メッセージ

ヨハネ3:31~36「信仰とは」 18.10.07

序)
以前、ある調査で「もし宗教に入るならキリスト教が良い」と答えた人が、全体の約3割いると発表されました。理由は記されていませんでしたが、私の想像では「雰囲気的なものではないか」と考えられます。何よりもキリスト教は欧米の宗教と思われており、結婚式やクリスマスなどの影響からではないでしょうか。日本人は雰囲気が好きな国民性かもしれません。クリスマスやイースター、またハロウィンにしてもそうです。信仰を雰囲気から入るのは悪いとは思いませんが、雰囲気から始まるものでもありません。ローマ10:17に「     」と書かれています。今朝は、その信仰について共に教えられたいと願っています。

1)イエス・キリストの証しを受け入れる
最初に、信仰とはイエス・キリストの証しを受け入れることです。多くの日本人は、「信仰は大切である」と考えています。でも、その信仰とは「いわしの頭も信心から」というものです。これは「信じる対象よりも信じる心が大切である」という意味です。それに対して聖書はどのように語っているでしょうか。それは「信じる心は大切であるが、信じる対象も大切である」というものです。すなわち、信じる対象がどのようなものであるかを知り、信じるに価するものであるかを見極めることも大切であるということです。全く何の意味もないものを信じても、それは全く意味のないものとなってしまいます。
聖書は31節で、イエス・キリストのことを「上から来られる方」と説明しています。これはイエス・キリストが天から来られた方であることを意味しています。そして、「地から出る者」とは私たち人間のことです。私たちが話すのは地上に起きていることではないでしょうか。私たちが様々な出来事を話すのも地上で生じている出来事についてではないでしょうか。それは神の働きについて話すのもそうです。
地上でなされた神のみわざを私たちは話すだけです。ですが、イエス・キリストは天から来られた方ですから、天においてなされていることをも話すことができるお方なのです。すなわち、神がどのような方であり、どのような計画をされているかを話すことができるのです。
では、神はどのような方でしょうか。それは、あなたを愛しておられる愛なる神です。ありのままの私たちを愛し受け入れてくださる方です。私たちは自分が罪深い者であることを悟り、悔い改めて神が願っておられる人間になったから愛されたのではありません。私たちは自分が罪深い者であることに気づかず、悔い改めようともしなかった者です。私たちは、そのような自分がありのまま愛され受け入れられていることを知ったに過ぎないのです。それだけでなく、そのような私の罪のために身代わりとなってイエスが十字架に架かって、父なる神の審きを受けてくださいました。本来ならば、私たちが受けなければならない神の審きを、神はイエス・キリストが代わりに受けるためにこの世に送ってくださったのです。イエス・キリストは、地上で活動されているとき真の神はどのような方であるかを証しされていたのです。真の神は、ありのままの私たちを愛し受け入れてくださる方です。そのイエス・キリストの証しを受け入れることが、信仰において大切なことです。

2)神の真実さを認めること
 第2に、信仰とは神の真実さを認めることです。「神の真実さを認める」とはどういうことでしょうか。神を信じていない多くの人は、神に祈り求めることをしないで自分の考えで判断し行動されます。その根底には「自分の判断が正しい」と思ったり、「正しい」と思わなかったとしても「自分の力で切り開いていかなければならないから神など必要ない」と思われているからではないでしょうか。「自分の力で切り開いていかなければならない」というのは、「最終的には自分以外に頼るものはない」ということでもあります。これは、その人の殻です。人は誰でも殻を持っています。その殻を打ち破れるかどうかです。
 ヨハネ12:24に「     」と書かれています。これはイエス・キリストが十字架に架かって死なれることを指しています。でも、もう1つの面を見ることができます。「一粒の麦」と書かれていますが、これを「一つの種」と譬えることもできます。種を地面に蒔きますと新芽が出ます。そして、その芽は成長して実を結び、新しい種を生み出します。しかし、種のままですと新芽は絶対に出ることはありません。先日、教会の駐車場の柵の所に朝顔が咲いていたのを見ました。稲沢にいたとき、やはり朝顔が咲いていました。私が種を蒔いたわけではありません。何らかの事情で種が落ちたのでしょう。年数が経つにつれ朝顔が増えましたので、「これ以上増えてもらっては困る」と思って種を回収しました。結構な量になったのですが、袋に入れたままでしたのでずっと種のままでした。決して芽を出すことはありませんでした。種のままだと決して芽を出すことはありません。芽を出すには、種の殻を破らなければなりません。すなわち、種という性質が死なない限り、芽を出すことはできないのです。
 信仰も同じです。「自分の殻を破る」というのは、「自分の考え方を改める」ということでもあります。今まで「自分には神など必要ない」という考え方を改めることでもあります。それは「自分には神が必要である」ということになります。別の言い方をすれば、それは神の前に屈服することでもあります。神の前に屈服することが、聖書が語っています悔い改めです。またそれが、ヨハネ3:3でイエス・キリストが話された「新しく生まれる」ということです。ところが、人は自分の殻をなかなか破ることができません。何故でしょうか。そこには不安や恐れがあるでしょうし、「信頼できない」というのもあるでしょう。そのことを考えますと、「信じる」という単純なことが何故これほど難しいのかが分かってくるのではないでしょうか。何故神を信じる人が少ないのかが見えてきます。それは聖書の教えが難しいからでもなければ、信仰生活が大変だからでもありません。神の前に屈服することに抵抗があるからです。悔い改めることに抵抗感を覚えるからです。聖書が語る信仰とは、神が真実な方であることを認めて自分の殻を破り捨てることなのです。

3)イエスに聞き従うこと
 第3に、信仰とはイエス・キリストに聞き従うことです。人は誰もが幸せを求めて生きています。そのこと自体は決して悪いことではありません。幸せを求めて生きることは大切なことです。その幸せとは何でしょうか。「金持ちになること」「社会的地位に就くこと」「愛する人と結婚して楽しい家庭を築くこと」でしょうか。これらには共通点があります。それは自分の力で達成できるものです。聖書は、これらのものを「悪い」とは言ってはいません。しかし、勧めてもいません。聖書は、これらのものを肯定も否定もしてはいません。何故なら、それらが本当の幸せではないからです。これらのものは病気になって働くことができなくなったり、事業に失敗して再起不能になった場合には、絶望感に支配されてしまいます。生きることに望みを失ってしまいます。何故なら、「これらのことは不幸だ」と思っているからです。何故聖書が「これらのものは本当の幸せではない」と語っているのかと言いますと、これらのものは朽ちてしまうものだからです。
 では、本当の幸せは何処にあるのでしょうか。36節に「     」と書かれています。本当の幸せは、イエス・キリストに聞き従うところにあるのです。「聞き従う」ということは、より良い関係が築かれていることを表しています。すなわち、「本当の幸せは関係の中にある」と聖書は語っているのです。何度も話していますが、その関係には3つの関係があります。1つ目は他人と自分との関係です。2つ目は自分と自分との関係です。3つ目は神と自分との関係です。多くの人は他人と自分との関係を第1に考えてしまいます。他人に自分が受け入れられることを求めてしまいます。「どうしたら自分は他人に認められるのか」を優先的に考えてしまい頑張ります。そのために自分を演技してしまいます。演技というのは本当の自分ではありませんから頑張らなければなりません。頑張ることは大切なことですが、頑張り過ぎると疲れてしまいます。何にしてもそうですが、「過ぎる」というのは良くないことです。何故なら、疲れてしまうからです。そして、他人に受け入れられる自分を受け入れようとするのです。ところが、そこに到達するのが大変ですし、到達してもそれを維持し続けることも大変です。そのために人生に疲れてしまうのです。
 イエス・キリストは、マタイ11:28で「     」と話されています。「疲れた人」「重荷を負っている人」とは、人生に疲れた人のことです。「重荷を負っている人」とは、「関係について悩んでいる人」と言っても良いでしょう。そのような人は「わたしのもとに来なさい。」と言われているのです。「イエス・キリストのもとに行く」とは、「イエス・キリストとより良い関係を築く」ということです。すなわち、人にとって何よりも大切なのは神との関係なのです。その神との関係がより良いものとなったとき、人はありのままの自分を受け入れることができます。自分と自分との関係がより良いものとなります。そうなりますと、他人と自分との関係もより良いものとなっていきます。関係にも流れがあります。ところが多くの人は、その関係の流れを逆に行こうとしているのです。ですから、多くの人は人生に疲れてしまうのです。さらに、イエス・キリストは11:30で「     」と話されています。「神との関係を第1にすると疲れない」というわけではありません。荷は軽いのですから疲れますが、その疲れは今までのものよりも軽いのです。水の流れに逆らって泳ぎますととても疲れます。しかし、水の流れに乗って泳ぎますと、疲れはしますが流れに逆らっての泳ぎのときの疲れとは全く違います。本当の幸せの第一歩は神との関係をより良いものへと築くことです。
 今朝の個所に戻りますが、聖書は「イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持つ」と語っています。ヨハネの福音書には「永遠のいのち」ということば繰り返し書かれています。いのちは生かすものです。そして、生きるとは可能性があるということです。可能性があるということは希望があるということです。神が与えてくださるものは、決してなくなることのない希望です。どのような状況の中に立たされようとも、決してなくなることのない希望を持てることが本当の幸せではないでしょうか。その第一歩は神とより良い関係を築くことであり、それはイエス・キリストに聞き従うことです。

結)
 最初にも話しましたように、雰囲気を楽しむために教会の集会に来られる方がおられます。それは悪いわけではありません。でも、信仰は雰囲気から始まるものではなく、神のことばに聞くことから始まります。その神のことばは、何よりも「神は今のあなたを愛している」ということです。良い結果を出せられるあなたではなく、ありのままのあなたを神は愛されています。その神のことばに聞くことから信仰は始まります。最後に、イザヤ43:4をお読みします。

ヨハネ3:22~30「教会の使命」 18.09.30.

序)
 今年度の上半期最後の主日礼拝となりました。今年度の上半期の歩みが神によって守り導かれたことに感謝しつつ、下半期の歩みも神に期待しつつ歩まされたいと願っています。教会には各々に特徴があります。その教会の特徴は大切なことですが、教会の使命は異なることがあってはならないと思わされています。今朝は、その教会の使命について共に教えられたいと願っています。

1)数字や結果ではない
 教会に与えられています使命は、数字や結果ではありません。イエス・キリストの所に多くの人が集まるようになったのを見たバプテスマのヨハネの弟子たちは、26節で「先生…行っています。」とバプテスマのヨハネに言いました。このことばの背後にあるのは、比較をして物事を見ているというものがあります。何故そのようなことが言えるのかと言いますと、25節に「     」と書かれています。この「きよめについての論争」がどのようなものであったのかは分かりません。しかし、4:1と合わせて考えますと、ユダヤ人たちはバプテスマのヨハネとイエス・キリストを比較していたと考えられます。すなわち、「どちらの方がバプテスマの効力があるのか」というものです。と言いますのは、新約聖書には「バプテスマ」ということばが用いられていますが、旧約時代にもバプテスマのようなものがありました。それは遺跡の発掘によって明らかにされています。いわゆる沐浴場というのが発見されています。これは身体を聖めるためのものです。旧約聖書に「水を浴びることによってきよくなる」ということが書かれています。ですから、バプテスマは身体の聖めの儀式として行われていました。そのバプテスマをヨハネは、肉体だけでなく心の聖めの儀式として行っていたのです。だから、悔い改めのバプテスマをヨハネは行っていたのです。ところが、今まで人々はヨハネの所に集まってきたのに、今はイエス・キリストの方に集まるようになりました。それを見たユダヤ人たちは「どちらのバプテスマが聖めの効力があるのか」という論争になったと考えられます。
 この26節のヨハネの弟子たちのことばの背景には、そのようなものがあったと考えられます。人々がヨハネよりもイエス・キリストの方に大勢行くというのは、「人々はヨハネよりもイエス・キリストの方を評価している」と捉えてしまったのです。そのような見方をしてしまいますと、何か自分たちの存在価値がなくなったかのように思えてしまいます。ヨハネの弟子たちもそうだったのかもしれません。私たちもそのような捉え方をしてしまうことがあるのではないでしょうか。以前、私は「国内開拓伝道会」という団体から支援を受けていたことがありました。その団体からニュースレターが届けられます。ある日、そのニュースレターに一人の牧師の証しが書かれていました。その牧師は私が神学生の時に夏期伝道で奉仕した教会の牧師です。そのニュースレターに「証しを読むと多くの方々が来られ救われる記事が書かれているが、自分の教会は全くそうではない。そのため妬みが生じる。」というようなことが書かれていました。私はそれを読んで「正直に書かれているな」と思いつつ、自分の中にもそのような思いがあることを思わされました。数字という結果に目が向けられてしまいます。
 バプテスマのヨハネの弟子たちもそうだったのではないでしょうか。だから、26節でヨハネに「     」と話したと考えられます。それに対して、ヨハネは何と答えたでしょうか。27~28節に「人は、天から…遣わされたのです。」と書かれています。ここでヨハネが自分の弟子たちに話しているのは、「数字ではない」ということです。すなわち、結果に目を向ける必要はないということです。私たちは結果に目を向けてしまいやすいですが、結果に目を向ける必要はないのです。教会は数字や結果に囚われる必要のない群れです。

2)教会員の使命(Ⅰ)
 結果に目を向ける必要がないとしたら、何に目を向ければ良いのでしょうか。一言で言えば「使命」に目を向けることです。ヨハネは28節で「     」と語っています。バプテスマのヨハネの弟子たちがすることは、「ヨハネはキリストではなく、その方の前に遣わされた者である」ということの証しです。すなわち、自分に与えられている使命を自覚することです。それは、「自分は何のために存在しているのか」ということです。また、「私たちの教会は何のために存在しているのか」ということです。この使命の自覚がありませんと、数字や結果に目が向けられてしまいます。ヨハネは28節で「あなたがた自身が」と語っています。これは「他でもないあなたがたが」という意味です。この証しは、バプテスマのヨハネの弟子たちにしかできない証しなのです。物事を結果から見てしまいますと、その結果に左右されてしまい、自分の存在意義を見失ってしまいやすくなります。だから、ヨハネは弟子たちに「使命の自覚を持つように」と促しているのです。
 「使命の自覚を持つ」ということの大切さは、私たちにおいても同じことが言えます。使命の自覚を持ちませんと、見える数字というものに囚われてしまいます。そして、結果によって左右されてしまいます。では、キリスト者の使命とは何でしょうか。ある方は、「神を信じる者として生きること」と言われるかもしれません。確かにその通りです。神であられる主を信じない人が多い社会の中で、神であられる主を信じ生きることは大切なことです。それは神を証しすることであり、福音を伝えることにもなります。ですから、神を信じる者として生きるのは大切なことです。でも、それだけではありません。ヨハネは28節で「私はキリスト…遣わされたのです」と語っています。これは「ヨハネはキリストではなく、人をキリストに導く者である」ということです。ヨハネの弟子たちは、人をイエス・キリストに導いていく使命が与えられているのです。これがヨハネの弟子たちの使命です。
 これを今日のキリスト者に適用するとどうなるでしょうか。それは「人をイエス・キリストに導くことがキリスト者の使命である」と言うことができるのではないでしょうか。ずっと前からJBCの中で「帰属意識の向上」が言われています。日本のキリスト教には様々な団体があります。その1つに日本○○教団という団体があります。数年前に、合同聖会で奉仕してくださいました△△先生が属している団体です。これは私の個人的見解なのですが、この日本○○教団という団体は帰属意識が強いように感じています。先日娘が帰省したときに「何処の教会に行っているのか」と尋ねたところ、「□□教会」という返事がありました。この教会は、以前礼拝でも話しをしました☆☆先生という方が牧会されている教会です。私は娘に「○○教団は帰属意識が強いように感じているが、それは何故なのか」ということを尋ねました。すると娘は「○○教団全体かどうかは知らないが、□□教会は居心地が良い」と話していました。それは「初めて来た人も孤独にさせない」ということです。「誰かが話しかけて来てくれる」というのです。特定の人が話しかけるのではなく、何人もの人が話しかけてくれるというのです。これは教会全体が自分を迎え入れてくれているように感じるのかもしれません。これは教会員に与えられています使命の1つではないでしょうか。

3)教会員の使命(Ⅱ)
 他にも教会員に与えられています使命があります。バプテスマのヨハネは、弟子たちに29~30節で「     」と語っています。これは「自分はキリストの引き立て役であり仕える存在に過ぎない」とういことです。ヨハネは自分の立場をきちんと弁えています。自分の立場を見失ってしまいますと、自分を前面に出してしまいやすくなります。人はそのような弱さを持っています。ヨハネの弟子たちがそうでした。自分たちの先生であるヨハネよりも、イエス・キリストの方に大勢の人がバプテスマを受けに行くようになり、自分たちの存在価値を見失い妬みが生じてしまったのです。ヨハネは自分の弟子たちに、自分たちの使命を自覚させようとしていたのです。それはヨハネの弟子たちも、人をイエス・キリストに導くためです。そのために、ヨハネは自分の弟子たちを育てていたのです。
 これまでのことを見てみますと、「教会の使命とは何か」というのを考えさせられます。教会に与えられています使命は、人に福音を伝えキリストに導くということです。ある方は「人に福音を伝えるのは教会員の務めであり、人をキリストに導くのは牧師の務めである」と思われています。実は、人に福音を伝えるのはキリスト者の務めであり、人をキリストに導くのもキリスト者の務めなのです。では、「牧師の務めは何か」と思われるかもしれません。牧師の務めは、キリスト者が人に福音を伝えられるように整えることであり、キリスト者が人をキリストに導くことができるように整えることです。それがエペソ4:12に書かれていることです。そうでないと教会は成長できないままです。何故なら、教会に人が増えるということは、未信者の方や求道者の方が来られるということです。その方々に牧師一人では対応できません。では、どうすれば良いのかと言いますと、教会員が対応するしかないのです。入門クラスを教会員が行いキリストに導いていくのです。そのような人を育てられるように整えるのが牧師の務めです。さらに成長しますと、人をキリストに導く教会員を育てられる教会員を育て整えるのが牧師の務めとなっていきます。教会はそのようにして建て上げられていくのです。
 今から約2年半前に、◇◇先生が使徒の働きからメッセージをしてくださいました。そのとき、「使徒の働きには『こうして』ということばが多く書かれている」と話されました。使徒の働きを理解する助けの一つは、「こうして」ということばを理解することです。どのようにして福音は世界に広がり、教会は成長していったのかは「こうして」ということばを手掛かりとして理解していくことです。使徒の働きの後半は、パウロの伝道旅行に焦点が合わされています。しかし、聖書は「主のことばは」というだけでなく、「教会は」ということばも用いています。「教会は」というとき、そこにはパウロではなく教会に属する人たちのことを指しています。教会に属する一人ひとりが人に福音を伝え、人をキリストへと導いていったのです。だから、聖書は「こうして」という表現を用いて福音の広がりと教会の成長を示しているのです。

結)
へブル5:12には「     」と書かれています。一人ひとりに与えられています信仰は成長するものであることが記されています。そして、人をキリストに導き育てる教師となっていくことが書かれています。教会に与えられています使命は、人に福音を伝え、人をキリストに導くことです。私たちの教会も、そのような群れとなっていくことを目指して歩まされたいものです

ヨハネ3:17~21「愛による恵み」 18.09.23.

序)
 先週の木曜日に行われましたオリーブの会には、久しぶりに平出ゆかりさんが集われました。調べてみますと、昨年の11月のオリーブの会以来です。礼拝には、昨年のクリスマス礼拝に集われています。そのオリーブの会では、イエス・キリストについて聖書からメッセージを語っています。今月は、救い主であられるイエス・キリストを見ました。イエス・キリストは、救い主としてこの世に来てくださいました。では、何から救ってくださるのでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)死に対する恐れからの救い
 イエス・キリストがこの世に来られた目的の1つは、死に対する恐れからの救うためです。へブル9:27に「     」と書かれています。人間には死ぬことと死後に審きを受けることが定められているのです。神はことばによって世界を造られました。その中には生き物も含まれています。そして、その生き物は全ていつかは死にます。でも、人間だけは死んだ後に神の審きを受けなければなりません。何故なら、人間は神との約束を破ってしまったからです。その神との約束を破ったことが聖書の語る罪です。そして、ローマ6:23には「罪の報酬は死です。」と書かれています。「人は何故死を恐れるのか」と言いますと、人は神に対して罪を犯しているからです。その罪がきちんと清算されていませんから、死に対して恐れを抱いてしまうのです。
 先ほど、「神との約束を破ったことが聖書の語る罪である」と話しました。約束ですから契約でもあります。契約というのは、違反したら相手に損害を与えてしまいますから、その損害を償わなければなりません。神との約束を破ったことへの償いとは何かと言いますと、それは神の審きです。人は神の審きを受けなければならないことを本能的に分かっていますから、死に対する恐れを抱いてしまうのです。その死に対する恐れから救うために、イエス・キリストはこの世に来られたのです。では、どのようにしてイエス・キリストは、私たちを神の審きから救ってくださるのでしょうか。それはご自分が十字架に架かって死なれることによってです。
 先週の礼拝でも話しましたように、イエス・キリストは神ご自身です。その神が人となって来られたのがイエス・キリストです。イエス・キリストは神ご自身ですから、罪というものは全くありません。その罪が全くないイエス・キリストが人となってこの世に来られ、私たちの罪の身代わりとなって神の審きをうけてくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。先程も話しましたように、人は神との約束を破りました。それによって神に損害を与えてしまいました。その損害を人は償わなければなりません。その償いは神の審きを受けることと話しました。審きを受けることと赦されることとは違います。人が神の審きを受けるということは死ぬことです。そうなりますと、人は神の赦しを受けずに死ぬことになります。そうならないために、イエス・キリストが人となってこの世に来てくださり、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって、神の審きを受けてくださったのです。このイエス・キリストの十字架によって、私たちは生きている時に神の赦しを受けることができるのです。イエス・キリストは、人が死への恐れから救われるためにこの世に来てくださったのです。

2)将来に対する不安からの救い
 イエス・キリストがこの世に来られた目的の2つ目は、将来に対する不安から救うためです。私たちは自分が今まで経験したことのない問題に直面しますと、その先のことについて不安を覚えます。イエス・キリストは、マタイ6:25~34で「     」と話されました。ここでイエス・キリストが話されていることは、必要なものは全て満たされるという約束です。34節で「明日のことを心配しなくてもよいのです。」と話されています。明日とは将来のことです。将来のことを心配する必要はないのです。間違っては困りますが、これは「将来のために備えをしなくてもよい」と話されているのではありません。備えをすることは大切なことですが、「心配する必要はない」と話されているのです。私たちにとって必要なことは、あれこれと心配することではなく、神のみことばによる約束を信じることが必要なのです。
 先週の礼拝でも話しましたが、約束というのは目に見えるものではありません。でも、見えないことは「ない」ということでもありません。31節に書かれています「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」というのは目に見えるものです。私たちは目に見えるものに頼ってしまいやすくなります。それが悪いわけではありません。私たちは確認することができて初めて安心します。それが私たち人間なのです。それは人間の弱さでもあります。イエス・キリストは、そのような私たちの弱さを御存知の上で、さらにもう一歩上のことを求めておられるのです。何故なら、将来というのは目で確認することができないからです。ですから、目には見えません神のみことばによる約束を信じるしかないのです。
 神は私たちの弱さを御存知だから、私たちが神のみことばによる約束を信じられるように、旧約聖書と新約聖書を通して語りかけてくださっているのです。パウロはⅠコリント10章で出エジプトのことを取り上げています。そして、11節で「     」と語っています。出エジプトの出来事は、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と語っています。これは当時生かされているキリスト者に対して語られたものですが、同時に今日の私たちにも語られていることです。何故なら、私たちも世の終わりに臨んでいる者だからです。ただ、この時代のキリスト者と今日のキリスト者の違いがあります。それは当時のキリスト者は旧約聖書だけでした。しかし、今日の私たちには旧約聖書と新約聖書があります。この新約聖書に書かれていることは当時のキリスト者に対して書かれたものですが、同時に今日の私たちにも書かれたものです。
 そして、その新約聖書は先週の礼拝でも見ましたが、ローマ8:28に「     」と書かれています。ここに「すべてのことがともに」と書かれています。これは「益でないと思える事柄も共に」ということでもあります。それは「益でないと思える事柄にも神が働いてくださっている」ということです。私たちは様々な事柄に直面します。「何故こんな目に遭わなければならないのか」と思えることもあります。しかし、そのような事柄を通して神は益としてくださいます。だから、聖書は将来に対して心配する必要がないことを語っているのです。イエス・キリストがこの世に来られた目的の2つ目は、将来に対する不安からの救いです。

3)神の審きからの救い
 最後に、イエス・キリストがこの世に来られた目的の3つ目は、神の審きからの救いです。神の審きとは将来のことですが、18節には「信じない者はすでにさばかれている。」と書かれています。これは生き方のことです。審きは将来のことですが、神の赦しを受けていませんと喜びがありませんから、不安を抱いたままの生き方となってしまいます。すなわち、心からの感謝と喜びの生き方ができないということです。まだ神の審きを受けていませんが、罪の赦しの確信がありませんから本当の感謝と喜びがありません。本当の感謝と喜びのない生き方になってしまいますから、「すでにさばかれている生き方になってしまう」と語っているのです。
 19節以降には「光」と「闇」ということばが用いられています。特に、「光」ということばはヨハネの福音書において重要なことばです。来週の礼拝は交換講壇の日で、伊勢教会の谷口先生がみことばのご用をしてくださいます。その先生のメッセージタイトルは「光の中を歩もう」です。聖書箇所は、ヨハネの手紙第1からです。この手紙の著者もヨハネの福音書を書いたヨハネです。ですから、ヨハネにおいては「光」ということばがとても重要です。何故なら、光はいのちを表しているからです。特に、ヨハネの福音書には「永遠のいのち」ということばが繰り返し用いられています。ところが、人は光よりも闇を愛し、光の方に来ないことが書かれています。それは何故かと言いますと、人は神に対して罪を犯しているからです。
 「罪」ということばは「的外れ」という意味です。様々なことを的外れで捉えてしまいます。例えば、神についてです。「神は正しい方であり、罪人を審かれる方である」というのは正しい認識です。しかし、その神の審きに重点を置いてしまい、その神の審きから避けたいという本能的なものから、光であられる神から離れようとするのです。「神が審き主であられる」というのは間違いありません。ですが、神は審きが中心ではなく救いが中心なのです。「何故罪人である者を赦されるのかと言います」と、神が愛なる方だからです。ところが、人は罪の故に的外れな捉え方をしてしまい、神の愛に目が向けられず神の審きに目を向けてしまうのです。だから、人は光であられる神に近づこうとはしないのです。
 また、罪についてもそうです。人は罪の故に結果に目を留めるようになりました。そして、結果で評価するようになりました。それは罪についても同じ捉え方をするようになりました。すなわち、殺人や窃盗という法律で裁けるものを「罪」と捉えるようになったのです。ですから、多くの人は「自分が罪人である」ということに気づいておられないのです。「自分が罪人である」ということに気づいていませんから、もちろん神の必要性を感じてもいません。ですが、最も大切なのは結果ではなく、動機でありプロセスです。「どのような思いで始めて、その務めに忠実であったか」です。でも人は、罪の故に動機やプロセスよりも結果に重点を置くようになったのです。そして、「結果は自分の努力によって得られる」と捉えてしまい、「自分には神など必要ない」と捉えるようになったのです。
 神の中心は審きではなく救いです。神は私たちに「今の生活を改めることによって救う」とは言われていません。神が言われていることは、「わたしの約束を信じなさい」ということだけです。そのために、神は私たちに様々なことをしてくださっています。その神の働きに私たちは気づいていないことが多いのではないでしょうか。それでも神は私たちに様々なことをしてくださっています。何故でしょうか。神が私たちを愛してくださっているからです。何故、的外れな捉え方をする私たちをそこまで愛してくださるのでしょうか。それは私たちが神の審きから救われるためです。神の中心は審きではなく救いです。

結)
 人は本能的に、死に対する不安・将来に対する不安・神の審きに対する不安を抱きます。神はそのような不安から救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。そして、十字架につけて私たちの代わりに審きを行ってくださいました。それだけでなく、私たちが気づかない所で様々なことをしてくださっています。何故そこまでしてくださるのでしょうか。それは神が私たち一人ひとりを愛してくださっているからです。私たちは、その神の愛の恵みの中に生かされているのです。その神の愛による恵みの中に生かされていることを覚えつつ歩まされていきましょう。

ヨハネ3:16「神の愛」 18.09.16.

序)
今年の夏はとても暑い夏でした。ところが、9月に入りますと、涼しく過ごしやすい日が続いています。秋は「食欲の秋」「読書の秋」「スポーツの秋」などと言われたりします。私が会社で働いていましたときは、毎年秋に会社の有志による登山がありました。私も石川県の白山や富山県の立山、そして鳥取県の大山に挑戦したことを思い出します。今朝の個所は「聖書の富士山」と言われている箇所です。それ程有名なみことばです。今朝は、この箇所から神の愛について共に教えられたいと願っています。

1) あなたを愛する愛
 まず、神の愛はあなたを愛する愛です。この16節前半の主語は「神は」です。そして述語は「愛された」です。ですから、「神は愛された」となります。では、何を愛されたのかと言いますと、「世を」です。すなわち、神は世を愛されたのです。この「世」というのは世界のことです。そして、その世界の中に生かされています私のことであり、あなたのことです。ですから、神は何を愛されたのかと言いますと、私を愛されたのであり、あなたを愛されたのです。しかも、16節には「実に」と書かれています。このことばは、先々週の礼拝のときに「夜」ということばがなくても通じると話したのと同じように、「実に」ということばもなくても通じるものです。それなのに、ここに「実に」ということばが書き加えられているということは、そこに著者の意図があることが分かります。この「実に」ということばは強調を表しています。神の私たちへの愛というのは漠然とした愛ではなく、特別な思いで愛された愛であることを知らされるのではないでしょうか。
 何故神は、私たちを特別な思いで愛してくださっているのでしょうか。それは、創世記1:26に書かれていますように、私たちが「神のかたちとして」造られたからです。神は世界の全てを造られました。その中で人間だけが神のかたちとして造られたのです。では、神のかたちとは何でしょうか。それは、神が人間のようなかたちをされているということではありません。創世記2:7に「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」と書かれています。この「いのちの息」とは霊のことであって、人は神にいのちの息を吹き込まれることによって霊的な存在となったのです。これが神のかたちです。人は肉体的な存在だけではなく、霊的な存在ともして神に造られたのです。これが他の動物と全く違う点です。人が霊的な者として造られたから、人は神に祈るという行為をするのです。造られたもので神に祈るのは人間だけであるのは、人間だけがいのちの息を吹き込まれたからです。
神は人を他の生き物と全く違うものとして造ってくださいました。そして、「神に祈る」という霊的な交わりを持つことのできる者としてくださいました。だからこそ、神はあなたを漠然と愛するのではなく、特別な思いで愛してくださっているのです。私たち一人ひとりが神から特別な思いをもって愛されていることを覚えたいものです。

2) 行動が伴う愛
 次に、神の愛は行動が伴う愛です。行動が伴うということは、目に見える形として表されるということでもあります。では、神はご自分の愛をどのようにして見える形として表してくださったのでしょうか。16節の中程に「そのひとり子をお与えになったほどに」と書かれています。「ひとり子」とはイエス・キリストのことです。「イエス・キリストをお与えになった」というのは、イエス・キリストをこの世に誕生させ、そのイエス・キリストを十字架につけて命を取られたということです。イエス・キリストは神ご自身であり、罪が全くないお方です。そのイエス・キリストが罪人の一人として数えられ、私たちの罪を背負って身代わりとなって神の審きを受けてくださったのです。
神が人としてこの世に来られるというのは分かりにくいかもしれません。私がバイトしていますスーパーではバッグヤードにゴキブリが出ます。おそらく、何処のスーパーでも出ることと思います。ゴキブリは衛生的に良くありませんから人に嫌われます。まだ、「ゴキブリが好きだ」という人に出会ったことはありません。そのゴキブリは時々売り場に出ることもあります。そのため客から指摘されることもありますし、店員が見つけることもあります。食品を扱っていますから、殺虫剤を撒くことはできません。捕獲するしかありません。家の中にゴキブリが出ましたら殺されることと思います。ゴキブリを助けようとする人はいないのではないでしょうか。もし、ゴキブリが大好きで助けようとして話しかけてもゴキブリには通じません。何故なら、ゴキブリは人間のことばが分からないからです。ゴキブリに分かってもらおうとしたら、人間がゴキブリになって伝えるしかありません。でも、危険も伴います。人間がゴキブリになったら、今度は自分がゴキブリと間違えられて殺されるかもしれません。大好きなゴキブリを助けるには、自分の命を犠牲にしなければならない覚悟が必要です。
神が人となられてこの世に来られたというのも同じです。イエス・キリストは神ご自身です。ですから、罪をとても嫌われるお方です。しかし、罪を持っている人間をとても愛してくださっています。その罪を持っている人間を救うために、神であられるイエス・キリストは人となってこの世に来てくださったのです。そして、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのです。神は行動をもってご自身の愛を表してくださったのです。私たちに見える形として、ご自身の愛を明らかにしてくださったのです。
神はご自身の行動をもって私たちに愛を示してくださいました。今度は、私たちがその神の愛に応える番ではないでしょうか。その神の愛に対してどのように答えれば良いでしょうか。その1つは、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じ告白することです。神は信じ告白することを求めておられますから、それを実践することが神の愛に正しく応えることではないでしょうか。もう1つは、今の自分が神に愛され共にいて守り導いてくださっていることに感謝し生きることです。先日、ある方が「神を喜ぶことが大切なのか、それとも神が喜ばれることが大切なのか」という話しが出ました。神が喜ばれることは神を喜ぶことです。それは先ほども話しましたように、今の自分を神が愛してくださっていることを喜び生きることです。この2つが神の愛に応える生き方です。

3)神の愛の目的
 神が私たちを愛し、そのためにイエス・キリストを十字架へと導かれた目的は何でしょうか。その答えが16節の最後に「永遠のいのちを持つためである。」と書かれています。永遠のいのちとは何でしょうか。天の御国に入れられて、いつまでの生きられるいのちのことでしょうか。それもあるでしょう。先週の礼拝で、「いのちは可能性を意味し希望を表している」ということを見ました。神が私たちに与えてくださるものは、決してなくなることのない希望です。私たちはこの社会の中で生きるにおいて様々な事柄に直面します。「何故こんな目に遭うのか」と思って失望することもあります。「失望」とは「望みを失う」と書きます。今週のオリーブの会でも触れますが、「失う」というのは「ない」ということではありません。失うというのは、あったものが何処にあるのか分からなくなったということです。
 イエス・キリストはザアカイの所に行って、「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」と話されました。この箇所が今度のオリーブの会のメッセージ箇所です。イエス・キリストは、人を「失われた者」と話されています。それは「人は本来神の許にいた」ことを意味しています。人は本来神の許にいたのですが、その神の許から離れてしまったのです。失望もそうです。望みはあったのですが、その望みが何処にあるのか分からなくなっただけのことです。決してなくなったのではないのです。私たちの目から見れば消えてなくなったように思えますが、神の目から見れば決して消えてなくなったわけではないのです。
 では、その希望を取り戻すにはどうすれば良いでしょうか。今午前の祈祷会では申命記を学んでいます。この申命記の主題は何回も話していますが回顧と展望です。すなわち、今までの歩みを振り返って神の導きに目を留め、今後の歩みを見通すというものです。私たちが生きています現実社会には、見える部分と見えない部分があります。見える部分というのは、自分が知っている事柄です。見えない部分というのは、自分が知らない事柄です。ついつい私たちは、自分が知っている事柄の中で判断してしまうのではないでしょうか。その自分が知っている事柄の時に、知らない事柄が同時に並行して進んでいるのです。
そのことをよく表しているのが民数記11章です。この箇所は、イスラエルの民がエジプトを出て荒野での生活を強いられている時のことです。イスラエルの民は神が天から与えてくださっているマナに飽きてしまいました。そして「肉を食べたい」とモーセに不満をぶつけました。すると、神はモーセに「明日に備えて身を聖別しなさい。あなたがたは肉を食べられる。」と告げられたことが18節に書かれています。そして、翌日イスラエルの民は飛んで来たうずらの肉を食べることができたのです。これは翌日神が奇蹟をもってイスラエルの民の前にうずらを出されたのではありません。うずらは渡り鳥です。アフリカから北の方に飛ぶ時季だったのでしょう。イスラエルの民が不満を訴えている時に、神はイスラエルの民のためにうずらを飛ばされていたのです。ただ、イスラエルの民はそれを知らなかっただけのことです。イスラエルの民が不満を訴えているというのは彼らの見える現実です。それと並行して、うずらがイスラエルの民がいる所に向かって飛んでいるのは、イスラエルの民が知らない見えない現実です。ですから、「見えない」とか「知らない」というのは「ない」ということではありません。私たちが気づかず知らない所で並行して進んでいる現実もあるのです。私たちは、その見えない現実は知りませんが、神は御存知なのです。
 私たちが知らないことを御存知なる神、私たちの想像を超えてことをなされる神。その神を聖書は示しているのです。その神が私たちといつも共にいて導いてくださいますから、私たちはその神の望みを持つことができるのです。そして、その望みはどのようなことがあっても決してなくなるものではありません。「何故神が私たちをそこまで愛してくださるのか」と言いますと、私たちに決してなくなることのない希望を持たせるためです。

結)
 神は私たちを特別な思いで愛してくださっています。それを行動をもって、イエス・キリストの十字架による死と復活を通して明らかにしてくださいました。それは私たちが永遠のいのちを持つためです。いつもどのような時も神に期待して生きることができるためです。その神の愛に包まれ生かされていることを覚えて歩まされていきましょう。

ヨハネ3:9~15「新生の約束」  18.09.09.

序)
 先週の金曜日に、JBC愛知地区祈祷会が当教会を会場として行われました。先週の日曜日に、知多教会ではバプテスマ式が行われました。ずっと祈りの課題として挙げられていた方が受けられました。バプテスマとは、イエス・キリストを信じたことを公に告白する儀式であり、礼拝でも話しましたが神への誓いの儀式でもあります。それは新しく生まれ変えられたことを表しています。今朝は、その新生の約束について共に教えられたいと願っています。

1) 神の働きを知る
 新生の約束の第1は、神の働きを知ることができます。ニコデモは神を信じる人でした。しかし、その信仰は自分の知識や経験を通して理解しようとする信仰です。そのような信仰は、納得しないと信じられない信仰でもあります。さらに言いますと、行いを重視する信仰です。行いは目に見える形として表れます。見える形として表れるものは納得できやすいものです。逆に言えば、納得できないものは信じられないということでもあります。ニコデモは9節で「どうして…あり得るでしょうか。」と、イエス・キリストに尋ねています。
 何故、このようなことを尋ねているのかと言いますと、今までイエス・キリストは「人は御霊なる神の働きによって新しく生まれ変えられる」と話されてきました。新しく生まれ変えられるというのは、神から罪の赦しを受けるということです。神から罪の赦しを受けるということは、神の審きから救われるということでもあります。その神の救いは、人の行いによるものではなく御霊なる神の働きによるものであることをイエス・キリストは話されていました。それは人の行いによって神の救いを受けるのではなく、神の一方的な憐れみによるものであることを表してもいます。今まで品行方正な歩みをしていた人が神の救いを受けるのではなく、今まで悪さをしていた人が神の救いを受けるというのには納得できるものではないものです。でも、それが神の救いであり、神の働きなのです。ニコデモは、そのことに納得できないから9節で「どうして…あり得るでしょうか。」と尋ねたのです。
 このニコデモの姿を見るとき、それはイエス・キリストを信じる前の私たちの姿でもあったことに気づかされるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じる前の私たちもそうでしたが、人は理解しようとしてしまいます。でも、神は私たちに理解することを求めてはおられません。神が私たちに求めておられるのは信じることです。では、何を信じるのでしょうか。皆さんは何を信じておられるでしょうか。イエス・キリストの十字架による救いでしょうか。それとも、十字架による死と復活でしょうか。それだけを信じているのでしょうか。そうではないと思います。私たちが信じているのは、神のみことばによる約束です。それは救いだけでなく、救われた後の人生の歩みについても信じているのではないでしょうか。
 神は私たちの理解を超えたお方です。私たちが想像もしない方法を用いて、私たちの歩みを導くことのできるお方です。私たちは自分の尺度で、自分が理解できる範囲の中で物事を考えてしまいます。それは仕方のないことです。それは悪いことではありません。でも、神はその私たちの尺度や理解の範囲を超えたお方なのです。ローマ8:28に「     」と書かれています。ここで注目したいのは「すべてのことがともに」ということばです。今までは「神がすべてのことを」と「神」が主語でした。でも、今の聖書は「すべてのこと」が主語として用いられています。何故こちらが採用されたのかは分かりません。しかし、その背後に神が働かれているのは確かなことです。そして、「すべてのことがともに」ということは、「益でないと思える事柄も共に」ということでもあります。それは「益でないと思える事柄にも神が働いてくださっている」ということではないでしょうか。私たちは様々な事柄に直面します。「何故こんな目に遭わなければならないのか」と思えることもあります。しかし、そのような事柄を通して神は益としてくださいます。それが神の働きでもあります。新しく生まれ変えられますと、そのことを知ることができるのです。

2)神に用いられる器とされる
新生の約束の第2は、神に用いられる器とされるということです。11節でイエス・キリストは「わたし」ではなく、「わたしたち」と話されています。この「わたしたち」とは、父なる神や聖霊なる神のことではありません。イエス・キリストを信じ従って行こうとする人たちのことです。このとき、イエス・キリストを信じる群れが形成されつつありました。そのイエス・キリストの群れに属する人を含めた「わたしたち」ということです。
この11節でイエス・キリストのから「証し」ということばが出ています。証しというのは知っていることや見たことを話すことです。ですから、知らないことや見たことのないものまでも話す必要はないのです。ともすると、私たちは証しを難しく考えてしまいやすくなります。何か人に感激を与えたり、感動させたりしなければならないように思えたりもします。ですが、そうではありません。人を感激させたり感動を与えようとして、経験していないものまでも話すのは証しではなく作り話です。証しというのは、自分が知っていることや経験したことを話すだけで良いのです。1章に登場しましたピリポがそうでした。ピリポはイエス・キリストと出会い、イエス・キリストを信じました。そして、ピリポはナタナエルを見つけて、「     」と話したことが45節に書かれています。これはピリポの証しでもあります。すると、ナタナエルはピリポに「     」と言い返したことが46節に書かれています。そのナタナエルのことばに、ピリポは答えることができませんでした。聖書知識においては、ピリポよりもナタナエルの方が豊富だったのです。それでピリポがしたことは何でしょうか。46節の最後に「来て、見なさい。」と言って、ナタナエルをイエス・キリストの所に連れて行ったのです。ピリポは、自分が知らないことまでも話そうとはしませんでした。論より証拠というように、イエス・キリストの所に連れてきたのです。これが証しです。先程も話しましたように、証しとは人に感激や感動を与える必要はありません。知っていることを話したり生きることです。それを神は用いてくださいます。
 そのような証しは、イエス・キリストを信じている私たち一人ひとりにもできることです。確かに「知らないことを聞かれたらどうしようか」と不安になることがあります。以前にも話しましたが、もし知らないことを聞かれたら、「調べて後で答えます」で良いのです。そして、自分で調べたり知っている人に聞けば良いのです。その後で返事をすれば良いのです。それが「誠実さ」ということの証しとして用いられます。ですから、証しというのはイエス・キリストを信じた人は誰にでもできることです。何故なら、自分のことを話せば良いだけのことだからです。
11節の最後に「あなたがたは…受け入れません。」と話されています。これは証しを通して受け入れる人が少ないことを表してもいます。このことから教えられるのは、「私たちは自分の証しを通して、信じる人が起こされるのを神は求めておられるのではない」ということです。自分の証しを通して信じる人は少ないかもしれませんが、それでも証しし続けることを神は私たちに求めておられるのです。何度も話していますが、神は私たちに結果を求めておられるのではなく、今の私たちが成すべきことを実践するのを求めておられるのです。そして、その証しを神は用いてくださいます。それがどれくらい後になるのかは分かりませんが、神は必ず用いてくださいます。ですから、イエス・キリストを信じ新しく生まれ変えられた人は、誰でも神に用いられる器とされているのです。

3)生きる者とされる
 新生の約束の第3は、生きる者とされるということです。13節でイエス・キリストは「     」と話されました。13節に書かれています「人の子」というのはイエス・キリストのことです。イエス・キリスト以外に誰も天に上った人はいません。まだこの時のイエス・キリストは天に上られていませんから「人の子は別です」と話されたのでしょう。14節の前半で話されていますのは、民数記21:4~9のことです。これはイスラエルの民がモーセに不満を言ったとき、神は燃える蛇を送られ、その蛇はイスラエルの民に噛みつきました。すると、「噛まれた人の多くの者が死んだ」と書かれています。この「燃える蛇」というのは、神の審きでもあります。イスラエルの民は自分たちの罪を認め、モーセにとりなしを求めました。そして、モーセは神にとりなしたとき、神はモーセに「燃える蛇を作り、旗ざおの上に付けよ」と命じられました。モーセは蛇を作って旗ざおの上につけて、その旗ざおにつけられた蛇を仰ぎ見るように求めました。そして、そのモーセのことばを信じて旗ざおの上につけられた蛇を見た人は、蛇に噛まれたけれども生きることができました。
 先ほど、「燃える蛇は神の審きでもある」と話しましたが、もう一つの意味があります。それは神のみことばを信じる人は救われるというものです。モーセが作った蛇を見るだけで癒されるというのは信じ難いことです。「薬を作って塗ってもらったり飲んだりすれば癒される」というのなら信じやすいです。何故なら納得することができるからです。でも、神は私たちの納得や理解を求めてはおられません。ただ、神のことばを信じることを求めておられるのです。それは罪の赦しについても同じです。
 人は「神の赦し」と聞くと、「何か良いことをしなければならない」と思ってしまいやすくなります。そして、「神の約束を信じるだけで良い」ということがなかなか信じられないのです。何故でしょうか。それは先週の礼拝でも触れましたが、私たちの中に「自分の常識」というものがあるからです。神は私たちの罪を赦すために、イエス・キリストをこの世に誕生させてくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架につけて審いてくださいました。そのことを信じるだけで良いのです。神はご自分のみことばによる約束を信じるだけを求めておられるのです。
 何のために信じることだけを求めておられるのかと言いますと、その答えが15節の最後に書かれています。それは永遠のいのちを持つためです。では、永遠のいのちとは何でしょうか。決して無くなることがなく、いつまでも生きられることでしょうか。それもあると思います。天の御国に入って神と共に生きることでもあるでしょう。先程触れましたモーセの蛇の話しですが、そのことが民数記21:4~9に書かれています。そして、8節の最後には「それを仰ぎ見れば生きる」と書かれています。「癒される」とか「治る」ではなく「生きる」と書かれているのです。不思議ではないでしょうか。「生きる」とは、「可能性がある」ということです。死んだら可能性はなくなってしまいます。そして、「可能性がある」ということは、「希望がある」ということでもあります。ですから、「永遠のいのち」とは「天の御国に入る」ということだけでなく、「決してなくなることのない希望」とも言うことができます。ですから、15節の最後に話されていますことは、「イエス・キリストを信じる者はみな、イエス・キリストにあって決してなくなることのない希望を持つ」ということでもあるのです。イエス・キリストによって新しく生まれた人は、決してなくなることのない希望を持つことが約束されているのです。これが新生の約束の第3です。

結)
 イエス・キリストによって新しく生まれた人は、「マイナス」と思えるような事柄を通して行われる神の働きを知ることができます。また、「このような者でも用いられる」という神の器とされていることを知ります。さらに、決してなくなるこのない希望を持つことができますでしょうか。イエス・キリストは、私たちにそれらを与えるためにこの世に来てくださったのです。私たちがイエス・キリストによって新しく生まれ変えられたことに感謝しつつ歩まされていきましょう。

ヨハネ3:1~8「新しく生まれ変わる」 18.09.02.

序)
先週の月曜日~水曜日にかけて、私たちの教会が属しています団体の教職者家族リトリートが行われました。その2日目のディボーションのグループ別分かち合いのときの質問に、「あなたは体の一部としたら、どこの部分だと思いますか?」という質問がありました。ある方が「以前に考えたことがあり私は爪だと思った」と話されました。それは「爪というのは必要とされていないようでも必要なものであるから」というものでした。私はその話を聞いて感動しました。そのように捉えられるということは、自分への見方が変えられたことであり、新しく生まれ変えられたことを表してもいます。今朝は、新しく生まれ変わるということについて、共に教えられたいと願っています。

1)自分の常識に囚われていた人
 まず、ニコデモという人は自分の常識に囚われていた人でした。このニコデモについて、聖書は「パリサイ人の一人で」と紹介しています。パリサイ人とは、聖書知識があり律法も厳格に守り行う人たちでした。非の打ち所がない人と言っても良いかもしれません。聖書に登場しますパリサイ人というのは、イエス・キリストに敵対する人が多いです。しかし、そのような中にイエス・キリストを尊敬していた人物がニコデモでした。そのような彼が何故イエス・キリストの所に行ったのでしょうか。考えられることは、どれだけ律法を守り行っても心からの平安を得ることができなかったからではないでしょうか。すなわち、心が満たされていなかったからではないでしょうか。
 先ほども触れましたように、ニコデモはパリサイ人ですから律法を厳格に守り行っていたと考えられます。宗教儀式においても熱心だったことでしょう。でも、心が満たされなかったのです。律法を厳格に守り行う、また宗教儀式を熱心に行うというのは、全てその人の行いによるものです。どれだけ良い行いをしても、行いによっては心を満たすことはできないのを聖書は示しています。これは現代においても同じです。人はどれだけ良い行いをしても、自分の心を満たすことはできません。これは行いだけでなく物質的なものも同じです。行いや物質的なものでは人の心を満たすことができないのです。自分の心が満たされていないニコデモは、イエス・キリストがなされていたことを通して、「心が満たされる方法を御存知ではないか」と思い、イエス・キリストがおられる所に伺い尋ねました。
 すると、イエス・キリストは3節で「     」と話されました。このことを聞いたニコデモは、4節で「     」と尋ねました。「新しく生まれる」ということばを、ニコデモは「赤ちゃんから生まれなければならない」と受け取ったのです。ニコデモは律法を守り行うことや宗教儀式を行うことに熱心に歩んできた人です。ですから、それが彼の常識になっていたのです。常識になっていますから、その枠から出られないでいたのです。そのようなことは私たちにもあります。例えば、以前に礼拝後に掃除機を私がかけていました。すると、ある方が私に「丁寧ですね」と言われたのです。しかし、私にとっては当たり前のことであって丁寧にしているつもりはなかったのです。私にとっては、それが普通だったのです。普通というのは常識ということでもあります。でも、その人には普通ではなかったのです。私はその視点で掃除とか片づけを見てしまいます。その視点から出られないのです。私たちは、その自分の常識という枠からなかなか出られないのではないでしょうか。ニコデモもそうだったのです。彼は律法を守り行うことや宗教儀式を熱心に行う生活の中で生きていた人でした。ですから、行いを大切にすることが自分の常識だったのです。その自分の常識に囚われていたのです。

2)周りの目を気にする人
 次に、ニコデモという人は周りの目を気にする人でした。2節に「夜」ということばが書かれています。この「夜」ということばは、書かれていなくても文章としては問題ありません。なのに、わざわざ「夜」という文字を入れたのには、そこに著者の何らかの意図があるからと考えられます。当時は電気など通じていない時代です。夜になると月の明かりくらいしかありません。あとは、自分で灯を照らすくらいです。ですから、夜に人が出歩いて他人に見られたとしても、その人が誰であるかは分かりにくい時代です。暗い時間にニコデモがイエス・キリストの所に行ったのは、他の人に見られたくないからだと考えられます。何故なら、ニコデモはパリサイ人です。パリサイ人はイエス・キリストを受け入れてはいません。むしろ、イエス・キリストに敵対している人たちです。そのようなグループの一人である自分がイエス・キリストの所に行ったことが知られると、同じパリサイ人から何を言われるか分かりません。ニコデモは誰にも知られたくなかったのでしょう。彼は周りの目を気にする人でもあったのです。
 周りの目を気にするというのは、誰にでもあることではないでしょうか。特に、私たち日本人は周りの目を気にするというのが強いのではないでしょうか。それが何時からなのかは分かりませんが、遅くとも江戸時代にはそうなりました。それは5人組という制度です。キリスト教を迫害するために、5人組というものを作り、組内にキリスト教徒が出ないようにしていました。もし、組内にキリスト教徒がいたら組全員が処罰を受けなければなりません。見方を変えれば、組の人に監視されているようなものです。そのような制度が250年以上続いたのですから、制度から習慣になっても不思議ではありません。ですから、今も昔から存在する町はキリスト教に抵抗を覚えるのではないでしょうか。それは「処罰を受ける」というよりも、今までの伝統的風習が損なわれるというものかもしれません。
 ニコデモはヨハネの福音書だけに登場します。3章以外に7章50節と19章39節に、ニコデモの名前が書かれています。しかしながら、何処にもニコデモがイエス・キリストを信じる告白をしたことは書かれていません。信じているようにも受け取れますが信じる告白は書かれてはいないのです。このことから、「イエス・キリストを信じてはいたけれども、信仰告白までには至っていなかった」と考えることができます。信仰告白に至らなかったのは、周りの目を気にしていたからかもしれません。或いは、「19章39節の行為自体が信仰告白である」と捉えることもできます。ですが、今朝の個所の3章の時点では、イエス・キリストに興味はあったけれども、周りの目を気にしていたのは確かなことではないでしょうか。

3)新しく生まれるとは
ニコデモは自分の常識に囚われ周りの目を気にする人でした。だからイエス・キリストのしるしに関心を寄せたのです。2節のニコデモのことばからそのことが分かるのではないでしょうか。それに対して、イエス・キリストは何と答えられたでしょうか。3節に「     」と書かれています。イエス・キリストが答えられたのは「新しく生まれる」ということです。この「新しく生まれる」ということに対して、ニコデモは4節で「     」と言いました。ここでも自分の常識の中で捉えようとしています。
では、新しく生まれるとはどういうことでしょうか。イエス・キリストは5節で「     」と話されました。この「水と御霊によって生まれる」というのは、自分の罪を悔い改めて罪の赦しを受けることを表しています。ローマ6:3~4に「     」と書かれています。ここにはバプテスマについて語られています。バプテスマというのは、罪の中を歩んでいた古い自分は死に、罪の赦しを受けて御霊なる神が内に住んでくださり新しい自分として生きることを表すものです。では、どのようにしたら古い自分は死ぬのでしょうか。それは自分の罪を悔い改めることによってです。悔い改めるというのは、神の愛を知ることによって、イエス・キリストを信じる前と正反対の生き方をするのを決心することです。これが聖書の語る悔い改めです。
また古い自分が死ぬだけでなく、新しい自分として生きることも大切です。新しい自分として生きるには、福音を信じることです。福音を信じるとは、神のみことばによる約束を信じることです。それは「私の罪のためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架に架かってくださり、神の審きを受けてくださったことによって私の罪は赦される」という神の約束を信じることです。悔い改めて福音を信じることによって、人は新しく生まれ変えられるのです。それがバプテスマの意味です。先週の礼拝でも触れましたように、それはイエス・キリストを信じたことの神への誓いでもあります。
 古い自分が死に、新しい自分として生きるというのは、5節で話されています水と御霊によって生まれることでもあります。これはイエス・キリストがバプテスマを受けられたときのことを表してもいます。マルコ1:10に「     」と書かれています。御霊がその人の中に下られるということは、その人の中に神が住んでくださることを意味しています。神が住んでくださる所は、聖なる所であり神の宮です。自分の目からではなく、神の目から見てその人は聖められ新しく生まれ変えられるのです。人は御霊の助けなしによって新しく生まれ変わることはできないのです。
 ニコデモは自分の常識に囚われ、見えるものに目を留めてしまう人でした。私たちも見えるものに目を留めてしまいます。そして、見える自分を見るとき、何も変わっていないように見えてしまいます。しかし、それは自分の目から見た自分です。神の目から見たあなたは、新しく生まれ変えられ神の宮とされているのです。

結)
 新しく生まれ変わるというのは、自分の罪が赦され心が聖められ、御霊なる神が内に住んでくださることです。これは決して自分の行いによって得られるものではありません。神のみことばを信じることによって得られるものです。「信じる」というのは、決して目で見えるものではありません。でも、それが神の約束なのです。その神の約束を信じ、今の自分が新しく生まれ変えられたことに感謝しつつ歩まされていきましょう。

ヨハネ2:12~25「神の宮」 18.08.26.

序)
愛知県は、神社の数では全国4位であり、寺院の数では1番多い県です。また、キリスト教などすべての宗教団体を含めた数も愛知県が1位です。以前住んでいました稲沢には国府宮神社があり、はだか祭のときには多くの人で賑わいます。イエス・キリストがエルサレムに行かれ宮に入られたとき、過越しの祭りが近づき大勢の人で賑わっていました。その中で、イエス・キリストは商売人や両替人を追い出されました。何故、そのようなことをされたのでしょうか。今回は宮きよめを通して、神の宮とは何かを共に教えられたいと願っています。

1) 神の宮は聖なる所である
 まず、神の宮は聖なる所です。その宮の中で牛や羊やハトが売られていたのです。日本で言えば「境内」と言うことができると思います。何故、そのようなものが売られていたのでしょうか。それは犠牲を献げるためです。犠牲については、傷のないものを献げることが律法で規定されています。申命記14:24~26に「     」と書かれています。「主が御名を置くために選ばれた場所」とは、聖所のことで幕屋が建てられている場所です。イスラエルの民はカナンの地に入り、エルサレムに幕屋を建てましたが、後にソロモンが神殿を建てました。ですから、エルサレムに建てられている神の宮が「主が御名を置くために選ばれた場所」なのです。ですが、エルサレムから遠い所から犠牲を献げるために、家畜などと一緒に旅立ちますと時間もかかり費用もかかります。また、途中で家畜がケガをして傷ついてしまうかもしれません。でも、神の宮で売られている家畜なら、傷つくこともありませんし、旅路も楽で経済的です。それらのことがあって、神の宮の中でこれらのものが売られていたと考えられます。また、外国から来たユダヤ教の人は、自分が住んでいる外国のお金しか持っていません。イスラエルにはイスラエルのお金がありますから両替する必要があります。外国から来た人が両替をして、売られている犠牲にする家畜を買うことができます。これらがあることによって、多くの人は助かっていました。
それなのに、何故イエス・キリストは彼らの行為に対して怒られ追い出されたのでしょうか。それは、彼らが神の宮を商売の家にしていたからです。犠牲を売ることも、両替をすることも神への奉仕の一つです。ですから、それ自体が悪いわけではありません。「商売の家にしていた」ということは、営利目的で行っていたということです。神への奉仕が目的ではなく、利益を得ることを目的としていたのです。当然、場所の使用料として利益の一部を支払っていたかもしれません。ですが、利益を得ることを目的として神の宮を利用していたのです。これは奉仕とは言えません。結果として利益を得ることは悪いことではありません。しかし、何よりも利益を目的とするなら間違っています。
昔、ある先生が「教会でバザーをするのは商売をすることだから良くない」と話されていました。私はそれを聞いて、「それなら教会での英会話教室も良くないのではないか」と思いました。何故なら、授業料としてお金を徴収するわけですから。「英会話教室は良くて、教会バザーは良くない」というのは間違っているように思います。利益を得ることを目的とするなら間違っていますが、伝道のためにするなら間違ってはいないのではないでしょうか。ただ、私たちの教会の会堂も営利目的で行うことに注意したいものです。何故なら、教会は聖なる所だからです。

2) 神が住まわれる所
 第2に、神の宮は神が住まわれる所です。商売人たちを追い出されたイエス・キリストに対して、ユダヤ人は「こんなことを…見せてくれるのか。」と詰め寄りました。ユダヤ人たちは、「このようなことをするのは神から遣わされた者にしかできないのだから、神から遣わされたものであることのしるしを見せてほしい」というのです。それに対して、イエス・キリストは19節で「この神殿を…よみがえらせる。」と答えられました。ある方は、このみことばを読まれて「えっ」と思われるかもしれません。何故なら、今までの聖書は「三日でそれを建てよう。」と訳されていたからです。どちらかと言えば、今の聖書の方が直訳的です。例えば、5:21に「父が死人をよみがえらせ」と訳されています。以前の聖書は「父が死人を生かし」と訳されていました。この「生かす」と訳されていたことばと、「建てる」と訳されていたことばは同じことばです。現在の聖書は統一して「よみがえらせる」と訳しているのです。何故、そのように訳したのかと言いますと、おそらく21~22節を分かりやすくするためだと思われます。
 イエス・キリストは十字架に架けられて死なれ墓に葬られましたが、3日目に死から甦られました。これは神の宮がイエス・キリストご自身であることを意味しています。神の宮は神を礼拝する場所ですが、同時に神が住まわれる所でもあります。出エジプト記25:8に「     」と書かれています。神殿が建てられる前は幕屋でした。その幕屋を造ることを神は命じられ、そして、その幕屋の中に住むことを宣言されています。ですから、神の宮は神が住んでおられる所です。そして、神が住んでおられるということは神が共におられるということです。そして、ヨハネ14:16~17には「     」と書かれており、聖霊なる神が住んでくださることが約束されています。さらに、Ⅰコリント3:16には「     」と書かれています。イエス・キリストを信じた人の身体は宮そのものであることが書かれています。何故なら、神が内に住んでくださっているからです。
 ユダヤ人は神に対する思いよりも、自分たちの便利さや利得の方を優先していました。イエス・キリストは、そのようなものを受け入れられませんでした。そのことを覚えてイエス・キリストの行動を見るとき、一つのことに気づかされます。それは、自分の身体を自己満足のためだけに用いてはならないということをです。確かに、私たちは楽しむことがあります。それは自己満足のためなのかもしれません。「それが悪いことである」というのではありません。自己満足のために楽しむことも大切なことです。ただ、いつも自己満足のためだけであるなら、今朝のユダヤ人と同じではないでしょうか。イエス・キリストを信じる者の中には神が住んでくださっています。そして、神が住んでくださっているのであるならば、私たちの身体は神の宮です。そのことを覚え言動に気をつけていきたいものです。

3) 信じた時から神の宮となる
 では、いつから私たちの身体は神の宮となるのでしょうか。クリスチャンでない方の中には、「クリスチャンにあるには毎週礼拝に出席したり、毎日祈ったり、毎日聖書を読んだりして実行することによって」と考えておられる方がおられます。それに対して、聖書はどのように語っているでしょうか。エペソ2:8~9には「     」と書かれています。ここでは、「行いによって救われるのではなく、信じる信仰によってである」と語られています。また、ローマ10:9~10には「     」と書かれています。「口でイエスを主と告白し」というのは、信じたことを公にするということです。心の中で信じるだけでなく、その信じたことを公に告白することによって救われるのです。ルカ9:26に「     」と書かれています。ここはイエス・キリストが弟子たちに話された箇所です。すなわち、イエス・キリストを信じている人に対して話された箇所です。ここで「わたしとわたしのことばを恥じるなら」と言われています。心の中で信じてはいても、それを公に告白しないならイエス・キリストは「恥じる」と言われたのです。イエス・キリストが求めておられるのは、心の中で信じるだけでなく口を通して公に告白することなのです。
 バプテスマを受けることによってクリスチャンになるのでもありません。Ⅰペテロ3:21の最後に書かれていますように、バプテスマはイエス・キリストを信じたことの神への誓いなのです。そのように聞かれますと、「バプテスマを受けることによってクリスチャンになるわけはないならバプテスマを受ける必要もないのではないか」と思われるかもしれません。しかし、そうでもありません。イエス・キリストは、信じた人がバプテスマを受けることを願っておられます。ですから、信じたらバプテスマを受けることは大切なことです。ただ、「バプテスマに特別な力がある」というのではないことを知っていただきたいのです。
 11節の最後に「それで、弟子たちはイエスを信じた。」と書かれています。弟子たちは理解したのではありません。信仰は理解することではありません。また、弟子たちの信仰は完璧なものでもありませんでした。22節に「     」と書かれています。弟子たちは、「イエス・キリストが甦られた後に、イエス・キリストが話されたことばの意味が分かって信じた」と書かれています。信仰というのは成長するものです。それは人間の成長と同じです。ですから、幼い信仰が悪いわけではありません。幼い信仰のままだと問題です。人間も赤ちゃんのままだと問題です。人間が成長するのと同じように、信仰も成長していくものなのです。信仰の成長は人によって異なりますが、幼い信仰が悪いわけではないのです。大切なのは、幼いものであったとしても信じることです。そして、信じることによってキリスト者になれるのです。そして、キリスト者になったときに、神がその人の内に住んでくださるのです。神がその人の内に住んでくださるということは、その人の身体が神の宮にされたということです。ですから、イエス・キリストを信じたときに、その人の身体は神の宮とされるのです。聖書知識が乏しくても良いのです。祈ったことがなくても良いのです。イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって十字架に架かって神の審きを受けてくださり、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって罪が赦され神の審きから救われる」と信じ告白するなら、その人の身体は神の宮とされるのです。

結)
 イエス・キリストを信じるなら、その人の身体は神の宮とされます。だからこそ、私たちの身体は聖さを保ち続ける必要があるのです。何故なら、神は聖なるお方だからです。この「聖」というのは、「区別する」という意味です。キリスト者は、神によってこの世から区別された存在なのです。そして、「区別される」ということは「選ばれる」ということでもあります。さらに、「選ばれる」ということは「目的がある」ということです。神は目的をもって私たちを選び聖なる者としてくださったのです。それは神のすばらしさを現すためです。私たちがどのようにして、神のすばらしさを現していくかを考える必要があるのではないでしょうか。その知恵が増し加えられるように祈っていきましょう。最後に、ローマ12:1~2をお読みします。

ヨハネ2:1~11「神の働きに目を留めて」 18.08.19.

序)
夏季休暇をいただき、私たちは岐阜県の飛騨地方に2泊3日の旅行をしました。もちろん、五右衛門も連れての旅行です。8日にパラグライダーに乗る予定でしたが、台風の影響で中止となりました。そのため、宿泊するペンションにチェックインしたあと、飛騨の里を散策しました。そして、朝市見物のための駐車場チケット1時間分をペンションからいただいたので、その駐車場を探しに行くこととしました。その途中で知り合いの牧師が高山の教会で牧会されていますので、その教会を見ようと前を通り過ぎる予定でした。ところが、知り合いの牧師が外で作業をされていましたので、Uターンしてお会いしました。30年以上お会いしていなかったと思います。久しぶりの再会でしたが、「外で作業されておられたのも神様の備えなのかな」と思わされました。今朝は、カナの婚礼でなされたイエス・キリストのみわざを通して共に教えられたいと願っています。

1) 神の時
 まずカナの婚礼でのしるしから、神の時があることを知らされます。イエス・キリストは、弟子たちを連れてガリラヤ地方のカナという町に来られました。それは、そこで行われる結婚式にイエス・キリストも招かれていたからです。その結婚式には、イエス・キリストの母であるマリアも出席していました。ひょっとしたら、マリアは手伝いのために来ていたのかもしれません。結婚式ですから沢山の人が列席します。当時のユダヤ人の宴会は1週間ほど続くものでした。ですから、お酒も沢山用意しなければなりません。ですが、その婚礼での宴会も終わりに近づいた頃、ぶどう酒がなくなりました。お酒がなくなるというのは恥ずかしいことでもありました。すると、イエス・キリストの母マリアは、イエス・キリストに酒がなくなったことを伝えました。「イエス・キリストなら何とかしてくれる」と思ったのかもしれません。ですが、イエス・キリストの返事は「女の方…まだ来ていません。」という素気のないものでした。何か冷たい返事のようにも受け取れます。
 この「わたしの時」とは、イエス・キリストが十字架に架かられる時のことです。すなわち、イエス・キリストの十字架による死と復活です。これが神の栄光が現されるしるしです。ここで、少し「時」について見てみたいと思います。伝道者の書3章には、全ての営みには時があることが記されています。神が定められた時があるのです。この箇所には、人の目から見ればプラス的なものもマイナス的なものも神が定められた時があることが書かれています。良いことだけに神が定められた時があるのではなく、良くないことにおいても神が時を定められているのです。私たちは自分にとってプラス的なことがありますと神に感謝します。しかし、マイナス的なことがありますと「何故」と言ってしまいやすくなります。そのようになってしまうのは仕方のないことかもしれません。何故なら、それが私たちであり人間だからです。
 しかし、神は人の想像を超えたお方です。「何故」と思えるマイナス的な事柄を通しても、すばらしいことができるお方です。実は、「何故」と思えるような事柄の中に神の栄光が現されるものがあるのではないでしょうか。特に、11節の「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」というみことばから、そのことを考えさせられるのではないでしょうか。この「美しい」とは「グッドタイミング」という意味です。「もうこれ以上ないほどのタイミング」ということです。しかし、マイナス的な事柄に遭遇しているときは、そのようなことが分かりませんし、考えることもできないのが事実ではないでしょうか。ですが、見えないところで、私たちが知らないところで、神は備えてくださっているのです。そして、一番良い時に一番良い方法で事を行ってくださるのです。このカナの婚礼のしるしから、神の時があることを知らされるのではないでしょうか。

2) 本当の聖めはイエス・キリストの血によるもの
 次に、このカナでの婚礼のしるしから、本当の聖めはイエス・キリストの血によるものというのを知らされます。6節に水がめが6つ置かれていることが書かれています。この水がめは、聖めのしきたりによるものであることが説明されています。ユダヤ人は、日々汚れとの戦いをしていました。そのことがレビ記11~15章に書かれています。「どのような生き物であれ、病気や自然で死んだものに触れると汚れる」と書かれています。当時は、今のような建物ではありませんでした。虫が出入りしやすい隙間だらけの建物です。ですから、気づかずに死んだ虫に触ってしまうということがあります。また、食物にも気を使います。汚れたものは食べないようにしています。
やまひこでバイトしていますと、多分イスラム教の方だと思いますが、時々豚肉や豚のエキスが入っていないかを確認される外国人がおられます。私が神学生の時、後輩の1人が献身する前にパキスタン大使館で働いていました。パキスタンはイスラム教徒の多い国です。ある日、数目で街を歩いていていたとき、彼はポテトチップスを買って一緒にいた大使館員らにも挙げました。彼らは「豚肉は入っていないか」と尋ねられましたが、彼は確認しないで「大丈夫だよ」と言って渡しました。その後に確認しますと入っていたのです。彼は心に痛みを感じ「はっきり言うべきかどうか」と悩んだらしいのです。そして「はっきり言うべきだ」と思って伝えました。すると、彼らは急いでトイレに走って吐き出そうとしたのです。彼はひたすら謝って赦してもらえたそうなのですが、「ここまでするとは思わなかった」と私に話しました。それだけ汚れに敏感なのです。それはユダヤ人も同じです。だから、汚れを聖める水を大切にしていたのです。
イエス・キリストは、その汚れを聖める水をぶどう酒に変えられたのです。それは、結婚された夫婦に恥をかかせないためではありません。イエス・キリストは、最後の過ぎ越しの食事のとき、ぶどう酒を「これはわたしの契約の血です」と言われました。ぶどう酒は、イエス・キリストの血を象徴しています。汚れから聖めるものは、水ではなくイエス・キリストの血であることを表しているのです。汚れたものに触って水で洗うのは表面的なことです。ですが、イエス・キリストの血は私たちの心の中の汚れを洗い聖めてくれるのです。レビ記16:15~19には、血による聖めについて書かれています。そして、19節の最後に「こうして彼は…聖別する。」と書かれています。
そして、Ⅰコリント11:25に「     」と書かれています。この箇所は聖餐式で毎回朗読される箇所です。イエス・キリストは、ぶどう酒を「わたしの血による新しい契約です。」と言われました。どのような契約かと言いますと、「イエス・キリストが十字架に架けられ流された血によって、イエス・キリストを信じる人の心は聖められる」という契約です。ですから、カナの婚礼で行われたしるしの第2は、聖めはイエス・キリストの血によることを表しているのです。

3) 神の働きを知るため
 最後に、カナの婚礼でのしるしは、神の働きを知るためです。このカナの婚礼でのしるしを通して何が生じたでしょうか。11節の最後に、「それで、弟子たちはイエスを信じた。」と書かれています。ここで行われたイエス・キリストのしるしは、弟子たちだけが知っていたのではありません。給仕の手伝いをしていた人たちも知っていたのです。ところが、聖書には「給仕の者たちが信じた」ということは全く書かれていません。このことから、給仕の人たちは信じなかったと考えられます。しるしを見て信じる人もいれば、見ても信じない人がいるということです。これは他の個所においても同じです。このことから、大切なのはしるしという奇蹟が行われるかどうかではないということを知らされるのではないでしょうか。
 一つの出来事を通して何を見るかが大切です。その出来事の中での神の働きを見るか、それとも表面的なものだけを見るかです。弟子たちは、その中に働かれる神を見たのです。弟子たちの信仰は完全なものではありませんでした。まだまだ未熟なものです。ですが、その時点から一歩踏み出したことは確かなことです。完全な信仰ではなくても、イエス・キリストを信じる決心をして、一歩踏み出すことによって、神はその人の信仰を成長させてくださいます。一つの出来事を通して何を見るかというのは、奇蹟のことだけではありません。日常生活の中においても言えます。何気ない出来事の中にも神の働きがあります。同じことの繰り返しの中にも神の働きがあります。私たちは、日々の生活の中で何を見ているでしょうか。表面的なものだけでしょうか。それとも、その背後に働かれている神を見ているでしょうか。そのことを考えさせられるのではないでしょうか。
 聖書が語る信仰とは、そのようなものではないでしょうか。私たちは見えるものに寄りすがりたくなります。何故なら、見えるから安心できるのです。しかし、神は目に見える方ではありません。ですから、その神を信じて寄りすがるというのは難しいものです。信仰とは、文字通り信じて仰ぐことです。仰ぐとは、「尊敬すべき対象として見る」という意味です。ですから、聖書の語る信仰とは、「これからの自分の人生の中で聖書の神を尊敬すべき対象として見て信じていく」ということです。これは大きな問題でもあります。何故なら、神は目に見えないお方だからです。しかしながら、「見えない」というのは「ない」ということではありません。見えなくても存在されるのが聖書の語る神です。その神は、見えませんが働いておられる方です。イエス・キリストはカナの婚礼でのしるしを通して、人が神の働きを知るためにされたのです。

結)
多くの人は、奇蹟というものに目を留めてしまいやすくなります。ですが、奇蹟が起こることが大切なことではありません。神の働きに目を留めることが大切なことなのです。そして、神の働きは奇蹟だけに起こるものではありません。日々の生活の中にも神の働きはなされています。その日々の生活の中に働かれる神のみわざに目を留める者とさせられたいものです。最後に、詩篇77:12をお読みします。

ヨハネ1:43~51「神の愛」     18.08.05.

序)
明日はゲートウエイチームを招いての英語集会が行われます。イエス・キリストを一人でも多くの人に伝えたいという思いで、わざわざアメリカから日本に来てくださっています。彼らはノースダコタから来られていますから、日本はとても暑いことと思います。チームの健康が支えられ、明日の集会に臨むことができるように祈っていただければと思います。今朝は、そのチームが伝えようとしているイエス・キリストとはどのような方であるかを共に教えられたいと願っています。

1)捜し見つけてくださる方
 まず、イエス・キリストは捜して見つけてくださる方です。アンデレとヨハネはバプテスマのヨハネの弟子でしたけれども、バプテスマのヨハネのことばによってイエス・キリストの御許に行きました。そして、イエス・キリストを信じバプテスマのヨハネの弟子から、イエス・キリストの弟子となりました。そのイエス・キリストは、自分の御許に来る人を待つだけの方ではありません。捜して見つけ出してくださる方でもあります。43節に「ピリポを見つけて」と書かれています。この「見つけて」というのは、先週見ました41節のアンデレが「兄弟シモンを見つけて」ということばと同じです。「これは偶然見かけたことではなく、捜して見つけ出すことを表すことばである」と先週話しました。アンデレがシモンを捜して見つけ出したように、イエス・キリストもピリポを捜して見つけ出されたのです。
 ルカの福音書の15章には放蕩息子の譬え話が書かれています。20節の中程に「ところが…彼を見つけて」と書かれています。弟息子は父親から財産の半分を受け取ったら、何日もしないうちに家を出て遠い国に旅立ちました。20節のことばから読み取れることは、それでも父親は毎日弟息子を捜し歩いていたということです。弟息子は裕福な家の息子でしたから、家を出るときは当時の流行の服を着ていたと考えられます。ですが、家に帰る決意をしたときは食べるのにも困り果てていたわけですから、服装もみすぼらしいものであったと考えられます。髪の毛も家を出るときはセットされていたかもしれませんが、帰ってくるときはボサボサだったでしょう。顔も真っ黒だったと想像できます。父親は家にいたときの息子の姿しか知らなかったことでしょう。でも、父親は弟息子が歩いているのを見つけて走り寄ったのです。弟息子がどれほど変わろうとも、父親は弟息子を一目で見分けることができたのです。「何故見つけることができたのか」と言いますと、それほど息子を愛していたからです。
 これは譬え話です。何を譬えているのかと言いますと、父親は神を表しており、弟息子は私たちを表しています。父親が弟息子をこれほど愛していたように、神は私たちをこれほど愛してくださっているのです。私たちは自分の決心で教会に来たかのように思えますし、自分の決心によって信じたように思えてしまいやすくなります。しかし、そうではありません。神が私たちを愛し探し見つけてくださったのです。私たちが教会に来たのは偶然でもなければ、自分の思いでもありません。神の導きによってなのです。確かに、私たちの心の中に「教会に行ってみよう」という思いが起きたのは事実です。それがなければ教会に来ることはありません。しかし、その思いを起こさせてくださったのは神によってです。そして、イエス・キリストを信じるようになったのも自分の決断によってと思いやすいですが、その思いを起こさせてくださったのも神によってなのです。神が私たちを捜し見つけ出してくださったから、私たちは教会に来てイエス・キリストを信じることができたのです。イエス・キリストは、私たちを捜し見つけ出してくださる方です。

2)全てを御存知なる方
 第2に、イエス・キリストは全てを御存知なるお方です。ピリポはイエス・キリストと出会い、そのイエス・キリストとの交わりを通して「救い主」と信じました。そして、今度は友人のナタナエルをイエス・キリストの所に連れてきました。このナタナエルという人は、別の福音書に書かれている「バルトロマイではないか」と考えられています。イエス・キリストはナタナエルと初めてお会いしましたが、このナタナエルのことを御存知でした。47節のイエス・キリストのことばは、ナタナエルに取り入るためではありません。当時のユダヤ人は、自分たちがアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民族であることに誇りを持っていました。そのこと自体は悪いことではありません。むしろ、良いことであり大切なことです。私たちも神の恵みによって選ばれ、神の子とされていることに誇りを持つのはすばらしいことです。
 昔、ある方が私に「未信者の友人に神の選びのことを話したら、『選ばれたことに優越感を持っているのか』と言われたけど、どのように話したら良いのか」ということを話されました。確かに、一般的に「選び」と言いますと、何かが優れているから選ばれたように受け取ります。ですが、神の選びはそうではありません。神の選びは「こんな者でも神の子・神の民とされた」ということに感謝するものです。自分が優れているから選ばれたのではなく、神の一方的な憐みによって選ばれたことに感謝するものです。
ですが、当時のユダヤ人はそうではありませんでした。自分たちが神の律法を守り行っているから選ばれたかのように錯覚していたのです。そのため、神の民としての誇りというよりも自惚れていました。ヨハネ8:33に「     」とユダヤ人がイエス・キリストに語ったことが書かれています。これは「自分たちは神の前において正しいものであり、過ちは犯していない」ということです。そのような人に対して、イエス・キリストは39節で「アブラハムのわざを行うはずです。」と話されました。「アブラハムのわざとは何か」と言いますと、自分の弱さを自覚し神に寄り頼む歩みのことです。もし、アブラハムが自分の弱さを自覚していなかったら、神に寄り頼む歩みはしなかったことでしょう。
 むしろ、神を否定していたのではないでしょうか。アブラハムのわざとは、自分の罪深さを認めて神により頼むことです。イエス・キリストは、ナタナエルを「まさにイスラエル人です」と言われました。これはナタナエルが自分の罪深さを認めて、神の救いを待ち望んでいたからです。ナタナエルという人は、いつも心を神に向けていたのです。イエス・キリストは、そのナタナエルの心を御存知だったのです。イエス・キリストは、人の心の中を御存知なるお方なのです。そして、私たちの心の中の全てをも御存知なるお方なのです。

3)大きな祝福を与えてくださる方
 第3に、イエス・キリストは大きな祝福を与えてくださる方です。ナタナエルは、自分のことを全て御存知であられるイエス・キリストに驚きました。そして、イエス・キリストを「神の子」と告白しました。自分のことを言い当てるというのは一つのしるしです。しかし、イエス・キリストは50節で「    」と話されました。これとよく似たことを、イエス・キリストはトマスに告げられました。そのことがヨハネ20:29に「    」と書かれています。これらは「納得したから信じたのですか」ということです。納得したから信じるというのは自分優先です。でも、イエス・キリストは自分が納得して信じるのではなく、イエス・キリストのことばを信じることを求めておられるのです。
 そのイエス・キリストの求めは、今日の私たちにおいても同じです。私たちはしるしなどを見ると驚き信じやすいものです。でも、私たちが信じるものは神のみことばによる約束です。ナタナエルは自分の罪深さを自覚していました。イエス・キリストは、そのナタナエルの心の中を見抜いておられました。そのイエス・キリストは、ナタナエルに「そのあなたの罪をなくし、正しい歩みをすれば大きな祝福が与えられる」とは言われませんでした。このときのナタナエルに、「それよりも…見ることになります。」と50節の最後で告げられたのです。この「大きなこと」とは神の祝福のことです。イエス・キリストは、ありのままのナタナエルを受け入れられていたのです。そして、ありのままの私たちをも受け入れてくださっているのです。いや、受け入れてくださっているだけでなく、大きな祝福を与えてくださることも約束してくださっているのです。
 この1章に登場しましたアンデレ、ヨハネ、ペテロ、ピリポ、ナタナエルは、特別な修行や良い行いをしたわけではありません。ただ、イエス・キリストと交わってイエス・キリストを信じただけです。そのイエス・キリストを信じるだけで、大きな祝福が与えられることが約束されたのです。ある人は「信じるだけで良いのなら簡単だ。でも、罪の解決はもっと難しく苦しいもの。」と言われます。これは赦される側が赦す方法を決めつけているのです。病人が病気の治し方を決めつけているのと同じです。病気の診断をするのは病人ではなく医師です。同じように、罪の解決は罪人がするのではなく神ご自身です。「神はイエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって十字架に架かってくださり、神の審きを受けてくださった」と信じることによって、その人の罪を赦すと約束してくださっているのです。大切なことは、自分の考えよりも神の約束を信じることです。
 イエス・キリストは、ナタナエルにさらに大きな祝福を約束してくださっています。それは何かといいますと復活のことです。人は死んで終わりではなく、死んだ後に甦ることができるということです。死は絶望ではなく、死んだ後にも希望があるのです。これは生き方が変えられるということです。どのようなときにおいても希望がなくならない生き方に変えられるということです。これが何よりも大きな神の祝福です。そして、イエス・キリストを信じるなら、その大きな神の祝福が与えられるのです。イエス・キリストは、その大きな祝福を与えてくださるお方なのです。

結)
 イエス・キリストは、私たちの全てを御存知であられるにも関わらず、私たちを捜し見つけ出してくださった方です。それだけでなく、どのような時であっても希望を持つ生き方へと変えてくださった方です。そこまでしてくださるのは、神が私たちを愛してくださっているからです。その神の愛に目を留めつつ歩まされましょう。

ヨハネ1:35~42「福音宣教の約束」  18.07.29.

序)
 一昨年発行されましたデータブックを見ますと、15年前と比べますと日本のキリスト教の礼拝出席者は減少しています。教会数と教会員数は増えているのですが、礼拝出席者が減少しているというデータが出ています。これは私たちの団体についても同じです。日本中の教会が福音宣教の働きに苦戦しているのが現状です。そのような中で、聖書は福音宣教についてどのような約束をしているでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)福音宣教の前進
福音宣教の約束の第1は、福音宣教の前進です。バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で多くの人にバプテスマを授けていました。多くの人がバプテスマのヨハネの所に来てバプテスマを受けていたということは、バプテスマのヨハネは多くの人から信奉されているということでもあります。そのバプテスマのヨハネは、イエス・キリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」と告白したのです。さらに、30~31節で「     」と告白しています。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示しており、そのイエス・キリストのことを「キリスト」と告白したのです。さらに、32~34節でもイエス・キリストを指し示していたのです。ですが、人々の反応はどのようなものだったのでしょうか。聖書には、誰かがイエス・キリストの所に行ったということは書かれてはいません。ということは、「誰一人行かなかったのではないか」と考えられます。
それはバプテスマのヨハネの弟子たちにしても同じです。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネを自分たちの先生として仰いでいるのです。その先生であるヨハネがイエス・キリストを指し示していたのに、イエス・キリストの所に行こうとはしなかったのです。そして、今朝の箇所でバプテスマのヨハネは再びイエス・キリストを見て、「見よ、神の子羊」と告白すると2人の弟子たちが反応してイエス・キリストの所に行ったのです。バプテスマのヨハネの弟子たちが何人いたのかは分かりません。「多くいたのではないか」と考えられます。しかし、反応したのは2人だけだったのです。この数字が多いのか少ないのかは分かりません。しかし、確かなことは福音宣教の繰り返しによってイエス・キリストの所に来る人が起こされたという事実です。
 バプテスマのヨハネは、ユダヤ人に対して福音を伝えていました。ユダヤ人は聖書を信じている人々です。それなのに2人の反応しかなかったということは、聖書に全く関心のない人の中からイエス・キリストの所に来る人の割合はもっと少ないということです。しかし、福音宣教を繰り返し行い続ける中で、必ずイエス・キリストを求める方々が起こされるということも事実であるというのを、私たちは今朝の箇所から見ることができるのではないでしょうか。バプテスマのヨハネは、繰り返しイエス・キリストを「神の子羊」と告白し続けました。それによって、彼の弟子たちの中からイエス・キリストの所に行く弟子たちが起こされたのです。このことは、現代の私たちにおいて大きな励ましとなるのではないでしょうか。福音宣教を続ける中で、イエス・キリストを求める人が起こされる割合は少ないものです。時には失望することがあります。しかし、福音宣教を繰り返し続けることを通して、必ず求める方々が起こされることを期待し、福音宣教を続けていきたいと願わされます。
 Ⅱテモテ4:2には「みことばを…しっかりやりなさい。」と書かれています。また、Ⅰコリント15:58には「堅く立って…励みなさい。」と勧められています。何に堅く立って動かされないのでしょうか。それは神の約束に堅く立つということです。Ⅰコリント15章では「復活の約束の上に堅く立って動かされないように」ということですが、それを今朝の箇所でならば「繰り返し福音宣教をすることによって必ず前進する」という約束の上に堅く立ちことではないでしょうか。時には「こんなことをして意味があるのか」「効果があるのか」と思ってしまうこともありあす。ですが、聖書は「無駄ではない」と語っています。私たちも神の約束の上に堅く立って、福音宣教のわざに励み続けていきたいと願わされます。

2)来る者を拒まれない
 福音宣教の約束の第2は、来る人を拒まないということです。バプテスマのヨハネの告白によって、彼の2人の弟子たちはイエス・キリストの所に行きました。1人はアンデレであり、もう1人はヨハネの福音書の著者であるヨハネと考えられています。2人がイエス・キリストの所に行くと、イエス・キリストが2人に「あなたがたは何を求めているのですか」と尋ねられました。「何故このようなことを尋ねられたのか」と思わされます。普通なら「よく来ました」ではないでしょうか。そして、自分に与えられた目的や使命、救いの方法などを話すのではないでしょうか。でも、イエス・キリストはそのようなことを話されませんでした。イエス・キリストが話されたのは、「あなたがたは何を求めているのですか。」と尋ねられたのです。それは、彼らの思いを告白させるためです。
 マルコ10:46~52には、盲人バルティマイとイエス・キリストとのやりとりが書かれています。イエス・キリストがエリコの町に着かれたというのをバルティマイが聞きますと、彼はイエス・キリストに「私を憐れんでください」と叫び続けたのです。それでイエス・キリストは、バルティマイを連れて来るようにと弟子たちに言われました。連れて来られたバルティマイに「わたしに何をしてほしいのですか。」と尋ねられたのです。盲人であるバルティマイがイエス・キリストに叫びつつけるのは、目が見えるように癒されるためです。それは分かり切ったことではないでしょうか。しかし、イエス・キリストは敢えて「何をしてほしいのか」と尋ねられたのです。それはバルティマイに告白させるためです。イエス・キリストがアンデレとヨハネに尋ねられたのも同じです。彼らはイエス・キリストに「どこにお泊りですか。」と尋ねました。これは「あなたの家でゆっくりと話したい」ということを示しています。イエス・キリストと交わりを持って、従う方であるかどうかを判断したいということです。
 イエス・キリストは御存知であられるのに、相手の告白を求めておられるというのは私たちに対しても同じです。イエス・キリストは、いつも私たちに「何を求めているのですか」と尋ねられています。それは、私たちの告白を待っておられるからです。神は何でも御存知なるお方です。ですから、私たちが告白しなくても御存知であられる方です。ですから、「言わなくても良いのではないか」と思ってしまいます。でも、それは間違った神観です。口に出して告白するのには決心が要ります。私より上の年代の方は、奥さんに「愛しているよ」と口に出すのに抵抗を感じる方が多いようです。そこには「恥ずかしい」とか「言わなくても分かっているだろう」という思いがあります。でも、女性の側は「言ってほしい」というのがあるようです。神もそうです。口に出すには決心が必要なのですが、神はその決心を待っておられるのです。
 アンデレとヨハネは、イエス・キリストとの交わりを求めました。すると、イエス・キリストは「来なさい。そうすれば分かります。」と2人を招かれました。イエス・キリストは、口で告白する人を決して拒むことはされません。ヨハネ6:37でイエス・キリストは「     」と話されました。最後の「わたしは決して外に追い出したりはしません。」というのは、「来る人を拒まない」ということです。イエス・キリストは、決心して御許に来られる人を決して拒まれる方ではないのです。これが福音の約束なのです。だからこそ、告白が必要なのです。ローマ10:8~11に「     」と書かれています。救いには告白が必要なのです。そして、その告白に対してイエス・キリストは決して拒まれることはありません。何故なら、それが福音宣教の約束だからです。

3)真の喜びが与えられる
 福音宣教の約束の第3は、真の喜びが与えられるということです。イエス・キリストと交わりを持ったアンデレは、彼の兄弟であるシモンを見つけて「私たちはキリストに会った」と話しました。この41節の「見つけて」というのは、捜し求めて見つけたことを意味することばです。ですから、アンデレはシモンにイエス・キリストのことを話すために捜していたのです。決して、「出会い頭にあった」とか「家に帰ったらシモンが居て会った」というようなことではありません。アンデレは、シモンにイエス・キリストのことを話したかったのです。それは本当の喜びを見出したからです。今まで待ち望んでいたキリストに会ったことの喜びです。これはアンデレの証しでもあります。
 証しというのは、自分が経験したことをそのまま話すことです。聞く側に印象強く与えるために脚色する必要はありません。アブラハムのしもべの証しが創世記24:33~48に書かれています。長いですので後で読んでいただきたいと思いますが、アブラハムのしもべは全く脚色しないで、そのままのことを話しています。そして、神はその彼の証しを用いられたのです。印象を強くして脚色しても、神が用いられないなら何の意味もありませんし、それは証しではなく作り話になってしまいます。
 アンデレは、イエス・キリストと出会って本当の喜びを見出したのです。ヨハネ1:4に書かれていますように、イエス・キリストはアンデレにとって光だったのです。そのイエス・キリストは、私たちにとっても希望であり光なる方です。イエス・キリストが希望や光とならないのは、的を外した反れた歩みをしているからです。それを聖書は「罪」と語っています。罪は私たちの心を閉ざしてしまい暗くさせてしまいます。どの方向に進めば良いかを分からなくさせてしまいます。真っ暗な所に立たされますと、人は方向感覚を失ってしまいます。それは心の闇についても同じです。そのような心の闇に、イエス・キリストは光を照らしてくださるお方です。イエス・キリストは、私たちの闇の心に光を差し込んでくださるお方なのです。だからアンデレは、その喜びを与えてくださったイエス・キリストのことをシモンに伝えようとして必死に捜したのです。そして、そのシモンをイエス・キリストの所に連れて行ったのです。42節に書かれていますが、そのシモンとはイエス・キリストの弟子であるペテロのことです。イエス・キリストは、私たちに本当の喜びを与えてくださる方であり、それが福音の約束でもあります。

結)
 私たちは、福音宣教が一気に前進することを願います。ですが、バプテスマのヨハネの弟子であれ、イエス・キリストの御許に行く人は少なかったのです。そのことを見るとき、福音の広がりは決して派手なものではないことを知らされます。確かに使徒の働きを見ますと多くの人数が信じたことが書かれています。それも事実です。でも、それだけでもありません。確かなことは、福音宣教は前進するということです。ただ一気に前進するか徐々に前進するかは様々です。ただ今朝の箇所と使徒の働きの福音宣教には共通点があります。それは福音に惚れていたということです。私たちは良い商品とか物を知ったとき他人に「これいいよ」と紹介するのではないでしょうか。私が会社で「営業成績を伸ばす方法は商品に惚れることである」ということを教わりました。全ての商品を惚れるのではなく、その中の幾つかを惚れるということです。福音宣教についても同じことが言えると思います。それは私たちが福音に惚れることです。イエス・キリストによって与えられた喜びを繰り返し伝えていくことです。これからも共に主のみわざに励んでいきましょう。

ヨハネ1:29~34「神の子羊」  18.07.22.

序)
 今月は7日に親子集会、先週の木曜日はオリーブの会、今週の土曜日には絵本の世界が行われます。また、来月の6日にはゲートウエイチームを招いての英語集会が行われます。どれも、伝道を目的とした集会です。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを指し示す者として主に遣わされました。そのバプテスマのヨハネは、イエス・キリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と指し示しました。「神の子羊」とは何でしょうか。今朝は、神の子羊であられるイエス・キリストについて共に教えられたいと願っています。

1)神の審きからの救い
 まず神の子羊が表しているものは、神の審きからの救いです。イスラエルの民は、カナンの地に住む前はエジプトの地に住んでいました。何故エジプトに住んでいたのかと言いますと、御存知だと思いますがヤコブの息子であるヨセフが兄たちの罠にかかってイシュマエル人に売られてしまい、そのイシュマエル人がヨセフをエジプト人の侍従長であるポティファルに売りました。その後ヨセフには様々なことがありましたが、ファラオが見た夢の解き明かしをヨセフが行ったため、彼はエジプトの王ファラオの次の位に就くこととなりました。そして、解き明かしのようにエジプトに飢饉が生じました。その飢饉はエジプトだけでなく、ヤコブが住んでいるカナンの地にまで広がっていました。そして、ヤコブの息子たちがエジプトに食糧を買いに行って、そのエジプトを仕切っているのがヨセフであることが分かり、ヤコブ一家はエジプトに移住することとなりました。これがイスラエルの民がエジプトに住むようになったいきさつです。
 ところが、それからヨセフのことを知らない人がエジプトの王となりました。移住後約350年後にモーセが誕生しました。モーセが80歳になったとき神に遣わされて、エジプトの王にイスラエルの民をエジプトから出ることを求めましたが、エジプトの王は許すことをしませんでした。そのため、神は10の災害をエジプトに下されました。その最後の災害は、生きている全ての初子を殺すというものでした。これは神の審きですが、その神の審きから救われる方法も神は告げられました。それは、子羊の血を鴨居と門柱に塗るというものでした。よくよく考えますと馬鹿げているようにも思えます。何かのおまじないのようにも受け取れます。しかし、その神のことばに従った家だけは、神の審きが過ぎ越され初子は殺されずに済んだのです。でも、神のことばに聞き従わなかった家の全ての生き物の初子は殺されてしまいました。ですから、過越しの子羊は神の審きからの救いの方法として用いられたのです。
 へブル9:27~28には「     」と書かれています。全ての人は肉体的な死と死後の審きを受けることが定められているのです。人が死を恐れる理由は、本能的に死後の審きがあることが分かっているからです。何故なら、人は神に造られた存在であり、その神に対して罪を犯している存在だからです。イエス・キリストは、その神の審きから救い出すために世に来られ、私たちの罪の身代わりとなって神の審きである十字架に架かってくださったのです。ですから、神の子羊は神の審きからの救いであることを表しているのです。

2)罪の支配からの解放
 第2に神の子羊が表しているものは、罪の支配からの解放です。イスラエルの民は、エジプトにて奴隷の生活を強いられていました。出エジプト記2:23に「それから何年もたって…泣き叫んだ。」と書かれています。イスラエルの民は思い労働にうめき泣き叫びました。イスラエルの民は、1日でも早く奴隷の生活から解放されることを願っていました。でも、それは自分の力ではできるものでもありませんでした。その彼らの泣き叫びは「神に届いた」と23節の最後に書かれています。そして、24節に「     」と書かれていますように、神は族長たちとの契約を思い起こされ、25節に書かれていますように「みこころに留められた」のです。すなわち、救いの方法を取ってくださったのです。
 ローマ3:23に「     」と書かれています。これは全ての人が罪の奴隷であることを表しています。そして、ガラテヤ2:16では、その罪の奴隷の生活は人の行いによってでは解放されないことが書かれています。子どもに罪の話しをするとき、全員ではありませんが「良いことをしたら赦される」と答える子どもがいます。私は一昨年交通違反をしてお巡りさんに違反切符を切られました。それは横断歩道の近くに立っている人に気づくのが遅く通り過ぎてしまったからです。丁度、横断歩道の所に樹木が立っていました。その樹木に人が隠れていたようです。反対車線にバイクに乗っているお巡りさんと自動車を確認しました。「自動車がお巡りさんに停められているのかな」と思いつつ車を走らせていましたら、横断歩道の近くに立っている母子を見たのですが、横断歩道の手前だったのでブレーキをかけずに通り過ぎたのです。すると、後からバイクに乗ったお巡りさんが来まして違反切符を切られたというものです。10年間無違反無事故であっても、1度の違反で違反切符が切られてしまいます。その後どれだけ違反しなくてもゴールド免許になるわけではありません。今年免許の書き換えですから、ゴールド免許ではなくなってしまいます。どれだけ法律を守っても、違反は消えることはないのです。
 ガラテヤ2:16の最後に「律法を行うことによっては義と認められないからです。」というのは、人は良い行いをしても決して赦されるものではないということです。何故なら、人は律法を完全に守り行うことができないからです。どれか一つでも違反したら、義とは認められず罪人とされてしまうからです。律法というのは違反を増し加えることはできますが、減らすことはできません。律法の本来の目的は、自分は律法を完全に守り行うことができない存在であると知ることです。自分の弱さを分からせるために、神は律法を与えられたのです。自分の弱さを知ったらどうすれば良いのでしょうか。もう神の憐れみに頼るしかありません。その神の憐れみを求めるしかないのです。すなわち、「自分は神の助けなしに正しく生きることはできない」と知るために律法は与えられたのです。なのに、「自分の努力による行いによって義と認められる」という考え方は、的外れな律法の捉え方でもあります。そのような捉え方をしている限り、罪の支配から解放されることはありません。何故なら、的外れな歩みを続けているからです。
 イスラエルの民はエジプトで奴隷の生活を強いられ、苦しみのあまりに神に叫びました。彼らは神の助けを求めたのです。聖書は出エジプト記2:23の最後で、「彼らの叫びは神に届いた。」と語っています。そして、先程も触れましたが、族長との契約を思い起こされ、彼らをみこころに留められました。そして、3章ではモーセを召されたことが書かれています。そして、先程も話しましたように10の災害を下され、最後は過越しの食事の出来事となりました。それによって、イスラエルの民はエジプトから出ることができました。エジプトから出られるということは、奴隷の生活から解放されるということでもあります。ですから、小羊は奴隷の生活からの解放をも表しています。そして、イエス・キリストは神の子羊です。何度も語っていますが、出エジプトは霊的な私たちのことを表しています。私たちは霊的な罪の奴隷の生活を強いられていました。その罪の奴隷の生活から、神の子羊であるイエス・キリストが身代わりとなって血を流し死んでくださったことによって、罪の奴隷の生活から解放されたのです。ですから、神の子羊は神の審きからの救いだけでなく、私たちの罪の奴隷生活からの解放をも表しているのです。

3)罪の赦し
 第3に神の子羊が表しているものは、罪の赦しです。先程、聖書交読をしましたイザヤ53章は、「苦難のしもべ」とか「受難のしもべ」と言われている箇所です。ここには、屠り場に連れて行かれる小羊のような者として、7節に書かれています。先程、「神の子羊は罪の奴隷生活からの解放を表している」と話しました。人はどのようにして罪の奴隷生活から解放されるのでしょうか。イザヤ53:8には「彼が私の民の背きのゆえに打たれ」と書かれています。そして、11節の後半には「わたしの正しいしもべは…彼らの咎を負う。」と書かれています。さらに、12節最後に「彼は多くの人の…とりなしをする。」と書かれています。このイザヤ書53章には、屠られる小羊は人々の罪を負って、自分が身代わりとなって死ぬことが書かれているのです。それによって、人々の罪が取り除かれるのです。罪が取り除かれるというのは罪が赦されるということです。この箇所を通して、罪の赦しには償いが必要であることに気づかされます。償いなしに自分の罪が赦されることを知らされます。
 ある方は、「神様はとても懐の深い方だから赦してくださる」と思われます。しかし、神は罪の償いなしに赦される方ではありません。何故なら、罪をいい加減なものとして済ますことができないからです。もし、いい加減なものとして赦してしまいますと、神の義しさや聖さというものがなくなってしまいます。だから、罪の償いなしで赦すことはされないのです。自分の罪を償うということは、神の審きを受けるということでもあります。そうなりますと、人は神に赦されることなく滅んでしまいます。しかし、神は私たちが神の審きを受けることをしないで赦す方法をとってくださいました。それは、私たちの身代わりとして誰かが私たちの罪を償うという方法です。それがイエス・キリストです。イザヤ書53章は、私たちの身代わりとして神の子羊が私たちの罪を負って神の審きを受けてくださることが書かれているのです。その償いがイエス・キリストの十字架です。そして、それを教会では「贖い」と言います。贖いとは、あるものを犠牲にして手に入れることです。神はイエス・キリストを犠牲にして、人が罪の赦しを受ける方法を取ってくださったのです。イエス・キリストは、イザヤ書53章に書かれています神の子羊なのです。神の子羊は、私たちの罪を取り除くために身代わりとなって神の審きを受けてくださることによって、私たちが神から罪の赦しを受けることを表しているのです。

結)
 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストのことを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と告白しました。イエス・キリストは、私たちを神の審きから救い、私たちを罪の奴隷から解放し、私たちの罪が赦されるためにこの世に来てくださいました。まさしく、イエス・キリストは私たちにとって神の子羊そのものです。その神の子羊であられるイエス・キリストを指し示す証し人として歩まされていきましょう。

ヨハネ1:19~28「キリストを指し示す」 18.07.15.

序)
先週の礼拝では、イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たちの間に住むためであり、私たちに恵みとまことを与えるためであり、私たちが神に結び合わされるためであることを見ました。今朝の箇所は、再びバプテスマのヨハネが登場します。バプテスマのヨハネは神の証し人として遣わされました。今朝は、その神の証し人とはどのような者であるかを共に教えられたいと願っています。

1)謙遜な人
まず、バプテスマのヨハネは謙遜な人でした。19節に書かれています「ユダヤ人」とは、議会の人たちと考えられます。彼らは祭司とレビ人をバプテスマのヨハネの所に派遣し質問させました。このことから、バプテスマのヨハネはイスラエル全土に広がっていたと考えられます。マタイ3:5~6にはユダヤ全土からバプテスマのヨハネがいるヨルダン川に来たことが記されています。また、同じくマタイ21:23~27では、バプテスマのヨハネが亡くなった後も、バプテスマのヨハネを「神から遣わされた預言者である」と信じていた人々が大勢いたことが記されています。このことから、バプテスマのヨハネは多くの人に影響を与えた人でもあったことが分かります。そして、ルカ3:15には「もしかするとこの方がキリストではないか」と思う人が大勢いたことが記されています。マタイ11:11には、イエス・キリストご自身も「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりも偉大な者は現れませんでした。」と語られたことが記されています。バプテスマのヨハネは、神からも人からも認められた人であったことが分かります。
しかし、彼はユダヤ人からの質問に対して「私はキリストではありません。」と答えました。バプテスマのヨハネは、人々から「この人がキリストではないか」と誤解される程すばらしい働きをしていたのです。しかし、彼は「自分はキリストではない」と否定したのです。ここに、バプテスマのヨハネの謙遜さを見ることができます。Ⅰペテロ5:5に「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」と勧められています。謙遜を身に着けるとは、自分を低くするということで、どれほど良い結果が出たとしても自分のやり方を評価しないということです。ルカ17:9~10で、イエス・キリストが「     」と話されたことが書かれています。「なすべきことをしただけ」というのが、聖書が語っています謙遜です。それは「自分の分を弁える」ということではないでしょうか。
謙遜と自己卑下とは違います。「自己卑下」について調べてみますと、自己卑下される方の多くは、その背後に「そんなことないよ」と言ってもらいたい思いがあるようです。そこには「他人から高く評価してもらいたい」というのがあるようです。ですが、謙遜はそうではありません。「自分の評価を少しでも高くされたい」という思いは全くありません。むしろ、自分の能力を弁えています。ですから、自分を卑下することもなければ高ぶることもしません。ただ、委ねられている務めに対して忠実に果たします。ですから、謙遜な人とは忠実な人でもあるのではないでしょうか。だから、ペテロは「謙遜を身に着けるように」と勧めているのではないでしょうか。謙遜を身に着けるとは、自然に振る舞えるということです。私たちも謙遜を身に着けられるように祈っていきたいものです。

2)使命を自覚
第2に、バプテスマのヨハネは自分の使命を自覚していた人でした。バプテスマのヨハネは、自分のことを「荒野で叫ぶ者の声」と答えました。ただの声ではありませんでした。荒野で叫ぶ者の声だったのです。では、「荒野で叫ぶ者の声」とはどういうことでしょうか。荒野というのは、樹木などは少し生えていますが殆ど何もない所です。イスラエルの民はエジプトから出て荒野の中を歩んでいました。そのときの生活はとても大変なものでした。彼らはモーセや神に不平不満を言っていました。荒野の中での生活は決して楽なものではなく厳しいものです。イエス・キリストがこの世におられた時のイスラエルの人々の生活も楽なものではなく厳しいものでした。それは荒野の中での生活のようなものでした。そのような状況の中でバプテスマのヨハネは叫んでいたのです。何を叫んでいたのかと言いますと、「もうすぐ私たちを救ってくださる方が来られる」ということをです。イスラエルの人たちの中には、「バプテスマのヨハネが救い主ではないか」と思っていた人もいました。しかし、バプテスマのヨハネは「自分はキリストではなく、人々をキリストに導く備えをする者である」と答えたのです。彼は自分が何のために、この世に遣わされているのかを自覚していました。
私たちはどうでも良いことや言わなくても良いことを話し、言わなければならないことを話さないことがあるのではないでしょうか。Ⅱテサロニケ3:11に「     」と書かれています。これは自分に与えられている日常生活の仕事をしないで、他人のことに口出しする人のことです。これをキリスト者の務めとして理解するならどうなるでしょうか。キリスト者に与えられている務めは、神を証しすることです。ところが、神を証しすることをしないで、他人のお節介ばかりするなら、それは怠惰な歩みをしていることになります。バプテスマのヨハネは、そのような怠惰な歩みをしていたのではなく、自分に託されている使命を果たしていたのです。バプテスマのヨハネは、預言者イザヤが語った「主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声です」と告白しました。これはイザヤ40:3のみことばです。バプテスマのヨハネには、神のみことばが与えられており、その神のみことばによる確信を持っていたのです。
詩篇29:4には「     」と書かれています。また、へブル4:12には「     」と書かれています。神のみことばには威厳があり力があるのです。その神のみことばは私たちに何と語っているでしょうか。使徒の働き1:8に「     」と書かれています。イエス・キリストは「あなたがたはわたしの証人となる」と話されたのです。ですから、キリスト者というのはイエス・キリストの証し人としてこの世に遣わされているのです。神を信じる者であっても、この使命の自覚を欠如してしまいますと、弱くて脆いキリスト者となってしまいます。弱くて脆いキリスト者とは、この世のものに流されてしまうキリスト者のことです。だからこそ、神のみことばの上に立ち、自分に与えられている使命を自覚することの大切さを知らされるのではないでしょうか。

3)キリストを指し示す
 第3に、バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示していました。ユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネに「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか」と尋ねました。当時のバプテスマは、身体の聖めのしるしとして行われていました。それは異邦人がユダヤ教に改心したときに行われた儀式でした。ですから、神の民であるイスラエルの民は受ける必要がありませんでした。イスラエルの民が受けるときは、救い主が現れるときです。申命記18:15には「     」と書かれています。イスラエルの民は、モーセのような預言者が現れることを待ち望んでいたのです。モーセは神に遣わされて、エジプトで奴隷であったイスラエルの民をエジプトから解放する指導者でした。そのような人をイスラエルの民は待ち望んでいたのです。そして、長いですがエゼキエル36:22~32には「     」と書かれています。きよい水が振りかけられ、新しい心と霊が与えられ、悪しき生き方と良くなかった行いなどを忌み嫌うようになるのです。これらは悔い改めてバプテスマを受け生まれ変えられることを表しています。さらに、マラキ4:5には「     」と書かれています。ですから、救い主が来られる前にエリヤが来ると信じられていたのです。だから、ユダヤ人はバプテスマのヨハネに「あなたはエリヤですか」とか「あの預言者ですか」と尋ねたのです。
 その質問にバプテスマのヨハネは否定したがために、彼らは「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのか」と尋ねたのです。その質問の答えが26~27節に書かれています。この26節のことばは、ヨハネの福音書しか書かれていません。ヨハネの福音書の著者であるヨハネは、バプテスマのヨハネは後に来られるキリストを指し示していたことを記しています。何故なら、神の証し人はキリストを指し示す者とされているからです。このことは、マルコ1:23~26に書かれていますイエス・キリストの行動からも見ることができます。汚れた霊は、イエス・キリストが神から遣わされた方であることを告白しています。しかし、その汚れた霊の告白をイエス・キリストは黙らせました。汚れた霊がイエス・キリストを神から遣わされた方と告白ことほど効果的なものはありません。何故なら、人は汚れた霊を恐れているのですから。その人が恐れている汚れた霊が、イエス・キリストを神から遣わされた方と告白するなら、多くの人はイエス・キリストを神から遣わされた方と受け入れるのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストは汚れた霊がイエス・キリストを指し示すことを止められたのです。何故なら、汚れた霊は神の証し人ではないからです。神の証し人というのは、イエス・キリストを信じる人々です。
 以前にも触れましたが、バプテスマのヨハネはイエス・キリストのことを旧約聖書が預言している救い主であるかに疑問を抱いたことがありました。バプテスマのヨハネも完璧ではなく弱さを持っていた人でした。しかし、神はそのバプテスマのヨハネを「キリストを指し示す者」として用いられたのです。効果的な汚れた霊ではなく、弱さを持つバプテスマのヨハネを用いられたのです。そして、現代では弱さを持つ私たちを「キリストを指し示す者」として用いてくださるのです。弱さを持っているか持っていないかは大切なことではありません。何故なら、神には不可能なことが何一つない方だからです。大切なのは、自分を用いてくださる神を信じ、キリストを指し示していくことです。私たちもキリストを指し示す者の一人とされていることを覚え、その務めを果たさせていただきたいと願います。

結)
バプテスマのヨハネはキリストを指し示す人でした。その務めを全うするには謙遜と使命の自覚が必要です。何故なら、謙遜を失くしてしまいますと人を自分の方に向けようとしてしまいます。また、使命の自覚がなければ怠けてしまいます。私たちがキリストを指し示す者として歩み続けるためにも、謙遜を身に着け使命を自覚する者とされ続けられるように祈っていきましょう。

天におられる父なる神様。バプテスマのヨハネがキリストを指し示す人であったように、私たちもキリストを指し示す者とされています。その務めを果たすことができるためにも謙遜を身に着けられますように助けてください。そして、私たちに与えられている使命を自覚し続けられますように導いてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン

ヨハネ1:9~13「まことの光」  18.07.01.

序)
 早いもので今年も半分が過ぎ、今日から下半期に入りました。今週の土曜日には、親子集会のユリ宣教師による腹話術が行われます。この目的は、一人でも多くの方が福音に接しイエス・キリストを求める方々が起こされることです。バプテスマのヨハネがイエス・キリストの証し人であったように、私たちもイエス・キリストを指し示すために、この集会を開こうとしています。そのために祈り備えていきたいものですが、そのイエス・キリストとはどのような方であるかを共に教えられたいと願っています。

1)まことの光なる方
 第1に、イエス・キリストはまことの光なる方です。9節に「     」と書かれています。この「すべての人」というのは全世界の人のことです。7節の「すべての人」は、バプテスマのヨハネが接する全ての人でしたが、9節の「すべての人」はイエス・キリストが生きておられた時代のすべての人ではなく、イエス・キリストが公生涯を始められた後のすべての人のことです。ですから、現代の私たちをも含んでいるのです。聖書は、「イエス・キリストは今から約2千年前の単なる昔話ではなく、今の時代の人々にも必要なまことの光なる方である」と語っているのです。ですから、イエス・キリストは昔も今も全ての人のまことの光なる方なのです。この「すべての人」の中には、ここにおられるあなたも含まれているのです。
 そのまことの光であられるイエス・キリストは、「すべての人を照らす」と書かれています。「照らす」というのは、「明らかにする」ということです。何が明らかにされるのでしょうか。それは人間の罪です。何度も話していますが、罪というのはギリシャ語で「ハマルティア」と言い「的外れ」という意味です。本来目指すべき方向に向かって進むべき道から外れてしまい、別の方向に進んでいる状態を表しています。それは迷子の状態と同じです。先月、私は刈谷市に行く用事がありました。初めて行く場所なのでグーグルマップを使いながらその場所に行きました。何故カーナビではないのかと言いますと古いからです。ナビは目的地を入力すれば、現在地から最短時間の道を教えてくれます。ナビは本当に便利です。ナビにおいても迷子になったときにおいても共通点があります。それは現在地と目的地を知る必要があるということです。ナビは現在地を示していますから目的地を入力すれば良いだけです。でも、もし現在地が分からなければ、目的地を入力してもナビは道を教えてはくれません。何故なら、どの方向に進めば良いのかが分からないからです。
 現在地と目的地を知るというのは、私たちの人生の歩みについても同じことが言えます。どれだけ人生の目的を知っていたとしても、今の自分がどの地点に立っているかが分からなければ進むべき方向も分かりません。イエス・キリストは、全ての人を照らすまことの光としてこの世に来られました。それは、今の私たちがどの地点に立っているかを明らかにしてくださるということです。生まれながらの人間は神から見てどの地点に立っているのかと言いますと、的外れな道を歩んでいる地点に立っているのです。ですから、人はイエス・キリストを通してどの方向に進めば良いのかが明らかにされるのです。光が自分の後ろで輝いているのでしたら、反対に向きを変えて進めば良いのです。自分の右に輝いているのでしたら、右に向きを変えて進めば良いのです。イエス・キリストは、まことの光としてこの世にこられたのです

2)世に受け入れられなかった方
 第2に、イエス・キリストは世に受け入れられなかった方です。イエス・キリストは、まことの光としてこの世に来られました。では、この世はまことの光として来られたイエス・キリストに対してどのような反応を示したでしょうか。そのことが11節に書かれています。この世は、イエス・キリストを受け入れなかったのです。では、何故人々はイエス・キリストを受け入れなかったのでしょうか。それは自分の罪が明らかにされるからです。罪というのは、本来触れられたくないものです。触れられたくないものに触れられようとしますと、私たちはその行為を拒んでしまうのではないでしょうか。そして、触れられたくないものに触れられるよりも、良いものや御利益的なものを示してくれる方に関心を寄せてしまうのではないでしょうか。昔も今も、イエス・キリストを信じようとしない人が多い理由はここにあります。自分の罪を指摘されたくないのです。
 日本の宗教は人の罪を指摘しません。それよりも、拝むことによって御利益があることを強調します。その御利益にも様々なものがあります。「お金が貯まる」とか「合格する」「癒される」などです。しかし、キリスト教はそうではありません。イエス・キリストは、まことの光としてこの世に来られました。ですから、人の罪を指摘します。本来の道から外れていることを指摘します。何故なら、今の自分がどのような所に立っているかを知るのは大切なことだからです。人は自分の罪を指摘されることを嫌いますから、当然自分の罪を指摘するイエス・キリストを受け入れることはできません。自分の罪を指摘されないようにするには、イエス・キリストの存在を消すしかありません。そのためにユダヤ教指導者たちは、イエス・キリストを十字架につけて殺したのです。イエス・キリストの十字架は私たちの罪のための身代わりの死を表しますが、同時に私たちの罪がどれ程のものかをも示しています。
 神はイエス・キリストの十字架を通して、私たちにご自身の愛を明らかにしてくださいました。私たちは、自分の身を守るためなら人の命を奪ってしまうような罪深い存在です。実際に私たちが生かされています社会の中で、殺人事件のニュースを耳にします。それらの共通点は、その人の存在が邪魔だからではないでしょうか。マルコ15:10に「     」と書かれています。祭司長たちがイエス・キリストを十字架に架けて殺そうとおもったのは、彼らの心の中にある妬みでした。人を妬む思いが強くなりますと、その人の存在が邪魔になってきます。そして、その妬みがあまりにも強まったがために、イエス・キリストの命を奪うこととなってしまったのです。それは大きな罪ですが、妬みはそれが罪と気づかせない程の力を持っているのです。ですから、「その人の存在が自分にとって邪魔だ」という思いは、人の命を奪うほどの力を生じさせます。イエス・キリストの十字架は、そのことを示してもいるのです。
 イエス・キリストは、まことの光としてこの世に来られました。しかし、この世の人々は、そのまことの光であられるイエス・キリストを受け入れませんでした。イエス・キリストは、世に受け入れられなかったのです。世は神の愛を無にしてしまったようにも思えます。しかし、神はそれを用いられたのです。世が神の愛を無にしたかのような行いを神は用いられたのです。ここに、私たちには測り知ることのできない神のみわざというものを知らされるのではないでしょうか。この準備をしているとき、サッカーワールドカップロシア大会の日本対セネガル戦を思い出しました。皆さんは見られたかどうか知りませんが、私は当日バイトで帰宅後ずっと観戦していました。GKの川島のミスが指摘されていました。ですが、見方を変えれば、あの失点があって引き分けられたとも言えます。もし、失点していなかったら流れも変わっていて負けていたかもしれません。もちろん、勝っていたかもしれません。でも失点して、あの流れになって引き分けたというのが現実です。
 失敗をして悔やむことがあります。また、人から頼まれて「こんなの無駄ではないか」と思いつつしなければならないことがあります。でも、そのような「無駄」とか「意味がない」と思えるものも神は後に用いることのできるお方です。何よりも、せっかく神が送ってくださったイエス・キリストを世は受け入れず見捨てたのです。でも、その見捨てられたイエス・キリストが私たちの救い主となられたのです。そのことを思いますと、神のみわざというのは私たちの想像を越えたものであり、想像を越えたことを行ってくださることを改めて知らされるのではないでしょうか。これからも、その神のみわざに期待して歩まされたいものです。

3)神の子どもとなる特権をもっておられる方
 第3に、イエス・キリストは私たちが神の子どもとなる特権を持っておられる方です。私たちが神の子どもとなるということは、神が私たちの親となられるということです。厳密に言いますと、父親になられるということです。子どもは親の許にいることで心に平安を覚えます。ですから、「神の子どもとされる」ということは、「人としての平安を持つ」ということでもあります。人としての平安は、以前にも話しましたが生きることの意味や目的を知ることによって得られます。人は「自分が神によって造られた存在である」と知るのは大切なことです。何故なら、生きることの意味や目的を知るだけでなく、造ってくださった方の許に戻ることができるからです。
 12節に「     」と書かれています。イエス・キリストは世に受け入れられませんでした。しかし、イエス・キリストを受け入れた人は、神の子どもとなる特権が与えられるのです。その神の特権は、「血によってではなく…意志によってでもなく」と書かれています。血というのは家族とか血統を意味しています。神の子どもとされるのは、親がクリスチャンだから子どもも自動的にクリスチャンになるのではありません。また、人が一生懸命何かを努力することによってクリスチャンになれるのでもありません。13節の最後に「ただ、神によって生まれたのである。」と書かれています。ですから、「神の選び」という一方的なものによってなのです。私たちは「選ばれた」と聞きますと、「何か自分の優れた所があったから」と思いやすくなります。でも、そうではありません。
 神が私たちを選んでくださったのは、「このような私に神は目を留めてくださり選んでくださった」ということに感謝するためです。私たちは神から見て優れたところは何一つありません。自己中心的で、何よりも自分のことを優先的に考えてしまいます。聖書が語っていることや神が求めておられることを知っているのに、それよりも自分のことを優先してしまう者です。でも、そのような自分に神は目を留め選んでくださったのです。その神の憐れみに感謝する者となるために、神は私たちを選んでくださったのです。決して、何かが優れているからではありません。このような者でも神は目を留めてくださっていることに感謝し、喜びをもって生きる者となるために神は選んでくださったのです。私たちがそのような者となるには、イエス・キリストを通してでしかありません。だから、イエス・キリストは私たちが神の子どもとなる特権を持っておられる方なのです。

結)
イエス・キリストは、私たちを照らすまことの光として来られました。世に受け入れられませんでしたが、それを通して神の愛を明らかにしてくださいました。折角、神が人としてこの世に来られたのに、この世は受け入れなかったというのは裏目に出たように思えたりもします。しかし、その裏目と思えるようなことを神は豊かに用いて、ご自身の愛を明らかにしてくださったのです。私たちの歩みの中にも「裏目」と思えるような事柄を経験します。しかし、神はそのような「裏目」と思えるような事柄を通してすばらしいことをしてくださる方であることを知らされるのではないでしょうか。何よりも、イエス・キリストを信じない人が多い中で、自分がイエス・キリストを信じられるように変えられたことに感謝したいものです。

ヨハネ1:6~8「神の証し人」  18.06.24.

序)
キリスト者は「神の証し人」と言われています。それは、イエス・キリストが「あなたがたは…わたしの証人となります」(使徒の働き1:8)と言われたからです。主の証し人として一番すばらしい人は、バプテスマのヨハネでしょう。イエス・キリストご自身も「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりもすぐれた人は出ませんでした」と言われました。今回は、そのバプテスマのヨハネの目的を通して、神の証し人について教えられたいと願っています。

1)光を証しするため
 まず、バプテスマのヨハネは光を証しするために神から遣わされた人です。ですから、バプテスマのヨハネが遣わされた目的は光を証しすることです。その光とはイエス・キリストご自身のことです。7節に書かれています「光について」とは、4~5節に書かれています光のことです。それは先週の礼拝でも触れましたが、光は希望を示しています。ですから、「光について証しするため」というのは、人生の光を指し示すことを表しています。人生の光とは、生かされていることの意味や目的、さらには進むべき方向でもあります。広辞苑には、証しについて「それが確かであることを明らかにすること」と書かれています。ですから、証し人とは「そのことが確かであると証言する人」のことです。バプテスマのヨハネは、人生の光であられる方がもうすぐ来られるから、人々がすぐにその光に応答できるように備えていたのです。ただ、バプテスマのヨハネは、それがイエス・キリストであることは知りませんでした。バプテスマのヨハネが、自分が指し示す光がイエス・キリストであると知ったのは、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けられるために来られたときでした。それから、バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示したのです。
現代における神の証し人とは誰でしょうか。使徒10:41には「     」と書かれています。この「私たち」とはペテロを含むイエス・キリストを信じている人のことです。ですから、キリスト者というのは人生の光であられるイエス・キリストを指し示す存在とされているのです。しかも、「神によって…証人である私たち」と書かれています。キリスト者一人ひとりは、神によって前もって選ばれた証人なのです。バプテスマのヨハネについて、今朝の箇所の6節に「神から遣わされた」と紹介されています。バプテスマのヨハネは神によって選ばれ遣わされた存在なのですが、イエス・キリストを信じる私たちも神によって選ばれ遣わされた存在なのです。
 バプテスマのヨハネは、「人生の光であられる方が来られるから心備えをするように」と語る務めが与えられていました。そして、私たちは「その人生の光であられる方がイエス・キリストである」と指し示す務めが与えられているのです。そのためには、イエス・キリストが自分の人生の光となっていなければできません。私たちはイエス・キリストによって何を知らされたでしょうか。何よりも今の自分が神に愛されていることを知らされたのではないでしょうか。世界から見れば、自分なんて居ても居なくても分からないような小さな存在です。しかし、そのような自分であっても神は豊かに用いてくださることを知ったのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架というフィルターを通して世界や自分を見るとき、「こんな小さな自分が神に用いられる存在である」という光を見出させられるのではないでしょうか。まさしく、イエス・キリストは私たちの人生の光です。

2)全ての人が彼を通して信じるため
 バプテスマのヨハネが遣わされた目的の第2は、7節の後半に書かれていますが「彼によって全ての人が信じるため」です。では、この「全ての人」とは誰でしょうか。私たちは「全ての人」と聞きますと、「全世界の人」と捉えてしまうかもしれません。しかし、全世界の人のことではありません。この「全ての人」というのは、バプテスマのヨハネが接する全ての人のことです。神は何でもできるお方です。ですから、直接人に働いてイエス・キリストを信じるようにすることもできます。何故なら、神には不可能なことが何一つないからです。ですが、神はそのような方法をとられませんでした。神がとられた方法はヨハネを通してです。すなわち、人を通してなのです。神は人を用いて全ての人に真の神を知らせようとされているのです。
 この神の用いられ方は現代においても同じです。神は私たちを通して全ての人に真の神を知らせようとされているのです。クリスチャンの中には、「私を見ないでイエス様を見てください」と言われる方がおられます。その方が言われる意味はよく分かります。それは「私は不完全だからつまずかせることもあるけれども、イエス様は完全な方だからつまずかせる方ではない」ということです。その意味はよく分かるのですが、神は私たちを通して真の神を全ての人に知らせようとされていることに注目していただきたいのです。神は不完全な私たちを用いてくださいます。確かに、時にはつまずかせることがあるかもしれません。でも、そのような私たちを神は用いてくださるのです。何度も話していますが、私は娘から「お父さん、それでも牧師?」と何度も言われました。その度に、「そうや、それでも牧師や」と答えて、さらに「こんなお父さんを牧師として用いてくださる神様ってすごいね!」と付け加えていました。私たちは失敗しますし、間違いを犯してしまいます。確かに失敗せず間違いも犯さない方が良いのですが、絶対にそのようなことはない者でもありません。してしまうのです。でも、神はそのような私たちを見捨てる方ではありません。むしろ、そのような私たちを励まして用いてくださる方なのです。
 自分の弱さや足りなさを責める必要はありませんし、恥ずかしがる必要もありません。神は全てを御存知の上で、私たちを用いてくださるのです。私は「それが証しである」と思っています。証しというのは、模範的な行いをすることではありません。自分の長所は言うまでもありませんが、短所も証しとして用いられるのです。これはバプテスマのヨハネについても同じです。彼は牢獄に入れられたとき、イエス・キリストが救い主であるかを疑いました。そして、彼の弟子たちをイエス・キリストの所に遣わしました。そのことがマタイ11:2~6に書かれています。このときイエス・キリストは疑ったバプテスマのヨハネを責めることはされませんでした。むしろ、10~14節に書かれていますように、バプテスマのヨハネを認められたのです。私たちも弱さや足りなさという短所を持っていますが、神はそれらを責めることをされず用いてくださるお方なのです。何故なら、私たちを通して全ての人が真の神を信じるためです。神は私たち一人ひとりを用いて、私たちを通して全ての人に働いてくださるのです。ですから、私たちは神の用いられる器とされていることを覚え、神を証しする者として歩まされたいと願います。

3)光について証しするため
 バプテスマのヨハネが遣わされた目的の第3は、光について証しするためです。すなわち、バプテスマのヨハネが遣わされた目的は、他の誰でもないイエス・キリストを指し示すためです。そのイエス・キリストとは、どのような方でしょうか。今まで見てきましたヨハネの福音書から見ますと、初めから存在されていた神ご自身です。そして、この世界を造られた創造主なる方であり、私たちにいのちである生きる希望を与えてくださった方です。さらに、私たちは心の闇の中を歩くことがありますが、その闇の中にも光を輝かせてくださる方です。光であられるイエス・キリストは、私たちを造ってくださった方ですから、私たちの全てを御存知です。私たちの全てというのは、私たちの肉体や心の全てだけではありません。イエス・キリストは永遠なる神ですから、私たちの人生の全てを御存知ということでもあります。それは私たちの過去や現在だけでなく、将来についても御存知なお方です。これから先どのような課題に直面し、どのような経験をするのかも御存知です。そのために様々な備えをしてくださいます。その光であられるイエス・キリストを指し示していくのがバプテスマのヨハネが遣わされた目的です。
 そして、それは先程も話しましたように今日の私たちにおいても同じです。それは私たちによって全ての人が信じるためです。神は全ての人が真の光であられるイエス・キリストを信じるのを願っておられるのです。そのために私たちを用いられるのです。「全ての人」と聞きますと、世界中の人のことのように聞こえたりもします。何か大き過ぎて捉えられない感じがするかもしれません。この「全ての人」というのは、世界中の全ての人で間違いありません。ですが、世界中の全ての人の最初は誰でしょうか。何にしても始まりがあります。マラソンは約42㎞走ります。でも、その最初は第一歩です。最初の第一歩を踏み出さない限り、マラソンをゴールすることはできません。「全ての人」というのも同じです。「全ての人」のゴールは、世界の全ての人や地域の全ての人ということもできます。その全ての人にも始まりがあります。それは自分の隣人です。自分の隣人とは誰でしょうか。家族や友人、また近所の方や同じ職場の方などです。その自分の隣人が、その人によって真の光であられるイエス・キリストを信じるのを神は願っておられるのです。
 それにはどうすれば良いのでしょうか。一生懸命みことばを伝えることでしょうか。それも間違いではありません。コロサイ4:5に、機会を充分に活かし、知恵をもって行動することが勧められています。伝道者の書の3章には時の定めについて書かれています。みことばを伝えるにも時があります。コロサイ4:6には「     」と書かれています。これは日々の生活のあり方について書かれています。すなわち証しの生活です。時には、塩味の効かないことをするかもしれません。その時は謝れば良いのです。それが塩味を効かすことになるでしょう。ここで言われていることは、キリスト者として接することによって、みことばを伝える機会があるということです。そこには普段の生活での証しが大切なのです。どのような証しでしょうか。それは自分がキリスト者であるという証しです。塩は存在するだけで塩味を出しています。キリスト者も存在するだけで塩味を出しているのです。では、そのキリスト者としての塩味とは何でしょうか。品行方正な生活をすることでしょうか。そうではなく、生かされていることに感謝と喜びをもって生きることです。日々の生活の中で、いつも感謝と喜びをもって生きるなら、人はその人の生き方に関心を寄せます。そのとき、みことばを伝える機会があるのです。みことばを伝えられなくても教会の集会などに誘う機会ともなります。コロサイ4:5~6は、その機会が来たら十分に生かすようにということです。
全ての人の初めは自分が接する人です。その人の中で生かされていることに感謝し喜びをもって生きることが大切です。それには、今の自分が神に愛され受け入れられているところに目を留めることです。その歩みが真の光であられるイエス・キリストを指し示す歩みとなるのです。

結)
 バプテスマのヨハネは、真の光であられるイエス・キリストを証しするために遣わされ用いられました。それは現代の私たちも同じです。私たちも真の光であられるイエス・キリストを証しするために遣わされ用いられています。その一番良い方法は、生かされていることに感謝し喜びをもって生きることです。それには、今の自分が神に愛され受け入れられていることに目を留めることです。今の自分が神に愛され受け入れられていることに目を留めつつ歩まされていきましょう。

ヨハネ1:3~5「源であられるイエス」 18.06.17.

序)
 先週からヨハネの福音書を見ています。1:1に「初めにことばがあった」と書かれており、イエス・キリストが神であられることを見ました。その神であられるイエス・キリストはどのような方であるかを、今朝は共に教えられたいと願っています。

1)世界を造られた方
 まず、ヨハネは、3節で「すべてのものは、この方によって造られた。」と語っています。すなわち、イエス・キリストによって、全てのものは造られたと語っているのです。それは、イエス・キリストが造り主なる方であることを示しています。何度も話していますが、造るというのには目的があります。私たちが何かを作るときも目的をもって作ります。例えば、椅子であるならば座るために作りますし、机ならば何かを置いたり作業するために作ります。また、料理ならば食べるためとか食べてもらうため、或いは見せるために作るかもしれません。何にしろ目的をもって作ります。神がこの世界を造られたというのには、この世界に存在する全てのものには目的があることを示しています。ですから、私たち一人ひとりにも神の目的があるのです。あなたの人生には生きる目的があるのです。生きる目的のない人など一人もいないのです。
 そして、3節の後半には「造られたもので…一つもなかった。」と書かれています。すなわち、イエス・キリストが全ての源であるというのです。教会は雨漏りがしたり、東側の壁の教会名の横の十字架も剥がれかけています。そのため外壁工事をする予定でいます。2つの業者に見積り依頼しています。一番良いのは、この教会を建てた業者に頼むことです。何故なら、この教会を建てたのですから、どのようにして建てたか、また何処に何があるのかを知っているからです。でも、その業者が分からないので2つの業者に見積り依頼しています。全てのものはイエス・キリストによって造られたということは、イエス・キリストに全ての解決があるということです。時計が壊れたら時計屋に持って行きます。何故なら、時計の構造を知っているからです。パソコンが壊れたらパソコンを扱っている店に持って行きます。その店で直せないなら、その店はメーカーに連絡して直してもらいます。何故なら、そのパソコンの構造を知っているからです。時計が壊れてパソコンメーカーに連絡しても、直してもらうことはできません。時計が壊れて直してもらおうとするなら、時計屋に持っていきます。そこには「直してもらえるのではないか」という期待と信頼があります。全てのものはイエス・キリストによって造られたということは、全ての事柄の解決はイエス・キリストにあるということです。それには、まずイエス・キリストに心を開くことが大切ではないでしょうか。その始まりは小さな期待と信頼かもしれません。でも、それが大切なことです。
 そのイエス・キリストは、先週見ましたが「ことば」として表されています。ことばが表すものは関係です。それは造られた全てのものは、関係の中で生かされているということでもあります。私たちが生かされています世界は物質的世界です。物質的なものは目で見えるものです。しかし、ことばというのは目で見ることはできません。また、関係というのも目で見ることのできないものです。すなわち、全てのものは目に見えない関係の中で生かされていることをも表しています。イエス・キリストは、私たちとより良い関係を求めておられるのです。そのイエス・キリストとより良い関係が築かされるとき、人は生き方が変えられるのです。イエス・キリストは全てのものを造られた方なのです。

2)いのちなる方
 次に、4節の前半に「この方にはいのちがあった。」と書かれています。すなわち、イエス・キリストはいのちなる方であるということです。先程、「ことばは関係を示している」と話しましたが、イエス・キリストとの関係の中にいのちがあるのです。このいのちとは、ただ何となく漠然と生きるということではなく、積極的に生きることを意味しています。人が積極的に生きることができるのは何故でしょうか。それは希望があるからです。希望こそが人を生かすことができます。その希望は、ことばの中にあるのです。すなわち、関係の中にあるのです。そして、その希望こそが光でもあります。4節の後半に「このいのちは人の光であった。」と書かれています。イエス・キリストは人生の光なのです。そして、光は希望を表してもいます。すなわち、イエス・キリストは人生の希望でもあられます。イエス・キリストは、私たちに人生の希望を与えてくださる方なのです。
 それは私たちに歩みについても言えるのではないでしょうか。神を知るまでの私たちは、心が満たされるために物質的なものを追い求めていました。ですが、決して満たされることはありませんでした。満たされたとしても、それは一時的なものであってすぐに消えてしまうものでした。ところが、神と出会い神の愛を知ることによって、本当の心の満たしが得られ希望が与えられたのではないでしょうか。本当の希望が与えられた要因は、ありのままの今の自分が神に愛されていることを知ったからです。何かができている自分とか、役に立っている自分が愛されているのではなく、そのままの自分が愛されていることを知ったからです。人は本当の愛を知ることによって心に安らぎを得ることができます。ですが、希望を得ることはできません。本当の希望を得るのは、生きる意味を知ることによってです。すなわち、生きている目的・目標を見出すことによってです。それが見出せられない人は、漠然として生き方しかできません。そして、消極的な人生を歩んでしまいます。これは年齢には関係ありません。
 例えば、ヨシュア記登場しますカレブという人がそうでした。彼の年齢は85歳です。ですが、14:11で「     」とヨシュアに告げました。彼は85歳ですから、肉体的に衰えているのは間違いありません。なのに、何故「モーセが…壮健です。」ということができたのでしょうか。これは、肉体的なことではなく生き方のことを言っているのです。それは、「昔と同じように今も積極的な人生を歩むことができる」ということです。このことはカレブだけでなく、ヨシュアについても同じことが言えます。13:1の前半に「ヨシュアは…老人になっていた。」と書かれています。そのヨシュアに、神は「あなたは年を重ね…たくさん残っている。」と告げられたのです。それは、しなければならない目標があるということです。ヨシュアは、その目標を目指して積極的に生きたのです。そして、カナンの地を占領することができたのです。
積極的な人生というのは、年齢によって決まるものではありません。若い人であっても、人生の目的・目標を持たないなら消極的になってしまいます。すなわち、その人の中に本当のいのちがあるかどうかです。そして、聖書は「イエス・キリストにはいのちがあった。」と語っています。イエス・キリストは、いのちなる方であり希望を与えてくださる方です。私たちに生きる目的・目標を見出させてくださり、生きる力を与えてくださる方なのです。

3)闇の中に輝かれる方
 最後に、イエス・キリストは闇の中に輝かれる方です。光であられるイエス・キリストは、「闇の中に輝いている」と書かれています。このところから、光と闇は別々の所に存在するのではなく、光は闇の中に存在していることを知らされます。そして、その闇の中に存在して輝いているのです。夜に犬の散歩をしていますと、懐中電灯をつけて犬の散歩をされている方を見かけます。それは安全のためです。その方が良いのです。ですが、日中に懐中電灯をつけて散歩されている方はおられません。何故なら、つける必要がないからです。当たり前と言えば当たり前なのですが、光は暗いから灯す必要があるのです。「イエス・キリストが光であられる」ということは、私たちが生きている世界は闇であるということです。
 私たちは人生の歩みの中で失望することがあります。人によっては、それは「人生の闇」になることかもしれません。「イエス・キリストが光であられる」ということは、「イエス・キリストを信じても闇の中を歩むことがある」ということでもあります。すなわち、イエス・キリストを信じたら闇の中から解放され、もう2度と闇の中を歩むことはないというものではないのです。イエス・キリストを信じつつも闇の中を歩むことがあるのです。しかし、その闇の中に置かれたとしても光があるのです。旧約聖書に登場するハガルという女性がそうでした。ハガルと息子イシュマエルは、アブラハムの妻サラによって家を追い出されてしまいました。そして、食物も水も尽きてしまったとき、彼女は死を覚悟しました。そのとき、神がハガルに声をかけられました。そのことが創世記21章に書かれています。神の声を聞いたハガルは「目が開かれたので、彼女は井戸を見つけた。」と19節に書かれています。そして、彼女とイシュマエルは生きることができました。何度も触れていますが、神がハガルに声をかけられたから井戸ができたのではありません。ハガルが絶望の中に置かれているときから井戸はあったのです。ただ、ハガルは見つけることができかっただけのことです。また、復活のイエス・キリストに会ったマクダラのマリアにしてもそうです。彼女はイエス・キリストが葬られた墓に行きましたが、その墓にはイエス・キリストの遺体がありませんでした。彼女は「誰かが持って行った」と思い込んでしまいました。すると、甦られたイエス・キリストは彼女の後ろに立たれ声をかけられました。マリアは振り向いてその人を見たのですが、それがイエス・キリストだとは気づきませんでした。そして、泣き崩れているマリアに対して、イエス・キリストは彼女の名前を呼びかけられました。そのことがヨハネ20:11~16に書かれています。マリアは、自分の名前を呼ばれたとき、それがイエス・キリストであることに気づいたのです。
 ハガルにしてもマクダラのマリアにしても、絶望のどん底に陥っていたのです。まさしく闇の中に置かれていたのです。神を信じてもそのような経験をするのです。しかし、彼女たちはそこから希望を見出したのです。光が差しこんだのです。彼女らに光を差し込んだのは神のことばです。みことばによって絶望から希望へと変えられたのです。人生の光であるみことばは闇に打ち勝ったのです。闇の中に輝く光は、最初は小さなものかもしれません。ですが、闇に打ち勝つことのできる力があるのです。私たちは生きている中で様々な課題に直面します。時には、心が闇のようになってしまうこともあります。しかし、神はみことばを通して私たちの心に光を照り輝かせてくださいます。人は闇の中に置かれても輝くことができるのです。何故なら、イエス・キリストは闇の中でも輝いている方だからです。

結)
神が人を造られた目的は、人が生かされていることに感謝し喜びと希望をもって生きる者となるためです。そして、その神はみことばをもって慰め励まし力づけてくださいます。ヨハネは、そのイエス・キリストを「ことば」として紹介しています。そのことばをキャッチボールするには関係が良くないとできません。ことばは関係を表してもいます。イエス・キリストは、私たちが神とより良い関係を築くために来られました。それは、私たちが喜びと希望を持って生きる者となるためです。イエス・キリストはことによって世界を造られ、ことばによって生かしてくださるお方です。全ての源はイエス・キリストにあります。そのイエス・キリストとより良い関係を保ちつつ歩まされていきましょう。

ヨハネ1:1~2「神であられるイエス」  18.06.10.

序)
今日から新しくヨハネの福音書を共に見ていきます。聖書は旧新約合わせて66巻あります。これらは最初から聖書として存在していたのではありません。旧約聖書は約1100年という年月をかけて書かれた書物ですし、新約聖書は約60年という年月をかけて書かれた書物です。全て別々に書かれていたものを信仰の先駆者であられる方々が話し合い作られたのが聖書です。ですから、各々の書簡には主題・目的というものがあります。これから見ていきますヨハネの福音書にも主題・目的があります。ヨハネの福音書の主題・目的は何でしょうか。それは20:31に書かれていますように、イエス・キリストが神の子であられることを私たちが信じ、そのイエス・キリストによって永遠のいのちを受けるためです。その目的のためにヨハネの福音書が書かれたということを覚えつつ、これからヨハネの福音書を共に教えられていきたいと願っています。1:1を中心に、イエス・キリストとはどのような方であるかと共に見たいと願っています。

1)初めから存在されていた方
 まず、イエス・キリストは初めから存在されていた方です。1節の最初に「初めに」ということばが書かれています。このことばから、創世記1:1のみことばが思い起こされます。創世記1:1には「はじめに神が天と地を創造された。」と書かれています。創世記は聖書の最初の書物です。そして1:1は、その出だしです。その出だしに「はじめに神が天と地を創造された。」と書かれているのです。聖書は、神が存在されているかいないかは議論していないのです。まず神が存在されていることを前提として書かれているのです。聖書を読んで気づかされることの1つは、聖書は神の存在について全く議論されていないということです。聖書は、初めから神は存在されていると主張しているのです。そのことは、ヨハネの福音書においても同じです。ヨハネの福音書は、イエス・キリストが神であられることを前提として書かれているのです。そして、ヨハネ1:1の「初め」というのは、この世の初めではありません。ヨハネ17:5に「     」と書かれています。ここには、イエス・キリストがこの世が造られる前から存在されていたことが書かれています。また、コロサイ1:17には「     」と書かれています。「成り立っている」というのは、造られたことを意味しています。すなわち、万物は御子によって造られたというのです。すなわち、この世界はイエス・キリストによって造られたものなのです。ですから、1:1の「初め」というのは、この世の初めということではありません。この「初め」ということばは、時間を超えた永遠の初めを意味しているのです。すなわち、イエス・キリストは永遠の初めから存在されていた方であると語っているのです。そして、永遠なる方は神しかおられません。ですから、イエス・キリストは神であられるということを示しているのです。
 さらに「ことばがあった」と書かれています。この「あった」というのは存在していることを表しています。ですから、今も存在されていることを意味しています。ヨハネは、「初めにことばが造られた」とは語っていないのです。もしイエス・キリストが神ではなく造られた存在であったとするならば、ヨハネは「初めにことばが造られた」と書いたはずです。しかしながら、ヨハネ1:1にはそのようには書かれていません。「造られた」のではなく、「存在していた」と書かれているのです。それは、イエス・キリストが初めから存在されていた方であることを示しているのです。イエス・キリストは造られた被造物ではなく、初めから存在されていた創造主なる方なのです。そして聖書は、「はじめに神が天と地を創造された。」と語っています。すなわち、イエス・キリストは神であられるとヨハネは語っているのです。

2)神と共におられる方
 第2に、イエス・キリストは神とともにおられる方です。そのことに対して不思議に思われる方もおられるかもしれません。それは「イエス・キリストが神であられるなら、何故『神とともにあった』と書かれているのか」という疑問です。「ことばは神とともにあった」と読むとき、イエス・キリストと神とは別の人格のようにも受け取れます。これはヨハネの配慮からです。ヨハネは「イエス・キリストは神であられる」と語っています。そのことは20:28のトマスの告白を見ても明らかです。では、何故ヨハネは「ことばは神とともにあった」と書いたのでしょうか。それは、イエス・キリストと父なる神とを区別するためです。ヨハネはイエス・キリストを神と信じていますが、決して「神は神とともにあった」とは書かなかったのです。何故なら、そのように書いたのであれば、神が2人存在することになるからです。この誤解を避けるために、ヨハネは「ことばは神とともにあった」と書いたのです。ヨハネは、父なる神とイエス・キリストとを分けているのです。神という人格は1つだけです。神は一人だけですが、父なる神という働きと子なる神という働きと聖霊なる神という働きをなされるのです。これは父なる神がイエス・キリストとなられてこの世に来られ、そしてイエス・キリストが天に戻られてから聖霊なる神となられたのではありません。父なる神も、子なる神であられるイエス・キリストも、聖霊なる神も初めから存在されていたのです。同じ一つの神であられながら、各々違う働きを持っておられるのです。
 異端でありますエホバの証人は、イエス・キリストを神とは認めていませんし、聖霊も神とは認めていません。神は一人しかおられず、イエス・キリストは完全な人間であり、聖霊は神の力であると主張します。それは何を根拠として言うのかと言いますと申命記6:4のみことばからです。申命記6:4に「     」と書かれています。今私たちが用いています聖書には「主は唯一である」と訳されています。ところが、今まで用いていました新改訳聖書には「主はただひとりである」と訳されていました。エホバの証人が用いています新世界訳にも「ただひとり」と訳されています。そして、彼らは「聖書には『ただひとり』と書かれているのだから神は一人しかおられない」と主張するのです。ところが、問題はこの「ただひとり」と訳されていることばが、どのようなことばが用いられているかです。ヘブライ語には、1つを意味することばが2つあります。1つはヤフィードということばです。そして、もう1つはエハドということばです。言語学では「差はない」ということらしいですが、大切なのは「聖書はどのような意味合いで分けているのか」ということです。そして、調べてみますとヤフィードということばは文字通りの1つの時に用いられており、エハドは複数のものが1つのものを形成しているときに用いられています。例えば、創世記2:24に訳されています「ふたりは一体となる」の「一体」がエハドです。そして、申命記6:4の「唯一」とか「ひとり」と訳されていますのもエハドということばです。すなわち聖書は、神は複数が一体となって存在されていると語っているのです。ですから、父なる神と子なる神と聖霊なる神が一体となって、1つの神として存在されているのです。
 また、「ともに」とは、マルコ6:3の「一緒にいる」と訳されているのと同じことばです。マルコ6:3で意味しているのは、「対等に交わりを持っている」ということです。「どちらの身分が高いか低いかではなく、同じ立場でいつも自由に交わりをもっている」ということです。そして、ヨハネ1:1の「ともに」というのも、自由な交わりと持っていることを表しているのです。ことばであられるイエス・キリストは、決して神に劣る存在ではないことを示しているのです。決して神に劣る存在ではないということは、イエス・キリストは神そのものであるということです。「ともに」というのは、そのことを表しているのです。

3)神であられる方
 第3に、ことばは神であられるからです。エホバの証人の人たちは、「この神には定冠詞がついていない」と言われます。それで彼らは、「イエス・キリストは神ではなく、神的な存在である」と話されます。確かに「神的」と訳すこともできます。もしそのように訳すとするなら、むしろ「神的」ではなく「神性」と訳した方が正しいでしょう。すなわち、「イエス・キリストは神の性質をもっておられる方」と理解した方が良いでしょう。だからと言って、イエス・キリストは神ではないということではありません。神はどのような性質を持っておられるでしょうか。それは「神はどのような方であるのか」ということです。
 では、イエス・キリストはどのような方でしょうか。オリーブの会では、今イエス・キリストについて見ています。先月のオリーブの会では、イエス・キリストは真実なる方であることを見ました。それは黙示録3:14からです。ここに「アーメンである方」と書かれています。この「アーメンである方」とは誰のことを指しているのかです。1:1には「イエス・キリストの黙示」と書かれており、その後に、「そしてキリストは…ヨハネに告げられた。」と書かれています。そして、その後に7つの教会に対して告げられています。3:14は、その7つの教会の1つであるラオディキアの教会に対して告げられたことばです。ですから、ここで言われている「アーメンである方」とは、イエス・キリストのことを指しています。そして、「アーメン」とは御存知のように「真実」という意味です。イエス・キリストは真実なる方ということです。そして、真実なる方は神お一人しかおられません。
また、今度のオリーブの会で見る予定にしています黙示録21:6には、「わたしはアルファでありオメガである」と書かれています。「アルファでありオメガである」というのは「最初であり最後である」ということです。これは永遠なる方であることを表しています。永遠なるお方というのは神しかおられません。ここでも、イエス・キリストは神であられることが示されています。さらに、へブル4:15には「罪を犯しませんでしたが」と書かれています。人は誰もが罪を犯してしまう存在です。「罪を犯さない」ということは、「義なる方である」ということです。義なる方は神しかおられません。ここでも、イエス・キリストは神であられることが示されています。イエス・キリストは神しか持っておられない性質を持っておられる方なのです。それは神そのものであられるということです。

結)
この1:1のことばは、とても短いことばです。しかし、ここにはイエス・キリストが神であられることが明確に書かれています。決して、イエス・キリストは神ではなく人間であると書かれてはいないのです。その神であられるイエス・キリストが、人としてこの世に来られ、どのようにして歩まれたのか。さらに、人がどのようにしてイエス・キリストを神と信じたかが書かれているのがヨハネの福音書です。そのヨハネの福音書のクライマックスは、20:28に書かれていますトマスの信仰告白です。トマスはユダヤ人ですから、旧約聖書の教えをよく知っており、神は一人しかおられないことを知っています。そのトマスがイエス・キリストを「私の主、私の神」と告白したのです。ヨハネの福音書は、イエス・キリストが神であられることを示しています。そのイエス・キリストは、私たちのためにこの世に人として来てくださったのです。何よりも「私のために」というのを覚えて、これからも共にヨハネの福音書を見ていきましょう。

Ⅰコリント16:15~24「互いに助け合って」  18.06.03.

序)
 いよいよコリント人への手紙第1の最後の箇所となりました。一昨年の9月から約1年9ヶ月の間、この手紙から教えられてきました。私たちは読む本を選ぶとき何を見て選ぶでしょうか。多くはタイトルではないでしょうか。聖書は旧新約合わせて66巻あります。しかし、どれにもタイトルはつけられていません。では、このⅠコリントの主題は何かと言いますと、1:9に書かれていますように、「神は真実な方である」ということです。すなわち、神は約束されたことを必ず果たしてくださることが示されています。だからこそ、その神に対して真実を尽くしていくように勧めているのです。そしてパウロは、この手紙を書き終えるに当たって、この手紙を読む人たちにもう一度伝えようとしているのです。今朝は、このパウロが勧めている3つのことばから、神に真実に仕えるとは何かを共に教えられたいと願っています。

1)服従
 神に真実に仕える第1は服従することです。15節にステファナ一家について書かれています。この家族はアカイアの初穂として紹介されています。アカイアとは何処かと言いますと、コリントやアテネの町が属しています地方の名前です。アテネと言いますと、使徒の働き17:19~34に書かれていますアレオパゴスでパウロが伝道したことが有名です。その使徒の働き17:34に「     」と書かれています。18:8にクリスポが信じたことは書かれていますが、ステファナ一家が信じたことは触れられてはいません。その後に「多くのコリント人も…バプテスマを受けた。」と書かれていますから、その中にステファナ一家がいたのかもしれませんし、すでに17:34の所で信じていたのかもしれません。どちらにしろ、ステファナ一家の名前は書かれていないのです。それは社会的地位の高い人ではなかったからです。でもパウロは、ステファナ家族を「アカイアの初穂」として紹介しているのです。
 聖書には、アテネの町に教会が建てられたことは書かれていません。その理由は分かりませんが、アテネの町で信じた人はいたのです。でも、教会形成をすることはできなかったと考えられます。アテネという町は、この地方では一番大きな町でした。でも教会形成はできず、アテネよりも小さなコリントの町で教会が形成されたのです。何故アテネではできずコリントでできたのでしょうか。それは今朝の箇所の15節に書かれていますように、ステファナ一家が熱心に奉仕していたからです。
 このことから、教会を建て上げるに必要なものは何かというのを知らされるのではないでしょうか。教会を形成するにおいて必要なのは、熱心に奉仕する人です。このステファナ一家は、コリント教会の当初から教会形成に仕えていた人でした。彼らが熱心に仕えていたからコリントの町で教会を形成することができたのです。では、熱心とはどういうことでしょうか。「忠実」「真面目」「一生懸命」というのを思い浮かべやすいのではないでしょうか。確かにその通りです。15節で用いられています「熱心」ということばも、それらのことを含んでいます。さらに、自ら進んで行うことを意味してもいます。すなわち、他人に言われたことを熱心に行うだけでなく、自ら進んで「必要である」と思ったことを一生懸命することをも表していることばです。
 「誰かがやるだろう」というのではありません。「今この教会に必要なことは何か」をいうことを常に考え、他人から言われなくても自ら進んで自分にできることを奉仕することです。ステファナ一家は、そのような家族だったのです。実は、その熱心な奉仕が神の真実さを証しすることにも繋がるのです。何故なら、神は誰かから言われて私たちを愛してくださったのではなく、自ら進んで私たちを愛してくださったからです。ステファナ一家は、その神の愛を深く知っていましたから、自ら進んで教会に必要な奉仕をしていたのです。この奉仕は、神の真実さへの応答でもあったのです。だからパウロは、「このような人たちに従いなさい。」と16節で勧めているのです。互いに仕え合うことが、神に真実に仕えることでもあるのです。

2)尊ぶ
 神に真実に仕える第2は尊ぶことです。17節に3人の名前が書かれています。その最初に「ステファナ」と書かれています。このステファナは、15節に書かれていますステファナのことと考えられます。そのようなことから、この3名はコリント教会の役員のような存在だったのかもしれません。パウロは「このような人たち尊びなさい。」と勧めています。一般社会で尊ばれる人というのは、社会的地位が高く仕えられる人ではないでしょうか。ですが、教会ではそうではありません。イエス・キリストは「偉くなりたいと思うなら仕える人になりなさい」と話されました。教会で尊敬され重んじられる人は仕える人なのです。その理由は何かと言いますと、イエス・キリストご自身が仕える人として世に来られたからです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとして父なる神の審きを受けられるために来られました。まさしく、私たちに仕えるために来られたのです。私たちは、そのイエス・キリストのように歩むことを目指しているのですから、仕えられるものではなく仕える者として歩むことが求められています。ですから、イエス・キリストのように神と人に仕えている人を尊ぶようにとパウロは勧めているのです。
 また、この「尊ぶ」には、その人が負っている奉仕を軽くするという意味も含まれています。それはどういうことかと言いますと、一部の人に奉仕が集中しないということです。一部の人にだけ奉仕が集中したらどうなるでしょうか。もし皆さんに「あれも、これも奉仕してください」と言われたらどうでしょうか。つぶれてしまうのではないでしょうか。いくら「ご苦労様です」と声をかけられたとしても、奉仕の量が減らないのであれば慰めにはなりません。
 パウロは、この3人について「あなたがたがいない分を、彼らが埋めてくれたからです。」と語っています。この3人は自ら進んでパウロに仕えたのです。コリント教会の中には幾つかのグループに分かれていました。そして、彼らは自分たちの主張はするのですが、仕えるという部分が足りなかったのです。少し話しが反れるかもしれませんが、先週の月曜日にTCU愛知・岐阜支援会が大須の教会で行われました。私も10数年ぶりに出席しました。今回は「ユースミニストリーについて考える」というテーマで、午前と午後の講演がありました。日本の教会の現状としてユースの減少が著しいと言われています。講師はジョークではありますが「絶滅危惧種」とまで言われました。教職者の高齢化と共に、教会員の年齢の高齢化と中高生の減少が深刻であるということです。講演の最初の方で「NIV訳聖書では、ギリシャ語のディアコニアということばがミニストリーと訳されている」と紹介されました。同じことばの動詞形を新改訳聖書では「もてなす」とか「仕える」ということばに訳されていると紹介されました。そして、「ミニストリーにおいて福音を伝える聖書を教える。また相手にアドバイスするといった能動的な働きは必要不可欠であることは言うまでもありません。しかし、それらの働きには、主と人に仕える者としてへりくだる姿勢を持つ受動的な働きと共に行われるべきである。」とも話されていました。聖書におけるミニストリーということばの概念には、福音を伝えるというだけでなく、神と人に仕えるというものも含まれているというのです。「そこにはユースの必要を知り理解することだ」とも話されていました。クリスチャン新聞にも、中高生に対する働きについて4回掲載されていました。それを読んで思わされるのは、やはり「中高生に仕える」という姿勢の大切さです。相手の必要を知り理解するには仕えることが最も良い方法です。そして、コリント教会には、その相手に仕えるという部分が欠けていたのです。ですが、この3人はそうではありませんでした。パウロによく仕えていたのです。「そのような人を尊ぶように」とパウロは勧めているのです。イエス・キリストご自身も、マタイ20:26で「     」と話されました。大切なのは、仕えている人を尊ぶことです。

3)挨拶を交わす
 神に真実に仕える第3は互いに挨拶を交わすことによってです。19節以降は、諸教会からの挨拶をパウロは報告しています。ここには「よろしく」ということばが繰り返し書かれています。この「よろしく」ということばには、「安否を問う」という意味が含まれています。コリント教会は様々な信仰の戦いの中を歩んでいました。コリントの町の中で、彼らだけが神を信じ従っている群れでした。ともすると、「その戦いの中で戦っているのは自分たちだけだ」という思いになることもあるでしょう。しかしそうではありません。コリント教会は決して孤立して信仰の戦いを戦っているのではありません。アジアの諸教会を始め、多くの兄弟姉妹の祈りが背後にあるのです。神を信じる者は、その多くの兄弟姉妹の祈りによって支えられているのです。
 そのことは現代の私たちにおいても同じです。信仰というのは、神との縦の交わりと共に、兄弟姉妹という横との交わりがあって成り立っているのです。ともすると、私たちは「信仰は神と自分との関係である」と思って、「それだけで十分である」と錯覚してしまいやすいです。でも、そうではありません。昨年、ある先生から聞いた話しですが、春日井教会の週報の祈祷課題の最後に毎週姉妹教会の1つを掲載しています。そして、バプテスマを受けられた方の名前と歩みについて挙げています。そして、週報は定期的に姉妹教会に送られています。その教会のバプテスマを受けられた方が、春日井教会の週報を見て自分のことが記載されているのを見て喜ばれたというのです。春日井教会の週報は、姉妹教会の兄弟姉妹に読まれているのです。そして、読まれているだけでなく祈られてもいるのです。この春日井神領キリスト教会というのは、決して孤立して歩んでいるのではなく、姉妹教会の兄弟姉妹の祈りによって支えられているのです。信仰は神との縦の関係だけでなく、兄弟姉妹との横の関係も大切なのです。そして、私たちも姉妹教会のことを覚えて祈っていきたいものです。
 挨拶を交わすというのは、相手のことを気にかけることでもあります。私は20歳前後のとき教会生活を離れていた時がありました。そこには「教会に行かなくても聖書を読んで祈っていれば良い」と思ったからです。ところが、2年後位に、「これは間違いである」ということに気づかされました。そして、近くの教会の礼拝に出席しました。1年位は礼拝が終わるとすぐに帰っていました。それは何故かと言いますと、初めて教会に行くのですから、回りの人は知らない人ばかりです。当時、その教会は礼拝の後に分級という時間がありました。私は青年のクラスに出席しました。そして、隣に座っている青年に声をかけました。その青年は返事してくれたのですが、その後は気の合った青年とずっと話しをしているのです。他の青年もそうなのです。私一人がポツンと取り残されたのです。私はそのとき「何だこの教会は」という印象を持って、「別に嫌な思いをして分級に残る必要はない」と思って、それからは毎週礼拝が終わってすぐに帰っていたのです。
 私が神学生のときのことですが、ある教会の牧師から「青年会の集いで証しをしてほしい」という依頼を受けました。最後に茶菓の時があります。そこには初めて来た人もいました。すると、その人はポツンと1人になっていました。すると、少し離れた青年が気づいて、近くにいる青年に目で合図をするのです。すると、近くにいた青年が初めて来た人に近寄って話しかけたのです。私はその光景を見て「よく訓練されているな」と思わされたのです。当時のその教会の牧師が、今娘が通っていると思われる教会の牧師です。その教会が暖かい教会であるのか冷たい教会であるかは、私たちの接し方に関わってきます。私たちの教会も声をかける教会でありたいものです。

結)
 教会は一部の人が頑張って建て上げるものではありません。互いが助け合い仕え合って建て上げられていくものです。それが神に真実に仕えることでもあります。私たちの教会も、互いに助け合い仕え合って神に仕えていく教会として歩まされていきましょう。

Ⅰコリント16:1~9「配慮のある奉仕」  18.05.06.

序)
 今までは15章を見てきました。この15章はイエス・キリストの復活について書かれている箇所でした。この15章を一言で言い表すならば、「復活の希望に生きる」というものです。神は私たちに本当の希望を与えてくださいました。希望というのは将来のことです。ですが、私たちの歩みは将来だけを見るのでは良くありません。目の前のことも大切です。目の前の生活というのは現実ということです。この現実と将来の両方を見据えて歩むことが大切です。この16章は、その現実的な事柄について書かれています。それは献金とコリント教会の訪問計画についてです。ところが、ここにはとても細やかなパウロの配慮を見ることができます。このパウロの配慮を通して、現実的な歩みの中で神に仕えるとはどういうことかを共に教えられたいと願っています。

1)献金について
 まず、献金について書かれています。皆さんは「献金」と聞かれますと、何を思い浮かべられるでしょうか。教会に来ている私たちは、教会で献げられている献金を思い浮かべられるのではないでしょうか。確かに、ここに書かれています献金も教会の中で献げられている献金です。しかし、ここに書かれている献金は少し趣旨の違う献金です。何故なら、「聖徒たちのための献金について」と書かれているからです。それはエルサレム教会に送る献金のことです。言うなれば指定献金です。指定献金とは、ある目的のために用いるために献げられる献金です。ここで聖書は、指定献金について語っているのです。
 私たちは「献金」と聞きますと、まず思い浮かべるのが収入の10分の1を献げる月定献金と毎週の礼拝で献げる礼拝献金ではないでしょうか。多分、バプテスマを受けられた方は学ばれたことと思いますが、服従には2つあります。それは消極的服従と積極的服従です。消極的服従というのは、定められているから従うというものです。それは聖書や教会が定めているから従うというものです。それに対して、積極的服従というのは聖書や教会が定めてはいませんが、自ら進んで行うものです。この消極的と積極的というのは献金においてもそうです。消極的献金というのは、定められているから献げるというもので月定献金がそうです。それに対して積極的献金というのは感謝献金や指定献金などです。
 今朝の箇所に取り上げられている献金は、「聖徒たちのための献金」であり、その献金はエルサレム教会に届けられることが書かれていますから、エルサレム教会のための献金であることが分かります。すなわち、積極的献金であるということです。この積極的献金について、聖書は何と勧めているでしょうか。その第1は2節の中程に「あなたがたはそれぞれ」と書かれていますように各自が献げるものです。決して、経済的に余裕のある人だけが献げるものではありません。何故なら、神からの恵みというのは一人ひとりが受けているからです。献金は、その神の恵みに対して感謝しつつ神にお返しするものであり、その神に信頼して歩むことの決断の現れとして献げるものだからです。
 次に、「週の初めの日に」献げるということです。これは「礼拝が献げられている場で行う」ということです。また、「週の初めの日に」というのは計画性をも表しています。神への献げ物は思いついて献げるものではなく計画をもって献げられるものでもあるということです。礼拝での献金を前もって用意しておくというのも計画の1つですし、結婚記念や受洗記念などの節目ごとに献げるというのも計画の1つでしょう。ある教会では、礼拝の生け花のために誕生日や記念日に献げられています。掲示板に専用の表が貼られていまして、その表に教会員が自分の名前を記入して、その日に近づいたら指定献金として献げるというものです。これも計画の1つであると言えるのではないでしょうか。
 最後に、「収入に応じて」献げるということです。これは金額的な問題ではなく、神の恵みに感謝する思いの問題です。この献金の勧めには、パウロの細やかな配慮を見ることができます。コリントの町は商業の町でしたから、経済的に豊かな人もいれば苦しい人もいました。そのような人たちが教会に集うのです。ですから、教会の中にも経済的に豊かな人もいれば苦しい人もいました。ですが、献金というのは特定の人だけが献げるものではなく、会の恵みを受けている全ての人が献げるものです。しかしながら、経済的な現実というものもあります。だからこそ、「収入に応じて」と勧めているのです。私たちの教会も献金に対して、さらに細やかな配慮ができる群れとされたいものです。

2)コリント訪問について
 パウロは、自分がコリント教会に着いてからエルサレム教会への献金を募ることもできました。しかし、彼はそのようなことをしないで、コリント教会の人たちの自主性を重んじました。そして、その献げられた献金をエルサレム教会に運ぶのも自分ではなく、コリント教会の代表者に託しています。パウロは献金の取り扱いに対して非常に慎重です。それは、パウロが私腹を肥やしているという疑いを避けるためです。事実、コリント教会に疑われていました。そのことがⅡコリント12:16に「     」と書かれています。誤解を避けるためにも、コリント教会の代表者にエルサレム教会への献金を託すことを勧めているのです。
 そればかりでなく、コリント教会に訪問する予定についても細かく配慮しています。エルサレム教会への献金について語った後、パウロは自分のコリント教会への訪問について書いています。何故、献金の後にコリント教会への訪問について書いているのか不思議に思われるかもしれません。ですが、ここにはパウロの細やかな配慮を見ることができます。パウロはコリント教会に、エルサレム教会への献金を募ることを勧めました。でも、その献金はいつまで募れば良いのか分かりません。このコリント教会への第1の手紙は、8節を見て分かりますように、パウロがエペソの町にいたときに書かれたものです。エペソの町が何処にあるか御存知でしょうか。聖書の後ろに地図があります。「地図13:パウロの第1次、第2次伝道旅行」を開いていただきますと、中程上に太文字で「アジア」と書かれています。その左下に「エペソ」と書かれています。ここは現在のトルコの西に位置します。そのエペソから左に海を渡りますと「アテネ」と書かれています。その少し左側に「コリント」と書かれています。エペソからコリントの町までは、船で渡りますと10日程で行ける距離です。ですから、地理的判断をして「2週間程でパウロはコリント教会に来る」と思う人もいたかもしれません。ですが、パウロにはそのような計画はありませんでした。パウロがコリント教会に訪問する予定は、もっと後だったのです。
 5節に書かれていますが、パウロはマケドニア地方を通る予定をしていました。このマケドニア地方というのは、エペソの左上に黄緑のところに太文字で「トラキア」と書かれています。その左に太文字で「マケドニア」と書かれています。このマケドニア地方にはピリピ教会やテサロニケ教会があります。ですから、パウロはエペソを出てからピリピ教会やテサロニケ教会に寄る予定をしていたのでしょう。パウロはコリント教会に着くのは「冬を越すことになるかもしれない」と語っています。しかも、8節を見ますと「五旬節まではエペソに滞在するつもりです。」と語っています。五旬節というのはペンテコステの日ですから、日本で言えば初夏の時季です。そのように考えますと、パウロがコリント教会に着く予定は早くとも1年後ということになります。ですから、コリント教会には手紙が届いてからすぐに着く予定ではないということです。そのため、いつコリント教会に行くのかを知らせないと変な誤解が生じます。誤解が生じないためにも、パウロは丁寧なコリント教会への訪問予定を書いているのです。
 また、パウロはコリント教会に訪問する予定が遅れることの理由も丁寧に書いています。その理由の第1は、7節の終わりにも書かれていますように、コリント教会に長く滞在する予定でいるからです。手紙を送ってからすぐに行けば、コリント教会には長く滞在することができません。コリント教会に長く滞在するためにも、コリント教会に行く前に済ませておこうとしているのです。第2は、エペソ教会に留まらなければならない課題があったからです。具体的にどのような課題があったのかは分かりませんが、福音を宣べ伝えるということと同時に「反対者も大勢いる」と9節の最後に書かれていることから、エペソ教会の人たちの信仰の成長のためというのもあったと考えられます。
 このようにパウロが丁寧にコリント教会への訪問について書いたのは、先程も話しましたように誤解を避けるためです。何故なら、誤解されることによって人間関係は悪化してしまうからです。このことからしても、パウロは人との関係をとても重視していたことが分かります。何故なら、人は関係の中で生きるものとされているからです。パウロは自分の働きが神から託されているものであることを確信していました。しかし、だからと言って一人ひとりの心の問題を無視していたわけでもありません。むしろ、彼らの心の問題にとても気を使っていたのです。何故なら、神への奉仕というのは人への奉仕でもあるからです。神を愛し人を愛することを神は求めておられます。ヨハネ自身も、「神を愛すると言いながら、目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」と語っています。パウロがコリント教会への訪問について丁寧に書いているのは、人への配慮からであり愛からであることを知らされるのではないでしょうか。

結)
 パウロは献金やコリント教会への訪問について丁寧に書いています。それは、そのようなことでコリント教会の人につまずいてほしくないからです。パウロという人は、神の前に正しく生きようとしていた人でした。それは、「自分だけが神の前に正しく生きれば良い」ということではありません。神を信じる全ての人が神の前に正しく生きるのを願っていたのです。だからこそ、このような細やかな配慮をすることができたのです。そして、それが神に仕えるということでもあります。何故なら、神は私たちだけを愛しておられるのではなく、全ての人を愛されているからです。ヨハネ13:34で、イエス・キリストは「     」と話されました。愛されるだけでもなければ愛するだけでもありません。受けるだけでなければ与えるだけでもありません。互いに愛し愛され、互いに与え受けるのです。大切なのは「互いに」です。日本のことばの中に「お互い様」ということがあります。私自身、日本語のことばの中で好きなことばの1つです。助け助けられる。愛し愛される。私たちもお互いに思いやって、細やかな配慮をもって神に仕える者とされるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント15:50~58「全ては無駄ではない」  18.04.29.

序)
 この3月に私は初めて確定申告をEネットで申告しました。確定申告をする度に、神は必要なものを満たしてくださる方であると思わされています。パウロは、その神のみわざに目を留めて、望みを抱きつつ歩むことを勧めています。では、望みを抱いて歩むとはどういうことでしょうか。それは今までも何度も見てきましたが、今しなければならない目の前のことを忠実に果たすということです。ごまかした生き方をしないことです。何故なら、全ては神にあって無駄ではないからです。今朝は、何故全ては無駄ではないのかを共に教えられたいと願っています。

1)神の国を相続する者とされているから
 全ては無駄でない第1の根拠は、神を信じる者は神の国を相続する者とされているからです。神の国とは何でしょうか。ある方は「天の御国」と思われるかもしれません。確かに、天の御国は神の国に間違いありません。ですが、神の国は天の御国だけではありません。ルカ17:21に「     」と書かれています。ここはイエス・キリストがパリサイ人に語られた箇所ですが、21節の後半に「神の国は…あるのです。」と話されています。この「あなたがた」とは、神を信じる人のことです。すなわち、「神の国は神を信じる者の心の中にすでに存在している」と話されているのです。
 これはどういうことかと言いますと、神の国とは神が中心としておられ、神の御心がなされる所であり、神が共にいてくださる所です。ですから、限定された場所的なものではありません。神が中心におられ、神の御心がなされている所であるならば、そこが神の国となるのです。イエス・キリストは、マタイ28:20の最後で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束してくださいました。すなわち、神が共にいてくださるのであれば、その人の中に神の国はなされているのです。イエス・キリストを信じる一人ひとりが神の国とされているのです。何故なら、御霊なる神が内に住んでくださっているからです。
 イエス・キリストを信じる者の中に御霊なる神が住んでくださっていますから、イエス・キリストを信じる者の身体は神の国とされています。しかし、今朝の箇所の50節の中程で「血肉のからだは神の国を相続できません。」と語っています。確かに、イエス・キリストを信じる者の中に御霊なる神は住んでくださっていますが、このままの身体で神の国を相続することはできないというのです。変えられる必要があるのです。当時のコリント教会の中には、「すでに自分はキリスト者とされているから大丈夫」と思っていた人がいました。そして、そのような人たちの日々の生活は、神を信じていない人と全く同じような自己中心的なものでした。50節のパウロのことばは、そのような人たちへの警告でもあります。いくら神を信じていても、神を信じていない人と同じような生活をしているのなら、決して神の国を相続することはできないのです。
 ここでパウロは、コリント教会の人たちに悔い改めることを求めているのです。自己中心的な生き方を悔い改めて、真のキリスト者として歩むことを勧めているのです。ある方は「そんなことをしたら、この世では生きていけない」と思われるかもしれません。この世は要領の良い人が成功する世界です。そのような世界の中にあって、正直に生きていくならバカを見るような世界です。行うこと全てが無駄になってしまうように思える世界です。しかし、無駄ではないのです。何故なら、最後には神の国を相続することができるからです。
 正直な生き方は地味なものであり、決して目立つような生き方ではありません。あるタレントが「小さなことからコツコツと」とよく言っていましたが、一発千金を狙うような生き方ではなく、小さなことをコツコツと果たしていく生き方です。この前も触れましたが、イエス・キリストはルカ16:10で「     」と話されました。神は私たちの小さなことに目を留め、それを正しく評価してくださいます。ですから、決して無駄なことはないのです。むしろ大切なことなのです。何故なら、神の国を相続する者とされているからです。

2)変えられる者とされているから
 全てが無駄でない第2の根拠は、変えられる者とされているからです。パウロは「血肉のからだは神の国を相続できない」と語っています。では、どのようにして神の国に入るのでしょうか。それは変えられて神の国に入ることができるのです。「何に変えられるのか」と言いますと、血肉の身体から御霊の身体に変えられるのです。人は御霊の身体に変えられて、神の国に入ることができるのです。これは私たちが理解できるものではありません。私たちの理解を遥かに超えたものです。神は私たちに理解することを求めてはおられません。神のことばを信じることを求めておられます。
 変えられるというのは、ある意味ではそういうことでもあります。すなわち、血肉の身体というのは物質的身体です。ですから、物質的なものに頼ってしまう身体です。物質というのは目に見えるものですから、目に見えるものに頼ってしまいます。そして、目に見えるものというのは、納得できたり理解できたりするものです。すなわち、納得できたり理解できたりするものに頼る生き方が血肉の身体でもあるのです。ところが、神はそのような私たちを御霊の身体に変えてくださるのです。御霊というのは目で見ることはできません。目に見えないものですから、目に見えないものに頼る生き方を表しています。目に見えないものとは何でしょうか。それは信仰です。へブル11:1に「     」と書かれています。ここには「信仰とは何か」ということが書かれています。それは「神の約束を信じる」ということです。神のみことばは、私たちに理解できるものではありません。もし、神のみことばが人に理解できるものであったなら、旧約時代のイスラエルの民は不信仰の道を歩むことはなかったでしょう。理解できなかったから不安を覚え、目に見える偶像の神々に目を留め、神から離れてしまったのです。何故なら、目に見えるものは理解できるからです。
 しかし、神の約束は目に見えるものではありません。その神の約束に目を留めるには信仰が必要です。そして、その神を信じる信仰は御霊なる神の助けなしには得ることはできません。人がどれだけ努力しても変わることはできないのです。聖書は「変わりなさい」と勧めているのではなく、「変えられるのです」と語っているのです。そして、人も神の約束を信じることのできる者へと変えられるのです。そこには「変えられたい」という思いが必要です。「神の約束を信じることができますように」という祈りと決心が必要なのです。その祈りと決心は一度だけで良いというものではありません。
 今朝、私たちは礼拝の中で主の祈りを唱えました。その主の祈りの中に「日毎の糧を今日もお与えください」とあります。「今日も」なのです。このことばは重要です。「毎日」ということばではないのです。「今日も」とは、「昨日に続いて今日も」ということです。昨日の神の恵みを覚えているのです。私たちは昨日の神の恵みを覚えているでしょうか。神は昨日あなたにどのような恵みを与えてくださったでしょうか。今一度、昨日神から与えられた恵みを思い巡らしてみましょう。どうでしょうか。どのような神の恵みを受けられたでしょうか。また「今日も」というのは、「今日も神の恵みに目を留めることができますように」という祈りの決心でもあります。それは「神が恵みを与える」という約束に、「今日も目を向け信じることができますように」ということです。ですから、「神の約束を信じることができますように」という祈りと決心は一度だけで良いのではなく、日毎にすることが大切なのです。何故なら、私たちは目に見えるものに目を留め頼ってしまいやすくなるからです。だからこそ、「私が目に見えないあなたの約束に、今日も生きることができますように」と祈ることが大切なのです。そのように祈り続けるとき人は変えられます。何故なら、それが神の約束だからです。見える事柄には無駄のように思えても、神にとっては決して無駄ではありません。何故なら、神は無駄に思えるようなものをも用いることのできる方だからです。

3)死に勝利する者とされているから
 全てが無駄でない第3の根拠は、死に勝利する者とされているからです。54~57節に「     」と書かれています。何度も話していますが、死が表すものは絶望です。死を「縁起の悪いもの」として、「死んだらお終い」という考えを持つのは、人が目に見えるものの中で生きているからです。しかし、聖書は「人は死んでお終いではなく甦りという希望がある」と語っています。死は人生の終着点ではなく通過点の一つに過ぎません。イエス・キリストは、そのことを明らかにするために死から甦ってくださったのです。ですから、私たちは死を恐れる必要なないのです。
 何度も話していますが、甦りというのは死を経験しないとできません。死ぬことなくして復活はありません。それと同じように、苦しみを通して理解を超えた神の大いなるみわざを経験することができるのです。星野富弘さんという方がおられます。彼は中学の体育教師でした。クラブでマット運動の見本を見せるとき、着地に失敗して首から下が動かなくなりました。そのような経験を通してイエス・キリストと出会いました。そして、今では口に筆を挟んで絵と詩を書いています。今では「星野富弘美術館」という建て物が建てられ多くの来館者がおられます。彼にとってマット運動の事故は生涯を大きく変えました。しかし、彼は「あの事故を通して障害者となったからイエス・キリストと出会うことができた」と、障害者となったことを受け入れるように変えられました。彼は障害という苦しみを通して、今まで以上の想像もしなかったすばらしい経験をされたのです。それはまさしく苦難に対する勝利です。
 Ⅰコリント10:13に「     」と書かれています。神は耐えられない試練に会わせられる方ではありません。必ず脱出の道も備えてくださっています。私たちは苦しみに遭遇しますと、その苦しみだけに目を留めてしまい、その苦しみが少しでも早く解決されることを願います。その願いが悪いわけではありません。それが私たちです。神はそのような私たちを責められる方ではありません。そのような私たちを受け入れ、「わたしを信じなさい」と言われているのです。何を根拠にでしょうか。13節に書かれていますように、神は真実な方だからです。神は私たちが遭遇します苦しみを通して、すばらしいことをしてくださいます。それがどのようなものなのかは分かりません。ですが、「神は真実な方である」ということを信じ、その神に期待することを求めておられるのです。何故なら、イエス・キリストは死から甦られたからです。
 そして、父なる神はイエス・キリストを死から甦らされただけではありません。57節に「     」と書かれています。神は私たちにも勝利を与えてくださったのです。私たちは死に勝利する者とされているのです。すなわち、苦しみを克服することのできる者とされているのです。苦しみを克服するとはどういうことでしょうか。それは苦しみがなくなるということではありません。苦しみというのは受け入れられないものです。受け入れられないから苦しむのです。その受け入れられないものを受け入れられるように変えられるのが「苦しみを克服する」とういことです。それは「神がこのことを通して益としてくださる」とプラス的に捉えられるようになるということです。何故なら、イエス・キリストは死に勝利された方だからです。そして、そのイエス・キリストを信じる者も死に勝利する者とされているのです。オリーブの会でも話しましたが、甦りというのは死を経験したから生じるものです。死を経験しなければ甦りも経験することはできません。苦しみを克服するとは、苦しみを経験するからできるのです。ですから、苦しみは決してマイナス的なものではないのです。

結)
 キリスト者というのは神の約束を信じて生きる人です。だから、パウロは58節で「     」と語っています。「堅く立って」とは、何処に堅く立つのでしょうか。それは神の約束の上にです。神が「与える」と言われている希望の約束の上に堅く立って、いつも神のわざに励むことが勧められているのです。いつも神のわざに励むとは小さなことです。乱暴な言い方をすればバカ正直な歩みです。世間から見れば損をするような歩みです。しかし、その歩みを神は私たちに求めておられるのです。何故なら、全ては無駄ではないからです。先程の聖書交読でも読みましたが、マラキ3:18「     」と書かれています。神に仕える者と仕えないものの違いを神が見させてくださることを信じ、神のわざに励むことができるように祈っていきましょう

Ⅰコリント15:35~49「失望のない希望」  18.04.22.

序)
 本日は午後に大野伊都子姉の記念会が行われます。大野姉が天に召されて明日で1年となります。日本では「死」ということばが「縁起の悪いもの」として避けています。何故避けるのかと言いますと、「死は絶望的なもの」と捉えられているからです。ですが、聖書は「死は決して絶望的なものではない」と語っています。死の先には甦りという希望があります。天に召された大野姉もそうです。では、その失望のない希望を持つにはどうすれば良いのでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)決断が必要
 失望のない希望を持つ第1は、決断が必要であるということです。コリント教会の中には、イエス・キリストを信じつつも死者の復活を信じられない人たちがいました。そして、35節のような質問があったのでしょう。もし死んだ人が甦るのなら、どのようにして甦るのでしょうか。この疑問は、私たちにとっても興味深いものではないでしょうか。現代の日本では殆ど遺体を焼却します。ところが、当時のイスラエルでは、穴を掘って遺体を埋めたり、洞窟の中に入れたりしていました。遺体を焼くことをしませんから、埋葬された遺体は腐ってしまい、骨だけになってしまいます。そのようなものが復活するとき、どのようにして肉体を持つのかという疑問が生じるのは自然的なことです。
 そのような疑問を持つ人に対して、パウロは36~44節で説明しています。人は穀物を収穫するために種を蒔きます。そして、水や肥料を与えて実を結んだとき収穫します。何故人は種を蒔くのでしょうか。それは種からすばらしい実ができるのを知っているからです。種を蒔いても、もし収穫するとき種のままであるなら、種を蒔くことはしないでしょう。種をそのまま食べれば良いのです。汗水流して水や肥料を与える必要はないのです。しかし、種は土の中に埋められることによって種という性質が死んで、種とは全く違う新しい性質に生まれ変わって成長します。それは種という性質が死ぬからこそなのです。人は種を蒔くことはできますが、成長したものを作ることはできません。確かに、水や肥料を与えて成長を助けることはできますが、人の力で成長したものを作りだすことはできません。現代クローン技術は著しく進歩しています。しかし、成長したものを作りだすのではありません。受精させて増殖とか同じ個体を生み出すというものです。もし、成長したものを作りだすことができるなら、種を蒔く必要はありません。成長したものを作れた良いのですから。ですが、人にはそのようなことはできません。何故なら、それは神にしかできないことだからです。
 ある方は「種が死んだのではなく、種が成長して新しい芽が出る」と言われるかもしれません。確かにその通りです。しかし、種という性質が死んだのも事実です。「自分はいつまでも種のままでいるのだ」と言っていたなら、その種からは決して新しい芽は出ません。種という性質が死んでこそ、初めて新しい芽が出るのです。これは人についても同じです。人の死というのは、この世の人間の性質が死に新しい性質の人間として甦るのです。種が死ぬことによって新しいものに変えられるのと同じように、人間も死ぬことによって新しい人に変えられて甦るのです。ですから、現在の身体と復活の身体は性質的には全く違うものなのです。私たちは甦るとき、古い身体のままで甦るのではありません。新しい者と造り変えられて甦るのです。そして、神を信じる者はすでに新しい者に造り変えられるのです。それには決断が必要なのです。どのような決断かと言いますと、イエス・キリストを信じるという決断です。

2)将来に目を向けること
 失望のない希望を持つ第2は、将来に目を向けることです。パウロは45節で「     」と語っています。最初のアダムは生きるものとなりましたが、最後のアダムはいのちを与える御霊となられたのです。ここでは2つのことに注目したいのです。その1つは、「生きるものとなった」ということばと「いのちを与える」ということばです。もう1つは「もの」ということばと「御霊」ということばです。
 まず、「生きるものとなった」と「いのちを与える」ということばです。最初に造られた人間であるアダムは「生きるものとなった」と書かれています。この「生きるものとなった」というのは、過去から現在を見る捉え方です。「過去にこうであったから現在に至っている」という見方です。人は神のかたちとして造られた存在であり、人格のある者として造られましたから、現在の私たちも神のかたちとして人格のある者として存在しています。だから、人は神と交わりを持つことができるのです。造られたもので神と交わりを持つことのできるのは人間だけです。他の動物は神のかたちとして造られていませんから、神に祈るということはしません。「しない」というよりも「できない」と言った方が正しいでしょう。それは人間以外の生き物は神のかたちとして造られていないからです。ですから、「生きるものとなった」というのは、現在人は神のかたちとして人格のある者として存在しているという過去から現在の見方です。
 ところが、イエス・キリストは「いのちを与える御霊となりました」と書かれています。この「いのちを与える」というのは、現在から将来を見る捉え方です。すなわち、神は今の私にすばらしいことをしてくださったのだから、これから先もすばらしいことをしてくださるという見方です。私たちはこの世にあって様々な苦しみに遭遇します。苦しみから逃れることのできる人は誰一人いません。イエス・キリストも死という経験をされたのです。そして、その死を通して甦りという人には想像もできなかったすばらしいことをしてくださったのです。ですから、私たちは生きている中で苦しみを経験しますが、その苦しみを通して神はすばらしいことをしてくださるという将来に目を向けることができるのです。
 次に、最初のアダムには「もの」ということばが使われていますが、最後のアダムであるイエス・キリストには「御霊」ということばが使われています。最初の人アダムには「もの」ということばが使われているのは、人は見えるものに囚われてしまいやすい存在であることを示しています。事実、アダムとエバはサタンの誘惑によるものではありますが、善悪の知識の実を取って食べてしまいました。彼らは見えるものに心が奪われてしまうという弱さを持っていました。サタンは、その人の弱さを突いてきたのです。そして、人は自分の弱さに負けてしまい、神に対して罪を犯してしまいました。この「もの」ということばは、人は目に見えるものに頼りやすくなる弱い存在であることを示しています。
 ところが、イエス・キリストは「御霊」となられたのです。創世記は世界が神によって造られたことが書かれています。そして、2章には人の創造について書かれています。7節に「     」と書かれています。この「いのちの息」とは霊のことです。人は神から霊を注がれることによって「生きるもの」となったのです。これは他の生き物にはない人間だけに行われたものです。この「生きるもの」とは、前向き肯定的に生きることを意味しています。すなわち、人は漠然と生きている存在ではなく、目的・目標を見据えつつ前向き肯定的に生きる者とされているのです。しかし、人は神に対して罪を犯してしまいました。そのために、本来の目的・目標を見失ってしまい、前向き肯定的に生きることができなくなってしまいました。ですが、神は罪を犯して人間を見捨てることをされず、私たち人間を愛し続けてくださいました。そして、エゼキエル37:14で「     」と約束してくださいました。すなわち、神の霊が再び注がれるとき、人は本来の目的・目標を見出し前向き肯定的に生き返る者とされるのです。そして、イエス・キリストはいのちを与える御霊となられたのです。それは、私たちに本来の目的・目標を見出させ、前向き肯定的に生きることのできる者へと変えてくださるのです。過去ではなく、将来に目を向けさせてくださるのです。ですから、失望のない希望を持つには、そのイエス・キリストにあって将来に目を向けることです。

3)関係の中に生きる
 失望のない希望を持つ第3は、関係の中に生きることです。聖書は「イエス・キリストを信じる人は、そのイエス・キリストに接ぎ木された」と語っています。今朝の箇所の47節で「第二の人は天から出た方です。」と書かれています。また、48節に書かれています「天に属する者たち」とは、イエス・キリストを信じ接ぎ木された人のことです。そして、49節に書かれていますように、イエス・キリストを信じた人は天に属する方のかたちも持つ者とされているのです。すなわち、この世にあって肉体的な身体を持っていますが、同時に霊的な身体も持っているのです。
 では、霊的な身体を持つとはどういうことでしょうか。聖書には「神は霊です」と書かれています。イエス・キリストご自身も御霊なる方です。そして、イエス・キリストを信じる者も霊的な者とされています。このようなことから、霊的な身体を持つとは、霊なる神と交わりを持つことができるということです。すなわち、目には見えませんが確かに生きて働いておられる神と交わりを持つことができるのです。別のことばで言いますと、神とより良い関係の中に生かされているということです。関係というのは目には見えません。しかし、人が生きていくにおいて大切なものです。
 人は神によって造られたとき、「いのちの息」という霊を吹き込まれ生きるものとなりました。すなわち、神とより良い関係の中に生きるものとされていたのです。しかし、その神に対して罪を犯してしまったがために、神とのより良い関係が壊れてしまい、生きる希望を見失った歩みをするようになったのです。ですから、人が希望のある人生を歩むには、私たちを造ってくださった神とより良い関係を築くことであり、その関係の中で歩み続けることです。
 人は関係の中で生きるものとされています。その第1は私たちを造ってくださった神との関係です。そして次に自分との関係です。第3は他人との関係です。ところが、人は罪を犯してしまったがために、その順番も的を外してしまい反対になってしまいました。他人とのより良い関係を求める者となってしまったのです。今の若い人は友達の電話番号を知らない人が多いようです。何故なら、LINEで済ませられるからです。LINEですと無料で電話をかけられますしメールもできます。ところが、既読されているのに返事がないと無視されているように思えたり、または「既読したらすぐに返事しなければ関係が壊れてしまうのではないか」ということですぐに返信する方がおられます。これは何よりも他人との関係を重視していることを示しています。最近の若い人は、そのようなことも含め理由は様々ですが、通知設定をオフにされているようです。他人に受け入れられていることで平安を得ようとするなら、いつまでも人の目を気にした歩みになってしまいます。
 イエス・キリストは、いのちを与える御霊となられました。人はイエス・キリストを通して神に愛され受け入れられていることを知り、その神を信じることによって本来の関係に戻ることができます。すなわち、自分を造ってくださった神との関係を第1にし、次に今の自分が受け入れられているという自分との関係がより良くされ、そして最後に他人との関係もより良いものへと築かれます。人はその関係の中で生きることによって不安から解消され、失望のない希望の人生を歩むことができるのです。今までどのような歩みをされて来られたでしょうか。その歩みは一言で言い表すことのできないものかもしれません。しかしながら、その歩みがあって今があるのではないでしょうか。そして、その歩みを支えてくださったのは神です。その神との関係の中に生きることによって、人は失望のない希望を歩むことができるのです。

結)
 神はあなたを生かしてくださるお方です。生きるとは、漠然とした生活を過ごすことではありません。目的・目標を見つめつつ、前向き肯定的に歩むことです。神はそのような人生を私たち一人ひとりに与えてくださったのです。私たちは、そのような人生を歩むために神に造られたのです。それには新しい者として生きることの決意が必要です。そして、将来に目を向け、神とのより良い関係の中で生きることです。何故なら、全てのことは神から出ているからです。

Ⅰコリント15:29~34「今を生きる」  18.04.15.

序)
 4月は入学式や入社式の季節です。入学式や入社式に出席される方々の多くは、進学や新社会人の方々ではないでしょうか。これらは人生の節目の1つでもあります。教会にもいろいろな儀式が執り行われます。その代表的なのが礼典というものです。プロテスタント教会において、礼典とはイエス・キリストが命じられた儀式でバプテスマ式と聖餐式です。バプテスマ式は、イエス・キリストを信じたことを見える形として表すものです。また、聖餐式は、過越しの祭から来ており、神の審きが過ぎ越され、完全に救われていることの再確認を見える形として表しているものです。先程読んでいただきました箇所は、聖書の中でも難しい箇所の一つです。それは「死者の故のバプテスマ」ということばです。難しいことは横に置きまして、今朝は死者の復活がないとしたらどうなるのかを共に教えられたいと願っています。

1)バプテスマの意味がなくなる
 第1に、死者の復活がなければバプテスマを受ける意味がなくなってしまいます。この手紙を見る限り、コリント教会のおいては死者のためのバプテスマが行われていたようです。では、死者のためのバプテスマとは何なのかと言いますと、これには多くの解釈があります。それら全てを紹介することはできませんが、代表的なのは、すでに死んだ人の代わりに生きている人がバプテスマを受けるという考え方です。この考え方は、「バプテスマを受けることによって救われる」という考え方です。しかし、聖書は「救いは人の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰による」と語っています。ですから、もうしそうであったならパウロは激しく反対していたことでしょう。そのことから、「この死んだ者とは、イエス・キリストを信じたけれどもバプテスマを受けずに死んだ人」と理解する人もいます。しかし、聖書は先程も話しましたように、バプテスマを受けることによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われます。ですから、バプテスマを受けなくてもイエス・キリストを信じているならすでに救われているのです。
 では何故、私たちはバプテスマを受けるのでしょうか。それは、イエス・キリストが命じられているからでしょうか。バプテスマが意味するものは一体何でしょうか。それについては、ローマ6:4~5に「     」と書かれています。バプテスマの意味は、イエス・キリストを信じる前の自分はイエス・キリストと共に死んで葬られ、イエス・キリストを信じた新しい自分がイエス・キリストと共に甦るということです。それは霊的なことだけでなく、肉体的にも甦ることを表しています。すなわち、イエス・キリストを信じるのを見える形として表したのがバプテスマです。
 コリント教会が、死者のバプテスマを行っているのをパウロは許しています。ですが、だからと言って勧めているわけでもありません。ここでパウロが強調しているのは、「バプテスマは死者の復活を表しており、コリント教会が死者のためのバプテスマを行っているのなら、死者の復活を否定することは自分たちが行っているのと矛盾していることになる」ということです。要は、何のために死者のためのバプテスマを行っているのか分からなくなり、意味のないものとなってしまうということです。ですが、私たちが受けましたバプテスマは、復活は必ずあるということのしるしです。すなわち、どのようなときにおいても希望がなくなることはないということのしるしです。私たちは、その希望のしるしでもあるバプテスマを受けたことを覚えましょう。

2)信仰生活の意味がなくなる
 第2に、もし死者の復活がないのであれば、私たちの信仰生活の意味はなくなるということです。当時のキリスト教は、ユダヤ教やローマ帝国による迫害が多く、殉教する人も多くいました。また、パウロ自身も多くの危険に遭遇しました。それでも信仰を貫くことができたのは何故でしょうか。それは、死者の復活を確信していたからです。もし死者の復活がなかったのなら、パウロや殉教者の働きは意味のないものになってしまいます。いや殉教者だけでなく、イエス・キリストを信じて天に召された方々も同じです。彼らは毎日の生活の中で、信仰の戦いをしてきました。多くの試練や誘惑と戦いながら、与えられている信仰を貫いて天に召されたのです。もし死者の復活がないのであれば、そのような人の信仰の戦いも意味のないものとなってしまいます。
 それだけでなく、私たちの信仰生活においてもそうです。多くの人は「死は人が最終的に行き着く所」と思われています。そして、「人は死んでお終い」と捉えています。ところが、聖書は「人は死んでお終いではなく、その人の歩みの通過点にしか過ぎない」と語っています。人は死んでお終いではなく、死んだ後にもその人の人生があるのです。私たちはそのことを信じているのではないでしょうか。確かに人の死というのは、この世での別れですから悲しいものです。ですが、後に再会することができるという希望が与えられているから、その悲しみは一時的なものなのではないでしょうか。ですが、もし死者の復活がないのであれば、死は永遠の別れになってしまい、その悲しみは一時的なものではなく永遠の悲しみとなってしまいます。
 またそれだけでなく、私たちの日々の生活においてもそうです。「死はお終いではなく、人生の通過点の一つである」ということは、死は絶望ではないということです。何度も話していますが、多くの人は「死は人が行き着く最終的な場所であり、死を絶望的なもの」と捉えておられます。ですが、イエス・キリストが死から甦られ、死者の復活があるということは、死は絶望的なものではないということです。死が絶望的なものではないとしたら何でしょうか。それは死の先にも希望があるということです。死以上の大きな問題はありません。私たちが生きて経験しますあらゆる事柄も、死ほどの大きな問題はありません。死者の復活を通して死が絶望的なものではなく、死の先にも希望があるのでしたら、私たちが遭遇しますあらゆる問題においても希望があるということです。
 あなたは、イエス・キリストの復活を心から信じておられるでしょうか。そして、死者の復活を心から信じておられるでしょうか。もし本当に信じておられるなら、私たちが抱えている問題にも必ず解決される希望があるということではないでしょうか。「希望があるのではないでしょうか」というよりも希望があるのです。死者の復活を信じるか信じないかは、私たちの生活において大きな影響を及ぼします。それは、本当の希望をもって歩むことができるかできないかということになるからです。そして、もし死者の復活がないのであれば、私たちが抱いています希望は意味のないものとなってしまい、私たちの信仰生活も意味のないものになってしまいます。ですが、イエス・キリストの復活と死者の復活は事実なのです。私たちは死者の復活を堅く信じ、歩むことができるように祈っていきたいものです。

3)自制する意味がなくなる
 第3に、もし死者の復活がないのであれば、自制する意味がなくなります。パウロは34節の前半で、「目を覚まして…罪を犯さないようにしなさい。」と勧めています。この「正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。」とはどういうことでしょうか。少なくとも、ここは神を信じている者に語られていることですから、神を信じ神の恵みに対して正しく応答することが勧められているわけではありません。私たちは神から信仰が与えられたからと言って、強い人間に変えられるわけではありません。やはり、弱さを持ったままの人間です。私たちの耳に入る様々な雑音を通して不安を覚え、知らない内に道を反れてしまうことがあります。「正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。」とは、「取れてしまった道を修正しなさい」ということです。すなわち、「死者の復活を堅く信じ、神に希望を抱いて歩みなさい」ということです。
 そのために必要なのは自制です。自制とは何でしょうか。そのまま読めば、自分を制することです。では、自分を制するとはどういうことでしょうか。今朝の箇所から言いますと、神が私たちに与えてくださっているものは、問題が解決されるという希望です。私たちは、その希望に目を留めて歩んでいます。ですが、その希望はずっと先のことです。私たちはずっと先の見つめて歩むのは大切なことですが、もう一つ大切なものがあります。それは先週も触れましたように、目の前のしなければならないものを忠実に果たすということです。Ⅰコリント9:24以降には戦う人について語られています。彼らは賞を得るために何をしているのかと言いますと自制です。すなわち、勝利を得るという先の希望に目を留めつつ、そのために今しなければならないことを忠実に練習しているのです。これが聖書の語っている自制です。
 33節に「悪い交際は良い習慣を損なう。」と書かれています。「悪い交際」とは何かと言いますと雑音です。現代は情報社会です。私たちは様々なものから耳に情報が入ってきます。当時の情報は人を通してです。そのような情報に振り回され、見なければならないものを見つめることをしないで、しなければならないこともしないでいることが、正しくない生活であり罪なのです。だから、34節で「目を覚まして…罪を犯さないようにしなさい。」と勧めているのです。すなわち、目の前のしなければならないことを忠実に果たしていくことを勧めているのです。
 私たちは死者の復活を信じているからこそ、「必ず問題は解決される」という希望があることを信じ、今しなければならない目の前のことをしているのではないでしょうか。ですが、もし死者の復活がないとしたら、それらも全て意味のないものとなってしまいます。何故なら、希望がなくなってしまうからです。その希望というのは、自分が願う希望ではありません。たとえ自分が願っていたことと違う結果が出たとしても、神はそのことを通してすばらしいことをしてくださるという希望です。神のみわざへの希望です。しかし、もし死者の復活がないとしたら、その神のみわざへの希望もなくなってしまいます。すると、自制していることも意味のないものとなってしまいます。ですが、イエス・キリストの復活は歴史的事実であり、死者の復活も必ずあります。来主日の午後には、昨年天に召された大野姉の記念会が行われます。私たちが天に召されたとき、先に天に召された大野姉とお会いすることができます。また、それだけでなく、イエス・キリストが再び来られたとき大野姉と共に甦ることができるのです。私たちはそのことをこれからも信じ続け、今しなければならない目の前のことを忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

結)
 死者の復活を信じるか信じないかで、私たちの歩みは大きく違ってきます。何故なら、本当の希望のある人生を歩むことができるかどうかにかかってくるからです。そして、本当の希望のある人生を歩むことができるために、イエス・キリストの復活と死者の復活を信じているのではありません。イエス・キリストの復活と死者の復活が事実だからこそ信じているのです。だから、パウロはⅠテサロニケ4:11で「     」と語っているのです。私たちは先にある目標を見つめていますが、それと同時に今しなければならない目の前のこともしっかりと見つめて歩む必要があります。将来ではなく今です。今を忠実に生きることが私たちにとって大切なことです。

Ⅰコリント15:20~28「キリストにある希望」  18.04.08.

序)
 先週はイエス・キリストが死から甦られたイースターでした。昨日は、子どもイースター集会が行われました。皆さんのお祈りと奉仕に感謝します。また、新年度が始まり新しい生活リズムとなられた方もおられることと思います。この新しい年度、神は私たちにどのようなことをしてくださるでしょうか。その神のみわざに期待したいものです。聖書が語っています信仰とは、「平安が与えられ喜びが与えられるなら何でも良い」というのではなく、事実に基づいたものを信じるということです。イエス・キリストが死から甦られたのは歴史的事実です。ですから、私たちは生きている中で様々な苦しみや悲しみを経験しますが、それらに対しても希望があります。何故なら、「絶望」と思っていた死からイエス・キリストは甦られ生きておられるからです。以前にも話しましたが、生きるとは可能性があるということです。そして、可能性があるということは希望があるということです。その希望を与えてくださった神のみわざに期待し信頼して生きることが、聖書の語っている信仰です。そのキリストにある希望はどのようなものでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)不安の克服
 その第1に、キリストにある希望は不安を克服させてくださいます。20節の最初に「しかし、今や」と書かれています。これは以前の新改訳聖書もそのように訳されていますが、新共同訳聖書には「しかし実際」と訳され、口語訳聖書では「しかし事実」と訳されています。これは、イエス・キリストの復活を否定している人に対して、イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを強調しています。そのイエス・キリストは「眠った者の…よみがえられました。」と書かれています。この「眠った者」とは、イエス・キリストを信じ死なれた人のことです。イエス・キリストは、その死んだ人の初穂として甦られたのです。では、「初穂」とは何を意味しているでしょうか。それは、この後にも続くというのを意味しています。すなわち、イエス・キリストを信じる者も必ず甦ることができるということです。
 例えば、新しい実験をする人は「果たしてこれでうまくいくだろうか」と結果が出るまでは心配します。そして、期待通りの結果が出て初めて安心します。それだけでなく、「この方法で行えば、必ずこの後も同じ結果が出る」という確信を持つことができます。キリストの初穂というのも同じです。私たちは必ず死にます。また、死に対して不安や恐れを抱きます。そして、「できれば永遠の命を得たい」と望みます。ですが、いくら望んだとしても客観的に証明されない限り安心はできません。あるのは「本当にこれで良いのだろうか」という不安だけです。しかし、イエス・キリストは死んだ者の初穂として甦られました。イエス・キリストの甦りは歴史的事実です。そのことを認めるとき、「自分も必ず死を経験するけれども、イエス・キリストと同じように甦ることができる」という確信を持つことができます。視点を変えて言うならば、イエス・キリストの甦りは新しい実験の結果なのです。すなわち、神を信じる者はイエス・キリストに続いて死んだ後も甦ることができるということなのです。
 何故、この世に死というものがあるのでしょうか。聖書は「死は一人の人を通して生じた」と語っています。それはアダムの罪によってです。神はアダムとエバを造られたとき、彼らに自由を与えられました。但し、善悪の知識の木の実だけは取って食べてはいけませんでした。これが神と人の約束でした。しかし、人はその神との約束を破ってしまいました。それによって、神と人との関係が壊れてしまい、死がこの世に入ってしまったのです。この世に死が存在するのは、人が神に対して罪を犯してしまったからです。そのことを見ますと、「命」というのは神との関係に大きなカギがあることに気づかされます。命とは生きることであり、生きるとは希望を持つということです。神と自分との関係がどのようなものであるかによって、その人が本当の希望をもって生きられるかどうかが決まってきます。神はイエス・キリストを死から甦らせてくださいました。これは神を信じる私たちに本当の希望を与えてくださったことを意味しています。私たちは、死という不安を克服することができるのです。それは、これからもある様々な不安をも克服することができるということでもあります。何故なら、死よりも大きな不安はないからです。神はイエス・キリストの復活を通して、私たちに不安を克服させてくださり、キリストにある希望を与えてくださったのです。

2)順序がある
 第2に、そのキリストにある希望には順序があるということです。パウロはキリスト者の復活について23節で「     」と語っています。死者の復活にも順序があります。このことは何を意味しているでしょうか。それは、物事の解決にも順序があるということです。私たちは不安を抱きますと、すぐに解決することを願います。そのように願うのは悪いことではありません。ですが、物事の解決には順序があるということを覚えておくのは大切です。何故なら、神は秩序のある方だからです。神は世界を造られたとき、秩序をもって造られました。どのように世界を造られたでしょうか。初めに光を造られました。そして、空気と水を造られ、そして陸を造られました。その後に、太陽と月と星を造られ、その後で空を飛ぶ鳥と水の中を泳ぐ魚を造られました。その後に、陸の上に生じる植物を造られ、最後にその植物を食べる動物と人間を造られました。神は世界を造られるとき、いきなり動物や人間を造られたのではありません。もしそうだったら、動物や人間は食べるものがありませんし、空気もありませんから生きられません。神は世界を造られるとき、このように順序をもって造られたのです。
 そして、死者の甦りにも順序があります。ですから、物事の解決には順序があるのです。「いきなり解決されるということは絶対にない」とは言いません。何故なら、神は私たちの想像を越えた方ですから、そのようなこともできるお方です。しかし、それだけを願うのは聖書が語っています信仰ではありません。物事が解決されるというのは結果です。物事が解決されることだけを願うのは、結果だけを求めることになってしまいます。ですが、神は結果を重視される方ではなく、その過程を重視される方です。ですから、物事の解決においても同じです。物事が解決されるには、目の前のことを忠実に果たしていく必要があります。
 ですから、物事が解決されることを祈るのは大切ですが、目の前にある事柄を忠実に果たせるように祈るのも大切です。それをしないで、良い結果だけを祈り求めるのは聖書が語っている信仰ではありません。ルカ16:10に「     」と書かれています。結果は大きなことでしょう。ですが、目の前のことは小さな事です。しかし、イエス・キリストは「小さな事に忠実な人は大きなことにも忠実である」と話されているのです。物事の解決には順序があることを覚えましょう。そして、目の前にある小さなことを忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

3)約束の成就
 キリストにある希望の第3は、約束が成就されたということです。24節の最初に「それから終わりが来ます。」と書かれています。イエス・キリストが再びこの世に来られたとき、神は審きを行われます。そして、全てのものを従わせます。最初に神が造られた世界は、全てのものが神に従う世界でした。しかし、人が神に対して罪を犯してしまったがために、この世に罪が入り神に背を向ける歩みをするようになりました。ですが、それらも解決されるのです。神が造られた世界が回復するのです。その創造の回復にも順序があります。その順序は、神の約束に基づいて勧められます。
 まずは、人が神に罪を犯すように導いたサタンに対して、神は「サタンには敵対するが人には味方になる」と約束されました。その後、神はアブラハムを選ばれ、神に選ばれた者が神の祝福を受けるという約束をされました。そして、モーセの時代に信仰の規律となる律法を与えられ、ダビデにおいては王国の確立が約束されました。そして多くの預言者を送られ、救い主が来られることが預言されました。そして、イエス・キリストが救い主として誕生され、神の約束は成就されました。一瞬の内に罪の問題を解決することのできる神が、長い時間をかけて罪の問題を解決されたのです。それは「人が神に対してどのように歩むか」という過程を重視されていたからです。
 多くの人は、神に対して罪を犯すことが「それほど大きなこと」とは思ってはいません。しかし、神の目から見れば大きなことなのです。ですが、神の目からみれば結果は大きなことではありませんが、人の目から見れば結果は大きなことなのです。ここに、神の目から見る視点と人の目から見る視点の違いを知ることができます。私たちは問題が生じますと、解決されるという結果を何よりも願い、それだけに目を留めてしまいやすくなります。しかし、神は問題の解決よりも過程に目を留められます。神と人との見方は違います。何故なら、先程も話しましたように問題の解決というのは、神の目から見れば大きな事柄ではないからです。それは、神は解決することのできる方だからです。
 そして、それは私たちが抱えます問題においても同じです。私たちが抱えます問題は自分自身にとっては大きな事柄です。すぐに解決されることを願います。でも、神はすぐにではなく順序をもって解決してくださるのです。イエス・キリストは死から甦られました。死に打ち勝たれたお方です。死は人が神に対して罪を犯したがために入りました。その死に打ち勝たれたということは、罪の問題を完全に解決されたということです。そして、私たちが抱えている問題においても、神は解決することのできるお方です。イエス・キリストの復活はそのことを表しています。だからこそ、私たちにとって大切なことは、神の約束の成就を信じて、目の前にある事柄に対して忠実に果たしていくことなのです。

結)
 イエス・キリストの復活を通して、神が私たちに与えてくださったものは希望のある人生です。私たちの先にあるものは希望です。だからこそ、目の前にある小さなことを忠実に果たしていくのは大切なことです。ヨハネ16:33の後半に、「世にあっては…勝ちました。」と書かれています。この「勇気を出しなさい。」とは何でしょうか。それは、目の前の問題がどれほど大きかろうとも、それから逃げるのではなく、自分がしなければならないことを忠実に果たしていく勇気と力です。その勇気と力は、私たちの内から絞り出そうとしても絞り出せられるものではありません。神から与えられるものです。どのようにしてでしょうか。それはイエス・キリストの復活に目を留めることによってです。18年度の歩みも、私たちは様々なことを経験することでしょう。しかし、復活のイエス・キリストに目を留めて、勇気と力をいただきながら、目の前にある事柄を忠実に果たしていくことができるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント15:12~19「希望のある人生」  18.04.01.

序)
 イースターおめでとうございます。新年度の最初の日が主日であり、しかもイースターであるのは珍しいことです。総会でも触れましたが、昨年度から新しい活動が始まり、今年度は少し変更しましたが似た活動が続けられます。昨年度の歩みを神が導いてくださったことに感謝しつつ、今年度の歩みも神に期待して歩まされたいと願っています。聖歌604番に「数えてみよ主の恵み」という歌があります。その歌の出だしは「望みも消えゆくまでに世の嵐に悩むとき、数えてみよ主の恵み。なが心は安きを得ん」と書かれています。辛いことを経験しても、今までの神の導きを思い巡らすとき、神の確かさを思い起こされます。そして、「この辛い時も神は必ずすばらしいものに変えてくださる」という希望が起こされます。私たちはどのような時においても、イエス・キリストにあって希望を持つことができます。それは何故でしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)死から甦られたから
 イエス・キリストに希望がある第1は、イエス・キリストが死から甦られたからです。私たちはイエス・キリストが死から甦られたという復活を信じています。ところが、コリント教会の中には、イエス・キリストの復活を信じていなかった人たちもいたのです。これはイエス・キリストの復活を信じている私たちからすれば、非常に不思議なことのように思えたりするのではないでしょうか。「イエス・キリストの復活を信じられない人は何を信じているのか」と思えたりもします。また、「イエス・キリストの復活を信じられない人はキリスト者とは言えない」と言われる方もおられるかもしれません。中には、「何故そのような人にバプテスマを授けたのか」と言われる方もおられるかもしれません。
 ですが、私個人としてはそのような人たちの考え方が分からなくもありません。何故なら、コリントの町はアテネから西に約70㎞の位置にあるからです。その距離は春日井市から浜松市位の距離です。めちゃくちゃ遠い距離でもありません。アテネという町は哲学の町です。その影響を受けていたとは考えられます。哲学は理論的ですから、納得できないものや理解できないものは受け入れません。死からの復活というのもそうです。復活というのは理解できるものではありません。ですから、アテネ哲学の影響を受けていた人たちは、死からの復活を本当に信じることができなかったのです。
 そのようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。ひょっとしたら、「いいえ、私はイエス・キリストの復活を本当に信じています」と言われるかもしれません。ですが、私たちの中に「これだけは絶対に無理だ」という思いが生じることがあるのではないでしょうか。例えば、教会の奉仕にしてもそうです。「この奉仕だけは絶対に私にはできない」と思えることがあります。私自身もありました。以前にも話しましたが、私は「教会学校の奉仕なんて絶対にできない」と思っていました。何故かと言いますと、当時は独身でしたから子供への接し方が分からなかったからです。そのため、教会学校の奉仕をしたことがありませんでした。神学校に入って奉仕教会に行きましたら、いきなり「教会学校の教師をしてください」と言われました。「できません」なんて言えません。何故なら、献身したのですから。祈りつつ奉仕していましたが、4年間苦しみました。そして、神学校を卒業して内灘聖書教会に戻りました。そこでは中高生を担当することとなり、心の中では「ホッ」としたことを覚えています。すると、児童伝道のアワナクラブというのを全国展開で始める準備をしていました。私もそれに関わることとなり、5月から教会で始めることとなりました。そして、その責任者として私が任命されたのです。私の心の中は不安でいっぱいでした当然祈ります。祈ったら平安が与えられるかと言いますと、そうではありません。祈っても平安は与えられません。そのような状態で奉仕する中で、徐々にですが子どもへの接し方を学び、今日に至ることができたのです。
 教会の奉仕などを依頼するとき、自信がなく「できません」とすぐに答えられる方がおられます。「できない」というのは本当です。ですが、それは「私にはできない」ということであって、「神にはできない」ということではありません。確かに、今の自分にはできないかもしれませんが、神はできる者へと成長させてくださいます。それには第一歩が必要なのです。その第一歩を踏み出すことをしないなら、イエス・キリストの復活を信じていないコリント教会の一部の人たちと同じです。何故なら、できない自分ができるようになるなんて理解できないからです。しかし、イエス・キリストは絶対に理解できない死から甦られたのです。私たちの想像以上のことをされたのです。それならば、今はできないけれども、神はできる者へと必ず成長させてくださいます。何故そのように断言できるのかと言いますと、私がそうだったからです。神には不可能なことはありません。私たちにとって「不可能」と思えることも、神はできるお方です。イエス・キリストの死からの甦りはそのことを示しています。だからこそ、イエス・キリストにあって希望を持つことができるのです。

2)復活が歴史的事実だから
 イエス・キリストに希望がある第2は、イエス・キリストの復活が歴史的事実だからです。パウロはイエス・キリストの復活について、17節で「     」と語っています。私はカード入れをポケットの中に入れています。そのカード入れには運転免許証やクレジットカードなどが入れてあります。時々忘れてしまい、免許不携帯で教会まで来ることがあります。以前私はスーパーで買い物をしてレジに向かいながら、ポケットの中にカード入れがあるかを確認したところカード入れがありませんでした。ポケットの中にカード入れがあると思い込んで品物をカゴの中に入れていたのに、ありませんからカゴに入れた品物を元の場所に戻していく時の空しさを今も覚えています。
信仰も同じです。もしイエス・キリストの復活が実際になかったのなら、それは全く意味のない希望です。もしイエス・キリストの復活が実際になかったのなら、それは全く意味のない希望ですし、希望のない信仰になってしまいます。そのようなものは、全く信じるに価しないものになってしまいます。それなのに、そのようなものを信じているなら、19節に書かれていますように、本当に哀れな者となってしまいます。では、そのようなことにならないために、イエス・キリストの復活を歴史的事実として信じているのでしょうか。もしそうであれば、実質的にはなかったものを信じているのですから、哀れな者であることに変わりありません。
聖書は「イエス・キリストは復活された」と教えています。ですが、それは単なる教えではありません。イエス・キリストの復活は歴史的事実なのです。歴史的事実だからこそ信じているのです。パウロは、イエス・キリストの復活が歴史的事実でない場合の結果を平気で語っています。何故パウロは、そのようなことを平気で語ることができたのでしょうか。それは、パウロがイエス・キリストの復活の教えを信じていたからではありません。実際に甦られたイエス・キリストと出会ったからです。自分の身体をもって経験したからです。パウロの心の中には、イエス・キリストの復活が万が一にもないことを確信していたから、復活が事実でない場合のことを平気で語ることができたのです。このことからしても、イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを示しています。そして、私たちも「信じれば平安が与えられるから」とか「信じれば喜びが与えられるから」ということで信じているわけではありません。イエス・キリストの復活が歴史的事実だからこそ信じているのです。事実に基づいたものを信じるのがキリスト教信仰です。
これらのことを見るとき、「聖書が語る信仰とはどのようなものであるか」というのを知ることができます。信仰とは「ただ信じれば良い」というものではありません。事実に基づいたものを信じることです。「他人のために良い」と思って、嘘の証言をすることは許されないのです。それは「神のために」と思えることにおいても同じです。人が感激して神に目を向けるためなら作り話を語っても良いということにはならないのです。それは神に背く行為になってしまいます。また、信仰は見栄を張ることでもありません。神を信じる者は真面目な人になったのだから、ジョークも言わず無理な生活をしなければならないものでもありません。神はその人の性格を用いられるお方です。私たちの性格や性質を通して働いてくださるお方です。ですから、神から与えられている性格や性質に感謝しつつ、その中で神を信じて生きることを神は求めておられるのです。
私たちは「何故キリスト教を信じているのか」と聞かれることがあります。私たちは聖書の教えがすばらしいから信じているのでしょうか。決してそうではありません。すばらしい教えは何処の宗教にもあります。私たちが聖書を信じているのは、聖書が語っていることが事実だからです。そうではないでしょうか。心の安らぎを得るために信じているのではなく、聖書に書かれていることが事実だから信じたのではないでしょうか。そして、その信じた結果として心の安らぎが与えられたのではないでしょうか。確かに、「心の安らぎを得るために教会に来られた」という方もおられます。教会に来られたきっかけはそうであったとしても、信じる決心をされたのは心の安らぎを得るためではなく、聖書が語っていることが事実だったからではないでしょうか。イエス・キリストが甦られたというのは歴史的事実です。だからこそ、イエス・キリストに希望があるのです。

結)
 ローマ10:11に「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」と書かれています。「この方」とは、イエス・キリストご自身のことです。イエス・キリストにこそ本当の希望があります。それはイエス・キリストが死から甦られた方であり、その甦りは歴史的事実だからです。今日から2018年度が始まりました。この新しい年度も、私たちは様々な事柄に直面することでしょう。その事柄は全てが自分にとって良いものではありません。自分にとっては悪いものも経験することでしょう。しかし、私たちには本当の希望が与えられているのです。希望の人生が与えられているのです。そのような人生を与えてくださった神を覚え、イエス・キリストの復活に目を留めて、この新しい年度を歩まされていきたいと願います。