メッセージ

Ⅰコリント7:36~40「神を中心とした生活を」  17.07.16.

序)
 昨日、娘が社会人となって初めて帰省しました。娘が21歳の時に私たちは春日井市に引っ越したのですが、私が21歳の時に私の実家が引っ越しました。そのような話しをしていると、娘から「仕事で三重県の地図を調べているとき、久居の家を見てみたら天理教の布教所やったんやね」という話しになりました。布教所というのは、キリスト教で言いますと伝道所のようなものです。私が学生の頃は「拝め・拝まへん」という言い合いがよくあったことを思い出しました。家族対私という戦いで、ある面では信仰の戦いと言っても良いと思います。信仰の戦いというのは、場所や時間に関係なく生じるものです。パウロが生きていた時代は、キリスト教が迫害されていた時代です。パウロは、迫害の時代の中で神への信仰を持ち続けるには独身の方が良いと確信していました。神への信仰と結婚というのは、いつの時代においても課題ではないでしょうか。今朝は、その信仰と結婚を通して「神を中心とした生活とはどのようなものか」を共に教えられたいと願っています。

1)弱さを受け入れる
 まず、神を中心とした生活の第1は、人の弱さを受け入れることです。この36~38節は娘を持つ父親に対して書かれています。その父親とは、この手紙を読む人ですから神を信じるキリスト者です。パウロは36節の終わりの方で、「その心のままにしなさい」と語っています。この「心のままにしなさい」とは、自分の娘を結婚させようとしている父親に対して言われています。それは自分の娘への扱いが正しくないと思ったり、止むを得ないことがあったときです。止むを得ない場合は別としまして、「娘に対して扱い方が正しくない」とはどういうことでしょうか。その多くは父親の個人的感情です。この個人的感情とは、「自分のそばに置いておきたい」というものではないでしょうか。私はまだ経験していませんが、話しを聞きますと父親は娘の結婚には複雑な思いがあるようです。客観的ではなく主観的な感情によって娘を扱い、それが間違いであることを示されたときに結婚させるのは悪いことではありません。
 また、「自分の娘を称賛される信仰者にさせたい」というのもあるでしょう。別の表現をすれば、弱さのない信仰者ということです。ここでの場合は、父親の個人的な感情で結婚させたくないというよりも、信仰のために独身を貫き通させようとする父親に対しての勧めと理解した方が自然だと思います。何故なら、以前にも見ましたように、パウロはコリント教会の人たちが神を信じ神に仕える者として歩み続けることを願っているからです。ところが、結婚しますと神よりも家族のことを優先させてしまいやすくなります。そのため、優先順位が神よりも家族の方が先になってしまいやすくなります。父親の中には「自分の子どもはそのような信仰者にさせたくない」と思う人もおられます。ですが、実際に自分の子どもの信仰が父親の抱いていたほどの信仰ではなかった場合、強い信仰者に育てようと頑張ることは子供への扱い方が正しくないわけです。そのように考えてみますと、この娘に対しての扱いが正しくないと思って結婚させるというのは、子どもの弱さを認め受け入れるということでもあります。
 ともすると、私たちは「クリスチャンはこうであらねばならない」という思いが強いのではないでしょうか。ある面では、このことは大切なことです。しかし、それが強過ぎますと間違った扱い方になってしまいます。大切なのは、その人の今の信仰を受け入れることではないでしょうか。何故なら、神ご自身がそうだからです。神の目から見れば、私たちの信仰はとても弱いものです。しかし、神はそのような私たちの今の信仰を認め受け入れてくださっています。神の私たちに対する扱い方がそうであるならば、私たちの子どもや人への扱い方もそうなる必要があるのではないでしょうか。人の弱さを受け入れることは、神を中心とした生活でもあるのです。何故なら、自分に対する神のお取り扱いを覚えているからです。

2)みことばに生きる
 神を中心とした生活の第2は、みことばに生きることです。パウロは結婚することに反対してはいませんが、迫害の時代ですから独身でいることを勧めています。そのことは37~38節を見ても明らかです。この37節に「自分の思う通りに行うことのできる人」と書かれています。当時は父親に権限がありましたから、父親の思う通りに行うことができるということではありません。ここは神を信じている父親に対して書かれているのですから、そのことを考えて読んでいく必要があります。パウロが一番願っているのは、神のすばらしさが現されることです。ですから、そのことを踏まえて、この「自分の思う通りに行うことのできる人」というのを考えますと、この「自分の思う通りに行う」とは、神のすばらしさを最優先できる人ということです。すなわち、父親の信仰状態のことを語っているのです。
 当時は、父親に絶対的な権限がありましたが、やはり当時の父親も人間ですから弱さを持っています。個人的感情に左右される人もいたことでしょう。または、回りの声に負けてしまう人もいたことでしょう。パウロはそのような人を責めてはいません。何故なら、パウロは様々な信仰の戦いを経験してきたからです。だから、その信仰の戦いの中にある苦しみによって、妥協してしまう人を責めることはできないのです。ただこの箇所では、そのような中にあっても、自分の感情よりも神のすばらしさを現すことを優先できる父親の信仰を褒めているのです。
 パウロが願っていることは神のすばらしさが現されることです。それは迫害の時代の中にあって神への信仰を捨てないことです。今の日本は信仰の迫害がない国のように思われています。しかし、そうではありません。現代は国家からの信仰の迫害はありませんが、地域や家族からの信仰の迫害がないわけではありません。「信仰は自由だ」と言いつつも、信仰によって家族の習慣や地域の習慣に従えないときがあります。その時、大きな信仰の戦いを強いられます。また、先月共謀罪が成立しました。これは戦前の治安維持法と似ています。憲法改正の自民党草案では、天皇を元首とすることが明記されています。また、靖国神社公式参拝が合法とされたらどうなるでしょうか。何度も話していますが、靖国神社公式参拝というのは、国会議員が靖国神社を公式参拝できるということではありません。公式行事として靖国神社を参拝できるということです。そうなりますと、公立の学校行事として生徒らに靖国神社を参拝するカリキュラムを組むことができます。また、靖国神社の分院として学校や役所に設置することも可能となってしまいます。ところが、教会で「偶像崇拝はしてはいけないから、靖国神社に参拝しないように」と教えますと、「国が定めた法律を守らせない」として、教会を摘発することが可能となってしまいます。共謀罪が成立したことによって、さらに一歩日本国家からの迫害に近づいたものとなりました。
 信仰の戦いは迫害だけではありません。誘惑も信仰の戦いです。そのような中で、私たちはどうすれば良いのでしょうか。Ⅱテモテ3:14に書かれていますように、確信しているところに留まることです。この「確信しているところに留まる」というのは、聖書に基づいて確信しているところに留まるということです。何故なら、神のみことばこそが全てだからです。ともすると、私たちは「クリスチャンなのだから○○してはいけない」と言ってしまいやすくなります。ですが、その中にはみことばによるものではなく、風習や個人的考えや伝統によるものもあるのではないでしょうか。私たちにとって何よりも大切なのは、風習や伝統や個人的考えではなく、みことばに基づいての確信です。私たちが生かされています地域には風習があります。風習はその地域の文化ですから大切なものです。でも、風習が最優先されるものではありません。同時に、風習を否定することも間違いではないでしょうか。今月の22日と23日には小牧平成夏祭りが行われます。毎年、山車のパレードが行われるそうです。小牧のクリスチャンウエイという教会は毎年参加されているようです。牧師の和田先生は、「神の愛を伝えるために怖い顔ではなく、見た人がホッとできる優しい顔を描いている」と話されています。風習を用いるのも一つの方法かもしれません。大切なのは、みことばによって示されたところによる確信に留まることです。それがみことばに生きることであり、神を中心とした生活でもあります。

3)神を土台とする
 神を中心とした生活の第3は、神を土台とすることです。今まで独身の娘を持つ父親に対して語ってきたパウロは、39節で未亡人の再婚について語っています。未亡人の再婚については「自分の願う人と結婚する自由がある」と書かれています。未亡人になったのですから、どのような人と結婚しようと本人の自由です。自分が「結婚したい」と思う人と結婚することができるのです。しかしながら、ここでパウロは注意を与えています。それは神にあってのみということです。この「主にあってのみ」とは何を表しているのでしょうか。
 それは「主を土台として」ということです。家を建てるとき、地面に直接柱などを立てることはしません。まず、基礎工事である土台をしっかりと据えます。そして、その土台の上に柱などを立てていきます。土台を据えずに、土台抜きで建てられた家はすぐに倒れてしまいます。キリスト者における結婚というのもそうです。確かに結婚は、未亡人に限らず独身者であれば誰と結婚しようが自由です。しかし、パウロは神を信じる者としての結婚はどうあれば良いのかを示しています。それは神にあってであり、神を土台としてということです。神を抜きにした結婚、神を土台としていない結婚は倒れやすいのです。倒れやすいというのは、夫婦関係がダメになり離婚しやすくなるということではありません。倒れやすいというのは信仰なのです。すなわち、神を抜きにし神を土台としないで結婚した場合は、神への信仰が弱くなり、やがて信仰が倒れやすくなってしまいます。そのことはパウロが生きていた時代だけでなく、現代においても同じではないでしょうか。
 パウロは神を土台としての結婚を願っています。そのようなことから、結婚の相手は神を信じるキリスト者の方が良いとも言えるでしょう。ですが、相手がキリスト者であれば誰でも良いというものでもありません。キリスト者同士が愛し合っての結婚であれば良いというものでもないのです。パウロは6:20の最後に「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と勧めています。また、10:31でも「     」と勧めています。ですから、その結婚が神の栄光を現すことのできるものであることが大切なのです。
 では、結婚を通して神の栄光が現されるとはどういうことでしょうか。イエス・キリストの十字架は、私たちが自分の罪が赦されたことに感謝し、神に仕える者となるためです。ですから、神にある結婚というのも、その延線上で捉えていく必要があります。すなわち、結婚を通してさらに神に仕える者となるということです。それは自分に与えられている賜物を生かして神に仕えることです。何故なら、神にある結婚の中心は神ご自身であり、その結婚には神ご自身の目的があるからです。ですから、その神の目的を果たさない結婚は、いくら神を信じている者同士の結婚であったとしても意味のないものとなってしまいます。また、相手がキリスト者でない方と結婚したとしても、キリスト者であるその人が結婚後もさらに神に仕えていくならば、神はその結婚を認め受け入れてくださるのではないでしょうか。「何のために結婚するのか」という目的。そして、「どのようにして神に仕えていくのか」という方法。それらが求められているのです。それには神を土台とする必要があります。

結)
 パウロは信仰と結婚という事柄を通して、自分が受けた神のお取り扱いを自分も実践することを勧めています。そして、みことばによって示された確信に留まり生きることを勧めています。さらに、神を土台として神に仕えることを勧めています。これらのことを見ますと、それは何も結婚についてのことだけでなく、私たちの日々の生活においても同じであることに気づかされるのではないでしょうか。私たちの生活が神を中心としたものとなるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント7:25~35「目的のある人生」  17.07.09.

序)
 昨日、祈っていただきました子ども特別集会「サマースクール」が行われました。毎年、サマースクールはアイスクリームパーティーをしていますが、その中で「ゴリヤテをたおせ」というゲームをしました。サイコロの数字だけ進み、早くゴールした人が段ボールに描かれたゴリヤテにボールを投げて倒すというものです。今回のサマースクールのテーマは、「君は一人ではない」ということで、大きな問題にぶつかっても神が共にいて助けてくださるということを伝えることを目的としました。パウロはⅠコリント7章にて独身でいることを勧めていますが、その勧めにも目的があります。そして、私たちの人生にも目的があります。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)危機が迫っているから
 パウロはコリント人への手紙の7章では、男女について語っています。そして、パウロの願いは8節に書かれていますように「私のように」なることです。この「私のように」というのは、その時も見ましたが「神の栄光を現すのを第1とする」ということです。決して独身者でいることをパウロは勧めているのではありません。何故なら、各々に神から与えられている賜物は違うからです。ところが、パウロは26節で「そのままの状態にとどまるのが良い」とも語っています。26節に訳されています「男は」という字は、本来は「人」という字です。ですから、男性だけに限らず女性も含まれていることを意味しています。そのことから、パウロは独身でいることを勧めています。では、何故独身者は独身のままでいることを勧めているのでしょうか。
 その理由の第1は、26節の最初に「現在の危急のときには」と書かれています。パウロが独身者に独身を勧めているのは、現在が危急の時だからです。では、コリント教会にどのような危険が迫っていたのでしょうか。大きく3つの理解の仕方があります。1つは、地上にある様々な苦難や迫害と理解する立場です。もう1つは、世の終わりのことを指しているという立場です。最後は、近く経験する歴史的危機と理解する立場です。1つ目の地上にある様々な苦難や迫害は、コリントという地域や聖書が書かれた年代を越えて共通していることです。ですが、パウロは独身を勧めている人ではありません。そのことを私たちは見てきました。独身でいるかいないかは各々の召しの問題です。もし、「現在の危急のとき」を地上にある様々な苦難や迫害と理解するなら、現在のキリスト者に対しても独身を勧めていることになります。それはパウロの勧めと矛盾しますから適用されないと思えます。
 次に、2つ目の世の終わりのことですが、この手紙が書かれてから今日に至るまで世の終わりは来ていません。パウロは自分のことを「信頼できる者」と言っています。ですが、世の終わりはまだ来ていませんから、彼らのことばは間違っており信頼できない者ということになります。ですから、この2つ目も適用されないと思います。そして、最後の3つ目ですが、この手紙が書かれた時代はキリスト教が迫害を受けていた時代です。キリスト教は、最初はユダヤ教の一部として認められていました。しかし、後にユダヤ教の一部ではないことで認められなくなりました。そして、皇帝ネロの時代に様々な迫害を受けることとなりました。当時のキリスト者には苦しみの時代であり、危機状態の時でした。そのことを考えますと、この「危急のとき」とは、近く経験する歴史的危機と理解した方が良いと思います。何故なら、迫害から非難するとき独身者が一番逃れやすく苦しみが少なく済むからです。
 ですが、パウロは必ずしも結婚を反対しているわけではありません。ただパウロの個人的意見を述べているだけです。ですから、25節で「意見を述べる」と語っているのです。結婚の賜物が与えられているのなら結婚した方が良いのです。そして、互いに協力し合って苦難を乗り越えられるのなら、そちらの方が良いのです。ただパウロが願っているのは、迫害の故に信仰を捨てるという人が一人でもいないようにということなのです。パウロが独身を勧めている理由の一つはそこにあるのです。何故なら、私たちは神に仕える者とされているからです。

2)時が縮まっているから
 パウロが今の状態のままでいることを勧めている理由の2つ目は、29節に書かれていますように時が縮まっているからです。まず、この「縮まっている」とは、具体的にどのようなことを表しているのでしょうか。それは、イエス・キリストが来られる日が近いということです。すなわち、終末が近いことを表しているのです。では、「世の終わりが近い」と言いながら、2000年という年月が経っています。一体これはどういうことでしょうか。聖書では「終末」を「主の日」とも表現しています。それで、主の日が近いことを表している聖書箇所を幾つか見てみたいと思います。
 まず、Ⅰテサロニケ5:2に「主の日が夜中の盗人のように来る」と書かれています。だからそのためにも「目を覚まして慎み深くしていましょう」と6節に書かれています。この「慎み深い生活」とは、4:11に書かれていますように、自分の仕事に身を入れ自分の手で働くことです。また、ピリピ4:5には「主の日は近い」と書かれています。そして、8節で「全ての…留めなさい」と勧められています。また、Ⅰペテロ4:7には「万物の終わりがきました」と書かれており、その後で「ですから、祈りのために心を整え身を慎みなさい」と勧められています。この「慎み」とは、8節の「互いに愛し合う」ことです。このように見ますと、聖書が語っています終末の近さとは、時間的な近さよりも意識的な近さであることが分かります。すなわち、世の終わりを意識することです。だから、パウロはローマ13:13の最後に書かれていますように「正しい生き方をしようではありませんか」と勧めているのです。
 では、正しい生き方とはどのような生き方なのでしょうか。神の御前においていつも過ちを犯さない生活が正しい生き方なのでしょうか。もしそうであるなら、私たちはそのような生活はできないのではないでしょうか。何故なら、私たちは罪人であり弱い存在だからです。神の御前に過ちを犯さない生活が、聖書の語っている正しい生活ではないとするなら、神が求めておられる正しい生活とは何でしょうか。それは悔い改めの生活です。Ⅰコリント11:28に「自分を吟味して」と書かれています。自分を吟味する生活が神の求めておられる正しい生活なのです。それは、このような自分のためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったことに感謝することです。そして、その神にいつも目を向け、自分の過ちに気づいたとき悔い改め、嬉しいことがあったときは神に感謝する。これが神の求めておられる正しい生き方です。
 では、その正しい生き方が独身とどのように関係するのでしょうか。29節の後半から31節の前半に「今からは…用い過ぎないようにしなさい。」と書かれています。ここに書かれています「妻のある者」「泣く者」「喜ぶ者」「買う者」「用いる者」ということばには、「しっかり」とか「固く」という意味が含まれています。それは「どんなことがあっても絶対にそれらを手放さない」ということを表しています。すなわち、それらが自分のすべてであり、そこに生きる目的を見出していることを表しているのです。さらに言いますと、結婚している男性は妻に目が向けられ、妻や家族のために生きる。泣く者は何故泣くのかと言いますと、それが自分の手から離れてしまうからです。そのため、手放さないように必死に守ろうとします。それらが生きる目的になっているのです。喜ぶというのもそうですし、買うというのもそうですし、用いるというのもそうです。それらに生きる目的を見出しているのです。さらに言いますと、それらに執着しているのです。しかし、聖書は「それらが人生の目的ではない」と語っています。私たちが執着して目を向けるものは神ご自身なのです。いくら独身で居てもこの世のものに執着し、神に執着できないのなら意味がありません。また、結婚してさらに神に執着できるならその方が良いのです。人が執着し目を向けるものは神ご自身なのです。

3)思い煩わないため
 パウロが独身者に今の状態でいるように勧めている第3は、32節に書かれていますように思い煩わないためです。32~34節には「思い煩う」ということばと「心を配る」ということばが使われています。私たちは「思い煩う」と聞きますと、否定的・消極的な意味を表しているように聞こえます。また、「心を配る」と聞きますと肯定的・積極的な意味を表しているように聞こえます。この「思い煩う」と訳されていますことばと、「心を配る」と訳されていますことばは同じです。同じことばが違うことばに訳されているのです。それで、今朝の箇所の「心を配る」ということばも良い意味と悪い意味に区別することができると解釈されている方々がおられます。すなわち、「神に対して心を配るのは良い意味で、この世に対して心を配るのは悪い意味として使われている」というのです。しかし、そうでしょうか。伴侶への心配りが悪いことなのでしょうか。そんなことはありません。神への心配りも伴侶への心配りも出発点は愛です。ですから、どちらも良い意味で使われているというのが私の理解です。ただ、独身者は伴侶がいませんから、伴侶に心を配る必要はありません。その分神に心を配ることができる有利さが独身者にはあります。ここでもパウロは決して結婚を反対しているのではありません。神への心配りにおいて、どちらが有利であるかを語っているのです。では、神に心を配る生き方とはどんな生き方なのでしょうか。それは与えられているものの意味を知り、そのために精一杯生きるということです。それは「何のために与えられているのか」という与えられている目的を知るということです。人は目的を見失ってしまいますと不安を覚えてしまいます。何故なら、何処に向かって歩めば良いかが分からなくなるからです。何処に向かって歩めば良いかが分からなくなりますと、今何をすれば良いかも分かりません。分からない状態のままで歩まなければなりません。それは手探り状態で歩むようなものです。そうなりますと、不安を覚え心の中に思い煩いが生じてしまいます。
 しかし、与えられている目的を知りますと、それらのものが全て解決されます。何故なら、自分が何を目指して歩んでいるかが分かるからです。何を目指して歩んでいるかが分かりますと、そのために今自分は何をすれば良いかが分かってきます。何のために伴侶が与えられているのかと言いますと、35節の最後に書かれていますように、ひたすら上に仕えることができるためです。その前に「秩序ある生活を送って」と書かれています。秩序ある生活とは何でしょうか。それは神を通して全てを見るということです。神を抜きにして直接周りを見てしまいますと、この世的な見方に変わってしまいます。神を通して「何のために与えられたのか」という見方が大切です。家族や時間や仕事やお金など物質的なもの全てを神を通して見ることです。神を通して見るとき、何を優先すれば良いかも分かってきます。すなわち、秩序ある生活とは優先順位の確立です。人生の優先順位を保つことによって、分からない状態のまま歩むという思い煩いから解放されるのです。

結)
 パウロは迫害の中にある独身キリスト者に、そのままの状態でいることを勧めました。それは神に仕えることができるためです。パウロがいつも心に留めていたものは、神に仕えるということです。何故なら、それが私たちに与えられている人生の目的だからです。私たちは神に仕える者となるために救われたのです。その最高の神への仕え方は、今の自分が生かされていることに感謝し喜びをもって歩むことです。その歩みが神への礼拝へと繋がっていくのです。神は一人ひとりに目的のある人生を与えてくださいました。これからも、今の自分が生かされていることを神に感謝しつつ、喜びをもって神に仕えていくことができるように祈っていきましょう

Ⅰコリント7:17~24「あるものに目を向けて」  17.07.02.

序)
 今年の下半期が始まりました。先週の礼拝でも話しましたが、「下半期の歩みの先には何が備えられているか」は私たちには分かりません。分からないというのは不安でもあります。でも、確かなことは神が共にいて導いてくださるということです。そして、神は私たちに平安を与えてくださることを先週の礼拝で見ました。人は不安に陥るとき、否定的に捉える人と肯定的に捉える人がおられます。捉え方によって、その人の歩みは違ってきます。私たちが肯定的な捉え方をするにはどうすれば良いでしょうか。それは、すでにあるものに目を向けることではないでしょうか。今朝は、どうすればあるものに目を向けることができるのかを共に教えられたいと願っています。

1)与えられているものに目を留めて
 まずは、与えられているものに目を留めることが大切です。パウロは、17節で「おのおのが…歩むべきです。」と語っています。この「分に応じて」の「分」とは、「分け与えられた」という意味です。すなわち、「主から分け与えられたものに応じて」ということです。では、神であられる主から分け与えられたものとは何でしょうか。それは賜物です。パウロは、神から与えられている賜物に応じて歩むように勧めているのです。ですから、まず与えられている賜物に目を向けることが大切です。私たちにはどのような賜物が与えられているでしょうか。神であられる主を信じる信仰が与えられています。また、結婚や独身の賜物も与えられています。それ以外のものは、一人ひとりに与えられている賜物は違います。ある人には多くの賜物が与えられていますし、ある人には少ないかもしれません。
 出エジプト記16:18に「     」と書かれています。これは、神がイスラエルの民に食べ物としてマナを与えられました。そして、イスラエルの民は各自でマナを集めました。そこには多く集めた人もいれば、少なく集めた人もいました。しかし、「足りないことはなかった。」と書かれており、その人に必要なものが集められたのです。これを賜物と同じように扱うのは無理があるかもしれません。何故なら、集めたのは人であって神が一人ひとりに与えたものではないからです。しかし、それでも「足りないことはなかった。」ということばに注目したいのです。人が集めてもたりないことはないのであれば、人よりも優れたお方が与えてくださるなら、まして足りないことはないのです。自分では「少ない」と思えたとしても、その人に充分な賜物を神は与えてくださっているのです。
 イエス・キリストはタラントの譬え話をされました。主人は、あるしもべには5タラント、別のしもべには2タラント、さらに別のしもべには1タラント預けました。タラントとはお金の価ですが、今では「賜物」と訳されています。実際にイエス・キリストは賜物について話されるために、このタラントの譬え話をされました。皆が同じ量を分け与えられれば良いのですが、主人は能力に応じて渡したことが書かれています。ですが、1タラントは6000デナリです。1デナリが1日の労働賃金です。週休2日としますと、1年間で261日の労働日数となります。6000デナリを261日で割りますと約23年の労働賃金となります。これは決して少ない金額ではありません。このタラントの譬え話から、自分に与えられている賜物は他人と比べれば僅かなものかもしれませんが、実は僅かなものではないということを知らされます。神は私たち一人ひとりに充分な賜物を与えてくださっているのです。そのことを知りつつも、私たちはついつい他人と比較してしまいます。そして、ないものに目を向けてしまいがちですが、それよりも与えられているものに目を留めることの方が大切であるというのを知らされるのではないでしょうか。与えられているものに目を留めて、それをどのように用いていくかを考えることができるように祈っていきたいものです。

2召された状態のままで
 分け与えられたものに目を留めることを勧めたパウロは、次に召された状態のままで歩むことを勧めています。この「召された」とは、「救われた」とか「認められた」という意味です。また「状態」とは、「身分」とか「境遇」を意味することばです。すなわち、「救われた身分のままで」ということです。「イエス・キリストを信じ救われたから」と言って、生活環境を変える必要はありません。主婦なら主婦のままで良いですし、社会人なら社会人のままで、学生なら学生のままで良いのです。またそれは、「どんなことがあっても変える必要はない」ということでもありません。変わる時もあります。ただ、「イエス・キリストを信じたのだから」という理由だけで変える必要はないのです。むしろ、聖書は今の状況の中で神のすばらしさを現して生きることを勧めているのです。それが、イエス・キリストが言われた「地の塩・世の光」なのです。
 キリスト者全員が同じ環境の中で生活する必要はありません。各々キリスト者として生きる環境の違いがあって良いのです。「イエス・キリストを信じたから」と言って仕事や服装を変える必要はありません。ただ、さらに神のすばらしさを現すために変えるなら良いことかもしれません。でも、それは一人ひとりの決断に委ねられています。大切なのは、各々の環境の中で最善を尽くして神に仕えていくことです。それは、各々に与えられている務めに対して忠実に果たしていくことでもあります。「他人と同じことをしなければならない」と聖書は語ってはいません。何故なら、それは大切なことではないからです。私たちにとって大切なことは、置かれている環境の中で最善を尽くして神に仕えていくことです。
 聖書が書かれた時代には奴隷制度がありました。ですから、教会の中には自由人もいれば奴隷もいました。ある人々は「神を自分の主とするなら、人間は主ではないから奴隷でいるのは神の御心ではない」と主張していました。確かに、神の前において全ての人は平等ですから、自由人や奴隷がいることは平等ではありません。ですが、自由人や奴隷という社会制度は人間社会の制度です。人間社会は神を信じていない人もおられる社会です。ですから、人間社会における身分制度は認めて受け入れる必要があります。しかしながら、教会の中にあってはそうではありません。何故なら、教会は人間を中心にしたものではなく、神を中心にしたものだからです。神の目から見れば自由人も奴隷も同じです。何故なら、どちらも神のしもべだからです。イエス・キリストは「互いに仕え合うように」と教えられました。キリスト者というのは、互いに仕え合うべき存在とされています。ですから、自由人であるか奴隷であるかは決定的なものではありません。それは人間社会の制度であって、教会の中では同じ身分なのです。ですから、自分の身分について何と言われようとも気にする必要はないのです。何故なら、人は自分の身分によって罪の赦しを受けたのではなく、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の赦しを受けたからです。今朝の箇所でパウロが語っていることは、「自由人であれ奴隷であれ、神はその時のあなたを受け入れてくださっているのだから、自分の身分を気にする必要はない」ということです。
 これを現代に当てはめてみますと、どのような捉え方ができるでしょうか。昨今、専業主婦という方が少なくなっています。これは家庭の経済的必要を満たすために働かれる方もおられますが、中には「専業主婦」というのに負い目を感じて働かれる方もおられます。安倍首相が「1億人総活躍社会」というプランを立てられました。これは「専業主婦であれ活躍の場がある」ということを意味するものだと思いますが、「仕事をすること」と捉えておられる方もおられます。聖書は社会で働いておられる方であれ、家庭で働いておられる方であれ、その場所で神のすばらしさを現すことがすばらしいものであると語っているのです。社会的身分によって人の価値は変わりません。

3)神の命令を守ること
 社会的身分というのは、神の世界において大切なことではありません。では、神の世界において大切なことは何でしょうか。それは19節の最後に書かれていますように、神の命令を守ることです。では、神の命令とは何でしょうか。一言で言いますと愛することです。神を愛し人を愛することが何よりも大切なことなのです。私たち日本人は「愛」ということばを好みます。そのためでしょう。人の名前に「愛」という字がつけられている人が大勢おられます。では、愛とは何でしょうか。以前に、「聖書が語る愛ということばは名詞であるが、実は動詞である」ということを話しました。それは自分の意志で愛することを選び、赦し、行動することが必要だからです。他にもう一つあります。愛することは仕えることでもあります。
 先程も触れましたが、イエス・キリストは「互いに仕え合いなさい」と教えられました。私たちが互いに仕え合うのは、神が命じられたからするというというのではなく、その人を愛しているからです。ですから、愛するとは仕えることでもあります。「その人をどれだけ愛しているか」ということは、「その人にどれだけ仕えたか」ということでもあります。ところが、多くの人は愛することと仕えることを別々に捉えておられます。ですが、聖書が語っている愛するとは、仕えることをも意味しているのです。ですから、イエス・キリストは「一番大切な戒めは神を愛し人を愛すること」と話されつつ、互いに仕え合うことをも求めておられるのです。何故なら、愛することは仕えることでもあるからです。
 Ⅰヨハネ4:8に「     」と書かれています。私たちが神を知り信じているのは、私たちが神の愛を受けていることを知ったからです。しかし、それだけではありません。その愛が私たちの中にも与えられているのです。私たちは愛のない者ではなく、愛のある者とされているのです。ないのではなくあるのです。後は、その愛がさらに強められるように祈り求めれば良いのです。ルカ11:9に「求めなさい。そうすれば与えられます。」と書かれています。御存知のように、この「求めなさい」とは求め続けることを表しています。1度や2度位の祈りで終わるのではなく、与えられるまで祈り続けるということです。イエス・キリストは、「そうすれば与えられます」と約束してくださっています。「私の内には愛がない」と言って嘆くのではなく、愛はすでに与えられているのですから、その愛がさらに強められるように祈り続けることが私たちにとって大切なことです。
 ローマ8:24~25に「     」と書かれています。祈り続けるには忍耐が必要です。聖書が語る忍耐は、単なる我慢ではありません。24節に書かれていますように、望みのある忍耐です。「神は必ず約束を守ってくださる」という望み。「私の内に与えられている愛は強められる」という望み。その望みを抱きつつ忍耐をもって祈り続けることが私たちに必要なことではないでしょうか。愛するとは仕えることです。「今の自分がどのようにして神に仕え人に仕えることができるのか」を前向きに考え、祈り求めることが私たちに必要なことではないでしょうか。それが神を愛し人を愛することであり、神の命令を守ることです。

結)
 ともすると、私たちは自分にないものに目を向けてしまいやすいものです。そして、「できない」という判断を下してしまいやすいのではないでしょうか。私たちにとって大切なのは、ないものに目を向けることではなく、あるものに目を向けることです。そして、すでに与えられているものがさらに強められるように祈り求め続けることです。「そうすれば与えられます」と神は約束してくださっています。その神の約束を信じ祈り求め続ける者とされたいものです

Ⅰコリント7:8~16「平安を与える神の救い」  17.06.25.

序)
 早いもので、今年も半年が過ぎようとしています。何よりも、上半期の歩みが神によって守られたことに感謝したいものです。そして、下半期の歩みも神によって導かれるものとなるように祈っていきたいものです。私たちの歩みの先に何があるかは私たち自身では分かりません。「分からない」ということは不安でもあります。しかし、確かなことは神が共にいて導いてくださるということです。そして、神が私たちに与えてくださるものは平安です。今朝は、平安を与えてくださる神の救いについて、共に教えられたいと願っています。

1)独身者に対して
 パウロは8節で独身者に対して「私のようにしていられるなら」と語りました。この「私のように」とは、先週も触れましたが独身のことを表しています。それと同時に、神の栄光を現すことを第一とすることをも意味しています。「神の栄光を現すために自制でき一人でいられるならその方が良い」ということです。間違って捉えられると困りますが、自制できないから結婚するのではありません。結婚することによって、二人が一つになって神の栄光を現すために結婚というすばらしいものが与えられているのです。ですから、先週も話しましたように、独身も結婚も神のすばらしさを現すために与えられている賜物なのです。
 ところが、コリント教会の一部の人たちは、そのことについて誤解していました。それは「自制できないことは罪である」という誤解です。そして、極端な禁欲主義に傾いた人たちがいました。事実、1~2世紀頃の時代には、結婚せずに独身でいるキリスト教のグループがあったらしいです。しかし、パウロは独身でいることを貫き通すようにとは勧めてはいません。むしろ、「結婚することによって神の栄光が現されるのなら結婚した方が良い」と語っているのです。大切なことは、自分に与えられている賜物を知ることです。自制できるかどうかが大きな問題ではなく、自制の賜物が与えられているかどうかを知ることの方が大切なのです。
 もし、自制の賜物が与えられていないことを知ったのなら、それを補うものが与えられるように祈ることができます。ともすると、私たちも「自制できないことは罪である」と捉えやすいのではないでしょうか。そして、自制することが信仰的であるかのように思えるのではないでしょうか。ところが、聖書は「自制できないことは罪である」と一言も語ってはいません。ですから、自制できないということは罪ではありません。自分は自分を完全に自制できない者であることを知り、そのことを受け入れるのも信仰です。ただ、そのことを知って受け入れて終わってしまうなら問題です。自分の力でできないことを知ったのなら、少しでも自制できるように祈り求めることが大切です。その方法の一つとして結婚というものが与えられているのです。結婚は男女が助け合って、神の栄光を現すために与えられているものです。自分の弱さを伴侶が助け、神のすばらしさを現していくために与えられているのです。ですから、自制力が欠けていることは決して不信仰なことではありません。
 むしろ、自制力が欠けているのに欠けていないように見せかけていることの方が不信仰です。何故なら、それは自分の力で生きようとしているからです。ユダヤ教指導者たちがそうでした。彼らは自分の義を神に認めてもらい、神の審きから救われようとしていました。これは自分の力で生きようとしている典型的なものです。ですが、イエス・キリストはそのようなユダヤ教指導者らを非難されました。何故なら、人は自分の力で神の審きから救われることはできないからです。弱さを持つことが悪いことでもなければ不信仰なことでもありません。イエス・キリストは、そのような弱さを持つ私たちのためにこの世に来てくださったのです。「弱さを持っていても良い」というのは、人の心に安心感を得させ平安を与えてくれます。神の救いとは、私たちにその平安を与えてくれるものです。

2)キリスト者夫婦に対して
 次にパウロは、既婚者に対して語っています。既婚者と言っても2つに分けられます。1つは両方がキリスト者である夫婦と、もう1つはどちらかがキリスト者である夫婦です。10節と11節の最後に書かれています「結婚した人々」とは、両方がキリスト者である夫婦のことを指しています。10節の最後に「妻と夫と別れてはいけません。」と書かれていることから、当時の時代も2人ともキリスト者ですが離婚してしまう夫婦があったようです。
 現代の日本においては離婚件数が増えています。それはキリスト者同士であっても離婚される夫婦がおられます。結婚とは、神が男女を結び合わせてくださったものです。ともすると、結婚は男女が出会い、その2人で決めたように思いやすいですが、その背後には神が2人を導かれたのです。ですから、結婚は2人で決めたものではなく、神の導きによって結び合わされたものです。それ故、イエス・キリストは「人は神が結び合わされたものを引き離してはいけない」と話されました。ところが、人はやはり弱さを持っています。神の導きと信じつつ結婚されますが、様々な事情によって離婚される夫婦もおられます。
 イエス・キリストは、離婚について何と話されたでしょうか。マタイ19:3~9に「     」と書かれています。3節に「何か理由があれば」と書かれています。これは「正当な理由があれば離婚しても良いのか」という質問です。それに対して、イエス・キリストは9節で「誰でも不貞のためでなくて」と答えられています。これは「不貞であれば離婚は認められる」ということを表しています。不貞とは姦淫の罪のことで、コリント人への手紙に書かれています不品行のことです。それ以外は離婚することを認めてはおられません。すなわち、イエス・キリストは離婚を認めてはおられないということです。ですから、キリスト者の中には「離婚は聖書の教えに反し、イエス・キリストも認めておられないのだから厳しい処分が必要である」と言われる方もおられます。
 ですが、福音書をよく読みますと、離婚した人のことについてイエス・キリストは何も話されてはいません。あの姦淫の罪を犯した女性の出来事で、イエス・キリストは何をされたでしょうか。そのことがヨハネ8:3~11に「     」と書かれています。姦淫の現場で捕えられた女性をイエス・キリストの前に連れて来た人たちは、イエス・キリストに「どのように処分すべきか」と訴えました。すると、イエス・キリストは「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。すると、人々は去って行き彼女一人が残されました。そして、イエス・キリストは彼女に「わたしもあなたを…なりません。」と語られました。イエス・キリストが彼女に言われたことは、犯した罪を責めることではなく、これからも歩みについてです。
 このことはパウロにしても同じです。今朝の箇所の11節に「もし別れたのだったら…どちらかにしなさい。」と勧めています。すでに犯してしまった過去のことを責めてはいません。何故なら、いくら過去のことを責めても取り戻せることはできないからです。大切なのは、これからどのような歩みをするかです。神を信じる者にとって、「離婚とは重い過ちで責められるもの」と思いやすいですが、そうではないのです。たとえ離婚したとしても、その後でも神の栄光を現すことはできるのです。聖書は離婚を勧めてはいません。しかし、離婚をしたとしても、神の栄光を現す生き方があることを示しているのです。大切なのは、離婚をした自分を責めるのではなく、これからどのようにして神の栄光を現す生き方をすれば良いかを考えることです。
 それは、私たちの罪においても同じです。神は私たちが犯した罪を問題にはされませんでした。神が私たちに備えてくださったものは、これからどのようにして神の栄光を現していくかという道です。過ちを犯した者であれ、立ち直る道を神は備えてくださっているのです。これが神の救いなのです。過ちを犯したら罰せられるのではなく、赦され望みをもって生きる道を備えてくださっているのが神の救いなのです。ですから、私たちは平安をもって歩むことができるのです。

3)未信者の伴侶を持つ者に対して
 先程は、キリスト者夫婦に対して語られていることを見ました。今度は、伴侶の片方がキリスト者である夫婦について見てみたいと思います。これも誤解されると困りますが、聖書はキリスト者でない人との結婚を許可しているわけではありません。11節に書かれています「もし別れたのだったら」と同じです。結婚されてから、どちらかが神を信じキリスト者になられる人がおられます。また、様々な事情によって神を信じていない人と結婚される方もおられます。やはり、ここでも過去のことを取り上げて問題にしているのではなく、将来的なことについて語っています。それは、自分の方から離婚してはいけないということです。
 その理由が14節に書かれています。それは聖められているからです。この「聖められている」というのは、キリスト者との生活を通して聖くされるというものではありません。また、一緒に生活することによって救われているというのでもありません。これは、神のご用のために取り分けられているということです。神が人をご自身の目的とご用のために選んでおられることを表しているのです。ある方は、「人が聖められるのは神を信じ告白してからだ」と言われるかもしれません。そのような人に対してパウロは、14節で「そうでなかったら…汚れているわけです。」と語っています。小さな子どもは、まだ自分で決断して告白してはいません。それなら「汚れているのか」というとそうではありません。そこには親の祈りがありますし、神の特別な働きもあります。
 夫婦の片方がクリスチャンというのは、女性の側がクリスチャンである方が多いです。私たちの教会にしてもそうです。そして、「夫を通して、子どもを通して教えられる」とう証しを聞くことがあります。それは、神がその家族を通してキリスト者である妻に働いておられるからです。そこには特別な神の働きがあります。そのような意味で、神はキリスト者の家族を用いられるが故に「聖められている」と語っているのです。
 パウロがこのように語っているのは、未信者の伴侶や家族を持った人が自分の伴侶や家族が「聖められていない」と思っているのか。それとも、クリスチャン家族からそのように責められて悩んでいたのかは分かりません。しかし、「自分の伴侶や家族が聖められていない」ということで悩んでいたのは確かなことでしょう。その悩みに対して、パウロは「そうではなく、すでに神によって聖められている」と語っているのです。このことを通してパウロは、「この結婚も神の許可の中にあるのだから、何よりもその家族をありのまま受け入れることが大切である」と語っているのです。家族の中に神を信じない人がいても、その家族を責めるのではなく受け入れることを勧めているのです。これが未信者の家族の中にあるキリスト者の務めでもあるのです。

結)
 パウロは15節の最後で「神は…召されたのです。」と語っています。聖書が語る平安とは、ありのままを受け入れるということではないでしょうか。何よりも、神はありのままの私たちを受け入れてくださいました。神は条件付きで私たちを愛してくださったのではありません。無条件で、神をまだ信じていない時から私たちを愛してくださいました。だから、私たちは神を信じることができ、神の救いという恵みに与ることができたのです。神の救いとは、神がありのままの私を受け入れてくださっているということのしるしでもあります。私たちの家族が神によって聖められていることに感謝しつつ、その家族のために祈っていきたいと願わされます

Ⅰコリント7:1~7「神から与えられた賜物」 17.06.18.

序)
 テレビタレントの方々の中には、結婚されない方が大勢おられます。結婚について聞かれますと、「いずれはしたいと思うが今は」という回答をよく耳にします。独身でいるのが良いか、結婚するのが良いかは人それぞれだと思います。聖書は「独身も結婚も賜物の一つである」と語っています。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)独身について
 1節の初めに「さて」と書かれています。これは話しが新しい展開になることを示すことばです。では、どのような展開に移るのかと言いますと、コリント教会の手紙からの質問についての回答です。コリント教会からの質問とは、どのようなものだったのでしょうか。それは7章の男女に関しての質問、8章の偶像に献げた肉についての質問、11章に書かれています礼拝のあり方についての質問、そして12章の御霊の賜物についての質問、最後に16章の献金についての質問です。このような質問がコリント教会からパウロに送られてきたのです。その質問の回答として、7章から書かれています。コリント教会からは、何が最初の質問として書かれていたかは分かりませんが、パウロは5~6章の不品行のことと関連付けて、7章から男女に関しての質問の回答をしています。今朝の箇所は、男女についての一般的な原則が書かれています。
 まず男女についてですが、「男が女に触れないのは良いことです。」と1節に書かれています。ここで注意したいことは「触れてはならない」とは書かれていないということです。「触れないのは良いことです」と書かれているのです。この「良いことです」とは、「望ましい」という意味を表しています。ですから、男性が女性に触れることを否定しているのではありません。この「触れる」というのは性的関係を意味していますが、そのことを否定しているのではありません。結婚を通して許されていることを示しているのです。しかしながら、独身というのもすばらしいものであることを意味しているのも事実です。
 日本では、今も「女性の幸せは結婚である」という考え方があります。「男性の幸せは結婚である」ということばを耳にしたことはありません。私自身「何故女性の幸せは結婚なのか」と思わされています。確かに、出産というすばらしいものは女性だけであり、結婚を通してなされます。それでも、「それだけが幸せ」というものでもないと思います。ですから、今も「何故女性の幸せは結婚なのか」と思っています。聖書は「独身もすばらしい」と語っていますが、独身の何処がすばらしいのでしょうか。そのことは32節と34節に書かれていますように、神に心を配ることができるからです。これは「他のものに心を奪われることなく神に専念できる」ということです。パウロは神に専念できるというものも、神から与えられた賜物であることを示しているのです。私たちは「賜物」と聞きますと、「何か特別なことができるもの」と捉えやすいのではないでしょうか。ですが、聖書はそのようには語っていません。確かにそのようなものも神から与えられた賜物なのですが、特別なことができるものだけが賜物ではありません。
 コリント教会の一部の人たちは、そのところを取り違えていました。彼らには何か特別なことのできる賜物が与えられていました。そして、その賜物を誇っていたのです。12章には、御霊の賜物について書かれています。その12章の最後の31節には「あなたがたは…求めなさい。」と勧められており、そしてさらに「また私は…示してあげましょう。」と書かれています。そして13章に続き、13章では愛について書かれています。すなわち、愛こそが最高の賜物であることが示されています。その愛は、言うまでもなく神の愛です。何か特別なことができるものだけが賜物ではありません。神を愛する愛こそが最高の賜物なのです。別のことばで表現するならば、神に心を配ることであり神に専念することです。神に専念するために独身でいられるというのは、神から与えられたすばらしい賜物の一つなのです。

2)結婚について
 では、結婚は神に専念することを妨げてしまい良くないものなのでしょうか。或いは、不品行を避けるために結婚というものがあるのでしょうか。聖書を読みますと、そうではないことが分かります。結婚は神が人を創造されたときから与えられたものです。人が造られた目的は、その人の人生を通して神のすばらしさが現されるためです。「どのようにして神の栄光を現すことができるのか」と言いますと、先週の礼拝でも話しましたように、今の自分が生かされていることを神に感謝し、喜びをもって生きることによってです。ですから、結婚もその延長戦で捉えることが大切です。すなわち、人が生かされていることを神に感謝し、喜びをもって生きることができるために、神は男女を結び合わせられたのです。ですから、結婚も神のすばらしさが現されるために与えられたものです。大切なことは、「結婚は愛し合ったからするというだけでなく、神のすばらしさを現すために設けられたものである」と覚えることです。
 3節以降に書かれています「義務を果たす」というのは、結婚することによって与えられる行為のことです。義務というのは、負債を支払うことを意味します。ですから、夫婦というのはお互いに相手に負債を負っている存在でもあります。妻だけが夫に負債を負っているのでもなければ、夫だけが妻に負債を負っているのでもありません。聖書は「夫も妻も互いに同じ負債を負っている」と語り、夫も妻も同じ立場であることを示しています。
 では、どのような負債を互いに負っているのでしょうか。それは、神のすばらしさを現すために必要なものを相手から受けているという負債です。その負債は大きなものであり、お金に替えることのできないものです。ですから、相手の権利を拒むことは許されないのです。その義務を果たす必要があるのです。この「果たす」ということばには、「積極的に支払う」という意味が含まれています。ですから、結婚によって与えられている行為は嫌々ながらするのではなく、積極的に協力し合うことが大切なのです。何故なら、それによって不品行という行為を避けることができるからです。
 しかし、その互いの権利よりも優先されるものがあります。それは祈りです。祈りに専念するために、結婚によって与えられる行為を断つことは許されるのです。ですが、そこにも条件があります。それは合意によるものであるということです。相手が反対しているのに、自分勝手に決断することは許されないのです。何故でしょうか。その理由が5節の後半に「あなたがたが…かからないためです。」と書かれています。それはサタンの誘惑によって不品行を行わないためです。人間は強い存在ではありません。誘惑されやすく、その誘惑に負けてしまいやすい弱い存在です。だからこそ、結婚によって与えられている行為は大切なものなのです。結婚というのは、人が神の栄光を現すものとして歩み続けることができるために、神から与えられたすばらしい賜物の一つなのです。

3)賜物の目的
 パウロは、独身も結婚も各々神から与えられたすばらしい賜物であることを語っています。「キリスト教」と一口に言っても、右寄りの極端な立場もあれば、逆に左寄りの極端な立場もあります。初代教会の時代もそうでした。コリント教会の一部の人たちのように、「霊的な身体は善であり肉的な身体は悪である」として、不品行なことを平然と行っていた人たちもいれば、極端な禁欲主義の人たちもいました。中には、独身こそが最善であるかのように捉えていた人たちもいました。何故なら、パウロ自身も7節の前半で「私の願うところは…ようであることです。」と語っています。パウロは独身者でした。パウロ自身が「私のように」と語っているのですから、独身でいることが最善と捉えることも可能です。確かに、この文面からしますと、「できるなら独身でいるように」と捉えるのが自然かもしれません。
 しかし、もう一つの捉え方もできます。それは「私のように」というのは、「私を見本とするように」という意味を含んでいます。ですから、「私のように」とはパウロの生き様を示しているという捉え方もできます。パウロはいつもイエス・キリストを見上げつつ、イエス・キリストを模範として歩んでいました。パウロの歩みは、何よりも神の栄光を現すことを第一としたものでした。ですから、「私のように」というのは、「神の栄光を現すことを第一とするように」と捉えることもできます。確かに、パウロは独身者でした。ですが、全ての人が独身でいることにこだわってもいませんし、独身でいることが最善とも考えてもいません。パウロ自身が願っているのは、独身でいるにしろ結婚するにしろ神の栄光が現されることなのです。
 神が私たちに与えてくださった賜物の目的は、その賜物を通して神の栄光が現されることです。独身という賜物、結婚という賜物も神の栄光が現されるために神が与えてくださったものです。それは何も独身や結婚ということだけではありません。それ以外にも、神は一人ひとりに賜物を与えてくださっています。それらの賜物の全ては、その賜物を通して神の栄光が現されるためです。神の栄光を現すことのできるものは、全て神がその人に与えてくださった賜物でもあるのです。
 先程も話しましたが、私たちは「賜物」と聞きますと「何が特別なことができる才能」と捉えてしまいやすいです。確かに、何か特別なことを通して神のすばらしさを現すことができるなら、その才能は賜物ということができます。しかし、神のすばらしさを現す最高のものは、今の自分が生かされていることに感謝し喜びをもって生きることです。この生き方も神から与えられた賜物の一つなのです。この生き方は、大人であれ子供であれ、健常者であれ障害者であれできるものです。イエス・キリストを信じるなら、全ての人ができることです。イエス・キリストを信じる信仰も、神から与えられた賜物の一つです。ですから、賜物は神を信じる全ての人に与えられているのです。その賜物の目的は、神の栄光が現されることです。

結)
 今朝は、神から与えられた賜物について見ました。結婚も独身も神によって与えられた賜物であり、「どちらが良いのか」というものではありません。神のすばらしさを現すことのできるものは、全て神から与えられたものですから良いものです。それは何度も話しますが何かができることではありません。今の自分が神によって生かされていることに感謝し、喜びをもって生きることが何よりも神のすばらしさを現すものです。それはイエス・キリストを信じることによってできます。ですから、私たち一人ひとりに神から賜物が与えられているのです。これからも生かされていることに感謝しつつ、喜びをもって歩み続けられるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント6:18~20「神の栄光を現す身体」  17.06.11.

序)
 私は週に1~2回、守山スポーツセンターに行っています。それは体力の維持が目的です。それは座って仕事をすることが多く、身体を動かすことが少ないからです。健康診断を受けますと「中性脂肪が多い」と毎回言われ続けていました。稲沢に居たとき、知人に清州スポーツセンターを教えていただき、それからスポーツセンター通いとなりました。そのためでしょうか、一昨年からは「中性脂肪が多い」とは言われなくなりました。身体は大切なものであり、私たちの身体は神と交わることのできるものです。そして、神のすばらしさを現すことのできるものともされています。何故、私たちの身体は神の栄光を現すことができるのでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)聖霊の宮だから
 第1に、私たちの身体は聖霊の宮だからです。コリントの町は道徳的に堕落していました。そのような町の中に立てられていますコリント教会は大きな影響を受けていました。そのためパウロは、18節の最初で「不品行を避けなさい。」と勧めているのです。それは何故でしょうか。その一つは、私たちの身体は聖霊の宮とされているからです。パウロは3:16~17で「あなたがたは神の神殿です。」と語りました。神殿とは人が神を礼拝する所です。ユダヤ人の中で神殿を最初に建てた人はソロモン王でした。ソロモンが神殿を建てるまでは、ユダヤ人は幕屋で神を礼拝していました。
 何故幕屋だったのかと言いますと、イスラエルの民がエジプトからカナンの地に行く中で、神はモーセに幕屋を造ることを命じられました。イスラエルの民は移動しながら生活していましたから、神を礼拝する場所も持ち運びができるものでなければなりませんでした。幕屋というのは、定住していないイスラエルの民にとって持ち運びができる神を礼拝する場所として便利なものでした。ところが、カナンの地に入りダビデ王によって近隣諸国との戦いに勝利し、ソロモン王の時代には戦いもなく安定した国となりました。ですから、もうイスラエルの民は移住する必要がなくなったのです。そのため、持ち運びしなくても良い神を礼拝する場所が必要となりました。そのために建てられたのが神殿です。
 ですから、神殿と幕屋は性質的には同じなのです。その幕屋を造るように命じられた神は、モーセに何と言われたでしょうか。そのことが出エジプト記25:8に「     」と書かれています。神ご自身が幕屋の中に住むことによって、イスラエルの民の中に住まわれることを約束されたのです。民数記を見ますと、イスラエルの民は幕屋を中心として生活していたことが分かります。ですから、幕屋というのは、神が住んでくださり共にいてくださることの見えるしるしでもあるのです。そして、神殿もその幕屋と同じ性質を持っています。すなわち、神殿も神が住んでくださり、神が共にいてくださることの見えるしるしなのです。
 そして、パウロはⅠコリント3:16~17で「あなたがたは神の神殿です。」と語っています。それが意味することは何でしょうか。それは、私たちの身体の中に神が住んでくださり、神が共にいてくださることを意味しているのです。ヨハネ14:17には、イエス・キリストが「     」と語られたことが書かれています。聖霊なる神が、イエス・キリストを信じる者の内に住んでくださるのです。聖霊なる神が内に住んでくださるということは、その人自身が神の神殿であるということです。イエス・キリストを信じる私たちの身体は、聖霊なる神が住んでくださる聖霊の宮なのです。ですから、不品行というもので身体を汚すことを避ける必要があるのです。

2)贖われたから
 第2は、私たちの身体はイエス・キリストによって贖われたものだからです。贖いとは、20節の前半に書かれていますように、代価を払って買い取られたことです。聖書は「救いには人の行いは必要がなく、イエス・キリストを信じるだけで良い」と語っています。ある人は「救いはそのような簡単なものではない」と言われ、聖書の約束を信じようとはされません。そのように言われて聖書の約束を信じようとされないのは、「人が一生懸命努力しないと罪という汚れは聖められない。何の努力もしないで罪の汚れから聖められることはない。」と考えておられるからです。このような考え方は分からなくはありません。いや、むしろ分かりやすいですし、同感しやすいものではないでしょうか。
 このように考えておられる方は、罪というものがどれほど深いものであるかを御存知だからです。聖書が「イエス・キリストを信じるだけで罪が赦される」と語るのは、「罪の赦しは簡単なものである」ということではありません。聖書は罪を深いものと捉えています。ですから、罪は簡単に赦されるものではありません。罪は誰に対して犯しているのかと言いますと、神に対して犯しているのです。ですから、その神に赦されなければなりません。ですが、神は義しく聖いお方ですから、罪をとても嫌われます。私たちはどれほど一生懸命頑張っても、自分の罪を償って精算することはできません。何故なら、また神に対して罪を犯してしまうからです。もし、自分自身で罪を償って清算しようとするなら方法は1つしかありません。それは神の審きを受けることです。神の審きを受けてしまいますと、自分の罪を償い精算することはできますが、赦されることはありません。何故なら、神の審きを受けるとは死を意味するからです。ですから、どれほど人が努力しても赦される方法はないのです。
 そのような私たちに、神は赦す方法を取ってくださったのです。私たちが神の審きを受けずに済む方法を取ってくださったのです。それがイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは神であられるのに、人としてこの世に誕生されました。イエス・キリストは神ご自身ですから、罪というものを持ってはおられません。その罪のないお方が人として誕生され、人として私たちの代わりに神の審きを受けてくださったのです。それが十字架です。人はそのイエス・キリストの十字架を信じることによって、自分の罪が赦されるのです。何故なら、それが神の私たちへの約束だからです。私たちの罪は神に対して犯しているのです。その神が赦してくださる方法は、私たちの代わりに神の審きを受けてくださったイエス・キリストの十字架を信じることによってなのです。だから、人は信じることによって救われるのです。
 私たちの罪というのは、自分の行いよって償い精算し赦されるものではありません。絶対に赦されないものだから、神は「信じるだけで良い」という方法を取ってくださったのです。でも、それは決して無償というものではありません。イエス・キリストの尊い命が償われているのです。私たちは、そのことを深く心に刻みつける必要があります。何の犠牲もなく自分の罪が赦されたのではなく、イエス・キリストの命が犠牲となられたのです。「犠牲を払う」というのが贖いです。私たちの罪は、イエス・キリストによって贖われたのです。それほど、私たちは神に愛されている存在なのです。

3)神の栄光を現すものだから
 そのことを語ったパウロは、その後の20節の後半で「     」と語っています。では、「自分の身体をもって神の栄光を現す」とはどういうことでしょうか。品行方正な生活を過ごすことでしょうか。聖い生活を過ごすことが神の栄光を現すことなのでしょうか。ですが、神を信じていない人も品行方正な歩みをされておられます。では、福音を宣べ伝えることが神の栄光を現すことなのでしょうか。確かに、これは神の栄光を現すことです。しかし、パウロがここで語っていることはそのようなものではありません。では、パウロがここで語ろうとしている神の栄光を現すとはどういうことでしょうか。
 20節後半の最初で「ですから」と語っています。この「ですから」ということばは、イエス・キリストが誕生されたことを天の御使いたちに告げた後、羊飼いは「さあ、ベツレヘムへ行って」と言いました。その「さあ」と同じことばです。すなわち、積極性を表現していることばです。パウロは20節の前半で、「あなたがたは、イエス・キリストがご自身の命を犠牲にしてまで、あなたがたの罪の身代わりとなって神の審きを受けてくださったほど愛されている」ということを示しました。それを受けての「ですから」なのです。それは、「あなたがたはそれほど神に愛されているのですから、今度はあなたがたが自分の身体をもって、その神の愛に積極的に応える番ですよ」と語っているのです。
 コリント教会の一部の人たちは、「大切なのは霊の身体であって、肉の身体はどうでも良い」と考えていました。そのため、肉の身体を汚すことに罪意識を覚えることはありませんでした。そのような考え方をしている人たちに、パウロは「そうではなく、神はあなたがたの霊なる身体も肉なる身体も贖ってくださったのだから、あなたがたの全身をもって神の栄光を現すように」と勧めているのです。それはどのようにしてでしょうか。「何かをすること」と言いましょうか、何かができることによってではありません。ただ、このような自分が神に愛されていることに感謝し、喜びをもって生きることです。今の自分が神によって生かされていることに感謝し喜んで生きることが、神の栄光を現す生き方なのです。
 何処ででしょうか。それは、今私たちが遣わされている場所でです。職場であれ、学校であれ、家庭であれ、また地域であれ、自分が生かされていることを神に感謝し喜んで生きるのです。これが最高の神の栄光を現す生き方です。何かができることによって、神の栄光が現されるのではありません。羊飼いたちは、誕生されたイエス・キリストを通して、神をあがめ賛美して帰って行きました。帰った後の羊飼いたちの生活はどうだったでしょうか。聖書には書かれていませんから想像するしかありません。おそらく、今までの生活と何ら変わることはなかったと思います。安息日も神殿に行って神を礼拝することはできなかったでしょう。しかし、心の中は喜びに満たされていたと思われます。これは何も「日曜日に教会に来て礼拝しなくても良い」と話しているのではありません。知っていただきたいことは、最高の神の栄光を現す生き方は、今の自分が神に愛され生かされていることに感謝し、喜びをもって生きることなのです。その生き方は誰にでもできます。大人であれ子どもであれ、健常者であれ障害者であれ、誰にでもできます。私たちの身体は、神の栄光を現す身体として与えられているのです。

結)
 私たちの身体は、神の栄光を現すものされています。今の自分が神に愛され生かされていることに感謝し、喜びをもって生きることが神の栄光を現す生き方です。そのことを見える形として表すのが礼拝です。私たちの身体は、何時でも何処でも神の栄光を現すことができます。各々が遣わされている場所で、神の栄光を現す身体として用いられるように祈っていきましょう。


使徒の働き2:1~4「神の証し人として」  17.06.04.

序)
 本日はペンテコステの日です。ペンテコステとは、1節にも書かれていますように「五旬節」とも呼ばれ、「50日目の祭」という意味です。レビ記23:15~16に書かれていますように、過越しの祭の翌日から数えて7週目の日のことです。申命記16:10に「7週の祭」と書かれていますように、「7週の祭」とも呼ばれています。なのに、何故使徒の働きでは「五旬節」という言い方になっているのかと言いますと、「ペンテコステ」ということばの訳し方の問題です。今年の秋に出版されます新しい聖書ではどのように訳されているか分かりませんが、「旬」というのは「10日」という意味です。1ヶ月を「上旬」「中旬」「下旬」と10日毎に分けています。10日が5回過ぎたのですから「五旬節」と訳されているわけです。この日は、イエス・キリストが甦られてから50日目であり、イエス・キリストが天に昇られてから10日後に当たります。この日を境として、イエス・キリストを信じる人は変えられたのです。どのように変えられたのかと言いますと、神の証し人として変えられたのです。今朝は、このペンテコステの日に、キリスト者がどのようにして神の証し人として変えられたのかを共に教えられたいと願っています。

1)共に祈り合うことによって
 イエス・キリストを信じる人たちは、復活のイエス・キリストと出会ってすぐに福音を宣べ伝えたわけではありません。やはり、ユダヤ教指導者たちを恐れていたのです。そのような彼らが神の証し人とされた第1は、共に祈り合うことによってです。1節には「みなが一つ所に集まっていた」と書かれています。彼らは集まって何をしようとしていたのでしょうか。15節には「今は朝の9時です」と書かれています。朝の9時というのは、ユダヤ教の祈りの時間です。ユダヤ教の人たちが神に心を向ける時間です。イエス・キリストを信じる人たちも、祈りを通して神に心を向けようとしていたのです。1:14には「みな心を合わせて祈りに専念していた」と書かれています。この彼らが集まった場所は、マルコの母の家だと考えられています。ですから、2:1の場所もマルコの母の家だったと考えられます。彼らは祈りに専念するために集まったのです。今日で言います祈祷会を持つために集まったのです。
 神に心を向けるものは祈りです。形式的な祈りではなく心からの祈りです。へブル10:25に「ある人々のように…ありませんか。」と書かれています。これは教会の集会のことを指しています。聖書は教会の集会を重んじています。教会の集会には、毎週日曜日に行われています主日礼拝があります。また、週の半ばである水曜日には祈祷会が持たれています。祈祷会も教会の集会であり神の集会です。聖書は、祈祷会が重要なものであることを示しています。何故でしょうか。祈祷会というのは、心を合わせて共に神に祈る場だからです。祈りとは、神との会話です。会話というのは一方通行ではありません。自分も話しますが相手のことばも聴きます。一方通行だけなら、それは会話ではなく訴えになってしまいます。祈りの中には訴えの部分もありますが、決して訴えだけで終わるものではないのです。祈祷会というのは、みなが心を合わせて共に祈る場です。そして、みなが共に神のことばを聞く場でもあるのです。祈祷会というのは、群れの神との会話の時でもあります。
 初代教会は、みなが心を合わせて祈りに専念していました。イエス・キリストの約束を信じ、その時が来るのを待ち望む祈りから始まったのです。彼らは自分たちが神に示されたとき、それに聞き従えられるようにと祈り備えていたのです。聖書は、「神を信じている者であるなら主に示されたとき、すぐに聞き従うことができる」とは語ってはいないのです。むしろ、「神を信じている者であれ、神に聞き従うことができるのは祈り備えというものがあるからだ」と語っているのです、初代教会の始まりは、みなの祈り備えから始まったのです。ですから、神に示されたとき神の証し人として立つことができたのです。
 私たちは日々の証しの生活と福音宣教が大切なことを知っています。しかし、そのことを実践するためには、祈り備えがあってできるものでもあります。祈りは個人でもできるものです。ところが初代教会は、みなが心を合わせて祈り備えていました。何故でしょうか。みなが心を合わせて祈り備えるのは、心を一つにすることだからです。神によって集められた群れが心を一つにするということは、群れの歩みにおいて大切なことです。群れがバラバラだと一致をもって歩むことができません。同じ群れとして共に歩めなくなってしまいます。初代教会は群れが一つとなって神のすばらしさを現すために、みなが心を合わせて祈り合っていたのです。神によって集められた群れが心を一つにして歩むには、共に祈り合うという備えが大切なのです。初代教会は、共に集まって祈り合うことによって、神の証し人として用いられるように変えられたのです。
 「祈祷会は教会の霊的バロメーター」と言われています。先週の礼拝に韓国の曺姉が来られました。茶菓との時に、高見姉が「メッセージを聞いているときの姿勢を学ばされた」というようなことを話されていましたが、実は語っている私も圧倒されていたのです。今まで、あのような姿勢でメッセージを聞かれている方にお会いしたことがなかったのです。愛知県に来る前は内灘聖書教会という所で奉仕していました。その教会は、当時100名を超える礼拝出席者でした。でも、あのような方はおられませんでした。「日本人と韓国人の国民性」というのもあるのかもしれません。ですが、メッセージをしながら「これが韓国のクリスチャンか」というのを思わされました。「韓国の教会はよく祈る」と言われています。彼女の姿勢を通して、そのことがよく分かったようにも思えます。私たちの教会も、共に集まって祈る群れとして成長させられたいものです。

2)御霊に満たされることによって
 初代教会が神の証し人として変えられた第2は、御霊に満たされることによってです。初代教会の人々が共に祈り合っていたとき、突然響きが起こり聖霊が一人ひとりの上に留まりました。決して一部の人ではありませんでした。聖霊が一人ひとりの上に留まることの意味は何でしょうか。1つは、神は一人ひとりをお取り扱われるということです。神は私たち一人ひとりを知っておられます。私たち一人ひとりに何があり、何がないのかを御存知です。そして、神はないことを責められる方ではありません。私たちは足りない所に目を留めてしまいやすいです。そして、「ここがいけない」とか「この所を直さないと」と責めてしまいやすいです。神は、確かに私たちの不必要なものを取り除かれる方です。ですが、決して責めることはされません。神は、私たちを責めて不必要なものを取り除かれるのではなく、時間をかけて良い時に行ってくださるお方です。
 その一番良い例が、このペンテコステの日だと思えます。弟子たちはイエス・キリストを見捨てて逃げ、ユダヤ教指導者たちを恐れて家の中に閉じ籠っていました。甦られたイエス・キリストは、弟子たちの前に現れたとき、弟子たちの行為を責めることをされませんでした。イエス・キリストが甦られたときの弟子たちは、まだユダヤ教指導者たちを恐れていたのです。イエス・キリストは、そのことも責められませんでした。イエス・キリストは、そのときに弟子たちを責めて福音を伝えるように命じることもできたのですが、敢えてそのようなことをされなかったのです。むしろ、使徒1:4に書かれていますように、「エルサレムを離れないで…待ちなさい。」と命じられたのです。そして、ペンテコステの日に神の約束が実現したのです。神は良い時を定めておられ、その良い時に事を行われるお方です。それは一人ひとりを御存知だからです。
 神は私たちの足りない所も御存知であり、不必要なものも取り除いてくださるお方です。でも、すぐにではありません。神は良い時を備え定めておられます。そして、時間をかけて不必要なものを取り除いてくださいます。そして、私たちにとって最も良い時に事を行ってくださいます。御霊が一人ひとりの上に留まったとは、私たち一人ひとりを神はお取り扱ってくださることを表しているのです。
 もう一つは、神は一人ひとりを用いられることを意味しています。神は一人ひとりにお取り扱われるだけでなく、一人ひとりを用いてくださるお方でもあります。聖霊は一人ひとりの上に留まり、一人ひとりは御霊が話させてくださる通りに話し出しました。神は一人ひとりを用いられたのです。一人ひとりが話し出したとは、一人ひとりの力量に応じて話し出したということです。全員が同じことをしたということではありません。神は私たちの全てを御存知であり、私たち一人ひとりの力量を御存知です。神は、私たちの力量に応じて用いてくださるお方なのです。ですから、他人と比べる必要もないのです。
 私たちは、ついつい他人と比べてしまいやすい者です。他人と比べて安心感を得ようとしてしまいやすい者です。しかし、一人ひとりは違います。違いますから比較することもできませんし、比較する必要もないのです。ローマ12:3には「神が…応じて」と書かれていますし、エペソ4:7には「私たちは…従って」と書かれていますし、4:16には「一つひとつの…力により」と書かれています。聖書は、一人ひとりが違うと語っています。ですから、「ある人にできて、ある人にはできない」という現象が生じるのです。そして、生じて当り前なのです。何故なら、一人ひとり違うからです。一人ひとりが違うということは、神は一人ひとりの内に働いておられることを表してもいます。神は私たち一人ひとりを用いてくださいます。初代教会のキリスト者は、その御霊に満たされることによって、神のお取り扱いを受け用いられ、神の証し人となったのです。

3)語ることによって
 初代教会が神の証し人となった第3は、語ることによってです。御霊に満たされた人々は、御霊が話させてくださる通りに他国のことばで話し出しました。ある立場の人々は、このことから「異言」というものを強調されます。異言とは、私たちには理解できないことばで突然話し出すものです。確かに初代教会の人々は、御霊に満たされて他国のことばで話し出しました。ですが、何のために他国のことばで話し出したのでしょうか。この日はエルサレムの町で祭が行われており、外国に住んでいた人々もエルサレムの町に来ていました。ですから、当然外国のことばを話す人々もいたのです。初代教会の人々が他国のことばで話し出したのは、外国に住んでいる人々にも分かるためです。ですから、他国のことばで話し出すことが重要なのではありません。重要なことは、話した内容が伝わることです。
 では、初代教会の人々が話した内容とは、どのようなものなのでしょうか。11節には「私たちの…聞こうとは」と書かれています。一人ひとりが話し出したことは、神の大きなみわざだったのです。では、神の大きなみわざとは何でしょうか。一人ひとりに対する神のお取り扱いや用いられ方は違います。ですが、根本的なものは同じです。その根本的なものとは、「神はあなたを愛しておられ、あなたを罪から救ってくださり用いてくださる」ということです。初代教会の人々は、その神の大きなみわざを語り出したのです。別のことばで言いますと、福音を話し出したのです。初代教会の人々は、福音を話し出すことによって神の証し人となったのです。
 福音を話す。救いの証しを話す。これらは、神の証し人として歩むために欠かすことのできないものです。「福音宣教」と聞きますと、何か難しいようにも聞こえたりもします。個人伝道をしなければならないかのように思えたりもします。ですが、自分の救いの証しを話すことも、すばらしい福音宣教なのです。神は私にどのようなことをしてくださったのかという証しは、すばらしい神の大きなみわざを語ることになるのです。それは決して難しいものではありません。何故なら、自分の体験を話せば良いことだからです。経験しなかったことや知らないことを話すのではなく、自分が経験したことや知っていることを話すだけで良いのです。神はあなたにどのようなことしてくださったでしょうか。そのことをもう一度思い巡らしましょう。そして、自分の体験を人に話す準備をして、神の証し人として用いられたいものです。

結)
 今日はペンテコステの日です。初代教会の人々が、神の証し人として立った日です。彼らが神の証し人として歩むようになったのは、共に祈り合い御霊に満たされて福音を話すことによってです。私たちも神の証し人として立てられています。私たちが神の証し人として歩むために大切なことは何でしょうか。それは共に祈り合うことであり、御霊の助けをいただくことであり、福音を語る事です。そのことは、2000年前も現代も変わりません。私たちも神の証し人として歩まされましょう。

Ⅰコリント6:13~17「神と交わる身体」  17.05.28.

序)
 今月に行われました合同聖会の第1回目の講演で、講師の岸本先生がヨハネ15:1~16の箇所から講演してくださいました。枝が幹から離れると枯れてしまうのと同様に、キリスト者も神から離れると大変なことになってしまうということを話されました。これは神と人とは深い繋がりがあることを示しています。それと同じように、霊と肉体も深い繋がりがあります。今朝は、私たちの肉体的身体はどのようなものであるかを共に教えられたいと願っています。

1)神のための身体
 まず、私たちの身体は神のためにあるということです。コリント教会の一部の人たちは、「人にとって大切なものは肉体ではなく霊である」と考えていました。この13節前半のことばは、コリント教会が愛用していたことばと考えられています。というのは、当時はグノーシス主義というのがありました。「グノーシス」とは「知識」という意味で、「真理を知る」という意味を持った哲学と言いましょうか宗教的なものです。この立場は「霊は善であるが肉体は悪である」という考え方です。それで「肉体は滅びるが霊は滅びることはない」として、「大切なのは肉体ではなく霊である」という立場です。これは二元論的な考え方です。実は、キリスト教会もこのグノーシス主義の影響を受けていました。そのため、肉体のことを軽んじるキリスト者が現れていました。その一部がコリント教会の一部の人たちなのです。
 ですから、彼らは「自分たちはイエス・キリストによって自由にされ霊は救われているのだから、悪である肉体は汚れていても救いに関係がないから何をしても赦される」と捉えていたのです。この13節前半のことばは、「食生活は人間の救いに関係がない」という捉え方です。確かに、ある物を食べたら肉体が汚れてしまい罪にあるというものではありません。全ての食物は神から与えられているものです。ですから、その食物を感謝して食べれば良いのです。マタイ15:11の前半で、イエス・キリストご自身も「口に入る物は人を汚しません。」と話されたことが書かれています。大切なことは、与えられたものを神に感謝して食べることです。それに関してはパウロも賛成しています。「だからと言って何をしても良いのか」と言いますと、「そうではない」ということもパウロは語っているのです。
 何故でしょうか。その根拠が13節の後半に書かれています。パウロは「身体は主のためである」と語っています。この地上の生活で神のすばらしさを現すことができるのは、霊によってではなく肉体である身体を通してです。すなわち、日々の何気ない生活を通して神のすばらしさが現されるのです。ある人が神を信じていても、その人の日々の生活がどうしようもないものであれば、神を信じていない人は「自分も信じてみたい」という気持ちは起こりません。神のすばらしさを現す証しは、私たちの肉体的な身体を通してなされるのです。ですから、霊的な信仰と肉体的な身体は深い関係があるのです。
 そのことを何よりも表しているのがイエス・キリストの復活です。イエス・キリストの復活は、霊だけの復活ではなく肉体による復活でした。そのことが、ヨハネ21:12~14に「     」と書かれています。イエス・キリストは復活された後、弟子たちと一緒に食事をなさいました。このことは、イエス・キリストの復活は霊だけでなく肉体を伴った復活であることを示しています。もし、救いが霊だけであるならば、肉体を伴う復活はありません。しかし、イエス・キリストは肉体をもって甦られました。これは「聖書の語っている救いとは、霊だけでなく肉体にも及ぶ」ということを示しているのです。イエス・キリストは、肉体を伴う復活を通して父なる神のすばらしさを現されたのです。何故でしょうか。それは、肉体なる身体は神のすばらしさを現すために与えられているからです。

2)キリストの一部
 第2に、私たちの身体はキリストの一部であるということです。神を信じる者の身体がキリストの一部ですから、私たちの肉体は神のすばらしさを現すことができるのです。ローマ11:16~20に「     」と書かれています。私たちの肉体が神のすばらしさを現すことができるのは、私たちがキリストに接ぎ合わされたからです。16節の後半に「根が聖ければ、枝も聖いのです。」と書かれています。接ぎ木というのは、良い実を結ぶために行われる品質改良の一つです。良い実を結ぶ実気に接ぎ木された枝は、良い実を結ぶことができます。何故なら、良い実を結ぶ幹から良い栄養分を受けるからです。ですから、良い気に接ぎ木された枝は、その良い実を結ぶ幹の一部となっているのです。
 聖い実を結ぶことができなかった私たちが、聖い実を結ぶことができるために、私たちはイエス・キリストという幹に接ぎ木されたのです。ですから、私たちの身体はキリストの一部なのです。私たちがキリストの身体の一部となったのは、私たちの行いが良かったからではありません。接ぎ木というのは自然にできるものではありません。その作業をする人が必要です。それと同じように、私たちがキリストに接ぎ木されるのも、私たちをキリストに接ぎ木してくださる方が必要なのです。私たちをキリストに接ぎ木してくださったのは神ご自身です。そして、私たちが今キリスト者として立てられているのも、自分の力で立っているのではありません。キリストの幹の栄養分を受けることによって立つことができるのです。そのように考えますと、私たちが神を信じる者とされたのは、ただ神の憐れみと恵みによってであるということを知らされるのではないでしょうか。
 また、エペソ1:23には「教会はキリストの身体であり」と書かれています。さらに、ローマ12:5には「キリスト者は、キリストの身体の各器官である」ということが書かれています。各々の器官は、身体から切り離すことはできません。もし、器官のどれかが身体から切り離されたら、その器官は機能することができなくなり死んでしまいます。それだけでなく、身体自身も痛みを負いますし、他の器官に負担をかけてしまいます。ですから、器官と身体は切り離すことはできません。身体は頭で考えたことを、各々の器官を通して健全に機能することができます。コロサイ1:18には「御子はそのからだである教会のかしらです。」と書かれています。イエス・キリストは頭なのです。そして、そのかしらなるイエス・キリストは、身体の器官である私たちを通してご自身のすばらしさを現されるのです。それが意味していることは何でしょうか。それは私たちの身体もキリストの一部であるということです。ですから、神は私たちの身体を通してご自身のすばらしさを表してくださる方なのです。ですから、私たちの身体は「神のすばらしさを現す」という良い実を結ぶことのできる身体なのです。だから、パウロはその身体を聖いものとして保ち続けることを勧めているのです。

3)一心同体
 コリント教会の一部の人たちは、「救いは霊的なものであるから、肉体である身体はどうでも良い」という二元論的な考え方をしていました。そのため、不品行なことをしても罪意識を抱くことがありませんでした。そのことに対して、さらにパウロは16~17節で「     」と語り、霊と身体は繋がりがないのではなく、むしろ深い繋がりがあることを示しています。先程も話しましたように、心にあるものが肉体である身体を通して表されます。それと同じように、霊的なものも肉体であるからだを通して表されるのです。
 イエス・キリストは、マタイ23:16~22で「     」と話されました。ユダヤ教指導者たちの考えは、外側よりも内にあるものの方を重視する考え方です。そのような考え方をするユダヤ教指導者たちに対して、イエス・キリストは「内にあるものを聖める外側の方も同じように大切である」と語られました。「どちらが大切であるのか」というのではなく、「どちらも大切である」と話されたのです。ユダヤ教指導者たちの考え方は、まさしく二元論的な考え方です。実際に二元論的な考え方をしていたユダヤ教指導者たちは、表面的には着飾っていましたが内面的なものは汚 れていました。これはコリント教会の一部の人たちと同じです。結局、二元論的な考え方をする人は、内面的には聖められることはないのです。何故なら、内にあるものが形として表れてくるからです。すなわち、心にあるものが肉体を通して表されるのです。ですから、心と身体は一つなのです。そして、霊的身体と肉体的身体も一つなのです。
 ですから、その肉体的身体が何と交わるかは、とても大切なことでもあります。神を信じる者の身体は、キリストの身体へと変えられています。ですから、15節で「     」と語っているのです。この「遊女」とは不品行を表しています。さらに言えば、「この世のこと」と言っても良いでしょう。そして、「交わる」とは優先順位です。パウロは、この世のことを最優先する身体とするのを避けるように勧めているのです。マタイ6:19~21に「     」と書かれています。私たちの肉体的身体は自分が大切にしているもののために働きます、この世のことを最優先するということは、その人の心もこの世のことにあるということです。ですから、心と身体は切り離すことができないのです。だから、パウロは16節で「     」と語っているのです。
 そして、17節で「     」と語ってもいます。「主と交わる」とは、神を最優先するということであり、神を自分の宝とするということです。それは、神と一つになるということでもあります。神と一つになるということは、自分が何のために存在し生かされているかという、人生で最も大切なことを知るということでもあります。何故なら、全てのものは神によって造られたからです。自分が何のために存在し生かされているかを知ることは、その人にとって一番大きな喜びです。その喜びを持つことができたのは、イエス・キリストの十字架の贖いによってです。だから、その神の恵みに正しく応答する歩みを選び取ることをパウロは勧めているのです。何故なら、心と身体は一つだからです。

結)
 心と身体は別々のものではなく一つです。そして、私たちの身体は神と交わる身体として造られています。神と交わることのできるものは、この地上において人間しか存在しません。私たちは神と交わる身体が与えられているのです。私たちの歩みの先には、その神と交わる道とこの世と交わる道とが置かれています。そのような中で、神と交わる道を選び取る者として歩まされるように祈っていきましょう。


Ⅰテモテ1:16~17「見本として」  17.05.21.

序)
 本日は、私たちの教会が属していますJBCの献身者の日です。これは毎年語っていますが、私たちの団体から新たな献身者が起こされることを願い設けられたものです。この5年程では、名古屋教会の馬場先生、知多教会の賢作先生、松阪教会の古川先生らが、東海神学塾を卒業されています。そして、今は知多教会から献身された山本圭介神学生が今年度より教職者課程で学んでおられます。さらに続いて新たな献身者が起こされることを祈っていただきたいものです。現在、無牧の教会が3つあります。さらに、75歳を超えた先生が牧会されている教会が2つありますし、光明の伝道所も日本人教職者を必要としています。そのように考えますと、6つの教会と伝道所に教職者が必要とされていることが分かります。単純に毎年1人ずつ献身者が起こされたとしても6年かかります。すると、6年後には津教会と名古屋教会が必要となり、その後は春日井教会と伊勢教会が必要となってきます。今、私たちの団体はそのような状態であるということを覚えて祈っていただきたいと願っています。今朝は、献身者の日にあたり、献身について共に教えられたいと願っています。

1)イエスの目的
 まず、イエス・キリストは何のためにこの世に来られたのかと言いますと、今朝の箇所では「罪人を救うため」と書かれています。御存知のように、罪人とは的外れな生き方をされている人のことです。「的外れ」というのは的を外すことです。すなわち、反れてしまうことです。間違った方向に進むことです。聖書が語っています罪とはそういうことです。神は人を造られたとき、目的・目標をもって造られました。しかし、人はその生き方から反れた生き方をするようになってしまいました。ですから、「罪人」というのは、本来の人の生き方から反れた歩みをしている人のことです。法律を破った人のことではないのです。
 では、神は人をどのような歩みをするために造られたのでしょうか。一言で言いますと、自分を造ってくださった神に感謝し喜んで生きる者として造ってくださいました。ところがどうでしょうか。人は、その神に感謝し喜んで生きるのではなく、その神を神と認めない生き方をするようになりました。神を神と認めないのですから、当然その神に感謝することもしませんし、喜んで生きることもしません。そのため、自分が何のために存在しているのか、何に向かって生きているのかが分からないのです。それは何度も話していますように、人生の迷子になっている状態です。どの方向に進んで良いのかが分からないのです。道が分からなくなったときは2つのことを確認する必要があります。それは目的地と現在地です。いくら目的地が分かっても現在地が分からなければどの方向に進めば良いのか分かりません。また、現在地が分かっても目的地が分からなければどの方向に進めば良いのか分かりません。ですから、目的地と現在地を知ることが大切です。
 「イエス・キリストは、人生の迷子になっている状態の人を救うために来られた」と聖書は語っているのです。すなわち、人生の迷子から救うために来られたのです。それは、今の自分がどのような状態なのかを知り、どの方向に進めば良いのかを気づかせるために来てくださったのです。そして、それが聖書の語っている救いなのです。ですから、「自分が罪人である」というのを知るのは悪いことではありません。何にしてもそうですが、今の自分を知るのは大切なことです。仕事にしてもそうではないでしょうか。仕事において今の自分を知るというのは、自分の力量を知るということです。自分の力量を知っておかなければ、力量以上のものが与えられたら押し潰されてしまうだけです。10の力量に対して12や15のものが与えられたら頑張ってできるかもしれません。それによって成長するわけですが、10の力量に対して100のものが与えられたら押し潰されてしまうだけです。今の自分を知ることによって、何が必要であるかが分かってきます。それは仕事だけでなく、人生の歩みにおいても同じです。今の自分がどのような状態であるのかを知るのは大切なことです。そしてイエス・キリストは、その状態から正しい方向に歩ませるためにこの世に来てくださったのです。

2)イエスを知る前のパウロ
 そのように語ったパウロは、自分のことを「私はその罪人のかしらです。」と告白しています。多くの人は人生の迷子になられています。しかし、自分が人生の迷子になっていることに気づかないでいます。パウロもそうでした。パウロは「自分が人生の迷子になっている」とは考えてもいませんでした。むしろ、「自分は迷子になんかなっておらず、正しい道を歩んでいる」と確信していたのです。以前にも話しましたが、私が急いでワイシャツを着ようとしていたとき、最後のボタンが余ってしまうということが度々ありました。「何故ボタンが余るのか」と言いますと、最初にボタンをはめるとき1個ずれてはめてしまうからです。ですが、その途中では気づかないのです。何故なら、きちんとボタンは穴にはめられているからです。そして、最後のときボタンが余っていることを知り、最初にはめた所が間違っていたことに気づくのです。すると、もう一度ボタンを全部外してはめ直さなければなりません。「余ったから」と言って、最後のボタンを最初の穴にはめることはできません。もし、そんなことをしたらワイシャツは変な格好になってしまいます。
パウロも「自分が人生の迷子になっている」なんて気づいていなかったのです。むしろ、「自分は正しく生きている」と思っていたのです。彼は当時教えられていた神の律法を熱心に守っていました。彼自身、その行いに対しては「誰からも非難されることはない」と断言できるほど熱心に守っていたのです。そして、「イエス・キリストを信じている人たちは、神の働きを妨害している人たちだから排除しなければならない」と思い、一生懸命イエス・キリストを信じている人たちを捕えては牢獄に入れていたのです。今朝の箇所でパウロは、「自分は罪人のかしら」と語っています。「かしら」ということは「トップ」ということです。パウロは「自分は的外れな歩みの先頭を歩んでいた」と言っているのです。
先ほど、「パウロは『自分は的外れな歩みの先頭を歩んでいた』」と語りましたが、今朝の箇所では「罪人のかしらです。」と現在形で書かれています。これは「今も自分は的外れな歩みの先頭を歩んでいる」ということではありません。パウロは的外れな歩みから的を射た歩みへと変えられましたが、今も過去の自分の歩みを自覚しているのです。それは「過去の罪責感をずっと背負ったままでいる」というのではなく、「過去の過ちがあったから今の自分がある」ということの自覚です。パウロは「ダマスコという町にイエス・キリストを信じている人たちがいる」と聞いて、ダマスコの町に行って彼らを捕えようとしました。先週の礼拝でも話しましたが、その途中で復活されたイエス・キリストと出会いました。それによって、「自分が的外れな歩みをしている」ということに気づかされたのです。その後のパウロの歩みは、イエス・キリストを信じ従う者として歩み続けました。
パウロを変えたのは出会いです。「どのような方に出会うか」というのはパウロだけでなく、私たち一人ひとりにおいても大切なことです。16節でパウロは「あわれみを受けた」と語っています。今まで自分がしてきたことを責められるのではなく憐れまれたのです。「憐れむ」というのは、相手の気持ちを察することでもあります。イエス・キリストは、的外れな歩みをしているパウロを責められたのではなく、パウロの心の中を察しられたのです。パウロがどれほど大きなショックを受けたかを察しられ、パウロがこれから前向きな歩みができるように接しられたのです。イエス・キリストとはそのようなお方なのです。パウロはそのようなイエス・キリストと出会ったのです。その出会いは私たちも同じではないでしょうか。私たち一人ひとりも、イエス・キリストの深い憐みを受けたのではないでしょうか。

3)見本として
 パウロは自分を憐れんでくださるイエス・キリストと出会ったことにより、そのイエス・キリストを信じ従う歩みへと変えられました。そして、神はそのパウロを用いられました。では、神はパウロをどのような者として用いられたのでしょうか。パウロ自身、16節で「見本にしようと」と語っています。神がパウロを憐れみ寛容を示されたのは、今後イエス・キリストを信じ永遠のいのちを受ける人たちの見本となるためです。パウロは模範的なキリスト者としてではなく、見本的なキリスト者として神に用いられたのです。パウロは、イエス・キリストを信じる前までの自分がどれほど間違った歩みをしていたかを痛感させられていたのです。「ただ単に信じない」というのではなく、信じている人を迫害していたのです。しかし、「そのような者をも神は愛してくださり用いてくださるお方である」ということを、自分自身を通して伝えていたのです。神は正しい人を愛し用いてくださるだけでなく、信じない人や迫害する人をも愛し用いてくださるお方であるというのを、自分を見本として伝えていたのです。
ともすると、私たちは「献身者というのは教会員の模範となるような人」と思いやすいのではないでしょうか。私自身も献身する前まではそのように思っていた1人です。実は、今朝の箇所は私が献身へと導かれた箇所です。医療機械の営業マンとして働いていた私は転職を考えていました。牧師と相談しつつ、「できればクリスチャン企業に」と話していました。丁度そのとき、教会に奥山実先生を招いて秋の伝道集会を開いていました。牧師は「奥山先生も来られていることだし、一緒に相談していただこう」となりました。すると、奥山先生は「一層のこと牧師になっちゃいなさい」と言われたのです。私は心の中で「なんとええ加減な」と思ったのです。私自身、今までの素行が良くありませんでしたし、当時の牧師を見ていますと収入に対して見返りは少ない。ですから、牧師なんてなりたくもありませんでしたから考えたこともありませんでした。そして、「私は牧師なんて向いていません」と返事したのです。すると、奥山先生は「牧師は牧師に向いていない人がなるのだ」と話されたのです。そのことばがずっと引っかかっていました。ある日、今朝の箇所に遭遇し「模範でなく見本で良いのだ」ということを知らされたのです。「こんな者でも神は愛してくださり用いてくださる」という見本的キリスト者で良いということを知らされたのです。そして、献身への決意へと導かれたのです。

結)
今日の「献身者の日」というのは、直接献身者が起こされることを願い設けられたものですが、広い意味で言えばキリスト者は全員神への献身者でもあります。ともすると、「模範的な生き方をしなければ」と思いやすいですが、もっと力を抜いて良いのです。神であられる主は、私たちに模範的な生き方を願っておられるのではなく、見本的な生き方を願っておられるのです。その「見本的な生き方」というのは、「このような者でも神は愛してくださり用いてくださる」という生き方です。私たち一人ひとりが、見本的なキリスト者として用いられるように祈っていきたいものです。それと同時に、私たちの団体から新たな直接献身者も起こされるように祈っていきましょう。


Ⅰコリント6:12「本当の自由」  17.05.14.

序)
 キリスト教は「あれをしちゃダメ」とか、「これをしちゃダメ」という厳しい規則があるように思われがちです。実際に、偶像崇拝につながることはしません。そのためでしょうか、「堅苦しい」と思われがちです。そして、「私は何にも縛られずに自由に生きたい」と言われる方もおられます。「何にも縛られず自由に生きたい」というのはすばらしいように聞こえます。しかしながら、そのように言われる方のことばをよく聞きますと、その意味は「自分のしたいことをして、したくないことはしない」という自分勝手な生き方のようです。何か「自由に生きる」ということと、「自分勝手に生きる」ということを同じように考えておられるようにも思えます。ですが、自由に生きることと自分勝手に生きることとは違います。今朝は、本当の自由について共に教えられたいと願っています。

1)コリント教会の捉え方
 まず、コリント教会の一部の人たちは、自由についてどのように捉えていたのでしょうか。彼らは「イエス・キリストを信じることによって本当の自由が得られた」と理解していました。ですから、「自分たちは全てのことが許されている」と思っていたのです。彼らが捉えていた自由とは「何をしても構わない」というものです。彼らは福音を聞いて信じた人たちです。なのに、何故そのような捉え方になってしまったのでしょうか。それは、救いについての理解が不足していたからです。「何をしても構わない」と捉えている人たちは、「救いは肉体的なものではなく霊的なもの」と捉えていたのです。
 事実、イエス・キリストを信じても肉体的に変化するわけではありません。以前にも触れましたが、私は顔が大きい方ですが、イエス・キリストを信じたら小さくなったわけではありません。また、私が神学生のときでしたが、私の友人の一人には音楽の賜物があり、それを神学校の中で演奏する時がありました。そのようなとき、まず紺色か黒色のズボンをはきます。ところが、彼は紺色のズボンを家に置いてきてしまったのです。そのため、私に「紺色のズボンを貸してほしい」と言ってきました。彼は私よりも5㎝ほど身長が低いのです。ですから、私は「ちょっと長いかもよ」と言って貸しました。ここまで話しましたら大体想像がつくと思いますが、私が貸したズボンは彼にピッタリだったのです。そのときはショックでした。イエス・キリストを信じても足が長くなるわけではありません。イエス・キリストを信じても肉体的なものは何ら変わることはありません。変わるのは心であり霊的な面です。
 ですから、コリント教会の一部の人たちは、「大切なのは霊的な面であり、肉体的なことは大切なことではない」と捉えていたのです。そのため、「肉体的な身体が行うことは重要なことではなく、救いについて何の影響もない」と捉えていたのです。確かに、「イエス・キリストを信じることによって本当の自由が得られる」という理解は正しいのですが、彼らは本当の自由の意味を間違って理解していたのです。

2)全てが益にはならない
 では、聖書が教える本当の自由とは何でしょうか。今朝の箇所に「     」と書かれています。パウロは「全てのことは許されているが、2つの点をわきまえるように」と勧めています。その1つは、全てが益になるわけではないということです。何をしても良いのですが、益にならないものもあることを示しています。ここに書かれています「益」とは、損得問題を意味しているのではありません。人間関係の状態を表しているのです。それは、「どんなことをしても良いけれども、それら全てが人間関係を良くするとは限らない」ということです。
 では、何故パウロは今朝の箇所で「益」ということばを用いているのでしょうか。益とは利益のことです。本当の自由について間違って理解していた人たちが求めていたものは自分の利益だったのです。自分の利益とは何かと言いますと自己満足です。自己満足を優先する生き方です。自己満足を最優先しますと、他の人との関係は悪くなってしまいます。「そのことを弁える必要がある」とパウロは語っているのです。何度も話していますが、私たちは関係の中に生かされています。関係というのは見えませんが、形として表れてくるものでもあります。
 マタイ12:34に、イエス・キリストが「心に満ちていることを口が話すのです。」と語られたことが書かれています。私たちは心の中にあるものが、口や表情や行為で表してしまいます。その人に対する思いが見える形として表れてきます。良い思いを持つ人に対しては良い思いを与えますが、良く思わない人に対しては嫌な思いを与えてしまいます。時には傷つけてしまいます。これは人に対して利益をもたらしているのではなく、損害を与えていることになります。ここでパウロは、「本当の自由とは、人に害を与えるものではない」ということを語っているのです。
 では、本当の自由とはどのようなものでしょうか。10:24に「     」と書かれています。他人の利益を心がけるというのは義務ではありません。ですから、心がけても良いし心がけなくても良いものです。先週の礼拝で「自由とは選択権があること」と話しました。選択権がないのは自由ではありません。私たちには他人の利益を心がけることもできますし、心がけないこともできます。「そのような中で、他人の利益を心がける方を選んでいくように」というのが、今朝の箇所でパウロが語っていることです。確かに、他人の利益を心がけない方を選ぶ自由もあります。でも、それでは他人に利益を与えることはできません。良い思いを与えることはできません。他人のことを思うとは、その人を愛することでもあります。先週も触れましたが、イエス・キリストは「一番大切な戒めは神を愛し人を愛すること」と話されました。人を愛する方を選んでいくことが本当の自由なのです。私たちがその本当の自由を用いていくことができるように祈っていきたいものです。

3)どんなことにも支配されない
 本当の自由のもう一つは、どんなことにも支配されないということです。パウロは、「本当の自由とは、全てのことが許されている中で、他人の利益になるように心がける方を選んでいくものである」ということを語っています。11節の前半で「あなたがたは…そのような者でした。」と語っています。「そのような者」とは、9節後半~10節に書かれている行為をしていた人のことです。すなわち、神の国を相続できない行いをしていた人のことです。でも、今はイエス・キリストを信じ神の国を相続できる者へと変えられているのです。だから、「神を信じる以前のような人に逆戻りしないように」と願っているのです。それは「神によって変えられたのだから、変えられた者として生きるように。」と願っているのです。
 だから、パウロは「私には全てのことが許されています。」と語り、その後で「しかし…支配されはしません。」と語っているのです。様々なことが選べる中で、神によって変えられた者として生きる方を選んでいく。これがパウロの歩んでいた道でもあったのです。他人の利益を心がけない方を選ぶこともできますが、その方を選ぶことに支配されない。すなわち、自分の欲望に支配されることがない歩みをしていたのです。そのように見ますと、「パウロという人は何とすばらしい人なんだ」と思い、「私なんかそのようなことはできない」と感じてしまうのではないでしょうか。しかし、これはパウロの心の中に戦いがないということではありません。パウロの心の中にも戦いはあるのです。
 Ⅱコリント11:23の中に「私の労苦は彼らよりも多く」と書かれています。そして、その後で自分が遭遇した労苦について挙げています。「労苦」というのは、自分の中に苦しみがあり、その苦しみと戦いがあったことを意味しています。もし、自分の中に苦しみも戦いもなければ「労苦」ということばを用いることはしません。すなわち、パウロが「労苦」ということばを用いているということは、パウロの中に苦しみとの戦いがあったことを意味しています。ですから、パウロはイエス・キリストを信じた後は何の戦いもなかったのではないのです。様々な戦いを経験していたのです。パウロが歩み道には、その戦いから逃れる道もあれば、その戦いと戦う道もあったのです。どちらを選ぶかはパウロの自由です。その自由の中で、パウロは神を信じ従うという苦しみとの戦いの道を選んでいったのです。何故なら、神を愛し人を愛することが本来の人としての歩みであり、本当の自由を獲得することだからです。
 では、何故パウロはいつも神を信じ従う道を選ぶことができたのでしょうか。これはパウロの証しから見ることができます。パウロの証しとは、ダマスコ途上で復活のイエス・キリストと出会ったことです。それまではイエス・キリストを信じることをせず、むしろイエス・キリストを信じる者を迫害していました。そして、ダマスコの町にいるキリスト者を捉えようとしてエルサレムの町を出てダマスコに向かいました。ところが、その途中で甦られたイエス・キリストと出会ったのです。今までパウロは、「自分は神に熱心である」と確信していたのですが、実は神に逆らった歩みをしていたのです。そのことを知ったパウロは非常に落胆したことと思います。今まで熱心にしていたことが「間違いであった」と知ったのですから、それはもうどん底状態だったと想像できます。ですが、神はそのようなパウロを責めることをされず赦されました。いや赦されただけではなく、そのようなパウロを用いられたのです。パウロは、その神の愛に囲まれていたのです。だから、Ⅱコリント5:14で「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と語ることができたのです。パウロが神を信じ従う道を選ぶことができたのは、神に愛されていることを知っていたからです。
 その神の愛は私たちをも取り囲んでいます。イザヤ54:8に「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」と書かれています。そして、10節には「わたしの変わらぬ愛は…契約は動かない。」と書かれています。これが神の私たちに対する約束です。私たちはそれほど神に愛されているのです。私たちもパウロと同様、その神の愛に取り囲まれているのです。

結)
 本当の自由とは、自分勝手に生きることではありません。本来の人として生きることを選び取っていくことです。それは神を愛し人を愛することです。これが本当の自由なのです。自由は心の中に戦いがないことではありません。心の中に戦いが生じるのです。その戦いの中で、神を愛し人を愛する方を選び取っていくのです。私たちが神の愛に取り囲まれていることを覚え、神を愛し人を愛する方を選び取る歩みができるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント6:9~11「自由と責任」  17.05.07.

序)
 先週の水曜日から木曜日にかけて、私たちの団体の合同聖会が行われました。今年は久しぶりに1泊2日の合同聖会が持たれました。私個人としては、久しぶりにゆっくりと姉妹教会の方々と交わりを持つことができ感謝な時でした。日帰りだとあいさつ程度しかできませんが、2日ありますとゆっくりと交わりを持つことができます。今年は「今、豊かな実を結ぶために」というテーマで、川越聖書教会の岸本紘先生が2回の講演をしてくださいました。講演をの中で一番印象に残っているのは「実を結ぶとは、行動の結果を表現している」ということばです。どのような実を結ぶかは、その人の行いによるということです。ある面、それは今朝のタイトルであります「自由と責任」と似たところがあるようにも感じます。今朝は、その自由と責任」について共に教えられたいと願っています。

1)自由が与えられている
 第1に、神を信じる者は愛する自由が与えられています。パウロは9節の前半で「あなたがたは…知らないのですか。」と問いかけています。この「知らないのですか。」というのは、聞いていたにも拘らず、そのことを忘れていたり無視していたりしていることに対して語られていることばです。コリント教会の人々が忘れていたものは、イエス・キリストの基本的な教えです。それは、神を信じる者は神の国を相続するということです。パウロは9節の前半で「正しくない者は神の国を相続できない。」と語っています。ですから、神の国を相続できるのは正しい者だけです。
 では、聖書が語っています「正しい者」とは、どのような人のことでしょうか。コリント教会の一部の人々は、「宗教儀式を行っている者」と理解していたようです。すなわち、「礼拝に毎週出席し、聖書を読んで祈り、教会の奉仕をしてさえいれば神の国を相続できる」と思っていたのです。ですから、「それらをしていたら日常生活はどうでも良い」という捉え方をしていたのです。これは以前にも触れましたが、「信仰は信仰、生活は生活」という二元論的な考え方です。ですから、9節の後半~10節に書かれていることを行っていたのです。そのようなコリント教会の人々の捉え方は間違った捉え方です。
 9節で、パウロは「だまされてはいけません。」と語っています。この「だまされてはいけません。」とは、知らず知らずの間に間違った方向に進んでしまうことを表しています。いつの間にか宗教的行事だけを熱心に行い、日常生活は信仰と切り離れたものとなる歩みのことです。では、何故神の国を相続することに日常生活が関係するのでしょうか。それは私たちが関係の中に生かされているからです。9節後半~10節にかけて様々な罪が取り上げられています。9節後半に書かれています罪は、神と自分との関係を壊してしまうものです。そして、10節に書かれています罪は、人と自分との関係を壊してしまうものです。
 私たちは物質的な社会の中に生かされています。物質的なものは「表面的なもの」ということができます。宗教的行事も表面的なものです。確かに表面的なものも大切です。しかし、表面的なものでは人の心を満たすことはできません。人の心を満たすものは内面的なものです。何度も話していますが、人は物質的なものの中に生かされていますが、実は関係の中に生かされている存在です。イエス・キリストは、律法の専門家から「律法の中で何が一番大切な戒めは何か」と尋ねられたとき、「神を愛することと人を愛すること」と答えられました。
 愛というのは義務的なものではありません。義務というのは、しなければならないものです。ところが、愛は義務的なものではありませんから、「愛さなければならない」というものでもありません。愛しても良いし愛さなくても良いのです。すなわち、選ぶことができるのです。選ぶことができるのが自由です。もし選ぶことができないのなら、それは自由ではありません。私たちには、「神と人とを愛する愛さない」という選ぶ自由が与えられています。そのような中で、神と人とを愛する方を選び続けられるように祈っていきたいものです。

2)責任が与えられている
 第2に、神を信じる者は責任も与えられています。神を信じる者には自由が与えられ、神と人とを愛することのできる存在とされています。私たちもイエス・キリストを信じる前までは、9節後半~10節にかけて書かれていることを行っていました。しかしながら、イエス・キリストを信じることによって、そのような生活から切り離された存在でもあります。11節の後半に「しかし、主イエス…あなたがたは洗われ」と書かれています。この「洗う」とは、バプテスマを意味しています。日本語では「洗われ」と受け身のことばで訳されていますが、元々は「洗った」という能動態が使われています。使徒22:16に書かれています「洗い流しなさい」というのと同じ意味です。パウロはイエス・キリストを信じる者を捕えようとしてダマスコの町に向かいました。その途中でイエス・キリストと出会い、目が見えないようになりました。パウロがダマスコの町にいたとき、神はアナニヤという人を遣わしてパウロの目を見えるように癒されました。そのとき、アナニヤがパウロに語ったことばが使徒22:16のことばです。
 ですから、この「洗われた」というのは、本人の意志で行われたことを意味しています。バプテスマというのは、本人が知らない間に受けたり、騙されて受けたり、強いられて受けたりするものではありません。本人自身が信仰を告白し、自分自身で「洗い流そう」という意志が必要なのです。私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスマということばは「浸す」という意味です。ですから、全身を水の中に浸す方法を取っています。そのため、本人の信仰告白でない幼児洗礼や全身を水の中に入れない洗礼方法を行ってはいません。これが私たちバプテスト教会の大きな特徴です。
 話しが少し反れましたが、コリント教会の人たちは自らの意志で信仰を告白しバプテスマを受けた人々です。彼らは自由の中で信仰を告白しバプテスマを受けるという方を選んだのです。自ら選んだのですから、そこには選んだことへの責任があります。真の自由とは、「しても良いししなくても良い」という選ぶことができます。しかしながら、どちらを選んだとしても、その選んだことに対する責任が伴います。選んだけれども、その責任を果たさないというのは真の自由ではありません。それは「身勝手」というものです。
 キリスト者はイエス・キリストを救い主と信じ、神であられる主に従っていくことを選んだ者です。ですから、その選んだことへの責任が伴います。イエス・キリストは、律法の中で一番大切な戒めは「神を愛し人を愛すること」と話されました。ですから、私たちは何よりも神と人とのより良い関係作りを築いていく責任が与えられているのです。ところが、回りの人からの批判を恐れて神に従うことよりも従わない方を選んだり、人を顧みない行為をすることは、その責任を放棄することにもなります。今朝の箇所でパウロは、選んだことに対する責任を果たすことを勧めているのです。何故なら、神を信じる者には神を愛し人を愛する責任が与えられているからです。

3)聖く義しいと認められた者
 第3に、神を信じる者は聖く義しいと神に認められた者です。神を信じる者には、自由と責任が与えられています。神を信じる者は、自らの意志で神に従うことを選んだ者です。そして、そこには責任が伴います。「その責任を十分に果たしているのか」と自問自答しますと、「十分に果たせている」とは言えない自分を見出します。私たちはそれほど強くはありません。やはり、弱さを持っていますし欠けた所の多い者でもあります。しかし、神はそのような私たちを聖く義しい者と認めてくださっているのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストを信じているからです。イエス・キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かって死んでくださいました。私たちの罪のためにイエス・キリストが罪ある者となって、父なる神の審きを受けてくださいました。それによって、私たちは父なる神に赦されたのです。そして、父なる神は私たちを聖く義しい者と認めてくださったのです。
 私たちは、それほど神に愛されているのです。だから、パウロは「それほど神に愛されているのだから、その神に対して聖く義しく生きるように」と勧めているのです。それは「あなたがたは神に愛されていることを知り、その神の愛に正しく応える者として神を信じ従う決心を自らの意志でしたのではありませんか。だからその責任を果たし続けるためにも、神に対して正しく応えていく必要がある。」とコリント教会の人々に語っているのです。
 そして、その語りかけは現代の私たちに対しても同じです。私たちが生かされています社会は、コリント教会がコリントの町に立てられている環境と同じです。偶像崇拝が根づいている町であり、社会的道徳に堕落している社会です。「そのような社会の中にあって、何を第一として歩むのか」が、現代の私たちにも問いかけられているのです。現代は文明的には昔と比べることのできないほど発展しています。しかし、社会的道徳は昔と何ら変わることがありません。しかし、そのような社会の中にあって、私たちは聖く義しい者と神に認められている存在です。この社会の中にあって、地の塩・世の光とされている存在なのです。
 月曜日のディボーションでイザヤ42章を読みました。その3節に「     」と書かれています。「彼」とは誰のことかと言いますとイエス・キリストです。私たちは「いたんだ葦」のようです。サタンは「これはいたんだ葦ではありませんか。こんなものは捨てちゃいましょう。」と神に訴えます。しかし、イエス・キリストは「確かにいたんでいる葦です。だからこそ、一層手厚い助けが必要なのです。」と弁護してくださいます。また、サタンは「くすぶる燈心なんか目障りです。一層のこと消してしまいましょう。」と神に訴えます。しかし、イエス・キリストは「だからこそ、油を注いで明るく輝かせる必要があります。」と弁護してくださるのです。何度も話しますが、私たちはそれほど神に愛されている存在なのです。私たちは弱い者ですが、神はそのような私たちを聖く義しい者としてくださっているのです。ですから、「聖く義しい者として歩み続けることができますように」と祈り続けたいものです。

結)
 先週は、私たちの団体の合同聖会が行われました。講師の岸本先生は「実を結ぶとは行いの結果を表している」と話されました。どのような実を結ぶかは、その人の行いによって異なってきます。そして、「福音の実は、イエス・キリストの十字架を通してである」と話されました。さらに、私たちが信じている神は、個々を愛してくださる神であられることを話され、「その神のみことばを深く味わうことによって実を結ぶ」と話されました。私たちには自由と責任が与えられています。どのような実を結ぶのかは、私たちに与えられています自由をどのように用いるかによって異なってきます。こんな私たちを聖く義しいと認めてくださっている神に、誠実に歩むことができるように祈っていきましょう。

Ⅰコリント6:1~8「神を信じる者の特権」  17.04.30.

序)
 私がバイトしている店にはポイントカードがあります。多くの店でも行われていますが、私がバイトしている店ではポイントが加算され一定の点数が溜まりますと100円の割引券がもらえるというものです。または、商品によっては一般価格よりも少し安く購入できるという特権があります。多くの店でカードを持っていますと特権があります。私たちキリスト者にも神から特権が与えられています。ですが、神から与えられる特権とは、この世で描くような特権とは少し違います。今朝は、その特権について共に教えられたいと願っています。

1)審きの特権
 第1に、神を信じる者には審きの特権が与えられています。コリント教会の中には、人間関係の問題が生じていました。何処であっても人間関係の問題は生じます。職場であれ、学校であれ、家庭であれ、教会であれ同じです。それは、私たちが人間関係の中で生きているからです。「教会の中でも人間関係の問題が生じる」と聞かれますと驚かれる方もおられます。確かに、教会は神であられる主に罪が赦された人たちの集まりです。ですが、罪が赦されただけであって、罪がなくなったわけではありません。神を信じていても、私たちの中にあります罪によって人間関係に問題が生じることがあります。そのようなことを思いますと、より良い人間関係を築いていくことが、より良い人生を過ごすことの秘訣でもあることを知らされます。
 コリント教会の中にも、人間関係における問題が生じていました。具体的にどのようなものであるかは分かりません。ただ今朝の箇所を読みますと、教会の一部の人たちが、同じ教会の一部の人たちを正しくない人たちに訴えていたようです。この「正しくない人たち」とは、どのような人たちのことかと言いますと、裁判所の裁判官のことです。当時の裁判官は正しくない人が就いていたのでしょうか。そうではありません。ここで語られています「正しくない人」とは、神であられる主を信じていない人のことです。決して、聖書は裁判所を否定しているわけではありません。ここで語られていることは、教会の中で生じた問題を裁判所に訴えて処理することを避けるように告げられているのです。
 それは何故でしょうか。裁判所というのは様々な問題を裁く所です。もちろん、教会の中で生じます問題においても裁くことができます。しかし、神を信じる者は世界を審くようになる存在でもあります。何故なら、ローマ8:17に「     」と書かれていますように、神を信じる者は神の子とされ神の相続人とされているからです。神は世界を審く特権を持っておられます。神を信じる者が神の子とされ相続人とされているのなら、その神が持っておられる世界を審く特権も相続することができるのです。ですから、神を信じる者は世界を審く特権を持つことができるのです。それだけでなく、3節には「御使いをもさばくべき者」と書かれています。神を信じる者は、世界だけでなく御使いをも審くことのできる存在なのです。御使いは神の国に住み神に仕える存在です。聖書を見ますと、人間よりはるかに力のある存在であることが分かります。また、Ⅰ列王記19:35には「     」と書かれています。御使いは、人間の大軍団をあっさりと滅ぼしてしまう程の力を神から与えられている存在です。そのような力のある御使いは神に仕えるのと同時に、神の相続人となる神を信じる者にも仕える存在なのです。へブル1:14に「     」と書かれています。御使いは神の国に住む存在ですが、神の国を相続できる存在ではありません。ただ、神と神を信じる者に仕える存在なのです。ですから、神を信じる者は御使いをも審くことのできる存在とされているのです。神を信じる者が審きの特権が与えられているのは、審き主であられる神の相続人とされているからです。神を信じる者には審きの特権が与えられているのです。

2)神の知恵を持つ特権
 第2に、神の知恵を持つ特権が与えられています。先程の審きの特権は将来のことですが、神の知恵を持つのは現在のことです。コリント教会の中では、キリスト者同士で生じた問題を裁判所に持ち込んで解決しようとしていました。4節に書かれています「この世のこと」とは日常生活のことで、日常生活での問題によって生じた争いのことです。例えば、「お金を貸したのに返さない」という金銭問題とか、「あの人は私にこのようなことを言った」という中傷問題などです。コリント教会の人たちは、そのような問題を裁判所に訴えて解決しようとしていたのです。そのことに対して、パウロは4節の後半で「教会のうちでは…選ぶのですか。」と迫っています。この「教会のうちでは無視される人たち」とは、1節の「正しくない人たち」のことであり、神を信じていない人たちのことです。普段は「真理は聖書にあるから全てのことは聖書から解決できる。しかし、神を信じていない人たちは真理が分からないから解決できない。」と言っているにも拘らず、何か問題が生じますと聖書によって解決するのではなく、聖書に基盤を置いていない裁判所に訴えて解決しようとしていたのです。4節で語られていることはそのようなことです。
 では、ここでパウロは何を勧めているのでしょうか。「教会で裁判をしなさい」と勧めているのでしょうか。そうではありません。「教会が争いを仲裁するように」と勧めているのです。教会のあるべき姿は、神を信じる者同士の問題を和解させることです。「どのようにして和解させるのか」と言いますと、神のみことばである聖書に基づいてです。パウロは「神を信じる者同士の問題は、神のみことばに基づいて解決するように」と勧めているのです。何故なら、神の知恵が信じる者には与えられているからです。
 この「神の知恵」ということばは、新約聖書で6回用いられています。その中の5回はパウロが用いており、しかも4回はⅠコリントで用いられています。それらはⅠコリントの最初の方で用いられています。箇所で言えば、1:24~2:7です。この神の知恵とは何かと言いますと、イエス・キリストご自身のことであると分かります。イエス・キリストは何のために来られたのでしょうか。それは審くためではなく赦し救うためです。事実、イエス・キリストは十字架に架かられたとき十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と、父なる神にご自分を十字架につけた人々の赦しを願われました。イエス・キリストが願っておられるのは赦しです。そして、それが神の知恵なのです。
 人の罪や過ちを責めるのではなく、赦し受け入れることが神の知恵です。そして、イエス・キリストを信じる者には、その神の知恵が与えられているのです。人の罪や過ちを責めるのではなく、赦し受け入れることが求められているのです。そのように捉えますと、一つ矛盾に感じることがあります。それは、パウロは赦しを勧めていますが、5:3の最後に「さばきました。」と語っています。「自分はコリント教会の人を審いたのに、コリント教会の人には赦すことを求めるのは矛盾している」と感じるかもしれません。ですが、パウロが審いた人は不品行を行っている人であり、今朝の箇所は不正に関してのことです。この違いは覚えておく必要があると思います。「イエス・キリストは赦されたのだから、キリスト者は何でも赦さなければならない」というのは危険です。神の知恵が与えられているのですから、何を審き何を赦すのかを整理することは大切なことではないでしょうか。

3)善を行う特権
 第3は、善を行う特権が与えられています。教会は神の知恵を持つ者が集う所です。神を信じる者どうして生じる問題を、神のみことばに基づいて解決していく所です。相手に勝つことが先決なのではなく、相手を赦し受け入れることが先決な所です。ですから、7節前半に書かれていますように、相手に勝つために訴え合うこと自体が敗北なのです。そのため、パウロは続けて7節の後半で「なぜ…いないのですか。」と語っています。では、「不正を受けて騙されている」とはどういうことでしょうか。 
 Ⅰテサロニケ5:15に「     」と書かれています。このテサロニケ人への手紙は、迫害を受けている人々を励ますために書かれた手紙です。彼らが受けていた迫害の中には、不当な方法で行われていたものもありました。そのような教会の人々に、「不当な方法で報復しないように」とパウロは勧めているのです。むしろ、「善を行うように務めなさい。」と語っているのです。ここで用いられています「善」とは、人の助けとなることや役に立つことを意味しています。そして「務める」とは、追い求めることで「日々の生活の中で行い続ける」ことを意味しています。すなわち、「相手から不当な扱いを受けても、その人の助けになることや役に立つことを行い続けることが勝利の道である」というのです。「相手に傷つけられたから相手を傷つける」というのは、イエス・キリストが教えられたことと反します。だから、パウロは今朝の箇所の7節の後半で「なぜ…いないのですか。」と語っているのです。
 ですから、「騙されたままでいる」というのは、「騙され続ける」というのではなく「仕返しをしない」ということです。
何よりも、イエス・キリストの歩みがそうだったのではないでしょうか。ユダヤ教指導者たちの妬みによって、イエス・キリストは訴えられました。しかも、それは「偽証してまでの訴えだった」と、マルコ14:57には書かれています。そのようなことに対しても、61節に「しかし…ならなかった。」と書かれています。何故そこまで耐えられたのでしょうか。それは、私たちの罪が赦されるためです。イエス・キリストは、私たちの罪が赦され父なる神の審きから救われるために耐え続けてくださったのです。私たちのために善を行い続けてくださったのです。私たちは善を行う特権を持っていますが、実はその前にイエス・キリストの善を受けているのです。
 イエス・キリストが不当な訴えを耐え続けられたのは私たちのためでありますが、もう一つあります。それはⅠペテロ2:21に「     」と書かれていますように、イエス・キリストを信じる私たちに模範を残されるためでもあったのです。この「召された」とは、神の赦しと審きから救われるために選ばれたことを意味しています。すなわち、神であられる主を信じる者とされたことです。私たちが神を信じる者とされた目的の一つは、イエス・キリストが歩まれたように、私たちもこの世にあってイエス・キリストのように歩むためです。この所を準備しているとき、先週の日曜日に召されました大野姉を思い起こされました。大野姉は、そのような歩みをされた方ではなかったでしょうか。善を行うという特権を日々の生活の中で用いられていた方ではなかったでしょうか。私たちも善を行う特権が与えられていることを覚えつつ、神の助けを祈りつつ歩まされたいものです。

結)
 神を信じる者には審きの特権が与えられています。ですが、それは今の時ではなく天に挙げられた時です。この世にあっては、人の罪や過ちを赦し受け入れるという神の知恵の特権と、その人のために役に立つ善を行う特権が与えられているのです。これらの特権は、神を信じている者にしかできないものです。これらの特権を活かしていくことができるように祈っていきましょう。
ヨハネ20:24~29「見ずに信じる者の幸い」  17.04.23.

序)
 先週は、イエス・キリストが死から甦られたイースターでした。イエス・キリストの復活によって、人は死んで終わりではないことが明らかにされました。死は絶望ではなく、人生の節目の一つであり、死の先にも希望があります。私たちはそのことを信じることができました。それは感謝なことで恵みそのものです。しかしながら、大勢の方々がそのことを知らないでいます。死は人生の終着点であり絶望的なものであると思われています。今朝の箇所に登場するトマスもその一人でした。今朝は、このトマスを通して見ずに信じる者の幸いを共に教えられたいと願います。

1)信じないトマス
 イエス・キリストは、十字架に架かって死なれたあと甦られ、弟子たちのところに現れました。しかし、弟子のトマスだけがそこには居ませんでした。他の弟子たちは、トマスにイエス・キリストが甦られたことを話しましたが、トマスは彼らのことばを信じようとはしません。そして、25節に書かれていますように、「私は見て触らなければ信じない」と言ったのです。同じ仲間であり弟子である人たちのことばを信じないトマス。皆さんは、このトマスの言動をどう思われるでしょうか。トマスの言動というのは、トマスに限ったことではありません。他の弟子たちも同じだったのです。先週の箇所になりますが、イエス・キリストが葬られた墓に行きますと、その墓の中にはイエス・キリストのご遺体がありませんでした。そのため、女性たちは弟子たちの所に戻り、イエス・キリストのご遺体がないことを話しました。すると、ペテロとヨハネはイエス・キリストが葬られた墓に行き、中を見ますとイエス・キリストのご遺体がないのを確認しました。そして、彼らが帰った後にマグダラのマリヤに甦られたイエス・キリストが現れてくださいました。ルカ24:10~11を見ますと、イエス・キリストが甦られたことを弟子たちに話しましたが、11節には「     」と書かれています。すなわち、弟子たちもイエス・キリストが甦られたことを信じなかったのです。ヨハネの福音書だけを見ますと、疑い深いトマスのように思えますが、これは何もトマスだけでないことを聖書は物語っています
 イエス・キリストの復活が信じられないトマスの気持ち。これは現代の私たちにとっても分からないものではありません。死んだ人が甦る。これは私たちの頭で信じにくいものです。何故なら理解できないからです。それは「救い」についても同じことが言えるのではないでしょうか。「何かをすることによって救われる」というのなら、多くの人が理解しやすいですから信じやすいのです。ところが、「ただ信じるだけで救われる」というのは、人の頭では理解しにくく信じにくいものです。私から見れば、トマスの25節のことばは「科学的に証明されなければ信じない」とか「確認できないと信じない」ということではないように思えます。トマスは信じたいのですが信じられない状態なのではないでしょうか。トマスは、決断できるきっかけを求めているように受け取れるのです。だから、トマスはその後も他の弟子たちと共に生活していたのではないでしょうか。でも、その生活は苦しい生活でもあったと思います。何故なら、他の弟子たちはイエス・キリストの復活を信じているのに、自分だけは信じていないからです。他の弟子たちの心が気になっていたかもしれません。自分のことをどのように思っているのか。「頑固で分からず屋」と思われているのか。トマスの心の中は、いろいろなことが思い巡っていたことと思います。ですが、自分の心を偽ってまでも、他の弟子たちと歩調を合わせることができなかったのではないでしょうか。
 多くの教会に、信じたいけれどもなかなか決心できない方がおられます。何かトマスと似ているように思えてなりません。決して信じていないわけではありません。信じたいのですが、そのきっかけと言いましょうか、決断するものがないだけなのです。ひょっとしたら、そのような人が家族の中にもおられるかもしれません。ここには、他の弟子たちのトマスへの対応は書かれてはいません。聖書はトマスの行為を責めてはいません。ただ神に委ねていることが描かれているように受け取れます。それと同じように、私たちも決断できない方や家族のすくいのために続けて祈っていきたいものです。

2)問いかけるイエス
 トマスは、イエス・キリストの復活を信じられないまま、他の弟子たちと1週間共に過ごしました。そして、1週間後にイエス・キリストはトマスの前に現れました。そして、トマスに直接話しかけられ、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と告げられました。先程も話しましたように、トマスの心の中は苦しみでいっぱいだったと思います。皆が信じているのに、自分だけが信じていない。しかし、自分の心を偽りたくもない。そのような葛藤の中で、イエス・キリストは現れてくださったのです。イエス・キリストの方から、トマスのために現れてくださったのです。疑い深く、信じようとしないトマスを放っておかれたのではないのです。トマスが信じることができるように、イエス・キリストの方から接してくださったのです。しかも、トマスが決心できるような方法でです。イエス・キリストはトマスの心の中を御存知です。トマスが信じられる方法を用いて、トマスの心を開かれたのです。ここに、イエス・キリストの愛と忍耐深さを見ることができるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、トマスに「信じない…なりなさい。」と問いかけられました。トマスは、このイエス・キリストの問いかけをきっかけとして信じる者へと変えられたのです。イエス・キリストは、信じない者の前には現れてくれない方ではありません。トマス以外の弟子たちも、最初はイエス・キリストの復活を信じることができませんでした。また、先週見ましたマグダラのマリヤにしてもそうです。イエス・キリストは信じない人を見捨てるような方ではなく、信じることができるように導いてくださるお方なのです。だから、トマスは「私の主、私の神」と告白することができたのです。トマスの心を変えられるように導かれたイエス・キリストは、心の鈍い私たちをも導き続け変えてくださいました。そして、そのイエス・キリストのお取り扱いは、まだ信じていない家族や地域の方々に対しても同じです。特に家族については祈っていながらも「信じないのではないか」と思ってしまうことがあります。そのように思ってしまいやすい私たちですが、続けて家族の救いや地域の方々の救いのために祈っていきたいものです。

3)見ずに信じる幸いとは
 イエス・キリストは、トマスに「見ずに信じる者は幸いです。」と話されました。トマスは、復活されたイエス・キリストを見たから信じたのです。自分が納得できたから、満足したから信じることができました。これは他の弟子たちも同じです。29節のイエス・キリストのことばは、「納得できたから信じるのではなく、素直に神のことばを信じることができる人は幸いです。」と話されているのです。それは具体的にどういうことでしょうか。トマスは、他の弟子たちの報告を聞きました。しかし、そのことばを信じることができませんでした。イエス・キリストは、トマスに他の弟子たちの報告を信じられなかったことを注意されているのではありません。イエス・キリストは十字架に架かられる前に、トマスを含めた弟子たちに「わたしは殺されるが3日目に甦る」と話されました。そのイエス・キリストのみことばを信じられなかったことに注意されているのです。「十字架に架かられる前に話されたイエス・キリストのみことばを、素直に信じることのできる人は幸いである」ということです。
 この29節のイエス・キリストのことばを通して、1つのことを知らされます。それは、神のことばをどのように受け取るかということをです。トマスは信じられない人でした。言うなれば、否定的な捉え方をしていたのです。29節のイエス・キリストのことばは、「神のことばを否定的な捉え方ではなく、肯定的な捉え方をするように」と勧めておられるようにも受け取れるということです。聖書は「神はありのままのあなたを愛され受け入れておられる」と語っています。それなのに、自分の中で「こうでなければ愛され受け入れられない」と捉えてしまう。そういうことはないでしょうか。聖書が語っているのは分かるのですが、自分の中で「でもね」という思いが出てしまうことはないでしょうか。トマスはイエス・キリストが話された復活のことを思い出したかもしれません。しかし、彼の中には「でもね」というものがあったのではないでしょうか。この「でもね」という思いが、神のことばを信じることのブレーキをかけてしまったのではないでしょうか。
 そのような思いは私たちの中にも生じます。神は「わたしはありのままのあなたを愛し受け入れている」と語ってくださっています。しかし、「でもね、私は神が願っておられることを行うことができないし間違いを犯してしまう者です」と言って信じられない。または、神は詩篇81:10で「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」と語っておられます。ここでは、神が満たしてくださることが約束されています。さらに、マラキ3:10の後半でも「わたしがあなたがたのために…どうかをためしてみよ。」と語っておられます。これは祝福が注がれることの約束でもあります。なのに、「でもね、今のこの状況では」と言って信じられない。或いは、神は様々な人に用いることを告げられました。それに対して、多くの人は「でもね」と言って信じられなかったのです。代表的なのがモーセです。彼は何度も何度も神から告げられているのに「私は口下手です」と言って逃げていました。神が用いてくださることを約束してくださっているのに、「でもね、今の私では」と言って信じられない。そのようなことが私たちの中にも生じることがあるのではないでしょうか。
 素直に神のことばを信じられないトマス。そして、素直に神のことばを信じられない私。何よりも、このトマスの姿は自分自身の姿であることに気づかされるのではないでしょうか。よく「でもね」ということばを私たちは用いるのではないでしょうか。ですが、イエス・キリストが話された「見ずに信じる者は幸いです」とは、「『でもね』ということばを取り払いなさい」というようにも聞こえます。私たちにとって必要なのは「でもね」ではなく、「分かりました」ではないでしょうか。または「感謝します」ではないでしょうか。エペソ2:10に「私たちは…造られたのです。」と書かれています。以前、「ここで語られている良い行いとは何か」を思い巡らすことがありました。様々な捉え方ができると思います。その一つとして、「ここで語られている良い行いは何かをするというのではなく、神に感謝し神を賛美することではないか」と思わされました。それは神のことばを信じることです。

結)
 神のことばは私たちの理解を越えたものですから、私たちに理解することは難しいです。しかし、何度も話していますが、神は私たちに理解することを求めてはおられません。神が私たちに求めておられるのは信じることです。ついつい私たちは「でもね」ということばを使ってしまいます。「使うな」と言われても使ってしまいます。使ってしまったとき、トマスのことを思い出したいものです。そして、「分かりました」「感謝します」ということばを出せられるように祈っていきましょう。

ヨハネ20:1~18「いつもあなたのそばに」  17.04.16.

序)
 イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストが死から甦られた日です。昨年度から、この教会の専任牧師となりましたが、昨年度はイースターがありませんでした。というのは昨年のイースターは3月27日でした。従来なら、第2・4日曜日は春日井教会での奉仕ですが、昨年は稲沢教会の最後の主日礼拝となるため、第4日曜日を稲沢教会で奉仕させていただきました。そして、その日がイースターだったわけです。毎年稲沢では、市内4教会の合同の朝祷会が稲沢公園にて行われ、毎年30~40名の方々が集い、共に賛美しメッセージを聞き、その後にグループに分かれて祈り合うという行事が行われていました。多分、今年も行われたことと思います。「春日井でも市内教会の交流がもっと密になれば」と個人的に願っています。イエス・キリストの甦りが表すものは、人は死んで終わりではないということですが、それと同時にいつもそばにいてくださることです。今朝は、イエス・キリストがいつもそばにいてくださることを共に教えられたいと願っています。

1)悲しみの中にいるマリヤ
まずは、悲しみの中にいるマグダラのマリヤを見てみたいと思います。週の初めの日に、マグダラのマリヤはイエス・キリストが葬られた墓に行きました。共観福音書には、他の女性たちも同行したことが記されています。興味深いことは、どの福音書にもマグダラのマリヤの名前が最初に書かれているということです。考えられるのは、それだけイエス・キリストの弟子たちにとってマグダラのマリヤの印象が強かったものと考えられます。そして、ヨハネの福音書にはマグダラのマリヤしか書かれていません。それは、ヨハネがマグダラのマリヤに焦点を合わせているでしょう。
焦点を合わせる書き方は、ヨハネの福音書の特徴の一つでもあります。例えば、6章に書かれています「5千人の給食」というタイトルがつけられている箇所では、マタイやマルコでは弟子たちが語ったと書かれていますが、ヨハネは8節でアンデレが語ったと書かれています。また、12章ではイエス・キリストに香油を塗った女性の箇所で、5節で「     」と語られたことが書かれています。マタイとマルコは弟子たちが語ったことと書かれていますが、ヨハネは4節でユダが語ったこととして書かれています。何故そのような書き方をしているのかと言いますと、その人物を通して訴えようとするものがあるからです。では、ヨハネはマグダラのマリヤを通して何を訴えようとしているのでしょうか。
マグダラのマリヤは、イエス・キリストによって7つの悪霊を追い出してもらった女性として聖書に紹介されています。これは、どうしようもない状態から救いだされたことを表しています。彼女はどうしようもない状態から救われたことを心からイエス・キリストに感謝し、イエス・キリストを愛した女性です。だからこそ、イエス・キリストの遺体に香油を塗ろうとしたのです。イエス・キリストの遺体に香油を塗って誰かが喜ぶのでしょうか。誰も喜びませんし、香油を塗ったことによって何かが生じるわけでもありません。では、何のために香油を塗ろうとしたのでしょうか。考えられることは、香油を塗りながらイエス・キリストの思い出話しをしようとしていたのではないでしょうか。思い出というのは過去のことです。マグダラのマリヤは、イエス・キリストとの過去を捨て切れなかったのです。
人は現実の苦しみや悲しみが大きければ大きいほど、過去の思い出にすがりつこうとするのではないでしょうか。これは現実からの逃避です。このときのマグダラのマリヤも同じです。しかし、今はそのイエス・キリストの遺体すらありません。遺体に香油を塗り、過去の思い出に浸ることすらできないのです。マグダラのマリヤにとって、イエス・キリストが亡くなられたのはショックでしたが、遺体がないことも大きなショックでした。もうダブルパンチを受けたようなものです。そのようなとき、イエス・キリストは何処におられたのでしょうか。マグダラのマリヤのすぐ後ろにおられたのです。後ろにおられただけでなく「何故泣いているのですか」と声までかけられたのです。しかし、マグダラのマリヤはそれがイエス・キリストだと気づきませんでした。何故気づかなかったのでしょうか。それは、マグダラのマリヤがイエス・キリストの死を直視し過ぎたからです。大きな問題に直面するとき、その問題を直視し過ぎるというのは、私たちも同じではないでしょうか。そばにおられるイエス・キリストに気づかないことがあるのではないでしょうか。いや、そばにおられるだけでなく、語りかけてくださっているのに、そのイエス・キリストの語りかけに全く気づかないことがあるのではないでしょうか。

2)語り続けるイエス
 次に、語り続けてくださるイエス・キリストを見てみたいと思います。語りかけられているのに、全くそれがイエス・キリストとは気づかないマグダラのマリヤ。そして、後ろを振り向いたにも拘らず、イエス・キリストとは気づかないマグダラのマリヤ。そのようなマグダラのマリヤに対するイエス・キリストはどうされたでしょうか。今朝の箇所を読んで思い浮かべられるのは、悲しい顔をされることもなければ失望されることもなく、声をかけ続けてくださるイエス・キリストの姿です。優しく忍耐をもって声をかけ続けてくださるだけでなく、マグダラのマリヤが気づくように彼女の名前を呼ばれたイエス・キリスト。そのとき、初めてマグダラのマリヤはイエス・キリストだと気づいたのです。このイエス・キリストを見るとき、そばにおられる方がイエス・キリストだと全く気づかないマリヤを責めておられないことを知らされます。 イエス・キリストに名前を呼ばれたマクダラのマリヤは、その方がイエス・キリストだと気づきました。
ここで注目したいのは、マグダラのマリヤが気づいたからイエス・キリストがそばにおられたのではないということです。彼女が気づいていないときから、イエス・キリストはすでにそばにおられたのです。そして、マグダラのマリヤが気づこうが気づかまいが、イエス・キリストは声をかけ続けておられたのです。何故声をかけ続けられたのでしょうか。それはマグダラのマリヤの心の中を御存知だったからです。先程も話しましたように、気づかないマグダラのマリヤに失望されることなく、イエス・キリストは忍耐をもって声をかけ続けられたのです。今朝の箇所には、失望されることなく語り続けてくださるイエス・キリストが描かれています。
私たちもマグダラのマリヤのようなことがあるのではないでしょうか。私たちは様々な問題に直面します。そして、その問題があまりにも大きいがために、そばにおられるイエス・キリストを忘れたり気づかなかったりすることがあるのではないでしょうか。ともすると、神に見捨てられたかのように思ってしまうこともあります。そして、「何故こんなに苦しまなければならないのですか」と叫びたくなってしまうこともあります。でもイエス・キリストは、そのような私たちを責められることはされません。むしろ、私たちが気づくように、みことばを通して語りかけてくださいます。神は私たちがどのような状況の中に立たされようとも、絶えず語りかけてくださいます。そして、今日も私たちに語りかけてくださっているのです。

3)そばにおられるイエス
最後に、そばにおられるイエス・キリストを見てみたいと思います。イエス・キリストの遺体がないという目の前の出来事。これは現実であり事実です。どうもがいても動かすことのできないものです。彼女は絶望の真っただ中にいたことと思います。声を聞いても、後ろを振り向いてもイエス・キリストとは気づきません。それは、マグダラのマリヤも「イエス・キリストが甦られる」とは全く思ってもいなかったからです。絶望の中に立たされると、そうなってしまうことを知らされます。私たちも苦しみや悲しみに打ちひしがれるとき、神の声を聞き分けられないことがあります。聖書を読んでいても、みことばが入ってこないことがあります。でも、それは不信仰なことではありません。聖書は、人とはそのような存在であることを描いています。何故なら、心からイエス・キリストを愛していたマグダラのマリヤさえ分からなかったのですから。それでも、イエス・キリストは失望されることなく語り続けてくださることも描かれています。そして、決して見捨てるようなことをされず、気づくまでそばにいて語り続けてくださるイエス・キリストの姿も描かれています。私たちがどのような状態であれ、イエス・キリストはいつも私たちのそばにいて声をかけてくださるお方なのです。
声をかけ、そばにおられた方がイエス・キリストだと分かったマグダラのマリヤは、そのイエス・キリストにすがりつこうとしました。すると、イエス・キリストは「すがりついてはいけません」と話されました。何か少し冷たいようにも感じます。イエス・キリストの遺体がなくなり、絶望の中に陥っていたとき、そばにおられたのがイエス・キリストと分かったマグダラのマリヤは、ことばでは表現できない程の嬉しさ・喜びだったと想像できます。だから、イエス・キリストにすがりつこうとしたのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストは止められました。何故でしょうか。その後を読みますと、マグダラのマリヤの喜びは分かりますが、その喜びをどのように用いるかではないでしょうか。嬉しさと喜びのあまりにイエス・キリストにすがりつくというのは、自分のためだけのものです。そこでイエス・キリストは、「その喜びを分かち合うように」と勧められたように受け取れます。それは、イエス・キリストが甦られたことを弟子たちにも知らせ、喜びを分かち合うためです。何故なら、弟子たちもイエス・キリストが死なれたことによって心が沈んでいるからです。
弟子たちはイエス・キリストが捕えられたとき、イエス・キリストを見捨てて逃げたのです。その負い目があるでしょう。また、ユダヤ教指導者らに自分たちが見つかったら、今度は自分たちが処刑されてしまうという恐怖心もあったことと思います。そのようなもので心は苛まれていたことと思います。イエス・キリストは、弟子たちの心の中のことも御存知です。それでマグダラのマリヤに、イエス・キリストにすがりつくことよりも、少しでも早く良い知らせを弟子たちに伝えることを告げられたのではないでしょうか。そして、それがイエス・キリストの甦りを知った者の使命でもあるのではないでしょうか。
 私たちはイエス・キリストを信じることによって、生かされていることの喜びを知りました。それだけでなく、死んだ後にも甦るという希望が与えられました。復活という希望は、決してなくなることのない希望でもあります。その喜びは、決して自分だけのものにしてはいけません。その希望・喜びを知らない人が大勢おられます。その希望と喜びを伝えていくことが、イエス・キリストの甦りを知っている私たちの使命でもあるのではないでしょうか。それが教会の使命でもあるのではないでしょうか。教会の現状を見ると厳しい道を歩まされています。ですが、その厳しさの中を通らされても守られているという事実を見ることができます。厳しさだけを見ていますと、そばにいて守り導いてくださっているイエス・キリストを見ることができなくなってしまいます。何よりもマグダラのマリヤがそうでした。イエス・キリストは、いつも私たちのそばにいて守り導いてくださる神です。

結)
 イエス・キリストの甦りは、信じる私たちにとって大きな良い知らせです。「父なる神が何故イエス・キリストを死から甦らせてくださったのか」と言いますと、人は死んで終わりではなく死んだ後にも希望があることを明らかにされるためです。それだけ、神であられる主は私たちを愛してくださっているのです。イエス・キリストの甦りは、神の愛そのものでもあります。今年度の教会標語は、「福音の恵みを共に受ける」です。その福音を伝えるだけでなく、伝えられた人と恵みを共に分かち合えるように祈っていきたいものです。

 

Ⅰコリント5:9~13「愛に根ざした歩み」  17.04.09.

序)
 今日から受難週に入りました。今週の金曜日は、イエス・キリストが十字架に架かられた受難日です。イエス・キリストが十字架に架かってくださったのは、私たちを愛するが故にです。私たちも、そのイエス・キリストのように愛に根ざした歩みができたら、どれほど素敵なことでしょうか。今朝は、その愛に根ざした歩みについて共に教えられたいと願っています。

1)地の塩・世の光として
 愛に根ざした歩みの第1は、地の塩・世の光として歩むことです。9節の箇所を読みますと、パウロは私たちが今読んでいますⅠコリントの手紙の前に、コリント教会に手紙を送っていたことが分かります。ところが、「残念なこと」と言って良いかどうかは分かりませんが、その手紙は現在には残されてはいません。このことから、使徒が書いた手紙は全て残されているのではないということが分かります。では、何故使徒が書いたにも拘らず残されていないのでしょうか。その理由は、今朝の箇所からの例にとりますと、前の手紙はコリント教会には必要であったけれども、現代の私たちには必要なものではなかったということです。新約聖書は全部で27巻あります。それらは全て当時の人々にとって必要なことが書かれていましたが、現代の私たちにとっても必要なことが書かれていますから、神は残されたと理解するのが妥当でしょう。
 Ⅰコリントの前の手紙に何が書かれていたかは分かりませんが、不品行について書かれていたのは確かなことです。パウロは、前の手紙に書いた不品行についてもう一度この手紙で書いているのです。それは、前のパウロが描いた手紙をコリント教会の人々が誤解しているということがパウロの耳に入ったからです。それは、誰からの情報かは分かりません。7:1を見ますと、コリント教会からパウロに手紙が送られていたことが分かります。その手紙の中に、パウロが不品行について書いたことの質問が書かれていたのかもしれません。いずれにしろ、前の手紙で書いた不品行について、コリント教会の中に誤解する人々がいたのは確かなことです。
 では、その人たちはどのような誤解をしてしまったのでしょうか。それは「不品行な人と交際するな」というパウロの手紙を、「教会に属する属さない関係なく、不品行を行うような人と交際してはならない」と誤解したのです。当時のコリントの町は道徳的に堕落していましたから、神を信じない人にとって不品行を行うことが特別に悪いこととは思ってもいませんでした。現代では飲酒運転の取り締まりが厳しくなりましたが、昔は飲酒運転する方が多かったです。また、名古屋の繁華街では2重駐車が多かったです。昔の駐車禁止のコマーシャルで、ある女性が違法駐車の切符を切られたとき、「皆してるやないの、何で私だけが捕まらなあかんの!」というのがありました。「皆がしているから別に良いじゃないか」という考え方は、当時のコリントの町においても同じでした。その考え方が教会の中にも入っていたのです。そのように考えますと、人の心は今も昔も変わらないことを知らされます。
 コリント教会の誤解について、パウロは10節で「     」と語っています。すなわち、「教会に属さない人とは交際するように」と勧めているのです。何故なら、キリスト者は神によってこの世に遣わされた存在だからです。マタイ5:13~15に「     」と書かれています。キリスト者は、この世にあって地の塩・世の光とされています。食物が塩気を持つのは、食物の中に塩が入れられているからです。いくら塩があっても、食物の中に入れられなかったら食物は塩気を持つことはできません。また、部屋を明るくしようとして明かりをつけても、その光を何かでかぶせたら部屋は暗いままで明るくなりません。塩も光も中に入って用いられるからこそ意味があるのです。それはキリスト者においても同じです。この世の社会の中で生きるからこそ、地の塩・世の光として用いられるのです。「皆がしているから」という価値観の中で、絶対的なものを基準として生きることで地の塩・世の光として用いられるのです。何故でしょうか。それは神がこの社会・世界を愛しておられるからです。だから、私たちもこの社会の中にあって絶対的な神のみことばを基準として生きることが、この社会に対する愛に根ざした歩みでもあるのです。そのような歩みができるように祈っていきたいものです。

2)聖さを保つ者として
 愛に根ざした歩みの第2は聖さを保つことです。パウロは不品行を行う者と交際しないようにと勧めていますが、その相手が教会に属さない人ではないのであれば、その相手は誰でしょうか。それは教会に属している人です。パウロはそのような人を「兄弟と呼ばれる者で」と語っています。教会の中では、よく「兄弟姉妹」という言い方がされます。それは「神を父として、その神を信じる者は全て神の子どもであるから兄弟姉妹である」という捉え方です。ですから、ここで「兄弟の中で」と書くのは当然ですが、「兄弟の中で」とは書かずに「兄弟と呼ばれる者で」と書いています。それは、パウロはそのような人を神にある兄弟とは思っていないことを示しています。3節で「そのような…すでにさばきました。」と書いていますように、パウロはすでに審いているのです。
 パウロが交際を禁ずる人のリストが、11節の中程に書かれています。不品行な者の次に貪欲な者が挙げられています。この貪欲な者とは、神から必要なものが与えられているにも拘らず、さらに求めることを願う人のことです。それは神の恵みに満足していないだけでなく、神の恵みを無駄にしてもいるのです。そのような人は「あの人は○○を持っている」とか、「あの人は○○に行っている」と、いつも周りのことを気にします。そして、回りの人と同じでなければ満足しません。イエス・キリストはタラントの譬え話をされました。主人は、各々のしもべに能力に応じてあるしもべには5タラント、別のしもべには2タラント、また別のしもべには1タラント預けました。そして、5タラントと2タラント預けられたしもべたちは商売をして儲けました。ところが、1タラント預けられたしもべは不満を募らせ何もせずに地面に隠しました。1タラント預けられた人は、5タラントと2タラントを預けられた人が気になっていたのです。そして、自分が同じように扱われないことに不満を抱いたのです。しかも、イエス・キリストは「地面に隠した」と話されました。「隠す」というのは、持っているのに持っていないかのように見せかけることです。与えられているのに与えられていないかのように見せかける。そして、与えられている恵みを用いようとしないのです。これが聖書の語る貪欲です。イエス・キリストは、「回りがどうであれ、あなたは神の恵みに対してどのように応えるのか」と問いかけておられるのです。
 時間がありませんから他のものは見ませんが、全て神の恵みに反するものです。パウロがここで伝えようとしていることは、「神の恵みに対して正しく応答するように」ということです。コリント教会は、道徳的に乱れている町の中に建てられた教会でした。ですから、そのような社会の中にあって聖さを保つ群れとして戦っていかなければなりません。私たちが生かされています社会も、異教習慣が根づいている社会であり、道徳的に乱れている社会です。そのような社会の中にあって、聖さを保ちつつ神の恵み対して正しく応答していく群れが愛に根ざした群れです。そのような群れとして歩むには、その群れに属する一人ひとりの自覚が大切です。一人ひとりの自覚なくして群れは歩むことはできません。私たち一人ひとりが、聖さを保ちつつ神の恵みに正しく応答することのできる者として歩み続けられるように祈っていきたいものです。

3)神に委ねる
 愛に根ざした歩みの第3は神に委ねることです。何を神に委ねるのかと言いますと、今朝の箇所では審きを神に委ねることが勧められています。何故なら、教会に属していない人たちは自分の罪に気づいていないからです。その教会に属していない人たちへの対応について、パウロはローマ12:17~21で「     」と語っています。特に、19節では「     」と、審きを神に委ねることが語られています。審きを神に委ねるなら、私たちは教会に属していない人たちにどのように対応すれば良いのでしょうか。そのことが20~21節で語られています。これを一言で言うならば「赦し受け入れなさい」ということです。
 何故でしょうか。それは、私たちはすでに赦し受け入れられた経験をしているからです。私たちもイエス・キリストを信じる前までは、神に対して罪を犯していました。しかし、神はそのような私たちを審くことをされずに、忍耐と愛をもって良いことをし続けてくださいました。その神の愛と忍耐があったからこそ、私たちはイエス・キリストを知り信じることができたのです。もし、神がすぐに審きを行われていたら、私たちはイエス・キリストを信じることができなかったのです。私たちは神の愛と忍耐を通して赦されたということを経験しているのです。その受けたことを、今度は人に対してするようにと勧められているのです。
 それが神の愛なのです。神の愛は赦しが伴います。その赦しが伴う愛を日々の生活の中で実践することが勧められているのです。ところが、私たちは赦すことがなかなかできない者でもあります。それは当然と言えば当然のことです。何故なら、何度も話していますが「赦し」というのは、本来受け入れられないものを受け入れることだからです。受け入れられないものを受け入れるのは、その人自身にとっては大きな戦いです。それを克服するにはどうしたら良いでしょうか。もう祈るしかありません。何故なら、自分自身の力ではできないことだからです。なにしろ受け入れられないからです。私たちは人間関係の中に生かされていますから、人間関係で問題が生じることがあります。人間関係で問題が生じることが問題ではありません。人間関係で問題が生じた後どうするかが大切なことです。問題が生じたとき、「私がその人を赦し受け入れることができますように」と祈ることができるようにしたいものです。
 パウロは外部の人への審きは神に委ね、赦し受け入れることを勧めています。しかしながら、内部の人についてはそうではありません。審くことが勧められています。何故でしょうか。それは教会の聖さを保つことと、その人が悔い改めて神の赦しを受けるためです。私たちは審きが愛とは切り離れたもののように思えたりもします。しかし、聖書の語っています審きは、愛と切り離されたものではなく密接なつながりのあるものです。あくまでも、その人が神の赦しを受けることができるための審きなのです。ですから、外部の人に対しても内部の人に対しても、根底には愛があるのです。しかも、その愛は赦しの愛です。私たちもその愛を実践できるように、神の愛を目指して歩まされたいものです。

結)
 私たちが生かされています社会は、道徳的に堕落しています。それは、昔も今も変わることがありません。そのような社会の中で、本来の人とはどのような者であるかを示していくことが、神から私たちに与えられていることではないでしょうか。今日から受難週に入り、今週の金曜日は受難日です。イエス・キリストが十字架に架かられた日です。イエス・キリストは、私たちを愛するが故に十字架に架かってくださいました。特にこの受難週、イエス・キリストの十字架を思いつつ、愛に根ざした歩みができるように祈っていきたいものです。
Ⅰコリント5:6~8「十字架の目的」  17.04.02.

序)
 昨日から2017年度が始まりました。今年度の教会標語は「福音の恵みをともに受ける」です。ありのままの自分が神に愛され受け入れられていることを伝えるだけでなく、その人たちと福音の恵みをともに分かち合っていきたいと願いつつ、この教会標語をつけさせていただきました。それに伴い、幾つかの新しい集会も計画しています。この人数でこれらの集会を持つのは大変なことですが、一人でも多くの方に神に愛されていることを伝えていきたいと願っています。イエス・キリストも来られたのもそのためです。今朝は、そのイエス・キリストの十字架の目的について共に教えられたいと願っています。

1)コリント教会の課題
 十字架の意味を知る前に、コリント教会にあった課題について見てみたいと思います。コリント教会にあった課題は、6節の最初にも書かれていますように「高慢」という課題です。コリント教会には特別な賜物が与えられている人たちが多かったのでしょう。そのため、特別な賜物が与えられていた人たちは、特別な賜物が与えられていない人たちを見下すという問題が生じていました。ひょっとしたら、そのようなことから教会の中に分派が生じたのかもしれません。特別な賜物が与えられ、その賜物が豊かに用いられることによって高慢になり、それが先週の箇所である不品行につながったと考えられます。何故なら、先週の箇所に書かれています不品行は誰にでもできるものではないからです。パウロは1節で「異邦人の中にも…者がいるとのことです。」と語っています。このようなことはよっぽどの人です。パウロは3節の最初に「それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。」と語っています。これは「こんなことをしているのに平然としている。」ということを意味しています。これほどの罪を何とも思っていなかったのです。感覚が麻痺している状態です。
 ここで私たちが考えさせられるのは罪の力です。罪は人の感覚を麻痺させてしまうほど力のあるものというのを知らされるのではないでしょうか。パウロは6節の後半で「あなたがたは…知らないのですか。」と、事の重大さを強調しています。パウロは事の重大さに気づかせるために、罪をパン種に譬えて語っています。パン種は少しの量でパンを膨らませることができます。それは繁殖力が強くパン全体にまで広がるからだそうです。罪についてもそうです。最初はそれほどのものでなくても、それが続きますと感覚が麻痺し進んでしまいます。例えば、アブラハムの甥ロトから見ることができるのではないでしょうか。ロトはアブラハムと共にハランの地を出て旅に出かけました。ところが、アブラハムの牧者と自分の牧者が争いを起こしたため別れることとなりました。そして、ロトはソドムの近くで天幕を張ったことが創世記13:12に書かれています。そして、13節には「     」とソドムの町について書かれています。このときからソドムの町は神の目から見て堕落していたのです。そして、神はソドムの町を滅ぼすことを決断されました。19:1に御使いがソドムの町に来たとき、「ロトはソドムの門の所に座っていた。」と書かれています。ロトはソドムの町の中で住んでいたのです。おそらく、ソドムの町のことはロトも知っていたでしょう。だから、最初はソドムの町の中に住むことをせず近くに住んだのだと考えられます。ソドムの町の近くで生活するのですから、ソドムの町の人たちとの交流もあったと考えられます。そのような中で、次第に感覚が麻痺しソドムの町の中に住んだのではないかと想像できます。
 ロトは間違いを犯してはいませんでしたが、ソドムの町の人たちへの警戒が緩んだのは確かなことだと思えます。罪の力とはそのようなものではないでしょうか。人の感覚を麻痺させてしまう力があります。それは「これ位なら」というものかもしれません。しかし、その「これ位なら」というのが大きな間違いへと発展してしまう危険性があります。それはアブラハムにしてもそうでした。まだロトと別れる前のことですが、カナンの地に着いて神から「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と告げられ、このカナンの地が神の示された約束の地であることが分かりました。そして、そのカナンの地で生活を始めました。ところが、飢饉が生じてアブラハムはエジプトに移動しました。聖書には「ほんのしばらく滞在するため」と書かれています。アブラハムは、またカナンの地に戻るつもりでいましたから「これ位なら」という思いがあったのでしょう。ですが、そのエジプトで大きな失敗をしてしまったのです。コリントの教会もアブラハムも「これ位なら」というものが原因でした。そのような思いは私たちの中にもあります。だからこそ、気をつける必要があることを知らされるのではないでしょうか。

2)十字架の目的①
 そのことを語ったパウロは、過越しの祭の習慣を例えながら7節の前半で「新しい粉の…古いパン種を取り除きなさい。」と、コリント教会に体質の改善を勧めています。過越しの祭というのは、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったとき、神から小羊を殺して、その血を門柱と鴨居に塗るようにエジプト全土に命じられました。神は審きとして、その命令に従わなかった家に対しては、家畜であれ人間であれ最初の子どもの命を奪われました。しかし、神の命令に従った家は神の審きを過ぎ越されました。イスラエルの民は神の命令に従いましたが、エジプト人は従いませんでした。そのため、神は従わなかったエジプトの民と家畜の初子の命を奪われました。それによって、エジプトの王はイスラエルの民をエジプトから追い出しました。そして、その夜にイスラエルの民は種なしのパンを食べたのです。
 ですから、パン種というのはイスラエルの民にとってエジプトでの奴隷生活を象徴しているのです。そして、種なしのパンとは、エジプトでの奴隷生活から新しい生活には入れられたことを象徴しているのです。ですから、イスラエルの民が過越しの祭で種なしのパンを食べるというのは、古い生活習慣を断ち切って新しい生活習慣に入れられていることを覚えるためです。パウロは、そのことをキリスト者にも当てはめているのです。コリント教会の人々に、神によって救われる以前の生活習慣を取り除くように勧めているのです。
 その目的は2つあります。1つは、過越しの小羊であるキリストがすでにほふられたからです。過越しの祭にほふられる小羊は、その家庭の最初の子どもの身代わりとなっての死を表しています。神の審きが過ぎ越されたのは、過越しの祭のほふられた小羊が身代わりとなって神の審きを受けたからです。それは、神のみことばを信じた者と神に認められたからです。すなわち、「神のみことばを信じず従わないという罪が取り除かれ、神のみことばを信じ従うことを選んだ」とみなされたからです。それと同じように、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって神の審きを受けてくださいました。「何故、イエス・キリストの十字架を信じるだけで神の審きから救われるのか」と言いますと、「神のみことばを信じず従わないという罪が取り除かれ、神のみことばを信じ従うことを選んだ」と神に見なされたからです。御存知のように「罪」ということばは、本来は「的外れ」という意味です。神に愛されていることを覚え、その神のみことばを信じ従う者として造られたのに、その神に愛されていることを忘れ、神のみことばを信じず従わないことは、神の創造の目的から外れています。これが聖書の語っている罪です。本来の目的から外れた歩みをしていることが罪なのです。
 人は、その本来の目的から外れた罪の歩みをしています。そのような私たちのために、イエス・キリストがこの世に来られ、十字架に架かって私たちの身代わりとなって神の審きを受けてくださったのです。それは、私たちがどれほど神に愛されているかを明らかにしてくださるためです。人は、今の自分がそのまま神に愛され受け入れられていることを知るとき、神の御許に戻ることができます。イエス・キリストの十字架の目的の1つは、人が神に愛されていることを知り、神の御許に戻ることによって「罪のない者」とみなされるためです。

3)十字架の目的②
 十字架の目的のもう1つは、新しい生活習慣を持つためです。パウロは8節の最初に「ですから」と語っています。これはイエス・キリストの十字架の贖いによって、神に愛されていることを知り神の御許に戻った者が新しい生活習慣に入れられていることを示しています。もうすでに、新しい生活習慣に入れられているのだから、「パン種の入らない…しようではありませんか。」と8節の後半で勧めているのです。「純粋で真実なパン」と語っています。純粋とは混じり気のないことを表しています。私たちが生かされています社会は道徳的に乱れている社会です。絶対的なものがなく、自分の基準で判断し行動する社会です。そのような社会の中で、神のみことばを基準としての歩みが真実なものであることをパウロは示しています。そして「祭りをしようではありませんか」と、祭を行い続けることを勧めています。ここに書かれています「祭」とは生活のことを表しています。「信仰は信仰、生活は生活」という二元論的な生き方ではなく、「信じていることを日々の生活の中に活かしていく」という一元論的な生き方を勧めているのです。何故なら、そのような歩みをするためにイエス・キリストは十字架に架かってくださったからです。そして、最高の祭りは礼拝です。神への礼拝と日々の生活は別々のものではなく繋がっているものなのです。
 確かに私たちは、イエス・キリストを信じることによって神に愛されていることを知り、神の御許に戻ることができました。しかしながら、弱さの故に過ちを犯してしまう存在でもあります。ですが、だからと言って以前のままの人間でもありません。ごちゃ混ぜの世界の中に生かされているのではなく、神によって新しい生活習慣に生きる者とされています。道徳的乱れという社会の中に生かされている限り、そのような誘惑が私たちに襲いかかってきます。そして、私たちはそのようなものと日々戦っているのではないでしょうか。だからこそ、教会は一人ひとりがそのような社会の中で、神の愛に正しく応えることができるように、互いに励まし合い慰め合っていくことが大切なのではないでしょうか。教会とは、そのような場ではないでしょうか。

結)
 イエス・キリストの十字架は、信じる者の罪が赦され神の審きから救われるためだけではありません。新しい生活習慣に生きる者となるためでもあります。それは、神の愛に正しく応える者として歩み続けることです。すなわち、「信仰は信仰、生活は生活」という二元論的な生き方ではなく、「信じていることを日々の生活の中で歩む」という一元論的な生き方です。そして、その最高の歩みは神への礼拝です。教会で共に神を礼拝し、共に交わり励まし合い慰め合うのです。私たちの教会もそのような場であり続けられるように祈っていきましょう。17年度が始まりました。教会では新たな集会を始めようとしています。各々の集会が神の愛を伝えられるものとして用いられたいと願わされます