メッセージ

 

 

 

ガラテヤ3:19~22「弱さの内に働かれる神」 20.02.09.

序)
 週報にも報告されていますが、明後日は私たちの教会が属しています団体の総会が開かれます。また、私たちの教会の総会も来月開かれます。「総会」ということばを聞きますと、「年度末が近づいている」ということが感じさせられます。今年度の歩みもいろいろありましたが、その一つひとつを神が導いてくださったことに感謝したいものです。そして、新しい年度も神が導いてくださることに目を留めて歩まされたいものです。パウロは、ガラテヤ人の手紙の中で律法について語ってきています。その律法は神の恵みに目を向けさせるものです。今朝は、その神の恵みの一つでもある弱さの内に働いてくださる神を共に教えられたいと願っています。

1)罪に気づかせるため
 パウロは19節で「律法とは何でしょうか」と問いつつ、律法について語っています。その第1は、律法は自分の罪に気づかせるためのものです。19節の中程に「違反を示すためにつけ加えられたもの」と書かれています。「律法」ということばを身近に感じさせるために、「ルール」と言っても良いと思います。律法とは、神が人に与えられたルールです。昨年は、ラグビーのワールドカップが日本で開催されました。日本代表の活躍は著しいものでした。それに対して、今年のサッカー五輪代表は課題が多いようにも見受けられます。ラグビーはボールをパスするとき、自分より前に投げてはいけません。またサッカーは、ボールを手に持って走ることはできません。もしスポーツにルールがありませんと、それはスポーツではなくなってしまいます。ルールは、そのスポーツにとっては法律と同じです。交通ルールがなければどうでしょうか。車は何処を走っても良いし、どれほどのスピードを出しても良いのであるなら、怖くて歩くことはできませんし運転することもできなくなります。
 ルールがあって初めてスポーツは楽しいものとなりますし、生活も安心して過ごすことができます。ルールがあるから、「しても良いこと」と「してはいけないこと」が分かるのです。法律もそうです。法律があるから、私たちは安心して生活することができるのです。そして、律法も同じです。律法があるから、神によって造られた者として「何をして良いか」ということと、「何をしてはいけないか」が分かるのです。ところが、人はそれほど強い者ではありません。してはいけないことを知りつつも、してしまうことがあります。では、「知らなければ良いのか」というとそうではありません。本人が知らなくても、法律に違反した行為であるならば罰せられます。それと同じように、律法も「知らなかったから」と言って罰せられないわけではありません。本人が知らなくても違反しているなら罰せられるのです。法律を知れば知るほど、「今まではしても構わない」と思っていたことが、実は「してはいけないことだった」ということに気づきます。
律法についてもそうです。律法はモーセを通してイスラエルの民に与えられたものです。そして、神は律法を守り行うことを命じておられます。旧約聖書を読んでいきますと、その神が与えられた律法を守り行っていないイスラエルの民の姿を見ることができます。律法を知れば知るほど、してはいけないことに目が向けられていくのではないでしょうか。そして、「自分は律法を守り通すことのできない者である」ということに気づかせられます。人が守り行うことのできない律法を、何故神は与えられたのでしょうか。それは、人に自分の罪深さを気づかせるためにです。自分の弱さや足りなさに気づかせるためです。

2)限定的なもの
 律法は私たちに自分の罪深さに気づかせるものですが、それは永遠的なものではありません。19節に「それは、約束を…来られるときまで」と書かれています。第2に、律法は永遠的なものではなく限定的なものです。律法は私たちに自分の罪深さに気づかせます。私たちは、自分の罪深さを知るとどうなるでしょうか。自分の弱さを知らされるのではないでしょうか。「こんなことも守ることができない自分」、「知っているのに実行することができない自分」というものを知らされます。すると、どうなるでしょうか。「何て私はダメな人間なのか、こんなこともできないのか」と落ち込んでしまいます。すると今度は、「どうせ私なんか」と開き直ってしまいやすくなります。そのような人生はどうでしょうか。喜びなどあるはずがありません。
 そのような人生が一生続くとしたらどうでしょうか。辛くて苦しい人生で、何の望みもない人生になってしまいます。ある人は、それを埋めるために別の何かで満たそうとします。ですが、それは表面的なものであって、何の解決にもなりません。ところが、聖書は「律法は約束を受けたこの子孫が来られるときまで」と語っているのです。「この子孫」とは、イエス・キリストのことです。律法はイエス・キリストが来られたとき、効果がなくなってしまい何の意味もないものとなってしまうのです。イエス・キリストが来られるとは何時のことでしょうか。イエス・キリストが誕生されたときでしょうか。それもあるかもしれません。ですが、律法の問題は私たちの心の問題でもあります。そのことを考えて読みますと「イエス・キリストが来られるとき」とは、自分の心の中にイエス・キリストが来られたときということになるのではないでしょうか。すなわち、あなたがイエス・キリストを信じるときです。あなたがイエス・キリストを信じるとき律法は何の意味もないものとなってしまうのです。すなわち、律法というのは永遠に続くものではないのです。自分の罪深さを知らされる人生は、永遠に続くものではないのです。律法は「イエス・キリストを自分の心に迎え入れるときまで」という限定的なものなのです。
 パウロという人は厳格なユダヤ教徒でした。彼は「律法による義については非難されるところのない者でした」と言い切っているのです。それほど律法を守り行うことに熱心だったのです。でも、彼の心の中にあったものは何でしょうか。「義と認められる」という平安ではなく、「いつ律法に違反するか」という不安だったのです。彼の心の中には生きていることの喜びや感謝はありませんでした。そのようなパウロがイエス・キリストと出会ったのは、ダマスコという町に行く途中でした。彼はキリスト教を迫害し、キリスト者を捕えては牢に入れることに意欲的でした。「ダマスコの町にキリスト者がいる」ということを聞いて、捕えようとしてダマスコの町に向かいました。その途中でイエス・キリストに出会ったのです。パウロは「自分は神のためにしている」と思っていたのですが、実は神が願っておられることと正反対のことをしていたのを知らされたのです。このときのパウロは大きなショックを受けたことと思います。今までは「律法については非難されることがない」と確信していたのに、その確信が崩れてしまったからです。でも、そのような自分が神に受け入れられていることを知ったのです。そして、今までにはなかった「生きていることの喜びと感謝」が心の中に生まれたのです。それはイエス・キリストを心の中に迎え入れたときです。律法は「イエス・キリストを自分の心に迎え入れるときまで」という限定的なものです。

3)約束の成就を示すもの
 パウロは21節で「律法は神の約束に反するのでしょうか。」と問いつつ、「決してそんなことはありません。」と強い口調で答えています。「律法は神の約束に反するものではなく、むしろ神の約束が成就されるのを示すもの」と語っているのです。ですから、第3に律法とは神の約束が成就されるのを示すものということができます。では、神の約束とは何でしょうか。それは何度も語っていますが、神がアブラハムに約束されている「共にいる」という約束です。私たちは律法を知れば知るほど、律法を守り行うことのできない者であることを知らされ、自分の弱さや惨めさに嘆いてしまいます。しかし、神は「そのような者を見捨てることをしないで共にいて導く」と約束してくださっています。そのことをイエス・キリストによって分かるように示してくださったのです。
 イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かってくださいました。それは私たちの罪に対する神の審きを、イエス・キリストが代わりに受けてくださるものです。その方法を神は取ってくださったのです。私たちはそれほど神に愛されている存在なのです。私たちは神が与えてくださった律法を守り行うことのできない者です。しかし、神はそのような私たちを愛してくださっているのです。そして、いつも共にいて導いてくださっているのです。それだけではなく、そのような私たちを用いてくださるのです。神の目から見て、私たち一人ひとりはダメな者ではなく、神のすばらしさを現すことのできる者なのです。神は私たちに絶望の人生ではなく、希望の人生を与えてくださるというのが神の約束なのです。
 このガラテヤ人への手紙を書いたパウロも、自分自身の弱さに嘆いていました。「この自分の弱いところが取り去られたら、もっと神に仕えることができるのに」と思い、何度も神に取り除いてくださることを祈っていました。そのパウロに対して、神は何と答えられたでしょうか。そのことがⅡコリント12:9に「わたしの恵みは…現れるからである。」と答えられたのです。神はパウロに「あなたの弱さを取り除け」と言われたのでもなければ、「もっと祈りなさい」と言われたのでもありません。または、「もっと良い行いをしなさい」とも言われませんでした。神が言われたのは「今のあなたの弱さの内に働く」ということです。私たちが信じている神は、このようなお方なのです。
 その神の約束は、どのようにして与えられるのでしょうか。今朝の箇所の22節の後半に「イエス・キリスト…与えられるためでした。」と書かれています。表面的なものではなく本当に望みのある人生は、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられるのです。イエス・キリストを信じる信仰とは、イエス・キリストを自分の心の中に迎え入れることです。イエス・キリストを信じてさらに律法を知れば知るほど、自分がどれほど神に愛されている者であるかを知らされます。律法は神の約束が成就されることを示すものなのです。

結)
 私たちは「戒め」というものを知っていても、完全に守り行うことのできない弱い者です。弱い者だからダメなのでしょうか。いいえ、そうではありません。そのような弱い私たちの内に神は働いてくださり、「大丈夫、わたしが共にいるから」と言ってくださっているのです。私たちは、その神の恵みの中に生かされているのです。神の戒めである律法は、そのことに気づかせるために与えられたものなのです。律法は悪いものではありません。律法は神の恵みに目を向けさせるための手段として与えられたものです。そして、その神の恵みはイエス・キリストにあります。その神の恵みの中に生かされていることを覚えつつ歩まされていきましょう。

天におられる父なる神様。私たちは律法を完全に守り行うことのできない弱い者です。しかし、あなたはそのような私たちを愛し導いてくださっています。あなたは私たちに絶望の人生ではなく、希望の人生・可能性の人生を与えてくださいました。その希望の人生・可能性の人生は、イエス・キリストにあります。どのような時であっても、あなたが共にいて支え導いてくださることに目を向け、歩み続けられるように助けてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン。

ガラテヤ3:15~18「変わらない神の約束」 20.02.02.

序)
 今年は「暖冬」と言われていますが、異常なほどの暖冬です。この地方では、まだ雪が降っていないのですから。私は愛知県に来る前は、石川県の金沢市に住んでいました。北陸ですから雪が多く積もります。そして、稲沢市に引っ越した冬に雪が降って積もりました。そのときは「何故太平洋側に引っ越したのに雪を見なあかんのや」と思ったことでした。明後日は立春です。暦では春になります。でも、昨日から寒いですね。「暖冬」と言われつつも、冬が寒いことには変わりありません。今日は、変わらない神の約束について共に教えられたいと願っています。

1)約束とは何か
 パウロは約束について、人間の場合に譬えて語っています。約束とは何でしょうか。それは契約のことです。法律上、口約束でも契約になります。20年ほど前の話しですが、娘が園児だったとき一緒に風呂に入っていました。園児のときは、よくキスをしていました。娘は嫌がっていなかったのです。それで、「中学生になってもキスをしてもええか」と聞きました。すると「ええよ」という返事があったのです。私は「中学生になるまでキスをするで」と言いますと、娘は「ええよ」と答えてくれたのです。ところが、小学1年生になりますと、私のキスを嫌がるようになったのです。私は「『中学生になってもキスをしてもええ』と言うたやろ」と言いますと、「今は嫌や」という返事が帰ってきたのです。私の中では「小学3年生になったら断られるやろな」と思っていたのですが、まさか1年生で断られるとは思ってもいなかったことを覚えています。一方的に破棄されてしまいましたのでショックも大きかったわけです。
パウロは15節で「人間の契約でも」と語っています。この「契約」ということばに2つの星印がつけられています。欄外を見ますと、別訳では「遺言」と訳されています。遺言は口約束では無効になってしまいます。自筆による書面が必要です。そして、遺言は決して変更することができません。もし変更したいなら、本人の自筆による変更が必要となります。本人の自筆による変更がない限り、誰も無効にすることはできませんし、付け加えたり削除することはできません。何故パウロは、人間の契約に譬えて語っているのでしょうか。それは、契約というのは一度結ばれたら変えることのできないものだからです。
 もし、簡単に約束を変えることができたらどうでしょうか。昨年、韓国と日本の間で交わされた約束を韓国が勝手に破棄した出来事がありました。それは元徴用工訴訟問題です。これは1965年に日本と韓国の間で交わされたものであり、「日本が韓国に5億ドル支払うことで今後は全ての請求をしない」という約束が交わされたものです。それを韓国が一方的に破棄したがために、「日韓関係が最悪状態」と言われるようになりました。簡単に約束が破られて良いものなら、その約束は信頼できないものとなってしまいます。もし変えるとするなら、お互いが納得して行うしかありません。約束というのは、基本的に変わることのないものです。

2)アブラハムへの約束
 人間の場合に譬えて語ったパウロは、今度はアブラハムへの約束について語っています。神のアブラハムへの約束とは何でしょうか。それは神の祝福です。それは神が共にいてくださるということです。その神の祝福の約束は、アブラハムの子孫によって成就しました。パウロは「その子孫はイエス・キリストである」と語っているのです。神は、アブラハムといつも共にいてくださることを約束されました。そして、事実どのようなときにおいても神は共にいてくださいました。アブラハムが忠実に神に従っていたときは神が共におられましたが、アブラハムが失敗するときにも神はアブラハムを見捨てることをされずに共にいて導いてくださっていました。
 その後、モーセを通して神は律法をイスラエルの民に与えられました。この律法には「○○しなさい」とか「△△してはならない」ということが書かれています。イスラエルの民は、その律法を完全に守り通すことはできませんでした。出エジプト記20章以降を見ますと、決して守り通すことができなかった事実を見ることができます。むしろ偶像崇拝を行い、神の戒めを守らなかったのです。では、神はそのようなイスラエルの民を見捨てられたでしょうか。いいえ、懲らしめは与えられましたが、決してイスラエルの民を見捨てることはされませんでした。いつもイスラエルの民が神に叫び求めますと、神は彼らを助けられたのです。アブラハムへの神の約束は失われてはいなかったのです。神は律法を与えられましたが、それによって約束を変えられたのではありません。旧約聖書には、その神の約束の確かさが書かれているのです。神の愛の深さが書かれているのです。表面的には神の厳しさや審きが書かれているように思えますが、実は神の愛の故に約束を守られている神が書かれているのです。
出エジプト記や民数記というモーセ五書もそうですが、歴史書においてもその事実を見ることができます。今祈祷会ではヨシュア記を学んでいますが、ヨシュア記は神の約束を信じ神に従うイスラエルの民が描かれています。ところが、その後の士師記はどうでしょうか。士師記17:6に「     」と書かれています。また、21:25にも「     」と同じことが書かれています。士師記の時代は、自分の目に良いと見えることを行っていた時代です。25節に②という数字が書かれており、下の欄外を見ますと申命記12:8が書かれています。その箇所を開けてみたいと思います。「私たちが…してはならない。」と書かれています。この時のイスラエルの民は、ヨルダン川をまだ渡っていない時です。それは「モアブの地」と理解することもできますし、「荒野の生活をしていたとき」とも理解することができます。イスラエルの民は、今まで自分が正しいと思った仕方で日々の生活を過ごしてきました。そして、その生活を神は許しておられました。しかし、神の約束の地に入ったならば、「そのような生活をしてはならない」と語られているのです。神の約束の地に入ったならば、神が選ばれた場所で、神が定められた方法をもって神を礼拝することが求められているのです。この8節以降で繰り返し語られていることばがあります。それは「気をつけて」ということばです。13節・19節・28節・30節に書かれています。何故、繰り返し「気をつけて」と語られているのでしょうか。それは忘れてしまいやすいからです。事実、イスラエルの民は士師記の時代に入りますと忘れてしまい、みことばによる約束よりも自分の思いや考えを優先して行っていたのです。それでも神はイスラエルの民を見捨てることをされませんでした。その理由は、神の約束の故にです。旧約聖書には、その神の約束の確かさが書かれているのです。パウロは、今朝の箇所でそのことを語っているのです。

3)神の約束の不変
 律法が与えられても、神のアブラハムへの約束は変わっていないのです。そして、今の時代もこの神の約束は生きているのです。すなわち、罪を犯してしまう弱い者も決して見捨てることをされず、いつも共にいてくださるという約束は生きているのです。約束において大切なことは、その約束のことばを信じることです。約束のことばを信じることをしないで、疑ってばかりいましたら決して平安を持つことはできません。何故なら、「いつ約束が破られるか」と心配ばかりしてしまうからです。ですから、大切なのは神のみことばによる約束を信じることです。神は、みことばによる約束を信じる人を祝福してくださいます。あなたが神のみことばを信じるなら、神はあなたを祝福してくださいます。神はあなたと共にいてくださるのです。それは行いによってではありません。ただ神のみことばによる約束を信じることによってです。
 このガラテヤ書において、「信仰は事実を事実として認めることである」と何度も語り、耳にタコができておられるかもしれません。私たちは神を信じても苦しみを経験します。「その苦しみは何かの間違いではなく、事実として認め受け入れることが信仰である」と話してきました。そして、しかしそれは事実の一部であり、その苦しみの中に神は働いてくださり、最善を尽くしてくださるという事実も受け入れることも信仰である」とも話しました。先週の礼拝で、「この両方を受け入れることが聖書の語っている信仰である」とも話しました。さらに、「どちらか1つだけではいけない」とも話しました。何故なら、ローマ8:28に「     」と書かれているからです。「益となる」ということは、「今は本人にとって益ではない」ということです。益でないなら何でしょうか。益の反対は負です。分かりやすく言いますなら、益がプラスであるならば負はマイナスです。私たちは経験します苦しみを「マイナス的な出来事」と捉えてしまいやすいのではないでしょうか。
 間違って捉えられると困りますが、苦しみを「自分にとってマイナス的が出来事」と捉えるのが悪いと言っているのではありません。そのように捉えてしまうのは人として当然のことです。しかし、そのようなマイナス的な出来事についても、聖書は「すべてのことがともに働いて」と語っているのです。「すべてのことが共に働いて」ということは、「マイナス的な出来事を通して」ということでもあります。マイナス的な出来事が大きければ大きいほど「もうダメだ」と思ってしまいます。ですが、その「もうダメだ」と思える事柄を通して、神はすばらしいことをしてくださる方なのです。そして、そのことを通して「神は私が想像する以上の方である」と経験することができるのです。その神の約束は決して変わることがないのです。

結)
 昨年のミックスユース冬集会が当教会を会場として行われました。そのとき「新しい命」という歌が歌われました。私も好きな曲の1つです。初めて知ったのが稲沢教会でしていましたゴスペルクワイアによってです。その詞の中に「見捨てないイエスの愛、離さない永遠に」とあります。まさしくそうです。これが神の私たちに対する約束です。この神の約束は決して変わることがないのです。どのようなときであろうとも、神はいつも私たちを見捨てることをされず、共にいて導いてくださいます。そのことを覚え歩まされていきましょう。

ガラテヤ3:10~14「神は共におられる」 20.01.26.

序)
 クリスマスが過ぎて1ケ月が経ちました。「少し前に祝会とイヴ礼拝をした」と思っていましたが、1ケ月が経っているのです。それを「早い」と思われるか「まだ1ケ月だ」と思われるか人によって違うと思います。クリスマスは、神が共にいてくださるということの見えるしるしでもあります。今朝は、その神が共におられることについて共に教えられたいと願っています。

1)律法の焦点
 聖書は、旧約聖書と新約聖書から成り立っています。旧約聖書は、イエス・キリストが生まれる前に書かれた書物です。その旧約聖書は、「救い主を送る」という約束が書かれています。新約聖書は、イエス・キリストが生まれた後に書かれた書物です。その新約聖書は、「旧約聖書に約束されていた救い主がイエス・キリストである」と書かれています。この分厚い聖書を簡単に言いますと、そのようなことが書かれている書物です。ある人は「旧約聖書は審きの神が書かれており恐い神」と言われます。そして、「新約聖書に愛の神が書かれている」と言われます。実際に、新約聖書をよく読まれる方が多いのではないでしょうか。確かに、親しみやすいのも新約聖書です。しかし、新約聖書だけを読みますと、新約聖書だけの信仰になってしまいます。
 昔、稲沢教会に来られていた方から毎年年賀状が届いています。今年の年賀状の中に「去年、牧師のことばが思い出されました。『聖書は納得しろとは言っていない。信じろとしか言っていない。そもそも神のわざは納得できない。』このことばが助けになりました。私は資本主義とか個人主義とか天皇制とか義務教育とか、いろいろな価値観の中に気づかずにいたのですが、ふとそれを振り捨ててみると、キリストのことばが突然迫って来るのに気づきます。人は自然・人・神とつながってこそ生きる。だからこそ、キリストのことばが、むしろ当たり前のごとく真実だと感じるようになりました。」と書かれていました。この方は聖書をよく読んでおられた方で、旧約聖書の内容もよく御存知でした。そして、「何故ここまで神にされているのにイスラエルの民は気づかないのか」という質問を私にされました。私は「それが人であり、あなたもその一人なのですよ」と答えたのですが、イスラエルの民と自分が結びつきませんでした。その後教会に来られなくなったのですが、年賀状だけは送るようにしていました。そして、今年この年賀状が届いたのです。旧約聖書にも神の愛は記されています。そして旧約聖書には、人の罪深さも記されています。ですから、旧約聖書を読まずに新約聖書だけだと神の愛がぼんやりとなってしまいます。
 パウロは、その旧約聖書から引用して語っています。ここに繰り返し「律法」ということばが出てきます。この律法とは、神が人に与えられた教えであり戒めです。10節に「②」という数字が書かれています。下の欄外の②を見ますと、「申命記27:26」と書かれており、そのみことばの引用であることが分かります。ガラテヤ教会は、「神の教えを守り行うことによって自分の罪が赦される」と考える人がいました。しかし、聖書は「全てを守り行わない者はみな呪われる。」と語っているのです。律法の1つでも破れば神に呪われるのです。人は神が与えられた律法を全て守ることはできません。何故なら、人は完璧な存在ではないからです。ですから、律法から見れば全ての人は罪人なのです。では、何故神は人が完全に守り行うことができない律法を与えられたのでしょうか。それは、人が「自分は罪人である」ということに気づかせるためです。そして、自分の行いによっては赦されないことを知るためです。だから、11節の前半で「     」と語っているのです。これが律法の焦点です。

2)信仰による義
 では、どのようにして人は義と認められるのでしょうか。11節後半に「     」と書かれています。「②」の欄外を見ますとハバクク2:4からの引用であることが分かります。旧約聖書も人は自分の行いによって義と認められるのではなく、神を信じる信仰によって義と認められる」と語っているのです。日本人は「信心」というものを大切にします。ですから、信じる対象よりも信じる心が大切にします。でも、聖書は信じる対象を大切にします。その信じる相手がどのような存在であるかを大切にしています。
 では、神であられる主はどのような方でしょうか。13節に「     」と書かれています。13節の最初に「キリストは…呪われた者となることで」と書かれています。第1に、神はイエス・キリストをこの世に送ってくださった方です。ピリピ2:6~7前半に「     」と書かれています。イエス・キリストは神であられるのに、人としてこの世に来られた方です。イエス・キリストは、神が人として来られた方なのです。第2に、神はイエス・キリストを十字架につけられた方です。今朝の箇所の13節後半に「木にかけられた者はみな、のろわれている。」と書かれています。「木にかけられた」とは十字架のことです。何のためにイエス・キリストは十字架につけられたのでしょうか。それは13節に書かれていますように、私たちを律法の呪いから贖い出してくださるためです。贖うというのは、代わりに犠牲を払って買い戻すことです。ある人が自分のものを手放したが買い戻すことができないとき、別の人がお金を支払って買い戻すことです。「代わりにお金を支払う」ということは、支払った人は「代金」という犠牲を負っているのです。これが「贖う」ということです。人は、本来神との関係が良いものとして造られました。ところが、神との約束を破ったため神との関係が悪くなってしまいました。そのため、人は人生の迷子になってしまったのです。だから、生きることの目的や意味が分からなくなってしまいました。迷子になると心に何が生じるでしょうか。それは不安です。
 そのために、神は人に「律法」という戒めを与えられました。その目的は何かと言いますと、自分が神に対して罪人であることに気づかせるためです。神から与えられた戒めを守ろうとしても守り切ることのできない自分を見出すためです。これが13節に書かれています「律法の呪い」です。守り切ることのできない自分を見出した後はどうしたら良いでしょうか。あとは神の愛・慈しみ・憐れみにすがるしかありません。でもそれは、神に目を向けさせるためだけで何の解決にもなっていません。そのために神がしてくださったことは、イエス・キリストをこの世に送り十字架につけてくださったのです。それは何のためかと言いますと、私たちの罪をイエス・キリストが代わりに負ってくださり、神の審きを受けてくださるためです。ですから、人はすでに神の審きから免れているのです。あとは、「イエス・キリストが私の罪のために十字架に架かり神の審きを受けてくださったことによって私の罪は赦されている」と信じることです。律法は、生きることの目的や意味が分からなく人生の迷子になっている人に、神の愛と慈しみと憐れみに目を向けさせるために与えられたものです。そしてイエス・キリストの十字架は、あなたの罪のためにご自分のいのちを犠牲にして、罪の問題・心の不安を解決してくださったのです。これがイエス・キリストの贖いです。神は私たちのために、そのようなことをしてくださった方です。
 第3に、神はあなたを愛しておられる方です。何故神は、イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられたのでしょうか。それは、あなたを愛しておられるからです。あなたが神の目から見て高価で尊い存在だからです。イエス・キリストの十字架は、あなたに対する神の愛のしるしです。そのイエス・キリストの十字架を信じることによって、人は神に義と認められるのです。神の審きを受けなくて済むようになるのです。何故なら、それが神の約束だからです。人は神との約束を疑い、その約束を破ったから義と認められなくなりました。ですから、神の約束を信じることによって義と認められるのです。

3)十字架の目的
 そのイエス・キリストの十字架の目的は何でしょうか。信じる人の罪が赦されるためでしょうか。それもありますが、それだけではありません。14節の後半に「私たちが…なるためでした。」と書かれています。イエス・キリストの十字架の目的は、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためです。では、「約束の御霊」とは何でしょうか。それは神の臨在であり神の祝福です。このような私を神は愛してくださり、いつも共にいてくださり守り導いてくださっているのを覚えることです。神は、いつもあなたと共にいてくださいます。先週の礼拝で、「信仰は事実を事実として認め受け入れること」と話しました。「イエス・キリストを信じ神の子とされ、神がいつも共にいてくださるなら、あらゆる苦しみから解放されるのか」と言いますと、そうではなく信じていない人と同じように苦しみを経験します。ともすると、「イエス・キリストを信じたのだから苦しみなど経験するはずがない。この苦しみは何かの間違いだ」と思う時があるかもしれません。私たちが受ける苦しみは何かの間違いではありません。事実なのです。その苦しみを事実として認め受け入れることが信仰なのです。ですが、事実はそれだけではありません。苦しみを事実として認め受け入れることは事実の一部なのです。もう1つの事実があります。それは神の約束です。私たちが受けます苦しみの中に神が共にいてくださり、その苦しみを通してすばらしいことをしてくださるという神の約束。これも事実です。信仰とは、その両方を認め受け入れることです。どちらか片方だけではいけないのです。もし苦しみだけを見てしまいますと、その苦しみから抜け出すことしか見えなくなってしまい、その中に働かれる神が見えなくなってしまいます。また、神の約束だけを見てしまうならば、今自分がしなければならないことをしなくなってしまいます。片方だけしか見ないならば、間違った方向に進んでしまいます。
 イエス・キリストの十字架の目的は、このような私と神は共にいてくださることを知るためです。「このような私」とは、どのような私でしょうか。失敗を繰り返してしまう私です。すぐに不安や恐れを抱いてしまう私です。でも神は、そのような私を決して見捨てることをされず、いつも共にいて守り支え導いてくださる方なのです。それを知ることができるのはイエス・キリストの十字架です。その神を知るとき、私たちの心には慰めが与えられ励まされます。そして、その神をほめたたえずにはおれなくなり、神を礼拝せずにはおれなくなるのです。ですから、イエス・キリストの十字架の目的は、私たちの罪が赦されるだけでなく、私たちが神を礼拝し続ける者となるためです。

結)
 2020年も今週で1ヶ月が過ぎようとしています。この1ヶ月の中でも、いろいろと経験されたことと思います。その一つひとつに神が共にいて、守り支え導いてくださったのではないでしょうか。そして、これからも神が共にいて守り支え導いてくださいます。その神を礼拝し続けることができるように祈っていきましょう。

ガラテヤ3:6~9「信仰による祝福」 20.01.19.

序)
 先々週の礼拝で、「信仰が揺れるのは誰もが経験するものである」と話しました。信仰が揺れる要因の1つは、「納得できない」というのがあるのではないでしょうか。私たちは、つい自分が納得することを求めてしまいやすくなります。でも、神は私たちに納得することを求めてはおられません。神が私たちに求めておられるのは信じることです。人は信じることによって神の祝福を受けることができます。今朝は、その信仰による祝福について共に教えられたいと願っています。

1)義と認められるとき
 アブラハムは「信仰の父」と呼ばれている人です。そのアブラハムは、いつ神に義と認められたのでしょうか。6節に「     」と書かれています。神の約束を信じたときに、アブラハムは神に義と認められたのです。6節に(1)と書かれています。下の欄外を見ますと、創世記15:6の箇所が書かれています。その箇所を開けてみたいと思います。6節に書かれています「アブラム」とは、「アブラハム」と名前が変えられる前の名前です。そのアブラハムは、どのようにして神に義と認められたのでしょうか。それは5節に書かれています神の約束を信じたからです。このときのアブラハムは、まだ子供が与えられていませんでした。ですから、息子のイサクも生まれておらず、割礼も受けていなかったときのことです。その時に、神の約束を信じて義と認められたのです。アブラハムは行いによって神に義と認められたのではなく、神の約束を信じることによって義と認められたのです。
 神に義と認められるとは、神に正しいと認められることでもあります。それは神の目から見てのことであり、決して私たちの目から見てのものではありません。私たちは、自分の救いを疑うときがあります。でもそれは、私たちの目から見てのことではないでしょうか。私たち人間の見方と神の見方は違います。何故なら、神は私たち人間のような評価はされないからです。アブラハムは、この後も失敗を繰り返しますが、神はアブラハムを義と認め続けられました。イエス・キリストを信じる者は、罪が赦され神に義と認められています。ですが、失敗や過ちを犯してしまいます。でも、義と認められているのです。何故でしょうか。それは「イエス・キリストを信じるなら義と認める」というのが神の約束だからです。神はご自身の約束の故に、イエス・キリストを信じる者を義と認め続けてくださるのです。だから、イエス・キリストを信じているのなら救われており、失敗をし過ちを犯したとしても義と認められているのです。イエス・キリストを信じる者は、この神の約束の故に義と認められ救われているのです。

2)信仰とは
 アブラハムは、神の約束を信じるという信仰によって義と認められました。では、信仰とは何でしょうか。へブル11:1に、「信仰とは何か」ということが書かれています。ここに「     」と書かれています。昨年、宮村武夫という先生が召されました。この先生は私の神学生の恩師であり、私の聖書理解において大きな影響を与えてくださいました。宮村先生は「信仰とは事実を事実として認め受け入れることである」と話されました。聖書は誤りのない神のことばです。これは私たちJBCの信仰告白文にも記されています。以前祈祷会で、JBC信仰告白文を8回に分けて学びました。その告白文の1つ目は、聖書について書かれています。「聖書66巻は、すべての神の霊感を受けて書かれた誤りのない神のことばであって、神が救いについて啓示しようとされたすべてを含み、信仰と実践の唯一、完全な規範である。」と書かれています。「聖書が誤りのない神のことばである」というのは事実です。その誤りのない神のことばである聖書が神の約束を語っているのです。ある立場の人たちは「聖書は誤りのない神のことばではない」と言われます。そして、「人が聖書を神のことばとして受け入れるとき、そのみことばが神のことばになる」と言われます。すなわち、「聖書のみことばを神のことばとして信じなければ、聖書は神のことばにはならない」というのです。しかし、人が信じたから聖書が神のことばになるのではありません。
 この学びの時にも話しましたが、私はこの頭でこの人相ですから、「私が教会の牧師である」ということに驚かれる方がおられます。人が私を牧師と信じたから私は牧師になるのではありません。その人が信じようが信じまいが私が教会の牧師であるという事実は変わらないのです。それと同じように、聖書を神のことばとして信じる信じない関係なく、聖書が神のことばであることは事実なのです。その神のことばである聖書が「イエス・キリストを信じることによって義と認められる」と約束しているなら、その神の約束を事実として受け入れることが信仰なのです。
 信仰とは、事実を事実として認め受け入れることです。聖書を誤りのない神のことばと認め受け入れることです。それが、自分には納得できないものであろうとも、理解できないことであろうとも、信じ受け入れることが信仰なのです。私たちは神に祈ります。そして、祈ったあと結果を待ちます。その結果は、必ずしも自分にとって良いものとは限りません。自分が願ったのと正反対の結果が出ることがあるのです。そのようなとき、私たちの心は沈んでしまいます。心が沈んでしまうことが悪いわけではありませんし、落ち込んでしまうことが不信仰なことではありません。それは人として当然のことです。ともすると、「こんなはずはない。これは何かの間違いだ」と言って受け入れられないこともあります。ですが、その結果を事実として認め受け入れることは大切です。でも、それだけに目を留めることも間違いです。もう1つの事実にも目を留めることが大切です。それは見えない現実であり、見えない事実です。神は最善のことを成してくださるという約束。「このことを通してすばらしいことをしてくださる」というもう1つの事実にも目を留めることは大切です。
 今、祈祷会ではヨシュア記を学んでいます。その時にも触れましたが、1:3の最後に「すでにあなたがたに与えている。」と神はヨシュアに告げられました。これは「カナンの地がイスラエルの民に与えられる」という約束です。この時のイスラエルの民は、まだヨルダン川を渡る前ですから、当然カナンの地にも入っていないときのことです。でも神は「すでにあなたがたに与えている」と話されているのです。また、イスラエルの民がアイの町と戦うとき、神がヨシュアに告げられたことが8:1に書かれています。その1節の最後に「わたしはアイの王と…あなたの手に与えた。」と話されているのです。これから先のことなのに、もうすでに成し終えているように話されているのです。そして、事実イスラエルの民はアイの町との戦いに勝ちましたし、カナンの地を征服することができたのです。でもその前に、水位が高いヨルダン川を渡らなければならないという壁、大きな町であるエリコと戦わなければならないという壁。この8章の前の7章では、イスラエルの民はアイの町に戦い敗れてしまったのです。そのとき、ヨシュアは「どうしてヨルダン川を渡らせたのか」と神に祈ったのです。「モアブの草原にいた方が良かった」と言っているのです。私たちの歩みにはそのようなことがあるのです。「7:7に書かれているヨシュアのような祈りは間違っている」というのではありません。そのように祈っても良いのです。ただ、そこで終わるのは間違いです。ヨシュアのように祈って良いのですが、「すでにあなたがたに与えている」という見えない事実にも目を留めることが大切です。それが聖書の語る信仰です。

3)信仰による祝福
 今朝の箇所に戻りますが、神に義と認められるとは8節に書かれていますように神の祝福です。その神の祝福は信仰によって受けることができるのです。8節に「すべての異邦人が」と書かれています。この「すべての異邦人」とは、イスラエルの民ではない者であり、神の民とされていない人々のことです。それは律法に定められた割礼を受けていない人々のことです。パウロは、「アブラハムに対する神の祝福の約束は、異邦人が信仰によって義と認められるため」と語っています。この8節のみことばは創世記12:3の引用です。アブラハムが神を信じた信仰によって、全て神を信じる人は神に祝福されるということです。神に義と認められるという神の祝福は、ただ信仰によってなのです。
 そしてパウロは、9節で1つの結論を語っています。それは、神を信じる人々がアブラハムと同じ神の祝福を受けるということです。「祝福される」という字は現在形が使われています。今すでに神の祝福を受けているというのです。イエス・キリストを信じる人は、もうすでに神の祝福を受けているのです。すでに義と認められており、罪の赦しを受けているのです。ですから、行いによって罪が赦され義と認められるのではないのです。良い行いや宗教儀式を守ることによって、人は罪が赦され神に義と認められるのではないのです。
 キリスト教で言います宗教儀式とは、礼拝・祈り・献金・聖書朗読・奉仕などです。これらは大切なことですが、罪が赦され義と認められるためにあるのではありません。罪の赦しを受け義と認められているから自ら進んで行うことができるのです。良い行いや宗教儀式は、すでに与えられている信仰をより深めるため、神との関係をより深めるために与えられているのです。さらに言えば、キリスト者としてより健全な者として成長するために与えられているのです。
 以前にも話しましたが、人は誰でも赤ちゃんとして誕生します。赤ちゃんは完全な人間ですが成長していきます。成長するためには呼吸をし、乳や食物を取る必要があります。それだけでなく、家族や人と交わり、適度な運動して健全な人へと成長していくことができます。キリスト者も同じです。キリスト者の赤ちゃんとして誕生し、より健全なキリスト者として成長していきます。そのために、霊の呼吸である祈りが与えられ、霊の食物である聖書が与えられ、霊の交わりである教会生活が与えられ、霊の運動である奉仕が与えられています。ですから、これらはすでに神を信じ義と認められている人に与えられているのです。決して、これらが人に罪の赦しを与え義と認めさせるものではないのです。人が罪の赦しを受け義と認められるのは、神の約束であるイエス・キリストを信じる信仰によってなのです。すでにイエス・キリストを信じている人は、誰もが神の祝福を受けているのです。

結)
 アブラハムは、神の約束を信じたことによって義と認められ、神の祝福を受けることができました。それは、全く疑うこともしなければ、不安もなかったというわけではありません。自分の頭では納得できないこともありましたし、「今後どうなるのだろう」という不安も抱きました。しかし、神のみことばによる約束を信じたのです。そして、それが義と認められ神の祝福を受けることができたのです。私たちは自分自身の行いを見ますと「本当に救われているのか」と思うことがないわけではありません。しかし、神は「イエス・キリストを信じることによって、罪を赦し義と認める」と約束してくださっているのです。私たちは、その神のみことばによる約束を信じるしかないのです。最初にも話しましたように、神は私たちに納得することを求めてはおられません。信じることを求めておられるのです。その神の約束を信じるという信仰によって、人は神の祝福を受けることができるのです。これからも、神の約束を信じ歩み続けられるように祈っていきましょう。


ガラテヤ3:1~5「信仰が揺れるとき」 20.01.05.

序)
 新年明けましておめでとうございます。今年も主にあって、新しい年を迎えられたことを主に感謝したいものです。今日は今年最初の主の日の礼拝です。昨年も様々なことがありましたが、今年も様々なことを経験していきます。そのような経験の中で、信仰が揺らぐこともあります。今朝は、その信仰が揺れるときについて共に教えられたいと願っています。

1)疑念
 聖書は「イエス・キリストを信じるなら、全てが新しくなりました」とⅡコリント5:17で語っています。「全てが新しくなった」とは、「全てが変えられた」ということです。イエス・キリストを信じた人は自分の罪深さを知り、イエス・キリストの十字架の意味を知り信じた人です。そこには「自分も変えられたい」という思いをもって信じた方もおられると思います。そして、信じたときは喜びに満たされます。ところが、その信仰生活を過ごす中で、全く変えられていない自分を見出したりすることがあるのではないでしょうか。しなければならないことを知りつつもできない自分。イエス・キリストを信じる前と全く変わっていない自分を見出したりもします。また、信仰生活は日々の生活と密着しています。日々の生活の殆どは同じことの繰り返しです。そのため信仰生活もマンネリ化してしまいます。信じた当初は喜びがあったとしても、同じことが繰り返されますと、最初の喜びは消え失せてしまいます。或いは、信じたけれども様々な霊的な戦いに疲れてしまう方もおられます。そのような中で、「本当に自分の中に信仰があるのだろうか」と疑ってしまいます。
 そのような経験は、大小を問わず誰もが経験するものでもあります。皆さんの中にもあるのではないでしょうか。もちろん、私も経験のあることです。「神が存在するなら、何故このようなことが起こるのか」という神の存在自体を疑うということがあるのです。そのような疑問が生じますと、人は3つの道のどれかに進んでしまうのではないでしょうか。1つの道は、神の存在を否定し離れてしまうという道です。「自分には信仰がない」として、聖書の約束を信じられなくなり神から離れてしまいます。もう1つの道は、律法主義に陥ってしまう道です。「そのような疑いを抱くのは自分の弱さによるものである」と思い、「聖書の教えをきちんと守らなければ」とする道です。それは自分が一生懸命努力する道です。最後は、神の約束にすがる道です。疑問を抱きますが、「それでも神の約束だから信じるしかない」として、神の約束に目を留めて歩む道です。すぐにそこに戻れる人もいれば、数か月・数年かかる人もおられることでしょう。
 ガラテヤ教会の人々は、2番目の律法主義の道を選んだのです。すなわち、「自分が神の教えを一生懸命守り行うことによって神は共にいて導いてくださる」と信じる道を選んだのです。その道は自分の行いを重視する道であり、行いを強調する信仰になってしまいます。確かに、信仰生活には行いが伴います。しかし、その人が一生懸命神の教えを守り行うから神は共にいて導いてくださるのではありません。神は私たちがどうであれ共にいてくださいます。何故なら、それが神の私たちへの約束だからです。その神の約束を信じ歩むことが大切なのです。

2)原点に戻る
 「本当に自分には神への信仰があるのか」という疑問は誰にでも生じるものであり、決して不信仰なことではありません。では、そのような疑問を抱いたとき、どうすれば良いのでしょうか。パウロは、2節で「     」と語っています。この「御霊を受けたのは」とは、イエス・キリストを信じときのことです。すなわち、新しく生まれ変えられたときのことです。パウロは「あなたがたが新しく生まれ変えられたのは神の約束を信じたからか、それとも律法を守り行ったからか」と問うているのです。パウロはガラテヤ教会の人たちに、新しく生まれ変えられたときに立ち返らせようとしているのです。信仰の原点に戻らせようとしているのです。
 信仰の原点に戻るということは、神を信じる者の生活においてはとても大切なことです。私たちは「本当に信仰があるのか」という疑問を抱くことがあります。そのときに大切なのは、信仰の原点に戻ることです。「自分は何を信じ新しく生まれ変えられたのか」という所に戻ることです。私たちは神によって造られた存在であり、その神に愛されている存在です。しかし、その神を認めずに歩んでいました。それが聖書の語っています罪です。ところが、多くの人は「自分が罪人である」ということが分かりません。何故なら、「罪=犯罪」と捉えているからです。すなわち、法律に違反した行為を「罪」と捉えておられます。しかし、聖書の語る罪はそのようなものではありません。私たちを造り愛し導いてくださっている神を神と認めないことが罪です。何度も話していますが、分かりやすく言いますと自分を産み愛し育ててくれた人を「親」と認めないのは間違っています。ですが、何の法律にも違反していないなら、親がその子どもを裁判所に訴えても「有罪」とはなりません。何故なら、法律に違反した行為をしていないからです。しかしながら、自分を産み愛し育ててくれている人を「親」と認めないのは間違っています。それが聖書の語る罪なのです。
 ですから、「新しく生まれ変えられた」というのは、自分を造り愛し導いてくださった方を神と認めることです。その方を神と認めていなかった歩みから、神と認める歩みに変えられることが新しく生まれ変えられるということです。そして、それが罪の赦しなのです。そのためにイエス・キリストはこの世に来られ、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって神の審きを受けてくださったのです。それは、私たちがそれほど神に愛されている存在であることに気づかせることと、神が必ず守ってくださるという約束に目を留めるためです。キリスト者というのは、そのイエス・キリストの十字架を通して神の愛を知り、その神を自分の神として受け入れ、守られていることに感謝して神を礼拝する者のことです。私たちはそうではないでしょうか。イエス・キリストの十字架を通して神に愛されていることを知り、神の守りに感謝して礼拝しているのではないでしょうか。それが私たちの信仰の原点です。その信仰の原点があるというのはとても大切なことです。何故なら、信仰の疑問を抱いたとき、この原点に戻ることができるからです。信仰に疑問を抱くことは不信仰なことではありません。そのとき、この信仰の原点に戻れば良いのです。

3)成長
 パウロはガラテヤ教会の人々に、信仰の原点に戻るように勧めています。そして、勧めたあと3節の後半で「御霊によって…完成されるというのですか。」と語っています。これは「御霊によって始まったあなたがたは、肉によってではなく御霊によって完成する」ということを示しています。すなわち、「スタートもゴールも全ては御霊なる神の働きによってである」と語っているのです。これは、イエス・キリストを信じることによって完成されたわけではないということも示しています。バプテスマを受ける前の私もそうでしたが、「キリスト者になる=完全な信仰者」と思われている方がおられます。バプテスマを受けることが信仰のゴールのように思われている方がおられます。しかし、決してそうではありません。イエス・キリストを信じ、神の子とされ、バプテスマを受けるというのは、信仰のゴールではなくスタートなのです。
 礼拝で何度か話しましたが、信仰生活というのは人間の歩みと似ています。人間は母親の胎内にいて誕生します。人は母親のお腹から誕生したら終わりではありません。そこから人として成長していくのです。赤ちゃんは完全な人間です。完全な人間ですが成長していくのです。信仰の歩みも同じです。イエス・キリストを求めてはいますが信じる決心ができない状況は、胎児のようなときと言えるのではないでしょうか。そして、イエス・キリストを信じバプテスマを受けるときは、赤ちゃんとして誕生したときと言えるでしょう。その後の信仰生活は、人としての成長のときと言えるでしょう。
 私たちは人として成長していく中で、様々な課題に直面します。それらの直面する課題を経験して成長していくのではないでしょうか。その経験というのは乗り越えられる・克服するというものばかりではありません。乗り越えられないときや失敗するときもあります。むしろ、何度も何度も同じ失敗をしてしまうのではないでしょうか。そのことの繰り返しを通して人として成長していくのではないでしょうか。信仰の成長も同じです。何度も同じことで失敗したり、多くの壁に直面したりします。それらの経験を通して健全な信仰者へと成長していくのです。ですから、「信仰が揺れる」というのは健全な信仰者であれば当たり前のことです。「信仰を持っているのに神の存在を疑う」というのは不信仰なことではありません。信仰の成長の過程で、そのような経験をすることがあるのです。
 キリスト者というのは、信仰が完成した人ではありません。不完全な信仰であり、信仰成長の過程にある者なのです。昨日よりも今日、今日よりも明日として成長していくのです。その成長は目で見て分かるようなものではありません。同じような所をグルグル回っているように思えるものです。ですが、その歩みは何度も話していますが、リングのような歩みではなくバネのような歩みです。同じ所をグルグル回っているように思えますが、バネは同じ所をグルグル回っているようであっても前進しています。私たちの信仰もそうなのです。同じ所を回っているように思えますが前進しているのです。

結)
 信仰を持っていても、その信仰が揺らいでしまうことがあります。信仰が揺らぐというのは、決して不信仰なことではありません。誰もが経験するものです。私たちは自分の信仰が揺らぐことがありますが、信仰の原点に戻ることができます。大切なのは、揺らぐことのない信仰を持つことではありません。揺らいだときに信仰の原点に戻ることが大切なのです。そして、その信じたときの神の愛と神の約束に目を留めて再び歩み始めることが大切です。私たちには、いつでも信仰の原点に戻ることができる恵みが与えられていることを覚えたいものです。2020年が始まりました。今年も様々なことを経験することでしょう。その経験は、自分にとって喜ばしいことだけではありません。信仰が揺らぐこともあります。そのようなとき、信仰の原点に戻って神の愛と神の約束に目を留められるように祈っていきましょう。

ルカ1:26~45「神の祝福に与った女性②」 19.12.22.

序)
 クリスマスおめでとうございます。ようこそ、教会のクリスマス礼拝に来てくださいました。日本ではクリスマスのとき「メリークリスマス」と言います。アメリカに行ったことがありませんが、情報によりますと最近のアメリカでは「メリークリスマス」と言わないようです。何と言うかと言いますと、「ハッピーホリデー」と言うらしいのです。クリスマスの日は祝日とされているのですが、クリスマスはキリスト教の行事ですから、クリスチャンでない人にとっては関係のないことです。ですから、「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデー」と言われているようです。私は「だったら、ハッピーホーリーデーはあかんのかな」と思いました。昔、この教会を開拓されたストーラー宣教師夫人のジョーンさんから聞いた話ですが、アメリカでは公の所ではクリスマスの讃美歌が流れないようです。何故なら、讃美歌はキリスト教の歌だからです。アメリカはキリスト教国と思われていますが、宗教に対してシビアでもあるのですね。日本では、この時季クリスマスソングが流れています。でも、最近の有線では讃美歌は殆ど流れず、クリスマスのポピュラーソングが流れています。「日本においても時代が変わりつつあるな」と思わされているこの頃です。2週間前の礼拝では「神の祝福に与った女性」として「エリサベツ」という女性を見ました。今日は「神の祝福に与った女性」の第2弾として、イエス・キリストの母であるマリアから共に教えられたいと願っています。

1)恵まれた女性
 まず、マリアは恵まれた女性でした。28節に「おめでとう、恵まれた方」と御使いがマリアに告げたことが書かれています。マリアにとって何がめでたく恵まれているのでしょうか。このときのマリアは婚約中で結婚はしていません。現代に日本においては「おめでた婚」というのがあります。子どもが宿ったから結婚するというものです。ですが、当時のイスラエル社会においては石打の刑に処せられる可能性があったのです。ですから、未婚の女性が妊娠するというのは決してめでたいことではありませんでした。むしろ、迷惑なことだったのです。では、何がマリアにとってめでたく恵まれたのでしょうか。それはイエス・キリストをお腹に宿ったことよりも神に選ばれたことにです。
 「恵み」というのは、本来受けるに価しないのに受けられることです。働いて何かを受け取るというのは恵みではありません。それは報酬です。働いたのですから何かを受けて当然のことです。でも、恵みというのは何もしていないのに受けられることです。マリアは、自分のことを「この卑しいはしために、目を留めてくださったからです。」と48節で告白しています。マリアは「自分は身分が低く奴隷のような女性である」と告白しているのです。実際に、彼女は特別に何かができた女性ではありませんでした。技術的にも能力的にも、何処にでもいる女性と同じだったのです。でも、神はそのようなマリアに目を留め選ばれたのです。マリアからすれば、「選ばれるに価しない自分が神に選ばれた」と告白しているのです。
 聖書は神の選びについて、Ⅰコリント1:27で「     」と語っています。神は特別な人だけに目を留められるのではなく、何の取り柄もないような人にも目を留めて選んだくださる方なのです。すなわち、現代の私たちにも目を留めてくださる方なのです。何故でしょうか。それは私たちを愛してくださっているからです。あなたという存在は神に愛されている存在なのです。そのことを覚えていただきたいのです。マリアは妊娠することによって、他人から中傷されるかもしれませんし、日陰の生活を過ごさなければならないかもしれません。世間から見れば決して「めでたく恵まれている」とは言えないものです。しかし、マリアはそのようには受け取りませんでした。むしろ、自分のことを「幸いな者」と受け取ったのです。それは神に愛され目に留められていることを知ったからです。そして、先程も話しましたように、あなたも神に愛され目を留められている幸いな人なのです。クリスマスのとき、そのことを覚えたいものです。

2)神のことばを信じた女性
 第2に、マリアは神のことばを信じた女性です。マリアは御使いから告知を受けた後、親類のエリサベツの家に訪問しました。エリサベツは、マリアに「主によって…幸いです。」と告げたことが45節に書かれています。それは、マリアが神のことばを信じたからです。マリアは、神のことばによる約束を信じた女性だったのです。では、その神の約束とはどのようなものでしょうか。それは51~55節でマリアが言ったように、神は御腕で力強いわざを行い助けてくださるという神の守りのことです。マリアは、これからどのようなことを経験しようとも、必ず神が守ってくださるという約束を信じていたのです。これからマリアに待ち受けているものは何でしょうか。未婚の女性が妊娠をしたのですから、他人からの中傷という試練が待ち受けています。世間を敵に回すような厳しい現実が待ち受けています。そのような試練の中に、マリアは幸せを見出していたのです。私たちは「試練の中に幸せはない」と思ってしまうのではないでしょうか。ですが、聖書は「試練の中にも幸せがある」と語っているのです。
 では、「試練の中にもある幸せ」とはどのようなものでしょうか。それは神の守りです。私たちにとって大切なことの1つは、神のみことばによる約束を信じることです。そのことを私たちは知りつつも、なかなか信じ切ることができないのではないでしょうか。何故信じ切ることができないのでしょうか。それは、自分の尺度で判断してしまうからです。私たちには「自分の常識」というものがあります。その常識という枠の中で、様々なことを考え判断してしまいます。ですから、神の約束を信じ切ることができないのです。「それが悪い」というのではありません。それは仕方のないことです。何故なら、それが人間であり私たちだからです。神はそのような弱さを持っている私たちを責める方ではありません。そのような弱さを持っている私たちを御存知なのです。御存知だから「恐れるな」とか「思い煩うな」と言ってくださっているのです。神が私たちに「恐れるな」とか「思い煩うな」と言われているのは、「わたしが共にいて守るから大丈夫だ」ということです。恐れたり思い煩う私たちをそのまま受け留めてくださり、励まし力づけてくださっているのです。それが神の愛です。
 神の愛というのは、私たちの想像を超えたものです。私たちの想像を超えた方法をもって、神は私たちを守ってくださるのです。神は私たちの頭の中で理解できるような小さな方ではありません。私たちの想像を超えた方です。そのことを知りつつも私たちは思い煩ってしまうのです。私たちがどれほど恐れようが思い煩おうが、神は私たちを守ってくださいます。何故なら、神は「あなたを守る」と約束してくださっているからです。その約束に目を留めつつ歩み続けられるように祈っていきたいものです。

3)神のことばを人生の土台とした女性
 第3に、マリアは神のことばを人生の土台とした女性です。今朝の箇所ではありませんが、2:19に「     」と書かれています。羊飼いたちは御使いの知らせを聞いて、イエス・キリストが生まれた家畜小屋を探し出し、その所にいた人たちに自分たちに告げられたことを話しました。それを聞いた人たちは驚いたということが18節に書かれています。しかし、マリアは「これらのことをすべて心に納めて思い巡らしていた。」というのです。では、マリアは何を思い巡らしていたのでしょうか。それは今までの神の導きではなかったでしょうか。マリアは御使いから「主があなたとともにおられます。」と告げられました。「主がともにいる」とは、「主が全てのことから守る」ということです。
 まだヨセフと結婚していないときのマリアにとって、御使いからの御告げは大きなショックだったと思います。何故なら、結婚していない女性が子どもを宿すということが世間に知られたら、どのような目に遭うかという不安があるからです。でもその不安は、天使がヨセフに現れてマリアを迎えることを告げられ、ヨセフと結婚することによって解消されました。すると今度は、アウグストゥスの命令によって、ナザレの町からベツレヘムの町に行かなければならなくなりました。ナザレからベツレヘムまでの距離は直線で約100㎞です。それは春日井から伊勢までの距離です。その距離を電車や車のない時代、ロバに乗って行かなければならないのです。お腹の中にいる赤ちゃんのことが心配だったでしょう。夫のヨセフにすれば、赤ちゃんだけでなく母であるマリアの体調のことも心配だったと思います。それらの心配も守られベツレヘムの町に着いたら、今度は泊まる宿が見つかりません。そして、やっとの思いで家畜小屋を提供され赤ちゃんを無事に産むことができたのです。マリアにとっては、これまでの歩みは決して楽なものではなかったと思います。しかし、その歩みの中で神が守ってくださった事実に目を留め、神のみことばの確かさを思い巡らしていたのではないでしょうか。
 神は御使いを通して、マリアにイエス・キリストの誕生を告げられました。これは神のみことばとも言えます。その神のみことば通りに事は進み、マリアの想像以上のことを神はされたのです。実は、神のみことばが果たされただけのことです。そして、これらは神にとっては特別なことではなかったのです。神にとっては当然のことなのです。その神のみことばの確かさをマリアは思い巡らしていたのではないでしょうか。それは、神のみことばによる約束がどのように果たされたかを思い巡らしていたのではないでしょうか。マリアが目を留めていたものは神のみことばです。まさしく、マリアは神のみことばを人生の土台として生きた女性ということができるのではないでしょうか。ルカ1:18を見ますと、祭司であるザカリヤは御使いのことばに対して「何によって」としるしを求めました。そのために、「話すことができなくなる」というしるしを受けました。ザカリヤは神のみことばであれ、自分が納得しないと受け入れられなかった人です。しかし、マリアはしるしを求めることなく素直に神のみことばを受け入れました。大切なのは身分や職業ではなく、神のみことばを素直に受け入れられるかどうかであることを改めて知らされるのではないでしょうか。「牧師だから」とか「信徒だから」とは関係なく、神のみことばを土台として生きる人は、神のすばらしいみわざを体験できることを私たちは教えられるのではないでしょうか。

結)
 エリサベツは、マリアに対して45節で「主によって…幸いです。」と言いました。マリアは本当に幸せな女性でした。本当の幸せというのは、物質的なものの中にあるのではなく関係の中にあります。以前にも話しましたが、物質というのは見えるものです。物質的なものの中に物質的なものを入れれば満たすことができます。物質的でないものに物質的なものを入れても満たすことはできません。関係も目に見えるものではありません。関係は心と心の事柄です。その心も見えるものではありません。見えないものを満たす方法は見えないものを入れるしかありません。心が満たすものは関係によってです。本当の幸せは関係の中にあるのです。何度も話していますが、その関係にも流れがあります。その流れを間違ってしまいますと大変です。その流れの最初は、あなたを造り愛しておられる神との関係です。次に自分自身との関係です。最後に自分以外の人との関係です。ところが、多くの人は最後から始めようとされるのです。人に認められ受け入れられることで、自分を受け入れられるのです。ところが、人に認められ受け入れられることに疲れて果ててしまうのです。川は上流から下流に流れます。ですから、上流から下流に下るのは楽ですが、下流から上流に上ろうとすると疲れ果ててしまいます。川は見えるものですから分かりやすいです。でも、関係は見えませんから分かりにくいのです。でも、その関係の流れは大切なものです。イエス・キリストは、私たちがその関係の流れに入れるようにするためにお生まれになってくださったのです。それがクリスマスです。

ルカ2:1~7「クリスマスが示すもの」 19.12.15.

序)
アドベントの第3週を迎えました。いよいよ来週はクリスマス礼拝と祝会です。今年のクリスマス、神は私たちにどのようなすばらしいことをしてくださるでしょうか。その神のすばらしさは、私たちにとって喜ばしいこととは限りません。自分自身にとっては喜ばしくないこともあります。今朝は、イエス・キリストの誕生を通して、クリスマスが示すものを共に教えられたいと願っています。

1)神のタイミング
第1に、クリスマスは神のタイミングのすばらしさを示してくださいます。1節の最初に「そのころ」と書かれています。これはヨセフとマリアが結婚し、御使いが告げたイエス・キリストの誕生が間近になった頃のことです。では、イエス・キリストの誕生の頃はどのような時代だったのでしょうか。それはローマ帝国がイスラエルを支配していた時代です。ローマ帝国は地中海沿岸地域を支配していました。「全ての道はローマに通ずる」と言われたように道路整備が行われていました。「道路整備がなされる」ということは、「流通がしやすくなる」ということです。そうしますと、当然人の行き来が増えます。当時のことばは、ギリシャ語が共通語として普及していました。共通語が普及すると情報伝達も早くなります。それは、福音が広まりやすい条件が整いかけていたということでもあります。
そのような時代に、皇帝アウグストゥスは住民登録の勅令を出しました。それは徴兵や徴税のためです。ローマ帝国をさらに強め繁栄させるためです。そのようなときに、ヨセフとマリアはベツレヘムに向かうこととなります。何故なら、ヨセフはダビデの子孫であり、ベツレヘムが先祖の町だったからです。そして、救い主がベツレヘムに誕生することは、昔から預言されていました。ベツレヘムでの出産はヨセフとマリアにとっては「仕方なく」というものかもしれません。でも、それが神の導きでもあったのです。また、ヘレニズム文化が発展し、哲学なども進むにつれ、人々は霊的満たしを求めるようになる時代でした。そのような中、ユダヤ人は旧約聖書に預言されていた救い主の誕生を待ちわびる思いが強まっていました。イエス・キリストの誕生は、まさしくそのような時代だったのです。
ガラテヤ4:4に「時が満ちて」と書かれています。また、伝道者の書3章には、何においても時があることが記されています。時は神が定められています。ですから、イエス・キリストの誕生も神が定められた時でもあったのです。神は世界の情勢をも用いることのできる方です。イスラエルの民がローマ帝国に支配され、その皇帝の命令によって先祖の町で住民登録をしなければならないために、ヨセフとマリアは先祖の町ベツレヘムに向かいました。ベツレヘムはキリストの誕生が預言されていた地です。ローマ帝国の支配は、神の御心であったかどうかは分かりませんが、神はその時代の情勢を用いられたのは確かなことです。その時代の情勢を用いられて、神はご自身の確かさというものを示すことのできるお方です。神は最善の時に事を行われます。ここに神のタイミングというものを知らされるのではないでしょうか。

2)試練
第2に、クリスマスは試練が伴うことを示しています。神のタイミングはすばらしいものです。しかし、それは必ずしも本人にとって喜ばしいこととは限りません。ヨセフとマリアは、御使いから「救い主を産む」という約束を受け、その約束を信じて結婚しました。そして、マリアはみごもり出産間近となったとき、皇帝アウグストゥスから「住民登録をせよ」という命令を出されました。出産間近であるにも拘わらず旅に出なければならないというのは、出産間近の女性にとってはとてもきついことです。そして、やっとベツレヘムの町に着いたと思ったら、今度は泊まる宿屋など一軒もないのです。神の約束を信じヨセフと結婚し、ベツレヘムの町に行ったけれども泊まれる宿屋が一軒もない。「何故」と思える状況です。そして、マリアの出産は宿屋ではなく家畜小屋です。イエス・キリストは家畜が食べる餌の籠である飼い葉おけに寝かせられました。出産は親にとっては喜びのときです。その喜びのときが汚い所での出産となったのです。これは辛いものでもあったことでしょう。
マリアはどのような思いだったでしょうか。「やっとゆっくりできる」という安堵感と同時に、「何故こんな所で」という思いではなかったでしょうか。神を信じ従ったのに、待っていたのは辛いことばかりです。イエス・キリストは、そのような辛い中で誕生されたのです。それが意味するものは何でしょうか。イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれる方です。それは「神は私たちと共におられる」という意味です。ヨセフとマリアの辛さの中にイエス・キリストが誕生されたということは、辛さの中にあっても神は共にいてくださるということでもあります。辛さというのは、その人にとっては試練でもあります。私たちは試練に遭遇すると、主に見捨てられたように思えてしまうことがあります。しかし、神は私たちを決して見捨てられはしません。試練の中にあっても共にいてくださいます。このマリアの出産を通して、私たちはそのことを知らされるのではないでしょうか。家畜小屋は、どれだけきれいにしても、私たちから見れば汚い所です。その汚い所にイエス・キリストは誕生されたのです。そして、決してきれいではない飼い葉おけにイエス・キリストは寝ておられたのです。
汚い所にイエス・キリストは来られ寝ておられる。私たちの心は自己中心的なものであり、汚れでいっぱいではないでしょうか。そのような私たちの中に神は来てくださったのです。神は「汚れ」というものを嫌われるお方です。その汚れの中に来てくださったのです。しかも、神自らご自身が嫌われる所に、ご自身の意志で来てくださったのです。その目的は何でしょうか。汚れた私たちの心を聖めるためです。
私はどちらかと言いますときれい好きです。時々食器などの洗い物をすることがあります。そのとき、やかんや鍋が黒くなっていることがあります。それで、私は金属たわしでこすり落とします。そのとき、やかんや鍋はどのような思いでしょうか。おそらく痛い思いをしているのではないでしょうか。何故なら、力を入れてこするからです。汚れがひどければひどいほど、力を入れてこすらなければなりません。ですが、こすられる側としたら辛いものです。痛みを覚えます。それは試練でもあります。でもそれはきれいにするためです。
試練とは、痛みを覚えるものではないでしょうか。そして、私たちも神から試練を経験させられ痛みを覚えます。でも、その目的は私たちを聖めるためであり成長させるためです。神は私たちにすばらしいことをしてくださいます。そして、その神のタイミングもすばらしいものです。しかし、そこには試練も伴うことを覚えたいものです。

3)希望
第3に、クリスマスは希望があることを示しています。マリアの出産は家畜小屋の中であり、決してきれいな所ではありませんでした。むしろ、衛生的にはひどい所と言えるでしょう。そのような所で出産しなければならなかったマリアにとっては、「複雑な思いではなかったか」と思わされます。そして、そのような中でイエス・キリストは誕生されました。誕生された後、マリアの複雑な思いはなくなったのではないかとも想像できます。誕生は喜びのときです。何故喜ぶのでしょうか。苦しみを通して生んだことによって、苦しんだ甲斐があったからかでしょうか。すなわち、「苦しみが無駄ではなかった」ということへの喜びでしょうか。それもあるかもしれません。しかし、何よりもの喜びは、ここに新しい命が誕生したからではないでしょうか。新しい希望が与えられたからではないでしょうか。誕生というのは人に希望を与えます。イエス・キリストの誕生は、人に本当の希望を与えてくれます。
試練に遭遇しますと、四方八方塞がってしまったように思えます。何処を向いても真っ暗闇のように思えます、神は世界を造られたとき真暗闇でした。その闇の中に「光、あれ」と告げられたとき光が生まれました。光は人に希望を与えます。私たちは試練に遭遇し真暗闇の中にあったとしても、そこに光を見出すことができます。何故なら、ヨハネ1:9に「     」と書かれていますように、イエス・キリストは「まことの光」としてこの世に来られた方だからです。光とはどのようなものでしょうか。まず、方向を示してくれます。夜になると明かりを灯します。灯台は海の上を漂うものに陸があることを示します。そして、船は港の明かりを目指して進みます。飛行機も空港の光を目指して着陸します。光は私たちに進むべき道・方向を示してくれます。イエス・キリストがまことの光として誕生されたのは、暗闇の人生の中にあって、私たちが進むべき道・方向を示すためです。また、光は力を与えます。陸の上に生きる全てのものは、光を受けることによって育ちます。それは光を受けることによって力に変えられるからです。また、光は輝かせます。電球はスイッチを入れますと輝きます。ですが、電球自体は輝くことはできません。スイッチを入れることによって光が生じ、その光が電球を通して輝かせています。イエス・キリストを信じるなら、その人の内にイエス・キリストが住んでくださいます。そして、その人を輝かすことができます。何故なら、「このような私のためにお生まれになってくださった」ということを知り、感謝と喜びをもって生きることができるからです。
光は道を示し、力を与え輝かすことができます。生きる希望を与えることができます。イエス・キリストは、そのまことの光としてこの世にお生まれになられたのです。私たちがどのようなときであっても、イエス・キリストは共にいて光を与えてくださいます。「絶体絶命」ということを経験したとしても、その中で希望を持つことができます。何故なら、神は私たちの理解を超えた大いなる方だからです。イエス・キリストは、私たちに本当の希望を与えるためにお生まれになってくださったのです。

結)
このクリスマスのとき、神のタイミングのすばらしさを覚えたいものです。試練を経験しますが脱出の道も備えられていることも覚えたいものです。そして、私たちはいつも神にあって希望があることも覚えたいものです。そのところに目を留めつつ、クリスマスに備えられたら素敵なことではないでしょうか。

ルカ1:5~7「神の祝福を与った女性①」 19.12.08.

序)
 アドベントの第2週を迎えました。今年は、少し趣向を変えましてクリスマスに登場します女性から教えられたいと願っています。今日は「エリサベツ」という女性から教えられ、22日のクリスマス礼拝ではマリアから教えられたいと願っています。

1)神に忠実な女性
 第1に、エリサベツは神に忠実な女性です。エリサベツは5節を見ますと、祭司であるザカリヤの妻でアロンの子孫であることが紹介されています。御存知だと思いますが、祭司の仕事は聖所に関する仕事をします。それは神殿に係わる仕事です。それは動物のいけにえや穀物の献げ物をするということです。それと、神と人との仲介の働きもあります。それは罪の聖めとか民への祝福などです。言わば、神と人との仲介的な働きをするものです。現代で言えば牧師のような働きです。その祭司という仕事は誰でもなれるものではありません。5節にも書かれていますように、アロンという人の子孫しかなれない職業だったのです。エリサベツは、そのアロンの子孫でもあったのです。現代で言えば、先祖代々牧師家庭に生まれ育った女性ということができると思います。
さらに、この夫婦については6節でも紹介がなされています。この夫婦は「神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落ち度なく行っていた。」と紹介されています。聖書がこの2人について「神の前に正しく、主の命令と掟を落ち度なく行っていた」と紹介しているのですから、神に祝福されていた夫婦ということができるでしょう。そのような夫婦ですから、近所の人からの評判も良く尊敬されていた夫婦であったと想像できるのではないでしょうか。神の教えを守り行い、人には親切で柔和な夫婦。ひょっとしたら、誰もが手本にしたい夫婦だったのかもしれません。そのように想像しますと、私とは全く違うことを思わされます。私なんかは気が短く、すぐにイライラしてしまうタイプですから正反対です。
 ですが、7節の冒頭には「しかし」と書かれています。この「しかし」ということばは、「神に祝福されていた夫婦であれ、全てが順調に進んでいるとは限らない」ということを示してもいます。この夫婦には子どもが与えられていなかったのです。当時のイスラエルは、「子どもは神から与えられるものであり神の祝福である」と考えられていました。子どもが与えられることによって、家系は途絶えることはなく続きます。「家系が続くことは神の祝福そのもの」と考えられていました。しかし、その神の祝福をゼカリヤとエリサベツ夫婦は受けていないのです。「多くの人が受けている祝福を自分たちは受けていない」というのは、口にこそ出しませんが心の中では大きな痛みだったのではないでしょうか。
しかも、7節の後半には「二人ともすでに年をとっていた。」と書かれています。これは、子どもを産む年齢ではないことを表現しています。結婚当初は、子どもが与えられることを祈っていたことでしょう。ですが、なかなか子どもが与えられない。そのような中にあっても、神に期待して祈りつつ日々の生活を過ごしていたことと想像できます。しかしながら、年月が過ぎるにつれて、その祈りもしなくなったことでしょう。期待から断念することとなったと思われます。ある書物には、当時のイスラエルについて「ローマ帝国の軽蔑と悪意によって、イスラエルはほとんど名ばかりの存在になりさがっていた。主なる神の礼拝は単なる形式に堕していた。当時の祭司階級の堕落した状態は大祭司カヤパにあきらかである。」と書かれています。そのような時代や置かれた状況の中にあっても、この夫婦は神に対して忠実に歩み続けていたのです。それが6節のこの夫婦に対する神の評価ではないでしょうか。

2)神の祝福に与った女性
 第2に、エリサベツは神の祝福に与った女性です。子どもが与えられることを祈り続けた女性が、いつの間にか子どもが与えられる祈りをやめていましたが、神は夫ザカリヤにエリサベツが子どもを産むことが告げられます。そして、エリサベツは男の子をお腹の中に宿しました。そのことについて、エリサベツは何と告白しているでしょうか。24、25節に「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました。」と告白しています。エリサベツは、自分に子どもが与えられていないことを「恥」と思っていたのです。6節の紹介から「近所の人からも評判が良く尊敬されていた夫婦であったと想像できる」と話しました。いつも笑顔で接していたのかもしれません。そのようなエリサベツの様子を見つつ、近所の人たちはエリサベツの心の中がどのようなものであったのかは全く知ることはありませんでした。おそらく、近所の人たちはザカリヤ夫婦に子どもが与えられていないことに対して、とやかく言うことはなかったと思います。むしろ、そのような状況に置かれつつも、笑顔で接するエリサベツを尊敬していたかもしれません。ですが、エリサベツの心の中は、子どもが与えられていないとう事実に対して「恥」と思っていたのです。人前で装うものと心の中は必ずしも同じではないことを示しています。
 しかし、神は彼女の心の中がどのようなものであったかを御存知だったのです。神はザカリヤ夫婦に目を留められたのです。13節に「ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。」と御使いからザカリヤに告げられたことが書かれています。この時もザカリヤ夫婦が子どもを与えられることを祈っていたとは考えにくいです。過去に祈っていたことを指しているのかもしれません。どうであれ、神はザカリヤ夫婦に目を留められたというのは事実です。神はエリサベツの心の中を御存知であり目を留められたのです。しかも、それはイエス・キリストの母であるマリアが御使いから告げられる半年前のことです。ここに、私たちの想像越える神の備えというものを知らされるのではないでしょうか。
 先月の礼拝でも話しましたが、私たちには見える現実と見えない現実があります。神はエリサベツの心の中を御存知であり、ザカリヤ夫婦に目を留められていました。しかし、すぐにこの夫婦に子どもを与えられたのではありません。救い主の誕生は旧約聖書の時代からベツレヘムの町に生まれることが預言されていました。そして、アウグストゥスは住民登録をすることを命じました。そのために、ヨセフとマリアはナザレの町からベツレヘムに行かなければならなくなり、そこでマリアはイエス・キリストを出産しました。それは旧約聖書の預言が成就するためです。その1年半前に神はエリサベツを身ごもらせられたのです。御使いのことばを聞いたマリアは、御使いのことばをすぐには信じられませんでした。でも、御使いからエリサベツのことを聞いたとき信じることができました。そのことを見るとき、神のタイミングのすばらしさというのを知らされるのではないでしょうか。本当に神は私たちの想像を超える備えをしてくださっています。エリサベツは、その神の祝福に与った女性です。そして、その神は、私たちにもそのような備えをしてくださっていることを覚えたいものです。

3)神の祝福を分かち合えた女性
 第3に、エリサベツは神の祝福を分かち合えた女性です。エリサベツが身ごもった半年後に、マリアは御使いより身ごもることが告げられます。先程も話しましたように、最初は信じられませんでしたがエリサベツのことを聞いて信じることができました。その後マリアはエリサベツの家に行き挨拶しました。エリサベツのお腹の中にいた赤ちゃんは大はしゃぎをしたのでしょうか「胎内で踊り」と41節に書かれています。そのときエリサベツは、マリアに「あなたは女の中で…幸いです。」と言ったことが42~45節に書かれています。親類の者ではありますがマリアは大工の妻であり、エリサベツは祭司の妻です。しかも、エリサベツ自身も祭司の家系です。年齢にしてもエリサベツの方がずっと上です。社会的身分も違えば年齢も違います。エリサベツはずっと祈り続けていましたがなかなか子どもが与えられませんでした。それに対して、マリアは子どもが与えられることなど祈ってもいませんでした。「当たり前」と言えば当たり前です。マリアはヨセフと婚約はしていましたが結婚していなかったからです。それなのに、マリアに宿った子どもは「いと高き方の子」なのです。
 「長年祈り続けてやっと与えられた子どもが、全く子どもが与えられることを祈ったことのない女性の子どもに仕える者として誕生するなんてどういうことか。それが逆ならば分かるのに。」というような嫉妬心はエリサベツにはなかったのです。エリサベツは、マリアが特別に神から祝福されていることを喜ぶことができたのです。何故そのようなことができたのでしょうか。それは神の祝福を神の祝福として受け入れることができていたからです。「神の祝福」を「神の恵み」と言い換えても良いかもしれません。恵みを恵みとして受け入れられるか受け入れられないかでは大きな違いが生じます。恵みを「当然のもの」とするなら、恵みとしては受け入れることはできません。「このようなものを受けて当たり前」「このようなことをされて当たり前」という思いの中には、感謝する思いは全く生じません。だって、当たり前のことなのですから。しかし、エリサベツは違いました。長年祈り続けていたけれども途中でやめただろうと考えられます。しかし、エリサベツは諦めて祈ることをやめたかもしれませんが、神はエリサベツに目を留められ続けておられたのです。そのことをエリサベツは身ごもることを通して知ったのです。
 「分かち合うことができる」というのは、満たされているからできることではないでしょうか。「足りない」という時には、分かち合うことはできません。ある方は「いや、できますよ!」と言われるかもしれません。少ない中でも分かち合うことがあります。でも、それは心に余裕があるからではないでしょうか。心に余裕がありませんと、人は分かち合うことはできないのではないでしょうか。そのように考えますと、エリサベツの心には余裕があったということになります。それは1:24、25で告白していますように、「主が私に目を留めてくださった」という事実に心を向けていたからです。「神は今の私に目を留めてくださっている」という事実に心を向けられるか向けられないかで、物事の捉え方が大きく違ってくることを私たちは知らされるのではないでしょうか。「神は今の私に目を留めてくださっている」という事実に心を向け続けて歩まされたいものです。

結)
 エリサベツは神の祝福を与った女性です。その神の祝福は、私たち一人ひとりにも注がれています。目の前の事柄は大変かもしれません。状況は何一つ変わっていないように見えるかもしれません。しかし、神の祝福は注がれているのです。先程も話しましたが、見えない現実の中で神は備えてくださっています。それは何のためでしょうか。私たちが神の祝福に与るためです。そのことを覚えつつ、クリスマスに備えていきましょう。

ヨハネ8:48~59「クリスマスを前にして」 19.12.01.

序)
 今日から12月が始まり、今日からクリスマスに備えるアドベントに入りました。ある方は「今日からアドベントなのに、何でこの箇所なの?」と思われる方もおられるかもしれません。「8章を終えたらガラテヤ書の続きをしよう」と思っていましたので、今日はこの箇所から話しをさせていただきます。クリスマスは、イエス・キリストがお生まれになられたのを祝うときです。そのクリスマスを前にして、今朝はイエス・キリストについて共に教えられたいと願っています。

1)父なる神を敬う方
 第1に、イエス・キリストは父なる神を敬っておられる方です。この49節に書かれています「敬う」とは「価値がある」という意味が含まれています。大切なのは、「自分にとってどれほどの価値があるのか」ということです。マタイ15:8~9には「     」と書かれています。これは、イザヤ29:13からの引用です。ユダヤ人は、口先では神を敬っていました。しかし、実際の生活ではそうではなかったのです。先週の礼拝でも触れましたように、自ら積極的に神を愛することをしなかったのです。ただ命じられていることを守るというだけだったのです。それは何を意味しているのかと言いますと、「自分にとって神はその程度の価値しかない」ということです。口にこそ出しませんが、行いによってそのことを告白しているのです。行いというのは口にこそ出ませんが、その人の告白そのものでもあります。例えば、「愛してるよ」と言ってくれるのに、「実際は自分の好きなことしかせず、私のことなど全く気にしてくれない」としたらどうでしょうか。「愛してるよ」ということばを信じられるでしょうか。もう「口先だけ」と思ってしまうのではないでしょうか。
 それと似たことが聖書に書かれています。マタイ26:7~9に「     」と書かれています。この箇所は、イエス・キリストが十字架に架かられる前に、一人の女性がイエス・キリストに高価な香油を注いだ行為に対して、「何のために、こんな無駄なことをするのか」と言ったのです。このことばは何を表しているでしょうか。それは「イエス・キリストは、この香油ほどの価値はない」という告白でもあるのです。以前にも話しましたが、今年の夏に召されました○○先生のメッセージの中で、「新品の家具や家電を買った人が、家にある中古の家具や家電を教会に持って来られる方がいる。そして、『まだ使えるので教会で使ってください』と言って献げる人がいる。そして、牧師は『ありがとうございます』と言って受け取る。これはとんでもないことだ。教会は倉庫ではない。教会に献げるということは神に献げることである。傷物を神に献げることは神が嫌われていることでもある。献げるなら、買った新品の方を献げるべきである。献げる方も問題だが、それを感謝して受け取る方も問題だ。」と話されたのです。私はそれを聞いて「その通りだな」と思わされました。何故なら、中古品を献げるなら、「私にとって神は中古品で構わない価値しかない」という告白になるからです。
 神は私たちのために、一人子であられるイエス・キリストをこの世に送り、十字架へと導いてくださいました。イエス・キリストも父なる神を敬っておられるが故に、自ら進んで私たちのために十字架に架かって身代わりとなって神の審きを受けてくださいました。その行為は何を表しているでしょうか。それは、神にとって私たちはそれほどの価値のある存在であるということの告白です。クリスマスは、そのイエス・キリストがお生まれになられたことを喜び祝うときです。「神にとって私はそれほどの価値のある存在である」ということを、行いをもって表してくださったときなのです。では、私たちはどうでしょうか。あなたにとって神はどれほどの価値でしょうか。このクリスマスに備えるアドベントのとき、自分の行いをもって神を表していきたいものです。

2)父なる神を知っておられる方
 第2に、イエス・キリストは父なる神を知っておられる方です。51節でイエス・キリストは、「だれでも…見ることがありません。」と話されました。それに対して、イエス・キリストを信じたユダヤ人らは反論しました。それは肉体的な死のことと理解していたからです。神を知り信じていた偉大なアブラハムや預言者らは死にました。そして、「『わたしのことばを守るものは、いつまでも決して死を見ることがない』という、あなたは一体誰なのか」と尋ねたのです。でも、ここでイエス・キリストは霊的な死のことを話されているのです。イエス・キリストは、55節の最初の方で「あなたがたは…知っています。」と話されました。「知らない」ということばと「知っている」ということばは、日本語では同じことばですがギリシャ語では違うことばが使われています。
 「知らない」ということばの「知る」は、ギリシャ語で「ギノスコー」ということばです。これは「経験を通して知る」という意味です。新約聖書に書かれています「知る」ということばの多くは、このことばが使われています。アブラハムや預言者らも、自分の経験を通して神を知ったのです。それは神のことばに従うことによって、神のみことばの確かさを知り、神のすばらしさを経験を通して知ったのです。しかしながら、当時のユダヤ人らは神のみことばに従っていませんでしたから、その神を知ることができなかったのです。私たちキリスト者というのは、その神を知っている者です。でもそれは、アブラハムや預言者らと同じ知り方しかできません。神のみことばを信じ生きることによって、自分の経験を通して神がどのような方であるかを知ります。
 しかし、イエス・キリストの「知る」というのはそうではありません。イエス・キリストが「わたしは知っています」と話された「知る」というのは、直接見ることを意味していることばです。それは経験する前から知っているということです。イエス・キリストは、最初から父なる神がどのような方であるかを知っておられるのです。私たちの中で、自分のことを知っているのは神を除いては自分しかいません。親であっても、自分の子どもの全てを知っているわけではありません。子どもが何を考え、何を望んでいるのかを全て知っているわけではありません。育児によってその経験を通して、「この子はこういう性格である」というのを知っていくのではないでしょうか。でも、イエス・キリストは違います。経験される前から神を知っておられるのです。それはイエス・キリストが神ご自身であられることを意味しています。イエス・キリストは神ご自身なのです。
 その神ご自身であられるイエス・キリストは、この世にお生まれになられました。それは何故でしょうか。もう御存知のように、私たちを愛してくださっているからです。私たちが神の審きを受けることがないように、ご自分が私たちの罪の身代わりとなって神の審きを受けて死んでくださるために、イエス・キリストはこの世にお生まれになってくださったのです。まさしくクリスマスは、神がどれほど私たちを愛してくださっているかを見える形として表してくださったものなのです。そのことを覚えつつ、クリスマスに備えていきたいものです。

3)永遠なる方
 第3に、イエス・キリストは永遠なる方です。イエス・キリストは、この当時は30歳過ぎという年齢であると言われています。ユダヤ人らは、57節で「     」と言いました。何故「50歳にもなっていないのに」と言ったかと言いますと、聖所で働くことのできる年齢が50歳までだからです。イエス・キリストが30歳過ぎの年齢というのは、聖なる奉仕が終わる年齢にもなっていません。現代で言えば、「定年になる年齢にも至っていない」ということです。ですから、ユダヤ人から言えば「まだ神に仕える年齢であるにも拘らず『アブラハムを見た』とは滑稽な話だ」とバカにしているのです。それに対して、イエス・キリストは58節で「アブラハムが…なのです。」と答えられました。この「わたしはある」ということばは、21~30節の時にも話しましたが出エジプト記3:14と同じ意味のことばです。すなわち、イエス・キリストはご自分のことを「神である」と宣言されているのです。
 余談になりますが、このとき◇◇先生から「△△さんの名前はここから取られたのですか」と尋ねられました。私は「そうです」と答えました。「存在する」とも訳すことのできることばで、「何かができるから価値があるのではなく、存在するだけで価値がある」という思いで「△△」という名前をつけたわけです。イエス・キリストは「わたしはある」と言われており、「わたしはあった」とは言われていないのです。これが意味することは、イエス・キリストは時間など関係なく存在され続けていることも表しています。言うならば、時間を超越している方であることを表しているのです。時間を超越しているとは、永遠に存在し続ける者と言われているのです。コロサイ1:15~17には「     」と書かれています。イエス・キリストは、全ての造られたものよりも先に生まれた方なのです。決して、造られた方ではないのです。存在されていた方なのです。この世の全てのものは造られたものです。しかし、イエス・キリストは造られた方ではなく、存在されていた方なのです。そして、この世界の全てはイエス・キリストによって造られたのです。世界を造られたのは神しかおられませんし、時間を超越し永遠に存在されるのも神しかおられません。御使いも神によって造られたものです。ここでイエス・キリストは、ご自分が永遠なる神であられることを明らかにされたのです。だから、ユダヤ人はイエス・キリストに石を投げて殺そうとしたのです。
 私たちは「時間」という空間の中に生かされています。しかし、イエス・キリストは時間に囚われない永遠なるお方です。イエス・キリストが永遠なる方であるということは、今も生きておられ働いておられるということです。そして、ローマ8:34に「     」と書かれていますように、私たちのためにとりなしてくださっているのです。「とりなす」ということばは、教会以外ではあまり使われないことばかもしれません。「とりなす」ということばよりも、「仲裁する」ということばが用いられているのではないでしょうか。イエス・キリストは神と私たちの間に立って、より良い関係を続けるために今も働いてくださっているのです。そのことを思いますと、クリスマスは過去の話しではないことを知らされるのではないでしょうか。何故クリスマスが今の時代も祝われるのかと言いますと、今もイエス・キリストは私たちのために働いてくださっているからです。そのことを覚えつつ、クリスマスに備えていきたいと願わされます。

結)
 最初にも話しましたが、今日からクリスマスに備えるアドベントに入りました。イエス・キリストは行動をもって、ご自身の愛を私たちに示してくださいました。そして、今も生きておられ私たちのために父なる神にとりなしてくださっています。私たちは、その大きなイエス・キリストの愛の中に生かされています。そのことを覚えつつクリスマスに備えていくと同時に、私たちも行動をもってイエス・キリストの愛に応えていきたいと願わされます。そして、その神をほめたたえ、イエス・キリストの誕生を祝っていきましょう。


 

ヨハネ8:39~47「神から出た者」 19.11.24.

序)
今朝の箇所はイエス・キリストを信じたユダヤ人との論争の続きが書かれています。この箇所は何度読んでも、「イエス・キリストはすごいことを話される方だな」と思わされます。何故なら、イエス・キリストを信じたユダヤ人に「あなたがたはわたしを殺そうとしています。」とか「あなたがたは、悪魔である父から出た者である」と話されているからです。イエス・キリストは福音を伝えるためにこの世に来られました。そして、そのイエス・キリストを信じた人に対して、このようなことばを出されたのです。すると、59節に「すると彼らは…石を取った。」と書かれています。このようなことを言われて、イエス・キリストを信じたユダヤ人たちはイエス・キリストに石を投げようとしたのです。要はイエス・キリストを殺そうとし、イエス・キリストから離れて行ったのです。これと似たことが以前にもありましたが覚えておられるでしょうか。6:60に「     」と書かれています。そして、66節には「こういうわけで…離れ去り」と書かれています。福音宣教を始め信じる人が多く起こされたのに、余計なことを話して信じた人を散らしてしまった。しかも2度もです。「1度の失敗で学べよ」と思わされたりもします。ですが、6章の時も触れましたが、このときは失敗ではありませんでした。何故なら、12弟子たちは自分たちの信仰を告白するに至ったからです。しかし、今朝と来週の箇所は違います。12弟子のことは全く触れられていません。「何故、このようなことを話されたのか」というのを考えさせられます。それは47節の「神から出た者は、神のことばに聞き従います。」ということが焦点ではないでしょうか。前振りが長くなりましたが、今朝は「神から出た者」について共に教えられたいと願っています。

1)神を愛すること
 第1に、「神から出た者」とは神を愛することです。イエス・キリストを信じたユダヤ人は、「私たちの父はアブラハムです。」と答えています。この「私たちの父はアブラハムです。」というのは系図として「先祖はアブラハムである」ということと同時に、「霊的な先祖もアブラハムである」ということです。それはどういうことかと言いますと、神はアブラハムに割礼を受けることを命じられました。そして、アブラハムとイシュマエルはその日に割礼を受け、アブラハムと共に生活する男性も全て割礼を受けました。そこからユダヤ人の割礼は始まったのです。ユダヤ人は、「割礼を受けることは神の教えであり命令であるから、それを守り行うことは大切なこと」として守ってきました。そして、「神の教えであり命令である律法を守り行うことは大切なこと」として、律法を守り行ってきたのです。ですから、ユダヤ人にとって神から出た者というのは、「神の教えであり命令である律法を守り行う者」と捉えてきたのです。神の教えであり律法を守り行うことは間違いではなく正しいことです。イエス・キリストは、決して「それが間違いである」とは話されてはいません。
 しかし、同時に「それだけでもない」ということも話されています。むしろ、「それよりも大切なことがある」と話されているのです。律法を守り行うというのは、神から与えられたものを守り行うことです。そこには、それ以上のことを行うという自発的行為は見られません。「ただ決められたことを行う」という受け身的なものしかありません。イエス・キリストは、神を愛することを出発点とするのを勧めておられるのです。「決められたことを行う」という、ある意味での儀式的な行為は愛の出発点ではありません。それは自分を守ることが出発点となっています。「この儀式を行うことによって私は神に義と認められる」というのは、自己中心的な考え方です。何故なら、自分のことを優先して考えているからです。イエス・キリストは、このような考え方を否定されてはいません。ある面では大切なことです。でも、さらに大切なことがあります。それは神を愛することです。
 では、「神を愛する」とはどういうことでしょうか。それは「神のために私は何をさせていただくことができるのか」を考えることです。すなわち、神に仕えることです。神への奉仕は人によって様々です。ですから、違いがあって良いのです。全ての人が同じことをする必要はありません。様々な奉仕によって、教会は建て上げられているのです。Ⅰコリント1:4~11には賜物について書かれています。各々に違う賜物が与えられているのです。でもそれらは、「皆の益となるために」と7節に書かれています。その人だけに留まるのではなく皆の益となるのです。神を信じている者ですが不完全な者でもあります。弱さを持っています。賜物の違いによって、できる量の違いがあります。または、信仰の面において結ぶ量の違いもあります。イエス・キリストはそのようなことを問題にされる方ではありません。
 マルコ4:20に「    」と書かれています。これは、みことばを聞いて実行した人の場合のことです。何が違うかと言いますと実を結ぶ量が違います。ある人は30倍の実を結びますが、別の人は60倍の実を結び、さらに別の人は100倍の実を結ぶのです。100倍を100点としたら30倍は30点です。学校のテストですと赤点であり落第点数です。イエス・キリストは「たった30個で何してんの!あの人見てみ100個結んでんねんで!」などと言って、30倍の実を結んだ人を責めてはおられません。30倍の実を結んだことを認め評価されているのです。30倍の実を結んだ人は、100倍の実を結んだ人と比べますと30%しかできないかもしれません。しかし、神を愛することを出発点としての30%の結果であるならば、イエス・キリストは受け入れ認めてくださるのです。何度も話していますが、イエス・キリストは結果を重視されるのではなく、「皆の益のために」と自分を犠牲にしてまでも行うことを評価してくださるのです。そして、その「皆の益のために」と自分を犠牲にして行うことが、神を愛することではないでしょうか。

2)みことばに耳を傾ける
 第2に、「神から出た者」とはみことばに耳を傾けることです。イエス・キリストは、「ユダヤ人は悪魔から出た者」と話されています。すごいことを言われますね。イエス・キリストを信じたユダヤ人に、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって」と言われるのですから。もし、牧師からこのようなことを言われたら皆さんはどうされるでしょうか。私だったら「何でそんなこと言われなあかんねん!もうこんな教会行かへん」と言って去ってしまうと思います。「もうちょっと違う言い方があったでしょ!」と思わされます。何故そのような言い方をされたのかと言いますと、彼らはみことばを自分の都合の悪いことや常識では考えられないことなどは受け入れなかったからです。要は自己中心的な聞き方をしていたからです。自己中心的な聞き方をしてしまいますと、自分では気づきませんが都合の悪いものや自分の常識から外れているものを排除してしまいます。真理に対して耳を閉ざしてしまうのです。そのことが「悪魔から出たことである」と話されているのです。何故なら、悪魔には真理がないからです。悪魔であるサタンの働きは、神から人を引き離すことです。真理から引き離すことがサタンの働きです。私たちはサタンをどのように理解しているでしょうか。ただ漠然的に、「悪を行ってしまう影響力に過ぎない」と理解されているでしょうか。「人の心の中に働くサタンは、ただ人格的に表現されているに過ぎない」と考えているなら、それは大きな間違いです。サタンは人格的存在者です。神と同じように人格を持っているのです。
 私たちは、毎週の礼拝の中で主の祈りを唱えています。最後に「悪からお救いください」と唱えています。この「悪」とは「悪い者」という意味であり、抽象的な悪を意味しているのではありません。「悪い者という、人格を持ち現実に存在するサタンの働きから救ってください」という祈りです。サタンはいつも私たちに働きかけています。真理に耳を傾けさせないようにと働いています。ルカ22:31に「     」と書かれています。これはイエス・キリストを信じる者であっても、サタンの働きによって真理に耳を閉ざしてしまうことがあるのを表しています。しかし、そうであったとしても32節に書かれていますように、イエス・キリストがとりなしの祈りをしてくださり、再び真理に耳を傾けられるようにしてくださいます。このことから、主の祈りの「悪からお救いください」とは、サタンの誘惑に陥って罪を犯してしまうことから守られるだけではないことを知らされます。神のことばに耳を傾けられるようにというのも含まれているのを知らされるのではないでしょうか。
 では、みことばに耳を傾けるとはどういうことでしょうか。それは何度も話していますが、神のことばを神のことばとして聞くということです。今神が私に何を語られるのかを意識しつつ聞くということです。それは礼拝のメッセージやディボーションなどを通してです。時には耳が痛いこともあるでしょう。でも、それは悪いことではありません。何故なら、それが人間であり私たちだからです。私はバプテスマクラスの時に話すことですが、人は受胎してお母さんのお腹の中で成長し誕生します。でも、誕生して終わりではありません。そこからさらに成長します。信仰も同じです。イエス・キリストを信じるまでは「求道者」と呼ばれます。これはお母さんのお腹の中にいるときです。そして、イエス・キリストを信じたときが赤ちゃんとして誕生するときです。人は赤ちゃんとして誕生したら終わりではありません。そこから人として成長します。信仰もそうです。イエス・キリストを信じたときがキリスト者としての誕生であり、そこからキリスト者として成長していくのです。ですから以前の礼拝でも話しましたように、信じることは信仰のゴールではなくスタートなのです。人は何によって成長するでしょうか。それは食物を得ることと家族との交わりによってです。それと同じように、信じバプテスマを受けたら終わりではなく、霊的な食物である神のみことばに耳を傾けつつ、霊的な交わりの場であり神の家族である教会での交わりを通して、キリスト者は霊的に成長していくのです。

結)
 神から出た者とは、イエス・キリストを信じることによって生まれ変えられた人のことです。そして、神を愛し神のみことばに耳を傾け続ける人が神から出た者なのです。主日礼拝に集い、神の祈り、神のみことばである聖書を読む。これらは信仰生活において大切なことです。でも、これらをすることによって、その人が神から出た者であることを証明するものではありません。どれだけ信仰生活が長くても、みことばを日々の生活の中で生かさないなら、いつまでも幼い信仰のままです。へブル5:12に「     」と書かれています。この「年数」というのが何年なのかは分かりません。ここに集われている方々の多くは、20年以上の信仰生活を過ごされているのではないでしょうか。それは霊的な大人でもあります。来週からクリスマスに備えるアドベントに入ります。今年のクリスマスは、「神から出た者」として、「霊的な大人」として、来られた方々に積極的に話しかけ導くクリスマス集会となるように祈り備えていきましょう。

ヨハネ8:21~30「決心のとき」 19.11.03.

序)
 先週はJBCの交換講壇の日でした。この教会には伊勢教会の谷口先生がみことばのご用をしてくださいました。私は京都市より少し大阪寄りに位置します向日市という所に建てられています東向日キリスト教会での礼拝奉仕をさせていただきました。その教会も殆どが女性の方々で、男性の教会員は湯澤先生を入れて3名ということです。当日は「秋山兄」という方一人でした。教会員の家族は未信者ですが、何人かの方々は車を運転する前に祈られているようです。すると、家族に何かあるとクリスチャンであるお母さんに「祈ってほしい」と言われるようです。私は「それで良いんじゃないですか。神様を身近に感じられるようにすれば」と答えました。家族への伝道は時間がかかります。ですが、信じる決心の日が来ることを願い証ししていきたいと思わされたときでした。今朝のタイトルは「決心のとき」というタイトルです。今朝は、決心について共に教えられたいと願っています。
 イエス・キリストは、21節で「わたしは去って行きます。」と話されました。これはイエス・キリストが十字架に架かられ、3日目に甦られて天に挙げられることを指しています。そうなりますと、ユダヤ人はイエス・キリストを捜しても見つけることができませんから、「自分の罪の中で死ぬ」と話されたのです。これはどういうことでしょうか。イエス・キリストが天に挙げられた後はイエス・キリストを見出すことはできませんから、もう罪の赦しは受けられなくなるということでしょうか。罪が赦され天の御国に入れられるのは、イエス・キリストがこの世に生きておられる時だけなのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストが天に挙げられた後も、イエス・キリストを見出し罪が赦された人はたくさんおられます。ここにいます私たちもその一人です。使徒の働きから今日に至るまで、大勢の人がイエス・キリストを信じ罪が赦され天に挙げられました。
 では、21節でイエス・キリストが話された意味は何でしょうか。「私を捜す」とは、自分が負っている重荷から解放されたいと願いつつ、福音に耳を傾けるということです。ですから、「あなたがたはわたしを捜しますが」とは、「あなたがたは自分が負っている重荷から解放されたいと願いつつ福音に耳を傾けますが」ということです。ここで大切なのは「ますが」ということばです。福音に耳を傾けているのです。福音に耳を傾けていますが、その福音を信じることをしないのです。何故でしょうか。「今抱えている問題から解放されたい」と願っているのに、何故福音を信じることをしないのでしょうか。その最大の理由は、自分の考えや思いを優先しているからではないでしょうか。その自分の考えや思いというのは人によって違うでしょうし、1つだけではないかもしれません。
例えば、聖書は「イエス・キリストを信じるだけで、その人の罪が赦される」と語っています。ところが、「罪の赦しや苦難からの解放は信じるだけではあり得ない」と捉えているなら、福音を聞いても信じることはしないでしょう。何故なら、「この問題は自分の問題なのだから、自分が何かをしなければならない」と思っているからです。そして、その考えから抜け出すことができないのです。または、不安や恐れの方が大き過ぎて決断できない人もおられるでしょう。何故なら、自分の一生の問題だからです。「自分の一生をイエス・キリストに賭けて良いのか」という自問自答をされる方もおられます。そのような思いは分かります。ただ、それよりも大切なことは「聖書は何を語り、何を約束されているか」というのを聞き分けることです。聖書は、「イエス・キリストの十字架を信じるならあなたの罪は赦される」と約束しており、「神がいつも共にいて、あなたの歩みを支え導かれる」と約束しています。私たちは様々な情報が入りいろいろなことを考えます。そのような耳に入る情報を聞き分け、聖書の約束に耳を傾けることは大切なことです。
それは礼拝におけるメッセージについても同じことが言えます。「こういうメッセージを聞きたい」と願いつつ礼拝に集うのではなく、「今日、神は私に何を語ってくださるのか」を祈りつつ礼拝に集うことは大切なことです。同じメッセージを聞きながら、その受け取り方は人によって異なります。ある人は「このようなことを教えられた」と言われ、別の方は全く違うことに気づかされるということがあります。それはそれで良いのです。神は、その人に必要なことを語り示してくださいます。メッセージにおいて大切なことは、「神は私に何を語ろうとされているのか」という姿勢です。ところが、「こういうメッセージを聞きたい」と願いつつ礼拝に集いますと、神のことばを神のことばとして聞くことができなくなってしまいます。アモス8:11に「     」と書かれています。11節の最後に「主のことばを聞くことの飢饉である。」と書かれています。これは「主のことばを主のことばとして聞けなくなる」ということです。主のことばよりも自分の思いを中心に置いてしまいますと、主のことばを主のことばとして聞けなくなってしまうのです。礼拝において大切なのは、「神が私に何を語ろうとされているのか」という姿勢です。
 イエス・キリストは、21節の後半で「わたしが行くところに…できません。」と話されました。そのことばに対して、ユダヤ人たちは「自殺するつもりなのか」と言い、それに対してイエス・キリストは23~24節で「     」と話されました。「下から」というのは、この世のことです。人はこの世に属する者であり、この世的な考え方や見方をしてしまう存在です。それは自己中心的な考え方や見方です。「そこに留まる限り、その罪の中で死んでしまう」と話されています。それは「間違った捉え方や見方から抜け出せられない」ということです。それに対して、イエス・キリストは「わたしは上から来た者です」と話されています。これは「下から」というこの世に対して、「上から」という天を表しています。すなわち、それはイエス・キリストが神であられることを話されているのです。24節で「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ」と話されています。「わたしはある」ということばは58節でも使われていますが、神がモーセを召したとき「わたしはある」と話されました。そのことが出エジプト記3:14に書かれています。そのことばと同じです。イエス・キリストは、ここでご自身が神であることを明らかにされたのです。この「わたしが『わたしはある』であることを信じなければ」というのは、「わたしが神であることを信じなければ」ということです。ここでイエス・キリストは、ユダヤ人に自分を信じることを求めておられるのです。そして、それはユダヤ人だけでなく私たちにも「あなたはわたしを信じますか」と信じる決心を求めておられるのです。イエス・キリストは、「いつでも信じることはできる」と考えている人に対して、「いいえ、そうではないよ」と注意を与えておられるのです。それでは遅い時があるのです。Ⅱコリント6:2に「     」と書かれていますし、伝道者の書12:1にも「     」と書かれています。「あなたの若い日」とはいつでしょうか。それは今日です。何故なら、過去は過ぎ去ったものであり戻ることはできません。私の若い日とは今日なのです。そして、Ⅱコリント6:2の最後にも書かれていますように、今日が恵みの時であり救いの日です。
 「心の中で信じていればそれで良く、公の信仰告白をしなくても良いのではないか」と考える人がいなくもありません。私がそうだったからです。公に信仰告白をしますと「キリスト者としての生き方」とか、教会生活に対する堅苦しさなどがあります。「聖書の教えに従わなければなりませんし、毎週礼拝に集わなければならない」と思っていました。そのようなことに対する抵抗と同時に、「自分がキリスト者として続くのか」という不安もありました。でも、神はそのような私の心を変えてくださいました。それは何によってかと言いますと学びによってです。もう40年以上も前の話しですが、今でもはっきりと覚えています。今はミックスユースキャンプや大学・社会人キャンプが行われていますが、昔は三重県の明和町という町の大淀海岸にJBCのキャンプ場がありました。そこで毎年「ともしびキャンプ」というのが行われていました。対象は高校生以上の青年です。キャンプが終わって教会の高校生会に行きますと、「松浦君は牧師の部屋に行って」と言われました。当時は津新町の教会でしたから、6畳位のプレハブの小屋が牧師室でした。そこに行きますと2人の女性がいました。そこで学びが始まったのです。何とバプテスマクラスだったのです。1人はバプテスマを受ける決意をされていました。今は同盟教団の名古屋めぐみ教会の会員です。もう1人は「〇〇さん」と言いまして、今は松阪教会の会員の方です。バプテスマ式が12月25日に予定されていました。1人の方は学びを終えてすぐに決心されましたが、私と〇〇さんはなかなか決心をしませんでした。すると、バプテスマ式の2~3週間前に〇〇姉が決心をされました。当時の私は「あっ落ちた」と思いました。「俺は絶対に落ちへんぞ」と思っていました。ですが、バプテスマ式の1週間前に落ちたのです。受ける決心をしたのです。何故受ける決心をしたのかと言いますと、マタイ28:19~20のみことばによってです。当時は新改訳聖書の第1版でしたから、今の聖書とは少し訳が違います。牧師は「日本語の聖書によると」と前置きをされて、「まず『弟子になる』という信じる決心、そしてバプテスマを受け、それから成長すれば良いのだ」と話されたのです。今の聖書では「弟子としなさい。父、子、聖霊」と書かれていますが、以前の聖書には「弟子としなさい。そして、父、子、聖霊」と訳されています。さらに、「バプテスマを受け、わたしがあなたがたに」と書かれていますが、当時の訳は「バプテスマを受け、また、わたしがあなたがたに」と訳されていました。訳としては今の方が正しいのです。何故なら、これら3つは並行して進んでいるからです。ですが、昔の訳ですと順番のようにも受け取れるのです。だから、牧師は「日本語の聖書によると」と前置きをされたのです。要は、私はバプテスマを受けることがゴールと思っていたのですが、バプテスマを受けるのはゴールではなくスタートであるということを牧師は伝えたかったのです。「今は無理でも、少しずつ成長すれば良いのだ」ということで受ける決心をしたのです。ようは落ちたのです。でも、不思議なことです。バプテスマを受けることを拒んでいた者がこの働きを30数年間続けられ、今も牧師として立てられているのですから。神の導き・神の働きは私たちの想像を超えたものであることを改めて知らされます。イエス・キリストとはそのようなお方なのです。私たちが抱えている不安や課題を御存知なのです。そして、それを解決してくださる方なのです。
以前にも話しましたが、今祈祷会ではヨシュア記を学んでいます。そのヨシュア記は、イスラエルの民にとって新しい環境での生活の地です。今までは遊牧生活をしていたのですが、これからは定着した地での生活です。また、今まではマナが与えられていたのですが、これからはマナが与えられず自分たちの手で食物を得ていかなければなりません。それだけではなく、先住民族との文化の違いもあります。そのようなことの霊的な戦いもあります。これは新しい歩みをしようとする私たちキリスト者への歩みと重なります。そのときに大切なものは何かと言いますと、みことによる約束です。ヨシュア記は、申命記で語られたモーセのメッセージを通して、神の約束の確かさを信じ歩み続けたイスラエルの民の生き方が描かれています。それと同じように、私たちもみことばによる約束の確かさを信じ歩み続けることを知らされる書物がヨシュア記であるということを学びました。環境が変わる・状況が変わりますと、誰もが不安を抱きます。それは当然のことです。でも、そのような中で主のみことばの約束を信じていく決心が私たちに求められているのではないでしょうか。

結)
イエス・キリストは、「わたしを理解しなさい」とは話されてはいません。もしイエス・キリストを理解しようとするなら誰一人できません。何故なら、イエス・キリストは私たちの理解を超えたお方だからです。イエス・キリストは「わたしを信じなさい」ということを求めておられるのです。いつもあなたと共にいて、決してあなたを見捨てず守るという約束を信じる決心を求めておられるのです。いつ決心するのでしょうか。今でしょ!古い流行語を使ってしまいましたが、みことばによる約束を信じる決心を今日したいものです。今日すれば明日からはしなくても良いのでしょうか。そうではなく、日々決心する歩みが続けられるように祈っていきましょう

ヨハネ8:12~20「イエスとは」 19.10.13.

序)
 愛知県においては、昨日台風19号が通り過ぎました。被害に遭われた方々に、主の慰めと励ましが注がれることを祈ります。私もバイト先の山彦は午前だけの営業となりました。店長から「土曜日の午前11時に出勤してレジを締めてほしい」と言われました。と言いますのも、私以外に精算できる人間が2人いますが、1人は遠いので2人で閉店作業をすることとなりました。午前に教会に来て仕事をして、初めて教会から山彦に出勤ということになりました。昼食後、午後には教会に来ていつも通りの仕事をしました。教会も大きな被害はありませんでした。主に守られたことを感謝しています。今朝は、イエス・キリストとはどのような方であるかを共に教えられたいと願っています。

1)世の光
 第1に、イエス・キリストは世の光です。以前にも話しましたが、真っ暗な所に居ますと方向感覚を失ってしまいます。そして、歩くことができなくなります。何故なら、足許も分からないからです。懐中電灯をつけて初めて歩くことができます。ですから、何度も話していますが光は希望を表しています。イエス・キリストは「わたしは世の光です。」と話されています。「世」について調べてみますと、辞書などには「限られた期間・区間」と書かれています。神は世界を造られました。この神によって造られた世界は永遠ではなく限られたものです。私たちは、その神が造られた限られた期間である世界に生かされています。ですから、「わたしは世の光です」と言われたイエス・キリストは、私たちが生かされている世界の光であるということです。神は世界を造られたとき、時間も同時に造られました。神が世界を造られるまでは、時間というものはなかったのです。ですから、神が世界の光であるというのは、ただ空間的な光だけでなく時間的な光でもあるということです。「時間的な光とはどういうことか」と言いますと、私たちは時間の中にも生かされています。私たちはこの世に誕生し、いつかはこの世を全うします。それは時間の中に生きているからです。そして、それを「人生」と言います。イエス・キリストが「時間的な光でもある」ということは、「人生の光でもある」ということです。
 その私たちの人生には様々な事柄が生じます。それは自分にとって嬉しい時や楽しい時だけでなく、辛い時や悲しい時もあります。特につらい時や悲しい時は、人生の暗闇の中を歩んでいるように思えたりもします。しかし、そのような中にあってもイエス・キリストは光を照らし、「わたしを見つめて歩みなさい」と言ってくださっているのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストが死から甦られた方だからです。もう何度も話していますが、イエス・キリストを信じていない人にとって、死ほど絶望的なものはありません。多くの人は「人は死んだらお終いだ」と思い、死に対して不安や恐れを抱いておられます。しかし、イエス・キリストは、その死から甦られた方です。イエス・キリストを信じる私たちに、「人は死んでお終いではなく、死んだ後も甦ることができる」ということを示してくださいました。死んだ後にも希望があることを明らかにしてくださいました。そうであるならば、私たちが生きている中で絶望的に思えてしまう事柄も、決して絶望ではなく希望があるということです。
 ですから、「イエス・キリストが世の光である」ということは、人生の光であるということです。そして、「イエス・キリストが人生の光である」ということは、私たちがこの世で生きている限り希望を与えて続けてくださるということです。イエス・キリストとはそのような方です。先週のディボーションでイザヤ41:8~13を読みました。この箇所は私の好きなみことばの1つでもありますが、この箇所が好きな方は多くおられることと思います。恐れたり尻込みする必要がないのは、神がともにいてくださるからであり、その神が助けてくださる方だからです。イエス・キリストもマタイ28:20の最後で、「見よ…ともにいます。」と約束してくださいました。「世の終わりまで」とは、「この世界の終わりまで」と理解できると同時に、「あなたの人生の終わりまで」と捉えることもできます。イエス・キリストは、私たちがこの世を全うするまで共にいて助けてくださる方です。

2)赦す方
第2に、イエス・キリストは罪を赦してくださる方です。15節に「     」と書かれています。欄外を見ますと「人間的な判断で」と書かれています。「人間的な判断で」というのは、表面的なものを見て判断するということです。それは7:24で見ましたが偏った見方による判断です。その時も話しましたが、私たちは表面的なものや偏った見方で判断してしまいやすくなります。それが今朝の箇所の15節の「肉によって」ということです。しかし、イエス・キリストはそうではなく様々な角度から私たちを見て評価してくださいます。
先週見ました姦淫の現場で捕らえられた女性についてもそうです。イエス・キリストは、姦淫の現場で捕らえられた女性を審くことをされませんでした。彼女は神から守るようにとして与えられた律法を知っていながら破ったのです。しかし、イエス・キリストは彼女の罪を責めることをされませんでした。何故でしょうか。イエス・キリストは、外見や過去の歩みを問題にされる方ではないからです。もしそのようなものを問題にされるなら、赦される人はだれ一人いないでしょう。今の私たちも赦されることはありませんでした。しかし、私たちの過去を重視されなかったから、私たちはイエス・キリストによって罪が赦されたのです。そしてイエス・キリストが重視されているのは、その人の過去ではなく将来です。「今までどのような歩みをしてきたか」ではなく、「これからどのような歩みをするのか」というところに目を留めてくださっているのです。すなわち、その人の今後に期待されているのです。
私たちも他人を赦すときはそうではないでしょうか。何故その人を赦すことができるのかと言いますと、その人の今後に期待しているからではないでしょうか。「もうしないだろう」とか「改めるだろう」という期待があるから赦すことができるのではないでしょうか。旧約聖書の出エジプト記や民数記、また列王記などを見てもそうです。イスラエルの民は何度も何度も神に文句を言ったり、神が求めておられることに従いませんでした。でも、神は審くことをされず接し続けられました。それは今後のイスラエルの民に期待されていたからではないでしょうか。でも、期待できなくなったとき神は北イスラエル王国を滅ぼされ、南ユダ王国を滅ぼされました。赦すとか赦す機会を与えておられるということは、その人の今後に期待しているということでもあります。イエス・キリストが「さばかない」と言われているということは、イエス・キリストは私たちに期待されているということです。あなたはイエス・キリストに期待されている存在なのです。

3)神を明らかにされる方
 第3に、イエス・キリストは神を明らかにしてくださる方です。パリサイ人は、イエス・キリストに「あなたの父は何処にいるのですか。」と尋ねたことが19節に書かれています。その質問に対してイエス・キリストは「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。」と答えられました。この「父」とは神のことで、パリサイ人が信じている神のことです。そして、パリサイ人とはユダヤ教の指導的立場の人たちです。そのような彼らに、イエス・キリストは「あなたがたは知らない」と答えられたのです。何故そのように答えられたのかと言いますと、もう何度も語っていますが彼らは偏った見方で神を理解していたからです。偏った見方で神を理解しますと、神が与えてくださった律法についても偏った捉え方になってしまいます。彼らの偏った神理解というのは、「神は律法を守り行う者を愛してくださる」というものです。だから、律法を守り行うことを強調しているのです。
 旧約聖書には、神であられる主だけを神として拝み続けるために、その神が与えられた律法を守り行うことが命じられています。そして、その神以外のものを神として拝み続けたがために、神は懲らしめられましたし、最後にはイスラエル王国は滅びました。ユダヤ教指導者たちは、その神のことばや行為が引っかかっていたのです。そのためにユダヤ教指導者たちは「神はそのような方である」と評価し、律法を守り行うことを強調するようになったのです。ある一面だけを見ての神評価をしていたのです。そのように思いますと、それは神に対してだけでなく人に対しても同じであるということに気づかされるのではないでしょうか。ある人の発言や行為が引っかかってしまう。そして、それらでその人を評価してしまうということがです。本当はいろいろな角度でその人を見て、その人を評価しなければならないのに、そのようなことをしないで一面だけで評価してしまうことがあるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、そのような一面だけを見て神を評価する人たちのために、神がどのような方であるかを明らかにするためにこの世に来られたのです。確かに、神は律法を守り行うことを求めておられます。しかし、それだけではありません。その律法を守り行うことのできない人をも愛し受け入れてくださっています。神とはそのような方であることを明らかにするために、イエス・キリストは身体の不自由な人を癒したり、罪人と一緒に過ごされたのです。彼らは様々な事情で安息日に会堂に行くこともできませんでした。そのために「律法を守り行うことのできない罪人である」と思っていました。しかし、そのような人たちに対してイエス・キリストは、「そのようなあなたを神は見捨てず愛して受け入れてくださっている」ということを示されたのです。身体を癒したり、一緒に過ごされることによって、「神はあなたと共にいてくださっている」ということを分かるように行動されたのです。イエス・キリストは、ご自身の行いを通して神とはどのような方であるかを明らかにされたのです。
 そのことが最も表されているのがイエス・キリストの十字架です。神が求めておられることを守り行うことのできない私。そのような私は神の目から見ると罪人です。神に審かれて当然の者です。しかし、そのような私のためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださいました。そのイエス・キリストは、神が遣わしてくださったのです。ということは、神は今の私のためにそこまでしてくださったということです。それは神が今の私を愛し受け入れてくださっているということです。私たちは、そのイエス・キリストの十字架によって神がどのような方であるかを知ることができたのです。イエス・キリストは神がどのような方であるかを明らかにしてくださる方です。

結)
 イエス・キリストは、私たちの人生の光なる方です。私たちがこの世を全うするまで希望を与え続けてくださる方です。そして、その私たちに期待してくださる方です。だから、罪を赦してくださったのです。さらに、神は今の私を愛し受け入れてくださる方であることを明らかにしてくださいました。イエス・キリストとはそのような方です。そのイエス・キリストがいつも共にいて導いてくださっていることに感謝しつつ歩まされていきましょう


ヨハネ8:1~11「心を変えられる方」 19.10.06.

序)
今朝の箇所ですが本当は7:53からが正しいのですが、その箇所は省かせていただきました。しかしながら、7:53の欄外を見ますと「古い写本の殆どは欠いている」と書かれています。今、私たちが持っています聖書は原本を訳しているのではありません。最初に書いた人たちの手紙を別の人が写して、代々受け継がれてきたものが訳されているのです。人が写すものですから、当然文字の間違いも生じます。そのような中で、「どれがより正しいものであるか」を見極めながら、「より正しいであろう」という写本から訳されているのが、今私たちが用いている聖書です。では、古い写本には書かれていないということは、今朝の箇所は後の時代に足されたものであるということです。ですから、ヨハネ自身が書いたものではないということです。それにも拘らず、この「姦淫の現場で捕らえられた女性」の記事が書かれているのはどういうことかという疑問が生じます。調べてみますと、イエス・キリストが生きておられた時に生じた出来事が伝えられていたというものです。そして、8:15に「わたしは誰もさばきません」と話されたことの証明として、この箇所に挿入されたのではないかということです。前置きが長くなりましたが、そのことを踏まえつつ今朝の箇所から共に教えられたいと願っています。

1)捕らえられた女性
 イエス・キリストが朝早く宮に入られ、人々に教え始められたとき、ユダヤ教指導者たちがイエス・キリストの所に来ました。しかも、姦淫の罪を犯した女性を連れてやって来たのです。彼らは「この女は姦淫の現場で捕らえられました。」とイエス・キリストに話しました。姦淫というのは一人ではできません。姦淫の現場であるならば、相手の男性も一緒に居たはずです。それなのに、男性は連れて来られず女性だけでした。ひょっとしますと、この女性はユダヤ教指導者らの罠にはまったのかもしれません。または、男性は逃げて行ってしまったのかもしれません。何故男性が一緒に連れて来られなかったのかは分かりません。姦淫の罪について聖書は、レビ記20:10に「人が他人の妻と…殺されなければならない。」と書かれています。死刑に処せられるほど姦淫の罪は重いのです。何故、それほど姦淫の罪は重いのでしょうか。
 エゼキエル16:15以降には、「姦淫」ということばが繰り返し書かれています。ここに書かれています「姦淫」とは偶像崇拝についてです。すなわち、偶像崇拝は霊的姦淫に当たるというのです。神であられる主は、自分以外のものを拝むことを嫌われ禁じられています。北イスラエル王国も南ユダ王国も神によって滅ぼされたのは偶像崇拝に陥ったからです。神は何度も何度も預言者を通して注意されたにも拘らず、イスラエルの民は聞き従わなかったため北王国も南王国も神によって滅ぼされたのです。神にとって偶像崇拝は霊的な姦淫の罪であるが故に、肉体的な姦淫に対しても厳しくされているのです。それほどの罪なのに、男性が一緒に連れて来られていないのは不思議なことです。
ユダヤ教指導者らは、イエス・キリストに女性が姦淫の罪を犯したことを話し、その処分の方法を求めたのです。イエス・キリストの周りには大勢の人が集まっています。そのような中に姦淫の罪を犯した女性が連れて来られ、自分の罪を公にさらされたのです。この女性はどのような思いだったでしょうか。姦淫の罪の刑罰が重いことを知っていたでしょう。また、一緒にいた男性が居ないことにショックを受けていたかもしれません。ひょっとしたら、「ユダヤ教指導者たちの罠にはまった」と思ったかもしれません。罠であれ何であれ、姦淫の罪を犯したという事実は変わることはありません。彼女の心の中は大きな痛みと悲しみでいっぱいだったでしょう。「公にさらされることだけは避けたい」と思っていたかもしれません。それは姦淫の罪だけではありません。どのような罪であったとしても、自分が犯した罪を他人に知られたくはありません。それなのに、この女性は人々の前に出され罪を公にされたのです。彼女の心の中はどのような思いだったでしょうか。ことばでは言い表すことのできない痛みや悲しみなどでいっぱいだったのではないでしょうか。

2)ユダヤ教指導者
 ユダヤ教指導者らは、そのような彼女の心などを考えることはしませんでした。何故でしょうか。幾つかのことが考えられます。1つは、彼女が重い罪を犯したからです。「死刑に価する程の重い罪を犯したのだから処罰されるのは当然である」というものです。彼らは他人の罪に対しては厳しい人たちでもありました。このことから、マタイ7:3~5のみことばを思い起こされます。「ちり」とは「おが屑」のことであり、欄外にも書かれていますが「埃」のような小さなものを表しています。それに対して「梁」とは、家を建てるときに柱と柱を通す横の大きな木のことです。欄外には「丸太」と書かれています。古い家などには天井がなく、梁や丸太が丸見えの家があります。他人の小さな過ちには敏感ですが、自分の大きな過ちには鈍感だから、まず自分の過ちに気がつくようにと話されているのです。その自分の過ちに鈍感なのがユダヤ教指導者らでした。
 今朝の箇所に登場しますユダヤ教指導者らは、「イエスを告発する…こう言ったのであった。」と6節に書かれています。この質問の何処がイエス・キリストを告発する理由になるのかと言いますと、イエス・キリストが赦すことを言われたら「律法を疎かにする者」として訴えることができます。また、イエス・キリストが処刑することを言われたら、「憐れみのない者」として人々に訴えることができます。また、イスラエル人には人を処刑する権限はありません。あるのは当時イスラエルを支配しているローマ帝国です。そのローマ帝国の権限を飛び越えて言いますと、「ローマ帝国に対する反逆者」としても訴えることができます。どちらを答えてもイエス・キリストを訴える口実ができるのです。
 自分たちの目的を達成するためには手段を選ばないのがユダヤ教指導者たちでした。ですが、そのユダヤ教指導者たちを見ますと、私たちと重なることに気づかされるのではないでしょうか。自分の願いを叶えたいがために、「気づかなければならないことに気づかない自分である」ということを知らされるのではないでしょうか。「その人がどのような思いになるのか」に配慮する必要があるのに、そのことを配慮せずに訴えてしまう自分。「自分の思いが正しい」と思い込んでしまい、他のことに全く配慮できない自分というものに気づかされるのではないでしょうか。そのように思いますと、このユダヤ教指導者は自分そのものであることを知らされるのではないでしょうか。

3)イエス・キリスト
 そのようなユダヤ教指導者らに対して、イエス・キリストは何と答えられたでしょうか。そのイエス・キリストの答えが7節に「あなたがたの…石を投げなさい。」と書かれています。イエス・キリストが地面に何を書かれていたのかは分かりません。そのイエス・キリストの行為に対して、ユダヤ教指導者らはイエス・キリストに問い続けます。その彼らの問いに対して、イエス・キリストは「あなたがたの中で…石を投げなさい。」と答えられます。このイエス・キリストのことばは、ユダヤ教指導者らには考えもしなかったものです。「審くか赦すかの二者択一しかない」と思っていたのに、そのどちらでもない答えが返ってきたのです。すると、彼らの年長者たちから去って行きました。彼らは「自分は人を審くことのできない者である」ということに気づいたのです。
 先ほど、「このユダヤ教指導者らは自分そのものであることを知らされる」と話しましたが、そうではなく自分は彼らよりも鈍感な者であることに気づかされます。「もし私だったらどうしていたのか」を想像しますと、「自分には罪はない」と思って彼女に石を投げていたのではないかと想像させられるからです。偏った見方しかできず「自分たちの考えが正しい」と思い込み、霊的に低いユダヤ教指導者たち。でも、イエス・キリストのことばによって自分の罪に気づいたのです。彼らは本当の神の愛を経験していないのに気づいたのです。私たちが自分の罪に気づいたのは、本当の神の愛を経験したからです。でも、彼らは経験していないのに自分の罪に気づいたのです。そのことを思いますと、「自分はユダヤ教指導者らよりも霊的に低い存在である」ということに気づかされます。
 ユダヤ教指導者らは、姦淫の現場で捕らえた女性を審くことをせずに去って行きました。その所に残されたのは、イエス・キリストと姦淫の現場で捕らえられた女性だけです。そして、イエス・キリストは彼女に「わたしもあなたにさばきを下さない。」と話されました。姦淫の現場で捕らえられた時の彼女の心の中はどのようなものだったでしょうか。「不運だった」と思ったかもしれませんし、「何故私だけが」と思ったかもしれません。または「もっと上手くやっていれば良かったのに」と後悔したかもしれません。そのような思いの中には、自分の罪に対する悔い改めは出て来ません。また、人々の前に出された時はユダヤ教指導者らを憎んだかもしれません。ですが、このイエス・キリストの対応によって彼女の心は変えられたのではないでしょうか。

結)
 私は「スカッとジャパン」というテレビ番組を時々見ています。そこに「スカッとばあさん」というのが登場して、その彼女の頭の切れる対応に驚かされています。上手に相手に「自分の対応が間違っている」ことに気づかせるのですが、「私もそのような対応ができたらいいな」と思わされています。イエス・キリストは、それ以上のお方です。ユダヤ教指導者たちの心も、姦淫の現場で捕らえられた女性の心も、イエス・キリストは変えられたのです。そして、何よりも私たちの心をも変えてくださいました。イエス・キリストは、人の心を変えることのできるお方です。それは人を審いて変えるのではなく、受け入れて変えてくださるお方です。私たちもイエス・キリストに審かれて心が変えられたのではないですよね。イエス・キリストに愛され受け入れられていることを知ったから、心が変えられたのではないでしょうか。エペソ4:32に「     」と書かれていますように、人の心を変えることのできるものは赦す心です。その赦す心を私たちも増し加えられるように祈っていきましょう。