メッセージ

Ⅰコリント15:20~28「キリストにある希望」  18.04.08.

序)
 先週はイエス・キリストが死から甦られたイースターでした。昨日は、子どもイースター集会が行われました。皆さんのお祈りと奉仕に感謝します。また、新年度が始まり新しい生活リズムとなられた方もおられることと思います。この新しい年度、神は私たちにどのようなことをしてくださるでしょうか。その神のみわざに期待したいものです。聖書が語っています信仰とは、「平安が与えられ喜びが与えられるなら何でも良い」というのではなく、事実に基づいたものを信じるということです。イエス・キリストが死から甦られたのは歴史的事実です。ですから、私たちは生きている中で様々な苦しみや悲しみを経験しますが、それらに対しても希望があります。何故なら、「絶望」と思っていた死からイエス・キリストは甦られ生きておられるからです。以前にも話しましたが、生きるとは可能性があるということです。そして、可能性があるということは希望があるということです。その希望を与えてくださった神のみわざに期待し信頼して生きることが、聖書の語っている信仰です。そのキリストにある希望はどのようなものでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)不安の克服
 その第1に、キリストにある希望は不安を克服させてくださいます。20節の最初に「しかし、今や」と書かれています。これは以前の新改訳聖書もそのように訳されていますが、新共同訳聖書には「しかし実際」と訳され、口語訳聖書では「しかし事実」と訳されています。これは、イエス・キリストの復活を否定している人に対して、イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを強調しています。そのイエス・キリストは「眠った者の…よみがえられました。」と書かれています。この「眠った者」とは、イエス・キリストを信じ死なれた人のことです。イエス・キリストは、その死んだ人の初穂として甦られたのです。では、「初穂」とは何を意味しているでしょうか。それは、この後にも続くというのを意味しています。すなわち、イエス・キリストを信じる者も必ず甦ることができるということです。
 例えば、新しい実験をする人は「果たしてこれでうまくいくだろうか」と結果が出るまでは心配します。そして、期待通りの結果が出て初めて安心します。それだけでなく、「この方法で行えば、必ずこの後も同じ結果が出る」という確信を持つことができます。キリストの初穂というのも同じです。私たちは必ず死にます。また、死に対して不安や恐れを抱きます。そして、「できれば永遠の命を得たい」と望みます。ですが、いくら望んだとしても客観的に証明されない限り安心はできません。あるのは「本当にこれで良いのだろうか」という不安だけです。しかし、イエス・キリストは死んだ者の初穂として甦られました。イエス・キリストの甦りは歴史的事実です。そのことを認めるとき、「自分も必ず死を経験するけれども、イエス・キリストと同じように甦ることができる」という確信を持つことができます。視点を変えて言うならば、イエス・キリストの甦りは新しい実験の結果なのです。すなわち、神を信じる者はイエス・キリストに続いて死んだ後も甦ることができるということなのです。
 何故、この世に死というものがあるのでしょうか。聖書は「死は一人の人を通して生じた」と語っています。それはアダムの罪によってです。神はアダムとエバを造られたとき、彼らに自由を与えられました。但し、善悪の知識の木の実だけは取って食べてはいけませんでした。これが神と人の約束でした。しかし、人はその神との約束を破ってしまいました。それによって、神と人との関係が壊れてしまい、死がこの世に入ってしまったのです。この世に死が存在するのは、人が神に対して罪を犯してしまったからです。そのことを見ますと、「命」というのは神との関係に大きなカギがあることに気づかされます。命とは生きることであり、生きるとは希望を持つということです。神と自分との関係がどのようなものであるかによって、その人が本当の希望をもって生きられるかどうかが決まってきます。神はイエス・キリストを死から甦らせてくださいました。これは神を信じる私たちに本当の希望を与えてくださったことを意味しています。私たちは、死という不安を克服することができるのです。それは、これからもある様々な不安をも克服することができるということでもあります。何故なら、死よりも大きな不安はないからです。神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに不安を克服させてくださり、キリストにある希望を与えてくださったのです。

2)順序がある
 第2に、そのキリストにある希望には順序があるということです。パウロはキリスト者の復活について23節で「     」と語っています。死者の復活にも順序があります。このことは何を意味しているでしょうか。それは、物事の解決にも順序があるということです。私たちは不安を抱きますと、すぐに解決することを願います。そのように願うのは悪いことではありません。ですが、物事の解決には順序があるということを覚えておくのは大切です。何故なら、神は秩序のある方だからです。神は世界を造られたとき、秩序をもって造られました。どのように世界を造られたでしょうか。初めに光を造られました。そして、空気と水を造られ、そして陸を造られました。その後に、太陽と月と星を造られ、その後で空を飛ぶ鳥と水の中を泳ぐ魚を造られました。その後に、陸の上に生じる植物を造られ、最後にその植物を食べる動物と人間を造られました。神は世界を造られるとき、いきなり動物や人間を造られたのではありません。もしそうだったら、動物や人間は食べるものがありませんし、空気もありませんから生きられません。神は世界を造られるとき、このように順序をもって造られたのです。
 そして、死者の甦りにも順序があります。ですから、物事の解決には順序があるのです。「いきなり解決されるということは絶対にない」とは言いません。何故なら、神は私たちの想像を越えた方ですから、そのようなこともできるお方です。しかし、それだけを願うのは聖書が語っています信仰ではありません。物事が解決されるというのは結果です。物事が解決されることだけを願うのは、結果だけを求めることになってしまいます。ですが、神は結果を重視される方ではなく、その過程を重視される方です。ですから、物事の解決においても同じです。物事が解決されるには、目の前のことを忠実に果たしていく必要があります。
 ですから、物事が解決されることを祈るのは大切ですが、目の前にある事柄を忠実に果たせるように祈るのも大切です。それをしないで、良い結果だけを祈り求めるのは聖書が語っている信仰ではありません。ルカ16:10に「     」と書かれています。結果は大きなことでしょう。ですが、目の前のことは小さな事です。しかし、イエス・キリストは「小さな事に忠実な人は大きなことにも忠実である」と話されているのです。物事の解決には順序があることを覚えましょう。そして、目の前にある小さなことを忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

3)約束の成就
 キリストにある希望の第3は、約束が成就されたということです。24節の最初に「それから終わりが来ます。」と書かれています。イエス・キリストが再びこの世に来られたとき、神は審きを行われます。そして、全てのものを従わせます。最初に神が造られた世界は、全てのものが神に従う世界でした。しかし、人が神に対して罪を犯してしまったがために、この世に罪が入り神に背を向ける歩みをするようになりました。ですが、それらも解決されるのです。神が造られた世界が回復するのです。その創造の回復にも順序があります。その順序は、神の約束に基づいて勧められます。
 まずは、人が神に罪を犯すように導いたサタンに対して、神は「サタンには敵対するが人には味方になる」と約束されました。その後、神はアブラハムを選ばれ、神に選ばれた者が神の祝福を受けるという約束をされました。そして、モーセの時代に信仰の規律となる律法を与えられ、ダビデにおいては王国の確立が約束されました。そして多くの預言者を送られ、救い主が来られることが預言されました。そして、イエス・キリストが救い主として誕生され、神の約束は成就されました。一瞬の内に罪の問題を解決することのできる神が、長い時間をかけて罪の問題を解決されたのです。それは「人が神に対してどのように歩むか」という過程を重視されていたからです。
 多くの人は、神に対して罪を犯すことが「それほど大きなこと」とは思ってはいません。しかし、神の目から見れば大きなことなのです。ですが、神の目からみれば結果は大きなことではありませんが、人の目から見れば結果は大きなことなのです。ここに、神の目から見る視点と人の目から見る視点の違いを知ることができます。私たちは問題が生じますと、解決されるという結果を何よりも願い、それだけに目を留めてしまいやすくなります。しかし、神は問題の解決よりも過程に目を留められます。神と人との見方は違います。何故なら、先程も話しましたように問題の解決というのは、神の目から見れば大きな事柄ではないからです。それは、神は解決することのできる方だからです。
 そして、それは私たちが抱えます問題においても同じです。私たちが抱えます問題は自分自身にとっては大きな事柄です。すぐに解決されることを願います。でも、神はすぐにではなく順序をもって解決してくださるのです。イエス・キリストは死から甦られました。死に打ち勝たれたお方です。死は人が神に対して罪を犯したがために入りました。その死に打ち勝たれたということは、罪の問題を完全に解決されたということです。そして、私たちが抱えている問題においても、神は解決することのできるお方です。イエス・キリストの復活はそのことを表しています。だからこそ、私たちにとって大切なことは、神の約束の成就を信じて、目の前にある事柄に対して忠実に果たしていくことなのです。

結)
 イエス・キリストの復活を通して、神が私たちに与えてくださったものは希望のある人生です。私たちの先にあるものは希望です。だからこそ、目の前にある小さなことを忠実に果たしていくのは大切なことです。ヨハネ16:33の後半に、「世にあっては…勝ちました。」と書かれています。この「勇気を出しなさい。」とは何でしょうか。それは、目の前の問題がどれほど大きかろうとも、それから逃げるのではなく、自分がしなければならないことを忠実に果たしていく勇気と力です。その勇気と力は、私たちの内から絞り出そうとしても絞り出せられるものではありません。神から与えられるものです。どのようにしてでしょうか。それはイエス・キリストの復活に目を留めることによってです。18年度の歩みも、私たちは様々なことを経験することでしょう。しかし、復活のイエス・キリストに目を留めて、勇気と力をいただきながら、目の前にある事柄を忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント15:12~19「希望のある人生」  18.04.01.

序)
 イースターおめでとうございます。新年度の最初の日が主日であり、しかもイースターであるのは珍しいことです。総会でも触れましたが、昨年度から新しい活動が始まり、今年度は少し変更しましたが似た活動が続けられます。昨年度の歩みを神が導いてくださったことに感謝しつつ、今年度の歩みも神に期待して歩まされたいと願っています。聖歌604番に「数えてみよ主の恵み」という歌があります。その歌の出だしは「望みも消えゆくまでに世の嵐に悩むとき、数えてみよ主の恵み。なが心は安きを得ん」と書かれています。辛いことを経験しても、今までの神の導きを思い巡らすとき、神の確かさを思い起こされます。そして、「この辛い時も神は必ずすばらしいものに変えてくださる」という希望が起こされます。私たちはどのような時においても、イエス・キリストにあって希望を持つことができます。それは何故でしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)死から甦られたから
 イエス・キリストに希望がある第1は、イエス・キリストが死から甦られたからです。私たちはイエス・キリストが死から甦られたという復活を信じています。ところが、コリント教会の中には、イエス・キリストの復活を信じていなかった人たちもいたのです。これはイエス・キリストの復活を信じている私たちからすれば、非常に不思議なことのように思えたりするのではないでしょうか。「イエス・キリストの復活を信じられない人は何を信じているのか」と思えたりもします。また、「イエス・キリストの復活を信じられない人はキリスト者とは言えない」と言われる方もおられるかもしれません。中には、「何故そのような人にバプテスマを授けたのか」と言われる方もおられるかもしれません。
 ですが、私個人としてはそのような人たちの考え方が分からなくもありません。何故なら、コリントの町はアテネから西に約70㎞の位置にあるからです。その距離は春日井市から浜松市位の距離です。めちゃくちゃ遠い距離でもありません。アテネという町は哲学の町です。その影響を受けていたとは考えられます。哲学は理論的ですから、納得できないものや理解できないものは受け入れません。死からの復活というのもそうです。復活というのは理解できるものではありません。ですから、アテネ哲学の影響を受けていた人たちは、死からの復活を本当に信じることができなかったのです。
 そのようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。ひょっとしたら、「いいえ、私はイエス・キリストの復活を本当に信じています」と言われるかもしれません。ですが、私たちの中に「これだけは絶対に無理だ」という思いが生じることがあるのではないでしょうか。例えば、教会の奉仕にしてもそうです。「この奉仕だけは絶対に私にはできない」と思えることがあります。私自身もありました。以前にも話しましたが、私は「教会学校の奉仕なんて絶対にできない」と思っていました。何故かと言いますと、当時は独身でしたから子供への接し方が分からなかったからです。そのため、教会学校の奉仕をしたことがありませんでした。神学校に入って奉仕教会に行きましたら、いきなり「教会学校の教師をしてください」と言われました。「できません」なんて言えません。何故なら、献身したのですから。祈りつつ奉仕していましたが、4年間苦しみました。そして、神学校を卒業して内灘聖書教会に戻りました。そこでは中高生を担当することとなり、心の中では「ホッ」としたことを覚えています。すると、児童伝道のアワナクラブというのを全国展開で始める準備をしていました。私もそれに関わることとなり、5月から教会で始めることとなりました。そして、その責任者として私が任命されたのです。私の心の中は不安でいっぱいでした当然祈ります。祈ったら平安が与えられるかと言いますと、そうではありません。祈っても平安は与えられません。そのような状態で奉仕する中で、徐々にですが子どもへの接し方を学び、今日に至ることができたのです。
 教会の奉仕などを依頼するとき、自信がなく「できません」とすぐに答えられる方がおられます。「できない」というのは本当です。ですが、それは「私にはできない」ということであって、「神にはできない」ということではありません。確かに、今の自分にはできないかもしれませんが、神はできる者へと成長させてくださいます。それには第一歩が必要なのです。その第一歩を踏み出すことをしないなら、イエス・キリストの復活を信じていないコリント教会の一部の人たちと同じです。何故なら、できない自分ができるようになるなんて理解できないからです。しかし、イエス・キリストは絶対に理解できない死から甦られたのです。私たちの想像以上のことをされたのです。それならば、今はできないけれども、神はできる者へと必ず成長させてくださいます。何故そのように断言できるのかと言いますと、私がそうだったからです。神には不可能なことはありません。私たちにとって「不可能」と思えることも、神はできるお方です。イエス・キリストの死からの甦りはそのことを示しています。だからこそ、イエス・キリストにあって希望を持つことができるのです。

2)復活が歴史的事実だから
 イエス・キリストに希望がある第2は、イエス・キリストの復活が歴史的事実だからです。パウロはイエス・キリストの復活について、17節で「     」と語っています。私はカード入れをポケットの中に入れています。そのカード入れには運転免許証やクレジットカードなどが入れてあります。時々忘れてしまい、免許不携帯で教会まで来ることがあります。以前私はスーパーで買い物をしてレジに向かいながら、ポケットの中にカード入れがあるかを確認したところカード入れがありませんでした。ポケットの中にカード入れがあると思い込んで品物をカゴの中に入れていたのに、ありませんからカゴに入れた品物を元の場所に戻していく時の空しさを今も覚えています。
信仰も同じです。もしイエス・キリストの復活が実際になかったのなら、それは全く意味のない希望です。もしイエス・キリストの復活が実際になかったのなら、それは全く意味のない希望ですし、希望のない信仰になってしまいます。そのようなものは、全く信じるに価しないものになってしまいます。それなのに、そのようなものを信じているなら、19節に書かれていますように、本当に哀れな者となってしまいます。では、そのようなことにならないために、イエス・キリストの復活を歴史的事実として信じているのでしょうか。もしそうであれば、実質的にはなかったものを信じているのですから、哀れな者であることに変わりありません。
聖書は「イエス・キリストは復活された」と教えています。ですが、それは単なる教えではありません。イエス・キリストの復活は歴史的事実なのです。歴史的事実だからこそ信じているのです。パウロは、イエス・キリストの復活が歴史的事実でない場合の結果を平気で語っています。何故パウロは、そのようなことを平気で語ることができたのでしょうか。それは、パウロがイエス・キリストの復活の教えを信じていたからではありません。実際に甦られたイエス・キリストと出会ったからです。自分の身体をもって経験したからです。パウロの心の中には、イエス・キリストの復活が万が一にもないことを確信していたから、復活が事実でない場合のことを平気で語ることができたのです。このことからしても、イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを示しています。そして、私たちも「信じれば平安が与えられるから」とか「信じれば喜びが与えられるから」ということで信じているわけではありません。イエス・キリストの復活が歴史的事実だからこそ信じているのです。事実に基づいたものを信じるのがキリスト教信仰です。
これらのことを見るとき、「聖書が語る信仰とはどのようなものであるか」というのを知ることができます。信仰とは「ただ信じれば良い」というものではありません。事実に基づいたものを信じることです。「他人のために良い」と思って、嘘の証言をすることは許されないのです。それは「神のために」と思えることにおいても同じです。人が感激して神に目を向けるためなら作り話を語っても良いということにはならないのです。それは神に背く行為になってしまいます。また、信仰は見栄を張ることでもありません。神を信じる者は真面目な人になったのだから、ジョークも言わず無理な生活をしなければならないものでもありません。神はその人の性格を用いられるお方です。私たちの性格や性質を通して働いてくださるお方です。ですから、神から与えられている性格や性質に感謝しつつ、その中で神を信じて生きることを神は求めておられるのです。
私たちは「何故キリスト教を信じているのか」と聞かれることがあります。私たちは聖書の教えがすばらしいから信じているのでしょうか。決してそうではありません。すばらしい教えは何処の宗教にもあります。私たちが聖書を信じているのは、聖書が語っていることが事実だからです。そうではないでしょうか。心の安らぎを得るために信じているのではなく、聖書に書かれていることが事実だから信じたのではないでしょうか。そして、その信じた結果として心の安らぎが与えられたのではないでしょうか。確かに、「心の安らぎを得るために教会に来られた」という方もおられます。教会に来られたきっかけはそうであったとしても、信じる決心をされたのは心の安らぎを得るためではなく、聖書が語っていることが事実だったからではないでしょうか。イエス・キリストが甦られたというのは歴史的事実です。だからこそ、イエス・キリストに希望があるのです。

結)
 ローマ10:11に「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」と書かれています。「この方」とは、イエス・キリストご自身のことです。イエス・キリストにこそ本当の希望があります。それはイエス・キリストが死から甦られた方であり、その甦りは歴史的事実だからです。今日から2018年度が始まりました。この新しい年度も、私たちは様々な事柄に直面することでしょう。その事柄は全てが自分にとって良いものではありません。自分にとっては悪いものも経験することでしょう。しかし、私たちには本当の希望が与えられているのです。希望の人生が与えられているのです。そのような人生を与えてくださった神を覚え、イエス・キリストの復活に目を留めて、この新しい年度を歩まされていきたいと願います。

Ⅰコリント15:6~11「神の恵み」  18.03.25.

序)
 今週の金曜日は、イエス・キリストが十字架に架かられて死なれた日です。この日をキリスト教では「受難日」と言います。そして来週の日曜日は、十字架に架かって死なれたイエス・キリストが死から甦られた日です。この日を「イースター」と言います。最近では、「イースター」ということばも日本で馴染んでくるようになりました。10年前は殆どの日本人が知らないことばでしたが、東京ディズニーランドがイースターのイベントをするようになってからは、日本人の中にも浸透するようになりました。東京ディズニーランドの影響力を知らされます。先程も話しましたが、今週の金曜日は受難日です。この週をキリスト教では「受難週」と言います。イエス・キリストが十字架に架かって死んでくださったのは、ただ一方的な神の愛と憐みによるもので神の恵みということができます。今朝は、10節のみことばを中心に神の恵みとはどのようなものかを共に教えられたいと願っています。

1)人を変えるもの
 神の恵みの第1は、人を変えることができます。パウロは10節で「神の恵みによって、私は今の私になりました。」と語っています。「今の私」ということは、「過去の私は今の私のようではなかった」ということを表しています。過去のパウロは、どのような人だったのでしょうか。彼は聖書の教えを守るのに努力する人でした。パウロはイエス・キリストを信じる前から神であられる主を信じていましたが、その主の捉え方が間違っていました。彼は「聖書の教えを守り行う人を神は愛してくださり、その人の罪を赦してくださる」と捉えていたのです。すなわち、「義しい行いをする人を神は愛し赦され、聖書の教えを守り行わない人を審かれる厳しい方」と捉えていたのです。
 ですから、パウロは聖書の教えを守り行うことに必死だったのです。そして、聖書の教えを守り行うことによって、「自分は神に愛され受け入れられている」と思っていたのです。ですが、そのパウロの心の中にあるものは平安ではありませんでした。彼の心の中にあったものは不安しかなかったのです。何故なら、聖書の教えの1つでも破ってしまったら、神から見放され罪人として審かれてしまうからです。パウロの神の愛というのは、「○○したら愛され受け入れられる」という条件付きの愛だったのです。
 しかし、イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロは、そのような神の愛の捉え方が間違っていたことを知りました。彼は「自分は神のためにしている」と思っていたことが、実は神を悲しませることをしていたのです。自分の中では「正しい」と思っていたことが、実は神に対して正しいことではなかったのです。さらに言えば、彼は神に対して罪を犯していたのです。それなのに、神はそのような自分を見捨てたり審かれたりするのではなく、そのような自分を愛し受け入れてくださっている方であることを知ったのです。今までは「こうであらねばならない」という生き方をしていましたが、イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロは「このような自分で良いのだ」という生き方に変えられたのです。
 この生き方は全く違います。「こうであらねばならない」という生き方は、義務的な生き方であり結果が求められる生き方です。そこには、喜びというものはありません。しかし、「このような自分で良い」というのには、ありのままの自分が受け入れられていることを知りますから喜びがあります。間違って捉えられると困りますが、「このような自分で良い」というのは「何もしなくても良い」ということではありません。「このような自分で良い」というのは、どのような結果であれ問題にされないということです。
 例えば、教会の奉仕をするとします。「こうであらねばならない」という捉え方の奉仕は、「失敗することなく良い結果を出さなければならない」と考えてしまいます。そして、その結果を評価してしまいます。ですが、「このような自分で良い」というのは、教会の奉仕をしますが失敗をすることがあります。失敗するわけですから、当然良い結果が出るわけではありません。ですが、その結果で評価されることもありません。では、何で評価されるのかと言いますと、その奉仕に対して忠実であったかどうかで評価されるのです。「失敗をする自分ではあるけれども、神は受け入れ用いてくださる」というのが、「このような自分で良い」ということです。結果が求められる生き方から解放される生き方へと変えられるのが神の恵みです。

2)無駄にはならない
 神の恵みの第2は、無駄にはならないということです。先程も話しましたように、イエス・キリストと個人的な出会いをする前のパウロは、聖書の教えを守り行うことに必死であり心の中にあったのは不安でした。また、彼はイエス・キリストを信じる人を迫害していました。これは、キリスト者としてのパウロにとっては大きな汚点でした。できれば隠しておきたいようなことです。ですが、神はそのようなパウロを愛し受け入れてくださったのです。パウロにとっては隠しておきたいような過去の汚点を、神はご自身のすばらしさを現すために用いられたのです。パウロから見れば、キリスト教を迫害していた経験は何の益にもならないのです。むしろ、無駄な過去だったのです。しかし、神はパウロが「無駄」と思えるような過去の経験を豊かに用いられたのです。
 少し話しが反れますが、私は献身する前は医療機械の会社で働いていました。入社した当初は業務部に配属となって荷造りの仕事をしていました。その後、営業部に配属となって石川県の営業所に転勤になりました。すると、そこの所長は私をやたらとメーカーの研修に行かせるのです。何の研修かと言いますとメンテナンスの研修です。機械が故障したときに修理できるためです。当時の私は「私が研修に行かなくても、営業所にメンテナンスの人間を一人置けば良いのに」と思っていました。ところが、この経験が営業で用いられるようになったのです。私が勤めていました会社は、医療機械の卸し的なことをしていました。ですから、病院に直接医療器具を売ることは殆どありませんでした。大きな病院のドクターにアポイントをとって商品をPRして、話しが煮詰まりますと出入り業者に連絡するというものでした。そして、開業医には全く出入りしません。開業医というのは、出入りする医療機械の会社は殆どが1社です。医療機械の小売店の多くは家族でしているか、社員が10名も満たない小さな会社です。ですから、当然そのような店には機械を修理できるような人はいません。そのため得意先からは、時々修理依頼の電話がありました。その時、私が出向いて修理したり応急処置をしたりしていました。そのようなことをしていましたので、商品の値段が多少高かったとしても会社の方に注文が回ってくるのです。所長はそのことを知っておられたのです。所長は私の将来を見通して私に研修に行かせたのです。
 神は人よりも優れた方です。私たちの人生の先をよく御存知です。そのために、今の私たちに何が必要であるかを知っておられます。私たちの人生の中にも「何でこんなことを」ということがあるのではないでしょうか。「こんなの今の私には必要ない。今の私に必要なのはこちらだ」と思うことがあるのではないでしょうか。ですが、神はそのような無駄に思えるような経験を用いられるのです。何故嫌な経験をしなければならないのかと言いますと、その経験が後に用いられるためです。私はジュピターという歌を知りませんでした。初めて知ったのは「陸王」というドラマを通してです。その曲の歌詞に「愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」とあります。その通りだと思います。神の恵みには無駄は何一つないのです。

3)人を生かす
 神の恵みの第3は人を生かします。神を知る前までのパウロは結果で評価していましたが、神を知ってからは結果で評価することから解放されました。大切なのは良い結果を出すことではなく、与えられている務めに対して忠実であることです。すなわち、今がどうであるかが大切なのです。マタイ25章は神の審きの時が話されている箇所です。賢い娘たちと愚かな娘たちの譬え話、タラントの譬え話、最後に永遠の刑罰に入る人と永遠のいのちに入る人の話しが書かれています。特に最後の部分の45~46節には「     」と書かれています。小さな人に親切にした結果がどうなったのかは語られてはいません。イエス・キリストが語られているのは、小さな人に親切にしたということです。それは目の前にあることに対して忠実であったということです。すなわち今なのです。結果でもありませんし、将来でもありません。「その時がどうであったか」が問われているのです。パウロは神を知る前までは結果に目が向けられていましたが、神を知った後は今に目を向けるものに変えられたのです。良い結果が出せなくても、今を忠実に生きる者を神は受け入れてくださることを知ったのです。今を忠実に生きるというのは誰にでもできることではないでしょうか。
 そして、「無駄」と思えるような経験も、神は豊かに用いてくださいます。神は一人ひとりに賜物を与えてくださっています。ある方は、「私には賜物はない」と思われるかもしれません。しかし、以前にも話しましたが経験も賜物です。私たちの今までの経験も、神が私たちに与えてくださいました賜物なのです。あなたの今までの経験は、あなただけのものです。他の人にはないのです。その一人ひとりの経験を神は豊かに用いてくださいます。本当に神の恵みには決して無駄がありません。
 パウロは10節の中程で、「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました、」と語っています。実際にどうだったのかは分かりませんが、パウロは「自分は他の使徒たちの働きよりも少なくはない」と確信していたことは確かです。実際に、パウロの働きを見ますとそのように見えます。パウロがこのように働くことができたのは何故でしょうか。パウロの原動力は神の恵みです。パウロはいつも神の恵みに目を留めていたから、今を忠実に生きることできたのです。そして、今を忠実に生きるには喜びが必要です。自分が経験することをどのように捉えるかによって、その人の生き方は違ってきます。肯定的に捉えるか否定的に捉えるかによって、その人が喜びをもって生きられるか生きられないかが決まってきます。
 神は人を造られ、いのちの息を吹き込まれました。そのとき人はどうなったでしょうか。創世記2:7の最後に、「それで人は生きるものとなった。」と書かれています。この「生きるものとなった」というのは、漠然と呼吸をして生きるということではありません。そこには生きる目的と生きる喜びが与えられていることを表しています。自分に与えられた人生を積極的に生きるものとなったことを表しています。私たち一人ひとりは、神にあって生きるものとされているのです。そして、私たちが本当の意味で生きるものとなるには、神の恵みに目を留めるしかありません。神の恵みは、人を生かすものでもあります。

結)
 今週は受難週で来主日はイースターです。イエス・キリストの十字架による死と復活は、私たちが生きるものとなるための神の恵みです。私たちは辛い経験をすることがあります。今その辛い経験の最中にいる方がおられるかもしれません。ですが、その経験は決して無駄にはなりません。どのような方法なされるのかは分かりませんが、神はそれを豊かに用いてくださいます。だからこそ、今というときを神に対して忠実に歩んでいきましょう。

Ⅰコリント15:1~5「最も大切なこと」  18.03.18.

序)
 あと2週間で、イエス・キリストが死から甦られたイースターです。私は月に2回、ケアハウスに入居している母の所に行き、実家で1泊して帰るということをしています。今月も4日の礼拝の後に家内と一緒に津に行き、実家で1泊しました。時々、施設のヘルパーさんから買い物の依頼がありまして、今回イオンに行って買い物をしました。そのとき、イオンではイースターセールの案内が店内に流れていました。「春の祭り」ということで流れていましたが、最近ではイースターも世間に浸透しつつあります。ところが、イースターの本当の意味を知らない方々が大勢おられます。クリスマスが「サンタクロースからプレゼントをもらう日」と勘違いされているのと同じように、単なるキリスト教の春の祭りのように思われている方が多いのではないでしょうか。今朝は、イースターを前にしてイエス・キリストが何のためにこの世に来られたのかを共に教えられたいと願っています。

1)私たちの罪のために死なれるため
 第1は3節の最後に書かれていますように、私たちの罪のために身代わりとして死なれるために、イエス・キリストはこの世に来られました。ある方は「人は死に向かって生きている」と言われます。何故なら、命のあるものは全ていつかは死ぬからです。1日生きたということは、1日死に近づいたということになります。ですから、「人は死に向かって生きている」というのも間違いではありません。ですが、人は死ぬために生きているのではありません。死というのは、この世に生きた結果であって目的ではありません。ですから、人は死ぬために生まれたのでもなければ、生きているのでもありません。人は感謝と喜びと希望をもって生きているのです。ところが、イエス・キリストは死ぬためにお生まれになられたのです。しかも、それは私たちの罪のための身代わりとなっての死です。
 何故でしょうか。それは、私たちの中に罪があるからです。私たちは「罪」ということばを何度も聞いています。そして「罪とは何かを知っている」と思っています。ある方は、「罪とは自分勝手な生き方であり自己中心である」と言われます。確かにその通りです。私自身もメッセージで何度もそのように語ってきました。では、何故人は自分勝手な生き方をするようになったのでしょうか。創世記の最初には、神が世界を造られたことが書かれています。そして、神は人をも造られました。私たちは、その最初に造られたアダムとエバの子孫です。神が人を造られた目的は、この世界を造られた神のすばらしさを現していくためです。その神のすばらしさを現していくためには、神に仕えるしかありません。すなわち、神を礼拝することです。ところが、人はサタンの誘惑によって神に仕えることよりも、自分の思いを満たすことを優先させてしまいました。これが罪なのです。神を礼拝することよりも、他のことを優先させてしまうことが罪なのです。さらに言えば、神を礼拝しないことが罪なのです。
 人は神を礼拝することよりも、自分の思いを満たすことを優先させてしまったがために、本来の生きる目的を見失ってしまいました。言うならば人生の迷子になってしまったのです。そのような人生にあるものは何でしょうか。それは不安と恐れです。人は生きることに、不安と恐れを抱いてしまう存在となってしまったのです。人は神を礼拝する者として造られたのに、神を礼拝することよりも自分の思いを満たすことを優先するようになったがために、不安と恐れを抱く人生を歩むようになったのです。それが罪の中を歩むということです。ですが、神はそのような私たちが本来の生きる目的を見出す方法をとってくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは、間違った方向を歩んでいる私たちが本来の方向に歩むことができるために、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって、父なる神の審きを受けてくださったのです。それほどまでに、神は私たちのことを愛しておられるのです。私たちを造り、私たちを愛しておられる神を礼拝する者となるために、イエス・キリストは十字架に架かって死なれるために、この世にお生まれになられたのです。

2)死から甦るため
 4節に書かれていますように、イエス・キリストは十字架に架かって死なれましたが、その3日後に死から甦られました。イエス・キリストがこの世に来られた目的の第2は、死から甦られるためです。人は目的や目標を持って生きる者とされています。しかし、その目的や目標を持っていたとしても、そこに希望がなければ何の意味もありません。絵に描いた餅は、どれだけ見つめていても決して食べることはできません。どれだけ手を伸ばして触ってみても、取って食べることはできません。見ているだけでよだれが出てしまうようなものであったとしても、自分のお腹に入れることはできません。絵に描いた餅は、所詮は絵に描いた餅なのであって、決して食べることはできないのです。そこには希望は全くありません。
 私たちの人生も同じです。生きる目的や目標を持っていても、そこに本当の希望がなければ何の意味もありません。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって死んでくださいました。私たちは、そのイエス・キリストの十字架によって、ありのままの自分が神に愛されていることを知りました。ありのままの自分が愛されていることを知ったら、人は前向きに生きることができるのかと言いますとそうではありません。そこに希望がなければ前向きに生きることはできないのです。10年程前の日本での自殺者数は年間3万人を超えていましたが、最近では減少傾向にあります。と言いつつも年間2万人以上の方がおられます。昨年では1日平均58人程の方が亡くなられています。自殺される理由は、生きる希望を失ってしまったからです。どれだけ愛されていても、そこに希望が見出されなかったら人は死を選んでしまいます。死は絶望の終着駅です。
 ですが、イエス・キリストは絶望の終着駅である死から甦られたのです。すなわち、本当の希望を与えてくださったのです。聖書に「この方に信頼する者は失望させられることがない」と書かれています。神は私たちが想像する以上のことをもって、すばらしいことをしてくださる方です。弟子たちは、イエス・キリストが十字架に架かられ死なれたとき、失望のどん底にいました。彼らはイエス・キリストに期待していたのです。その期待が大きければ大きいほど、その反動も大きいものです。弟子たちは生きる指標を見失ってしまいました。そのようなとき、イエス・キリストは死から甦られ弟子たちに現れてくださったのです。失望のどん底にいた弟子たちが、甦られたイエス・キリストを見たときの想像をしていただきたいのです。彼らはどのようだったでしょうか。もう口では表現できない程の大きな喜びと驚きだったのではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちに本当の希望を与えるために死から甦ってくださったのです。本当の希望を与えるために、イエス・キリストはこの世に来てくださったのです。

3)福音に生きるため
 イエス・キリストの十字架による死と復活が福音です。すなわち、ありのままの自分が神に愛されていることと、本当の希望をもって生られることが、神が私たちに与えてくださった福音です。その福音は、私たち一人ひとりに与えられています。あとは、私たちがどのように生かすかです。イエス・キリストがこの世に来られた目的の第3は、私たちが神から与えられた福音に生きるためです。福音というのは、聞いて教えられただけでは何の意味もありません。それを実生活の中で用いることによって生きたものとなるのです。すなわち、感謝と喜びの生活を過ごすことができるのです。
 今私は「やまひこ春日井店」というスーパーでアルバイトをしています。最初にアルバイトを始めたのは「カネスエ」というスーパーでした。当時は稲沢の教会で牧師をしていましたので、その教会の近くに「カネスエ」というスーパーがありました。始めた理由は経済的なことからです。日中は教会の仕事がありますから、「夜にできるバイトはないか」と祈っていましたら、1枚のチラシが目に留まりました。それがカネスエの夜の求人広告だったのです。いろいろな部門があったのですが、近所ですから知っている方も買い物に来られます。知っている人に出会うと恥ずかしいですから、あまり店内に出ない部門が良いと思って青果部門で働くことを決めて店に電話し、面接を受けて働くようになりました。2年後、店長から「夜間の責任者になってほしい」と言われ、時給も増えて夜間店長として働くことになりました。ところが、2年後「4月から営業が10時までになる」と言われ私はカネスエを辞めることにしました。そして、「やまひこ」というスーパーで働くことになりました。当時は、夜間店長が休みのとき今までは派遣社員が夜間店長をされていました。それがカネスエでの経験が生かされ、夜間店長が休みのとき私が夜間店長をすることになりました。当然、時給も上がります。
 私がカネスエを辞めてやまひこで働くようになったときは、娘が中学生になる時でした。当然、費用もかかるようになります。もし、カネスエで働いたままだったら大変なことになっていました。ですが、やまひこで働くようになってから収入も増えたのです。そして、春日井に引っ越すようになってやまひこを辞めました。「半年経てば生活リズムも掴めるだろうから、10月からはアルバイトをしなければならないな」と思いつつ祈っていました。すると、8月にやまひこの春日井店で買い物をしていましたら。やまひこの専務に遭遇して「また働かないか」と声をかけられました。実は、春日井店の店長に打診していたのです。ところが、当時「夜の社員は2人いるので今は必要を感じていない」と言われていたのです。そのことを話したら、「何とかするから働いてほしい」と言われ採用され今に至っています。そのことを思いますと、計り知ることのできない神の備えというものを知らされます。
 神の備えを思い巡らすとき、これからの歩みにおいても神の備えに望みを置くことができます。今、朝の祈祷会では申命記を学んでいます。申命記の主題は「回顧と展望」です。今までの神の導きを振り返りつつ将来を見渡すことが申命記の主題です。神を信じていても様々な事柄に遭遇します。そこには不安や恐れが生じます。しかしながら、神は最善の時に最善の方法をもって導いてくださるという希望を持つことができます。以前働いていました教会での話しですが、当時中学3年生の女の子が私に「夏のキャンプに行きたいが、高校の受験勉強もありどうしたら良いか」と尋ねられました。私は何の躊躇もなく「キャンプに参加した方が良い」と話しました。そして「神様のためにしている人を神様は放っておかれるような無責任な方ではないよ。必ず合格させてくださる。但し、一生懸命勉強もせなあかんよ。」と伝えました。彼女は夏のキャンプに参加し希望していた高校も合格しました。その後、アメリカに留学されたことを聞きました。
 マタイ6:33に「     」と書かれています。これは神の祝福の原則です。神に従うことを第1とするとき、霊的祝福だけでなく物質的祝福も受けられることが約束されています。ところが、私たちはその順番を反対にしてしまいやすくなります。そうなりますと、自分の目の前のことで精一杯になりますから、当然心の中は不安や恐れでいっぱいになります。これは神を信じている者にとっても同じです。何を心の拠り所とするのかによって、その人の生き方は違ってきます。イエス・キリストは、私たちが遭遇します様々な事柄に対して、希望があることを明らかにされるために十字架に架かって死なれ甦ってくださったのです。「この私のために神は最善の時に最善の備えをして導いてくださる」と信じ歩むことが福音に生きるということです。イエス・キリストは、私たちがその福音に生きる者となるために、この世に来てくださったのです。

結)
 イエス・キリストがこの世に来られた目的は、私たちが本当の意味で生きる者となるためです。生きるということは可能性があるということです。可能性があるということは希望があるということです。死には可能性も希望もありませんが、生きることによって可能性も希望もあるのです。マタイ6:33の神の約束を信じ、共に歩んでいきましょう。

Ⅰコリント14:26~40「神が喜ばれる礼拝」 18.03.11.

序)
 私たちが生かされています社会には、様々なルールがあります。身近なもので言えば交通ルールがそうです。ドライバーの好きな速度で走ることはできませんし、信号は守らなければなりません。それは人が安全に生活することができるためです。また、会社にもルールがあります。多くの会社は出社時間や退社時間が決まっていますし、仕事の内容も各々決まっています。それは会社が伸びて成長するためです。それと同じように、教会や礼拝にもルールがあります。その目的は成長に役立てるためです。26節に「あなたがたが集まるときには」と書かれています。これは礼拝のことを示しています。では、礼拝におけるルールとは何でしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)理解できることばで語ること
 礼拝におけるルールの第1は、理解できることばで語ることです。異言とは今までも話してきましたように、理解できないことばで語られるものです。聖書は異言を語ることを否定してはいませんが、27節で勧められていますように解き明かしできる人が必要であることも語っています。すなわち、通訳が必要であるということです。何故なら、理解できなければ成長することはできないからです。ですから、28節の前半に書かれていますが、解き明かすことのできる人がいない場合は黙っているように勧められています。それは、礼拝では理解できることばで語られる必要があるからです。と言いますのも、キリスト教の中心は福音です。その福音というのは、イエス・キリストの十字架による贖いを信じることによって自分の罪が赦され、イエス・キリストの死からの甦りを信じることによって永遠の希望が与えられるというものです。
 聖書は「全ての人が罪を犯している」と語っています。その聖書が示す罪とは自己中心のことです。多くの人は「罪」と聞かれますと、法律を違反した行為のことを思い浮かべられます。ですが、その心の中にあるものが結果として表れてしまうのが違反行為です。盗むというのも自分の心を満たしたいからです。人の命を奪うというのも、その人の存在がいなくなることによって自分の心が満たされるからです。結局は自己中心が原因です。イエス・キリストは、そのような私たちのために身代わりとなって十字架に架かり、父なる神の審きを受けてくださったのです。そして、父なる神に「この人の罪を私が代わりに背負いましたから、この人の罪をお赦しください」ととりなしてくださっているのです。ですから、イエス・キリストの十字架による贖いを信じることによって、人は自分の罪が赦されるのです。ですが、それだけではありません。父なる神は、死なれたイエス・キリストを死から甦らされました。それは、イエス・キリストを信じる者が死んで終わりではなく、死んだ後も甦ることができるという希望を与えるためです。これがキリスト教の中心である福音です。
 礼拝は、その福音が語られる場です。また、私たちの罪を赦してくださった神を讃え神に感謝する場です。そして、新たに神のことばから慰めや励ましを受け、霊的力をいただく場でもあります。それには、理解できることばで語られる必要があります。何故なら、理解できないことばで語られても慰めや励ましを受けることはできないからです。ですから、「ただ礼拝に出席していれば良い」というのは間違いです。神のみことばから教えられ強められ、慰められ励まされる必要があるのです。それには、理解できることばが必要です。ですから、聖書は理解できることばで語ることを勧めているのです。

2)吟味すること
 礼拝におけるルールの第2は、29節に書かれていますように吟味することです。この「吟味する」ということばは、判別することを意味しています。預言というのは、神から教えられたことを他の人に話すことです。聖書は「神のことばが語られたのだからと言って何でも従うように」とは勧めてはいません。むしろ「判別するように」と語っているのです。これはどういうことかと言いますと、「その預言のことばが神の栄光を現すものであるかどうかを判別するように」ということです。何故吟味する必要があるのかと言いますと、神はそのことばを日常生活の中で実践することを命じられています。キリスト教信仰というのは、信仰と生活は別物とはしていません。ですから、キリスト者にとって神のことばと日常生活は深いつながりがあります。だからこそ、みことばの解き明かしは自分の生活が生きたものとなるかならないかという大切な問題に関わってきます。だから吟味する必要があるのです。
 その語られるみことばを判別するには考える必要があります。ですから、神のみことばが語られる時は考えながら耳を傾ける必要があることも同時に教えられるのではないでしょうか。礼拝というのは、「理解できることばで語られていたらそれで良い」というものではありません。聞く側においても、考えながら耳を傾ける必要があるのです。それはどういうことかと言いますと、「その神のことばが今の自分の生活の中でどのように生かしていけば良いのか」ということを考えるということです。または、「今の自分に神は何を語り、何を教えようとされているのか」を考えながら聞くということです。この意識がない限り、神のことばを聞き流してしまう危険性があるのです。聞き流すならば、それは霊と真理による礼拝とはならないのです。
 以前に、このような話しを聞きました。それは牧師の子どもが教会の役員の方とのやりとりのことです。牧師の子どもが教会の役員の方に「父は礼拝でメッセージを語ることによって神のすばらしさを語っている。だから、父は神を礼拝しているように思えるが、私たちはただ聞いているだけで、これは礼拝にならないのではないか」というようなことでした。すると、その教会の役員の方は、その牧師の子どもに「先生はメッセージを語ることによって神を礼拝しているが、私たちはメッセージを聞くことによって神を礼拝している」と答えられたというのです。私はその話しを聞いて「すばらしい答えだな」と思わされました。
 確かに礼拝は、説教者が一方的に語り聞く側は一方的に聞くだけです。しかし、聞き流しているのではありません。その語られているみことばを自分の生活の中に当てはめ、自分の生活の中で生かしていこうとされているのではないでしょうか。そのようなことから、神のみことばは私たちの日々の生活と密接に関わっていることを知らされます。それほど神のみことばは、私たちにとって大切なものなのです。そのような大切なものですから、その神のみことばの解き明かしを吟味する必要があるのです。すなわち、正しいみことばの解き明かしがなされているかどうかを吟味する必要があるのです。面白楽しいメッセージとか、恵まれるメッセージが好まれるこの頃ですが、一番大切なのは正しいみことばの解き明かしなのです。2月の最後の水曜日に、春日井・小牧地区の祈祷会がルーテル教会で行われました。ある先生がみことばの奨励をしてくださいました。その先生は使徒5:29を通して話されました。礼拝が終わると、メッセージについていろいろと言われることがあるようです。その中の一つとして、「仕事に役立つ話しをしてほしい」とか「恵まれる話しをしてほしい」という声もあるとのことでした。ですが、その先生は頑なにそのような声を受け入れず、聖書が語っていることを正確に伝えていくようにされているとのことでした。その話しを聞きながら、私自身も「その通りだな」と思わされました。大切なのは、役立つメッセージや恵まれたメッセージではなく、正しいみことばの解き明かしなのです。私たちもみことばを吟味する者とさせられたいものです。

3)場をわきまえること
 礼拝におけるルールの第3は、場をわきまえることです。34節に「女の人は教会では黙っていなさい。」と書かれています。この箇所だけを読みますと、聖書は女性蔑視をしているようにも思えます。ですが11:5には、教会で女性の祈りや預言ができることも書かれています。では、今朝の箇所の34節はどういうことでしょうか。14章は教会で行われている礼拝について書かれています。公の場で語られることばは異言ではなく理解できることばでということです。そうでないと、教会の礼拝が混乱してしまうからです。礼拝とは、神の導きに感謝し献げられるものです。それは、このような私といつも共にいてくださる神に感謝し、その神をほめたたえるものです。ですから、礼拝は神のすばらしさが現されるところです。しかし、その礼拝が混乱していたらどうでしょうか。神のすばらしさを表すよりも、神を悲しませてしまうことになります。だからパウロは、礼拝を混乱させてしまう異言よりも、理解できる預言のことばを用いることを勧めていたのです。すなわち、礼拝の中にも秩序を保つルールがあることを語ってきたのです。
 そして、この34~35節においてもそうです。コリント教会には、礼拝を混乱させてしまう女性がいたのです。当時の社会習慣では、女性は公の場では黙っているものでした。ところが、コリント教会の一部の女性たちは、「キリスト者になることによって男女の区別を超えた存在になった」と思ってしまったのです。神にあって男女は平等であるから何においても平等に扱われるべきだと主張し、公の場においても男性と同じように発言することができるとしていたのです。このような考え方を皆さんはどのように思われるでしょうか。日本の社会においては、男女は平等に取り扱われています。ですから、どの場であろうとも同じように発言することが許されています。そのような社会の中に生かされていますから、「女の人は教会では黙っていなさい」というのは民主主義に反するようにも思えます。そして、コリント教会の一部の女性たちが主張することの方が正しいようにも思えます。
 男女が平等であるということには間違いありませんが、それは礼拝の場でされるべきものではありません。当時の教会は家の教会で、現代のような教会堂というものはありませんでした。個人のクリスチャンが自分の家を解放して、そこに人が集まって神を礼拝していました。35節では「女の人は教会では黙っていなさい」と勧め、36節では「家で自分の夫に尋ねなさい」と勧めています。パウロは教会と家を区別しています。11章の箇所で触れましたが、当時は個人の家が解放され、そこに人が集まって礼拝が行われていました。ですから、自分の家を解放している人は自分の家が教会になります。そうなりますと、公の場とプライベートの場が混乱してしまいやすくなります。または、「個人の家に行くのだから」ということで「公の場」という意識がなかったのかもしれません。ここでパウロが主張しているのは、「個人の家であれ神を礼拝するために集っているのであるならば公の場である」ということです。礼拝は神のすばらしさが現される所であり、それを目的として集っているのです。それなのに、誰も理解できない異言で話されたなら混乱してしまいます。「女の人は教会では黙っていなさい」というのも、当時の社会習慣では女性が公の場で語るということがなかったからです。そして、33節に書かれていますように神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。「平和の神」とは、秩序のある神ということです。礼拝は混乱を招く場ではなく、神のすばらしさが現され、集う一人ひとりが共に神をほめたたえる場です。そのことをわきまえるように勧められているのです。

結)
 礼拝とは、献げる者が自由にすれば良いというものではありません。それは自己満足の礼拝であり、神が求めておられる礼拝ではありません。神が望まれている礼拝は、霊と真理による礼拝です。それには秩序が保たれる必要があります。私たちが生かされています社会にはルールがあるのと同じように、礼拝にもルールがあります。その礼拝のルールの目的は、集う一人ひとりが共に神を崇め誉めたたえることです。私たちが献げます礼拝が、共に神を崇め誉めたたえる礼拝とされるものでありたいと願います。

天におられる父なる神様。礼拝は、あなたが崇められ誉めたたえられるものです。しかし、あなたが崇められ誉めたたえられるなら何がなされても良いというものでもありません。そこには、集う一人ひとりが共に神を崇め誉めたたえるということが大切です。私たちが献げる礼拝が、秩序が保たれたものとなりますように助けてください。そして、あなたが喜ばれる礼拝を献げていくことができますように導いてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン

Ⅰコリント14:20~25「福音は神の力」  18.03.04.

序)
 3月に入り春の時季ですが、まだ寒さを感じさせます。多くの人は受けることによって幸せを見出そうとされますが、イエス・キリストは「受けるよりも与えるほうが幸いである」と話されたことを前々回の礼拝で見ました。幸せをキリスト教のことばで言いますと「祝福」と置き換えられるのではないでしょうか。信仰の祝福は受けるものではなく与えるものであるなら、私たちはどのようにして与えることができるでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)価値判断について
 まず、20節で考え方について書かれています。これは価値判断のことです。さらに言えば、幸せをどのようにして感じられるかということです。子どもというのは、親に「あれ買って」とか「これがほしい」と言います。また、小さい子ども同士で遊んでいるとき、自分が持っているものを他の子に貸すということが苦手です。これは持っていることによって幸福感を覚えるからです。このような所有意識を持つというのは、子どもの成長において大切なことです。ですから、聖書はそれを否定してはいません。ですが、「大人も同じようであれば問題である」と指摘しているのです。すなわち、それは「与えられることによって幸せになれる」という考え方です。
 ですが、大人もそのように捉えている方は多いのではないでしょうか。与えられることを求める人が多いのではないでしょうか。すなわち、「どれだけ持っているか」を重視し、「多く持っている人が幸せな人」と思われている方が多いのではないでしょうか。メッセージ準備をしている中で、またタラントの譬え話を思い出しました。あの1タラント預けられた人は、そのような価値観を持っていたのではないでしょうか。5タラントと2タラントを預けられた人は商売をして儲けました。商売をするということは、何かを売らなければなりません。何かを売るということは、それを仕入れなければなりません。仕入れるには持っているお金を支払わなければなりません。5タラント預けられた人は、商売をして5タラント儲けました。その背後には、まず5タラントのお金を仕入れのために用いたということでもあります。2タラントの人も同じです。まず、主人から預けられたお金を手放したのです。
 ところが、1タラント預けられた人は、そのお金を全く用いませんでした。銀行に預けることもしませんでした。彼は手放すことを嫌がったのかもしれません。それは「自分の手許になるものは、どのようなものであれ手放したら損をする」という考え方をしていたのかもしれません。そのように考えますと、この1タラント預けられた人は、「与えることよりも受けることによって幸せになれる」と捉えている人のようにも思えます。ところがどうでしょうか。彼は主人から預けられた1タラントのお金を取り上げられてしまったのです。しかもそれだけでなく、外の暗闇に追い出されてしまったのです。それまでは明るい人生を歩んでいましたが、暗い人生を歩まなければならなくなってしまったのです。暗い人生とは、「不幸な人生」と言えるかもしれません。彼は「多くのものを受けることによって幸せになれる」と思っていたのですが、実は幸せではなく不幸だったのです。
 1タラント預けられた人は、「受けることによって幸せになれる」と捉えていた人でもあります。でも、それは子どもの考え方です。聖書は「大人の考え方をしなさい」と勧めています。それは「与えることによって幸せになれる」ということです。何故なら、与えることによって人を成長させることができるからです。その与えるというのは、何も物だけではありません。私たちの労力というのもそうですし、時間というのもそうです。私たちは自分のために労力や時間を用いることは全く抵抗ありません。ですが、自分以外のものに用いることは抵抗を覚えてしまいやすいのではないでしょうか。でもそれは、1タラント預けられた人と同じです。イエス・キリストは「受けるよりも与えるほうが幸いである」と話されました。受けるよりも与える方に価値を見出すことのできる者とされたいものです。

2)異言と預言について
 「価値判断について大人であるように」と勧めたパウロは、その後で異言と預言について語っています。異言というのは、何度も話していますが理解できないことばで語るものです。コリント教会の一部の人たちは、その異言が自分にも語れることができるように熱心に求めていました。その目的は、自分が成長するためです。すなわち、受けることを求めていたのです。ですが、彼らも多くの神の恵みを受けていたのです。それにも拘らず、さらに受けることを求めていたのです。彼らは、他の人の成長を求めてはいなかったのです。そのような意味で、パウロは「それは子ども的な考え方である」と指摘しているのです。
 間違ってもらいますと困りますが、「異言を求めることが悪い」と話しているのではありません。預言の賜物よりも異言の賜物が与えられることを優先して求めるのは間違っているということです。何故なら、異言は他の人を成長させることはできませんが、預言は他の人を成長させることができるからです。何故なら、預言は理解できることばで語られるからです。その根拠としてパウロは、21節で「     」と語っています。21節の引用のところに②とあります。下の欄外を見ますと、イザヤ28:11と書かれています。この21節は、イザヤ28:11~12からの引用であることが分かります。イザヤ28:1~13は大きく3つに分けることができます。第1の区分は1~8節です。当時イスラエルは北と南に分かれていました。そして、北イスラエル王国に対しての神のことばが1~8節に書かれています。彼らは世界を造られた方を神とせず、偶像崇拝をし堕落した生活を過ごしていました。それに対して、神がイザヤを通して語られたのが1~8節です。第2の区分は9~10節です。イザヤが語ったことばに対しての人々の反応が書かれています。彼らは何と言ったかと言いますと、「イザヤは幼子に話しているのと同じだ」ということです。この箇所を分かりやすく言いますと、「イザヤは私たちを誰だと思っているのか。赤ん坊や幼子に教えるように話すなんて。私たちが神の教えを知らないとでも思っているのか」ということです。そして、10節では「イザヤは口を開けばやれ戒めだ、やれ規則だとしか言わないうるさい奴だ」ということです。第3の区分は11~13節です。その神のことばに耳を傾けようとしない人々に対する神の審きが書かれています。神は理解できることばで語られたのに、彼らは聞こうともしなかったのです。11節に「もつれた舌」とか「異国のことば」と書かれています。「これは何を指しているのか」と言いますと、1節に書かれています「エフライムの酔いどれ」です。エフライムとは北イスラエル王国を指しています。北イスラエル王国は自分たちの生活に溺れ、それは酔いどれ状態と同じように神には見えたのです。そのため、神は13節で彼らと同じことばを語られたのです。これは神の審きを表しています。
 今朝の箇所に戻りますが、異なることばは22節に書かれていますように信じていない人たちのためのしるしなのです。異言は人の成長を助けることはできませんが、預言は人の成長を助けることができるものなのです。その預言とは、神のことばを語ることです。その神のことばは牧師だけが語るものではありません。神を信じる全ての人が語ることのできるものです。礼拝の後に茶菓の時があります。その時に礼拝のメッセージやディボーションなどで受けた恵みを分かち合うのも預言の一つと言えます。預言の賜物は互いの成長のために与えられています。だから、パウロは1節で「預言することを熱心に求めなさい」と勧めているのです。私たちも人の成長の助けとなることばを用いていきたいものです。

3)福音の広がり
 預言の賜物は、お互いが成長するために与えられています。ですが、それだけで終わるものでもありません。24~25節に「     」と書かれています。ここには、神を信じていない人が神のみことばに触れることによって、自分の罪が示され神を信じるように至ることが書かれています。本来神のことばは、神を信じる者に与えられているのですが、それが神を信じていない人にも広がっていくというのです。何故でしょうか。自分の罪が指摘され責められるからでしょうか。そうではありません。人は自分の罪を指摘され責められたら悔い改めるかと言いますと、そのようなものではありません。むしろ、反発してしまいます。
 では、どうすれば自分の罪が示され悔い改めに至ることができるのでしょうか。私たちはどのようにして自分の罪が示され、悔い改めることができたでしょうか。それは神の愛を知ることによってではないでしょうか。神は私を造り私を愛してくださっているのに、私はそのような神を神と認めずに自分勝手に歩んでいました。それにも拘らず、そのような私のためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架に架かり、父なる神の審きを受けてくださいました。それほど私という存在は神に愛されている存在であることに気づかされ、今までの自分の歩みを悔い改めたのではないでしょうか。そして、そのことを知ることができたのは、理解できることばによって語られたからではないでしょうか。全く理解できない異言で語られていたら、神の愛も自分の罪もイエス・キリストの十字架も知ることはできなかったのです。そのように考えますと、理解できることばで語られる預言は、まだ神を信じていない人を信仰に導くことのできるものであることを知らされるのではないでしょうか。
 私がバプテスマを受ける決心へと導かれたのは牧師からの話しです。教会に通い神に愛されていることは知っていました。また、イエス・キリストの十字架の意味も知っていました。しかし、「バプテスマを受けたら毎週日曜日には礼拝に行かなければならないし、教会の人たちのように笑顔を振りまかなければならない」と思っていました。でも、「自分には日曜日には友達と遊びたいし、気が短いので笑顔でいるなんてできない」と思い、「自分がバプテスマを受けるのはまだ早い」と思っていました。そのとき、牧師から「バプテスマを受けることがゴールではなく、そこから少しずつ成長すれば良い」という話しを聞き、バプテスマを受ける決心へと導かれました。信仰の決心、バプテスマの決心などの信仰の成長は、理解できることばで語られたからです。理解できることばで語られる預言は、人を成長させ福音を広げることができるすばらしいものなのです。

結)
 現代の預言は何かと言いますと福音です。直接神のことばを聞くということはありませんが、聖書を通して神のことばを聞くことができます。その聖書は、読んでいる人に語られているものです。すなわち、この聖書を読んでいます現代の私たちに神が語られているのです。その福音は人の価値観を変えることができます。また、その人の信仰を成長させることができます。さらには、神を信じていない人を信じるように導くことができます。何故そのようなことができるのでしょうか。ローマ1:16に「     」と書かれています。福音は救いをもたらす神の力だからです。

Ⅰコリント14:13~19「知性を用いて」  18.02.25.

序)
 2月最後の主の日となりました。もうすぐ3月です。「もうすぐ3月」ということばを聞きますと、春が近いことを感じさせられます。今年は雪国の方では雪が多い年でした。福井県では37年ぶりの大雪でした。その37年前のとき、私も国道8号線で車中泊をしました。丁度、年末で仕事納めをして津に帰る途中で、加賀ICで降ろされ雪が降り続く中国道8号線で走っていますと、敦賀で渋滞し車中泊をしたことを思い出しました。北陸の方は「3月」ということばを聞きますと、もうすぐ春ということで「ホッと」する気持ちが湧いてきます。ホッとする気持ちは少し幸せを感じます。パウロは「本当の幸せは受けるところにあるのではなく与えるところにある」と語りました。そして、今朝の箇所で異言を語る賜物が与えられている人に、異言を解き明かす賜物が与えられるように祈ることを勧めています。何故なら、異言の解き明かしは人を成長させるからです。そのためにパウロが勧めているのは知性を用いることです。では、何故知性を用いることを勧めているのでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)誰もが理解できるから
 知性を用いることを勧める理由の第1は、誰もが理解できるからです。ある方は信仰について誤解されています。それはどのような誤解かと言いますと、「信仰を感情的なもの」という誤解です。ですが、信仰は感情的なものではありません。確かに、信じることによって「喜び」という感情は湧いてきます。ですが、それは信じたことの結果であって根拠ではありません。何度も話していますが、信仰とは事実を事実として認めることです。ありのままの自分を愛してくださっているという神の愛と、私の罪のために身代わりとなってイエス・キリストが十字架に架かって神の審きを受けてくださり、私に本当の希望を与えるために死から甦られたという事実を認めることです。これらのことを認めるには知らなければなりません。どれだけすばらしいものであったとしても、理解できなければ知ることはできませんし認めることもできません。そのために、神はことばというものを私たちに与えてくださったのです。
 では、信仰とは理解することでしょうか。そうではありません。エレミヤ33:3に「     」と書かれています。ここで神は「あなたの知らない理解を超えた大いなること」と語られています。この「知らない」とは、「経験したことのない」ということです。そして、「理解を超えた」とは想像以上のもののことです。ですから、ここで語られていることは、今まで経験したことのない想像もできないすばらしいことをしてくださるということです。そのことを信じて神に祈ることが語られているのです。信仰とは理解を超えたものなのです。ですから、信仰は理解することではありません。信仰は理解以上のものなのです。
 しかし、その信じるという信仰が与えられるには理解も必要なのです。「理解」というステップを通して信じる信仰が与えられますし、理解を通して信仰が励まされ強められます。例えば、礼拝メッセージがそうです。私なんかは日本語しか分かりませんから、通訳なしの英語で話されたら全く分かりません。英語で話されて理解できるのは英語のできる方です。それは韓国語にしてもそうですし、中国語にしてもそうです。私たちは理解できることばで話されていますから、みことばから教えられ強められ励まされるのではないでしょうか。それは何も礼拝メッセージだけではありません。証しにおいてもそうです。私たちの理解できることばで話されていますから、私たちはその方の証しを通して励まされ強められるのではないでしょうか。そのように考えますと、理解できることばで語るということの大切さを知らされます。何故パウロが異言を語る人に対して、「解き明かすことができるように祈りなさい」と勧めているのかと言いますと、理解できることばで伝えることの重要性を知っているからです。そして、パウロが知性を用いることを勧めているのは、聞いている誰もが理解できるからです。

2)感謝できるから
 パウロが知性を用いることを勧める理由の第2は、感謝することができるからです。人は自分の理解できることばで聞くとき、神がどのような方であるかを知ることができます。そして、その中で神を信じる決意へと導かれます。そのことは私たちも同じです。何語で語られるかが重要なことではなく、自分が理解できることばによって語られたから神を信じるに至ったのではないでしょうか。それは神のことばの解き明かしだけではありません。一人ひとりの体験談、それをキリスト教用語で「証し」と言いますが、その証しを通しても神のすばらしさを知ることができます。しかしながら、自分の理解できることばで語られなければ、その神のすばらしさを知ることはできません。神のすばらしさを知って初めて感謝することができるのです。感謝というのは、理解できて生じるものではないでしょうか。
 16節の後半に「あなたの感謝に…分からないのですから」と書かれています。「アーメン」とは、「その通りです」「本当です」という意味です。他の人の祈りや証しを通して、神のすばらしさを知り「アーメン」と唱えることができるのです。それは、その人の証しを聞いて、自分もよく似た経験をしたことを思い出し、感謝の思いをもって「アーメン」と唱えることができます。その証しを通して、自分に働いてくださった神が、同じように他の人にも働いておられることを知り、改めて神のすばらしさを知ることができます。そして、その神にこれからも信頼し歩み続けていく決意を新たにされます。すなわち、証しというのは、その人に神がどのようなことをしてくださったのかを話すだけでなく、その証しを聞く人の信仰の成長の手助けとして用いられるものでもあるのです。だからこそ、聞く人が理解できることばで話すのは大切なことです。
 また、祈りにおいてもそうです。異言での祈りは、異言で祈っている本人も何を祈っているのか理解できていません。もし理解できていたのなら、解き明かしをすることができます。しかし、パウロは13節で「それを解き明かすことができるように祈りなさい」と勧めていることから、異言で祈っている本人も何を祈っているか理解できていないことを示しています。自分の祈りが何を祈っているのか分かりませんから、その祈りが答えられたのかどうかも分かりません。ですから、神が祈りを答えられたという経験をすることができません。信仰というのは、神のすばらしさを経験して成長させられていくものです。ということは、異言は神のすばらしさを経験できませんから、信仰の成長の手助けにはならないということです。
 祈りは信仰の成長の手助けにもなります。その助けは、祈っている本人だけでなく、その祈りを聞いている他の人においてもそうです。その人の祈りを神はどのように答えられるのかを知り、祈りを聞いている他の人の信仰の成長の助けにもなるのです。祈っている本人は、その祈りを答えてくださる神に感謝し信仰が成長させられます。そして、その祈りを聞いている人も共に神に感謝し信仰が成長させられるのです。一人ひとりの信仰が成長させられるということは、その一人ひとりが集まる群れである教会も成長するということでもあります。パウロが知性を用いて祈ることを勧めているのは、神のすばらしさに感謝できるからです。

3)実を結ぶから
 パウロが知性を用いて祈ることを勧める理由の第3は、実を結ぶことができるからです。知性とは理性的なものです。しかし、霊は理性的なものではありません。パウロは知性を用いることを勧めていますが、それは「霊は必要ではない」と語っているのでもありません。「霊は大切なのですが、霊だけでは不充分である」と語っているのです。そのことは、イエス・キリストご自身も同じことを話されています。ヨハネ4:21~24に「     」と書かれています。この箇所は、イエス・キリストがサマリア地方に行かれ、そこで一人のサマリア人女性と出会った箇所です。サマリア人というのは、旧約聖書の時代北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、北イスラエル王国に外国人が住むようになり、民族的にも宗教的にも混じってしまった民族です。そのため、イスラエルの血を頑なに保ってきたユダヤ人からすれば、サマリア人は汚れた民族と見なしていました。ですが、サマリア人は神であられる主を礼拝してもいました。その場所は、モーセが「祝福の山」と言ったゲリジム山でした。彼らは熱心に礼拝していましたが、それは正しい知識に基づくものではなく、単なる「思い」と言いましょうか「霊」と言いましょうか、そのようなものだったのです。それに対してユダヤ人はどうだったのかと言いますと、彼らはエルサレムの町で神を礼拝していました。それは正しい知識に基づくものですが、単なる形式化したものでもありました。
 ここでイエス・キリストが話されているのは、霊と真理による礼拝です。霊と真理による礼拝とは、正しい知識に基づいた心からの礼拝です。これが神の求めておられる礼拝です。ですから、霊だけでは神が求めておられる礼拝にはならないのです。霊だけの礼拝ならば、「いわしの頭も信心から」というのと同じです。霊による礼拝は大切なのですが、正しい知識が伴って初めて正しい礼拝という実を結ぶことができるのです。
 礼拝とは、神を礼拝する本人だけが神から恵みを受け、神をほめたたえるものではありません。その礼拝に集う一人ひとりが共に神の恵みを受け、共に神をほめたたえるものです。ですから、その礼拝に集っています他の人が共に神の恵みを受けられないのであれば、それは神が求めておられる礼拝とは言えません。礼拝は自己満足の場ではありません。その場に集う一人ひとりが共に神の恵みを受け、分かち合い、神をほめたたえることができるように、互いに配慮する場でもあるのです。それが14:1から繰り返し語られています「成長させる」ということなのです。そして、一人ひとりの信仰が成長し教会が成長することが実を結ぶことでもあるのです。パウロが知性を用いることを勧めているのは、それによって「教会が成長する」という実を結ぶことができるからです。

結)
 理解できることばで話すというのは、不思議なことではなく当り前のことです。超自然的なことではなく自然的なことです。ある方は「信仰を持つと超自然的なことを体験できる」と思われています。ですが、聖書が語る信仰はそのようなものではありません。超自然的な現象を経験するかもしれません。ですが、経験するか経験しないかは大切なことではありません。自然的な現象の中にも神のみわざは働かれているのです。当たり前のような事柄の背後にも、神のみわざが行われているのです。毎日の生活は同じことの繰り返しように思えたりもします。ですが、その毎日の生活の中にも神のみわざは行われているのです。大切なのは、そのところに目を向けられているかどうかです。そして、自然的な事柄の中にも神のみわざが行われていると目を向けることができるには知性が必要なのです。知性も神が私たちに与えてくださったものです。その知性を用いて、神のみわざの一つひとつを覚えて、神を礼拝する者として歩まされていきましょう。

Ⅰコリント14:1~12「与えることの幸い」  18.02.18.

序)
 人は幸せを求めて生きています。そのような生き方はすばらしいことですが、その求め方が間違っている人が多いのも事実ではないでしょうか。多くの人は幸せになりたいがために、多くのものを手に入れようとします。そして、実際に手に入れて幸せを感じますが、その幸せは長続きすることなく消えてしまいます。本当の幸せは、どのようにすれば得ることができるのでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)愛を追い求めること
 本当の幸せを得る第1は、1節に書かれていますように愛を追い求めることです。パウロは13章で愛について語ってきました。そして、最後の13節で「     」と語りました。その13節の最後には、「その中で…愛です。」と語っています。そして、今朝の箇所の1節で「その愛を追い求めなさい。」と語っているのです。何故なら、本当の愛は神と人との交わりを深めるものだからです。愛が人生の土台となるものだからです。その聖書が語る愛は神の愛です。自己犠牲が伴う愛であり、与える愛です。
 多くの人は愛されることを求めています。自分が愛され受け入れられるのを願います。ですが、その根本には何があるでしょうか。そこには愛されていないと受け入れられていないというものがあります。良い子でいるという演技する自分は愛され受け入れられることを知っていますが、ありのままの自分が愛され受け入れられると確信できないから、演技してまでも愛されることを願いますし求めるのです。そして、「ありのままの自分が愛され受け入れられるとき、本当の意味での幸せになれる」と思うのです。確かに、ありのままの自分が愛され受け入れられるとき本当の幸せを実感できます。ですが、それが本当の幸せではありません。これは本当の幸せの中間です。
 人は関係の中で生きる者とされています。関係というのは相互作用が必要です。決して一方通行ではありません。ですから、愛され受け入れられているということだけでは、本当の意味での関係の中に生きていることにはならないのです。本当の意味での関係の中に生きるとは、愛され受け入れられつつ、愛し受け入れることによって初めて成り立つものです。神は私たちが何かをしたから愛してくださったのではありません。私たちが神を信じたから、神は私たちを愛してくださったのではありません。私たちが神を信じる前から、神は私たちを愛してくださっているのです。それは、ありのままの自分を愛し受け入れてくださっていることを意味しています。神を信じる者は、そのことを経験していますし知っています。
 そして、今度は私たちがその神を愛するのです。神を愛するだけでなく、人をも愛するのです。1節に書かれています「愛を追い求めなさい」とは、そういうことなのです。決して、愛されることを追い求めるというのではなく、愛することをも追い求めるということです。私たちは「愛を追い求めなさい」と聞きますと、「愛されることを追い求める」と思ってしまいやすくなりますが、決してそうではないのです。愛されていることを前提として、「神と人とを愛することを追い求めなさい」ということなのです。愛され受け入れられることを願うだけでは受け身になってしまい、消極的な人生を過ごすようになってしまいます。しかし、愛し受け入れることは能動的で、積極的な人生を過ごすようになります。神は私たちに消極的な人生を与えられたのではなく、積極的な人生を与えてくださいました。ですから、その愛する愛を充分に機能してこそ、本当の意味で人は関係の中に生きる者とされるのです。それが本当の幸せの一つです。

2)人を育てること
 本当の幸せの第2は、3節に書かれていますように人を育てることです。今までの聖書でしたら「徳を高める」と訳されていましたが、新しい聖書では「成長させる」ということばに殆ど訳されています。このことばは、「家」ということばと「建てる」ということばが合体したことばです。それは家が完成されていくイメージです。ですから、人が育っていくとか成長していくことを表しています。ここでパウロは、預言する人は「人を育てることば」「勧めのことば」「慰めのことば」を用いると語っています。一般社会で用いられる予言は「予め言う」と書きまして、将来に起きることを予告することです。しかし、聖書で用いられる預言は「預かって言う」と書きます。これは、神のことばを預かって伝えることです。では、神のことばは私たちに何を伝えているでしょうか。それは神の愛です。私たちが神の愛を知ることができたのは、神のことばによってです。その神のことばによって、私たちは前向き・肯定的に捉えられるようになりました。だからと言って、「いつも前向き・肯定的に捉えられるのか」と問われますと、必ずしもそうではありません。消極的・否定的な捉え方をしてしまうこともあります。神が全てのことを共に働かせて益にしてくださることを信じつつも、良くない結果が出たときは失望を覚えてしまいます。そして、否定的な考え方をしてしまうことがあります。私たちはそのような弱さを持っています。
 しかし、神はそのような私たちを「ダメな者」と評価されるのではなく、そのような私たちを用いてくださいます。どのようにして用いてくださるのでしょうか。それは、各々に与えられている賜物を用いてです。神は一人ひとりに賜物を与えてくださっています。しかも、その賜物は以前にも見ましたように、神が計画され熟慮されて与えてくださったものです。神は私たちが生き生きとした人生を過ごすことができるために、賜物を与えてくださったのです。私たちに与えられています賜物は、今の私たちにとって最善のものなのです。ですから、その賜物を与えてくださった神のために用いていくことが大切です。そして、そのことに気づかせてくれたのは神のことばです。
 そのように考えますと、神のことばは人を生かす力を持っているのを知らされるのではないでしょうか。へブル4:12に「神のことばは生きていて、力があり、」と書かれています。まさしくその通りです。しかし、異言というのは育てるものであっても、それは自分を成長させるだけのものです。人を励まし生かすことはできないのです。ですから、聖書は「異言は必要ないもの」とは語ってはいませんが、「異言の賜物が与えられるように求めなさい」とも勧めてはいないのです。聖書が勧めているのは、「預言の賜物が与えられることを熱心に求めなさい」と語っているのです。何故なら、神のことばこそが人を励まし生かすことのできるものだからです。

3)イエスのことばより
 コリント教会の人たちは、異言の賜物が与えられることを熱心に求めていました。それに対して、パウロは「預言の賜物が与えられるように熱心に求めなさい」と勧めています。それは異言の賜物は自分が受けるためのものですが、預言の賜物は人に与えるものだからです。イエス・キリストご自身も「受けるよりも与える方が幸いです」と話されました。私たちは与えるよりも受ける方を求めてしまいやすい者です。与えますと自分が持っているものが減ってしまうように思えます。そして、受けますと持ち分が増えるように思えます。ですが、イエス・キリストは「受けるよりも与えるほうが幸いである」と話されました。何故、受けるよりも与えるほうが幸いなのでしょうか。それは心の持ち方が違うからでしょうか。私はイエス・キリストが「受けるよりも与えるほうが幸いである」と話されたのには、少なくとも2つの根拠があるからと捉えています。
 その1つは、必ず与えられるという確信です。確かに与えたら減ります。それは間違いのないことです。では、与え続けていたら最後は無くなってしまうのか」と言いますとそうではありません。なくならないのです。あのエリヤの出来事がそうでした。Ⅰ列王記17:8~16に、エリヤと一人のやもめの出来事が書かれています。エリヤは一人のやもめに「自分に水とパンを与えてほしい」と頼みました。このやもめの人は、12節で「     」と答えます。彼女は材料で食べ物を作り、一人息子と一緒に死のうとしていたのです。何故かと言いますと、雨が降らず作物もできず食べ物がなかったからです。彼女にとっては最後の材料だったのです。ですが、それをエリヤに与えたところ、雨が降るまで粉は尽きず、油はなくならなかったのです。「雨を降らせる日まで」とは、「作物がとれるまで」ということです。私たちの常識で考えるならば、最後の材料を与えたらなくなります。でも、なくならなかったのです。何故なら、神が与えてくださっていたからです。私たちは「与えたらなくなる」と考えてしまいます。ですが、与えてもなくならないのです。何故なら、神が養ってくださっているからです。必要なものを必ず与えてくださるからです。そのことを知っている人と知らない人との歩みは全く違ってきます。知っている人には希望がありますが、知らない人には希望がありません。希望があるということは可能性があるということです。だからイエス・キリストは、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と話されたのです。
 もう1つの根拠は、与えることによって増えるからです。与えたらなくなるのではなく増えるのです。これは私たちの常識とは正反対のように思えます。タラントの譬え話の最後のマタイ25:28~29に「     」と書かれています。ある方は、この箇所を読んで「少ない人に与えたら良いのに」と言われました。その人は「何故多く持っている人に与えられたのか」という疑問を持たれたのです。皆さんはどのように思われるでしょうか。そのような疑問を持たれたことがあるでしょうか。何故主人は、多く持っている人に取り上げた1タラントを与えたのでしょうか。私たちは「与えたら減る」と考えます。確かにその通りです。でもそれは、物質的な世界の中においてです。しかし、霊的な世界の中においてはそうではありません。与えることによって増えるのです。用いることによって豊かになるのです。
 「自分に与えられている賜物を用いたら、疲れるだけで何の得にもならない」と思えるかもしれません。でも、その賜物を用いることによって喜びが与えられます。用いることの喜び、生きることの喜びが与えられます。その喜びは、賜物を用いる前よりも大きいです。与えられている賜物を用いることによって、さらに生き生きとした人生を過ごすことができます。また、用いることによって神のことばの確かさを知ることができます。神のことばの確かさを知りますと、神への信頼が増します。用いることによって増えるのです。だから、イエス・キリストは「受けるよりも与えるほうが幸いである」と話されたのです。

結)
 与えることによって人は恵まれますが、与えた自分自身も恵まれるのです。だから、受けるよりも与える方が幸いなのです。そして、人を成長させる預言の賜物が与えられることを熱心に求めるようにと勧められているのです。マタイ6:33には、神の祝福の原則が書かれています。これも同じです。受けることよりも与えることによって、神の祝福をさらに受けられるのです。私たちも自分のことよりも、他者を思い与えることのできる者と成長させられるように祈っていきましょう。


Ⅰコリント13:13「一番すぐれているもの」  18.02.11.

序)
 今週の水曜日はバレンタインデーです。日本では女性から男性にチョコレートが渡されますが、欧米では男女関係なくチョコレートに限らず愛情のしるしとしてプレゼントが渡されているようです。バレンタインとは、3世紀にローマで殉教したバレンティヌス司祭の名前から来ています。当時のローマ皇帝であるクラウディウスは、「士気が下がる」として兵士の結婚を禁止しました。そのとき、バレンディウス司祭はひそかに兵士に結婚をさせていました。そのことが皇帝の耳に入り、皇帝はバレンディウスに改宗を迫りましたが、バレンディウスは拒否したため処刑されました。それが2月14日だったのです。それを記念して設けられたのがバレンタインデーです。そのため、バレンタインデーは「愛の日」と言っても良いのかもしれません。今朝は、その愛についても共に教えられたいと願っています。

1)愛とは何か
 まず、愛とは何でしょうか。聖書には、「愛」ということばが多く書かれています。そして、愛することを教えています。今朝の箇所にも「一番すぐれているのは愛です。」と書かれています。ある方は「その通り。愛が何よりも一番すぐれている」と思われているかもしれません。ところが、「愛」と言ってもいろいろな愛があります。日本語では「愛」ということばは1つですが、ギリシャ語には3つあります。
 1つは「アガペー」ということばです。これは見返りを期待しない愛で、「自己犠牲の愛」とも言われています。自分がしたことに対して、相手がどのような反応をしようとも愛し続ける愛のことです。愛したけれども何の反応もないかもしれませんが、それでも愛し続けることです。愛したが故にひどい仕打ちで返ってきたとしても愛し続けることです。ですから、「無条件の愛」「自己犠牲の愛」と言われ神の愛を示しています。
 もう1つは「フィリア」ということばです。これは見返りを期待する愛で、「人間の愛」とも言われています。ある人を愛するのですが、その人も自分を愛してくれることを期待する愛です。または、その人が自分を愛してくれたから自分もその人を愛する愛です。アガペーは相手がどうであれ愛するという無条件的な愛で一方通行の愛ですが、フィリアは相手も自分を愛するという条件付きの愛です。決して一方通行ではなく相互的なのです。私たちが人を愛するというのは、このフィリアの愛が多いのです。
 3つ目は「エロス」ということばです。これは自分が受けることしか求めない愛で、「肉欲の愛」とも言われています。相手のことは全く考えないで、自分の心が満たされることしか求めない愛です。アガペーは一方的に与える愛ですが、エロスは一方的に受ける愛なのです。与えることを決してしない愛です。
 そして、聖書はアガペーの愛を実践することを私たちに求めているのです。今朝の箇所で、「その中で一番優れているのは愛です。」と書かれていますが、この愛は「アガペー」ということばが用いられています。私たちは今朝の箇所を読んで、「そうだ愛が一番優れている」と思いやすいのですが、それは決して「フィリアの愛」や「エロスの愛」が一番すぐれていると語られているのではないのです。聖書は「これらの愛はすぐれていない」と語っているのです。事実、マタイ5:46でイエス・キリストは「     」と話されました。ここでイエス・キリストは、「このような愛が悪い」と話されているのではありません。また、「このような愛し方をしてはいけない」と話されているのでもありません。ただ、「このような愛は何も優れていない」と話されているのです。本当に優れているのは、44節で話されています「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことのできる愛です。犠牲を払うことを惜しまない愛です。

2)愛の具体性
 では、そのアガペーの愛とはどのようなものでしょうか。ルカ10:25~37に愛の具体性が書かれています。まず25~29節で、律法の専門家がイエス・キリストに永遠のいのちを得ることについて質問しました。すると、イエス・キリストは「聖書に何と書かれていますか」と尋ねられ、律法の専門家は「主を愛し隣人を愛すること」と答えました。この答えに対して、イエス・キリストは「それを実行しなさい」と勧められました。すると、律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか」と尋ねたのです。その質問に対して答えられたのが、30~37節に書かれています「良きサマリア人」と言われている譬え話です。この譬え話には、アガペーの愛とはどのようなものであるかが書かれています。
 第1に、愛とは決断が伴うものです。本当の愛というのは、自然に自分の心の中から湧いてくるものではありません。確かに恋愛感情というものは自然に湧いてくるでしょう。しかし、その恋愛感情の愛は、アガペーの愛ではなくフィリアの愛です。ですが、ここでイエス・キリストが話されています愛はフィリアの愛ではなくアガペーの愛です。サマリア人とユダヤ人は仲が良くありませんでした。しかし、このサマリア人は自分の方から襲われたユダヤ人を介抱しました。彼は、レビ人や律法学者と同じように避けて行くこともできました。しかし、彼はこのユダヤ人を愛する方を選んだのです。自分のことを嫌がっている人や良く思っていない人を愛するというのは、自分の心の中から自然に湧いてくるものではありません。そこには「この人を愛そう」という決断が必要です。この決断なしに、その人を愛することはできません。
 神が私たちを愛してくださっているのもそうです。神は私たちを造られたから、自然に愛が湧いてきて私たちを愛してくださっているのではありません。私たちは神に対して罪を犯しました。先程見ましたマタイ5:44のように、まさしく神に敵対し、神を迫害していたのです。神を迫害するとはどういうことでしょうか。「神をひどい目に遭わせること」と思いやすいのではないでしょうか。確かにそのようなことも含まれていますが、もっと広い意味を含んだことばです。それは「追い払う」という意味を持っていることばです。ですから、神が願っておられることを行わないことも、神を迫害することになります。神が私たちに願っておられることは何でしょうか。それは心から神を礼拝することです。しかし、私たちはその神を無視して自分勝手に歩んでいました。でも神は、そのような私たちを愛する方を選ぶ決断をされ愛し続けてくださっているのです。これが神の愛であり、アガペーの愛です。
 また、愛には赦しが伴います。先程話しましたように、サマリア人とユダヤ人は仲が良くありませんでした。しかし、このサマリア人はユダヤ人に近寄って介抱したのです。ここから、サマリア人がユダヤ人を赦していたことが分かります。赦していないと、このような行動をとることはできません。このサマリア人はユダヤ人を愛することを決断したとき、赦すことも決断したのです。私たちは神を迫害している者です。しかし、神はそのような私たちを愛してくださっています。それは、私たちの罪をすでに赦してくださっていることをも意味しているのです。そして、赦すとは受け入れることでもあります。神はすでに私たちを受け入れてくださっているのです。
 また、赦すというのは損をすることでもあります。例えば、誰かから何かをされたとします。ですが、その人を赦すということは、されたままで帳消しにするということです。これは赦した本人にとっては損をしていることです。神が私たちの罪を赦してくださったということは、神は損をされたということです。何故なら、神は仕返しをして赦してくださったのではないからです。本当の赦しというのは、仕返しをしないで受け入れることです。ですから、損をすることでもあります。では、神はどのような損をされたのでしょうか。それはイエス・キリストの命を失われたという損です。神は私たちを愛するが故に、イエス・キリストの命を失われることをためらわれませんでした。何故でしょうか。それほど私たちを愛してくださっているからです。昔、「パッション」という映画が上映されました。家内と一緒に見に行ったのですが、その映画を見て普通なら十字架に架けられて死ぬまで3日から1週間かかるのに、何故イエス・キリストはその日に亡くなられたのかが分かりました。映画ですから、脚本家の想像もあると思います。でも、私はその映画を見てイエス・キリストがその日に亡くなられたのが納得できたのです。それは、十字架に架かられる前に受けられたムチ打ちの刑があまりにもひどかったからです。私は映画を見ながら「なるほど」と思いつつ、「よく考えられているな」と思わされました。イエス・キリストを裏切ったユダが首を吊って死ぬのも「なるほど」と頷けられました。「何故イエス・キリストはあそこまで耐えられたのか」と考えますと、「それほど私のことを愛してくださっているからだ」と思わされました。神の愛は赦す愛です。
 最後に、愛には行動が伴います。このサマリア人は思っただけでなく行動に移しました。神も私たちを愛するが故に、その愛を具体的に行動して示してくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。「イエス・キリストは神であり、十字架に架かられるためにこの世に来られた」と言って済ましてしまいますと、イエス・キリストの十字架の意味は半減してしまいます。イエス・キリストは、できれば十字架を避けたかったのです。しかし、私たちを愛するが故に、十字架に架かるという行動でご自身の愛を示してくださったのです。十字架というのは、両手両足に釘を打たれて架けられるという、人間が考え出した処刑方法の中で最も残酷なものです。イエス・キリストは、ご自身の両手両足に釘を「コーン」「コーン」と打たれました。映画のパッションでは、声を出されずに歯を食いしばるイエス・キリストの姿が映されていました。そのイエス・キリストの姿を想像していただきたいのです。
 どれほど苦しかったことでしょうか。そして、何故それほどまでにして十字架に架からなければならなかったのでしょうか。それは私たちの罪を赦すためであり、私たちのことを愛しておられるからです。神は私たちを愛するが故に、イエス・キリストをこの世に送るという行動をとられたのです。イエス・キリストの十字架を「得か」「損か」とうい点で見ますと、損をされている以外に何もありません。ですが、神は私たちを愛するが故に、損をする方を選ばれ行動されたのです。本当の愛は、口先だけでなく行動が伴うものです。

結)
 本当の愛は、自己犠牲が伴うものです。そして、その自己犠牲の愛とは、愛することを選び、相手を受け入れ、行動するというものです。何度も話していますが、「愛」という字は名詞ですが、実際は動詞です。私たちは、それほど神に愛されている存在なのです。Ⅱコリント5:13~14に「     」と書かれています。私たち一人ひとりも、キリストの愛に捕えられているのです。以前の訳ですと、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」とされていました。この「捕える」とか「取り囲む」と訳されていますことばは、「しっかりと保つ」という意味が含まれており、逃げられない状態を表すことばです。例えば、使徒の働き7:57の「耳をおおい」の「おおう」がそうです。また、ルカ8:45の「囲んで」もそうですし、同じくルカ19:43の「包囲し」がそうです。今朝の箇所の最後に、「その中で一番すぐれているのは愛です。」と書かれていますように、私たちはキリストの愛に捕えられているのです。その一番すぐれている神の愛に対してどのように応えるでしょうか。

Ⅰコリント13:8~12「愛は絶えることがない」  18.02.04.

序)
 私たちは物質的な社会の中で生かされています。そして、私たちはその物質的なものは一時的なものであることを知っています。では、物質的でないものは永遠なものなのでしょうか。聖書は「物質的でないものであれ永遠ではない」と語っています。今朝は、その永遠なものと永遠でないものを共に教えられたいと願っています。

1)絶えるもの
 まず、8節に「愛は決して絶えることがありません。」と書かれています。ところが、その後の預言や異言や知識はなくなることがあるというのです。これらは神の賜物の一つです。そして、賜物とは身体の器官の一つと同じようなものです。12章で身体の各器官は、一つの身体を形成するために与えられており活動していることが書かれています。賜物も同じように、キリストの身体を形成するために与えられており活動します。そして、そのキリストの身体とは教会のことです。すなわち、一人ひとりに与えられている賜物は、教会を形成していくために神から与えられているものです。決して、その人個人のために与えられているのではありません。キリストの身体である教会を形成していくために与えられているのです。
 では、教会とは何でしょうか。一言で言うならば、神が支配されている所です。神が支配されているということは、神が中心となられている所です。そして、神が中心となられている所は天の御国であり神の国です。ですから、教会は神の国ということができます。神は永遠なる方です。この世は初めがあって終わりがありますが、神にはそのようなものはありません。神はいつまでも続く方です。ですから、その神が中心におられる神の国も永遠に続く所です。
 では、その神の国はいつ来るのでしょうか。聖書は何と語っているでしょうか。ルカ11:20に「     」と書かれています。また、同じルカ17:20~21には「     」と書かれています。ここでイエス・キリストは、「神の国はすでに来ている」と話されています。ですから、神の国はすでに来ているのです。イエス・キリストを信じる者の中に、神の国はすでに起きているのです。しかし、ルカ21:31には「     」と書かれています。この箇所では、神の国はまだ来ていないことが示されています。このルカ21章は世の終わりについて話されています。すなわち、神の国の完成について話されているのです。ですから、神の国建設はすでに始まっていますが、まだ完成されていないのです。神の国はイエス・キリストが来られた時から始まり、そのイエス・キリストが再びこの世に来られるときに完成するのです。すなわち、私たちは神の国の建設途中の時代に生かされているのです。私たちは、その神の国の建設に携わっている一人なのです。私たちに与えられています賜物は、その神の国の建設のために用いられるものなのです。
 ですが、その賜物は必要が要らないときが来ます。それは、神の国が完成されたときです。例えば、家を建築するとします。家を建築するのに必要なものは何でしょうか。木材で家を建てる場合は木材が必要ですし、その木材を固定するための釘が必要です。釘を打つための金づちやドライバーも必要です。他にもいろいろ必要なものがあります。それらの材料や道具は賜物です。ですが、家が完成したらどうでしょうか。もう、これらの材料や道具は必要なくなります。それと同じように、神の国が完成されたら賜物は必要ありません。ですから、賜物というのは永遠なものではなく一時的なものです。いつかは絶えてしまうものなのです。なのに、その賜物を誇ることは愚かなことではないでしょうか。

2)絶える理由
 パウロは、賜物が絶えてしまう理由を9節以降で語っています。それは、神について一部分しか表すことができないからです。私たちは神を知り神を信じています。ですが、その神の全てを知っているわけではありません。神の一部しか知らないに過ぎないのです。神がどのような方であるかを私たちは口で話すことができますが、それは神の一部でしかありません。何故なら、神は私たちの想像を遥かに超えたお方だからです。ですから、私たちは神のみわざに驚くことがあるのではないでしょうか。神を信じているのに辛い経験をしなければならない時があります。そのようなとき「何故」とつぶやいてしまいやすいものです。それは神が何のためにそのようなことを許しておられるかが分からないからです。ですが、その後に神のすばらしいみわざを経験して驚いたりもします。これは、私たちが神の全てを知っていないことを表しもいるのではないでしょうか。
 今の私たちは神の全てを知っているわけではありません。ですから、私たちは神の一部分しか表すことができません。ところが、10節に「完全なものが現れたら」と書かれています。これはイエス・キリストが再び来られる日のことを表しています。すなわち、イエス・キリストの再臨の時であり世の終わりの時です。その時に、人は初めて神の全てを知ることができるのです。では、預言や知識から来る神理解は間違っているのでしょうか。いいえ、そうではありません。完全ではないだけで間違ってはいないのです。その例が11~12節に書かれています。大人は知っていても、子どもは見たこともないものが多くあります。それを子どもが初めて見て説明するとき、どのような形であり何がついていたかを話すことでしょう。それらは間違ってはいません。ですが、完全には説明できませんから、完全に伝えることはできません。でも、それが何かを知っている大人は、そのような説明の仕方をすることはありません。きちんと伝えることができます。
 12節に書かれていることも同じです。当時の鏡は、現代の鏡のようにはっきりと見えるものではなく、ぼんやりとしか映りませんでした。はっきりと映る鏡があるのに、ぼんやりとしか映らない鏡を使う人がいるでしょうか。おそらくいないと思います。何故なら、必要がないからです。預言や異言や知識もそうです。これらの賜物は神がどのような方であるかを現すために与えられているものですが、残念ながら神の全てを現すことはできません。一部しか示すことができないのです。何故なら、神の全てを知ってはいないからです。しかし、神の全てを知る時がきます。それはイエス・キリストが再びこの世に来られるときです。12節の「そのとき」とは、そのイエス・キリストが再びこの世に来られるときのことです。キリスト教用語では、それを「再臨」と言います。その時には、「顔と顔とを合わせて見るようになります。」と書かれていますように、はっきりと神の全てを知るようになるのです。その時には、もう預言や異言や知識の賜物は必要がなくなります。これが、これらの賜物が絶えてしまうことの理由です。

3)絶えることのない愛
 預言や異言や知識の賜物は、決して永遠的なものではありません。しかし、愛はそうではなく、絶えることのない永遠なものです。と言いますのは、Ⅰヨハネ4:8に「     」と書かれていますように神は愛だからです。イエス・キリストが再びこの世に来られるとき、多くの賜物は必要がなくなります。何故なら、多くの賜物は一時的なものだからです。しかし、愛は一時的なものではなく永遠なものです。イエス・キリストが再びこの世に来られても愛は残るのです。私たちが神と顔と顔とを合わせても、神から注がれる愛はなくなることがないのです。神の愛は注がれ続けられるのです。また、それだけではなく、神を愛し続けるのです。愛は天の御国が来ても存在し続けるのです。ですから、愛はすばらしいものなのです。
 では、愛は永遠なものだからすばらしいのでしょうか。確かにそれもありますが、それだけでもありません。先週の礼拝で、「愛は前向きに捉えさせるもの」と話しました。前向きに捉えられるというのは、そこに可能性を見出しているからです。すなわち、愛は可能性に目を向けさせるものでもあるのです。だからすばらしいのです。7節に「    」と書かれています。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍ぶことができるのは、可能性に目を向けているからです。そして、神が私たちを愛しておられるのは、私たちに可能性を見出しておられるからです。私たちという存在は、神の目から見て可能性があるのです。
 では、私たちにはどのような可能性があるのでしょうか。それは、私たちを通して神のすばらしさが現されるという可能性です。私たちは小さく弱い存在です。この世界から見れば、居ても居なくても変わらないような存在です。しかし、そのような私たちは神のすばらしさを現すことができるのです。私たちが置かれています地域や職場では、私たちしか神のすばらしさを現すことができないのです。私たちは、その所で光として輝くことができるのです。何故なら、すでにイエス・キリストという光が私たちの中で輝いているからです。
 また、愛には希望があります。私たちが神を愛し神を信じ神に従い続けるのは、神が私たちを愛してくださったからですが、それと同時に神に望みを抱いているからではないでしょうか。全てのことが働いて益となるように神は導いてくださるという希望があるからではないでしょうか。もし、そのような希望がなければ、私たちは神を信じることはしないのではないでしょうか。そして事実、神は全てのことを共に働かせて益に変えてくださいます。少なくとも、私の今までの歩みがそうでした。苦しい経験をしたこともありますが、その経験が後に生かされています。まさしく、神は全てのことを共に働かせて益としてくださいました。だから今も神を信じることができるのです。そして、その神に対する望みは決して絶えることがありません。何故なら、愛には望みがあるからです。そして、神は愛なる方であり、永遠なるお方だからです。

結)
 物質的なものは一時的なものですが、物質的でないものは永遠かというと、必ずしもそうではありません。一時的なものが多いです。しかし、そのような中で愛は絶えることのない永遠です。何故なら、愛は神の本質だからです。愛が絶えることのない永遠なものであるなら、神から見た私たちの可能性も永遠なものです。私たち一人ひとりには可能性があるのです。その可能性には年齢は関係ありません。この世に生きている限り可能性はいつまでも続くのです。そして、神に対する望みも永遠なものです。どのような状況の中に置かれようとも、神に対する望みは消えることはありません。私たちには、その可能性と望みに目を向けさせる絶えることのない愛が注がれているのです。

Ⅰコリント13:4b~7「愛の特性」  18.01.28.

序)
 1月も最後の日曜日となり、私個人としては年度末が近いのを感じさせられています。と言いますのも、来月の12日は団体の総会が行われます。総会が終わりますと、今度は教会の総会が3月に開かれます。その準備をしなければなりませんので忙しくなってきます。忙しいという漢字は「心を亡くす」と書きます。心に余裕がなくなり、ちょっとしたことでも怒ってしまいやすくなります。先週見ましたが愛は寛容です。これは「ゆっくりと判断する」という意味です。そのことを思いますと、私なんかは「愛の足りない者だな」と思わされます。先週は13:4の前半の部分を見ましたが、今日は4節の後半~7節の箇所を通して、聖書の語る愛について共に教えられたいと願っています。

1)自分との関係
 4節の後半の部分は、自分との関係について書かれています。愛とは人を妬むことをしません。人を妬むというのは、他人との関係のように思えますが、実は自分との関係なのです。と言いますのは、何故人を妬むのでしょうか。人を妬む一番の要因は、自分の心が満たされていないからです。ですから、妬みというのは自分との関係なのです。それは丁度、12章で語られていました足や耳のようなものです。足は手ほど目立つものではありません。耳も目ほどに目立つものではありません。12章に書かれています足や耳が抱いているものは僻みです。
 イエス・キリストは、僻みが要因で主人に叱られた譬え話をされました。それはマタイ25:14~30に書かれていますタラントの譬え話です。主人はしもべたちに、各々5タラント・2タラント・1タラントを預けました。5タラントと2タラントを預けられた人は、それらを用いて主人に褒められました。しかし、1タラント預けられた人は、用いることをしなかったために主人から叱られてしまいました。そして、与えられたものまでも取り上げられてしまいました。何故1タラント預けられた人は用いなかったのでしょうか。24節に書かれていますように、主人を厳しい方だと思っていたからでしょうか。彼自身はそのように思っていたのです。ですが、これは彼の主人の見方が歪んでいたからです。と言いますのは、他の2人はそのように主人を見てはいませんでした。何故、彼だけが歪んだ見方をしたのでしょうか。それは平等に預けられなかったからです。1タラント預けられた人は「何故平等に与えることをしないで、私だけが一番少ないのか」と思ったことでしょう。ですが、主人は各々の能力に応じて与えたのです。1タラント預けられた人に2タラント預けたら、金額が大き過ぎて萎縮してしまい、彼の能力を充分に発揮できないことを知っていたのです。主人は1タラント預けられた人が自分の能力を充分に発揮することができるために1タラントを預けたのです。しかし、彼はそのようには捉えなかったのです。何故でしょうか。
 それは他人と自分とを比較していたからです。彼の人生は比較の人生だったのです。いつも他人と比較して自分の位置を確認していたのです。他人と比較することで心の安らぎを求めていたのです。ですが、そのような安らぎは決して安定してはいません。不安定なものです。何故なら、比較する対象は変わるからです。そのために僻んでしまい、主人から預けられた1タラントを用いることをしなかったのです。1タラントは欄外に書かれていますように6000デナリです。1デナリが1日の賃金ですから、6000デナリは6000日分の賃金となります。現代の日本のお金に換算しますと、週休2日ですから1ヶ月22日の労働となります。6000を22で割りますと約273ヶ月です。273を12ヶ月で割りますと22年と4分3年となります。2016年度の平均収入が422万円ですから、1タラントは約9600万円となります。決して少なくない金額科なのですが、彼は「少ない」と感じて僻んでしまったのです。何故かと言いますと、他人と比較していたからです。その僻みから妬みが生じてしまいます。
 また、自慢や高慢はその逆です。12章で言われています目のようなものです。これも比較しての評価です。妬みも自慢も高慢も全ては比較しての評価です。確かに目立ったり目立たないというのは事実かもしれません。しかし、もう一つの事実を見失っています。それは必要とされているという事実と助けられているという事実です。妬みや僻みは、必要とされているという事実に目が向けられていません。また、自慢や高慢は助けられているという事実に目が向けられていません。私たちは人と比べますと、劣る所や優れた所はあるかもしれません。しかし、必要とされているという事実と、助けられているという事実に目を向けるのは大切なことです。これは自分自身との関係です。そして、本当の愛は、そのところに目を向けさせることができるのです。本当の愛は、自分自身とのより良い関係を築かせてくれます。

2)他人との関係
 その次に5~6節は他人との関係が書かれています。「礼儀に反することをしない」とは、人に迷惑をかけないということです。何故人に迷惑をかけてしまうのでしょうか。それは秩序を守っていないからです。パウロが教会を意識して書いていることを考えますと、異言を語ることによって人に迷惑をかけないことと思われます。しかし、それだけではないでしょう。さらに深く言いますと、人の人格を傷つけない深い配慮のことです。私たちは自分の欲求を満たしたいがために、知らず知らずの内に人を傷つけてしまうことがあります。ですが、本当の愛はそのところに気を配ることのできるものなのです。
 次に「自分の利益を求めず」とは、自分が受ける当然の権利を人のために捨てることです。特に、この「求める」ということばには、「熱心に」という意味が含まれています。先程も触れましたように、自分の欲求を満たすことを熱心に求めることを表しています。ですから、「礼儀に反することをしない」というのは、人との関係をより良いものとするために積極的に配慮することですが、「自分の利益を求めない」とは、人との関係をより良いものとするために積極的に自制することです。
 次に「苛立たない」ことです。以前の聖書では「怒らず」と訳されていました。今の訳の方が良いと思います。これは仕返しをしないということです。また、「人がした悪を心に留めず」というのも、以前では「人のした悪を思わず」と訳されていました。これも今の訳の方が良いと思います。心に留めないということは忘れるということです。私たちは「あの人からこんなことをされた」とか「言われた」と言って、受けた仕打ちを覚えていたり数えていたりします。ですが、心に留めている限りより良い人間関係を築くことはできません。本当の愛は、それらを心に留めないようにしてくれます。
 そして、本当の愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます」と書かれています。ここには「喜ばず」ということばと、「喜びます」ということばが書かれています。日本語聖書には書かれていませんが、元々は「喜びます」のことばの前には「共に」ということばが書かれており、「喜ばず」のことばの前には「共に」ということばが書かれてはいません。では、何を共に喜ぶのかと言いますと、愛が真理と共に喜ぶのです。それは人の良い行いを喜ぶということです。人というのは、他人の成功や良い話しよりも、失敗や悪い話しに関心を持ってしまいます。テレビのワイドショーなども、有名人のスキャンダルがよく報道されます。それは視聴率が良いからです。視聴率が良いというのは、それだけ関心を寄せているということです。ですが、それは聖書の語る愛とは正反対のものです。聖書の語る愛は、ローマ12:15に「     」と書かれていますように、喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣くことです。そして、ローマ12:17~21には「     」と書かれています。ここには、他人とのより良い関係を築く秘訣が書かれています。このことは、生まれながらの人にはできませんが、神によって新しく生まれ変えられた人にはできるのです。何故なら、神の愛が注がれているからです。そして、先週の礼拝でも話しましたが、その愛が賜物として与えられているからです。私たちはより良い人間関係を築くことのできない人ではなく、できる人とされているのです。あとは、その賜物を用いることができるように祈ることです。

3)愛の総括
 聖書が語っています愛をまとめますと、結局は今朝の箇所の7節に書かれていることです。「耐える」とか「忍ぶ」というのは、「何もしないでじっとしている」ように思えたりもします。確かにじっとすることを表していますが、それは仕方がないからじっとするのではありません。もっと前向きなのです。例えば、嫌がらせを受けたとしても仕返しをするのではなく、その人のために祈ることはできます。先程読みましたローマ12:17~21では、仕返しをするのではなく善を行うことが勧められています。ここで神は「復讐はわたしのもの」と語られています。そして、「わたしが報復する」とも語られています。神は私たちの心の中を知ってくださっています。神は私たちに「あなたの心の中はよく知っている。だけど仕返しをしたら結局は同じことである。だから、わたしに委ねて相手に善を行うように。」と勧めておられるのです。ですが、私たちは自分の心が傷つきますから、なかなか実践することができません。できる者へとされているのですが、なかなか実践できないのが現実ではないでしょうか。その最初の一歩は、先程も話しましたように祈ることです。何を祈るのかと言いますと、「今の私はその人に善を行うことができませんが、できるようにしてください。」という祈りです。「このことを通して神は最善のことをしてくださる」と信じて祈るのです。神に期待して耐え忍ぶのです。
 今朝の箇所に戻りますが、7節に「     」と書かれています。ここに書かれているのは、全て前向き・肯定的なことばです。愛は人を前向き・肯定的なものに目を向けさせてくれます。「何故、前向き・肯定的なものに目を向けさせるのか」と言いますと、神に愛されていることを知っているからです。何度も話していますが、信仰とは事実を事実として認めることです。私たちは目に見えるもので判断をしてしまいやすくなります。しかし、目に見えることだけが事実ではありません。目に見えない事実も存在します。私たちは神を信じるまでは神に愛されていることに気づきませんでした。ですが、それは私たちが気づかなかっただけであって、神に愛されているという事実は存在していたのです。その神の愛に気づいたのは神の慈しみによってです。そして、今の自分が神に愛されていることを知り、その神を信じることによって、「全てのことが共に働いて益となる」というローマ8:28のみことばを信じています。全てのことが共に働いているのです。すなわち、目に見える事柄と目に見えない事柄が共に働いているのです。そして、それら全てを通して神は益としてくださるのです。
 益となるのですから、今は自分にとって益ではないのです。プラスでないということはマイナスです。苦しみや悲しみは、その時の自分にとってはマイナス的な事柄です。しかし、そのようなマイナス的な事柄に対しても神は働いてくださっているという事実に目を留めることができるのです。そして、「神は益としてくださる」と信じ、期待して忍ぶことができるのです。まさしく、今朝の箇所の7節に書かれている通りです。これが神の愛です。そして、私たちはその神の愛を受けているのです。受けているだけでなく、賜物として用いることができるのです。

結)
 愛ということばは、とても美しいことばです。しかし、本当の愛は美しいだけではありません。どのような事柄に対しても、前向きに捉えさせることのできる力のあるものです。その本当の愛を私たちは受けているのです。そして、賜物として与えられているのです。その愛を日々の生活の中で実践していくことができるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント13:4「愛は寛容であり親切」  18.01.21.

序)
 愛ということばは、とても美しいことばです。この教会にもつけられている方がおられますが、人の名前にも多くつけられています。そこには「愛する人に」とか「愛される人に」という親の思いが込められているものと思います。愛ということばは美しいですが、その愛にはどのような特徴があるのでしょうか。今朝は、聖書が語る愛について共に教えられたいと願っています。

1)寛容
 まず、愛は寛容です。今朝の箇所の最初に「愛は寛容であり、愛は親切です。」と肯定的側面で書かれています。この「寛容」ということばは、直訳しますと「ゆっくり判断する」ということばで、すぐに結論づけて判断しないことを表しています。結論づけるというのは、自分が何かをされたことに対して、心の中で仕返ししていることになります。例えば、私がAさんに何かを頼んだとします。ですが、Aさんは私が頼んだことをしなかったとします。当然、私の心は傷つきます。それで、私は「Aさんは頼んでも実行しない人だ」と決めつけたとしたら、私は心の中でAさんに仕返しをしたことになります。そのように、すぐに結論づけて判断しないのが寛容なのです。何故なら、Aさんが実行できなかったのは、何か特別な事情があったのかもしれないからです。特別な事情があってできなかったのなら、それは仕方のないことです。なのに、そのようなことを考えもしないで、自分が頼んだことをしてもらえなかったことで心が傷つき、すぐに決めつけてしまうなら、それは聖書が語っています愛ではありません。
 或いは、忘れていたのかもしれませんし、わざとしなかったかもしれません。忘れられていたらショックですし、わざとされなかったのなら怒りを覚えます。ですが、たとえそうであったとしても、そこでその人を「あの人はこうだ」と決めつけないのが寛容なのです。悪い方に判断しますと、その人を受け入れることができなくなってしまいます。しかし、たとえ自分を傷つけようとする人であれ、受け入れることが聖書の語っている愛であり寛容なのです。ある方は「そんなことできるわけがない。自分を傷つける人を拒絶するのは、自分を守るためにも必要である。」と言われるかもしれません。その気持ちは分かります。ですが、それはこの世的な捉え方です。
 何よりも、神はそのような愛し方をされていません。私たちは神の愛を受けていたのに、その神の愛に正しく応えていませんでした。「これでもか、これでもか」というほど愛してくださっていたのに、その神の愛を無視するかのように歩んでいたのです。これはまさしく神の心を傷つけている行為です。ですが、神はそのような私たちをなおも愛し続けてくださったのです。何故でしょうか。それは私たちが神にとって価値のある存在だからです。私たち一人ひとりは、神にとって価値のある存在なのです。また、それだけではありません。そこに可能性もあるからです。神が私たち一人ひとりを愛しておられるのは、私たち一人ひとりが価値のある存在だけでなく、神を信じる可能性もあるからです。いや、神を信じる可能性だけでなく様々な可能性があるからです。
 私たちは「寛容」というのは、寛大で受け入れることのように捉えているのではないでしょうか。ですが、聖書が語っています寛容いというのは確かにその通りなのですが、それと同時にその人の可能性にも目を向けることでもあるということを知らされるのではないでしょうか。その人の可能性に目を向ける。これは視点を変えられることでもあります。視点が変えられますと、今まで自分の方から関係を持とうとしなかった人に対しても、関係を持とうとするように変えられます。このことから、寛容とは人を肯定的に見るものであることを知らされるのではないでしょうか。そして、神も私たち一人ひとりを肯定的に見てくださっているのです。それが神の愛です。

2)親切
 第2に、愛は親切です。私たちは「親切」というものを優しく丁寧に接することと思いがちではないでしょうか。東京オリンピック開催まで、あと約2年半となりました。オリンピック招致で「おもてなし」ということばが用いられ、2013年の流行語大賞にもなりました。海外では、日本の接客が優しく丁寧であることが良い評判のようです。また、落し物にしても戻ってくる確率が海外と比べますと高いようです。そのようなことから、日本人は真面目で親切であるという評価が高いようです。では、聖書は親切についてどのように示しているでしょうか。実は、この「親切」と訳されていますことばは「慈しみ」とも訳されていることばです。例えば、ローマ2:4の「慈しみ」がそうですし、11:22の「慈しみ」もそうです。ローマ2:4には、神の慈しみは人を悔い改めに導くものとして示されています。人は生まれながら罪人です。ですから、行く末は滅びしかありませんでした。その歩みを180度転換させるのが慈しみなのです。ですから、慈しみはお節介とは違います。先週の礼拝後に、親切とお節介の違いの質問がありました。お節介というのは、不必要に立ち入ることです。必要でもないのに、あれこれと行うことがお節介です。相手からすれば、必要がないのに行われたら迷惑です。ですが、慈しみはその人に必要なことですが、「迷惑」と思われずに行うことです。
 先程見ました箇所の全てには「神の」ということばが付け加えられています。神の慈しみというのは、人に必要なことですが「迷惑だ」と思われずに行われているのです。ですから、受けている側は気づかないかもしれません。事実、私たちは神に愛されていることを知るまでは、神の慈しみに気づかなかったのではないでしょうか。ですから、親切とお節介の違いは、されている側が気づいているかいないかの違いではないでしょうか。相手がされていることに気づいたら、それは聖書の語る親切ではないのです。そして、多くの人が「今の自分が神に愛されている」「神に慈しまれている」ということに気づいておられないのです。気づいていませんから神の慈しみを無視してしまうのです。でも、それは間違っているのです。先週の礼拝でも話しましたように、自分を産み愛し育ててくれた人を親と認めないのは間違っています。それと同じです。ところが、神に慈しまれていることに気づきますと、今までの自分の歩みが間違っていたことに気づかされるのです。そして、今までの歩みを悔い改めるように導かれるのです。それは神を信じている私たちも同じではなかったでしょうか。まさしく、神の慈しみは人を悔い改めへと導くものであることを知らされます。
 その神の慈しみについて、エペソ2:7には「     」と書かれています。神の慈しみは、神の恵みを明らかに示してくれます。そのために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。人はイエス・キリストの十字架と復活を通して、神の恵みを知ることができます。このことから神の慈しみとは、どのような人であれ真実を尽くすものであるということができます。気づかずに無視する人に対しても、真実を尽くしていくことが聖書の語っている親切なのです。ですから、聖書の語る親切とは優しく丁寧に接することだけではありません。神を無視する人であれ、自分に害を加えようとする人であれ、善をもって真実を尽くすことなのです。うまれながらの人は、自分に害を加えようとする人に対しては、それ相応の仕返しをするのではないでしょうか。それに対してイエス・キリストは、マタイ5:43で「     」と話されました。この「あなたの…敵を憎め」というのは、当時のユダヤ教の教えであり聖書にはありません。生まれながらの人は、自分に害を加えようとする人に対して、真実を行うことはできません。ローマ3:12の後半に「善を行う…一人いない。」と書かれています。この「善」と訳されていますことばも、実は「慈しみ」とか「親切」と同じことばです。ですから、一般的な善とは質的に異なるものです。ここで言われています「善」とは、自分に害を加えようとする人に対しても、真実を尽くす人は一人もいないということです。何故なら、神の慈しみに気づいていないからです。しかし、神の慈しみに気づいている者、すなわち神を信じている者は、そのことができる者とされているのです。ですから、慈しみを意味する親切は神の賜物としてキリスト者に与えられているのです。

3)神の賜物として
 聖書が語る愛とは、人の可能性に目を留め肯定的に捉えていくという寛容さと、自分に害を加えようとする人に対しても真実を尽くすという親切さが含まれています。ですが、聖書はそれを単なる教えとして書かれているのではありません。日常生活の中で実践するために書かれているのです。すなわち、神を信じる私たちが日々の生活の中で実践することを求めているのです。聖書が語る寛容と親切は、生まれながらの人にはできるものではありません。しかし、神の慈しみを経験している者はできるのです。何故なら、すでに神の賜物として与えられているからです。今年の最初の礼拝の後で、ある方が「愛も賜物なのですね」と話されました。その通りです。愛も神からの賜物なのです。「これからなれる」というのではなく、すでに行うことのできる者とされているのです。私たち一人ひとりに愛の賜物が与えられているのです。あとは、その賜物を用いるか用いないかです。
 私たちは、そのようなことを聞きますと「今の私にはできません」と答えやすいのではないでしょうか。神は「できる」と語られているのに、私たちは「できない」と答えてしまいます。何故でしょうか。答えは簡単です。そのために祈っていないからです。または、それを実践すると自分が損をするように思えるからです。何度も話していますが、赦しというのは本来受け入れられないものを受け入れることです。本来受け入れられないのですから、できないのは当たり前なのです。それを受け入れるには、自分の中で受け入れることを決断しなければならないのです。そこには大きな力が必要です。ですから、祈りが必要なのです。「その人を受け入れることができますように」と祈ることもしないで、その人を受け入れることはできません。「私が日々の生活の中で実践できますように」と祈ることもしないで、日々の生活の中で実践できることはありません。
 イエス・キリストは、マタイ7:7で「     」と話されました。先週の礼拝の最初で、「この箇所は隣人愛が強められるように祈り求めることが勧められている」と話しました。本来受け入れられない人を受け入れる。これは隣人愛です。「求めなさい」というのは、下の欄外にも書かれていますように「求め続ける」ということです。自分がその人を受け入れることができるようになるまで祈り続けるのです。イエス・キリストは、5節で「     」と話されました。これは自分が変えられない限り相手も変わらないことを表しています。自分がその人を受け入れない限り、より良い人間関係を築くことはできないのです。自分が変わることなくして、相手が変わることを願うのは「わがまま」というものです。そして、それは罪です。
 イエス・キリストは、ルカ13:6~9で「     」と譬え話を話されました。ところが、この譬え話をよく読みますと、途中で終わっていることに気づきます。1年後どうなったのかが話されていないのです。皆さんは、このいちじくの木はどうなったと思われるでしょうか。「番人が一生懸命肥料を与えてすばらしい実が実った」と思いたいです。しかし、実はこのいちじくの木は実を結びませんでした。では、このいちじくの木は主人によって切り倒されたのでしょうか。いいえ、そうでもありません。じゃあ、どうなったのでしょうか。番人がいちじくの木の代わりに主人からの審きを受けたのです。何故なら、この主人は父なる神を表し、番人はイエス・キリストを表しているからです。そして、このいちじくの木は私たちを表しています。この譬え話は神の審きについての譬え話です。そして、イエス・キリストは父なる神の審きから救われるためには悔い改めが必要であることを話されているのです。何を悔い改めるのでしょうか。それは自分の罪をです。そこまでイエス・キリストは私たちのためにしてくださったのに、自分自身は断固として変わることをしないで、相手が変わることを願うなら悔い改めの実を結んだとは言えません。この譬え話が途中で終わっているのは、その後のいちじくの木が私たち一人ひとりだからです。私たち一人ひとりがどのような実を結ぶかによって、この木がどのように扱われるかが決まってくるのです。

結)
 愛とは、人の可能性に目を留め肯定的に捉えていくという寛容さと、自分に害を加えようとする人に対しても真実を尽くすという親切さが含まれています。その愛は、神が私たちに与えてくださった最高の賜物です。神を信じる者は、すでにその賜物が与えられているのです。あとは、私たち一人ひとりが用いるか用いないかです。それには決断が必要です。神が与えてくださった愛という賜物を用いることができるように祈り続けていきましょう。

Ⅰコリント13:1~3「愛を基盤として生きる」  18.01.14.

序)
 聖書は旧約聖書と新約聖書で構成されています。その2つを合わせますと、新しい新改訳聖書2017は2154ページになります。その中で一番有名な箇所はヨハネ3:16です。この箇所は「聖書の富士山」とも言われています。何故なら、聖書の要約が書かれているからです。ヨハネ3:16以外にも有名なみことばがありますが、今朝のⅠコリント13章も有名な箇所の一つです。この13章は「愛の賛歌」とか「愛の章」とも言われています。結婚式の時にも、このみことばが用いられることが多々あります。
 聖書を正しく理解する基本の一つとして、文脈に注意することが大切です。例えば、マタイ7:7~8に「     」と書かれています。この箇所は隣人愛が強められるように祈り求めることが勧められています。ある方は「ここは何でも祈り求め続けるなら与えられるという約束が話されているのではないか」と思われるかも知れません。でも、そうではありません。もし、それを言うならばルカ11:9~10の箇所です。ある方は「同じではないか」と思われるかもしれません。しかし、よく読みますと文脈が違うのです。みことばは自分の都合の良いように理解しようとすれば、どれだけでも用いることができます。ですから、文脈を注意しながら読むということは、みことばを正しく理解するためにも大切なことです。
 このことは今朝の箇所の13章においても同じです。13章を理解するには、13章だけを見るのではなく、12章や14章を見ながら理解することが大切です。この13章は「愛の章」と言われていますが、急にパウロが愛について語り出したのではありません。以前から愛について語ってきたのです。そして、12:31で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と勧め13章につながっているのです。神から与えられた賜物は個人的に用いるものではなく、みなの益となるために与えられたものです。そのためには愛が必要であるとパウロは語っているのです。今朝は、その愛とは何かという愛の特徴を見る前に、愛がなければどうなのかということを共に教えられたいと願っています。

1)愛がないならうるさいだけ
 まずは、愛がないならうるさいだけです。コリント教会では異言が語られていました。この異言というのは、自分も他人も理解できないことばで声を出して語ったり祈ったりするものです。それは神を信じる全ての人にできるというものではありません。ですから、コリント教会では最高の賜物とされていました。そのため、教会の中に混乱が生じてしまいました。どのような混乱かと言いますと、異言を語ることのできる人が異言を語ることのできない人を見下したり、異言を語ることのできない人が劣等感を覚えたりするというものです。賜物で劣等感を覚える人は、生き生きとした教会生活を過ごせなくなってしまいます。そうなりますと、教会は健全に機能できなくなってしまいます。
 神はそのようなために賜物を与えられたのではありません。互いにいたわり合い、助け合って教会を建て上げるために賜物を与えてくださったのです。なのに、異言の賜物が与えられていることを自慢したり、人を見下したりすることは、教会の秩序を乱してしまい混乱を生じさせてしまうだけです。さらには、1節の最後に書かれていますように、うるさいシンバルと同じです。どらとはボクシングやプロレスなどの格闘技で鳴らされるゴングのことです。ただゴングやシンバルを晴らしているなら、それはやかましくうるさいだけで、人に迷惑をかけてしまいます。異言もそうです。その異言を通訳する人がいないなら、聞く人は話していることが分かりませんから迷惑そのものです。これは何も「異言を語ることが悪い」とか「異言で祈ってはいけない」と言っているのではありません。ただ通訳をする人がいないなら、一人になったときにするようにということです。他人への配慮をしないで行うなら、それは神の栄光を現すものではなく、むしろ神の御名を汚してしまうものとなってしまいます。
 このことは何を意味しているでしょうか。それは、自分の賜物を自負する人に対する注意です。コリント人への手紙は異言に言及されていますが、これは異言に限ったことではありません。自分の賜物を自負する人に対して語られてもいるのです。他人に見せるための賜物や奉仕は、他人に不快感を与えるだけで、神の栄光を現すのではなく神の御名を汚してしまう者であるというのです。何故なら、それらは自己満足の愛に過ぎないからです。私たちはどうでしょうか。「私は一度もそのようなことを思ったことはないから大丈夫」と思うなら、それが一番危険です。何故なら、私たちもそのようになりやすいからです。他人への思いやりや配慮を欠かしたものは、ただ他人に迷惑をかけてしまうだけのものです。

2)愛がないなら無に等しい
 次に、愛がないなら無に等しい。2節には特別な賜物を持っている人に対して書かれています。まず預言というのは、将来何が起きるかを語る予言ではありません。2節に書かれています預言は「ことばを預かる」と書きます。これは、神のことばを預かって話すことを表します。すなわち、神のみことばを聞いて他人に話す賜物のことです。また、奥義や知識というのは、神がまだ明らかにされていない御旨を知ることです。すなわち、将来のことを見通せる賜物のことです。そして、完全な信仰とは、どのような困難に出会っても屈することのない信仰のことです。2節で語られていますのは、そのような預言や奥義や知識や完全な信仰を備えている人のことです。
 私たちは、2節に書かれています賜物を備えている人を見たらどう思うでしょうか。私なんかは「理想的なキリスト者」のように見えて、尊敬のまなざしで見てしまうのではないかと思います。ですが、聖書は「愛がないなら無に等しい」と語っているのです。ルカ9:51~56に「     」と書かれています。その前の9:1には「     」と書かれています。ですから、ヤコブとヨハネも特別な賜物が与えられていたと考えられます。54節での彼らのことばから、天から火を下すことができたのかもしれません。ですが、彼らはイエス・キリストに叱られたのです。何故でしょうか。それは、彼らに愛がなかったからです。マタイ7:21~23に「     」と書かれています。ここには、預言や悪霊の追い出しや奇蹟を行っていた人を「不法を行う者たち」と言われています。彼らは神の御名によって行ってきたのです。なのに、何故不法者なのでしょうか。その答えがマタイ25:33~46に書かれています。長い箇所ですので読みませんが、40節と45節に「最も小さい者」と書かれています。最も小さい者に配慮して行うことが愛の行為です。どれだけ特別な賜物を用いたとしても、最も小さな者にしないなら、それは愛の行為とは言えないのです。
 では、最も小さな者とはどのような人のことでしょうか。小さな子どものことでしょうか。それとも、社会的身分の低い人のことでしょうか。そうとも考えられます。私は、「普段あまり意識しない人のことではないか」と捉えています。普段仕事や家の外のことで忙しく、家族を顧みないなら家族が最も小さい者になるでしょう。または、自分が関心のある人には何かと接しますが、あまり関心のない人には接することが少なくなります。すると、その接する機会の少ない人たちが、その人にとって最も小さな者になるでしょう。すなわち、普段あまり意識しない人が最も小さな者ではないでしょうか。
 どれほどすばらしい賜物が与えられていたとしても、その人にとって最も小さな人に配慮できないなら、その与えられている賜物は無に等しいのです。何故なら、そのような愛は先程も話しましたように自己満足の愛だからです。本当の愛は人を育てます。しかし、自己満足の愛は決して人を育てることができません。むしろ、人の成長を止めてしまいます。そのようなために、神は私たちに愛を与えてくださったのではありません。自分を通して人が育ち成長するために与えてくださったのです。

3)愛がないなら役に立たない
 最後に、愛のないものは何の役にも立ちません。3節に書か得ていますことは実践的なことです。生活の中で犠牲を払って親切にする行為です。この3節の行為は愛のある行為のように思えます。しかし、聖書は「そうではない場合もある」と語っています。犠牲を払ってまで親切にする行為に愛のないものがあるのでしょうか。聖書は「ある」と語っているのです。確かに、犠牲を払ってまで親切にすることはすばらしいことです。ですが、それが逆の形で返ってきた場合どうでしょうか。困っているときに助けたり気づかったりしたのに、ひどい仕打ちをされた場合どうでしょうか。私たちは「○○してあげたのに」とか「○○してやったのに」と、自分がその人に親切にしたことを思うのではないでしょうか。
 また、3節には「私のからだを…誇ることになっても」と書かれています。下の欄外を見ますと、異本「私のからだを…引き渡しても」と書かれています。今までの新改訳聖書では、こちらが採用されていました。ところが、有力な写本は今回訳されています方が使われていますので、こちらを採用したと考えらえます。どちらにしろ、殉教のことを語っていると考えられます。持っている物を全て分け与える。自分の身体を引き渡す。どちらも犠牲を負うものです。すなわち、どれだけ犠牲を払おうとも愛がないなら役に立たないというのです。何故なら、愛のない犠牲は打算から出ているからです。打算とは見返りを求めます。「犠牲を払うことによって良い評価を受けたい」と願うなら、それは見返りを求めるものとなってしまいます。それは聖書が語っている愛ではありません。
 では、聖書が語っている愛とはどのようなものでしょうか。それは見返りを求めない愛です。見返りを求めない愛とは自己犠牲の愛です。自己犠牲の愛とは赦す愛です。赦すとは、受け入れられないものを受け入れることです。簡単に「いいよ!」と言って受け入れられるものは聖書の語る赦しではありません。本来受け入れられないものを受け入れる愛とはどのようなものでしょうか。それは神の愛です。神は罪を嫌われます。何度も話していますが、聖書の語る罪とは法律を破ることではありません。間違った行為です。自分を産み愛し育ててくれた人は親です。でも、その人を親と認めないで生活するなら間違っています。どれだけ親が裁判所に訴えても、子どもが法律に反した行為をしていないなら罪には定められません。でも、自分の産み愛し育ててくれた人を親と認めず生活するのは間違った行為です。これが聖書の語る罪です。神はその罪を嫌われます。そして、その罪を審かれます。全ての人は、その罪を持っています。ですから、神に審かれる存在です。しかし、神はその罪を赦す方法をとってくださいました。それは、罪のない人が身代わりとなって神の審きを受けることによってです。ところが、罪のない人間はいませんから、神が人として誕生して身代わりに神の審きを受けるしかありません。それがイエス・キリストの十字架です。自分を犠牲にしてまでも受け入れる。これが自己犠牲の愛です。
 自己犠牲の愛は、自分がそれを選んで行動しなければできるものではありません。「良きサマリヤ人」と言われるイエス・キリストが話されたサマリヤ人がそうでした。彼は自分たちサマリヤ人を見下すユダヤ人が強盗に襲われて大けがをしているのを見て、かわいそうに思い自分の方から近づいて襲われたユダヤ人を介抱しました。自己犠牲の愛とは、相手の出方次第によって変わるものではありません。相手の出方は関係なく、自分の方から見返りを求めずに愛する愛です。その愛がないなら、どれほど良い行いをしても何の役にも立つことはありません。

結)
 本当の愛は、自己満足でもなければ打算的なものでもありません。見返りを求めない自己犠牲の愛です。どのようなことができたとしても、その愛がないなら何にもなりません。私たちは、すでにその愛を受けた経験をしています。人は経験して初めて実践することができます。私たちは本当の愛を基盤として生きることのできる者とされているのです。これからなれるのではなく、もうすでにされているのです。後は、実践できるように神に祈るだけです。本当の愛を基盤として生きられるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント12:28~31「よりすぐれた賜物」  17.01.07.

序)
 新年明けましておめでとうございます。2018年がスタートして1週間が経ちました。今年の目指しているものがありますでしょうか。ある人にとっては目標であり、また別の人にとっては願いかもしれません。12月はアドベントということで、クリスマスの箇所からメッセージをしてきました。そのため、約1ヶ月ぶりにコリント人への手紙となります。パウロが願っていたものは「キリストのようになる」ということです。これは神を信じる私たちの共通の願いかもしれません。別の表現をすれば「霊的成長」ということができるかもしれません。コリント教会の人たちも霊的成長を願っていました。その霊的成長のために賜物を求めていました。そして、霊的成長の証しとして「異言を語ること」と捉えていたのです。それに対して、パウロは31節で「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と勧めています。では、よりすぐれた賜物とは何でしょうか。今朝は、そのよりすぐれた賜物について共に教えられたいと願っています。

1)賜物の分類
 28節には様々な賜物が記されています。ここに挙げられています賜物を2つのグループに分けることができます。1つは最初の使徒・預言者・教師の3つです。これらは神のことばを語る賜物が与えられている人たちです。そして、もう1つは力あるわざ・癒しの賜物・援助・管理・異言です。これらは神のことば以外の賜物が与えられている人たちです。その中には、超自然的な現象を現すことのできる人たちもいます。奇蹟や癒しや異言がそうです。テレビなどでは超自然的現象を行う人が出演されたりもします。聖書は、超自然的現象を否定してはいません。これらも賜物の一つと言えると思います。
 私たちは見えるものに関心が奪われてしまいやすいものです。ですから、超自然的なものに関心が奪われてしまいます。そして、ある人たちは「超自然的なものを見たら信じる」と言われたりもします。しかし、多くの人は超自然的な現象を見ても信じないのです。ヨハネの福音書9章がそうです。この箇所には、イエス・キリストが生まれながらの盲人を癒されたことが書かれています。そして、ユダヤ教指導者たちは見ても信じなかったことが書かれています。この箇所以外にも書かれていますが、これは「人は奇蹟を見ても自分が満足しなければ信じない存在である」ということを示しています。結局は、超自然的な現象ではなく自分自身なのです。全てを自分で判断しているのです。中心は自分自身なのです。しかし、そのような自分を変えるものがあります。それは神のことばです。
 神のことばは、自分が聞きたくなくても心を刺し通します。何故なら、私たちには罪というものがあるからです。へブル4:12に「     」と書かれています。神のことばは生きていて力があるのです。私たちの全身に働くことができるのです。神のことばは人を生かす力があるのです。北朝鮮拉致問題で取り上げられている横田めぐみさんのお父さん滋さんが、昨年の11月に洗礼を受けられました。滋さんは、めぐみさんがいなくなってから「神も仏もあるものか」と言い、キリスト教の『キ』の字も言うものなら大声で怒られたそうです。その滋さんが「神様を受け入れますか」との問いに「はい」と答えられたそうです。妻の早紀江さんは「何が起こっているのか分からない感じで、こんなことがあるんだ、不思議なことが一つひとつ起こっているんだな」とクリスチャン新聞に記載されていました。神のことばは、それほど力のあるものです。
 もう1つの超自然的現象ですが、先程も話しましたように聖書は超自然的現象を否定してはいません。現代のキリスト教会の中には、癒しや異言を強調するグループがあります。それらは極端なものであり私たちは注意する必要があります。しかし、否定するのも極端な立場です。何故なら、聖書は超自然的現象を否定していないからです。ただ、神のことばはなければならないものですが、超自然的現象はなければならないものではありません。ただ、今朝の箇所で挙げられている超自然的現象も神の賜物の一つでしょう。私たちは、そのことをきちんと分別する必要があるのではないでしょうか。

2)賜物の優劣
 聖書は賜物の優劣をつけてはいません。ただ、パウロはコリント教会を意識してこのことを書いているのです。コリント教会が抱えていました問題の一つは、超自然的な現象を起こすことのできる賜物が何よりも優れていると捉えていたことでした。パウロは、そのような捉え方が間違いであることを気づかせるために、このようなことを書いているのです。神が与えてくださいました賜物に優劣などはないのです。
 ある方が私に「牧師という仕事は神様に直接奉仕できる仕事ですから一番良いですね」と言われました。その真意は分かりません。私を励ますためにそのように言われたのか、それとも本当にそのように思われているから言われたのかは分かりません。ですが、本当にそのように思われているのなら間違いです。確かに、教会の中で一番目立つのは牧師です。ですが、教会というのは牧師だけで成り立っているのではありません。その教会に集われています一人ひとりによって成り立っているのです。
 例えば、組織された会社もそうです。組織された会社は社長だけで成り立っているのではありません。その会社で働く従業員によって成り立っています。私は献身する前は医療機械の会社で営業マンをしていました。その会社で一番目立つのは営業マンです。営業マンが売り上げを上げることによって、その会社の業績は上がります。ですから、営業マンが一番目立ちます。でも、その会社は営業マンだけで成り立っているのではありません。会社の中で勤務する事務員もいれば、各々の部署で各々の役割が果たされているから営業マンは働くことができるのです。確かに営業マンは目立ちますが、その背後には目立つことのない方々の支えがあるからです。
 教会も同じです。教会には様々な人が集います。目立つ賜物が与えられている人もいますし、目立たない賜物が与えられている人もいます。性格的に目立つ人もいれば、目立たない人もいます。それら一人ひとりの働きによって教会は立ち続けることができるのです。しかし、コリント教会の人々はそのように捉えてはいませんでした。「目立つ賜物や働きがすばらしい」と捉えていたのです。ですが、それは他人との比較によってのものです。他人と比較して、自分の優劣を評価するのは間違いです。ともすると、私たちもそのような間違いを犯してしまいやすくなります。しかし、11節に「御霊は、みこころのままに」と書かれていますように、神ご自身が計画をもって熟慮されて賜物を与えてくださったのです。ですから、その神が与えてくださった賜物に優劣をつけることは間違いです。
 どのような賜物であれ、それは神がその人に与えてくださったものです。それは神が必要とされているから与えられているのです。ですから、目立つとか目立たないとかは関係ありません。私たちにとって大切なのは、その与えられた賜物を用いることです。また、どのような人であれ、その人は神によって教会に導かれているのです。そこには神の何らかの目的があるからです。ですから、どのような人であるかは関係ありません。どの人であれ教会にとって大切な存在なのです。ですから、賜物や人に優劣をつけるのは間違いです。どのような人であれ、神にとっては必要な存在であり必要な賜物なのです。一人ひとりが神に必要とされているのです。

3) よりすぐれた賜物
 賜物に優劣はありません。しかし、コリント教会の人々は目立つ賜物が優れていると捉え、そのような賜物が与えられることを熱心に求めていました。そのようなコリント教会の人々に対して、パウロは31節の前半で「あなたがたは…求めなさい。」と勧めています。賜物に優劣はありません。なのに、パウロは「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と勧めているのです。何か矛盾しているようにも思えます。ですが、この「よりすぐれた賜物」とは、優劣という意味での賜物のことではありません。「一番大切なもの」と言いましょうか必要な賜物のことです。
 何においても基礎というのは大切です。勉強にしろ、スポーツにしろ、仕事にしろ基礎をしっかりと学ばなければ応用を利かすことはできません。ですから、基礎的なことをしっかりと身に着けさせます。家を建てるにしてもそうです。基礎工事をしっかりとしておかなければ、何か災害が生じたとき大変なことになってしまいます。全てのものは基礎の上に技術的なものが置かれています。基礎がしっかりとされていなければ、応用的なことは多少は効くかもしれませんが、すぐにボロが出てしまいます。それは賜物についても同じです。賜物にも土台があります。その土台の上に、各々の賜物が置かれており用いられるのです。その土台となるものが、今朝の箇所に書かれています「よりすぐれた賜物」なのです。ですから、優劣的なことではありません。私たち一人ひとりに与えられている賜物の土台のことなのです。その土台を熱心に求めることが勧められているのです。では、そのよりすぐれた賜物・土台とは何でしょうか。
 そのことが13章に書かれています。それは愛です。愛の上に賜物が置かれていないと何の意味もないのです。その人がどれだけ用いられていようとも、その働きが愛の上に立てられていないなら何の意味もないのです。そして、その愛とは神の愛です。では、その神の愛とはどのようなものでしょうか。「神の愛」と聞きますと、私たちは「無条件の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、神の愛は無条件の愛です。では、その無条件の愛とはどのようなものでしょうか。何でもかんでも条件なしに愛することでしょうか。聖書を読んでいきますと、そうではないことに気づかされます。確かに、神は全ての人を無条件に愛してくださっています。ですが、そこには一つの方向性と言いましょうか目的があります。それは、愛を通して神を知るということです。そのように考えますと、無条件の愛というのは、何でもかんでも条件なしで愛するものではないということです。ある目的のために条件なしで愛することが、聖書が示している無条件の愛だということです。その愛が全てのものの土台となるのです。
 この12章では、御霊の賜物について記されています。その御霊の賜物は、一つになってキリストの身体である教会を建て上げるために、一人ひとりに与えられています。ですから、そこには優劣などありません。ただ、キリストの身体である教会を建て上げるという目的を達成するために、無条件の愛である神の愛を土台として、各々に与えられている賜物を用いていくのです。その愛も神から与えられたすばらしい賜物であり、その賜物こそがよりすぐれた賜物でもあります。12:3に書かれています「イエスは主です」という告白は、そのことをも示しています。ですから、神の愛と「イエスは主です」という告白は意味合い的には同じとも言えるでしょう。

結)
 何かができるという特別な賜物において優劣などはありません。家を建てるとき、柱は大切なものですが柱だけで家はできません。横木も必要ですし梁も必要です。壁や天井も大切ですし、火打ち梁も大切です。火打ち梁は天井に隠れて見えません。ですが、それがないと地震が生じたとき家は倒れてしまいます。どれも大切なものですが、絶対に必要なものは土台です。私たちの信仰の土台となるものは神の愛です。その神の愛は、私たちが健全に生きられるためだけでなく、神を知らない人が神を知るようになるためでもあります。また、教会を建て上げていくためでもあります。神の愛が私たちの生活の土台となるように祈っていきましょう

申命記26:1~11「満ち溢れる神の恵み」  17.12.31.

序)
 今日は大晦日で今年最後の日です。今年は主の日で始まり主の日で終わります。今年は新たに始めた活動が幾つかありました。絵本の世界とマミークラブと感謝祭です。各々の集会に未信者の方々の出席があり感謝です。また、10月からは英語教室がスタートし、その中から幾人かの子どもたちが、特別子ども集会に参加されました。そのことを思いますと、神が働いて導いてくださっていることを思わされます。続けて、神と個人的な出会いをされ、イエス・キリストを求め信じる思いが起こされるように祈っていきたいものです。今日は、その神の恵みについて共に教えられ、明日から始まります新しい年も神の恵みが注がれていることを覚える1年とされたいと願っています。

 今朝の箇所は、イスラエルの民が約束の地であるカナンに入って、住むようになってからのことが書かれています。ですから、今はまだカナンの地に入ってはいません。その内容は何かと言いますと、イスラエルの民がカナンの地から得た産物についてです。彼らは何をしなければならないかと言いますと、2節に「     」と書かれています。約束の地であるカナンで収穫した初物の一部を神に献げることが命じられています。カナンの地に入るまでのイスラエルの民は、荒野で生活しており食物は天からのマナだけでした。マナというのは、人には理解できない神のみわざの一つです。イスラエルの民は、その神のみわざを経験していました。彼らがマナで養われている時は、神を否定しようとも否定できない事実として体験しているのです。ところが、カナンの地での生活は、マナを食して生活するのではありません。自分たちの手で作物を作り、その作物を食べて生活するのです。荒野での生活は、一定の場所に住む生活ではありませんでした。場所を転々としなければなりませんでした。そのため、農作業をして作物を得ることなどはできませんでした。そのために、神はマナをイスラエルの民に与えられていたのです。イスラエルの民は、マナが与えられなければ荒野の中で生きていくことはできませんでした。ですから、ある面では荒野での生活は苦しい生活ではありましたが、神の恵みによって支えられていることを実感できた生活でもありました。ところが、カナンの地ではそうではありません。カナンの地での生活は、自分たちで農作業をして作物を得、その作物によって生活していくのです。そうなりますと、自分たちの働きによって生活できるという錯覚に陥る危険性があります。カナンの地での生活は神の恵みによるものなのですが、同時にイスラエルの民にとって大きな罠ともなり得るのです。ですから、神はここでイスラエルの民に対して、カナンの地での生活について定められたのです。
 イスラエルの民が住み生活しようとしているカナンの地の周囲の人々は、神であられる主を信じていない人々です。そして、イスラエルの民と同じように自分たちの手で農作業をして食物を得て生活しています。見た目では、イスラエルの民と何ら変わることはありません。そして、周囲の国々の人々は「自分たちの手で生きている」と考えている人々です。そのような人々と接しますと、イスラエルの民もそのような錯覚に囚われてしまう危険性があります。ですから、神はイスラエルの民に産物の初物を神に献げることを定められたのです。産物の初物は、産物全体を表しています。産物の初物を献げるとは、産物の全ては神によって与えられたという感謝のしるしでもあるのです。しかも、本人が自分の手で神の前に持って行き、唱えて礼拝することも定められています。この定めは、現代の私たちに何を教えているでしょうか。
 1つは、私たちの生活は神によって支えられていることを教えられます。社会では、働く収入で生活している人が殆どです。それは神を信じる人であれ、信じていない人であれ同じです。神を信じていない人は、「自分の生活は自分の働きで支えている」と思われています。そのような捉え方をされている方が圧倒的に多いです。神を信じる私たちは、そのような社会の中で生かされています。本当は神の恵みによって支えられているのに、そのことを忘れてしまって自分の力で生活している錯覚に陥ってしまう危険性があります。これは何も収入のことだけではありません。普段の生活の全てにおいても同じことが言えます。順調に事が進むときはまさしくその通りではないでしょうか。「自分の考え方が良かったから」とか「自分のやり方が良かったから」と捉えてしまいやすくなります。本当は神の恵みによって支えられているのです。今日私たちは、そのことを改めて覚えて1年の歩みに感謝しつつ、新しい年を迎えて、そのことを覚えつつ歩まされたいものです。
 2つ目は、礼拝とは何かを教えられます。神は何故礼拝することを定められたのでしょうか。10節の後半に「あなたは…礼拝しなければならない。」と書かれています。すなわち、初物を収穫したその人自身が神に供えて礼拝しなければならないことが定められています。それは何のためかと言いますと、10節の前半に「今ここに私は…持って参りました。」と書かれていますように、神によって与えられた収穫に感謝してのものです。ですから、礼拝とは神の恵みに感謝するためのものです。自分の代わりに誰かを遣わして神を礼拝するのではありません。本人が行って神に献げ礼拝することが定められているのです。何故なら、その人自身が神の恵みと支えを覚えて感謝するためです。礼拝とは、神の恵みを覚えて神に感謝するものです。私たちは、毎週日曜日に教会に集い礼拝を神に献げています。日曜日というのは週末ではなく、週の最初の日です。その最初の日に神に礼拝を献げるというのは、先週1週間の歩みは神の恵みによるものであることを覚えて感謝するのと同時に、今日から始まります新しい1週間の歩みに対しての期待でもあります。それは「先週1週間守り導いてくださり感謝します。どうぞ、今週の歩みも守り導いてください。」という感謝と期待です。そして、今年最後の日の礼拝は、今年1年の感謝と同時に、明日から始まります新しい年への期待でもあります。本当に、今年が守り導かれたことに感謝と新しい年への期待をもって残されている数時間を過ごさせられたいと願います。
 3つ目は、神の恵み深さを教えられます。今年、どれくらい神を意識されたでしょうか。私たちは多くのことが「当たり前」と思い神の恵みを意識しないのではないでしょうか。今年は初めて「感謝祭」というのを行いました。これはアメリカで行われている感謝祭とは意味的には違うものです。アメリカの感謝祭は、アメリカに移住した人たちが初めて収穫できたことに感謝して行われたものです。私たちの教会が行いました感謝祭はそうではなく、勤労感謝の日に因んでのものです。勤労感謝の日も収穫に対する感謝から出たものですが、それだけでなく健康や家族などにも感謝するものとして行いました。今年はBBQ会を通して行い、その時のメッセージでも話しましたが、「有り難い」というのは有ることが難しいという字から来ています。有ることが難しいのですから滅多にないことです。ところが、その滅多にないことが毎日のように続きますと、いつの間にか当たり前になってしまいます。当たり前になってしまいますと感謝することを忘れてしまいます。感謝は意識しないとできないものです。ですが、神は私たちが意識していなくても支えてくださっています。私たちが神を意識しているから、神は私たちに何かをしてくださるのではありません。私たちは、その神の恵みの中で生かされているのです。そして、今年もその神の恵みの中で生かされてきたのです。そして、明日から始まります新しい年も、その神の恵みの中で生かされるのです。その神の恵み深さを覚えつつ生かされていきましょう。

結)
 ある方は「私が神を意識しなくても、神は私に恵みを与えてくださるのなら、このままで良い。」と思われるかもしれません。何故なら、その方が楽だからです。ですが、それはその人の生き方の問題です。受けているものに対してどのように応えていくか。それによって、その人の生き方は違ってきます。神は献げることを求めておられます。それは何故かと言いますと、感謝は気持ちです。気持ちは見えるものではありません。何故なら、心の中に生じるものだからです。その見えないものを見える形として表すのが献げ物です。すなわち、神は見えない感謝という気持ちを見える献げ物で表すことを求めておられるのです。今年必要なものを全て満たしてくださった神に感謝しつつ、明日から始まります新しい年、その感謝を見える形として表していきたいと願います

ルカ2:1~20「クリスマスは神の備え」  17.12.24.

序)
 クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いするときです。そのイエス・キリストの誕生には不思議なことが多くあります。1つは、処女であるマリアから誕生されたということです。処女から赤ちゃんが誕生するというのは、私たちの常識では考えられないものです。はっきり言いまして、私も理解できていません。理解できていませんが、でも歴史的事実として起きたのです。その処女降誕以外でも不思議なことが多々あります。何故、このような不思議なことが生じたのかと考えますと、それが全て神の備えだったからです。今朝は、この箇所を通して神の備えについて共に教えられたいと願っています。

1)住民登録を通して
 神の備えについて教えられる第1は、住民登録を通してです。当時のイスラエルの人たちは、旧約聖書に預言されている救い主の誕生を待ち望んでいました。その救い主はベツレヘムという町に生まれることが書かれています。このベツレヘムという町は、エルサレムという町から10㎞ほど南に位置する町です。エルサレムという名前は聞かれたことがあると思います。先日もトランプ大統領がイスラエルのアメリカ大使館をエルサレムに移すことで話題となりました。そのエルサレムに近いベツレヘムの町に救い主が生まれることが預言されていました。
 ところが、イエス・キリストの両親であるヨセフとマリアが住んでいたのはベツレヘムではなく、ナザレという町でした。このナザレという町はガリラヤ湖の西に位置する町です。英語教室でのメッセージの時にも話しましたが、ナザレの町とベツレヘムの町は100㎞ほど離れています。春日井市を中心にしますと、北なら高山市辺りで南なら伊勢市を越えます。また、東なら浜松市を越えて掛川市辺りになりますし、西なら琵琶湖を越えて大津市辺りとなります。当時は車などない時代ですから、100㎞離れた町に行くことは大変なことです。しかも、マリアのお腹の中には赤ちゃんがいます。普通なら、いつ出産してもおかしくない身重の女性が長い距離を旅することなどしないことでしょう。でも、イスラエルを支配しているローマ帝国から住民登録をすることが命じられたのです。行きたくなくても行かなければならないのです。ヨセフとマリアからすれば迷惑そのものです。ある方は「それならナザレの町で住民登録すれば良いじゃないか」と思われるかもしれません。ですが、ユダヤ人は家系を大事にする民族です。4節に「ヨセフも…血筋であったので」と書かれています。私たち日本人に分かりやすく言えば本籍であるベツレヘムの町に住民登録しなければならなかったのです。ですから、約100㎞も離れているベツレヘムの町にまで行かなければならなかったのです。
 先週と先々週の礼拝で見ましたが、ヨセフとマリアは御使いからイエス・キリストの誕生を告げられました。ヨセフは、婚約者であるマリアのお腹に子どもを宿していることで苦しんでいました。そのようなとき、御使いによってマリアと結婚することを決断したのです。また、マリアも御使いから告げられたことに驚きましたが、神には不可能なことがないと信じ受け入れました。ヨセフもマリアも神が共にいて最善を尽くしてくださることを信じ、御使いのことばを受け入れたのです。妊娠4~5ヶ月位の時ならまだしも、臨月になってから100㎞ほど離れた町に行かなければならないという事態が起きてしまったのです。ヨセフとマリアからすれば「何でこんな時に」という思いもあったことでしょう。でも、それが神の備えだったのです。
 ヨセフとマリアからすれば、「泣きっ面に蜂」「弱り目に祟り目」のようなものです。それとよく似たことを私たちも経験することがあるのではないでしょうか。その時には、それが「何故なのか」「何のためなのか」は分かりません。でも、そこに神の備えがあることを知らされるのではないでしょうか。私たちは色々なことに遭遇します。それは決して本人にとってプラス的なことだけではありません。マイナス的に思えるものもあります。しかし、そこに神の備えがあることを覚えたいものです。

2)飼葉桶を通して
 神の備えについて教えられる第2は、飼葉桶を通してです。長い旅をしたヨセフとマリアは、ようやく先祖の町であるベツレヘムに着きました。6~7節に「ところが…飼葉桶に寝かせた。」と書かれています。飼葉桶とは家畜のエサ箱です。生まれたばかりの赤ちゃんを家畜のエサ箱に寝かせることはありません。「なのに、何故赤ちゃんを飼葉桶に寝かせたのか」と疑問が生じます。考えられることは、「ベツレヘムの町は人がいっぱい集まり泊まる宿がなかったのではないか」ということです。マリアに陣痛が始まったのかもしれません。そのため、雨風がしのげる家畜小屋を誰かが紹介したのかもしれません。ヨセフとマリアからすれば場所よりも無事に出産することを選んだのでしょう。マリアは家畜小屋で出産し、赤ちゃんを飼葉桶に寝かせました。その飼葉桶が神の備えでもあったのです。何故なら、それによって羊飼いたちがイエス・キリストを捜し当てることができたからです。
 もし、普通の宿屋なら羊飼いたちは生まれたばかりのイエス・キリストに会うことはできなかったでしょう。何故なら、町は大勢の人がごった返し、宿屋も満員で忙しいからです。しかも、羊飼いたちの服装は決してきれいなものではありません。そんな人たちが宿屋に来ても宿屋の主人からすれば迷惑なだけです。羊飼いたちは追い返されることだったでしょう。でも、家畜小屋なら違ってきます。家畜小屋は決してきれいな所ではありません。そのような所に身なりも汚い羊飼いたちが来ても違和感はありません。羊飼いたちからすれば、宿屋よりも家畜小屋の方が良かったのではないでしょうか。
 また、御使いは羊飼いたちに「     」と12節で語りました。「飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。」と言っているのです。羊飼いたちからすれば「生まれたばかりの赤ちゃんが何故飼葉桶に」と思ったかもしれません。でも、このことばから捜すのは宿屋や民家ではなく家畜小屋であると察しがついたのではないでしょうか。「羊飼いたちからすれば、こちらの方が捜しやすかったのではないか」と思われます。そのように考えますと、イエス・キリストが家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされていたのは羊飼いたちのためでもあったということを知らされます。そして、それが神の備えでもあったのです。
 御使いは羊飼いたちの前に現れました。御使いは神の使いですから、御使いが羊飼いたちの前に現れたというのは、神が御使いを羊飼いたちに送られたことを表しています。神は羊飼いたちのために、ここまで備えをしておられたのです。当時のイスラエルに住む羊飼いたちは、一般の人から見下されていました。価値の低い者とされていました。でも、神はそのような羊飼いたちのために、ここまで備えをされていたのです。神にとってはどのような人であれ尊い存在です。それは私たちも同じです。ここに居ます私たち一人ひとりも神にとって尊い存在なのです。それならば、神は私たちのためにも備えをしてくださっていることに気づかされるのではないでしょうか。現状を見ますと厳しい所に立たされているかもしれません。でも神は、そのことを通してすばらしい備えをしてくださっていると知らされるのではないでしょうか。その神に期待していきたいものです。

3)羊飼いを通して
 神の備えについて教えられる第3は、羊飼いを通してです。先程も話しましたが、イスラエルに住む羊飼いは、一般の人から見下されていました。価値の低い者とされていました。ですが、神はその羊飼いにイエス・キリストがお生まれになられたのを最初に知らせたのです。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていました。そして、救い主がお生まれになられるのを待ち望んでいました。ですから、ユダヤ教の指導者や身分の高い人たちに知らせた方が多くの人に伝えることができます。しかし、神はそのようなことをされませんでした。何時生まれたのか、何処で生まれたのか、分からない状態で誕生されたのです。しかも、救い主の誕生を知らせたのは羊飼いたちだけでした。その他の誰にも神は知らせなかったのです。これもまた不思議なことです。
 一般社会では知らせをこのような方法ではとりません。効率の良い方法を取ります。より多くの人に知らせるために、そして少しでも早く伝わるために、有名な人や身分の高い人を用いることでしょう。皆さんもそうではないでしょうか。「この良いものを一人でも多くの人に伝えたい」と思いましたらどうするでしょうか。まず、インターネットを用いるでしょう。また、チラシを用いるでしょうし、テレビでの宣伝も用いるでしょう。しかし、神はそのようなことをされませんでした。一般の人から見下されていた羊飼いを用いられたのです。イエス・キリストが30歳になられて公の生涯を歩み始められたとき、誰一人としてイエスがキリストであることを知りませんでした。知っていたのは、ヨセフとマリアは別としてバプテスマのヨハネだけでした。多くの人々がキリストを待ち望んでいたのに誰も知らないのです。これほど効率の悪い方法はありません。でも、神はそのような方法をとられたのです。「何故なのか」というのをとても考えさせられます。
 考える中で一つのことに気づかされます。それは、この世の価値観と神の価値観が違うということをです。この世の価値観は、「如何に効率よくするか」というものです。それは結果から見る価値観です。結果から見る価値観というのは、「如何に効率が良いか」「どれ程役に立つか」というもので、効率の良いものや役に立つものほど良いという価値観です。それらは物においてはそうかもしれませんが、その価値観を人間にも当てはめてしまいます。そして、「より役に立つ人ほど価値がある」という評価になってしまいます。しかし、神の価値観はそうではありません。イエス・キリストは人をお金に譬えて話されました。今、私が手にしています千円札には「日本銀行券」という名が印刷されています。これは日本銀行が発行した千円札です。折れ曲がっています。新札からすれば古いものです。しかし、新札であれ古い札であれ価値は同じです。この千円札よりももっと汚れていたり、破れていたとしても同じ千円の価値があります。お金を人に譬えますと、新札は若い人ということができるかもしれません。また、古い札は老人ということができるかもしれませんし、破れたものは障害者ということができるかもしれません。ですが、どれも同じ価値なのです。この千円札は「日本銀行券」という字が印刷されているなら、どのような札であれ同じ千円の価値があります。そして、神のかたちとして創造された人間も、どのような人であれ同じ価値があるのです。神はそのことを明らかにされるために羊飼いを備え用いられたのです。私たちはそのことを知らされるのではないでしょうか。

結)
 住民登録をしなければならないこと。イエス・キリストが飼葉桶に寝られていること。見下されていた羊飼いが用いられたこと。これらは不思議なことですが、全ては神がそのように備えられたものです。神の備えは、私たちの想像を遥かに超えたものです。私たちの常識では当てはまらないものです。その私たちの常識を遥かに超えた神が、私たちのために備えてくださいました。そして、これからも私たちのために備えてくださっています。その神の備えを信じ歩まされていきましょう。

マタイ1:18~25「神が共におられる」  17.12.17.

序)
アドベントの第3週目を迎え、いよいよ来週はクリスマス礼拝です。そして、クリスマスが過ぎますと年末年始を迎え心が忙(せわ)しくなります。これから大掃除や年賀状などのことが気になってきます。そのような忙(せわ)しいときに、クリスマスがあるのは「意味深いことである」と私個人は思わされています。何故なら、クリスマスはそのような忙(せわ)しい中で、心を静めることを意識させてくれるからです。今朝の箇所は、ヨセフに焦点が合わされている箇所です。そのヨセフとはどのような人かを見つつ、来週のクリスマス礼拝を待ち望んでいきたいと願っています。

1)神に正しい人
 19節の初めに、「夫のヨセフは正しい人で」と書かれています。ですから、第1にヨセフは正しい人でした。この「正しい人」というのは、一般社会から見た正しさではなく、神の目から見た正しさです。それは神の戒めを守り行っていた人ということです。しかも、それはユダヤ教指導者らのように高慢なものではなく、神を畏れ敬虔に生きていたことを意味します。すなわち、表面的・形式的な宗教行事を行うのではなく、謙虚で忠実に神の戒めを守り行っていたのです。そのヨセフは、婚約者のマリアが妊娠したことを耳にします。現代の日本においては、「できちゃった婚」というのがありますが、当時のイスラエル社会においては未婚であっても、婚約者がいて他の人との妊娠は処刑されることが定められていました。それは神の律法にも定められています。ですから、ヨセフはマリアを訴えることもできたのですが、マリアを訴えることなく密(ひそ)かに去らせようとしたのです。ここにマリアに対する思いを見ることができるのではないでしょうか。
一般的常識からすれば、婚約中の女性の妊娠をしたというのは「不倫」に価します。「価する」というよりも不倫そのものです。男性の方からすれば裏切られたという見方が当然です。そのため、ヨセフには2つの選択肢がありました。1つは律法に従ってマリアを訴えるという方法です。裏切られたのですから、ごく普通の対応と言えるでしょう。もう1つは、当時の離婚法に従って、公にしないで離婚状を書くという方法です。ヨセフは後者の方を選ぼうとしていました。ある見方からすれば、前者は義であり後者は愛と見ることもできます。「義を優先するか愛を優先するか」という選択肢の中で、ヨセフは愛の方を選んだのです。ヨセフは神の戒めを忠実に守る人でしたが、愛する方を選んだ人でもあったのです。
聖書は、このことについてヨセフは「思い巡らしていた」と語っています。これは、ヨセフの心の中で葛藤があったことを伝えています。ヨセフ自身簡単に決められることではなかったのです。おそらく一度決断したけれども、「本当にそれが神の前に正しいのかどうか」を悩んでいたと考えられます。自分の個人的感情もあったかもしれません。そのような葛藤の中で、ヨセフは愛する方を選んだのです。神に対して敬虔に生きる者として、マリアを訴えることなく密(ひそ)かに去らせることを選んだのです。このヨセフが選んだ愛は赦しが伴う愛です。一般社会から見れば処女が身ごもることは考えられないことです。それ故、マリアが身ごもったということは律法に違反したことであり、処刑されるに価する行為です。そのマリアを訴えることなく離婚を決意するということは、マリアの過ちを赦すということでもあります。実際マリアは過ちを犯してはいませんでしたが、一般社会から見れば過ちにしか見えないものです。何故なら、処女が妊娠するというのは常識的には考えられないからです。
ヨセフの愛は赦しが伴う愛でした。このことから「正しい」とはどういうことかを考えさせられるのではないでしょうか。聖書が語る「正しい」とは、律法的にと言いましょうか杓子定規のような正しさではなく、人に対する思いが伴う正しさです。そのことを思うとき神を思わされます。神は義なる方であり、聖なる方であると同時に、愛なる方でもあられます。人が神に対して罪を犯したとき、神の義を貫くこともできました。人の罪を赦さず審くこともできたのです。ですが、神は人を審くことをされず赦す方を選ばれたのです。神の愛も赦しが伴う愛なのです。神の中に義と愛が衝突していました。何故なら、人の罪を赦すなら義が損なわれ、人の罪を罰するなら愛が損なわれるからです。その中で1つの方法をとってくださいました。それは、罪のない者が身代わりとなって神の審きを受けることです。しかしながら、罪のない人間は一人もいません。罪がないのは神であられる神ご自身だけです。ですから、罪のない神が人として誕生されるしかありません。それがイエス・キリストです。イエス・キリストの誕生は、まさしく神の愛そのものです。私たちはヨセフの正しさから、そのことを知らされるのではないでしょうか。

2)神のみことばを実践した人
第2に、ヨセフは神のみことばを実践した人でもありました。ヨセフはマリアのことで思い巡らしていたとき、神のみことばを聞きました。その神のみことばは「マリアをあなたの妻として迎えなさい」ということでした。神の御使いは、ヨセフに呼びかけたとき「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と語っています。当時は、婚約することによって法律上妻とされています。この神の使いのことばは、共に住み夫婦生活をしなさいということです。ここで注目したいことは「恐れずに」ということばです。これは、ヨセフ自身が恐れていたことを表しています。
では、ヨセフは何を恐れていたのでしょうか。御使いが現れたことに恐れたのではなく、今後のマリアに生じる事柄を恐れたと考えられます。第1は、マリアに対する世間の仕打ちです。もし、ヨセフがマリアと結婚しませんでしたら、マリアはそのまま子供を出産することになります。すると、マリアは未婚の母となってしまいます。日本においても、数十年前までは未婚の母に対して偏見の目で見られていました。ましてや2000年前の厳格なユダヤ教社会の中であれば、どれほどのものであるかは想像できるのではないでしょうか。それほどの偏見の目や仕打ちを受けることとなってしまいます。ヨセフにとっては大きな心配であり恐れでもあったことでしょう。
第2は汚れに対する恐れです。婚約中の女性が身ごもったということは不倫をしたということになりますから、当然律法に違反したことであり汚れた者とされます。その女性を妻に迎えるならば、律法からすれば違反行為となります。神の律法を破るということは、汚れた者となるということでもあります。ヨセフは神に対して正しい人でしたから、神の戒めをきちんと守り行っていた人です。自ら汚れる方を選んだことはなかったと考えられます。ですが、マリアを妻として迎えるなら律法に反したことになり、神に対して汚れた者となってしまいます。そのことに対する恐れがあったことでしょう。
第3は誹謗中傷という世間の声に対する恐れです。マリアの妊娠の経緯については、本人たちには分かっても世間には理解してもらえないことでしょう。何故なら、処女が身ごもるなど常識では考えられないからです。最悪の場合罪人扱いをされ、ユダヤ教社会から追い出される可能性があります。律法の規定に従えば、「汚れた者に触れば汚れる」とあります。ですから、罪人とされ汚れた者とされるわけですから、ユダヤ教社会からの追放は絶望を意味します。なぜなら、触れると汚れるわけですから距離を置かれます。距離を置くということは人と交流ができないということです。日本で言う「村八分」の状態です。葬式と火事以外は一切交わらないというのが村八分です。村八分された人でひどい方は物も売ってもらえません。ですから、別の町に行って買い物するしかありません。ユダヤ教社会からの追放は、その村八分と似た扱いを受けなければなりません。これは非常に辛いことです。そのことに対する恐れがあったことでしょう。
ヨセフは、これらのことを恐れていたと考えられます。ですから、神の使いは「恐れずに」とヨセフに告げたのです。そして「マリアを妻に迎えるように」とも告げました。ヨセフの心の中には大きな葛藤があったと思われますが、神の使いのことばを信じマリアを妻に迎え入れたのです。ヨセフは神のみことばを実践した人でもありました。

3)ヨセフの経験を通して
ヨセフは、ユダヤ教社会という世間の常識に従うことと神のみことばに従うこととの戦いの中で、マリアを妻として迎え入れました。それは神のみことばに従う方を選び実践したことを意味します。やがてマリアのお腹は大きくなっていきます。おそらく、結婚してからの出産よりも日数的には短いと考えられます。世間は偏見の目で見る可能性があります。そのことに対する不安があったことでしょう。しかし、マリアは無事に出産することができました。このマタイの福音書には、ルカの福音書に書かれていることは記されてはいません。ただ、無事にイエス・キリストが誕生されたことだけが記されているだけです。これが意味することは、「恐れずに」という神の使いのことばと、神が共におられるという聖書の約束の確かさを示しています。この出来事を通してヨセフは、神が共にいてくださり守り導いてくださったということを経験したのです。まさしくインマヌエルの神です。
ヨセフはマリアを妻として迎え入れるとき、社会との戦いに不安を覚えたことと思われます。そのような中で神に従うことが信仰です。ですが、信仰とは自分の中に生じる「本当に大丈夫だろうか」という不安との戦いでもあります。それは聖書に登場する信仰者全てがそうでした。アブラハムもモーセもヨシュアもダビデらも、すばらしい神への信仰を持っていましたが、同時に多くの不安を抱いた人たちでもありました。その不安を抱きつつも神に従う道を選び歩み続けた人たちでもありました。その結果、神のみことばの確かさを経験したのです。それはヨセフも同じです。不安を抱きつつも、神に守られ無事にマリアはイエス・キリストを産むことができました。ヨセフは自分の経験を通して、神のみことばの確かさを知りました。経験を通して神の確かさを知ること以上に強いものはありません。
このヨセフの経験は、現代の私たちにおいても同じことが言えるのではないでしょうか。私たちの歩みの中にも、世間の常識や自分の常識というものがあります。そこから神のみことばに従うことの戦いを経験します。世間や自分の常識と神のみことばへの服従との戦いの中で、どちらを選び実践するかを、聖書はこの箇所を通して私たちに問いかけているのではないでしょうか。先週の礼拝でエリサベツ夫婦のことを触れました。彼らは自分たちの経験を通して神のすばらしさを知ったのです。そして、ヨセフとマリアも自分たちの経験を通して神のすばらしさを知ったのです。経験を通して神のすばらしさを知りますと、強い確信をもって歩むことができます。どのような確信でしょうか。それは「神が共にいて守ってくださる」という確信です。ヨセフは自分の経験を通して、そのことを知った人でもありました。

結)
「神が共にいてくださる」という神のすばらしさは、いつも私たちの目の前にあります。決して遠いところにあるのではありません。申命記30:14に「     」と書かれています。みことばは私たちの身近にあり行うことのできるものです。神のすばらしさの経験は、一生懸命努力して掴み取るものではありません。神のみことばに聞き従う方を選び取ることによって獲得することのできるものです。何度も話していますが、私たちの目の前にはいつも2つの道があります。それは、みことばに聞き従う道と聞き従わない道です。そして、みことばに聞き従う道を選び実践するとき、私たちは「神は共にいてくださる」という神のみことばの確かさを経験することができるのです。このアドベントのとき、神のみことばに聞き従う道を選び取れるように祈りつつ、来週のクリスマス礼拝を待ち望んでいきましょう。


ルカ1:26~38「受胎告知を通して」  17.12.10.

序)
 クリスマスまで2週間となりました。クリスマスは、男性を知らない女性が神によって身ごもり誕生するというものです。これは私たちには絶対に理解できないことです。今朝は、そのイエス・キリストの母であるマリアに御使いのガブリエルが受胎告知をする箇所です。そのことを通して、神はどのような方であるかを共に教えられたいと願っています。

1)この世の常識以上の方
 まず教えられることは、神はこの世の常識以上の方であるということです。御使いガブリエルが突然マリアの前に現れ、28節でガブリエルが語ったことばに対して、マリアはひどく戸惑って何の挨拶か分かりませんでした。するとガブリエルは、マリアがみごもって男の子を産むことを告げます。そのガブリエルのことばに対して、マリアは34節で「     」と答えました。独身のマリアにとって、子どもを宿すということは理解できなかったのです。当然のことと言えば当然のことです。まだ結婚もしておらず、男の人を知らない女性が男の子を産むなど考えられるものではありません。それは、この世の常識では絶対に不可能なことです。すなわち、マリアという女性は、この世の常識に囚われていた女性ということができます。
 この世の常識に囚われていたマリアに、神はガブリエルを遣わされたのです。神がマリアにガブリエルを遣わされたということは、神が特別にマリアに目を留められたということです。それは来週見ますヨセフにおいても同じです。ヨセフも何処にでもいる大工職人です。またヨセフは、マリアが身ごもったことによって、ひそかに離縁しようと考えていたのです。それはヨセフもこの世の常識に囚われていたということです。そのようなヨセフに神は特別に目を留められたのです。そして、この世の常識に囚われるというのは私たちも同じです。私たちもこの世の常識、自分の常識に囚われてしまう者です。しかし、そのような私たちがイエス・キリストを信じられるようになったのは、神が特別に目を留めてくださったからです。人がイエス・キリストを信じられるのは、人の努力によって信じられるものではありません。神の特別な働きがない限り信じられないのです。私たちもこの世の常識に囚われてしまう者ですが、そのような私たちに神が特別に目を留めてくださり、イエス・キリストを信じられるようになったことに感謝したいものです。
 この世の常識に囚われているマリアに対して、ガブリエルは35節で「聖霊が…あなたをおおいます。」と語りました。この世の常識に囚われているマリアの上に聖霊が臨まれるのです。私たちもこの世の常識に囚われてしまう者です。そのような私たちの上にも聖霊が臨んでくださるのです。何故でしょうか。私たちは自分の力や努力によって、この世の常識に囚われないようにすることはできないからです。この世の常識以上のものが働かない限り、この世の常識から抜け出すことはできません。そして、この世の常識以上というのは、この世を造られた神ご自身しかおられません。その神は、この世の常識に囚われている人に働いてくださるのです。それは、今神を信じている人であれ信じていない人であれ、神は目を留めてくださり働いてくださるのです。
 イエス・キリストは、そのことを明らかにしてくださるためにお生まれになられたのです。神を信じている信じいない関係なく、「この私に神は目を留めてくださり働いてくださっている」ということを、はっきりと示すためにお生まれになってくださったのです。それがクリスマスなのです。この世の常識以上の方がおられることを示されるために、イエス・キリストはお生まれになられたのです。私たちもマリアのようにこの世の常識に囚われやすい者です。しかし、この世の常識以上の方がおられることを覚えて、その神に期待し歩ませていただきたいと願います。

2)神の備え
次に教えられることは、神の備えについてです。この世の常識に囚われているマリアに対して、ガブリエルは36節で親類のエリサベツ夫婦の出来事を語りました。エリサベツのことについては1:5~25に書かれています。このルカの福音書は、ルカがテオフィロという人に宛てて書かれた手紙です。3節に「テオフィロ様」と書かれていることから、「この時のテオフィロは未信者であったのではないか」と言われています。しかも、その後に「あなたのために…思います。」と3~4節に書かれています。ルカは、テオフィロが理解しやすいように順序立てて書いているのです。その出だしがザカリヤとエリサベツ夫婦の出来事なのです。別に、イエス・キリストの誕生から書き出されても違和感はありません。例えば、マタイの福音書の最初はイエス・キリストの系図が書かれていて、その後にイエス・キリストの誕生について書かれています。ですが、ルカの福音書はイエス・キリストの誕生からではなく、ザカリヤとエリサベツ夫婦の出来事から書き出されているのです。それは、マリアが如何にガブリエルのことばを信じるようになったかに繋げるためと考えられます。マリアが神のみわざを信じることができるために、ザカリヤとエリサベツ夫婦にバプテスマのヨハネを誕生させられたとも理解することができます。
確かに、バプテスマのヨハネの誕生は旧約聖書に預言されています。ですが、それはマリアの親類であるザカリヤとエリサベツ夫婦でなくても良かったのではないでしょうか。でも、マリアの親類であるザカリヤとエリサベツ夫婦に神のみわざがなされたのは、マリアがガブリエルのことばを信じられるようにするためとも考えられます。ザカリヤとエリサベツ夫婦はマリアと親類関係にありますし、40節を見ますとマリアはザカリヤ夫婦の家に行っています。そのことから単なる親類というよりも、交流がある親類ということができます。すると、考えられますのはマリアがガブリエルから告げられる前に、エリサベツから夫ザカリヤの経験と自分が身ごもったことをマリアに話していたということです。そのように考えますと、神はこの世の常識に囚われているマリアのために、マリアが受け入れられるように用意をされていたというのを知らされるのではないでしょうか。
神はこの世の常識や自分の常識に囚われているマリアを責めてはいません。むしろ、マリアが受け入れられるようにあらゆる準備をしてくださいました。その神の備えがあったから、マリアはガブリエルのことばを信じ受け入れられたのではないでしょうか。そして、その神の備えは私たちに対しても同じです。私たちもこの世の常識や自分の常識に囚われてしまいます。でも、神はそのような私たちを責められるのではなく、そのような私たちが神のことばを信じ受け入れられるように導いてくださいます。何故なら、神はそのような私たちの弱さを御存知だからです。今、神の導きが分からない方がおられるかもしれません。しかし、それは不信仰なことではありません。神はやがて分かるように導いてくださいます。そのように備えてくださっています。私たちにとって大切なことの1つは、「今は分かりませんが、神のことばを信じ受け入れる日が来ますように」と祈ることではないでしょうか。

3)人の証しを用いられる
 最後に教えられるのは、神は人の証しを用いられるということです。ガブリエルのことばを聞いたマリアは、38節で「     」と答えています。これはマリアが神のことばを信じ受け入れたことを示しています。マリアのことばの最初に「ご覧ください。」と訳されています。今までの新改訳聖書にはなかったことばです。今までは「本当に」と訳されていました。これは現在の訳の方が良いと思います。直訳しますと「見よ」となります。これは注意を促すことばです。そこから想像できるのは、「良く見てほしい」という思いが含まれているということです。「注意深く見てほしい」という思いが伝わってきます。そして、38節の中程に「あなたのおことばどおり」と書かれています。ギリシャ語で「ことば」というのは2つあります。1つは、ヨハネ1:1の「ことば」です。これには「ロゴス」ということばが使われています。もう1つは「レーマ」です。今朝の箇所がそうです。調べてみますと、聖書におけるロゴスとレーマの違いは、ロゴスは文字をも含むことばであり、レーマは口から出たことばのようです。そして、レーマは話された出来事をも含むようです。そのように捉えるならば、38節でマリアが語った「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」というのは、「エリサベツ夫婦に生じた出来事と同じようなことが、私にも生じますように」と理解することができます。
 御使いのガブリエルは、エリサベツ夫婦に生じた出来事を用いて、神のみわざをマリアに話しました。そのエリサベツ夫婦に生じた出来事は、エリサベツ夫婦にとっては自分たちの経験ですから証しそのものです。そして、その彼らの証しを神は用いられたのです。それは先程も話しましたように、マリアが神のみわざを信じ受け入れられることができるためにです。神は人の証しをご自身のすばらしさを現すために用いられます。それは私たちの証しについても同じことが言えます。神は私たちの証しをも用いてくださいます。そして、神が人の証しを用いられる目的も、その人が神のみわざを信じ受け入れることができるためです。
 私たちは自分にとって嬉しいことや辛いことなど様々な経験をします。特に辛いときは、「これは後の神の備えである」とはなかなか思えないものです。エリサベツもそうだったのではないでしょうか。彼女については1:6で「     」と紹介されています。このことから、エリサベツ夫婦は世間からも評判の良い人だったと想像できます。評判の良い人と聞かれますと、どのような人を想像されるでしょうか。私なんかは真面目なだけでなく、無愛想な人ではない人を想像します。誰に対しても笑顔で対応される人を想像します。ひょっとしたら、エリサベツはそのような女性だったのかもしれません。しかし、彼女が身ごもったときの告白が1:24に書かれています。彼女は「私の恥を取り除いてくださいました。」と告白しているのです。皆の前では笑顔を振りまく女性ですが、彼女の心の中には「子供が与えられない」という辛いものがあったのです。そのような思いを口にも顔にも出さずに過ごしていたのです。顔や口から出ないから何の問題もないのではありません。しかも、エリサベツ夫婦は18節にも書かれていますように老夫婦です。この世の常識なら子どもを宿すことなどできない年齢です。「子どもを宿す」という期待も消えていたと考えられます。そのようなことから、「この辛さは後の神の備え」とは思っていなかったのではないでしょうか。ですが、それが用いられたのです。私たちも辛いときは「これは後の神の備え」とはなかなか思えません。ですが、神はそれを後に用いてくださいます。それは問題が解決されるということではないかもしれません。でも、その経験を神は用いてくださることを知らされるのではないでしょうか。神は私たちの証しをも用いてくださいます。

結)
 イエス・キリストの誕生は人の理解を超えたものです。10月から英語教室が始まりました。その英語教室でメッセージタイムがあり、毎回メッセージをさせていただいています。そのメッセージで必ず語っていることは、「その神が共にいてくださり守ってくださる」ということです。子どもたちに「そのことが分かってほしい」と願ってのことです。でもそれは、子どもたちだけでなく神を信じている私たちもそうです。この世の常識を超えた神がいつも共にいて導き用いてくださるのです。クリスマスは、インマヌエルなる神が見える形として表してくださったものです。そのことを覚えつつ、クリスマスを待ち望んでいきましょう。

イザヤ9:1~7、ミカ5:2「クリスマスが示すもの」  17.12.03.

序)
 今日からクリスマスを待ち望むアドベントに入りました。今日からクリスマスまでは、成長テキストに合わせてメッセージをしていきたいと考えています。先週の英語教室で「クリスマスは何の日」と尋ねましたら、「プレゼントをもらう日」とか「サンタさんの誕生日」などの答えが返ってきました。「残念な」と言うよりも予想通りの答えでした。クリスマスとイエス・キリストが繋がっていないのが日本の現状です。今朝は、「クリスマスが示すもの」というタイトルで、共にクリスマスを待ち望んでいきたいと願っています。

1)光
 まず、クリスマスは光を示しています。1節と2節に「闇」ということばが書かれています。この闇は、8:22からのものです。南ユダ王国はアッシリア帝国に包囲されています。彼らは北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国に攻め入ろうとしています。ですから、ユダの人々は不安と恐れでいっぱいでした。8:22には「     」と書かれています。「闇・暗闇・暗黒」と絶望の淵に立たされていることが強調されています。周りを見渡しますと、望みのあるものは何一つ見当たらない情景を思い浮かばせます。もう四面楚歌の状態です。1節の最初に「しかし」と書かれています。人から見ますと何一つ明るい材料がない状況の中で、「闇がなくなる」と語られているのです。1節に「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とイザヤは語るのです。ゼブルンとナフタリはガリラヤ湖の東側の地域に位置します。アッシリア帝国は北イスラエル王国の北側から攻め入り、ナフタリとゼブルンに侵入しました。そして、アッシリア帝国はさらに南に下って北イスラエル王国を支配しました。まさしく、北イスラエル王国は辱めを受けるのです。
 しかし、後にこれらの地域は「栄誉を受ける」とイザヤは語っているのです。絶望の中にあって、イザヤは大きな光を見たのです。明るい状況が何一つない中で大きな光を見たのです。これは後の時代のことを預言しています。実際には、まだ起きていないのにイザヤにははっきりと見えたのです。何が見えたかと言いますと、この後に南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ捕囚としてバビロンに連れて行かれます。しかし、70年後にペルシャの王キュロスによってイスラエルの民は捕囚から解放され、イスラエルの地に戻ることができました。イザヤは、それを見たのです。今の状況を見ますと、明るい材料が何一つない中で光を見られるのは不思議なことです。イザヤは4節で「ミディアンの日に…打ち砕かれるからだ。」と語っています。これはギデオンがミディアン人と戦った時のことです。当初、イスラエル人は2万2千人でミディアン人と戦おうとしていました。しかし、神から「人数が多い」と言われて1万人に減りました。それでも、神は「多い」と言われ300人に減らされました。それに対して、ミディアン人の兵士の数は13万5千人です。300人対13万5千人との戦い。人間的な見方をすれば、どちらが勝つかは明白です。しかし、その戦いでイスラエル人が勝利しました。これは理解し難いことです。ですが、神は人の理解を超えることのできる方です。
 それと同じことがアッシリア帝国にもなされました。Ⅱ列王記18:13以降に、アッシリア帝国が南ユダ王国に攻め入ろうとしていることが書かれています。当時の南ユダ王国の王ヒゼキヤが神に祈ったことばが19:15~19に書かれています。特に、16~17節で「     」とヒゼキヤの祈りは切実です。それに対して、神は預言者イザヤを通して語られたことが21~34節に書かれています。特に、32~34節で「     」と語られています。そして、35~37節と書かれており、南ユダ王国はアッシリア帝国に攻め入られることはありませんでした。まさしく神は闇の中に光を輝かせることのできる方なのです。私たちの歩みの中にも、闇に思えるような状況に置かれることがあります。しかし、その闇の中にも神は光を輝かしてくださいます。状況だけを見ますと理解し難いものです。でも、それをできるのが私たちが信じています神なのです。そして、処女であるマリヤが身ごもるというのも理解し難いものです。ですが、それをできるのが私たちが信じています神なのです。クリスマスは、闇の中に神が光輝かせてくださることを示すものです。

2)神の愛
 次に、クリスマスは神の愛を示しています。イザヤは6節の最初で「ひとりのみどりごが…生まれる。」と預言しています。ここで注目したいのは「私たちのために」ということばです。神は私たちが理解し難いことをすることのできる方です。ですが、その理解し難いことを私たちのためにしてくださるというのです。イエス・キリストがお生まれになられたのは、他の誰でもない私たちのためなのです。何故、私たちのためにそこまでしてくださるのでしょうか。その理由が7節の最後に「万軍の主の熱心が」と書かれています。私たちのためにそこまでしてくださる理由は、ただ神の熱心の故なのです。教会学校の先生方は御存知かもしれませんが、今日の教会学校の箇所も今朝の箇所です。今年は成長テキストに合わせてクリスマスメッセージを考えています。その成長テキストの今日のグレード5に、「熱心」ということばは「妬み」というニュアンスで表現することもできると書かれています。「同じことを触れられているな」と思いつつ、この箇所を読ませていただきました。
 9月の礼拝のメッセージで話しましたが、申命記4:24に「     」と書かれています。また、ヨエル2:18には「     」と書かれています。さらに、ゼカリヤ1:14と8:2には「     」と書かれています。神はご自身が選ばれた人を妬むほど愛してくださる方です。私たちは妬みを罪のように理解してしまいやすいのではないでしょうか。事実、マルコ7:20に書かれています罪のリストの中には「妬み」が挙げられています。なのに、神が妬みの神であられることは理解しにくいかもしれません。妬みが罪とされるのは対人関係においてであり、悪い感情として用いられます。しかし、神が「妬みの神である」という時は契約関係によるものです。神が人と契約を結ばれたが故に熱心に愛するのです。その約束が破られたときに妬みが生じるのです。ですから、神の妬みとは神の熱心さを表しているのです。そして、神はそれほど熱心に私たちを愛してくださっているのです。
 その神の熱心な愛は、7節の後半に書かれていますように、神のさばきと正義によってです。私たちは「さばき」と聞きますと、裁判所で行われる判決を想像するのではないでしょうか。しかし、聖書が語る「神のさばき」とは、それだけではありません。公正と絶対的権威を表しています。また、「正義」とはまっすぐであることを表しています。ですから、神は不公平な審きをされる方ではなく、ご自分の約束に対してまっすぐな方であられるのです。一度結ばれた契約を決して翻されることのないお方なのです。ですから、創世記3章で人間がサタンの誘惑によって罪を犯したとき、神はサタンに対して15節で「わたしは敵意を…間に置く。」と言われました。神は罪を犯した人間を見捨てられたのではなく、人間の側についてくださると約束してくださったのです。その約束の故に、神はいつでも私たちの味方なのです。ですから、私たちへの神の愛は途中で変わってしまうようなものではありません。決して変わることなく愛し続けてくださるのです。クリスマスは、その神の愛を示しているのです。

3)神の用い方(ミカ5:2)
最後に、クリスマスは神の用い方を示しています。ミカ5:2に「ベツレヘム・エフラテよ」と書かれています。カナンの地には「ベツレヘム」という町が2つありました。例えば、ヨシュア記19:15に書かれています「ベツレヘム」がそうです。場所的にはイエス・キリストが育たれたナザレの町に近い所です。そして、もう一つはイエス・キリストがお生まれになられたエルサレムの南側に位置するベツレヘムです。イサクの息子であるヤコブの時代は、このベツレヘムは「エフラテ」と呼ばれていました。ですから、それらを区別するために「ベツレヘム・エフラテ」と書かれていると考えられています。このベツレヘムの町について、「あなたは…あまりにも小さい。」と書かれています。本当に小さな町だったのでしょう。ですが、その小さな町が救い主誕生の町として用いられるのです。このことから教えられるのは、神にとって大きい小さいは関係がないということです。
私たちはついつい大小とか強弱に目を留めてしまいやすいものです。それは、私たちが目に見えるものに目を留めてしまいやすいからです。それは仕方のないことかもしれません。それを直すことはできないでしょう。しかし、大きいか小さいとか、強い弱いなど関係なく用いることのできる方を覚えたいものです。先週ネヘミヤ書を読んでいまして、7:8に目が留まりました。ここに「パルオシュ族」と書かれています。これは絹を作るときに使われる虫の「蚕」を意味して、「価値のないもの」を表しているようです。その価値のないように見える部族の名前が、エルサレムとユダの町に帰ってきた人々のリストの最初に書かれているのは興味深いことです。人の目には価値がないように見えるものであったとしても、神の目には価値があり豊かに用いてくださることを示しているのではないでしょうか。
ベツレヘムの町は有名な町の一つですが、あまりにも小さい町であったようです。以前に用いていました新改訳聖書では「最も小さいもの」と訳されています。ですが、先程も話しましたが、そのような町が救い主誕生の町として用いられるのです。社会から見て、自分という存在は小さなものです。居ても居なくても変わらないような存在のように見えてしまいます。そして、価値のないような存在のように思えてしまいます。しかし、そのような私たちを神は豊かに用いてくださるのです。そこに目を留めるとき、人は生き方が変えられます。ないものに目を向けていた生き方から、あるものに目を向けられる生き方へと変えられるのです。そしてイエス・キリストは、そのためにお生まれになってくださったのです。クリスマスは、そのことを示しているのです。神が私を用いてくださることを示しているのです。

結)
 私たちは人生の中で様々なことを経験します。闇の中に陥ってしまうような状況に立たされることもあります。しかし、そのような中に置かれようとも大きな光を見ることができるのです。私たちが信じている神は、不可能を可能にすることのできる神です。その神が私たちを熱心に愛してくださっています。そして、その神が小さな私たちを用いてくださいます。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、そのことを示しています。今日から始まりますアドベントのとき、そのことを覚えつつクリスマスに備えていきましょう