メッセージ

ヨハネ1:9~13「まことの光」  18.07.01.

序)
 早いもので今年も半分が過ぎ、今日から下半期に入りました。今週の土曜日には、親子集会のユリ宣教師による腹話術が行われます。この目的は、一人でも多くの方が福音に接しイエス・キリストを求める方々が起こされることです。バプテスマのヨハネがイエス・キリストの証し人であったように、私たちもイエス・キリストを指し示すために、この集会を開こうとしています。そのために祈り備えていきたいものですが、そのイエス・キリストとはどのような方であるかを共に教えられたいと願っています。

1)まことの光なる方
 第1に、イエス・キリストはまことの光なる方です。9節に「     」と書かれています。この「すべての人」というのは全世界の人のことです。7節の「すべての人」は、バプテスマのヨハネが接する全ての人でしたが、9節の「すべての人」はイエス・キリストが生きておられた時代のすべての人ではなく、イエス・キリストが公生涯を始められた後のすべての人のことです。ですから、現代の私たちをも含んでいるのです。聖書は、「イエス・キリストは今から約2千年前の単なる昔話ではなく、今の時代の人々にも必要なまことの光なる方である」と語っているのです。ですから、イエス・キリストは昔も今も全ての人のまことの光なる方なのです。この「すべての人」の中には、ここにおられるあなたも含まれているのです。
 そのまことの光であられるイエス・キリストは、「すべての人を照らす」と書かれています。「照らす」というのは、「明らかにする」ということです。何が明らかにされるのでしょうか。それは人間の罪です。何度も話していますが、罪というのはギリシャ語で「ハマルティア」と言い「的外れ」という意味です。本来目指すべき方向に向かって進むべき道から外れてしまい、別の方向に進んでいる状態を表しています。それは迷子の状態と同じです。先月、私は刈谷市に行く用事がありました。初めて行く場所なのでグーグルマップを使いながらその場所に行きました。何故カーナビではないのかと言いますと古いからです。ナビは目的地を入力すれば、現在地から最短時間の道を教えてくれます。ナビは本当に便利です。ナビにおいても迷子になったときにおいても共通点があります。それは現在地と目的地を知る必要があるということです。ナビは現在地を示していますから目的地を入力すれば良いだけです。でも、もし現在地が分からなければ、目的地を入力してもナビは道を教えてはくれません。何故なら、どの方向に進めば良いのかが分からないからです。
 現在地と目的地を知るというのは、私たちの人生の歩みについても同じことが言えます。どれだけ人生の目的を知っていたとしても、今の自分がどの地点に立っているかが分からなければ進むべき方向も分かりません。イエス・キリストは、全ての人を照らすまことの光としてこの世に来られました。それは、今の私たちがどの地点に立っているかを明らかにしてくださるということです。生まれながらの人間は神から見てどの地点に立っているのかと言いますと、的外れな道を歩んでいる地点に立っているのです。ですから、人はイエス・キリストを通してどの方向に進めば良いのかが明らかにされるのです。光が自分の後ろで輝いているのでしたら、反対に向きを変えて進めば良いのです。自分の右に輝いているのでしたら、右に向きを変えて進めば良いのです。イエス・キリストは、まことの光としてこの世にこられたのです

2)世に受け入れられなかった方
 第2に、イエス・キリストは世に受け入れられなかった方です。イエス・キリストは、まことの光としてこの世に来られました。では、この世はまことの光として来られたイエス・キリストに対してどのような反応を示したでしょうか。そのことが11節に書かれています。この世は、イエス・キリストを受け入れなかったのです。では、何故人々はイエス・キリストを受け入れなかったのでしょうか。それは自分の罪が明らかにされるからです。罪というのは、本来触れられたくないものです。触れられたくないものに触れられようとしますと、私たちはその行為を拒んでしまうのではないでしょうか。そして、触れられたくないものに触れられるよりも、良いものや御利益的なものを示してくれる方に関心を寄せてしまうのではないでしょうか。昔も今も、イエス・キリストを信じようとしない人が多い理由はここにあります。自分の罪を指摘されたくないのです。
 日本の宗教は人の罪を指摘しません。それよりも、拝むことによって御利益があることを強調します。その御利益にも様々なものがあります。「お金が貯まる」とか「合格する」「癒される」などです。しかし、キリスト教はそうではありません。イエス・キリストは、まことの光としてこの世に来られました。ですから、人の罪を指摘します。本来の道から外れていることを指摘します。何故なら、今の自分がどのような所に立っているかを知るのは大切なことだからです。人は自分の罪を指摘されることを嫌いますから、当然自分の罪を指摘するイエス・キリストを受け入れることはできません。自分の罪を指摘されないようにするには、イエス・キリストの存在を消すしかありません。そのためにユダヤ教指導者たちは、イエス・キリストを十字架につけて殺したのです。イエス・キリストの十字架は私たちの罪のための身代わりの死を表しますが、同時に私たちの罪がどれ程のものかをも示しています。
 神はイエス・キリストの十字架を通して、私たちにご自身の愛を明らかにしてくださいました。私たちは、自分の身を守るためなら人の命を奪ってしまうような罪深い存在です。実際に私たちが生かされています社会の中で、殺人事件のニュースを耳にします。それらの共通点は、その人の存在が邪魔だからではないでしょうか。マルコ15:10に「     」と書かれています。祭司長たちがイエス・キリストを十字架に架けて殺そうとおもったのは、彼らの心の中にある妬みでした。人を妬む思いが強くなりますと、その人の存在が邪魔になってきます。そして、その妬みがあまりにも強まったがために、イエス・キリストの命を奪うこととなってしまったのです。それは大きな罪ですが、妬みはそれが罪と気づかせない程の力を持っているのです。ですから、「その人の存在が自分にとって邪魔だ」という思いは、人の命を奪うほどの力を生じさせます。イエス・キリストの十字架は、そのことを示してもいるのです。
 イエス・キリストは、まことの光としてこの世に来られました。しかし、この世の人々は、そのまことの光であられるイエス・キリストを受け入れませんでした。イエス・キリストは、世に受け入れられなかったのです。世は神の愛を無にしてしまったようにも思えます。しかし、神はそれを用いられたのです。世が神の愛を無にしたかのような行いを神は用いられたのです。ここに、私たちには測り知ることのできない神のみわざというものを知らされるのではないでしょうか。この準備をしているとき、サッカーワールドカップロシア大会の日本対セネガル戦を思い出しました。皆さんは見られたかどうか知りませんが、私は当日バイトで帰宅後ずっと観戦していました。GKの川島のミスが指摘されていました。ですが、見方を変えれば、あの失点があって引き分けられたとも言えます。もし、失点していなかったら流れも変わっていて負けていたかもしれません。もちろん、勝っていたかもしれません。でも失点して、あの流れになって引き分けたというのが現実です。
 失敗をして悔やむことがあります。また、人から頼まれて「こんなの無駄ではないか」と思いつつしなければならないことがあります。でも、そのような「無駄」とか「意味がない」と思えるものも神は後に用いることのできるお方です。何よりも、せっかく神が送ってくださったイエス・キリストを世は受け入れず見捨てたのです。でも、その見捨てられたイエス・キリストが私たちの救い主となられたのです。そのことを思いますと、神のみわざというのは私たちの想像を越えたものであり、想像を越えたことを行ってくださることを改めて知らされるのではないでしょうか。これからも、その神のみわざに期待して歩まされたいものです。

3)神の子どもとなる特権をもっておられる方
 第3に、イエス・キリストは私たちが神の子どもとなる特権を持っておられる方です。私たちが神の子どもとなるということは、神が私たちの親となられるということです。厳密に言いますと、父親になられるということです。子どもは親の許にいることで心に平安を覚えます。ですから、「神の子どもとされる」ということは、「人としての平安を持つ」ということでもあります。人としての平安は、以前にも話しましたが生きることの意味や目的を知ることによって得られます。人は「自分が神によって造られた存在である」と知るのは大切なことです。何故なら、生きることの意味や目的を知るだけでなく、造ってくださった方の許に戻ることができるからです。
 12節に「     」と書かれています。イエス・キリストは世に受け入れられませんでした。しかし、イエス・キリストを受け入れた人は、神の子どもとなる特権が与えられるのです。その神の特権は、「血によってではなく…意志によってでもなく」と書かれています。血というのは家族とか血統を意味しています。神の子どもとされるのは、親がクリスチャンだから子どもも自動的にクリスチャンになるのではありません。また、人が一生懸命何かを努力することによってクリスチャンになれるのでもありません。13節の最後に「ただ、神によって生まれたのである。」と書かれています。ですから、「神の選び」という一方的なものによってなのです。私たちは「選ばれた」と聞きますと、「何か自分の優れた所があったから」と思いやすくなります。でも、そうではありません。
 神が私たちを選んでくださったのは、「このような私に神は目を留めてくださり選んでくださった」ということに感謝するためです。私たちは神から見て優れたところは何一つありません。自己中心的で、何よりも自分のことを優先的に考えてしまいます。聖書が語っていることや神が求めておられることを知っているのに、それよりも自分のことを優先してしまう者です。でも、そのような自分に神は目を留め選んでくださったのです。その神の憐れみに感謝する者となるために、神は私たちを選んでくださったのです。決して、何かが優れているからではありません。このような者でも神は目を留めてくださっていることに感謝し、喜びをもって生きる者となるために神は選んでくださったのです。私たちがそのような者となるには、イエス・キリストを通してでしかありません。だから、イエス・キリストは私たちが神の子どもとなる特権を持っておられる方なのです。

結)
イエス・キリストは、私たちを照らすまことの光として来られました。世に受け入れられませんでしたが、それを通して神の愛を明らかにしてくださいました。折角、神が人としてこの世に来られたのに、この世は受け入れなかったというのは裏目に出たように思えたりもします。しかし、その裏目と思えるようなことを神は豊かに用いて、ご自身の愛を明らかにしてくださったのです。私たちの歩みの中にも「裏目」と思えるような事柄を経験します。しかし、神はそのような「裏目」と思えるような事柄を通してすばらしいことをしてくださる方であることを知らされるのではないでしょうか。何よりも、イエス・キリストを信じない人が多い中で、自分がイエス・キリストを信じられるように変えられたことに感謝したいものです。

ヨハネ1:6~8「神の証し人」  18.06.24.

序)
キリスト者は「神の証し人」と言われています。それは、イエス・キリストが「あなたがたは…わたしの証人となります」(使徒の働き1:8)と言われたからです。主の証し人として一番すばらしい人は、バプテスマのヨハネでしょう。イエス・キリストご自身も「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりもすぐれた人は出ませんでした」と言われました。今回は、そのバプテスマのヨハネの目的を通して、神の証し人について教えられたいと願っています。

1)光を証しするため
 まず、バプテスマのヨハネは光を証しするために神から遣わされた人です。ですから、バプテスマのヨハネが遣わされた目的は光を証しすることです。その光とはイエス・キリストご自身のことです。7節に書かれています「光について」とは、4~5節に書かれています光のことです。それは先週の礼拝でも触れましたが、光は希望を示しています。ですから、「光について証しするため」というのは、人生の光を指し示すことを表しています。人生の光とは、生かされていることの意味や目的、さらには進むべき方向でもあります。広辞苑には、証しについて「それが確かであることを明らかにすること」と書かれています。ですから、証し人とは「そのことが確かであると証言する人」のことです。バプテスマのヨハネは、人生の光であられる方がもうすぐ来られるから、人々がすぐにその光に応答できるように備えていたのです。ただ、バプテスマのヨハネは、それがイエス・キリストであることは知りませんでした。バプテスマのヨハネが、自分が指し示す光がイエス・キリストであると知ったのは、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けられるために来られたときでした。それから、バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示したのです。
現代における神の証し人とは誰でしょうか。使徒10:41には「     」と書かれています。この「私たち」とはペテロを含むイエス・キリストを信じている人のことです。ですから、キリスト者というのは人生の光であられるイエス・キリストを指し示す存在とされているのです。しかも、「神によって…証人である私たち」と書かれています。キリスト者一人ひとりは、神によって前もって選ばれた証人なのです。バプテスマのヨハネについて、今朝の箇所の6節に「神から遣わされた」と紹介されています。バプテスマのヨハネは神によって選ばれ遣わされた存在なのですが、イエス・キリストを信じる私たちも神によって選ばれ遣わされた存在なのです。
 バプテスマのヨハネは、「人生の光であられる方が来られるから心備えをするように」と語る務めが与えられていました。そして、私たちは「その人生の光であられる方がイエス・キリストである」と指し示す務めが与えられているのです。そのためには、イエス・キリストが自分の人生の光となっていなければできません。私たちはイエス・キリストによって何を知らされたでしょうか。何よりも今の自分が神に愛されていることを知らされたのではないでしょうか。世界から見れば、自分なんて居ても居なくても分からないような小さな存在です。しかし、そのような自分であっても神は豊かに用いてくださることを知ったのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架というフィルターを通して世界や自分を見るとき、「こんな小さな自分が神に用いられる存在である」という光を見出させられるのではないでしょうか。まさしく、イエス・キリストは私たちの人生の光です。

2)全ての人が彼を通して信じるため
 バプテスマのヨハネが遣わされた目的の第2は、7節の後半に書かれていますが「彼によって全ての人が信じるため」です。では、この「全ての人」とは誰でしょうか。私たちは「全ての人」と聞きますと、「全世界の人」と捉えてしまうかもしれません。しかし、全世界の人のことではありません。この「全ての人」というのは、バプテスマのヨハネが接する全ての人のことです。神は何でもできるお方です。ですから、直接人に働いてイエス・キリストを信じるようにすることもできます。何故なら、神には不可能なことが何一つないからです。ですが、神はそのような方法をとられませんでした。神がとられた方法はヨハネを通してです。すなわち、人を通してなのです。神は人を用いて全ての人に真の神を知らせようとされているのです。
 この神の用いられ方は現代においても同じです。神は私たちを通して全ての人に真の神を知らせようとされているのです。クリスチャンの中には、「私を見ないでイエス様を見てください」と言われる方がおられます。その方が言われる意味はよく分かります。それは「私は不完全だからつまずかせることもあるけれども、イエス様は完全な方だからつまずかせる方ではない」ということです。その意味はよく分かるのですが、神は私たちを通して真の神を全ての人に知らせようとされていることに注目していただきたいのです。神は不完全な私たちを用いてくださいます。確かに、時にはつまずかせることがあるかもしれません。でも、そのような私たちを神は用いてくださるのです。何度も話していますが、私は娘から「お父さん、それでも牧師?」と何度も言われました。その度に、「そうや、それでも牧師や」と答えて、さらに「こんなお父さんを牧師として用いてくださる神様ってすごいね!」と付け加えていました。私たちは失敗しますし、間違いを犯してしまいます。確かに失敗せず間違いも犯さない方が良いのですが、絶対にそのようなことはない者でもありません。してしまうのです。でも、神はそのような私たちを見捨てる方ではありません。むしろ、そのような私たちを励まして用いてくださる方なのです。
 自分の弱さや足りなさを責める必要はありませんし、恥ずかしがる必要もありません。神は全てを御存知の上で、私たちを用いてくださるのです。私は「それが証しである」と思っています。証しというのは、模範的な行いをすることではありません。自分の長所は言うまでもありませんが、短所も証しとして用いられるのです。これはバプテスマのヨハネについても同じです。彼は牢獄に入れられたとき、イエス・キリストが救い主であるかを疑いました。そして、彼の弟子たちをイエス・キリストの所に遣わしました。そのことがマタイ11:2~6に書かれています。このときイエス・キリストは疑ったバプテスマのヨハネを責めることはされませんでした。むしろ、10~14節に書かれていますように、バプテスマのヨハネを認められたのです。私たちも弱さや足りなさという短所を持っていますが、神はそれらを責めることをされず用いてくださるお方なのです。何故なら、私たちを通して全ての人が真の神を信じるためです。神は私たち一人ひとりを用いて、私たちを通して全ての人に働いてくださるのです。ですから、私たちは神の用いられる器とされていることを覚え、神を証しする者として歩まされたいと願います。

3)光について証しするため
 バプテスマのヨハネが遣わされた目的の第3は、光について証しするためです。すなわち、バプテスマのヨハネが遣わされた目的は、他の誰でもないイエス・キリストを指し示すためです。そのイエス・キリストとは、どのような方でしょうか。今まで見てきましたヨハネの福音書から見ますと、初めから存在されていた神ご自身です。そして、この世界を造られた創造主なる方であり、私たちにいのちである生きる希望を与えてくださった方です。さらに、私たちは心の闇の中を歩くことがありますが、その闇の中にも光を輝かせてくださる方です。光であられるイエス・キリストは、私たちを造ってくださった方ですから、私たちの全てを御存知です。私たちの全てというのは、私たちの肉体や心の全てだけではありません。イエス・キリストは永遠なる神ですから、私たちの人生の全てを御存知ということでもあります。それは私たちの過去や現在だけでなく、将来についても御存知なお方です。これから先どのような課題に直面し、どのような経験をするのかも御存知です。そのために様々な備えをしてくださいます。その光であられるイエス・キリストを指し示していくのがバプテスマのヨハネが遣わされた目的です。
 そして、それは先程も話しましたように今日の私たちにおいても同じです。それは私たちによって全ての人が信じるためです。神は全ての人が真の光であられるイエス・キリストを信じるのを願っておられるのです。そのために私たちを用いられるのです。「全ての人」と聞きますと、世界中の人のことのように聞こえたりもします。何か大き過ぎて捉えられない感じがするかもしれません。この「全ての人」というのは、世界中の全ての人で間違いありません。ですが、世界中の全ての人の最初は誰でしょうか。何にしても始まりがあります。マラソンは約42㎞走ります。でも、その最初は第一歩です。最初の第一歩を踏み出さない限り、マラソンをゴールすることはできません。「全ての人」というのも同じです。「全ての人」のゴールは、世界の全ての人や地域の全ての人ということもできます。その全ての人にも始まりがあります。それは自分の隣人です。自分の隣人とは誰でしょうか。家族や友人、また近所の方や同じ職場の方などです。その自分の隣人が、その人によって真の光であられるイエス・キリストを信じるのを神は願っておられるのです。
 それにはどうすれば良いのでしょうか。一生懸命みことばを伝えることでしょうか。それも間違いではありません。コロサイ4:5に、機会を充分に活かし、知恵をもって行動することが勧められています。伝道者の書の3章には時の定めについて書かれています。みことばを伝えるにも時があります。コロサイ4:6には「     」と書かれています。これは日々の生活のあり方について書かれています。すなわち証しの生活です。時には、塩味の効かないことをするかもしれません。その時は謝れば良いのです。それが塩味を効かすことになるでしょう。ここで言われていることは、キリスト者として接することによって、みことばを伝える機会があるということです。そこには普段の生活での証しが大切なのです。どのような証しでしょうか。それは自分がキリスト者であるという証しです。塩は存在するだけで塩味を出しています。キリスト者も存在するだけで塩味を出しているのです。では、そのキリスト者としての塩味とは何でしょうか。品行方正な生活をすることでしょうか。そうではなく、生かされていることに感謝と喜びをもって生きることです。日々の生活の中で、いつも感謝と喜びをもって生きるなら、人はその人の生き方に関心を寄せます。そのとき、みことばを伝える機会があるのです。みことばを伝えられなくても教会の集会などに誘う機会ともなります。コロサイ4:5~6は、その機会が来たら十分に生かすようにということです。
全ての人の初めは自分が接する人です。その人の中で生かされていることに感謝し喜びをもって生きることが大切です。それには、今の自分が神に愛され受け入れられているところに目を留めることです。その歩みが真の光であられるイエス・キリストを指し示す歩みとなるのです。

結)
 バプテスマのヨハネは、真の光であられるイエス・キリストを証しするために遣わされ用いられました。それは現代の私たちも同じです。私たちも真の光であられるイエス・キリストを証しするために遣わされ用いられています。その一番良い方法は、生かされていることに感謝し喜びをもって生きることです。それには、今の自分が神に愛され受け入れられていることに目を留めることです。今の自分が神に愛され受け入れられていることに目を留めつつ歩まされていきましょう。

ヨハネ1:3~5「源であられるイエス」 18.06.17.

序)
 先週からヨハネの福音書を見ています。1:1に「初めにことばがあった」と書かれており、イエス・キリストが神であられることを見ました。その神であられるイエス・キリストはどのような方であるかを、今朝は共に教えられたいと願っています。

1)世界を造られた方
 まず、ヨハネは、3節で「すべてのものは、この方によって造られた。」と語っています。すなわち、イエス・キリストによって、全てのものは造られたと語っているのです。それは、イエス・キリストが造り主なる方であることを示しています。何度も話していますが、造るというのには目的があります。私たちが何かを作るときも目的をもって作ります。例えば、椅子であるならば座るために作りますし、机ならば何かを置いたり作業するために作ります。また、料理ならば食べるためとか食べてもらうため、或いは見せるために作るかもしれません。何にしろ目的をもって作ります。神がこの世界を造られたというのには、この世界に存在する全てのものには目的があることを示しています。ですから、私たち一人ひとりにも神の目的があるのです。あなたの人生には生きる目的があるのです。生きる目的のない人など一人もいないのです。
 そして、3節の後半には「造られたもので…一つもなかった。」と書かれています。すなわち、イエス・キリストが全ての源であるというのです。教会は雨漏りがしたり、東側の壁の教会名の横の十字架も剥がれかけています。そのため外壁工事をする予定でいます。2つの業者に見積り依頼しています。一番良いのは、この教会を建てた業者に頼むことです。何故なら、この教会を建てたのですから、どのようにして建てたか、また何処に何があるのかを知っているからです。でも、その業者が分からないので2つの業者に見積り依頼しています。全てのものはイエス・キリストによって造られたということは、イエス・キリストに全ての解決があるということです。時計が壊れたら時計屋に持って行きます。何故なら、時計の構造を知っているからです。パソコンが壊れたらパソコンを扱っている店に持って行きます。その店で直せないなら、その店はメーカーに連絡して直してもらいます。何故なら、そのパソコンの構造を知っているからです。時計が壊れてパソコンメーカーに連絡しても、直してもらうことはできません。時計が壊れて直してもらおうとするなら、時計屋に持っていきます。そこには「直してもらえるのではないか」という期待と信頼があります。全てのものはイエス・キリストによって造られたということは、全ての事柄の解決はイエス・キリストにあるということです。それには、まずイエス・キリストに心を開くことが大切ではないでしょうか。その始まりは小さな期待と信頼かもしれません。でも、それが大切なことです。
 そのイエス・キリストは、先週見ましたが「ことば」として表されています。ことばが表すものは関係です。それは造られた全てのものは、関係の中で生かされているということでもあります。私たちが生かされています世界は物質的世界です。物質的なものは目で見えるものです。しかし、ことばというのは目で見ることはできません。また、関係というのも目で見ることのできないものです。すなわち、全てのものは目に見えない関係の中で生かされていることをも表しています。イエス・キリストは、私たちとより良い関係を求めておられるのです。そのイエス・キリストとより良い関係が築かされるとき、人は生き方が変えられるのです。イエス・キリストは全てのものを造られた方なのです。

2)いのちなる方
 次に、4節の前半に「この方にはいのちがあった。」と書かれています。すなわち、イエス・キリストはいのちなる方であるということです。先程、「ことばは関係を示している」と話しましたが、イエス・キリストとの関係の中にいのちがあるのです。このいのちとは、ただ何となく漠然と生きるということではなく、積極的に生きることを意味しています。人が積極的に生きることができるのは何故でしょうか。それは希望があるからです。希望こそが人を生かすことができます。その希望は、ことばの中にあるのです。すなわち、関係の中にあるのです。そして、その希望こそが光でもあります。4節の後半に「このいのちは人の光であった。」と書かれています。イエス・キリストは人生の光なのです。そして、光は希望を表してもいます。すなわち、イエス・キリストは人生の希望でもあられます。イエス・キリストは、私たちに人生の希望を与えてくださる方なのです。
 それは私たちに歩みについても言えるのではないでしょうか。神を知るまでの私たちは、心が満たされるために物質的なものを追い求めていました。ですが、決して満たされることはありませんでした。満たされたとしても、それは一時的なものであってすぐに消えてしまうものでした。ところが、神と出会い神の愛を知ることによって、本当の心の満たしが得られ希望が与えられたのではないでしょうか。本当の希望が与えられた要因は、ありのままの今の自分が神に愛されていることを知ったからです。何かができている自分とか、役に立っている自分が愛されているのではなく、そのままの自分が愛されていることを知ったからです。人は本当の愛を知ることによって心に安らぎを得ることができます。ですが、希望を得ることはできません。本当の希望を得るのは、生きる意味を知ることによってです。すなわち、生きている目的・目標を見出すことによってです。それが見出せられない人は、漠然として生き方しかできません。そして、消極的な人生を歩んでしまいます。これは年齢には関係ありません。
 例えば、ヨシュア記登場しますカレブという人がそうでした。彼の年齢は85歳です。ですが、14:11で「     」とヨシュアに告げました。彼は85歳ですから、肉体的に衰えているのは間違いありません。なのに、何故「モーセが…壮健です。」ということができたのでしょうか。これは、肉体的なことではなく生き方のことを言っているのです。それは、「昔と同じように今も積極的な人生を歩むことができる」ということです。このことはカレブだけでなく、ヨシュアについても同じことが言えます。13:1の前半に「ヨシュアは…老人になっていた。」と書かれています。そのヨシュアに、神は「あなたは年を重ね…たくさん残っている。」と告げられたのです。それは、しなければならない目標があるということです。ヨシュアは、その目標を目指して積極的に生きたのです。そして、カナンの地を占領することができたのです。
積極的な人生というのは、年齢によって決まるものではありません。若い人であっても、人生の目的・目標を持たないなら消極的になってしまいます。すなわち、その人の中に本当のいのちがあるかどうかです。そして、聖書は「イエス・キリストにはいのちがあった。」と語っています。イエス・キリストは、いのちなる方であり希望を与えてくださる方です。私たちに生きる目的・目標を見出させてくださり、生きる力を与えてくださる方なのです。

3)闇の中に輝かれる方
 最後に、イエス・キリストは闇の中に輝かれる方です。光であられるイエス・キリストは、「闇の中に輝いている」と書かれています。このところから、光と闇は別々の所に存在するのではなく、光は闇の中に存在していることを知らされます。そして、その闇の中に存在して輝いているのです。夜に犬の散歩をしていますと、懐中電灯をつけて犬の散歩をされている方を見かけます。それは安全のためです。その方が良いのです。ですが、日中に懐中電灯をつけて散歩されている方はおられません。何故なら、つける必要がないからです。当たり前と言えば当たり前なのですが、光は暗いから灯す必要があるのです。「イエス・キリストが光であられる」ということは、私たちが生きている世界は闇であるということです。
 私たちは人生の歩みの中で失望することがあります。人によっては、それは「人生の闇」になることかもしれません。「イエス・キリストが光であられる」ということは、「イエス・キリストを信じても闇の中を歩むことがある」ということでもあります。すなわち、イエス・キリストを信じたら闇の中から解放され、もう2度と闇の中を歩むことはないというものではないのです。イエス・キリストを信じつつも闇の中を歩むことがあるのです。しかし、その闇の中に置かれたとしても光があるのです。旧約聖書に登場するハガルという女性がそうでした。ハガルと息子イシュマエルは、アブラハムの妻サラによって家を追い出されてしまいました。そして、食物も水も尽きてしまったとき、彼女は死を覚悟しました。そのとき、神がハガルに声をかけられました。そのことが創世記21章に書かれています。神の声を聞いたハガルは「目が開かれたので、彼女は井戸を見つけた。」と19節に書かれています。そして、彼女とイシュマエルは生きることができました。何度も触れていますが、神がハガルに声をかけられたから井戸ができたのではありません。ハガルが絶望の中に置かれているときから井戸はあったのです。ただ、ハガルは見つけることができかっただけのことです。また、復活のイエス・キリストに会ったマクダラのマリアにしてもそうです。彼女はイエス・キリストが葬られた墓に行きましたが、その墓にはイエス・キリストの遺体がありませんでした。彼女は「誰かが持って行った」と思い込んでしまいました。すると、甦られたイエス・キリストは彼女の後ろに立たれ声をかけられました。マリアは振り向いてその人を見たのですが、それがイエス・キリストだとは気づきませんでした。そして、泣き崩れているマリアに対して、イエス・キリストは彼女の名前を呼びかけられました。そのことがヨハネ20:11~16に書かれています。マリアは、自分の名前を呼ばれたとき、それがイエス・キリストであることに気づいたのです。
 ハガルにしてもマクダラのマリアにしても、絶望のどん底に陥っていたのです。まさしく闇の中に置かれていたのです。神を信じてもそのような経験をするのです。しかし、彼女たちはそこから希望を見出したのです。光が差しこんだのです。彼女らに光を差し込んだのは神のことばです。みことばによって絶望から希望へと変えられたのです。人生の光であるみことばは闇に打ち勝ったのです。闇の中に輝く光は、最初は小さなものかもしれません。ですが、闇に打ち勝つことのできる力があるのです。私たちは生きている中で様々な課題に直面します。時には、心が闇のようになってしまうこともあります。しかし、神はみことばを通して私たちの心に光を照り輝かせてくださいます。人は闇の中に置かれても輝くことができるのです。何故なら、イエス・キリストは闇の中でも輝いている方だからです。

結)
神が人を造られた目的は、人が生かされていることに感謝し喜びと希望をもって生きる者となるためです。そして、その神はみことばをもって慰め励まし力づけてくださいます。ヨハネは、そのイエス・キリストを「ことば」として紹介しています。そのことばをキャッチボールするには関係が良くないとできません。ことばは関係を表してもいます。イエス・キリストは、私たちが神とより良い関係を築くために来られました。それは、私たちが喜びと希望を持って生きる者となるためです。イエス・キリストはことによって世界を造られ、ことばによって生かしてくださるお方です。全ての源はイエス・キリストにあります。そのイエス・キリストとより良い関係を保ちつつ歩まされていきましょう。

ヨハネ1:1~2「神であられるイエス」  18.06.10.

序)
今日から新しくヨハネの福音書を共に見ていきます。聖書は旧新約合わせて66巻あります。これらは最初から聖書として存在していたのではありません。旧約聖書は約1100年という年月をかけて書かれた書物ですし、新約聖書は約60年という年月をかけて書かれた書物です。全て別々に書かれていたものを信仰の先駆者であられる方々が話し合い作られたのが聖書です。ですから、各々の書簡には主題・目的というものがあります。これから見ていきますヨハネの福音書にも主題・目的があります。ヨハネの福音書の主題・目的は何でしょうか。それは20:31に書かれていますように、イエス・キリストが神の子であられることを私たちが信じ、そのイエス・キリストによって永遠のいのちを受けるためです。その目的のためにヨハネの福音書が書かれたということを覚えつつ、これからヨハネの福音書を共に教えられていきたいと願っています。1:1を中心に、イエス・キリストとはどのような方であるかと共に見たいと願っています。

1)初めから存在されていた方
 まず、イエス・キリストは初めから存在されていた方です。1節の最初に「初めに」ということばが書かれています。このことばから、創世記1:1のみことばが思い起こされます。創世記1:1には「はじめに神が天と地を創造された。」と書かれています。創世記は聖書の最初の書物です。そして1:1は、その出だしです。その出だしに「はじめに神が天と地を創造された。」と書かれているのです。聖書は、神が存在されているかいないかは議論していないのです。まず神が存在されていることを前提として書かれているのです。聖書を読んで気づかされることの1つは、聖書は神の存在について全く議論されていないということです。聖書は、初めから神は存在されていると主張しているのです。そのことは、ヨハネの福音書においても同じです。ヨハネの福音書は、イエス・キリストが神であられることを前提として書かれているのです。そして、ヨハネ1:1の「初め」というのは、この世の初めではありません。ヨハネ17:5に「     」と書かれています。ここには、イエス・キリストがこの世が造られる前から存在されていたことが書かれています。また、コロサイ1:17には「     」と書かれています。「成り立っている」というのは、造られたことを意味しています。すなわち、万物は御子によって造られたというのです。すなわち、この世界はイエス・キリストによって造られたものなのです。ですから、1:1の「初め」というのは、この世の初めということではありません。この「初め」ということばは、時間を超えた永遠の初めを意味しているのです。すなわち、イエス・キリストは永遠の初めから存在されていた方であると語っているのです。そして、永遠なる方は神しかおられません。ですから、イエス・キリストは神であられるということを示しているのです。
 さらに「ことばがあった」と書かれています。この「あった」というのは存在していることを表しています。ですから、今も存在されていることを意味しています。ヨハネは、「初めにことばが造られた」とは語っていないのです。もしイエス・キリストが神ではなく造られた存在であったとするならば、ヨハネは「初めにことばが造られた」と書いたはずです。しかしながら、ヨハネ1:1にはそのようには書かれていません。「造られた」のではなく、「存在していた」と書かれているのです。それは、イエス・キリストが初めから存在されていた方であることを示しているのです。イエス・キリストは造られた被造物ではなく、初めから存在されていた創造主なる方なのです。そして聖書は、「はじめに神が天と地を創造された。」と語っています。すなわち、イエス・キリストは神であられるとヨハネは語っているのです。

2)神と共におられる方
 第2に、イエス・キリストは神とともにおられる方です。そのことに対して不思議に思われる方もおられるかもしれません。それは「イエス・キリストが神であられるなら、何故『神とともにあった』と書かれているのか」という疑問です。「ことばは神とともにあった」と読むとき、イエス・キリストと神とは別の人格のようにも受け取れます。これはヨハネの配慮からです。ヨハネは「イエス・キリストは神であられる」と語っています。そのことは20:28のトマスの告白を見ても明らかです。では、何故ヨハネは「ことばは神とともにあった」と書いたのでしょうか。それは、イエス・キリストと父なる神とを区別するためです。ヨハネはイエス・キリストを神と信じていますが、決して「神は神とともにあった」とは書かなかったのです。何故なら、そのように書いたのであれば、神が2人存在することになるからです。この誤解を避けるために、ヨハネは「ことばは神とともにあった」と書いたのです。ヨハネは、父なる神とイエス・キリストとを分けているのです。神という人格は1つだけです。神は一人だけですが、父なる神という働きと子なる神という働きと聖霊なる神という働きをなされるのです。これは父なる神がイエス・キリストとなられてこの世に来られ、そしてイエス・キリストが天に戻られてから聖霊なる神となられたのではありません。父なる神も、子なる神であられるイエス・キリストも、聖霊なる神も初めから存在されていたのです。同じ一つの神であられながら、各々違う働きを持っておられるのです。
 異端でありますエホバの証人は、イエス・キリストを神とは認めていませんし、聖霊も神とは認めていません。神は一人しかおられず、イエス・キリストは完全な人間であり、聖霊は神の力であると主張します。それは何を根拠として言うのかと言いますと申命記6:4のみことばからです。申命記6:4に「     」と書かれています。今私たちが用いています聖書には「主は唯一である」と訳されています。ところが、今まで用いていました新改訳聖書には「主はただひとりである」と訳されていました。エホバの証人が用いています新世界訳にも「ただひとり」と訳されています。そして、彼らは「聖書には『ただひとり』と書かれているのだから神は一人しかおられない」と主張するのです。ところが、問題はこの「ただひとり」と訳されていることばが、どのようなことばが用いられているかです。ヘブライ語には、1つを意味することばが2つあります。1つはヤフィードということばです。そして、もう1つはエハドということばです。言語学では「差はない」ということらしいですが、大切なのは「聖書はどのような意味合いで分けているのか」ということです。そして、調べてみますとヤフィードということばは文字通りの1つの時に用いられており、エハドは複数のものが1つのものを形成しているときに用いられています。例えば、創世記2:24に訳されています「ふたりは一体となる」の「一体」がエハドです。そして、申命記6:4の「唯一」とか「ひとり」と訳されていますのもエハドということばです。すなわち聖書は、神は複数が一体となって存在されていると語っているのです。ですから、父なる神と子なる神と聖霊なる神が一体となって、1つの神として存在されているのです。
 また、「ともに」とは、マルコ6:3の「一緒にいる」と訳されているのと同じことばです。マルコ6:3で意味しているのは、「対等に交わりを持っている」ということです。「どちらの身分が高いか低いかではなく、同じ立場でいつも自由に交わりをもっている」ということです。そして、ヨハネ1:1の「ともに」というのも、自由な交わりと持っていることを表しているのです。ことばであられるイエス・キリストは、決して神に劣る存在ではないことを示しているのです。決して神に劣る存在ではないということは、イエス・キリストは神そのものであるということです。「ともに」というのは、そのことを表しているのです。

3)神であられる方
 第3に、ことばは神であられるからです。エホバの証人の人たちは、「この神には定冠詞がついていない」と言われます。それで彼らは、「イエス・キリストは神ではなく、神的な存在である」と話されます。確かに「神的」と訳すこともできます。もしそのように訳すとするなら、むしろ「神的」ではなく「神性」と訳した方が正しいでしょう。すなわち、「イエス・キリストは神の性質をもっておられる方」と理解した方が良いでしょう。だからと言って、イエス・キリストは神ではないということではありません。神はどのような性質を持っておられるでしょうか。それは「神はどのような方であるのか」ということです。
 では、イエス・キリストはどのような方でしょうか。オリーブの会では、今イエス・キリストについて見ています。先月のオリーブの会では、イエス・キリストは真実なる方であることを見ました。それは黙示録3:14からです。ここに「アーメンである方」と書かれています。この「アーメンである方」とは誰のことを指しているのかです。1:1には「イエス・キリストの黙示」と書かれており、その後に、「そしてキリストは…ヨハネに告げられた。」と書かれています。そして、その後に7つの教会に対して告げられています。3:14は、その7つの教会の1つであるラオディキアの教会に対して告げられたことばです。ですから、ここで言われている「アーメンである方」とは、イエス・キリストのことを指しています。そして、「アーメン」とは御存知のように「真実」という意味です。イエス・キリストは真実なる方ということです。そして、真実なる方は神お一人しかおられません。
また、今度のオリーブの会で見る予定にしています黙示録21:6には、「わたしはアルファでありオメガである」と書かれています。「アルファでありオメガである」というのは「最初であり最後である」ということです。これは永遠なる方であることを表しています。永遠なるお方というのは神しかおられません。ここでも、イエス・キリストは神であられることが示されています。さらに、へブル4:15には「罪を犯しませんでしたが」と書かれています。人は誰もが罪を犯してしまう存在です。「罪を犯さない」ということは、「義なる方である」ということです。義なる方は神しかおられません。ここでも、イエス・キリストは神であられることが示されています。イエス・キリストは神しか持っておられない性質を持っておられる方なのです。それは神そのものであられるということです。

結)
この1:1のことばは、とても短いことばです。しかし、ここにはイエス・キリストが神であられることが明確に書かれています。決して、イエス・キリストは神ではなく人間であると書かれてはいないのです。その神であられるイエス・キリストが、人としてこの世に来られ、どのようにして歩まれたのか。さらに、人がどのようにしてイエス・キリストを神と信じたかが書かれているのがヨハネの福音書です。そのヨハネの福音書のクライマックスは、20:28に書かれていますトマスの信仰告白です。トマスはユダヤ人ですから、旧約聖書の教えをよく知っており、神は一人しかおられないことを知っています。そのトマスがイエス・キリストを「私の主、私の神」と告白したのです。ヨハネの福音書は、イエス・キリストが神であられることを示しています。そのイエス・キリストは、私たちのためにこの世に人として来てくださったのです。何よりも「私のために」というのを覚えて、これからも共にヨハネの福音書を見ていきましょう。

Ⅰコリント16:15~24「互いに助け合って」  18.06.03.

序)
 いよいよコリント人への手紙第1の最後の箇所となりました。一昨年の9月から約1年9ヶ月の間、この手紙から教えられてきました。私たちは読む本を選ぶとき何を見て選ぶでしょうか。多くはタイトルではないでしょうか。聖書は旧新約合わせて66巻あります。しかし、どれにもタイトルはつけられていません。では、このⅠコリントの主題は何かと言いますと、1:9に書かれていますように、「神は真実な方である」ということです。すなわち、神は約束されたことを必ず果たしてくださることが示されています。だからこそ、その神に対して真実を尽くしていくように勧めているのです。そしてパウロは、この手紙を書き終えるに当たって、この手紙を読む人たちにもう一度伝えようとしているのです。今朝は、このパウロが勧めている3つのことばから、神に真実に仕えるとは何かを共に教えられたいと願っています。

1)服従
 神に真実に仕える第1は服従することです。15節にステファナ一家について書かれています。この家族はアカイアの初穂として紹介されています。アカイアとは何処かと言いますと、コリントやアテネの町が属しています地方の名前です。アテネと言いますと、使徒の働き17:19~34に書かれていますアレオパゴスでパウロが伝道したことが有名です。その使徒の働き17:34に「     」と書かれています。18:8にクリスポが信じたことは書かれていますが、ステファナ一家が信じたことは触れられてはいません。その後に「多くのコリント人も…バプテスマを受けた。」と書かれていますから、その中にステファナ一家がいたのかもしれませんし、すでに17:34の所で信じていたのかもしれません。どちらにしろ、ステファナ一家の名前は書かれていないのです。それは社会的地位の高い人ではなかったからです。でもパウロは、ステファナ家族を「アカイアの初穂」として紹介しているのです。
 聖書には、アテネの町に教会が建てられたことは書かれていません。その理由は分かりませんが、アテネの町で信じた人はいたのです。でも、教会形成をすることはできなかったと考えられます。アテネという町は、この地方では一番大きな町でした。でも教会形成はできず、アテネよりも小さなコリントの町で教会が形成されたのです。何故アテネではできずコリントでできたのでしょうか。それは今朝の箇所の15節に書かれていますように、ステファナ一家が熱心に奉仕していたからです。
 このことから、教会を建て上げるに必要なものは何かというのを知らされるのではないでしょうか。教会を形成するにおいて必要なのは、熱心に奉仕する人です。このステファナ一家は、コリント教会の当初から教会形成に仕えていた人でした。彼らが熱心に仕えていたからコリントの町で教会を形成することができたのです。では、熱心とはどういうことでしょうか。「忠実」「真面目」「一生懸命」というのを思い浮かべやすいのではないでしょうか。確かにその通りです。15節で用いられています「熱心」ということばも、それらのことを含んでいます。さらに、自ら進んで行うことを意味してもいます。すなわち、他人に言われたことを熱心に行うだけでなく、自ら進んで「必要である」と思ったことを一生懸命することをも表していることばです。
 「誰かがやるだろう」というのではありません。「今この教会に必要なことは何か」をいうことを常に考え、他人から言われなくても自ら進んで自分にできることを奉仕することです。ステファナ一家は、そのような家族だったのです。実は、その熱心な奉仕が神の真実さを証しすることにも繋がるのです。何故なら、神は誰かから言われて私たちを愛してくださったのではなく、自ら進んで私たちを愛してくださったからです。ステファナ一家は、その神の愛を深く知っていましたから、自ら進んで教会に必要な奉仕をしていたのです。この奉仕は、神の真実さへの応答でもあったのです。だからパウロは、「このような人たちに従いなさい。」と16節で勧めているのです。互いに仕え合うことが、神に真実に仕えることでもあるのです。

2)尊ぶ
 神に真実に仕える第2は尊ぶことです。17節に3人の名前が書かれています。その最初に「ステファナ」と書かれています。このステファナは、15節に書かれていますステファナのことと考えられます。そのようなことから、この3名はコリント教会の役員のような存在だったのかもしれません。パウロは「このような人たち尊びなさい。」と勧めています。一般社会で尊ばれる人というのは、社会的地位が高く仕えられる人ではないでしょうか。ですが、教会ではそうではありません。イエス・キリストは「偉くなりたいと思うなら仕える人になりなさい」と話されました。教会で尊敬され重んじられる人は仕える人なのです。その理由は何かと言いますと、イエス・キリストご自身が仕える人として世に来られたからです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとして父なる神の審きを受けられるために来られました。まさしく、私たちに仕えるために来られたのです。私たちは、そのイエス・キリストのように歩むことを目指しているのですから、仕えられるものではなく仕える者として歩むことが求められています。ですから、イエス・キリストのように神と人に仕えている人を尊ぶようにとパウロは勧めているのです。
 また、この「尊ぶ」には、その人が負っている奉仕を軽くするという意味も含まれています。それはどういうことかと言いますと、一部の人に奉仕が集中しないということです。一部の人にだけ奉仕が集中したらどうなるでしょうか。もし皆さんに「あれも、これも奉仕してください」と言われたらどうでしょうか。つぶれてしまうのではないでしょうか。いくら「ご苦労様です」と声をかけられたとしても、奉仕の量が減らないのであれば慰めにはなりません。
 パウロは、この3人について「あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。」と語っています。この3人は自ら進んでパウロに仕えたのです。コリント教会の中には幾つかのグループに分かれていました。そして、彼らは自分たちの主張はするのですが、仕えるという部分が足りなかったのです。少し話しが反れるかもしれませんが、先週の月曜日にTCU愛知・岐阜支援会が大須の教会で行われました。私も10数年ぶりに出席しました。今回は「ユースミニストリーについて考える」というテーマで、午前と午後の講演がありました。日本の教会の現状としてユースの減少が著しいと言われています。講師はジョークではありますが「絶滅危惧種」とまで言われました。教職者の高齢化と共に、教会員の年齢の高齢化と中高生の減少が深刻であるということです。講演の最初の方で「NIV訳聖書では、ギリシャ語のディアコニアということばがミニストリーと訳されている」と紹介されました。同じことばの動詞形を新改訳聖書では「もてなす」とか「仕える」ということばに訳されていると紹介されました。そして、「ミニストリーにおいて福音を伝える聖書を教える。また相手にアドバイスするといった能動的な働きは必要不可欠であることは言うまでもありません。しかし、それらの働きには、主と人に仕える者としてへりくだる姿勢を持つ受動的な働きと共に行われるべきである。」とも話されていました。聖書におけるミニストリーということばの概念には、福音を伝えるというだけでなく、神と人に仕えるというものも含まれているというのです。「そこにはユースの必要を知り理解することだ」とも話されていました。クリスチャン新聞にも、中高生に対する働きについて4回掲載されていました。それを読んで思わされるのは、やはり「中高生に仕える」という姿勢の大切さです。相手の必要を知り理解するには仕えることが最も良い方法です。そして、コリント教会には、その相手に仕えるという部分が欠けていたのです。ですが、この3人はそうではありませんでした。パウロによく仕えていたのです。「そのような人を尊ぶように」とパウロは勧めているのです。イエス・キリストご自身も、マタイ20:26で「     」と話されました。大切なのは、仕えている人を尊ぶことです。

3)挨拶を交わす
 神に真実に仕える第3は互いに挨拶を交わすことによってです。19節以降は、諸教会からの挨拶をパウロは報告しています。ここには「よろしく」ということばが繰り返し書かれています。この「よろしく」ということばには、「安否を問う」という意味が含まれています。コリント教会は様々な信仰の戦いの中を歩んでいました。コリントの町の中で、彼らだけが神を信じ従っている群れでした。ともすると、「その戦いの中で戦っているのは自分たちだけだ」という思いになることもあるでしょう。しかしそうではありません。コリント教会は決して孤立して信仰の戦いを戦っているのではありません。アジアの諸教会を始め、多くの兄弟姉妹の祈りが背後にあるのです。神を信じる者は、その多くの兄弟姉妹の祈りによって支えられているのです。
 そのことは現代の私たちにおいても同じです。信仰というのは、神との縦の交わりと共に、兄弟姉妹という横との交わりがあって成り立っているのです。ともすると、私たちは「信仰は神と自分との関係である」と思って、「それだけで十分である」と錯覚してしまいやすいです。でも、そうではありません。昨年、ある先生から聞いた話しですが、春日井教会の週報の祈祷課題の最後に毎週姉妹教会の1つを掲載しています。そして、バプテスマを受けられた方の名前と歩みについて挙げています。そして、週報は定期的に姉妹教会に送られています。その教会のバプテスマを受けられた方が、春日井教会の週報を見て自分のことが記載されているのを見て喜ばれたというのです。春日井教会の週報は、姉妹教会の兄弟姉妹に読まれているのです。そして、読まれているだけでなく祈られてもいるのです。この春日井神領キリスト教会というのは、決して孤立して歩んでいるのではなく、姉妹教会の兄弟姉妹の祈りによって支えられているのです。信仰は神との縦の関係だけでなく、兄弟姉妹との横の関係も大切なのです。そして、私たちも姉妹教会のことを覚えて祈っていきたいものです。
 挨拶を交わすというのは、相手のことを気にかけることでもあります。私は20歳前後のとき教会生活を離れていた時がありました。そこには「教会に行かなくても聖書を読んで祈っていれば良い」と思ったからです。ところが、2年後位に、「これは間違いである」ということに気づかされました。そして、近くの教会の礼拝に出席しました。1年位は礼拝が終わるとすぐに帰っていました。それは何故かと言いますと、初めて教会に行くのですから、回りの人は知らない人ばかりです。当時、その教会は礼拝の後に分級という時間がありました。私は青年のクラスに出席しました。そして、隣に座っている青年に声をかけました。その青年は返事してくれたのですが、その後は気の合った青年とずっと話しをしているのです。他の青年もそうなのです。私一人がポツンと取り残されたのです。私はそのとき「何だこの教会は」という印象を持って、「別に嫌な思いをして分級に残る必要はない」と思って、それからは毎週礼拝が終わってすぐに帰っていたのです。
 私が神学生のときのことですが、ある教会の牧師から「青年会の集いで証しをしてほしい」という依頼を受けました。最後に茶菓の時があります。そこには初めて来た人もいました。すると、その人はポツンと1人になっていました。すると、少し離れた青年が気づいて、近くにいる青年に目で合図をするのです。すると、近くにいた青年が初めて来た人に近寄って話しかけたのです。私はその光景を見て「よく訓練されているな」と思わされたのです。当時のその教会の牧師が、今娘が通っていると思われる教会の牧師です。その教会が暖かい教会であるのか冷たい教会であるかは、私たちの接し方に関わってきます。私たちの教会も声をかける教会でありたいものです。

結)
 教会は一部の人が頑張って建て上げるものではありません。互いが助け合い仕え合って建て上げられていくものです。それが神に真実に仕えることでもあります。私たちの教会も、互いに助け合い仕え合って神に仕えていく教会として歩まされていきましょう。

Ⅰコリント16:1~9「配慮のある奉仕」  18.05.06.

序)
 今までは15章を見てきました。この15章はイエス・キリストの復活について書かれている箇所でした。この15章を一言で言い表すならば、「復活の希望に生きる」というものです。神は私たちに本当の希望を与えてくださいました。希望というのは将来のことです。ですが、私たちの歩みは将来だけを見るのでは良くありません。目の前のことも大切です。目の前の生活というのは現実ということです。この現実と将来の両方を見据えて歩むことが大切です。この16章は、その現実的な事柄について書かれています。それは献金とコリント教会の訪問計画についてです。ところが、ここにはとても細やかなパウロの配慮を見ることができます。このパウロの配慮を通して、現実的な歩みの中で神に仕えるとはどういうことかを共に教えられたいと願っています。

1)献金について
 まず、献金について書かれています。皆さんは「献金」と聞かれますと、何を思い浮かべられるでしょうか。教会に来ている私たちは、教会で献げられている献金を思い浮かべられるのではないでしょうか。確かに、ここに書かれています献金も教会の中で献げられている献金です。しかし、ここに書かれている献金は少し趣旨の違う献金です。何故なら、「聖徒たちのための献金について」と書かれているからです。それはエルサレム教会に送る献金のことです。言うなれば指定献金です。指定献金とは、ある目的のために用いるために献げられる献金です。ここで聖書は、指定献金について語っているのです。
 私たちは「献金」と聞きますと、まず思い浮かべるのが収入の10分の1を献げる月定献金と毎週の礼拝で献げる礼拝献金ではないでしょうか。多分、バプテスマを受けられた方は学ばれたことと思いますが、服従には2つあります。それは消極的服従と積極的服従です。消極的服従というのは、定められているから従うというものです。それは聖書や教会が定めているから従うというものです。それに対して、積極的服従というのは聖書や教会が定めてはいませんが、自ら進んで行うものです。この消極的と積極的というのは献金においてもそうです。消極的献金というのは、定められているから献げるというもので月定献金がそうです。それに対して積極的献金というのは感謝献金や指定献金などです。
 今朝の箇所に取り上げられている献金は、「聖徒たちのための献金」であり、その献金はエルサレム教会に届けられることが書かれていますから、エルサレム教会のための献金であることが分かります。すなわち、積極的献金であるということです。この積極的献金について、聖書は何と勧めているでしょうか。その第1は2節の中程に「あなたがたはそれぞれ」と書かれていますように各自が献げるものです。決して、経済的に余裕のある人だけが献げるものではありません。何故なら、神からの恵みというのは一人ひとりが受けているからです。献金は、その神の恵みに対して感謝しつつ神にお返しするものであり、その神に信頼して歩むことの決断の現れとして献げるものだからです。
 次に、「週の初めの日に」献げるということです。これは「礼拝が献げられている場で行う」ということです。また、「週の初めの日に」というのは計画性をも表しています。神への献げ物は思いついて献げるものではなく計画をもって献げられるものでもあるということです。礼拝での献金を前もって用意しておくというのも計画の1つですし、結婚記念や受洗記念などの節目ごとに献げるというのも計画の1つでしょう。ある教会では、礼拝の生け花のために誕生日や記念日に献げられています。掲示板に専用の表が貼られていまして、その表に教会員が自分の名前を記入して、その日に近づいたら指定献金として献げるというものです。これも計画の1つであると言えるのではないでしょうか。
 最後に、「収入に応じて」献げるということです。これは金額的な問題ではなく、神の恵みに感謝する思いの問題です。この献金の勧めには、パウロの細やかな配慮を見ることができます。コリントの町は商業の町でしたから、経済的に豊かな人もいれば苦しい人もいました。そのような人たちが教会に集うのです。ですから、教会の中にも経済的に豊かな人もいれば苦しい人もいました。ですが、献金というのは特定の人だけが献げるものではなく、会の恵みを受けている全ての人が献げるものです。しかしながら、経済的な現実というものもあります。だからこそ、「収入に応じて」と勧めているのです。私たちの教会も献金に対して、さらに細やかな配慮ができる群れとされたいものです。

2)コリント訪問について
 パウロは、自分がコリント教会に着いてからエルサレム教会への献金を募ることもできました。しかし、彼はそのようなことをしないで、コリント教会の人たちの自主性を重んじました。そして、その献げられた献金をエルサレム教会に運ぶのも自分ではなく、コリント教会の代表者に託しています。パウロは献金の取り扱いに対して非常に慎重です。それは、パウロが私腹を肥やしているという疑いを避けるためです。事実、コリント教会に疑われていました。そのことがⅡコリント12:16に「     」と書かれています。誤解を避けるためにも、コリント教会の代表者にエルサレム教会への献金を託すことを勧めているのです。
 そればかりでなく、コリント教会に訪問する予定についても細かく配慮しています。エルサレム教会への献金について語った後、パウロは自分のコリント教会への訪問について書いています。何故、献金の後にコリント教会への訪問について書いているのか不思議に思われるかもしれません。ですが、ここにはパウロの細やかな配慮を見ることができます。パウロはコリント教会に、エルサレム教会への献金を募ることを勧めました。でも、その献金はいつまで募れば良いのか分かりません。このコリント教会への第1の手紙は、8節を見て分かりますように、パウロがエペソの町にいたときに書かれたものです。エペソの町が何処にあるか御存知でしょうか。聖書の後ろに地図があります。「地図13:パウロの第1次、第2次伝道旅行」を開いていただきますと、中程上に太文字で「アジア」と書かれています。その左下に「エペソ」と書かれています。ここは現在のトルコの西に位置します。そのエペソから左に海を渡りますと「アテネ」と書かれています。その少し左側に「コリント」と書かれています。エペソからコリントの町までは、船で渡りますと10日程で行ける距離です。ですから、地理的判断をして「2週間程でパウロはコリント教会に来る」と思う人もいたかもしれません。ですが、パウロにはそのような計画はありませんでした。パウロがコリント教会に訪問する予定は、もっと後だったのです。
 5節に書かれていますが、パウロはマケドニア地方を通る予定をしていました。このマケドニア地方というのは、エペソの左上に黄緑のところに太文字で「トラキア」と書かれています。その左に太文字で「マケドニア」と書かれています。このマケドニア地方にはピリピ教会やテサロニケ教会があります。ですから、パウロはエペソを出てからピリピ教会やテサロニケ教会に寄る予定をしていたのでしょう。パウロはコリント教会に着くのは「冬を越すことになるかもしれない」と語っています。しかも、8節を見ますと「五旬節まではエペソに滞在するつもりです。」と語っています。五旬節というのはペンテコステの日ですから、日本で言えば初夏の時季です。そのように考えますと、パウロがコリント教会に着く予定は早くとも1年後ということになります。ですから、コリント教会には手紙が届いてからすぐに着く予定ではないということです。そのため、いつコリント教会に行くのかを知らせないと変な誤解が生じます。誤解が生じないためにも、パウロは丁寧なコリント教会への訪問予定を書いているのです。
 また、パウロはコリント教会に訪問する予定が遅れることの理由も丁寧に書いています。その理由の第1は、7節の終わりにも書かれていますように、コリント教会に長く滞在する予定でいるからです。手紙を送ってからすぐに行けば、コリント教会には長く滞在することができません。コリント教会に長く滞在するためにも、コリント教会に行く前に済ませておこうとしているのです。第2は、エペソ教会に留まらなければならない課題があったからです。具体的にどのような課題があったのかは分かりませんが、福音を宣べ伝えるということと同時に「反対者も大勢いる」と9節の最後に書かれていることから、エペソ教会の人たちの信仰の成長のためというのもあったと考えられます。
 このようにパウロが丁寧にコリント教会への訪問について書いたのは、先程も話しましたように誤解を避けるためです。何故なら、誤解されることによって人間関係は悪化してしまうからです。このことからしても、パウロは人との関係をとても重視していたことが分かります。何故なら、人は関係の中で生きるものとされているからです。パウロは自分の働きが神から託されているものであることを確信していました。しかし、だからと言って一人ひとりの心の問題を無視していたわけでもありません。むしろ、彼らの心の問題にとても気を使っていたのです。何故なら、神への奉仕というのは人への奉仕でもあるからです。神を愛し人を愛することを神は求めておられます。ヨハネ自身も、「神を愛すると言いながら、目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」と語っています。パウロがコリント教会への訪問について丁寧に書いているのは、人への配慮からであり愛からであることを知らされるのではないでしょうか。

結)
 パウロは献金やコリント教会への訪問について丁寧に書いています。それは、そのようなことでコリント教会の人につまずいてほしくないからです。パウロという人は、神の前に正しく生きようとしていた人でした。それは、「自分だけが神の前に正しく生きれば良い」ということではありません。神を信じる全ての人が神の前に正しく生きるのを願っていたのです。だからこそ、このような細やかな配慮をすることができたのです。そして、それが神に仕えるということでもあります。何故なら、神は私たちだけを愛しておられるのではなく、全ての人を愛されているからです。ヨハネ13:34で、イエス・キリストは「     」と話されました。愛されるだけでもなければ愛するだけでもありません。受けるだけでなければ与えるだけでもありません。互いに愛し愛され、互いに与え受けるのです。大切なのは「互いに」です。日本のことばの中に「お互い様」ということがあります。私自身、日本語のことばの中で好きなことばの1つです。助け助けられる。愛し愛される。私たちもお互いに思いやって、細やかな配慮をもって神に仕える者とされるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント15:50~58「全ては無駄ではない」  18.04.29.

序)
 この3月に私は初めて確定申告をEネットで申告しました。確定申告をする度に、神は必要なものを満たしてくださる方であると思わされています。パウロは、その神のみわざに目を留めて、望みを抱きつつ歩むことを勧めています。では、望みを抱いて歩むとはどういうことでしょうか。それは今までも何度も見てきましたが、今しなければならない目の前のことを忠実に果たすということです。ごまかした生き方をしないことです。何故なら、全ては神にあって無駄ではないからです。今朝は、何故全ては無駄ではないのかを共に教えられたいと願っています。

1)神の国を相続する者とされているから
 全ては無駄でない第1の根拠は、神を信じる者は神の国を相続する者とされているからです。神の国とは何でしょうか。ある方は「天の御国」と思われるかもしれません。確かに、天の御国は神の国に間違いありません。ですが、神の国は天の御国だけではありません。ルカ17:21に「     」と書かれています。ここはイエス・キリストがパリサイ人に語られた箇所ですが、21節の後半に「神の国は…あるのです。」と話されています。この「あなたがた」とは、神を信じる人のことです。すなわち、「神の国は神を信じる者の心の中にすでに存在している」と話されているのです。
 これはどういうことかと言いますと、神の国とは神が中心としておられ、神の御心がなされる所であり、神が共にいてくださる所です。ですから、限定された場所的なものではありません。神が中心におられ、神の御心がなされている所であるならば、そこが神の国となるのです。イエス・キリストは、マタイ28:20の最後で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束してくださいました。すなわち、神が共にいてくださるのであれば、その人の中に神の国はなされているのです。イエス・キリストを信じる一人ひとりが神の国とされているのです。何故なら、御霊なる神が内に住んでくださっているからです。
 イエス・キリストを信じる者の中に御霊なる神が住んでくださっていますから、イエス・キリストを信じる者の身体は神の国とされています。しかし、今朝の箇所の50節の中程で「血肉のからだは神の国を相続できません。」と語っています。確かに、イエス・キリストを信じる者の中に御霊なる神は住んでくださっていますが、このままの身体で神の国を相続することはできないというのです。変えられる必要があるのです。当時のコリント教会の中には、「すでに自分はキリスト者とされているから大丈夫」と思っていた人がいました。そして、そのような人たちの日々の生活は、神を信じていない人と全く同じような自己中心的なものでした。50節のパウロのことばは、そのような人たちへの警告でもあります。いくら神を信じていても、神を信じていない人と同じような生活をしているのなら、決して神の国を相続することはできないのです。
 ここでパウロは、コリント教会の人たちに悔い改めることを求めているのです。自己中心的な生き方を悔い改めて、真のキリスト者として歩むことを勧めているのです。ある方は「そんなことをしたら、この世では生きていけない」と思われるかもしれません。この世は要領の良い人が成功する世界です。そのような世界の中にあって、正直に生きていくならバカを見るような世界です。行うこと全てが無駄になってしまうように思える世界です。しかし、無駄ではないのです。何故なら、最後には神の国を相続することができるからです。
 正直な生き方は地味なものであり、決して目立つような生き方ではありません。あるタレントが「小さなことからコツコツと」とよく言っていましたが、一発千金を狙うような生き方ではなく、小さなことをコツコツと果たしていく生き方です。この前も触れましたが、イエス・キリストはルカ16:10で「     」と話されました。神は私たちの小さなことに目を留め、それを正しく評価してくださいます。ですから、決して無駄なことはないのです。むしろ大切なことなのです。何故なら、神の国を相続する者とされているからです。

2)変えられる者とされているから
 全てが無駄でない第2の根拠は、変えられる者とされているからです。パウロは「血肉のからだは神の国を相続できない」と語っています。では、どのようにして神の国に入るのでしょうか。それは変えられて神の国に入ることができるのです。「何に変えられるのか」と言いますと、血肉の身体から御霊の身体に変えられるのです。人は御霊の身体に変えられて、神の国に入ることができるのです。これは私たちが理解できるものではありません。私たちの理解を遥かに超えたものです。神は私たちに理解することを求めてはおられません。神のことばを信じることを求めておられます。
 変えられるというのは、ある意味ではそういうことでもあります。すなわち、血肉の身体というのは物質的身体です。ですから、物質的なものに頼ってしまう身体です。物質というのは目に見えるものですから、目に見えるものに頼ってしまいます。そして、目に見えるものというのは、納得できたり理解できたりするものです。すなわち、納得できたり理解できたりするものに頼る生き方が血肉の身体でもあるのです。ところが、神はそのような私たちを御霊の身体に変えてくださるのです。御霊というのは目で見ることはできません。目に見えないものですから、目に見えないものに頼る生き方を表しています。目に見えないものとは何でしょうか。それは信仰です。へブル11:1に「     」と書かれています。ここには「信仰とは何か」ということが書かれています。それは「神の約束を信じる」ということです。神のみことばは、私たちに理解できるものではありません。もし、神のみことばが人に理解できるものであったなら、旧約時代のイスラエルの民は不信仰の道を歩むことはなかったでしょう。理解できなかったから不安を覚え、目に見える偶像の神々に目を留め、神から離れてしまったのです。何故なら、目に見えるものは理解できるからです。
 しかし、神の約束は目に見えるものではありません。その神の約束に目を留めるには信仰が必要です。そして、その神を信じる信仰は御霊なる神の助けなしには得ることはできません。人がどれだけ努力しても変わることはできないのです。聖書は「変わりなさい」と勧めているのではなく、「変えられるのです」と語っているのです。そして、人も神の約束を信じることのできる者へと変えられるのです。そこには「変えられたい」という思いが必要です。「神の約束を信じることができますように」という祈りと決心が必要なのです。その祈りと決心は一度だけで良いというものではありません。
 今朝、私たちは礼拝の中で主の祈りを唱えました。その主の祈りの中に「日毎の糧を今日もお与えください」とあります。「今日も」なのです。このことばは重要です。「毎日」ということばではないのです。「今日も」とは、「昨日に続いて今日も」ということです。昨日の神の恵みを覚えているのです。私たちは昨日の神の恵みを覚えているでしょうか。神は昨日あなたにどのような恵みを与えてくださったでしょうか。今一度、昨日神から与えられた恵みを思い巡らしてみましょう。どうでしょうか。どのような神の恵みを受けられたでしょうか。また「今日も」というのは、「今日も神の恵みに目を留めることができますように」という祈りの決心でもあります。それは「神が恵みを与える」という約束に、「今日も目を向け信じることができますように」ということです。ですから、「神の約束を信じることができますように」という祈りと決心は一度だけで良いのではなく、日毎にすることが大切なのです。何故なら、私たちは目に見えるものに目を留め頼ってしまいやすくなるからです。だからこそ、「私が目に見えないあなたの約束に、今日も生きることができますように」と祈ることが大切なのです。そのように祈り続けるとき人は変えられます。何故なら、それが神の約束だからです。見える事柄には無駄のように思えても、神にとっては決して無駄ではありません。何故なら、神は無駄に思えるようなものをも用いることのできる方だからです。

3)死に勝利する者とされているから
 全てが無駄でない第3の根拠は、死に勝利する者とされているからです。54~57節に「     」と書かれています。何度も話していますが、死が表すものは絶望です。死を「縁起の悪いもの」として、「死んだらお終い」という考えを持つのは、人が目に見えるものの中で生きているからです。しかし、聖書は「人は死んでお終いではなく甦りという希望がある」と語っています。死は人生の終着点ではなく通過点の一つに過ぎません。イエス・キリストは、そのことを明らかにするために死から甦ってくださったのです。ですから、私たちは死を恐れる必要なないのです。
 何度も話していますが、甦りというのは死を経験しないとできません。死ぬことなくして復活はありません。それと同じように、苦しみを通して理解を超えた神の大いなるみわざを経験することができるのです。星野富弘さんという方がおられます。彼は中学の体育教師でした。クラブでマット運動の見本を見せるとき、着地に失敗して首から下が動かなくなりました。そのような経験を通してイエス・キリストと出会いました。そして、今では口に筆を挟んで絵と詩を書いています。今では「星野富弘美術館」という建て物が建てられ多くの来館者がおられます。彼にとってマット運動の事故は生涯を大きく変えました。しかし、彼は「あの事故を通して障害者となったからイエス・キリストと出会うことができた」と、障害者となったことを受け入れるように変えられました。彼は障害という苦しみを通して、今まで以上の想像もしなかったすばらしい経験をされたのです。それはまさしく苦難に対する勝利です。
 Ⅰコリント10:13に「     」と書かれています。神は耐えられない試練に会わせられる方ではありません。必ず脱出の道も備えてくださっています。私たちは苦しみに遭遇しますと、その苦しみだけに目を留めてしまい、その苦しみが少しでも早く解決されることを願います。その願いが悪いわけではありません。それが私たちです。神はそのような私たちを責められる方ではありません。そのような私たちを受け入れ、「わたしを信じなさい」と言われているのです。何を根拠にでしょうか。13節に書かれていますように、神は真実な方だからです。神は私たちが遭遇します苦しみを通して、すばらしいことをしてくださいます。それがどのようなものなのかは分かりません。ですが、「神は真実な方である」ということを信じ、その神に期待することを求めておられるのです。何故なら、イエス・キリストは死から甦られたからです。
 そして、父なる神はイエス・キリストを死から甦らされただけではありません。57節に「     」と書かれています。神は私たちにも勝利を与えてくださったのです。私たちは死に勝利する者とされているのです。すなわち、苦しみを克服することのできる者とされているのです。苦しみを克服するとはどういうことでしょうか。それは苦しみがなくなるということではありません。苦しみというのは受け入れられないものです。受け入れられないから苦しむのです。その受け入れられないものを受け入れられるように変えられるのが「苦しみを克服する」とういことです。それは「神がこのことを通して益としてくださる」とプラス的に捉えられるようになるということです。何故なら、イエス・キリストは死に勝利された方だからです。そして、そのイエス・キリストを信じる者も死に勝利する者とされているのです。オリーブの会でも話しましたが、甦りというのは死を経験したから生じるものです。死を経験しなければ甦りも経験することはできません。苦しみを克服するとは、苦しみを経験するからできるのです。ですから、苦しみは決してマイナス的なものではないのです。

結)
 キリスト者というのは神の約束を信じて生きる人です。だから、パウロは58節で「     」と語っています。「堅く立って」とは、何処に堅く立つのでしょうか。それは神の約束の上にです。神が「与える」と言われている希望の約束の上に堅く立って、いつも神のわざに励むことが勧められているのです。いつも神のわざに励むとは小さなことです。乱暴な言い方をすればバカ正直な歩みです。世間から見れば損をするような歩みです。しかし、その歩みを神は私たちに求めておられるのです。何故なら、全ては無駄ではないからです。先程の聖書交読でも読みましたが、マラキ3:18「     」と書かれています。神に仕える者と仕えないものの違いを神が見させてくださることを信じ、神のわざに励むことができるように祈っていきましょう

Ⅰコリント15:35~49「失望のない希望」  18.04.22.

序)
 本日は午後に大野伊都子姉の記念会が行われます。大野姉が天に召されて明日で1年となります。日本では「死」ということばが「縁起の悪いもの」として避けています。何故避けるのかと言いますと、「死は絶望的なもの」と捉えられているからです。ですが、聖書は「死は決して絶望的なものではない」と語っています。死の先には甦りという希望があります。天に召された大野姉もそうです。では、その失望のない希望を持つにはどうすれば良いのでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)決断が必要
 失望のない希望を持つ第1は、決断が必要であるということです。コリント教会の中には、イエス・キリストを信じつつも死者の復活を信じられない人たちがいました。そして、35節のような質問があったのでしょう。もし死んだ人が甦るのなら、どのようにして甦るのでしょうか。この疑問は、私たちにとっても興味深いものではないでしょうか。現代の日本では殆ど遺体を焼却します。ところが、当時のイスラエルでは、穴を掘って遺体を埋めたり、洞窟の中に入れたりしていました。遺体を焼くことをしませんから、埋葬された遺体は腐ってしまい、骨だけになってしまいます。そのようなものが復活するとき、どのようにして肉体を持つのかという疑問が生じるのは自然的なことです。
 そのような疑問を持つ人に対して、パウロは36~44節で説明しています。人は穀物を収穫するために種を蒔きます。そして、水や肥料を与えて実を結んだとき収穫します。何故人は種を蒔くのでしょうか。それは種からすばらしい実ができるのを知っているからです。種を蒔いても、もし収穫するとき種のままであるなら、種を蒔くことはしないでしょう。種をそのまま食べれば良いのです。汗水流して水や肥料を与える必要はないのです。しかし、種は土の中に埋められることによって種という性質が死んで、種とは全く違う新しい性質に生まれ変わって成長します。それは種という性質が死ぬからこそなのです。人は種を蒔くことはできますが、成長したものを作ることはできません。確かに、水や肥料を与えて成長を助けることはできますが、人の力で成長したものを作りだすことはできません。現代クローン技術は著しく進歩しています。しかし、成長したものを作りだすのではありません。受精させて増殖とか同じ個体を生み出すというものです。もし、成長したものを作りだすことができるなら、種を蒔く必要はありません。成長したものを作れた良いのですから。ですが、人にはそのようなことはできません。何故なら、それは神にしかできないことだからです。
 ある方は「種が死んだのではなく、種が成長して新しい芽が出る」と言われるかもしれません。確かにその通りです。しかし、種という性質が死んだのも事実です。「自分はいつまでも種のままでいるのだ」と言っていたなら、その種からは決して新しい芽は出ません。種という性質が死んでこそ、初めて新しい芽が出るのです。これは人についても同じです。人の死というのは、この世の人間の性質が死に新しい性質の人間として甦るのです。種が死ぬことによって新しいものに変えられるのと同じように、人間も死ぬことによって新しい人に変えられて甦るのです。ですから、現在の身体と復活の身体は性質的には全く違うものなのです。私たちは甦るとき、古い身体のままで甦るのではありません。新しい者と造り変えられて甦るのです。そして、神を信じる者はすでに新しい者に造り変えられるのです。それには決断が必要なのです。どのような決断かと言いますと、イエス・キリストを信じるという決断です。

2)将来に目を向けること
 失望のない希望を持つ第2は、将来に目を向けることです。パウロは45節で「     」と語っています。最初のアダムは生きるものとなりましたが、最後のアダムはいのちを与える御霊となられたのです。ここでは2つのことに注目したいのです。その1つは、「生きるものとなった」ということばと「いのちを与える」ということばです。もう1つは「もの」ということばと「御霊」ということばです。
 まず、「生きるものとなった」と「いのちを与える」ということばです。最初に造られた人間であるアダムは「生きるものとなった」と書かれています。この「生きるものとなった」というのは、過去から現在を見る捉え方です。「過去にこうであったから現在に至っている」という見方です。人は神のかたちとして造られた存在であり、人格のある者として造られましたから、現在の私たちも神のかたちとして人格のある者として存在しています。だから、人は神と交わりを持つことができるのです。造られたもので神と交わりを持つことのできるのは人間だけです。他の動物は神のかたちとして造られていませんから、神に祈るということはしません。「しない」というよりも「できない」と言った方が正しいでしょう。それは人間以外の生き物は神のかたちとして造られていないからです。ですから、「生きるものとなった」というのは、現在人は神のかたちとして人格のある者として存在しているという過去から現在の見方です。
 ところが、イエス・キリストは「いのちを与える御霊となりました」と書かれています。この「いのちを与える」というのは、現在から将来を見る捉え方です。すなわち、神は今の私にすばらしいことをしてくださったのだから、これから先もすばらしいことをしてくださるという見方です。私たちはこの世にあって様々な苦しみに遭遇します。苦しみから逃れることのできる人は誰一人いません。イエス・キリストも死という経験をされたのです。そして、その死を通して甦りという人には想像もできなかったすばらしいことをしてくださったのです。ですから、私たちは生きている中で苦しみを経験しますが、その苦しみを通して神はすばらしいことをしてくださるという将来に目を向けることができるのです。
 次に、最初のアダムには「もの」ということばが使われていますが、最後のアダムであるイエス・キリストには「御霊」ということばが使われています。最初の人アダムには「もの」ということばが使われているのは、人は見えるものに囚われてしまいやすい存在であることを示しています。事実、アダムとエバはサタンの誘惑によるものではありますが、善悪の知識の実を取って食べてしまいました。彼らは見えるものに心が奪われてしまうという弱さを持っていました。サタンは、その人の弱さを突いてきたのです。そして、人は自分の弱さに負けてしまい、神に対して罪を犯してしまいました。この「もの」ということばは、人は目に見えるものに頼りやすくなる弱い存在であることを示しています。
 ところが、イエス・キリストは「御霊」となられたのです。創世記は世界が神によって造られたことが書かれています。そして、2章には人の創造について書かれています。7節に「     」と書かれています。この「いのちの息」とは霊のことです。人は神から霊を注がれることによって「生きるもの」となったのです。これは他の生き物にはない人間だけに行われたものです。この「生きるもの」とは、前向き肯定的に生きることを意味しています。すなわち、人は漠然と生きている存在ではなく、目的・目標を見据えつつ前向き肯定的に生きる者とされているのです。しかし、人は神に対して罪を犯してしまいました。そのために、本来の目的・目標を見失ってしまい、前向き肯定的に生きることができなくなってしまいました。ですが、神は罪を犯して人間を見捨てることをされず、私たち人間を愛し続けてくださいました。そして、エゼキエル37:14で「     」と約束してくださいました。すなわち、神の霊が再び注がれるとき、人は本来の目的・目標を見出し前向き肯定的に生き返る者とされるのです。そして、イエス・キリストはいのちを与える御霊となられたのです。それは、私たちに本来の目的・目標を見出させ、前向き肯定的に生きることのできる者へと変えてくださるのです。過去ではなく、将来に目を向けさせてくださるのです。ですから、失望のない希望を持つには、そのイエス・キリストにあって将来に目を向けることです。

3)関係の中に生きる
 失望のない希望を持つ第3は、関係の中に生きることです。聖書は「イエス・キリストを信じる人は、そのイエス・キリストに接ぎ木された」と語っています。今朝の箇所の47節で「第二の人は天から出た方です。」と書かれています。また、48節に書かれています「天に属する者たち」とは、イエス・キリストを信じ接ぎ木された人のことです。そして、49節に書かれていますように、イエス・キリストを信じた人は天に属する方のかたちも持つ者とされているのです。すなわち、この世にあって肉体的な身体を持っていますが、同時に霊的な身体も持っているのです。
 では、霊的な身体を持つとはどういうことでしょうか。聖書には「神は霊です」と書かれています。イエス・キリストご自身も御霊なる方です。そして、イエス・キリストを信じる者も霊的な者とされています。このようなことから、霊的な身体を持つとは、霊なる神と交わりを持つことができるということです。すなわち、目には見えませんが確かに生きて働いておられる神と交わりを持つことができるのです。別のことばで言いますと、神とより良い関係の中に生かされているということです。関係というのは目には見えません。しかし、人が生きていくにおいて大切なものです。
 人は神によって造られたとき、「いのちの息」という霊を吹き込まれ生きるものとなりました。すなわち、神とより良い関係の中に生きるものとされていたのです。しかし、その神に対して罪を犯してしまったがために、神とのより良い関係が壊れてしまい、生きる希望を見失った歩みをするようになったのです。ですから、人が希望のある人生を歩むには、私たちを造ってくださった神とより良い関係を築くことであり、その関係の中で歩み続けることです。
 人は関係の中で生きるものとされています。その第1は私たちを造ってくださった神との関係です。そして次に自分との関係です。第3は他人との関係です。ところが、人は罪を犯してしまったがために、その順番も的を外してしまい反対になってしまいました。他人とのより良い関係を求める者となってしまったのです。今の若い人は友達の電話番号を知らない人が多いようです。何故なら、LINEで済ませられるからです。LINEですと無料で電話をかけられますしメールもできます。ところが、既読されているのに返事がないと無視されているように思えたり、または「既読したらすぐに返事しなければ関係が壊れてしまうのではないか」ということですぐに返信する方がおられます。これは何よりも他人との関係を重視していることを示しています。最近の若い人は、そのようなことも含め理由は様々ですが、通知設定をオフにされているようです。他人に受け入れられていることで平安を得ようとするなら、いつまでも人の目を気にした歩みになってしまいます。
 イエス・キリストは、いのちを与える御霊となられました。人はイエス・キリストを通して神に愛され受け入れられていることを知り、その神を信じることによって本来の関係に戻ることができます。すなわち、自分を造ってくださった神との関係を第1にし、次に今の自分が受け入れられているという自分との関係がより良くされ、そして最後に他人との関係もより良いものへと築かれます。人はその関係の中で生きることによって不安から解消され、失望のない希望の人生を歩むことができるのです。今までどのような歩みをされて来られたでしょうか。その歩みは一言で言い表すことのできないものかもしれません。しかしながら、その歩みがあって今があるのではないでしょうか。そして、その歩みを支えてくださったのは神です。その神との関係の中に生きることによって、人は失望のない希望を歩むことができるのです。

結)
 神はあなたを生かしてくださるお方です。生きるとは、漠然とした生活を過ごすことではありません。目的・目標を見つめつつ、前向き肯定的に歩むことです。神はそのような人生を私たち一人ひとりに与えてくださったのです。私たちは、そのような人生を歩むために神に造られたのです。それには新しい者として生きることの決意が必要です。そして、将来に目を向け、神とのより良い関係の中で生きることです。何故なら、全てのことは神から出ているからです。

Ⅰコリント15:29~34「今を生きる」  18.04.15.

序)
 4月は入学式や入社式の季節です。入学式や入社式に出席される方々の多くは、進学や新社会人の方々ではないでしょうか。これらは人生の節目の1つでもあります。教会にもいろいろな儀式が執り行われます。その代表的なのが礼典というものです。プロテスタント教会において、礼典とはイエス・キリストが命じられた儀式でバプテスマ式と聖餐式です。バプテスマ式は、イエス・キリストを信じたことを見える形として表すものです。また、聖餐式は、過越しの祭から来ており、神の審きが過ぎ越され、完全に救われていることの再確認を見える形として表しているものです。先程読んでいただきました箇所は、聖書の中でも難しい箇所の一つです。それは「死者の故のバプテスマ」ということばです。難しいことは横に置きまして、今朝は死者の復活がないとしたらどうなるのかを共に教えられたいと願っています。

1)バプテスマの意味がなくなる
 第1に、死者の復活がなければバプテスマを受ける意味がなくなってしまいます。この手紙を見る限り、コリント教会のおいては死者のためのバプテスマが行われていたようです。では、死者のためのバプテスマとは何なのかと言いますと、これには多くの解釈があります。それら全てを紹介することはできませんが、代表的なのは、すでに死んだ人の代わりに生きている人がバプテスマを受けるという考え方です。この考え方は、「バプテスマを受けることによって救われる」という考え方です。しかし、聖書は「救いは人の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰による」と語っています。ですから、もうしそうであったならパウロは激しく反対していたことでしょう。そのことから、「この死んだ者とは、イエス・キリストを信じたけれどもバプテスマを受けずに死んだ人」と理解する人もいます。しかし、聖書は先程も話しましたように、バプテスマを受けることによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われます。ですから、バプテスマを受けなくてもイエス・キリストを信じているならすでに救われているのです。
 では何故、私たちはバプテスマを受けるのでしょうか。それは、イエス・キリストが命じられているからでしょうか。バプテスマが意味するものは一体何でしょうか。それについては、ローマ6:4~5に「     」と書かれています。バプテスマの意味は、イエス・キリストを信じる前の自分はイエス・キリストと共に死んで葬られ、イエス・キリストを信じた新しい自分がイエス・キリストと共に甦るということです。それは霊的なことだけでなく、肉体的にも甦ることを表しています。すなわち、イエス・キリストを信じるのを見える形として表したのがバプテスマです。
 コリント教会が、死者のバプテスマを行っているのをパウロは許しています。ですが、だからと言って勧めているわけでもありません。ここでパウロが強調しているのは、「バプテスマは死者の復活を表しており、コリント教会が死者のためのバプテスマを行っているのなら、死者の復活を否定することは自分たちが行っているのと矛盾していることになる」ということです。要は、何のために死者のためのバプテスマを行っているのか分からなくなり、意味のないものとなってしまうということです。ですが、私たちが受けましたバプテスマは、復活は必ずあるということのしるしです。すなわち、どのようなときにおいても希望がなくなることはないということのしるしです。私たちは、その希望のしるしでもあるバプテスマを受けたことを覚えましょう。

2)信仰生活の意味がなくなる
 第2に、もし死者の復活がないのであれば、私たちの信仰生活の意味はなくなるということです。当時のキリスト教は、ユダヤ教やローマ帝国による迫害が多く、殉教する人も多くいました。また、パウロ自身も多くの危険に遭遇しました。それでも信仰を貫くことができたのは何故でしょうか。それは、死者の復活を確信していたからです。もし死者の復活がなかったのなら、パウロや殉教者の働きは意味のないものになってしまいます。いや殉教者だけでなく、イエス・キリストを信じて天に召された方々も同じです。彼らは毎日の生活の中で、信仰の戦いをしてきました。多くの試練や誘惑と戦いながら、与えられている信仰を貫いて天に召されたのです。もし死者の復活がないのであれば、そのような人の信仰の戦いも意味のないものとなってしまいます。
 それだけでなく、私たちの信仰生活においてもそうです。多くの人は「死は人が最終的に行き着く所」と思われています。そして、「人は死んでお終い」と捉えています。ところが、聖書は「人は死んでお終いではなく、その人の歩みの通過点にしか過ぎない」と語っています。人は死んでお終いではなく、死んだ後にもその人の人生があるのです。私たちはそのことを信じているのではないでしょうか。確かに人の死というのは、この世での別れですから悲しいものです。ですが、後に再会することができるという希望が与えられているから、その悲しみは一時的なものなのではないでしょうか。ですが、もし死者の復活がないのであれば、死は永遠の別れになってしまい、その悲しみは一時的なものではなく永遠の悲しみとなってしまいます。
 またそれだけでなく、私たちの日々の生活においてもそうです。「死はお終いではなく、人生の通過点の一つである」ということは、死は絶望ではないということです。何度も話していますが、多くの人は「死は人が行き着く最終的な場所であり、死を絶望的なもの」と捉えておられます。ですが、イエス・キリストが死から甦られ、死者の復活があるということは、死は絶望的なものではないということです。死が絶望的なものではないとしたら何でしょうか。それは死の先にも希望があるということです。死以上の大きな問題はありません。私たちが生きて経験しますあらゆる事柄も、死ほどの大きな問題はありません。死者の復活を通して死が絶望的なものではなく、死の先にも希望があるのでしたら、私たちが遭遇しますあらゆる問題においても希望があるということです。
 あなたは、イエス・キリストの復活を心から信じておられるでしょうか。そして、死者の復活を心から信じておられるでしょうか。もし本当に信じておられるなら、私たちが抱えている問題にも必ず解決される希望があるということではないでしょうか。「希望があるのではないでしょうか」というよりも希望があるのです。死者の復活を信じるか信じないかは、私たちの生活において大きな影響を及ぼします。それは、本当の希望をもって歩むことができるかできないかということになるからです。そして、もし死者の復活がないのであれば、私たちが抱いています希望は意味のないものとなってしまい、私たちの信仰生活も意味のないものになってしまいます。ですが、イエス・キリストの復活と死者の復活は事実なのです。私たちは死者の復活を堅く信じ、歩むことができるように祈っていきたいものです。

3)自制する意味がなくなる
 第3に、もし死者の復活がないのであれば、自制する意味がなくなります。パウロは34節の前半で、「目を覚まして…罪を犯さないようにしなさい。」と勧めています。この「正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。」とはどういうことでしょうか。少なくとも、ここは神を信じている者に語られていることですから、神を信じ神の恵みに対して正しく応答することが勧められているわけではありません。私たちは神から信仰が与えられたからと言って、強い人間に変えられるわけではありません。やはり、弱さを持ったままの人間です。私たちの耳に入る様々な雑音を通して不安を覚え、知らない内に道を反れてしまうことがあります。「正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。」とは、「取れてしまった道を修正しなさい」ということです。すなわち、「死者の復活を堅く信じ、神に希望を抱いて歩みなさい」ということです。
 そのために必要なのは自制です。自制とは何でしょうか。そのまま読めば、自分を制することです。では、自分を制するとはどういうことでしょうか。今朝の箇所から言いますと、神が私たちに与えてくださっているものは、問題が解決されるという希望です。私たちは、その希望に目を留めて歩んでいます。ですが、その希望はずっと先のことです。私たちはずっと先の見つめて歩むのは大切なことですが、もう一つ大切なものがあります。それは先週も触れましたように、目の前のしなければならないものを忠実に果たすということです。Ⅰコリント9:24以降には戦う人について語られています。彼らは賞を得るために何をしているのかと言いますと自制です。すなわち、勝利を得るという先の希望に目を留めつつ、そのために今しなければならないことを忠実に練習しているのです。これが聖書の語っている自制です。
 33節に「悪い交際は良い習慣を損なう。」と書かれています。「悪い交際」とは何かと言いますと雑音です。現代は情報社会です。私たちは様々なものから耳に情報が入ってきます。当時の情報は人を通してです。そのような情報に振り回され、見なければならないものを見つめることをしないで、しなければならないこともしないでいることが、正しくない生活であり罪なのです。だから、34節で「目を覚まして…罪を犯さないようにしなさい。」と勧めているのです。すなわち、目の前のしなければならないことを忠実に果たしていくことを勧めているのです。
 私たちは死者の復活を信じているからこそ、「必ず問題は解決される」という希望があることを信じ、今しなければならない目の前のことをしているのではないでしょうか。ですが、もし死者の復活がないとしたら、それらも全て意味のないものとなってしまいます。何故なら、希望がなくなってしまうからです。その希望というのは、自分が願う希望ではありません。たとえ自分が願っていたことと違う結果が出たとしても、神はそのことを通してすばらしいことをしてくださるという希望です。神のみわざへの希望です。しかし、もし死者の復活がないとしたら、その神のみわざへの希望もなくなってしまいます。すると、自制していることも意味のないものとなってしまいます。ですが、イエス・キリストの復活は歴史的事実であり、死者の復活も必ずあります。来主日の午後には、昨年天に召された大野姉の記念会が行われます。私たちが天に召されたとき、先に天に召された大野姉とお会いすることができます。また、それだけでなく、イエス・キリストが再び来られたとき大野姉と共に甦ることができるのです。私たちはそのことをこれからも信じ続け、今しなければならない目の前のことを忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

結)
 死者の復活を信じるか信じないかで、私たちの歩みは大きく違ってきます。何故なら、本当の希望のある人生を歩むことができるかどうかにかかってくるからです。そして、本当の希望のある人生を歩むことができるために、イエス・キリストの復活と死者の復活を信じているのではありません。イエス・キリストの復活と死者の復活が事実だからこそ信じているのです。だから、パウロはⅠテサロニケ4:11で「     」と語っているのです。私たちは先にある目標を見つめていますが、それと同時に今しなければならない目の前のこともしっかりと見つめて歩む必要があります。将来ではなく今です。今を忠実に生きることが私たちにとって大切なことです。

Ⅰコリント15:20~28「キリストにある希望」  18.04.08.

序)
 先週はイエス・キリストが死から甦られたイースターでした。昨日は、子どもイースター集会が行われました。皆さんのお祈りと奉仕に感謝します。また、新年度が始まり新しい生活リズムとなられた方もおられることと思います。この新しい年度、神は私たちにどのようなことをしてくださるでしょうか。その神のみわざに期待したいものです。聖書が語っています信仰とは、「平安が与えられ喜びが与えられるなら何でも良い」というのではなく、事実に基づいたものを信じるということです。イエス・キリストが死から甦られたのは歴史的事実です。ですから、私たちは生きている中で様々な苦しみや悲しみを経験しますが、それらに対しても希望があります。何故なら、「絶望」と思っていた死からイエス・キリストは甦られ生きておられるからです。以前にも話しましたが、生きるとは可能性があるということです。そして、可能性があるということは希望があるということです。その希望を与えてくださった神のみわざに期待し信頼して生きることが、聖書の語っている信仰です。そのキリストにある希望はどのようなものでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)不安の克服
 その第1に、キリストにある希望は不安を克服させてくださいます。20節の最初に「しかし、今や」と書かれています。これは以前の新改訳聖書もそのように訳されていますが、新共同訳聖書には「しかし実際」と訳され、口語訳聖書では「しかし事実」と訳されています。これは、イエス・キリストの復活を否定している人に対して、イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを強調しています。そのイエス・キリストは「眠った者の…よみがえられました。」と書かれています。この「眠った者」とは、イエス・キリストを信じ死なれた人のことです。イエス・キリストは、その死んだ人の初穂として甦られたのです。では、「初穂」とは何を意味しているでしょうか。それは、この後にも続くというのを意味しています。すなわち、イエス・キリストを信じる者も必ず甦ることができるということです。
 例えば、新しい実験をする人は「果たしてこれでうまくいくだろうか」と結果が出るまでは心配します。そして、期待通りの結果が出て初めて安心します。それだけでなく、「この方法で行えば、必ずこの後も同じ結果が出る」という確信を持つことができます。キリストの初穂というのも同じです。私たちは必ず死にます。また、死に対して不安や恐れを抱きます。そして、「できれば永遠の命を得たい」と望みます。ですが、いくら望んだとしても客観的に証明されない限り安心はできません。あるのは「本当にこれで良いのだろうか」という不安だけです。しかし、イエス・キリストは死んだ者の初穂として甦られました。イエス・キリストの甦りは歴史的事実です。そのことを認めるとき、「自分も必ず死を経験するけれども、イエス・キリストと同じように甦ることができる」という確信を持つことができます。視点を変えて言うならば、イエス・キリストの甦りは新しい実験の結果なのです。すなわち、神を信じる者はイエス・キリストに続いて死んだ後も甦ることができるということなのです。
 何故、この世に死というものがあるのでしょうか。聖書は「死は一人の人を通して生じた」と語っています。それはアダムの罪によってです。神はアダムとエバを造られたとき、彼らに自由を与えられました。但し、善悪の知識の木の実だけは取って食べてはいけませんでした。これが神と人の約束でした。しかし、人はその神との約束を破ってしまいました。それによって、神と人との関係が壊れてしまい、死がこの世に入ってしまったのです。この世に死が存在するのは、人が神に対して罪を犯してしまったからです。そのことを見ますと、「命」というのは神との関係に大きなカギがあることに気づかされます。命とは生きることであり、生きるとは希望を持つということです。神と自分との関係がどのようなものであるかによって、その人が本当の希望をもって生きられるかどうかが決まってきます。神はイエス・キリストを死から甦らせてくださいました。これは神を信じる私たちに本当の希望を与えてくださったことを意味しています。私たちは、死という不安を克服することができるのです。それは、これからもある様々な不安をも克服することができるということでもあります。何故なら、死よりも大きな不安はないからです。神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに不安を克服させてくださり、キリストにある希望を与えてくださったのです。

2)順序がある
 第2に、そのキリストにある希望には順序があるということです。パウロはキリスト者の復活について23節で「     」と語っています。死者の復活にも順序があります。このことは何を意味しているでしょうか。それは、物事の解決にも順序があるということです。私たちは不安を抱きますと、すぐに解決することを願います。そのように願うのは悪いことではありません。ですが、物事の解決には順序があるということを覚えておくのは大切です。何故なら、神は秩序のある方だからです。神は世界を造られたとき、秩序をもって造られました。どのように世界を造られたでしょうか。初めに光を造られました。そして、空気と水を造られ、そして陸を造られました。その後に、太陽と月と星を造られ、その後で空を飛ぶ鳥と水の中を泳ぐ魚を造られました。その後に、陸の上に生じる植物を造られ、最後にその植物を食べる動物と人間を造られました。神は世界を造られるとき、いきなり動物や人間を造られたのではありません。もしそうだったら、動物や人間は食べるものがありませんし、空気もありませんから生きられません。神は世界を造られるとき、このように順序をもって造られたのです。
 そして、死者の甦りにも順序があります。ですから、物事の解決には順序があるのです。「いきなり解決されるということは絶対にない」とは言いません。何故なら、神は私たちの想像を越えた方ですから、そのようなこともできるお方です。しかし、それだけを願うのは聖書が語っています信仰ではありません。物事が解決されるというのは結果です。物事が解決されることだけを願うのは、結果だけを求めることになってしまいます。ですが、神は結果を重視される方ではなく、その過程を重視される方です。ですから、物事の解決においても同じです。物事が解決されるには、目の前のことを忠実に果たしていく必要があります。
 ですから、物事が解決されることを祈るのは大切ですが、目の前にある事柄を忠実に果たせるように祈るのも大切です。それをしないで、良い結果だけを祈り求めるのは聖書が語っている信仰ではありません。ルカ16:10に「     」と書かれています。結果は大きなことでしょう。ですが、目の前のことは小さな事です。しかし、イエス・キリストは「小さな事に忠実な人は大きなことにも忠実である」と話されているのです。物事の解決には順序があることを覚えましょう。そして、目の前にある小さなことを忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

3)約束の成就
 キリストにある希望の第3は、約束が成就されたということです。24節の最初に「それから終わりが来ます。」と書かれています。イエス・キリストが再びこの世に来られたとき、神は審きを行われます。そして、全てのものを従わせます。最初に神が造られた世界は、全てのものが神に従う世界でした。しかし、人が神に対して罪を犯してしまったがために、この世に罪が入り神に背を向ける歩みをするようになりました。ですが、それらも解決されるのです。神が造られた世界が回復するのです。その創造の回復にも順序があります。その順序は、神の約束に基づいて勧められます。
 まずは、人が神に罪を犯すように導いたサタンに対して、神は「サタンには敵対するが人には味方になる」と約束されました。その後、神はアブラハムを選ばれ、神に選ばれた者が神の祝福を受けるという約束をされました。そして、モーセの時代に信仰の規律となる律法を与えられ、ダビデにおいては王国の確立が約束されました。そして多くの預言者を送られ、救い主が来られることが預言されました。そして、イエス・キリストが救い主として誕生され、神の約束は成就されました。一瞬の内に罪の問題を解決することのできる神が、長い時間をかけて罪の問題を解決されたのです。それは「人が神に対してどのように歩むか」という過程を重視されていたからです。
 多くの人は、神に対して罪を犯すことが「それほど大きなこと」とは思ってはいません。しかし、神の目から見れば大きなことなのです。ですが、神の目からみれば結果は大きなことではありませんが、人の目から見れば結果は大きなことなのです。ここに、神の目から見る視点と人の目から見る視点の違いを知ることができます。私たちは問題が生じますと、解決されるという結果を何よりも願い、それだけに目を留めてしまいやすくなります。しかし、神は問題の解決よりも過程に目を留められます。神と人との見方は違います。何故なら、先程も話しましたように問題の解決というのは、神の目から見れば大きな事柄ではないからです。それは、神は解決することのできる方だからです。
 そして、それは私たちが抱えます問題においても同じです。私たちが抱えます問題は自分自身にとっては大きな事柄です。すぐに解決されることを願います。でも、神はすぐにではなく順序をもって解決してくださるのです。イエス・キリストは死から甦られました。死に打ち勝たれたお方です。死は人が神に対して罪を犯したがために入りました。その死に打ち勝たれたということは、罪の問題を完全に解決されたということです。そして、私たちが抱えている問題においても、神は解決することのできるお方です。イエス・キリストの復活はそのことを表しています。だからこそ、私たちにとって大切なことは、神の約束の成就を信じて、目の前にある事柄に対して忠実に果たしていくことなのです。

結)
 イエス・キリストの復活を通して、神が私たちに与えてくださったものは希望のある人生です。私たちの先にあるものは希望です。だからこそ、目の前にある小さなことを忠実に果たしていくのは大切なことです。ヨハネ16:33の後半に、「世にあっては…勝ちました。」と書かれています。この「勇気を出しなさい。」とは何でしょうか。それは、目の前の問題がどれほど大きかろうとも、それから逃げるのではなく、自分がしなければならないことを忠実に果たしていく勇気と力です。その勇気と力は、私たちの内から絞り出そうとしても絞り出せられるものではありません。神から与えられるものです。どのようにしてでしょうか。それはイエス・キリストの復活に目を留めることによってです。18年度の歩みも、私たちは様々なことを経験することでしょう。しかし、復活のイエス・キリストに目を留めて、勇気と力をいただきながら、目の前にある事柄を忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント15:12~19「希望のある人生」  18.04.01.

序)
 イースターおめでとうございます。新年度の最初の日が主日であり、しかもイースターであるのは珍しいことです。総会でも触れましたが、昨年度から新しい活動が始まり、今年度は少し変更しましたが似た活動が続けられます。昨年度の歩みを神が導いてくださったことに感謝しつつ、今年度の歩みも神に期待して歩まされたいと願っています。聖歌604番に「数えてみよ主の恵み」という歌があります。その歌の出だしは「望みも消えゆくまでに世の嵐に悩むとき、数えてみよ主の恵み。なが心は安きを得ん」と書かれています。辛いことを経験しても、今までの神の導きを思い巡らすとき、神の確かさを思い起こされます。そして、「この辛い時も神は必ずすばらしいものに変えてくださる」という希望が起こされます。私たちはどのような時においても、イエス・キリストにあって希望を持つことができます。それは何故でしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)死から甦られたから
 イエス・キリストに希望がある第1は、イエス・キリストが死から甦られたからです。私たちはイエス・キリストが死から甦られたという復活を信じています。ところが、コリント教会の中には、イエス・キリストの復活を信じていなかった人たちもいたのです。これはイエス・キリストの復活を信じている私たちからすれば、非常に不思議なことのように思えたりするのではないでしょうか。「イエス・キリストの復活を信じられない人は何を信じているのか」と思えたりもします。また、「イエス・キリストの復活を信じられない人はキリスト者とは言えない」と言われる方もおられるかもしれません。中には、「何故そのような人にバプテスマを授けたのか」と言われる方もおられるかもしれません。
 ですが、私個人としてはそのような人たちの考え方が分からなくもありません。何故なら、コリントの町はアテネから西に約70㎞の位置にあるからです。その距離は春日井市から浜松市位の距離です。めちゃくちゃ遠い距離でもありません。アテネという町は哲学の町です。その影響を受けていたとは考えられます。哲学は理論的ですから、納得できないものや理解できないものは受け入れません。死からの復活というのもそうです。復活というのは理解できるものではありません。ですから、アテネ哲学の影響を受けていた人たちは、死からの復活を本当に信じることができなかったのです。
 そのようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。ひょっとしたら、「いいえ、私はイエス・キリストの復活を本当に信じています」と言われるかもしれません。ですが、私たちの中に「これだけは絶対に無理だ」という思いが生じることがあるのではないでしょうか。例えば、教会の奉仕にしてもそうです。「この奉仕だけは絶対に私にはできない」と思えることがあります。私自身もありました。以前にも話しましたが、私は「教会学校の奉仕なんて絶対にできない」と思っていました。何故かと言いますと、当時は独身でしたから子供への接し方が分からなかったからです。そのため、教会学校の奉仕をしたことがありませんでした。神学校に入って奉仕教会に行きましたら、いきなり「教会学校の教師をしてください」と言われました。「できません」なんて言えません。何故なら、献身したのですから。祈りつつ奉仕していましたが、4年間苦しみました。そして、神学校を卒業して内灘聖書教会に戻りました。そこでは中高生を担当することとなり、心の中では「ホッ」としたことを覚えています。すると、児童伝道のアワナクラブというのを全国展開で始める準備をしていました。私もそれに関わることとなり、5月から教会で始めることとなりました。そして、その責任者として私が任命されたのです。私の心の中は不安でいっぱいでした当然祈ります。祈ったら平安が与えられるかと言いますと、そうではありません。祈っても平安は与えられません。そのような状態で奉仕する中で、徐々にですが子どもへの接し方を学び、今日に至ることができたのです。
 教会の奉仕などを依頼するとき、自信がなく「できません」とすぐに答えられる方がおられます。「できない」というのは本当です。ですが、それは「私にはできない」ということであって、「神にはできない」ということではありません。確かに、今の自分にはできないかもしれませんが、神はできる者へと成長させてくださいます。それには第一歩が必要なのです。その第一歩を踏み出すことをしないなら、イエス・キリストの復活を信じていないコリント教会の一部の人たちと同じです。何故なら、できない自分ができるようになるなんて理解できないからです。しかし、イエス・キリストは絶対に理解できない死から甦られたのです。私たちの想像以上のことをされたのです。それならば、今はできないけれども、神はできる者へと必ず成長させてくださいます。何故そのように断言できるのかと言いますと、私がそうだったからです。神には不可能なことはありません。私たちにとって「不可能」と思えることも、神はできるお方です。イエス・キリストの死からの甦りはそのことを示しています。だからこそ、イエス・キリストにあって希望を持つことができるのです。

2)復活が歴史的事実だから
 イエス・キリストに希望がある第2は、イエス・キリストの復活が歴史的事実だからです。パウロはイエス・キリストの復活について、17節で「     」と語っています。私はカード入れをポケットの中に入れています。そのカード入れには運転免許証やクレジットカードなどが入れてあります。時々忘れてしまい、免許不携帯で教会まで来ることがあります。以前私はスーパーで買い物をしてレジに向かいながら、ポケットの中にカード入れがあるかを確認したところカード入れがありませんでした。ポケットの中にカード入れがあると思い込んで品物をカゴの中に入れていたのに、ありませんからカゴに入れた品物を元の場所に戻していく時の空しさを今も覚えています。
信仰も同じです。もしイエス・キリストの復活が実際になかったのなら、それは全く意味のない希望です。もしイエス・キリストの復活が実際になかったのなら、それは全く意味のない希望ですし、希望のない信仰になってしまいます。そのようなものは、全く信じるに価しないものになってしまいます。それなのに、そのようなものを信じているなら、19節に書かれていますように、本当に哀れな者となってしまいます。では、そのようなことにならないために、イエス・キリストの復活を歴史的事実として信じているのでしょうか。もしそうであれば、実質的にはなかったものを信じているのですから、哀れな者であることに変わりありません。
聖書は「イエス・キリストは復活された」と教えています。ですが、それは単なる教えではありません。イエス・キリストの復活は歴史的事実なのです。歴史的事実だからこそ信じているのです。パウロは、イエス・キリストの復活が歴史的事実でない場合の結果を平気で語っています。何故パウロは、そのようなことを平気で語ることができたのでしょうか。それは、パウロがイエス・キリストの復活の教えを信じていたからではありません。実際に甦られたイエス・キリストと出会ったからです。自分の身体をもって経験したからです。パウロの心の中には、イエス・キリストの復活が万が一にもないことを確信していたから、復活が事実でない場合のことを平気で語ることができたのです。このことからしても、イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを示しています。そして、私たちも「信じれば平安が与えられるから」とか「信じれば喜びが与えられるから」ということで信じているわけではありません。イエス・キリストの復活が歴史的事実だからこそ信じているのです。事実に基づいたものを信じるのがキリスト教信仰です。
これらのことを見るとき、「聖書が語る信仰とはどのようなものであるか」というのを知ることができます。信仰とは「ただ信じれば良い」というものではありません。事実に基づいたものを信じることです。「他人のために良い」と思って、嘘の証言をすることは許されないのです。それは「神のために」と思えることにおいても同じです。人が感激して神に目を向けるためなら作り話を語っても良いということにはならないのです。それは神に背く行為になってしまいます。また、信仰は見栄を張ることでもありません。神を信じる者は真面目な人になったのだから、ジョークも言わず無理な生活をしなければならないものでもありません。神はその人の性格を用いられるお方です。私たちの性格や性質を通して働いてくださるお方です。ですから、神から与えられている性格や性質に感謝しつつ、その中で神を信じて生きることを神は求めておられるのです。
私たちは「何故キリスト教を信じているのか」と聞かれることがあります。私たちは聖書の教えがすばらしいから信じているのでしょうか。決してそうではありません。すばらしい教えは何処の宗教にもあります。私たちが聖書を信じているのは、聖書が語っていることが事実だからです。そうではないでしょうか。心の安らぎを得るために信じているのではなく、聖書に書かれていることが事実だから信じたのではないでしょうか。そして、その信じた結果として心の安らぎが与えられたのではないでしょうか。確かに、「心の安らぎを得るために教会に来られた」という方もおられます。教会に来られたきっかけはそうであったとしても、信じる決心をされたのは心の安らぎを得るためではなく、聖書が語っていることが事実だったからではないでしょうか。イエス・キリストが甦られたというのは歴史的事実です。だからこそ、イエス・キリストに希望があるのです。

結)
 ローマ10:11に「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」と書かれています。「この方」とは、イエス・キリストご自身のことです。イエス・キリストにこそ本当の希望があります。それはイエス・キリストが死から甦られた方であり、その甦りは歴史的事実だからです。今日から2018年度が始まりました。この新しい年度も、私たちは様々な事柄に直面することでしょう。その事柄は全てが自分にとって良いものではありません。自分にとっては悪いものも経験することでしょう。しかし、私たちには本当の希望が与えられているのです。希望の人生が与えられているのです。そのような人生を与えてくださった神を覚え、イエス・キリストの復活に目を留めて、この新しい年度を歩まされていきたいと願います。