メッセージ

マルコ6:7~13「生きた信仰生活」 24.11.24.

序)
 今日は11月最後の主の日であり、来主日からはクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。クリスマスは、私たちの罪のために身代わりとなって神の審きを受けるためにお生まれになられた、イエス・キリストの誕生を祝うときです。その祝うときを待ち望む期間がアドベントです。ですが、「そのアドベントの期間は毎日楽しみにしてクリスマスを待ち望んでいるのか」と問われますと、必ずしもそうではないことに気づかされます。怒ってしまったり、不安に陥ったりしたりもします。長い信仰生活の中には、喜びのない生活が続くこともあります。でもそれは、決して不信仰なことではありません。信仰が与えられていても生じるものです。今朝のタイトルは生きた信仰生活です。生きた信仰生活とは、神に感謝し喜びを抱きつつ歩む生活です。今朝は、私たちが生きた信仰生活を過ごすために必要なことを教えられ、アドベントを迎えられればと願っています。

1)信仰と生き方が同じである
 私たちが生きた信仰生活を過ごすに大切なことの第1は、信仰と生き方が同じであることです。8~9節でイエス・キリストは「     」と話されました。これを聞きますと、非常に厳しいことをイエス・キリストは弟子たちに命じられているように思えます。皆さんは旅行に行かれるとき、余分なお金を持って行かれるのではないでしょうか。旅先で何かが起きたことを考えて、少し多目に持って行かれるのではないでしょうか。ここでは伝道旅行のときについて話されていますが、それも同じです。イエス・キリストは、「杖一本のほかは何も持たないように」と言われたのです。「食物も袋も胴巻きの小銭も持って行くな」と命じられたのです。胴巻きの小銭は何かあったときの備えのお金です。すなわち、「杖以外は手ぶらで行くように」と話されたのです。そのように言われると「下着は!」と思って、「着替え用」として2枚身に着ける人がいるかもしれません。そのため「下着は二枚着ないように」とも命じられたのです。そのように聞かれますと、「えっ不衛生な」と思われるかもしれません。
 イエス・キリストからこのように命じられたら従えられるでしょうか。今朝の箇所を理解するには、当時の背景を知る必要があります。当時のユダヤ社会では旅人をもてなす風習がありました。聖書の中にも人をもてなすことが勧められています。旅人に必要なものを与える風習がありましたが、必ずしも与えられるとは限りません。東京オリンピックを招致するときに言われた「おもてなし」と言うことばが流行語大賞となり、日本は「おもてなし文化」の印象を与えました。「当時、ユダヤ社会では旅人をもてなす風習があった」と言ってもどれほどのものかは分かりません。「やはり、最低限のものは準備して旅をしていたのではないか」と想像します。
 では、何故イエス・キリストはこのようなことを命じられたのでしょうか。ここには「何に信頼することが大切なのか」が話されています。「何に信頼するのか」と言えば、御存知のように神を信頼することです。私たちは「神を信頼する」とか、「神は必要なものを必ず満たしてくださることを信じている」と口では告白します。ここでイエス・キリストは、弟子たちの告白を求めておられるのではありません。弟子たちの生き方を求めておられるのです。神は必ず必要なものを与えてくださいます。私たちはそのことを信じています。信じていますが、だからと言って何も備えないわけではありません。備えてしまいます。その「備えることが間違いである」というのではありません。「自分の知識や知恵だけに頼って生きてはいけない」ということです。
 一番分かりやすいのが月定献金です。神は私たちに10分の1以上献げることを告げられています。口では「神を信頼しています。神は必要なものを満たしてくださいます」と言いつつ、献金は10分の1以下であるならどうでしょうか。それは信仰告白と生き方が異なっていることを意味しています。ここでイエス・キリストが求めておられるのは、「信仰告白と生き方が同じであるように」ということです。何故なら、信仰告白と生き方が同じでなければ生きた信仰生活にはならないからです。

2)感謝して受け取る
 生きた信仰生活を過ごすことの第2は、感謝して受け取ることです。イエス・キリストは、10~11節で「     」と話されました。ここでの強調点は10節です。その町に入って受け入れられたら、その所に留まり続けるということです。これはどういうことかと言いますと、ある町に入って受け入れられ、その家に招かれたとします。ところが、少し経ちますともっと待遇の良い家から招かれたとしても、その家に行ってはならないということです。何故でしょうか。まず出かけるとき旅の安全や導きを神に祈ります。私たちもそうではないでしょうか。遠くに出かけるとき祈ります。弟子たちも伝道旅行に出かける前に祈ったことでしょう。そして、自分たちを招き入れてくれる家が与えられたとき、神の導きと恵みとして受け止めます。ところが、生活する中で「自分には合わない」とか、「条件の良いものが他からあった」ということで変えるなら、それは自分を基準として判断したことになります。イエス・キリストは、「そのようなことがないように」と勧めておられるのです。
 以前にも話したと思いますが、もう40年以上も前の話しですが、私が献身することを決断し教会籍を津の教会から内灘教会に転籍することを願うために、当時の津新町キリスト教会の礼拝に出席しました。すると、そこに私と年齢が同じ男性が東京から転勤され、津の教会の礼拝に出席されました。彼が津の教会に集うようになったのは母教会の牧師の紹介です。ところが、当時津の教会には青年が少なかったのです。それで彼は母教会の牧師に「別の教会に移りたい」と願い出ました。ところが、牧師は「その教会は君が導かれた教会だから留まるように」と勧められたようです。彼は津の教会に集い続けました。その後、彼は転勤で東京に戻りました。その東京で私と再会しまして交流を持つようになりました。私の娘が大学を卒業するとき、「久しぶりに会おう」ということでその友人夫婦と会いました。その会話の中で津の教会のことが出まして、「津の教会に留まり続けて良かった」という証しを聞くことができました。「あの教会に留まり続けることによって信仰が成長させられた」というのです。そのとき改めて神の確かさを覚えることができ感謝な時でした。
 神に信頼するとは、自分が満足できるかできないかではありません。神に信頼するとは神に結果を委ねることです。そして、目の前の事柄に誠実に果たし続けることです。先程話しました友人の場合ですと、津の教会に集い続けることです。その結果、彼は神によって成長させていただくことができたのです。神に祈った結果に満足できず別のものを探し求めるなら、それは神に委ねたということにはなりません。どのような結果であれ、その結果を神の恵みとして感謝し受け入れるのが神に信頼するということです。ところが、私たちはなかなかそのことができない者でもあります。その一番の要因は自分中心だからです。自己中心、それは御存知のように罪そのものです。そのためにイエス・キリストは日々私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているのです。それは私たちが生きた信仰生活を歩むことができるためです。神の恵みは自分にとって良いものばかりではありません。その時は「良くないもの」と思えるものも神の恵みです。何故なら、神はそのことを用いてすばらしいことをしてくださる方だからです。ですから、与えられたものに感謝して受け取ることが生きた信仰生活へと繋がっていくのです。

3)忠実に果たすこと
 生きた信仰生活を過ごす第3は、目の前の事柄を忠実に果たすことです。12~13節に「     」と書かれています。ここには、救いの人数や悪霊を追い出してもらった人数や病人の癒しの人数は書かれていません。書かれているのは、「弟子たちが何をしたか」ということだけです。弟子たちがしたのは、イエス・キリストから命じられたことを忠実に果たしたということです。聖書はそのことを取り上げているのです。先程話しました友人もそうです。彼は「ここは神が私を導かれた教会である」として受け入れ出席し続けました。それによって信仰を成長させていただいたのです。神は自分の思いよりも、神の導きを受け入れ従う者を祝福してくださいます。弟子たちは特別なことをしたのではありません。ただ自分たちに与えられた務めを忠実に果たしただけのことです。そして、その果たしたことの結果は神に委ねたのです。そのことから信仰生活において大切なのは、「結果ではなくどのように応答したか」という過程です。
 8月に休暇をいただいて、私は土曜日に内灘聖書教会で行われる集いに参加しました。何故、8月最後の土曜日に内灘聖書教会に行ったのかと言いますと、アワナクラブという子ども向けのプログラムを運営している団体を退職されるスタッフのお祝い会が行われるからです。私もアワナクラブがスタートする準備から奉仕をしていました。私が内灘教会で働いているとき、牧師は「教会が新しいことを始めるにはバカが必要だ」と話していました。その後、教会は「アワナクラブ」を始めようとしていました。実は、アワナクラブに似たものが日本ですでに始められていました。「○○」と言われるのがそうです。○○は△△先生がアメリカに行かれたとき、教会訪問をされて出会ったのがきっかけです。「アワナクラブ」という名前を取り入れますと、著作権がかかりますので基本的に同じプログラムのクラブで「○○」という名称で始められました。当時内灘教会の牧師であられた横山先生の話しですと、「何人かの先生らも日本で始めたいことを言われていたが、始めるには財源が必要だから始めるのに二の足を踏んでいた」と話されていました。ですが、横山先生は財源よりも「バカが必要だ」というので「アワナバカ」が起こされるのを祈りつつ待っておられたようです。その「アワナバカ」が起こされたのが江川スタッフだったのです。アワナクラブの本部からも開始することの了承を得て、「アワナ・ジャパン」として始めることができました。彼は殆ど無収入という所からスタッフとして奉仕され、目の前のことを忠実に果たし続けられました。今では30教会ほどが取り入れ活動しています。
 教会の活動にしても同じです。何かを始めるとき財源のことが気になりますが、何よりも大切なのは目の前の事柄を忠実に果たし続けられる人が与えられることです。それは一人ひとりの生き方においても同じことが言えます。それは目の前の事柄を忠実に果たし続けることです。何故なら、教会はキリストの身体であり、キリスト者である私たち一人ひとりは身体の部分だからです。身体と部分が異なることをしていたら、身体は健全に機能することができなくなります。今朝の箇所ではありませんが、14節に「イエスの名が知れ渡った」と書かれています。「何故イエスの名が知れ渡ったのか」と言いますと、弟子たちが目の前の事柄に対して忠実に果たし続けたからです。Ⅱテモテ1:7に書かれていますように、神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく力と愛と慎みの霊です。それは、神にあって目の前の事柄を忠実に果たし続けさせてくださる生き方です。

結)
 神が私たちに求めておられるものは、神への信頼と与えられているものへの感謝と目の前の事柄に忠実であるというものです。私たちの日々の歩みは不安との戦いでもあります。その不安のゆえに、神に委ねることに臆してしまうこともあります。そのようなとき、Ⅱテモテ1:7を思い起こしたいものです。神を証しする力、神を愛する愛、そして目の前の事柄を忠実に果たすという慎みの霊が、一人ひとりに与えられているということをです。私たちの歩みは不安との戦いですが、そのことを通して神のすばらしさを経験する歩みでもあります。ヤコブの手紙2:17に「     」と書かれています。生きた信仰生活が歩み続けられるように祈っていきましょう。

マルコ6:1~6「不信仰な世にあって」 24.11.17.

序)
 聖書はイエス・キリストを信じる私たちに神の証し人として生きることを命じています。そして、私たちは神の証し人として生きることの大切さを知っています。ですが、一番証ししにくい所は家族です。何故なら、家族は自分のことをよく知っていますし、自分自身も「我」というものが出てしまうからです。今朝の箇所は、イエス・キリストがご自分の郷里であるナザレの町に戻られたときの出来事です。イエス・キリストの地元の人たちは、イエス・キリストを受け入れようとはしませんでした。「それは何故なのか」を意識しつつ、共に教えられたいと願っています。

1)礼拝は神との出会いの場
 イエス・キリストはベツレヘムの町で生まれましたが、育たれた所はイスラエル北部のガリラヤ地方にある「ナザレ」という町です。父であるヨセフは大工でした。あまりヨセフのことは聖書に書かれていませんから、「イエス・キリストが公生涯を歩まれる前に死んだのではないか」とも言われています。このナザレの町は、イエス・キリストにとっては故郷そのものでした。
 現代の日本は核家族で「近所付き合いが薄い」と言われています。私が20代のときも、そのようなことを耳にしていました。特に都会などがそうなのですが、私自身は「そうでもないのでは!」と思わされています。近所付き合いが薄いのは、「引っ越して来られた方のことではないか」と思っています。私が会社務めをしていたとき、同僚の家に数日宿泊をしたことがあります。その人の家は東京の文京区で東大の近くですから下町ではありません。ところが、驚いたのは近所付き合いがあるのです。「なぜ驚いたのか」と言いますと、それまでは私も「都会は近所付き合いが薄い」と思い込んでいたからです。でもそうではなく近所付き合いが深いのです。それは、その町にずっと住んでおられるからです。近所付き合いが薄いのは、「引っ越してきて知らない人ばかりだからだ」というのを、そのとき初めて気づいたのです。特に東京などは地方から引っ越してくる人が多く、近所は知らない人ばかりですので近所付き合いが薄くなるのは当然のことでしょう。
 当時のイスラエルは、昔の日本のように「家制度」でしたから、長男が家を継ぐことが一般的でしたから近所付き合いは深かったものと想像できます。そのため、イエス・キリストの故郷の人たちは、イエス・キリストのことをよく知っていました。そのような所で、安息日にユダヤ教会堂にてイエス・キリストは話す機会が与えられたのです。その話に対しての人々の反応はどのようなものだったでしょうか。2節に「多くの人々は驚いて」と書かれています。この人たちは何に驚いたのでしょうか。2節を読みますと、イエス・キリストの知恵と力あるみわざに驚いたことが分かります。このマルコだけを読むと分かりにくいですが、並行箇所のルカ4:16~30には具体的に書かれています。ここでイエス・キリストが話されたことは、「イザヤ書に書かれている約束をあなたがたは待ち望んでいたが、今日その約束が実現した」ということです。すなわち、「救い主が来る約束は実現しました。その救い主は私です」と話されたのです。このとき、ナザレの町の人々は礼拝を通して救い主と出会うことができたのです。
 この神との出会いは、現代の私たちの礼拝においても同じです。神は私たちが毎主日献げています礼拝を「神との出会いの場」とされているのです。私たちはどのような思いで毎主日礼拝を献げているでしょうか。「なんとなく」でしょうか。それとも、「聖書が礼拝することを教えているから」でしょうか。もしそうであるなら残念なことです。礼拝は神と自分との出会いの場です。「今日、この礼拝を通して新たに神と出会う」という期待をもって集うことが大切です。それは、「神がみことばを通して私に何を語ろうとされるのか」を期待し耳を傾けることです。以前に、「私が以前いた教会では、礼拝中賛美のとき以外は基本的に出入り禁止であった」ということを話しました。「なぜ禁止だったのか」と言いますと、神のことばに集中するためです。私たち一人ひとりにとって、礼拝は神との出会いの場なのです。

2)人々の反応
 では、ナザレの町の人々の反応はどのようなものだったでしょうか。ナザレの町の人々は、イエス・キリストの話しに感激しました。しかし、2~3節で「     」と言い出したのです。ナザレの町の人たちは、イエス・キリストがどのような環境の中で育ったのかを知っています。もしイエス・キリストが学者の子どもであったなら、このようなことは言わなかったと思います。「さすが、先生の子どもだけあってすごいな」と言ったことでしょう。ですが、イエス・キリストは大工の子どもとしてお生まれになり育たれたのです。リビングバイブルには、今朝の箇所の2~3節を次のように書かれています。「次の安息日に、会堂へ出かけて話をされると、聴衆はその知恵と奇蹟にすっかり驚きました。イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思っていたからです。『あいつのどこが俺たちと違うというんだい。ただの大工のせがれじゃないか。母親なマリヤだし、ヤコブやヨセやユダやシモンは兄弟だ。妹たちだって、俺たちといっしょにここに住んでいるじゃないか。』町の人たちはイエスに腹を立てました。」と訳されています。
 ナザレの町の人たちは、「イエス・キリストと自分たちとは全く違う所はない」と思っていたのです。彼らはイエス・キリストが公生涯に入られるまでは一緒の町にいたのです。そのイエス・キリストが町を出て戻ってきたら、突然権威ある者のように教えられたことに驚いたのです。いや驚いただけでなく、そのことばに耳を傾けようともしなかったのです。何故でしょうか。彼らの心の中に生じたものは、イエス・キリストに対する妬みです。このナザレの町の人たちの行為は、私たちもしてしまいやすいものです。例えば、自分が知っている人が有名になったとき、「あの人のことをよく知っている」と言ったりします。それは良いのですが「昔はああいう人だった」と言って、その人を少しでも下げようとすることばを発してしまったりします。何故そのようなことばを発するのかと言いますと、心の中に妬みがあるからです。そのことに気づかされますと、このナザレの町の人たちの姿は自分自身の姿でもあることに気づかされます。
 ナザレの町の人たちは、イエス・キリストに対する妬みが生じていましたから、イエス・キリストの教えを素直に受け入れることができませんでした。そのようなことを知らされますと、妬みは正しい判断を妨げてしまうものであることを知らされます。そして、「イエス・キリストを知ろう」という思いを遠ざけてしまいます。妬みは心の中に生じるものです。心の中に生じるものですから、行動を起こしているわけではありません。ですが、正しい判断を妨げてしまい、やがてそれが行動へと移させてしまうものでもあるのです。この福音書の著者であるマルコは、7:21~22に書かれています罪のリストに「ねたみ」を挙げています。そして、23節で「     」と語っています。さらに、15:10では「     」と語り、妬みが見える形として殺人へと繋がるものであることを示しています。イエス・キリストを十字架に架けて殺害したものは、人の心の中に生じる妬みなのです。妬みは心の中に生じる小さなものかもしれません。ですが、その小さなものが後に人の命を奪う大きな力へと進展するのです。

3)力あるわざについて
 そのナザレの町の人たちの妬みによって、聖書は何と語っているでしょうか。5節の後半に「そこでは…できなかった」と書かれているのです。「しなかった」のではなく「できなかった」のです。ここに書かれています「力あるわざ」とは何でしょうか。一言で言えば救いです。単なる病の癒しではありません。前回の箇所である5:34に「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と、イエス・キリストが言われたことが書かれています。また、ルカ17:19にも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたことが書かれています。12年間長血を患っていた女性だけを見ますと、病の癒しが救いのように思えます。しかし、ルカの17章はそうではありません。ツァラアトに冒された10人はイエス・キリストのことばによって祭司に自分たちの身体を見せに行こうとした途中で癒されました。その中の1人は祭司の所に行かず、神をあがめるためにイエス・キリストの所に戻って来たのです。そして、イエス・キリストはその人だけに「あなたの信仰が…救ったのです」と言われたのです。他の9人も癒されたのですが、他の9人にはそのようには話されなかったのです。そのことから救いは単なる病の癒しではないことが分かります。
 聖書は、「救いはイエス・キリストを信じる信仰と深いつながりがある」ということを示しています。イエス・キリストの力あるわざと人の信仰とは深いつながりがあるのです。ローマ10:17に「信仰は…実現するのです」と書かれています。みことばを聞くことなくして神の恵みは注がれないのです。そのように聞かれますと、「みことばを聞かなくても神の恵みは注がれる」と思われている方もおられるかもしれません。確かに、みことばを聞かなくても神の恵みは注がれます。神学用語では「一般恩寵」と「特別恩寵」ということばがあります。一般恩寵とは、全ての人に与えられている神の恵みのことです。そして特別恩寵とは、信じる人にのみ与えられる神の恵みのことです。そして、今朝の箇所に書かれています「力あるわざ」とは、その特別恩寵のことです。信じる人にのみ与えられる神の恵みとは何でしょうか。それは罪の支配からの救いであり、神の審きからの救いのことです。その力あるわざが、ナザレの町では行うことができなかったのです。何故なら、「みことばに聞く」という思いがなかったからです。力あるわざとみことばに聞くことには深い繋がりがあることを知らされます。

結)
 力あるわざを妨げるものは、「みことばに聞く」という私たち一人ひとりの姿勢にあることを知らされます。礼拝は神との出会いの場です。それはメッセージだけではありません。聖書朗読も聖書交読もそうです。みことばに耳を傾けない不信仰な世にあって、みことばに耳を傾ける一人ひとりでありたいと願わされます。

マルコ5:21~43「ただ信じて」 24.11.03.

序)
 私が春日井教会の兼任牧師として来たのが16年前のことです。そのときの写真が2階の部屋にありますが顔はパンパンです。丁度その時期からダイエットを始めました。当時は体重が約84㎏ありましたが今は約64㎏です。今朝の箇所は「12年」というのが共通した数字です。と言いますのも、並行箇所であるルカ8:42には「12歳位の一人娘がいて」と書かれているからです。今朝は、この2つの出来事から人にとって何が一番大切なのかを共に教えられたいと願っています。

1)2人の共通点第1
 今朝の箇所は読んで分かりますように、各々の問題がイエス・キリストによって解決されたということです。その問題の共通点は何かと言いますと病気です。これが彼らの共通点の第1です。ヤイロという人の娘は、12年間元気に過ごしていたと思います。しかし、死にかけるほどの重い病気にかかってしまいました。また、長血を患っている女性は、12年もの間病気で苦しんでいました。同じ「12年」と言っても、各々の生活は違ったものでした。ヤイロの娘は、たぶん有意義な人生を過ごしていたと想像します。しかし、12年目に苦しい状況に立たされてしまいます。そのため、ヤイロは「娘を何とか治してあげたい」という一心で、イエス・キリストの所に行ったのです。
 また、長血を患っている女性も「何とかしてこの病気を治したい」という思いがあります。そのために、多くの医者に診てもらいました。しかし、「医者からひどい目に…使い果たしてしまった」と26節に書かれています。これは「全ての医者がやぶ医者であった」ということではないと思います。医者としては「何とかして治したい」と思い、いろいろな手を尽くしたと考えられます。そのため費用が嵩(かさ)んでしまいますから、患者であるこの女性はそのお金を工面したため、全財産を使い果たしたのではないかと想像できます。ですが、結果としましては病気を治すことができませんでした。おそらく途方に暮れていたことでしょう。そのようなときイエス・キリストのことを聞き、イエス・キリストの所に行ったものと考えられます。
 両者とも治す手立てがないまま苦しんでいたのです。苦しみというのは、本人にとってはマイナスのように思えます。しかし、この苦しみを通して彼らは本当に大切なものを手に入れることができたのです。このことから、苦しみというのは本人にとって必ずしもマイナス的なものではないことを知らされます。私たちも日々の生活の中で様々な苦しみを経験します。その苦しみは本人にとっては辛いものであり嫌なものです。少しでも早く解決されることを願います。でも、その苦しみは必ずしもマイナス的なものでもありません。その苦しみを通して、大切なものを手に入れる良い機会でもあります。
 ヤイロも長血を患っている女性も共に苦しんでいる中で、イエス・キリストの所に行きました。それでどうしたでしょうか。彼らはイエス・キリストのことを聞いて、イエス・キリストの所に行ったのです。この「ヤイロ」という人は「会堂司」と紹介されています。会堂司とは、会堂の管理と礼拝の準備をする責任を持っている人です。ユダヤ教社会において、会堂にて主を礼拝することは定められていました。それは以前の礼拝でも触れましたが、聖書に「主が選ばれた場所で」と書かれているからです。その会堂を管理し礼拝の準備をするのは、人々から信頼が寄せられる人でなければできません。そのようなことから、会堂司は社会的地位があり名誉なことでもありました。そのような人がイエス・キリストの前に来て、大勢の人々の前でイエス・キリストにひれ伏したのです。これは何を意味しているのかと言いますと、彼は自分の娘が癒されることを願うあまりに、自分が会堂司であるという地位や名誉を捨てたことを意味しています。それほど彼は真剣だったのです。
 また、長血を患っている女性もそうです。この「長血」というのは女性特有の病気で、出血が止まらない病気です。レビ記15:25~27には「     」と書かれています。この長血を患っている女性は、「自分が汚れている者であり、この汚れから聖められたい」と切実に願っていたのです。そして彼女は、イエス・キリストがこの町を通られることを聞き、「イエス・キリストに触れば必ず治る」と信じて近づいたのです。2人とも大きな問題に直面していたのです。

2)2人の共通点第2
 彼らは各々大きな問題を抱えイエス・キリストの所に行きました。しかも、彼らは錯覚をしたままイエス・キリストの所に行ったのです。これが彼らの共通点の第2です。では、彼らは何を錯覚していたのでしょうか。それは「直面している問題がなくなったら解決される」という錯覚です。ヤイロの求めに対して、イエス・キリストは快く受け入れられヤイロの家に向かわれました。ところが、その途中で12年間長血を患っていた女性の出来事に遭遇されました。この女性は「イエス様の着物に触ればきっと治る」と信じていました。そして、触ったとき治ったのです。ところが、イエス・キリストはご自分の身体から力が外に出ていくのを感じられ、立ち止まってその人を探されました。この出来事によって一番迷惑したのはヤイロだったでしょう。何故なら、愛する娘が死にかけているのですから、「少しでも早く自分の家に来てほしい」と願っていたと思います。それなのに、イエス・キリストは立ち止まられたのです。父であるヤイロとしては、もたもたされているイエス・キリストに「早く動いてほしい」と心の中で願っていたかもしれません。何故なら、ヤイロにとっては自分の娘が癒されることが何よりも大切なことだったからです。「もし私だったら心の中で願うだけでなく口に出していた」と思います。
 ヤイロは23節で「娘が救われて生きられるように」と語っています。彼は「病気が癒されれば娘は生きる者となる」と考えていたのです。長血を患っていた女性もそうです。「この病気が癒されれば本当の意味で生きる者となれる」と思っていたのです。これが彼らの共通する錯覚です。しかし、直面している問題が解決されることによって、人は本当の意味で生きる者となれるのではありません。何故なら、直面する問題が解決されても別の問題に遭遇するからです。どのような問題に直面しても、本当の意味での生きる者としての歩みはなくならないことが、本当の意味での生きる者です。何度も触れていますが、創世記2:7に「     」と書かれています。人は神の霊を吹き込まれることによって、本当の意味で生きる者となるのです。7節以前でも人は生きる者とされていたのです。ですが、それは神の目からすれば本当の意味での生きる者ではなかったのです。それは他の動物と同じような生き物にしか過ぎなかったのです。

3)本当の解決
 では、本当の解決は何処にあるのでしょうか。聖書は「いのちの息である神の霊を吹き込まれることによって、人は生きる者となった」と語っています。この神の霊であるいのちの息を吹き込まれたのは人間だけです。これは神と人間との関係を表してもいます。聖書は、「本当の解決は神との関係にある」と語っているのです。長血を患っていた女性は、イエス・キリストの着物に触り癒されたことでそっと帰ろうとしたことでしょう。ですが、それでは本当の解決にはならないのです。だから、イエス・キリストは「誰がわたしの衣に触ったのか」と言われ周囲を見回されたのです。このイエス・キリストの行為は、彼女の意思での告白を待たれていたものです。何故なら、イエス・キリストは神ですから彼女が触ったことを御存知だからです。しかし、直接彼女に言われたのではなく、彼女自身から告白するようにされたのです。そのため彼女は恐れおののきながら進み出て全てを告白したのです。その告白に対して、イエス・キリストは34節で「娘よ…健やかでいなさい」と告げられました。
ここで注目したいのは「あなたの信仰があなたを救ったのです」とイエス・キリストが言われたことです。以前の聖書では「あなたの信仰があなたを直したのです」と訳されていました。ですが、今の聖書では「救った」ということばに訳されています。直訳では、こちらの方が正しいのです。これは「本当の意味で解決された」ということを表しています。イエス・キリストとの関係が正しく保たれることによって、初めて解決されることを聖書は示しているのです。彼女はイエス・キリストと出会うまでは失望の中にいました。しかし、イエス・キリストと出会い関係が正しく保たれることによって変えられたのです。どのように変えられたのでしょうか。それは「今後苦しみに直面したとしても、そのことを通して神はすばらしいことをしてくださる」という捉え方ができる人生へと変えられたのです。
そのことはヤイロにしても同じです。彼は娘の病気を癒してもらうためにイエス・キリストの所に行き願いました。ところが、イエス・キリストがヤイロの家に行く前に娘は死にました。使いの者は、ヤイロに「これ以上、先生を煩わすことがありましょうか」と言いました。ヤイロ自身もそのように思ったと考えられます。そのヤイロに、イエス・キリストは「恐れないで、ただ信じていなさい」と告げられたのです。そして、ヤイロの家に行って死んだ娘を生き返らされました。ヤイロは、このとき初めてイエス・キリストは死をも解決することのできる方であることを知ったのです。彼は娘の病気が苦しみでした。ですから、「娘の病気が治ることが苦しみからの解放」と錯覚していたのです。しかし、本当の解決はそうではなく、死をも解決することのできるイエス・キリストを知ることだと知ったのです。

結)
 この出来事は、現代の私たちに何を語っているでしょうか。彼らの錯覚は、現代の私たちもしてしまいやすいものではないでしょうか。苦しみに遭遇したとき、その苦しみから解放されることを願い、「それが本当の解決である」と錯覚してしまうのではないでしょうか。しかし、苦しみから解放されることが本当の解決ではありません。何故なら、先程も話しましたように、別の苦しみに遭遇したとき失望の道を歩まなければならないからです。本当の解決は、イエス・キリストを知ることです。すなわち、イエス・キリストがどのような方であるかを知ることです。苦しみは、イエス・キリストを信じるものであっても経験します。ですが、私たちが歩む苦しみの道は決して失望の道ではありません。その苦しみの道を通して、神のすばらしさを知る道なのです。それが私たちの信じているイエス・キリストなのです。そして、そのイエス・キリストは私たちにも「恐れないで、ただ信じていなさい」と告げられているのです。苦しみを通して神のすばらしさに気づかせてくださるイエス・キリストを信じ続けられるように祈っていきましょう。

マルコ5:1~20「正気に返って」 24.10.20.

序)
 今まで、パウロの第2回伝道旅行の箇所から学んできましたが、先週でその第2回伝道旅行の箇所を終えました。今日からは、しばらくの間マルコの福音書から共に学び教えられたいと願っています。前回を少し振り返りますと、4:35にイエス・キリストは「向こう岸へ渡ろう」と言われ、イエス・キリストの一行は舟に乗り向こう岸へ渡ろうとしました。すると、激しい突風が起こり舟は沈みそうになりました。そのため弟子たちは不安を覚えました。そして、イエス・キリストを見ますと船尾で眠っておられたのです。自分たちのために何もなさろうとしないイエス・キリストを見て、「先生…構わないのですか」と言ったのです。すると、イエス・キリストは風を𠮟りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われますと、「風はやみ凪になった」と39節の最後に書かれています。そして、弟子たちに「どうして…ないのですか」と言われたのです。この箇所の注目点は、35節の冒頭の「さてその日」ということばです。この「その日」とは、4:1~32で話された日のことです。それは「神は必ず実を結ばせてくださる」という約束です。ところが、弟子たちはイエス・キリストが話されたその日に、目の前のことに心が奪われてしまい、イエス・キリストの話しをすっかり忘れてしまったのです。「それは私たちの実際の姿でもある」ということを私たちは学んだわけです。
 今朝の箇所は、その向こう岸に着いたときの話しです。この「『向こう岸』とは何処か」と言いますと、地図⑪のC4にガリラヤ湖に面した所に「ゲルゲサ」と書かれています。「ここだろう」と考えられています。そして、D4と5辺りに「ゲラサ」と書かれています。この男性は、おそらくこの町周辺出身の人だったのでしょう。ところが、汚れた霊につかれたため、この町に居られなくなりゲルゲサに行ったものと考えられます。今朝の箇所は一人の悪霊につかれた男性がイエス・キリストによって正気に返られたことが描かれている箇所です。今朝は、この一人の男性がイエス・キリストと出会ったことによって、どのような人に変えられたのかを共に教えられたいと願っています。

1)イエスと出会う前
 この汚れた霊につかれた人は、イエス・キリストと出会う前はどのような人だったのでしょうか。19節を見ますと、家族がいたことが分かります。しかし、その家族との関係は良くありませんでした。ですから、彼は家族から離れて1人で墓場に住み着いたと考えられます。その家族から出た原因は汚れた霊につかれたからなのか、それとも別にあったのかは分かりません。ですが、今も家族との関係が良くないのは確かなことです。家族関係というのは人間関係でもあります。その人間関係には大きく2つあります。
 1つは他人との関係です。この地域に住んでいる人たちは、この汚れた霊につかれた人に対して、どのような行動を取ったのでしょうか。4節に「彼はたびたび足かせと鎖でつながれた」と書かれています。この地域の人たちは、彼によって迷惑を受けるので町中に来ないように墓場で鎖をつけて隔離していたのです。迷惑を受けるのですから、離れた場所に住んでもらうのは分かりますが、「足かせまでするのはやり過ぎではないか」と思えたりもします。しかし、この地域の人たちにとっては、そこまでしないと安心できなかったのでしょう。もうこれは人間としての扱いではありません。そのような仕打ちを受けてしまいますと、人は仕返しをしたくなってしまいます。「その繰り返しがなされていたのではないか」と想像します。ですから、彼は他人との関係が悪い状態であったと言えます。
 もう1つは自分との関係です。5節に「石で自分を傷つけていた」と書かれています。彼の心の中は自分が嫌になり、今の自分自身を愛することができなくなっていたのでしょう。「分かっていてもやめることができない」という追い詰められていた状態であったことが分かります。自分の存在を素直に喜ぶことができませんでした。それは「自分なんか生きていても生きていなくても同じだ」と思っていたことでしょう。この男性は他人との関係だけでなく、自分との関係も良くありませんでした。
 ところが、15節には「正気に返って」と書かれています。これは「本来の自分に返る」ということを表しています。「本来の自分」とは、「本来の人間」ということです。それは「私とは何者かを知る」ということです。「自分は何のために生かされているのか」が分かりませんと、本当の自分を見出だすことはできません。この「正気に返って」というのは、「本来の自分を見出だした」ということです。この「汚れた霊」というのが具体的にどのようなものであったのかは分かりませんが、占いの霊も汚れた霊の1つです。以前、パウロの第2回伝道旅行でのピリピの町で、占いの霊につかれた女性の箇所を見ました。そして、現代も占いに憑りつかれている人は少なくありません。本来の自分を見出だせられないようにするのが汚れた霊の目的です。

2)イエスとの出会い
 では、この男性はどのようにして汚れた霊から解放されたのでしょうか。今朝の箇所から2つのことを見ることができます。その1つは、イエス・キリストの権威あることばによってです。8節に「汚れた霊よ、この人から出て行け」と書かれています。このイエス・キリストの権威あることばには、誰も逆らうことができないのです。何故でしょうか。イエス・キリストがまことの神であられるからです。そのまことの神であられるイエス・キリストが、「わたしを信じることによって、あなたの罪は赦される」と宣言されているのです。人はイエス・キリストの十字架による死と復活を信じることによって、自分自身の罪を赦していただけるのです。
 罪というのは、自分に対して犯すものではありません。自分以外の第3者に対して犯すものです。ですから、その罪を赦すか赦さないかは被害者が決めることです。決して、加害者の判断によってなされるものではありません。それは私たちの罪においても同じです。人の罪は神に対して行われているのです。ですから、被害者は神ご自身なのです。ところが私たちは、「この程度なら赦されるが、これは赦されない」とか、「ここまでしたのだから赦される」と、加害者である自分の方で決めつけていることがあるのではないでしょうか。でも、赦すか赦さないかは被害者が決めることです。人の罪も被害者であられる神ご自身が決められるものなのです。その被害者であられる神が「イエス・キリストを信じることによって赦す」と、みことばをもって宣言されているのです。私たちの罪は、そのイエス・キリストの権威あるみことばによって赦されるのです。
 もう1つは、犠牲が払われたことによってです。この男性が汚れた霊から解放されるために、2千匹の豚が犠牲になったのです。先程、ピリピの町で占いの霊につかれた女性の話しをしました。そのときにも、今朝の箇所を引用して話しました。礼拝後の分かち合いのときに、ある方が「2千匹の豚がおぼれて死んだのが犠牲であったとは思っていなかった」と分かち合ってくださいました。この証しがとても印象的に私には残っています。この「2千匹」というのが多いか少ないかは分かりません。しかし、1人の人が救われるために犠牲が払われたというのは間違いのないことです。この男性は何もしていません。ですが、この男性が汚れた霊から解放されるためにイエス・キリストはみことばをもって宣言され、2千匹の豚が代わりに犠牲となったのです。それは私たちの罪の赦しにおいても同じです。私たちは自分の罪が赦されるために、自分自身が何かをしたというのではありません。私たちは何もしていないのです。ただ、神のことばによる約束を信じる決心をしただけのことです。しかし、その背後にはイエス・キリストの尊い命の犠牲があったのです。私たちはそのことを決して忘れてはなりません。
 「罪の赦し」というのは、初めてイエス・キリストを信じた時だけではありません。イエス・キリストを信じた後も、私たちは神に対して罪を犯してしまいます。その罪の赦しにも犠牲が必要なのです。そして、その信じた後の罪にも犠牲が払われているのです。そのように聞かれますと「えっ!」と思われる方もおられるかもしれません。そして、「私が信じた後も犠牲が払われているの?」と思われ、「どんな犠牲が」と思われるかもしれません。それは「イエス・キリストのとりなしの祈り」という犠牲です。イエス・キリストを信じた後の私たちが神に罪を犯していなければ、イエス・キリストのとりなしの祈りは必要ないのです。ですが、イエス・キリストがとりなしの祈りをされているのは、信じた後も私たちは神に対して罪を犯しているからです。私たちがキリスト者として生きることができるのは、日々イエス・キリストのとりなしの祈りという犠牲があるからです。私たちは、その恵みの中に生かされていることを覚えたいものです。

3)イエスと出会った後
 イエス・キリストと出会い正気に返った人は、その後どうしたでしょうか。18節を見ますと、イエス・キリストのお供を願ったことが書かれています。今まで自分を苦しめていたものから解放してくださったのですから、「一緒に行動したい」と願う気持ちはよく分かります。しかし、イエス・キリストはそのことを許可されませんでした。その代わりに、「あなたの家、…知らせなさい」と命じられたことが19節に書かれています。すなわち、「家族に対して証ししなさい」と言われたのです。これがこの男性に与えられた使命でもあります。何故イエス・キリストは、このようなことを命じられたのでしょうか。それは彼の家族や地域の人たちがイエス・キリストを信じるようになるのは、この男性を用いることが一番良いと判断されたからです。そして、これがこの男性の召しであり献身です。
 私は神学生時代にある方の証しを聞き驚いたことがあります。それは、「私は神の召しを受けて直接献身をしない」というものでした。私はそのことばを聞いたとき「えっ!」と思わされました。すると続けて、「私は神の召しを受けて遣わされている職場や地域でキリスト者として生きる召しを受けています」と話されました。私はその証しを聞きながら、「そのような生き方もあるのだ」ということを知らされました。直接献身だけが献身ではありません。遣わされている家庭や職場や地域でキリスト者として生き、福音を伝え続けることもすばらしい献身です。
 イエス・キリストによって癒された男性について聖書は、20節で「     」と語っています。この男性は自分の生まれ故郷であるゲラサの町に戻り、イエス・キリストが自分にどれほどの大きなことをしてくださったかを証ししたのです。すると、「人々はみな驚いた」と書かれています。なぜ驚いたのかと言いますと、この男性がすっかり変えられたからです。証しとは伝道の中に位置づけられますが、少し違います。伝道とは福音を伝えることですが、証しとはイエス・キリストまたは神が自分にしてくださったことを伝えることです。これはキリスト者であるなら誰もができることです。何故なら、自分の経験を話すことだからです。経験していないことを話すのではないのです。知らないことを話そうとすると不安を覚えますが、知っていることを話すのですから不安はありません。知らないことまでも話すのは証しではありません。尋ねられて分からないことは「分からない」と答えて良いのです。ヨハネの福音書9章の生まれながら目の見えない男性はイエス・キリストによって癒されました。そのとき、パリサイ人から言われたとき、「あの方が罪人で…見えるということです」と、知らないことは「知らない」と答えて経験したことだけを話したのです。それは9節でも「私がその人です」と言い、11節では「見えるようになりました」と告白し、15節では「今は見えるのです」と経験したことしか話していません。これが証しなのです。

結)
 「正気に返る」とは、「本来の自分に返る」ということです。「本来の自分」とは、「自分とは何者なのかを知る」ということです。自分とは何者なのでしょうか。それは神のかたちとして造られた尊い存在であるということです。そして、その造ってくださった神に愛されている存在であるということです。さらに、その神がいつも共にいて最善の備えをもって導かれている存在であるということです。それらを知ることが「正気に返る」ということであり、本来の自分に返ることです。私たち一人ひとりもキリストの証し人とされています。それは「キリストが自分に何をしてくださったのか」という経験を語り伝える使命が与えられているのです。一人ひとりが遣わされている家庭・職場・地域で、キリストの証し人として歩み続けることができるように祈っていきましょう。

天におられる父なる神様。あなたは、私たち一人ひとりが正気に返るために、イエス・キリストの尊い命を犠牲にしてくださいました。私たち本来の自分に返るために、イエス・キリストの命という大きな犠牲が払われていることを心から感謝します。私たちは家庭や職場や地域に、あなたによって遣わされています。その遣わされている場で、あなたの証し人として続けて用いてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン

使徒の働き18:18~22「使命を果たし続ける」 24.10.13.

序)
 今朝の箇所は、パウロの第2回伝道旅行の最後の部分です。パウロの第2回伝道旅行のスタートは、「マルコを同行させるか」ということでパウロとバルナバの激しい議論となり、その結果2人は分かれて伝道旅行をすることとなりました。そして、使徒の働きの著者ルカはパウロの伝道旅行に焦点を当てて書いています。このパウロの第2回伝道旅行は、「神の御心」と確信してマケドニア宣教をしました。しかし、そこでは様々な苦難に遭遇しました。私たちは、「神の御心」と確信して歩み出しても様々な苦難に遭遇することを学びました。しかし、神はそのような経験を通して救われる人たちを起こされたことを通して、私たちが経験します苦難を通して想像もしなかった神のみわざを経験することをも学びました。今朝は、そのパウロの第2回伝道旅行の締め括りとして、使命を果たし続けるパウロを見ていきたいと願っています。

1) コリント伝道
 まずは、先週に続けてのコリント伝道についてです。コリントの町でパウロはユダヤ人たちに訴えられましたが、アカイアの地方総督であるガリオの判決により「おとがめなし」となりました。その後パウロはどうしたでしょうか。18節に「なおしばらく滞在して」と書かれています。パウロは続けてコリントの町に滞在して福音宣教を続けたのです。あのような出来事があったにもかかわらず、何故パウロはコリントの町に滞在しようとしたのでしょうか。考えられることの1つは、ガリオの判決がキリスト教宣教に有利なものであったということです。パウロはエペソ5:15~17で「     」と語っていますし、コロサイ4:5でも「     」と語っています。パウロはこの機会を用いたものと考えられます。機会を活かす知恵が私たちにも増し加えられ、活かすことができるように祈り続けていきたいものです。
 パウロがコリントの町に滞在し続けるのは、「『コリントの教会は建てられたばかりであり、まだ自分がコリントの町に留まる必要がある』と考えたのではないか」とも想像できます。先週見ましたように、コリントの町は歓楽街であり風俗的にも乱れた町です。町中には様々な誘惑が蔓延(はびこ)っている町です。当然考えられることは、クリスチャンになったばかりの人たちはそのような誘惑に囚われてしまいます。実際、コリント人への手紙を見ますと、パウロがコリントの教会を離れてからも倫理的な問題を抱えていたことが分かります。ですから、「教会の基礎を築き上げるためにも、自分自身がコリントの町に留まる必要がある」と判断したものと考えられます。パウロにとっては福音を伝えることが全てではありませんでした。その福音に応答した一人ひとりが如何に神の恵みの中にあって生きて、成長させられていくことも重要なことと位置付けていたのです。
 救いゴールは自分の罪が赦されて神の審きから救われ、キリスト者となって天の御国に入る約束を手に入れることではありません。これらはあくまでも過程に過ぎません。キリスト者にとって何よりも大切なのはその後です。すなわち、神の恵みの中で歩み続け成長させられていくことです。それは人間の歩みと同じです。人は赤ちゃんとして誕生し、いつまでも子どものままではいけないのです。それは健全な成長とは言えません。大人になって自分で考え、正しい判断をし、歩み続ける者となる務めが与えられているのです。それはキリスト者としての歩みも同じです。一人ひとりがみことばを学び教えられ、神の恵みに正しく応答し続けられるように歩み続けることです。「その歩みとは何か」と言いますと、神を礼拝し続けることです。何故なら、イエス・キリストの十字架による死と復活の目的は、私たちは神を礼拝し続ける者として生きる者となるためだからです。

2)エペソ伝道
 その後パウロはコリントの町を去ってエペソの町に行きました。このエペソという町は、アジア州の第一の都市であり州都でした。そのエペソの町に行って、パウロだけがユダヤ教の会堂に入り福音を語ったのです。ある方は、このパウロらの行動に疑問を抱かれるかもしれません。何故なら、何故パウロらはマケドニア地方に行くこととなったのでしょうか。当初の彼らの計画では、マケドニア地方に行く予定はありませんでした。現代のトルコ西部地方で福音宣教をする予定だったのです。しかし、アジアでみことばを語るのを聖霊によって禁じられ、ピティニア地方に行こうとしましたがキリストの御霊が許しませんでした。そのためトロアスに行き「マケドニアの叫び」と言われる幻を通して、彼らは「神の御心」と確信してマケドニア地方に行ったのです。それなのに、何故アジア州に位置するエペソの町に行ったのかということが気になります。
 これは日本人の私たちが聖書だけを読んでいると気づきにくいものです。何故なら、聖書地理が乏しいからです。ただ読んでいるだけでは「そうか、コリントの町の次はエペソの町に行ったのか」で終わってしまいます。以前にも似たことがありました。それは「ピシディアのアンティオキアの次はイコニオンの町に行った」と錯覚してしまうことです。何故なら、使徒の働き15:31には「イコニオンに行った」と書かれているからです。しかし、ピシディアのアンティオキアからイコニオンまでは1日で行ける距離ではありません。ですが、地理的に乏しいですと「ピシディアのアンティオキアの翌日にはイコニオンの町に行った」と思ってしまいます。何故なら、そのような書き方をしているからです。ですが、実際はそうではなかったのです。
 そして、このエペソの町にしてもそうです。聖書だけを読んでいますと「コリントの次はエペソに行ったのだな」で終わってしまいます。でも、エペソがアジア州の首都であることが分かりますと、「アジアでみことばを語るのを聖霊によって禁じられたのに、何故パウロはアジア州の中にあるエペソの町に行って宣教したのか」という疑問が生じ考えさせられます。これは新約聖書だけでなく旧約聖書においても同じです。例えば、創世記33章を見てみたいと思います。この箇所は、ヤコブが伯父ラバンの家から自分の生まれ故郷であるべエル・シェバであるカナンの地の南部に向けて帰ろうとする所です。ヤコブは兄エサウの仕返しを恐れていました。創世記33章は、その兄エサウと再会する場面です。ヤコブとの再開後エサウはセイルに帰りましたが、ヤコブはペヌエルからスコテに行ったことが17節に書かれています。ペヌエルは地図⑥の中程にあります。そこからシェケムに移動したことが書かれています。地図⑥を見ますと、シェケムはペヌエルからヨルダン川を渡って西に位置することが分かります。ヤコブは「セイルに行く」とエサウに言ったにも関わらず、実は別方向に進んで行ったのです。ここでも嘘を言っているのです。そのシェケムはカナンの地の南部ではありません。カナンの地の中程に位置する町です。そして、20節には「彼はそこに祭壇を築き」と書かれています。「祭壇を築く」とは、当時の礼拝行為を表しています。このヤコブの礼拝は神が願っておられる礼拝ではなく自己流の礼拝です。「何故そのように言えるのか」と言いますと、シェケムで問題が生じたため神はカナンの南部に位置します「ベテルに行って礼拝するように」と、35:1で神はヤコブに告げられたからです。ただ、字面だけで33:20を読みますと、「ヤコブは何よりも先に神を礼拝している」と捉え、「ヤコブの信仰はすばらしい」と思ってしまいます。でも、それは大間違いなのです。ですから、聖書地理を知ることは聖書を理解するために大切なことです。
「神を礼拝する」ということは同じなのですが、それが「自己流であるのか」、それとも「神の求めに従ってのものであるのか」によって大きく異なることを学ぶことができます。先月のJBC指導者研修会の閉会礼拝でも話しましたが、申命記には礼拝について、「主が選ぶ場所で」ということばが繰り返し語られています。「神を礼拝する」ということには変わりないのですが、「主が」というのが「私が」に代わってしまうなら、それは「自己流の礼拝である」ということを知らされます。そして、神は自己流の礼拝を禁じられています。「神は何処に居ても共におられるのだから、何処で献げても構わない」と思ってしまいやすくなります。その何処にでもおられる神が「主が選ばれる場所で」と命じられているのです。地理的なことも確認しつつ聖書を読みますと、聖書が語る意味がさらに深く学べることに気づかされます。
 では、何故パウロはアジア州にあるエペソの町に行って福音を語ったのでしょうか。考えられるのは、「神はアジアで福音を語られるのを禁じてはおられなかった」ということです。「16章でアジアでの福音宣教を禁じられたのは、アジアよりもマケドニアでの福音宣教を神が優先されていたから」と考えられます。決して、「アジアでの福音宣教を禁じられていたのではなかった」ということです。何故なら、イエス・キリストは全ての人に福音を伝えることを命じておられるからです。このことから、「神の御心ではあるけれども神の優先順位もある」ということに気づかされるのではないでしょうか。あることについて思いが強められ、祈りの中で「これは神の御心ではないか」と捉えますが、なかなか道が開かれないということがあります。そのようなとき気が滅入ってしまいます。そして、「本当にこれは神の御心なのか」と思えてしまうことがあります。でも、そこには神のご計画があり優先順位があることを覚え、その時が来たときにきちんと応答できるように備える大切さを教えられます。「その備えはとは何か」と言いますと、目の前のことを誠実に果たしていくことではないでしょうか。当初パウロはアジアで福音を語ることを禁じられ、マケドニア地方に渡って福音を語り、さらにアカイア地方でも福音宣教をしました。目の前のことを誠実に果たし続けることを通して、神はアジアでの福音宣教の道を開かれたのです。その神の導かれ方は現代の私たちに対しても同じです。

3)エルサレム教会に
 その後パウロはエペソを去ってエルサレム教会に行くこととなりました。そのとき、エペソの人たちはどのような反応をしたでしょうか。20節に「人々は…頼んだ」と書かれています。しかし、パウロはエペソのキリスト者の求めを聞き入れなかったのです。何故でしょうか。これは考えさせられることです。エペソのキリスト者がパウロに、「もっと長くとどまるように」と頼んだのはパウロの必要を覚えていたからです。それにも拘わらずパウロは聞き入れなかったのです。コリントの町では長く留まっていたのに、エペソの町では短期間で去るのです。「それは何故なのか」を深く考えさせられます。その一つの手がかりは18節の「パウロは誓願を…神を剃った」ということばです。パウロの誓願が何であったのかは全くわかりませんが、「この時からパウロはエルサレム教会に行くことを決めていたのではないか」と考えられます。
 このメッセージ準備をしているとき、私が内灘聖書教会からJBCに行くことになったときのことを思い出しました。私が内灘聖書教会を去りJBCに行くことを牧師と相談して決めた次の礼拝の後で、牧師は私が教会を去りJBCに遣わされることを報告されました。すると、教会の中から「何故先生は止めなかったのですか」という声が上がりました。そのときの牧師の答えは「神がされることに私は口答えできない」というものでした。私はその牧師の答えに震えたのを今も覚えています。「パウロも同じものだったのではないか」と想像できます。その後エペソの教会はどうなったでしょうか。24節以降に書かれていますが、エペソの町に「アポロ」という人が来ました。アポロは「聖書に通じていた」と紹介されています。ただバプテスマのヨハネしか知りませんでしたので、エペソの町に留まっていたアキラとプリスキラが、アポロに正確に説明したことが26節に書かれています。ここに神の備えを見ることができるのではないでしょうか。神はエペソ教会のためにアキラとプリスキラ夫婦を残し、さらにアポロという人を送られました。私たちには計り知ることのできない神の備えを教えられます。そして、その神はこの教会にも、そして私たち一人ひとりにも計り知ることのできない備えをしてくださっていることをも、改めて教えられるのではないでしょうか。
 そして、もう一つ考えさせられるのは「なぜエルサレム教会なのか」ということです。パウロを派遣した教会はシリアのアンティオキア教会です。ですから、シリアのアンティオキア教会に行くのなら分かりますが、それよりも先にエルサレム教会に行ったのです。「それは何故なのか」ということをも考えさせられます。「エルサレム教会には使徒たちがいたから」ということも考えられますし、「エルサレム教会はキリスト者にとって母なる教会だから」ということも考えられます。また、それ以外のこともあったかもしれません。「なぜエルサレム教会なのか」というのは今の私には分かりません。しかし、そのことを意識しながら使徒の働きのメッセージ準備をしていく中で、私自身が知らされることを期待したいと願っています。

結)
 パウロはコリントの町には長く滞在していましたが、エペソの町では自分を必要としているにも関わらずすぐに去ってしまいます。そして、エルサレム教会に行きました。しかし、コリントの教会もエペソの教会も成長していきます。パウロがいるかいないかは重要なことではありません。パウロがいなくても教会は成長し続けるのです。何故でしょうか。パウロはⅠコリント3:6で「     」と語っています。教会を成長させるのは神ご自身だからです。ただパウロは自分に与えられている使命を果たし続けたに過ぎないのです。コリントの町に留まりコントの町を去る。エペソの町に訪問しエペソの町を去り再び訪問し留まる。神の御心に聞き従い、遣わされた場所で自分に与えられた使命を果たす。これがパウロの生き方です。その生き方は、私たちの生き方でもあるべきです。自分が遣わされている場所で、自分に与えられている使命を果たし続ける。そのような生き方が続けられるように祈っていきましょう。

使徒18:12~17「神の約束に目を留めて」 24.10.06.

序)
 長い残暑も過ぎ、ようやく秋らしい時を過ごせるようになりました。「秋」と言いますと、「食欲の秋」「運動の秋」「読書の秋」などと言われますが、他にも「収穫の秋」とも言われています。一人でも多くの方が、この時季にイエス・キリストと個人的に出会うことができるように祈っていきたいと願わされています。さて、シラスとテモテがコリントの町に来たことにより、福音宣教に専念することができたパウロは、神の励ましもあり1年半コリントの町に滞在し神のことばを教え続けていました。それによって、コリントの教会が誕生したと考えられます。順調に進んでいるように思えますが、今朝の箇所の冒頭は「ところが」ということばで始まっています。それは「決して順調ではなかった」ということを意味しています。今朝の箇所は1つの事件の中で2人の事柄が書かれています。それは「ガリオ」という人が、この地方の総督であった時のことです。「その2人とは誰か」と言いますと、パウロとソステネという人です。今朝は、この2人の事柄から教えられたいと願っています。

1)パウロの場合
 まずは、パウロの場合です。12節の後半に「ユダヤ人たちは…法廷に引いて行って」と書かれています。すなわち、ユダヤ人たちはパウロを捕らえ法廷に訴えたのです。その理由が13節に書かれています。コリントのユダヤ人たちの訴えは、ピリピやテサロニケのときの訴えとは違います。ピリピやテサロニケのユダヤ人たちは、「町を騒がす者」としてパウロを訴えました。しかし、根本はピリピの場合は「金儲けする望みがなくなったから」であり、テサロニケの場合は「ねたみに駆られて」のものでした。しかし、コリントの場合は「律法に反するやり方」ということで訴えているのです。
 当時のユダヤ教は、ローマ帝国に公に認められた宗教でした。ですから、ユダヤ人たちはユダヤ教の生き方が許されていたのです。ローマ人に伝道することは許されていませんでしたが、ユダヤ人がユダヤ教の教えに従って生活することについては許されていたのです。ところが、「そのユダヤ教の律法に反するやり方で神を拝むよう、人々をそそのかしている」として訴えているのです。それはどういう意味かと言いますと、「これはもうユダヤ教に関わる問題だけでなく、ローマ帝国が公認している宗教以外のものを伝え教えているのだから、ローマの法律にも違反している」ということです。すなわち、「ローマの法律に関わる問題である」というのが彼らの訴えです。
 それに対して、この地方総督であるガリオは何と語ったでしょうか。14~15節に「     」と書かれています。これはどのような意味合いがあるのでしょうか。一見、「面倒なことには関わりたくない」というようにも受け取ることができます。しかし、よく読みますと「不正な行為や悪質な犯罪…自分たちで解決するがよい」と語っています。ガリオは自分が取り上げるべき事柄とそうでない事柄をきちんと区別しています。ユダヤ人たちは「法律に反する犯罪」として訴えているのですが、ガリオは「宗教的な事柄」として受け止めているのです。すなわち、宗教と国家を区別しているのです。それは「国家を脅かすような活動であるならば取り上げるが、宗教的活動であるならば取り上げない」ということです。それは何を意味しているのかと言いますと、ガリオは「この問題はユダヤ教内部の問題である」ということです。そのため、この訴えに関わることを拒否したのです。
 調べてみますと、このガリオの判決は「紀元52年前後」らしいです。そして、この時代は皇帝ネロによる大迫害が紀元64年ですから、それまでの約10年間はキリスト教の宣教活動が禁止されることはなかったようです。と言いますのは、資料によりますと「地方総督の判決は他の州の総督の判例として扱われていた」というのです。ましてや、地方総督ガリオの弟は皇帝ネロの家庭教師であり、ガリオ自身も「人徳のある人」という評価がなされていたようです。そのため、他の地方総督もガリオの判決に倣ったのではないかと考えられます。そうであるなら、このガリオの判決は当時のキリスト教にとって「画期的なもの」と言えます。何故なら、この判決は「政教分離」の道を示すものだからです。

2)ソステネの場合
 地方総督であるガリオは、パウロを訴えた人たちを法廷から追い出したことが16節に書かれています。追い出されたユダヤ人たちは、追い出された後どうしたでしょうか。17節に「そこで皆は…打ちたたいた」と書かれています。ここに「会堂司ソステネ」と書かれています。この「会堂司」とは、ユダヤ教会堂を管理している人のことです。先週の箇所では触れませんでしたが、8節には「会堂司クリスポ」という人が登場します。そして、その会堂司であるクリスポは、「家族全員とともに主を信じた」とも書かれています。この「主を信じた」というのは、「イエス・キリストを信じた」ということです。おそらく、イエス・キリストを信じたクリスポは、ユダヤ教信者によって「会堂司」という仕事を取り上げられたと考えられます。それによって、その後継者としてソステネが選ばれ、その仕事に就いたものと考えられます。ところが、そのソステネもイエス・キリストを信じたのです。と言いますのも、Ⅰコリント1:1に「     」とソステネの名前が挙げられているからです。
 会堂司であったソステネが、パウロがコリント教会に出した手紙に書かれているということは、何を意味しているでしょうか。それは「ソステネはコリントの町にはいなかった」ということを意味しています。Ⅰコリント人への手紙は、16:8に「五旬節まではエペソに滞在します」と書かれていますから、エペソに滞在していたときに書かれたものと考えられます。ソステネは、パウロと共にエペソの町にいたのです。すなわち、イエス・キリストを信じることによってソステネも、会堂司という仕事を取り上げられたものと考えられます。ただ今朝の箇所では、まだソステネは「会堂司」という仕事は取り上げられてはいなかったのでしょう。ですが、ユダヤ人の鉾先はソステネに向けられたのです。この「打ちたたいた」というのが、どのようなものを意味しているのかは分かりません。現代のことばでは「ボコボコにされた」ことを表しているのかもしれません。自分たちの訴えを法廷で却下されたユダヤ人は、その不満をソステネに向けうっぷん晴らしをしたのです。
 しかも、その場所は法廷の前でのことです。そのような暴力行為が法廷の前で行われたのです。そのことについて、聖書は「ガリオは…気にしなかった」と語っています。「気にしなかった」ということは、「ガリオに耳には入っていた」ということを意味しています。ガリオは知らなかったのではなく、知っていたけれども気にも留めなかったのです。ガリオは「不正な行為や…取り上げる」と14節で語ったのです。ソステネに対するユダヤ人の行為は不正な行為であり悪質な犯罪でもあります。ですが、ガリオは少しも気にしなかったのです。何か矛盾しているように思えますが、その矛盾している町がコリントの町だったのです。

結)
 今の日本では考えられないようなことが起きていた町がコリントの町でした。しかし、神は「この町には、わたしの民がたくさんいる」とパウロに言われたのです。この「わたしの民」とは、イエス・キリストによって選ばれた民のことです。それは「イエス・キリストを信じる人が多くいる」ということです。今朝の箇所ではありませんが、18節の最初に「パウロは…滞在して」と書かれています。このような問題が生じてもパウロはコリントの町に滞在し福音宣教を続けたのです。パウロが長い間コリントの町に滞在し福音宣教を続けることができたのは、18:9~10に書かれている神の命令と約束に目を留め続けたからです。「この町には、わたしの民がたくさんいる」というのは、この春日井の町においてもそうではないでしょうか。確かに様々な戦いを私たちは経験します。時には、気が滅入ってしまうようなこともあります。恐れを抱くこともあります。そのようなことのためにも、神は主にある兄弟姉妹を備えてくださっています。
 先月にJBCの教会指導者研修会と教職者研修会が行われました。私個人としましては「地区別」と「交わり」が印象に残ったものでした。教職者研修会の中で、「以前のJBC総会では地区別や交わりについて非難轟々だったのに何故今回は!」と呟きましたら、ある先生から「機が熟したのでは」と言われました。以前にも話しましたが、みことばの学びは一人でできますが、「祈り合う」とか「励まし合う」という交わりは一人ではできません。私たち一人ひとりの周りには、主にある兄弟姉妹を神は備えてくださっています。その方々との交わりを通し、「この町にも主の民はたくさんいる」ことを覚えつつ、神の約束に目を留めてキリストの証し人として歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き18:1~11「恐れないで」 24.09.29.

序)
 パウロはアテネの町での宣教を終え、コリントの町に入りました。「コリント」と聞かれますと、「コリント人への手紙」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。そのコリントの町です。私は信仰を持ってからコリント人への手紙を読んだとき、とても驚いたことを覚えています。と言いますのは、「キリスト者なのにこんなことをしていたのか」と思わされたからです。特に目を留めたのはⅠコリント5:1の後半に「しかもそれは…者がいるとのことです」と書かれています。「父の妻」というのは、父親の再婚相手の人のことだと考えられます。「その女性を自分の妻にしている」というのです。本当に乱れていた教会がコリント教会だったのです。その教会が立てられているコリントの町の中での神の取り扱いを共に教えられたいと願っています。

1)コリントの町
 コリントの町は、地図⑬を見ますとアテネの西に位置する町であることが分かります。アテネから約70㎞離れています。このコリントの町は東西が海に面している町です。例えば、ローマから来た船がコリントの西の港で荷物を降ろし、その荷物を東の港に運んで別の船で東の地域に運んでいました。或いは、小さな船ですと陸地で移動させるということもしていたらしいのです。今から130年程前に運河ができて、船がそのまま通り抜けることができています。ですから、当時もローマとエペソやシリアのアンティオキアを結ぶ重要な町でもありました。先程も話しましたように、コリント人への手紙第1を見ますと風俗的に乱れていた町であることが分かります。コリント人への手紙は、パウロがコリントの教会に宛てて書かれた手紙です。すなわち、コリント人への手紙を読んでいるのはキリスト者なのです。どれほど倫理的に乱れていた町であるかが伝わってきます。
 では、何故コリントの町はこのように倫理的に乱れた町になったのでしょうか。一番考えられるのは、コリントの町が人の往来が多く繫栄していた町だったからということです。船員とか港湾労働者ら肉体労働者が多い町ですから、風俗的な店も多かったと考えられます。町の雰囲気は、昔の日本の吉原とか今の新宿の歌舞伎町と言ったような「歓楽街であった」と想像できます。そのため治安も良くなかったことでしょう。そのような町がコリントだったのです。そのコリントの町に行ったときの心境をパウロは、Ⅰコリント2:3で「     」と告白しています。パウロの心の中は不安でいっぱいだったようです。ベレアの町で分かれたシラスとテモテは一緒ではありません。一人だけでコリントの町に入ったのです。「あのパウロが心の中では不安でいっぱいだった」と知ると、私たちと何ら変わることのない人であることを知らされます。ですが、そのコリントの町でポントス生まれのアキラとプリスキラ夫婦に出会うのです。今までは「アクラ」と訳されていましたから、そちらの方が私たちは親しみやすいかもしれません。この夫婦との出会いによってパウロは力づけられたことと思います。ここに神の備えを見ることができるのではないでしょうか。神は私たち一人ひとりの心の内を御存知ですから、そのために様々な備えをしてくださっていることを覚えたいものです。

2)福音宣教に専念するパウロ
 アキラとプリスキラ夫婦に出会ったパウロは、自分と同じ同業者であることから一緒に仕事をすることとなりました。資料を調べてみますと、「もうすでにこの夫婦はキリスト者であったのではないか」と記されています。ただ確かなことは、パウロと共に過ごすことを通して、この夫婦はさらに詳しく福音を知ることができたと考えられます。それは18:24に「アポロ」という人がエペソの町に来たとき、イエス・キリストのことを伝えていましたが、アキラとプリスキラ夫婦はアポロに「神の道をもっと正確に説明した」と26節の最後に書かれているからです。最初は心細かったパウロは、この夫婦を通して励まされ平日は天幕作りをして生計を立て、安息日には会堂で福音を伝えるということをしていました。そのような日々が続く中で、コリントの町にシラスとテモテが着きました。それによってパウロは、「みことばを語ることに専念し」と5節の前半に書かれています。このことばは何を意味しているでしょうか。ひょっとしたら、シラスとテモテによって生計が立てられていたことを意味するのかもしれません。それと同時に、シラスとテモテはピリピ教会から物資を預かっていたとも考えられます。Ⅱコリント11:9「あなたがたのところに…補ってくれたからです」と書かれています。また、ピリピ4:15には「     」とも書かれています。とにかく、パウロはシラスとテモテが来ることによって福音宣教に専念することができたのです。
 逆に言えば、シラスとテモテが来なかったらパウロは福音宣教に専念することができなかったということです。今日本に来られている宣教師は、宣教団体から支援を受けています。ともすると、「宣教団体から全額支援されている」と思われがちですが、実はそうではありません。宣教師の召しを受けた方は、支援してもらうために各教会を回っておられます。以前に私たちの団体の宣教師から聞いた話ですが、その額は「月3000ドル」と話しておられました。どれだけ宣教師としての召しがあったとしても、その額に届かなければ宣教師として派遣されないというのです。何故なら、福音宣教に専念できないからです。でもそれは、「毎月3000ドルが宣教師に送られる」というのでもありません。その一部が送られるのです。と言いますのも、保険や年金、またアメリカと日本の行き来に用いる旅費なども含まれているからです。宣教師としての働きに専念できるためには、それ位の額の支援金を集めることが必要だそうです。これは日本から海外に派遣される宣教師も似たものです。1人の宣教師が送られるというのは、それほど多くの人たちの献げ物によってであることを覚えたいものです。残念ながら、私たちの団体の宣教師部は今年度末をもって解散します。日本に残られるユリ先生は、「TEAM」という宣教団体に入り津で宣教活動を続けられる予定をされています。続けて、ユリ先生の働きを覚え祈っていただきたいと願います。
 福音宣教に専念することができたパウロは、イエスがキリストであることを証ししました。8~9節には、イエス・キリストを信じる人たちが起こされました。しかし、同時に6節には「彼らが反抗して口汚くののしった」とも書かれています。福音が語られる所には、必ず反対する勢力があることを私たちは今朝の箇所を通しも知らされます。これはどの町においても同じです。「どの町においても同じ」ということは、この春日井の地においても同じであるということです。福音に抵抗する働きは決して珍しいものではありません。あって当たり前のことなのです。誘っても来てもらえない。証ししてもあざ笑われる。そのような経験は誰にでもあると思います。そのようなとき落ち込んでしまいます。ですが、聖書は「そのようなものである」と語っているのです。反応がどうであれ、神はパウロに9節で「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」と話されました。パウロに与えられている務めは、反応がどうであれ福音を語り続けることなのです。そして、それは私たち一人ひとりにも語られていることです。あとは神が責任を負ってくださるのです。私たち一人ひとりに与えられている「キリストを証しする」という務めを果たし続けられるように祈っていきたいものです。

3)神の約束
 神はパウロに9~10節で「恐れないで…たくさんいるのだから」と話されました。神はパウロに「恐れるな」と命じておられます。何故でしょうか。それはパウロが福音を語ることを恐れたからです。恐れを覚える事態にパウロは直面していたのです。この9~11節のことは、いつの時なのかは分かりません。シラスとテモテがマケドニアから来た後のことなのか、それともその前のことなのかは分かりません。「8節の後に書かれているのだから、シラスとテモテと合流してから」とも取れますし、「その前のこと」とも取ることができます。これまでもパウロは何度も迫害の経験をしてきました。そのパウロが恐れを覚えるのですから、よっぽど精神的に追い込まれていたと考えられます。或いは、コリントの町に来たときは一人だけでした。今まではバルナバやシラスなどと一緒に活動していました。しかし、コリントの町では一人だけです。これはパウロにとって初めての経験です。それで恐れを覚えたのかもしれません。なぜ恐れを覚えたのかは分かりませんが、恐れを覚えたのは事実です。
 では、なぜ恐れる必要がないのでしょうか。その理由が10節に書かれています。その1つは、神がパウロと共におられるからです。先週の教会指導者研修会の閉会礼拝では、申命記からメッセージをさせていただきました。申命記の主題は回顧と展望です。「今までの歩みを振り返りつつ将来を見通す」というのが申命記の語っているものです。イスラエルの民は荒野での生活を終え、神の約束の地であるカナンの地に入ろうとしています。そのときにモーセが語ったことが記されているのが申命記です。イスラエルの民にとって荒野での生活は苦しいものでした。ですが、苦しいものだけではありませんでした。そこには神が共にいて導いてくださった生活でもありました。「そのことを思い起こして、これから入り生活するカナンの地でも荒野での生活と同じように苦難に遭遇しますが、荒野での生活と同じように神が共にいて導いてくださることに目を留め生きよ」というのが申命記の語っていることです。
 続けて、「あなたを襲って危害を加える者はいない」とも神はパウロに話されました。それは「神があなたを守る」という約束です。この神のことばは、イザヤ41:10のみことばを私たちに想起させるものです。イザヤ41:10に「     」と書かれています。ここでも「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」と話されています。この神の約束を私たちも覚えたいものです。私たち一人ひとりの歩みも、この世にあって様々な苦難に遭遇します。そのような苦難の中に遭遇しますと、恐れを抱いて不安を覚えます。そのような目に見える現実に直面しますが、同時に目に見えない現実があることをも覚えたいです。その目に見えない現実とは、何度も語っていますが神の守りと導きです。「神はいつも私と共にいてくださる」ことに目を向けつつ、キリスト者として歩み続けられるように祈っていきたいものです。

結)
 この不動の神の約束に目を留めたパウロは、コリントの町に1年6ヶ月の間腰を据えて神のことばを教え続けました。このような歩みをすることができたのは、神の約束に目を留め続けたからです。でも、それだけでもないと思います。もう一つ目を留めるべきものは、パウロの周りにはシラスとテモテ、そしてアキラとプリスキラ夫婦も共にいたというものです。ともすると、私たちの歩みは「自分一人」と錯覚してしまいやすいものです。しかし、私たちの周りには同じ主にある兄弟姉妹が共にいてくださいます。そして、共に祈り合ってくださっています。決して一人ではありません。その兄弟姉妹らも神が備えてくださった一人ひとりです。そのところにも目を留めつつ歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き17:32~34「信じる人を期待して」 24.09.22.

序)
 今朝の箇所は非常に短く、アレオパゴスでの宣教の結果が書かれている箇所です。今朝の箇所を読みますと、パウロのアレオパゴスでの宣教に対して3つの反応があったことが記されています。今朝の箇所を読みますと、「今から約2千年前の人たちと現代の人たちとの反応は同じである」ということに気づかされます。今朝はこの箇所を通して、神を信じる人が起こされることを期待して福音宣教に励むことを共に教えられたいと願っています。

1)あざ笑う人
 パウロが語ったメッセージに対して1つ目の反応は、あざ笑う人たちがいたということです。このあざ笑う人たちは何をあざ笑ったのでしょうか。32節に「死者の復活のことを聞くと」と書かれています。すなわち、パウロが死者の復活のことを語ったことに対してあざ笑ったのです。このあざ笑う人たちは偶像崇拝者です。偶像崇拝者というのは、偶像に対して祈ったり拝んだりする人たちです。すなわち、全く信仰がない人たちではありません。彼らも「霊魂」というのは信じているのです。「霊魂は不滅であるが、肉体は朽ち果てて滅びるもの」と語るならあざ笑うことはしなかったでしょう。しかし、「肉体が復活する」と語っているので、それに対してあざ笑ったのです。この肉体の復活については、現代人も受け入れ難いものです。肉体の復活については、昔の人も今の人も信じられないものだったのです。ある方は「聖書の教えは、昔は通じていたかもしれないが現代では」と思われています。しかし、聖書は「昔も今もあざ笑われるものであった」と語っているのです。そのように考えますと、福音宣教の反応は昔も今も変わることがないのを知らされます。
 では、何故アテネの人たちは真剣に語るパウロの話しをあざ笑ったのでしょうか。それは聞き慣れていないものだったからです。このアテネの人たちは、アテネの文化の中で育った人たちです。アテネの町は偶像がはびこっている社会であり哲学文化の町です。そのような文化の中で生まれ育った人たちです。人は小さいときから聞かされてきたものには何の抵抗もなく受け入れます。しかし、大人になって初めて聞いたものには抵抗してしまいやすくなります。ましてや、「肉体が復活する」というのは理解し難いものです。実は「霊魂の不滅」というのも理解し難いものです。しかし、小さいときから教えられていたものですから、そのことについてはすんなり受け入れられるのです。でも、肉体の復活は教えられていなかったのですから、そのことについては受け入れ難いものだったのです。そのように考えますと、非常に現代の日本の文化と似ています。
 現代の日本人も宗教心がないわけではありません。何かがありますと神社に行って祈祷します。しかし、福音の話しをしますと多くの人は拒否されたり、肉体の復活の話しをしますとバカにされたりします。まさしくアテネの人たちの反応と同じです。何故なら、信じ難いことだからです。「修行や行いを通して救われる」のなら理解されますが、「信じるだけで救われる」ということには理解できないのです。現代の日本の状況は、「この時のアテネの町の状況と同じ」と言っても過言ではありません。「そのような状況の中で私たちは福音宣教をしている」ということを覚えたいものです。

2)「後で」という人
 パウロが語ったメッセージに対して2つ目の反応は、「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」という反応です。これは別の表現で言いますと「また後で」ということです。今は「イエス」とも「ノー」とも答えず曖昧な返事で済ませています。関西ではセールスをして客から「考えとくは!」という返事を受けることがあります。この「考えとくは!」というのは「ノー」を意味したことばです。はっきりと断るのは気が引けるので、やんわりとした断り方をします。以前、何かのテレビ番組のコーナーの中で京都人のことが放映されていました。すると、近所の人と会話をしている中で、「ええ時計しとるね!」と言われたら、「時間も長く過ぎとるから帰れ!」という意味らしいのです。ですから、関西地方出身の方は、「この人たちもあざ笑った人たちと同じように福音を拒否した」と受け取られる人が多いのではないかと思います。ただ、もう一つの理解の仕方もあります。それは「今はゆっくりと聞くことはできないが、別の機会にゆっくりと聞きたい」という理解です。このことばをどちらと取るかは人によって異なることでしょう。どちらかと言いますと私は関西系の人間ですので、「このことばは拒否したもの」と捉えてしまいやすくなります。ですが、「その話はまた後で」と言われたとき、「まだ可能性がある」という受け止め方をしたいものです。そして、「機会があれば福音を伝えられれば」と思わされています。何度も触れていますが、パウロは「どうせ」という思いを抱くことなく、何度も何度も繰り返し福音を語り続けたのです。
 ですが、この「もう一度聞くことにしよう」と言った人たちのことを考えてみたいのです。「もう一度聞くことにしよう」ということばを拒否ではなく、「改めてという理解で語った」と前提にしてです。このことばの中には、「後に」という思いがあります。さらに言えば「明日以降」ということになるでしょう。そこには「明日は必ず来る」という前提に立ってのものです。しかし、「誰もが明日は必ず来る」とは限りません。「一寸先は闇」ということわざがあります。先のことは分からないのです。すぐ後に大きな事故に遭遇することもあるかもしれません。イザヤ55:6に「     」と書かれています。「お会いできる間に」とは、「福音に接しているとき」ということです。数年前に「今でしょ!」ということばが流行りましたが、神が人に求めておられるのは「後に」ではなく「今」です。それは救いだけではありません。ディボーションなどを通して神から決断を迫られることがあります。その決断にしても「後に」ではなく「今」が大切であることを知らされます。

3)信じた人
 パウロが語ったメッセージに対して3つ目の反応は、福音を信じる人たちが起こされたというものです。ですが、この34節をよく読みますと、「パウロが語ったメッセージをすぐに信じて受け入れたことでもない」ということが分かります。34節には「ある人々は彼につき従い、信仰に入った」と書かれています。ですから、パウロが語ったメッセージに対して心を動かされ、「さらに詳しく知りたい」という思いが起こされ、パウロと共に聖書を詳しく学ぶことによって、信仰に入ったということです。それはイエス・キリストの十字架による死と復活が、旧約聖書の預言と約束から成り立っているものであることを学び信じるに至ったということです。
 ここにも1つの原則を見ることができます。それは「メッセージを聞いてすぐに信じたのではない」という原則です。それは「メッセージを通して神を求める思いが起こされ、メッセージのフォローを通して信仰に入った」という原則です。そのように聞かれますと、ある方は「ペンテコステの日にはペテロが語ったメッセージを通して多くの人が受け入れたではないか」と思われるかもしれません。ですが、ペンテコステの日に語った相手は、7週の祭りのためにエルサレムに来た人たちです。遠くの町からエルサレムに来るのですから、多くの人たちは熱心なユダヤ教徒とだったと想像できます。すなわち、旧約聖書のことを熟知している人たちに対して語られたものです。しかし、パウロの伝道旅行はそうではありません。確かにユダヤ教会堂に入って福音を語りましたが、旧約聖書を熟知している人たちばかりとは限りません。そのような人たちには、きちんと順序立てて説明していく必要があります。それがメッセージフォローです。
 アテネでのパウロの福音宣教の反応の多くは、「拒絶」と思えるようなものです。しかし、少数ではありますが信じる人が起こされたことに目を留めたいのです。しかも、信じるように至ったのは「聖書を学ぶ」という地味なものを通してです。1人でも信じる人が起こされる。これは大きな神の恵みであり感謝すべきことです。イエス・キリストは、迷った1匹の羊について「99匹の羊を山に残して捜しに出かける」と話され、見つけたとき大きな喜びをする譬え話を話されました。そして、1人の人が信じ救われることは、そのように天においても大きな喜びがあることを話されました。そのような喜びが、この春日井神領キリスト教会を通してもなされるように祈っていきたいものです。1人の人が信じ救われるのは決して容易いものではありません。そこには多くの戦いがあり困難があります。しかし、神は信じる人を起こしてくださることを期待して、私たち一人ひとりにできることを続けていきたいと願わされます。

結)
 パウロのアテネでの宣教は「あざ笑い」や「後で」という反応が多い中でしたが、メッセージを通して「さらに知りたい」という人たちも起こされました。当時のアテネの町は、今の日本社会と似ています。でも、信じる人が起こされたのです。この春日井の地でもそうです。この教会を通して信じ救われた方々がおられます。それならば、これからも神はこの教会を通して信じ救われる方々を起こしてくださることを信じ、福音を一人でも多くの人に伝えられるように祈っていきましょう

使徒17:16~31「神は天地の主」 24.09.15.

序)
 パウロはベレアの教会の人たちの案内によってアテネの町に来ました。このアテネの町は、地図⑬に記されていますようにアカイア地方に属する町です。この地方は18章に登場しますコリントの町もその地方に属しています。先週の学び会で、「アテネのアクロポリスにはヘロデ大王の銅像が建てられていた」ということを学びました。聖書にはヘロデ大王は「悪者」として描かれていますが、ローマ帝国においては様々な所で支援協力をしていた人物でした。今朝は、このアテネの町で語ってパウロのメッセージから共に教えられたいと願っています。

1)偶像崇拝者に対して
 シラスとテモテが来るのを待っていたパウロは、「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた」と16節に書かれています。この光景を頭の中で想像してみました。おそらくパウロは、1ヶ所に留まってシラスとテモテが来るのを待っていたのではないと思います。彼らが来るのを数日間待ってはいたでしょうが、その待っていた間アテネの町を巡り歩いたのではないかと想像します。その中でパウロは、アテネの町には偶像がいっぱい立てられているのを見て憤りを覚えたのだと思えます。私が住んでいます地域ではそれほど目に移りませんが、以前住んでいた稲沢の町は各行政区の中に神社が建てられていました。稲沢の町は「はだか祭り」で有名な国府宮神社があります。「稲沢の町は国府宮神社一色」と言っても過言ではない町です。ですが、パウロのような憤りを覚えたことはありませんでした。おそらく、私自身が伝統的日本人的宗教観の中で育った者だからでしょう。憤りよりも「残念と言いましょうか仕方がない」という思いの方が強かったわけです。そのような宗教観に慣れ親しんでいる人たちに対して、どのように福音を伝えれば良いのかを考えさせられました。
 では、パウロはそのようなアテネの人たちに対してどのように福音を伝えたのでしょうか。18節の最後に「イエスと復活を宣べ伝えていた」と書かれています。すなわち、イエス・キリストの十字架による死と復活を話していたのです。何よりも大事なのはこれです。そのことは30~31節でも「     」と語っています。これはイエス・キリストの十字架による死と復活を示しています。そのイエス・キリストの十字架による死と復活を、アテネの人たちにどのように伝えたのでしょうか。22~23節に「     」と言って語り始めました。ここに「見る」ということばが3回繰り返し語られています。パウロは、これから話そうとする相手をよく観察していたのです。ただ単にアテネの町を観光していたのではありません。この町に住んでいる人たちに対して、どのようなアプローチをして福音を伝えれば良いのかを意識しながら町や町の人たちを観察していたのです。
 パウロは多くの偶像を見て憤りを覚えましたが、アテネの人たちを否定してはいません。すなわち、「あなたがたは間違っています」とは言ってはいないのです。むしろ、「あなたがたは宗教心にあつい方々だ」と言っているのです。様々な偶像が立てられており、それらの偶像を拝んでいる姿を通して「宗教にあつい人たちである」と判断し語り始めたのです。人というのは最初に否定されてしまいますと心を閉ざしてしまいます。その心を閉ざさないようなことばから始めています。そして、「知られていない神に」と刻まれている偶像を見て、そこから話し始めたのです。話す相手をよく観察し、心を閉ざさないアプローチを私たちも身につけて実践していきたいものです。

2)世界を創造された神
続けてパウロは、「知られていない神に」という像を見て話し始めました。では、何故そこから語り始めたのでしょうか。19~20節に「あなたが語っている…知りたいのです」とアテネの人たちはパウロに語っています。「アテネの人たちは自分が知らないことに興味がある」と言っています。パウロはアテネの人たちが興味を抱くものから語り始めているのです。このメッセージ準備をしている時、神学生時代のことを思い出しました。それは授業ではなくて、神学校内のあるサークルが主催する高校生伝道についての集会です。それは「hi-b.a.」という高校生に伝道する団体です。東海地方でも15年程前から始まっています。スタッフの中には、以前夏期伝道や人形劇で奉仕してくださった方々もおられます。当時、神学校の卒業生でスタッフをされていた方を招いての集会でしたので、私はその集会に参加しました。私が印象的に残ったのは、「自分が接する相手の興味を知ることが何よりも大切である」ということでした。彼女が接しているのは高校生ですから、高校生が興味を抱くものを少しでも多く調べるというのです。ファッションや映画、車やバイク・食べ物などを調べるというのです。当時はネットや携帯電話が普及していない時代です。そのため「雑誌や人から情報を集めている」と話されていました。何故なら、「彼らの興味のあるものと対等に話せないとソッポを向かれてしまうから」というのです。そこから関係を作って福音を伝えているというのです。私はそれを聞きながら「大変な仕事だな!」と思わされました。
パウロもそうです。彼らの興味を抱くものから語り始めているのです。そして、「その神を紹介しましょう」と言って福音を語り始めたのです。「アテネの町の人たちが知らない神とはどのような神か」と言いますと、24節に「この世界と…お造りになった神」と語っています。すなわち創造主です。「神がこの世界と世界の中ある全てのものを造られた」という創造論はとても大切なことです。これは私の個人的見解ですが、「進化論が間違いであることは証明されていますが、創造論が間違いであることは証明されていない」と個人的に思っています。そのように聞かれますと、「進化論が間違いであることを何が証明しているのか」と思われる方もおられるかもしれません。それを証明しているのは数学です。数学は、ある問いに対して公式をもって答えを見出だしていきます。途中で公式を飛ばして答えを見出だそうとするものは「間違い」と判断します。進化論は何かと説明しますが、その途中で「突然変異」ということばを用いて答えを見出だそうとします。この「突然変異」というのは公式を飛ばしたものと同じというのが私の個人的見解です。
 そのように聞かれますと、「創造論も同じではないか」と思われるかもしれません。ですが、創造論は最初から「無から有を造られた」というもので数学を越えたものとしているのです。最初から「数学では解決できない」としているのです。進化論の多くは「進化論は科学だが創造論は宗教だ」と言われます。ですが、その科学の一つである数学は「進化論は間違いである」と証明しているのです。その創造論に立って世界を見ることは、私たちキリスト者にとって大切なことです。その創造論に立った視点で歩み続けさせられたいものです。

3)偶像崇拝の空しさ
 では、パウロはアテネの人たちに何を語ったのでしょうか。その1つは、24節に書かれていますように「神は天地の主」であられるということです。その「天地の主はどのような方か」と言いますと、手で造られた宮にお住みにならない方です。これは何を意味しているのかと言いますと、アテネの町の人たちは偶像崇拝者です。学び会の時に神殿の跡地を何度も見ましたが、その神殿は大きく立派な建物であることが伝わってきました。偶像崇拝の人たちは、そのような立派な神殿を誇っていました。しかし、真の神はそのような立派な神殿に住まわれませんから、そのような建物は必要ないのです。すなわち、偶像崇拝者が誇っている建物は意味がないのです。では、真の神は何処におられるのでしょうか。Ⅰコリント3:16に「     」と書かれていますように、イエス・キリストを信じる一人ひとりの中に住んでくださっています。一人ひとりが神殿なのです。まず、パウロはそのことを指し示しています。
 次に、全ての人に、いのちと息と万物を与えておられる方です。神は全てのものを造られ、いのちを与えられました。さらに、人間にだけ「いのちの息」を与えられたことによって、「人は生きるものとなった」と書かれています。この「生きるものとなった」とは、「神との霊的な交わりを持つことができるようになった」ということです。この世界を造られた方を「お父さん」と呼び、家族の一員としての交わりを持つことができるようになったのです。これは造られたものの中で人間にだけ与えられている特別なものです。人が神に対して罪を犯したとき、神は人に対して「あなたは何処にいるのか」と神の方から呼びかけられる存在なのです。神は人が罪を犯したことを御存知の上で、神の方から人に呼びかけられたのです。「神の方から呼びかける」とは、「神の方から交わりを持とうとされた」ということです。それほど人は神の目から見て特別な存在なのです。「それは何のためにか」と言いますと、27節に書かれていますように神を求めさせるためです。すなわち、目には見えませんが確かに存在し働いておられる神と交わりを持つためです。人はそのような者として造られましたから、偶像によって心を満たされることはないのです。心を満たすものは物質的なものではありません。関係によってしか心を満たすことはできないのです。そのより良い関係作りを神は人に求めておられるのです。
 「如何に偶像崇拝が空しいものであるか」を語ったパウロは、最後にパウロはイエス・キリストの十字架による死と復活を語っています。人が偶像崇拝に陥ったのは罪の故にではありますが、神がご自身を明らかにされていなかったからでもあります。しかし、神は御自身を明らかにしてくださいました。どのようにしてでしょうか。イエス・キリストをこの世に送られることによってです。30節の最後に書かれていますように、神は全ての人に罪の悔い改めを求めておられます。何故なら、罪を悔い改めない人に審きを下されるからです。実は、もうすでに神の審きは下されているのです。「何によってか」と言いますと、イエス・キリストの十字架による死によってです。イエス・キリストの十字架による死は、私たちの罪を代わりに背負われ神の審きを受けられたものです。イエス・キリストの十字架を信じることは、自分の罪を認めただけでなく悔い改めたことをも示すものです。神に赦しを乞うことでもあります。それによって、人の罪は神に赦されるのです。
 しかし、イエス・キリストは十字架に架かって死なれただけではありません。御存知のように死から甦られたのです。それは何のためにでしょうか。「イエス・キリストを信じる者は、死んだ後にも甦ることができる」という希望を与えるためです。すなわち、どのような境遇に遭おうとも決して生きる望みを失わないようにするためです。パウロはⅡコリント4:8~9節で「     」と語っています。イエス・キリストを信じる者であっても、この世にあっては様々な苦しみに遭遇することが語られています。しかし10節以降には、そのような歩みの中に神の守りがあることが語られています。そして、結論として16節で「私たちは落胆しません」と語っています。それは17節書かれていますように、永遠の栄光が私たちにもたらされるからです。イエス・キリストの甦りは、私たちがこの世にあって望みをもって生きる者となるためです。それゆえ、偶像崇拝は空しいものです。

結)
 私たちが信じている神は、この世界を造られた天地の主です。そして、その天地の主であられる神は、私たちがどのような境遇に置かれようとも、決して生きる望みを失わせません。何故なら、この世の全てのものを支配されているからです。「この世の全てのものを支配されている」ということは、「この世の全てのものを用いられる」ということでもあります。確かに、この世にあって苦しみを経験します。しかし、神はその苦しみをも用いて私たちを最善の道に進ませてくださるお方です。その神がいつも私たちと共にいて導いてくださっていることを覚えつつ、共に歩まされていきましょう。

使徒の働き17:10~15「キリストの愛に捕らえられ」 24.09.08.

序)
 パウロらはトロアスの町で「マケドニア人の叫び」と言われる幻を通して、マケドニア地方に行くことが神の御心と確信し渡りました。そして、今朝のベレアの町がマケドニア宣教の最後の箇所となります。今朝は、このベレア宣教から共に学んでいきたいと願っています。

1)諦めない伝道
 テサロニケの町で福音宣教を始めたパウロとシラスは、テサロニケのユダヤ教信者による巧妙な訴えにより、テサロニケの町を出てベレアの町に送り出されました。そのべレアの町でも彼らはユダヤ教会堂に入って福音を語ったのです。何度も触れていますが、「ユダヤ教会堂に入って福音を語る」というのがパウロの伝道方法です。そのことによって「ユダヤ教信者から妬みを買い迫害される」という経験を繰り返しますが、それでもパウロは自分の伝道方法を変えることをしませんでした。それによって、やはりベレアの町でもテサロニケの町から来たユダヤ教信者によって騒ぎを起こされ、アテネにいくことになりました。14:1に「イコニオンでも、同じことが起こった」と書かれています。この箇所の時にも触れましたが、ピシディアのアンティオキアからイコニオンまでは直線で130㎞ほどあります。現代の道を車で走ると160㎞ほどということです。1日で行ける距離ではありません。イコニオンの町に着くまでに幾つかの町で宿泊をしたことと考えられます。このときは第1回伝道旅行のときです。パウロはバルナバと一緒に伝道旅行をしていました。彼らのことですから、どの町に行ってもユダヤ教会堂に入って福音を伝えたことと考えられます。そうなりますと、この「同じことが起こった」というのは、「イコニオンの町でもピシディアのアンティオキアの町で起きたことと同じことが起こった」というのではなく、イコニオンの町に着くまでの町でも同じことが起こりました。それでも彼らは伝道方法を変えることをせず、イコニオンの町でもユダヤ教会堂に入って福音を伝えたのです。しかし、そのイコニオンの町でも同じことが起こったのです。する側からすれば、願う結果と違うことが同じように起こるなら失望してしまい、閉塞感を覚えてしまいやすくなります。そのような状況であるにも関わらず、パウロとバルナバは諦めることなく同じ方法で福音を伝えていたのです。
 何回行っても願う結果と違ったとき、「今までもそうだったから今回も」と思ってしまい、「どうせ」という思いが生じてしまいます。この「どうせ主義」こそが、福音宣教の前進を妨げる大きな要因の一つであることを14:1のときに見ました。願った結果と異なるものが出続けると閉塞感を覚えてしまいやすくなります。ですが、諦めることをせず福音を伝え続けることこそが、福音宣教の前進に繋がることを改めて教えられます。9月に入り、あと約3か月後には今年もMグレを招いてのクリスマスライヴを予定しています。このときが豊かに良き伝道のときとして用いられるように祈り備えていきたいと願わされます。

2)みことばの吟味
 パウロとシラスはべレアの町でも同じ方法で福音を伝えていました。このべレアのユダヤ人について聖書は「テサロニケ…受け入れ」と語っています。これはテサロニケの町とは違うものです。何が違うのかと言いますと、テサロニケの町の場合は福音宣教をした側から見たものですが、ベレアの町の場合は福音に接した側の姿が書かれているのです。そのべレアの人について「素直で…受け入れ」と書かれています。今の聖書は「素直で」と訳されていますが、以前の聖書は「良い人たちで」と訳されていました。「何が良い人たちなのか」と言いますと、心の中が良い人たちだったのです。それは偏見的な聴き方をしていなかったということです。「自分の中にある偏見的な見方・捉え方をしないで、語られたメッセージを素直に聞いていた」ということです。以前の聖書は「熱心にみことばを聞き」と訳されていましたが、今の聖書は「熱心にみことばを受け入れ」と訳されています。それは、この「聞く」ということばが「受け入れる」とも訳すことのできることばだからです。ですが、この「受け入れ」というのは「信じた」ということではありません。「何も批判しない」ということです。しかも、「熱心にみことばを受け入れ」たのです。それは一つのことばも失うことのないように聞いていたということです。
 何故そのような聞き方をしていたのかと言いますと、その後で「はたして…調べた」と書かれていますように、語られたことが聖書に基づいているのかを調べるためです。この「調べる」と訳されていますことばは、4:9に訳されています「取り調べ」と同じことばです。すなわち、綿密に調べることを意味したことばです。先入観を持って調べるのではなく、公平に証拠に基づいて調べることを意味しています。その調べた場所がユダヤ教会堂なのか個人の家なのかは分かりませんが、毎日集まってパウロらが語ったことが真実であるかどうかを調べたのです。この姿勢は私たちも学ぶ必要があります。礼拝で牧師が語ることばを鵜呑みにするのは危険です。何故なら、牧師も一人の人間であり間違ったことを話す可能性もあるからです。聞く側の一人ひとりも牧師が語ることばを吟味するのは大切なことです。
 昨日の役員会でも話しましたが、日本のキリスト教機関紙の中に「クリスチャントゥデイ」というのがあります。これはアメリカのクリスチャントゥデイとは違う組織です。この日本のクリスチャントゥデイは、日本の教会に大きな影響を与え続けています。この機関誌は、ダビデ張師を「再臨のキリスト」としている団体です。そのことを隠しつつ様々な教会に入り込み自分たちのグループに引き込んでいる団体でもあります。この信徒の人たちは、「とても真面目で牧師も信頼してしまうほどの人たちである」ということです。これは以前に、教育部発行のニュースレター第27号に記載されています。その時の講師である根田氏も「使徒17:11に書かれているように、聖書に確認するという姿勢を徹底してほしい」と話されていました。このべレアの人たちのように、語られたメッセージが聖書の語っていることに基づいているのかを調べる吟味する姿勢を私たちも学んでいきたいものです。

3)キリストの愛に捕らえられ
 このようにして、ベレアの町にも「多くの人たちが信じた」と書かれています。地道な活動を通して信仰に導かれる人たちが起こされていったのです。ですが、13節を見ますと「ところが」と書かれています。この町でも全てが順調であったということではありませんでした。テサロニケのユダヤ人たちがベレアの町に来て、群衆を扇動して騒ぎを起こす事態となったのです。福音宣教が進むにつれ、その働きに抵抗する力も強いことを聖書は示しています。そのため、ベレアのキリスト者はどうしたでしょうか。15節に「アテネまで連れて行った」と書かれています。ベレアからアテネまでは約350㎞離れています。春日井市から調べると東では東京を越えて水戸市までの距離です。西ですと広島市の手前の福山市までの距離となります。それほど離れた距離を彼らは送っていったのです。それはマケドニア地方のユダヤ人がパウロを追って来ないようにするためだったと考えられます。そこまでの配慮するベレアのキリスト者から私たちは学ばせられます。
 パウロらの一行は、トロアスの町で「マケドニア人の叫び」と言われる幻を通して、マケドニア地方に行くことが神の御心と確信し渡りました。ところが、このマケドニア地方での福音宣教はどのようなものだったでしょうか。ピリピの町でもテサロニケの町でも、追い出されるような形で町を出ざるを得ませんでした。そして、ベレアの町においてもそうでした。そのように見ますと、このマケドニア宣教は困難の連続であったと言えます。ともすると、「本当に神の御心だったのか」と思えるようなものです。しかし、神は各々の町に教会を建て上げてくださり、各々の教会に忠実な信徒を立ててくださったことも事実です。ピリピとテサロニケはパウロ書簡がありますから、教会が建て上げられていたことが分かります。しかし、ベレアに宛てた手紙はありません。また、ベレアの町はこの箇所しか登場しません。だからと言って「教会は建て上げられなかった」とは言えません。聖書には記されていないだけで、このベレアの町にも教会は建て上げられたと考えられます。何故なら、これほどの忠実な信徒の人たちがいたからです。そして、このベレアのキリスト者一人ひとりに神は共にいて導いてくださっているからです。
 最初でも触れましたが、パウロの伝道旅行は福音宣教と迫害の繰り返しです。同じことが何度も繰り返されているのです。それでもパウロらは挫(くじ)けることはありませんでした。何故でしょうか。Ⅱコリント5:14に「キリストの愛が私たちを捕えているからです」とパウロは告白しています。4:16には「ですから、私たちは落胆しません」と告白しつつも、「たとえ私たちの外なる人は衰えても」と語り、5:1では「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても」と、困難に直面することを告白しています。しかし、神は御霊をくださいましたから、私たちはいつも心強い」と5:5~6で告白しています。それは何故かと言いますと、5:14の「キリストの愛が私たちを捕えているからです」との告白に至っているのです。私たちは自分にとって良くない結果が出たとき、その結果の方に心が向けられてしまいます。それは仕方のないことでしょう。しかし、もう一つの事実もあることにも心を向けていきたいものです。そのもう一つの事実とは、神の守りと導きの中にあって生かされているという事実です。私たちは辛い結果を経験しますが、それでも神は私たちと共にいて導いてくださっています。その事実にも心を向ける大切さを今朝の箇所から教えられます。

結)
 このベレアの町での宣教で、マケドニア地方での宣教は終わりアテネに移ります。一見、マケドニア宣教は願った結果で終わったとは言えないものです。しかし、神の守りと導きがある事実を見ました。私たちの歩みも似たものです。その「似たもの」とは、「願った結果ではなかった」ということと、「それでも神は共にいてくださり守り導いてくださっている」という事実です。私たち一人ひとりも、キリストの愛に捕らえられていることを覚え、挫けたとしても神の守りと導きに心を向けつつ歩まされていきましょう。

天におられる父なる神様。私たちの歩みは、自分の願いとは異なった結果が多い歩みです。しかし、同時にあなたの御手の中にある歩みでもあります。自分の願いと異なった結果が出たとき落ち込んでしまいますが、それだけに心を向けるのではなく、キリストの愛に捕らえられ、あなたの守りと導きの中にもあることに目を向けられますように助けてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン。

 

使徒の働き17:1~9「聖書に基づいて」 24.09.01.

序)
 パウロの一行は、トロアスにて「マケドニア人の叫び」の幻を通して、海を渡りマケドニア地方に行くことが神の御心と確信して海を渡りピリピの町に行きました。このピリピの町で彼らを待ち受けていたものは何だったでしょうか。「大歓迎」というものではなく、彼らは「ユダヤ教会堂での伝道」という方法を持っていましたが、ユダヤ教会堂は見つからず川岸にいた女性たちに福音を語ったというものでした。しかし、その後彼らは捕らえられ牢獄に入れられました。そして、長官たちは町での混乱を避けるために、パウロらに町から立ち去ることを願いパウロ一行はテサロニケの町に行くこととなりました。

1)聖書に基づいて
 この「テサロニケ」という名前は、学び会の時に学びましたがアレキサンダー大王の妹「テッサロニカ」からつけられたものです。そのテサロニケの町には「ユダヤ人の会堂があった」と1節に書かれています。そのため、3節に「     」と書かれています。この「いつものように」というのは、「パウロらの宣教方法に従って」ということです。パウロらは異邦人伝道をするのですが、多くの町ではユダヤ人会堂に入ってイエス・キリストを伝えるというスタイルです。何回も触れていますが、パウロらの伝道方法はまずユダヤ人会堂に入って福音を伝えるというものです。このことから、自分の伝道方法のスタイルを持つことの大切さを教えられます。個人伝道の学び会のときに、幾つかの伝道方法を紹介しました。どのようなものを用いるかはその人の判断によるのですが、「自分に合った伝道方法を持つ」というのは大切なことです。それを持っていないと個人伝道はできません。個人伝道ができないと、前回の礼拝で触れました「伝道メッセージのフォロー」はできません。「伝道メッセージのフォローができない」ということは、伝道集会を開いても効果は少ないということです。
 先週の箇所の31節の「主イエスを…救われます」というのは伝道メッセージです。その後で、「主のことばを語った」のです。すなわち、伝道メッセージのフォローをしたのです。それによって、看守の家族はイエス・キリストを信じる決心へと導かれたのです。今朝の箇所の3節の終わりに「説明し」と書かれています。この「説明し」とは、エマオの途上の2人に甦られたイエス・キリストは彼らと話されました。そのことについてルカ24:27の最後に「ご自分について…説き明かされた」と書かれています。みことばによる約束に従って、そのことが成されたことを示していくことが、今朝の箇所の3節の最後に書かれている「論証」です。パウロは、イエス・キリストの十字架による死と復活が何故必要であるのかの理由を聖書に基づいて説明し証明したのです。メッセージのフォローは大切なものです。それは子ども集会においても同じです。「分かりやすいメッセージをすれば良い」というものではありません。そのメッセージのフォローも必要なのです。

2)ローマ書法
 メッセージのフォローについて、個人伝道の学びのときに紹介しましたローマ書法から見ていきたいと思います。3:23に人間の現状が書かれています。それは、「すべての人は…受けることができず」ということです。これはアダムとエバが神との約束を破ったことを表しています。神が人を見放したのではなく、人の方から神との約束を破ったのです。そのために、神の栄光を受けることができなくなったのです。この「神の栄光とは何か」と言いますと、ただ存在していること・生かされていることに感謝することです。神との約束を破るまでは、その生き方ができていたのですが、神との約束を破ったがために、その生き方ができなくなったのです。それが聖書の語る罪です。その罪が世界に入ったがためにどうなったかが6:23で「罪の報酬は死です」と、死が世界に入ったことが書かれています。創世記2:7には「     」と書かれています。この「いのちの息」とは霊のことです。これによって、人は肉体だけでなく霊的な者として生きる者とされたのです。ところが、人は神との約束を破ったことによって、肉体と霊の死を経験することとなったのです。肉体は物質的なものですから、物質的なものによって満たすことができます。しかし、霊は物質的なものではありませんから、物質的なもので満たすことはできません。では「何で満たすことができるのか」と言いますと、霊的なものでしか満たすことができないのです。その霊的なものとは神のみことばによる約束です。
 では、神のみことばは何と約束しているでしょうか。ローマ3:24に「キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」と約束されています。「キリスト・イエスによる贖いとは何か」と言いますと、イエス・キリストの十字架による死です。イエス・キリストの十字架による死は神の審きです。人が神に対して何か良いことをしたから、イエス・キリストは十字架に架かって死なれたのではありません。人は神を神と認めていないにも関わらず、イエス・キリストは人の罪のために身代わりとなって神の審きである十字架に架かって死んでくださったのです。この「贖い」ということばは、「犠牲を負って取り戻す」という意味があります。イエス・キリストはご自分の命を失うという犠牲を負ってまで、私たちの命を取り戻すために十字架に架かって死んでくださったのです。何故そこまでしてくださるのでしょうか。ローマ5:8に「     」と書かれていますように、それほど神は私たち一人ひとりを愛してくださっているからです。ローマ10:9~10には「     」と書かれています。その神の恵みを受け取ること、信じることによって人は神に義と認められ、罪が赦されて神の審きから救われるのです。これが神の私たち人への約束です。

3)福音宣教の結果
 パウロらは福音を語りました。そして、その福音を分かりやすく説明した結果どうなったでしょうか。4節に「     」と書かれているように信じる人たちが起こされたのです。しかし、信じる人たちだけが起こされたのでもありません。このことに快く思っていない人たちもいたのです。そのことについて、5節に「ユダヤ人たちはねたみに駆られて」と書かれています。快く思わなかった人たちの要因は「ねたみ」です。ですが、ユダヤ人たちがねたみに駆られる気持ちも分からなくもありません。パウロらはユダヤ教会堂に入って福音を語ったのです。すると、その中からイエス・キリストを信じ従う人たちが起こされたのです。これはどういうことかと言いますと、「ユダヤ教会堂の中で分裂が起こった」ということです。ユダヤ教の人たちからすれば、自分たちの会堂内で分裂が起こったのですから、快く思わないのも当然のことです。
 しかし、その行動は決して褒められるものではありません。彼らは「広場にいる…混乱させた」のです。さらに、ヤソンの家を襲ったのです。そしてパウロとシラスが見つからなかったので、ヤソンの家に居た数人を引き立て、「世界中を騒がせ…行いをしています」と訴えたのです。すなわち、町を騒がせて、その騒ぎを起こさせた要因がパウロとシラスであるとして訴えたのです。そして7節に書かれていますように、「イエスという…行いをしています」と、捕えたヤソンの家の者たちもその一味であるとして訴えたのです。ローマ帝国はカエサルを王としている国です。その国の中に「イエスを王とする者たちがいる」とし、ローマ帝国に背こうとしているという訴えを聞いた町の役人たちは動揺するのは当然のことです。何故なら、放っておけばローマ軍が町に入り統制されてしまいます。そうなりますと、町の役人たちは国から処分を受けることになります。それは自分たちの生活に深く関わってくる事柄です。ですから、放っておくことをしないですぐに行動に移したのです。
 このユダヤ教の人たちの訴えはとても巧妙なものです。彼らはならず者を集め町に暴動を起こし、「その要因がキリスト者である」とし訴えました。6節の「世界中を騒がせてきた者たち」の「世界中」とはローマ帝国内のことです。ローマ帝国は広い国を守るために道を整備しました。それは何か起こればすぐにローマ軍を派遣し鎮圧するためです。道が整備されるということは、人の往来もしやすくなるということです。そうなりますと情報伝達も早くなります。おそらく、第1回伝道旅行で起きた迫害騒動などの情報も、同じユダヤ教内では伝わっていたものと考えられます。また、シリアのアンティオキアでは「キリスト者」と呼ばれるようになりました。クリスチャンとは「キリストの奴隷」という意味です。ですから、「キリストを王とする」ということも間違いではありません。そのような情報がピリピの町には伝わっていたことでしょう。ですから、彼らの訴えは「根も葉もないウソ」ではありません。そのような情報を利用した巧妙な訴えです。それによって、パウロとシラスはテサロニケの町を出なければならない状況に追いやられたのです。

結)
 このテサロニケの町での宣教を通して、教えられるのは聖書に基づく宣教です。それは前回の箇所と同じように、分かりやすくみことばを説明することです。語られたメッセージを一人ひとりに合った説明をしていくという方法です。それは地味なものですが、神はその方法を用いて人の心を開いてくださることを心に刻みたいものです。そして、それを実践できるように祈っていきましょう。

使徒の働き16:19~40「家族の救い」 24.08.18.

序)
 先週は占いの霊につかれた女性が普通の人に戻った箇所を見ました。この箇所から聖書の語る普通の人とは、「神のかたちとして造られ存在していることに感謝し生きる人」ということを学びました。それは「何かができる」とか「役に立つ」というものではなく、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言ってくださる神に感謝し生きる人です。すなわち、あらゆるものから解放され、自分の存在に感謝と喜びをもって生きられる人が聖書の語る「普通の人」です。そのような人になるために、イエス・キリストはご自身の命を犠牲にしてくださいました。今朝の箇所はその続きです。今朝の箇所のクライマックスは31節です。これは有名なみことばの一つです。ある方は、このことばを信じて家族の救いを祈っておられます。今朝は、このみことばを中心として、家族の救いについて共に教えられたいと願っています。

1)主人たちの訴えを通して
 占いの霊につかれた女奴隷を雇っていた主人たちは、パウロらによって金儲けする望みがなくなったので彼らを訴えました。その訴えの内容はどのようなものでしょうか。20節に「     」と書かれています。それは、ローマ人が受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝していることです。占いの霊が追い出され金儲けできなくなったことではないのです。しかも、「この者たちはユダヤ人で」と訴えています。ピリピの町について、12節に「この町は植民都市であった」と説明されています。このときにも触れましたが、後に「アウグストゥス」という名で初代皇帝となるオクタビアヌスがローマ人を移住させ、ローマ人を中心とした町でした。そのためユダヤ人に対する偏見や差別があったものと考えられます。NHKの朝ドラの「虎に翼」で放映されていましたが、戦後は朝鮮人に対する差別が強かったです。今では差別用語として使われなくなりましたが、私が子どもの頃には「バカチョン」ということばがありました。それは「バカでもチョンでもできる」という見下したことばです。この「チョン」とは朝鮮人のことを指しています。私が神学生のとき、日本人名を名乗っていた人がいましたが、途中で苗字を韓国名に変えた人がいました。朝ドラを見ながら、そのときのことを思い出したりもしました。
 「何故、そこまでユダヤ人を毛嫌いするのか」を考えますと、ローマ人は偶像崇拝者で様々な偶像を崇拝している社会です。そのような社会の中で、真の神しか礼拝しない生き方は、彼らの反感をかったものと想像できます。今の日本もそうではないでしょうか。「信教の自由」というものがありますが、「真の神しか拝することはしない」と主張し、先祖崇拝や神社・寺の行事に参加しないと、家族や親族あるいは地域から大きな反感を抱かれるのが現実です。当時のローマ社会は、今の日本社会と似ています。そして彼らは「私たちの町をかき乱す」と訴えているのです。要は「地域の秩序を乱す者」として訴えているのです。この訴えはとても効果的なものです。何しろ、地域の治安を守るためのものだからです。さらに、彼らは「その地域の治安を乱すことを宣伝している」と訴えているのです。当時のローマの法律では、外国の宗教に対しては寛容でしたが、ローマ人に対して回心を求めることは禁止していたようです。彼らは自分たちの本音を隠して、尤もらしい口実にすり替えて訴えているのです。
そして彼らは、群衆を巻き込んで訴えたのです。町は混乱状態になりかけたのです。そのため、その場をしのぐために、長官たちは正当な手続きを取らずにパウロとシラスを捕らえ、むち打って彼らを牢に入れさせたのです。真夜中ごろ、パウロとシラスは牢の中で祈りつつ神を賛美していますと、突然大きな地震が起こりました。看守が見ると牢の扉が開いていますから、看守は「囚人は逃げたもの」と思い込みます。しかし、誰一人逃げた囚人はいなかったのです。おそらく、囚人たちはパウロとシラスの賛美に聞き入っていたのですから、「彼らの指示に従ったのではないか」と考えられます。では、何故パウロとシラスは逃げなかったのでしょうか。看守のためを思ってでしょうか。それは分かりません。ですが、「牢に留まる必要がある」と確信したから留まっていたと思われます。そして、有名な30~31節のみことばに繋がっていくのです。

2)イエスを信じる
 大きな地震が起こり、牢の扉が開いているのを見た看守は「囚人たちが逃げたもの」と思い、自害しようとしました。すると、パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだのです。すると、看守はパウロとシラスの前にひれ伏して、「救われるためには、何をしなければなりませんか」と言ったのです。その答えとしてパウロらは、「主イエスを信じなさい…救われます」という有名なことばをかけたのです。この31節のことばを直訳しますと、「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。あなたも、あなたの家も」となります。すなわち、看守が「何をしたら救われるのか」との問いに対して、「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」と答えているのです。誰が救われるのでしょうか。「あなた」です。そして、「あなたの家も」です。この「あなたの家」を「あなたの家族」と訳すこともできるでしょう。ですが、このことばを誤解されている方がおられたりもします。それは「イエス・キリストを信じたら芋づる式に家族も救われる」という誤解です。ですが、そのようなことを聖書は一言も語ってはいないのです。看守は「救われるためには、何をしなければならないか」と問うているのです。それに対して彼らは「主イエスを信じなさい」と答えたのです。
ところが、このことを多くの方は誤解されているのです。それは「何もしなくても良い。ただイエス・キリストを信じるだけで良いのだ」という誤解です。この箇所をよく読みますと、看守は「救われるためには、何をしなければならないのか」という問いかけに対して、「主イエスを信じなさい」と答えているのです。それは「主イエスを信じることをしなさい」と言うことでもあるのです。すなわち、看守に決断を求めているのです。皇帝崇拝が求められている社会の中で、皇帝崇拝をやめてイエス・キリストのみを信じ生きる。これは当時においては大きな決断でした。それは戦前の日本社会と似ています。当時の文部省は「神社参拝は教育上の理由によるのであり、その際の敬礼は愛国心と忠誠の表現である」として、神社参拝が強制されるようになりました。当時のローマ社会も信教の自由は言われつつも、皇帝崇拝は強要されていました。それを拒否して生きることは大きな決断が必要です。何故なら、看守の仕事が奪われてしまうからです。しかし、「その決断をしないと救われない」と彼らは答えているのです。
 私たちが生かされています社会の中には、人との付き合いというものがあります。「周りの人と上手く付き合っていくのも証しの一つではないか」と思わされたりもします。しかし、この「主イエスを信じなさい」ということばは、この社会の中で生きていく私たちに大きなチャレンジを与えることばでもあります。周りの社会と上手く付き合っていくのか、それとも神であられる主のみに従うのか。ダニエルと一緒にバビロンに連れて行かれた3人は、「ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝め」という命令に従いませんでした。ダニエル自身も「30日間いかなる神にでも人にでも祈ってはならない」という命令が出されても、彼は日に三度神に祈りを献げていました。周りがどうであれ、自分はどのように生きるかが私たちに問われています。

3)主のことばを語る
 その後、パウロとシラスは看守の家に行ったことが32節に書かれています。そして、その看守の家で看守の家族に主のことばを語ったのです。すると、看守の家族全員がバプテスマを受けたことが33節に書かれています。「主のことばを語った」とは、まさしくイエス・キリストの十字架による死と復活のことです。彼らは福音を語ったのです。福音を語ったことによって、聖霊が看守の家族の内に働いてくださりイエス・キリストを信じるようにされたのです。リディアの回心のとき、「福音宣教と聖霊の働きの両方が必要である」と話しました。そのことは看守の家族の救いを通してもそうであることを知らされます。
 私たちも家族の救いのために祈っています。その家族が救われるには、主イエスを信じる決断が必要なのです。そして、その決断に至るには、福音を伝える必要があるのです。その「福音を伝える」というのは「伝道メッセージをすれば良い」ということではありません。この「主のことばを語った」とは、「主のことばを説明した」ということです。それはメッセージのフォローです。以前に個人伝道の学びをしましたが、その目的は伝道メッセージをフォローするためです。聖書は罪からの救いについて語っています。そのことを分かりやすく説明する必要があります。「メッセージを聞いたらそれで良い」というものではないのです。一人ひとりによってメッセージの捉え方は違います。その捉え方に応じて説明していく責任が教会の一人ひとりに与えられているのです。それは家族の救いにおいても同じです。
 先程も触れましたが、31節の「主イエスを…救われます」というみことばを、「私が信じたら自動的に家族も救われる」と誤解されている方がおられます。ですが、聖書はそのようなことは一言も語ってはいません。救われるには本人の決断が必要なのです。その決断をするためには、主のことばを語る必要があるのです。分かるように説明する必要があるのです。そのことをしないで家族の救いは起こらないのです。「起こらない」と断定はできませんが、確率が低いのは確かなことです。何故なら、パウロらも看守の家族に主のことばを説明したことによって、看守の家族はイエス・キリストを信じる決心をしたからです。私たちの日々の歩みもそうではないでしょうか。可能性の高い方を選ぶ歩みをしているのではないでしょうか。「可能性が高い」ということは「確率が高い」ということでもあります。ところが、「信仰」ということになりますと、それを無視するようなことになってはいないでしょうか。改めて、自分自身の歩みを考えさせられます。

結)
 私たちは家族の救いを祈っています。そして、祈るとは最善を尽くすことでもあります。その最善の方法は一人ひとりによって異なるでしょう。最善の方法を選び取る知恵と力が増し加えられるように祈り、家族の救いを覚えつつ教会全体で祈っていきましょう。

使徒の働き16:16~18「普通の人に戻るために」 24.08.11.

序)
 先週は、ピリピ教会がどのようにして誕生したのかを見ました。小さな神の備えに対して、その小さなチャンスを活かしたパウロらの活動を通して、小さなチャンスを活かす大切さを私たちは学びました。今朝は、一人の占いの霊につかれた女性との出来事の箇所です。この占いの霊につかれた女性は、パウロによって普通の人に戻りました。では、聖書の語る「普通の人」とは、どのような人のことでしょうか。今朝は、聖書の語る普通の人について共に教えられたいと願っています。

1)占いについて
 16節の初めに「さて…ことであった」と書かれています。「何故パウロらは祈り場に行こうとしていたのか」と言いますと、「そこで礼拝が献げられていたから」と考えられます。その所に行く途中で、パウロらは占いの霊につかれている若い女奴隷と出会います。その女性について、聖書は16節の後半で「この女は…得させていた」と語っています。この女性の主人たちは占いによって多くの利益を得ていたのです。今年の子どもイースター集会では「占い」の話しをしました。テレビや新聞などにも占いが放映されたり掲載されたりしています。ある方は「良いものは信じて、良くないものは信じなければ良いのだ」と言われたりもしています。ですが、占いを見るということは、「もう占いに憑りつかれている」ということです。何故なら、「見ないと心が安らがない」からです。
 子どもイースターでも話しましたが、皆さんは「占いをどのようなもの」と思われているでしょうか。「いい加減なもの」と思われているでしょうか。それとも「当たるもの」と思われているでしょうか。そのことについて聖書は何と語っているでしょうか。16節に「多くの利益と得させていた」と語っているのです。「多くの利益を得させていた」ということは、この女性に多くの人が来ていたということです。では、何故多くの人が来ていたのでしょうか。答えは簡単です。当たるからです。もし当たらないものであるなら、金を払って占ってもらうことはしません。当たるから金を払ってまでも占ってもらおうとするのです。すなわち、「占いとはいい加減なものではなく当たるもの」と聖書は語っているのです。
 先程も話しましたが、占いを見ないと「心が安らがない」「心が落ち着かない」というのは、もうすでに占いに心が支配されているということです。「良いものは信じて、良くないものは信じなければ良い」というものではないのです。「何故占いを見ないと心が落ち着かないのか」と言いますと、見ないと心が不安になってしまうからです。これは一つのマインドコントロールです。占いは心の中に不安や恐怖心を芽生えさせてしまうものなのです。私たちは、占いについてきちんと理解しておく必要があります。そして、私たちにとって一番怖いのは、「占いはいい加減なものだから」と言って、野放しにしてしまうことです。実はこれがサタンの一番の目的です。知らず知らずのうちに人の心に働きかけ、マインドコントロールして占いから離れられないようにすることが一番の目的なのです。何故なら、「占いから離れられない」ということは「占いに支配されている」ということだからです。

2)困り果てたパウロ
 その占いの霊につかれた女性は、パウロらの後について「この人たちは…宣べ伝えています」と叫び続けたことが17節に書かれています。すなわち、パウロらが何者であるかを告白し宣伝しているのです。占いにつかれた女性は、パウロらのことを「いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている」と言っているのです。多くの人たちが「当たる」と信じている女性がそのことを語っているのです。そして、そのようなことが「何日もこんなことをするので」と18節に書かれています。1回や2回ではなかったのです。ずっと続いていたのです。そのことにパウロは「困り果てた」と聖書は語っています。何故困り果てたのでしょうか。多くの人が「当たる」と信じている女性が、自分たちのことを宣伝してくれているのです。それなら、「それに乗っかって伝道すれば良いじゃないか」と思えたりもします。その方が効果的なようにも思えます。しかし、パウロはそのようなものを用いなかったのです。何故でしょうか。神はイエス・キリストを信じる者を用いようとされているからです。何故なら、「福音宣教」というのは、その人の信仰告白から出て来るものだからです。
 この「困り果て」ということばは、「途方に暮れて困り果てた」ということではなく、激しい怒りを示す攻撃的な態度を示すことばです。このことばは、新約聖書には3回しか用いられていません。残り2つは何処かと言いますと、使徒4:2の最後の「苛立ち」と訳されていることばです。祭司や宮の守衛長やサドカイ人たちは、ペテロとヨハネが話していることに激しい怒りを覚え、彼らを留置場に入れました。もう一つは、マルコ14:4「憤慨して」と訳されていることばです。「なぜ憤慨したのか」と言いますと、4節の最後にも書かれていますように「無駄にした」からです。5節の最後にも書かれていますように、彼らは彼女を厳しく責めたのです。ですから、先程も話しましたように、この「困り果てた」というのは途方に暮れることではなく、相手に対して激しい怒りを覚えての行為です。ですが、誤解してはならないのは、パウロはこの女性に激し怒りを覚えたのではありません。この女性を縛り付けている占いの霊に対して激し怒りを覚えた行為なのです。
 聖書は占いの霊につかれた人について、「若い女奴隷」と説明しています。男性であれ女性であれ、自由人であれ奴隷であれ、高齢者であれ若い人であれ、一人の人間としての尊厳を無視されていたことへの激しい怒りをパウロは覚えたのです。自由人と奴隷というのは、当時の社会的身分です。聖書は社会的身分については社会制度として受け入れています。しかし、「一人の人間としての尊厳はどの人であれ同じである」というのが、聖書の人に対する見方・捉え方です。その人の尊厳を無視し認めない一番の行為は「見下し」です。「人を見下す」というのは決してしてはならないことです。それは家族であれ、子どもであれ同じです。相手の尊厳を尊重する良いことばは「ありがとう」ということばではないでしょうか。「相手に感謝の気持ちをことばにして伝えることではないか」と思わされています。特に、感謝の気持ちをことばにすることの苦手なのは男性です。私自身メッセージ準備をしながら、「もっと感謝の気持ちを口にしないとな!」と思わされました。

3)普通の人に
 人の尊厳を全く無視する占いの霊に対して、パウロはイエスの名によって出て行くことを命じました。すると、占いの霊はこの若い女奴隷から出て行ったのです。占いの霊が出て行って、この若い女奴隷はどうなったのでしょうか。彼女は「普通の人」になったのです。彼女が普通の人になったがために、彼女の主人たちはどうしたでしょうか。そのことが来主日に見ます19節以降に書かれています。彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえて訴えたのです。そのため、パウロとシラスは「鞭を打たれ牢獄に入れられる」という犠牲を負うこととなったのです。この「普通の人に戻る」という記事を読むとき、汚れた霊につかれた人が正気に返った出来事を思い起こされます。そのことがマルコ5:1以降に書かれています。このゲラサ人の地にいた汚れた霊につかれた人は、5節に「夜も昼も…傷つけていた」と書かれています。その汚れた霊に出会われたイエス・キリストは、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と命じられたことが8節に書かれています。すると、汚れた霊はこの男性から出て行ったがために、彼は正気に返ったのです。「正気に返った」とは、「普通の人に戻った」ということです。しかし、この男性が普通の人に戻るために、二千匹の豚が犠牲になったという事実を私たちは見逃してはいけません。一人の人が普通の人に戻るために、犠牲が支払われているのです。それは今朝の箇所の占いの霊につかれた女奴隷にしても同じです。
 では、聖書が語る「普通の人に戻る」とはどういうことでしょうか。そのことを少し考えてみたいと思います。占いの霊につかれた女奴隷は、占いの霊から解放されました。汚れた霊につかれた男性は、汚れた霊から解放されました。両方とも本当の自由を得ることができたのです。何者にも支配されずに生きることができる。これこそが聖書の語る普通の人です。多くの人は「自分は何者にも支配されず自由に生きることができる」と思われています。ところが、初めの方でも話しましたように「占いを見ないと心が落ち着かない」というのは、もうすでに占いに支配されているのです。また、多くの人は将来に対して不安を抱いてしまいます。そして、その不安から解放されるために様々な備えをします。備えをするのは大切なことですが、その備えに目が向けられてしまうのです。それは「備えに支配されている」と言っても過言ではありません。それらは、聖書が語る「普通の人」ではありません。
 では、聖書が語る「普通の人」とはどのような人でしょうか。先程話しました占いや備えからも解放されている人が、聖書の語る「普通の人」です。神は私たち一人ひとりが「普通の人」に戻るために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。そして、私たちの身代わりとなって十字架に架かって死んでくださったのです。私たちは普通の人に戻るために、「イエス・キリストの命」という犠牲が支払われているのです。では、私たちはイエス・キリストの十字架を信じたことによって、あらゆる不安から解放されたのでしょうか。決してそうではありません。自分自身を振り返りますと、不安との戦いではないでしょうか。神の守りと備えを信じていますが、目の前の事柄への不安を覚えたりもします。その不安との戦いの連続ではないでしょうか。将来に対しての不安を覚えて、私たちは様々な備えをします。それは信仰者であっても同じです。しかし、違う点が一つだけあります。それは「備えだけに目を向けてはいない」という点です。備えをしますが、その先にある神の備えにも目を向けているのではないでしょうか。神の備えを信じているから、目の前のことにも最善を尽くし備えをしているのではないでしょうか。

結)
 神は人が普通の人に戻るために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。一般的な普通の人とは、「多数派」と言いましょうか平均的なの人のことではないでしょうか。でもそれは比較です。聖書の語る普通の人とは、神のかたちとして造られたことに感謝し生きる人のことです。決して「どれだけ役に立つ」とか「どれだけ利益を生み出すか」という人ではありません。今私がこの世に神のかたちとして造られ存在していることに感謝し生きる人が聖書の語る普通の人です。障害があるかないかなど全く関係ありません。私たちが普通の人として生きる者となるために、イエス・キリストはご自身の命を犠牲にしてくださったのです。それほど私たち一人ひとりは、神の目から見て高価で尊い存在なのです。最後にイザヤ43:4の前半を読んで祈ります。

使徒の働き16:11~15「機会を活かして」 24.08.04.

序)
 今朝の箇所はピリピ教会がどのようにして誕生したかが描かれている箇所です。パウロらはトロアスで「マケドニア人の叫び」という幻を通して、海を渡って現代のヨーロッパ地方に行くことが神の御心と確信し行きました。そこで彼らを待ち受けていたものはどのようなものだったでしょうか。それは決して「順調」というものではなく、むしろ「困難」と言った方が適切です。今朝は、そのような中でパウロらはどのようにして福音宣教を続けたのかを見つつ、現代の私たちもどのように歩めば良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)ピリピの町
 パウロの一行は、「海を渡り現代のヨーロッパ地方に行くことが神の御心」として、ネアポリスの町に着きました。「ネアポリス」とは、「ネア」は「新しい」と言う意味で、「ポリス」は「町・都市」という意味で、「新しい都市」という意味です。現在は「カバラ」という名前の都市です。そこからピリピの町に行きました。ピリピはネアポリスから直線で15㎞ほど海から奥に入った町です。ピリピは学び会のときに話されていましたが、オクタビアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)がマルクス・アントニウス(英語でマーク・アンソニー)と共にブルータスと戦い勝利した町です。このピリピについては「植民都市であった」と書かれています。それはオクタビアヌスがブルータスとの戦いに勝利した後、退役軍人を住まわせ多くのローマ人をピリピの町に住まわせるようになったからです。この町にはユダヤ教会堂はなかったようです。
 何故ピリピの町にユダヤ教会堂がなかったのかと言いますと、「多くのユダヤ人が住んでいなかったから」と考えられます。私が神学生のとき、授業として土曜日の午前にユダヤ教の礼拝に出席しました。現代でも、「ユダヤ教は男性が10名以上会堂に来ないと礼拝を始めない」ということでした。それは神がソドムの町を滅ぼそうとされていたとき、アブラハムが「その町に10人正しい人がいるかもしれない」と訴えたとき、「10人正しい人がいるなら、その人たちのために滅ぼすことはない」と言われたことを根拠として、「男性が10名以上集わないと始めない」とういことです。ひょっとしたら、10名以上の男性がピリピの町には居なかったのかもしれません。テモテの母のように、ギリシャ人と結婚するユダヤ人女性が多かったのかもしれません。或いは、「ユダヤ人に対する反感が強かったから」ということも考えられます。
 そのため、「祈りの場があると思われた川岸に行き」と13節に書かれています。学び会のときに触れられていましたが、「なぜ川岸に行ったのか」と言いますと、礼拝するために身を聖める習慣がユダヤ人にはありましたから、「会堂のないユダヤ人は川岸で身を聖めたあと、その所で神を礼拝しているかも」と考えたのかもしれません。いずれにしろ、パウロら一行はトロアスで「マケドニア人の叫び」の幻を通して、海を渡ることが神の御心と確信して行ったのです。ところが、ユダヤ教会堂がない町で、福音を伝える人々を簡単に見出だせられなかったのです。すなわち、神の御心と確信して行ったのですが、彼らを待ち受けていたのは困難だったのです。それがピリピの町でした。

2)機会を活かして
 パウロらが川岸に行ったのは、「そこにユダヤ人が集っているかもしれない」という可能性です。今までのパウロらの伝道方法は、各々に立てられているユダヤ教会堂に入って福音を伝えるというものでした。そして、ピリピの町でもそのような予定を立てていたのです。しかし、どれだけピリピの町を歩こうがユダヤ教会堂は見つかりません。そして、安息日に川岸に行ったのです。それは先ほども触れましたように、「そこでユダヤ人が集まり神を礼拝しているかもしれない」という可能性です。パウロらは「自分たちが計画していたユダヤ教会堂で福音を語る」という方法ができないからと言って、諦めたわけではありませんでした。「町の門の外に出て」と書かれていますように、自分たちの方法に固執しないで、別の可能性があればその可能性を求めていったのです。これは現代の私たちの伝道について教えられます。それは「この方法がダメなら別の方法で」というものです。ここに諦めることのない彼らの熱意を感じられます。
 すると、そこに女性たちが集っていたのです。パウロらはそのチャンスを逃しませんでした。彼らは、そこに集っていた女性たちに伝道したのです。何人の女性たちが集っていたのかは分かりません。しかし、パウロらはそれが「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」との幻の応答として、イエス・キリストの福音を伝えたのです。すると、そこに居た「リディア」という女性が彼らの語るメッセージに心を留めるようになったのです。この「リディア」という女性については、「ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった」と紹介されています。「ティアティラ市」は、地図⑬の中央に太文字で「アジア」と書かれていますが、その「アジアのア」の左に「ティアティラ」と書かれています。ティアティラ市について調べてみますと、交通の便が良く商工業が発達した町で、いろいろな組合があったようです。リディアは、ティアティラ市の布関係の組合に入っており商売をしていたと考えられます。「紫布」というのは、学び会の時にも触れられていましたが、身分の高い人たちの着物に使われる高価なものです。おそらくリディアという女性は経済的に裕福な女性だったと思われます。それと同時に、「神を敬う人であった」と信仰にも熱心な女性であったと紹介されています。
 さらに、聖書は「主は彼女の心を…留めるようにされた」と語っています。もう何かすでに神がパウロらのために備えをされていたかのように聞こえます。いや「備えをされていたかのように」ではなく、神はすでにパウロらのために備えておられたのです。このことは現代の私たちに大きな励ましを与えてくださいます。たとえ僅かな可能性であったとしても、神は備えてくださっているという励ましです。その神の備えを信じて進んだとしても、「何も起こらなかった」ということはあるでしょう。必ずしも、「信じて進めばピリピの町のような出来事が起こる」ということではありません。むしろ、「何も起こらなかった」ということの方が多いかもしれません。しかし、「諦めない」というのがパウロらの伝道方法だったのです。そのことは、14:1の「イコニオンでも、同じことが起こった」と書かれている箇所からも私たちは学んだのではないでしょうか。
 そのときにも話しましたが、「イコニオンでも同じことが起こった」とは何でしょうか。それは「ピシディアのアンティオキアの町と同じことが起こった」ということです。13:51には「     」と書かれており、そのまま読むとピシディアのアンティオキアの次にイコニオンの町に行ったように読み取れます。しかし、ピシディアのアンティオキアとイコニオンの町は直線で130㎞離れており、1日で行ける距離ではありません。その間に幾つもの町にパウロらは滞在したのです。彼らのことですから、その滞在した町でも福音を語ったことでしょう。しかし、「どの町においても同じことが起こったけれども、彼らは諦めることなくイコニオンでも同じように福音を語り続けた」と理解することができます。しかし、イコニオンでも同じことが起こったのです。そのため、彼らはリステラに行くこととなったのです。パウロらの伝道方法は「結果はダメだったとしても諦めない」というものです。そして、長いキリスト教会が引き継いでいるものの一つは、この「諦めない伝道」ではないでしょうか。「こんなことをしても」と思えるような時はあります。しかし、そこで諦めることなく福音を伝え続ける群れとして歩まされていきたいと願わされます。

3)リディアの回心
 諦めることなく福音を伝え続けるパウロらの働きに対して、14節の後半に「主は彼女の心を開いて…留めるようにされた」と書かれています。ここに一つの原則を見ることができます。それは福音を語れば信じる人が起こされるというものではないという原則です。ここでの原則は「神が人の心に働いてくださらないと人の心は開かない」という原則です。Ⅰコリント12:3に「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」と書かれていますように、人のことばが信じる人を起こされるのではなく聖霊の働きによって信じる人が起こされるのです。そのことを私たちはきちんと理解しておく必要があります。しかし、それを強調し過ぎるのも間違いであることも確かです。リディアはパウロが語る福音に耳を傾けていたのです。そのときに聖霊が彼女に働かれ心を開いてくださったのです。この事実も確かなことです。聖霊の働きを強調し過ぎますと、人が語ることの必要性を低くしてしまいやすくなります。しかし、そうではありません。福音をきちんと伝える必要性もあるのです。その福音とは、イエス・キリストの十字架による死と復活です。イエス・キリストご自身がヨハネ15:26~27で「     」と語られています。「わたしについての証し」「あなたがたも証しします」の証しとは、イエス・キリストの十字架による死と復活という福音です。このリディアの回心から、人がイエス・キリストを信じる者とされるには、福音宣教と聖霊の働きの両方が必要であることを強く教えられます。
 続けて15節の前半には、リディアだけでなく彼女の家族もイエス・キリストを信じたことが書かれています。ただ、13節の最後には「集まって来た女性たちに話をした」と書かれていることから、イエス・キリストを信じたリディアの家族とは、リディアとその子どもたちと考えられます。「リディアの夫はここには居なかったのではないか」と想像できます。そのように考えますと、ピリピ教会のスタートは女性を中心とした群れであったということです。「女性を中心とした教会」と聞きますと、何か春日井教会と似ているようにも思えたりもします。そのピリピ教会について、パウロはピリピ4:15~16で「     」と語っています。「福音を伝え始めたころ」ですから、今朝の箇所のときのことと考えられます。スタートしたばかりの女性だけの小さな群れですから、自分たちのための必要もあり経済的余裕などなかったと思います。しかし、パウロらの活動のために経済的支援をしていたのです。女性を中心とした教会であっても、神は共にいて導いてくださることを知らされます。これは私たちの教会において大きな励ましとなるのではないでしょうか。

結)
 パウロらは「マケドニアの叫び」と言われている幻を通して、マケドニア地方に行くことが神の御心と信じて行きました。しかし、彼らに待ち受けていたものは困難でした。そのような中で、彼らは小さなチャンスを逃すことなく、諦めないで福音宣教を続けたことによってピリピ教会が誕生したのです。ピリピ教会のスタートは女性を中心とした群れだったのです。そのような群れであっても神は用いてくださいます。コロサイ4:5に「     」と書かれていますように、私たちの教会も機会を十分に活かし、知恵がさらに増し加えられて福音宣教に励んでいきたいと願わされます。

使徒16:6~10「神の導き」 24.07.28.

序)
 パウロは第2回伝道旅行をスタートして、リステラの町でテモテを同行者として連れて行くことにしました。私たちはこの箇所から信仰の継承について学びました。「信仰の継承」と言っても、単に親から子どもへの信仰の継承というのではなく、「群れの信仰継承」についてです。私たちに与えられている信仰が次世代の人たちに受け継がれ、教会が存続し続けるということをです。もう一つは、変えてはならないものと変えても良いものをきちんと見極めつつ、福音宣教のために用いられるものは用いても良いということです。その後、パウロらはアジアで福音宣教を続けようとします。ところが、その途中でパウロらは予想もしなかった経験をします。それが今朝の箇所です。今朝は、この箇所から神の導きについて共に教えられたいと願っています。

1)アジアで
 今朝の箇所を読みますと、パウロらは主にアジア地方で福音宣教を計画していたように見受けられます。6節には「アジアで」と書かれており、7節には「ピティニアに」と書かれています。「これはどの辺りか」と言いますと、聖書の後ろの地図13を見ますと、中程に太字で「アジア」と書かれています。そのアジア地方です。その北に「ピティニア」と太字で書かれています。すなわち、この地方は現代のトルコ西部地方であるということです。パウロらの計画では、ヨーロッパ地方に行く予定はなかったのです。おそらく、全く考えてもいなかったものと思われます。ところが、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」と6節に書かれています。また、7節には「ミシアの近くまで…進もうとした」と書かれていることから、パウロらはピティニア地方を通りガラテヤ地方を経由して、シリアのアンティオキア教会に戻ろうとしたのかもしれません。しかし、ピティニア地方に行くことを「イエスの御霊がそれを許されなかった」と書かれています。この「御霊に禁じられる」「イエスの御霊が許さなかった」とはどういうことでしょうか。
 神のことばが直接パウロらに語られたのでしょうか。ですが、今朝の箇所には神が語られたことばは何も書かれていません。第1回伝道旅行の始まりは、13:2に書かれていますように聖霊が語られたことによってです。また、18:9~10にもコリントの町でパウロは、「恐れないで…いるのだから」と幻によって神のことばを聞いたのです。しかし、今朝の箇所には神のことばは何も書かれていません。「それは何故なのか」というのを考えさせられます。考えられるのは、直接の神のことばはなく様々な事情によるものということです。例えば、彼らの体調がすぐれなかったということです。パウロは持病がありました。ガラテヤ4:13には「     」と書かれています。パウロの体調が優れないために、ガラテヤ地方で身体を休めつつ福音を語ったことによって、ガラテヤ教会が誕生することとなりました。また、Ⅱコリント12:7には「私は肉体に一つのとげを与えられました」と語っています。このことから、パウロには持病があったことが分かります。それが発症したのかもしれません。或いは別の人かもしれませんし、直接神のことばがあったけれども書かれていないのかもしれません。私の理解は「様々な事情によるものではないか」というものです。
 ただ、今朝の箇所で教えられることは、神のみわざを進める中で新しく示されることがあるということです。それは「神のご計画が途中で変わった」ということではありません。神のご計画は決して変わるものでも付け加えられるものでもありません。しかし、パウロも同行者も一度に神の全てのご計画を知ったわけではなかったのです。様々な出来事に遭遇しつつ、神の御心を祈り求めながら、互いに話し合い相談しつつ、神の御心を悟っていったのではないでしょうか。そのようなことは、私たちの歩みの中にもあります。祈りの中で一つの思いが示され、「それが神の御心ではないか」と受け止めて歩み始める。しかし、様々な事柄に遭遇しつつ閉ざされ、別の道を進まざるを得ないということがあります。そのようなとき、「最初の一歩は間違いだったのではないか」と思えてしまいます。メッセージ準備をしつつ、「最初の一歩は本当に間違いだったのか」と思い巡らされました。ただ確かなことは、最初の一歩があったから別の道を示されたのは間違いのないことです。そうであるならば、「最初の一歩も間違いではなかった」と言えるのではないでしょうか。「あのことがあったから、今のことがある」ということです。大切なのは、示されたときどのように従うのかということです。聖書は「聖霊によって」「イエスの御霊が」と、何よりも中心は主ご自身であられることを示しています。私たちは、そのことを忘れなければ良いのです。過去の歩みは失敗ではなく、過去の歩みを神は用いて導いてくださるお方なのです。アジアでパウロらは、そのことを経験したのです。

2)マケドニアの叫び
 パウロらはビティニア地方に行くことを禁じられたので、ミシア地方を通って西に進みトロアスの町に着きました。このトロアスは「東ローマ帝国の首都として候補に挙がった程の大きな町であった」ということを以前の学び会のときに見ました。パウロのことですから、このトロアスの町でも福音宣教に励んだことと思われます。と言いますのも、20:5~6にはトロアスの町にもキリスト者がいることが記されています。これは恐らく、このときにパウロがトロアスの町で福音宣教に励み、そのパウロのメッセージを通してイエス・キリストを信じた人たちが起こされたものと考えるのが自然ではないでしょうか。ただ、このときのトロアスでの中心点はイエス・キリストを信じる人たちが起こされたことよりも、パウロが考えもしなかった新しい道を示されたことです。それはアジア地域を出て、ヨーロッパ地域への福音宣教を示されるということです。
 これはパウロが全く計画に立てていなかったものです。当初のパウロの計画はアジア地域に福音を伝えるというものでした。ですが、アジア地域での福音宣教の働きをことごとく止められてしまい、「仕方なく」と言いましょうかミシア地方を通ってトロアスの町に行ったのです。すると、そのトロアスの町でパウロは幻を見たのです。その幻とは、御存知のように「マケドニア人の叫び」と言われるものです。このパウロが見た「マケドニア人の叫び」について少し考えてみたいのです。この幻は「神からの幻」とは書かれていません。先程も触れましたが、パウロはコリントの町でも幻を見ました。その時には「主は幻によって」と書かれています。しかし、今朝の箇所にはそのようなことばは全く書かれていないのです。ただ、「マケドニア人が立って」と書かれているに過ぎないのです。ですから、これが神から出ているものであると断言することはできないのです。しかし、パウロらは「神が私たちを召しておられるのだ」と確信し、海を渡ってマケドニア地方に行くこととしたのです。
 聖書がそのように語っているのですから、私たちは「このマケドニア人の叫びは神から出ているもの」と理解することができます。しかし、このときのパウロら一行はそうではありません。ひょっとしたら激しい議論がここでも生じたのかもしれません。ここで私たちが学ばせられるのは、「このような神の導きもある」ということです。教会の中で直面する課題を議論し合う。しかし、「みことばに示されるものは何もない」ということがあります。そのような中で「どの道が神の御心であるのか」を探り求めます。では、彼らはどのようにして「これが神の御心」と確信することができたのでしょうか。その手掛かりは、10節に書かれています「確信した」ということばです。このことばは「一緒に結び合わす」という意味が含まれていることばです。すなわち、話し合う中で一つの方向性を共有することができたということです。それによって、彼らはマケドニアに渡ることが神の御心と確信することができたのです。4章のときにも見ましたが、24節に「人々は心を一つにして」と書かれており、32節にも「人々は心と思いを一つにして」と書かれています。心を一つにして歩むことが神の御心であり、それを妨げるものが5:1~11に書かれているアナニアとサッピラ夫婦の出来事であることを見ました。各々の思いや考えがある中で、一致できる方向を見出だしていくことによって「神の御心」と確信できる場合もあるということです。

3)私たちへの適用
 このことは現代の私たちの歩みにおいて、大切なことを示してもいます。現代の私たちは、神の幻や聖霊がみことばをもって直接語りかけるということは殆どありません。しかし、「神の御心に従って行こう」という思いは、当時の人たちと何ら変わることはありません。そのような私たちが神の御心に従って歩み続けるには何が大切でしょうか。それは何よりも主イエス・キリストの命令を最優先することです。イエス・キリストは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と話されましたし、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と話されました。パウロは現代のトルコ西部であるアジア地方を中心として福音宣教を計画していました。しかし、その道がことごとく閉ざされ、マケドニア人の叫びの幻を通して自分の計画を断念したのです。パウロらは「何が何でも自分たちの思い・計画を優先する」というのではなく、変更・修正する心の余地を持っていたのです。これは大切なことです。
 もし、そのような心の余地を持っていなければ、彼らは間違った方向に進んでしまったことでしょう。当初パウロは、バルナバと共に第2回伝道旅行を始めようとしていました。しかし、2人は別行動を取ることとなりました。そして、アジア地方の伝道計画も断念しヨーロッパ伝道に変更することとなりました。そのような経験を通して、パウロはローマ8:28の「     」ということを発することができたのではないでしょうか。自分にとってプラス的なことだけでなく、マイナス的なことを通しても神はプラスにすることのできる方であることを。今朝の箇所の出来事を通して、パウロらは新しい神の導きを知ることができたのです。その心の余地は、現代の私たちにおいても大切なことではないでしょうか。「災い転じて福となる」ということわざがありますが、まさしく私たちが信じている神は、それを成してくださる神です。その神がいつも私たちと共にいて導いてくださっているのです。私たちは、その神の恵みの中に生かされていることを覚えつつ歩まされていきたいものです。

結)
 神の御心を求めつつ歩む。これは簡単なことではありません。パウロら一行もいろいろな議論をしたことと思います。そのような中で一人ひとりが神の御心を示されつつ従うことができたと考えられます。それは群れであれ、個人であれ同じだと思います。群れであれば互いに意見を述べやすいですが、個人では頭の中でいろいろなことを思い浮かべます。ただ大切なのは、自分の思いに固執しないことです。心に余地を持つことです。全てのことが共に働いて益としてくださる神が共にいて導いてくださることに目を向ける。そのような歩みを続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き16:1~5「テモテの選び」 24.07.21.

序)
 先週から、私たちはパウロの第2回伝道旅行を学んでいます。先週の礼拝でも触れましたが、第2回伝道旅行からはパウロに焦点を合わせて書かれています。この第2回伝道旅行は、アジアからヨーロッパ世界へと福音宣教の広がりが描かれています。そして、今朝の箇所と来主日の箇所には、どのようにして福音がヨーロッパに広がったのかが記されています。今朝の箇所はパウロがテモテと初めて会い、そのテモテを伝道旅行の同行者に選んだことが書かれている箇所です。

1)テモテの選び
 このテモテについては、1節に「テモテという弟子がいた」と書かれています。「信者」という表現ではなく、「弟子」という表現が用いられていることからして、「ある程度訓練された人」と理解することができます。このときのテモテはまだまだ若く20歳程だったと思われます。パウロと一世代違う人だったと考えられます。そのテモテは、「信者である女性の子」と書かれていますから、2代目クリスチャンであったと考えられます。Ⅱテモテ1:5には「その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケの内に宿ったもので」と書かれています。ある方は、「それならテモテは3代目クリスチャンではないか」と言われるかもしれません。ですが、リステラに福音が伝えられたのは、パウロの第1回伝道旅行ですので、そのときに祖母ロイスと母ユニケがイエス・キリストを信じたと思われます。ですから、私は「テモテは2代目クリスチャン」と理解しています。
 そのテモテの父はギリシャ人であったことが紹介されています。テモテはいわゆるハーフだったのです。テモテはユダヤ文化もヘレニズム文化も知っており、さらにアジア地方の風習にも精通していた人でもあったのです。さらに、「そのリステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった」と書かれています。これはテモテがどのような生き方をしていたかを物語っています。テモテは自分が生かされている地域社会において、神に対して忠実な歩みを続けていた人物であることが分かります。パウロは様々な角度から見てテモテを気に入り、「自分の計画を果たすために欠かすことのできない人物」と判断したと考えられます。
当初パウロは、アジア地方で福音宣教をすることを考えていたと思われます。その根拠は6節に、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」と書かれていることから、そのことが想像できます。「禁じられてどうしようとしたのか」と言いますと、アジア地方の北にあります「ビティニア地方」に行こうとしたのです。ですが、その途中でイエスの御霊が許されなかったのです。このことから考えられるのは、この時点ではパウロの中に「ヨーロッパ宣教」というのは頭の中になかったということです。この時点でのパウロは、現代のトルコ西部地方での福音宣教計画だったと考えられます。トルコ西部地方での伝道旅行が、当初パウロが計画していた第2回伝道旅行だったのです。

2)同労者を必要とするパウロ
 パウロは様々な面で優れた人でした。ですが、彼は「何でも自分一人でできる」とは考えていませんでした。協力者を必要としていたのです。そのことは15章でバルナバと決別することになって、シラスを選んだことからしても分かります。彼は一人で福音宣教に出かけたのではなかったのです。それはイエス・キリストが人を遣わされたときもそうです。ルカ9:1には12弟子を1つのチームとして遣わされたことが書かれています。また、ルカ10:1には72人を指名し、2人ずつチームで遣わされたことが書かれています。決して、1人で遣わされたのではないのです。何故でしょうか。伝道者の書4:9~12に「     」と書かれています。問題に遭遇したとき、助け励まし合うことができますし、立ち向かうことができるからです。そして、共に心を合わせて祈り合うことができるからです。さらに、12節の最後に「三つ撚りの糸は簡単には切れない」と書かれています。2人と共に主が加わってくださり、さらに強いものとさせてくださいます。
マタイ18:20には「     」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。ここは何について話された所かと言いますと祈りについてです。19節に「あなたがたのうちの…かなえてくださいます」と話されましたあとに、20節のことを話されたのです。これは「一人で祈るのは意味がない」というのではありません。共に心を合わせて祈り合う強さを話されているのです。それは教会だけでなく、家庭においてもそうです。そのことのためにも続けて家族の救いを覚え祈り続けていきたいものです。ま
少し話しが反れましたが、パウロは決して一人で福音宣教をしようとはせず、チームによって進めて行こうとしています。そのチームの一員としてテモテを選びました。その理由は先ほども触れましたが、ユダヤ文化とヘレニズム文化に精通している人であり、この地域において評判の良い人でもあったからです。それだけでなく、若いテモテを選んだ理由は若い世代を育てるというものも含まれていると考えられます。パウロのチームに同行し、実践の場で召された者の生き方を継承するためというのもあったと考えられます。「召し出されたからすぐに何でもできる」というものではありません。テモテは実践の場で経験を積み重ねて整えられていくのです。これは現代も同じです。「神学校を卒業したから何でも分かる」というのではありません。何も分かっていないのです。それは学校の先生や保育士にしてもそうでしょうし、福祉の資格を取得した人もそうだと思います。現場で実践を経験し同僚の先輩たちに教えられつつ整えられていくのではないでしょうか。ところが、多くの牧師は違います。神学校を卒業して遣わされた教会に牧師は自分一人だけです。先輩牧師がいないのです。全てが初めてのことであり、手探り状態でしなければならなくなります。ところが多くの教会は「牧師なのだから」と言って、多くのことを卒業したばかりの牧師に求められるのです。そのことを思いますと、JBCの教会形成と牧会についても考えさせられます。

3)テモテへの割礼
 テモテを同行させようとしたパウロは、そのテモテに割礼を受けさせました。この所を読まれて不思議に思われた方もおられるかもしれません。以前にエルサレム会議が持たれる要因について見ました。使徒15章に書かれています。それは「割礼を受けなければ救われない」という教えに、パウロやバルナバらは反対し対立が起こったためエルサレム教会に集い話し合われました。そして、「主イエスの恵みによって救われると信じることによって救われ、割礼を受けることによって救われるのではない」という決議がなされたのです。また、他の手紙では「召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません」と語り、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません」とも語っています。そして、「大事なのは新しい創造です」と語っているのです。すなわち、「主イエス・キリストの恵みによって新しく造り変えられることだ」とパウロは語っているのです。このように聞きますと、「割礼は受けてはならないもの」と捉えてしまいやすくなります。しかし、パウロは割礼を否定しているのではありません。パウロが否定しているのは「割礼を受けることによって救われる」という考え方なのです。決して、割礼自体を否定しているのではないのです。そのことをきちんと理解する必要が私たちには大切です。
 そのパウロは、テモテに割礼を受けさせました。それは何のためでしょうか。3節に「その地方にいるユダヤ人たちのために」と書かれています。これから始めようとする福音宣教の働きが少しでもスムーズに進むことを願って、テモテに割礼を受けさせたのです。パウロはⅠコリント9:20の前半で「ユダヤ人には…獲得するためです」と語っています。それは何のためかと言いますと、22節の最後に「すべての人に、何人かでも救うためです」と語っていますように、一人でも多くの人がイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われるためです。全てはこの一事なのです。パウロは決して「自分の考えが正しい」と結論付け、自分の考えに合わないものは全て排除する人ではありませんでした。「そのことを用いて福音宣教が前進し、救われる可能性があるなら用いる」という人だったのです。
 ただ、決して変えることのないものもあります。それは4節に書かれていますようにエルサレム会議によって決議されたことです。すなわち、「救われるために割礼を受けなければならない」というものは決して変えてはいなかったのです。昔、教職者研修会で「教会バザーは良くない」と言われる先生方がおられました。それは「宮の中で商売しているのと同じだ」と言われるのです。私はそれを聞きながら「それなら英会話教室も同じではないか」と思わされました。そのときは若輩者でしたから、意見を言うことはしませんでした。それを何のために用いるのかが大切だと思います。長いキリスト教会の歴史もそうです。クリスマスが12月25日であるのは、当時ヨーロッパで行われていた太陽を神とする宗教行事を取り入れたものです。「12月25日から昼間が長くなる」ということで、その祭りが行われていました。そこにキリスト教は「まことの光はイエス・キリストである」とし、イエス・キリストがまことの光として生まれたのを祝うようになったのがクリスマスです。イースターもそうです。聖書には「イースター」ということばはありません。その名前は、春の女神である「エオストレの祭り」から来ていると言われています。キリスト教会が、その祭りをイエス・キリストが甦られた時季と似ていることから取り入れたと言われています。
 日本においては元旦に初詣をする風習があるため、教会は元旦礼拝を取り入れました。また、11月には「七五三」を行う風習があるため、教会はその時季に「児童祝福式」を取り入れたりもしています。ある教会は、児童祝福式を申し出式にして伝道の場として用いている所もあります。神社で行われる「七五三」は、子どもだけで行くのではなく親も一緒に行きます。「親も一緒に行く」というよりも親が連れて行きます。そのように教会の児童祝福式も親も一緒に出席し、礼拝を伝道礼拝とし礼拝式の中で児童祝福式をする所もあります。私たちの教会も変えても良いものと変えてはならないものをきちんと見分けて、福音宣教の働きに携わっていきたいと願わされます。

結)
 今朝の箇所から、私たちは「継承」ということを考えさせられます。パウロは「今このとき」だけを見据えて歩んでいるのではなく、「キリスト教会」という群れの将来的なことをも見据え、テモテを同行者として選びました。私たちの教会も「私たちの信仰が次の世代に継承されていく」ということを願いつつ、取り組んでいく必要があることを知らされます。「そのために今何が必要なのか。何をどのようにすれば良いのか」という知恵が与えられ、取り組んでいくことができるように祈っていきたいものです。来週の午後は子ども夏集会が行われます。集う子どもたちの中から、私たちが信仰が一人でも多くの子どもたちに受け継がれることを願い祈り備えていきたいと願わされます。

使徒の働き15:36~41「励まし力づける群れ」 24.07.14.

序)
 今日から使徒の働きに戻り、パウロの第2回伝道旅行の箇所から当分の間ご一緒に学んでいきたいと願っています。そのきっかけが36節に書かれています。それは第1回伝道旅行でイエス・キリストを信じた人たちの様子を見て力づけることが目的です。ところが、御存知のように当初パウロが立てた計画とは全く異なる方向に進んで行ったのが第2回伝道旅行です。ここに深い神のご計画を見ることができます。それは人の願いと神の計画は同じではないということです。回心後のパウロは、イエス・キリストのためなら自分の命をも惜しまない人です。それ程の人であっても、必ずしも神の計画と同じではないということです。神の計画は人の想像を超えたはかり知ることのできないものであることをこの第2回伝道旅行を通して見ていきたいと願っています。そして今朝は、教会は励まし力づける群れであることを共に教えられたいと願っています。

1)アンティオキア教会の現実の姿
 まず、36節の冒頭に「それから数日後」と書かれています。この「それから」とは何かと言いますと35節に書かれていることです。それは、パウロとバルナバはアンティオキア教会に留まって、多くの人々と共に主のことばを教え、福音を宣べ伝え続けていたということです。何よりもパウロとバルナバは主のことばを教えることと、福音を宣べ伝え続けることに集中していたのです。それによってアンティオキア教会は強められていったのです。教会が強められる秘訣は、教会の中で聖書が忠実に説き明かされ、その語られたメッセージを一人ひとりが受け入れて日々の生活の中で実践することによってであることを教えられます。しかも、主のことばを教え、福音を宣べ伝えたのはパウロとバルナバだけではありません。「ほかの多くの人々とともに」と書かれていますように、教会に連なる一人ひとりが自分に与えられている賜物を通して、助け合いながらイエス・キリストを証しし続けたのです。
 この「ほかの多くの人々とともに」ということばは注目させられます。このことばは別になくてもおかしくありません。「パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって、主のことばを教え、福音を宣べ伝えた」でもおかしくありません。ですが、ここに「ほかの多くの人々とともに」ということばが付け加えられているのは、「意図して書かれたものである」ということに気づかされます。教会の成長は指導者のみによってなされるものではなく、その教会に連なる一人ひとりによってなされるものであることを教えられます。アンティオキア教会の一人ひとりは、自分たちが住んでいる地域や職場は神から遣わされた地として、その所でイエス・キリストの証し人として生き続けたのです。これがアンティオキア教会の姿です。
もしアンティオキア教会の一人ひとりが成長していなかったら、パウロはこのようなことばを口にすることはなかったでしょう。何故なら、自分たちがいなくなったらアンティオキア教会がどうなるか不安で仕方ないからです。パウロは「自分たちが不在であってもアンティオキア教会は大丈夫」という確信を持つことができたから、バルナバに36節のことばを発することができたのです。そのように考えますと、「今日から学んでいきます第2回伝道旅行の背後には、アンティオキア教会の成長があったから」ということが分かります。

2)アンティオキア教会の過去と未来
 そのアンティオキア教会はどのように誕生したでしょうか。少し振り返りたいと思います。元々は、ステパノの殺害事件の後、エルサレムの教会が激しい迫害が起こり、使徒たち以外は諸地方に散らされたことが8章に書かれています。そして、その散らされた人たちがアンティオキアの町に行き、主イエスの福音を宣べ伝えたところ、大勢の人が信じるようになりアンティオキア教会が誕生しました。それによって、エルサレム教会からバルナバがアンティオキア教会に派遣され、バルナバはタルソの町にいるパウロをアンティオキア教会に連れて来て、教会の礎を築いていたことが11章に書かれています。さらに、15章に描かれているような困難に直面しますと、エルサレム教会と協力して事態の根本的解決にあたりました。このようにアンティオキア教会の歩みは、エルサレム教会を中心として諸教会に支えられてきた教会であることが分かります。
 その後、アンティオキア教会は聖霊によってパウロとバルナバを、主の働きのために派遣することとなりました。それが第1回伝道旅行です。今まではエルサレム教会を中心として諸教会に支えられていたアンティオキア教会は、今朝の箇所の36節のパウロのことばに賛同し、開拓した諸教会を支えていく教会へと進んで行くのです。アンティオキア教会は単立の教会として孤立して歩み続ける群れではありませんでした。当初は助けられていた教会でしたが、次第に助ける教会として用いられていくのです。ここに「教会の在り方」を学ばせられます。教会は自分たちの満足のためではなく、諸教会や他の人々のために用いられる群れです。私たちの教会も自分たちだけで建て上げたのではありません。団体からの経済的支援を受けて会堂を建て上げることができましたし、姉妹教会からの様々な支援によってここまで歩み続けることができた事実を忘れてはいけません。それと同時に、その一つひとつの恵みに感謝しつつ、「団体や姉妹教会に対して、これからどのようなことができるのか」を思い巡らす大切さをも教えられます。

3)励まし力づけることを優先に
 今朝の箇所で考えさせられる一つは、「何故パウロは先に宣べ伝えた町に訪問しようと思ったのか」ということです。それは単なる好奇心によるものではないことは分かります。パウロがそのように思ったのは、訪問する必要性を感じていたからです。では、その必要性とは何でしょうか。それは41節の最後に書かれています「諸教会を力づけた」ということばから推測できます。先に宣べ伝えた町を訪問する目的は力づけるためです。では、何故力づける必要があったのでしょうか。それは第1回伝道旅行から見て想像できます。彼らはどの町に行っても激しい迫害に遭遇しました。その迫害の中で、それぞれの教会は建て上げられていったのです。ですから、当然それぞれに建て上げられた教会は、今も迫害と戦っていると考えられます。そのそれぞれの教会を励まし力づける必要があったのです。そのことを果たすための旅行が第2回伝道旅行だったのです。
 人は「神の恵みを一度経験すればもう十分である」というものではありません。常に神のみことばから教えられ、励まされ続ける必要があります。教会は建て上げられたら自動的に成長するというものではありません。人と同じです。人も誕生したら自然に成長するものではありません。親は赤ちゃんに乳を与えあやします。そして、成長に伴って良いことと良くないことを教え躾けていきます。その繰り返しによって、子どもは成長し大人になっていきます。それは教会も同じです。その群れに連なる一人ひとりが、神のみことばから教えられ励まされて成長し続けます。先程も話しましたが、そのことを果たすことが第2回伝道旅行の目的だったのです。
 そのことについてはバルナバも同意しています。しかし、39節にはパウロとバルナバの間に激しい議論が生じたことが記されています。「それは何故なのか」と言いますと、37~38節に書かれていますように、バルナバはマルコを一緒に連れて行くつもりでしたが、パウロは第1回伝道旅行に途中で投げ出してしまった者を連れて行かない方が良いと思ったからです。1回目の伝道旅行でマルコが途中でエルサレムに帰った理由は様々なことが考えられます。理由はどうであれ、与えられた務めを途中で投げ出す者を同行させることにパウロは強く反対したのです。しかし、バルナバはそうではありませんでした。もう一度チャンスを与えようとしたのです。どちらの意見が正しいのかは、人によって異なると思われます。どちらも折れることがないため、2人は別行動を取ることとなりました。
 このことは非常に考えさせられます。「一致して進むのが聖書的ではないか。なのに、どちらも妥協せず別行動を取るのは本当に正しいことなのか」と。このようなことは教会の中でも起こり得る事柄です。そのようなとき、アンティオキア教会はどのような対応としたのでしょうか。聖書には何も書かれていません。何も書かれていないというのは、アンティオキア教会は何もしなかったというのではありません。「パウロもバルナバも神から示されたもの」と受け止め、彼らの思いを尊重し支援し続けたのです。そのため、バルナバはマルコを連れてキプロスに渡り、パウロはシラスを選んでシリアとキリキア地方に行って、それぞれ諸教会を力づけたのです。アンティオキア教会がパウロとバルナバの両方を支援したのは、第1回伝道旅行で誕生した教会を励まし力づけるためです。諸教会を励まし力づけることを目的の第1とし、その目的を果たすためにパウロとバルナバの両方を支援することとしたのです。40節以降はパウロに焦点を合わせて書かれています。パウロの一行は、アンティオキア教会の支援によって、諸教会を力づけることができたのです。この宣教の働きを通して、教会は孤立してはいけないことを改めて教えられます。

結)
 来週から見ます16章からは、パウロに焦点を合わせて書かれています。それは著者ルカがパウロに焦点を合わせて書いているからです。しかし、書かれてはいませんがバルナバとマルコもアンティオキア教会の支援によって福音宣教に励んでいたのです。そのマルコについて、パウロはコロサイ4:10で「     」と語っていますし、Ⅱテモテ4:11では「     」と語っています。マルコがこのように成長することができたのは、神の導きによるのはもちろんですが、その背後にアンティオキア教会の支援があったことも見逃してはいけません。人はついつい「自分」という内に目を向けがちになりやすいですが、外にも目を向けることの大切さを教えられます。教会は、内に対しても外に対しても励まし力づける群れです。

マルコ4:35~41「人生の嵐の中で」 24.07.07.

序)
 今、私たちの教会では4章ずつ学んでは別の箇所から学んでいます。必ずしも「4章ずつ」というものではなく、区切りの良い所で別の箇所から見ています。マルコの福音書の前は、パウロの第1回伝道旅行とエルサレム会議の箇所を見ていましたし、その前はヤコブの手紙でした。来週からは使徒の働きに戻り、パウロの第2回伝道旅行の箇所から学んでいきたいと願っています。マルコ4章には、神のみことばを聞いて受け入れる人は必ず実を結ぶことの約束が書かれていることを学びました。その始まりは種を蒔くという小さなものですが、神は大きな実を結ばせてくださるという約束です。この4章は1~34節までは教えの部分であり、35~41節までが実践の部分でもあります。今朝は、弟子たちがイエス・キリストの教えを聞き、その教えをどのように実践したかを見ながら、私たち自身に当てはめながら教えられていきたいと願っています。

1)注目点
 私たちは聖書を「誤りのない神のことば」と信じて読んでいます。私たちの団体の信仰告白文にもそのように告白されています。どのように告白されているでしょうか。「聖書66巻は、全て神の霊感を受けて書かれた誤りのない神のことばであって、神が救いについて啓示しようとされた全てを含み、信仰と実践の唯一、完全な規範である」と告白されています。この告白文を私たちは1つずつ学んできました。ですが、同時に「文脈を意識して読む」ということの大切さも先週の礼拝で触れました。文脈を無視した読み方をしてしまいますと、間違った聖書理解をしてしまい誤った方向に進んでしまう危険性があります。今朝の箇所は、その典型的なものの箇所の一つでもあります。
 35節の初めに、「さてその日、夕方になって」と書かれています。この「その日」とは、いつの日のことでしょうか。そのことを考えて読んでいかないと、マルコが伝えようとしていることがぼやけてしまいます。この「その日」とはいつの日のことでしょうか。それは4:1~34に書かれています「実を結ぶ」という約束を話された日のことです。それは「神の約束を信じて、目の前の事柄に対して最善を尽くすなら神は必ず実を結ばせてくださる」と学んだ日のことです。その日に、イエス・キリストは「向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。そして、弟子たちもイエス・キリストと一緒に舟に乗ってガリラヤ湖を渡ろうとしたのです。ところが、船に乗って湖の中程でしょうか進みますと、激しい突風に遭遇して舟が沈みそうになったのです。すなわち、神の約束を信じて、目の前の事柄に対して最善を尽くすなら神は必ず実を結ばせてくださる」とのことばと、激しい突風に遭遇した日は同じ日であるということです。そのことを伝えるために、マルコはわざわざ「その日、夕方になって」ということばを入れているのです。ですから、私たちはそのことを覚えながら今朝の箇所を読むことが大切です。
 では、弟子たちはどうしたでしょうか。おそらく、水が舟の中に入ってきたので彼らは一生懸命外に掻き出したことと考えられます。しかし、水を舟の外に出すよりも舟の中に入る水の方が多かったのです。そのため舟は沈みそうになりました。弟子たちは大慌てです。そして、イエス・キリストを見ますと何もしないで船尾で眠っておられたのです。それを見た弟子たちは、イエス・キリストに「先生…かまわないのですか」と、苦情とも思えるようなことばを告げたのです。すると、イエス・キリストは起き上がって風を𠮟りつけ止ませられました。その後で、弟子たちに「どうして…信仰がないのですか」と告げられたのです。これは、「あの譬え話を通して何を学んだのですか」というイエス・キリストの𠮟責でもあります。

2)弟子たちの不足
 一体、弟子たちの何がいけなかったのでしょうか。弟子たちに欠けていたものは何だったのでしょうか。それは、弟子たちが悟らなければならなかったことを悟っていなかったことです。弟子たちが悟っていなかったものは何でしょうか。それはイエス・キリストの約束です。弟子たちは「先生…かまわないのですか」と、イエス・キリストに言ったことが38節に書かれています。このことばには、どのような意味が含まれているでしょうか。少し思い巡らしたいと思います。「私たちが死んでも」というのは、「もう後がない」という状況でもあります。弟子たちの中には、「自分たちが困っているときイエス・キリストは必ず助けてくださる」という思いがありました。ですから、嵐によって自分たちが乗っている舟に入り込んでいる水を一生懸命掻き出していたのです。すなわち、目の前の事柄に対して最善を尽くしているのです。しかし、イエス・キリストはどうでしょうか。船尾で眠っておられるのです。何かをしようというものは何も見られないのです。このイエス・キリストの姿を見て、弟子たちはこのようなことばを発したのです。
 先週の箇所で、私たちは最善を尽くすことの大切さを学びました。その学んだことを弟子たちは、この嵐の中で実践していたのです。それなのに、イエス・キリストは何かをされる行為は全く見られず、船尾で眠っておられたのです。38節の弟子たちのことばの中には、「イエス様。あなたは口では立派なことを約束されていますが、実際に何かが起こったときは何もしてくださらないのですか。あなたのことばは口先だけのものですか」という意味が含まれているようにも聞こえないでしょうか。私にはそのように聞こえるのです。日々の生活の中で大きな不安や壁に遭遇したとき、祈っても何も起こらない現状の中で、このように思ってしまうことがあるのではないでしょうか。モーセもそうでした。彼は神の奇蹟によってイスラエルの民をエジプトから導き出しました。また、葦の海では海を前にしたイスラエルの民の後ろからはエジプト軍が迫ってきました。民はモーセに不平を言いましたら、神は海の水を2つに分けてイスラエルの民を渡らせてくださいました。さらに、海を渡り終えた後も、イスラエルの民は「パンが食べたい」とか「のどが渇いた」など様々な不平をモーセに言いました。彼らは何度も何度も神の奇蹟と導きを経験しているのに、問題が生じるとモーセに不平不満をぶつけたのです。そして、今度は「肉を食べたい」と不平をモーセに言いました。そのとき、モーセは神に何と言ったでしょうか。民数記11:14~15に「     」と書かれています。何度も何度も神の奇蹟と導きを経験しているのに、全く成長しないイスラエルの民を見たモーセは、神にこのようなことを言ったのです。このモーセのことばにはどのような意味が含まれているでしょうか。「イスラエルの民をエジプトから約束の地カナンに導き出すために、あなたは私を召し出されました。でも、あなたは彼らを全く成長させてくださっていないじゃないですか。もうこんなの嫌です」という意味が含まれています。「同じことの繰り返しで、あなたは何もしてくださらない。もうこんなの嫌です」と言っているように私には聞こえるのです。
 モーセは神がイスラエルの民をカナンの地に導かれることを知っていました。ですが、目の前のイスラエルの民の現状を見るとき、「こんなことでどうして彼らをカナンの地に導けるのか」と自分の常識の中で捉えてしまったのです。そして、「そんなの不可能だ」という結論に至ってしまったのです。ですから、「もう私にはできないから、この働きから退かせてほしい」と願ったのが15節のことばです。モーセは「神がカナンの地に導き入れてくださる」という約束に目を留めていましたが、イエス・キリストの弟子たちはイエス・キリストの約束に目を留めることさえできなかったのです。では、今朝の箇所のイエス・キリストの約束とは何でしょうか。35節に「向こう岸へ渡ろう」と、イエス・キリストは話されました。これは「向こう岸に渡ることができる」というイエス・キリストの約束です。4:1~34に書かれていることを通して、弟子たちは「神が実を結ばせてくださる」という神の約束に目を留める大切さを学びました。その同じ日の夕方には、目の前の事柄があまりにも大きかったので、イエス・キリストの約束をすっかり忘れてしまっていたのです。「向こう岸へ渡ろう」とのことばの中には、「必ず向こう岸に渡ることができる」という約束です。その途中には様々な障害を経験するかもしれませんが、必ずイエス・キリストが渡らせてくださるのです。途中で遭遇する様々な障害はイエス・キリストの導きの中に入れられているのです。弟子たちは、そのことを悟ることができなかったのです。
 また、弟子たちはイエス・キリストが行動されなかったことの意味を悟ることができなかったのです。弟子たちは何とかしようと一生懸命目の前のことに最善を尽くしていました。それはとてもすばらしいことです。ところが、その努力の甲斐もなく、水はさらに入り込み舟は沈みそうになります。しかも、イエス・キリストは船尾で眠っておられます。何かをしようとする行為は全く見られません。ですが、イエス・キリストは弟子たちを見ておられるのです。6:45~52には、弟子たちだけでガリラヤ湖を舟で渡ろうとしているとき、向かい風のため漕ぎあぐねていたことが書かれています。その状況をイエス・キリストは見ておられたことが48節に記されています。「当時は現代人よりも視力が良いので遠方まで見ることができた」と理解することもできます。わざわざこの時代のマルコが「イエスは漕ぎあぐねているのを見て」と書いているのは、当時の人間の視力でも見ることのできない距離ではあったがイエスは見ておられたことを示していたと考えられます。イエス・キリストは見ておられないようで見ておられるのです。弟子たちが一生懸命水を掻き出そうとしている行為を見ておられたのです。いつも自分たちを見守ってくださっているイエス・キリストを悟ることができなかったのです。

結)
 弟子たちは、イエス・キリストから教えを聞いたその日に、予想もしなかった出来事に遭遇して慌ててしまいました。そして、「まだ信仰がないのですか」とイエス・キリストから言われたことが40節に書かれています。この弟子たちの姿を見ると「本当に信仰の鈍い人たちだ」と思わされます。聞いたばかりなのに、すぐに忘れて動揺してしまう弟子たち。しかし、ここで「待てよ」とも思わされます。そして、「この弟子たちの姿は自分の姿でもないか」とも思わされます。「思わされる」というよりも、自分の姿そのものであることに気づかされます。礼拝のメッセージを聞いて教えられ、その時には決断しますが、予想もしなかったことに遭遇するとき聞いたメッセージを忘れてしまう自分。まさに、この弟子たちの姿は自分そのものであることを知らされます。
 これが人間の信仰であり私たちの信仰なのです。私たちは「それでもイエス・キリストは私を見捨てることをされないから感謝です」と言います。確かにそうです。イエス・キリストは、そのような私たちを見捨てることをされません。だからと言って「それで良い」とも言われてもいません。イエス・キリストは弟子たちに「まだ信仰がないのですか」と問われたのです。この弟子たちの姿が私たちの姿であるならば、このイエス・キリストのことばも私たちへのことばでもあります。このイエス・キリストのことばの意味は、「神の約束を信じない者ではなく、信じる者になりなさい」ということです。ローマ8:28に「     」と書かれています。「すべてのこと」とは、予想もしなかった出来事に遭遇するものも含まれています。神はそこにも働いて益とすることのできる方です。その信仰が強められるように祈りつつ歩まされていきましょう。

マルコ4:21~34「神への信頼」 24.06.30.

序)
 神を信じる私たちにとって、聖書は神のことばですから大切なものです。そのため、極端な読み方をされる方もおられます。どのような読み方かと言いますと「ありがたい、ありがたい」と言い聞かせながら読む読み方です。また、「パッと開いたところが神の示された箇所だから」と言って読む読み方です。聖書を英語で「バイブル」と言いますが、調べてみますと「ある分野で権威のある書物」と紹介されていました。ですから、聖書は書物の一つでもあります。私たちは書物を読むとき、文章の流れを意識しながら読むのではないでしょうか。いわゆる文脈です。聖書を読むにおいても、文脈を意識しつつ読むことが大切です。前後関係を無視して1節だけを取り上げてしまいますと、思い込みで理解する危険性があります。今朝の箇所もそうです。21節の初めに「イエスはまた彼らに言われた」と書かれています。これは前の「4つの種の譬え話」と関連していることを示しています。先週、「その2節に『多くのことを…その教えの中でこう言われた』と著者であるマルコは語り、4つの種の譬え話を記しています。すなわち、イエス・キリストは多くの譬え話をされましたが、その中からマルコは4つの種の譬え話を選んで記したということである」と話しました。「その多くの譬え話が今朝の箇所の譬え話である」とも考えられます。今朝は、この譬え話を見ながら共に教えられたいと願っています。

1)明かりの譬え話
 譬え話を見る前に、この譬え話をイエス・キリストは誰に話されたのでしょうか。21節に「彼らに」と書かれています。この「彼ら」とは、どのような人たちのことでしょうか。それは1節に書かれています湖のほとりに多く集まった群衆です。この人たちは何故イエス・キリストの所に集まって来たのでしょうか。病気や汚れた霊から癒されるための人もいれば、イエス・キリストの教えを聞きたい人もいたことでしょう。さらには、イエス・キリストの奇蹟を見たい人もいたかもしれません。すなわち、御利益を求める人もいれば、生きる道を求めている人もいたでしょうし、好奇心で来た人もいたと考えられます。いろいろな人がイエス・キリストの所に集まっていたのです。その人たちにイエス・キリストは譬え話をされたのです。
その最初に話されたのが「明かりの譬え話」です。まず、この「明かり」とは何でしょうか。「福音」と捉える方もおられるでしょうし、「神のことば」又は「神の約束」と捉える方もおられるでしょう。その通りです。ここで話されている「明かり」とは、神の約束であり福音である神のみことばです。この譬え話から山上の説教の話しを思い出される方もおられるかもしれません。イエス・キリストは「あなたがたは地の塩・世の光です」と話されたあと、15節で「明かりをともして…すべての人を照らします」と話されました。続けて、16節で「     」と話されました。ここでイエス・キリストは、信じる者の生き方を問うておられるのです。そして、今朝の箇所もそうです。いろいろな思いで集っている人たちに対して、4つの種の譬え話で実を結んだ種のように、神のみことばを信じて生きることを求めておられるのです。
イエス・キリストにとっては集う理由はどうでも良いのです。集う理由とは「きっかけ」です。私たちもそうではないでしょうか。「何故教会に足を踏み入れたのか」と聞かれますと、その答えは人によって様々です。英会話を求めて教会に行かれた方もおられれば、コンサートを聞くために行かれた方もおられるでしょう。また、「何となく」という人もおられるでしょうし、悩みを抱いて教会に行かれた方もおられるでしょう。そのようなきっかけは重要なことではありません。イエス・キリストは集うきっかけを問題にはされていません。イエス・キリストが問題にされているのは、その所に来て聞いたみことばに対してどのように応答するのかです。
ですから、23節で「     」と話されています。さらに、24節には「聞いていることに注意しなさい」と書かれています。「聞いていることに注意する」とは、「聞いたみことばを自分の中でどのように消化するか」ということです。聞いたことばを聞き流すのか、それとも聞いたことばを自分の生活の中に生かそうとするのかということです。それによって実を結ぶか結ばないかが決まってくるのです。どれだけみことばを聞いても聞き流してしまうなら、決して実を結ぶことはできないのです。続けてイエス・キリストは「あなたがたは…増し加えられます」と話されています。「自分が量るその秤」とは、「信仰」と捉えることもできるでしょうし、「信頼」と捉えることもできるでしょう。
25節のことばは、タラントの譬え話やミナの譬え話を思い起こされます。イエス・キリストは、これらの譬え話の最後で「持っているものはさらに与えられ、持っていないものからは、持っている物までも取り上げられる」と話されました。何が与えられ何が取り上げられるのでしょうか。それは神への信頼です。聞いたことばを自分の生活の中に生かすなら、神への信頼はさらに強められますが、生かさないなら神への信頼は弱まってしまうということです。明かりを燭台の上に置くというのは、みことばを日々の生活の中で実践するということです。それは「最善を尽くすということでもある」ことを教えられます。

2)神の国の譬え話
 続いて、イエス・キリストは神の国についての譬え話をされています。神の国とは何でしょうか。ある方は「天の御国」と思われるかもしれません。確かに、天の御国は神の国に間違いありません。ですが、神の国とは天の御国だけではありません。イエス・キリストは「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と話されました。すなわち、イエス・キリストを信じる者の中に神の国はあるのです。あなたがイエス・キリストを信じているのなら、あなたの中に神の国はすでに存在しているのです。何故なら、聖霊なる神が内に住んでくださっているからです。聖霊なる神が内に住んでくださっているということは、神が共にいてくださっているということです。神が共におられる所が神の国なのです。ですから、この26~32節で話されていることは、イエス・キリストを信じている人のことです。人はイエス・キリストを信じるとき、その人の中に神の国の種が植えられるのです。ですが、その種はからし種のようなとても小さなものです。あるかないか分からないようなものです。何故なら、実感が湧かないからです。
 ですが、ここで語られていることは「神の国は必ず成長し実を結ぶ」という約束です。「実感するかしないか」というのは大切なことではありません。それは救いについても同じです。劇的な救いの経験をする人は実感が湧くでしょう。しかし、そのような劇的な救いの経験がない人には実感が湧いて来ません。ですが、どちらも「救われた」という事実は同じです。その事実に対して神が働いてくださるのです。パウロはⅠコリント3:6~8で「     」と語っています。樹木を育てるとき、種を植えて水を与えるのは大切なことです。しかし、何よりも大切なのは栄養分を吸収する力です。その力がなければ、どれだけ肥料や水を与えても育つことはできません。信仰も同じです。霊的な肥料や水を与えるのは大切なことです。ですが、何よりも大切なのはその人の内に働く信仰の力です。その力を与えられるのは神しかおられないのです。神がその人の信仰を成長させてくださるのです。
 今朝の箇所は、人の信仰は神が成長させてくださるという約束です。でもそれは、「だからと言って人は何もしなくても良い」ということではありません。最善を尽くすことが大切です。私は一昨年にいちごの苗を買って植えました。肥料や水を与えて育てました。それによって、いちごは大きな実を幾つか結びました。ですが、今年は肥料を与えず水だけを注いでいました。すると、いちごは実を結んだのですが、全部とても小さな実しか結びませんでした。それによって、次回は肥料を与える時季を調べて肥料を与える必要があることを学びました。それは勉強や習い事も同じです。「学校に行ってさえいれば良い」というのではありません。学校に行きますが帰宅してからは勉強など一切しないで、高校受験や大学受験で合格するでしょうか。目指す高校に入るなら別ですが、何処でも良いのであれば私の経験上、高校なら何処かに入学することはできるでしょう。しかし、大学はそれなりの勉強をする必要があります。習い事もそうではないでしょうか。1週間に1回だけ行って、帰宅したら何もしないのであれば上達することはありません。それは信仰も同じです。「信仰は神が成長させてくださる」と信じつつも、家で何もせず霊的な肥料も水も与えないなら信仰の実を結ぶことはありません。神の国の譬え話は信仰の実を結ぶことの約束が話されています。でも、それにはⅠコリント3:8に「     」と書かれていますように、最善を尽くすことが必要であるということです。

結)
 今朝、私たちは明かりの譬えと神の国の譬えから、神への信頼について考えさせられます。神に信頼するとは、神の約束を信じて何もしないことではありません。神の約束を信じて目の前の事柄に対して最善を尽くすことです。その中で「何が最善なのか」を見極めることが大切であることも気づかされます。その最善を見極めるのは難しいものでもあります。「こうしたら最善を見極められる」という法則はありません。それには一人ひとりが神に祈り続けるしかありません。ルカ11:9~10に「     」と書かれています。これがイエス・キリストの私たちへの約束です。神への信頼が強められ、最善の道が示されるように祈り続けていきたいものです。

マルコ4:1~20「実を結ぶ約束」 24.06.23.

序)
 今朝の箇所は「4つの種の譬え話」として知られる有名な箇所の一つです。今朝の箇所を読むにあたって、注目したいのは1節の「イエスは…教え始められた」ということばです。これは3:7の「イエスは…湖の方に退かれた」というみことばを思い起こさせます。私たちはこの箇所から、「神にも限界があり退かれるときがあるのを覚えておく必要がある」ということを学びました。それと同時に、苦難に対して乗り越える力・生き抜く力を与えてくださるイエス・キリストをも学びました。その湖の所でイエス・キリストは多くのことを譬えによって話されたことが2節に書かれています。その2節に「多くのことを…その教えの中でこう言われた」と著者であるマルコは語り、4つの種の譬え話を記しています。それはイエス・キリストは多くの譬え話をされましたが、その中からマルコは4つの種の譬え話を選んで記したということです。そのことを意識しつつ、4つの種の譬え話を見ていきたいと考えています。それと同時に、先週の箇所も意識しつつ見ていきたいと願っています。

1)4つの種
 まず、4つの種について見てみたいと思います。今朝の4つの種を大きく2つのグループに分けることができます。1つは実を結ばない種で、もう1つは実を結ぶ種です。実を結ばない種はどのような種でしょうか。1つは道端に蒔かれた種です。道端に蒔かれた種はどうなったでしょうか。4節に「鳥が来て食べてしまった」と書かれています。それはどういう意味かと言いますと、解き明かしが話されている15節に「     」と話されています。サタンにみことばを取り去られる人のことです。「サタンにみことばを取り去られる」というのは、聞いたみことばを忘れることではありません。「語られているみことばが自分に対してである」と悟れない人のことです。語られているみことばが「自分とは関係のないもの」として聴いている人のことです。
 もう1つは、岩地に蒔かれた種です。岩地に落ちた種の解き明かしが、16~17節で「     」と話されています。「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」と話されていますから、イエス・キリストを信じている人であることが分かります。聖書は「イエス・キリストを信じれば困難や迫害などはなく、平安な日々を過ごすことができる」とは語っていません。むしろ、「イエス・キリストを信じることによって様々な苦難を経験する」と語っています。苦難は誰も快く思わないものです。できるならば経験したくないものです。避けられるものであるならば避けたいものです。そして、イエス・キリストを信じる信仰を捨てることによって直面している苦難を避けることができるなら、イエス・キリストを信じる信仰を捨てるというのが岩地に落ちた種の人です。
 実は、私はこれと似た経験をした一人です。以前にも話しをしましたが、数年間教会生活から離れたことがありました。奈良の教会の牧師であられるY先生が今年結婚されました。奥さんは金沢市にありますK教会の教会員の方です。私は石川県に転勤になったとき、このK教会の礼拝に出席していました。それはM先生の紹介で出席するようになりました。ところが、アパートからはバスに乗って電車の乗り換え、さらにバスに乗り換えてというもので1時間以上かけての通いでした。3ヶ月位してから教会の方から「教会学校の奉仕をしてほしい」という依頼を受けました。ですが、当時の私は子どもが苦手でしたので、それから教会に行かなくなりました。当時の私にとって、子どもと接するのは大きな苦難そのものだったのです。まさしく、岩地に蒔かれた種のようなもので、教会生活から離れるようになったのです。
 もう一つの種は、茨の中に蒔かれた種です。これはこの世の誘惑によって神から離れる人のことです。これも私が教会生活から離れた要因の一つでもあります。20歳前後ですから遊びたい盛りです。私の心の中には「教会に行かなくても聖書を読んで祈っていれば良い」と考えるようになったのです。19節に「欲望が入り込んでみことばをふさぐ」と書かれています。これは「みことばをシャットアウトする」ということではありません。みことばを聞きはしますが、「欲望」というフィルターを通して理解するということです。すなわち、「正しくみことばを理解できなくする」ということです。先程の「教会に行かなくても聖書を読んで祈ってさえいれば良い」という考えもその一つです。結局は、自分に合わせて曲げた聖書理解をするということです。「曲げた聖書理解」というのは、「的を外した聖書理解」ということです。「的を外す」というのは、「罪」と訳されていますギリシャ語の「ハマルティア」そのものです。結局は、実を結ぶことはできなくなります。
 この3つの種は実を結ばない種ですが、最後に登場する良い地に蒔かれた種は実を結びます。このまま読みますと、「良い地に蒔かれたのだから実を結ぶのは当然ではないか」とも思います。そして、「道端や岩地や茨の中に蒔かれた種も、良い地に蒔かれたのなら、落ちたのなら実を結んだのではないか」とも思ったりもします。確かに、道端や岩地や茨の中に落ちた種も良い地に落ちていたなら実を結んだことでしょう。すると、種が悪いわけではないことに気づかされます。そして、「何が悪いのか」と考えますと、道端や岩地や茨という環境が悪いことに気づかされます。「その環境とは何なのだろうか」と考えますと、「自分の心である」ということに気づかされます。すなわち、「どのような思いでみことばに耳を傾けているのか」という自分自身の聞き方に原因があることに気づかされます。
 では、「良い地」というのはどのような聞き方なのでしょうか。先週、イエス・キリストは「神の御心を知る人ではなく行う人が神の家族である」と話されていることを見ました。すなわち、日々の生活の中で実践しようとする人が神の家族であるということです。今朝の箇所はその続きとして読みますと、「良い地」というのは語られた神のことばを自分の日々の生活の中に取り入れることというのが分かります。語られた神のことばを日々の生活の中に取り入れるために必要なのは決断です。実を結ぶにおいて何よりも大切なのは自分の決断です。そして、決断したことを実践することも大切です。仕事にしろ、勉強にしろ、スポーツにしろ、聞いたことや教えられたことを実践して初めて自分のものとすることができるのです。すなわち、「良い地」というのは自分の決断と行動であるということが分かります。

2)実を結ぶ約束
 イエス・キリストは、みことばを聞いて日々の生活の中で実践する人は実を結ぶことを約束されています。その実は、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。ここで気になるのは、30倍・60倍・100倍と数字が違うことです。昔、教会学校を見学しているとき、この箇所から子どもたちにメッセージをされていました。そして、「100倍の実を結べるようにしましょう」と話されていました。教会学校の後に、先程のメッセージは違うことを伝えました。これは「行い方によって実の結び方が違う」ということではありません。すなわち、「何倍の実を結んだか」は重要なことではありません。ここでイエス・キリストが話されているのは、「必ず実を結ぶ」という約束です。マタイ25章にはタラントの譬え話が書かれています。15節に「能力に応じて」と、一人ひとりに与えられたタラントが違うことが話されています。「能力が異なる」というのも個性の一つです。皆が同じことをするのでもなければ、同じ結果を出すわけでもありません。能力が違うということは、やり方も違いますし結果も違うということです。どのやり方、どの結果が良いというのではありません。そのようなことはどうでも良いことです。重要なことは、「目の前の事柄に対してどのように向かうのか」ということです。すなわち、生き方の問題です。
 冒頭で話しましたが、イエス・キリストは苦難を乗り越える力・生き抜く力を与えてくださる方です。目の前の事柄に対して最善を尽くす力を与えてくださる方です。神に頼りつつ最善を尽くすことを通して、神は実を結ばせてくださるという約束が4つの種の譬え話の意味です。その苦難を乗り越える力・生き抜く力は、どのようにして持つことができるでしょうか。イエス・キリストは、ヨハネ15:5で「     」と話されました。木の枝が実を結ぶまでには様々なことがあります。風の強い日もあれば雨の強い日もあるでしょう。また、日差しの強い日もあれば、とても寒い日もあります。そのような苦しいとき、枝が「こんなの嫌だ」と言って、木の幹から離れたらどうなるでしょうか。答えは簡単です。その枝は実を結ぶことはできなくなるだけでなく死んでしまいます。苦難を乗り越えて生き抜く力は、イエス・キリストに留まり続けることです。そして、実を結ぶのもイエス・キリストに留まり続けることです。

結)
 私たちが神のみことばを日々の生活の中に取り入れるにはどうすれば良いのでしょうか。何よりも大切なのは神に感謝することです。私たちの日々の生活の中には「当然」「当たり前」というものはありません。全ては神からの恵みによるものです。健康でいられるのも当然ではなく恵みです。無事に1日を過ごすことができたのも当たり前ではなく恵みです。ですが、それら一つひとつを「当たり前」と思ってしまうなら、そこには「感謝」という思いは生じることがありません。「当たり前ではなく神の恵み」として受け止めるとき、神の守り・導きに目を向けることができます。それが神の証し人として生きることのスタートです。生きる力を与え続けてくださるイエス・キリストに留まり続けることによって実を結ぶという約束に目を留めつつ歩み続けられるように祈っていきましょう。

マルコ3:31~35「神の家族」 24.06.16.

序)
 教会の中では「兄弟姉妹」ということばがよく使われます。呼びかけるときにも「○○兄」とか「○○姉」ということばが飛び交うことがあります。それがよく表されているのが週報です。名前の後に「○○姉」と書かれています。それはイエス・キリストを信じる人たちが、イエス・キリストにあって同じ神の家族だからです。今朝は、その神の家族について共に教えられたいと願っています。

1)家族とは
 イエス・キリストが大勢の人に囲まれて話をされているとき、ある人がイエス・キリストに「あなたの母と兄弟たちが来ました」と伝えました。すると、イエス・キリストは33節で「     」と尋ねられ、34~35節で「     」と話されました。皆さんは「家族とは何ですか」と尋ねられたらどのように答えられるでしょうか。答えは1つではないと思います。いろいろな答えが返ってくると思います。何故なら、一人ひとりによって家族の定義は異なるからです。例えば、「血縁関係で同じ家で生活している人が家族である」という人もいれば、「血縁など関係なく同じ家に住んで生活している人が家族」という人もおられることでしょう。調べてみますと、明治民法においては「戸主と同一の戸籍に在る者」と定められていましたが、現代の民法では「家族について定められた規定はない」と書かれていました。先々週のNHKの朝ドラでは、戦後の民法改正について放映されていました。ある学者は「個人の権利を前面に出すと家族崩壊が始まる」と言って、「戸主と同一の戸籍に在る者」というのを残そうとしていた場面が放映されていました。
 殆どの人には「家族」というものがあります。そして、その家族に属しています。では、家族とは何でしょうか。同じ家の中に住んでいるだけでは「家族」とは言えません。例えば、居候をされている方もおられます。そのような人を「家族の一員」とは認めないのではないでしょうか。では、血縁関係にあって同じ家に住んでいれば家族なのでしょうか。先程、「民法では、家族について定められた規定はない」と話しましたが、辞書には「血縁によって結ばれ生活を共にする人々の仲間で、婚姻に基づいて成立する社会構成の一単位」と書かれていました。これによりますと、血が繋がっていて同じ家に住んでいる人が家族ということになります。
 ですが、「こんなの家族ではない」ということばを耳にすることもあります。例えば、家族で何かを計画しても、各々が自分の好きなことを優先して、全くその計画に協力しないことが続きますと、「こんなの家族ではない」ということばが出て来るのではないでしょうか。或いは、家族の一人が悩み苦しんでいるのに、そのことに対して全く関心を示さず、何の助けもしないことが続けば、「こんなの家族ではない」ということばが出て来るのではないでしょうか。そのようなことを考えますと、「家族というのは互いに助け合う群れ」ということができるのではないでしょうか。「互いに助け合う」とは、喜びも悲しみも共に分かち合うということでもあります。そのような群れが「家族」と言えるのかもしれません。

2)神の家族
 イエス・キリストは、34~35節で「ご覧なさい…姉妹、母なのです」と話されました。この箇所を注意深く読んでみますと、イエス・キリストは「わたしの兄弟、姉妹、母なのです」と話されていて、「わたしの家族です」とは話されていないのです。他の箇所も調べてみましたが、マタイもルカも同じように「わたしの家族です」とは書かれていません。何故なのかを思い巡らしていますと、この箇所には「父」ということばが出ていません。何故なら、父は神ご自身のことだからです。当時の家族制度では、父親が絶対的権威を持っていました。例えば、誰かが神に誓願をして家長である父に報告したとき、家長である父が反対した場合は無効になることが定められています。それほど父親には権威が与えられていました。すなわち、当時のイスラエル社会の家族制度においては、「家族は父親の意見に従う者」とされていたということで、「家族」ということばを用いず「わたしの兄弟、姉妹、母なのです」ということばを用いられたと考えられます。それは35節の「     」ということばからも明らかです。
 このことから言えるのは、「イエス・キリストの家族とは神の御心を行う人」ということです。「神の御心を行う」ということですから、まず神がご計画を立てられます。その神のご計画は、必ずしも私たちの思いと同じとは限りません。神のご計画と私たちの思いと違うことがあります。いや、違うことの方が多いのではないでしょうか。そのとき、どちらを優先するのかということが大切になってきます。自分の思いを優先するのか、神の御心を優先するのかということです。そのように聞かれると、「神の御心を優先することの方が大切である」という答えを見出だします。でも、どれが神の御心なのかが分からない時があります。そのようなときどうしたら良いのでしょうか。このことについては、どれが正しいと一言で言うことはできません。何故なら、教派によって異なるからです。監督政治の教派は「牧師の決定に従う」というものです。ですから、「牧師が出したことばを神の御心として受け止めて従う」というのが監督政治の教会です。しかし、私たちの教派は監督政治ではなく会衆政治です。それは「教会員は教会の決定に従う」というものです。そこには「牧師も教会員の一人」という考えがあります。ですから、教会員は牧師のことばに従うのではなく教会の決定に従う義務があるということです。
 神の御心が分からないとき、教会もなかなか決定しずらくなります。そのようなときどうしたら良いのでしょうか。これは難しい事柄です。難しい事柄ですから、すぐに答えが見出だせられるものではありません。時間がかかります。その時間の中で私たちは何をすれば良いのでしょうか。ある方は「祈ることだ」と思われることでしょう。では、何を祈るのでしょうか。最善な答えが出ることを祈り求めることでしょう。最善な答えが出ることを祈り求めるのは大切なことです。それと同時に、自分の願いや考えと違う答えが出たときどうするのかという備えをしておくことも大切です。教会が「これが最善の答えである」と見出だした決定が自分の願いや考えと違ったときです。これはとても大切なことです。「教会の決定が自分の願いや考えと違ったとき、その教会の決定を受け入れ従うことができますように」と祈り備えることです。何故なら、教会の決定が神の御心であるというのが会衆政治の教会だからです。35節のイエス・キリストのことばを心に刻みたいものです。

3)神の御心を行うとは
 イエス・キリストは、「神の家族は神の御心を知る人」とは語られてはいません。「神の御心を行う人が神の家族である」と話されているのです。では、「神の御心を行う人」とはどういうことなのでしょうか。そのことについて考えてみたいと思います。「神の御心を行う人」というのは一つではないようにも思わされます。それは「神の御心を行った人」とは話されていないからです。「神の御心を行った人」というのは、神の御心を果たせた人のことです。しかし、神の御心を行おうとしながら果たせなかった人もおられます。この「行おうとしましたが果たせなかった人」も「神の御心を行う人」に含まれるのではないかとも考えられます。
 大切なのは、神の御心を知ることではありません。ヤコブ4:17に「     」と書かれています。この「なすべき良いことを知っていながら」というのは、「神の御心を知っている」ということです。ですが、「それを行わないなら、それはその人には罪です」と宣言されています。すなわち、「神の御心を知っていながら行わないなら罪である」と聖書は語っているのです。ですから、神の御心を知ることが大切なのではなく、行うことが大切なのです。そして、その「行う」というのは先ほども話しましたように、「果たす」ということでもありません。果たせなかったことも含めての「行う」なのです。それは日々の生活の中で実践しようとしたけれども、結果として果たせなかったこともあるでしょう。でもそれは「行おう」としたことには間違いありません。ですが、様々な言い訳をして初めから日々の生活の中で実践しようとしないなら、「それは罪である」とヤコブは語っているのです。そして、イエス・キリストも「日々の生活の中で神の御心を実践する人がわたしの家族である」と話されているのです。
「どのような結果を出すか」が重視されてはいません。何度も話していますが、結果よりも過程(プロセス)を重視されているのです。それは「どのように生きるか」ということです。私たち一人ひとりの生き方を重視されているのです。それは神のみことばを信じ、日々の生活の中でイエス・キリストの証し人として生きるということです。日々生活されている家庭や地域、また職場が神から遣わされた場として受け止め、その所でイエス・キリストの証し人として生きるということです。全てが良い結果を出すというものではありません。失敗をしてしまう時もあります。ですが、それら全てが「神の御心を行う」ことでもあるのです。そして、そのような一人ひとりをイエス・キリストは「家族」と認めてくださっているのです。ともすると、私たちは「イエス・キリストの証し人として失敗せずにきちんと務めを果たさなければ」と思ってしまいやすくなります。ですが、イエス・キリストはそのようなことを求めてはおられません。イエス・キリストが私たちに求めておられるのは、神の御心を行うことです。失敗しても良いのです。大切なのは、神のみことばを信じて日々の生活の中で実践することです。

結)
 イエス・キリストは、私たち一人ひとりを神の家族の一員として迎え入れてくださっています。その神の御心は必ずしも自分の思いと同じとは限りません。自分の思いと違っていたとき、神の御心に従うことができるように祈り求めていきましょう。そして、各自が遣わされている場でイエス・キリストの証し人として生きることができるようにも祈っていきましょう

マルコ3:20~30「赦しの神」 24.06.09.

序)
 昔、子どもたちに「悪いことをして死んだら何処に行く?」と聞きますと、「地獄に行く」と答えた子どもたちが多くいました。そこには「悪いことをしたら神の罰を受ける」という思いがあるからだと思います。イエス・キリストは、今朝の箇所の28節で「     」と話されました。このことばを聞きますと何かホッとしますが、29節のことばは怖いような気がします。イエス・キリストは、この箇所で主は赦しの神であられることを話されています。今朝は、その赦しの神について共に教えられたいと願っています。

1)聖書の罪
 イエス・キリストが家に戻られますと、「群衆が再び集まって来た」と20節に書かれています。その中には律法学者らもいたことが22節を読んで分かります。律法学者というのは、神が与えられた戒めを研究していた人々で、神が与えられた戒め以外にも様々な規則を作っていた人たちです。それは先日も触れましたが、規則を守るために規則の周りに新たな規則を作るというものです。彼らは人々から「先生」と言われ、彼らが話すところには多くの人たちが集まっていました。ところが、イエス・キリストが活動し始めますと、そのような人々がイエス・キリストの所に集まるようになったのです。しかも、そのイエス・キリストは律法学者らが作った規則を守ってはいません。このような行為は彼らにとっては面白くありません。やがて、イエス・キリストの存在が邪魔になるのです。そのため、イエス・キリストがおられる所に彼らも行き、大勢の人前でイエス・キリストを非難したのです。
 今朝の箇所もその1つです。律法学者らはイエス・キリストのことを「ベルゼブルに取りつかれている」と言いました。この「ベルゼブル」とは、本来は「家長」とか「住居の主」を意味するものですが、それが「悪霊のかしら」として用いられるようになったようです。ですから、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言ったのです。イエス・キリストは大勢の病人を癒されましたが、「その働きは神から来ているのではなく、悪霊のかしらによるもの」と言っているのです。何故そこまでイエス・キリストを非難するのかと言いますと、人々がイエス・キリストの方に行ってしまったからです。彼らの中にあったものは、イエス・キリストに対する妬みです。
 その妬みというのは誰もが心の中に抱くものです。マルコ7:20~23に「人から出て来るもの…愚かさで」とイエス・キリストは話されました。そして、23節で「これらの悪は」と、盗みや殺人と貪欲や妬みを同じものとして話されています。私たちは「罪」と聞きますと、盗みや殺人など法律を破った行為を思い浮かべますが、聖書は「貪欲や妬みなどの心の中に抱いたものも同じである」と語っているのです。何故なら、盗みや殺人というのは心の中に抱いたものが結果として表されたものだからです。この結果の原因は心の中に抱いた悪い思いによるものです。それが聖書の語る罪です。
 マルコ7:21~22節に書かれていますものを自分に照らし合わせますと、自分も罪人の一人であると認めざるを得ません。ローマ3:23には「すべての人は罪を犯して」と書かれています。「全ての人は神の前において罪人である」と聖書は語っています。律法学者やユダヤ教指導者たちだけでなく、私たち一人ひとりも神の前においては同じ罪人の一人なのです。

2)贖い
 イエス・キリストは、ご自分を非難する律法学者らを呼び寄せられ話されました。そして、28節で「     」と彼らに話されました。「どんな罪も赦していただける」というのは、どれほど嬉しいことでしょうか。神は悪いことをした人を審く方ではなく、赦してくださる方なのです。どのようにして赦していただけるのでしょうか。それはもう御存知のように、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じることによってです。では、「信じることによって救われる」とはどういうことでしょうか。多くの宗教は、修行や献金などを求める所が多いです。しかし、キリスト教はそのようなものを一切求めず、「信じるだけで良い」としています。「なぜ信じるだけで良いの?」と質問されたらどのように答えられるでしょうか。「聖書がそのように語っているから」と答えられるでしょうか。ですが、それは質問した人からすれば答えにはなっていないのです。
 「赦される」というのは「償いをしなくても良い」ということではありません。例えば、止まっている自分の車に他の人の車がぶつかったらどうでしょうか。自分の車には傷がつきます。相手は謝ったら赦すでしょうか。赦しますが弁償はしてもらうのではないでしょうか。修理代を払ってもらうことによって赦しは完了するのです。「弁償する」ということは「償いをする」ということです。レビ記4:1~6:7には、罪の赦しについて書かれています。ここには、神に献げ物をすることによって赦されることが書かれています。神に献げ物をするというのは償いをすることでもあります。旧約聖書には、罪が赦されるには償いが必要であることが書かれています。償いをするというのは人の行いでもあります。旧約聖書には、「罪の赦しは人の行いである償いが必要である」と語っているのです。ですが、新約聖書には「イエス・キリストを信じるだけで赦される」と書かれているのです。何故でしょうか。
 レビ記16章には、罪のきよめについて書かれています。ここには「宥め」と訳されていることばが繰り返し書かれています。今までは「贖い」と訳されていました。前の聖書を用いていた私たちにとっては、こちらのことばの方が分かりやすいかもしれません。また、「アザゼル」ということばも繰り返し書かれています。このことばの意味は明確ではありませんが、調べてみますと「除去する」という意味を持つ「アーザル」を強調したもので、「全き除去」「罪の全き赦し」を意味すると考えられているようです。そのように捉えますと、30節の最後に「あなたがたは…きよくなる」と書かれていることもよく理解できます。全ての罪がきよめられるのです。「それはいつなのか」と言いますと、29節に「第7の10日」と書かれています。これは現代の9月下旬です。しかも、この儀式は34節を見ますと「年に一度行われる」と書かれています。1年間犯した罪の全てがきよめられるのが贖いの日なのです。
 ですが、よく考えてみますと神に罪を犯したのは誰でしょうか。私たち人間です。家畜が神に罪を犯したのではありません。それなのに、何故家畜が人の罪を負う必要があるのでしょうか。不思議に思われないでしょうか。人間が神に罪を犯したのですから、人間が自分の罪を負うべきではないでしょうか。それを家畜に負わせるのは矛盾しているようにも思えます。それだけ人間は特別なのでしょうか。そうではありません。神がこの世界を造られたのは、その造られたものを通して神のすばらしさを現すためです。「その神のすばらしさとは何か」と言いますと、「神は偉大な方」というものではありません。神によって造られた全てのものが、神に感謝し喜びをもって生き続けることです。全ての被造物が神に感謝し喜びをもって生き続けることが、神のすばらしさを現すことです。人間が自分の犯した罪を負って神の審きを受けるならどうでしょうか。誰も神に感謝し喜びをもって生き続けることはできません。人は神のすばらしさを現すことができなくなります。そのために家畜が身代わりとなって、人間の罪を負うという儀式を神は設けられたのです。これがレビ記16章の贖いの日です。
先程、人間の罪を家畜が代わりに負って殺されるのは、罪の赦しを神に感謝し喜びをもって生きるためであることを話しました。ですが、この贖いの日の儀式は毎年行われる必要があります。「毎年行う」ということは「完了していない」ということでもあります。しかし、イエス・キリストは十字架に架かられたとき、「完了した」と言われたことがヨハネ19:30に書かれています。何が完了したかと言いますと、レビ記16章の儀式が完了したということです。それは、繰り返し行う必要がなくなったということです。何故でしょうか。先程も話しましたように、神に罪を犯したのは人間です。罪のない人間が人間の罪を負って神の審きを受ける必要があるのです。ですが、この世には罪のない人間など一人もいません。そのために神は一つの方法を取ってくださいました。それは罪のない神が人間の姿をとってこの世に来て、人間の罪を負って神の審きを受けるという方法です。これがイエス・キリストの十字架です。これは何かをもって証明することはできません。信じるしかありません。だから、信じることによって罪が赦されるのです。

3)赦されない罪
 私たちの全ての罪が赦されることはとても感謝なことです。しかし、今朝の箇所に戻りますと、29節の「     」というみことばが気になります。私たちは「全ての罪は赦される」と信じていますが、イエス・キリストは「赦されない罪がある」と語っています。そのように言われると「えっ」と思い、「赦されない罪もあるのだ」と思ってしまいます。決して赦されることのない罪とは、聖霊を冒瀆する罪です。では、聖霊を冒瀆する罪とはどのようなものでしょうか。「冒瀆」というのは、故意に貶(おとし)めることであり、「見下す」というのを意味することばです。イエス・キリストは聖霊の力によって、多くの病に苦しんでいる人たちを救われました。それを目の当たりにしたユダヤ教指導者らは、そのイエス・キリストのみわざを正しく評価しないで、むしろ「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言ったのです。聖霊の働きを悪霊の働きとしたのです。これが聖霊を冒瀆することです。目の前で神のみわざが行われているのに、それを故意に茶化してしまうことが聖霊を冒瀆することなのです。
 故意に茶化して貶め見下すという行為の中には、「信じて従おう」という思いは全くありません。どれだけ目の前で神のみわざが行われたとしても、故意に茶化す人は決して赦されることはなく永遠の罪に定められるのです。改めて、私たちの目の前に生じる神のみわざを正しく評価し、聖霊を冒瀆することがないように心がけていきたいと願わされます。

結)
 神は私たちの全ての罪を赦してくださる赦しの神です。赦すためにイエス・キリストはこの世に来てくださり、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって、神の審きを受けてくださいました。それは私たちが自分の罪を赦されたことに感謝し、喜びをもって生き続けるためです。ですが、同時に赦されない罪もあることを覚えておきたいものです。聖霊のみわざを茶化すことなく、聖霊の導きに感謝と期待をもって歩み続けることができるように祈っていきたいものです。

マルコ3:13~19「神の御許において」 24.06.02.

序)
 テレビなどで西洋の歴史や教会を取り上げるとき、「聖人」の名前を耳にするときがあります。「聖ペテロ」とか「聖ヨハネ」という名前です。彼らはイエス・キリストの弟子です。彼らはとてもすばらしい働きをしました。今朝の箇所は、その12弟子がイエス・キリストによって選ばれた箇所です。今朝は、彼らが選ばれた目的と教会について共に教えられたいと願っています。

1)弟子任命の目的①
 イエス・キリストが弟子たちを選ばれた目的が、14~15節に「     」と選ばれた目的が2つ書かれています。それは、「そばに置くため」と「彼らを遣わして宣教させ」るためです。1つ目の「そばに置く」とはどういうことかと言いますと、弟子たちとの交わりを通して訓練させるためです。では、イエス・キリストの訓練とはどのようなものでしょうか。そのことを考えて聖書を読んでいきますと、彼らが特別な訓練を受けていたようには書かれていません。修行をしていたわけでもありませんし、学校のように教科書が与えられて勉強していたわけでもありません。では、何が訓練だったのでしょうか。それは日々の生活が訓練だったと考えられます。イエス・キリストと共に生活を過ごすことを通して、弟子たちは訓練されていったのです。では、彼らはどのようにして訓練されていったのでしょうか。弟子たちはイエス・キリストから様々なことを教えられました。でもそれは、頭の中で理解することではありません。日々の生活の中で生かす学びです。すなわち、イエス・キリストから教えられたことを日々の生活の中に取り入れるということです。みことばから学んでも、その学んだことを日々の生活の中に取り入れようとしないなら意味のないものとなってしまいます。
 マルコ9:14以降には、口をきけなくする霊につかれた子どもを弟子たちが癒すことができなかった記事が書かれています。そのとき、イエス・キリストはその弟子たちに何と言われたでしょうか。19節に「ああ…連れて来なさい」と言われました。このイエス・キリストのことばを皆さんはどのように受け止められるでしょうか。「厳しいことばだな」と受け止められるでしょうか。これは本当に厳しいことばです。彼らの行為を「不信仰」と言われたのですから。何故でしょうか。それはイエス・キリストから学んだことを信じて生活の中に生かそうとしなかったからです。「そばに置く」とは、近くにいることであり、共にいることでもあります。「イエス・キリストが共におられる」ということばを聞くとき、ともすると「イエス・キリストが助けてくださる・導いてくださる」ということを頭に浮かべられる方が多いと思います。確かにそうなのですが、それだけではないことを今朝の箇所から教えられます。それは、私たちがみことばから学んだことを日々の生活に取り入れて生かすためでもあるということです。イエス・キリストが弟子たちをそばに置かれたのは、そのことのためでもあります。

2)弟子任命の目的②
 もう1つの目的は、彼らを遣わして宣教させるためです。何を宣教するのかと言いますと福音です。ここで注目したいのは「遣わして」ということばです。「遣わす」というのは、今いる場所から出て行くことを意味しています。それは知らない場所に行って、知らない人に福音を伝えることのように思えたりもします。分かりやすいのが宣教師です。彼らは知らない地に行き、初めて会う人に福音を伝える働きをされています。「遣わす」ということを聞きますと、そのようなことを連想するのではないでしょうか。それもそうですが、それだけではなく近くの場所や近い人をも含んでいます。
 例えば、マルコ5章には、イエス・キリストの一行がゲラサ人の地に行ったときの出来事が書かれています。その出来事とは、汚れた霊につかれた人がイエス・キリストによって癒されるというものです。癒された人は、「イエス・キリストのお供をしたい」と願いましたが、イエス・キリストは19節で「あなたの家…知らせなさい」と告げられ、この癒された人は住んでいる場所であるデカポリス地方で言い広めたのです。これもイエス・キリストによって遣わされたものなのです。では、何故イエス・キリストはこのようなことを言われたのでしょうか。それは、「この町の人々がイエス・キリストを信じるようになるには、この男性を用いることが最善である」と判断されたからです。そして、それがこの人に与えられた召しであり献身なのです。すなわち、自分が住んでいる地域がイエス・キリストによって遣わされた地であり、その地にあってイエス・キリストの証し人として生きる。20節に「     」と書かれています。これが正気に返った人に与えられたイエス・キリストの使命なのです。
 私たち一人ひとり住んでいる地域や職場は違います。ですが、各々の地域や職場は自分で選んだように思えますが、実は神から遣わされた地域であり職場でもあります。その地域や職場でイエス・キリストの証し人として生きる。これが私たちに与えられている使命でもあります。毎月クリスチャン新聞福音版を地域への配布は、「この地域は神によって遣わされた地であり、その地域にあってイエス・キリストの証し人として生きる」ということの告白でもあります。続けて、この福音版の配布が神によって用いられることを祈っていきたいと願わされます。

3)教会とは
 では、イエス・キリストによって選ばれた12人はどのような人々でしょうか。普通、弟子になるときは、弟子になる人が師匠を選んで、その人の許で訓練を受けます。ところが、イエス・キリストの弟子の場合は違います。弟子たちが選んだのではなく、イエス・キリストが選ばれたのです。その選ばれた人たちの職業も様々です。漁師の人もいれば、取税人や政治活動をしていた人もいます。当時では「エリート」と思われていた律法学者などは一人もいません。イエス・キリストの弟子たちはエリート集団ではなかったのです。何処にでも居るような、ごく普通の人たちだったのです。
 次に、彼らはどのような人だったでしょうか。時間的に全員を見ることはできません。シモンには「ペテロ」という名がつけられました。「ペテロ」とは「岩」という意味です。「岩」ということから、ちょっとしたことには動じないイメージを思い浮かべるかもしれません。しかし、ペテロはおっちょこちょいで不安定な人でした。考えるよりも行動する方が早く、失敗してしまう人でした。次にヤコブとヨハネですが、彼らには「雷の子」という名がつけられました。ヨハネは福音書と手紙・黙示録を書いた人です。ヨハネの手紙には「愛」ということばが多く書かれています。ですから、ヨハネは「愛の深い人」と思われますが、福音書では気が短く心の狭い人として描かれています。また、トマスは甦られたイエス・キリストの報告を仲間から聞いても信じず疑い深い人でした。イスカリオテのユダはお金の管理を任されていましたが、そのお金を盗んでいましたし、イエス・キリストを裏切りました。
 さらに、仲の良い人たちだけで形成されてもいません。マタイは取税人でした。「取税人はローマ帝国の手先」と一般の人からは見られていました。それに対して、シモンは熱心党員でした。熱心党というのは、イスラエルをローマ帝国から解放させることに熱心な人々の群れです。愛国心が強く、ローマ帝国に反逆することを考える人たちの群れです。ですから、取税人と熱心党員との間には、大きな考え方の違いがありました。このように見ますと、イエス・キリストの弟子たちは様々なタイプの人たちが集まっていたことが分かります。彼らは何度も何度も失敗しつつも、日々の生活の中で繰り返し実践し続けることを通して成長させられていったのです。これがイエス・キリストによって選ばれた群れの実態です。
 このことから教会について教えられます。教会は仲の良い人たちが集まる群れでもなければ、考え方が同じ人たちが集まる群れでもありません。イエス・キリストによって選ばれた人たちが集まる群れです。そのような群れですから、当然意見の違いが生じますし、習慣の違いも生じます。違うということは問題が生じやすいということでもあります。おそらく熱心党員であったシモンは、取税人であったマタイを快く思っていなかったことでしょう。ですが、日々の生活の中での訓練を通して、整えられ一致を見出だしていったのです。教会は一人ひとりがイエス・キリストによって召し出された群れです。「召し出す」というのは「目的がある」ということです。その目的は、日々の生活の中でイエス・キリストの証し人として生きるためであり、福音を一人でも多くの人に伝えるためです。それが教会として立てられている目的であり意味です。

結)
 ルカ6:12~13には「     」と書かれています。イエス・キリストは、12弟子を選ばれる前に祈りながら夜を明かされました。どれほど慎重に12弟子を選ばれたのかが伝わります。その選ばれ方は私たちにも同じです。神は適当に私たち一人ひとりを選ばれたのではありません。とても慎重に選んでくださったのです。「私」という人間は、本当に弱く失敗をしたり間違いを犯したりしてしまいやすい者です。ですが、そのような私たち一人ひとりを選んでくださったのです。ですから、私たちが選ばれたのは「何かの間違い」ではありません。「神のすばらしさを現すことのできる者」として選んでくださったのです。そして、そのためにイエス・キリストは共にいてくださるのです。これからも神の御許において訓練を受けつつ、神のすばらしさを現すことのできる者と成長することを祈っていきましょう。

マルコ3:7~12「何に信頼しますか」 24.05.26.

序)
 現代は「情報社会」と言われていますが、今後は「AI社会」と言われるようになるかもしれません。それほどAI技術が進歩しています。「様々な職業にAIが導入され、人の仕事が奪われてしまうのではないか」とも言われています。ひょっとしたら、礼拝メッセージもAIで作成されるようになるかもしれません。人は便利なものに頼ろうとしてしまいやすい存在です。この「便利」というのは、私たちが体験できるものですから、「物質的なもの」ということができます。私たちはそのような理解できる物質的なものに頼りやすくなります。今朝は、この箇所から私たちが信頼すべきものについて共に教えられたいと願っています。

1)イエスの退き
 7節の初めに「それから…退かれた」と書かれています。別に「湖の方に行かれた」と書かれていてもおかしくはありません。ですが、聖書には「退かれた」と書かれているのです。この「退かれた」ということばに注目したいのです。何故イエス・キリストは退かれたのでしょうか。考えられることは、「パリサイ人との論争を避けるため」ということもありますし、「彼らの心が頑なであったから」というのもあります。さらには、「ユダヤ教指導者らがイエス・キリストを殺す相談をしたことを知られたから」ということも考えられます。
 これらのことから、「ユダヤ教指導者らがイエス・キリストに心を開かなかったから、イエス・キリストは退かれた」と考えられます。前回の箇所で、イエス・キリストは片手の萎えた人を癒されました。この人にとっては、萎えた片手が癒されることによって生きる望みが与えられました。しかし、この出来事を見たパリサイ人たちは、そのイエス・キリストを信じようとはしなかったのです。奇蹟を目の当たりにしたにも拘わらず、決してイエス・キリストを信じようとはしなかったのです。時々、「もし神がいるなら見せてみろ。見たら信じるから。」と言われる方がおられます。ですが、聖書は「見ても信じない」ということを今朝の箇所で示しています。何故なら、見たか見なかったかというのは、大切なことではないからです。大切なのは、信じるか信じないかです。実は、その人の心の事柄なのです。
 イエス・キリストは、奇蹟を通してご自身が人を生かすことのできる方であることをパリサイ人たちに示されたのです。それなのに、彼らはこの奇蹟を通しても信じることをしなかったのです。だから、イエス・キリストは退かれたのです。聖書は、私たちにも「イエス・キリストは人を生かすことのできる方」であるのを示しています。イエス・キリストは、2:17で「医者を必要とするのは…罪人を招くためです」と言われました。分かってはいるけれども過ちを犯してしまう私たち。いつも自分のことを優先させてしまう自分勝手な私たち。それでも、イエス・キリストは私たちを見捨てずに招いてくださっています。そして、そのような私たちに生きる望みを与えてくださる方です。そのイエス・キリストを信じ寄り頼むとき、人は生きる望みが与えられるのです。しかしながら、それと同時にそのイエス・キリストに心を開かないなら、必要としないならばイエス・キリストは退かれることを聖書は示しているのです。
神は人がイエス・キリストに心を開くこと、寄り頼むことを待っておられるのです。ですが、その神にも限界があることを私たちは覚えておく必要があることを知らされます。教会学校などでも、「神様はいつでも待ってくださってるよ」と話したりします。それは間違いではありません。神はいつでも待ってくださっている方です。ですが、その神にも限界があるのです。私たちは旧約聖書を通して、それらのことを知っているのではないでしょうか。ノアの洪水の出来事やバベルの塔の出来事。また、エジプトで初子を討つという出来事や荒野においてエジプトを出たときの大人はヨシュアとカレブ以外のイスラエルの民は荒野で亡くなるということ。さらには、士師記や列王記などを読んでも分かります。これらのことについて、パウロはⅠコリント10章で語っています。特に、11節には「     」と語っています。神は待ってくださっている方ですが、その神にも限界があり退かれるときがあることを覚えておくとは大切です。

2)苦難に悩む人に
 イエス・キリストは湖の方に退かれましたが、「大勢の人々がついて来た」と7節の終わりに書かれています。どのような人々がイエス・キリストについて来たのでしょうか。10節には「病気に悩むひとたち」と書かれています。この「病気」と訳されていますことばは、1:34の「病気」とは違うことばが使われています。1:34に書かれています「病気」は、私たちが思い浮かべる病気のことです。ですが、今朝の箇所の「病気」は、神が人に与えられた苦しみを意味することばです。苦しみは誰もが持っているものです。昔、「神は誰にでも宿題を与えておられる。『こんな幸せな人はいないだろうな』と思うような人も、身体の丈夫な人も、家族の問題や事業の問題など、いろいろな問題を持っているものであるが、その一つひとつを考えてみると、神から宿題を与えられているようなものである」というのを聞きました。私自身「確かにそうだな」と思わされました。ただ大切なのは、その苦しみをどのように受け止め、また生かすかということです。
 ローマ5:3~5に「     」と書かれています。ここには、苦難が希望に変えられることが書かれています。「それはどのようにしてか」と言いますと、2節に書かれているイエス・キリストを信じる信仰によってです。では、なぜイエス・キリストを信じる信仰が苦難を希望に変えることができるのでしょうか。3節に「苦難が忍耐を生み出し」と書かれています。聖書に書かれています「忍耐」とは、単に我慢することではありません。神は全てのことを共に働かせて益としてくださる方です。「全てのこと」ですから、自分にとってマイナスに思えるようなことも含まれています。しかし、神はそれらを益にしてくださる方です。今までの自分の歩みを振り返りますと、神はそのように導かれたのではないでしょうか。「それなら今経験しています苦難も神は益にしてくださる」ということに目を向けることができ、神の導きに期待して待つことができます。これが聖書の語る忍耐です。そして、忍耐をもって歩み続けることを通して、神は生きる力を強めてくださいます。これが練られた品性です。その生きる力が強められることによって、希望を見出だすことができます。
 今朝の箇所に戻りますが、病気に悩む人たちがイエス・キリストの身許に来ました。その多くはイエス・キリストを信じることよりも、ただ苦しみから解放されたいという自分勝手なものだったでしょう。しかし、イエス・キリストはそのような人たちを追い返すことをされず、むしろ迎え入れ癒されました。この癒された人たちが、その後どうなったのかは書かれていません。イエス・キリストを信じたのか信じなかったのかは分かりません。ですが確かなことは、イエス・キリストはご自身が生きる希望を与える存在であることを示されたということです。イエス・キリストを信じる信仰を持っていれば、苦難に遭遇することはないということではありません。イエス・キリストを信じつつも苦難を経験することは多々あります。しかし、その苦難を乗り越える力、生き抜く力を与えてくださる方がイエス・キリストです。Ⅰコリント10:13に「     」と書かれています。神は脱出の道をすでに備えてくださっています。全てのことが共に働いて益となることを信じつつ、神に信頼し生きる力が増し加えられるように祈っていきたいものです。

3)汚れた霊に対して
 イエス・キリストが病気に悩む人々を癒されているとき、汚れた霊たちがイエス・キリストを「あなたこそ神の子です」と叫びました。しかし、イエス・キリストは汚れた霊たちに、ご自分のことを知らせないようにと厳しく戒められました。以前にも1:24の箇所で触れましたが、イエス・キリストは汚れた霊の告白を用いることはされません。何故なら、前の時にも話しましたが、汚れた霊の告白は信仰による告白ではなく、単なる知識だけの告白だからです。汚れた霊はイエス・キリストを「神の子」と知っていますが、そのイエス・キリストに従おうとはしません。ただ、イエス・キリストによって滅ぼされるのを免れようとしているだけのことです。
 詩篇119:50に「     」と書かれています。神のことばは、悩みのときに慰めを与え生かしてくださいます。神のことばは、どのような人をも生かすことができるのです。パウロはローマ1:16にて「     」と語っていますように、神のことばは人を生かす神の力です。それほどのものを信じ従おうとしない汚れた霊に、神のことばを委ねることはされなかったのです。イエス・キリストは、ご自身に信頼する者に神のことばを委ねられたのです。それは、イエス・キリストを信じ聞き従うことを決心した人にです。人は「信じ聞き従う決心をしたから」と言って強くなれるわけではありません。やはり、様々なものに振り回され、左右されてしまう弱い存在のままです。しかし、イエス・キリストはそのような私たちを用いてくださるのです。何故でしょうか。その人の決心を通しての信仰告白を信頼してくださっているからです。
 私たちは目に見える力のあるものに頼ろうとしてしまいやすい者です。しかし、神はそのような私たちを信頼してくださっているのです。信仰告白というのは、目に見えるものではありません。しかし、神はその告白に目を留めてくださっているのです。あなたの信仰告白に目を留めてくださっているのです。何故そこまで私たちを信頼してくださっているのでしょうか。それは、神が愛に富んでおられる力強い方だからです。

結)
 神は目に見える方ではありません。しかし、今も生きておられ私たち一人ひとりと共にいて導いてくださっています。神は信頼できるお方です。神は決して私たちから離れることなく、いつも共にいて導いてくださっています。それは、私たち一人ひとりの信仰告白を信頼されているからです。そのことを知るとき、改めて「私は何に信頼を寄せるべきか」を考えさせられます。徹底的に信頼を寄せてくださっている神であられる主に信頼を寄せることを改めて気づかされます。

エレミヤ1:4~10「神に信頼して生きる」 24.05.19.

序)
 今日は教会が誕生したペンテコステの日です。いつもならペンテコステに関連した箇所からメッセージをしていますが、今日は私たちの団体の「献身者の日」でもあります。伝道部から、「献身のメッセージを」ということが伝えられていますので、献身に関わるメッセージとさせていただきます。私たちの団体では、5月の第3主日を「献身者の日」としています。これは、私たちの団体の中から新たな献身者が起こされることを願い設けられたものです。今までは、新たな献身者が起こされることを願いつつ語ってきましたが、今年は少し角度を変えて共に教えられたいと願っています。

1)2030年問題
「教職者の高齢化」が言われ続けていますが、同時に「信徒の高齢化」も叫ばれつつあります。昨年の献身者の日にも話しましたが、皆さんは「2030年問題」を覚えておられるでしょうか。これはあるキリスト教教団で言われていることですが、その教団だけに留まる事柄ではなく、日本全体のキリスト教団体でも同じことが言える問題です。「これはどのような問題か」と言えば、「2030年にはあるキリスト教教団の半分ほどが教会閉鎖を見込まれる」という問題です。それは「教職者が不足している」ということだけでなく、「75歳以上の教会員が3分の2を超える」という問題です。それは何を意味しているのかと言いますと、教会員の高齢化に伴い教会を支えられなくなって閉鎖に追い込まれるということです。例えば、私たちの教会のことも考えてみたいと思います。「6年後」とは言いませんが10年後はどうでしょうか。単純に考えて、今のままで行きますと10年後は半分ほどが75歳以上となります。教会が閉鎖に追い込まれるという問題が目の前まで来ているという現実です。
また、別の団体でも教会の統合がなされています。ともすると、私たちの教会も名古屋教会と統合ということになるかもしれません。それほど切実なる問題なのです。その団体では同じ教団内での統合だけでなく、団体を越えた統合をも検討し始めているとのことです。その大きな要因は距離的なことです。近くに同じ団体の教会がありませんから、別の団体の教会と統合するというものです。そうなりますと、「土地と建物という財産処分をどうするのか」という問題が生じますので、前もって団体内で検討する必要性があるというのです。私たちの教会から見れば、福音派の団体で距離的に一番近いのは○○教会です。その教会との統合も否定できない状況でもあります。
そのように考えますと、この「2030年問題」というのは私たちの教会や団体と遠く離れた事柄ではないことを知らされます。私たちの団体も目の前の事柄として取り組んでいく必要があることを教えられます。そのようなことを頭の中に置きつつ、「献身」について共に考えていきたいと願っています。

2)神の召し
 神はエレミヤに「わたしはあなたを知り、聖別し、預言者として定めていた。」と5節で語られています。神はエレミヤに対して「わたしは…あなたを知り」と、エレミヤが誕生する前からエレミヤのことを知っておられました。何故でしょうか。それは、神がエレミヤを造られたからです。この「知る」というのは、「エレミヤの全てを知っている」ということです。すなわち、エレミヤの長所や短所、また、強さや弱さの全てを御存知であるということです。神はエレミヤにどのような賜物が与えられているか、また与えられていないのかを知っておられます。その上で、神はエレミヤを預言者として召されたのです。聖別というのは、神の特別な働きに仕えるために、一般的なものの中から区別されたということです。エレミヤは、神のご用のために特別に選ばれたのです。そして、神はエレミヤを「預言者として定めていた」とも言われました。預言者というのは、神が語られたことばを、そのまま人に語る務めが与えられています。しかも神は「定めていた」と、エレミヤが預言者としての働きに就くことが、すでに神のご計画の中に入れられていたのです。神はエレミヤの全てを御存知の上で、エレミヤが生まれる前から特別な神の働きのために選び計画されていたのです。
 神は人を造られました。造るといことは「目的がある」ということでもあります。私たちは何か物を作るとき「何を作るか」という目的をもって作ります。神が私たちを造られたのも同じです。神は目的をもって私たちを造られました。その神の目的は、私たちが神のすばらしさを現すためです。その神のすばらしさを現す最高の方法は礼拝です。ですから、「私たちは神を礼拝するために造られた」と言っても良いでしょう。神のすばらしさを現す最高の方法は礼拝ですが、礼拝だけが神のすばらしさを現すものでもありません。日々の生活の中で、神のすばらしさを現すことができます。そのために、神は一人ひとりに賜物を与えてくださいました。神から与えられている賜物も神のすばらしさを現すためのものです。神はあなたを造られました。ですから、あなた自身にも神の目的があります。具体的にどのようにして神のすばらしさを現すかは、一人ひとりによって違います。しかし、あなたも神のすばらしさを現すために造られたことを覚えていただきたいのです。エレミヤの場合は「預言者」としての召しを受けました。しかし、預言者や牧師などの直接献身する者だけが神の召しを受けているのではありません。「直接献身をしない」という召しを受けている人もおられます。それは、「一信徒として日々の生活の中で神を証しし福音を伝える」という召しを受けている方もおられます。一人ひとりが神の召しを受けているのです。

3)エレミヤの反応
 その神の召しに対して、エレミヤはどのような反応をしたでしょうか。エレミヤの反応が6節に書かれています。エレミヤは、6節で「     」と神の召しを断っています。6節には、その理由が2つ書かれています。まずは、「私は若い」ということです。エレミヤの当時の推定年齢は20歳前後と考えられています。ですから、人間としての社会的経験は少なかったと言えるでしょう。社会経験が少ないということは、社会的評価も低いということです。社会的評価が低いということは、人からあまり認められないということでもあります。エレミヤが気にしていたことの1つは、人からの評価であり社会的評価だったのです。確かに、この当時エレミヤが20歳前後であったとするなら、彼の周りより社会的経験の豊富な人はたくさんいたことでしょう。エレミヤは自分の社会経験の不足から、「自分は預言者として立てられたとしても、人々から『若者のくせに』と言われ、耳を傾けてくれないのではないか」と思ったことでしょう。このエレミヤの断る理由は分からなくもありません。
 神の召しを断ったもう1つの理由は、6節の最後に書かれていますように「どう語ったら良いか分からない」というものです。エレミヤはユダヤ人ですから、小さいときから聖書教育を受けていました。ですから、聖書のことを全く知らないわけではありません。知識的には十分知っていたと考えられます。しかし、その自分の周りの人々はさらに聖書知識のある人たちなのです。自分よりも豊富な人々なのです。そのような人々に何を語れば良いのでしょうか。エレミヤにはそのような不安がありました。また、この「どう語って良いか分かりません」とは、人々の心に届く話し方を知らないということでもあります。ですから、もし語ったとしても「何を言っているのだ」ということで片付けられてしまう可能性も大きかったのです。イエス・キリストご自身もそうでした。故郷に戻られて話されたとき、人々の反応はどのようなものだったでしょうか。それは「彼は大工の子で、小さいときからよく知っている」というもので、イエス・キリストが話されたことばに真剣に耳を傾けようとはしませんでした。エレミヤ自身が恐れていたものも、このような人々の反応だったのです。「どうせ私のような者が語っても誰も聞いてくれないのではないか」という不安だったのです。このエレミヤが断った理由も分からなくはありません。現代にしても断る理由はそのようなものです。このような思いは誰もが抱いてしまうものです。

4)神の反応
 では、そのエレミヤが断ったことに対しての神の反応はどのようなものだったでしょうか。まず神は「まだ若いと言うな」と告げられました。エレミヤにとって「若さ」というのは最大の弱点でもありました。しかし、神の目から見れば弱点でも何でもなかったのです。エレミヤからすれば、若いというのは大きな理由であり言い訳になりますが、神からすれば断る理由にもなりませんし言い訳にもならなかったのです。何故でしょうか。神はエレミヤが若いということをよく御存知の上で召しておられるからです。その逆もあります。それは「もう若くないから」という言い訳です。ですが、それも神からすれば断る理由にはならないのです。何故なら、「若くない」というのを御存知の上で求めておられるからです。
 旧約聖書に「カレブ」という人が登場します。何処に登場するのかと言いますと、イスラエルの民がエジプトの地を出て荒野の中を歩み続けて、「カデシュ・バルネア」という地に着きます。モーセはイスラエルの各部族から1名ずつ選んでカナンの地に偵察に行かせました。そして戻って来たとき、10名は「カナンの地は良い地ではあるが、町は城壁に囲まれており、そこに住む人たちは背が高く強そうで勝つことなどできない」という報告でした。その中で「戦って打ち勝つことができる」と、ヨシュアと一緒に主張した人です。結果は御存知の通りですが、それから約40年後イスラエルの民はカナンの地に入りました。そして、カナンの地をほぼ制圧したとき、カレブがヨシュアに告げたことばがヨシュア記14章に書かれています。彼は85歳ですが、14:11で「モーセが私を…耐えうるものです」と語っているのです。
 40歳と85歳では、体力的に大きく衰えているのは目に見えています。ですが、カレブは「私の今の力はあの時の力と変わらず」と言っているのです。これは「体力的に落ちていない」と言っているのではありません。生き方です。生きる力のことです。それは「どのようにして生きるのか」ということでもあります。カレブは12節の後半で「しかし主が私とともに…追い払うことができます」と、神に寄り頼み神が共にいて最善を成してくださることに信頼を寄せる力は、40歳の時と何も変わっていないということです。問題は「何ができるのか」ではありません。「どのように生きるのか」です。生き方の問題です。
 そのことは、エレミヤにおいても同じです。神はエレミヤに「あなたは何に信頼を寄せて生きようとするのか」と、7~8節で問うておられるのです。その問いかけのあと、9節に「そのとき」と書かれています。ここに神の行動の速さを見ることができます。エレミヤに問うてすぐにエレミヤの口に触れられ、みことばを与えられました。それは「わたしのことばに信頼を寄せて生きよ」ということです。この生き方を神はエレミヤに求められたのです。

結)
 最初に「2030年問題」について話しました。「75歳」というのは、日本においては後期高齢者の仲間入りとなります。私も今年で高齢者の仲間入りです。ですが、年齢が問題ではありません。生き方が問題なのです。「2030年問題」の年齢だけを見てしまいますと、心が沈んでしまいそうになります。体力が落ち、仕事もできなくなって年金生活。そのようなことが頭をよぎってしまいます。ですが、一番の問題は年齢ではありません。私たち一人ひとりの生き方です。何よりも神に信頼して生きる。これが神に献身する生き方です。

マルコ3:1~6「あなたの神は?」 24.05.12.

序)
昔、子どもたちに「神様ってどのような方?」と聞きますと、様々な答えが返ってきました。「愛してくださる方」「優しい方」「悪いことを嫌われる方」など。皆さんは、「神をどのような方」と捉えておられるでしょうか。今朝は、この箇所から「あなたの神は?」と題して教えられたいと願っています。

1)本論の前に
 今朝の箇所を見る前に、私たちが覚えておく必要があることを見てみたいと思います。私たちが用いています聖書には「章」と「節」が振られています。しかし、昔の聖書には「章」や「節」などはありませんでした。この「章」や「節」は後に設けられたものです。この「章」や「節」が設けられたことによって、私たちは聖書を理解しやすくなったのも事実です。ところが、この「章」や「節」が設けられたことによって、それに縛られて聖書を読んでしまうという危険性があるのも事実です。先週、私たちは「イエス・キリストは安息日にも主である」ということを見ました。そして、今朝からは3章の箇所を見ています。「章が変わることによって話の内容も別のもの」と思って読んでしまいやすくなります。確かに話の内容は別のものですが、今朝の箇所は先週の箇所に続いているのです。そのことを見落としてはなりません。
 このことは、使徒の働きを見ていたときにも触れました。それは使徒5:1~11の箇所です。そのときは、4:32~5:11を1つのものとして見ました。5:1~11はアナニアとサッピラ夫婦のことが描かれている箇所です。教会学校でも話されることの多い箇所です。教会学校の話しでよく耳にするのは、「嘘をついても神様は知っておられるからね」というものです。そのことは間違いではありません。正しいことです。しかし、この箇所の中心はそれではありません。この箇所からの話しで無視されがちなのは、1節の冒頭に書かれています「ところが」ということばです。この「ところが」ということばは、4:32から書かれている事柄と繋がっていることを示しています。この4:32~37は、心と思いを一つにした教会の姿が描かれています。さらに、5:12にも「皆は心を一つにして」と書かれています。その中の出来事としてアナニアとサッピラ夫婦の出来事が描かれているのです。このアナニアとサッピラ夫婦の行為は、心と思いを一つにして歩もうとする教会の歩みを妨げるものです。そのことへの神の審きが描かれているのがアナニアとサッピラ夫婦の出来事です。「章」と「節」に囚われてしまいますと、別のものとして理解し中心点がぼやけてしまう危険性があります。
 それは今朝の箇所もそうです。今朝の箇所は3:1からです。ともすると、「2章までの事柄とは別のもの」と理解して読んでしまいやすくなります。先程も触れましたが、確かに内容は違うものですが、全く別のものでもありません。2章から続いているのです。2:28に「人の子は安息日にも主です」とイエス・キリストは話されました。その話されたイエス・キリストが、安息日に片手の萎えた人を癒されたことが書かれているのが今朝の箇所です。そのことを頭に描きつつ読んでいくことが大切です。そうでないと、聖書の中心点がぼやけてしまうからです。そのことを頭に描きつつ、今朝の箇所を共に見ていきたいと願っています。

2)パリサイ人の神観
 まず、パリサイ人の神観について見てみたいと思います。彼らは律法を厳格に守っていた人々です。その根底には「神から与えられた律法を守らなければ、神に罪を犯すことになり罰せられる」と考えていたからです。そのため律法を守るために、律法の周りに規則を作ったのです。分かりやすく言えば、子どもが冷蔵庫を勝手に開けて中のものを食べてしまうとします。そのため、親は子どもに「冷蔵庫に触っちゃダメ」というルールを作ります。本来の目的は、冷蔵庫の中にあるものを勝手に食べられないようにするためです。ところが何かの拍子で子どもが冷蔵庫に触ることもあります。でも、冷蔵庫に触ったという事実は事実です。それに対して親が叱るというのと似ています。何故なら、「冷蔵庫に触っちゃダメ」というルールを破ったからです。ですが、それは本来の目的から外れています。それと似たようなルールをパリサイ人はたくさん作っていたのです。そこには、「神は聖い方であり小さな罪も嫌われる厳しい方」という神観があるからです。
 その彼らが決めた規則をイエス・キリストは破っておられたのです。イエス・キリストは律法を破っておられたのではなく、パリサイ人らが作った規則に従っておられなかっただけのことです。それは安息日についても同じです。先程の聖書交読の箇所である申命記5:14には、「いかなる仕事もしてはならない」と書かれています。「いかなる仕事も」ですから、パリサイ人らは「仕事になるようなものはどのようなものであっても」と理解していたのです。ですから、「人を癒すという行為は仕事になるからダメだ」としていたのです。この「いかなる仕事もしてはならない」という律法をどのように理解するかです。この「いかなる仕事もしてはならない」というのは、どのような仕事であれ自分の身体を休めて神を礼拝することを目的として定められているのです。仕事をしないことが目的ではありません。自分の身体を休めて神を礼拝することが目的なのです。しかし、「いかなる仕事もしてはならない」というところに重きを置いたため、本来の目的からずれてしまったのです。
 そのためどのようなことが生じたかと言いますと、イエス・キリストを殺す相談をするようになったのです。何故なら、このようなことが平然と行われてしまいますと、一般の人たちもイエス・キリストと同じ行為をするようになり、「律法に違反してしまい罪を犯す民族になり、神の審きを受ける民族になる」と思ったからです。パリサイ人の立場から見ますと、彼らは「自分たちは悪いことをしている」とは思ってはいません。むしろ、「良いことをしている」と確信しているのです。何故なら、神から与えられた律法を守り通すためだからです。人の命を奪う行為であったとしても、「自分たちは良いことをしている」としていたのです。「何故そのような考え方になったのか」と言いますと、「神は義に対して厳しい方」という神観があったからです。これがパリサイ人の神観です。

3)イエス・キリストの神観
 次に、イエス・キリストの神観を見てみたいと思います。イエス・キリストは、4節で「安息日に…殺すことですか」と尋ねられました。パリサイ人たちは黙っていましたが、イエス・キリストは片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われ、その人が手を伸ばすと手は元通りになったのです。どれほどの期間、この人の片手が萎えていたのかは分かりません。ですが、この片手が萎えていることによって、この人が苦しんでいたのは確かなことです。イエス・キリストは、安息日にも病に苦しんでいる人を助けたのです。苦しんでいる人を助けるということは、その人に望みを与えることであり生かすことでもあります。それは先週も話しましたように、安息日は人が人として生きるために与えられているからです。イエス・キリストが安息日にこのようなことをされたのは、神は人が人として生きることを願っておられることを示されているからです。神は義に対して厳しい方というよりも、人が人として生きることを願っておられる方というのが、イエス・キリストの神観です。神が人に律法を与えられたのもそうです。人は神から与えられた律法を守り通すことはできません。何故なら、私たちの中には罪があるからです。ですから、聖書は「正しい人は一人もいない」と語っているのです。
 そのように聞かれますと、「では、何故神は人ができないような律法を人に与えられたのか」と思われる方もおられるかもしれません。私ならそのように思ってしまいます。「『守れないものを守れ』というのはおかしい」と思ってしまいます。皆さんはどのように思われるでしょうか。「できないことをしろ」と言われましたら、どのような思いを抱かれるでしょうか。「なんて厳しいことを」とか「非常識だ」と思われるのではないでしょうか。そのような思いを抱くのは当然だと思います。何故なら、無茶なことを言われているのですから。それなのに、何故神は敢えてこのような律法を人に与えられたのでしょうか。そこには深い神の配慮があるからです。何度も話していますが、人は神から与えられた律法を守り行おうとしても全てを守り行うことはできません。それによって自分の弱さや足りなさに気づかされます。しかし、そのような私を決して見捨てることなく、共に歩み支え導いてくださる神を知るために、神は律法を人に与えられたのです。
 それはどのようなことかと言いますと、「このような者であっても神は受け入れてくださり導いてくださる方である」という神の憐れみと慈しみを知ることです。さらに言いますと「ありのままの自分を愛してくださっている」という神の愛を知ることです。これも何度も話していることですが、「ありのままの自分」とはどのような自分でしょうか。自分のことは自分が一番知っています。表面上は装っていますが、内面は罪に汚れた醜いものでいっぱいです。その内面の自分を知れば知るほど自分が嫌になってきます。それが「ありのままの自分」なのです。ですが、それは「ありのままの自分」の半分です。「残りの半分は何か」と言いますと、「そのような自分であっても神に愛されている」ということです。これも「ありのままの自分」なのです。確かに、自分の内面を知れば知るほど汚れたものです。でも、そのような自分のためにイエス・キリストは身代わりとなって十字架に架かって死なれ、その後死から甦ってくださいました。それは私たちが本当の意味で生きる者となるためです。「それほどまでに神は私を愛してくださっている」というのも「ありのままの自分」なのです。この両面をきちんと見据えることは私たちにとって大切なことです。どちらかだけでは不十分なのです。何故なら、この両面をきちんと見据えることによって、人は本当の意味で生きる者となるからです。
 イエス・キリストは4節で「安息日に…殺すことですか」と言われたことが書かれています。この「善を行うこと」とは、単なる「良いことをする」というのではありません。ここで話されています「善を行う」とは「人を生かす」ということです。そして、「悪を行う」とは「人を生かさない」ということです。すなわち、ここでイエス・キリストが問うておられるのは、「安息日に律法にかなっているのは、人を生かすことか生かさないことか」です。そして、イエス・キリストは安息日に片手の萎えている人を癒されました。それは、その人が喜びと感謝で生きる者となるためです。ここに、イエス・キリストの神観を見ることができます。それは「神は人を生かす方である」というものです。イエス・キリストが十字架に架かって死なれ甦られたのもそうです。それは私たちの罪を赦すためではありません。私たちの罪が赦されたことを神に感謝し、喜びをもって生きる者となるためです。何度も話していますが、罪の赦しがイエス・キリストの十字架による死と復活の目的ではありません。人が神に感謝と喜びをもって生きる者として歩み続けることが、イエス・キリストの十字架による死と復活の目的なのです。それを見える形として表すのが礼拝なのです。

結)
 神は厳しい方ではありませんし、人の罪を赦すだけの方でもありません。神は人を生かす方です。このような者であっても神は共にいてくださり、日々の歩みを支え導いてくださることに感謝して生かしてくださる方です。そのために、イエス・キリストは十字架に架かって死なれ甦ってくださったのです。ともすると、私たちは「神は人の罪を赦してくださる方」と思ってしまいます。確かに、神は人の罪を赦してくださる方ですが、そこで終わってしまってはいけないのです。自分の罪が赦されたことに感謝し、喜びをもって生きることを願っておられる方です。その生き方を見える形で表すのが礼拝です。これからも、共にその神を礼拝し続けていきましょう。

マルコ2:23~28「イエスは安息日にも主」 24.05.05.

序)
 聖書の中には「安息日」ということばがよく書かれています。そして、安息日には神を礼拝することが決められていますから、安息日を「日曜日」と誤解されている方もおられます。ですが、安息日は現代の日曜日ではなく土曜日です。厳密に言いますと、金曜日の日没から土曜日の日没までです。それは神が創造のみわざを休まれたことから始まっています。旧約時代は「安息日は仕事をしないで神を礼拝する日」と定められていました。ところが、私たちが教会に来て神を礼拝するのは土曜日ではなく日曜日です。「なぜ日曜日に変わったのか」と言いますと、安息日の翌日の朝にイエス・キリストが死から甦られたからです。すなわち、現在の日曜日です。このイエス・キリストの甦られた日を「喜びの日」として、教会は日曜日に神を礼拝するようになったのです。多くは「日曜日は仕事を休んだり家族と共に過ごす日」と思われがちですが、実は「神を礼拝する日」としたのが始まりです。今朝は、その安息日について共に教えられたいと願っています。

1)安息日論争
 今朝の箇所から3:6までは、安息日について論争されています。その発端は、イエス・キリストの弟子たちが安息日に麦の穂を摘み始めたことによるものです。ユダヤ教指導者たちは、安息日をとても厳しく取り決めていました。当時の安息日には、律法以外に39種類の労働についての禁止があったと言われています。この39種類というのは、ユダヤ教指導者らが勝手に決めて作ったものです。「どのようなものがあるのか」と言いますと、「約1㎞以上歩いてはいけない」とか「安息日に生まれた卵を食べてはならない」というものです。このような細かい決まりがありました。ただ、安息日に武器を持って自衛することは許されていました。
 何故イエス・キリストの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことが非難されたのかと言いますと、決まりの中に「安息日にかまを入れて刈り入れをしてはならない」というのがありました。当時、麦の穂を手で積む行為は「刈り入れをした」と理解されていましたから、パリサイ人たちはイエス・キリストの弟子たちの行為を非難したのです。それに対して、イエス・キリストは「必要があれば許される」というダビデの例を挙げて、25~26節で「     」と答えられました。さらにイエス・キリストは、27~28節で「     」と話されました。この27節はどのような意味でしょうか。神は7日目に創造のみわざを休まれました。でもそれは、神の疲れを癒すために設けられたのではありません。何故なら、神は疲れることのない方だからです。しかし、私たち人間は働き続けますと疲れてしまいます。その人間の疲れを癒すために安息日が設けられたのです。すなわち、神が安息日を設けられたのは、神のためではなく人間のためなのです。ですから、その人間が安息日にお腹が空いてどうしようもない時は、麦の穂を摘んで食べても良い」と答えられているのです。極端な言い方をすれば、人間が安息日の規定を守るために餓死する必要はないということです。さらに、「それは本末転倒である」と言われているのです。

2)安息日の意味
 では、安息日の意味は何でしょうか。イエス・キリストは、パリサイ人たちの非難に対して、25~26節で「     」と答えられました。これは、ダビデがサウル王から逃れたときのことと考えられます。ダビデは「祭司以外の者が食べてはならない」と律法によって定められたものを食べてしまいました。ですが、神はその行為を受け入れられたのです。何故でしょうか。答えは簡単です。ダビデとダビデと一緒にいた人たちのお腹が空いてどうしようもなかったからです。ダビデとその一行の人たちが祭司以外の者が食べてはならないものを食べることが許されたのは彼らが生きるためです。
 実は、律法というのは人が人として生きるために与えられているのです。そして、安息日の規定も律法によるものです。ですから、その安息日も人が人として生きるために与えられているのです。では、人が本当の意味で生きる者となるには何が必要でしょうか。創世記2:7に「     」と書かれています。ここには、神が人の鼻にいのちの息を吹き込まれたので、人は生きる者となったことが書かれています。創世記2:19には、土地の土で野の獣と鳥を造られたことが書かれています。もちろん、人間も土のちりで造られました。ですから、時間としてはとても短いものでしたが、人も土のちりで造られたときには生物学的には生きている存在だったのです。ですが、その人間にいのちの息を吹き込まれることによって、人は生きる者となったのです。この「生きる者」とは「人格者」ということです。すなわち、神からいのちの息を吹き込まれることによって、「人は人格を持つ存在となった」ということです。人は肉体と霊によって生きる者とされているのです。このことから「霊が養われる」ということがどれほど大切なものであるかを知らされます。何故なら、霊が養われなければ人は生きる者とされないからです。
 では、人の霊はどのようにして養われるのでしょうか。私たちの肉体は食物を得ることによって支えられています。それと同じように、私たちの霊も霊の食物を得ることによって支えられ養われます。その霊の食物とは、ご存知のように神のことばです。神のみことばに耳を傾けることなく、私たちの霊は養われることはありません。イエス・キリストが地上におられた時代は、安息日にみことばが読まれていました。ですから、安息日に会堂に行く必要があったのです。しかし、今の時代は一人ひとりが神のことばである聖書を持つことができます。教会に行かなくても聖書を読むことができます。でも、この時代は一人ひとりが聖書を持つことができませんでしたから、安息日に会堂に行って神のことばに耳を傾けて生きる力をいただく必要があったのです。安息日の意味は、人が人として生きるために神が設けられた日なのです。
 ですが、キリスト教は会堂に集まり神を礼拝する日を安息日ではなく、その次の日に行っています。それは最初にも話しましたように、イエス・キリストが死から甦られた日だからです。ですから、その日を「主の日」として礼拝するようになったのです。使徒20:7には、「週の初めの日に」と書かれています。これは現代の日曜日のことであり、その日に聖餐がなされていたことが書かれています。また、Ⅰコリント16:2には週の初めの日に礼拝が献げられていたことが書かれています。ですから、日曜日に神を礼拝することは聖書が書かれた時代から行われていたのです。そして、私たちが日曜日に教会に集い神を礼拝するのは、私たちの罪が赦されたことへの感謝と、神を信じる者として生きるための力をいただくためです。今年度の教会標語は、週報の式次第の上に書かれていますように「励まし助け合う群れ」です。これはヘブル10:25から取ったものです。ヘブル10:25に「     」と書かれています。互いに同じみことばから互いに教えられ強められ、また互いに励まされ慰められて、新しい週を歩むことができるためです。何故なら、教会を出て社会の中での歩みは信仰の戦いの連続だからです。主の日に集まる目的の一つは、同じみことばから互いに教えられ強められ、また互いに励まされ慰められて、新しい週を生きるためです。ですから、主の日に教会に集い礼拝を献げるというのは、私たちキリスト者にとって何よりも大切なことです。

3)安息日にも主
 イエス・キリストは、パリサイ人たちが本末転倒のことを話していることに対して、「     」と27節で話されました。それは肉体的疲れが癒されて、神のみことばを通して霊的に養われ、新しい週を生きることができるために設けられた日なのです。まさしく、人のために設けられた日なのです。このように聞かれると、「安息日は人のために設けられたのだから、安息日の中心は人なんだ」と思ってしまいやすくなります。しかしイエス・キリストは、28節で「     」と話されています。ここで注目したいのは「にも」ということばです。27節だけでは、「6日間は神が中心で、安息日は人が中心である」と錯覚してしまいやすくなります。イエス・キリストは、「人の子は安息日にも主です」と話されているのです。この「人の子」とは、イエス・キリストのことを指しています。すなわち、イエス・キリストは7日間中心であられるということです。それは「安息日は人のために設けられた日ではあるけれども、その安息日の中心はイエス・キリストであることを錯覚しないように」と勧めておられるのです。さらに言えば、それは全ての日の中心は、「神であられる」ということです。
 神は何のために安息日を設けられたのかを、イエス・キリストはここで話されているのです。それは「人間の肉体的霊的疲れを癒すためであると同時に、6日間の歩みを守り導いてくださっている神に心から感謝する日として安息日が設けられた」ということです。その心からの感謝を見える形として表すのが礼拝です。分裂後のイスラエルの礼拝について、神はイザヤ1:10~11では「     」と語られています。また、アモス5:21~23では「     」と語られています。さらに、ホセア6:6でも「     」と語られています。分裂後の南ユダ王国や北イスラエル王国では礼拝がなされていましたが、その礼拝は単なる形式的な礼拝でした。先程の箇所は、礼拝に対しての神の答えです。それは「単なる形式的な礼拝など受け入れない」というものです。神が受け入れてくださる礼拝は、神を知ることです。
 では「神を知る」とはどういうことでしょうか。それは「知的に知る」ということではありません。神が自分にしてくださったことを知るということです。それは1週間の歩みを振り返り、その歩みの中で神はどのように自分を支え導いてくださったのかを思い巡らすことです。その歩みを思い巡らすとき、神の支えと導きを知ることができます。これが「神を知る」ということです。土曜日を「礼拝への備え日」と言われています。何故そのように言われるのかと言いますと、1週間の歩みを振り返ることによって神の支えと導きを知ると同時に感謝し、翌日の礼拝に心から感謝と喜びをもって献げられるように備える日だからです。旧約聖書には感謝のいけにえを献げることが何度も書かれています。感謝と喜びをもっての礼拝を神は私たちに求めておられます。何故なら、それがまことの礼拝だからです。安息日は人のために設けられたものですが、人が中心ではありません。安息日の中心も神ご自身です。神に栄光を帰す日が安息日です。キリスト教は、イエス・キリストが死から甦られた日を安息日として礼拝を献げています。イエス・キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束してくださっています。いつも共にいてくださるイエス・キリスト。そのイエス・キリストに感謝し、喜びをもってこれからも礼拝を献げていきたく願わされます。

結)
 イエス・キリストは、安息日にも主なるお方です。先程も話しましたが「安息日にも」ということは、他の日もイエス・キリストは主なる方です。いつも共にいて、私たち一人ひとりを支え導いてくださっていることに感謝したいものです。特に、礼拝への備え日である土曜日は、1週間の歩みを振り返りつつ主日礼拝に備えられるようにしたいものです。

マルコ2:18~22「新しい時代に生きる」 24.04.28.

序)
 日本には様々な習慣があります。でも、習慣というのは日本だけではありません。他の国にも様々な習慣があります。それを「文化」ということもできるでしょう。ですが、「それが私たちの文化だから」と言って、絶対視してしまいますと問題でもあります。何故なら、「文化」というのは絶対的なものではないからです。今朝の箇所は、「断食」という事柄からイエス・キリストが話されたことが書かれている箇所です。今朝は、この箇所から新しくされた者はどのように生きれば良いのかと共に教えられたいと願っています。

1)断食の問題
 まず、イエス・キリストが話された発端は、断食をしている人たちがイエス・キリストの所に来て、「何故あなたがたは断食しないのか」と質問したことから始まっています。この断食というのは、実は律法には定められていません。確かに、旧約聖書の中に断食していることが記されています。モーセも断食しましたし、サムエルもダビデも断食しました。新約聖書においては、イエス・キリストも断食されましたし、使徒の働きにも断食したことが書かれています。ですが、律法には何も書かれていないのです。断食は自発的行為であって、その行為自体が目的ではないのです。もし、行為自体が目的になってしまいますと、非常に危険であることを聖書は示しています。今朝の箇所のバプテスマのヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食の行為自体を目的としていたのです。
 では、なぜ断食することが目的となってしまったのでしょうか。どのようなときに断食をしているのかを調べてみますと、自分や他人が罪を犯したときや神に誓願の祈りをするときです。このように見ますと、断食は敬虔深いもののようにも受け取れます。そして、その捉え方が人々に影響を与えたようです。それによって、「断食することが敬虔深い信仰者」と思われるようになったと考えられます。そのような考え方の中で、断食がイスラエル社会で進展していったように思われます。信仰に熱心な人は断食するように思われるようになったのです。だから、このような質問をしたと考えられます。
 でもそれは、長い時代の中で築き上げられた習慣であり文化です。その習慣や文化に囚われてしまっていたのです。さらに言いますと、「今までこのようにしてきたのだから、このようにするのが当たり前だ」という考え方です。そのような捉え方になった原因は、習慣や文化を絶対的なもののように見ていたからです。その視点で聖書を読みますとどうなるでしょうか。「聖書にも断食していることが幾つも書かれていますよ」となってしまいます。そして、断食するのが聖書的であるかのように捉えてしまいます。そのような捉え方は、キリスト教会の中にも起こり得ることです。例えば、「教職者は男性のみなのか」ということです。数年前に、私たちの団体の中でも議論されました。「男性のみ」という立場の先生もおられれば、「男性に限らず女性も就ける」という立場の先生もおられました。「Ⅰコリント11:3のみことばをどのように理解するのか」を焦点として話し合われました。その中で、この箇所だけに限らず聖書全体ではどのように語られているのかを見るとき、「聖書は男女の差別を設けていない」という結論に達し、また団体の規約においても男性に限定していないことから、女性教職者を認めることとなりました。
 私たちの生活は習慣や文化と深く関わっています。ともすると、その習慣や文化を絶対的なもののように見て捉えてしまいやすくなります。ですが、習慣や文化は絶対的なものではありません。私たちにとって絶対的なのはみことばです。でもそれは、「習慣や文化を無視しても良い」というものでもありません。パウロは「わざわざ割礼を受ける必要はない」と語っていますが、テモテには割礼を受けさせたことが聖書に書かれています。それはその地方にいるユダヤ人のためにです。習慣や文化と聖書のみことばをバランスよく捉える必要があることを教えられます。

2)新しい時代の到来
 イエス・キリストへの質問に対して、イエス・キリストは19~20節で「     」と答えられました。「花婿」と言われていますから、これは結婚式のことを表しています。結婚は喜びのときであり、新しい門出のときでもあります。「これは何を表しているのか」と言いますと、新しい時代が来たことを表しています。そして、この「花婿」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストがこの世に来られ働きを始められた。これは人にとって喜びのときです。何故なら、旧約聖書の預言が成就したからです。入会クラスでは必ず触れていますし、昔学び会では全員が同じ理解をしていただくために、入会クラスの学びをしました。そのときにも触れましたが、旧約聖書に何が書かれているのかを一言で言いますと、「救い主を送るという約束」が書かれているのが旧約聖書です。ですから、イエス・キリストがこの世に来られたときのイスラエルの人々は、その旧約聖書の約束を信じて救い主の到来を待ち望んでいたのです。そして、「その救い主がイエス・キリストである」というのが新約聖書です。これは基本の基本です。
 ただ、19節だけを読んみますと、イエス・キリストは断食を否定されているようにも思えます。しかし、20節を読んで分かりますように、イエス・キリストは断食を否定されてはいません。ただ、「今は断食をする時ではない」と言われているのです。何故なら、旧約聖書が約束していた救い主が来られたからです。すなわち、旧約聖書の約束が成就したからです。それは悲しみや苦しみの時ではなく喜びの時だからです。「旧約聖書の約束が成就した」という新しい時代に入ったからです。
 では、新しい時代とはどのようなものでしょうか。今までは、「神は正しいことを行う人を受け入れ共にいてくださる」と考えていました。そして、その「正しいことを行う」とは、「神が与えられた律法を守り行うこと」と理解していました。ですから、ユダヤ教指導者らは律法を守り行うことに熱心だったのです。しかし、イエス・キリストが来られた新しい時代は、そのようなものではありませんでした。たとえ律法を守り行うことができなかったとしても、自分の罪を認めて悔い改め神に赦しを願う人であるなら、神はその人の罪を赦し共にいてくださるというのが新しい時代なのです。事実、イエス・キリストは取税人や罪人と共に食事をされ、一緒に居て交わりを持たれていました。イエス・キリストは、彼らを受け入れておられたのです。
 神の目から見れば、誰も神の律法を守り行うことができない罪人なのです。その中には、当然イエス・キリストを信じた者も含まれています。しかし、神はそのような人の罪を赦してくださり、いつも共にいてくださいます。私たちがどのような場所に居ようとも、どのような境遇の中に置かれようとも、共にいて守り導いてくださっているのです。私たちが信じている「主」という神はそのようなお方なのです。確かに、自分の弱さに嘆いてしまうことがあります。ですが、神はそのような弱さを責める方ではなく、むしろ慰め励まして力づけてくださるお方なのです。私たちは、そのような時代の中に生かされていることを強く覚えることが大切です。

3)新しい時代の生き方
 では、その新しい時代に生かされている私たちは、どのような歩み・生き方をすれば良いでしょうか。イエス・キリストは21~22節で「     」と話されました。ここに新しい時代の歩み方・生き方が語られています。21節で話されています「真新しい布切れ」ですが、真新しい布切れは水に濡れますと縮んでしまいます。私は結婚してから洗濯をしなくなりましたので今はどうか知りませんが、昔は新しいズボンや服を洗濯したら縮んでしまったということがありました。ですから、新しい布切れを古い衣に継ぎ当てたら、新しい布切れは縮んでしまい服そのものが破れてしまうということです。また、新しい皮袋は伸びたり縮むという伸縮性を持っています。ところが、古い皮袋はその伸縮性を失っています。その古い皮袋に新しいぶどう酒を入れますとどうなるかと言いますと、新しいぶどう酒は十分に発酵していませんから、古い皮袋に入れますとまだまだ発酵します。でも、古い皮袋は伸縮性を失っていますから破れてしまいます。ここでイエス・キリストが話されているのは、「新しいものは新しいものに入れなさい」ということです。
 「これは何を意味しているのか」と言いますと、イエス・キリストが来られたことによって新しい時代が始まったのだから、古い時代の生き方をすることへの警告です。それは「今までは神が与えられた律法を守り行わなければならない」という考え方・生き方をしていましたが、イエス・キリストが来られたことによってその必要がなくなったということです。「こうでなければ」という考え方・生き方から、「このような者であっても」という考え方・生き方に変えられたということです。すなわち、頑張る生き方から感謝する生き方に変えられたということです。すなわち、古い考え方・生き方を捨てることをイエス・キリストは話されているのです。それなのに、古い考え方・生き方をするなら、イエス・キリストが来られたことを台無しにしてしまいます。
 このことは、イエス・キリストを信じている私たちにも当てはまることです。Ⅱコリント5:17に「     」と書かれています。イエス・キリストを信じることによって、全てが新しくなったのです。「全てが新しくなった」ということは、「古い考え方・生き方が捨て去られた」ということです。それなのに、イエス・キリストを信じる前の考え方・生き方に拘ってしまうなら、イエス・キリストの十字架による死と復活は意味のないものとなってしまいます。私たちの考え方・生き方は、イエス・キリストによって新しくされているのです。そのことを自分の心に自問自答するとき、どのようなことを知らされるでしょうか。古い考え方・生き方を捨て切れていない自分を見出だしてしまうのではないでしょうか。私たちは、そのような弱さを持っています。以前にも話しましたが、新約聖書の殆どはイエス・キリストを信じている人や教会に宛てて書かれた手紙です。そして、マルコの福音書もそうです。すなわち、古い考え方・生き方をする必要がないことを伝えているのです。「それは何を意味しているのか」と言いますと、古い考え方・生き方をしていたということです。昔のキリスト者も今のキリスト者も同じです。ですが、そのようなキリスト者を神は見捨てられません。そのような者と共にいて、共に歩んでくださるお方なのです。まさしく感謝する生き方に変えられているのです。

結)
 私たちは、イエス・キリストによって新しい時代に生きる者へと変えられています。そして、その新しい考え方・生き方を求められてもいます。それは「このような私と共に歩んでくださる」という考え方・生き方です。先週、「共に歩める幸い」というタイトルで話しました。その共に歩める幸いに感謝し生きることが、「新しい時代に生きる」ということです。神と共に歩める幸いに感謝しつつ、この新しい時代を共に歩み続けていきましょう。

マルコ2:13~17「共に歩める幸い」 24.04.21.

序)
 先週は、私たちの歩みは困難に遭遇して回り道をすることがありますが、その回り道を神は用いてくださる方であることを見つつ、怯(ひる)むことなく最善を尽くしていくことの大切さを学びました。先週の箇所は、中風の人と4人の友人がイエス・キリストがおられる家に行ったときの出来事が書かれていました。今朝の箇所は、「レビ」という人の所にイエス・キリストが来られたときの出来事が書かれています。この「レビ」という人については以前にも触れました。イエス・キリストの弟子であるマタイのことです。マタイはイエス・キリストと出会うことによって変えられた人です。今朝はこのマタイを通して、マタイと私たちは何を変えられ何を得たのかを共に教えられたいと願っています。

1)信頼するものが変えられた人
 第1に、マタイは信頼するものが変えられた人です。13節に「イエスは…出て行かれた」と書かれています。これは先週の箇所と続いていることを意識させています。先週の中風の人が癒された場所は、カペナウムという町での出来事です。カペナウムとはどの辺りかと言いますと、聖書の後ろの地図11を見ますと、ガリラヤ湖の北に位置することが分かります。カペナウムはガリラヤ湖に面した町です。ですから、「湖のほとりに出て行かれた」というのは、カペナウムの町での出来事であることを伝えているのです。すると、イエス・キリストは収税所に座っているマタイを見られ、「わたしについて来なさい」と言われました。すると、彼は立ち上がってイエス・キリストに従ったことが書かれています。
 14節に「座っているのを見て」と書かれています。この「見て」と訳されていることばは、以前にも触れましたが、1:16と19節の「ご覧になった」ということばと同じことばです。すなわち、「よく観察された」という意味を含んだことばです。ここにも、ご自分の弟子とする人をよく観察されているイエス・キリストの姿を見ることができます。決して、手あたり次第に弟子とされたのではありません。そのことを思いますと、私たちがイエス・キリストを信じる者として選ばれたのも、決して手当たり次第ではなく、一人ひとりをよく観察されて選んでくださったことに気づかされます。以前のときにも触れましたが、改めて神の選びに感謝したいものです。
 この「レビ」と書かれているマタイの仕事は何でしょうか。「収税所に座っている」と書かれていることから、彼の仕事は取税人であったことが分かります。当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は国を維持するために税金を取り立てていました。取税人という仕事は、その税金を取り立てる仕事をしている人のことです。そこには当然「手数料」というものがあります。その手数料が彼らの収入になっていました。ただ、その手数料が定められていたものよりも高かったのです。そのため取税人は贅沢な生活をして過ごしていましたが、人々からは嫌われてもいました。「当然」と言えば当然です。不当な方法で贅沢な生活をしているのですから。そのことについて訴えても、ローマ帝国は一切関わることはしませんでした。彼らにとっては、きちんと収入が入ればそれで良かったからです。小さなことに関わる面倒なことはしたくなかったのです。
 そのような人から嫌われる職業である取税人に、「何故なろうと思ったのか」という疑問も生じます。この「取税人」ということばから、思い出すのは「ザアカイ」という人ではないでしょうか。彼は「背が低い人であった」と紹介されています。わざわざ「背が低い」と紹介されるというのは、「少し位の低さではなかった」ということです。目立つような低さであったということです。そのようなことから、「ザアカイという人は小さい時からいじめられていたのではないか」と想像します。そのため「見返したい」という思いが強く、見返すための最短方法は金持ちになることであり、それには「取税人が一番早い」と思って、取税人の仕事に就いたのかもしれません。今朝の箇所に登場する「レビ」と書かれているマタイもそうだったのではないかとも想像できます。すなわち、彼が一番信頼していたものはお金だったのです。しかし、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストから声をかけられたことによって、一番信頼するものが金ではなくイエス・キリストに変えられたのです。このことはザアカイも同じです。ザアカイもイエス・キリストから声をかけられたのです。人から嫌われて避けられているような自分に、わざわざ声をかけてくださるイエス・キリスト。そのイエス・キリストとの出会いによって、ザアカイもマタイも信頼するものが変えられたのです。マタイは信頼するものが変えられた人でした。

2)用い方が変えられた人
 第2に、マタイは用い方が変えられた人です。イエス・キリストと出会うまでのマタイは、お金を一番信頼していました。ですが、イエス・キリストとであった後のマタイは、イエス・キリストが一番信頼するものに変えられました。すると、彼はイエス・キリストを自分の家に招いて、自分と同じような境遇にある人たちを招いて、イエス・キリストと一緒に食事会を始めたのです。今までの彼はお金に執着していましたから、無駄なものにお金を用いようとはしなかったことでしょう。お金を増やすためなら用いたことでしょうが、お金を減らすようなものには用いなかったと考えられます。ですが、マタイは大勢の人を自分の家に招いて食事会をしたのです。でも、その食事会はお金が増えるようなものではありません。今までのマタイからすれば「無駄なもの」だったのです。でも、マタイは「無駄なもの」とは思わず自分の財産を使ったのです。
 人は一番信頼しているものや心を満たしてくれるものにお金を用います。そうでないものには、それほどお金を用いることはしないのではないでしょうか。例えば、釣りが趣味な人は釣りのためにはお金を用いることに何の差支えもありません。何故なら、釣りをすることによって心が満たされるからです。ゴルフが趣味な人はゴルフにお金を用いることでしょう。それは人によって異なります。バイクが好きな人はバイクにお金をかけるでしょうし、筋トレが好きな人は筋トレにお金をかけることでしょう。人は自分の心を満たしてくれるものにお金を用います。
 マタイもそうだったのです。彼は自分の財産の用い方が変えられたのです。イエス・キリストのためにお金を用いることが最優先に変えられたのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストこそが一番信頼できる方であることを知り、自分の心を満たしてくださる方であることを知ったからです。その後、マタイは取税人という仕事を辞めてイエス・キリストの弟子となりました。彼の収入は今までとは全く違います。今までは贅沢な生活をしていましたが、これからは贅沢な生活などできなくなります。でも、マタイは「それで良い」と判断したのです。そこには、強いイエス・キリストへの信頼があったからです。信頼するものの順位が変わりますと、与えられているものの用い方も変えられます。マタイは、その用い方が変えられた人です。

3)安心感を得た人
 第3に、マタイは安心感を得た人です。イエス・キリストが大勢の罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見たパリサイ人派の律法学者たちは、「なぜ、…食事をするのですか」とイエス・キリストの弟子たちに尋ねたことが書かれています。この「一緒に食事をする」とは、交わりをすることを表しています。それは何の差別もなく同じ立場になることを表しています。すなわち、イエス・キリストは罪人や取税人たちと同じ立場に立たれたということであり、受け入れられたことを表しています。
 その彼らの質問に対して、イエス・キリストは17節で「     」と答えられました。このイエス・キリストのことばを皆さんはどのように理解されておられるでしょうか。「全ての人は罪人だから、イエス様は全ての人を招き受け入れるためにこの世に来られた」と理解されているでしょうか。確かに、その理解は間違ってはいません。ここでイエス・キリストは「医者を必要とするのは病人です」と話されているのです。それは「自分が病人である」という自覚がある人です。その自覚がない人や病気を認めない人は医者の所には行きません。イエス・キリストが「罪人を招くため」と話されているのは、「自分は罪人である」と自覚している人のことです。「自分が罪人である」と認めていない人までも招いてはおられないのです。このところをきちんと理解する必要が私たちにはあります。
 少し難しい話になりますが、私たちの団体の神学はカルヴィニズムのバプテストです。カルヴィニズムの贖罪論は、「イエス・キリストは全ての人のために十字架に架かり死なれたのではない」という立場です。そのようなことを聞かれたら「えっ」と思われる方々もおられるかもしれません。でもそうなのです。すると、「イエス・キリストは誰のために十字架に架かられたのか」と思われるかもしれません。それは、イエス・キリストを信じる全ての人のためです。イエス・キリストを信じない人のためにも、「イエス・キリストは十字架に架かって死なれたのではない」というのが私たちの団体の立場です。そして、私たち一人ひとりはイエス・キリストを信じる者として神によって選ばれた者なのです。ですから、神の選びに感謝することを何度も語っているのです。
 イエス・キリストは、自分の弱さや罪深さを自覚している人を見捨てる方ではありません。招き受け入れてくださる方です。そして、そのような人と共に歩んでくださる方です。以前飼っていました犬の五右衛門は、私が出かけるところ何処にでも着いていきたい犬でした。そのため、私が出かけるのを察知しますと、私の後を着いて来ました。一緒に連れて行けない所は置いていくのですが、一緒に連れて行けるところは一緒に出かけていました。今のゴエルもそうなのです。ただ、朝私が教会に行こうとしても、私の座椅子に居るだけです。これは「連れて行ってもらえる」という安心感なのかどうかは分かりませんが、私の方に来ようとはしません。「こっちにおいで」と言っても来ないのです。そのため、時々置いていくことがあります。イエス・キリストは「こっちにおいで、そうしたら一緒に歩むよ」と言われる方ではありません。自分の弱さや罪深さを自覚している人の方に寄られて、「一緒に歩みましょう」と言って招いてくださる方です。マタイは、そのイエス・キリストを知ったのです。
 今までもマタイは、自分の弱さや罪深さを自覚していました。でも、今の仕事を手放すことができませんでした。今までのマタイは、「今のものを捨てて神の方に行けば神は受け入れてくださる」と思っていたのです。でも、そのときのマタイには安心感はありません。ですが、自分から神の方に行くのではなく、神の方から自分の方に来て招き共に歩んでくださるイエス・キリストを知ったとき、マタイは安心感を得たのです。それは私たち一人ひとりにも同じです。私たちの方にイエス・キリストは寄られて、共に歩んでくださる方です。

結)
 マタイはイエス・キリストと出会うことによって、頼るべきものが変えられ、自分にあるものの用い方も変えられました。そして、何よりも心の安心・平安を得ることができました。イエス・キリストは、まさしく人の生き方を変えてくださるお方です。その変えられるものと得るものは、マタイだけでなくイエス・キリストを信じる全ての人も同じです。そのイエス・キリストと共に歩める幸いに感謝したいものです

マルコ2:1~12「キリスト者の歩み」 24.04.14.

序)
 新年度に入り2週間が経ちました。人によっては目標を立てられる方もおられます。ですが、その目標に達するまでは大変です。壁にぶつかることもあります。今朝の箇所は、その壁にぶち当たった人たちが描かれている箇所です。この箇所は、比較的有名な箇所の一つです。今朝の箇所は、一人の中風の人が4人の友人に担がれて、イエス・キリストがおられる家に運ばれてきた場面です。今朝は、ここに書かれています出来事を通して、キリスト者の歩みとはどのようなものであるかを共に教えられたいと願っています。

1) 彼らの信仰
 まず、5節に「イエスは…信仰を見て」と書かれています。この「彼らの信仰」とは、どのようなものでしょうか。彼らは中風の人をイエス・キリストがおられる家にまで運んできました。しかし、大勢の人が集まっていたため、家の中に入ることができませんでした。もし私たちならどうするでしょうか。考えてみたいのです。順番が来るまで待つでしょうか。それとも、諦めて引き戻るでしょうか。私だったらどうするかを考えますと、順番が来るまで待っているのではないかと思わされます。何故なら、折角ここまできたのだから、ここで引き返したら来た意味がなくなってしまうからです。ですが、この友人たちはそうではなく、他人の家の屋根を壊して中風の人を屋根から降ろしたのです。とんでもないことをしたのです。しかし、5節には「     」と書かれています。イエス・キリストは彼らの行為を叱られたのではなく、受け入れられたような言い方をされています。さらに、「あなたの罪は赦された」と宣言され、彼らの行為を褒めておられるようにも受け取れることばです。
 イエス・キリストが彼らの行為を受け入れられたのは、他人の家の屋根を壊してまでも中風の人を降ろしたことではありません。諦めることをしないで、今の自分たちにできることを精一杯した行為を受け入れられたのです。このことを間違ってはいけません。聖書は「自分の願いを叶えるためには非常識なことをしても構わない」と語っているのではないのです。これと似た考え方をしているのが、旧統一協会(今の家庭平和連合)です。彼らは「神の栄光が現されるなら、詐欺まがいなことをしても構わない」という考え方をしています。昔は霊感商法がそうでしたが、今ではマインドコントロール的な方法をもって信者に献金を強要しています。でもこれは、キリスト教会にも起こり得るものでもあります。私たちは、それらのことを正しく聖書から見ていく必要があることを知らされます。
 また、5節には「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』」と書かれています。皆さんはこれを読まれてどのように思われたでしょうか。私は信仰を持ってから読んだとき、不思議に思ったことがあります。それは「あなたの病は癒された」というのなら分かりますが、「あなたの罪は赦された」と告げられたのです。「何故、これが罪の赦しに繋がるのか」が不思議に思ったのです。皆さんは、そのような疑問を抱かれたことはなかったでしょうか。今朝の箇所は、教会学校の教案にも度々出てくる箇所でもあります。準備をされる中で、そのような疑問を抱かれたことはなかったでしょうか。今朝の箇所に限らず、聖書を読んで疑問を抱いたなら調べていただきたいのです。今はネット時代ですから、ネットで調べることができます。ネット時代前は、註解書などは高いですから持たれている人は少ないので牧師に聞く時代でした。でも、今はネット時代ですから自分でネットを通して調べることができます。先程「ネット時代」と言いましたが、「ネット時代」というよりも「スマホ時代」です。電車の中でも調べることができる時代です。すぐに牧師に聞く時代ではなく、まず自分で調べて分からなかったら牧師に聞く時代であることを覚えていただきたいです。
 話しが反れてしまいましたが、この彼らの行為が何故罪の赦しに繋がるのでしょうか。とても不思議に思えます。ここでイエス・キリストが「あなたの罪は赦された」と宣言された理由が、この後に描かれています。このイエス・キリストの宣言を聞いた律法学者らは心の中で、「神以外に誰が人の罪を赦すことができるのか」と思っていたことが7節に書かれています。すなわち、それは「神以外に人の罪を赦す権威を持っている方はいない」ということです。その考え方は間違ってはいません。人の罪を赦す権威を持っているのは神お一人です。そのことを踏まえてイエス・キリストは「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。これは、「私は罪を赦す権威を持っている存在である」という告白です。すなわち、イエス・キリストはご自分が神そのものであることを示されたのです。この準備をしている中で、昔短期宣教師から話されたことを思い出しました。それは、短期宣教師が一人の未信者の方と聖書の学びをしていたとき、その未信者の方から「聖書はイエス・キリストが神であることを示しているけれども、イエス・キリスト自身が自分を神であると告白していないのは何故か」と聞かれたというものです。それについて、私は「イエス・キリストは神であられることを告白している」と答えました。その一つは今朝の箇所です。また、「わたしと父とは一つです」という告白もそうです。イエス・キリストは、ご自分が神であることを明らかにされているのです。今朝の箇所でイエス・キリストが「あなたの罪は赦された」という宣言は、ご自分が神そのものであることを明らかにされるためなのです。
 では、彼らの行為の何をイエス・キリストは受け入れられたのでしょうか。それは諦めることをしなかったことです。彼らは群衆のためにイエス・キリストに近づくことができませんでした。この問題に彼らは直面したのです。「近づくことができない」というのは困難ではありますが、「不可能ではない」ということです。不可能と困難は全く違います。不可能は絶対にできないことですが、困難は難しいけれども乗り越えられないものではないということです。「できる可能性がある」ということです。
 民数記13:21からは、モーセがイスラエルの民の各部族から1名ずつ選んで、カナンの地を偵察するために遣わしました。そして、彼らは戻ってきてどのような報告をしたでしょうか。10名の人たちは「彼らに打ち勝つことはできない。私たちには無理だ」と言いました。そして、イスラエルの民は諦めてしまったのです。そのために神の祝福を受けることができなかったのです。そのため、イスラエルの民は40年間荒野をさまよい続けることになったのです。現実を見据えるのは大切なことです。でも、現実だけを見据えるのも間違いです。現実と信仰の両方をもって見据えることの大切さを民数記の箇所から私たちは教えられます。
 今朝の箇所もそうです。もし、彼らが諦めて帰ったら中風の人の癒しはなかったのです。彼らは「戸口からがダメなら屋根からがあるではないか」と思い実行したのです。先程も話しましたが、これは非常識な行動です。聖書は非常識な行動を勧めているのではありません。ただイエス・キリストは、「イエス・キリストなら必ず癒してくださる」という信仰をもって、困難に対して諦めることをしないで行動した彼らを受け入れられたのです。この24年度も私たちは様々な困難に直面することと思います。ですが、困難と不可能は全く違います。困難を乗り越える力を増し加えられるように祈っていきたいものです。

2)イエスの宣言
 イエス・キリストは、この中風の人に対して「子よ」と呼びかけられました。「子よ」ということばは、別になくても文脈的にはおかしくはありません。中風の人に「あなたの罪は赦された」でも良いのです。ですが、イエス・キリストは彼に「子よ」と呼びかけられたのです。それは何を意味しているのかと言いますと、家族の一員として迎え入れられたことを表しているのです。イエス・キリストは、信じ受け入れる人を「子よ」と読んでくださり、家族の一員として迎えてくださるお方なのです。これは中風の人だけでなく、私たちに対しても「子よ」と呼んでくださるお方なのです。
 それだけでなく、11節で「     」と言われました。この中風の人はどうしたでしょうか。12節に「すると…皆の前を出て行った」と書かれています。彼はイエス・キリストの求めに従ったのです。彼が立つには、イエス・キリストのことばへの強い信頼がなければできないものです。何故イエス・キリストは、彼に立ち上がることを求められたのでしょうか。それは彼の決断と行動を求められたからです。どれだけ心の中で信じていても、行動が伴わないなら信じていないのと同じです。心から信じているから行動することができるのです。おそらく、この中風の人は何人かの医者に診てもらったことでしょう。ですが治ることはありませんでした。「こんなことばだけで治るはずがない」と思っても仕方のないことです。でも、彼は信じて行動を起こしたのです。すると、そのときに奇蹟が起きたのです。
 この出来事を思うとき、ナアマン将軍の話しを思い出されるのではないでしょうか。彼は多くの人から尊敬されていたアラムの国の将軍でした。しかし、ツァラアトに冒されていた人でもありました。彼はイスラエルに居る預言者エリシャなら癒すことができると聞き、エリシャの家にまで行きました。すると、出てきたのはエリシャではなくエリシャに仕える若者でした。その若者は「ヨルダン川に身体を7回つけなさい」とエリシャのことばを伝えました。すると、ナアマンは怒って帰って行ったのです。彼は「そんなことで治るはずがない」と思ったのです。その帰る途中で部下からたしなめられ、ナアマンはヨルダン川で身体を7回つけました。すると、彼のツァラアトは癒されたのです。ナアマン将軍はエリシャのことばを信じてヨルダン川に身体を7回つけたのではありません。半信半疑で身体を7回つけたのです。でも、癒されたのです。このナアマン将軍が怒って帰る様子は、自分自身と重なって見えます。問題に直面したとき、神が最善を尽くしてしてくださることを知りつつも、「でもね」と言ってしまいやすい自分を見出だします。そのような私たちに、「子よ」と言って受け入れてくださるイエス・キリスト。そのイエス・キリストが「起きなさい。家に帰りなさい」という行動をも求めておられます。そのイエス・キリストの求めに対して、「私はどのように答えるのか」が問われているのではないでしょうか。

3)主の栄光
 この中風が癒された人は、皆の前から出て行きました。すると、皆は驚いて神をあがめたことが12節に書かれています。この中風の人は、イエス・キリストのために何かをしたわけではありません。先週見ましたツァラアトが癒された人は、この出来事を言い広め始めました。これは、ある面では「イエス・キリストの手伝い」ということもできます。しかし、今朝の箇所の中風が癒された人は、イエス・キリストのために何かをしたのではありません。ただ、イエス・キリストのことばに従っただけなのです。でも、神の栄光を現すことができたのです。ともすると、私たちは「神のために何かをすることによって、神の栄光を現すことができる」と思いやすくなります。例えば、「伝道や奉仕をすることによって神の栄光を現すことができる」と。でも、その逆は何でしょうか。それは「伝道や奉仕をしなければ神の栄光を現すことはできない」というものです。今朝の箇所の出来事は、そのような考え方を否定するものです。伝道や奉仕をすることによって神の栄光が現されるのではありません。神のみことばを信じ従うことによって神の栄光が現されるのです。そのことを誤解されている方は多いです。
 この神のすばらしさが現わされる方法は、今の時代においても同じです。何故なら、神は決して変わることのないお方だからです。ですから、「伝道や奉仕ができない」と言って嘆く必要はありません。各々が生かされている場所で、神のみことばを信じ従うなら、その所で神は用いてくださり、ご自身のご栄光を現してくださいます。私たちが信じている「主」というお方は、そのような神なのです。民数記4章には、レビ人の奉仕について書かれています。ここには30歳~50歳までの人は仕事をすることができることが書かれています。そして、8:25~26には「     」と書かれています。50歳は、まだまだ働き盛りです。これは何の根拠もない私の単なる思い込みですが、現代の50歳と昔の50歳の人と比べると、今の50歳の人の方が若く見えるように思います。しかし、「体力的には昔の人の方があったのではないか」と思っています。確かに平均寿命は比べられないほど高くなっています。でもそれは、医療技術が進んでいるからです。ですから、この時代の50歳も働き盛りであったと思います。しかし、神は退くことを命じられているのです。その理由の一つは後継者を育てるためです。体力的に直接な奉仕はできなくなったとしても、「祈って支える」という奉仕はすることができます。直接的な奉仕ができなくなったとしても、祈りや助言を通して神のすばらしさを現すことはできるのです。
 この中風の人もそうです。イエス・キリストのために何かをしたのではありません。ただ、イエス・キリストのことばに従っただけなのです。それだけで、神のすばらしさを現すことができたのです。神のすばらしさが現わされる。それは人が何かをすることによってではありません。ただ、神のことばに従うことによってであることを改めて教えられます。神のことばに従う信仰が養われるように祈っていきたいものです。

結)
 私たちの歩みは、年齢を重ねても神の栄光を現すことのできる歩みです。時には困難に遭遇して、回り道をしなければならないかもしれません。でも、神はその回り道を用いてくださる方です。私たちの歩みにおいて大切なのは、神への信頼と行動です。

マルコ1:40~45「福音の広がり」 24.04.07.

序)
 先主日はイエス・キリストが死から甦られたイースターの日であり、私たちの教会の開拓30周年の日でもありました。これまでの神の守りと導きに感謝したときでもありました。先々週のときにも話しましたが、イエス・キリストは悪霊の告白を用いることを許されず、イエス・キリストを信じる一人ひとりを用いられる方であることを学びました。今朝の箇所は、一人のツァラアトに冒された人が癒されたことを通して、福音が広がっていったことが記されている箇所です。今朝は、イエス・キリストがどのような方であり、どのようにして福音が広がっていったのかを共に教えられたいと願っています。

1)憐れみ深い方
 まず、イエス・キリストは憐れんでくださる方です。ツァラアトに冒された人と出会われたイエス・キリストは、「深くあわれみ」と41節に書かれています。憐れみとは何でしょうか。調べてみますと、一般的には「深く同情すること」と書かれています。「憐れむ」「同情する」と聞きますと、何か上から目線のようにも聞こえます。そのため、憐れまれたり同情されたりするのを嫌われる方もおられます。昔、「同情するなら金をくれ」というセリフが流行りました。聖書が語る「あわれみ」とは、深く同情することではありません。では、聖書の語る「あわれみ」とはどのようなものなのでしょうか。
 マタイ5:7に、「あわれみ深い者は幸いです」とイエス・キリストは話されました。その前の6節では「義に飢え乾く者は幸いです」と話されました。「義に飢え乾く」とは、どのような状態を表しているでしょうか。義に飢え乾いているのです。それは、義を行おうとしても行えずもがいている状態を思い浮かべないでしょうか。「これが正しい」と分かっているのに、それができないでもがいているのです。私たちの日々の生活の中にもあるのではないでしょうか。「こんなことをするのは間違いだ」と分かっていてもしてしまうということがあるのではないでしょうか。聖書が勧めていることは分かっているけれども、でもそれとは違うことをしてしまうということがです。そして、できない自分を責めてしまったり、「ダメな者」というレッテルを貼ってしまったりすることがあるのではないでしょうか。ですが、神はそのような私たちを憐れんでくださったのです。すなわち、神の憐れみ・聖書が語る憐れみとは、赦しが伴っているのです。そして、何度も話していますが赦すとは受け入れることです。「その人を憐れむ」というのは、その人を受け入れるということです。
 私たちは「神が憐れんでくださった」ということばをよく用います。それは「神が赦してくださった」とか「神が受け入れてくださった」ということを表しています。ツァラアトに冒された人は、人々からは受け入れてもらえませんでした。このツァラアトについてはレビ記13章に書かれています。ツァアトに冒された人は「汚れている」と宣言され、45節に「汚れている、汚れている」と叫ぶことが定められ、46節には宿営の外に一人で住むことが定められています。「宿営の外」とは、仲間外れにされることを意味し、受け入れられないことを表しています。しかし、イエス・キリストはそのツァラアトに冒された人を憐れんで、手を伸ばして彼に触られたのです。この行為は、この人を受け入れられたことを表しています。すなわち、聖書の語る「あわれむ」とは、その人を受け入れることでもあります。ですから、単なる同情ではありません。イエス・キリストが私たちを憐れんでくださったということは、私たちを赦し受け入れてくださったということです。私たちは、そのイエス・キリストの赦しの中に生かされているのです。

2)聖める方
 次に、イエス・キリストは聖めてくださる方です。イエス・キリストは、ツァラアトに冒された人に「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。すると、この人からツァラアトが消えて「きよくなった」と42節に書かれています。そのあと、イエス・キリストは聖められた人に「厳しく戒めて」と書かれています。何を厳しく戒められたのでしょうか。44節に書かれていますように、誰にも話さないことを厳しく戒められたのです。何故なら、それによって周りが大騒ぎになり、イエス・キリストの活動に支障が出てしまうからです。ただ、祭司の見せることを告げられました。それは、もう自分は汚れた者ではなく聖められた者とされたからです。汚れたままの人と聖められた人には大きな違いがあります。何が違うのかと言いますと、心からの喜びと感謝があるかないかの違いです。喜びと感謝のある人とない人とでは、生き方が全く違ってきます。このツァラアトに冒されていた人は、今までは人を避ける生き方をしていました。心の中には「人と交わり合いたい」という思いがあったのですが、それができなかったのです。何故なら、周りの人たちは自分を避けようとするからです。しかし、祭司によって「きよい」と宣言されることによって、そのような生き方から解き放たれるのです。今まで自分を縛っていたものから解き放たれる。これはその人にとって大きな喜びであり感謝なことです。イエス・キリストは、人をそのような生き方へと変えてくださる方です。
 漢字の中に「忌」というのがあります。これは「嫌う」というのを意味することばです。「忌避」という漢字を目にすることがあります。これは「嫌って避ける」という意味です。この漢字は亡くなられた家の玄関に貼られていることが多いです。何故、貼られているのかと言いますと不吉で縁起が悪いからです。「何故不吉で縁起が悪いのか」と言いますと、近づくことによって汚れるからです。そのため、日本では葬儀から帰りますと家に入る前に塩を身体に振りかけるという風習があります。それは「塩には聖めの役割を持っているから」と信じられているからです。すなわち、この「忌」という漢字は汚れを表す漢字でもあります。この「忌」という漢字は「己の心」と書きます。「何が汚れているのか」と言いますと、「己の心が汚れている」ということになります。すなわち、「自分の心が汚れている」ということです。
 私たち一人ひとり、「己の心はどうなのか」を思い巡らす必要があることを教えられます。そして思い巡らすとき、「聖い心など全くない」ということに気づかされます。「聖い心など全くない」というよりも、自分の身を守るために様々な口実をつけてしまう自分を見出だしてしまいます。イエス・キリストは、マルコ7:20~23で「     」と話されました。「人を汚すものは人の心の中から出てくる」と話されています。パウロ自身もそのような自分を見出だし、そのような自分を「私は本当にみじめな人間です」とローマ7:24で嘆いています。ですが、その後の25節で「私たちの…神に感謝します」と告白しています。何故なら、そのような自分を見捨てることをされず、そのような自分を聖めてくださっているからです。パウロもこの戦いの連続なのです。自分を知れば知るほど、決して誇れる者ではないことを知らされているのです。ですが、イエス・キリストはそのような人をも聖めることのできるお方なのです。

3)用いてくださる方
 最後に、イエス・キリストは用いてくださる方です。イエス・キリストは、このツァラアトが癒された人に「だれにも何も話さないように気をつけなさい」と言われました。しかし45節を見ますと、この癒された男性は出て行ってふれ回ったのです。そのため、イエス・キリストは表立って町に入ることができなくなり、町の外の寂しいところにおられるはめになったのです。結果として、この男性の行為はイエス・キリストの働きを邪魔することになったのです。ですから、この男性の行為は勧められるものではありません。何故なら、イエス・キリストから言われたことを守っていないからです。でも、この男性がふれ回り言い広め始めたようになったのは、ツァラアトが癒されたことの喜びと感謝によるものです。そのため話さずにはおられなかったのでしょう。その彼の気持ちも分かります。
 何故なら、この男性はツァラアトに冒されていたのですが、イエス・キリストに出会うことによって癒されたからです。今まで光のない人生から、光のある人生へと変えられたのです。その喜びと感謝というのは、ことばに言い表せないほど大きなものです。その良い知らせを一人でも多くの人に伝えたかったのです。私たちは安くて良い店を知ったら、他の人にも紹介すると思います。彼にとってはそれ以上のものだったのです。先程も話しましたけれども、確かにこの男性の行為は勧められるものではありません。何故なら、イエス・キリストに話すことを止められていたからです。しかし、神はそれを用いられたのも事実です。45節の最後に「しかし…イエスのもとにやって来た」と書かれています。これは「何によってか」と言いますと、この男性がふれ回って言い広め始めたことによってです。何度も言いますが、この男性の行為は決して勧められるものではありません。しかし、イエス・キリストはそれをもプラスにされました。
 そうであるならば、前回の箇所でも触れましたが、イエス・キリストの証し人として立てられている私たちを、この男性以上に豊かに用いてくださることを知らされます。日々されています証しや毎月近所に配っておられる福音版などを神は用いてくださいます。当然、それらが用いられるのにも時があります。ですが、神が最善の時に用いてくださることを信じて、期待して証しや福音宣教に携わっていきたいと願わされます。「もっと多く配りたいけれども今の教会は財政的に厳しいから」という声を耳にします。今年度は福音版を予約していますから難しいですが、教会でパンフレットを作製したものを配布しても良いのかもしれません。イエス・キリストは、ルカ18:1~8で不正な裁判官の譬え話をされました。ここでイエス・キリストは、不正な裁判官であっても訴え続ける者には仕方ないから裁判を開くことを話されました。そして、7節で「まして神は」と、選ばれた者のために神は行ってくださることを話されました。ここは祈りについて話されている箇所ですが、神の用いられ方も同じです。イエス・キリストのことばに従わなかった男性をも用いられる方であるなら、イエス・キリストの証し人として立てられている私たち一人ひとりを豊かに用いてくださるということです。

結)
 イエス・キリストは憐れみ深い方であり、聖めることのできる方であり、用いてくださる方です。自分を知れば知るほど、心の汚れを知らされます。それが「ありのままの私たちの姿」です。しかし、ありのままの私たちの姿はそれだけではありません。同時に、イエス・キリストの深い憐れみを受け、聖められ用いられる者でもあるのです。この両方を見据えることが大切です。どちらか一つだけでは不十分なのです。福音の広がりの秘訣は、この両方をしっかりと見据えてイエス・キリストの証し人として歩むことです。罪深い自分を見つめつつ、その自分がイエス・キリストによって赦されていることに感謝しつつ、イエス・キリストの証し人として歩み続けられるように祈っていきましょう。

ローマ6:1~11「望みのある新しい歩み」 24.03.31.

序)
 今日は今年度最後の日であり、イエス・キリストが死から甦られたイースターです。また、私たちの教会が開拓を始めて30周年の日でもあります。30年前の4月3日に、最初の主日礼拝が熊野町の借家で始められました。今年度も様々なことがあったと思いますが、その一つひとつを神が導いてくださったことと、教会も様々なことを経験した30年の歩みですが、その一つひとつをも神が導いてくださったことに感謝したいものです。また何よりも、イエス・キリストが私たちのために死から甦ってくださったことにも感謝したいものです。そのイエス・キリストの復活は、死の先にも歩みがあることを示しています。「それはどのような歩みか」と言いますと、望みのある新しい歩みです。今朝は、その望みのある新しい歩みについて共に教えられたいと願っています。

1)罪
「人が死んで甦る」ということは、なかなか信じられないことです。作り話しのようにも思えます。ですが、イエス・キリストの復活は決して作り話しではありません。何故なら、復活されたイエス・キリストと出会った人々が実際におり、そして書き記しているからです。死後の甦りがあることを知っていたから、当時のキリスト者はどのような迫害に遭ったとしても信仰を捨てることがなかったのです。イエス・キリストの甦りは、信仰者に大きな力を与え新しい人生を歩ませてくださいます。その新しい人生を歩むにはどうすれば良いでしょうか。今朝の箇所には、繰り返し出てくることばがあります。第1は「罪」ということばです。第2は「死んだ」「葬られた」ということばです。そして第3は「甦り」「復活」ということばです。3つに分けましたのは、同じグループに入れられると思うからです。この3つが新しい歩みをするカギでもあります。
まず罪についてですが、聖書には「罪」ということばが多く出てきます。多くの人が思い浮かべられる「罪」とは、法律を破ることではないでしょうか。さらに言えば、法律を破って犯してしまったことの結果ではないでしょうか。そのため、多くの人は「私は罪など犯していない」と言われます。「少し位の悪さはしたけれども、警察に世話になるようなことはしていない」と言われたりします。日本に限らず多くの犯罪が世界中で生じています。何故、犯罪が生じるのでしょうか。社会が悪いからでしょうか。ある人は「社会が良くなれば犯罪はなくなる」と言い、「社会を良くしよう」と言われます。しかし、よく考えてみたいのですが、「社会を良くする」とはどういうことでしょうか。私たちが生かされています社会は誰が形成しているのでしょうか。それは私たち人間です。ですから、「社会を良くする」ということは、私たち人間を良くするということです。ところが、多くの人は「私は別に悪くない」と言われます。この「社会が悪い」というのは、「私以外の人間が悪い」という捉え方をされているのではないでしょうか。さらに言えば、「私以外の人間が良くなれば社会は良くなる」ということです。そこには、「別に私は変わらなくても良い」という捉え方があります。
それについて聖書は何と言っているでしょうか。マルコ7:20~23に「     」と書かれています。ここに「汚す」ということばが2回書かれています。これは悪のことであって、罪を犯すことを表しています。聖書は、「人の心から出てくるもの」と語っています。21節に書かれています「悪い考え」とは、自己中心的な考え方のことです。自分のことを何よりも優先する考え方のことです。他人への妬みや憎しみ、高慢なども罪です。それらのものが私たちの中にあるから、その罪が外に出てきて、結果である犯罪が生まれてしまうと聖書は語っているのです。聖書は、「罪は外側から人に入るものではなく、人の内側にあるものが外に出るもの」と言っているのです。そして、その聖書が語っています罪とは「的外れ」という意味です。それは、本来あるべき方向に向いて進まなければならないのに、別の方向に向いて進んでいる状態のことです。
例えば自分を愛する。これはとてもすばらしいことです。人が人として生きていくにおいて大切なことは自分を愛することです。そうではないでしょうか。自分を愛することのできない人生は、とても辛い人生ではないでしょうか。ところが、人は間違った愛し方をしてしまいます。自分を愛するが故に、他人を傷つけてしまいます。社会問題である「いじめ」にしてもそうではないでしょうか。自分の中にある「もやもやしたもの」をすっきりさせたいがために他人を傷つける。これは間違った自分の愛し方です。そこには「自分を優先する」という自己中心があります。その自己中心は誰もが持っているものです。そして、その自己中心が聖書の語る罪なのです。ですから、聖書は「全ての人は罪人である」と語っているのです。「社会を良くする」とは、自分の罪を認めて悔い改めることです。

2)死
その罪がもたらすものは何でしょうか。ローマ6:23に「     」と書かれています。罪がもたらすものは死です。日本では「死」ということばはあまり好まれません。何故なら縁起の悪いものだからです。そこには「人は死んだらお終いである」という考え方があります。死は人に「絶望」を想像させます。聖書は「全ての人は罪人である」と語っています。すなわち、「全ての人は絶望の中に生きている」と語っているのです。ですから、人が望みを抱いて新しく歩むには、その罪の問題が解決されない限りあり得ないのです。死は誰も避けることのできないものです。全ての人が必ず直面する問題です。聖書は「死は罪がもたらした結果である」と語っています。そして、「それは神の審きである」とも語っています。その死に対する解決は、神の審きから救われることであり、私たちの罪の問題が解決されることです。私たちの罪の問題が解決されない限り、死の問題も解決することはできません。聖書は、「神が人を造られた」と語っています。神は人を愛し、その必要を満たしてくださっています。ところが、人はその神に逆らって罪を犯してしまいました。その罪の故に死が世界に入ったのです。神は罪を犯した人間を愛さなくなったのではなく、なおも人を愛し続けてくださっています。神に逆らい裏切った人間を愛されているのです。決して、私たちは神に見捨てられてはいないのです。神は罪人である私たちを愛してくださっているのです。
その神の愛をどのようにして知ることができるのでしょうか。それが第2グループの「死んだ」「葬られた」というところにあります。人は自分の罪が招いた結果である死という絶望の中に生きています。しかし、神は人を愛していますから、その状況の中から救い出す方法をしてくださいました。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは十字架に架かって死なれました。以前にも話しましたが、この十字架刑というのは、人間が考え出した最も残酷な処刑方法です。両手に釘を打ち、両足を重ねて釘を打って十字架にかけます。そして、お尻の所には板が当たるようにしてあります。これは身体を休めるためのものではなく、血の流れを少しでも止めるためです。それによって、十字架上で苦しむ時間が少しでも長く続くようにするためです。そして、数日間かけて苦しみながら死んでいくという処刑方法が十字架刑です。教会に十字架があるのは、そのイエス・キリストの死を表しています。
では、何故教会は十字架を掲げているのでしょうか。この十字架は何を意味しているのでしょうか。また、何故イエス・キリストは十字架に架かって死ななければならなかったのでしょうか。それは私たちの罪の身代わりとなられたからです。イエス・キリストの十字架は神の審きです。本当なら罪人である私たちが神の審きを受けなければならなかったのですが、その神の審きを代わりにイエス・キリストが受けてくださったのがイエス・キリストの十字架です。神は「あなたへの罪の審きは、イエス・キリストが身代わりとなって受けてくださったから、もう大丈夫だよ」と言ってくださっているのです。神は「あなたの罪を赦す」と約束してくださったのです。ですから、人はその神の約束を信じるだけで良いのです。イエス・キリストの死と葬りは、私たちの罪の赦しを表しているのです。ですから、人の行いは必要ないのです。何故なら、人の行いによって自分の罪は解決できないからです。神の約束を信じるだけで良いのです。

3)甦り
罪と死の問題が解決されますと、人は新たな望みをもって歩むことができます。それが第3グループの「甦る」「復活する」「生きる」ということです。イエス・キリストを信じ、神を信じても肉体的身体は死を経験します。ですが、死んだ後に必ず甦ることができます。何故なら、この世界を造られ人を造られた神が約束してくださっているからです。そのしるしとして、イエス・キリストは十字架につけられ死なれた3日後に、死の中から甦ってくださったのです。それがイースターです。イエス・キリストは、死に対して打ち勝たれた方です。人が絶望的に思える死に勝利されたのです。私たちに新しい望みある歩みを与えてくださったのです。人は死んで終わりではありません。死んだ後も甦ることができ、新しい歩みが備えられているという望みが与えられているのです。イエス・キリストは、私たちが新しい望みのある歩みをすることができるために、十字架に架かって死なれた後に甦られたのです。神は私たちにすばらしい新しい歩みを備えてくださっています。それは、イエス・キリストを信じるだけで良いのです。行いは必要ありません。
イエス・キリストにある新しい望みのある歩みは、死後のことだけではありません。生かされている今の時においても経験することができます。何故なら、死からの甦りというのは私たち人間には理解できないものです。しかし、神は歴史的事実としてイエス・キリストを死から甦らせてくださいました。それが意味するものは、神は人間の理解を超えた働きをなされるということです。そうであるならば、私たちが生かされている今の時においても、神は私たちの理解を超えた働きをなしてくださるということです。私たちには想像もしなかったこと、考えもしなかったことを神はすることのできる方です。
例えば、イスラエルの民がエジプトの国を出てカナンの地に向かっていた途中で、彼らは「肉が食べたい」と呟きました。そのことが民数記11章に記されています。神はモーセに「1ヶ月も肉が食べられる」と告げられました。その神のことばに対して、モーセは「徒歩の男性だけでも60万人です。羊の群れや牛の群れをほふられても、それは彼らに十分でしょうか。」と、神のことばを信じることができませんでした。何故なら、モーセがどれだけ考えても理解できなかったからです。それに対する神のことばが23節に「     」と書かれています。そして、31節に「さて、…宿営の近くに落とした。」と書かれています。
このことから教えられることは、「神はイスラエルの民のつぶやきを聞いてから備えられたのではない」ということです。31節の「主のもとから風が吹き」というのは、暖かい南風のことと考えられます。18節「明日に備えて身を聖別しなさい。」と神は告げられました。常識的に考えて、うずらがそんなに早く飛んでくることはありません。考えられることは、神はイスラエルの民の呟きを御存知の上で備えておられたということです。そして、その神の備えというのは私たちには全く分からないものです。私たちが生かされている今の時も、神は私たちの理解を超えた備えをして私たちを導いてくださることを知らされるのではないでしょうか。イエス・キリストの甦りは、私たちに望みのある新しい歩みを与えてくださるものです。決して死後だけではなく、今生かされているこの時もそうなのです。

結)
今日は、そのイエス・キリストが死から甦られた日です。そして、今日は今年度最後の日であり、教会の30周年の日です。明日から新年度が始まり、教会の歩みも31年目に入ります。「今までこうだったからこれからも」という考え方があります。その考え方は間違ってはいません。むしろ、そのような考え方は常識的だと思います。ですが、神のみわざは私たちの常識を超えたものでもあります。何よりも、イエス・キリストを死から甦らされた方だからです。それは、「『今までこうだったからこれからも』という考え方を捨てろ」というのではありません。ただ、それに拘り続けることも危険です。「そのバランス」と言いましょうか、「比重」と言って良いのかは難しいですが、「今までこうだったからこれからも」という考え方の中で、「でも神は」という視点を養われるように祈っていきたいものです。

マルコ1:21~39「イエス・キリストとは」 24.03.24.

序)
 今日は棕櫚の主日です。イエス・キリストがエルサレムの町に入られた日であり、今週の金曜日にイエス・キリストは十字架に架かり死なれました。そして、来主日はそのイエス・キリストが死から甦られたイースターです。そして、春日井教会が開拓30周年を迎える日でもあります。今日まで様々なことがありましたが、ここまで導いてくださいました神に感謝しつつ、その神の栄光をこれからも現わし続ける歩みとされたく願います。先週、私たちは「イエス・キリストの弟子になる」というのは、イエス・キリストに着いて行くことであり、自分の願いや思いよりも神の御心を優先する生き方をすることであると学びました。今朝の箇所で印象的なのは、様々な出来事が短く書かれていることではないでしょうか。今朝は、各々の短い箇所からイエス・キリストとはどのような方であるのかを共に教えられたいと願っています。

1)権威ある方
 イエス・キリストはどのようなお方であるのかの第1は権威あるお方です。今朝の箇所はマルコの福音書においては、最初のイエス・キリストの奇蹟が書かれている箇所です。それは悪霊を追い出し病気を癒すというものです。そのイエス・キリストに対して人々は驚きました。「何に驚いたのか」と言いますと、イエス・キリストの教えと奇蹟にです。奇蹟に驚くのは分かりますが、なぜ人々はイエス・キリストの教えに驚いたのでしょうか。それは22節に書かれていますように、「権威ある者」として教えられたからです。それは「話され方が違っていた」ということです。ユダヤ教指導者たちは「聖書は○○と語っています」とか、昔の偉大な人の引用などを用いて教えていました。それは当時のユダヤ教指導者だけではありません。旧約時代の預言者たちもそうでした。彼らも「主こう仰せられる」ということばを用いて語っていました。しかし、イエス・キリストは「わたしは言います」ということばで語られたのです。これは、イエス・キリストご自身が神であられることを示されていることばです。ですから、そのような権威あることばをもって話されていたのです。そのことに人々は驚いたのです。
 イエス・キリストは権威あるお方です。私たち一人ひとりに対して権威あるお方なのです。「私に対して権威あるお方」ということは、「私はそのイエス・キリストに聞き従う存在である」ということです。先週見ましたが、イエス・キリストは「わたしについて来なさい」と命じられました。「着いて行く」とは、「先に進む人を信頼することだ」とも話しました。ですが、それだけではありません。「着いて行く」とは、今の場所から離れることでもあります。ペテロたちにとっての今の場所は、きちんとした仕事もあり収入も計算できる場所です。それは安定しており心も落ち着く場所でもあります。それがペテロたちにとっての今の場所なのです。ですが、イエス・キリストは「その場所から離れて、わたしに着いて来なさい」と命じられたのです。そこには「必要なものは全てわたしが満たす」という前提があるのです。イエス・キリストを信頼して、イエス・キリストの権威を認めて従うことをペテロたちに求められたのです。
 そのイエス・キリストの求めは、今日の私たちに対しても同じです。私たちにもイエス・キリストを信頼し、イエス・キリストの権威を認めて従うことを求められているのです。それは、今の生活を捨てることを求めておられるのです。前にも話しましたが、「捨てる」というのは文字通りの「捨てる」ということではありません。「優先順位を入れ替える」ということです。優先順位が変わりますと価値観も変わってきます。そして、価値観が変わりますと生き方も変わってきます。どのような生き方に変えられるのかと言いますと、「神が何とかしてくださる」という生き方です。先日の分かち合いのときに、そのようなことを分かち合ってくださった方がおられました。そのことを聞きつつ、「確かにそうだな。私もそのように養われたいな!」と思わされました。イエス・キリストは権威あるお方ですから、私たちの歩みを何とかすることのできるお方です。

2)用いてくださる方
 イエス・キリストはどのような方であるかの第2は、私たち一人ひとりを用いてくださる方です。イエス・キリストは汚れた霊を癒されるとき、汚れた霊に対して「黙れ。この人から出て行け」と命じられました。すると、汚れた霊はイエス・キリストに従い、その人から出て行ったのです。ここに一つの疑問が生じます。汚れた霊はイエス・キリストのことを「神の聖者」と告白したのです。汚れた霊はイエス・キリストのことを「神から遣わされた者」と認めていたのです。しかし、イエス・キリストは汚れた霊に対して「黙れ」と命じられたのです。人々が恐れている悪霊がイエス・キリストのことを、「神から遣わされた者」と告白しているのですから、イエス・キリストの活動はもっとしやすくなるように思えます。でも、イエス・キリストはそれを拒まれたのです。何故でしょうか。
 この汚れた霊がイエス・キリストを「あなたは神の聖者」と答えた目的は何でしょうか。それは自分が滅ぼされないことです。言うなれば、自分を守るための告白です。この汚れた霊は、イエス・キリストが神から遣わされた存在であることを知っています。しかし、そのイエス・キリストに従う思いは全くありません。先程も話しましたが、この汚れた霊は自分が滅ぼされるのを免れるために、このような告白をしたのです。
 これと似た信じ方をされている方がおられます。「それはどのような信じ方か」と言いますと、「イエス・キリストを信じなければ罪は赦されず、神の審きを受けて天の御国に入ることができない」という信じ方です。この信じ方は間違ってはいません。確かにその通りなのです。しかし、この信じ方は自分を守るための信じ方です。「イエス・キリストを信じないと罪が赦されず、天の御国に入れないから信じる」というものです。ですが、聖書が語っている信仰は、自分を守るためのものではありません。神が与えてくださっている恵みに対して、正しく応答することが聖書の語っている信仰です。何度も話していますが、自分の罪が赦され天の御国に入ることができるのは、イエス・キリストを信じたことの結果であって目的ではありません。神が与えてくださる信仰の目的は、神の恵みに対して正しく応答して生きるためです。
 ですから、イエス・キリストは神に正しく応答することのない汚れた霊の告白を用いることはされなかったのです。では、イエス・キリストは何を用いようとされているのでしょうか。それはイエス・キリストを信じ従おうとする私たちです。私たちには汚れた霊のような力はありません。しかし、イエス・キリストはそのような私たちを用いてくださるお方なのです。何故なら、力があるかないかは関係ないからです。そのような力よりも、その人の信仰にイエス・キリストは関心を抱いておられるのです。そして、そのような信仰者と共にいて力を与えてくださるお方なのです。その力とは使徒の働き1:8で約束されていますように、イエス・キリストを証しする力です。証しとは、「神は私にどのようなことをしてくださったのか」というものです。証しをするとき臆することがあります。そのようなとき、「数えてみよ主の恵み」という賛美がありますように、神の恵みを数えて力が増し加えられるように祈っていきたいものです。イエス・キリストは、私たち一人ひとりを用いてくださるお方です。

3)祈ってくださる方
 イエス・キリストはどのような方であるかの第3は、祈ってくださる方です。35節に「     」と書かれています。イエス・キリストは忙しい日々を過ごされつつも、一人で祈る時間を持たれていたことが分かります。このとき何を祈られていたのかは、聖書に書かれていませんから分かりません。ですが、イエス・キリストの歩みを見るとき、福音宣教の前進と弟子たち一人ひとりのことを覚え祈られていたものと考えられます。ただ、祈りというのは自分の方から神に話しかけるだけではありません。「祈りは神との霊的会話」と以前にも話しました。会話というのは、自分が一方的に話すだけではありません。相手の話しも聞く必要があります。ですから、祈りとは自分の方から神に話すだけではありません。それは会話ではなく訴えです。あくまでも祈りは神との霊的会話ですから、神のことばに聞くことも大切です。
 それに対して弟子たちはどうでしょうか。37節に、ペテロは「皆があなたを捜しています」と、イエス・キリストに話しかけました。ここにイエス・キリストとの違いを見ることができます。イエス・キリストは父なる神の声を聞いておられましたが、弟子たちは群衆の声を聞いていたのです。弟子たちにとっては、神の声よりも群衆の声の方が優先していたのです。この弟子たちの姿を見るとき、「果たして自分はどうなのか」ということを考えさせられます。それは「私は神の声と周りの声のどちらを優先しているのか」ということにです。周りの声や社会の声に耳を傾けることは大切です。何故なら、私たちはその社会の中に生かされているからです。そして、その社会の中でキリスト者として証しする者として召されているからです。だからと言って、周りの声や社会の声が最優先されるものでもありません。私たちが最優先するものは神の声です。すなわち、「聖書はどのように語っているのか」です。そのことをきちんと聞き分ける力が養われるように祈っていきたいものです。
 ピリピ1:9~10に「あなたがたの愛が…見分けることができますように」と書かれています。以前にも話しましたが、9節の「識別力」と10節の「見分ける力」は違います。9節の「識別力」は、必要なものと不必要なものを区別する力のことです。そして、10節の「見分ける力」とは、その必要なものに優先順位をつけることです。言うなれば、整理整頓と同じです。整理とは必要なものと不必要なものを分けることです。そして整頓とは、必要なものを秩序立てて配置することです。秩序立てて配置するのですから、そこには優先順位が決まってきます。それをしないと部屋はゴチャゴチャになってしまいます。それがひどくなると、ゴミ部屋・ゴミ屋敷になってしまいます。私たちに必要なのは霊的整理整頓です。それをしないと、霊的ゴミ部屋・ゴミ屋敷になってしまいます。
 イエス・キリストは祈っておられました。何を祈られたのかは分かりません。多くのことを祈っておられたものと思われます。今日は最初にも話しましたが「棕櫚の主日」です。そして、今週の金曜日はイエス・キリストが十字架に架かられた受難日です。イエス・キリストが十字架に架かられる前夜、最後の晩餐のときにイエス・キリストがペテロに語られたことが、ルカ22:31~32に「     」と書かれています。イエス・キリストは、このあとペテロのどのような行為をするのかを御存知でした。そのペテロのために祈られていたのです。何を祈られたのかと言いますと、ペテロの信仰がなくならないように祈られたのです。そのイエス・キリストは、私たち一人ひとりのためにも祈ってくださっています。あまりにも大きな試練のために信仰を捨ててしまうような経験をすることがあるかもしれません。ですが、イエス・キリストは私たち一人ひとりのために祈ってくださっているのです。そして、イースターの日に死から甦られたのです。それは、私たちがそのイエス・キリストにあって生きる者となるためです。そのために、イエス・キリストは祈ってくださっているのです。

結)
 イエス・キリストは福音を伝えるために汚れた霊を用いることはされませんでした。周りの人々の関心は、病気の癒しや汚れた霊を追い出すことでした。ですが、イエス・キリストは人々が関心を持つような方法をとられなかったのです。イエス・キリストがとられた方法は、イエス・キリストを信じる一人ひとりを用いることだったのです。弟子たちは、霊的整理整頓がなされていたわけではありません。でも、そのような弟子たちをイエス・キリストは用いられたのです。そして、従い続けることによって霊的整理整頓が養われていったのです。イエス・キリストとは、見捨てる方ではなく生かし用いてくださるお方です。

マルコ1:16~20「わたしについてきなさい」 24.03.17.

序)
 先週は、イエス・キリストの公生涯を始められた箇所から、神のみわざと人の応答について見ました。そして、そのことから「神に委ねて従う」ということの大切さを学びました。今朝の箇所は、イエス・キリストがご自分の弟子たちを選ばれた最初の箇所です。その後も弟子たちを選ばれたことが記されている箇所があります。今朝は、イエス・キリストの弟子になるとはどういうことかを共に教えられたいと願っています。

1)イエスの選び
 イエス・キリストが公生涯を始められて最初にしたことは、ご自分に着いてくる人の選びです。その選びにおいて注目したいことばがあります。それは16節と19節に書かれています「ご覧になった」ということばです。この「ご覧になった」ということばは、「ただ漠然と見ていた」とか「目の中に彼らが写った」ということではありません。これは「よく観察された」という意味を含んだことばです。イエス・キリストは、ご自分に着いてくる人をよく観察されて選ばれたのです。召し出されるイエス・キリストは、よく見ておられる方であることを表しているのです。何処で生まれ、どのように育ち、どのような人間であるかを御存知なるお方なのです。外見的なことだけでなく、内面的なこと全てを御存知なるお方なのです。彼らの特技や長所だけでなく、弱さや短所も御存知なるお方なのです。
 私たちも、そのイエス・キリストによって選ばれ救われた者です。私たちが選ばれ救われたということは、私たちの長所や短所の全てを御存知の上で選び救ってくださったということです。イエス・キリストは、あなたが何処で生まれ、どのように育ち、どのような人であるのかを御存知なるお方なのです。その全てを知った上で、あなたを選び救ってくださったのです。私たちは何かを行うために選ぼうとするとき、何を基準として選ぶでしょうか。多分、そのことを上手に果たすことができる能力を持っている人を選ぶのではないでしょうか。それが私たち人間の選びの基準です。しかし、イエス・キリストはそのような基準で人を選ばれたのではありません。能力があるかないか、性格が良いか悪いかなどを基準として選ばれたのではありません。ただ、ご自身の愛と憐れみによって弟子たちを選ばれたのです。その選びは、私たちも同じです。私たちの選びもそうです。私たちの中に何か優れたものがあるからではなく、一方的なイエス・キリストの愛と憐れみによって選ばれたのです。まず何よりも、私を愛し憐れんでくださったことに感謝したいものです。

2)イエスの求め
 イエス・キリストは、シモンとアンデレをご覧になって「わたしについて来なさい」と言われました。この「シモン」とはペテロのことです。また、ヤコブとヨハネに対してもお呼びになられました。イエス・キリストが求めておられるものは、「わたしについて来なさい」というものです。この「わたしについて来なさい」ということばは、何を表しているでしょうか。「わたしについて来なさい」というのですから、「わたしの前を歩きなさい」ということではないのは確かなことです。スーパーでバイトをしていますと、客から商品の場所を尋ねられることがあります。知っていれば「こちらです」と言って案内します。すると、客は私の後について来られます。決して、私の前を歩くことはありません。何故なら、「店員は知っている」と分かっていますから着いて来られるのです。すなわち、私を信頼しているということでもあります。
 イエス・キリストが「わたしについて来なさい」と話されたのも同じです。それは「わたしを信頼しなさい」ということです。すなわち、「わたしを信じなさい」ということです。もし、イエス・キリストを自分の後ろに置いたらどうなるでしょうか。店員に商品の場所を聞きながら、自分が先に進んだら違う通路に入ってしまいやすくなります。そして「間違った」と気づいて店員の所にもどる羽目になります。イエス・キリストを自分の後ろに置いて、自分が先に進むことも同じです。それは自分が困ったときにだけ神に助けを求めるものです。まさしく「困ったときの神頼み」です。普段は神よりも自分で、その自分が困ったときにだけ神に祈るというものです。
 では、イエスの前や後ろではなく横だったらどうでしょうか。それはイエス・キリストと自分を同等に置くことになってしまいます。ここにも、イエス・キリストに従うという姿勢はありません。イエス・キリストを自分の後ろや横に置く生活は、イエス・キリストに従うことをしない生活でもあります。そのため、信仰はことばや思いだけになってしまい、実際の生活には少しも関わりのないものとなってしまいます。そして、最悪なのは自分の思いを優先して上手くいったとき、「神はこのようなことをしてくださった」と、信仰的なことばを用いることです。でもそれは、神を利用しているだけで「従う」という思いはありません。
 イエス・キリストは、「ご自分をあなたの後ろや横に置きなさい」と求められたのではなく、自分をイエス・キリストの後ろに置いて着いて来ることを求められたのです。何故なら、「それがイエス・キリストを信じる」ということだからです。先週見ましたが、イエス・キリストは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。自分の今までの歩みを悔い改めて、イエス・キリストを信じて従うことを求められました。先週の礼拝でも触れましたが、「信じる」とは「信じ続ける」ということです。イエス・キリストの後ろに着いて従い続けることが、私たちに求められているのです。

3)人の応答
 イエス・キリストは「わたしについて来なさい」と言われました。それに対して彼らはどうしたでしょうか。18節と20節に「すると」と書かれています。これは彼らの反応を表しています。イエス・キリストに呼び出された彼らは、仕事を捨て家族を残して従ったのです。この「捨てる」も「残す」も意味合い的には同じです。これは「今まで一番であったものが一番ではなくなった」ということです。では、「何が一番になったのか」と言いますとイエス・キリストです。「仕事を捨てる」とは何でしょうか。仕事は自分の生活を支えるものです。仕事があるから、自分たちの生活が支えられているのです。ですから、仕事は自分の生活を支えるものであり、一番より頼むものでもあります。でも、それを捨てるということは、自分の生活を支えるものは仕事ではないということです。では、何が自分の生活を支えるのでしょうか。それはイエス・キリストです。聖書は彼らの反応を通して、そのことを読者である私たちに語っているのです。「あなたが一番愛するものは家族ではないし、あなたが一番頼りとするのは仕事ではなく、イエス・キリストである」と語っているのです。その聖書のことばに、どのように応答するかを私たちに迫っているのです。
 皆さんはどうでしょうか。そのように迫られたらどのように反応されるでしょうか。「いや、そこまでは」と言われるでしょうか。確かにそうです。ためらってしまうのが当然です。ですが、聖書をよく読むとペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネらは、甦られたイエス・キリストと再会したあと何をしていたでしょうか。彼らは漁師の仕事をしていたのです。すなわち、漁師の仕事を捨ててはいなかったのです。ルカ5:27からは、「レビ」という取税人がイエス・キリストと出会ったことが書かれています。この「レビ」とはマタイのことです。28節には、彼は全てを捨ててイエス・キリストに従ったことが書かれています。聖書は「レビは全てを捨ててイエスに従った」と語っているのです。ところが、29節以降を見ますと、そのレビは「イエスのために盛大なもてなしをした」と書かれています。皆さんは、これを読んで不思議に思われないでしょうか。それは「何故すべてを捨てた人が盛大なもてなしができるのか」ということに。では、レビは全てを捨てていなかったのでしょうか。ですが、聖書は「全てを捨てた」と語っているのです。では、聖書が語っていることは間違っているのでしょうか。レビは文字通りすべてを捨てたわけではありませんが、用い方を全て捨てたのです。どういうことかと言いますと、「今までは自分のために用いていたものを全て捨てて、イエス・キリストのために全てを用いることにした」ということです。要は、優先順位が変わったということです。今までは仕事や家族が最優先だったのですが、それらが最優先ではなくなりイエス・キリストに従うことが最優先になったということです。それは今朝の箇所の彼らも同じです。実は、それが献身なのです。
 献身とは、今までの仕事を辞めて牧師や宣教師になることではありません。イエス・キリストは、そのようなことを求めてはおられないのです。確かに、個人的にそのように導かれてなられる方々もおられます。ですが、それだけがイエス・キリストに従うということでもないのです。自分に与えられているものをイエス・キリストのために用いることが献身なのです。その献身を神は私たちにも求めておられるのです。仕事も家族も神から与えられたものです。ですから、それらを大切にすることは間違ってはいません。しかし、神よりもイエス・キリストよりも優先されるものでもないということです。私たちが最優先にすべきものはイエス・キリストです。

結)
 バプテスマのヨハネは荒野に現れて宣べ伝えました。ひょっとしたら、マルコはこの「荒野」も文字通りの荒野ではなく、霊的荒野を表しているのかもしれません。イエス・キリストがこの世に来られた時代も霊的荒野でした。そのような時に、イエス・キリストは彼らを選ばれたのです。そして、現代も不安の多い霊的荒野の時代です。そのような時代に私たちはイエス・キリストによって選ばれた一人ひとりです。そして、イエス・キリストは私たちにも「わたしについて来なさい」と呼びかけておられます。人は大切なものは力を込めて「ぎゅっ」と握りしめます。ですが、その力を緩めて手を開かない限り、それ以上のものを掴むことはできません。その決断が私たちに問われているのではないでしょうか。「わたしについて来なさい」というイエス・キリストのことば。深く噛みしめたいものです。

マルコ1:14~15「福音を信じる」 24.03.10.

序)
 先週私たちは、神の導きによって苦しみは与えられるものであり、その経験を通して神のすばらしさを知るためであることを学びました。そして、神はその苦しみからの脱出の道をも備えてくださっていることを見ました。神は私たちのために、様々な備えをして導いてくださるお方です。今朝はその神のみわざと、その神のみわざに対する人の応答について共に教えられたいと願っています。

1)神のみわざ
 神のみわざの第1は「時が満ちた」ということです。「満ちた」というのは、初めから定められていたことを意味することばです。すなわち、「ここまで」というのがすでに定められているのです。例えば、お腹が空いてご飯を食べます。すると、お腹はいっぱいになります。人によって食べる量は異なりますが、「限界」というのは初めに一人ひとりにあります。そのようなもので、「満ちた」というのはすでに定められていることを表しています。では、何が満ちたのでしょうか。それは、時が満ちたのです。この「時」というのは、神が定められた時のことです。要は、「神が定められた時が満ちた」ということです。伝道者の書3:1~8には、全ての営みには時があることが書かれています。神は苦しみの時も備えておられますし、その苦しみからの脱出の時も備えておられます。そして、イエス・キリストの生涯の時も父なる神は定めておられたのです。その神は、私たちの生涯の全ての時も定め備えておられるのです。そして、その最善の時に最善のことをしてくださるのです。私たちには、その「神の時」は分かりません。しかし、神はすでに最善を備えてくださっているのです。そのことを信じて神と共に歩み続ける者とされるように祈っていきたいものです。
 そして、今朝の箇所に書かれています「時」というのは、旧約聖書に約束されています「救いの時」のことです。以前、使徒の働きのエルサレム会議の箇所で触れました。申命記29:1の最後に「ホレブで…別である」と書かれています。ホレブで結ばれた契約とは十戒のことです。それとは違う新しい神の契約が語られているのが29章以降のことです。そして、30:6に「心に割礼を施し、生きるようにされる」と語られています。「心に割礼を施す」とは、心からの悔い改めることです。そのとき、エレミヤ9:25~26の箇所も触れました。神は「包皮に割礼を受けている者を罰する」と言われています。何故なら、「心に割礼を受けていないから」です。それは心から悔い改めていないからです。すなわち、「肉の割礼ではなく心の割礼を受けている者が赦される時代が来る」ということが示されています。
 その時が来たのがイエス・キリストの誕生の時です。以前、クリスマスイヴ礼拝で今年の漢字から話をさせていただきました。その時の漢字は東西南北の「北」でした。いつ話したかを調べてみましたら2017年でした。この年は北朝鮮のミサイルや核実験、九州北部の豪雨、さらに北海道のじゃがいもの不作などにより、「北」という漢字が多かったようです。その「北」とクリスマスはどのような関係があるのかと言いますと、「ごじつけですが『神の救いの約束がきたー』というのがクリスマスだ」と話したのを覚えておられるでしょうか。クリスマスは、神の救いの約束の時が満ちたことを表しているのです。そして、今朝の箇所の「時が満ち」というのもそうです。「神の救いの約束の時が満ちた」ということです。
 神のみわざの第2は、「神の国が近づいた」ということです。これは、神の方から働きかけられたことを表しています。決して、人間の方から神に近づいたのではありません。そして、この「近づいた」というのは、距離的なことではなく関係的な距離が近づいたということです。現在日韓関係は良いものとなっていますが、昔は日本と韓国は「近くて遠い国」と言われていました。それは「距離的には近いが関係的には遠い」ということです。神と人との関係も同じように遠い関係だったのです。しかし、イエス・キリストが来られたことによって、その神と人との関係も近くなったのです。神は私たちとの関係をより良いものとするために、わざわざご自身の方から働きかけてくださったのです。それがイエス・キリストの誕生です。「神の働きかけによって、人は神とのより良い関係が近づいた」とイエス・キリストは話されているのです。

2)人の応答
 イエス・キリストは神のみわざを話されたあと、今度は神のみわざに対する人の応答を話されています。その第1は悔い改めることです。悔い改めとは後悔することではありません。悔い改めと後悔は全く違います。後悔は自分が過ちを犯した結果を反省し、これからは同じ結果を出さないようにすることです。後悔は結果に対するものです。ですから、自分が進む方向は変わってはいません。同じ方向に進みますが、同じ結果を出さないように心がけるのが後悔です。ですが、悔い改めは結果ではなく原因に目を向けさせます。そして、進むべき方向が変えられることが悔い改めです。それは今までと正反対な生き方に変えられるということです。ですから、悔い改めと後悔とは全く異なるものです。
 では、イエス・キリストはここで何を悔い改めることを勧めておられるのでしょうか。自分の罪を悔い改めることでしょうか。確かにその通りです。では「罪」とは何でしょうか。多くの人は「私は罪など犯していない」と信じています。私たちもそうだったのではないでしょうか。聖書が語る罪とは、神を神と認めずに、自分勝手に歩み自分の欲求が満たされることを最優先することです。神はこの世界を造られ人を特別な存在として造られました。そして、人を特別に愛し導いてくださっています。そのことを人は認めようが認めまいが事実です。その事実を認めず受け入れないで、神を神と認めず自分優先に生きることが罪なのです。何度も話していますが、自分を生み愛し育ててくれた人を親と認めない。ですが、法律を犯すわけでもなければ法律に罰せられることはありません。ですが、自分を生み愛し育ててくれた人を親と認めないのは間違いです。これが聖書の語る罪です。そのような生き方を悔い改めることをイエス・キリストは勧められているのであり、それが聖書の語る悔い改めです。
 そのイエス・キリストが語られている悔い改めに必要なことが3つあります。その第1は、自分が神に対して罪を犯している事実を認めることです。この事実を認めなければ悔い改めることはできません。第2は、その事実を神に告白し、その罪の赦しを願うことです。きちんと自分の口で神に告白することです。第3は、神を神として受け入れ、その神に対して生きることを決意することです。この決意が悔い改めには必要なのです。
 キリスト者とは自分の罪を悔い改め、神の御心を最優先にして生きようと決意した人のことです。私たちは「自分がキリスト者である」と信じているなら、「自分の願いや思いよりも、神の御心を優先して生きることを決意した」というのを覚え続ける必要があることに気づかされます。そうでないと、信仰を自分勝手に用いてしまうようになります。その生き方を具体的に言えば、キリストの身体なる教会を優先することです。私たち一人ひとりには自分の生活があります。その中で何を優先して選び取っていくのかです。自分の生活に教会行事を合わせるのか、それとも教会行事に自分の生活を合わせるのかです。そのことを私たちは祈りつつ選んでいく必要があります。
 人の応答の第2は、福音を信じることです。福音を信じるとは、神のみことばを信じることであり、神に信頼することでもあります。その神を信頼するには幾つかのことが必要です。その1つは神を知ることです。バプテスマクラスや入会クラスで学ばれたと思います。信仰とは感情ではありません。事実を事実として認め受け入れることです。それには神についての知識が必要です。それは、「私が信じる神とはどのような方であるのか」という知識です。日本のことわざに「いわしの頭も信心から」というのがあります。これは「信じる対象は何でも良く、信じる心が大切である」というものです。だから、石や木が神になるのです。ですが、石や木が何かできるわけではありません。何もできないのです。そのようなものを信じても空しいだけです。でも、それを信じるならば、お菓子やおもちゃでも神になり得るのです。しかし、聖書は「いわしの頭も信心から」というのを否定しています。何故なら、信じる対象がどのような方であるかを知るのは大切なことだからです。では、私たちが信じる神はどのような方でしょうか。それは世界を造られ人を造られた方です。さらにあなたを愛され、あなたの罪を赦すためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、身代わりとなって神の審きを受けさせてくださった方です。さらに、私たちといつも共にいてくださり、私たちの歩みの全てを守り導いてくださっている方です。私たちが信じている神はそのようなお方なのです。
 神を信頼するに必要な2つ目は、その神を受け入れることです。私たちは神の全てを知ることはできません。何故なら、神は私たちの理解を遥かに超えたお方だからです。そのように聞かれますと、「だったら、神を知ることなどできないではないか!」と思われるかもしれません。私たちは神の全てを知る必要はないのです。今までに得た知識によって、自分が神に対して罪人であることを認め、その私のために神はイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを備えてくださったことを知り、その神を受け入れることです。その神を受け入れることが信仰です。
 ですが、信仰は神を受け入れるだけではありません。その神に委ねることも信仰です。それが神に信頼するに必要な3つ目です。どれだけ神を知り受け入れても、その神に委ねることをしなかったら何の意味もありません。そして、神に委ねるとは「神に聞き従う」ことでもあります。私たちは病気をしたら病院に行き診察してもらいます。そして、その医師の指示に従うのではないでしょうか。また、薬を出され薬局に行けば薬剤師の指示に従います。その医師や薬剤師の指示に従わずに、自分で勝手に判断し行動を起こしたらどうなるでしょうか。答えは明白です。治る病気も治らないということです。委ねるとは従うことです。それがたとえ自分の思いと違っていたとしても、聞き従うことが神に委ねるということです。そうしないと、神が最も嫌われている自分中心の生活になってしまいます。

結)
 神は私たちが神に祝福される歩みをするために、イエス・キリストをこの世に送り十字架へと導き、死から甦らせてくださいました。神は私たちとより良い関係を築くために、様々な備えをしてくださいました。イエス・キリストは「信じなさい」と話されました。それは「信じ続けなさい」ということです。「あの時に信じる決心をしたからそれで良い」というのではありません。その信じたこと・決意したことを継続することが私たちに求められているのです。何よりも「委ねる」ということに私たちは弱さを覚えます。その「神に委ね従う」ということが、さらに養われるように祈っていきましょう。

マルコ1:9~13「苦しみとは」 24.03.03.

序)
 ある方は「宗教とは苦しみから解放してくれるもの」と思われています。そのような方は、「神を信じたら今の苦しみから解放される」と思われ、それを「救い」と捉えておられます。しかし、聖書は「神を信じるが故に苦しみを経験する」と語っています。そのように聞かれると、「そんな宗教なんて」と言われる方もおられます。ですが、キリスト教はその苦しみの捉え方を変えるものです。今朝は、イエス・キリストが経験された箇所から、苦しみについて共に教えられたいと願っています。

1)御霊による苦しみ
 9節の初めに「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは「何時か」と言いますと、その前に書かれていましたバプテスマのヨハネが活動をしていたときのことです。このバプテスマのヨハネは、3節に書かれています「荒野で叫ぶ者」であり、人々に悔い改めを叫んだ人です。そのバプテスマのヨハネから、イエス・キリストはバプテスマを受けられ、その後に御霊によって荒野に追いやられたのです。「追いやられた」とは「無理やりに」とか「強制的に」という意味です。すなわち、イエス・キリストご自身の決断によって荒野に行かれたのではないということです。御霊の導きによって、イエス・キリストは荒野に行くこととなったのです。
 この出来事は、先日の学び会で見ましたパウロの第2回伝道旅行の出来事と似ています。パウロとシラスは、アジア地方でみことばを語るのを禁じられ、ビティニア地方に行こうとしましたら、また御霊が許されなかったのでトロアスの町に行きました。すると、そこでパウロはマケドニアの叫びの幻を見て、マケドニア地方に行くことになりました。マケドニア地方に行くことは、パウロの当初の予定にはありませんでした。パウロらは現代のトルコの地方での伝道活動を予定していたのですが、聖霊が許さずマケドニア地方へと導いたのです。そして、彼らはピリピの町に行きますと「リディア」という女性に出会います。今までは「ルデヤ」と訳されていましたから、皆さんはそちらの名前の方が分かりやすいかもしれません。その後、彼らは捕らえられ鞭で打たれて牢に入れられてしまいます。彼らは聖霊の導きによってピリピの町に行ったのです。ですが、そこで待ち伏せていたものは苦難だったのです。彼らは「何故?」と思ったかもしれません。当然と言えば当然の思いです。聖霊によって導かれたのですから、より良いものが備えられているのなら分かりますが、備えられていたものは苦難だからです。聖霊による導きであっても苦難を経験することはあるのです。
 イエス・キリストもそうです。御霊によって荒野に強制的に導かれたのです。そして、そこでサタンの誘惑を受けられたのです。「誘惑」というのは心が動かされることでもあります。そのように聞かれますと、「イエス・キリストも心を動かされたのか」と思われる方もおられるかもしれません。イエス・キリストも心を動かされたのかどうかは分かりませんが、人としてのイエス・キリストを思い描きますと、そのような経験をされたのかもしれません。今朝の箇所で注目したいことの1つは、イエス・キリストは神の導きによって苦難を経験されたということです。
 ある方は「苦難に会うのは何か悪いことをしたから」という、因果応報的な考え方を持たれる方がおられます。イエス・キリストの弟子たちもそのような考え方をしていました。そのことがヨハネ9:1~3に「     」と書かれています。彼らは生まれながら目の見えない人に出会ったとき、イエス・キリストに「先生…両親ですか」と質問したことが2節に書かれています。この捉え方は、まさしく因果応報的です。それに対して、イエス・キリストは3節で「この人が…現れるためです」と答えられました。イエス・キリストは「この苦しみは神によって与えられたものであり、その目的は神のすばらしさが現わされるためである」と話されたのです。私たちも苦難を経験します。その経験する苦難は、「不信仰だから」とか「何か悪いことをしたから」というものではなく、神の導きによってなされたものです。その目的は、そのことを通して神のすばらしさを知るためであることを覚えたいものです。

2)神の備え
 イエス・キリストは御霊に導かれてサタンの誘惑を受けられましたが、13節の最後には「御使いたちが仕えていた」と書かれています。これは「御使いがイエス・キリストに仕えていたから、イエス・キリストはサタンの誘惑に勝たれた」というのではありません。ヘブル1:14に「     」と書かれています。御使いは、主を信じる人々に仕える存在なのです。私たちが御使いに仕えるのではなく、御使いは私たちに仕える存在なのです。その御使いは、神であられる主から遣わされた存在ですから、「御使いが仕える」というのは、主が共におられることを意味しているのです。すなわち、「御使いが私に仕えている」というのは、「主が私と共におられる」ということなのです。
 私たちは信仰が与えられても苦しみを経験します。ですが、その苦しみは決して自分一人ではなく、主が共にいてくださっているのです。その苦しみを通して、ご自身のすばらしさを現してくださるのです。Ⅰコリント10:13に「     」と書かれています。神は私たちに耐えられない苦しみに遭わせられることはされないのです。むしろ、脱出の道を備えてくださっているのです。何故なら、神が共にいてくださっているからです。今、苦しみを経験されている方がおられるかもしれません。それはとても辛いものであり、「少しでも早く解決されたい」と願われていることと思います。そのように願うのは悪いことではなく当然のことです。でも、その苦しみは耐えられないものではないのです。神は「あなたは耐えることができる」と知っておられるから、その苦しみを許されているのです。そして、必ずその苦しみから抜け出す道を備えてくださっているのです。私たちにとって大切なのは、「神が共にいてくださり全てを備えてくださっている」というのを覚えることです。
 そのようなことは分かりつつも、神の備えに目を向けられないのが私たちでもあります。少しでも、その神に目を向けられるようにするにはどうすれば良いでしょうか。何度も話していますが、みことばに耳を傾けつつ祈るしかありません。これは、「苦しみに遭遇したときに、みことばに耳を傾けて祈れば良い」というのではありません。日々の生活の中でそのことを実践していないと、突然のときに実践することはできません。身体に染みつかせないとできないものです。それは車の運転と似ています。免許を取得しても、全く車を運転していませんと運転することに不安を覚えます。頭の中では分かっているのですが、身体は力加減をすっかりと忘れてしまっていますから、すぐに運転するのが難しいのです。この準備をしているとき、先日の会話を思い出しました。私は45年程前に上司から「毒劇物取り扱いの試験を受けるように」と言われ、会社の同僚と2人で講習会に出て、仕事が終わってから一緒に勉強したりしていました。感謝なことに合格することはできました。その後、献身へと導かれ退職しました。それからはもう全く扱っていません。先日、「私は毒劇物取り扱いの免許を持っているのですが更新はあるのですか」と尋ねたところ、「ありません」という返事でした。ですから、その免許は今も有効なのですが、絶対にしてはいけないことです。何故なら、もう全く覚えていないからです。
 信仰生活も同じです。頭の中でどれだけ理解していたとしても、日々の生活の中でみことばに耳を傾けて祈ることをしていないなら、何かあったとき実践することはできません。「いや、そんなのできます」と思われる方がおられるかもしれません。ですが、できないのです。何故なら、できないから神はみことばを私たちに与えてくださり、祈り方をも教えられたからです。「神がいつも共にいて守り導いてくださり、苦しみに対しても脱出の道を備えてくださっている」という神の臨在を覚えるには、日々の生活の中でみことばに耳を傾けて祈る生活が大切なのです。

結)
 イエス・キリストご自身は、御霊の導きによって苦しみを経験されました。それは、神を信じる者であっても苦しみを経験することを表しています。私たちは神を信じている者ですが苦しみを経験します。しかし、その苦しみの中にも神は共にいてくださいます。では、何のために苦しみを経験するのでしょうか。それは、その苦しみを通して神のすばらしさを知るためです。苦しみは神の審きではありません。自分の弱さを知ると同時に、そのような私を愛し守り導いてくださっている神を知るためです。神はどのようなときにおいても、私たちと共にいて守り支え導いてくださるお方です。そして、脱出の道をも備えてくださっているお方です。私たちが経験します苦しみは、その経験を通して神のすばらしさを知るために与えられているのです。苦しみから解き放たれるのを願うのは悪いことではありません。そのことを願いつつ、脱出の道を備えてくださっていることも覚えられるように祈っていきましょう。

マルコ1:1~8「しもべのしもべ」 24.02.25.

序)
 今までは使徒の働き13章始まりましたパウロの第1回伝道旅行とエルサレム会議を見てきました。今日から当分の間は、マルコの福音書から学んでいきたいと考えています。予定としましては4章までとして、4章が終わりましたら使徒の働きの続きを共に学んでいく予定をしています。
 さて、マルコの福音書は「福音書の中では最初に書かれた手紙である」と言われています。このマルコの福音書は、イエス・キリストの誕生については書かれておらず、バプテスマのヨハネの宣教活動から書かれています。そして、イエス・キリストの教えよりも、イエス・キリストの行為の方に重点が置かれている手紙です。これがマルコの福音書の特徴の一つです。それは、仕えるイエス・キリストの姿でもあります。仕えるとは、しもべの姿でもあります。すなわち、マルコの福音書には、しもべとしてのイエス・キリストが描かれているのです。そして、私たちにもしもべとして生きることが訴えられている手紙でもあります。その初めとして、バプテスマのヨハネのことが記されているのです。今朝は、このバプテスマのヨハネを通して、仕えることについて共に教えられたいと願っています。

1)バプテスマのヨハネ
 まず、バプテスマのヨハネについて見てみたいのですが、1節に「     」との書き出しで始まっています。これは、「イエス・キリストに着いて語られた福音」と理解することもできますし、「イエス・キリストが語られた福音」とも理解することができます。また、「その両方」と理解することもできます。どちらにしろ中心はイエス・キリストです。すなわち、マルコの福音書は「イエス・キリストが福音の中心である」ということです。そして、2~3節は旧約聖書からの引用が書かれています。それは「神であられる主の道を整えるために一人の人が遣わされる」をいう預言です。その働きは、「主が来られる前に道を整えておく」というものです。どういうことかと言いますと、人の心を主に向けさせる備えをするということです。この主から遣わされる一人の人は、「わたしの使い」と書かれていますように、主のしもべとして遣わされるのです。「そのしもべとして遣わされたのがバプテスマのヨハネである」とマルコの福音書は語っているのです。
 先程、「マルコの福音書はイエス・キリストの誕生について書かれていない」と話しましたが、バプテスマのヨハネの誕生についても書かれていません。バプテスマのヨハネの誕生は何処に書かれているでしょうか。ルカの福音書1章に書かれています。彼は祭司ゼカリヤとエリサベツの子として誕生しました。その誕生は神のみわざによるものでした。最初からバプテスマのヨハネは神から選ばれた人でしたし、系図としてはイエス・キリストと親戚関係でもありました。そのヨハネについて、ルカ1:15~17節には「     」と書かれています。特に16節には「     」と書かれています。ですから、人の目を神に向けさせることが、バプテスマのヨハネに与えられた務めなのです。
 マルコの福音書に戻りますが、1:3は欄外にも書かれていますように、イザヤ40:3からの引用です。イザヤ書39章には、神が南ユダ王国を滅ぼされることが告げられています。イスラエルの民は、神の民として神と交わりを持っていました。しかし、彼らはその神よりも偶像の神々を拝むようになって神との関係を悪化させてしまい、最後にはバビロニア帝国に滅ぼされ捕囚として連れて行かれます。そして、神との交わりも途絶えてしまいます。しかし、その後に再び神との交わりが回復されることが預言されているのが40章なのです。イスラエルの民は、バビロニア帝国に滅ぼされてから他の国々に支配されていました。イスラエルの民は「これは神の審き」と思っていたのです。そして、「いつか他国の支配から解放されるときが来る」と信じていたのです。その初めに「しるし」とされているのが、荒野で叫ぶ者の声なのです。ですから、イスラエルの民は荒野で叫ぶ人をずっと待ち望んでいたのです。その荒野で叫ぶ人がバプテスマのヨハネだったのです。ですから、バプテスマのヨハネという人は、旧約聖書と新約聖書の橋渡し的な役目をしている人でもあるのです。

2)ヨハネの宣言
 そのバプテスマのヨハネについて、4節に「荒野に現れ…宣べ伝えた」と書かれています。皆さんは、この光景をどのように描かれているでしょうか。荒野ですから、ひょっとしたら誰もいない所かもしれません。そのような所で、バプテスマのヨハネは大きな声で空に向かってはなったような状況を思い浮かべられるでしょうか。この「宣べ伝えた」というのは、誰かに伝えていることを表しています。誰もいない所で「宣べ伝えた」とは言いません。ルカ3:2に「     」と書かれています。バプテスマのヨハネが荒野に居るとき、神のことばがバプテスマのヨハネに臨みました。すると、バプテスマのヨハネは3節に「ヨルダン川…宣べ伝えた」と書かれています。すなわち、バプテスマのヨハネは誰も居ない荒野にて大声で声を発したのではありません。多くの人が居る所に出て行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたのです。
 では、その内容はどのようなものでしょうか。5節に「     」と書かれています。ここに「自分の罪を告白し」と書かれています。何故、人々は自分の罪をバプテスマのヨハネに告白したのでしょうか。それは、バプテスマのヨハネが人の罪深さを見たからです。ルカ3:7に、バプテスマのヨハネが群衆に語ったことばが書かれています。彼は群衆に向かって「まむしの子孫たち」と言ったのです。これは「蛇の子孫」ということです。創世記3章には、人間が蛇の誘惑によって堕落したことが書かれています。誤解されないようにしていただきたいのですが、蛇がサタンではありません。サタンが賢い蛇を利用したのです。ですから、蛇も「被害者」と言えば被害者なのです。残念なことに、蛇はサタンの手下のように思われているのが現状ではないでしょうか。何よりも神は蛇に対して、15節で「     」と言われました。この「おまえ」とは蛇のことであり、サタンを指して言われたものです。バプテスマのヨハネは、人がサタンの側についているように見えたのです。何故なら、人はいつも自分の欲求を満たすことしか考えない自己中心な存在だからです。
 時代が変わりますと文化が変わります。そして、文化が変わりますと価値観も変わってきます。この前テレビで放映されていましたが、若い社員が「電車に乗り遅れたので遅れます」とのLINEを上司に送りますと、「了解しました。」という返事が届きました。すると、この若い社員は「怒っている」と受け取ったらしいのです。何故かと言いますと、最後に「。」が付けられているからです。他の若い人たちも「。」があると「冷たく感じる」という答えでした。これを「○ハラ」と言うらしいのです。若い人たちにとってLINEはメールではなく、会話感覚で使っていますから、そのように思えるのかもしれません。「私も注意しないと」と思わされました。
少し話しが反れましたが、文化が変わると価値観も変わりますが決して変わることのないものが2つあります。その1つは人の心です。エレミヤ17:9に「     」と書かれています。今までの聖書は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳されていました。「直らない」と「癒しがたい」とは、少しニュアンスが違ってきます。「直らない」とは、「絶対に変わることがない」というのを意味しています。ですが「癒しがたい」とは、「僅かな可能性であるか変わる」というのを意味しています。新改訳聖書2017の方は、そちらの方を採用しているように思えます。「その僅かな可能性はどこにあるのか」と言いますと、神のわざにあり神の憐れみや恵みにあるのです。人の価値観はなかなか変わりにくいものですが、神の憐れみと恵みによって変えられるのです。しかし、その神の憐れみと恵みを受け取らない限り、人は決して自分の価値観を変えることはできないのです。バプテスマのヨハネは神の憐れみと恵みを受け取っていない人たちを見て、変わることなく自己中心のままで歩む人たちを「まむしの子孫たち」と語ったのです。
 また、バプテスマのヨハネは人の罪深さを見ただけでなく、世の終わりをも見据えていました。ルカ3:9に「     」とバプテスマのヨハネは語ったことが書かれています。これは世の終わりのことを示しています。何にしても初めがあれば終わりがあります。創世記1:1に「     」と書かれています。初めがあるのですから、必ず終わりもあるのです。私たちは、神が初めに世界を造られたと信じているのなら、必ず世界の終りもあることに目を向ける必要もあります。その世の終わりのときに神の審きが行われるのです。ヘブル9:27に「     」と書かれています。人間は一度死ぬことと、死後に審きを受けることが定められています。それはイエス・キリストを信じる者であっても同じです。そして、その神の審きのときに「無罪」という判決が下されるのです。「もう無罪という約束が与えられているから大丈夫」と思われるかもしれません。だからこそ、いつ再臨のときが来ても良いように、今の時を誠実に生きることの大切さを知らされます。
 さらに、バプテスマのヨハネはイエス・キリストをも見据えていたのです。バプテスマのヨハネは、ルカ3:16で「     」と語っています。それと同じことが今朝の箇所の1:7~8にも書かれています。バプテスマのヨハネは、後に来られるイエス・キリストを見ていたのです。7節の後半に「私には…資格もありません」と語っています。「履物のひもを解く」というのは奴隷が主人にする行為です。ですが、バプテスマのヨハネは「その資格もない」と言うのです。すなわち、「私はその方の奴隷以下である」と言っているのです。何故なら、自分も罪ある人間の一人であり、決してイエス・キリストの前に出られるような者ではないことを知っているからです。
 それと同時に、そのような私たちの罪を救ってくださる方であることも知っていたのです。だから、8節で「     」と語っているのです。私たちは神の御前において罪深い者です。しかし、その私たちの罪をイエス・キリストが身代わりとなって負って十字架に架かり、神の審きを受けてくださいました。そして、今も私たちのためにとりなしてくださっています。私たちは、その恵みの中に生かされているのです。先程、「決して変わることのないものが2つある」と話しました。その1つは人の心ですが、もう1つは神の愛です。神は罪深い私たちを見捨てることができました。しかし、見捨てる方を選ばず愛する方を選んでくださいました。そのためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、「神の審き」という十字架による死なれました。それだけでなく、死なれたあと神はイエス・キリストを甦らせてくださいました。来月の31日は、そのイエス・キリストが甦られたイースターです。まさしく、イースターは私たちへの神の愛のしるしです。神の愛のしるしはクリスマスだけではありません。イースターも神の愛のしるしなのです。日本ではクリスマスは盛大に祝いますが、イースターは盛大に祝うことがありません。私個人としては非常に残念です。

結)
 バプテスマのヨハネは、「自分はイエス・キリストの奴隷以下である」と告白しました。それは、しもべ以下であるということです。イエス・キリストはしもべとしてこの世に来られました。そのことについては、ピリピ2:6~8に「     」と書かれています。私たちは、そのイエス・キリストのしもべです。言うなれば、「しもべのしもべ」なのです。最初にも話しましたが、マルコの福音書には「仕えるイエス・キリスト」が描かれています。私たちも仕える者として歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き15:22~35「励まされ力づけられる教会」 24.02.18.

序)
 3週間に渡ってエルサレム会議を見てきました。そして、先週見ましたヤコブの発言を通して、エルサレム会議は結論を出しました。それは救いにおいて律法を守り行う必要はないけれども、偶像に供えたものと淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるというものです。この結論は手紙を通して全教会に伝えられていきます。今朝は、この箇所から励まされ力づけられる教会を共に教えられたいと願っています。

1)伝達方法
 エルサレム会議で出た結論を使徒たちと長老たちは、全教会に伝えることにしました。その方法は手紙です。その手紙は、23節に「アンティオキア、シリア、キリキアにいる異邦人の兄弟たち」との挨拶から始まります。私たちは今までパウロの第1回伝道旅行を見てきました。そして、使徒の働きにはパウロの伝道旅行とパウロがローマに着くまでのことに焦点を合わせて書かれています。ともすると、「福音はパウロの宣教によって広まった」と錯覚してしまいやすいです。しかし、そうではありません。ステパノの出来事から教会に激しい迫害が起こり、使徒たち以外は地方に散らされるようになったことが8:1に書かれています。そして、4節には「     」と書かれていますように、福音はパウロ以外の人たちも伝えていたのです。私たちはそのことを見落としてはいけません。すなわち、パウロ以外のキリスト者たちも福音を宣べ伝え、各々の地域において教会が建て上げられていったのです。それらの教会を含む「全教会」に、エルサレム会議で決議されたことが伝えられたのです。
 では、どのようにして伝えられたのでしょうか。シリアのアンティオキア教会はパウロとバルナバが出席していましたから、彼らに手渡してアンティオキア教会に伝えることを決めました。では、他の教会はどのようにしたかは明確に記されていませんから断言はできませんが、当時の社会文化を調べますと郵便制度はすでにあったようです。その目的は、中央政府の意思決定を地方に早急に伝えるためです。学び会でも見ましたが、ローマ帝国は道を整備しました。それは軍隊を少しでも早く移動させるためです。その道を郵便制度にも活用したのです。分かりやすく言えば、一定の間隔に郵便局を設置し、郵便物を持った人が隣の郵便局まで走って届け、次の人が別の郵便局まで走って届けるというものです。これが現代の駅伝の始まりと言われています。その郵便制度をエルサレム教会は用いて全教会に伝えたのです。
 この時代において手紙は重要な役割を果たしています。何故なら、私たちが今日読んでいます新約聖書は手紙だからです。マタイ・マルコ・ヨハネなどの福音書も教会に宛てて書かれた手紙です。ルカの福音書は、テオフィロという個人の人に宛てて書かれた手紙ですが。今礼拝で私たちが見ている「使徒の働き」も、1:1に書かれていますようにルカからテオフィロという人に宛てて書かれた手紙です。その新約聖書は神の霊感によって書かれたものですから、「神からの私への手紙」として読むことも大切です。「聖書は神からのラブレターである」と言われるのも、新約聖書が手紙だからというのもあります。また、私たちは誰から送られてきた手紙を読むとき、どれほど長くても最後まで読むのではないでしょうか。新約聖書が手紙であるなら、通読することも大切であるということです。それは、「手紙の流れを掴む」という学びのためにも大切です。1度チャレンジしていただければと思います。

2)手紙の内容
 では、このエルサレム教会から出された手紙には、どのような内容が書かれているのでしょうか。その内容が23節以降に書かれています。まず、出だしは挨拶です。この挨拶部分を読まれて、「えっ」と思われる方がおられるかもしれません。何故なら、エルサレム会議で決議されたことは全教会に伝えられるものです。なのに、この挨拶部分はシリアとキリキア地方に限定されているからです。11:19には「     」と書かれています。福音宣教を始めたのはパウロとバルナバだけでなく、迫害によってエルサレムから散らされたキリスト者もいたのです。その人たちによって、フェニキア地方にも教会が建てられたことでしょう。また、パウロとバルナバによってのガラテヤ地方にも教会が建てられました。この地方の名前が書かれていないことに疑問を覚えられた方もおられるかもしれません。ですが、この使徒の働きは著者ルカがテオフィロという人に宛てて書いた手紙です。そして、ルカはパウロの活動に焦点を絞って書いているのです。そのことを覚えて使徒の働きを読んでいく必要があります。ですから、22節で「全教会とともに」ということばを用いているのです。
 ひょっとしたら、使徒たちと長老たちは各地方別に手紙を書いたのかもしれませんし、シリアのアンティオキア近辺の地方には特別に手紙を書いたのかもしれません。ただルカはシリアのアンティオキア教会宛に書かれた手紙に焦点を合わせて書いているのです。その彼らに「兄弟たち」と呼びかけたのです。それは「ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエス・キリストにあって同じ神の家族である」ということです。そのことをこの挨拶を通して明確にしたのです。
 次に、論争の原因を指摘しています。このエルサレム会議が開かれる要因は、人が救われるにおいて「割礼を受ける」という律法を守り行う必要があるのか、それともイエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけで良いのかという論争です。先週の分かち合いの時にある方が話されていましたが、今日のキリスト教の根本的な事柄の論争です。「この論争を巻き起こした人たちはどのような人たちなのか」と言いますと、24節に書かれていますように「エルサレム教会からは何の指示も受けていないのに、あたかもエルサレム教会から派遣されたような印象を与え、自分たちの考えを主張したことです。そのため何が起こったのかと言いますと教会内での混乱と人の心の動揺です。
 彼らの主張は何に根拠を置いているのかと言いますと、15:1に書かれていますように「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ」という律法です。ですが、これはことばを変えれば「聖書から」ということもできます。彼らは「聖書にこのように書かれているじゃないですか」と言って、割礼を受けることを強調していたのです。彼らは「自分たちは聖書に根拠を置いて語っているのだ」としているのです。皆さんは、このように言われたらどのように答えられるでしょうか。「確かにそうですね」となってはいけないのです。そのようなことにきちんと答える備えをしておくことは大切です。
では、聖書はどのように語っているのでしょうか。申命記29章からは、モーセの第3説教が書かれている箇所です。これはイスラエルの民が約束の地カナンに入る前になされた契約の更新です。それはイスラエルの民への再献身が求められています。16節以降には、この契約を破ることへの警告がなされています。その目的は、30節に書かれていますように、「このみ教えのすべてのことばを行うため」です。「このみ教え」とは、新しい契約のことです。そして、30章に入ります。「このみ教えを行う者に祝福が与えられ、神は心に割礼を施されて生きるようになる」と6節で約束されています。「心に割礼を施される」とは、心からの悔い改めのことです。心からの悔い改めも神がなされるみわざであることが分かります。エレミヤ9:25に「     」と書かれています。「その時代が来る」と書かれています。「その時代」とは、神が約束された救い主が来られる時代のことです。「そのとき…罰する」と書かれています。何故なら、26節の最後に書かれていますように、「心の割礼を受けていないから」です。心からの悔い改めをしてないからです。神が約束された救い主であられるイエス・キリストが来られた時代は、肉の割礼ではなく心の割礼によって救われることが旧約聖書にも示されているのです。今朝の箇所には、このようなことは書かれていませんが、おそらくこのことが議論されたのではないかと考えられます。だからパウロは、ローマ2:28~29で「     」と語っているのです。最後に、使徒と長老たちは29節に書かれている内容をエルサレム会議で決議したことを伝えたのです。

3)手紙の効果
 この手紙を携えたパウロとバルナバ、ユダとシラスらは、この手紙をアンティオキア教会に手渡しました。30節の後半に「教会の会衆を集めて」と書かれています。教会の公の集会が開かれて朗読されたのです。では、この手紙はどのような効果をアンティオキア教会に与えたのでしょうか。そのことについて見ていきたいと思います。31節に「     」と書かれています。この手紙はアンティオキア教会の人たちを励ます効果をもたらしたのです。さらに、32節に「     」と書かれています。ユダとシラスは預言者であったことが書かれています。彼らは神から与えられた賜物を用いて、アンティオキア教会の人たちを励まし力づけたのです。
 割礼を強調する人たちがアンティオキア教会に来たときのことについては、24節に「     」と書かれています。ここに「混乱させ」と書かれています。この「混乱」と訳されていることばを調べてみますと、「形をなくしてしまう」とか「軍隊が町を滅ぼして様子を一変させる」という意味を持ったことばというのです。要するに、彼らの主張に翻弄され教会は2つに分断しそうになったのです。そのように教会が危機的状況に追い込まれたからエルサレム会議が開かれたのです。その結果、「割礼を受けることによって救われるのではなく、ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われる」という決議へと導かれたのです。そして、エルサレム教会からの手紙を通してアンティオキア教会の人たちは励まされ、さらにユダとシラスのことばを通しても励まされ力づけられたのです。
 アンティオキア教会の人たちは何を励まされ力づけられたのでしょうか。2つのことが考えられます。その1つは先程も話しましたように、「イエス・キリストの十字架による贖いを信じるだけで罪が赦され救われる」ということです。もう1つは、分断されそうになった教会の危機的状況が回避できたことです。アンティオキア教会は、この出来事を通してさらに一致することが強められ福音宣教に携わっていくのです。これがエルサレム会議の手紙がもたらした効果です。

結)
 この使徒の働きを見ていくとき、1つのことに気づかされます。それは何度も話していますが、「一度に全てではない」ということです。教会は様々な問題に直面しつつ、その問題を一つずつ解決しながら成長し前進し続けたのです。使徒の働きの中心聖句は1:8に書かれていますイエス・キリストの約束です。この約束がどのように成就されていくかが使徒の働きには描かれています。1:8の時にも話しましたが、聖霊が与えられたら一気に地の果てにまで福音が広がったのではありません。「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と徐々に広がっていったのです。「徐々に」とは「一歩ずつ」ということです。一歩ずつ、それは地味なものです。進んでいるのか進んでいないのか、ひょっとしたら進んでいるのではなく後退しているようにも思えてしまうようなものです。「神が共におられる歩み」とはそのようなものです。そのように思えたとしても進んでいるのです。今、祈り会では「進化と創造」という動画から学んでいます。神は一度に全てを造ることのできるお方です。そのお方が世界を造られたとき、一度に全てを造られたのではありません。「6日間」という時間をかけて造られたのです。神が世界を造られたときも一歩ずつなのです。先程も話しましたように、「一歩ずつ」とは地味で進んでいるのか進んでいないのか分からないようなものです。だからこそ、互いにことばをもって励まし合うことを通して、共に力づけられ進むことができるのではないでしょうか。私たちの教会もそのような教会として歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き15:12~21「神に立ち返る異邦人」 24.02.11.

序)
 先週、私たちはペテロが語る内容から、私たちも神の恵みによって救われ、その神の恵みの中で生かされていることを学びました。今朝の箇所は、主にヤコブが語った内容に焦点が合わされ書かれています。このエルサレム会議の議題は、「どのようにして異邦人は救われるのか」ということです。それは「割礼を受ける」という律法を守り行うことによって救われるのか。それとも「ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じる」という恵みを受けることによって救われるのかということです。このことについて、キリスト教会は激しい論争がなされましたが、このヤコブの発言を通して決議することとなります。では、ヤコブは何を根拠にして発言したのでしょうか。今朝は、このヤコブの発言の箇所を通して、私たちの教会も何を根拠として歩み続ければ良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)論争を通して
 まず、多くの人たちが異邦人の救いについて協議するためにエルサレム教会に集まりました。7節の冒頭には「多くの論争があった」と書かれています。それが意味するものは何でしょうか。それは平行線であったということです。平行線であったということは一致することができない状況であったということです。そのようなとき、ペテロは自分の証しを通して神の導きを話しました。それによって何が生じたかと言いますと、12節の冒頭に「すると、全会衆は静かになった」と書かれています。異邦人に対する神のみわざと導きを知ることによって、誰も口出しすることができなくなったのです。何故なら、人は神のみわざと導きに口出しすることはできないからです。
 続けて、12節には「そして、バルナバとパウロが…耳を傾けた」と書かれています。ここでも、第1回伝道旅行において、割礼を受けていない異邦人もイエス・キリストの十字架を信じる人たちが起こされました。13:52に「     」と書かれています。この「弟子たち」とは、イエス・キリストを信じた異邦人のことです。聖書は「イエス・キリストを信じた異邦人も聖霊に満たされていた」という事実を述べているのです。すなわち、あのペンテコステの日にイエス・キリストを信じる人たちに聖霊がとどまったのと同じように、異邦人キリスト者にも聖霊がとどまったのです。ペテロとバルナバ、パウロも異邦人に起こった事実を語ったのです。
 私が神学生時代に教えられたことの1つは、「信仰とは事実を事実として認め受け入れることである」というものです。あることを神に祈り出た結果を「これは何かの間違いだ」と言って受け入れないのではなく、これが祈ったことの神の答えであると受け入れる。「これが聖書の語る信仰である」ということです。このことばは、私に大きな影響を与えてくれました。それまでは漠然なものを描いていました。でもそうではなく、目の前に起きている事柄を事実として認め受け入れ、その事実に対して最善を尽くしていくことが聖書の語る信仰と受け止めるようになりました。聖書の語る信仰とは理想的なものを追い求めるものではなく、目標を描きつつ目の前の事実に対して最善を尽くしていう現実的なものです。
 ペテロの証しを通して静かになったあと、今度はバルナバとパウロが証しをしました。すると、全会衆は彼らの話しに耳を傾けました。改めて、神のみわざの証しがどれほど力強いものであるかを知らされます。その証しは、私たち一人ひとりにも与えられています。何故なら、私たちも神のみわざを経験しているからです。

2)判断の根拠
 そして、13節からはヤコブが語ったことに焦点が合わされています。そして、19節で「私の判断では」と自分の判断を語っています。では、そのヤコブの判断した根拠は何でしょうか。そのことについて見ていきたいと思います。ペテロとバルナバとパウロの証しを通して、ヤコブは14節で「神が初めに…民をお召しになった」と語っています。ヤコブが判断したことの基準は、異邦人がイエス・キリストを信じることによって救われたという事実です。この事実は決して否定することのできないものです。この事実に基づいて、ヤコブは旧約聖書の預言を説明します。その前に、14節に書かれています「シメオンとは誰か」ということです。「シメオン」と聞きますと、族長ヤコブの12人の息子の一人である「シメオン」と思い出す人もおられれば、イエス・キリストの両親が宮に行ったときに出会った老人「シメオン」を思い出す方もおられるかもしれません。ですが、この人たちのことではありません。この「シメオン」とはペテロのことです。シモン・ペテロの「シモン」とは、ヘブル語のシメオンのギリシャ語です。ですから、シメオンもシモンも同じ名前なのです。ヤコブの根拠の1つはペテロが経験した証しです。
 しかし、それだけではありません。15節に「預言者たちのことばもこれと一致していて」と語っています。すなわち、聖書のことばを根拠としているのです。この16~18節は、欄外にも書かれていますようにアモス9:11~12の引用です。11節は、ダビデ王国は滅びますが再び建て直されることが語られています。そして12節に「エドムの残りの者と…所有するためだ」と書かれています。エドムはイスラエルの民から見れば異邦人です。さらに、すべての国々も異邦人です。そして、「彼らが所有するためだ」と書かれています。この「彼ら」とは、その前に書かれています「ふるいにかけられ落ちなかった人」のことです。その彼らが所有するということは、同じ群れに属されるということです。ここには、異邦人であれ主の名で呼ばれる全ての人は同じ群れであるということです。そこには何の条件もありません。11節に「わたしは」と書かれています。この「わたしは」とは主のことです。
 少し話しが脱線しますが、新改訳聖書では平仮名の「わたし」は主ご自身を指しており、漢字の「私」は主以外の者を指しています。そのことを区別するために、私たちの教会では漢字の「私」を「わたくし」と読んでいます。実は、新改訳聖書はそのように読ませようとしたのです。第一版の新改訳聖書のマタイ2:13には「私」という漢字に「わたくし」とルビがふられていたのです。ただ、現代では「わたくし」と読む人が少ないのでルビをふることをしなくなりました。特に、新改訳2017が発行されてから今までは「わたくし」と読んでいて方も「わたし」に変えておられます。私たちの教会もどうするかを話し合うことも大切かもしれません。すると、週報の主の祈りのルビも変える必要がありますが。
 話しが反れましたが、ヤコブは異邦人の救いは神のわざであり、そこには何の条件も強いられていない聖書のことばを根拠としているのです。「同じ群れとなる」ということは「一つになる」ということです。それは「一体とされる」ということです。創世記2:24に「     」と書かれています「一体」です。この「一体」と訳されていることばは、申命記6:4の「唯一」と訳されていることばと同じです。第三版までは「ひとり」と訳されていました。一体ということばは、複数の者が集まって一つのものを形成することを表しています。三位一体もそうです。父・子・聖霊という位格を持っておられる方々が一つの「主」を形成されているのです。昨年の合同聖会で講師の山口陽一先生が「三位一体の神」と題して講演してくださいました。私たちの教会も後日礼拝でそのメッセージを聞きました。その中で山口先生は「性格や背景が違う人たちが一つになれるのは、この世界を造られた神が三位一体の神であるからだ」と話されました。父・子・聖霊が交わりをもって一つの主を形成されている。そして、「その主は欠けだらけである私たちの交わりを通して一つにされようとしている」と話されました。私はこの講演を聞きつつ、「この世に交わりがあるのは、交わりを持たれる三位一体の神が世界を造られたからであり、交わりを持たれない神がこの世を造られたのであれば、この世に交わりなどは造られなかったであろう」と思わされました。今年度の教会標語は「交わる教会」です。交わりを通して、さらに一つの群れとして歩まされていきたいと願っています。ヤコブは、ユダヤ人と異邦人が一つの群れを形成するのに何の条件もつけられていないことを聖書のことばを根拠として語ったのです。

3)判断の内容
 では、その判断した内容はどのようなものでしょうか。そのことが20~21節に「     」と書かれています。ヤコブは聖書のことばを根拠としつつ、「異邦人の間で…悩ませてはいけません」と19節で語っています。旧約聖書が語っているように、「異邦人が神に立ち返っている事実に目を留めるとき、その異邦人を悩ませるのは神の御心にそぐわない」と語っているのです。それは「イエス・キリストを信じる異邦人もユダヤ人も同じ神の民である」ということです。「それならば、神が受け入れておられる異邦人に対して、私たちは何も付け加えることはできない」と語っているのです。ですから、「割礼を受けることや律法を守り行うことによって罪が赦され神の審きから救われる」というのは間違っていることを告げたのです。
 ヤコブは自分の判断を語りつつ、より具体的な内容を20節で「     」と示しています。「これは何を意味しているのか」と言いますと、「律法が禁じていることはしないように」ということです。それは「こうすべきである」ということからは解放されているが、「こうしてはならない」ということにおいては守る必要があるということです。その理由は、律法は毎週会堂で朗読されているからです。
ここで注目したいのは「避けるように」ということばです。私たちは「聖書のことばを守るように」と心がけています。確かに「全てを守っている」と断言できませんが、でも「守るようにしよう」と心がけておられることと思います。では、何故「守るようにしよう」と心がけているのでしょうか。それは、聖書がそのように教えているからでしょうか。「聖書がそのように語っているから守る」というのは消極的な守り方です。ここで語られている「避ける」ということばは、「聖書がそのように語っているから避けるように」という意味ではありません。そうではなく、「自分の意思で避けるように」という意味です。それは「自ら進んで避けるように」ということです。
何度も話していますが、私たちは毎週日曜日に教会に集い礼拝を献げています。何故、毎週礼拝を献げているのでしょうか。聖書がそのように教えているからでしょうか。律法の中心である十戒の中に「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」と書かれています。厳密に言えば、安息日は現代の土曜日です。ですが、キリスト教会はその安息日をイエス・キリストが甦られた週の初めの日に変えて、週の初めの日を「主の日」として礼拝を献げるようになりました。聖書がそのように教えているから献げているのであれば、それは少し残念なことです。申命記5:12~15にも安息日について書かれています。15節に「     」と書かれています。特に「あなたの神…覚えていなければならない」と書かれています。安息日を守る理由は、「神によって導き出されたからである」ということです。すなわち、「神の守りと導きによって支えられているから安息日を守るように」ということです。要は、安息日の前の6日間は神の守りと導きによるものであることに感謝して安息日を守るように」ということです。安息日を守るのは決まりだからではなく、神への感謝から出てくるものなのです。これは今日の礼拝においても同じです。礼拝は「聖書が教えているから守る」というのではなく、1週間の歩みが神によって守られ導かれたことへの感謝から出てくるものなのです。すなわち、礼拝は自らの意思で進んで神に感謝して献げられるものなのです。そのように、20節の「避ける」というのも、自らの意思で避けるようにということです。それは「『神は何を願っておられるのか』を自ら考え行動するように」ということです。一人ひとりの自主性が勧められているのです。

結)
 ヤコブは異邦人が神に立ち返ることができたのは、ただ神の一方的な恵みによるものであることを語っています。それは異邦人だけでなくユダヤ人も同じです。全ての人は神の一方的な恵みによって神に立ち返ることができるのです。そして、一人ひとりはその神の恵みの中に生かされているのです。その神の恵みの中に生かされていることに感謝して献げるのが主日礼拝です。招詞の箇所でもあります詩篇50:23に「     」と書かれています。1週間の歩みを守り導かれたことへの感謝を神に献げる。これが私たちの献げている主日礼拝です。「決まりだから」という消極的なものではなく、「神の恵みに感謝して」という自らの意思で行うという積極的なものです。私たちの教会も一人ひとりが神の恵みに感謝し歩み続けるように祈っていきましょう。

使徒の働き15:6~11「イエスの恵みによって」 24.02.04.

序)
 先週私たちは、神の恵みと目の前の事柄の両面を見つつ歩み続けることの大切さを学びました。今朝の箇所は、ペテロが語った神の救いについてです。このペテロが語った「神の救い」を通して、今私たちはどのような中に生かされているのかを共に教えられたいと願っています。

1)神の取り扱いの中で
 まず、ペテロは7~9節でコルネリウス家族での出来事について語っています。このコルネリウス家族での出来事については、10~11章にかけて書かれています。ここでまずペテロが語っているのは、神がエルサレム教会の中から自分を選ばれたということの事実です。ここでペテロが語っている証しは、神の導きによってなされた出来事の事実です。すなわち、ペテロ自身が何かをしたというものではなく、神ご自身がなされた導きをペテロは語っているのです。
 では、神は異邦人をどのように導かれたのでしょうか。その1つは、7節の後半に書かれていますように、「福音のことばを信じるようにされた」という導きです。神は異邦人の心を開かれて、福音のことばを信じるように導かれたのです。それは私たちも同じです。私たちは自分で心を開いて福音を信じるようになったのではありません。何よりも神が私たち一人ひとりの心を開いてくださったから、福音を信じることができたのです。ですから、「私が福音を信じるようになった」というのも神の導きによるものなのです。
さらにペテロは、8節で「異邦人にも聖霊を与えて」と語っています。それまでは「福音はユダヤ人だけに与えられるもの」とペテロも理解していました。何故そのように捉えていたのかと言いますと、ユダヤ人は神から律法が与えられていました。しかし、ユダヤ人はその律法を守り行うことをせず、今まで導いて来られた神に従うことをしないで、他の神々を崇拝し従うようになりました。そのため、神は北イスラエル王国や南ユダ王国を滅ぼされました。それにも拘わらず、神はバビロニアに捕囚として連れて行かれたイスラエルの民を約束の地カナンに戻してくださいました。そして、イスラエルの民はカナンの地で主を礼拝し続ける民として歩み続けました。ところが、そのイスラエルの民は聖書の教えを曲解するようになりました。どのように曲解するようになったのかと言いますと、律法を守り行うことを強調するようになったのです。「先祖たちは神の律法に従わなかったから神の審きを受けることになったのだから、何よりも神の律法を守り行うことが大切である」として、律法を守り行うことを強調するようになったのです。
 しかし、そうではないことをイエス・キリストを通して神は明らかにされました。すなわち、人は神の律法を守り行うことによって自分の罪が赦されるのではなく、神の愛と慈しみと憐れみという恵みによって救われることを示されました。このような長い歴史の中で、人の罪の赦しはどのようにしてなされるのかを明らかにされたのです。そのような背景の中で生きてきた人たちですから、「福音は律法を守り行うことを強調していたユダヤ人に与えられたもの」と理解していたのです。その理解の仕方は「やむを得ないもの」とも言えます。ですから、この当時のキリスト者は、異邦人と接することをしないように心がけていたのです。だから、ペテロが異邦人であるコルネリウス家族と接したことを当時のキリスト者は非難したのです。それに対してペテロは、異邦人であるコルネリウス家族に接するのは神の導きによるものであり、その神が彼らに聖霊を授けられたのであり、神がなされることを私などが妨げることはできない」と11:17で語ったのです。
 さらに、今朝の箇所でペテロは、9節で「ユダヤ人と異邦人の差別はつけず、神は彼らの心を信仰によってきよめてくださった」と語っています。異邦人を聖められたのは神なのです。その神のみわざに人は口出しすることはできないのです。口出しすることよりも、人の理解を超えた神の恵みに目を向けることを勧めているのです。11:18に「     」と書かれています。これは自分たちの理解を超えたことをなさった神の恵みをほめたたえている箇所です。まさしく、神のみわざは人の理解を超えた恵みそのものなのです。そして、私たちを聖めてくださったのも神であり、私たちはその神の恵みの中で神に導かれつつ歩まされているのです。

2)人の理解を超えた神の恵み
 続けてペテロは、10節で「     」と語っています。「人の理解を超えた神の恵みとは何か」を、この箇所で語っています。それは「先祖たちも私たちも負いきれなかったくびき」です。ユダヤ人たちが負いきれなかったくびきとは何でしょうか。それは律法を守り行うことです。彼らは一生懸命律法を守り行おうとしていました。しかし、実際に律法を守り行うことはできませんでした。何故でしょうか。人の中に罪があるからです。その罪がある以上、人は神の律法を守り行い続けることはできないのです。たとえ行い続けたとしても、決してその人の心に平安はありません。あるのは、「いつか律法を破ってしまうのではないか」という不安です。何故なら、「自分はそれほど強くない」ということを知っているからです。
そのことはパウロ自身もピリピ3:8で「私の主である…考えています」と語っています。パウロはその前の6節の後半で「律法による…ない者でした」と語るほど、律法を熱心に守り行っていたのです。そのパウロでさえ、心の中は不安で一杯だったのです。それは「いつかは律法を破ってしまうのではないか」というものがあったからです。しかし、イエス・キリストと個人的な出会いをし、そのイエス・キリストを信じることによって、全ての不安が消し去られたのです。7節に書かれています「自分にとって…すべてのもの」とは、律法を熱心に守り行っていたことです。パウロは律法を熱心に守り行うことを「得」だと思っていたのです。しかし、イエス・キリストと個人的な出会いをして信じることによって、それが「損」と思うようになったのです。今までは「これが必要だ」と信じていたものが、「こんなの必要ない」と捉えられるようになったのです。
ペテロは、「そのようなユダヤ人も負い切れなかったものを何故異邦人キリスト者にも負わせようとするのか」と語りかけ、そのような行為は神を試みるものであると指摘しているのです。すなわち、「神が備えてくださった恵みを受け入れず人の行為で得ようとするならば、それは信仰ではなく神を試みるものであり、神に敵対する行為である」と語っているのです。「人の行為で得ようとする」というのは、「人が理解できる方法で」ということでもあります。「人が理解できる方法で行う」というのは、「最善を尽くす」ということでもあります。確かに、最善を尽くすことは私たちの歩みにおいて大切なことです。以前の時にも、「主に委ねるとは結果を委ねることであり、目の前の事柄には最善を尽くすことが大切である」というようなことを話しました。でもそれは、罪が赦され救われた後のことです。しかし、罪の赦しである救いにおいては全く違います。救いにおいては人の行為は全く必要ないのです。そのところをきちんと整理することは大切です。そうでないと、救いと信仰生活を同じように捉えてしまうようになります。
私たちの罪の赦しは、人がどれほど一生懸命頑張ったとしても得られるようなものではありません。もうそれは、一方的な神の憐れみによるものでしか得られないのです。そのために、神はイエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。人は聖霊の働きによって、イエス・キリストの十字架による贖いを信じ罪が赦されるのです。決して、人の行いは必要ないのです。

3)主イエスの恵み
 続けてペテロは、聖霊の働きによってイエス・キリストの十字架を信じ赦されることを、11節で「主イエスの恵みによって」と語っています。罪の赦しと救いは、神からの一方的な恵みによってです。ペテロはコルネリウス家族と出会うまでは、「神は割礼を受けている者を憐れみ、その人たちのためにイエス・キリストをこの世に送ってくださり、その人たちのために身代わりとなって十字架に架かってくださった。そして、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって罪が赦され救われた」と信じていました。ところがコルネリウス家族と出会い、そのコルネリウス家族に聖霊が働かれた現実と直面したとき、そうではなく「人が割礼を受けているか受けていないかは関係がない」ということを目の当たりにしたのです。そのときの説明について、ペテロは11:17で「     」と語っています。特に最後の部分の「どうして私などが…できるでしょうか」ということばに注目したいのです。この時も話しましたが、これは「神がなさることを私などが邪魔することはできない」ということです。10節の最後に書かれています「神を試みる」とは、神のみわざを邪魔することにも成りかねないのです。
 11:18で「そして…神をほめたたえた」とエルサレム教会の人たちは、割礼を受けていない異邦人にも救いの道を与えられたことに神をほめたたえたのです。しかし、今朝の箇所のエルサレム会議を見るとき、そのとき素直に神をほめたたえられない人たちもいたように考えられます。何故なら、異邦人たちは割礼を受けていなかったからです。そして、その人たちは割礼を受けることを強いる動きをしたのです。エルサレム会議のあと、使徒たちと長老たちは全教会に宛てて書かれた書面に「私たちは…聞きました」と24節に書かれていますように、割礼を受けることを強いる人たちは勝手に自分たちの考えを広めていたことが分かります。そして、この人たちはエルサレム会議の後も、自分たちの考えを押し通そうとし教会を混乱させました。教会で行われる会議は神に祈って臨んだものですから、その決議は自分の考えと違うものであったとしても従うべきものであることを知らされます。何故なら、決議は結果であり、その結果を神に委ねたのですから。
 ペテロは「救いは割礼を受けるという人の行いによって得られるものではなく、主イエスの恵みによって」と語っています。まさしく、救いは神の恵みによるものです。人がどれほど努力しても得ることのできないものです。人は救いにおいても、自分の頭で理解できる方法を受け入れようとしてしまいやすくなります。しかし、救いは人の頭で理解できる方法ではありません。何故なら、神は人の理解を超えた方法をもってしてくださったものだからです。まさしく、それが主イエスの恵みです。その恵みを受け入れる信仰が神によって与えられたことに感謝したいものです。

結)
 パウロは、その救いについてエペソ2:8~9で「     」と語っています。特に、8節の前半に目を留めさせられます。「この恵み」とは、4節に書かれていますように、憐れみ豊かな神の大きな愛です。神の恵みによって救われたということは、救われた後の私たちの歩みも神の恵みの中にあるということです。すなわち、今も私たち一人ひとりは神の恵みの中に生かされ導かれているということです。そのことを覚えつつ、互いに励まし合い祈り合いつつ歩まされていきましょう。

使徒の働き15:1~5「神の恵みに目を留めて」 24.01.28.

序)
 パウロとバルナバの宣教によって、異邦人にも信仰の門が開かれたことを教会に報告しました。おそらく、教会の人たちは大いに喜び神に感謝したことでしょう。パウロとバルナバのアジア宣教は、外部からの強い迫害によって厳しい苦難を経験しましたが、神の支えと導きによって守られアンティオキア教会に戻ることができました。ですが、異邦人に信仰の門が開かれたことによって新たな問題に直面します。その問題が15章に描かれています「エルサレム会議」と言われる箇所です。この箇所は、私たちの信仰の根本に関わってくる事柄です。それは一言で言いますと、救いは律法を守り行うことによって得られるのか、それとも信じるだけで得られるのかというものです。初代教会は外部との戦いだけでなく、内部との戦いをも経験していくのです。私たちは、このエルサレム会議から何に目の前の事柄に取り組むために必要なことを共に教えられたいと願います。

1)ユダヤから下って来た人たちの立場
 パウロとバルナバは、第1回伝道旅行を始めるにあたり、外的迫害を受けることは覚悟していたと思われます。何故なら、パウロ自身がキリスト教を迫害していたからです。そのようなことは、これから自分たちが始める伝道旅行においても生じる可能性は十分にあります。ですから、外的迫害については備えていたものと思われます。しかしながら、この15章に描かれています「エルサレム会議」と言われる箇所は外的迫害ではなく、キリスト教自体の内面的な問題です。そのことについては「全く」と言って良いほど備えはなかったものと思われます。何故なら、パウロとバルナバはシリアのアンティオキア教会に戻り報告をしたとき、このような問題は何一つ起こらなかったからです。彼らは共に心を一つにして、神のみわざに感謝し喜んでいたのです。
 ところがです。1節に「     」と書かれています。14:28に「しばらくの間」と書かれています。この「しばらくの間」というのはどれ程の期間なのかは分かりません。第3版までは「かなり長い期間」と訳されています。そのようなことから、パウロとバルナバによる伝道旅行の報告がエルサレム教会にまで届いたものと考えられます。「エルサレム教会はどのような人たちによって形成されていたのか」と言いますと、6:1には「ギリシャ語を使うユダヤ人から…苦情が出た」と書かれています。このギリシャ語を使うユダヤ人というのは、ヘレニズム文化を背景として育ってきた人たちのことです。そして、「ヘブル語を使うユダヤ人」というのは、ユダヤ文化を背景として育ってきた人たちのことです。各々の育ってきた文化の背景が違うのです。文化が異なるということは、生活習慣も異なるということです。例えば、現代において一番問題となるのはゴミの分別問題です。これは文化だけでなく地域によって異なってきます。食べ物の汚れがついたままのプラごみは燃えるごみとして出すことのできる地域もあれば、プラスティックごみとして出さなければならない地域もあります。ましてや、外国文化で育ってきた人たちは、その国の文化は馴染みがありませんから大変です。
 多分エルサレム教会にはヘブル語を使うユダヤ人が主流だったのでしょう。そのため、ギリシャ語を使うヘブル人への差別という問題が生じていたと考えられます。そして、ヘブル語を使うユダヤ人の背景はユダヤ教です。そのため、イエス・キリストを信じても律法を守ることに重点が置かれていました。その最も大きなものは「割礼を受ける」というものです。割礼は神がアブラハムに命じられたものですから、「イエス・キリストを信じても割礼を受ける必要がある」として、ヘブル語を使うユダヤ人キリスト者同士が結婚し子どもが生まれたとき、その子どもにも割礼を施していたと考えられます。エルサレム教会では何も決まっていないのに、自分たちの習慣をシリアのアンティオキア教会にも強要しようとしていたのです。

2)パウロとバルナバの立場
 それに対して、「パウロとバルナバはどのような立場であったのか」と言いますと、2節に「それで…対立と論争が生じた」と書かれています。このことから、エルサレム会議の決議に対して大きく反対したものと考えられます。では、パウロとバルナバの立場はどのようなものでしょうか。それは「イエス・キリストを信じるだけで救われる」という立場です。割礼を強調する人たちは、「イエス・キリストを信じることによって救われる」というのを否定してはいません。しかし、「それだけでは不十分である」としていたのです。「イエス・キリストの十字架による贖いを信じ、割礼を受けることによって完全に救われる」というのが割礼を強調する人たちの主張だったのです。それに対して、パウロとバルナバは「イエス・キリストを信じるだけで救われるのではあり、割礼を受ける受けないは救いにおいて関係はない」という立場です。
 この問題がアンティオキア教会で大きな問題となったのです。「その発端は何か」と言いますと、1節に「ある人々が…教えていた」ことです。この人々は先ほども話しましたが、15:24に「     」と書かれていますように、エルサレム教会ではそのようなことは決まっていないのに、勝手に自分たちの考えを押し通そうとしていたのです。そして、「割礼を受ける」という事実を作り上げて自分たちの考えを有利に運ぼうとしていたのです。先程も触れましたが、彼らはイエス・キリストの十字架による贖いを否定してはいません。むしろ「大切なものである」と語っているのです。しかし、同時に「信じるだけでは不十分であり、割礼を受ける必要がある」と教えていたのです。
 それに対して、パウロとバルナバは「イエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけで救われる」という、福音の中心を根本から歪める主張に激しく対立したのです。「教会の中に激しい対立が生じる」という出来事を皆さんはどのように思われるでしょうか。「教会なのだから激しく対立することよりも一致することの方が大切だから、彼らの意見を受け入れたら良いのに」と思われるでしょうか。確かに教会はイエス・キリストにあって一つの群れです。ですが、この「イエス・キリストにあって一つの群れ」というのは、「イエス・キリストの十字架の贖いによって救われる」ということを土台としての一つの群れなのです。それ以外のものを付け加えてはいけないのです。一致することを最優先し、福音の根本的なものを歪めてしまうなら、それはもう神の群れではなく単なる人の群れになってしまいます。
 教会の根本的なものを揺るがす事柄に対しては、どのようなものであれ私たちは強く反対する必要があります。それは教会が神の群れだからです。約2年前に教育部から発行されましたニュースレターは「教会を分断する異端特集号」でした。そこにも記載されていましたが、今日の異端はエホバの証人やモルモン教、旧統一協会(現・世界平和家庭連合)だけではありません。話しを聞きますと、牧師も信じてしまうような巧妙な手口で教会に入り込んできます。だからこそ、先週の礼拝でも話しましたように、語られる内容が聖書的であるのかを吟味する責任が私たち一人ひとりにはあります。その吟味する力が増し加えられるように祈っていきたいものです。

3)教会の対応
 このユダヤから下って来た人たちと、パウロとバルナバとの激しい論争を見たアンティオキア教会は、どのような対応と取ったでしょうか。2節の後半に「パウロとバルナバ、そのほかの何人かが…エルサレムに上ることになった」と書かれています。アンティオキア教会は、この問題を「自分たちの教会だけの問題」としなかったのです。教会はパウロとバルナバを始め数名をエルサレム教会に遣わしたのです。今後のキリスト教会の歩みをエルサレム教会で行われる公式な会議に委ねたのです。そのようにして、パウロとバルナバを始め教会の代表者たちはエルサレム教会に送り出されました。
 また、その道中で何をしたでしょうか。3節の後半~4節にかけて「道々…報告した」と書かれています。彼らは異邦人の回心について詳しく伝えたのです。また、エルサレム教会に着いて迎えられたときも、神が彼らとともにいて行われたことを全て報告したのです。すなわち、自分たちにできることの最善を費やしたのです。以前の礼拝でも「主に委ねるとは結果を委ねることであり何もしないことではない。それまでの過程は最善を尽くす必要がある」ということを話しました。ここでも、それを見ることができます。彼らは結果を主に委ねましたが、その結果が出るまでは自分たちにできる最善なことを尽くしていたのです。
 今、この人たちが抱えている問題は、今後のキリスト教会にとって命とりとなる大きな問題です。ともすると、その大きな問題に心が奪われて頭が一杯になってしまうような状況です。だからこそ、彼らは目の前の自分たちにできることに最善を尽くしたのです。この姿勢こそが、本当に問題に直面している姿ではないでしょうか。ともすると、私たちは目の前の問題のみに心が奪われてしまい、今までの神の恵みを全て忘れてしまい、慌てふためいてしまいやすくなります。「慌てふためくことが悪い」とは言いません。何故なら、私たちはそのような弱さを持つ存在だからです。だからこそ、神の恵みに目を向けるのは大切なことです。そして、目の前のことに最善を尽くしていくことも大切です。
 5節に「ところが」と書かれています。3~4節を読みますと、全てが順調に進んでいるように思えます。ですが、聖書は5節で「ところが」と語りかけています。全ての人がパウロの一行を歓迎したのではないことを示しています。そこには、大きな課題が待ち伏せていることを記しています。でも、どれ程大きな課題であれ、彼らがすることは同じです。それは神の恵みに目を向けつつ、目の前のことに最善を尽くしていくというものです。

結)
 教会は、歩んできた背景が異なる人たちの群れです。背景が異なるということは、捉え方や考え方が異なるということです。そうなりますと、当然問題が生じ論争へと発展していきます。ですから、教会の中に問題が生じるというのは不思議なことではありません。むしろ、問題が生じるのは当然のことです。私たちは問題が生じますと、その問題に目が向けられ心が奪われてしまいます。そのとき大切なのは、今までの神の導きと恵みに目を向けることです。神の恵みと目の前の事柄の両面を見つつ、歩み続けることができるように祈っていきましょう。

使徒の働き14:24~28「伝道旅行の報告」 24.01.21.

序)
 今朝の箇所は、パウロの第1回伝道旅行の最後の箇所です。パウロとバルナバは聖霊によって、シリアのアンティオキア教会からキプロス島と現代のトルコの南東部に福音宣教に遣わされました。その働きが終え、シリアのアンティオキア教会に戻り、教会の人々にその報告をした箇所です。今朝はこの箇所から、パウロとバルナバは自分たちの働きをどのように理解し、またどのような事柄を教会に報告しているのかを通して、私たちの歩みにおいてもどのような態度で歩み続ければ良いのかと共に教えられたいと願っています。

1)神の恵みの中で
 パウロとバルナバの宣教活動は、どのようにして始まったのでしょうか。そのことについて聖書は、使徒13:2で「     」と記しています。アンティオキア教会に集う人たちが主を礼拝していたとき、聖霊が一人ひとりに語りかけられたのです。どのようにして語りかけられたのかは分かりません。13:2の箇所の時にも触れましたが、聖霊が直接一人ひとりに語りかけられたのか、それとも一人の預言者を通して語りかけられたのかは分かりません。どちらでも取れる内容です。どちらであれ、注目すべきことは「神のことばが語られた」ということです。すなわち、パウロとバルナバの宣教活動はアンティオキア教会の思いつきではなく、「神ご自身のご意思によって成されたものである」ということです。そして、その宣教活動の働きを終えて戻って来たのですが、その所は「神の恵みに委ねられて送り出された所であった」と書かれています。すなわち、聖書はパウロとバルナバの宣教活動全ては、神の恵みの中で成されたものであったことを示しているのです。
 しかしながら、パウロの第1回伝道旅行を振り返りますと、キプロス島での活動は順調に進んだように思えますが、ピシディアのアンティオキア以降の活動は迫害の連続でした。特にリステラの町では石打ちにされて仮死状態にまで追いやられてしまったのです。ですが、聖書は「これも神の恵みの中にある」と語っているのです。私たちは「神の恵み」と聞きますと、「自分にとって良いもの」だけをイメージしてしまうのではないでしょうか。ですが、聖書は神の恵みは自分にとって良いものだけではないことを示しているのです。以前にも話しましたが、「自分にとって最悪」と思えるような事柄も神の恵みの一つであることを示しているのです。何故なら、それが後にプラスとして用いられるからです。「あの時あの経験をしたから、今このように導かれている」という経験を私たちはあるのではないでしょうか。その時は辛かったかもしれません。しかし、その辛かった経験があったから、今この所にあるのではないでしょうか。そのように考えますと、「あの時の辛い経験も神の導きの中にあり、神の恵みの一つである」ということに気づかされるのではないでしょうか。その辛い経験が今かもしれません。でも、「その辛い経験を神は後にプラスとして用いてくださる」という見方ができるように導いてくださいます。
 私たち一人ひとりの日々の歩みは、その神の恵みの中にあることを覚えたいものです。そのように聞かれると、「先日の能登半島地震も神の恵みの中にあると言えるのか」と思われる方もおられるかもしれません。そのことについては何とも言えませんが、そのことについて一つ思わされたことがあります。それは創世記のヤコブの息子ヨセフです。聖書には「主がヨセフとともにおられた」と書かれています。それなのに、ヨセフは兄たちの妬みによってエジプトに売られてしまいましたし、エジプトでもポティファルの妻の偽証によって監獄に入れられてしまいました。「なぜ主がヨセフとともにおられるのに、このような仕打ちを受けなければならないのか」と思える状況が続きました。このときのヨセフは、「何で!」と思えるもの出来事です。しかし、創世記45:7に書かれていますように、兄たちに「    」と語りましたし、50:20でも「     」と語ることができたのです。イエス・キリストも「今は分からないが、後で分かるようになる」と話されました。今は分からなくても「神が益にしてくださる」という神の恵みの中に生かされていることを覚えたいものです。

2)働きを成し終える
 パウロとバルナバは「全ては神の恵みによるもの」と捉えシリアのアンティオキアに戻りました。聖書は彼らの働きについて、「成し終えた」と語っています。この「成し終えた」と訳されていることばは、使徒の働きでは様々なことばに訳されています。1:16では「成就しなければ」と訳されていますし、3:18では「実現されました」と訳されています。これらは、聖書に書かれている事柄は必ず成就するということです。すなわち、聖書に記されている神の計画は、私たちが生かされている歴史の中で必ず実現するということです。そのことを踏まえて、今朝の箇所の「成し終えた」ということばを理解するとき、それは神がパウロとバルナバを選ばれ、彼らに立てられたご計画をパウロとバルナバは成し遂げたという意味です。つまり、このパウロの第1回伝道旅行は漠然とした伝道旅行ではなく、はっきりとした目的を持った伝道旅行であったということです。そして、その目的を成し遂げたことを感謝してパウロとバルナバはシリアのアンティオキアに戻って来たのです。
 パウロとバルナバがアンティオキア教会を出るとき、13:4に「二人は聖霊によって送り出され」と、聖霊なる神の導きによるものであることが強調されています。聖霊の導きによって教会は神の御心を知り、聖霊の助けによって教会は共に心を合わせて祈るのです。教会は聖霊によって神のみことばを聞き、聖霊によって共に心を合わせて祈り合うことを通して、さらに教会は神の御心を知っていくのです。教会の歩みは、その繰り返しであることを知らされます。
 また、12:25には「奉仕を果たした」と訳されていますし、19:21では「これらのことがあった後」書かれている「あった後」が同じことばです。12:25は、11:29~30に書かれていますユダヤに住んでいる人たちへの救援物資をパウロとバルナバに託して送り出し、その務めを果たしたパウロとバルナバについて書かれています。19:21の「これらのこと」とは、パウロの第3回伝道旅行のときに生じた出来事を示しています。詳しく言えば、19:10に書かれていますように、アジア地方に住む人たちに主のことばを語り続けたことです。すなわち、自分に与えられている務めを果たし終えたことを表しています。
 以上のことから「成し終えた」ということばは、思い付きで始めたものではなく、目的と計画を立てて取り組んだことを指し示すことばであることが分かります。もちろん、その背後には聖霊の働きと教会の祈りがあることは確かなことです。14:36から始まるパウロの第2回伝道旅行と、18:23から始まるパウロの第3回伝道旅行はパウロの思い付きのように受け取れます。しかし、これはパウロの思い付きではありません。第1回伝道旅行の始まりが聖霊の導きにより、教会が共に祈り神の御心を知り始めたものである以上、この第2回伝道旅行と第3回伝道旅行も教会が共に祈り神の御心を知り、パウロを送り出したものと捉えるのが自然です。パウロとバルナバは、「アンティオキア教会から派遣された働きである」と自覚していたのです。ですから、アンティオキア教会に戻り、その働きの報告を祈り支えた教会の人たちに報告したのです。私たちの団体の宣教師は4年に1度北米に戻ります。それは自分たちの働きの報告のためです。約10ヶ月間、アメリカとカナダを飛び回って教会を訪問し報告されています。その原点はここにあるのです。

3)教会への報告
 パウロとバルナバは、シリアのアンティオキア教会に戻り教会の人たちに報告しました。それは自分たちの務めが聖霊の導きと教会の人たちの祈りによるものであることを自覚していたからです。彼らはシリアのアンティオキア教会の指導的立場の人たちです。しかし、同時に教会の一員であることも自覚しています。ですが、報告の目的はそれだけでなく、教会の人たちが共に神に感謝し、神に栄光を帰すことです。ですから、教会の人たちは彼らの報告を聞いて、きちんと教会の計画と目的を成し遂げたのかを吟味する必要があるのです。「無事に戻ってきて良かったね」で終わってはいけないのです。
 このことについて、報告ではありませんが礼拝メッセージにおいても同じことが言えると思います。礼拝で牧師が語るメッセージが果たして聖書的であるのか、また私たちの団体の信仰告白に沿っているのかを吟味する責任が教会員にはあるということです。メッセージで分からないことがあるかもしれませんし、私自身も間違ったことを語る時もあると思います。そのようなとき、礼拝後の分かち合いで出していただければと願っています。
 彼らの報告の中心は、様々な迫害に遭遇しながらも神の守りと導きによって支えられ、このように教会に戻ることができたと、27節の最後に書かれています「異邦人に信仰の門を開いてくださった」ということです。ある方は「えっ、シリアのアンティオキア教会には異邦人キリスト者もいたのではないの」と思われるかもしれません。11:19~26の箇所では、ユダヤ系ではない異邦人キリスト者もいたと考えられます。しかし、多くはユダヤ系異邦人であったと考えられます。しかし、第1回伝道旅行で建てられた教会の多くは、ユダヤ系ではない異邦人キリスト者を中心として建てられた群れであったと考えられます。パウロとバルナバは、「福音は決してユダヤ人だけのものではなく、ユダヤ人とは全く関係ない異邦人にも開かれている」ということを今回の伝道旅行を通して体験し、そのことを報告したのです。

結)
 今朝私たちは、パウロとバルナバの教会への報告を通して、私たちは神の恵みの中に生かされていることを知らされました。確かに、「不条理」と思えるような事柄に遭遇します。ですが、そこにも神は働いてくださっていることを覚えたいものです。また、教会はきちんとした目的と計画をもって活動することの大切さも学びました。さらに彼らの報告を通して、教会は語られる内容をきちんと吟味する責任があることも教えられました。教会がそのような群れであるということは、その群れに属する私たち一人ひとりもそうであるということです。私たち一人ひとりの歩みが神の恵みの中にあり、その恵みがどのように成されているのかを分かち合える群れとされていきたいと願います。

使徒の働き14:19~23「自立を目指す教会」 24.01.14.

序)
 先週は今朝の箇所から、「成長に欠かすことのできないもの」について学びました。それは、みことばを基準として歩むことであり、苦難の経験を通して神のすばらしさを知ることによってでした。パウロとバルナバは、キリスト者一人ひとりが霊的に成長することを願っています。ですが、それだけではありません。キリスト者個人の霊的成長と共に、キリスト者が集う教会の霊的成長をも願っています。教会の霊的成長とは、霊的に自立した教会のことです。今朝は23節を中心に、どのようにして教会は霊的自立を目指せば良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)長老たちの選出
 パウロとバルナバは、迫害を受けたリステラ、イコニオン、アンティオキアの各々の町に建てられた教会を巡り、一人ひとりの心を強めました。ですが、それだけで終わったのではありません。「教会ごとに長老たちを選び」と書かれています。パウロとバルナバは、教会ごとに長老たちを選んだのです。聖書の中には「監督」「長老」「執事」ということばが書かれています。各々の違いは何かと言いますと、「職務の違い」と考えられます。明確に区別することは難しいのですが、多くの教会では監督を「牧師」と捉え、長老・執事は牧師を補佐する「教会指導者」と捉えています。しかしながら、使徒20:17~28には、長老が監督であるかのようにも取れることが書かれています。パウロはエペソの教会の長老たちに語りかけたことが18節から書かれています。そして、28節の最後に「聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです」と語っています。この「あなたがた」とは、呼び寄せられた長老たちのことです。ですから、長老を「監督」と理解することも可能です。ですが、テトス1:6~7では、長老と監督を区別して書かれています。このようなことから、長老は教会の監督である牧師を補佐する立場の人たちと理解し、執事は長老を補佐する立場の人たちと理解する方々もおられます。ですから、教会によっては「牧師」「長老」「執事」を置かれている教会もあります。私たちのバプテスト教会には「長老」は置かずに牧師と執事のみです。「バプテストだから長老は置いてはならない」という定めはありません。ただ、私たちの教会の規約には「執事」の選出しか書かれていませんので、「長老」は置かれていないだけのことです。ですから、長老が置かれていない教会の執事は、牧師の補佐をする立場であり、牧師と同じく教会の指導的立場の職務があります。
 では、何故パウロとバルナバは、教会ごとに長老たちを選んだのでしょうか。それはパウロとバルナバが各々の地域から去ったあとも、各々の教会が信仰にしっかりと留まり続けるためです。それには教会に集う一人ひとりがみことばを基準として歩み続ける必要があります。教会の一人ひとりがみことばを基準として歩み続けるには、みことばが語り続けられる必要があります。何故なら、みことばを語らなければ、人はみことばを忘れてしまうからです。人は決して強い存在ではありません。自分自身を見れば分かります。ついついみことばよりも、自分の思いや考えを優先させてしまいやすい存在です。だから私たちは、礼拝で語られるみことばを通して養われていくのです。すなわち、教会の指導者がみことばを通して群れの一人ひとりを養い導くために選ばれたのです。
もう1つは、一つの群れとして歩み続けるためです。すなわち、群れをまとめていくことです。このリステラ、イコニオン、アンティオキアの町は迫害を受けた町です。パウロとバルナバが去ったら迫害がなくなるわけではありません。教会が存続する以上、町からの迫害は避けることのできないものです。パウロとバルナバは、そのことを十分理解していたのです。ですから、そのような迫害を受けたとしても一つの群れとして歩み続けていくためにも指導者が必要だったのです。それだけではなく、先程見ました使徒20:29~30で「     」と語っています。外からの迫害だけでなく、中から生じる違った教えからも守るためです。教会は様々な霊的戦いを強いられる群れです。その霊的戦いに負けることがないために指導者が選ばれたのです。

2)祈り
 パウロとバルナバがしたことのもう一つは祈りです。このときの祈りは、長老たちだけではなかったと考えられます。教会の人たち全員との祈りです。このように何かある度に、教会で全員が共に祈ることはあります。ただ、使徒の働きを読んでいきますと、共に集まり祈り合っていることが何度も書かれているのに気づきます。イエス・キリストは、宮の中で商売している人たちの台や腰掛けを倒されて、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と言われました。これは、神殿は祈りの家であることを語られています。どのようにして教会は成り立っていったでしょうか。創世記を見ますと、族長たちは祭壇にていけにえを献げました。その後、出エジプトのときには幕屋となり、カナンの地に定住するようになりますと神殿となりました。その後、神殿がバビロニア帝国によって破壊され会堂となりました。その後、エズラの時代にエルサレムに神殿が建てられましたが、散らされたユダヤ人たちは各々の地での会堂で集会を持っていました。教会は、この形を受け継いだのです。入会クラスで学ばれたことと思いますが、教会には「見えない教会」と「見える教会」があります。「見えない教会」とは、イエス・キリストにあって一つである霊的な教会のことです。それを「公同の教会」と言います。「見える教会」とは、各々の地に建てられている地域教会のことです。旧約聖書から見れば、見えない教会が「神殿」にあたり、見える教会が「会堂」と言うことができます。ですから、教会は「祈りの家」ということができます。
 教会が「祈り会」「祈祷会」というのを持っているのは、教会は祈りの家だからです。共に集い心を合わせて祈り合う祈り会は教会にとって大切なものです。祈り会を「教会の霊的バロメーター」と言われます。私が石川県の教会で奉仕をしていたとき、その教会の牧師が米沢の興譲教会に講師として招かれたとき、礼拝前に教会に入りますといろいろな場所で小グループになって礼拝のために祈っていたのを見て、「『この教会の強みはこれか!』と思わされた」と私に話してくださったのを今も覚えています。「教会が成長し続けるために必要なのは伝道だ」と思われるかもしれません。確かに教会の成長のために伝道するのは大切なことです。しかし、同時に共に心を合わせて祈り合うことも大切であることを聖書は語っています。何故なら、教会は祈りの家だからです。初代教会は共に心を合わせて祈り合っていくことによって確立されていったのを忘れてはなりません。そして、私たちの教会も共に心を合わせて祈り合う群れとして歩み続けていきたいものです。

3)主に委ねる
 パウロとバルナバは、教会ごとに長老を選び共に心を合わせて祈り合ったあと、「信じている主にゆだねた」と書かれています。このみことばから、「主に委ねるとはどういうことか」を考えさせられます。主に委ねるとは、何もしないことではありません。何もしないのは主を試みるだけです。パウロとバルナバは「何を主に委ねたのか」と言いますと、結果を主に委ねたのです。自分たちにできることは最善を尽くしたのです。すなわち、「主に委ねる」というのは、目の前の事柄に対して最善を尽くすということでもあります。聖書の語る信仰とはそういうものです。救いにおいては人の行いは必要ありませんが、信仰の歩みにおいては行いが必要なのです。ヤコブの手紙の時にも触れましたが、だからヤコブは「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」と語っているのです。
 イエス・キリストご自身も、「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」と話されています。この「忠実」ということばはギリシャ語で「ピストス」と言い、「信頼する」「信用する」という意味が含まれていることばです。それは「信仰」と訳されていますギリシャ語の「ピスティス」と意味合い的には同じものです。使徒10:45に「信者」と書かれています。「信者」とは信じる人のことであり信仰者のことです。このことばは「ピストス」ということばの複数形です。すなわち、聖書は信仰とは忠実と深い繋がりがあることを示しています。このことから、「聖書の語る信仰とは目の前の事柄を忠実に果たし続けることを意味している」というのが分かります。
 パウロとバルナバは、自分たちに生き様を通して「信仰とはどのようなものであるのか」というのを教会の人たちに示していたのです。すなわち、ただ信じるだけで何もしないのではなく、目の前の事柄に対して一つひとつ忠実に果たしていくものであることを示したのです。また、信仰とは一飛びのようなものではなく一歩ずつです。「神を礼拝するのは主の御心であるから守ってくださる」として、3階から飛び降りたらどうでしょうか。おそらくケガをして病院に運ばれることでしょう。階段を一つひとつ降りるのにも神の守りがあります。3階から飛び降りるのは神の守りを信じることではなく、むしろ神を試みる行為です。それは私たちの日々の生活も同じです。地味ではありますが、目の前のことを一つひとつ忠実に果たしていくことが聖書の語っている信仰です。
 パウロはⅡテサロニケ3:6~13で「     」と語っています。パウロが夜昼、労し苦しみながら働いていた目的は、見習うように身をもって模範を示すためでした。それは「信仰とはどのようなものであるか」を伝えるためです。教会の中には極端な捉え方をする人たちが出てきました。それは「神が養ってくださるから」と言って仕事をせず、人から与えられるもので生活していた人たちが出てきたようです。パウロは「そのような捉え方は間違いである」ことを示しています。ですから、パウロは12節で「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と勧めているのです。何故なら、仕事を通して神は養い必要を満たしてくださるからです。そして、「それが主に委ねる信仰である」と示しているのです。主に委ねるとは、目の前の事柄を一つひとつ忠実に果たし続けることです。

結)
 パウロとバルナバは、「福音宣教をして信じる人たちが起こされ、教会が建てられたらそれで良し」として神に委ねて戻ったのではありません。建てられた教会の町々に戻り、各々の教会が霊的に自立して歩み続けられるように準備をしたのです。それは教会の指導者を選ぶだけでなく、共に心を合わせて祈り合い、一人ひとりが最善を尽くすことを通して教会が自立した歩みをするためです。このことは私たちの教会においても同じです。私たちの教会も共に心を合わせて祈り合い、一人ひとりが最善を尽くしていく群れとして歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き14:19~23「成長に欠かせないもの」 24.01.07.

序)
 今日は、新年最初の礼拝です。新年に沿ったものも考えたのですが、7日も経ちますと正月気分も抜けたことでしょうから、使徒の働きに戻った方が良いと思い、今日から使徒の働きに戻ることにしました。前回を少し振り返りますと、パウロとバルナバはリステラという町に行き、生まれつき足が動かない人を癒したことから、リステラの町の人たちはパウロとバルナバを神々と思い崇拝しようとしました。そのことに気づいた彼らは「真の神に立ち返るように」と勧め、彼らの行為をやめさせました。今朝の箇所は、そのリステラの町の続きです。今朝は「霊的成長にかかすことのできないもの」について、来主日は「教会の確立」について、この箇所から共に教えられたいと願っています。

1)リステラとデルベの町にて
 先程も触れましたが、パウロとバルナバの必死に彼らの行為を止めさせようとしたため、リステラの人たちはパウロとバルナバへの崇拝を諦めました。しかし19節には、事態が急変した出来事が描かれています。何が起きたのかと言いますと、ピシディアのアンティオキア町とイコニオンの町のユダヤ人たちがやってきて、群衆を抱き込みパウロを石打ちにしたのです。驚くのは、イコニオンのユダヤ人だけでなくピシディアのアンティオキアのユダヤ人も来たということです。14:1のときにも触れましたが、ピシディアのアンティオキアの町はイコニオンから4~5日かかる道のりです。リステラの町は、イコニオンから1日かかる道のりです。200㎞程離れた町にまで、パウロとバルナバを追いかけてきたピシディアのアンティオキアのユダヤ人たちの「執念」と言いましょうか、思いの強さが伝わってきます。
 ですが、これは驚くべきことでもありません。パウロもそうでした。パウロもエルサレムの町でキリスト者を迫害するだけで満足するのではなく、ダマスコの町にいるキリスト者をも捕らえようとして出かけていたのです。エルサレムからダマスコまでの距離は約250㎞です。ですから、ピシディアのアンティオキアからリステラまでよりも遠いのです。それ程の距離をパウロは迫害しに行ったのですから、今回のことも驚くべきことではありません。ただ、彼らは群衆を抱き込んだのです。どのようにして抱き込んだのかは書かれていませんので分かりませんが、癒しの奇蹟を目の当たりにした人々をも抱き込んだのですから、とても巧妙な方法を取ったものと考えられます。このような現象は現代でも起こり得るものです。「自分の側にいる」と思っていた人が、ある日突然相手の側につくということが。世間というものが、どれほど当てにならないものであるかを見ることができます。
 その彼らによってパウロは石打ちの刑に処せられます。そして、彼らはパウロが死んだものと思い町の外に引きずり出しました。おそらく、それは見た目だけの判断ではなく、脈が止まっているのを確認して「死んだ」と判断したものと考えられます。キリスト者たちがパウロを取り囲んでいますと、急にパウロは立ち上がって町に入って行ったのです。それだけでなく、翌日はバルナバと共にデルベという町に行ったのです。石打ちの刑に処せられたときのパウロは仮死状態だったと考えられます。学びのときに、「Ⅱコリント12:2~5に書かれているのはパウロ自身のことである」と話されていましたが、私もそのように捉えている一人です。
 21節を読みますと、デルベの町では迫害を経験することはなかったようです。そして、多くの人々をイエス・キリストに導くことができたのです。しかしパウロとバルナバは、このデルベの町に留まり続けるのではなく、大きな迫害を経験したリステラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキアの町に引き返したのです。不思議に思えます。学び会のときにも見ましたが、その先に道がなかったのではありません。デルベからタルソに行く道はあったのです。デルベからピシディアのアンティオキアに戻るのと、デルベからパウロの故郷であるタルソを経由してシリアのアンティオキアの町に行くのとは、距離的にすればそれほど大きな違いはありません。なのに、パウロとバルナバは引き返したのです。何故でしょうか。考えられることは、リステラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキアに誕生した教会は、信仰的には生まれたばかりの状態ですから、身の危険を冒してでも彼らの信仰を励ます必要があったからと考えられます。5年や10年も経った人たちなら、そこまではしなかったことでしょう。誕生したばかりの教会が成長することを願い引き返したものと考えられます。

2)信仰にとどまって
 では、パウロとバルナバは引き返して何をしたのでしょうか。1つは22節に書かれていますように、「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりととどまるように勧め」たのです。パウロとバルナバは、誕生した教会は自然に成長していくとは考えませんでした。最も重要なことは、誕生した群れの一人ひとりの心を強めることでした。パウロとバルナバの宣教によってイエス・キリストを信じた人たちは、救いの喜びで心はいっぱいだったことでしょう。しかし、これから彼らを待ち受けているのは、現実の生活の中で経験する様々な障害です。ともすると、あまりにも厳しい現実に直面し、信仰が挫折してしまう危険性があります。そのために、最も大切なのは一人ひとりの心を強めることです。そのために、パウロとバルナバは各々の町に引き返したのです。
 では、どのようにして一人ひとりの心を強めたのでしょうか。それは、信仰にしっかりと留まることによってです。では、「信仰にしっかりと留まる」とは、どのようなことでしょうか。それは聖書のみことばを基準として、目の前の現実の事柄を見据えることです。ともすると、私たちは聖書のみことばではなく自分の経験や考えを基準として、目の前の事柄を見据えてしまいやすくなります。すると、間違った方向に進んでしまいます。「間違った方向とはどのような歩みなのか」と言いますと「的外れ」な歩みです。「的外れ」とは、聖書の語る「罪」を意味することばです。すなわち、そのような歩みは神に背を向けた歩みです。気づかない内に、神に罪を犯す歩みへと進んでしまいます。パウロとバルナバは、せっかく神から信じる信仰をいただき、罪を赦された者として、その道を歩み続けるためにも、信仰にしっかりと留まることを勧めたのです。聖書のみことばを基準として、「このことについて聖書は何と語っているのか」を聞き従いつつ、目の前の事柄に取り組んでいくことです。
 聖書に「あなたのみことばは、私の足のともしび。私の道の光です」と書かれています。「足のともしび」とは、目の前の事柄のことを意味しています。そして、「道の光」とは先のことを意味しています。「先のことを見据えつつ、目の前の事柄をきちんと果たしていくために必要なのは神のことばである」というのをこの箇所は表しています。「道の光は先のことを意味している」と話しました。先のことですから、はっきりとは見えずボンヤリかもしれません。しかし、目の前のことははっきりと見えます。すなわち、先のことははっきりと分からなくても、今何をしなければならないのかははっきりと分かります。その分かることを忠実に果たしていくためにも、神のみことばを基準として歩み続けることが大切です。不安や恐れを覚えても良いのです。動揺しても良いのです。それでも、「全てのことが共に働いて益となる」という神の導きを信じて、神のことばに従って一歩踏み出すことが大切なのです。これが「信仰にしっかりと留まる」ということであり、私たちの霊的成長に欠かすことのできないものです。

3)多くの苦しみを経て
 では、神のことばに従って一歩踏み出せば全てが順調に行くのかと言いますと、必ずしもそうではありません。「こんなはずでは」と思える事柄に遭遇することがあります。パウロとバルナバは、そのことをよく知っていました。ですから、勧めのあとで「私たちは…経なければならない」と語っているのです。クリスマスライヴのときにも話しましたが、私たちは神のみことばに従いつつも「何でこんなことが?」と思えるものに遭遇し、「最悪!」と思えることを経験します。聖書は「神を信じれば苦しみなど経験しない」とは語ってはいません。むしろ、「多くの苦しみを経なければならない」と語っているのです。「その目的は何か」と言いますと、その前に「神の国に入るために」と書かれています。神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならないのです。ここで語られています「神の国」とは、天の御国に入ることではありません。私たちが生かされていますこの世は、信仰の修行の場ではありません。聖書は、「天の御国に入るためにこの世にて多くの苦しみの経験を積まなければならない」とは語っていません。ここで語られています「神の国」とは神のすばらしさのことです。すなわち、「神のすばらしさを経験するには、多くの苦しみを経験する必要がある」ということです。
 先程も触れましたがクリスマスライヴの時に話しました。「最悪」と思える事柄が後に生かされるという経験を私たちはします。「あの時のあの苦しみが今生かされている」という経験をです。そのとき、「あの時の苦しみはこのことのためだったのか」と捉えることができます。そのように捉えますと、「あの時に『最悪』と思えていたものは最悪ではなかった」と思うようになり、「あれは私への神の備えだったのだ」と捉えられるようになります。まさしく、聖書のみことば通り「すべてのことが共に働いて益になる」ことを知らされ、改めて神のすばらしさを経験させられます。この22節の後半に書かれていることは、そのようなことです。私たちは出エジプト記と民数記に書かれています出エジプトの出来事を通して、イスラエルの民は約束の地カナンに入ることができたのを知っています。私たちの歩みは、まさしくあの出エジプトの歩みと同じです。多くの苦しみを経験しますが、その経験を神は益として生かすことのできる方です。そして、神のすばらしさを自分の体験を通して知らされていくのです。パウロとバルナバは「多くの苦しみを経なければならない」と、「なければならないもの」として語っています。それは私たちが神のすばらしさを新たに知るための神の備えだからです。ですから、苦難というのは私たちの霊的成長に欠かすことのできないものでもあります。

結)
 今朝は、私たちの霊的成長に欠かすことのできないものを共に教えられました。それは、みことばを基準として歩むことと苦難を経験することです。特に、苦難はマイナスのように思えますが、決してマイナスなものではありません。何故なら、神は私たちの想像を超えて、マイナスに思えるような事柄を通してプラスにすることのできる方だからです。その神に目を留めつつ、今年1年歩み続けられるように祈っていきましょう。

詩篇95:1~3「主に向かって喜び歌おう」 23.12.31.

序)
 今日は、今年最後の日となりました。今年も様々なことがありましたが、その一つひとつの歩みが守られたことを神に感謝したいものです。それと同時に、明日から新しい年が始まります。その新しい年も神を心から賛美する年とされたいと願っています。今朝の箇所の1節に「喜び歌おう」と書かれており、1節と2節には「喜び叫ぼう」とあります。「喜び」ということばが3回も用いられています。聖書は「主にある者には、喜びが心から溢れ出てくる」と語っています。しかし、私たちの現実の生活は喜びだけでなく、苦しみや悲しみの方が多いようにも思えたりもするのではないでしょうか。そのような中で、私たちはどのようにして神に向かって喜び歌い、喜び叫べば良いのでしょうか。今朝は、その喜びについて共に教えられたいと願っています。

1)誰に喜ぶのか
 私たちが喜ぶときはどのような時でしょうか。それは、自分の願いが叶えられ嬉しく思えた時にではないでしょうか。そのようなとき、私たちは心から喜びます。そのような喜びは、人として当然のことであり別に悪いことではありません。ですが、よくよく考えてみますと、私たちは結果に対して喜ぶのではないでしょうか。イエス・キリストが喜びについて話された箇所があります。その記事はルカ10:17~20です。ここに「     」と書かれています。イエス・キリストの弟子たちは、喜んでイエス・キリストの御許に帰って来ました。何故でしょうか。悪霊どもでさえ弟子たちに服従したからです。イエス・キリストの弟子たちは、良い結果が出たから喜んだのです。逆に言えば、もし悪霊どもが弟子たちに聞き従わず期待していたことと正反対の結果が出たなら、彼らは大きく失望して喜ぶこともなく、むしろ失望しながら帰って来たことでしょう。そのような弟子たちに対して、イエス・キリストは20節で「     」と話されました。これは「結果に喜びの根拠を置かないように」ということです。結果は喜びの根拠ではないのです。では、何が喜びの根拠となるのでしょうか。それは20節の後半で話されているように、自分の名が天に書き記されていることにです。すなわち、自分の罪が赦され神の子とされていることが喜びの根拠なのです。さらに言うならば、「神があなたにすばらしいことをしてくださったことに喜びなさい」と話されているのです。
 今朝の箇所の1節にも、「私たちの救いの岩に向かって」と書かれています。最初は「主に向かって」と書かれていますが、次は「救いの岩に」と置き換えられています。神を「救いの岩」と告白しています。今年神は、あなたにどのようなことをしてくださったでしょうか。何よりも、まずあなたを愛してくださいました。そして、あなたの歩みを支え守ってくださいました。神の支えと守りがあったから、私たちは今日このように生きていることができるのです。そして、必要なもの全てを満たしてくださいました。今年1年、神は私たち一人ひとりを導いてくださいました。まさしく、神は私たちにとって「救いの岩」となってくださいました。
 今年1年だけでなく、今までの歩みを振り返りますと、神に対して罪を犯していた私を救ってくださいました。今年も多くの人はクリスマスの意味も知らず過ごされたことでしょう。「イエス・キリストが何のためにお生まれになられたのか」を知らずに。それは、私たちの罪を赦し神の子とされるために、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かられるためにお生まれになられました。見えるものや感じるものに左右され不安や恐れに苛まれる。そのような私たちに本当の希望・平安を与えるために、イエス・キリストはお生まれになってくださり十字架に架かってくださいました。まさしく、神は私たちにとって救いの岩です。
 著者は、その救いの岩であられる神に向かって喜び歌うことを勧めています。結果にではなく、このような私に目を留め愛してくださり、守り導いてくださる神に喜び歌うことを勧めています。今年1年愛し守り導いてくださった神に感謝し喜びたいものです。そして、新年を迎えたいものです。

2)どのようにして喜ぶのか
 次に、私たちはどのようにして神に対して喜べば良いのでしょうか。著者は2節で「感謝をもって」と告白しています。まずは感謝をもって喜ぶのです。「感謝」という思いは、どのようにして生まれるのでしょうか。それは今までの歩みを振り返ることによってではないでしょうか。私たちの今までの歩みはどのようなものだったでしょうか。喜びの時もあったでしょうし、苦しみや悲しみの時もあったことでしょう。しかし確かなことは、神は最善を尽くして私たち一人ひとりを導いてくださったということではないでしょうか。聖書は「感謝をもって」の後に、「御前に進み」と語っています。この「御前に進み」を直訳しますと、「彼の顔に向かって」となります。それは神を見上げることを意味しています。最善を尽くし導いてくださる神を見上げる。今まで最善のときに最善のことをしてくださった神を思いつつ、これからの歩みに対しても神は最善のときに最善のことをしてくださると信じ、その神に委ね神を礼拝することを表現しています。聖書は「何でも良いから神を喜びなさい」と語っているのではありません。「きちんとした事柄」と言いましょうか、「根拠」と言いましょうか、「事実を確認して喜びなさい」と語っているのです。盲信や空想をして喜ぶのではありません。
 もう一つは、「賛美をもって」です。「賛美」と聞きますと、主日礼拝で行われています礼拝を思い起こされるのではないでしょうか。賛美は、神への礼拝に欠かすことのできないものです。ですから、神を礼拝することを表しています。喜びというのは、神を礼拝することを通して行われるものでもあります。そして、その「礼拝」と聞きますと、私たちは何よりも毎主日教会で行われている主日礼拝を思い浮かべるのではないでしょうか。ですが、礼拝というのは教会で行われている主日礼拝だけではありません。主日礼拝は群れとしての礼拝です。その他にも、個人的な礼拝もあります。すなわちディボーションです。それ以外にも、ある事柄を思い出して神に感謝し賛美するときも「礼拝」と言えるでしょう。そのような礼拝は、何時でも何処でもできるものです。聖書は、私たちに礼拝を通して神を喜ぶことを勧めています。感謝と賛美をもって、神を喜ぶことが神にある者の喜び方なのです。
 今年1年、神は私たちにどのようなことをしてくださったでしょうか。その一つひとつを思い巡らすとき、本当に神のすばらしさと神が想像を超えたお方であることに気づかされるのではないでしょうか。聖書の中に「すべての営みには時がある。」と書かれています。この「時」というのは、神が定められた時のことです。すなわち、神のご計画を表しています。ともすると、私たちは「今していることは無駄ではないのか」と思えることがあります。ですが、「数年後に」或いは「数十年後に」その時の経験が用いられることがあります。以前に「経験も賜物である」と話しましたが、まさしくそうではないでしょうか。神は私たちの想像を超えたお方です。ですから、想像を超えた用い方をしてくださいます。過去を振り返って神の導きを思い巡らすとき、これからの神の導きを展望することができます。そのとき神を誉めたたえます。「感謝」とは、まさしく過去の神の導きを思い巡らすことです。そして「賛美」とは、将来の神の導きの展望とも言えるでしょう。これからも、感謝と賛美をもって歩まされたいと願わされます。

3)何故喜ぶのか
 3節には、「何故喜ぶのか」という理由が書かれています。それは「主は大いなる神…大いなる王」だからです。神は世界を造り、私たち一人ひとりを造られたお方です。世界も私たちも御存知なるお方です。ですから、私たちの全てを御存知なるお方です。私たち一人ひとりのすばらしい点や弱い点など全てを御存知なのです。その神は、私たちのことを「あなたはわたしの目には高価で尊い。」と言ってくださっているのです。私たち一人ひとりは、神が造られたものの中で特別にすばらしい存在なのです。昔美術の先生と知り合ったことがありまして、時々その先生の自宅に伺うことがありました。その先生は年に数回個展を開き、描いたものを販売されていました。自宅には幾つかの絵があり、「一番気に入っているのはどれですか」と尋ねましたら、「これです」と答えてくださいました。でも、その絵は決して売らないらしいのです。自分の手許に置いておきたいらしいのです。何故なら、一番の愛着があるからです。
 神はあなたを造られたお方です。機械には定期点検というものがあります。私たちが利用しています車にも「車検」というのがあります。ですが、車検だけでなく半年に1回の「定期点検」というのもあります。ですが、定期点検は法律で定められていませんから、されない方が大勢おられます。私もその一人です。車検以外に自動車屋に車を持っていくのは、車に異変が生じたときや故障したときくらいです。「無責任」と言われれば無責任なのかもしれません。ですが、神は造られたあと放っておかれるような無責任な方ではありません。いつも私たちのことを気にかけてくださっています。だから、最善の時に最善のことをしてくださるのです。もし気にかけてくださっていないなら最善の時など分かりません。その神は「すべての神々にまさって」と書かれていますように、偶像の神々よりもまさって大いなる神であり、大いなる王であられます。私たちは、その神に知られているのです。神は私たち一人ひとりのことを知っておられ、愛してくださっています。そして、守り支え導いてくださっています。だから、その神を喜ぶのです。それが神を喜ぶ理由です。
 その神を喜び感謝することを妨げるものがあります。それは「当たり前」というものです。「こんなの当然のこと」と思いますと、そこには感謝の思いは生まれてはきません。私は教会に車で来るとき祈ることはしません。ですが、家内は何処へ行くにも発信する前に祈るのです。私はその光景を見て、心の中で「すごいな!」と思わされています。自宅から教会まで車なら5分程度です。「無事に着いて当たり前」と思いましたら、そこには感謝の思いは生じません。「1週間無事に過ごせたことが当たり前」と思っていたら感謝の思いは生じません。ですが、実は当たり前ではなく、その背後には神の守りがあるのです。神が私たちを守ってくださるのは、神が私たちのことを気にかけてくださっているからです。クリスマスライブのときにも話しましたが、私たちは「何で!」と思うような経験をします。ですが、後にそのときに経験したことが生かされることがあります。「最悪」と思えたことが「プラス」に「益」に変えられることがあります。そして、「あの時の体験はこの時のためだったのか」と思わされます。そのように神が導いてくださるのは、神が私たちのことを気にかけてくださっているからです。それが神を喜び事の理由です。

結)
 聖書は、神に喜びを献げることを勧めています。そこには、しっかりとした根拠があります。今年も神は、私たち一人ひとりを守り支え導いてくださいました。そして、最善の時に最善のことをしてくださいました。まず、そのところに目を留め神に感謝を献げたいものです。そして、その神は新しい年も最善の時に最善のことをしてくださいます。私たちは誰かに何か嬉しいことをしていただいたら感謝します。1週間守り支え導かれたのは、自分が気づこうが気づかまいが神の守りと支えと導きによるものです。その感謝を見える形として表すのが主日礼拝です。何故私たちが教会に集い神に礼拝を献げるのかと言いますと、神の守りと支えと導きを共に感謝するためです。決して、聖書の教えを守るために教会に集い礼拝を献げているのではありません。自分の神への感謝を見える形として表すのが主日礼拝です。明日から始まります新しい年も、共に感謝と賛美を神に献げ続けられる1年となりますように祈っていきましょう。

ルカ2:11「神からのプレゼント」 23.12.24.

序)
 今年の流行語大賞は「アレ」でした。阪神タイガースが38年ぶりに優勝し日本一になりました。この4年間は2位とか3位で、もう少しでリーグ優勝なのに届きませんでした。そのため、選手がプレッシャーをはねのけるために、岡田監督が「アレ」ということばを用いるようになりました。調べてみますと、リーグ優勝は38年の間にも2003年と2005年にしていますが、日本一になることはできませんでした。38年前は東京に住んでいまして、「東京にはこんなにも阪神ファンがおるんや!」と驚いたのを覚えています。その時もすごく話題になりました。何故なら、その時は41年ぶりの日本一だったからです。
 「アレ」ということばは、私たちもよく用いることばですね。「アレ取って!」とか「アレ、アレ何やったっけ?」など、私もよく用います。特に「アレ何やったっけ」ということばは日常的に多いですね。「アレ」ということばは、とても便利です。失敗したときも「アレ!?」ということばを使います。中には、「アレ!?クリスマスは何の日?」と思われる方もおられるかもしれません。多くの人は、「クリスマスはサンタの日」と思われているかもしれません。「サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれる日」と思われている人もおられます。
そのサンタクロースは実在していた人物です。サンタクロースの正式名は「セント・ニコラス」です。「セント」とは、正しくは「セイント」です。「セイント」とは「神聖な」とか「清らかな」という意味を持つラテン語です。私の年齢に近い方は「聖闘士星矢」という漫画があったのを覚えておられる方もおられると思います。その「セイント」です。ですから、「セント」とは「神聖な人」という意味です。彼はローマ・カトリック教会の司祭で、貧しい人を助けていました、それをモデルとしてサンタクロースが生まれたのです。実際に「サンタの日」というのがあります。いつか御存知でしょうか。それは12月6日です。この日がサンタクロースのモデルとなったセント・ニコラスの誕生日です。12月25日ではなかったのです。では、クリスマスは何の日でしょうか。イエス・キリストの誕生日ではありません。イエス・キリストが誕生されたのをお祝いする日です。ですから、クリスマスはイエス・キリストの誕生会なのです。では、そのイエス・キリストは何のためにお生まれになられたのでしょうか。今朝は、そのことについて聖書から教えられたいと思います。
 イエス・キリストは、死ぬためにお生まれになられたのです。私たちもお母さんの胎内から生まれました。ですが、私たちは死ぬために生まれたのではありません。確かに私たちは、いつかは死にます。でも、死ぬことを目的として生まれたのではありません。私たちがこの世に生まれた目的は生きるためです。しかし、イエス・キリストは死ぬことを目的としてお生まれになられたのです。では、イエス・キリストはどのようにして死なれたのでしょうか。教会には十字架が架けられています。この教会の上にも十字架が掲げられていますし、この講壇の前にも十字架が掛けられています。イエス・キリストは、十字架に架けられて死なれたのです。「十字架」というのは、人間が考え出した最も恐ろしい処刑方法です。日本には死刑制度があります。その死刑方法は絞首刑です。また、アメリカでは死刑制度を廃止している州がありますが、廃止していない州での死刑方法の多くは薬物注射です。日本においてもアメリカにおいても苦しまずに息を引き取る方法を取っています。しかし、十字架刑というのは両手・両足に釘を打たれ、苦しみながら死ぬ処刑方法です。通常は「3日間苦しみ続ける」と言われています。
しかも、発掘作業で分かったことですが、十字架の縦の板の中程より少し下に板がつけられていました。それはお尻を乗せるためです。何故、そのような板がつけられていたのかと言いますと、両手・両足に釘を打たれぶらさがりますから、少しでも楽にするためではありません。お尻を乗せることによって血の巡りを少しでも遅らせるためです。血の巡りが少しでも遅れるということは、処刑された人にとっては苦しむ時間が少しでも延びるということです。それほど、恐ろしい処刑方法だったのです。因みに、サンタクロースの服が赤いのは、そのイエス・キリストが流された「血の色」と言われています。
 では、何故イエス・キリストはそのような十字架に架けられたのでしょうか。それは、人の中にある良くない心によってです。では、良くない心とは何でしょうか。それは悪い考えです。イエス・キリストのことを良く思っていない人たちは、イエス・キリストの存在が邪魔になりました。人は存在が邪魔になりますと、どのような思いを抱くでしょうか。その人の存在を亡くすことを心に抱いてしまいます。その人の存在を亡くす。それは、その人をこの世から存在しないようにすることです。すなわち、その人の命を奪うことです。マルコ7:20~23に「     」と書かれています。日本の法律においては、殺人と妬みとではどちらが重い刑罰を受けるでしょうか。殺人の方が重い刑罰を受けます。そして、妬みは罪に定められることはありません。しかし、イエス・キリストの存在が邪魔になった人たちの心に抱いたものは妬みです。そして、その妬みが強くなって、イエス・キリストの存在が邪魔になり、最後にはイエス・キリストの命を奪う計画を立てたのです。しかも、自分たちの手を汚さないようにです。
 イエス・キリストを十字架刑に処刑するように訴えた人たちは、自分たちが偽った証言をしていることは知っていました。知っているのに偽った証言をしたのです。何故でしょうか。それは先ほども話しましたように、イエス・キリストの存在が邪魔になったからです。イエス・キリストの存在を消すことによって、自分たちの心が満たされるからです。すなわち、自分の心を満たすために、守るために「悪い」と知っていてもしてしまったのです。それは現代の私たちも同じです。万引きも「悪い」と知りつつもするのは、自分の心を満たすためです。最近、大麻のニュースを耳にしますが、それも「悪い」と知りつつもするのは、自分の心を満たすためです。人は「悪いこと」と知っていたらしないのではなく、知りつつもしてしまう弱さを持っているのです。聖書は、そのことを「罪」と語っています。聖書が語る「罪」とは、罪を犯すことではありません。心の中で悪い思いを抱くことです。
 イエス・キリストは、その人の中に生じた悪い思いによって十字架に架けられ死なれたのです。最初の方で、「イエス・キリストは死ぬために生まれた」と話しました。何故、「死ぬために生まれたのか」と言いますと、その私たちの中にある罪の身代わりとなって神の罰を受けるためです。本当ならば、私たちが神の罰を受けなければならなかったのですが、イエス・キリストが私たちの代わりに神の罰を受けてくださったのです。聖書は、「『イエス・キリストが私の罪のために身代わりになって神の審きを受けてくださった』と信じるなら、その人の罪は赦される」と書かれています。イエス・キリストは、私たち一人ひとりの中にある罪が、神から赦されるためにお生まれになり十字架に架かられたのです。そのイエス・キリストは、今朝の箇所にも書かれていますように「あなたがたのために生まれ」たのです。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、神からのあなたへのプレゼントです。

結)
 私たちはちょっとした失敗をしたとき、「アレ!?」と言って「こんなはずじゃなかったのに」と思ってしまいます。ちょっとした失敗なら良いのですが、大きな失敗のときは心が沈んでしまいます。私たちの中にあります罪は、大きな過ちを犯してしまう強いものです。その私たちの中にあります罪を赦すために、イエス・キリストはお生まれになられたのです。それがクリスマスです。
礼拝後に食事会をし、その後の祝会でプレゼント交換をします。何故、クリスマスでプレゼンを送り合うのかと言いますと、イエス・キリストの誕生はイエス・キリストを信じる人・信じない人全ての人への神からのプレゼントだからです。この後のプレゼント交換のとき、「クリスマスは神からの私へのプレゼントだ」ということを思い起こしていただければと願います。


マタイ1:18~25「神に従う」 23.12.17.

序)
 昨日は、数年ぶりにクリスマスライヴが行うことができ、大勢の方々を送ってくださったことを神に感謝したいものです。そして、来主日はクリスマス礼拝です。イエス・キリストの誕生を心から祝う礼拝となることを願っています。先週、私たちはイエスの母マリアを通して、本当の幸せは神のことばを土台として生きることを学びました。ですが、神のことばを土台として生きるというのは、「不安や恐れや疑いがない」ということではありません。今朝は、イエスの父ヨセフを通して神に従うことについて共に教えられたいと願っています。

1)ヨセフの選び
 まず、ヨセフは神によって選ばれた人でした。今朝の箇所まではイエス・キリストの系図が書かれています。そして、6節以降ではダビデの家系が書かれています。ですから、ヨセフはダビデ王家の子孫であることが分かります。12節に「エコンヤ」と書かれています。この「エコンヤ」という人は誰でしょうか。欄外を見ますと、「Ⅰ歴代誌3:16」と書かれています。ここにエコンヤの名前が書かれています。そして、エコンヤに*印がつけられ、欄外を見ますと「エホヤキン」と書かれています。ですから、「エコンヤ」とはエホヤキン王のことです。エホヤキンとはどのような王だったか覚えておられるでしょうか。彼はゼデキヤ王の前の王でした。ゼデキヤ王は御存知だと思います。南ユダ王国の最後の王です。彼はバビロンに反逆したため、捕らえられ自分の目の前で息子たちが残虐され、自分自身も目をつぶされ生涯を過ごすことになります。そして南ユダ王国は滅亡します。そのゼデキヤの前の王がエホヤキンです。エホヤキンは南ユダ王国の王でしたが、バビロンの王によって王職を解かれゼデキヤが王になります。そして、エホヤキンはバビロンに連れて行かれます。その後バビロンの王の前で食事をし、生活費を王から支給されたことがⅡ列王記の最後に書かれています。
 ですから、マタイ1:12以降に書かれていますダビデ家の家系の人たちは王ではありませんでした。ただダビデ家の血筋の男性の名前です。17節を見ますと、「バビロン捕囚からキリストの誕生までが14代」と書かれています。当時は子どもが多く生まれていた時代です。5人の男の子が生まれたとして、それに14乗しますと60億人を越えてしまいます。今の世界人口が80億人と言われています。その人口数に近い中からヨセフが選ばれたのです。60億分の1ですから、これはもう天文学的数字です。年末ジャンボ宝くじの当選の方が確率は高いのではないでしょうか。
 何故ヨセフが神に選ばれたのかは分かりません。ただ、神は「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」とモーセに話されました。ヨセフが神に選ばれたのは、一方的な神の恵みであり憐れみです。そして、私たちがイエス・キリストを信じる者とされたのも、一方的な神の恵みと憐れみによってです。私たちは、ただ「このような私を選んでくださった」という神の恵みと憐れみに感謝するしかありません。このアドベントのとき、神の選びに感謝しつつ歩まされたいものです。

2)正しい人
 次に、ヨセフは正しい人でした。では、この「正しい人」とは、どのような人のことでしょうか。私たちが思い浮かべる「正しい人」とは、規則をきちんと守る人を思い浮かべるのではないでしょうか。そして、「ヨセフという人は神の律法を守り行っていた人」というイメージを抱かれる人も多いのではないでしょうか。私もその一人です。聖書がヨセフのことを「正しい人」と紹介しているのですから、神の律法を守り行っていた人であることは間違いないと思います。でも、それだけでもなかったと思われます。彼は「マリアをさらし者にしたくなかった」と書かれていますから、マリアに起きたことを思い巡らし悩んでいたと想像できます。おそらく御使いガブリエルから告げられ、それが実際に自分の身に起こりマリアはヨセフにそのことを話したものと考えられます。「処女が身ごもる」というのは常識的には考えられないことです。この出来事をどのように理解したら良いのか。ヨセフはとても悩み苦しんでいたものと思われます。そして、出した結論は密かに離縁するというものです。
 「密かに」というのは、「誰にも知られないように」ということです。もし誰かに知られましたら、マリアは石打ちの刑に処せられてしまいます。何故なら、それが律法の定めだからです。このことについてもヨセフは悩んだものと考えられます。自分は知っているのに知らないふりをして離縁する。そして、マリアがすぐに別の男性と結婚したら、石打ちの刑から免れるかも分かりません。ひょっとしたら、そのことに賭けたのかもしれません。ですが、「知っているのに知らないふりをする」というのは、「嘘をつく」というものです。そのことにもヨセフは悩んでいたのではないでしょうか。
 少し話しが反れますが、皆さんは「嘘をつく」というのをどのように思われているでしょうか。確かに、嘘をつくのは良くないことです。だから、「いつでも正直にあるように」と言われるでしょうか。非常に難しい事柄です。ある方は「聖書に『偽りの証言をしてはならない』と書かれているから」と言われます。確かに、十戒の中に「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と書かれています。ここに書かれています「証言」とは法律用語です。すなわち、裁判などの席で「偽りの証言をしてはならない」ということです。日本の裁判所でも偽って証言をすれば「偽証罪」として罪に定められます。ですが、日ごろの「嘘」は罪に定められることはありません。
 「ラハブ」という女性を覚えておられるでしょうか。有名な女性の一人です。彼女はイスラエル人ではなくカナン人の女性です。イスラエルの民は神によってエジプトを出て、カナンの地を目の前にしていました。そのとき、モーセの後継者であるヨシュアは2人のスパイをエリコの町を偵察するために遣わしました。すると、その情報がエリコの王に入り、エリコの王はラハブの所に人を遣わしました。そのとき、彼女は何と答えたでしょうか。そのやりとりがヨシュア記2:3~5に書かれています。エリコの王から遣わされた人たちは、ラハブのことばを信じその場から去りますと、ラハブは屋上に匿っていたイスラエル人の2人を逃がしました。ここで、ラハブは嘘をついたのです。このことについて、皆さんはどのように思われるでしょうか。この箇所は教会学校での話しでもよく出てくる箇所です。子どもたちから「嘘をついてもいいの?」と聞かれたら、どのように答えられるでしょうか。
 また、Ⅱサムエル記17章にも似た出来事が書かれています。ダビデ王は息子アブサロムの反逆によって、エルサレムの町から去らなければならなくなりました。そして、アブサロムの陣営に残していたフシャイは、アブサロムの作戦をダビデに伝えるために2人の人を遣わしました。この2人はダビデに知らせるために、ある人の家に行きました。すると、アブサロムの家来たちがその人の家に来て、「彼らは何処に居るのか」と尋ねたところ、その人の妻は「ここを通り過ぎて川の方へ行きました」と嘘をついたのです。そのために、匿われた2人は助かりアブサロムの作戦をダビデに伝えることができたのです。このことはどうでしょうか。ある方は「神は憐れみ深い方だから、それらを見逃されただけだ」と言われるかもしれません。確かに、その通りなのかもしれません。ですが、私は人の命にかかわる事柄であるなら、嘘をついても致し方ないと思っています。
 ヨセフもそうでした。自分が正直に世間に言っていたらマリアの命が奪われてしまうのです。ある方は「ヨセフは黙っていただけだから嘘をついてはいない」と言われるかもしれません。ですが、「知っているのに知らない振りをする」というのは、「嘘と同じではないか」と私には思えるのです。これは非常に難しい事柄です。私も頭の中で「あれこれ」と考えながら準備をしています。ヨセフはそれ以上に悩みながら過ごしていたのではないかと想像します。ただ、ヨセフは自分と同じようにマリアのことを深く考える愛と憐れみの深い人であったと想像します。イエス・キリストは「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにではない」と話されたことがマタイ9:13に書かれています。欄外を見ますと「あるいは『あわれみ』」と書かれています。第3版までは、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と訳されていました。まさしくこれではないでしょうか。そのような意味もあって、ヨセフを「正しい人」と紹介しているのです。聖書が語る「正しい人」とは、何が何でも規則をきちんと守る人ではなく、人を思いやることのできる憐れみ深い人です。私たちも神の憐れみによって支えられていますから、人に対しても憐れみをもって接していけるように祈っていきたいものです。

3)神に従った人
 ヨセフは身ごもったマリアと密かに離縁しようと思っていました。この「思った」とは、ヨセフが決断したことを表しています。ですが、決断したのですが「思い巡らしていた」のです。ここに、ヨセフの心の中に大きな葛藤があるのを見ることができます。私たちもそのようなことがあります。決断したのですが、「いや、ちょっと待てよ」ということがあります。決断しても、その決断を行動に表すことに躊躇してしまうときがあります。ヨセフは、まさしくそのような状態だったのです。そのヨセフが行動に表すことができたのは何によってでしょうか。それは主の使いによってです。そして、聖書はこの主の使いの出来事について、22節「     」と語っています。「このすべての出来事」とは何でしょうか。それは主の使いがヨセフに現れたことだけでなく、マリアが身ごもったことも含めた「すべての出来事」です。そして、イザヤ7:14が引用されています。特に、最後の「その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれています。インマヌエル。それは訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。イエス・キリストの誕生は、神が私たちとともにおられることの見えるしるしなのです。
ここに神の奥深い備えを見ることができます。このことを知るまでのヨセフは、おそらく「何故こんなことが起きたのか」と悩み続けていたのです。自分が信じていた女性が律法に背くような大きな過ちを犯したことに深く悩み続けていたのです。このときのヨセフの心の中には「裏切られた」というものも頭の中によぎったことでしょう。このときのヨセフにとっては最悪の出来事です。ですが、その最悪の出来事と思えるような事柄も聖書は、「主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」と語っているのです。そのことを知るとき、改めてローマ8:28のみことばを思い起こされます。「すべてのことが共に働いて益となる」と書かれています。ヨセフは、マリアの妊娠を通してこのことを経験したのです。私たちの生活の中にも「何故こんなことが」と思える事柄に遭遇することがあります。しかし、神はそのように思える事柄をも用いて、私たちの想像を超えたことをしてくださいます。私たちが目に留めるものは、その神の備えと導きです。そして、私たちが成すべきことは、その神の備えと導きを信じて目の前の事柄に対して忠実に果たし続けることです。
 このときのヨセフにとっての目の前の事柄に対して忠実に果たすことは、マリアを妻として迎え入れることでした。当然、そこには大きな不安があります。世間から何と言われるか分かりません。もしかしたら、石打ちの刑に処せられるかもしれません。ことばに言い表すことのできない大きな不安があったことでしょう。ですが、ヨセフは神に従いマリアを妻として迎え入れたのです。何故、そのようなことができたのでしょうか。それは「神が私たちとともにおられる」ということを信じたからです。「神がすべてのことに働いてくださりプラスにしてくださる」と信じ続けたからです。
 ヨセフは神に従った人です。神に従う人とは、不安や疑いを抱かない人ではありません。そのような不安や疑いを抱きつつも、神の約束に目を留め信じて一歩踏み出す人です。決して強い人ではありません。私たちは強い人になる必要はありません。今のままで良いのです。ただ大切なのは、神の約束を信じ一歩踏み出すことです。私たちは、このヨセフからそのことを学ばせられます。

結)
 今朝は、ヨセフから幾つかのことを学ばせられました。私たちが神の一方的な憐れみと恵みによって選ばれたことに感謝すること。そして、決まりを守ることは大切ですが、それ以上に人を憐れむ心が養われること。そして、神の約束を信じて一歩踏み出すこと。この1週間、そのことに目を留めつつクリスマス礼拝を迎えたいと願います。


ルカ1:26~38「本当の幸せ」 23.12.10.

序)
 アドベントの第2週目に入りました。あと2週間でクリスマス礼拝です。今日の午後には子どもクリスマス会が行われます。そして今週の土曜日には、久しぶりにクリスマスライヴが行われます。コロナで大々的なことができませんでしたが、久しぶりに行えられることに感謝したいです。先週はザカリヤを通して、私たちが信じている神は「常識を超えた神」であられることを見ました。今朝はイエス・キリストの母マリアがどのような女性であったのかを見つつ、本当の幸せについて共に教えられたいと願っています。

1)恵まれた女性
 第1に、マリアは恵まれた女性でした。マリアが部屋に一人いた時でしょうか、御使いが突然マリアの前に現れ、「おめでとう恵まれた方」とマリアに告げました。では、何がめでたく恵まれているのでしょうか。イエス・キリストをお腹に宿ったことがめでたく恵まれたのでしょうか。ですが、彼女はヨセフと婚約中で未婚の女性です。現代では驚くことではありませんが、当時のイスラエル社会では石打ちの刑という死刑に処せられてしまう驚くべきことでした。ですから、未婚の女性にとって妊娠というのは決してめでたいものではありません。むしろあってはならないことであり、本人にとってはとても迷惑なことなのです。
 では、何がマリアにとってめでたく恵まれたことなのでしょうか。それはイエス・キリストをお腹に宿ったことよりも、神に選ばれたことにあります。「恵み」というのは、本来受けるに価しないのに受けられることです。受けるに価して受けるのは報酬です。例えば、働いた分の賃金を受けるのは恵みではなく報酬です。しかし、働いてもいないのにお金を受け取れるのは恵みです。1:48で、マリアは自分のことを「卑しいはしため」と告白しています。これは、自分は身分が低く奴隷のような女性であるという告白です。実際に、彼女は特別に何かができた女性ではありませんでした。技術的に、或いは能力的に特別に優れていたわけではありませんでした。何処にでもいる一般的な女性でした。ですが、神はそのようなマリアに目を留められ選ばれたのです。特別な賜物が与えられている人が選ばれるのなら分かりますが、何の取り柄もない普通の人が特別に選ばれるのです。すなわち、選ばれるに価しない者が選ばれたのです。聖書は、主の選びについてⅠコリント1:27で「     」と語っています。神は特別な人にだけ目を留められる方ではなく、何の取り柄もない人にも目を留め選んでくださる方なのです。
 その神の選びというのは、現代の私たちにおいても同じことが言えます。現代のキリスト者の中には、特別な技術や能力を持っておられる方がおられます。神はその人に目を留め選ばれました。しかし、殆どのキリスト者は特別な技術や能力を持っておられないのではないでしょうか。ですが、神はそのような人にも目を留め選んでくださいました。このことから神の選びというのは、何かができる技術や能力が基準ではないことが分かります。「では神の選びの基準は何か」と尋ねられますと、「分かりません」としか答えることができません。何故なら、私が選ぶのではなく神が選ばれるのですから、神ご自身に聞くしかありません。ただ大切なことは、自分が神に選ばれたことを誇るのではなく、このような自分を選んでくださったことへの感謝です。
マリアは自分が選ばれたことを誇ったのではなく感謝したのです。1:46以降に書かれています「マリアの賛歌」はそうです。何の取り柄もない自分に神は目を留め、選んでくださったことに感謝したのです。今後の自分の歩みを想像すると、妊娠したことによって世間からどのような目で見られ、どのような扱いを受けるか分かりません。日陰の生活を強いられることになるかもしれません。世間から見れば、決して「めでたく恵まれている」とは言えません。しかし、マリアはそのようには受け取らなかったのです。自分のことを「幸せ者」と48節で告白しているのです。それは神の選びのすばらしさを経験したからです。すなわち、「このような者であっても神は目を留めていてくださる」というのを知ることができた人が、「聖書の語る恵まれた人」なのです。私たちも極普通の人です。そのような私たちに神は目を留め選んでくださったのです。私たちも神に選ばれた人なのです。そのことを深く思い起こし感謝するときがアドベントです。私たちは普段ではなかなか「神の選び」というのを意識することはありません。そのような中で、このアドベントの時季に神の選びに感謝しつつ過ごさせていただきたいと願わされます。

2)神のみことばを信じ切った女性
 第2に、マリアは神のみことばを信じ切った女性でした。マリアは御使いの告知の後、親類のエリサベツという女性の家に訪問します。このエリサベツは、先週見ました祭司ザカリヤの妻で、子どもを宿すことのできる年齢ではありませんでしたが、やはり神の選びにより子どもを宿すようになった女性です。このエリサベツはマリアに「主によって…幸いです」と告げたことが45節に書かれています。それはマリアが主の約束を信じ切ったことを表しています。このことから、マリアは主のみことばを信じ切った女性であったことが分かります。では、その神のマリアに対する約束とは何でしょうか。それは、1:51~55でのマリアの告白にありますように、神が御腕をもって力強いわざを行い、助けてくださるという神の守りのです。マリアは「神が必ず守ってくださる」という約束を信じ切ったのです。今後のマリアに待ち受けているものは何でしょうか。それは世間からの誹謗中傷という試練です。ですが、マリアはそのような試練の中にも幸せを見出していたのです。
 私たちは「試練の中に幸せはない」と思いやすいのではないでしょうか。ですが、試練の中にも幸せを見出すことができるのです。「どのような幸せか」と言いますと、「神の守り」という幸せです。この視点は、私たちにとってとても大切なことです。何故なら、それによって見方が異なってくるからです。もし試練の中に幸せがないとしたら、試練は良いものではなくなってしまいます。試練が良いものではないとしたら悪いものとなってしまいます。ですが、神は私たちに悪いものを与えられることはされません。私たちにとって良いものを神は与えてくださいます。実際に、私たちは試練を通して様々なことを学ぶのではないでしょうか。そうであるなら、試練は決して悪いものではありません。試練が悪いものでないなら、試練は良いものとなります。そうです。試練の中にも幸せがあるのです。どのような幸せでしょうか。それは先程も話しましたように、「神の守り」という幸せです。試練を通して神はすばらしいことをしてくださいます。その神の約束を信じて歩むのが聖書の語っている信仰です。そしてマリアは、その神の約束を信じ切った女性でした。
 ところが、私たちはなかなか神の約束を信じ切ることができません。何故でしょうか。その多くは自分の尺度で測り判断してしまうからではないでしょうか。自分の知識や経験を基に考えてしまうからではないでしょうか。ですが、神のみわざは私たちの想像を超えたものです。私たちの想像を超えた働きをもって、神は私たちを守り導いてくださいます。神は私たちの頭の中で理解し判断できるような小さな方ではありません。私たちの頭の中では理解できない想像を超えたお方です。その想像を超えたみわざをもって、「あなたを守り導く」と約束してくださっているのです。その神の約束を信じ切った人が幸いな人でもあります。私たちにもマリアのように、神の約束を信じる信仰がさらに成長できるように祈るアドベントを過ごさせられたいものです。

3)主のみことばを土台として生きた女性
 第3に、マリアは神のみことばを土台として生きた女性です。2:8以降には、イエス・キリストの誕生が羊飼いに知らされたことの出来事が記されています。その羊飼いたちは、御使いの知らせを通して主の誕生を知り、イエス・キリストがお生まれになられた場所を捜し当てました。そこにいた人々は、羊飼いが話したことに驚きましたがマリアはどうだったでしょうか。19節に「     」と書かれています。マリアは心に納めて思いを巡らしていたのです。では、マリアは何を思い巡らしていたのでしょうか。それは神がなされたことをです。自分に対してもそうですが、羊飼いたちに対してなされた全てのことに思いを巡らしていたのです。神は御使いを通して、イエス・キリストの誕生をマリアに告げられました。それは神のみことばそのものでもあります。その神のみことば通りに事は進み、マリアの想像以上のことを神はなされたのです。ですが、実は神のみことばが果たされただけのことなのです。これは神にとっては特別なことではありません。人にとっては計り知ることのできない特別な出来事かもしれませんが、神にとっては特別なことではないのです。ごく普通のことなのです。
 マリアは、その神のみことばがどのように果たされたかに思いを巡らしていたのです。マリアが目に留めていたものは神のみことばです。このことから、マリアは神のみことばを土台として生きた女性ということができるのではないでしょうか。ですから、突然御使いが自分の前に現れ、人間の常識では考えられない処女である自分が男の子を産むことを告げたときでも、「あなたのおことば通り、この身になりますように」と告げることができたのです。祭司であるザカリヤでさえ、御使いのことばに対してしるしを求めたことが1:18に書かれていました。そのため、ザカリヤは話すことができなくなるというしるしを受けました。余談ですが、ザカリヤは御使いのことばを信じなかったから罰として話せなくなったのではありません。しるしを求めたが故に「話せない」というしるしを受けたのです。ですが、マリアはしるしを求めることもせず、素直に神のみことばを受け入れたのです。それは、いつも神のみことばを土台として生きていたからです。
 神のみことばを土台として生きることは、どれほどすばらしいことであるかを知らされます。確かに不安や恐れはあったことでしょう。その不安と恐れの中で、神のみことばを信じ寄り頼み歩み続けたのです。そのとき、自分の想像以上の神の守りと導きを経験したのです。この経験は、今後の彼女の歩みにおいて大きなものへとなります。それは「今後どのようなことが起ころうとも、神は必ず守り導いてくださり最善を尽してすばらしいことをしてくださる」という確信です。だからこそ、イエス・キリストが十字架に架かられたときでさえ、その十字架の前に立ち得たのではないでしょうか。確かに、肉的に言えばマリアがお腹を痛めて生んだ息子です。母親の愛の故に立ち得たということもあるでしょう。しかし、聖書の記述の中では動転することもなく、じっと十字架に架かられたイエス・キリストを見つめるマリアしか描かれてはいません。それは、このときでさえ「神は想像以上のすばらしいことをしてくださる」と信じていたからではないでしょうか。そして、実際に人には想像すらできなかった死からイエス・キリストは甦られたのです。

結)
 このマリアから、「本当の幸せは何か」を考えさせられるのではないでしょうか。どれほど物質的に豊かであっても、学力や才能があっても、心の中が貧しければ「幸せ」とは言えません。本当の幸せは、神のみことばを土台として生きることです。何故なら、その歩みを通して神の約束の確かさを経験できるからです。その経験は、「これから先も様々なことに遭遇するけれども、必ず神はすばらしいことをしてくださる」という希望をもって歩むことができるからです。そして、その希望を抱いて生きられることが本当の幸せではないでしょうか。その本当の幸せを私たちに与えるために、イエス・キリストはお生まれになってくださったのです。そのことを思い巡らしつつ、アドベントの時を過ごしていきましょう。


ルカ1:5~25、57~64「常識を超えた神」 23.12.03.

序)
 今日からイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスに備えるアドベントに入りました。年の瀬を迎えますと「あれをしなければならない」「これをしなければならない」と心が慌ただしくなります。「慌ただしい」という漢字は「心が荒れる」と書きます。心の中は大波になり、落ち着かない状態を表しています。年末はそのような時季ですが、そのような中にあってクリスマスの意味を思い巡らすために、心を静める時季がアドベントでもあります。今年のクリスマスメッセージは、教会学校のテキストである「成長」の箇所から共に教えられたいと願っています。今朝の箇所は、イエス・キリストが誕生される前のザカリヤという人に男の子が誕生する箇所です。今朝はこのザカリヤを通して、クリスマスの意味を思い巡らされたいと願っています。

1)ザカリヤ夫婦
ザカリヤとは「主は覚えておられた」という意味で、主に目を留められることを願ってつけられたと考えられます。彼は祭司という仕事をしていました。祭司とは、神殿の仕事をする特別な働きであり、ユダヤ教の指導的立場の人です。この祭司という仕事は誰もがなれる職業ではなく、「アロン」という人の子孫しかなれない世襲制でした。ですから、特別に選ばれた職業ということもできるでしょう。
聖書は、このザカリヤ夫婦について「二人とも、神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を、落ち度なく行っていた」と紹介しています。彼らは人からも尊敬されていた夫婦と考えられます。ところが、彼らには問題を抱えていました。それは7節に書かれていますように、子どもがいなかったという問題です。子どもは神から与えられるものであり神の祝福と考えられていました。ですから、子どもがいないということは「神の祝福を受けていない」ということでもあります。結婚当初は子どもが与えられることを祈っていたことでしょう。ですが、なかなか子どもが与えられませんでした。多分彼らは「いつかは、いつかは」と待っていたと想像します。そのように待ちながら年齢を重ねていったのです。7節の最後に「二人ともすでに年をとっていた」と紹介されています。これが意味するものは、「いつかは子どもが与えられる」という希望もなくなっていたということです。ザカリヤ夫婦は、祭司というユダヤ教の指導的な立場の人です。そのような彼らに子どもが与えられていないということは、神の祝福を受けていないことですから、とても恥ずかしいことでもあったわけです。何故なら、祭司職は世襲制ですから後継ぎがなく、自分の代で途絶えてしまうからです。一般のユダヤ人も子どもが与えられるという神の祝福を受けているのに、自分たちだけは受けていない。自分たちだけ子どもが与えられることの喜びを経験できないのです。ザカリヤ夫婦は真面目な夫婦でしたから、周りの人からも評判が良かったことでしょう。それ故、子どもが与えられないことに、とやかく言う人はいなかったと考えられます。しかし、ザカリヤ夫婦は違っていたのです。25節でエリサベツは「人々の間から私の恥を」と告白しているように、少なくともエリサベツは子どもが与えられていないことを「恥」と思っていたのです。この思いは、おそらくエリサベツだけでなく夫であるザカリヤも同じだったと考えられます。
周りの人々は自分たちに優しく接してくれます。しかし、ザカリヤ夫婦は劣等感を抱いていたのです。しかも、その劣等感は死ぬまで続くのです。何故なら、子どもが与えられることは常識的にはあり得ないことだからです。ザカリヤ夫婦には大きな心の傷がありました。しかも、そのことを口には出してはいないのです。口や表情に出していませんから、周りの人々には彼らの心の傷を知ることはできません。むしろ「子どもが与えられていないのに明るく振舞っている」と誤解されているかもしれません。でも実際は、心に大きな傷を負いながら日々の生活を過ごしていたのです。誰も分からない心の中にある大きな傷ですが、神はザカリヤ夫婦にある大きな傷を御存知だったのです。このことは、神を信じる私たちにとって大きな励ましです。私たち一人ひとりにも、誰にも言えない心の傷を抱えているとしても、「神は御存知であり、最善の時に最善のことを成してくださる」というのを覚えることができるからです。そして覚えるだけでなく、その神に祈り、最善を成してくださることに期待できるからです。

2)祭司ザカリヤ
 では、この祭司ザカリヤとはどのような人でしょうか。ザカリヤは心の中に傷を持ちつつも、祭司の仕事を忠実に果たし続けていました。その祭司の仕事の中で、くじに当たって神殿の中で香をたくことになりました。すると、そのとき主の使いであるガブリエルがザカリヤの前に現れ、子どもが与えられることをザカリヤに伝えたのです。ところが、ザカリヤは主の御使いであるガブリエルのことばが信じられませんでした。何故ザカリヤはガブリエルのことばを信じられなかったのでしょうか。18節の彼のことばから見ることができます。まず、彼は「私はそのようなことを、何によって知ることができましょうか」と見えるしるしに目を留めました。ザカリヤは祭司であり、神の御前に正しく、主の全ての命令と掟を忠実に守っていた人でした。律法に照らし合わせるなら、何の落ち度もない人だったのです。そのような人であれ見えるものに頼ろうとしていたのです。ここに人間の限界を見ることができます。
聖書は、どれほどすばらしい人であれ、所詮人は見えるものに頼ろうとする弱さを持っていることを示しています。見えるものに頼るのは「愚かなこと」と聖書は語っています。そして、私たちはそのことを知っています。知ってはいますが、ついつい見えるものに頼ってしまう弱さを私たちは持っています。何度も話していますが、人は分かったらできるというものではありません。分かってもできないことが多々あるのです。「万引きは悪いこと」と知りながら万引きをする人がいます。「嘘は悪いこと」と知りつつも嘘をついてしまいます。これは「知る」ということと、「生きる」ということとは違うことを表しています。知るのは自分の力でできるかもしれませんが、本来の人として生きるのは自分の力だけではできないのです。何故なら、「弱さ」というものを誰もが持っているからです。聖書には「義人はいない。一人もいない」と語っています。何故でしょうか。全ての人は弱さを持っているからです。ザカリヤは自分の弱さの故に、見えるものに頼ろうとした人だったのです。
次に、彼は「私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」と見える現実だけを見ていた人でした。ザカリヤもエリサベツも年をとっていました。それは、もう子どもを産める年齢ではないということです。この捉え方は間違いではありません。私たちもそのように考えるのではないでしょうか。しかし、これは私たちの常識でしかありません。私たちの常識と神の常識は違います。見える現実だけを見るというのは、ある意味では自分の常識に囚われるということでもあります。自分の常識に囚われますと、その常識以外のものを受け入れられなくなってしまいます。ザカリヤがそうだったのです。だからガブリエルのことばを信じられなかったのです。ガブリエルは神から遣わされた御使いです。ガブリエルは神からことばを預かってザカリヤに告げました。ですから、ガブリエルのことばは神のことばでもあったのです。そのガブリエルのことばを信じないということは、神のことばを信じないということでもあります。何故でしょうか。自分の常識とは全く外れているものだったからです。
自分の常識に囚われるというのは、私たちにも起こり得ることです。将来に対する不安を抱くことがあります。何故不安を抱くのでしょうか。自分の常識に囚われているからです。自分の常識という殻に閉じ籠っている限り、不安から解放されることは決してありません。ザカリヤはとてもすばらしい人でした。イスラエル社会においても「模範的な人」と言えるでしょう。しかし見えるものに頼り、自分の常識に囚われていた人でもあったのです。それ故に、神のことばを信じられなかったのです。これが祭司ザカリヤです。このザカリヤの「自分の殻に閉じこもる」という弱さは誰もが持っているものです。私たち一人ひとりも持っている弱さです。しかし、神はその弱さの内に働いてくださいます。自分の殻から抜け出る道を備えてくださっています。
その道とは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストご自身は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と話されました。神は処女マリアから、そのイエス・キリストを誕生させられました。そして、そのイエス・キリストを死から甦らせてくださいました。これらは人の理解をはるかに超えたものです。人の常識では考えられないものです。科学では証明できないものです。しかし、私たちはそのイエス・キリストの誕生と死からの甦りを信じています。神はこのアドベントという時季を通して、私たちがそのイエス・キリストに目を留め、自分の常識という殻から抜け出し、一歩進むことを求めておられるのを祭司ザカリヤから教えられます。

3)ザカリヤの賛美
ザカリヤの弱さにも拘らず、エリサベツは子どもを宿すようになり、やがて男の子を出産します。その子の名は「ヨハネ」という名前がつけられました。これがバプテスマのヨハネの誕生です。ザカリヤは、ガブリエルのことばを信じ切れなかったが故に、口がきけなくなり話せなくなりました。それはしるしを求めたからです。口がきけなくなり話せなくなるというものがしるしだったのです。口がきけなくなり話せなくなったのは、ザカリヤが信じ切れなかったことへの神の審きではなくしるしなのです。ですから、男の子が誕生し名前をヨハネと伝えたとき、ザカリヤの口が開け話せるようになったのです。
口がきけなくなり話せなくなったときのザカリヤはどのような思いだったでしょうか。主の使いであるガブリエルのことばを信じ切れなかったことへの自分の弱さを責めていたかもしれません。このザカリヤ夫婦は、「神の御前に正しく、主の全ての命令と掟を落ち度なく行っていた」と紹介されています。ザカリヤは自分の生き方に自信を持っていたかもしれません。神の御前に義なる者と生きているという自信を。しかし、口がきけなくなり話せなくなるというしるしを受けたとき、今まで寄り頼んでいた自分の生き方が全て崩壊したことでしょう。このとき「大切なのは律法を守り行う生き方をするかではなく、神のみことばを信じる切ること」と痛感させられたのではないでしょうか。しかし、そのような中で妻エリサベツのお腹は大きくなっていきます。その事実に目を留めるとき、このような弱い者である自分に、なお神は目を留めてくださるという事実をも痛感させられたのではないでしょうか。それ故、男の子が生まれ名前を「ヨハネ」と告げたとき、ザカリヤの口が開け話せるようになったとき神を賛美したのです。
このザカリヤの賛美は、自分のような罪ある者にも顧みて、憐れんでくださり恵みを注いでくださる神。その神は自分のような罪あるイスラエルの民にも顧みて、憐れみ恵みを注いでくださるという告白でもあります。ザカリヤは、今まで「主は義なる神であり小さな罪をも嫌われる厳格な神」と捉えていました。だから、一生懸命主の命令と掟を守り行ってきたのです。この生き方は悪いことではなくすばらしいことです。ですが、主は厳格な神であられると同時に、憐みと恵みに富んだ神でもあられます。弱さの故に罪を犯してしまう者を見捨てられるような神ではありません。そのような者をも顧みてくださる神です。ザカリヤが抱いていた常識を超えた神なのです。その神を知ったが故に、ザカリヤは神を賛美することができたのです。その神はザカリヤが生きていた時代だけでなく、今の時代においても変わることはありません。何故なら、神は決して変わることのない方だからです。
私たちもザカリヤのように弱さを持っています。その自分の弱さに嘆いてしまうこともあります。ですが、神はそのような弱さを持つ私たち一人ひとりに顧みてくださり、憐れみと恵みを注いてくださっています。その何よりも確かな証拠はイエス・キリストの誕生と死と甦りです。ザカリヤは自分の弱さを嘆き続ける者ではなく、神を賛美する者へと変えられました。私たちも自分の弱さを嘆き続けるのではなく、憐れみと恵みを注ぎ続けてくださっている神を賛美し続ける者として、このアドベントの時を過ごしていきたく願わされます。

結)
主は私たちの常識を超えた神です。厳格な神であられますが、憐みと恵みに富んでおられる神でもあられます。私たち一人ひとりを顧みてくださる神なのです。イエス・キリストの誕生は、神が私たち一人ひとりを顧みられたことのしるしでもあります。どのような私たちを神は顧みられたのでしょうか。主を神と信じていなかった私たちを顧みられたのです。主は、主を神と信じていなかった私たちを見捨てることをされず、尚も私たち一人ひとりを愛し続け憐れみ続け顧みてくださったのです。ともすると、私たちは「神は厳格な方」というイメージを持ち、何か間違いを起こすと「神の審き」を浮かべやすくなります。確かに主は審き主なる神であられますが、同時に憐みと恵みに富んでおられる神でもあられます。主は私たちの常識を超えた神です。イエス・キリストの誕生はそのことのしるしです。あとは、その神に対して私たちがどのように生きるかが問われているのではないでしょうか。神の憐みと恵みに感謝しつつ、アドベントの時を過ごしていきましょう。

使徒の働き14:8~18「生ける神に立ち返る」 23.11.26.

序)
 先週の箇所で、私たちはパウロとバルナバがイコニオンの町での宣教を見ました。1節に「イコニオンでも同じことが起こった」と書かれています。この「同じこと」とは何かと言いますと、福音宣教をすることによって信じる人が起こされたが、迫害によって町を出ざるを得なくなるということです。要は同じことの繰り返しですが、パウロとバルナバは「どうせ」という思いではなく、神のみわざに期待しつつ福音宣教を続けました。この彼らの姿から、「どうせ」という思いが福音宣教を妨げる大きな要因の一つであることを学びました。今朝の箇所は、そのイコニオンからリステラという町に避難し、その町で起こった出来事が記されている箇所です。今朝は、このリステラでのパウロのメッセージから共に教えられたいと願っています。

1)出来事のきっかけ
 このリステラという町は、地図⑬の現在のトルコの中央辺りに「フリュキア」と書かれています近くにピシティアのアンティオキアという町があります。そこから少し右を見ますと「イコニオン」と書かれており、その少し下に「リステラ」と書かれています。この町はイコニオンから約40㎞に位置し、1日の道のりで行ける町です。その町でパウロとバルナバは大きな出来事に遭遇します。そのきっかけについて8~10節に書かれています。この出来事を通して、使徒3章に書かれていますペテロが美しの門で行った奇蹟を思い起こす方もおられるかもしれません。共通点は、どちらも生まれながら足が不自由であったこと。そしてペテロもパウロも彼を見つめたこと。最後に、足の不自由な人は彼らのことばによって、飛び上がって歩き出したことです。違う点もあります。それは足の不自由な人はパウロの話しに耳を傾けていましたが、ペテロの場合は美しの門に入ろうとしただけです。もう一つは、リステラの男性は癒されるにふさわしい信仰があるという点です。さらに、ペテロの場合は右手を取って立たせましたが、パウロは「自分の足で立つように」と命じたことです。すると、彼は飛び上がって歩き出したことが10節の最後に書かれています。
 この出来事で何よりも目を留めたいのは、「彼はパウロの話すことに耳を傾けていた」ということばです。すなわち、熱心にパウロが語ることに耳を傾けていたのです。その姿勢がパウロに伝わったのです。それによって、この足の不自由な人は今までにない大きな経験をします。それは自分の足で歩き出すという経験です。しかも、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と半強制的なものです。この箇所を準備する中で、9月に召されました赤坂良男先生を思い起こされました。私が良男先生と初めて会ったのは48年前で、当時JBCで行われていた高校生~青年までを対象とした「ともしびキャンプ」です。私は毎年ともしびキャンプに参加していました。今でも忘れませんが、高校3年のときのキャンプの最終日に、食堂で良男先生と数名のキャンパーで話をしていました。その後、ファイヤーを囲んで同じキャンパーと話し込んでいましたら、突然私は呼び出されまして良男先生がいる食堂に行ったのです。そして、いろいろと話をされました。後で思い起こしますと、「食堂で話をしていたとき熱心に聞いているようみ見せかけていたからではないか」と思わされています。それで良男先生は「脈があるのではないか」と思って私を呼び出したと理解しています。キャンプ後、教会に行きますと「牧師室に行くように」と言われ、行きますと強制的に学び会に参加させられました。それは何とバプテスマクラスだったのです。やり方に少し問題があるように思いますが、結果的には私にとってはそれが良かったと思っています。何故なら、それがなかったら信仰の決心をしなかったでしょうし、今ここに立つことはなかったと思っているからです。改めて、全てのことが共に働いて益となることを思わされています。
 「耳を傾ける」というのはちょっとしたことです。しかし、神はそのちょっとしたことを豊かに用いられる方でもあります。パウロも足の不自由な男性のちょっとしたことを見逃さなかったのです。それによって、この男性の人生は大きく変えられたのです。今まで一度も歩くことができなかったのに、歩くことができようになったのですから。人のちょっとしたことを見逃さない観察力を養われたく願わされます。それと同時に、語られるメッセージをどのように聞くかで、その人の歩みも大きく変えられることを知らされます。私たちの聞き方の大切さも教えられます。

2)群衆の反応
 この足の不自由な男性が歩き出したという出来事を見た群衆は、どのような反応をしたでしょうか。11~13節に「     」と書かれています。このことについては学び会で触れられていました。ゼウスというのはギリシャ信仰では最高神であり、ヘルメスは神のメッセージを伝える役と説明されていました。そのため、群衆はバルナバの方を偉いと思ったのでしょう。そして、ギリシャ神話の話しをされました。
昔、ある町にゼウスとヘルメスが貧しい旅人に装い町にきた。夕方になり「今晩泊めてほしい」と一軒一軒を回ったけれども、誰も彼らを相手にせず泊めなかった。最後に町の外れにあった小屋に行き、その小屋に住んでいたお爺さんとお婆さんは彼らを招き最高のもてなしをした。ワインをついても空にならなかった。お爺さんとお婆さんは彼らのことを神と分かった。ゼウスとヘルメスは「この無礼な町を滅ぼす」と告げ、「しかし、お前たちは町の丘に行くように」と丘の上に連れて行かれ、町は洪水で滅ぼされたという神話があるということでした。そして、その神話を知っている人たちは、「自分たちの町に神々が来た」と思い、このようなことをしたと理解できると話されていました。このリステラの地形は、学び会で見ましたが小さな盆地になっている所です。そのリステラの町の横には川があります。ですから、「山から多くの水が流れてリステラの町は大洪水になって滅ぼされる」と群衆は思い込んで、このようないけにえを献げようとしたとも考えられると話されていました。
 私たちは、この群衆の反応を通して1つのことを教えられます。それは、「奇蹟的なことが起きても大きな変化はない」ということです。Ⅱ列王記17:24以降に、北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまい、人々はアッシリアに連れて行かれます。そしてアッシリアの王は、代わりに外国人をサマリアの町に住まわせました。すると、獅子が彼らの何人かを殺しました。すると、26~28節に「     」と書かれています。そして、次の29節には「     」と書かれています。結局は自分たちが信じているやり方でしてしまうのです。このリステラの人たちもそうだったのです。自分たちのやり方で行ってしまったのです。奇蹟が起きても間違った方向に進むだけなのです。大切なのは奇蹟ではなく神のことばです。「神のことばである聖書はどのように語っているのか」ということに耳を傾け、それに聞き従う以外に正しい神への応答はないことを知らされます。
 このことは、私たちの日々の生活においても大切な事柄です。私たちはリステラの人たちのような極端ではないにしても、表面的に聖書のみことばを受け留め、自分勝手な判断で歩もうとする危険性があることを知らされます。「本当に自分の判断が聖書的なのか」を確認し、改めるべき点は改めていく。これこそが私たちが求め続ける歩みであることを教えられます。

3)生ける神に立ち返る
 群衆が間違ったやり方をしようとしたとき、パウロとバルナバはどうしたでしょうか。14節の最後に「衣を裂いて…叫んだ」と書かれています。では、パウロとバルナバは何を叫んだのでしょうか。15節に、まず「皆さん…同じ人間です」と叫んだのです。これはとても重要なことです。ともすると、人は現人神や生き仏にされてしまうことがあります。また、死んだ後に神や仏として祭られてしまうことがあります。特に、私たちが生かされています日本という社会はそのような社会です。今、NHKの大河ドラマで「どうする家康」が放映されています。豊臣秀吉が亡くなり豊国神社が建てられましたし、徳川家康が亡くなりますと久能山東照宮や日光東照宮が建てられました。そして、それらの神社に参拝する人が多くおられます。また、有名人でなくても人が亡くなりますと墓に葬られ拝まれたりします。9月の良男先生の葬儀の時も、喪主であられる泉先生が「良男さんを拝むことがないように」と参列者の方々に説明されました。人は拝まれる存在ではありません。拝まれる存在は、この世界を造られた神のみです。私たちは全て同じ人間であり、決して拝んだり拝まれたりする存在ではありません。その死者崇拝も偶像崇拝です。
 続けて、「そして…空しいことから離れて」と語っています。「このようなものを拝むことは空しい」と語っています。何故空しいのでしょうか。預言者イザヤは、イザヤ書44:9~11で「     」と語っています。何故空しいのかと言いますと、何の役にも立たないからです。何故なら、見ることも知ることもできないものだからです。そのようなものに頼ろうとするのは、本当に意味のないことであり空しいものです。では、人はどうすれば良いのでしょうか。「そのような空しいものから離れて、この世界を造られた生ける神に立ち返ることだ」とパウロとバルナバは語るのです。生ける神なのです。それは今も生きておられる神ということです。真の神は死んだ方ではなく、今も生きておられるお方なのです。しかも、真の神は世界の全てを造られた方ですから、全てのことを御存知なるお方なのです。私たちは家電製品が故障しますと販売店に持っていき、その販売店はメーカーに送ります。何故なら、その家電を作ったメーカーは、何処を修理すれば良いのかを知っているからです。創世記1章を読むとき、神は世界を造られたことが書かれています。このとき、神は物質的なものだけを造られたのではありません。同時に時間をも造られたのです。ですから、「時」というのも御存知なのです。伝道者の書3:1に「全ての営みに時がある」と書かれています。真の神は、その「時」を用いることのできるお方なのです。だからこそ、「偶像崇拝という空しいことから離れて、生ける真の神に立ち返るように」とパウロとバルナバは語っているのです。

結)
 その生ける神は、17節に書かれていますようにご自分を証しされる方です。人の身勝手な歩みを許されていますが、それでもご自分がどのような存在であるかを示し続けてこられた方です。その頂点がイエス・キリストの十字架による死と復活です。そして、その生ける神に立ち返ることこそが、人が人として歩むべき道でもあります。来週からは、そのイエス・キリストが誕生されたことを祝うクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。このクリスマスの時季、一人でも多くの人が生ける神に立ち返られるように祈っていきましょう

使徒の働き14:1~7「福音宣教を妨げるもの」 23.11.19.

序)
 先週、私たちは神の一方的な憐れみと恵みによって選ばれ、イエス・キリストを信じる者とされたことを学びました。それは私たちの中に何か良いものがあったからではありません。私たちが目を向けるものは、ただ「このような私を神は選んでくださった」ということへの感謝です。ところが「感謝」というのは、与えられ続けられますと感謝の思いが薄れ、「当然」と思うようになってしまいます。それと同じように、福音宣教においても同じことが続きますと何が生じるでしょうか。今朝は、福音宣教を妨げるものについて共に教えられたいと願っています。

1)イコニオンでも
 パウロとバルナバは、ピシディアのアンティオキアの町で反発が強まったため、彼らはその町に居られなくなりイコニオンという町に行くこととなりました。このイコニオンという町は、ピシディアのアンティオキアの町から直線で約130㎞離れた町です。学び会では約160㎞と話されていました。それは車で走った距離だと話されていました。当時は徒歩ですから1日40㎞歩くとしても4~5日かかる距離です。単に通読だけですと、そのことに気づかずに「ピシディアのアンティオキアの町を出て、パウロとバルナバはイコニオンの町に行った」と思ってしまいます。ですが、実際はそうではなくイコニオンまで途中の町に滞在したのです。その間のことについては、著者ルカは何も記していません。その理由は分かりません。パウロとバルナバのことですから、途中の町でも福音を宣べ伝えたものと考えられます。ですが、そのことには何も触れずイコニオンの町でのことに触れています。何故イコニオンの町でのことに触れたのかを考えますと、8節以降のリステラの町での出来事に繋げるためと考えられます。ですから、14:1は13:51の翌日ではなく、かなりの日数があったと考えられます。
パウロとバルナバはピシディアのアンティオキアの町からイコニオンの町に着くまで、別の町でも数日間滞在し福音宣教をしましたが、どの町においてもピシディアのアンティオキアの町で生じた事柄と同じことが起こり、パウロとバルナバはイコニオンの町に行ったものと思われます。そのように考えますと、1節の「イコニオンでも、同じことが起こった」ということばは注目させられます。何故なら、「イコニオンでも、ピシディアのアンティオキアの町と同じことが起こった」と読み取ることもできますが、イコニオンに着くまでの町で生じたことと同じことが起こった」とも読み取ることができるからです。それほどユダヤ人の反発が強かったことを表してもいます。
 イコニオンの町に入ったとき、パウロとバルナバは何をしたでしょうか。1節に「ユダヤ人の会堂に入って話をすると」と書かれています。パウロとバルナバは同じようにユダヤ人の会堂に入って話をしたのです。以前にも話しましたが、このパウロとバルナバの行動は一貫しています。必ずその町のユダヤ人会堂に入って話をしているのです。それはキプロス島でもそうでしたし、ピシディアのアンティオキアの町でもそうでした。彼らは何の話をしたのかと言いますと、イエス・キリストの十字架による死と復活という福音の話しです。パウロは、ローマ15:18で「私は、異邦人を…話そうとは思いません」と語っています。「キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと」とは、ダマスコ途上でのパウロの経験です。パウロは「これこそが正しい道」と信じキリスト教を迫害していましたが、ダマスコ途上で復活のイエス・キリストと個人的な出会いをし、今までしていたことが実は間違っていたことを知ったのです。その自分のためにイエス・キリストは身代わりとなって十字架に架かり神の審きを受けてくださっただけでなく、その死から甦って自分を朽ちて滅びることのない者へと変えてくださいました。さらに、そのようなことをしていた自分であっても、神は赦してくださるだけでなく用いてくださる方であることを経験したのです。パウロが宣べ伝えているものはそれだけなのです。それはイコニオンの町でもそうだったのです。
 先程も触れましたが、この「イコニオンでも」ということばは注目させられます。この「でも」ということばは、「同じことの繰り返し」というのを表しています。その後にも「同じことが起こった」と書かれています。何処で語ろうが同じ反応が繰り返し起こることを表しています。ですが、パウロとバルナバはそのようは反応に屈していないのです。最初の方で触れましたが、ピシディアのアンティオキアの町からイコニオンの町まで直線で約130㎞ですから途中の町で宿泊したことでしょう。その町でもパウロとバルナバは、福音宣教をしていたことでしょう。ですが、どの町でも同じことが起こり、イコニオンの町でも同じことが起こったのです。ですが、彼らはどの町でも同じことを繰り返し語り続けていたのです。「あの町であのようだったから、この町でもどうせ」とは考えなかったのです。ただひたむきに福音を語り続けたのです。
これは私たちが学ばせられることの一つです。ともすると、私たちは「あの人があのようだったから、この人もどうせ」とか「あの時あのようだったから、この時もどうせ」と思いやすくなります。ですが、パウロとバルナバはそのようには考えなかったのです。この「どうせ」主義こそが、福音宣教の前進を妨げる大きな要因の一つではないでしょうか。この「イコニオンでも」ということばを十分に味わい、福音宣教のみわざに励んでいきたいものです。

2)福音の前進
 パウロとバルナバの福音宣教によってイコニオンの町でどのようなことが起こったでしょうか。まず1節に「二人がユダヤ人の会堂に…大勢の人々が信じた」と書かれています。彼らはユダヤ人の会堂に入って話をしたのです。どのような話かと言いますと、勿論イエス・キリストの福音の話しです。その結果、ユダヤ人も異邦人改宗者も大勢の人々が信じたのです。ですが、2節の最初に「ところが」と書かれています。これは反対勢力の行動を示しています。2節に「信じようとしない…悪意を抱かせた」と書かれています。これは13:45に書かれていることと同じような事柄が起こったと考えられます。ですが、パウロとバルナバは3節に書かれていますように、「それでも…大胆に語った」のです。これもまた、ピシディアのアンティオキアの町と同じです。口汚くののしられても、「二人は長く滞在し」と書かれています。彼らはイコニオンの町に滞在し続けたのです。身に危険が及ばない限り、決して諦めることなくその町で福音を語り続けたのです。
 彼らがイコニオンの町で福音を語り続ける中で、3節の後半に「主は彼らの手によって…その恵みのことばを証しされた」と書かれています。欄外には「証拠としての奇蹟」と書かれています。このしるしと不思議が「主の奇蹟」とも理解することができます。実際にその「しるしと不思議」がどのようなものであるかは分かりませんが、確かなことは神が共にいて働いてくださったということです。それは彼らの働きを用いられたということでもあります。先程も話しましたが、福音宣教を続ける中で困難に遭遇します。困難に遭遇したとき「どうせ」と思って諦めてしまうなら、福音宣教の前進は決してあり得ません。「今まではダメだったとしても今回は」という思いを持ち続けることの大切さを教えられます。
彼らのひたむきな活動によって信じる人がさらに起こされ、町の人々はユダヤ人の側と使徒たちの側という二派に分かれました。「二派に分かれた」というのは「二分した」ということではないと思われます。数的には圧倒的にユダヤ人側の方が多かったと考えられます。ですが、たとえそうであったとしても信じる人たちが起こされたのです。これは福音宣教の前進でもあります。9月の日本伝道会議で「今の日本のキリスト教界は数的には低迷しているというよりも下降気味である」ということが報告されました。多くの教会が困難に直面し悪戦苦闘されています。しかし、神は信じる人を起こしてくださっています。そのところに目を留めて、これからも福音宣教の働きに励んでいきたいと願わされます。

3)宣教の結果
 パウロとバルナバが福音宣教を続けることによって、福音を信じる人たちが起こされました。しかし、同時に信じようとしないユダヤ人も沢山いたのも事実です。この「信じようとしない」と訳されていることばは、使徒19:9では「聞き入れず」と訳され、ローマ2:8では「従わず」と訳されています。これは何を意味しているのかと言いますと、積極的に拒むことを意味しています。すなわち、自らの意思で従わない方を選んだということです。しかも、それを自分の心の中に留めるだけでなく、異邦人たちを扇動して石打ちの刑に処しようとしたのです。ピシディアのアンティオキアでは、ユダヤ人と異邦人によっての単なる迫害が起こりました。「単なる迫害」と表現しましたが、単なる迫害であっても受ける側は大変です。しかし、その迫害がイコニオンでは石打ちの刑に処しようとする動きまで進展したのです。これが迫害の仕方が強まっていることを示しています。福音宣教が前進するとき、その反対する力も強まってくるという同じことの繰り返しです。それでも、パウロとバルナバは福音宣教を続けたのです。
 「初代教会の時は、福音がどんどん進み信じる人が大勢起こされ良いな」というのではありません。この時代においても、福音宣教が前進するに伴い反対する力も強まっていたのです。そのようなことは今も昔も何ら変わることはありません。使徒の働きを読み続けますと、本当に福音宣教の働きが前進している様子が頭の中に描かれます。何故描かれるのかと言いますと、著者ルカがそのように書いているからです。ですが、その背後には私たちの想像以上の信仰の戦いがあったのも事実です。著者ルカは迫害の強さよりも、各々の町で信じる人たちが起こされていることに目を留めていたからです。それはパウロとバルナバも同じです。先程も話しましたように、「どうせ」という思いは抱かなかったのです。福音宣教を続けると様々な方法をもって抵抗されるというのは昔も今も変わることはありません。その抵抗に屈しない信仰が支え続けられるように祈っていきたいものです。
 パウロとバルナバは自分たちの命の危険を知ったとき、イコニオンの町を出てリステラとデルベの町に避難し、その町で福音宣教を続けました。彼らが去ったあと、イコニオンの町で信じた人たちはどうなったのでしょうか。聖書には書かれていませんが、ピシディアのアンティオキアのときと同じように、神の恵みに留まり続けて生きることを勧めたものと考えられます。2回目の伝道旅行のとき、リステラの町に行きました。そこでテモテに会います。16:2に「     」と書かれています。この「イコニオンの兄弟たち」というのは、イコニオンの町にいるキリスト者のことです。パウロとバルナバがイコニオンの町を去ったあとも、イコニオンの町にはイエス・キリストを信じ続ける人がいたのです。この「イコニオンの兄弟たち」ということばは、私たちに大きな励ましを与えてくれることばです。パウロとバルナバが去ったら、その町にはイエス・キリストを信じる人が居なくなるのではありません。それでもイエス・キリストを信じ続ける人が居たのです。神がその人たちを養い続けられておられたのです。福音宣教の働きは決して無駄ではなかったのです。Ⅰコリント3:6に「     」と書かれていますように、神が一人ひとりに働いてくださり守り支え導かれておられたのです。

結)
 今朝は、イコニオンの町でのパウロとバルナバの宣教の働きから学びました。何よりも「イコニオンでも」ということばに目を留めたいものです。私たちの働きも同じことの繰り返しです。そのようなことが続きますと「どうせ」という思いが生じます。福音宣教の妨げの要因の一つは、この「どうせ」という私たちの中に生じる思いです。ですが、同じことの繰り返しのようであっても、私たちの歩みはバネのように前進しているのです。私たちに与えられている務めを遣わされている所で果たせるよう祈っていきたいものです。そして、その務めを神は用いてくださり、信じる人を必ず起こしてくださいます。何故なら、人の心に働き導くのは私たちではなく神ご自身だからです。これからも、その神に祈りつつ私たちにできる最善のことを果たせるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:44~52「チャンスは目の前に」 23.11.12.

序)
 先週は「神の恵みにとどまる」というタイトルから、朽ちて滅びることのない新しい存在とされた者として歩み続ける・生き続けることの大切さを学びました。それはイエス・キリストを礼拝し続けるということでもあります。今朝の箇所は、そのパウロとバルナバの勧めを通して、次の安息日に生じた出来事が描かれています。その出来事は予想もしなかったものと思われます。この予想外の出来事を通して、私たちは何に目を留めるべきであるのかを共に教えられたいと願っています。

1)予想外の出来事
 44節に「     」と書かれています。皆さんは、このことばからどのようなことを思われるでしょうか。「すごいな!私たちの教会もこのような反応があれば」と思われるでしょうか。私はそのように思わされます。来月は久しぶりにクリスマスライヴが行われます。一人でも多くの方が集われることを願っています。ピシディアのアンティオキアのユダヤ教会堂には、多くの人らが集ったのですが45節を見ますと大歓迎ではなかったことが分かります。不思議にも思えます。42節には「人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ」と書かれているのです。この「人々」とは誰のことかと言いますと、15節に書かれています会堂司たちと考えられます。すなわち、このユダヤ教会堂の指導的立場の人たちが、パウロとバルナバに「次の安息日にも同じことを話してほしい」と頼んだのです。それなのに、この多くの人が集った光景を見たとき、パウロとバルナバに反対し口汚くののしったのです。「何故なのか」というのを考えさせられるのではないでしょうか。
 私の勝手な想像ですが、「42節で頼んだ人たちは次の安息日を楽しみにしていたのではないか」と想像します。「今日はどのような話をしてくれるのだろうか」など、いろいろなことを考え楽しみにしていたと思います。すると次の安息日には、ほぼ町中の人々が集まったのですから、ユダヤ教会堂には入りきらないほどの人だったと思われます。これは彼らにとって予想外の出来事だったでしょう。どのようにしてこのような大勢の人が集まることができたのでしょうか。考えられるのは、パウロとバルナバは1週間何もしなかったのではなく、個人的に福音を伝え信仰に導いたと考えられます。またそれだけでなく、43節のことを通して信じる決心へと導かれた一人ひとりも、1週間の中で出会う一人ひとりに福音を伝えたり証しをしたりしていたとも考えられます。このような1週間を通して、ユダヤ教会堂には多くの人が集ったと想像します。
 しかし、ユダヤ人たちは妬みを覚え、パウロとバルナバに反対し口汚くののしったのです。何が原因なのでしょうか。幾つかのことが思い浮かべられます。1つは、「たった1週間でこんなにも多くの人が集った」ということへの妬みです。彼らも「改宗するように」とユダヤ教を伝えていたと考えられます。数年も十数年も費やしても成し得なかった成果を、たった1週間でそれ以上の成果を挙げたことに対しての妬みです。もう1つは、異邦人がそのままユダヤ教の会堂に入って来たということです。彼らは律法を重んじる人たちです。「改宗した異邦人とは違い、改宗していない異邦人に接するなら汚れる」と理解していた人たちです。自分たちだけでなく会堂まで汚されたことへの怒りもあったことでしょう。また、主よりもイエス・キリストを強調したことへの反発もあったものと考えられます。この反発は幾つかの要因があったと考えられます。

2)チャンスを逃した人々
 そのような反応に対して、パウロとバルナバはどうしたでしょうか。そのことが46節以下に記されています。パウロとバルナバは、「神のことばは…者にしてしまいます。」と語ったのです。この「あなたがた」とは、ユダヤ教会堂の指導者たちでユダヤ人に対してのものです。それは「福音はまずユダヤ人に対して宣べ伝えられることは正しい」というものです。続けて、「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちに相応しくない者にした」と語っています。この「『それを』とは何か」と言いますと、福音を信じるチャンスのことです。「せっかく信じるチャンスが与えられ、永遠のいのちを得られる機会だったのに、あなたがたはそれを拒んだ」と語っているのです。この口汚くののしった人々は、チャンスを逃した人々と言えます。福音を信じる機会は今の時代にも与えられています。その機会を見逃すか見逃さないかで、その後の歩みは大きく異なってきます。朽ちて滅びることのない新しい存在へと変えられたことに喜びと望みを抱いて歩む生き方と、朽ちて滅びる者としてこれからも歩み続ける生き方は大きく異なってきます。私たちが信じる機会を生かして、福音を信じる者とされたことを神に感謝したいものです。
 続けてパウロとバルナバは、「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と、異邦人伝道を始めることを宣言しました。そして、47節でイザヤ書49:6の後半部分を引用して語っています。この「あなたを国々の光とし」の「あなた」とは、イエス・キリストのことを示しています。ヨセフとマリアはイエス・キリストを連れて、エルサレムの神殿に行きました。すると、シメオンという人がイエス・キリストを抱いて、神をほめたたえたことがルカ2:29~32に書かれています。この32節のことばはイザヤ書49:6です。イエス・キリストは国々の光として、すなわち世界の光として誕生されたのです。ところが、今朝の箇所の47節をよく読んでみますと少し違います。それは「あなたを」ということばはイエス・キリストではなく、パウロとバルナバのこととして語られているということです。さらに言いますと、「福音を信じた人」のことです。すなわち、神はイエス・キリストを信じた人を世界の光とし、地の果てまで救いをもたらす者としてくださったのです。
 イエス・キリストだけが世界の光ではなく、そのイエス・キリストを信じる一人ひとりも世界の光とされているのです。そのようなことを聞かれますと、「えっ、こんな私が世界の光?」と思われるかもしれません。でも、私たちは世界の光とされているのです。イエス・キリストも「あなたがたは世の光です」と話されました。この「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じる一人ひとりのことです。私たちは世界の光とされているのです。何故なら、聖霊なる神がイエス・キリストを信じる一人ひとりの内に住んでくださっているからです。私たちの中にはイエス・キリストの光が輝いているのです。聖書は「その私たちを地の果てにまで救いをもたらす者とする」と語っているのです。このことばは、イエス・キリストを信じる私たちにとって厳しいことばでもあります。何故なら、もし救いを自分だけのものにしてしまうなら、それは福音を拒んでいるのと同じだからです。イエス・キリストの十字架の目的は、自分の罪が赦されたことに感謝するだけではありません。そのことに感謝しつつ、この世にあって歩み続けるため・生き続けるためです。さらに言うならば、世界の光として歩み続けるためです。私たちは、そのことを見失わないようにしたいものです。そして、その神のご計画が自分自身を通して成就することを熱心に求め続けたいものです。

3)チャンスを生かした人々
 「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と宣言したパウロとバルナバのことばによって、「異邦人たちは…主のことばを賛美した」と48節に書かれています。「次の安息日にも同じことについて話してほしい」と言われましたが、次の安息日には予想もしなかった強い反対が生じました。しかし、このパウロとバルナバの証しを通して新たな展開へと導かれていくのです。そして、48節の後半に「永遠のいのちに…信仰に入った」と書かれています。口汚くののしった人々がチャンスを逃した人々であるなら、この人々はチャンスを生かした人々ということができます。
 「永遠のいのちに定められた人たち」と書かれています。誰によって、永遠のいのちに定められたのでしょうか。それは神によってです。すなわち、神は永遠のいのちが与えられる人を定められているのです。これを「神の選び」と言います。この信仰に入った人たちが神に選ばれたのは、彼ら自身に何が良いものがあったからでしょうか。そうではありません。彼らに優れた点は何一つなかったのです。ただ一方的な神の憐れみと恵みによって選ばれたに過ぎないのです。これは現代の私たちも同じです。私たちが神を信じる者と選ばれたのも、私たちに何か優れた点があったからではありません。ただ神の憐れみと恵みによって選ばれたに過ぎないのです。ですから、私たちには自分を誇るべきものは何一つないのです。私たちにあるものはただ一つです。それは、このような私を救いへと選んでくださったことに対する神への感謝です。この信仰に入った人たちは、その神の憐れみと恵みに感謝し、日々の生活を歩み続けたことでしょう。何故なら、その生き方が神の恵みに留まるという生き方だからです。聖書はその生き方に対して、49節で「     」と語っています。ここでも、神は一人ひとりの生き方を用いられることを示しています。
 すると、50節に「     」と書かれている出来事が生じました。45節には、ユダヤ人たちが反対し口汚くののしったことが書かれています。ですが、50節には「ユダヤ人は…扇動して」と、自分たちだけでなく他の人をも巻き込んで反対する動きへと進展したのです。以前にも触れましたが、神のみわざが前進するとき、それに反対する力も強まることを改めて知らされます。その結果どうなったでしょうか。パウロとバルナバは、この地方から追い出されてしまったのです。すなわち、この町で福音宣教ができなくなったのです。そのため彼らはイコニオンという町に行くこととなりました。ピシディアのアンティオキアにイエス・キリストを信じる群れが誕生しました。しかし、パウロとバルナバはこの町に留まることができなくなり、この町を去ることとなりました。折角この町に群れが誕生したのに、その指導者が居なくなるのです。この町でイエス・キリストを信じた人たちの反応はどのようなものだったでしょうか。52節に「     」と書かれています。パウロとバルナバがこの町を去ることに深い悲しみを覚えていたのではなく、喜びと聖霊に満たされていたのです。
 この52節のみことばは考えさせられるものではないでしょうか。折角信じる群れが誕生したのに、その指導者たちが居なくなることの失意を覚えるのが自然のように思えます。しかし、彼らは失意よりも喜びと聖霊に満たされていたのです。何故でしょうか。答えは1つです。「パウロとバルナバが居なくなっても、神は私たちと共にいてくださり守り導いてくださる」という信仰です。パウロとバルナバは「神の恵みにとどまるように」と勧めました。彼らを朽ちて滅びることのない存在へと変えたのは、パウロとバルナバではなく神ご自身です。その神がこれからも共にいて群れを導いてくださるという信仰を持ち続けたからです。Ⅰコリント3:6に「     」と書かれています。これはコリント教会に語られていることですが、ピシディアのアンティオキアの群れにおいても同じです。目を留めるものはパウロやバルナバでもなければアポロでもありません。成長させてくださる神です。それこそが信じる者が目に留めるものです。

結)
 福音を信じるチャンスは目の前に置かれています。そのチャンスを逃すか生かすかは、一人ひとりの選択によってです。何よりも私たちがそのチャンスを生かし、イエス・キリストを信じられたことに感謝したいです。また、チャンスが目の前にあるのは福音を信じることだけではありません。福音宣教の前進のチャンスも目の前に置かれています。今朝の箇所は予想外の出来事が生じた箇所ですが、この出来事を通して福音宣教は前進したのです。そのことを思いますと、信じるチャンス・宣教のチャンスは目の前に置かれていることを知らされます。私たち一人ひとりは、「世界の光として救いをもたらす者とする」との神の約束を受けている一人ひとりです。あと3週間でアドベントを迎えます。私たちが世界の光として証しし続け、共に歩み続ける群れとして歩み続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:42~43「神の恵みにとどまる」 23.11.05.

序)
 前回はイエス・キリストは朽ちて滅びることのない方であり、そのイエス・キリストを信じる者も朽ちて滅びることのない新しい存在として生きる者へと変えられたことを見ました。そして、その知らせが福音であることも学びました。その福音を伝えられたピシディアのアンティオキアの人々の反応について書かれているのが今朝の箇所です。パウロとバルナバは、その人々に「神の恵みにとどまるように」と話しました。今朝は、その神の恵みにとどまることについて共に教えられたいと願っています。

1)人々の反応
 パウロはピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂に入り、旧約聖書が朗読されてから会堂司らによって話すことを勧められ語りました。今朝の箇所は、そのパウロが語ったことへの反応が描かれている箇所です。どのような反応が起きたでしょうか。2つの反応があったことを聖書は記しています。その1つは、42節に書かれていますように「次の安息日にも同じことについて話してほしい」という依頼です。これはパウロの話しが多くの人々に強い関心を引き起こしたことを表しています。このような箇所を読むたびに、「集会でこのような多くの人に強い関心を引き起こせるメッセージができたらいいな」と思わされます。そのように願いつつ準備をしているのですが、なかなかそのような反応に至らないことに、メッセージ作りの難しさを感じさせられています。これはルカが書いたものですから、パウロのメッセージの要約と考えられます。どのような口調や表情で語ったのか。また、これはメッセージの要約ですから聖書には書かれていないパウロの話しはどのようなものなのかなど想像します。メッセージ準備のために祈っていただきたいと願います。
 もう1つの反応は、43節の「会堂の集会が…ついて来た」ということです。「ついて来た」ということから、パウロとバルナバは礼拝のあと会堂を出て他の所に行こうとしたのでしょう。ひょっとしたら、泊っている宿に戻ろうとしたのかもしれません。しかし、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちは帰ることをしないで、パウロとバルナバについて行ったのです。「ユダヤ人と神を敬う改宗者たち」と書かれています。このことから、「会堂に集っていた人たちはユダヤ人だけではなかった」というのが分かります。ユダヤ教を信じる異邦人もいたのです。しかも「神を敬う」と書かれていることから、「ひときわ熱心な異邦人ユダヤ教信者の人たち」と考えられます。
 おそらく、自分の中にある罪に悩む中で、ユダヤ教に接し真の神を信じ、「その神が与えてくださった律法を守り行うことによって、義と認められ生きることができる」と信じ歩み続けていたと思われます。しかし、どれだけ律法を守り行っても罪の問題は解決することができなかったのです。律法を守り行い続けることによって心の中に生じるものは、「守り行えなかったとき罪に定められる」という不安です。そのような日々の生活を過ごしている中でパウロのメッセージを聞いたのです。先週の箇所には書かれていませんが、「おそらくパウロは『イエス・キリストの十字架による死は、私たちの罪の身代わりとしての神の審きであり、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって私たちの罪は神に赦される』ということも語ったのではないか」と私は勝手に想像しています。
 イエス・キリストが死から甦られ、朽ちて滅びることのない方であるから、そのイエス・キリストを信じる人も神の審きへの恐れや死に対する恐れから解放されることを知り、さらに詳しく知りたいと思ってパウロとバルナバについて行ったのではないかと考えられます。死に対する恐れからの解放。これは当時の人だけでなく、現代にも多くの方が抱いている事柄です。この問題を解決するものは一つだけです。それは死から甦られ朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストを信じることです。私たちは、その福音を神から委ねられているのです。そのことを覚えつつ、続けて福音宣教に携わっていきたいものです。

2)彼らと語り合った
 パウロとバルナバについて来た人たちに対して、パウロとバルナバは何をしたでしょうか。2つのことが書かれています。その1つは彼らと語り合ったのです。おそらく、パウロが語ったことに対して、新たに発見したことや質問などが出たことでしょう。また、パウロが語ったメッセージに対する自分の感想を伝えた人もいたことでしょう。私も講壇交換などで奉仕させていただくとき、礼拝後に近寄って来られてメッセージの感想を伝えてくださる方がおられます。これは牧師にとっては大きな励ましです。自分が準備し語ったものが、一人ひとりにどのように伝わっているのか。そして、そのことを通して今後どのように準備すれば良いのかを考えさせられる時でもあります。「教会員が牧師を育てる」ということばを耳にしますが、その一つはそのようなことです。コロナ前は礼拝後、お茶とお菓子を食べながら交わりのときがありました。その多くは雑談で終わってしまうものでした。それも悪くないのですが、私の中には「自分が語ったメッセージがどのように届いているのか」とずっと思わされていました。そのために、「分かち合いと祈りのとき」というのを礼拝後に持たせていただくこととなったのです。パウロらが彼らと語り合ったのは、まさしく「分かち合いのとき」と言えます。
パウロとバルナバは「彼らと語り合い」と書かれていますので、彼らの一つひとつの問いに答えていったと考えられます。それは語られたメッセージが一方的に語られて終わるというのではなく、一人ひとりの必要や求めにきちんと対応したということです。このパウロとバルナバの所に集まった人たちはユダヤ教信者です。ですから、まだイエス・キリストを信じていない人たちです。ですから、パウロとバルナバの所に集まった人たちにパウロとバルナバが語ったのは、その内容からイエス・キリストのことを伝えたということでもあります。すなわち、「イエス・キリストを信じることによってどのような者へと変えられるのか」ということを伝えたのです。それは、まさしく個人伝道です。
では、イエス・キリストを信じることによってどのような者へと変えられるのでしょうか。自分の罪が赦され、天の御国に入る者へと変えられることでしょうか。そのことについては先週の礼拝で学びましたですね。これはパウロの福音の中心点です。イエス・キリストにある福音は、自分の罪が赦され天の御国に入るということではありません。それは信じたことの結果であって目的ではありません。イエス・キリストの福音の目的は、死の支配から解放され、朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びることのない新しい存在として生きることです。さらに言えば、そのような者に変えてくださった神に感謝し礼拝し続ける者となるためです。もし、イエス・キリストの十字架による福音の目的が罪の赦しと天の御国に入ることであるなら、イエス・キリストを信じることによって達成されるのです。そうであるなら、「何故神を礼拝するのか」が分からなくなってしまいます。
 先月、スーパー銭湯「満天望」に行きますと、春日井栄光教会の関先生にお会いし話し込んでしまいました。その話の中に「オンラインが定着しつつある中で、礼拝をオンラインで済ませようとする方がおられることが日本の教会の課題の一つである」と話されていました。私もそのように捉えている一人でして、私の意見を述べさせていただきました。これは「礼拝に対する姿勢の問題である」と私は捉えています。私自身、オンライン礼拝を反対する者ではありません。正当な理由で教会に集うことができず、オンラインにて礼拝を献げることは良いことと捉えています。しかし、「楽だから」とか「時間がないから」という理由でのオンライン礼拝には問題を覚えます。何故なら、イエス・キリストはご自身の命を犠牲にしてまで私たちの罪のために十字架に架かられました。そのイエス・キリストの十字架を信じることによって、私たちは朽ちて滅びる古い存在から、朽ちて滅びることのない新しい存在として生きる者へと変えられました。そこには、イエス・キリストがご自身の命を献げるという大きな犠牲が伴っているからです。礼拝とは、そのイエス・キリストの犠牲への感謝と1週間の神の守りと導きへの感謝です。そうであるならば、「私たちも犠牲を負って神を礼拝する必要がある」と私は理解しています。それが「楽だから」とか「時間がないから」という理由であるならば、それは「私にとっての神礼拝は、その程度の価値しかない」という告白でもあります。時間がなければ時間を作れば良いだけのことです。それは「そのような犠牲を負うほど私にとって礼拝は価値あるもの」という神への告白に繋がります。神礼拝は、信じる私たちにとってそれほど価値があり大切なものです。

3)神の恵みにとどまる
 もう1つパウロらがしたことは、「神の恵みにとどまるように」と勧めたことです。今の聖書には「説得した」と書かれています。今までの訳ですと「勧めた」と訳されていました。「説得した」ということばの方が「神の恵みにとどまる」ことへの強い勧めであるように受け取れます。それほどの「神の恵み」とはどのようなものでしょうか。それは、先程から話しています「朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びることのない新しい存在に変えられた」という恵みです。「その神の恵みを覚えて留まるように」とパウロとバルナバは勧めたのです。
 では「神の恵みにとどまる」とは、具体的にどのようなことを語っているのでしょうか。この「とどまる」とは、「留まり続ける」ということです。継続が求められているのです。神の恵みに留まり続けるには、この世にあって生き続けることでもあります。ですから、「朽ちて滅びることのない存在へと変えてくださった神に感謝し、この世にあって生き続けるように」ということをパウロとバルナバは勧めているのです。そして、この世にあって朽ちて滅びることのない存在へと変えられ生き続けるということは、そのような者へと変えてくださったイエス・キリストの証し人として生き続けるということでもあります。何度も話していますが、イエス・キリストが十字架に架かって私たちの罪の身代わりとなって死なれ甦られた目的は、そのイエス・キリストを信じる人の罪が赦されて天の御国に入るためではありません。信じる人の罪が赦され天の御国に入ることができるのは、イエス・キリストを信じたことの結果であり目的ではありません。イエス・キリストの十字架の目的は、朽ちて滅びることのない存在に変えられたことに感謝し生き続ける者となるためです。すなわち、イエス・キリストの証し人として生き続ける者となるために、イエス・キリストは十字架に架かって死なれ甦られたのです。
 そのことがきちんと分かっていないと、「イエス・キリストを信じることによって私の罪は赦され天の御国に入ることができる」ということで終わってしまいます。そうなりますと、「何故、毎週教会に集い礼拝をしなければならないのか」という疑問が生じます。すると礼拝が苦痛になり、やがて礼拝から足が遠のいてしまいます。これは本末転倒です。イエス・キリストの十字架の目的は、このような私が朽ちて滅びることのない存在へと変えられたことに感謝し、この世にあって生き続ける者となるためです。イエス・キリストの証し人として生き続けるためです。さらに言えば、そのような者へと変えてくださった神に感謝し礼拝し続ける者となるためです。これが神の恵みにとどまるということです。
 パウロとバルナバがこのように勧めたのは、この世にあって患難に遭遇するからです。そのことを彼らはよく知っているのです。何故なら、彼ら自身も患難に遭遇していたからです。神の恵みに感謝し信じることは容易い方です。しかし、信じた後の患難との戦いは決して容易いものではありません。むしろ、そちらの方が大変なのです。イエス・キリストもそのことを御存知だから、「世にあっては苦難があります」と話されたのです。ですが、その後で「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と話されたのです。死に勝利し朽ちて滅びることのない方が共にいてくださり、守り支え導いてくださっているのです。私たち一人ひとりを「決して見捨てない」と約束してくださった方が共にいてくださるのです。患難との戦いは決して容易いものではありませんが、その神の恵みに留まり続けて生きることが真の力でもあります。

結)
 私の友人で、よく「感謝です」ということばを口癖にしていた人がいます。神学生のときは「変わった奴や」と思っていました。でもそれは「苦難を経験していない」ということではありませんでした。様々な苦難を経験されていたのです。でも、その一つひとつを神が導いてくださり、全てのことを共に働かせて益としてくださることに感謝していたのです。そのことを知ったとき、彼に対する見方が「変な奴」から「すごい奴」へと変えられました。神は私たちの歩み一つひとつの事柄を共に働かせて益としてくださる方です。私たちは、その神の恵みの中に生かされているのです。このような私を決して朽ちて滅びることのない存在へと変えてくださった神に感謝しつつ、この世にあって生き続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:32~41「朽ちて滅びない方」 23.10.22.

序)
 前回私たちは13:13~31の箇所から、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂で語ったパウロのメッセージを通して、神は約束に従ってご自身の真実さ・確かさを示され、その神の真実さ・確かさは現代も変わることなく同じであることを学びました。そして、その神が今も私たち一人ひとりに働いてくださり、導いてくださっていることを確認いたしました。今朝は、そのパウロのメッセージの後半の部分です。今朝はこの箇所から、2つの点に注目し共に教えられたいと願っています。

1)朽ちて滅びることのない方
 その1つは、「イエス・キリストは朽ちて滅びることのない方である」ということです。パウロは旧約時代の出来事と現在の出来事を通して、神は約束に従ってご自身の真実さ・確かさを示されたことを語りました。続けて、「私たちもあなたがたに」と、32節で「私たちもあなたがたに神の約束である福音を宣べ伝えている」と言って、33~37節で旧約聖書を引用しつつ語っています。まずパウロは「神はイエスを甦らせ」と語っています。この「甦り」を意味するギリシャ語は「アナステーシス」ということばです。これは「アナ」と「ステーシス」を合わせたことばです。「アナ」とは「再び」という意味を持つことばです。例えば、バプテスト教会の中でも「アナバプテスト」というグループがあります。これは再びバプテスマを授けるグループを指しています。バプテスマには浸礼・滴礼・灌水礼があります。私たちの団体は浸礼の立場です。これは「私たちの団体が執行するバプテスマは浸礼が原則である」という立場です。ですから、転入される方に対しては、私たちの団体の信仰告白を受け入れるのであれば、滴礼を受けている方も受け入れる」というものです。しかし、団体によっては受け入れない所もあります。そのため、「転入されるならもう一度バプテスマを受けていただく」という立場がアナバプテストです。「ステーシス」とは「立つ」とか「置く」という意味のことばです。これは英語の「ステーシス」の語源です。英語のステーシスは「停止」を意味します。何故そのような意味になったのかと言いますと、立っているだけで動かないからです。甦り・復活を意味するアナステーシスとは、「再び立って活動し始める」という意味を持ったことばです。ですから、この「神はイエスを甦らせ」とは、「神はイエスを再び立たせられた」ということを表しています。
これは22節の「そしてサウルを…ダビデを立て」ということばと関連しているのです。36節に書かれていますが、ダビデは神によって王として立てられましたが、やがて死んで葬られ朽ちて滅びる者となりました。これは決して否定することができない事実です。しかしパウロは、37節で「     」と語っています。同じことが34節でも語られています。「何故神はイエス・キリストを死から甦らされたのか」と言いますと、34節に「わたしはダビデへの…あなたがたに与える」という旧約聖書を引用しつつ、「それが神の私たちへの約束だからである」と語っているのです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に架かって死なれ葬られましたが、神はそのイエス・キリストを死から甦らせてくださることによって、神の私たちへの約束は成就されたと語っているのです。
イエス・キリストは死から甦られたことによって、朽ちて滅びることのない方となられたのです。それは単に死から生き返ったということではありません。そうであれば、またやがては死んでしまい朽ち滅びてしまいます。ですが、イエス・キリストの甦りは全く異なるものです。私たちが生かさています日本には「死者を拝む」という風習があります。それは神社だけでなく墓もそうです。ですが、その死者礼拝が如何に空しいものであるかをイエス・キリストの復活は示しています。死んで葬られ朽ち果てた者に、生きている私たちを救う力など全くないのです。罪と死の奴隷とされている私たちを解放し、真の自由な者としてくださる神の救い。この神の救いは、朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストによってしかないのです。へブル7:25に「     」と書かれています。イエス・キリストはいつも生きておられるから、人々を完全に救うことができるのです。これがパウロの語っているメッセージの1つです。

2)罪の赦し
 もう1つパウロが語っているのは罪の赦しです。33~37節で「朽ちて滅びることのない方」となられたイエス・キリストの復活を語って後、38節の前半でパウロは「     」と語っています。朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストによってしか罪の赦しは与えられないのです。だから、「そのイエス・キリストを信じるように」というのがパウロのメッセージの結論です。
 では、罪の赦しとは何でしょうか。皆さんは「罪の赦しって何ですか?」と尋ねられたらどのように答えられるでしょうか。「自分の罪が赦されること」と答えられるでしょうか。そうですと、「自分の罪が赦されるとはどういうこと?」と尋ねられるでしょう。或いは「天の御国に入れること」と答えられるでしょうか。そうなりますと、罪の赦しは天の御国に入ることが目的となってしまいます。そのような質問に対して、どのように答えられるでしょうか。「私には分からないから牧師に聞いてください」でしょうか。それでも良いのですが、それでは全く解決にならないのです。何故なら、他の人から同じ質問をされても同じことの繰り返しだからです。一番良い方法は、自分自身が牧師に尋ねて学ぶことです。「知り合いからこのように尋ねられたのですが、何と答えれば良いのか」と尋ねることによって答えが分かり、今度からは同じことを尋ねられても答えることができます。これは大事なことです。それをしないといつまで経っても成長することはありません。へブル5:12に「あなたがたは…必要があります」と書かれています。年数からすれば他人に教える立場であるのに、それができていないのです。13~14節に「     」と書かれています。生まれたばかりの赤ちゃんや幼子は乳や離乳食を食べますが固い食べ物は無理です。それはもう少し成長してからです。聖書は「生まれたばかりの赤ちゃんではいけない」と語っているのです。人は成長する者として誕生したのと同じように、信仰も成長するものとして与えられているのです。そのことをきちんと覚えておく必要はあります。
 話しが反れてしまいましたが、罪の赦しを一言で言えば「本来の人間に立ち返ること」です。神が本来ご計画され、創造された人間本来の在り方から罪の故に的外れな存在となっているのが、私たちの現実の姿です。いのちの源であられる神から離れて、自己中心になって勝手に生きているつもりであっても、行き着く先は墓であり朽ちて滅びてしまいます。これが私たちの現実であり罪人の姿です。そのような私たちの所に、イエス・キリストは来てくださり十字架で死なれ葬られるという経験をされたのです。それは罪の中にある私たちと同じ朽ち果てる道を歩まれたのです。まさに「どん底」と言っても良い死者の中からイエス・キリストは甦られ朽ちて滅びることのない方となられたのです。
 いや、それだけでなく「     」と39節でパウロは語っています。「イエス・キリストによって、信じる者はみな義と認められる」とは、「どん底の状態から解放される」ということです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって死なれましたが、罪と死に打ち勝たれ甦られたのです。それはイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストと一つとされ死からの甦りに与ることができるということです。すなわち、死の支配から解放されるのです。朽ち滅びる古い存在ではなく、朽ちて滅びない新しい存在とされるのです。パウロはそのことをⅡコリント5:17で「     」と語っています。この朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びない新しい存在とされることが罪の赦しなのです。罪の赦しは天の御国に入るためではありません。この世にあって、朽ちて滅びることのない新しい存在として生きるためです。
 これがパウロの語っている福音の中心点です。41節にパウロが旧約聖書を引用し語っていることが書かれています。これは欄外に書かれていますようにハバクク書1:5の引用しつつ警告しています。へブル2:3に「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合」と書かれていますように、パウロはピシディアのアンティオキアのユダヤ教の人たちに、「ないがしろにしないように」と勧めているのです。この福音は嘲る人たちには信じがたいものです。しかし、信じる者にとっては神の力なのです。

結)
 今私たちは朽ちて滅びる存在から、イエス・キリストにあって朽ちて滅びない新しい存在とされています。この希望が、この良き知らせが福音なのです。福音は「死んだら天の御国に入れる」という死後に対する良き知らせではありません。今この世にあって朽ちて滅びることのない新しい存在に変えられ、生きるために神から送られたすばらしい知らせなのです。このすばらしい知らせを、私たちが生かされています家庭・地域・職場で一人でも多くの人に伝えていけるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:13~31「約束に従って」 23.10.08.

序)
 先週は、キプロス島でのパウロらの宣教について見ました。パウロらはユダヤ教会堂に入り、神のことばを宣べ伝えました。そして、今朝の箇所でもユダヤ教会堂に入って神のことばを宣べ伝えています。先週、私たちのこのような一貫したパウロらの行動を通して、神はその生き方を用いられ、人の想像を超えた不思議な導きによって、総督が信仰に導かれたことを見ました。今朝は、そのキプロス島からピシディアのアンティオキアの町での宣教の箇所です。このピシディアのアンティオキアにおいては、パウロが語った宣教に焦点を合わせて書かれています。今週と来週は、そのパウロの宣教から共に教えられたいと願っています。

1)ユダヤ教会堂にて
 まず、13節に「パウロの一行は…ペルゲに渡った」と書かれています。この「ペルゲ」とは何処かと言いますと、地図13を見ますと掲載されています。地図を見ますと、「アタリア」の少し内陸部に位置していることが分かります。このアタリアも港町なのですが、聖書にはアタリアに寄らずにペルゲに直接渡ったことが書かれています。直接内陸部にあるペルゲの町に渡ったことに不思議に思えます。学び会のときに触れられていましたが、当時は川幅も広く、海から直接ペルゲの町に入港していたことが発掘作業で分かっているということでした。そのペルゲからピシディアのアンティオキアには「王の道」というものが作られていました。それはローマ帝国が軍を速やかに派遣できるようにするためです。ピシディアのアンティオキアは、ローマ帝国の軍事都市の一つであったと考えられており、アクロポリスが作られ、その地域の中心都市で神殿も建設されており皇帝崇拝が行われていた町です。そのような町にパウロらは行ったのです。
 そして、彼らは安息日に会堂に入ります。この会堂とはユダヤ教会堂のことです。ユダヤ教会堂がローマ神殿の前の一等地に建てられていたことが発掘作業で明らかにされています。ローマ帝国の軍事都市に大勢のユダヤ人が住んでおり、ユダヤ教会堂が神殿の前の一等地に建てられていることが不思議に思えます。ですが、ヘレニズム時代には周辺民族との戦いがあり、反シリア派の人が大勢いたため、バビロン捕囚時代にシリアを支持するユダヤ人を住まわせ、ユダヤ人にある程度の地位が認められたことを学び会で見ました。そのため、パウロの時代にも多くのユダヤ人がこの町で生活をしていたのです。ですから、ユダヤ教会堂があっても不思議なことではありません。そのユダヤ教会堂にパウロが入りますと、旧約聖書の朗読の後に会堂司によって話すことを依頼されます。今朝の箇所は、パウロの最初の説教の箇所です。
 ここで、まずパウロは「イスラエルの…神を恐れる方々」と呼び掛けています。このことばから、「イスラエル人の皆さん」とはユダヤ人のことと分かります。では、「神を恐れる方々」とは誰のことでしょうか。それはユダヤ教に改宗した異邦人です。ですから、ピシディアのアンティオキアのユダヤ教会堂には、ユダヤ人と改宗した異邦人が共にいたことが分かります。このパウロの呼びかけから、福音はユダヤ人であれ異邦人であれ、どちらにも必要なものであることが分かります。それは、イエス・キリストによる罪の赦しは、ユダヤ人にも異邦人にも必要だからです。パウロはローマ1:16で、「福音は…神の力です」と語っています。この「ギリシャ人」とは異邦人のことです。イエス・キリストの福音は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、信じる全ての人に救いをもたらす神の力なのです。

2)過去の事実から
 まずパウロは、17~22節において旧約聖書の大きな流れを指し示しています。「この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び」と、アブラハムと族長たちを選ばれたことを語っています。イスラエルの民のエジプトでの奴隷生活とその地からの驚くべき解放の神のみわざ。そして、40年間の荒野での生活における神の守りと導きの恵み。さらに士師時代から預言者サムエルを通してサウルを王とする王国が建てられ、そのサウルが退けられてダビデが王に立てられたことが語られています。創世記15:13~14には、神がアブラハムに子孫が400年の間奴隷として苦しめられるが、そこから解放されることが語られています。さらに、創世記15:18~21にはアブラハムの子孫に与えられる土地の広さが語られています。これはソロモン王の時代に制圧された地域です。神はアブラハムへの約束に従って、アブラハムの子孫を導かれたことをパウロは語っているのです。
 アブラハム~ダビデまでの約千年の間、イスラエルの民は様々な経験をしてきました。しかし、神はご自分の約束に従ってイスラエルの民を守り導かれ、ご自身の確かさを現わされたことをパウロは語っているのです。そして、22~23節で神の真実が頂点に達するイエス・キリストの出来事を示しています。22節では、サウル王が退けられたのに対して、ダビデについては「わたしの心にかなった者」と言われ、ダビデをイスラエルの王とされたことを示しています。ですが、そのダビデ王朝は息子ソロモンへと継承されますが、ソロモン死後に南北に分裂してしまいます。そして、北イスラエル王国は紀元前722年のアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前587年にバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロン捕囚として多くのユダヤ人はバビロニア帝国に連れて行かれます。
 このように見ますと、ダビデ家の子孫による王権は永久になくなってしまったように思えます。しかし、預言者エレミヤは23:5で「     」と語りますし、エゼキエルは34:23~24で「     」と、ダビデの子孫から王となって治める者が起こされることが語られています。23節では、これらの約束に従って、神はダビデの子孫から救い主イエス・キリストが送られたことを語っています。マタイ1章にはイエス・キリストの系図が書かれており、16節に「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ」と書かれています。ですから、イエス・キリストの父ヨセフはダビデの子孫です。そのダビデの子孫であるヨセフの職業は何だったでしょうか。マタイ13:55に「この人は大工の息子ではないか」と、イエス・キリストの父ヨセフの職業が大工であったことが分かります。ダビデ王家の子孫が大工という職業に就いているのですから、ダビデ家の子孫による王権復活は永久にないようにも思えます。しかし、神はご自分の約束に従って、ご自身の確かさ・真実さを現わされたのです。パウロは過去の事実から、神のダビデに対する約束は、イエス・キリストによって成就されたと語っているのです。

3)現在の事実から
 アブラハム~ダビデ、ダビデ~イエス・キリストまでの旧約聖書の証言に従って、神が真実なる方であることを語ったパウロは、続けて現在の時代からも語っています。まずパウロは、24~25節でバプテスマのヨハネの証言に基づいて、イエス・キリストが神の約束に従って送られた救い主であることを示します。26節で「アブラハムの子孫…恐れる方々」と、16節と同じことばをかけています。それは、これから語ることに注目してほしいからです。何に注目してほしいのかと言いますと、神の約束は現在も生きているということにです。だから、パウロは26節の後半で「この救いのことばは、私たちに送られたのです」と語っているのです。すなわち、「旧約聖書における神の約束は、旧約聖書の時代の人々だけにではなく、現代の私たちにもなされている」と語っているのです。
 そしてパウロは、まずイエス・キリストにしたエルサレムの人々とその教指導者らについて語っています。彼らはイエス・キリストを認めず、むしろイエス・キリストを罪人と定め、十字架刑に処して殺し墓に納めたことを27~29節で語っています。「エルサレムの人々とその指導者たち」と語っています。パウロが今いる所は、エルサレムではなくピシディアのアンティオキアです。このことばは、「あなたがたではなく、エルサレムの指導者たちの罪によって神の救いの約束は果たされなかったように思えるけれども、神はイエス・キリストを死者の中から甦らせてくださった」と30節で語っているのです。さらに、神はイエス・キリストを死から甦らせただけでなく、多くの人たちに現されたことを31節で語っています。そして、「そのイエス・キリストの証人が、あなた方の前に立っている」と語っているのです。何故、ピシディアのアンティオキアの人たちの前に、イエス・キリストの証人が立っているのでしょうか。それは、神の救いの約束はピシディアのアンティオキアの人たちにも送られているからです。
 出エジプトの時代、士師記の時代、分裂後の時代の人々は、自分たちの願いを満たすために神に対して罪を犯し続けてきました。しかし、神はそのようなイスラエルの民に対して見捨てることをされず、養い導かれることを通してご自分の愛を示されていました。そして、イエス・キリストの時代においても、ユダヤ教指導者らは自分の願いを満たすために、イエス・キリストを十字架刑に処して殺しました。それでも神は人を見捨てることをされず、むしろイエス・キリストを死から甦らせることによって、ご自分の愛を明らかに示されました。「神はご自分の約束に従って、決して人を見捨てることをされず、御手を差し伸べ続けて、ご自分の愛を明らかにされている。それはピシディアのアンティオキアの人々に対しても同じである」とパウロは語っているのです。

結)
 このパウロが語り続けている福音。神の救いの約束は、私たちが生かされています現在においても同じです。現代の私たちも自分の願いを満たしたいがために、神に対して罪を犯してしまいます。しかし、神はそのような私たちを見捨てることをされず、救いの方法を取ってくださっています。それは、自分の罪を悔い改めて神の約束を信じることです。その神の約束とは、「イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのを信じることによって赦される」というものです。神はその約束に従って、現代も一人ひとりに働いてくださっています。その福音を一人でも多くの人に伝えられるように祈っていきましょう。

使徒の働き13:4~12「キプロス島での宣教」 23.10.01.

序)
 先週はパウロの伝道旅行の前文と言っても良い箇所で、どのようにしてパウロは伝道旅行を始めるに至ったのかを見ました。それはアンティオキア教会の人たちが断食をして主を礼拝している中で、聖霊の語りかけによって始まったものです。この「断食し」ということばは、別になくても不自然ではありませんが、わざわざこのことばを書き加えているということは、アンティオキア教会の人たちがどれほど備えて礼拝に臨んでいたかを教えられます。パウロの伝道旅行はこのようなアンティオキア教会の礼拝に対する備えを通して、そして神のみわざによって始まったものであることをルカは記ているのを私たちは学びました。今朝の箇所はキプロス島での宣教です。この箇所から「宣教するにおいて何が大切であるか」を共に教えられたいと願っています。

1)パウロらの生き方
 聖霊によって送り出されたパウロとバルナバは、ヨハネを助手として連れて行きます。この「ヨハネ」とは、12:15に書かれています「マルコと呼ばれるヨハネ」のことです。すなわち、マルコの福音書を書いたマルコのことです。このヨハネについては、12:12にも「マルコと呼ばれている…家に行った」と書かれています。多くの人が集まり祈るほどの家ですから、裕福な家庭で大きな家に育った人だと想像できます。また、この家は1:13以降に書かれています祈るために集まっていた家とも考えられます。彼らはアンティオキアの町からセレウキアという町に行きます。この「セレウキア」という町は、学びのときに見ましたがアンティオキアから海の方に20㎞程離れた港町です。今でも小さな港がありますが、その港はパウロらが船出した港ではないことを覚えておられることと思います。その近くに、昔あった港の形跡が残されており、発掘作業がなされる中で大きな港があったことを学びました。当時のアンティオキアの町はローマ帝国の中で3番目に大きな町でしたから、セレウキアの港も大きな港でした。その港からパウロらはキプロス島に船出したのです。パウロと同行したバルナバはキプロス生まれですから、この地での伝道は深い思いがあったのではないかと想像します。この町はイスラエルからは近い大きな港町ですから、大勢のユダヤ人が住んでいました。そのため、ユダヤ人の会堂も幾つかありました。パウロらは、そのユダヤ人会堂に入って福音を宣べ伝えたのです。それはローマ1:16に「福音は…神の力です」と書かれていますように、「ユダヤ人をはじめ」なのです。パウロらは異邦人伝道に遣わされていますが、決してユダヤ人伝道を軽んじてはいないのです。それは使徒13:46で語られているように、神のことばはまずユダヤ人に語られる必要があったからです。ですから、パウロらはどの町に行こうともユダヤ人会堂に入って福音を語ったのです。全くぶれることのないパウロらの生き方を知らされます。
 その後、パウロらは島全体を巡回してパポスという町に行きます。このパポスという町はキプロス島の中心都市です。この町には地方総督であるセルギウス・パウルスという人がいました。「セルギウス・パウルス」というのはラテン語です。この「パウルス」というのは「パウロ」です。以前の聖書では「セルギオ・パウロ」と訳されていました。「何故ラテン語の名前を用いたのか」と言いますと、学び会のときに話されていましたが「パウロと区別するためではないか」と考えられます。その町に「バルイエス」という名前の魔術師にパウロらは出会います。この魔術師は、「地方総督であるセルギウス・パウルスのもとにいた」と7節に書かれています。何か不思議な神の導きのように思えます。
 ですが、このことだけに目を向けてしまいますと危険なように私は思えます。パウロらはどの町に行こうとも、最初にユダヤ人会堂に入って福音を語りました。それは「ユダヤ人をはじめ」というパウロらの一貫した伝道方法です。おそらくパウロらは、パポスの町でもユダヤ人会堂に入って福音を語ったことでしょう。その過程で、バルイエスに出会うように神はパウロを導かれたのです。神はパウロらの一貫した伝道方法・生き方を用いられたのです。決してぶれることのないパウロらの生き方。その生き方を私たちは学ばされます。

2)バルイエス
 では、そのパポスの町で何が起こったのでしょうか。このパポスの町で2人の人物が挙げられています。それは先程からも見ているバルイエスと地方総督のセルギウス・パウルスです。まずは、バルイエスについて見てみたいと思います。6節の後半に「バルイエスという…偽預言者であった」と紹介されています。「バルイエス」の「バル」とは「子」という意味です。ですから、「イエスの子」となります。「え、イエス・キリストの子なの」と思われるかもしれませんが、「イエス」という名は普通の名前です。「イエス」とは「主は救い」という意味です。旧約聖書に「ヨシュア」という人がいます。モーセの後継者でイスラエルの民をカナンの地に導いた人です。彼の元々の名は「ホセア」でした。この「ホセア」とは「救い」という意味です。モーセは、このホセアを「ヨシュア」に改名しました。「ヨシュア」とは「主は救い」という意味です。すなわち、ヨシュアのギリシャ語がイエスなのです。ですから、当時のイスラエルにおいて「イエス」という名は決して珍しい名前ではなかったのです。
 この「バルイエス」と呼ばれていた人物はユダヤ人ですから、彼が行う魔術を通して「この人が主から遣わされた救い主である」と人々に思わせていたとも考えられます。その噂が地方総督のセルギウス・パウルスの耳に入り、バルイエスを召し入れていたと思われます。当時、キプロス島には多くのユダヤ人が住んでおり、またヘレニズム文化がどっしり腰を据え降ろしている地域です。そのような島の中で「救いの子」を意味するバルイエスによる大きな影響を人々は受けていたと考えられます。7節前半の「この男は…もとにいた」ということばから、地方総督であるセルギウス・パウルスは何かとバルイエスに寄り頼んでいたものと想像できます。ところが、聖書はバルイエスのことを「偽預言者であった」と書き記しています。すなわち、神から遣わされた預言者ではなかったということです。むしろ、神の道を曲げている人だったのです。
 このバルイエスは、パウロらが総督の所に招かれますと、「二人に反対して…遠ざけようとした」と8節に書かれています。何故二人に反対したのかと言いますと答えは明白です。彼の目的は人を神から遠ざけることだったからです。ところが、パウロらが語る神のことばによって、人が神に近づくことを恐れたからです。神のことば・神のみわざが前進しようとするとき、サタンの働きも強まることを聖書は示しています。でもそれは当然のことです。今ラグビーのワールドカップが行われています。相手チームが自分たちの陣地に入り押し込まれているとき、得点を入れられないように必死に抵抗します。それと同じです。福音が前進しようとするとき、サタンの抵抗も厳しくなります。私たちは福音がなかなか前進しないことに落胆してしまうことがあります。でも、その要因の一つはサタンの抵抗が厳しいからでもあります。サタンの側も必死なのです。
 そのバルイエスの抵抗に対して、パウロは「彼をにらみつけて」と9節の最後に書かれ、パウロがバルイエスに対して言ったことばが10~11節に書かれています。すると、バルイエスに何が起きたかと言いますと、11節の後半に「するとたちまち…探し回った」と書かれています。この情景を思い浮かべますと、パウロがダマスコ途上で経験したものと似ているように思えます。しかし違う点は、パウロは悔い改めて神に祈りましたが、バルイエスにはそのようなことが書かれていないという点です。バルイエスは自分の罪を悔い改めたのかどうかは分かりませんが、私たちは自分の罪を示されたとき悔い改めることが大切であるのをバルイエスの出来事から気づかされます。

3)セルギウス・パウルス
 もう一人の人物は、地方総督であるセルギウス・パウルスです。この地方総督であるセルギウス・パウルスについて、著者ルカは「この総督は賢明な人で」と紹介しています。調べてみますと、彼は総督になる前は川の管理官として行政に携わっていたようです。行政官時代の働きが評価されて総督に任じられたと考えられます。ですから、とても才能のあった人だったと想像できます。しかし、そのような人であっても魔術や迷信に惑わされ、欺かれてしまうのです。そのような人は現代にもおられるのではないでしょうか。とても優れた人がカルト集団に入ってしまうというのを耳にします。そのようなとき「何故そのような人が」と思わされたりもします。しかし、そこに人間の限界を見せられるのではないでしょうか。
 そのような状況下に置かれていた総督でしたが、バルイエスから解放される時が訪れました。それは神のことばです。パウロらが語っていた神のことばに「聞きたい」という思いが起こされたのです。どのようにして総督にまでパウロのことが伝えられたのかは聖書に記されてはいません。ですから、パウロらがキプロス島に着いてから、どれほどの時間が経っていたのかは分かりません。しかし、確かなことは総督にまで神のことばが届いたということです。6節に「島全体を巡回してパポスまで行った」と書かれています。パウロらの地道な働きを通して、この地方の総督の耳にまで届いたのです。このことばは「地道な働きは決して無駄ではない」という励ましを与えてくれます。「こんなことをして無駄ではないか」と思えることは多々あります。「巡回して」なのですから一つひとつなのです。その一つひとつを神は用いてくださるのです。それは現代においても同じです。何故なら、神は永遠なるお方だからです。この時代に一つひとつを用いられた神は、今の時代も一つひとつ用いてくださるお方なのです。そのことを覚えつつ、神のみわざに続けて参与していきたく願わされます。
 「神のことばを聞きたい」と願った総督に対して、聖書は「ところが」と8節で語っています。バルイエスが反対したのです。先程も話しましたように、神のみわざが前進しようとするときサタンは抵抗します。しかし、そのサタンの抵抗はもろくも崩れ去ります。パウロは聖霊に満たされ語ります。すると、たちまちバルイエスは目が見えなくなってしまいます。これはパウロの力ではなく、「聖霊に満たされて」と聖霊なる神によってであることを聖書は示しています。総督はこの出来事を見て信仰に入りました。癒しや奇蹟などを通して信仰に導かれる方がおられます。それは、その人にとっての神の導き方です。癒しや奇蹟が大切なのではありません。人を救いに導くのは神のことばです。私たちはそのことを見逃してはなりません。パウロ自身、Ⅰコリント1:18で「     」と語っています。十字架のことば・神の福音のことばこそが救いを得させる神の力なのです。導かれ方はいろいろありますが、人を救うのは神のことばなのです。私たちは、そのことをセルギウス・パウルスから教えられます。

結)
 このキプロス島での宣教を通して、私たちは一貫した彼らの生き方から教えられます。その背後には、教会と神から遣わされているという自覚です。私たちは今週も、各々の家庭・地域・職場にて日々の生活を続けます。それは主の日に共に集い礼拝を神に献げるだけでなく、この教会と神から各々の生活の場に遣わされるものでもあります。その場での証しや宣教は地道なものかもしれません。しかし、その証しや宣教を神は用いてくださいます。そのことをキプロス島での宣教を通して教えられます。各々の場でキリスト者としての証しや宣教が豊かに用いられることを祈っていきましょう。

 


使徒の働き13:1~3「みことばの広がり」 23.09.24.

序)
 先週の月曜日には東海フェスティバルが行われ、火曜日~金曜日は日本伝道会議が行われました。私と家内はその両方に参加しましたが、通いで疲れたため金曜日は休みました。多くの恵みをいただき良い交わりと祈りの時を持たせていただきました。私にとって一番感動したのは、初日の岐阜市長の挨拶でした。私は初めて知ったのですが、岐阜城の最後の城主は織田秀信という信長の孫でキリシタン大名であったということです。今の柴橋岐阜市長はクリスチャンであることを公言され、「クリスチャン市長として証しし続けられるように」と祈りの要請を出されました。さて、今日からは使徒の働きから当分の間共に教えられたいと願っています。今朝の箇所は、パウロの伝道旅行の始まりについて描かれている箇所です。この箇所を通して、神のみことばがどのように広がったのかを共に教えられたいと願っています。

1)アンティオキアとは
初めに少し使徒の働きを振り返りたいと思います。11:19~20に「     」と書かれています。エルサレムの町での迫害が強まり、使徒たち以外のキリスト者は地方に散らされたことが8:1に書かれています。その散らされた人たちのある人たちは北の方のフェニキア地方に進み、そこからキプロス島に行く人とアンティオキアの町に行く人らに分かれたのか。それとも、キプロス島を経由してアンティオキアの町に行ったのか。どちらかです。記載されている文章では、どちらとも取れるものです。ただ使徒の働きの著者ルカは、アンティオキアの町に焦点を合わせて描かれているということです。
では、アンティオキアとはどのような町でしょうか。学びでも触れられていましたが、現在はトルコのハタイ県の県庁所在地で「アンタキヤ」と呼ばれています。この町は、紀元前307年にアレキサンダー大王の部将の一人であるアンティゴノスによって作られ、その名前もアンティゴネイアと呼ばれました。彼の死後、息子で後継者のセレウコス1世によって再建されて「アンティオキア」と改名されました。紀元前2世紀になると、文化や経済の中心都市としてヘレニズム世界で繁栄しましたが、セレウコス朝は徐々に弱体し紀元前63年にローマ帝国によって滅亡しますと、この都市はローマのシリア属州となり、ローマ時代には東地中海随一、またローマ、アレキサンドリアに続く3番目に大きな都市でした。日本で言えば、東京・大阪に次ぐ名古屋のような町と言っても良いのかもしれません。なお、相次ぐ地震で何度も崩壊しましたが、その都度再建された町でもあります。記憶に新しいのは、今年の2月におきましたトルコ南部地震ではないでしょうか。この地震で町の多くの建物が崩壊した写真を見ました。学び会で見ました「ティトスのトンネル」などの世界遺産がどうなっているのかは分かりません。
学び会のとき、アンティオキアはシルクロードの終着点であり、このアンティオキアの町を中心として、現在のヨーロッパやアフリカ、イラク方面へと繋がる中心的な町でした。ですから、ローマ帝国においては、なくてはならない町でもあったことを学びました。そのような町ですから、人の往来が多い町であることは想像しやすいものです。人の往来が多いということは、いろいろな人種の人たちが集うということでもあります。ユダヤ人に限定すれば、ヘレニズム文化にどっぷりと浸かっているユダヤ人もいたということです。例えば、使徒の働き6:1に「そのころ…苦情が出た」と書かれています。この「ギリシャ語を使うユダヤ人」とは、ヘレニズム文化にどっぷりと浸かっているユダヤ人のことです。エルサレムの町でも、このような人たちが大勢いたのですから、アンティオキアの町であれば尚更のことと想像できます。ローマ帝国の三大都市のローマはイタリアですし、アレキサンドリアはエジプトです。アンティオキアはシリアです。ですから、アンティオキアの町はシリア地方の最大都市であったことが分かります。そして、その町を拠点として福音宣教が始められたことにルカは焦点を合わせて描かれていることが分かります。

2)神のことば
 その大都市であるアンティオキアの町に一つの教会が誕生しました。それがアンティオキア教会です。その教会には、「バルナバ…教師がいた」と書かれています。バルナバはキプロス生まれのユダヤ人です。また、「ニゲル」とは「黒」を意味することばですから「黒人系」と考えられます。また、クレネ人は北アフリカ地方の人のことです。そして、サウロは生粋のユダヤ人です。このように見ますと、アンティオキア教会には様々な人種の人たちが集っていた教会であったことが分かります。さらに、「預言者や教師がいた」と書かれています。このことから特別な賜物が与えられていた人たちも数名いたことが推測できます。これらの人たちを教会の指導者として、アンティオキア教会はこの地で福音宣教を続けて行ったと考えられます。
 しかし、今朝の箇所の中心の1つは、どのような人たちが集っていたのかではなく、どのような生活を過ごしていたのかです。2節の初めに「彼らが主を礼拝し、断食していると」と書かれています。彼らは共に教会に集って主に礼拝を献げていたのではなく、断食して主に礼拝を献げていたのです。この断食がどのような断食であるかは分かりませんが、私自身断食して礼拝に集ったことはありません。断食について調べてみますと、新聖書辞典には「断食は、それに伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と恐れをもって神に近づく者の熱心な祈りと悔い改めを表現しているのである」と紹介されています。この後に、聖霊が彼らに語られたことを私たちは知っていますが、集っていた人たちはそのようなことを知る由もありません。ですから、毎週このように断食をしつつ礼拝に集っていたと考えられます。前日から礼拝に心を寄せ、祈りつつ礼拝に備えていたのかもしれません。最近は耳にしませんが、私の若い頃は土曜日を「礼拝の備え日」と言われていました。ですから、「心身ともに礼拝に備えるように」と教えられていました。この「断食をしていると」ということばから、彼らはどれほど礼拝に備えて集っていたかを知ることができます。「主に礼拝を献げられるのを特別なこと」として過ごしていたことが伝わってきます。これが今朝の箇所の中心の1つです。
 当時の礼拝形式がどのようなものであったのかは分かりませんが、彼らが共に集って主に礼拝を献げていますと、聖霊の語りかけを聞くという出来事が生じました。これは聖霊が直接一人ひとりに働いて語りかけられたのか、それとも一人の預言者を通して語りかけられたのかは分かりません。どちらとも取れる表現です。しかし、確かなことは聖霊なる神が一人ひとりに語りかけられたということです。すなわち、直接であれ一人の人を通してであれ、神が一人ひとりに「神のことば」を語りかけられたのです。そして、その神のことばに一人ひとりは真剣に耳を傾けていたのです。この姿勢に私たちは学ばせられます。これは少し違いますが、私は礼拝で聖書を読むときすぐに読まない時があります。時間の制約もありますので、「全て」とは言いません。でも、それは全員がその個所を開くのを待っているからです。何故なら、聖書は神のことばです。その神のことばが朗読されるからです。私自身の中では、「語られるメッセージよりも神のことばに耳を傾ける方が重要である」と捉えているからです。
 少し話しが反れてしまいましたが、彼らは神のことばに祈りをもって耳を傾けていたのです。すると、その神のことばは「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」というものです。アンティオキア教会は、エルサレムの町から散らされた人たちの伝道によって生み出された教会です。そして、エルサレム教会はアンティオキアの町に教会ができたことを聞いてバルナバを派遣しました。11:22~24には「     」と書かれています。このことから、バルナバはアンティオキア教会の指導者であったと考えられます。そのバルナバはサウロを捜しにタルソの町に行き、アンティオキアの教会に連れて来て教え始めたことが11:26に書かれています。ですから、アンティオキア教会にとってバルナバとサウロは「中心的指導者」と言っても過言ではありません。その彼らを神は「わたしの召した働きに就かせなさい」と告げられたのです。神のことばは私たちの想像以上のことを発せられることがあるのを知らされます。

3)アンティオキア教会の対応
 アンティオキア教会の人たちは、主を礼拝している中で想像すらしていなかったことを告げられました。このことを聞いた人たちはどのように思ったでしょうか。聖書にはそのような内容は書かれていませんので想像するしかありません。おそらく驚いたことと思います。中には「何故なの!彼らは教会の中心的人物であり、この2人が抜けたら教会はどうなるの」と思った人もいたことでしょう。しかし、教会は何をしたのかと言いますと「彼らは断食して祈り」と書かれています。教会がしたのは断食と祈りです。この「断食」ということばから、教会はすぐに答えを見出だしたのではないと思われます。数日かかって答えを見出だしたものと考えられます。その間、教会の中では様々な意見が出され議論し合ったことと想像します。そのような中で、教会が出した結論は「神の召しに対して人は反論できない」ということです。
 「全てを御存知の神は、これからのバルナバとサウロを用いられご自身のすばらしさを現されるのと同時に、このことを通してアンティオキア教会の歩みも祝福してくださる」と信じたのです。ヤコブの手紙からも教えられましたが、「何に目を向けるのか」の大切さを改めて教えられます。神の約束の確かさに目を向けるのか、それとも目の前の事柄に目を向けるのか。何に目を向けるのかで、その後の歩みは大きく異なってきます。アンティオキア教会が目を向けたのは神の約束の確かさです。先程も触れましたが、そこまで辿り着くには数日かかったものと思われます。しかし、確信が与えられるまで待ち続けたアンティオキア教会の姿勢に教えられます。同時に、正しい判断をするまで待ち続けられた神の愛と忍耐をも知らされます。
 では、バルナバとサウロに与えられた働きとはどのようなものでしょうか。それは4節以降に書かれています「伝道旅行」という働きです。アンティオキア教会はエルサレム教会とは異なることが生じていました。それは11:19~26の時にも話しましたが、異邦人キリスト者が生じたという出来事です。20~21に「ギリシャ語を話す人たちにも語りかけ、大勢の人が信じて主に立ち返った」と書かれています。この「大勢の人」の中には異邦人もいたことと考えるのは自然的なことです。ですから、アンティオキア教会はエルサレム教会とは異なる神の祝福を受けていたのです。その神の祝福をアンティオキアの町に留めるのではなく、その神の祝福をさらに別の町にも広げていくことを神は求められたのです。そのことを悟ったアンティオキア教会は、バルナバとサウロの上に手を置いて祈り送り出したのです。
 このことから、神から受けた祝福は自分の中に留めるのではなく、その神の祝福を広げる大切さを教えられます。私たちはイエス・キリストの十字架によって、罪の赦しと神の審きからの救いという恵みと祝福を受けました。その神の恵みと祝福を私たちの家族や友人・知人、さらに地域の方々にも伝えていく務めを再確認させられます。そして、私たちの春日井神領キリスト教会も家族伝道や地域伝道、さらには世界伝道をも見据えた働きを続ける群れとして用いられたく願わされます。

結)
 何度も触れていますが、使徒の働きの中心は1:8の「     」というイエス・キリストのみことばです。このみことばがどのようにして成就されていったのかが使徒の働きには描かれています。それは8節の最後に書かれています「わたしの証人」です。それはイエス・キリストの証人であり神の証人です。一人ひとりが神の証し人として歩み続けることを通して、主のみことばは前進し広がっていったのです。前進するとき困難も覚えます。ですが、困難に臆することなく、続けて神の証し人として、主のみことばが広がることを祈りつつ、日々の生活を歩まされていきたく願います。

ヤコブ5:13~20「祈りとは」 23.09.17.

序)
 ずっと見てきましたヤコブの手紙ですが、いよいよ最後の箇所となりました。このヤコブの手紙は行いが重視されていますが、そこには「すでに神の恵みを受けている」という前提があってのものです。そのヤコブの手紙の締めくくりは祈りです。祈りとは神との会話であり、「霊の呼吸」とも言われています。祈りは信仰のバロメーターであり、祈りが貧弱だと信仰も貧弱になってしまいます。今朝は、その祈りについて共に教えられたいと願っています。

1)祈りとは何か
 祈りとは、先程も話しましたように神との会話であり、「霊の呼吸」とか「霊の交わり」とも言われています。祈りは、自分と神との関係の深さを表してもいます。私たちは様々な人間関係の中で生かされています。ですが、全ての人と関係の深さは同じではありません。関係が浅い人もいれば深い人もいます。どういうことかと言いますと、ある人とは挨拶程度かもしれませんが、別の人とは世間話をしたりします。さらに関係が深い人とは、相談事をする人もいるでしょう。そのように私たちは様々な人間関係の中に生かされていますが、その関係の深さは人によって異なります。
 祈りが「神との会話」であるなら、その祈りを通して神と自分との関係の深さをも表しています。その祈りが単なる表面的な祈りであるなら、「私は神とそれほど深い関係ではない」ということを表しています。ある人は「私は忙しいから深く祈る時間がない」と言われる方がおられます。しかし、それは祈る時間がないのではなく、深い祈りができないだけのことです。私たちは家族の中で何かあったとき話し合うと思います。特に大事なことは、時間など関係なく話し合うのではないでしょうか。どれほど夜が遅くなったとしても、どれほど忙しくても話し合う時間を作るのではないでしょうか。何故でしょうか。それは大事なことだからです。または、話し合うだけでなく聞くだけであったとしても、「今聞く必要がある」と思うから時間を割いてでも聞くのではないでしょうか。それは相手との関係がそれほど深いからです。時間のあるなし関係なく、親密な人とはそのような時を持つのではないでしょうか。
 ところが、祈りについては、「時間」ということばを持ち出してくるのです。そして、自分の忙しさを主張するのです。これは「長い祈りをしましょう」と言っているのではありません。祈りは神との会話です。あなたと神との関係を表すものです。表面的な祈りで済ませるのか、それとも具体的な祈りをするのかによって、自分と神との関係深さを知ることができます。祈りは私と神との関係深さのバロメーターです。
 一般的には、祈りは神への願いであり、神に訴えるものと思われています。しかし、聖書が語る祈りはそのようなものではなく、神との会話であり関係深さのバロメーターです。イエス・キリストは、マタイ6:7で「     」と話されました。「同じことばをただ繰り返す」というのは訴えです。では何故同じことばを繰り返し訴えるのでしょうか。イエス・キリストは続けて「ことば数が…思っているからです」と話されています。彼らの神理解は「訴えないと知ってもらえない」という神理解だからです。8節の中程でイエス・キリストは、「あなたがたの父は…知っておられるのです」と、「神は私たちの心の中の全てを御存知である」と話されました。主なる神を信じている人と信じていない人との神理解は全く違います。キリスト者の祈りは、決して神への訴えではなく神との会話です。
 訴えと会話の違いは何でしょうか。訴えは自分から神への一方通行です。ですが、会話は一方通行ではありません。私たちは人と会話するとき、自分の思いを伝えますが相手の思いにも耳を傾けます。相手の意見や思いに耳を傾けないなら、それは訴えとか命令になってしまいます。祈りは神への訴えや命令ではなく神との会話です。ですから、伝えると同時に耳を傾けて聞くことも必要です。ですから、祈りとは「神との霊的ことばのキャッチボール」ということもできるでしょう。

2)祈りの力
 ヤコブは14~16節で、「病気の人や罪を犯した人は祈ってもらうように」と語っています。それは、その祈りによって癒しや赦しがもたらされるからです。14節に病気の人は「オリーブ油を塗って」と書かれています。ですが、これはオリーブ油に何か特別な力があるということではありません。ここでの強調点は「主の御名によって」です。私たちは病気をしますと多くの人は薬を飲まれます。私も風邪をひきかけたときには風邪薬を飲みます。昔テレビ番組の中で専門家の方が「薬自体に病気を癒す力はない」と話されました。そして、「身体の中には病気を癒す力があり、その力を引き出すのが薬である」と話しておられました。続けて、「薬がすごいのではなく、その力を引き出すことができる身体がすごい」とも話されていました。
 神はそのような身体を造られたのです。神は薬を用いて、身体の内に働いてくださっているのです。私たちはそのような文明社会の中で生かされています。ですから、何でも科学的に解決しようとしてしまいやすくなります。しかし、科学で解決できないことも沢山あります。今月の祈り会では、家内が準備した「進化と創造」のyoutubeを見ました。私にとって新たな発見は「身体はDNAに書き込まれた情報によって組み立てられており、その情報は解読されて初めて意味がある」ということばでした。そして、「解読されなければ単なる文字の羅列に過ぎず、解読するには知っていなければできない」というのです。私は聞きながら「なるほど」と思わされました。知っているから文字を配列して文章ができます。それはDNAも同じです。知っているからDNAをきちんと配列することができ、完成した生き物を造ることができるのです。それは偶然では絶対にあり得ないことです。ところが、この創造は科学では解決できないものです。何故なら、科学を超えたものだからです。「神が天と地を創造された」ということは、「神は科学を超えたお方である」ということです。
 祈りは、その神との会話です。そして、神は私たちの祈りを聞かれ、最善の時に最善のことを行ってくださるのです。それを多くの人は「偶々」ということばで済ませようとします。この「偶々」というのは「偶然」ということです。「偶然」というのは科学で証明できるものではありません。何故なら、偶然というのは法則がないからです。法則のないものを科学では証明できません。しかし、神はその「偶然」と思えるようなものを用いることのできるお方なのです。「偶々そうなった」と思える事柄の中に、実は神のみわざがなされているのです。神は私たち一人ひとりの祈りを聞いてくださり、その祈りに対して最善の時に最善のことを行ってくださいます。その神のみわざは「偶々」と思えるような、私たちの理解を超えたものです。「信じるだけで自分の罪が赦される」というのは理解しにくいものです。また、癒しについても医学的に考えてしまいます。罪の赦しも癒しも人の理解を超えた神のみわざがなされるのです。それをもたらすものは祈りです。主の御名によって祈る祈りに神は耳を傾け、ご自身のみわざを成してくださるのです。祈りは、そのような力のあるものです。

3)祈りの実践
 ヤコブは16節の最後で、「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」と語っています。これは「正しい人の祈りは特別な力がある」ということではありません。「正しい人の祈りを神は聞かれ、みわざを成してくださる」ということです。その例として、17~18節でエリヤの出来事が書かれています。欄外に「Ⅰ列王記17:1」と書かれています。17:1の最後に、「私が仕えている…雨も降らない」と、エリヤがアハブ王に語ったことが書かれています。そして、18:1には「     」と書かれています。そして、18:41に「     」と書かれており、45節に「しばらくすると…大雨となった」と書かれています。ヤコブ5:17~18に書かれていますことは、この出来事を表しています。今朝の箇所でヤコブは、「祈りなさい」とか「祈ってもらいなさい」と、祈りを実践することを勧めています。神への祈りがどのようなものであるかを知るのは大切なことです。ですが、知るだけでは不十分です。祈りを実践することによって、初めて祈りを生かすことができるのです。
 私たちは「お金は必要なものを買うことができる」と知っています。ですが、そのお金は用いて初めて生かすことができます。もし、お金を用いなければ必要なものを手に入れることができません。お金を用いて初めて手に入れることができるのです。お金は用いて初めてその価値を発揮することができるのです。それは祈りも同じです。「祈りとは何か」とか「祈りの力」を知っていても、その祈りを実践しないなら祈りの力を経験することはできません。ルカ11:9に「     」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。御存知だと思いますが、この「求めなさい」とか「探しなさい」とか「たたきなさい」というのは、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」ということです。継続することが語られています。祈りもそうです。祈り続けることが大切です。
 16節でヤコブは「ですから…互いのために祈りなさい」と語っています。ここに書かれています「癒される」というのは病気の癒しだけはなく罪の癒しも含まれています。それには「互いに…祈りなさい」と勧められています。この「互い」ということばは重要です。「互い」とは「一人ではない」ということです。「複数の人で」ということです。イエス・キリストが天に上がられ、ペンテコステの日まで信じる人たちは何をしていたでしょうか。使徒1:14に「     」と書かれています。彼らは共に心を一つにして祈っていたのです。マタイ18:20にも「     」と、一人ではなく集まることの重要性をイエス・キリストは話されています。ヤコブ5:16の「正しい人」とは誰のことかと言いますと、文脈的には「罪を言い表し癒された人」、すなわち罪が赦された人と考えられます。ここにも共に集まって祈り合う実践が求められているのです。

結)
 キリスト者にとっての祈りは神との会話です。決して神に訴えるだけではありません。祈りは神との霊的交わりでもあります。その霊的交わりが深められるためにも具体的に祈ることが重要です。そして祈り続けることを通して、私たちは神のすばらしさをさらに深く知ることができ、祈りの力を経験することができます。私たちが神のすばらしさをさらに深く知るためにも、共に祈り合うことが大切です。何故なら、以前にも見ましたが、Ⅰヨハネ4:20の後半に「目に見える兄弟を…愛することはできません」と書かれています。ことばを変えて読みますと、「目に見える兄弟と霊的交わりを持たない人に、目に見えない神と霊的交わりを持つことはできません」とも聞こえるからです。以前にも話しましたが、コロナによって多くの先生方から「交わりが希薄した」ということばを耳にしました。聖書には「ともに」とか「互いに」ということばを多く書かれています。「ともに」も「互いに」も一人ではできません。19節の最後に「連れ戻すなら」と書かれています。連れ戻すのですから、そこにはお互いの交わりがあること示しています。霊的交わりは教会の成長に欠かすことのできないものでもあります。霊的交わりを大切にしていきたく願います。

天におられる父なる神様。祈りは神との会話であり神との霊的交わりです。私たちの群れも霊的交わりを持ちつつ、互いに励まし合う群れとして歩み続けることができますように導いてください。そして、祈りには大きな力がありますから、互いのことを覚え祈り合う群れとしても歩み続けられますように導いてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン