことのように見えることでしょう。しかし、たとえ「愚かなこと」と周りから言われようが、私たちを新しく造り変え、私たちに新しい生き方を与えてくださった神を誇り、その神に忠実に従う者として歩み続けられるように祈っていきたいものです

Ⅰコリント3:16~17「教会は神の神殿」  17.02.05.

序)
 先月の9日に、私たちの教会が属していますJBCのユース冬集会が伊勢教会にて行われました。そのユースで午前の集会のメッセンジャーとして奉仕させていただきました。そして、午後からは伊勢神宮見学というツアーが行われ、伊勢教会の谷口先生が外宮の中を案内し説明してくださいました。そのとき、外宮の本殿で参拝される方の中に祈願をされる方がおられるが、「本殿は参拝する所であって祈願する所ではない」と話され、「別の多賀宮(たかのみや)という所が祈願する所である」と説明してくださいました。そのことを知らずに参拝されている方が多いらしいのです。また、神社は好きな時間に参拝することができます。では、キリスト教はどうなのでしょうか。聖書を見ますと、教会の前身は会堂であり、会堂の前身は神殿でした。ですから、教会は神の神殿ということができます。今朝は、その神の神殿について共に教えられたいと願っています。

1)神殿の意味
 まず、聖書が語る神の神殿とは何でしょうか。一つは公同の教会です。公同の教会とは、イエス・キリストを信じる教会は同じ一つの教会であるという意味です。それで、神の神殿とは公同の教会という捉え方があります。もう一つは、キリスト者個人という捉え方です。そして、最後は地域教会という捉え方です。これら3つの捉え方があるのですが、今朝の箇所で言われています神の神殿とは地域教会のことです。「何故そのように言えるのか」と言いますと、16節の「あなたがた」ということばはコリント教会の人々のことを指しているからです。「あなたがた」ということばは複数形です。しかしながら、「神の神殿」とは単数形で書かれています。すなわち、複数の人が集まって一つの神殿が形成されていることを表しています。そのことから、ここで書かれています「神の神殿」とは、地域教会のことを指していると理解するのが自然です。
 では、地域教会が神の神殿であるとは、どういうことなのでしょうか。それを知るには、神殿の前身である幕屋の性質を知る必要があります。出エジプト記29:42~46に「     」と書かれています。ここに書かれています「会見」ということばに注目したいのです。会見とは「時間を指定して会う」とか「集まる」という意味です。ですから、日本人がよく神社に行ってお参りしますが、それとは意味が違ってきます。何故なら、日本で行われています神社参拝は、時間を指定してお参りするのではなく、参拝者の好きな時間に行ってお参りする方法だからです。ですが、「会見の天幕」はそうではありません。神と人とが約束の時間に、約束の場所で会う所を意味しているのです。ですから、好きな時間に好きな場所で神に全焼のいけにえを献げることはできないのです。
 申命記12章には、神を礼拝する場所について記されています。ここには「選ぶ場所」ということばが繰り返し書かれています。繰り返し書かれているのは強調しているからです。ですから、神が選ばれた場所で神を礼拝することを神は求めておられるのです。そのような意味で、教会も会見の天幕であり神殿なのです。何故なら、全焼のいけにえは神への礼拝をも意味していたからです。神への礼拝は、好きな時間に好きな場所で行われるものではありません。神と人が約束の時間に約束の場所で会うときなのです。ですから、礼拝は決められた時間に決められた場所で行われるものです。ただ誤解しないでいただきたいのですが、「一つの教会以外には何処にも行ってはならない」ということではありません。一つの教会に根をおろすということです。私たちが毎週日曜日に執り行っています礼拝は、神と人とが会う時なのです。そして、教会はその会見の場なのです。そのことを正しく理解していないと、「礼拝は集うことが大切であり遅れても良い」という捉え方になってしまいます。ですが、礼拝は神と私たちがお会いする約束の時間なのです。そして、教会は神と人とが会う神が選ばれた場所なのです。そのことを正しく理解し、教会に集う者とさせられたいものです。そのようなことからして、教会は神の神殿なのです。

2)神殿の性質
 では、その神殿はどのようなものでしょうか。第1は、神の御霊が宿る所です。出エジプト記25:8に「     」と書かれています。神はイスラエルの民に幕屋を造ることを命じられました。そして、その造られた幕屋に「住む」と言われました。すなわち、神殿は神が住んでおられる所です。神が住んでおられる所ですから、当然その主人は神ご自身であり、神が中心となられている所です。神が中心の所となりますと、それは神の国でもあります。そのことから、教会は神の国ということができます。この教会も神の国なのです。何故なら、神が中心となっておられる所が神の国であるなら、教会の中心も神ご自身ですから神の国なのです。
 教会が神の国ですから、毎主日集まって共に神を礼拝しているのです。何故なら、神の国の中心行事は天の御国にいる者が共に神を礼拝することだからです。神に罪が赦されていない人は天の御国に入ることができませんから、神を礼拝することはできません。本当の意味で神を礼拝することのできるのは、神によって罪が赦された人だけなのです。ですから、本来私たちは神を礼拝することのできない者だったのです。しかし、今私たちは共に集まり心から神を礼拝しています。それは、自分の罪が神によって赦されたことへの感謝と喜びをもっているからです。その感謝と喜びが霊とまことによる礼拝なのです。ですから、主日礼拝というのは「私たちがやがて入ります天の御国で行われている礼拝の先取りをしている」と言っても過言ではないのです。
 ある方は「別に教会に行かなくても、自分の家で個人的に神を礼拝していれば良いのではないか」と思われるかもしれません。事実、私がそうだったのです。しかし、それが間違いであったことに気づかされました。そして、再び教会に行くようになりました。日曜日に教会に行き、共に集まって神を礼拝するのは、天の御国で行われている礼拝がそのような礼拝だからです。教会は神の御霊が宿る神の国なのです。
 第2に、神殿とは聖なる所です。この「聖」とは、「区別された」とか「選び分けられた」という意味です。ですから、それは自然に分かれたというものではなく、誰かによって意図的に分けられたことを表しています。意図的に分けられたということは、そこには何らかの目的があることをも意味します。しかも、その分けたのは誰かと言いますと神ご自身です。ですから、教会は神が目的をもってこの世と区別された所ということができます。その目的は何かと言いますと、神を自分の神として共に集まり礼拝することです。そのために、神は私たちをこの世から選び分けられたのです。そして、罪に汚れた者を愛し赦してくださる神を一人でも多くの人が信じ、自分の罪が赦されたことに感謝し喜びをもって私たちと共に神を礼拝する者となるために福音を伝えているのです。伝道の目的は人の罪の赦しではなく、罪が赦された人が感謝と喜びをもって共に集まって神を礼拝するためです。
 私たちは「聖」と聞きますと、品行方正な歩みと言いましょうか聖く正しい生活をすることを思い浮かべやすいのではないでしょうか。確かにそれらは大切なことです。しかし、聖く正しい生活をされている人は、神を信じていない人の中にも大勢おられます。ある方は、「何故そのような人が罪人と定められるのか」と思われたりもされます。でも、それは人の目から見たものであって、神の目から見れば聖くないからです。神の目から見た聖さというのは、神によって罪が赦されたことに感謝と喜びをもって共に集まって神を礼拝することだからです。そして、教会はそのような所なのです。
 なのに、それを壊そうとすることに神は容赦されません。17節の「こわす」というのは意図的行為を表しています。ですから、弱さや何らかの都合によって教会に集うことをやめた人のことではありません。教会は共に集まって神を礼拝する所であるのに、そこに集まる人々を別れさせようとする働きに対して言われているのです。何故なら、神はその人をこの世から選び分けられ、その教会に送り出しておられるからです。なのに、それを壊そうとする働きは決して赦されるものではありません。そのようなことからも、教会は神の神殿なのです。

3)神殿に属する人
 パウロは、教会を「神の神殿」と語っています。何故なら、教会は神の御霊が宿っておられる所であり、神に罪が赦された人たちが共に集まって礼拝する所だからです。そのことを語った後、パウロは17節の最後で「あなたがたがその神殿です。」と語っています。厳密に言えば、「神殿」ということばは書かれていません。「あなたがたはそのような類のものです。」と書かれています。その類のものとは何かと言いますと神殿のことです。すなわち、キリスト者も神の神殿と同じ性質を持っている存在であるということです。
 それはどういうことかと言いますと、教会は神の御霊が宿っておられる所です。キリスト者もそれと同じ性質を持っている存在ですから、キリスト者の中にも神の御霊が宿っておられるということです。神を信じる一人ひとりの中に、神の御霊が宿っておられるのです。それは神の御霊が住んでおられるということです。キリスト者の中に神の御霊が住んでおられるということは、キリスト者個人の中にも神の国がなされているということです。そのようなことから、教会が神の国であるならキリスト者個人も神の国なのです。
 私たちは毎主日の礼拝で主の祈りを唱えています。今朝の礼拝でも唱えました。その主の祈りの中に「御国を来たらせたまえ。」とあります。これは「御国が来ますように」という意味です。何処に御国が来ることを唱えているのでしょうか。その御国について、イエス・キリストは何と話されたでしょうか。ルカ11:20の最後で「神の国は…あるのです。」と話されています。神の国は、すでにキリスト者の中に建てられているのです。では、何故「御国が来ますように。」と唱えるのでしょうか。実は、ルカ21:31では「     」と話されています。ここでは、まだ神の国が来ていないことが示されています。
 これらは何を意味しているかと言いますと、神の国はすでに来ていますが、まだ完成されていないということです。先程も話しましたように、神の国の中心行事は礼拝です。神を信じる私たちは神を礼拝していますが、全ての人が神を礼拝しているわけではありません。神を礼拝されていない人が多いのです。この「御国が来ますように。」とは、「さらに神を礼拝する人が広がるように」という祈りでもあるのです。私たちが神を礼拝する者とされているということは、私たちの中に神の国がなされているからです。私たちの中に神の国がなされているということは、私たちの中に神が住んでおられるということです。ですから、キリスト者は神殿に属する人なのです。

結)
 聖書が語る神殿とは、単なる建物のことではありません。神が住んでおられ、神を礼拝する所が聖書の語っている神殿です。私たちが神を礼拝する者とされているということは、神が私たちの中に住んでおられるということです。その神とお会いするために、私たちは何かを準備したでしょうか。いいえ、何もしていません。神が私たちとお会いするために、神が様々な準備をしてくださったのです。私たちを造られたのもそうですし、イエス・キリストの十字架と復活もそうです。また教会もそうです。全ては私たちが神とお会いするために、神が備えてくださったのです。そのことを覚えつつ、これからも共に神を礼拝する者として歩み続けられるように祈っていきましょう

Ⅰコリント3:10~15「信仰の三要素」  17.01.29.

序)
 昨年のクリスマスの時季は、イルミネーションのクリスマス人形を駐車場に飾りました。そのために上岡姉と松山姉のご主人によって、小屋を作っていただきました。その小屋を作る前に、松山姉のご主人が設計図を作成してくださいました。その設計図は、細かく書かれており驚いたのを覚えています。物作りにおいて欠かすことのできないものは完成図や設計図、そして材料や道具です。それと同じように、信仰の成長にも欠かすことのできないものがあります。今朝は、その信仰の成長において欠かすことのできない三要素を共に教えられたいと願っています。

1)土台
 信仰の三要素の一つ目は信仰の土台です。私たちは何をするにおいても、まず基本的なことから始めます。何故なら、基本は何よりも大切だからです。何故基本的なことから始めるのかと言いますと、基本的なことを身に着けていれば、そこから応用を利かすことができるからです。ところが、基本的なことを身に着けずに、応用から始めますと行き詰まったときに元に戻ることができません。それは信仰においても同じです。信仰にも基本的なことが大切です。その基本的なことというのは土台です。信仰の土台として何を据えるかによって、その人の生き方は違ってきます。
 神を信じる者の信仰の土台となるのはイエス・キリストです。何故イエス・キリストが信仰の土台となるのでしょうか。その第1は、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったからです。本来、人は神によって「聖い者」として造られました。ところが、人は神との約束を破ったがために、罪が人の中に入り「汚れた者」となってしまいました。神は聖い方ですから、罪の汚れを何よりも嫌われ審かれます。ですが、神はご自身が造られた私たちを愛してくださっています。汚れた私たちを愛してくださっていますが、罪の汚れを持ったまま受け入れることはできません。そのために、私たちの身代わりなって神の審きを受けられるために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださいました。人はそのイエス・キリストの十字架による死を通して、神の愛と神の赦しを受けることができるのです。ですから、イエス・キリストは信仰の土台なのです。
 イエス・キリストが信仰の土台であることの第2は、イエス・キリストは死なれただけでなく、その死から3日目に甦られたからです。イエス・キリストの甦りは、人に希望を与えるものです。何度も話していますが、人にとって死よりも絶望的なものではありません。ですが、その死からイエス・キリストが甦られたということは、死は人にとって絶望的なものではないということです。そして、それは私たちが生きている中で経験します様々な事柄に対しても絶望的なものではないということです。絶望的に思える事柄に対しても希望があるのです。イエス・キリストの甦りは、私たちに生きる希望を与えるものです。
 イエス・キリストが信仰の土台であることの第3は、イエス・キリストは甦られただけでなく、信じる者といつも共にいてくださるからです。イエス・キリストが十字架に架かれたのは、父なる神に従ったからというよりも、私たちを愛してくださっていたからです。その私たちを愛してくださっているイエス・キリストは、いつも信じる者と共にいてくださいます。イエス・キリストがいつも共にいてくださるということは、私たちの日々の生活の中で経験します様々な事柄に対して、慰め励まし生きる力を与えてくださるということです。
 イエス・キリストは、私たちの罪を赦し聖めてくださり、私たちに生きる希望を与えてくださり、私たちに生きる力を与えてくださいます。だから、私たちはそのイエス・キリストを信じ、信仰の土台としているのです。

2)信仰の設計図
 信仰の三要素の2つ目は信仰の設計図です。イエス・キリストを信仰の土台とすることは何よりも大切なことです。ですが、「そのイエス・キリストを信仰の土台としたらそれで良い」というものでもありません。私たちは何かを作るとき完成図を思い描きます。そして、その完成図に到達するために作り方を考えるのではないでしょうか。料理でしたらレシピが必要でしょうし、建物でしたら設計図が必要です。それと同じように、信仰にも設計図が必要です。何故なら、信仰は成長するものとして与えられているからです。ですから、どのような者として成長するのかという完成図が必要です。その完成図とは、イエス・キリストに似る者です。ですが、どのようにしたらイエス・キリストに似る者となるのかという設計図も必要です。
 設計図には、何処に何を据え、何処に何を作るのかが書かれています。料理にしてもそうです。レシピには、何をどのようにするのかが書かれています。そのことは信仰においてもそうです。その信仰の設計図は誰が描くのでしょうか。10節でパウロは「     」と語っています。パウロは「自分は土台を据え、他の人がその土台の上に家を建てています。」と語っています。この「他の人」とは誰のことでしょうか。3つのことが頭に浮かびます。1つはアポロです。ですが、ここには「建てています」と現在形で書かれています。もしアポロなら「建てました」という過去形が用いられたことでしょう。ですから、アポロではないことが分かります。次に浮かぶのは教会指導者です。ところが、10節の最後の方に「それぞれが」と書かれています。この「それぞれが」とは誰を指しているのかと言いますと、9節に書かれています「あなたがた」です。この9節の「あなたがた」とは教会指導者のことではなく、コリント教会に集う一人ひとりのことです。ですから、信仰の土台の上に建てる人とは教会員一人ひとりのことです。そのようなことから、信仰の設計図は神を信じる一人ひとりが描くものであるということです。すなわち、「自分がイエス・キリストに似る者となるために、どのようにしてなるのか」を自分自身で描く必要があるのです。何故なら、信仰は人から押しつけられて持つものではないからです。確かに、背後には神の導きがありますが、その神は一人ひとりの決断を尊重されるからです。
 また、自分自身で描く必要があるのは、一人ひとり置かれている状況が違うからです。全ての人が同じ経験をされるのではありません。与えられています賜物が違いますから用いられ方も違ってきますし、置かれている環境が違いますから歩み方も違ってきます。一人ひとりの信仰生活は違っているのです。それは同じ家族においてもそうではないでしょうか。「家族だから賜物も環境も接する人も全て同じ」というわけではありません。一人ひとり違います。そのような中で一人の社会人として学生として、取り組んでおられるのではないでしょうか。ですから、一人ひとりが自分の信仰の設計図を描くことは大切なことです。料理にしろ建物にしろレシピや設計図がなければ、とんでもないものが造られてしまいます。もし、信仰の設計図を持たなければ、せっかく神から与えられた信仰もとんでもないものへとなってしまいます。そうならないためにも、信仰の設計図を作りたいものです。

3)信仰の材料
 信仰の三要素の3つ目は信仰の材料です。12節に書かれています「金、銀、宝石、木、草、わら」などは信仰の材料を表しています。13節には「その日」と書かれています。この「その日」とは何時のことかと言いますと、大きく2つの立場があります。1つは「試練」と理解する立場です。もう1つは「神の審きの日」と理解する立場です。この箇所をよく読みますと、火が現れるのは何時かと言いますと、建物が完成した後のことです。すなわち、信仰の建築の完成した後のことです。そのことから、この「その日」とは神の審きの日のことを表していると考えられます。ここでパウロは、質の良い信仰を築き上げることを勧めていると理解できます。
 12節には6つの材料が書かれています。これら一つひとつには意味はないと思われますが、大きく2つのグループに分けることができます。それは金・銀・宝石のグループと、木・草・わらのグループです。どちらも家が建てられ完成します。外見的には、どちらもすばらしい建物に見えます。しかし、火事があったとき木や草やわらで建てられた家は全てが焼き崩れてしまいます。しかし、金や銀や宝石で建てられた家は、黒焦げになるかもしれませんが焼き崩れることはありません。15節の最後に「自分自身は…助かります。」と書かれています。神の審きの日に助かるのです。
 では、その信仰の材料とは何でしょうか。私たちはイエス・キリストを土台として、その上に信仰という家を建てます。信仰とは「信じて仰ぐ」と書きます。信じて仰ぐのは、それに信頼を寄せているからです。ですから、信頼を寄せるものがその建物の材料となるのです。そして、金・銀・宝石は神のみことばですし、木・草・わらは自分の思いです。私たちは「神を信じる信仰が与えられたら、完全に神のみことばに信頼を寄せて歩めるか」と言えばそうではありません。神を信じる信仰が与えられても、自分の思いを優先させてしまいやすい者ではないでしょうか。自分や家族の将来のことを考えますと、様々なものが必要であることが分かります。そのような中で、時には不安を覚えることもあります。何度も話していますが、不安を抱くのが悪いことではありません。私たちはそのような者なのです。ただ、不安を抱いた後どうするかが大切なのです。不安を抱いて目の前のものに頼ろうとするのか、それとも目には見えませんが確かに働いておられる神に頼ろうとするのかが大切なのです。
 木・草・わらという材料は、「神を信じている」と言いつつも神よりも目に見えるものに頼ろうとする行為です。さらに言うならば、神以外のものを神よりも優先することです。それに対して、金・銀・宝石という材料は、何よりも神に頼ろうとする行為です。それは何であれ神よりも優先するものはないというものです。イエス・キリストはヨハネ4:23~24で「     」と話されました。神が私たちに求めておられるものは霊とまことによる礼拝です。これよりも優先されるものはないのです。不安を抱いくことによって神を礼拝することよりも、他のものを優先させてしまうことが、神以外のものを神よりも優先させることになるのです。私たちも神よりも他のものを優先させてしまいやすい者です。ですから、そのことに気をつけたいものです。

結)
 14節に「     」と書かれています。私自身この箇所を読んで、ローマ2:6のみことばを思い起こされます。そこには「     」と書かれています。イエス・キリストを信じるのは大切なことです。ですが、信じた後の歩みも大切です。イエス・キリストを土台とし、イエス・キリストに似る者となるために、どのようなキリスト者となるのかという設計図を描き、神のみことばを材料として、与えられています信仰をさらに築き上げていけるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント3:5~9「成長させてくださる神」  16.01.22.

序)
 テレビドラマの親子の会話で「誰のおかげでここまで育ったと思っとるのや」というのがあります。ふざけてですが、私も娘に何度か言ったことがあります。すると、「神様」という返事が返ってきます。すると、こちらは「そうやな!」というオチで終わることが何度かありました。ドラマの中で「誰のおかげでここまで育ったと思っとるのや」というやりとりの中には「親のおかげで」というのが前提としてあります。ともすると、信仰も同じような捉え方をしてしまう危険性があります。それは、「ここまで信仰が成長したのは○○先生の指導によって」というものです。確かに、その先生を通して信仰は成長したのかもしれませんが、人の信仰を成長させてくださるのは神ご自身です。今朝は、その信仰を成長させてくださる神を共に見ていきたいと願っています。

1)指導者とは
 今朝の箇所の最初に、アポロとパウロの名前が書かれています。パウロは御存知のように、このコリント人への手紙を書いた人です。では、アポロとはどのような人でしょうか。アポロが聖書の最初に書かれているのが使徒の働き18:24です。彼はユダヤ人ですがアレキサンドリヤの生まれで、雄弁であり聖書に通じていた人であることが紹介されています。アレキサンドリヤとは、アレキサンダー大王によって紀元前332年にエジプトの北部の地中海に面していた所に建てられた町です。当時の主要な港町に発展し、ローマ人・ギリシャ人・ユダヤ人・エジプト人が住んでいました。そして、ギリシャ語が共通語だったため、紀元前2世紀には旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳聖書がこの町で作られました。そのような背景の中で育ったアポロですから、聖書に通じていたのは理解することができます。
 ですが、そのアポロは「ヨハネのバプテスマしか知らなかった。」と25節に書かれています。「ヨハネのバプテスマ」とは、イエス・キリストの弟子のヨハネではなくバプテスマのヨハネのことです。バプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けていました。これは、自分の罪を認めて神に告白し、神から罪の赦しを受けることのしるしのバプテスマです。ですが、イエス・キリストのバプテスマは聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマとは罪の赦しと共に神が共にいてくださることのしるしです。アポロは聖霊のバプテスマを知りませんでした。そのアポロがエペソの町に来て伝道していたとき、アクラとプリスキラという夫婦に会い、イエス・キリストのことを正確に学び、さらに大胆に伝道を始めたのです。そのアポロは、エペソの町を去ってコリントの町に行きました。コリントの町では、もうすでにパウロが伝道していましたからイエス・キリストを信じている人がいました。ただアポロは雄弁な人でしたから、コリント教会の人たちはアポロによってさらに信仰が強められたのです。
 そのような背景があり、コリント教会の中にはパウロ派やアポロ派というグループが形成されるようになったのです。ところが、アポロ自身が願っているのは自分のグループを作ることではありませんでした。一人ひとりがイエス・キリストによって罪が赦されたことに感謝と喜びをもって歩み、神の証し人として福音を伝えていくために、一つになって教会を建て上げることだったのです。そのことはパウロも同じです。ですから、今朝の箇所の6節で「私が植えて…注ぎました。」とパウロは語っているのです。パウロがコリントの町で伝道し、救われる人たちが起こされて教会が形成されました。そして、その後にアポロがコリントの町に来てコリント教会の人たちを励まし力づけました。ただ、パウロもアポロも神によって用いられただけの人だったのです。
 このことは、教会の指導者においても同じです。教会指導者は変わりますが、教会は変わることなく立ち続けます。教会指導者というのは、教会が一つになって神のすばらしさを表していくために用いられる器に過ぎないのです。ところが、コリント教会はパウロ派やアポロ派というグループが形成されていったのです。現代の教会も、そのような危険性があります。本当なら神につながらなければならないのに、教会指導者につながってしまう危険性があります。牧師や宣教師が変わると教会を移ってしまうということがあります。新しい牧師や宣教師に問題があるのなら別ですけれども、そうではなく「相性が合わないから」とか「何か雰囲気が違うから」というので、教会を移られる方がおられます。でも、これは本当に気をつけなければならないことです。教会指導者につくのではなく、共に教会を建て上げていくことが教会員に与えられています使命の一つです。

2)成長させてくださる方
 人の信仰を成長させるのは教会指導者ではありません。教会指導者は、人の信仰を成長させる器にしか過ぎません。では、「誰が人の信仰を成長させるのか」と言いますと、それは神ご自身です。パウロは6節で「     」と語っています。ここには、パウロとアポロの役割について書かれています。何を植えたのでしょうか。それは福音という種です。パウロが乾いた地に福音の種を蒔いたのです。ですが、渇いた地に種を蒔いただけでは芽は出ません。水を注ぐ必要があります。「その水を注いだのがアポロである」とパウロは語っているのです。パウロは福音の種を蒔くという働きのために用いられ、アポロはその福音の種に水を注ぐという働きのために用いられたのです。アポロが水を注ぎ続けましたから、芽が出るという信仰の成長が見られます。「でも、アポロが信仰を成長させたのではなく、神が信仰を成長させられた」とパウロは語っているのです。ですから、私たちの信仰を成長させてくださるのは神ご自身なのです。
 パウロは6節の前半で「私が植えて…注ぎました。」と語っています。種からすれば、植えられるのも水を注がれるのも外からの働きです。しかし、成長というのは内の働きです。どれだけ良いものを与えられても、それ自身の中に力がなければ意味はありません。例えば、私たちの身体についても同じことが言えます。人は食物が与えられていたら成長するでしょうか。いいえ、いくら美味しく栄養分が入っている食事が与えられても、身体がしっかりと機能していなければ栄養分を吸収することはできません。栄養分を吸収できないと成長できません。勉強も同じです。どれだけ良い教材を与えられても、その内容を理解できなければ意味がないのです。大切なのは、その人の中に働く力なのです。それは信仰においても同じです。いくら良い環境の中に置かれていたとしても、その人自身の中に吸収する力がなければ、その人の信仰は成長することができません。大切なのは、その人の中に働く力なのです。外から与えられたものを吸収する力なのです。その力を与えてくださるのは神ご自身です。神がその人の中に働かれない限り、決して信仰は成長することはありません。
 ですから、私たちにとって必要なのは、「私の信仰を成長させてください」という祈りです。神は私たちの祈りを聞いてくださり、その祈りに必ず答えてくださいます。ルカ11:9に「     」と書かれています。イエス・キリストは「神に求め続けるなら必ず与えられる」と約束されています。また、ヤコブ4:3には「     」と書かれています。これは「良い動機であるならば必ず受けられる」ということです。神は私たちの信仰の成長を願っておられるのですから、その信仰の成長を祈り求めるなら、神は必ず成長させてくださいます。私たち一人ひとりが、自分の信仰の成長のために祈る者とさせられたいものです。

3)成長の目的
 では、その信仰の成長の目的は何でしょうか。それは神のすばらしさが現されることです。では、神のすばらしさが現されるとは、具体的にどのようなものなのでしょうか。それは何度も話していますが、弱さを持っている自分が神に愛され、神に用いられることに感謝し喜びをもって生きることです。これ以上の神のすばらしさを現すものはありません。どれだけ福音を的確に語ったとしても、その人自身に感謝と喜びがなければ相手に伝わることはありません。ですが、福音を的確に語れなくても、その人自身に感謝と喜びがあれば人は福音に関心を寄せます。人とはそのようなものではないでしょうか。ですから、自分自身が神によって生かされていることに感謝と喜びをもって歩むことが何よりも大切なことなのです。何故パウロが苦しい目に遭いながらも、福音を語り続けることができたのかと言いますと、パウロ自身が自分が生かされ用いられていることに感謝し喜びを見出していたからです。これがパウロの原動力だったのです。
 神は不可能なことが何一つないお方です。ですから、神ご自身が福音の種を蒔き、水を注ぎ、成長させることもできます。しかし、神はそのようなことをされませんでした。神はパウロやアポロを用いられたのです。神が直接された方が、パウロやアポロを用いられるよりも効果的だったでしょう。また、コリント教会が抱えていた問題も生じなかったでしょう。しかし、神はそれよりもパウロやアポロを用いられたのです。神が直接されるよりも時間がかかりますが、それでも神はパウロやアポロを用いる方を選ばれたのです。その神の用いられた方は、パウロやアポロだけではありません。現代においても同じです。神は私たちを用いる方を選ばれたのです。私たちは確かに弱さを持っており不完全な存在です。しかし、神は私たちを用いる方を選ばれたのです。何故でしょうか。私たちを必要とされているからです。この世界を造られ不可能なことが何一つないお方が、私たちを必要とされているのです。神は私たちを用いてくださるのです。私たちは、そのところに目を留めたいものです。
 私たちはこの世にあって、様々な信仰の戦いを経験させられます。時には傷つくこともあります。そのような私たちが教会に集い共に神を礼拝し、みことばによる慰めと励ましを受け、また教会からこの世に送り出されていくのです。いや、みことばによる慰めと励ましだけではありません。その教会に集う一人ひとりとの交わりによる慰めと励ましもそうです。その繰り返しによって、一人ひとりの信仰は成長させられていくのです。教会とはそのような場なのです。神は私たちに信仰の成長の場としても教会を与えてくださっているのです。
 その教会の中で、妬みや争いがあったらどうでしょうか。慰めや励ましを受けるところか疲れてしまいます。そうなりますと、信仰は成長できなくなってしまいます。教会の中に妬みや争いがあることが問題ではありませんが、妬みや争いをそのままにすることは問題です。祈り・学び・話し合って解決していく所が教会です。そのとき一人ひとりの信仰は成長させられます。何よりも教会は一つになる群れです。同じ目的・目標に目を向けて助け合いながら歩み続ける群れが教会です。それによって神のすばらしさが現されていきます。信仰の成長の目的は、私たちが感謝と喜びをもって生き、神のすばらしさを現すことです。

結)
 ともしますと、私たちは「教会指導者は、福音を前進させ教会員の信仰を成長させる存在」と捉えてしまいやすくなります。しかし、福音の前進も人の信仰の成長も教会指導者ではなく神ご自身です。教会指導者は、そのための材料を提供する者に過ぎません。私たちはそのことを正しく理解していないと、教会指導者が神の代わりになってしまいます。事実、コリント教会がそうでした。私たちの信仰を成長させてくださるのは神ご自身です。その神に目を離さず歩み続けることができるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント3:1~4「信仰の成長を目指して」  17.01.15.

序)
 先週の月曜日に、私たちの団体のミックスユース冬集会が伊勢教会で行われました。今回は私がメッセンジャーとして奉仕させていただきました。お祈りを感謝します。今回の集会で初めてお会いした中高生や青年がおられました。残念ながら風邪や事情によって急遽参加できなかった方々もおられましたが、私たちの団体のユースの輪が徐々に広がっていることを実感させられた時でした。参加者の中には献身を志しておられる方もおられました。各々の信仰がさらに成長し、ユースの働きが前進できるように祈っていただきたいと願っています。その信仰の成長はユースだけでなく、私たちについても同じです。私たちも信仰の成長を目指す者とされています。今朝は、その信仰の成長について共に教えられたいと願っています。

1)肉に属する人
 まず、「肉に属する人」ですが、肉に属する人のことを、今朝の箇所では「キリストにある幼子」と表現されています。聖書は他の箇所でも「幼子」ということばが出てきます。例えば、イエス・キリストは「幼子のようでありなさい。」と話されました。これは幼子の従順さを示されています。しかし、今朝の箇所では良い意味としてではなく、悪い意味として用いられています。「キリストにある幼子」とは、霊的に成長していないキリスト者のことです。すなわち、大人になっていないキリスト者のことです。以前、JBCの教会指導者研修会で講師の方が日本のクリスチャン人口が1%を越えられない理由の1つとして、教会が大人になっていないことを話されました。教会が大人になっていないとは、その教会に集う一人ひとりが大人になっていないということです。
 では、「大人になっていない」とはどういうことかと言いますと、その講師の方は「依存意識が強かったり、自分に与えられている奉仕に対しては責任を持つが、他のことに対しては関心を持たないこと」と話されていました。教会はキリストの身体です。私たちの身体の器官が依存意識が強かったり、他のことに対して関心を持たなかったらどうなるでしょうか。例えば、「お腹が空いて何かを食べたい」と思っても、目や手は関心を持たずに何もしなかったらどうでしょうか。食べ物を探そうともしない。手を探ろうともしなかったら、食べ物を取ることはできません。すると、私たちの身体は機能しなくなってしまいます。私たちの身体は、各々の器官が自分の分をきちんと果たすだけでなく、互いの関心を持ち助け合っているのです。だから、身体は正常に機能し活動することができるのです。
 教会が身体に譬えられているのは、教会も身体と同じような機能を持っているからです。すなわち、互いが同じ目的に向かって一つとなり、与えられている務めを果たし、互いに助け合っていくことによって活動できるからです。そのようにわきまえることができるのが大人です。小さな子どもは、そのようにわきまえることができません。むしろ、自分のしたいことだけをし、自分の願いが叶えられることだけを要求します。子育てに励んでいるとき、自分の子どもにそのような時期があったことを思い出すのではないでしょうか。ですが、その子どもも少しずつ成長して、やがては物事をわきまえられる大人へと成長します。
 信仰も同じことが言えます。信仰は与えられたら良いというものではなく、そこから少しずつ成長するものでもあります。与えられた信仰が成長しないのは問題です。何故なら、先ほども話しましたように、信仰は成長するものとして与えられているからです。互いが同じ目的に目を向け、与えられている務めを果たし、互いに助け合っていくことができるために信仰が与えられているのです。それなのに、その信仰がそこまで成長していないなら、それは信仰の幼子であり肉に属する人でもあるのです。

2)御霊に属する人
 神が私たちに信仰を与えてくださったのは、神を信じる私たちが肉に属する人となるためではなく、御霊に属する人となるためです。この御霊に属する人とは、先ほどの肉に属する人と正反対の人のことです。すなわち、信仰的に大人になっている人のことです。それは、同じ目的に向かって一つになることを願い、与えられている務めを果たし、互いに助け合っていくことのできる人です。パウロは2:16で「私達にはキリストの心があるのです。」と語りました。キリストの心とは、神を愛し人を愛することです。「ありのままの自分が神に愛されていることを知り、ありのままの自分を愛してくださっている神を愛する。そして、ありのまま神に愛されている人を愛する心がキリストの心である」ということを先週の礼拝で話しました。
 私たちは社会組織の中で生かされています。その社会組織の中でキリストの心を実践していくことが求められています。では、社会組織の中でキリストの心を実践していくとはどういうことでしょうか。それは助け合っていくことです。各々の群れには目的があります。職場にしろ、家庭にしろ目的があります。その目的を目指して助け合っていくことがキリストの心の実践でもあります。それは教会においても同じです。教会も社会組織の一つです。教会に集います一人ひとりは、その組織に属しておられるのです。ですから、一人ひとりが互いに助け合って、キリストの身体である教会を建て上げていくことを神は私たちに求めておられるのです。
 私たちには、各々自分の思いや考えがあります。それはそれで大切なものです。しかしながら、人は一人ひとり違いますから、思いや受け止め方も違ってきますし考え方も違ってきます。その違いを受け入れることがありのままを受け入れるということです。神を信じる者であっても、自分の意見が考えが通ることを願います。そのような願いは人として当然のことです。しかし、その自分の意見や考えが通らなかったとしても、それを受け入れることがキリストの心の実践なのです。何故なら、その背後にも神の導きがあるからです。
 それは教会の中での話し合いもそうです。その話し合いの背後には神の導きがあります。何故なら、その話し合いは神に祈り備えて行われているからです。私たちは結果に目を留めてしまいます。ある面、結果というのは大切なものですが、結果だけが大切なものではありません。たとえ、その結果が自分の願いとは違っていたとしても、それを通して神はすばらしいことをしてくださいます。何故なら、神は私たちの理解を越えた大いなる方だからです。そこに目を留められるのが御霊に属した人です。神はその御霊に属する人になることを私たちに求めておられるのです。確かに結果は気になります。「気にならない」と言えば嘘になるでしょう。ですが、結果だけではないことも事実です。私たちの理解を越えた大いなる神に目を留め、結果が自分の願いとは違っていたとしても、それも神の導きであり、そのことを通して神はすばらしいことをしてくださると期待できる者とされたいものです。

3)信仰の成長を目指して
 ところが、コリント教会はそうではありませんでした。コリント教会の中にあったものは妬みや争いでした。そこには互いを受け入れ合い助け合って、キリストの身体である教会を建て上げていこうとする思いがありませんでした。そのようなコリント教会の人々のことを、パウロは3節と4節で「ただの人」と語っています。この「ただの人」とは、御霊にではなく肉に属する人のことです。それは神を信じていない人ではありません。言うなれば、「信仰は信仰」「実生活は実生活」と分けて過ごす人のことです。生活の中に信仰が生かされていない人のことです。
 キリスト者というのは、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じ、新しく生まれ変えられた人です。結果を重視し、結果から全てを見ていた歩みから、根本的なことから全てを見る歩みに変えられた人です。今までの歩みから180度変えられた人がキリスト者です。「なのに何故」と思われるかもしれません。何度も話していますが、人は赤ちゃんとして誕生し大人へと成長していきます。その成長は一足飛びではなく徐々にです。それは霊的な面においても同じことが言えます。イエス・キリストを信じたら180度変えられ、一足飛びに完全な人になれるというわけではありません。やはり徐々に成長していくのです。そして、自分の信仰の成長を目指すのがキリスト者なのです。
 ところが、この信仰の成長は自然になるものではありません。信仰の年数が長ければ、信仰もそれなりに成長するというものでもありません。へブル5:12~14には「     」と書かれています。この箇所から想像できるのは、信仰年数が長いにも拘らず、その信仰が「全く」と言っても良いほど成長していないということではないでしょうか。この箇所からも、信仰は年数に応じて自然に成長するものではないということを知らされます。信仰の成長には戦いがあります。どのような戦いかと言いますと、外から押し迫って来る戦いではなく自分との戦いです。その自分との戦いを通して与えられています信仰は成長していきます。ですから、自分との戦いと戦おうとしないなら、信仰は成長することはありません。
 神を信じる者にはキリストの心が与えられています。キリストの心とは、先ほども話しましたように神を愛し人を愛することです。神は神を愛し人を愛することを通して、キリストの身体である教会を建て上げることを願っておられます。私たちの中には自分の思いや考えがあります。そして、その思いや考えが叶えられることを願います。でも、全てが叶えられるわけではありません。叶えられないときもありますし、ともすると全てが叶えられないかもしれません。たとえそうであったとしても、その結果を受け入れることが自分との戦いです。その自分との戦いを通して、与えられています信仰は成長していくのです。
 でも、今朝の箇所の「ただの人」というのは、その自分との戦いを戦っていこうとはしない人のことです。気に入らなければ協力しない。または、妬みや敵対心が生じて争いを引き起こしてしまう人です。言うなれば、利己的な信仰の人です。利己的信仰とは、自分が群れの一員であることを意識しませんから、群れのことに関心を寄せません。関心を寄せるのは自分のことだけです。ここでパウロはそのことを指摘しているのです。神が与えてくださったキリストの心・神への信仰は、成長するものとして与えてくださったのです。ですから、その信仰の成長を目指して歩むことをパウロは訴えているのです。私たち自身も自分の思いや考えがありますが、その自分との戦いを通して、与えられています信仰が成長するように神に祈っていきたいものです。

結)
 神は私たちに、「信仰」というキリストの心を与えてくださいました。しかも、そのキリストの心である信仰は、成長するものとして与えてくださいました。神を信じたら信仰は完成されるのではありません。神を信じたときが信仰の始まりです。神が与えてくださいました信仰が、さらに成長することを祈りましょう。そして、私たちが教会の一員であることを覚え、キリストの身体である教会を共に建て上げていきましょう。

Ⅰコリント2:13~16「新しく変えられた人」  16.01.08.

序)
 新年が明けて1週間が経ちました。この正月はどのように過ごされたでしょうか。私たち家族は、日曜日の午後に母が入居しているベタニヤハウスに行き、母を連れて実家で3日まで過ごしました。特別に変わったことはなかったのですが、イエス・キリストを信じると新しく変えられます。今朝の箇所ではありませんが、Ⅱコリント5:17には「     」と書かれています。「イエス・キリストを信じるなら全てが新しくなった」と語られています。これは「新しく変えられた」ということですが、「新しく変えられる」とはどういうことでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)視点が変えられる
 まずは、視点が変えられます。13節の最初に「この賜物について話すには」と書かれています。これは、自分が生かされていることの喜びについて話すことです。イエス・キリストを信じるまでは、生かされていることに本当の喜びを見出すことができませんでした。それは先月の時も話しましたが、生かされています社会から自分を見るとき、自分が小さな存在であり、居ても居なくても社会に影響を及ぼすことのない存在と思っていたからです。「それなら、イエス・キリストを信じたら社会に影響を及ぼす存在となれるのか」と言うとそうではありません。やはり、影響を及ぼすことのない小さな存在です。しかし、「そのような小さな存在である自分を神は必要としてくださり用いてくださる」という視点に変えられます。
 何度も触れていますが、ガラテヤ6:14に「     」と書かれています。特に、後半の部分に目を留めたいのです。14節の後半には「この十字架によって…つけられたのです。」と書かれています。これはどういうことかと言いますと、神を信じる者の見方・視点を示しています。イエス・キリストを信じる前までは、世界から自分を直接見ていましたし、自分から世界を直接見ていました。ですが、イエス・キリストを信じた後は、そのような直接的な見方からイエス・キリストの十字架というフィルターを通して見るようになったということです。
 先程も触れましたが、自分という存在は社会から見て居ても居なくても影響を及ぼすことのない小さな存在です。自分の代わりなどたくさんいます。自分が居なくなったら会社や組織が混乱してしまうのかというとそうではありません。自分の代わりの他の人が入って、その組織は以前と同じように機能するのです。そのように考えますと、自分が何のために存在しているのかが分からなくなってしまいます。ところが、イエス・キリストを信じた後は、そのような直接的な見方ではなくイエス・キリストの十字架というフィルターを通して見るように変えられます。確かに、信じても環境は変わりません。しかし、そのような小さな自分に神は目を留めてくださり、必要として用いてくださるという見方に変えられます。
 見方が変えられるということは、生き方が変えられるということです。それは否定的・消極的生き方から、肯定的・積極的生き方に変えられるということです。イエス・キリストの十字架は、私たちの生き方を変えるほど力のあるものなのです。そして、そのイエス・キリストの十字架を本当の意味で知るには、御霊の助けが必要なのです。その御霊の助けによって、生き方が変えられ今の自分が生かされていることに感謝と喜びを持つことができるようになるのです。これが13節の最初に書かれています「この賜物について話す」ということです。今までとは全く違う視点へと変えられ、生き方が変えられたことを話す賜物をイエス・キリストの十字架を信じることによって与えられるのです。

2)信じるものが変えられる
 次に、信じるものが変えられます。新しく変えられた人は生き方が変えられますが、新しく変えられていない人は生き方が変えられません。何故なら、信じているものが違うからです。ピリピ3:8で、パウロは「     」と語っています。パウロはイエス・キリストを信じるまでは、ユダヤ教の教えを一生懸命守っていました。そのことについてパウロは、ピリピ3:5~6で「     」と告白しています。彼はユダヤ教の教えに照らし合わせて自分の生き方は「非難されるところのない者」と断言できたのです。それほどの自信を持っていたのです。そこまで言い切れる人というのは本当に少ないのではないでしょうか。でも、パウロは言い切れたのです。そこまで言える自信があったのです。しかし、そのような生き方に対して、7節で「     」と告白しています。今まで自信を持っていた生き方が「損と思うようになりました。」と告白しているのです。ユダヤ教の人から見れば、「何と熱心な人だ」という評価です。多くのユダヤ教の人から尊敬され、称賛されていたことでしょう。ですが、パウロは「損」と思うようになったのです。何故でしょうか。信じるものが変えられたからです。
 ユダヤ教の教えは、神が与えてくださった戒めや教えを実践していたら、やがて来る救い主によって救われ神の国が実現するというものです。パウロはそのことを信じて一生懸命実践していたのです。しかし、彼の心の中にあったものは何かと言いますと、平安ではなく不安です。「神の戒めや教えを破ってしまったら神に義と認められず救われない」という不安です。ですから、神の戒めや教えを守り続けなければならないのです。しかし、守り続けられるという保証はありませんし、守り続けるのをやめたら神の審きを受けてしまうという不安。ですから、守ることに必死なのです。これはマインドコントロールのようなものです。パウロはイエス・キリストと個人的な出会いをすることによって、その不安からの生活から解放されたのです。「今まで信じていたもの」というのは、「今までしがみついていたもの」と言っても良いでしょう。でも、今までしがみついていたものを手放したとき、彼に与えられたものは審きではなく平安だったのです。
 パウロ自身、自分の弱さをよく知っていました。だからこそ、一生懸命神の戒めや教えを守り行っていたのです。イエス・キリストと個人的な出会いをして視点が変えられますと、信じるものも変えられ、今までしがみついていたものを手放すことができます。今まで信じしがみついていたものを手放すというのは簡単なことではありません。「本当に手放しても大丈夫だろうか」という不安があります。「本当に信じるに価するものなのか」という疑問が生じます。パウロもそうだったのです。彼は熱心なユダヤ教徒のとき、キリスト者を捕え牢獄に入れようとしていました。そのためには外国の地にまで行こうとしていたのです。ところが、その途中で天から声が聞こえました。それはパウロが熱心に迫害していたイエス・キリストでした。その後パウロはどうしたでしょうか。ガラテヤ1:14~17に「     」と書かれています。パウロはイエス・キリストと出会いアラビアに行って時を過ごしたのです。すると、ある方は「パウロはイエス・キリストと出会い信じてイエス・キリストを宣べ伝えたのではないか」と思われるかもしれません。使徒の働き9章には、パウロがイエス・キリストと個人的な出会いをしたことが書かれています。そして、9:18~20には「     」と書かれています。使徒の働きには、パウロがアラビアに行ったことなど書かれてはいません。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。そのイスラエルの東側にはナバテア王国が支配していました。このナバテア王国はアラビア半島からダマスコの近くまで支配していました。ところが、紀元106年にローマ帝国に滅ぼされてしまいます。ナバテア王国が支配していた地域を「アラビア」と呼んでいたようです。パウロは、その地域に行ったのでしょう。ですから、9:19の前半と後半の部分は数年間の空白があったと理解することもできます。そのように考えますと矛盾してはいないのです。
 話しは戻りますが、イエス・キリストと出会ったパウロは本当に悩んだと思います。今まで信じてきたものを捨てて良いものかどうかということをです。悩み・考え・祈った答えは、イエス・キリストを信じ従っていくということでした。そして、彼の生き方は変えられました。何が変えられたのでしょうか。「これがないとダメだ」という生き方から「これがなくても大丈夫」という生き方に変えられたのです。今までしがみついていたものを手放すことができたのです。そしてパウロは、模範的な生き方ではなく見本的な生き方に変えられたのです。見本的な生き方とは、「こんな者でも神は愛してくださり用いてくださる」という生き方です。イエス・キリストを迫害していた者を罰するのではなく、愛し赦し用いてくださる。完璧な者でなくても神は愛し用いてくださることを、自分の生き方を通して伝えたのです。新しく変えられた人は信じるものが変えられます。

3)キリストの心が生じる
 最後に、キリストの心が生じます。今朝の箇所の16節の最後に「私たちには、キリストの心があるのです。」と書かれています。キリストの心とは、神の御心を知ることができるということです。神が人に願っておられることは、神の戒めや教えを一生懸命守り行うことではありません。人が神によって造られ生かされていることに感謝し喜びをもって歩むことです。人が人らしく生き生きと過ごすことです。人は「ありのままの自分が愛されている」と知るとき喜びを覚えます。そのとき、感謝と喜びをもって生きることができます。キリストの心は、私たちにそのことを悟らせてくださいます。逆に、私たちが神にありのままの自分が愛され受け入れられていると知ることができるのは、キリストの心が私たちの内にあるということです。
 では、人はどのようにして神の愛を知ることができるのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架による死と復活という福音です。神は私たちにご自身の愛を知らせるために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。それは、人が神の愛を知ってありのままの自分を愛し受け入れ自分らしく生きるためです。それと同時に、ありのままの人を愛し受け入れるためでもあります。イエス・キリストは、律法の専門家から「聖書の教えの中で何が一番大切なのか」と尋ねられたとき、「神を愛し人を愛すること」と答えられました。これがキリストの心なのです。争うのではなく愛することがキリストの心であり神の御心なのです。ですから、神によって新しく変えられた人は、神を愛し、自分を愛し、他人を愛する者へと変えられるのです。
 今まで、結果という目に見えるものでしか評価できなかった自分が、結果ではなく根本的なものによって評価する者へと変えられたのです。結果から評価しますと、弱さや足りなさに目を留めてしまいやすくなります。しかし、根本的なものから見ますと、可能性に目を向けやすくなります。この視点の違いは全く違ってきます。最初の方でも話しましたように見方・生き方が違ってきます。その見方は自分に対してだけでなく、他の人に対してもそのような見方へと変えられます。人に対する評価も結果からの見方ではなく、根本的なことからの見方に変えられます。すると、人に対しても否定的な見方から、肯定的な見方に変えられます。これが新しく変えられた人の生き方です。
 コリント教会には、1:11に書かれていますように争いがありました。「教会の中に争いがある」と聞かれますと驚かれるかもしれません。でも、教会であっても争いが生じるのです。何故なら、一人ひとりの考え方は違いますし、物事の受け止め方も違うからです。そのため、自分の考え方を主張してしまいやすくなるのです。ともすると、私たちは教会の中に争いがあることを問題にしてしまいやすくなります。しかし、教会の中に争いがあることが問題ではありません。何故なら、先ほども話しましたように考え方・受け止め方が違うからです。その違いの中で、みことばと祈りによって違いを受け止め、互いに助け合っていくのが教会なのです。そして、それを実践していくことがキリストの心なのです。イエス・キリストを信じる私たちには、そのキリストの心が与えられているのです。ですから、「できない者」ではなく「できる者」へと変えられているのです。その生き方も御霊の賜物の一つです。神によって新しく変えられた人は、見方・生き方が変えられる「キリストの心」という御霊の賜物が与えられているのです。

結)
 人は「自分が必要とされている」と知るとき、生きることに喜びを見出します。イエス・キリストを信じる全ての人には御霊の賜物が与えられています。神から御霊の賜物が与えられたということは、神がその人を必要とされているからです。神によって新しく変えられた人は神が必要とされている人です。この1年、「神が私を必要とされている」ということを覚えつつ歩まされていきましょう。