メッセージ

 

 

使徒の働き9:10~19a「主の弟子アナニア」 22.01.29.

序)
 先週は、神の働きは一度に全てではなく一歩ずつであることを見つつ、それが私たちに対する神のご計画でもあることを学びました。パウロのアラビア滞在がどれほどの期間であったかは分かりませんが、神は時間をかけてパウロを整えられていったということです。このアラビアでのことは、来主日の礼拝にて少し触れたいと考えています。今朝は、その神のご計画の働きは具体的にどのようにしてなされるのかを共に学んでいきたいと願っています。

1)アナニア
 今朝の箇所は、主にアナニアに焦点を合わせて書かれています。まず、そのアナニアとはどのような人でしょうか。聖書には「アナニア」という人が3人登場します。1つは、使徒の働き5章に書かれています。これは比較的有名な箇所で、アナニアとサッピラ夫婦が代金の一部を全てのように見せかけて献げたことの出来事です。もう一つは、使徒の働き23章のパウロがローマに連れて行かれる前に最高法院に立ったときの大祭司アナニアです。その意味は「主は恵み深い」というもので一般的に多く使われていたようです。今朝の箇所のアナニアについては、パウロ自身が「律法に従う敬虔でユダヤ人に評判の良い人」として語っていることが使徒の働き22:12に書かれています。ひょっとしたら、8章での教会に対する激しい迫害のため諸地方に散らされた一人かもしれません。ただ確かなことは、パウロが異邦人伝道者へとされるにおいて重要な関わりを持っていた人物であるということです。
 まず、10節に、主が幻の中でアナニアに語られたことが書かれています。今朝の箇所には「幻の中で」ということばが2回書かれています。この幻とは何かということは明確にはできませんが、注目すべきことが一つあります。それは祈りと深く結ばれているということです。例えば9:11~12で、「彼は祈っています」と告げられつつ、「彼は幻の中で…見たのです」と、「この後アナニアという人が見えるようにしてくれる」と告げられたのです。また、10章には異邦人であり百人隊長のコルネリウスという人が登場します。彼も祈りを献げていると、幻の中でペテロを招くように告げられます。さらに、9節ではペテロも祈るために屋上に上りましたら、幻の中で主との問答を経験したのです。17節には「今見た幻は一体どういうことだろう」と思い惑っていたのです。
 これらのことから、幻と祈りは強く結ばれていることが分かります。アナニアも祈っているときに幻を見たものと考えられます。考えられるのは、アナニアはパウロがキリスト者を脅かすためにエルサレムからダマスコの町に向かっていることを聞き、そのことを思い巡らしながら神に祈っていたものと考えられます。それは「これからパウロがしようとしている迫害から守られるように」という内容の祈りだったのかもしれません。先程触れましたが、パウロ自身アナニアについて「律法に従う敬虔でユダヤ人に評判の良い人」と語っていることから、アナニアという人は祈る人であったと想像できます。

2)祈りの中で
 アナニアは神に祈る人だけでなく、その祈りの中で整えられていった人でもありました。アナニアは神に祈っているとき、幻の中で「アナニアよ」という神の声を聞きます。すると、アナニアは「主よ、ここにおります」と答えています。このことから祈りについて考えさせられます。私たちは「祈り」と言いますと、「神に呼びかけて願いごとを告げるとき」と考えてしまいます。しかし、このアナニアと神とのやりとりから、祈りは私たちが一方的に神に呼びかけ訴える時だけではなく、神の呼びかけを聞き従順な思いへと整えられていく時でもあることを教えられるのではないでしょうか。「主よ、ここにおります」と答えるアナニアに対して、神は11~12節に書かれていますが、「立って…見たのです」と、パウロが居る所に行くようにと告げられたのです。
 この神の語りかけは、アナニアにとっては大きな出来事でした。おそらくアナニアは、パウロの迫害から守られることを祈っていたことでしょう。それが「パウロの所に行け」と神は命じられたのです。このことは、アナニアが考えもしなかったことです。キリスト者から見れば、パウロは自分たちを迫害する敵でもあります。そのような人の所に行くなんて誰も思いもしないのではないでしょうか。ですが、神はそれを示されたのです。このことから、祈りは私たちが神に願いを伝えるだけでなく、神が私たちに語りかけられる機会でもあるということです。11~12節の神の語りかけに対し、アナニアは13~14節で「主よ…与えられています」と答えています。アナニアは、今自分が得ている全ての情報や知識を神に注ぎ出しています。アナニアの情報や知識は間違いではなく正しいものです。ですが聖書は、15節で「しかし、主はアナニアに言われた」と語っているのです。確かに、アナニアの情報や知識は間違いではなく正しいものです。ですが、祈りにおいて中心はアナニアではなく神ご自身であるということを、この「しかし、主はアナニアに言われた」ということばから教えられるのではないでしょうか。そして、神はアナニアに「行きなさい」と命じられています。アナニアの心の中の全てを御存知であられる神は、それでも「行きなさい」と命じられているのです。あくまでも、祈りにおいての中心は神であることを聖書は示しているのです。そして、それはアナニアにおいてもそうだったのです。アナニアにとって祈りは自分の思いを伝えるだけでなく、神からの語りかけに対して聞き従う者へと整えられていく時でもあったのです。
ただ15~16節の神のことばを見るとき、神は「行きなさい」と命じられるだけではありません。続けて神は「あの人はわたしの名を…彼に示します」と告げられています。すでに神はパウロをイエス・キリストの名を多くの人に伝える器として選び、パウロがどのような歩みをするのか」ということをアナニアに伝えています。それはアナニアが神のことばに従いやすいようにする神の配慮のようにも見受けられます。そのような神の配慮・導きは私たちに対しても同じです。私たちも祈りを通して、自分が考えもしなかったことを示されることがあります。そのとき私たちは「私にはできない」と答えてしまいます。アナニアも最初はそうでした。しかし、祈りの格闘をし続ける中で、神のことばに聞き従う者へと整えられていったのです。私たちも最初は「できません」と答えてしまうことでしょう。しかし、祈りの格闘をし続ける中で、神はみことばを通して私たちが従いやすいように示してくださいます。これが私たちへの神の配慮であり導きです。そのためにも、神に自分の思いを訴えるだけでなく、神からの語りかけに耳を傾けられるように整えられたいものです。

3)アナニアとパウロ
 祈りの中で整えられていったアナニアについて、聖書は17節で「そこでアナニアは出かけて行って」と語っています。アナニアは祈りの中で整えられることによって、示されたことをすぐに行動に移したのです。アナニアはパウロが留まっている家に入り何をしたでしょうか。一つは、パウロの上に手を置いて祈ったのです。祈りの最初に、アナニアは「兄弟サウロ」と呼びかけています。自分たちを迫害するために来たパウロを「兄弟」と呼びかけたということは、アナニアはパウロを受け入れたということです。アナニアにとってパウロを受け入れるのは簡単なことではなかったでしょう。アナニアの心の中には大きな葛藤があったことでしょう。しかし、その前の神との祈りの中で整えられていったのです。ここに、祈りはそのような人の心を変えるほどの大きな力があることを教えられます。
そして、その祈りはパウロの心をも変えていくのです。確かにダマスコ途上でのイエス・キリストとの出会いでパウロの心は大きく変えられたことでしょう。しかし、このときはまだ決心ができていなかったのです。そのことの様子について、パウロは使徒の働き22:14~16で「     」と語っています。特に16節に「何をためらっているのですか」とアナニアが言ったことばが書かれています。この時のパウロは、まだ決心がつかずためらっていたのです。ですが、アナニアの祈りと助言を通して、イエス・キリストに従う決心へと変えられたのです。今朝の箇所では、それを祈りの中で生じたように描かれているのです。そして、18節に「サウロの目から…落ちて」と書かれています。これは祈りの中でパウロがイエス・キリストに従うのを決心したことを示しています。祈りはそれ程の力があるのです。
もう一つはバプテスマを授けたということです。18節には「彼は立ち上がってバプテスマを受け」としか書かれていません。誰がパウロにバプテスマを授けたのかは書かれていません。しかし、この状況から考えますと、パウロにバプテスマを授けたのはアナニアであると想像できます。何故なら、この所には使徒たちはいないからです。そして、神によってアナニアがパウロの所に遣わされたのですから、パウロにバプテスマを授けたのもアナニアであると考えるのは自然なことです。バプテスマとは、イエス・キリストを救い主と信じ従う決心をしたことを見える形として表したものです。
少し話しが反れますが、バプテスマについて話したいと思います。人はバプテスマを受けることによって救われるのではありません。バプテスマはイエス・キリストを信じ従う決心をしたことの見えるしるしです。罪が赦され神の審きから救われるのは、イエス・キリストを救い主と信じたときです。昔、ストーラー先生に「先生の受洗日はいつですか」と尋ねましたら「覚えていない」という返事でした。私は心の中で驚いたのですが、続けてストーラー先生は「受洗日は覚えていないが決心した日は覚えている」と話されました。それを聞いて「確かに救われるのは信じたときだからなあ」と思わされました。皆さんはどうか知りませんが、私は信じる決心をした日よりもバプテスマを受けた日を覚えています。ですが、バプテスマを受けることによって救われるのではなく、信じる決心をして救われるのです。
話しが反れましたが、最後にアナニアはパウロと食事をしたということです。今朝の箇所を読んで思わされたのは、19節の「食事をして」ということばはなくても違和感はないということです。「彼は立ち上がってバプテスマを受け元気になった」でもおかしくありません。しかし、聖書は「食事をして」ということばを意識して、わざわざ書き記しているのです。ここに「食事」ということの大切さを知らされます。福音書の中にも、イエス・キリストが罪人と食事をされたことが書かれています。聖書における食事は、単なる食事ではないということを示しています。食事は交わりを通して、人を元気づけるものとして用いられているのです。それは教会における食事会も同じであることに気づかされます。「食事をして」という短いことばですが、その奥に秘められている重要な点を覚えつつ、私たちの教会での食事会も一人ひとりを元気づけることのできるものとして用いられるように祈っていきたいものです。

結)
 以上のことから、神のご計画の働きは祈りの中で整えられつつなされるものであることを知らされます。これは使徒の働き16章に書かれているピリピの町への宣教についてもそうです。6節に「聖霊によって禁じられた」、7節に「イエスの御霊がそれを許されなかった」と書かれています。それが具体的にどのようであったのかは聖書に何も記されていませんが、パウロは神との祈りの中で進もうと思っていた道を断念したものと考えられます。あくまでも中心は神であり人ではないということです。そして、教会における食事会は一般的な食事会とは質的に異なることも覚えつつ、人を元気づけられる食事会として用いられるように祈っていきたいものです。


使徒の働き9:1~9「神の計画」 23.01.22.

序)
 新年が明けてヤコブ書に戻りました。当初は2章の終わりまで続ける予定でいましたが、使徒の働きから長く遠ざかっていましたので、1章で終わり今日から当分の間「使徒の働き」から学んでいきたいと思っています。約5ヶ月ぶりですので、簡単に振り返って9章に入りたいと思います。初代教会はステパノが処刑された後、激しい迫害を受けることとなり、使徒たち以外はエルサレムの町から地方に散らされてしまいました。しかし、神はそのことを通して福音を広められたことが、8:4以降に記されています。ですが、それで問題が解決されたわけではありません。今朝の箇所は「パウロの回心」と言われている重大な出来事の箇所です。何故なら、この時のパウロはユダヤ教に熱心でキリスト教会の迫害に燃えていたからです。今朝は、この箇所から神の計画について共に教えられたいと願っています。

1)パウロの目的と計画
 1節に「サウロはなおも」と書かれています。この「サウロ」とは後のパウロのことです。分かりやすくするために「サウロ」と書かれていますが、「パウロ」という名前で統一させていただきます。今朝の箇所でまず教えられることはパウロの目的と計画です。パウロは8:1:に書かれていますように、「ステパノを殺すことに賛成」しました。そして、ステパノを処刑するだけでは気が済まず、9:1に「サウロは…息巻き」と書かれているように、教会を迫害することに意欲を燃やしていたのです。この9:1のことばから、「パウロがどれほどの思いで教会を迫害しようとしていたのか」を、心に思い描くことができるのではないでしょうか。パウロは大祭司の所に行って諸会堂宛ての手紙を求めるほど、強い殺意を燃やしていたのです。パウロの目的はキリスト者の殺害です。要はキリスト者を一人も生かしておかないことです。キリスト教会を絶滅することが彼の目的だったのです。そのための第一段階として、ダマスコの町にいるキリスト者を見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るという計画です。ダマスコの町にいるキリスト者をエルサレムに引いて来てどうするのでしょうか。ステパノと同じように裁判にかけて処刑することです。これがパウロの目的と計画です。
 パウロはことばで表現できないほどの意欲をもって、ダマスコの町に向けて旅立ったことでしょう。ところがです。3節に書かれていますようにダマスコの町の近くまで来たとき、突然天からの光を受けたのです。そのためどうなったでしょうか。8節に「目を開けていたものの、何も見えなかった」と書かれています。そして、「それで人々は…連れて行った」と書かれていますように、自分一人では歩くことができない状況となったのです。この光景を思い浮かべるとき、箴言16:1の「     」というみことばを思い起こされます。人は「自分の思いが純粋である」と思って行動しますが、神の御心は全く別であって、自分の思いや期待に反する結果に導かれることがあるということです。
 これはパウロにしてもそうでした。彼は「自分は神に熱心に仕えている」と思い込み、キリスト教会を迫害することに意欲を燃やしていました。彼は純粋な思いで自分の目的・計画を立てて行動しましたが、それは全く的外れなものだったのです。そのようなことは、私たちの日々の生活においても生じるものでもあります。私たちも純粋な思いですることがありますが、それが必ずしも神のみ旨と同じであるとは限らないことを覚えたいものです。

2)イエスの目的と計画
 次に教えられるのは、イエスの目的と計画です。パウロは純粋な思いで、ダマスコの町に向けて出発しキリスト教会を迫害しようとしました。ダマスコの町の近くに来たとき、天から光が照らされ声を聞きました。それは「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」ということばです。すると、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねたのです。このパウロの応答に至る経緯については、聖書は何も語ってはいません。確かなことは、パウロは「自分の高慢さを打ち砕かれた」ということです。今の自分が置かれている状況の中で、ことばをかけられた方を無視しては何もできないことを認めているのです。ここに、パウロの信仰を見ることができるのではないでしょうか。詩篇51:17の「     」のみことばを思い起こされます。人は誰もが間違いを犯してしまいます。それが純粋な思いであったとしても、神のみ旨と違った方向に歩んでしまうことがあります。しかし、「その歩みが間違いである」と気づかされたとき、きちんと改めることが「砕かれた霊」「砕かれた心」ではないでしょうか。そして、その霊や心を神は受け入れてくださるのです。
 それはパウロにおいても同じでした。「主よ、あなたはどなたですか」とのパウロのことばに対して、イエス・キリストは「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えられ、その後で「立ち上がって…告げられる」と、これから先のことを示しておられます。イエス・キリストはパウロへの目的と計画を持っておられましたが、一度に全てのことを示されたのでもありません。イエス・キリストは、パウロに「立ち上がって、町に入りなさい」と告げられたのです。そして、ダマスコの町に入ったなら、次のことが示されることを話されたのです。一度に全てを示されたのではなく、パウロの必要に応じてなのです。まずはダマスコの町に入り、ダマスコの町に入った段階で、次のことが示されていくのです。当然、それには時間が費やされますし、忍耐も必要となってきます。ですが、それがイエス・キリストのパウロを導く方法なのです。
そのことを経験したパウロは、Ⅱコリント3:18に「栄光から栄光へと」と書かれています。「主と同じかたちに変えられるのは一瞬にしてではなく徐々に」であることをパウロは語っています。パウロと同じように、神は私たち一人ひとりに対する目的と計画を持っておられます。しかしながら、私たちに一度に全てのことを示されることはなさいません。私たちの必要に応じて示してくださるのです。そこには時間が費やされますし、その途中では様々なことを経験させられていきます。それら一つひとつを神は用いて、私たち一人ひとりに対するご自身の目的と計画を遂行なされるのです。それは世間で言われる「日々の積み重ね」というものでもあるでしょう。しかし、その「日々の積み重ね」の中に神は働いてくださり、私たち一人ひとりを導いてくださるのです。

3)パウロの心情
 ダマスコ途上で、イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロの心情はどのようなものだったでしょうか。そのパウロの心情については、今朝の箇所には何も書かれてはいません。ですが、エルサレムの町を出てダマスコの町に向かうときのパウロの姿を想像するとき、同行する人たちの先頭に立って進んでいたのではないでしょうか。ところが、ダマスコ途上でイエス・キリストと出会い、目を開けても何も見えない状態でした。そのため、同行者に手を引いてもらわなければ進めない状態になってしまったのです。このときのパウロの姿は、エルサレムの町を出たときのパウロの姿とは正反対の姿でもあります。そこには自信過剰に満ちたパウロの姿を見ることはできません。人の助けを得なければ、前に進むことのできないパウロの姿しか見えません。
 しかも、そのパウロの手を引いてダマスコの町に連れて行ったのは、パウロと同行していた人たちです。この人たちについて、聖書は7節で「     」と語っています。おそらく、彼らはパウロと同じような出来事に遭遇しましたが、個人的にイエス・キリストとは出会っていない人たちであったと考えられます。すなわち、心を打ち砕かれていない人たちだったと思われます。ですが、パウロはそのような人たちの助けを得ながら一歩を踏み出したのです。そのことを思い巡らしますと、私たちの歩みはイエス・キリストを信じている人たちの祈りや支えだけでなく、イエス・キリストを信じていない人たちにも支えながら歩まされていることに気づかされるのではないでしょうか。そして、そのような一人ひとりを神が用いてくださっていることを知らされます。
 他人の助けを得なければ何もできないパウロ。イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロには、エルサレムの町を出たときのような自信過剰に満ちた姿は微塵もありません。今、私たちが見ています使徒の働きの著者はルカと考えられています。ですから、この使徒の働きは著者ルカの意図をもって書かれている手紙です。パウロ自身は、このときの出来事について何と語っているかと言いますと、ガラテヤ1:13~17で「     」と告白しています。すなわち、イエス・キリストと個人的な出会いをしたパウロは一人でアラビアに行ったのです。この「アラビア」とは何処かと言いますと、現代のアラビア半島ではなく現代のヨルダンも「アラビア」とされていたようです。おそらく、パウロは現代のヨルダンに行ったのではないかと考えられます。大切なのは場所が何処かではなく、パウロは一人になって今後のことについて考えたということです。
 「これが絶対だ」と確信していたものが崩されただけでなく、間違った行為をしていたのですから、その反動はとても大きなものだったと想像できます。このときパウロは「今後どうすれば良いのか」を考えたことでしょう。「その期間がどれ程か」は分かりませんが、イエス・キリストはパウロの心の中に働かれ、一歩ずつではありますがパウロを従う者へと導かれたのです。そのイエス・キリストのお取り扱いは私たちに対しても同じです。私たちの心に寄り添い、一歩ずつではありますが導いてくださるお方です。

結)
 使徒の働きだけを見ますと、一瞬の内に変えられたかのように思えるパウロ。しかし、そこには時間を要していたのです。その期間の中で、神は心の内に働かれ一歩ずつ導いてくださいます。その神のお取り扱いは、パウロだけでなく私たち一人ひとりに対しても同じです。私たちは一瞬の内に大きく変わることを願いやすいですが、変わらない状況の中にあったとしても、尚且つ神は働き導いてくださいます。これが神のご計画です。


ヤコブ1:25~27「みことばを行うとは」 23.01.15.

序)
 先週は、神を礼拝することがみことばを行うことのスタートであることを学びました。スタートですから、ゴールまでの歩みがみことばを行うことでもあります。今朝は、そのみことばを行うとはどういうことかを共に教えられたいと願っています。

1)神の約束を信じること
 みことばを行うにおいて大切な1つは、神の約束を信じることです。神の約束を信じることをしないで、みことばを行うこともできなくはありませんが、その歩みは間違った方向に進んでしまいます。25節の最後に「こういう人は…祝福されます」と書かれています。これが神の私たちに対する約束です。神のみことばを行いますと、神から祝福をいただくことができるのです。25節の「自由をもたらす…離れない人」というのは、神の約束を信じイエス・キリストに留まり続ける人のことです。それは詩篇1:3に書かれています「流れのほとりに植えられた木」のような人であり、神のみことばに養われている人のことです。すなわち、実生活の中でみことばを生かす人のことです。何度も話していますが、聖書が語る「生きる」とは、漠然と生きることではなく目的・目標を見据えて生きることです。詩篇1:3の最後には「そのなすことは全て栄える」と書かれています。これが神の約束であり祝福です。
 この「栄える」に②と書かれています。欄外を見ますと、創世記39:3と23節が記されています。この箇所には「主が彼と共におられ、彼が何をしても成功させてくださった」と書かれています。ところが、ヨセフは3節の後で主人の妻によって監獄に入れられることとなります。また、23節の後でもヨセフは少なくとも2年間は監獄に入れられたままなのです。私たちはこの箇所を読んで、「神がヨセフと共におられるのに、『神が成功させてくださった』と書かれているのに何故?」と思えたりもします。そして、「これが神の祝福なのか」と思えたりもします。この「成功」とか「栄え」は自分の目から見た成功ではなく、神の目から見た成功であり栄えなのです。それは「神のご計画の通りに進んでいる」ということでもあります。
 ヤコブ書に戻りますが、25節の終わりの方に「その人の行いによって祝福されます」と書かれています。このことばに疑問を持たれる方もおられるかもしれません。何故なら、「神の祝福は人の行いによってではなく信仰によってではないか」ということからです。その捉え方は間違いではありません。何故なら、救いも神の祝福の一つだからです。ですが、25節に書かれています「行い」は、私たちが考えやすい行いではありません。私たちが考えやすいのは、「良い行いをすることによって、神から褒められご褒美がもらえる」というものではないでしょうか。例えば、イエス・キリストの所に富める青年が来て、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすれば良いのでしょうか」と尋ねたことがマタイ19:16~22節に書かれています。この青年は見返りを求めていました。その見返りとは永遠のいのちです。その青年に対して、イエス・キリストは「あなたの財産を…わたしに従って来なさい」と21節で話されました。ここでイエス・キリストは「見返りを求めないように」と話されているのです。今朝の箇所の「行い」も見返りを求めない行いのことです。
 では、「見返りを求めない行い」とは何でしょうか。一言で言うならば「感謝による行い」です。すなわち、何かをしてもらうための行いではなく、していただいたことへの行いです。今私たちが献げています礼拝もそうです。神に何かをしていただくために礼拝を献げているのではありません。先週1週間の歩みの中で、神が共にいてくださり導いてくださったことに感謝しての礼拝です。今年も神社などに初詣をされた方が大勢おられました。ニュースでは「コロナ前の人出」とも言われていました。その殆どは願い事をするために参拝されたのではないでしょうか。これは見返りを求めてのものでもあります。ですが、今私たちが献げています礼拝はそうではありません。先週の歩みを神が支え導いてくださったことに感謝してのものです。ですから、神社への参拝と私たちの礼拝は質的に違うものなのです。私たちが毎主日この所に集い神に礼拝は、1週間の歩みを神が支え導いてくださったことへの感謝を献げているのです。決して、聖書が教えているから義務的に礼拝をしているのではないのです。
1週間の歩みの中で、私たちは様々なことを経験します。そこには自分にとって良いこともあれば良くないこともあります。しかし、1週間の歩みを神によって支えられたのは事実です。だから今生かされているのです。そのことに感謝しつつ、神が最善の成してくださる約束を信じ礼拝を献げているのです。みことばを行うにおいて大切なことの1つは、神の約束を信じることです。

2)神の約束を信じられない信仰は空しい
 みことばを実行するにおいて大切な第2は、神の約束を信じられない歩みは空しいと知ることです。26節で語られていることは、行いが伴わない生活のことです。26節の「自分の心を欺いている」とは、信仰が実生活につながっていないことです。口では立派な信仰的なことを話しますが、実生活は全く違う歩みをしていることです。聖書が語る信仰は実生活の中で生かすものであり、信仰と実生活には深い繋がりがあるのです。しかし、実生活の中で生かされていない人のことについて、聖書はどのように語っているでしょうか。ヨハネの黙示録3:1には「実は死んでいる」と書かれています。このサルデスの教会の人たちは、イエス・キリストを信じている人たちです。ですが、神は「実は死んでいる」と言われたのです。それは行いが神の前で全うされていないからです。それは信仰が実生活の中で生かされていないからです。ヤコブは「そのような信仰生活は空しい」と語っているのです。
 そのような生き方は「二元論的な生き方」ではありませんが、それと似た生活でもあります。二元論的な生き方というのは、「信仰は信仰であり、実生活は実生活で別物」という生活です。そこまでは言わなくても、それに似た生き方になりやすいのは確かなことです。一番良い例がディボーションです。私たちは「みことばには力があり、みことばは私たちの霊を生かす力がある」と知っています。しかし、ディボーションを持とうとしないならどうでしょうか。「ディボーションなど持たなくてもやっていける」と思うなら、それは二元論的な生き方に似ています。最初の方で話しましたが、詩篇1:1~3に書かれている幸いな人とは、流れのほとりに植えられた木のような人です。流れのほとりに植えられた木は、毎日川から水分や栄養分を吸収することができます。それによって成長し実を結びます。木はそのことを実感しているかどうかは分かりませんが、確実に成長し実を結ぶようになるのです。私たちが取っています食事もそうです。実感としてはないと思います。ただお腹が空いたから食事をするだけでしょう。食事をしながら、「今栄養分が吸収されて力に変えられている」など実感しながら食事をしているわけではありません。しかし、吸収されて力に変えられているのは確かなことです。それと同じように、日々みことばに養われる人も実感はしませんが、気づかない内に吸収され力に変えられているのです。「どのような力に変えられるのか」と言いますと、生きる力に変えられるのです。
 逆に言えば、「日々みことばに耳を傾けない人は幸いな人ではない」と言うのです。むしろ、「そのような人の信仰生活は空しい」と言うのです。すなわち、「日々の生活の中で神の約束を信じることができず、神の恵みに対しての応答が伴わない人の歩みは空しい」と言うのです。何故なら、それは神を抜きにして、自分の力で生きていこうとしているのと同じだからです。伝道者の書には、人生の空しさが書かれています。空しい人生は、日の下の人生です。伝道者の書には「日の下で」ということばが繰り返し書かれ、「その日の下での人生は空しい」と語っています。「日の下」というのは、神の約束を信じられず神を抜きにして、自分の力で生きていこうとする人生のことです。口では信仰的なことを語りますが、実生活に伴っていない歩みのことです。そのような生活は空しいものです。そのことを知るのは大切なことです。

3)みことばを行うとは
 では、みことばを行うとはどういうことでしょうか。すでに語ってきましたからお分かりだと思いますが、みことばを実生活の中で生かすことです。具体的にどういうことでしょうか。それは、マタイ22:36~40でイエス・キリストが話された「神を愛し隣人を愛する」ということです。神を愛するとは、神を礼拝することであり、神の約束を信じることです。これは信仰です。隣人を愛するとは、その信仰の実践です。今朝の箇所の27節に「孤児ややもめたちが…自分を守ることです」と書かれています。孤児ややもめが困っているときに世話をしても見返りはありません。かえってお金を使い、体力を使い、時間を費やしてしまいます。打算的な考えからすれば損をするだけです。しかし、聖書はそれを実践することを勧めているのです。何故そのようなことを聖書は勧めているのでしょうか。永遠のいのちを得るためでしょうか。もし、永遠のいのちを得るために行うなら打算的行為と同じです。
 イエス・キリストは「神を愛し隣人を愛する」ことを話されました。この順番が大切です。何故神を愛するのかと言いますと、神が自分にしてくださったことに感謝しているからです。その感謝を見える形として表すのが神への礼拝であり、隣人を愛することだからです。ですから、見返りが期待できないけれども行えられるのは、神への感謝が源となっているからです。ルカの福音書で、イエス・キリストは「神を愛し隣人を愛する」ことを話された後に、「良きサマリア人」と言われる譬え話をされました。これは見返りを求めない行為です。イエス・キリストも見返りを求めない行為を勧めておられるのです。何故なら、それが行えられるのは神への感謝が源となっているからです。
 また、「隣人」というのは自分以外の人のことです。ですから、隣人を愛するとは外に向けての行為でもあります。ですから、隣人を愛するとは自分や自分たち以外に行うことでもあります。先程触れました「良きサマリア人」は、自分に余裕があったから強盗に襲われた人の費用を支払ったのではありません。彼は強盗に襲われた人を「かわいそうに思った」から行ったのです。この「かわいそうに」と訳されていますことばは、「同情する」とか「憐れむ」とも訳されていることばです。同じルカの福音書では7:13の「深くあわれみ」と訳されていることばがそうですし、15:20の「かわいそうに思い」と訳されていることばがそうです。また、マタイの福音書では9:36の「深くあわれみ」、14:14の「深くあわれんで」などが同じことばです。これは上からの目線ではなく、同じ立場に立って行動することを意味しています。そのことをヤコブは教会に求めているのです。これは私たちの教会の「外部献金」も同じです。これは教会が経済的に余裕があるからするのではなく、教会も必要ではあるが痛みを覚えて献げられるものです。
 ですから、みことばを行うとは痛みを覚えるものでもあります。赦せない人を赦そうとするのには痛みを覚えます。苦手な人や良く思わない人に接するのも痛みを覚えます。自分が受け入れられない人を受け入れるには痛みを覚えます。痛みを覚えますけれども、神の恵みに感謝して行うことが、みことばを行うということです。ルカ10:37の最後に、「あなたも行って、同じようにしなさい」とイエス・キリストが話されたことが書かれています。痛みを伴いますが行えられるように共に祈りましょう。

結)
 みことばを行うとは、神の約束を信じ生きることでもあります。そして、その神の約束を信じ生きるには、今まで神がしてくださったことに目を留めつつ、今後の歩みを見据えるしかありません。まず神がしてくださったことに目を留めますと、神に感謝する思いが起こされます。何度も話していますが、私たちの歩み一つひとつは当たり前ではなく神の導きによるものです。「当たり前」と思う限り、感謝の思いは起こりません。神の恵みに感謝して生きることが、みことばを行うことのスタートでもあります。一つひとつのことに感謝して歩み続けられるように祈っていきましょう

ヤコブ1:22~25「みことばを行う人に」 23.01.08.

序)
 新年が明けて1週間が経ち、正月気分も抜け始めたことでしょう。クリスマスと新年を過ごし、ヤコブ書から約1ヶ月半離れていました。今日からヤコブ書に戻り、当分の間ともに学んでいきたいと願っています。新年礼拝でも見ましたが、神のことばは人を生かす力のあるものです。それは精神的・内面的力です。ところが、ヤコブは「その力を持っているだけでは意味がない」と語っています。「その力を用いることが大切である」というのです。例えば、お金は持っていれば安心感を与えてくれますが、持っているだけではお金の役目を果たすことはできません。お金は用いることによって、初めてその役目を果たすことができます。ヤコブは「信仰もそのようなものだ」と語っているのです。今朝は、みことばを実行するとはどういうことなのかを共に教えられたいと願っています。

1)証しをすること
 22節の初めに書かれています「みことばを行う人」とは、どのような人のことでしょうか。この「行う」とは、今まで得たものを生かして用いることです。みことばを行うにおいて大切なことの第1は、証しをすることです。証しは「霊の運動」とも割れています。「証しをしましょう」と聞かれますと、弱気になられる方がおられます。そして「私は勉強不足ですから」とか「私なんかまだまだですから」などと言われたりもされます。ですが、それは間違いです。聖書が語っています証しについて、正しく理解されていないからです。証しは奉仕ではなく、特別なことをするわけでもありません。
 一人ひとり違いますから、他の人と同じようなことをしなければならないということはありません。何故なら、一人ひとりの信仰の成長は違うからです。信仰生活は人間の生涯と似ています。まだ受胎もしていない状態は、神を知らず神を求めようともしない未信者のときです。そして、受胎した胎児のときは、神を知り求めていますが決心ができていない求道者のときです。そして、誕生は神を信じ生きようと決心したときです。誕生した赤ちゃんは完全な人間ですが、それでゴールというわけではありません。そこから、さらに人として成長していきます。ですから、誕生はゴールではなくスタートとも言えます。信仰も同じです。イエス・キリストを信じたときがゴールではなくスタートです。そこから一人ひとり成長していくのです。その成長具合は一人ひとり違います。幼児の運動・小学生の運動・中高生の運動・大人の運動はそれぞれ違いますが、その成長具合に合った運動をします。証しを「霊の運動」と言われたりします。また、成長するにつれてある人は野球に、ある人はサッカーに、ある人は別のものにとなります。証しの仕方も一人ひとり違っていて良いのです。そのような意味で、証しは誰にでもできるのです。
聖書の語る証しとは、神が自分にしてくださったことを伝えるものです。すなわち、自分が経験したことをいろいろな方法で伝えることが聖書の語る証しです。聖書は「みことばを行う人になりなさい」と勧めています。決して「みことばを行い成功しなさい」とは語ってはいないのです。ですから、良い結果を出すことが証しではありません。みことばを実行して誤解されるときもあれば、失敗することもあります。ですが、神はそれらを豊かに用いることのできるお方です。私たちの弱さを用いることのできる神は、私たちの誤解や失敗をも用いることのできるお方なのです。何故なら、神には不可能なことが何一つないお方だからです。証しの方法は一人ひとり違います。そして、何よりも大切なのは今の自分にできることから始めることです。

2)自分を欺かないこと
 みことばを行うにおいて大切な第2は、自分を欺かないことです。「自分を欺く」とはどういうことでしょうか。1つは聞き方です。悪い聞き方には3つあると言われます。1つは新幹線式聞き方です。新幹線はとても速いです。ですから、すぐに通り抜けてしまう聞き方です。すなわち、聞いたけれどもすぐに忘れてしまう聞き方です。イエス・キリストが4つの種の譬え話をされました。ある種は道端に落ちて、すぐに鳥に食べられてしまいました。そのような聞き方です。もう1つはラムネ式聞き方です。ラムネの中にはビー玉が入っていましてコロコロ動きます。そこから、聞いても身に着けない聞き方のことです。これは先程の譬え話の2つ目のすぐに芽を出して枯れてしまう種に似ています。最後はプロペラ式聞き方です。これは聞いたことを自分に適用するのではなく、他の人に適用してしまう聞き方です。実は、みことばは自分に語られているのに、この話は「あの人に聞かせたい」とか「あの人が居れば良かったのに」と思うことです。「自分を欺く」とは、このプロペラ式聞き方のことです。
 「自分を欺く」というもう一つは、できるのにしないことです。それは「みことばは何を語っているか」を知っているのです。そして、本人は決心ができるのに「でも〇〇だから」と様々な口実をつけて「実践しよう」と決心しない人のことです。口実というのは、探そうと思えばどれだけでも探すことができます。でも、聖書はそれを「自分を欺いている」と語っているのです。この「欺く」と訳されていますことばは、新約聖書に2回した登場しないことばです。今朝の箇所とコロサイ2:4の「惑わす」と訳されていることばだけです。これは「悪いこと」「間違っている」と分かっているのに行うことを表しています。すなわち、故意にしていることを意味したことばです。これは他の人には分かりませんが自分自身は分かっているのです。ヤコブは「自分の心に偽った行為をしないように」と勧めているのです。そのように考えますと、「信仰とは自分自身との戦い」とも言うことができます。みことばが自分自身に迫り、そのみことばに対して「自分はどのように決断するのか」が問われるのが信仰です。
 ところが、その決断をしないで「ただ聞くだけの者となってはいけません」とヤコブは勧めているのです。この「聞くだけの者」とは、先程話しました悪い聞き方もそうですが他にもあります。それは耳当たりの良いことばを求める聞き方です。最近は耳にすることはありませんが、昔は「恵まれたメッセージを聞きたい」ということばを耳にしたことがあります。「恵まれたメッセージ」というのは、励まされたり慰められたりするメッセージです。確かにそのようなメッセージは大切ですが、それだけなら問題も生じます。何故なら、先程も話しましたが信仰は自分自身との戦いでもあるからです。自分の都合の良いものだけを聞き取って、自分の都合の良くないものは聞き捨てるなら、それは今朝の箇所に書かれています「聞くだけの者」と言えます。
 その代表的なのが、エレミヤ42~43章に書かれている出来事です。42:2~3に、カレアハの子ヨハナンは、預言者エレミヤに「どうか、私たちの…くださいますように」と言いました。さらに、5節には「主が、私たちの…すべて行います」とも告げました。彼らはバビロンの王を恐れてエジプトに逃れようとしていたのです。自分たちの行為が確かなものであることを求めたいがために、エレミヤの所に行き神の御心を求めたのです。ところが、エレミヤからは「ユダの地に留まれ」という神の御心を彼らに伝えたのです。すると、ヨハナンは「あなたは偽りを語っている」と言って聞き従わなかったことが43:2~4に書かれています。彼らは自分たちにとって都合の良くないことは聞き捨てて従わなかったのです。これが聖書の語る「自分を欺く」ということです。ヤコブは「そのことに注意するように」と勧めているのです。

3)みことばを行うスタート
 ヤコブは、みことばを行う歩みを勧めています。では、みことばを行うスタートは何でしょうか。23~24節に「     」と書かれています。ここで注目したいのは、「見つめる」ではなく「眺める」と書かれていることです。主に「見つめる」は一点に集中して見ることですが、「眺める」は一点に集中するのではなく、視野に入るもの全体を広く見ることを表しています。ですから、ここで語られていることは、自分の全体像は何となく分かっているのですが、細かい所までは分かっていないということです。みことばを聞いて行おうとする人は、自分の改める点を見出だして改めようとしますが、ただ聞くだけの人は改める点を見出だせられずそのままにしてしまうということです。例えば、私は教会には普段着で来ますが礼拝前に着替えます。そして、鏡の前でネクタイの位置が大丈夫かを確認します。これはネクタイの位置に集中して見ていますから、ずれていた場合は修正することができます。ところが、ただ鏡の前に立って何も集中しないでパッと見ただけで鏡から離れてしまいますと、ネクタイの位置がずれたままで講壇に立つことになります。みことばを行う人は、ネクタイがずれていたら修正する人であり、聞くだけの人はネクタイがずれたまま講壇に立つことです。
 先程は外見的なことですが、今朝の箇所では内面的なこと霊的なことをヤコブは語っているのです。それは、「みことばを行わない人は、今の自分の霊的な状態を把握していない」と語っているのです。そのため、「日々の歩みがずれてしまっている」と言っているのです。ですから、大切なのは25節に「完全な律法を一心に見つめて」と書かれていますように、「一点に集中して見る」ということです。何に集中するのかと言いますと、25節に書かれていますように「完全な律法」です。この「完全な律法」とは福音のことです。福音とは、イエス・キリストの十字架による死と復活です。このような私のためにイエス・キリストが身代わりとなって神の審きを受けてくださり、この私が望みをもって生きる者となるために死から甦ってくださった。そのことに感謝して生きることを神は私たちに願っておられるのです。
 いやそれだけでなく、日々の歩みの中で神が共にいて守り導いてくださっていることに感謝することもそうです。クリスマス礼拝の時に話しましたが、私たちが気づこうが気づかまいが神は共にいてくださいます。そのことに感謝して生きる。これが神の私たちに願っておられることです。そして、その感謝を日々の生活の中で現わしていくことが「みことばを行う人」でもあります。その現し方は人によって違うことでしょう。でも、スタートは感謝からです。礼拝もそうです。「何故礼拝するのか」と言いますと、聖書に書かれているからではありません。1週間の歩みの中に神が共にいて守り導いてくださったことへの感謝の表しとして礼拝を献げているのです。信じていない人は神が共にいてくださることに気づきませんし知りません。ですが、私たちは知っていますから、そのことに感謝して礼拝を献げているのです。みことばを行うスタートは、神が共にいて守り導いてくださっていることに感謝して礼拝を献げることです。神を礼拝することが、みことばを行うスタートです。

結)
 神を礼拝し続けることは、みことばを行うことのゴールではなくスタートです。さらに、日々のみことばから教えられることを日常生活の中で行えられる1年とされたいものです。それは簡単なことではありませんが、行えられるように共に励まし合い祈り合って歩まされていきましょう。


ヨエル2:28~29「生きる力」 23.01.01.

序)
 新年あけましておめでとうございます。今年は主の日が新年から始まりました。これは5~6年に1度のことです。皆さんにとって、昨年はどのような年だったでしょうか。昨年の漢字が表しているように、「戦いの1年」ということができます。2月にロシアによるウクライナ侵攻に伴って物価が上がり、私たちの生活が脅かされる年でもありました。政府は防衛費を増額する方向でいます。社会情勢を見ますと「やむを得ない」と思え、将来に対して不安を抱いたりもします。そのような中で、私たちは何に目を留めれば良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)神のことばに目を留める
 その1つは、神のことばに目を留めることです。28節の冒頭に「その後」と書かれています。「その後」とは何でしょうか。それは27節までに書かれている事柄です。27節までは、神の物質的祝福が書かれており、神と人との関係が回復されたことが記されています。人は、どのようにして神との関係を回復することができるのでしょうか。それは、神のことばを信じることによってです。2:12~14は、悔い改めることへの招きのことばです。12節に「主のことば」とあります。これは神が預言者ヨエルを通して、イスラエルの民に語られたことを示しています。そして15~17節には、悔い改めの集会の招きが書かれています。18節のみことばから、イスラエルの民の悔い改めに対する神の応答が書かれています。それは神が物質的な祝福をなされたということです。そして、28~29節には物質的祝福に続いて霊的祝福が書かれています。このことから、神の祝福は神のことばから始まることを知らされます。
 イエス・キリストも申命記8:3のみことばを引用されつつ、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばで生きる」とサタンの誘惑に遭われたとき答えられました。人を生かすものは神のことばなのです。箴言4:23の後半に「いのちの泉はこれから湧く」と書かれています。「これから」の「これ」とは何でしょうか。それは箴言のことを指しており、さらに言えば神のことばである聖書です。日本にいます私たちは、一人ひとりが神のことばである聖書を持つことができます。ですから、何時でも何処でも神のことばに耳を傾けて聞くことができます。その神のことばは、私たちに生きる力を与えてくださいます。私たちの歩みは、自分にとって良いことや楽しいことばかりではありません。苦しみや悲しみ、そして失望などを経験します。しかし、神はみことばを通して私たちを励まし、生きる力を与えてくださいます。
 では、どのようにして生きる力を与えてくださるのでしょうか。突然、奇蹟などをお越してくださるのでしょうか。そうではありません。私たちが苦しみ悩んでいるときの視点は、何処に向いているでしょうか。それは目の前の事柄ではないでしょうか。目の前の問題が解決されることに集中してしまい、それしか見えなくなってしまうのではないでしょうか。そのような中でみことばに聞くとき、「あっ、そうなんだ」という思いが起こされ見方が変えられます。それは「平面的な見方から立体的な見方に変えられる」と言っても良いでしょう。それは迷路に入って迷っていますと「出られるのか」と不安になります。そのようなとき梯子などの上に上れるものを見つけて上って周りを見渡しますと、どの道を通れば良いかが分かります。そして、迷路で迷っていたときの不安から解放されます。「みことばに聞く」というのは、それに似ています。見方が変えられるのです。何度も話していますが、「見方が変えられる」ということは、「生き方が変えられる」ということです。みことばは生きる力を与えてくださいます。だから、神のことばに目を留めることは大切なことなのです。

2)賜物に目を留める
 第2は、賜物に目を留めることです。神は28節で「全ての人にわたしの霊を注ぐ」と語られています。旧約時代において、神の霊とは特別な人にだけ注がれていました。ですが、ここでは「全ての人にわたしの霊を注ぐ」と語られています。この「全ての人に」とは、神を信じる全ての人のことです。ですから、神を信じるならば誰もが神の霊が注がれるのです。では、神の霊とは何でしょうか。旧約時代に神の霊を受けていた人たちは、その神の霊を通して神のすばらしさを現していました。すなわち、神の霊というのは、神のすばらしさを現す賜物の一つなのです。神の賜物は一人ひとりに与えられています。あなたがイエス・キリストを信じ救われ、生かされていることに感謝し生きることができる。これも神の賜物の一つなのです。あなたという存在は、神のすばらしさを現すことのできる存在なのです。「私みたいな者」と思われるかもしれません。ですが、その「私みたいな者」を用いてくださるから神はすばらしいのです。人は何かができるからすばらしいのではありません。神によって造られ生かされているからすばらしいのです。あなたそのものが神の賜物なのです。
 私たちが今この時代に生かされているのは、何か当たり前のように思えるかもしれません。ですが、決して当たり前ではありません。私たちが今この時代に生きているのは、神が私たちを生かしてくださっているからです。神が私たちを生かしてくださらなければ、私たちはひと時も生きることはできないのです。命を取られたら生きることはできないのです。ですから、今生かされているというのは、当たり前のことではなく神の恵みそのものなのです。何度も話していますが「当たり前」と思いますと、感謝の思いは出てきません。しかし、「当たり前ではなく神の恵み」と捉えますと感謝の思いが出てきます。私たちが生かされているのは当たり前のことではなく、神の恵みそのものなのです。これも見方が変えられることの一つです。確かに、この世に生きているとき様々な苦しみや悲しみを経験します。今年も多くのことを経験されることと思います。いや、思うではなく確かなことです。しかし、その一つひとつに神は取り扱ってくださり、導いてくださるのも確かなことです。これも何度も話していますが、見える現実だけを見つめるのではなく、見えない神の取り扱いという現実にも目を留めること大切なことです。
 「賜物に目を留める」と聞かれますと、「自分にはどのような賜物があるのだろう」と思ってしまいやすくなります。それは「賜物=何かできること」と捉えておられるからです。ですが、聖書が語る「賜物」は何かができることではありません。神が与えてくださるもの全てが賜物なのです。ですから、生きていることも賜物の一つですし、自分の経験も賜物の一つなのです。今まで様々な経験をされてこられたと思います。その経験を通して、他の人の相談に乗ったり助言したりすることができます。それも賜物の一つです。今日から始まりました新しい年、自分の賜物に目を留めつつ感謝して歩まされる年とされたいものです。

3)幻に目を留める
 第3は、幻に目を留めることです。28節の後半~29節にかけて、「あなたがたの息子や娘は預言し…わたしの霊を注ぐ」と語られています。神の霊は年齢や性別、国籍や社会的身分など一切関係ありません。どのような人であれ、イエス・キリストを信じる人なら全ての人に注がれます。そして、前向きに生きることができます。「前向きに生きる」というのは、「何かに取り組む」ということではありません。感謝して生きるということです。感謝する人生は、どのような人にも与えられています。感謝は若い人であれ、年齢を重ねた人であれ、今生かされている全ての人に与えられています。
 神のみことばを通して自分を知り、与えられている賜物に目を向けるとき、人は生き方が変えられます。「生き方が変えられる」というのは、自分が進むべき道を見出だすことでもあります。どの方向に進んで良いのか分からない状態から、進むべき方向を見出だすことです。28節の最後に、「老人は夢を…幻を見る」と書かれています。これはそのことを語っているのです。単に「こうなれば良いな」「ああなれば良いな」というものではなく、その思いから今できることを模索していくことです。それを「ヴィジョン」と言っても良いでしょう。例えば、ある思いが与えられて、「それに対してこれからどのようにすれば良いのか」を考え取り組んでいくことです。
 神のみことばによって「当たり前」という見方から「感謝なことだ」という見方に変えられ、今までの経験を通して「これからどのように生きるか」を考えるとき、将来に目を留めることができます。これが28節最後の「老人は…幻を見る」ということです。将来に目を留めるとき、「それに対して今の自分には何が足りないのか」ということにも目を向けることができます。今大リーグで活躍されています大谷選手の肉体美は凄いものです。日本に居たときとは全く違います。彼の肉体改造のきっかけは、「技術や身体の動きの理想を思い描いていると、その技術や動きには筋力がないとできない」ということに気づいたらしいのです。そして、今の自分に足りていない筋力をつけるためにトレーニングをされたようです。「そのため今の活躍ができている」というのです。そのような生き方は、29節で「男奴隷にも…霊を注ぐ」と語られていますように、どのような人にも神は与えてくださるのです。
 この2年、クリスマスコンサートとしてゴスペルを願っていますが、コロナ感染で開催することができていません。そのゴスペルの歌の中で「JOY」というのがあります。私の好きな曲の一つです。これはネヘミヤ8:10の最後のみことばから作られたものです。ここに「主を喜ぶことは、あなたがたの力だから」と書かれています。この「力」を英語では「strength」と訳されています。調べてみますと「力」には3つの英語があります。1つはpowerです。これは自分が持っている肉体的力や能力や権力などを意味します。もう1つはforceです。これは持っているものを出す力です。そしてstrengthは、強度などの耐久力や忍耐力を表すことばで、「精神的・内面的力を表すもの」と言っても良いでしょう。ですから、ネヘミヤ8:10に書かれています「力」は、生きる力のことです。神は生きる力をどのような人にも与えてくださるのです。それには神のみことばに目を留めて変えられ、自分の賜物に目を留め、将来という幻に目を留めることが必要なのです。

結)
 私たちの歩みには不安は付き物です。「不安との戦いの連続」と言っても良いかもしれません。しかし、神はそのような戦いの連続の中で、生きる力を与えてくださいます。それには何よりも神のことばに目を留めることです。そして、賜物に目を留め、幻に目を留めることです。今日から始まります新しい年も私たちは様々なことを経験します。しかし、神は私たちに生きる力を与えてくださいます。そのことを覚えつつ、この新しい年を共に歩まされたく願います。

マタイ1:18~25「共におられる神」 22.12.25.

序)
 クリスマス礼拝にようこそお越しくださいました。25日のクリスマス礼拝は大体6年ごとです。私にとって25日のクリスマス礼拝は特別なものです。何故かと言いますと、12月25日のクリスマス礼拝の日にバプテスマを受けたからです。バプテスマを受けて今年で45年になりますが、その間様々な戦いがあったのも事実です。今年の漢字は戦いを表す「戦」です。今年はロシア・ウクライナの戦争、円安に伴っての物価高による生活上での戦い、またサッカーのワールドカップの熱戦などから、この漢字が一番多かったようです。今朝は、この「戦」という漢字からクリスマスを共に思い巡らしたいと願っています。

1)「戦」について
 皆さんは「クリスマス」ということばを聞かれますと、何を頭に思い浮かべられるでしょうか。クリスチャンの方はイエス・キリストの誕生でしょうが、クリスチャンでない方はどのようなものを思い浮かべられるでしょうか。イルミネーションやクリスマスツリーでしょうか。若い人ならカップルとのデートかもしれません。今年は土日がクリスマスですので、多くの店ではバイトの確保が大変です。または少し豪華な美味しい食事でしょうか。或いは、ケーキなどを食べての家族団欒でしょうか。人によって思い浮かべられるものは違うことでしょう。ですが、共通しているのは「争い」ではなく、「和む」ものを思い浮かべられるのではないでしょうか。クリスマスは人を和ませるイメージを人に抱かせます。
 そのように思いますと、今年の漢字の「戦」という字はクリスマスとかけ離れているようにも思えます。ところが、聖書には「戦」ということばが多く書かれています。私たちが用いています新改訳聖書には650回も使われています。これは約3ページに1回の割合です。それ程多く使われています。「それは何故か」と言いますと、私たちの日々の生活は戦いの連続でもあるからです。そうではないでしょうか。先程も触れましたが、物価高による生活上での戦いもその一つです。さらには、「人間関係も戦いの一つ」と言えるのではないでしょうか。悩みや不安も戦いの一つです。そのように考えますと、「聖書が語っていることは私たちの生活と遠いものではなく、私たちの生活に近いものであり密着しているものでもある」と言うことができます。
 私たちは日々の生活の中で様々なことに悩んでしまいます。その「悩みを抱く」というのは、私たちが生きていく上で仕方のないものかもしれません。それはクリスチャンであっても同じです。「クリスチャンになれば悩みなどなくなる」というわけではありません。クリスチャンであれなかれ、誰でも生きている中で悩みを抱くのです。いや悩みだけでなく、悩みから生じる不安も抱くのです。それが私たちなのです。ですから、悩みを抱いたり不安が生じることが悪いわけではありません。それは人として仕方のないものです。聖書は、そのようなものを「悪」とは語ってはいません。聖書は、そのようなものを抱く私たちに「どのように生きれば良いのか」を語っているのです。そして、その生き方が戦いでもあるのです。ですから、聖書の中に「戦」という漢字が多く書かれているのです。

2)「神が戦われる」とは
 では、聖書は私たちに何と語っているでしょうか。聖書には「主が戦われる」ということばが何度も書かれています。この「主」とは神のことです。「私たちの人生の歩みの中で神が戦ってくださる」というのです。「神が戦われる」とはどういうことでしょうか。私たちの代わりに神が戦ってくださるのでしょうか。そして、私たちは傍観者の一人のように、その神の戦いを見ているだけなのでしょうか。「神が戦われる」というのは、そういうことではありません。「神が戦われる」というのは、「神が共に戦われる」ということです。ですから、「一緒に戦う」ということです。
 私たちは悩みや不安を抱きながら歩み続けるとき、自分一人で頑張っているように思えたりします。そして「私の心の中など誰も分かってくれない」と思いながら、目の前の事柄に自分一人で立ち向かっているように思えたりもします。ですが、実はあなた一人で戦っているのではないのです。神があなたと共に戦ってくださっているのです。「神が共に戦ってくださる」ということは、「あなたは一人ではない」ということです。ところが、そのことに多くの人は気づいていないのです。気づいていませんから、当然分かってもいません。「気づかない」「分からない」というのは、「ない」ということではありません。今日の祝会の中でミュージックベルの演奏があります。今日のために、11月から毎週練習をしてきました。そのメンバーの中で一番の問題児が私です。何回練習しても鳴らす場所を間違えたり、音が上手く鳴らなかったりして落ち込んでしまったりします。ある方から「それは不安で緊張しているからだ」と言われます。確かにその通りだと思います。今も不安でいっぱいです。もし間違えたら、そのまま聞き流してください。
 「11月から毎週ミュージックベルの練習をしていた」というのは、この中の多くの人は御存知なかったのでしょう。ですが、練習は毎週していたのです。ですから、「気づかない」「知らない」というのは「ない」と言うことではありません。「神が私と一緒にいてくださる」「神が私と共に戦ってくださる」というのも同じです。あなたが知らないから気づかないから、「神は共におられない」のではありません。あなたが気づこうが気づかまいが、神はあなたと共にいてくださるのです。そして、あなたと共に戦ってくださるのです。「神が戦われる」というのは、「神があなたと共におられる」ということなのです。ですから、あなたは決して一人ぼっちではないのです。あなたが何処に居ようとも、何をしていようとも、神はあなたと共にいてくださるのです。「神が戦われる」とは、そのようなことを意味しているのです。
 そのように聞かれますと、「だったら、何故悪い結果が出るのか」と思われる方もおられることでしょう。そのように思われる気持ちはよく分かります。でも、「それが本当に悪い結果なのか」というと、必ずしもそうではない経験を私たちはしてきたのではないでしょうか。確かに、その時は悪い結果だったかもしれません。しかし、その経験が後に生かされたという経験もあるのではないでしょうか。または「あの出来事があったから新しい出会いができた」というものもあるのではないでしょうか。そのように考えますと、目の前の結果だけで結論づけることはできないということです。神は私たちにとって「良いもの」「良くないもの」全てに働いてプラスにしてくださるお方なのです。何故なら、神があなたと共に戦ってくださるからです。

3)インマヌエル
 私たちは目に見えないと気づかない者でもあります。だから、神は私たちが気づくようにイエス・キリストをこの世に誕生させてくださったのです。今朝の箇所のマタイ1:23に「    」と書かれています。「処女が身ごもり男の子を産む」なんて私たちには理解できるものではありません。医学的にそのようなことはあり得ないのです。そのあり得ないことを神はなされたのです。「インマヌエル」とは「神が私たちと共におられる」という意味です。これは「イッマーヌー」という「~と共に」ということばと、「エル」という「神」ということばの合成語です。あなたは「自分一人で戦っている」と思われるかもしれません。ですが、神は「そうではないよ、私があなたといつも共にいて戦っているよ」と語ってくださっているのです。それを見える形で表されたのがイエス・キリストの誕生でありクリスマスなのです。
 このクリスマスの時季、店ではクリスマスソングが流れています。竹内まりやさんの「すてきなホリデイ」も流れています。その歌詞の中に「クリスマスが今年もやってくる」とあります。クリスマスが毎年やってくることによって、「神が私と共にいてくださる」ということを強く覚えることができるのです。また、「クリスマスは誰にもやってくる」とあります。「神が共におられる」というのは特定の人に対してではありません。イエス・キリストを信じる人にしか共におられないのではありません。全ての人に神は共にいてくださるのです。そのことを明らかにするために、目に見えるしるしとして、処女マリアからイエス・キリストはお生まれになられたのです。あなたの歩み一つひとつの中に、神は共にいてくださるのです。あなたは決して一人ぼっちではないのです。イエス・キリストはそのことを明らかにするためにお生まれになられたのです。

結)
 先程も話しましたが、クリスマスは毎年来ます。「毎年来る」ということは、「神が私と共にいてくださるのを毎年思い出すことができる」ということです。これも神の恵みです。まさしく、イエス・キリストの誕生は神の恵みです。あなたは決して一人ではないことを覚えて、新しい年を迎えていただきたいと願います。


マタイ2:1~12「王としてのイエス」 22.12.18.

序)
今年の流行語大賞は「村上様」でした。王貞治さんが持つ年間日本人ホームラン数55本を抜いて56本も打ちました。58年ぶりということです。その彼にも不振の時がありました。終盤戦は10数試合ホームランが出ず多くの人をヤキモキさせました。ですが、最終戦にホームランを打って達成しました。これも彼の持ち味のようにも思えます。また、「22歳」という若さで最年少の三冠王にもなりました。今年のプロ野球は村上選手に注目した1年でした。「三冠王」とは3つの王ということです。それは、ホームランと打率と打点の数がトップであることです。来シーズンの彼の活躍が楽しみです。クリスマスはイエスの誕生を祝うときです。そのイエス・キリストは王として誕生されました。王が意味するものは何でしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)支配者
まず、王とは国家や領地を治める人であり絶対的権威者です。その地を支配している人ですから、その地に属する人たちは王に従わなければなりません。イエス・キリストが王として誕生されたということは、「全ての人はイエス・キリストに従う必要がある」ということです。何故なら、イエス・キリストは王であり神ご自身だからです。ヨハネ1:1に「     」と書かれており、14節には「ことばは人となって」と書かれています。ヨハネの福音書は、イエス・キリストが神であられ、人として誕生されたことを記しています。また、コロサイ1:16やへブル1:2には、御子によって世界が造られたことが書かれています。この「御子」とは、イエス・キリストのことです。私たちが生かされている世界は、イエス・キリストによって造られたのです。聖書は、イエス・キリストが世界の支配者であられることを語っているのです。
支配者は、自分が支配している所や人を守る責任も与えられています。イエス・キリストが世界の支配者ということは、イエス・キリストがその地に生きている一人ひとりを守られることをも意味しています。イエス・キリストは、インマヌエルなる方として誕生されました。マタイ1:23に「     」と書かれています。イエス・キリストは、私たちがどのような時であれ共にいてくださる方なのです。私たちの歩みは楽しい時や感謝な時だけではなく、悲しい時や苦しい時もあります。その全ての時も共にいてくださるのです。私たちがどのような時であれ、私たちを守ってくださるのがイエス・キリストなのです。そのようなことを聞かれますと、「何故苦しい時すぐに苦しみから救ってくれないのか」と言われるかもしれません。私たちの歩みの中では、そのように思えることが多いのではないでしょうか。
では、本当に神は助けてくれていないのでしょうか。そうではありません。そのように思える中で神は助ける備えをしてくださっているのです。ただ、私たちはその神の備えを知らないだけなのです。「知らない」ということと「ない」ということは同じではありません。例えば、私たちは思いかけずクリスマスのとき人からプレゼントを貰うことがあります。そして、プレゼントをいただいてびっくりすることがあります。でも、それはただ準備されているのを自分が知らないだけで、その人は前から準備してくださっていたのです。私たちは苦しみの時に神の備えを知らないだけで、イエス・キリストは私たちのために備えをしてくださっているのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストが支配者なる方であり、私たちを守ってくださる方だからです。

2) 審き主
また王は国家や領地を治める人です。その地を治めるには秩序が必要です。ところが、秩序を乱す人が出てきます。すると、秩序を乱す人はその責任を負わされます。それが審きです。王とは審き主でもあります。マタイ24章は世の終わりについて書かれていて、25章は神の審きについて書かれています。世の終わりについて、24:36には「その日、その時がいつなのかは、誰も知りません」と書かれています。37節にはノアの洪水の日のことが語られています。大雨が突然起こったのです。また40~41節には、何気ない普段の生活が営まれている中で、突然一人は取られ一人は残されるのです。そして、42節に、「ですから、目を覚ましていなさい」と忠告されています。それは誰も知らないからです。50~51節では、「予期していない日…起きて報いが与えられる」と言って締め括られて25章に繋がるのです。24:27以降には、「人の子」ということばが繰り返し語られています。この「人の子」とは、イエス・キリストを指しています。それは、イエス・キリストが審き主でもあられることを意味しているのです。イエス・キリストは王なる方として誕生されたましたが、この世の審き主として来られたことをも意味しているのです。

3) イエスの王
王とは、支配者であり審き主でもあります。しかし、イエス・キリストは、そのような王だけではありません。身代わりとなって死なれた方でもあられます。民数記35:9以降には、逃れの町を設定することが命じられています。この「逃れの町」とは、過失によって人の命を取った人が復讐に遭って殺されないために設けられた町です。民数記35:25には、大祭司が死ぬまで留まることが書かれています。逃れの町に入って匿われている人は、大祭司が亡くなるまで町を出ることができないのです。そして、大祭司が亡くなれば町を出ることができるのです。何故なら、その人の罪が帳消しにされたことを意味するからです。何故、大祭司が亡くなれば、その人の罪が帳消しにされるのでしょうか。大祭司は、1人しかいない存在です。それはアロンの後継者で神に選ばれた人でもあります。その神に選ばれた人の命が取られるというのは、逃れの町に逃れた人の代わりの神の審きを受けたことの象徴でもあるのです。ですから、大祭司の死は逃れの町に逃れた人の身代わりの死をも表しているのです。
幾つかの国でトップの人が亡くなると「恩赦」というものがあります。日本もその1つです。天皇が亡くなると「恩赦」が出されます。全員に適用されるわけではありませんが、何人かの人が恩赦を受けられて刑が軽くなります。へブル5:8~10には、イエス・キリストも神に選ばれた大祭司であられることが書かれています。イエス・キリストの十字架による死は、イエス・キリストを信じる人たちの身代わりの死でもあります。イエス・キリストの誕生は殆どの人が知りませんでした。知らないだけでなく気にもかけなかったのです。そのことについて聖書は何と語っているでしょうか。ヨハネ1:11には「受け入れなかった」と書かれています。「受け入れなかった」とは拒否したことを意味しています。それは「私とは関係ない」ということを表してもいます。
先程話しました恩赦を受ける人は、天皇とは何の関係もありません。しかし天皇が亡くなると「恩赦」という恩恵が受けられるのです。「イエス・キリストは私とは関係がない」と思えます。しかし、ヨハネ1:12には、「イエス・キリストを信じたら神の子となる特権を持つ」と書かれています。誰にでも、神の子どもとなる特権が与えられているのです。その道が私たちの目の前にあるのです。12節の「その名を信じた人々には、神の子どもなる特権をお与えになった」と書かれています。この「その名を信じた人々には」の「人々」を自分の名前に置き換えて読んでいただきたいと思います。私の場合なら「その名を信じた松浦には、神の子どもとなる特権をお与えになった」となります。私も「イエス・キリストは私と関係がない」と思っていた一人です。でも、そのような私にも神の子どもとなる特権が与えられていたのです。イエス・キリストを信じることによって神の子どもとされたのです。イエス・キリストは、その特権をあなたに与えるためにお生まれになられたのです。

結)
今年の流行語大賞の「村上様」でした。彼は沢山の「王」を獲得しました。イエス・キリストも王として誕生されました。そのイエス・キリストの王としての誕生は、私たちに神の子となる特権を与えるためです。そして、その特権は誰にでも持つチャンスがあります。まず何よりも、私たちが神の子とされたことに感謝しましょう。そして、その特権をまだ持っていない人に、一人でも多く伝えることができるように祈っていきましょう

 

へブル10:5~7「クリスマスの目的」 22.12.11.

序)
 あと2週間で、イエス・キリストがお生まれになられたのを祝うクリスマスです。今朝は、よく読まれるクリスマスの箇所ではありませんが、ここもイエス・キリストの誕生を表している箇所です。5節の初めに「ですから…言われました」と書かれています。この「ですから」は1~4節を受けてのことです。1~4節は、「律法を守り行うことによっては、罪を完全に取り除くことはできない」ということが書かれています。それは「何故なのか」と言いますと、律法による儀式は完全なものではないからです。ところが、神は完全な方法を取られました。それはイエス・キリストの十字架による贖いです。その目的を果たすためにイエス・キリストはお生まれになられたのです。今朝は、クリスマスの目的について共に教えられたいと願っています。

1)神の備え
 今朝の箇所から教えられることの第1は神の備えです。5~6節に「あなたは…お喜びになりませんでした」と書かれています。5節の「いけにえやささげ物」と6節の「全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物」とは、イスラエルの宗教的儀式で神がイスラエルの民に求められたものです。その儀式に対して、神は求められず喜ばれなかったと書かれています。それは何故かと言いますと、形式的なものになっていたからです。アモス5:21~23には「     」と書かれています。ここには「憎み退ける」「嗅ぎたくない」「受け入れない」「目を留めない」「遠ざけよ」「聞きたくない」と、否定的なことばが繰り返し語られています。これは神が受け入れられないことの強調です。
 このアモスが語った時代は何時の時代かと言いますと、1:1に「これはユダの王ウジヤ…見た幻である」と書かれています。アモスは神から召し出されて北イスラエル王国に遣わされた人です。北イスラエル王国は御存知のように偶像崇拝へと堕落し、神がイスラエルに告げられた儀式などは形式的なものになっていました。神であられる主を信じてもいなければ、感謝や悔い改めもしないで、ただ形式的に儀式を行っていることに対して、このように語られているのです。でもそれは、北イスラエル王国だけでなく南ユダ王国においても同じです。南ユダ王国はウジヤが王として君臨していました。このウジヤはⅡ歴代誌26:4を見ますと「主の目にかなうことを行った」と書かれています。すなわち、ウジヤ王は神であられる主に対して正しく応答していたのです。ところが、16節に「     」と書かれています。ウジヤ王は最初は神に従っていたのですが、自分が強くなるにつれ次第に自分勝手なことをするようになったのです。その行為が17節以降に書かれています。北イスラエル王国だけでなく、南ユダ王国も霊的に堕落していく時代だったのです。そして、後に北イスラエル王国はアッシリア帝国に、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。
 そのようなイスラエルの民に対して、神はどのようなことをなされたのでしょうか。今朝の箇所の5節の最後に「わたしに…くださいました」と書かれています。この「わたし」とは、イエス・キリストのことです。さらに言いますと、ここはイエス・キリストがお生まれになられたことを表しています。この「からだを備えて」と訳されていますが、以前までの聖書は「からだを造って」と訳されていました。この「備えて」とか「造って」と訳されていることばは、「繕う」とか「直す」という修復を意味することばです。そこには何らかが崩壊していたことを表しています。すなわち、「壊れていた」とか「破れていた」とか「崩れていた」などです。その何らかの崩壊とは何かと言いますと神との関係です。その神との関係の断絶を修復するために備えられたものとして、イエス・キリストは誕生されたのです。そのような意味として、現代の訳の方が良いと思います。このことから、神は関係が断絶している人を見捨てる方ではなく、見捨てることをされず修復しようとしてくださる方であることに気づかされるのではないでしょうか。神は決してあなたを見捨てることのないお方なのです。いつでも、あなたのために備えをしてくださっているお方なのです。クリスマスを待ち望むとき、そのことを覚えたいものです。

2)神の約束の実現
 次に教えられることは神の約束の実現です。7節に書かれています「わたし」とは、イエス・キリストのことです。何度も話していますが、新改訳聖書で漢字の「私」は、神以外のものを示しています。平仮名の「わたし」は、神ご自身のことを示しています。7節の「わたし」は平仮名ですから、神を示しておりイエス・キリストご自身のことを示しています。イエス・キリストは「今…来ております」と語られています。これはイエス・キリストがお生まれになられたことを意味しています。そのイエス・キリストは「今」と話されています。すなわち、神の約束・備えが実現したことを強調しています。これはへブル書の著者が、神の約束が実現したことに目を留めるように促しているようにも聞こえます。7節後半に書かれています「巻物の書」とはモーセ五書のことです。申命記18:15に「     」とモーセが語ったことが書かれています。
 この申命記18:15に書かれています「私のような一人の預言者」とは、どのようなことを表しているのでしょうか。まず、「私のような」とはどういうことでしょうか。これは、「モーセの役割と同じ役割を果たす預言者」ということの意味です。モーセの役割はどのようなものだったでしょうか。彼はイスラエルの民をエジプトからカナンの地に導く役割が与えられていました。それと同時に、そのイスラエルの民と神との間に立って、神のことばをイスラエルの民に伝え、彼らが神のことばに従うように導く役割も与えられていました。それを「仲保者」と言います。イスラエルの民は、いつも神に信頼し神のことばに聞き従い続けていたわけではありません。彼らは全き信頼を神に寄せていたわけではなかったのです。何度も何度も神に不平を言って、神の懲らしめを受けていました。そのようなイスラエルの民と神との間にモーセは立って、その度に神にとりなしをした人でした。
 イエス・キリストもそうです。アダムとエバは神に対して罪を犯してしまいました。それによって、人は神とのより良い関係が断絶してしまいました。それでも神は人を愛し、その人の中からアブラハムとその子孫であるイスラエルの民を選ばれました。そのイスラエルの民に律法を与えられ、その律法を守り行うことを命じられました。その律法の中には、神に過ちを犯したときは罪の献げ物をすることによって赦されることが書かれています。そのため、人は何度も何度も献げ物をしなければなりませんでした。もう献げなくても良い完全な赦しはなかったのです。そのためイエス・キリストがこの世に誕生されたのです。それはもう献げ物を繰り返す必要のない完全な赦しを人が得るためです。それはどのような方法かと言いますと、神であられるイエス・キリストが人としてこの世に来られ、その人として神の審きを受けるというものです。それがイエス・キリストの十字架です。このイエス・キリストの十字架は、完全なる神との関係が修復されたことを表しているのです。まさしく神の約束の実現です。

3)イエスの誕生の目的
 最後に教えられるのは、イエス・キリストがお生まれになられた目的です。7節の最後に「神よ…行うために」と書かれています。イエス・キリストがお生まれになられた目的は神の御心を行うためです。では、その神の御心とはどのようなものでしょうか。マルコ1:15に、イエス・キリストは公生涯を始められるとき、「悔い改めて福音を信じなさい」と話されました。悔い改めに福音を信じることが神の御心なのです。では、「悔い改めて福音を信じる」とは、どういうことなのでしょうか。何を悔い改めるのかと言いますと、今までの自分の行いを悔い改めるのです。
 神はご自分に罪を犯した人間を拒絶されたのではなく、そのような私たちを愛し支え続けてくださっています。ところが、私たちはそのような方を神と認めず、神に背を向けて自分勝手な歩みをしていたのではないでしょうか。何度も話していますが、多くの方は「神に対して罪を犯している」ということを聞かれますと、「私は罪など犯していない」と言われます。ですが、聖書の語る罪は法律的な罪ではありません。行いが間違っていることです。例えば、健全な親は自分の子どもを愛し育てています。その親に愛され育てられた子どもが、自分の親に対して「あなたは私の親ではない」と言い、親を無視し自分勝手な歩みをしていたらどうでしょうか。親は裁判所に訴えても、その子どもが法律に反していないなら「有罪」とすることはできません。しかし、その子どもの行為は間違っています。それが聖書の語る罪なのです。今の自分を愛し支え続けてくださっている神に背を向けて、自分勝手な歩みをしていたことを認め立ち返ることが聖書の語る悔い改めなのです。
 自分の罪を悔い改めることは大切なことですが、もう一つ大切なことがあります。それは「福音を信じる」ことです。では、「福音を信じる」とはどういうことでしょうか。人は神に罪を犯したことによって、神とのより良い関係は断絶してしまいました。その断絶を修復する必要があります。それは自分が犯した罪を償うことです。ところが、人は神に対して罪を犯していますから、罪を犯している自分自身が神に償うことはできません。それには罪のない人間が代わりに負わなければならないのです。しかし、罪のない人間は一人もいません。そのために、罪のない神が人としてお生まれになられたのがイエス・キリストなのです。そのイエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのです。「そのイエス・キリストの十字架を信じるならその人の罪を赦す」と神は約束してくださったのです。それが福音なのです。ですから、「福音を信じる」というのは神の約束を信じることなのです。
 ですが、それで終わるわけではありません。7節の最後に「神よ、あなたの御心を行うために」と書かれています。この「あなたの御心を行う」とは、イエス・キリストが十字架に架かられることだけではありません。それと同時に、神は人に神を礼拝することを願っておられます。これも神の御心です。すなわち、人が神を礼拝し続ける者となることが、イエス・キリストがお生まれになられた目的なのです。私たちがこの場所で神を礼拝し続けるのは、このような私を見捨てることをされず、愛し支え導いてくださっていることに感謝を見える形として表すものだからです。今はアドベントのときですから、クリスマスに関連した箇所からのメッセージをしていますが、それまではヤコブの手紙から学んでいます。ヤコブ書には「行いが伴わない信仰は死んだものだ」と語っています。愛もそうです。「あなたを愛している」と言いつつも、その人の行いを通してその愛を表さないなら相手に伝わることはありません。感謝も同じです。心の中だけでなく、行いを通して表すことが大切です。それが礼拝なのです。イエス・キリストがお生まれになられた目的は、神の愛を知った私たちが神を礼拝し続けるためです。

結)
 あと2週間で、イエス・キリストがお生まれになられたのをお祝いするクリスマスです。クリスマスは、神の愛を見える形として表されたものです。私たち一人ひとりは神に愛されている存在です。そのことに感謝しつつ、その感謝を礼拝という見える形で表し続ける者として歩み続けられるように祈っていきましょう。

イザヤ7:10~14「しるしを求めよ」 22.12.04.

序)
 今朝の箇所の14節は、御使いがヨセフにマリアを妻として迎えることを告げたとき、著者マタイが引用した箇所です。そして、ずっとクリスマスの時にはこの箇所が朗読されます。ところが、この箇所は預言者イザヤと南ユダ王国の王であるアハズとの会話であることが分かります。今朝は、クリスマスのしるしについて共に教えられたいと願います。

1)背景
 まず、このような会話に至った背景を見てみたいと思います。アハズ王とはどのような王だったでしょうか。北イスラエル王国の王は全員神に逆らう王たちでした。ところが、南ユダ王国の王は神に逆らう王もいましたが、神に従う王もいました。では、アハズ王はどちらの王だったでしょうか。アハズ王については、Ⅱ列王記16章とⅡ歴代誌28章に書かれています。Ⅱ列王記16:2~4に「     」と書かれていますから、アハズ王は神に逆らう王であったことが分かります。5節に「     」と書かれています。当時、アッシリア帝国がカナン地方に勢力を伸ばしてきたため、アラムは北イスラエルと南ユダの三国連盟を築いて対抗しようとしました。ところが、南ユダのアハズは拒否をしたのです。そのため、アラムと北イスラエルから南ユダは包囲されてしまいます。それが5節のことです。
 5節の初めの「そのころ」の所に①という数字が書かれています。欄外を見ますと、「イザヤ7:1」と書かれています。これは今朝の箇所の時のことです。ですからイザヤ7章は、そのようなときに預言者イザヤが南ユダ王国のアハズ王に対して語ったものであることが分かります。この時のアハズ王の心境はどのようなものだったでしょうか。2節の後半に「王の心も…揺らいだ」と書かれています。不安で不安で「藁をも掴みたい」という心境であったことが伝わってきます。そのようなとき、神はイザヤに「アハズに会いに行き神のことばを伝えよ」命じられました。それが4~9節に書かれていることです。それは「あなたが恐れることは起こらない」ということです。
そして、11節で「あなたの神、主に、しるしを求めよ」と語られたのです。すると、アハズ王は「私は求めません。主を試みません」と答えたことが12節に書かれています。皆さんは、このアハズ王の返事をどのように捉えられるでしょうか。「神を試みることは良くないことだ」と思われるでしょうか。確かに、申命記6:16に「あなたがたの神である主を試みてはならない」と書かれています。ここだけを読みますと、アハズ王の返事はとても信仰的な返事のようにも聞こえます。ですが、そうではなく不信仰な返事なのです。何度も話していますが、文脈を無視しての聖書理解は大きな過ちを犯してしまいます。「どのような流れで語られているのか」をきちんと読み取ることが大切です。そうしないと「思い込み」で聖書を理解してしまいます。これは大きな危険です。

2)しるしとは
 次に、しるしについて見てみたいと思います。神はアハズ王に「しるしを求めよ」と語られました。では、「しるし」とは何でしょうか。分かりやすく言えば「奇蹟」と言えるでしょう。神の奇蹟を求める。このことについて皆さんはどのように思われるでしょうか。「神の奇蹟を求めるなんて聖書的ではない」と思われるでしょうか。「奇蹟が起きるのは昔のことであって、現代は奇蹟など起こらない」と思われるでしょうか。私たち福音派は、「奇蹟」ということばをあまり使いません。「奇蹟」ということばを使い過ぎますと、「カリスマ派」と言われる立場の団体を思われてしまうからです。ですが、「神の奇蹟」を否定しているわけでもありません。「奇蹟が起きたのは昔のこと」と思われる方もおられるかもしれませんが、神は永遠なるお方なのです。ですから、神からすれば昔も今も関係ないのです。神は今の時代も奇蹟を起こすことのできるお方なのです。私たちは病気をしたとき癒されることを祈ります。よく耳にするのが、「雨の日に野外で集会するとき雨が止むのを祈ったら、そのときだけ雨が止んだ」という話を聞きます。私たちは、それを「神の奇蹟」と捉えたりします。ある方から言えば「偶々だ」と言われるでしょう。ですが、私たちが信じている神は、その偶々を用いることのできるお方なのです。確かに、奇蹟を強調し過ぎるのは良くないかもしれませんが、奇蹟を否定することも間違いです。
 奇蹟は科学的には証明できないものです。しかし、聖書には神が奇蹟を起こされたことが多く記されています。例えば、モーセの時代に葦の海を分けてイスラエルの民を渡らせたこと、ヨシュアの時代にはヨルダン川渡河を分けてイスラエルの民をカナンの地に導き入れられたこと、さらにダビデの時代ではペリシテ人との戦いのとき神はダビデ軍より先にペリシテ人を討たれました。さらにエリシャの時代にはアラム軍に囲まれたとき、神の軍勢がアラム軍を取り囲み討たれました。そのような神の奇蹟が多く書かれています。特に、ギデオンの祈りに注目させられます。神がギデオンをさばきつかさとして召されたとき、自分が確信できるためにも「神に一匹の羊の皮を置くので、羊の毛だけに露が降りるようにしてほしい」とギデオンは祈りました。するとそのようになりましたが、さらにギデオンは「今度は回りの土全体に露がおり、羊の毛だけは渇いているようにしてほしい」と祈りましたらそのようになりました。これは神を試みることであり、しるしを求めるものです。このギデオンの祈りが正しいかどうかは議論の余地があります。
 聖書には「神を試みてはならない」と書かれているのと同時に、「しるしを求めよ」とも書かれています。「どちらが正しいのか」と尋ねられますと何とも答えられません。「逃げ答え」と思われるかもしれませんが「ケースバイケース」としか答えられません。ギデオンの祈りが正しいのか間違いなのかは何とも言えません。ただ、ギデオンは神の御心を知ったとき従ったのです。大切なのは、しるしを求めた後のことではないでしょうか。ヨナは神の御心を知っていたのに、従うことをしないでタルシシュに行きました。そのため大きな魚に呑み込まれることとなりました。しるしを求めるのが良いのか良くないのかよりも、「神の御心を知った後どうであるか」の方が大切なのではないでしょうか。「神の御心を知ったあと従えますように」と祈る者でありたいです。

3)神の備え
 最後に神の備えについて見てみたいと思います。神はアハズ王に「しるしを求めよ」と告げられました。そのアハズ王は、主の目にかなうことを行わない王でした。そのような人に対しても、神は最善の方法をとって導いてくださる方であることが分かります。ルカ18:1~8に、イエス・キリストが不正の裁判官の譬え話をされたことが書かれています。この不正な裁判官は、ひっきりなしにやってくるやもめがうるさいので仕方なく裁判をすることを決断しました。そして7節に「まして神は」と話されていることが書かれています。ここでイエス・キリストが強調されているのは、「不正な裁判官でさえ、ひっきりなしにやって来るやもめに対して裁判を開くなら、正しい神は信じる者のために放っておかれることはない」ということです。
 その神がアハズ王にことばをかけられたことを通して、私たちは神の目にかなうことを行わない人に対しても、神は目を留められことばをかけられる方であるということです。いや、目を留めことばをかけられるだけでなく、最善の方法を備えておられる方であることを知らされます。そのため、神はアハズ王に「しるしを求めよ」と語られたのです。この「しるしを求めよ」ということばは、「神の約束を信じろ」ということでもあります。すなわち、アハズ王に対して「今までの自分の過ちを認め悔い改めて神に立ち返れ」と勧めておられるのです。そのことに対して、アハズ王は「私は求めません。主を試みません」と答えたのです。すなわち、「神に立ち返ることはしない」と自分の罪を認め悔い改めることを拒否したのです。ですから、12節のアハズ王のことばは決して信仰的な返事ではなく不信仰な行為なのです。
 そのアハズ王の返事に対して、イザヤは何と答えたでしょうか。13~14節に「     」と書かれています。これは「あなたは神を煩わす者であるが、それでも神は一つのしるしを与えられる」ということです。すなわち、「信じない者のために神の備えのしるしを与える」ということです。そのしるしとは、「処女が身ごもり男の子を産む」というものです。その出来事が「神が共におられる」というしるしでもあるのです。アハズ王は自分の罪を認めず悔い改めようとはしませんでした。そのような人たちのためにも、神は悔い改めるチャンスを備えてくださったのです。罪の赦しの方法を取ってくださったのです。まさしく、私たちが信じる神は赦しの神であられます。具体的には、処女マリアから生まれたイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって私たちの罪を背負って十字架に架かり、神の審きを受けてくださったことです。それによって、人は誰でも自分の罪を認め悔い改めてイエス・キリストの十字架を信じることによって、自分の罪が赦され神の審きから救われるのです。まさしく、イエス・キリストの誕生は「神が共におられる」というインマヌエルのしるしです。

結)
 イエス・キリストは、処女マリアからお生まれになられました。それは「神が私と共におられる」というしるしです。神であられる主を拒み続けたアハズ王に対しても、そこまで神は備えておられるのであれば、神を信じる私たちを決して放っておかれることはありません。イエス・キリストの誕生は、そのことのしるしでもあります。主はどのような人に対しても、最善の備えをしてくださる真の神です。そのことを覚えつつ、今週も共に歩まされていきましょう


ミカ5:2「小さな私への神の備え」 22.11.27.

序)
 今日からクリスマスを迎え備えるアドベントに入りました。イエス・キリストが誕生された町の名はベツレヘムです。今朝の箇所で、神は「ベツレヘム・エフラテよ」と呼びかけておられます。何故「ベツレヘム・エフラテ」と呼ばれているのかと言いますと、ベツレヘムという町はもう一つあるからです。ヨシュア記19:15に「ベツレヘム」と書かれています。このベツレヘムは、イエス・キリストが誕生されたベツレヘムの町ではありません。何故なら、10~16節はゼブルン部族の相続地が記されている箇所だからです。ゼブルン部族の相続地は何処でしょうか。聖書の後ろの地図④には12部族の割り当て地が書かれています。ゼブルン部族はガリラヤ湖の西側のナフタリ部族とアシェル部族の間が割り当てられました。太文字のゼブルンの「ゼ」辺りがヨシュア記19:15に書かれているベツレヘムと考えられているようです。この町と区別するために「ベツレヘム・エフラテ」と書かれているのです。イエス・キリストはゼブルン部族のベツレヘムの町ではなく、ユダ部族のベツレヘムの町でお生まれになられたのです。今朝は、このベツレヘム・エフラテへの神の呼びかけから、共に教えられたいと願っています。

1)現実
 まず教えられることは現実に目を向けるということです。神はベツレヘムの町に対して、「あなたは…あまりにも小さい」と言われています。ただ「小さい」と言われたのではなく、「あまりにも小さい」と言われているのです。「あまりにも小さい」とは、「特別に小さい」ということでもあります。ベツレヘムの面積を調べましたら約10㎢で、春日井市の約9分の1の広さであり、愛知県で言えば岩倉市と同じ程の面積です。では、岩倉市は全国で何番目かを調べました。全国市町村は1741あり、岩倉市は1686番目でした。ですから、「あまりにも小さい町」と言うことができるでしょう。因みに春日井市は1012番目でした。話しが反れてしまいましたが、イスラエルの中でもベツレヘムは「特別に小さな町」と言うことができます。また「あまりにも小さい」とは、「居ても居なくても分からない」とか「してもしなくても変わらない」という程のものです。ですが、神はその現実に目を向けさせているのです。
 ともすると、私たちは「こんな小さな者が」とか「こんな小さなことを」と思いやすくなります。ですが、ここで注目したいのは「あまりにも小さいからダメだ」と神は一言も語られていないということです。「あまりにも小さいこと」と「ダメなこと」とは違うのです。先日、礼拝後の分かち合いのときにU姉の証しを通して大きな励ましを受けました。それは施設で働いておられるときのことです。入居されている方の多くは認知症であられ、人の名前も覚えられないような方が多いとのことです。食事の配膳の時に、入居者の方の名前を読んで「〇〇さん食事ですよ」と配膳されるらしいのです。ある日、入居者の方がU姉の名前を呼んで「〇〇さん」と声をかけられたらしいのです。U姉は「自分の名前を覚えてくれていることに感激された」とのことです。入居者の名前を読んでの配膳はとても小さなことです。してもしなくても変わらないようなことかもしれません。しかし、その繰り返しが用いられることを改めて知らされたことに大きな励ましを私は受けたのです。ある方は「入居者の名前を呼んでそのようになったのかどうかは分からない」と言われるかもしれません。確かにそうです。根拠はありませんが、私はその証しを通して大きな励ましを受けたのです。あまりにも小さなことかもしれませんが、神はそれを豊かに用いることのできるお方であることを覚えたいのです。毎月の福音版の配布もそうではないでしょうか。「こんなことで」と思えてしまうことがないわけではありません。しかし、神はそれを豊かに用いられる方であることを覚えたいものです。

2)神の約束
 次に教えられるのは神の約束です。神はベツレヘムの町に対して、「あまりにも小さい」と語られました。しかし、その後で「だが」と語られてもいます。この「だが」ということばに注目したいのです。現実を見据えるのは大切なことです。ですが、現実だけを見据えていても良くありません。現実を見据えつつ将来をも見据えることが大切です。その将来とは神の約束です。ベツレヘムの町はとても小さな町です。そのベツレヘムの町に対して「あまりにも小さい」と語られつつ、神は「そのベツレヘムの町からイスラエルを治める者が出る」と約束されているのです。
 私たちは「大きいか小さいか」、或いは「できるかできないか」ということに目を向けてしまいやすいです。クリスマスのときに読まれますイザヤ9:7の最後に「万軍の主の主熱心がこれを成し遂げる」と書かれています。この6~7節も神の約束です。その約束について聖書は、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と語っているのです。人が行うのではなく神が行われるのです。しかも、「主の熱心が」なのです。神が熱心にご自分の約束に対して行ってくださるのです。私たちは自分自身の現実を見つめて、「こんな私に何ができるのか」と思ってしまいやすくなります。ですが、私たちが結果を出すのではありません。神が結果を出してくださるのです。神が熱心に行ってくださるのです。私たちにとって大切なのは、目の前の事柄に対して忠実に果たして行くことなのです。神は結果に対して何も問われていないのです。何故なら、結果は神にあるからです。
 私たちにとって大切なのは、神の約束に対してどうであるかです。すなわち、目の前の事柄にどのように取り組むかです。「聖書はこのように語っているけれども」と言って、目の前の事柄をいい加減にしてしまうのか。それとも、「聖書はこのように約束しているから」として、目の前の事柄を忠実に果たしていくかです。神は「あなたからわたしのために」と約束されているのです。この「あなたから」とは、どのようなあなたなのでしょうか。それは「あまりにも小さい」あなたなのです。この「あなたから」とは、「あまりにも小さいあなたを用いる」ということでもあります。世界で初めのクリスマスは、世界から見ればあまりにも小さな出来事でした。「世界で初めのクリスマス」という歌の歌詞の最後の方に、「世界で初めのクリスマスは小さな小さなクリスマス」とあります。ベツレヘムの町はヨセフとマリアが泊まることができないほど、大勢の人で賑わっていました。しかし、イエス・キリストがお生まれになられたのを知ったのは、ヨセフとマリアと羊飼いたちだけでした。ひょっとしたら、家畜小屋を提供した主人家族も知っていたかもしれませんが、ベツレヘムの町にいた大勢の人たちは知らなかったのです。ある方は「博士たちは」と思われるかもしれませんが、博士たちはイエス・キリストが誕生されて後のことです。それほど小さなことでしたが、今では多くの人に知られています。これが神の約束なのです。

3)神の計画・摂理
 最後に教えられるのは、神の計画と摂理です。2節の最後に「その出現は…定まっている」と書かれています。「定まっている」ということは、もうすでに神は計画を立てられているということです。神は計画を立てられているだけでなく、もうすでにその計画を実行されているということでもあります。ですが、「実行されている」というのは「実現している」ということではありません。何度も語っていますが、伝道者の書3:11に「神のなさることは…美しい」と書かれています。この「美しい」とは、タイミングを表しています。「神がなさることは、最善の時に最善の方法をもって事を行われる」ということです。だから美しいのです。神は私たちが気づいていないところで事を行っておられるのです。そして、丁度良い時に実現させてくださるのです。そのとき、多くの人は「偶々そうなったのだ」と思われたり言われたりされます。ですが、その「偶々」と思える所に神は働いてくださるのです。そこに目を留められるかどうかです。
 また、「定まっている」というのは、「時が満ちる」ということでもあります。イエス・キリストは福音宣教を始められるとき、「時が満ち、神の国は近づいた」と話されました。以前にも話しましたが、イエス・キリストが福音宣教を始められるとき、ローマ帝国によって道は整えられましたし、当時の文化が用いられました。また、宗教改革の時もそうでした。活版印刷やルネサンスなどの文化が用いられました。先程も話しましたように、多くの人は「偶々」と思われることでしょう。しかし、その「偶々」と思える所に神は働いてくださるのです。それはイエス・キリストの誕生のときも同じです。ガラテヤ4:4に「     」と書かれています。聖書はイエス・キリストの誕生を「時が満ちて」と語っています。全ては神が計画され、神が備えられ、神が実行されたのです。
 その神の計画と備えと実行は、過去のことだけではありません。私たち一人ひとりの歩みにおいても同じです。以前にも話しましたが、私たちの歩みの中には「何故」とか「どうして」という事柄に遭遇します。そのように思えてしまうのは仕方のないことです。ですが、あまりにも小さい町のベツレヘムに対しても、神は計画し備え実行されることが告げられていることを見るとき、「あまりにも小さい私のためにも神は計画し備え実行してくださる」ということに気づかされるのではないでしょうか。そして、その所に目を留めることの大切さを教えられます。

結)
 今日からクリスマスを迎え備えるアドベントに入りました。イエス・キリストの誕生は、あまりにも小さい私への神の備えであることを知らされます。そして、あまりにも小さい私に目を留めてくださっている神の恵みの中に、私たち一人ひとりは生かされているのです。そのことを覚えつつ、クリスマスに備えていきたく願わされます。


ヤコブ1:19~21「神の栄光を現すために」 22.11.20.

序)
 私はよく誤解されることがあります。それは顔のことです。黙っていますと「怖い」と言われたりします。それで笑顔を作りますと「何にやついてるんや」と言われたりもしました。どちらにしろマイナスなのです。昔は家族からも「何怒ってるの?」と聞かれたりもしました。御存知のように私は短気です。すぐに怒ってしまいます。19節に「怒るのに遅くありなさい」と書かれています。私に必要なものの一つだと思わされています。20節に「怒りは神の義を実現しないのです」と書かれています。ここで語られています「神の義」とは、「神のすばらしさ」のことであり、怒りは神のすばらしさを現せないのです。では、神のすばらしさを現すにはどうすれば良いのでしょうか。今朝は、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)自分の務めを知ること
 神のすばらしさを現す第1は、自分の務めを知ることです。19節の前半に「私の愛する…わきまえていなさい」と書かれています。「わきまえる」とは、「区別する」という意味を持っています。例えば、「場所をわきまえる」というのがそうです。「ふざけて良い所なのか」「ふざけてはいけない所なのか」を区別する。ここには「区別することができる」という前提があります。小さな子どもに「場所を弁えなさい」とは言いません。まず、「こういう所ではふざけてはいけない」というのを教えます。そのようなことが何度か繰り返されて人は覚えます。ですから、「わきまえなさい」と書かれているということは、そのようなことを何度も教えられてきたことを意味していることばでもあります。では、「このこと」とは何でしょうか。それは、その後に書かれています「人は誰でも…実現しないのです」ということです。先週の礼拝で話しましたが、私たちが被造物の初穂とされたのは神のすばらしさを現すためです。イエス・キリストと個人的に出会っていない人が、私たちの生き方を通して神のすばらしさを知り、イエス・キリストと個人的な出会いをする。私たちには、その務めが与えられています。自分の務めを知るのは大切なことです。
 続けてヤコブは、「人はだれでも…遅くありなさい」と語っています。「聞く」というのは、第3者から自分の中に入るものです。そして、この手紙がキリスト者に宛てて書かれているのを考えますと、この「聞く」とは神のみことばに聞くことを指していると考えられます。ヤコブは「聞くのに早く」と語っています。「聞くのに早く」ということばは、あまり耳にしないことばです。ネットで調べてみますとヤコブ書からしか出てきません。ですから、「聞くのに早く」ということばはキリスト教独特のことばのようでもあります。では、「聞くのに早くとはどういう意味か」と言いますと、22節以降に書かれていることです。すなわち、「みことばを行う」ということです。ただ聞くだけでなくて、聞いたことを実践するようにと勧めているのです。ヤコブ1:1のとき、「ヤコブ書は行いが強調されている」と話しました。2:17に「     」と書かれています。ヤコブは「行いが伴わない信仰は死んでいる信仰のようなものだ」と語っているのです。聖書は死んだ信仰ではなく、生きた信仰を勧めているのです。そして、生きた信仰とはみことばを実践する生き方です。
 また、「語る」とか「怒る」というのは、自分の中から出てくるものです。これは、よく考えずに反応してしまうことを指しています。「口は災いの元」と言いますが、口から出てしまってからは遅いのです。感情的になって行動してしまいますと大きな過ちを犯してしまいやすくなります。その一番良い例がアダムとエバです。創世記3:6を見ますと、エバは蛇のことばに惑わされて感情的なものを優先させてしまったのです。ここで踏みとどまって「みことばは何と語っているか」を思い起こせば良かったのです。でも、思い起こすことをしなかったがために罪を犯してしまったのです。ただ、語ることや怒ることを禁じてはいません。「遅くあるように」と語っているのです。みことばに反したことに対してまで、語ったり怒ったりするのを禁じてはいないのです。
 20節に書かれています「人の怒り」という多くは、その人の感情的なものから生じます。感情的なものに振り回されますと、神のすばらしさを現すことができなくなってしまいます。私たちキリスト者の務めは、神のすばらしさを現すことです。すぐに感情的になってしまいやすい私たちですが、そのことを肝に銘じておきたいものです。自分の務めを知り果たし続けられるように祈っていきましょう。

2)自分の必要を知ること
 神のすばらしさを現す第2は、自分の必要を知ることです。では、私たちに必要なものは何でしょうか。21節には2つのことが勧められています。その1つは、全ての汚れやあふれる悪を捨て去ることです。これはどういうことでしょうか。簡単に言えば「品行方正な生活をしなさい」ということでしょうか。ですが、私たちはいつも品行方正な生活ができるわけではありません。この「捨て去る」の所に①と書かれています。欄外を見ますとエペソ4:22が書かれています。エペソ4:22には「脱ぎ捨てる」と訳されています。どちらも同じことばです。ですから、「全ての汚れや悪を捨て去る」というのは、イエス・キリストを信じる前の古い自分を脱ぎ捨てることなのです。要は、「イエス・キリストを信じる前の生き方をしない」ということです。イエス・キリストを信じる前までの私たちはどのような生き方をしていたでしょうか。自分の思いや考えを基準として生きていたのではないでしょうか。その生き方を捨て去る・脱ぎ捨てることが、「全ての汚れやあふれる悪を捨て去る」ということです。すなわち、神のことばを基準として生きることが神のすばらしさを現す生き方なのです。
 もう1つは、みことばを素直に受け入れることです。みことばを素直に受け入れるというのは、私たちにとって苦手なことでもあります。みことばが語っていることは分かりますが、それを実行できないのが私たちでもあります。実行できないというのは「受け入れられない」ということでもあります。では、何故受け入れられないのでしょうか。そこには、私たちの中に打算的なものや不安・恐れというものがあるからです。マルコ10:14~15に、イエス・キリストが「子どもたちを…入ることはできません」と話されたことが書かれています。この「子どものように」というのは、素直に信じて受け入れることを表しています。
 ここで語られています「子ども」というのは、赤ちゃんなどの乳児を意味しています。乳児に「静かにしなさい」という親は少ないと思います。何故なら、言っても理解できないからです。普通は泣いたら抱きかかえて泣き止まそうとするだけだと思います。このような小さな子どもは、自分では何もできず親に全てを明け渡しています。ところが、人は成長するにつれ自分でできるようになります。すると、今までは親に明け渡していましたが、自分で何でもしようとしてしまいます。「自立」という面においては大切なことですが、霊的な面においては必ずしもそうではありません。「神に明け渡す」ということが大切です。それは「神に委ねる」ということでもあります。先程話しました「自分の思いや考えを捨て去る生き方」・「みことばを素直に受け入れる生き方」は、神に明け渡す生き方・神に委ねる生き方でもあります。私たちに必要なことは結果を神に明け渡し委ねる生き方です。
 マルコ10:15の「子どものように」のことばに①という数字が書かれています。欄外を見ますと、「マタイ18:3」と記されています。マタイ18:3には「向きを変えて…天の御国に入れません」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。「向きを変える」とは「考え方を変える」ということです。この箇所は、弟子たちの「天の御国では誰が一番偉いのか」という質問からのものです。弟子たちの中に「偉い人とはこのような人だ」という思いや考えがありました。その思いや考えの向きを変えることをイエス・キリストは勧められているのです。私たちは自分の思いや考えを持っています。それはそれで大切なことです。ですが、それを堅く握りしめるのは間違っているのです。大切なのは、気づかされたときにそれらを手放すことです。それが神に明け渡すことであり神に委ねることです。私たちに必要なものは、気づかされたとき手放して神に明け渡して委ねる決断です。

3)みことばの力を信じること
 神のすばらしさを現す第3は、みことばの力を信じることです。今朝の箇所の21節の最後に「みことばは…救うことができます」と書かれています。ローマ1:16には「福音は…神の力です」と書かれています。ここでは「イエス・キリストを信じる全ての人に救いをもたらす神の力である」と語られています。ですから、どのような人であれイエス・キリストを信じるなら、神は必ずその人の罪を赦し神の審きから救われるのです。何故なら、それが神の約束だからです。だから、パウロは「私は福音を恥としない」と語っており、この手紙を受け取っている人たちにも福音を恥としないようにと勧めているのです。
 しかし、今朝の箇所で語られています「救い」はそうではありません。ヤコブは「あなたがたの魂を救うことができます」と語っています。この「あなたがた」とは誰のことでしょうか。それは、この手紙を受け取っている人たちです。この手紙の受取人は、1節に「離散している12部族に挨拶を送ります」と書かれています。1:1のときに、「12部族はイスラエル人を表しているが、実質のイスラエル人ではなく霊的イスラエル人のことでキリスト者である」と話しました。すなわち、この「あなたがた」とはイエス・キリストを信じている人たちのことです。ですから、神の審きからの救いはすでに受けているのです。それなのに、「あなたがたの魂を救うことができる」と語っているのです。そのようなことから、今朝の箇所に書かれています「救い」は、神の審きからの救いではないことが分かります。では、何からの救いなのでしょうか。
 パウロはⅠコリント3:6~7で「     」と語っています。ここでパウロが強調しているのは、福音を伝えた人ではなく成長させてくださる神です。確かに、みことばを伝えるのは人です。しかし、伝えられた人へのみことばの働きは神によるものです。バプテスマクラスや入会クラスで学ばれたことと思いますが、救いには3つあります。1つは、イエス・キリストを信じて新しく生まれ変えられるという新生です。もう1つは、イエス・キリストを信じたあと日々成長する聖化です。最後は、この世を全うし天の御国に入る栄化です。今朝の箇所で語られている「救い」は聖化や栄化のことです。すなわち、みことばは人をイエス・キリストを信じるように導くだけでなく、信じた人を成長させ天の御国に導く神の力でもあるのです。そのみことばの力を信じる生き方が神のすばらしさを現すことができるのです。

結)
 詩篇1:1~3に「     」と書かれています。2節の「主の教え」とは、神のみことばのことです。「日々神のみことばに耳を傾ける人は、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び栄える」と書かれています。気づかない内に、みことばの力が私たちの中で働き成長させてくださることが約束されています。詩篇119:50に「     」と書かれています。まさしく、みことばは力のあるものです。そのみことばに従いつつ、神のすばらしさを現す者として歩み続けられるように祈っていきましょう。


ヤコ1:16~18「だまされないように」 22.11.13.

序)
 今日は礼拝の後、児童祝福式が執り行われます。この児童祝福式は聖書に書かれているわけではありません。日本の風習の一つである七五三をキリスト教的にしているものです。ですから、ある教会は11月ではなく3月に行っている所もあります。入園・入学する子どもに限定して、これからの歩みが祝されることを願ってしている教会もあります。さて、今朝の箇所の16節には「     」と書かれています。この「思い違い」と訳されていることばは、「正しい道から横道に導く」という意味をもったことばです。ですから、以前の聖書では「騙されないように」と訳されています。私としては、以前の訳の方がすっきりしています。ですから、タイトルを「だまされないように」としました。今朝は、私たちが騙されないようにするために大切なことを共に教えられたいと願っています。

1)神が与えてくださるものは全て良いもの
 騙されないようにするために大切なことの第1は、神が与えてくださるものは全て良いものであると覚えることです。ヤコブは17節の前半で「すべての良い贈り物…父から下って来るのです」と語っています。ここに「父」と書かれています。これは、自分が子とされていることを意味しています。ですから、私たちの祈りの初めにも「父なる神様」と祈っているのです。それは「私は神の子どもである」ということを表してもいるのです。「父」ということばから、どのようなことを連想されるでしょうか。一人ひとり違うと思います。「優しい」と思う人もおられれば、「怖い」と思われる方もおられるでしょう。また、「自分勝手な人」と思われる方もおられれば、「面白い人」と思われる方もおられるでしょう。ですが、聖書が語る「父」というのは、大きく3つのことを表しています。
 1つは「絶対的な存在者である」ということです。すなわち、父は権威のある方であり、自分はその父に従う存在であるということです。もう1つは、愛し守ってくださる存在を意味しています。聖書が語る「父」とは、絶対的な権威を振るうだけでなく、その家族を愛し守る責任があるのです。それは家族が平安の中に歩み続けるためです。そして最後は、信頼できる存在であることを表しています。何かがあったとき、すぐに助けを求めることのできる存在を表しています。そこには、父と子の中に深い信頼関係があります。聖書が語っている「父」とは、そのようなことを意味しているのです。そして、私たちが信じている神もそのようなお方なのです。
 神は私たちにとって絶対的な権威を持っておられる方であり、私たちを愛し守ってくださる方であり、心から信頼できる方なのです。そのような方が、私たちに悪いものを与えられることはなさいません。ですから、誘惑を与えられるような方ではないのです。神が私たちに与えてくださるものは、全て良いものであり完全なものなのです。そこに目を留めることが大切なのです。ですから、「試練」というのは私たちを成長させるために神が与えてくださるものなのです。伝道者の書3:1~11には「時」について書かれています。1節に「すべてのことには定まった時期があり」と書かれています。そして、11節には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれています。神がなされることは、全て最善の時に最善のことをしてくださるというのを表しています。そのような意味で完全なのです。ですから、「神が与えてくださるものは全て良いものである」と覚えることは、私たちが健全な信仰を歩むにおいて大切なことなのです。

2)神の約束は決して変わらない
 騙されないようにするために大切なことの第2は、神の約束は決して変わらないと覚えることです。ヤコブ1:17の後半に「父には…ありません」と書かれています。詩篇19:1に「     」と書かれています。私たちが生かされています世界には「法則」があります。その法則は決して変わることがありません。例えば、決まった時間に太陽は上り沈みます。何故変わることがないのでしょうか。それは、世界を造られた神が変わることのない方だからです。
エレミヤ33:25~26に「     」と書かれています。これは「もし神が定められた法則が変わることがあれば、神の約束も変わる」ということです。しかし、この世界の法則は決して変わりません。何故なら、神は移り変わられることのない方だからです。エレミヤ33:26の後半には「しかし…彼らを憐れむ」と書かれています。これは、神は約束を変えることなく守り導いてくださることを示しています。この「しかし、わたしは」ということばを心に刻むのは大切なことです。私たちは様々な苦難の道を歩まされます。そのようなとき「何故」とか「どうして」と思ってしまいます。そのようなとき、この「しかし、わたしは」ということばを思い出したいものです。どのようなことがあっても、神の約束は決して変わることがなく、「全てのことが共に働いて益となる」という神の約束に目を留めることは大切です。
神はそのような方ですから、決して私たちを信仰の道から反らせてしまう誘惑を与えられることはなさいません。信仰の道から反れてしまうのは私たちの決断によるものなのです。先週の礼拝で見ましたが、アダムとエバは神との約束を破り神の道から反れてしまいました。そのときアダムは「あなたが与えてくださったこの女が」と神の責任にしました。そして、エバも「蛇が私を惑わした」と蛇の責任にしました。ですが、どちらも自分で決断し実行したのです。神は決して私たちを誘惑なさる方ではありません。神は私たちを成長させるために試練を与えられるのです。その試練を神の道から反らしてしまう誘惑としてしまうのは私たちの決断なのです。「神は私たちに良いものを与えてくださる」という約束は決して変わることはないのです。

3)新しく生まれ変えられた
 騙されないようにするために大切なことの第3は、自分が新しく生まれ変えられたのを覚えることです。18節に「     」と書かれています。この父なる神が、私たちを真理のことばをもって生んでくださったのです。これは「私たちを新しく生まれ変えてくださった」ということです。イエス・キリストは、ヨハネ3:3で「まことに、まことに…見ることはできません」とニコデモに話されました。そして、5~6節を見ますと、人が新しく生まれ変えられるのは、御霊なる神の働きによってであることが分かります。新しく生まれ変わるということは、価値観が変わることでもあります。それは、イエス・キリストを信じる前までは第1となっていたものが、第1ではなくなるということです。自分にとって第1となるものが神になったということです。では、何故神が第1となったのでしょうか。それは、神が与えてくださるものは全て良いものであり、神の約束は決して変わることがないのを知ったからです。それほど、自分は神に愛されているのを知ったからです。
 今日は、礼拝後に児童祝福式が執り行われます。小さな子どもに「誰が一番好きか」と尋ねますと、殆どが「お母さん」とか「お父さん」という答えが返ってきます。それは、両親からの愛を十分に受けているからです。だから、子どもにとって最も大切なのは両親なのです。イエス・キリストが「子どものように」と話されたのは、そのような意味も含まれているのではないでしょうか。新しく生まれ変えられたというのは、神の愛を深く知る者にされたということでもあるのです。しかもそれは、今朝の箇所の18節に「みこころのままに」と書かれていますように、父なる神の御心によってなのです。そこには父なる神のご計画の中にあることを意味しています。私たちが自分の罪を赦され神の子とされたのは、父なる神のご計画によるものなのです。そのことはヤコブだけでなく、パウロもエペソ1:4で「     」と語っています。これらが意味することは、それほど私たちは神に愛されているということです。あなたは父なる神のご計画の中でお取り扱いを受けているのです。そして、これからも父なる神のご計画の中で歩み続けるのです。すなわち、父なる神はこれからもあなたのために、様々な備えをしてくださっているのです。それほど、あなたは神に愛されている存在なのです。
 私たちは、その神の愛をどのようにして知ったのでしょうか。18節に「真理のことばをもって」と書かれていますように、私たちが神の愛を知ることができたのは、神のことばである聖書によってです。このことから、どれほどみことばが大切であるかを教えられるのではないでしょうか。私たちは様々な事柄に直面します。その事柄一つひとつに対して、「みことばは何と語っているのか」と聖書に聞き、みことばを根拠として歩むことの大切さを知らされます。それは何のためにかと言いますと、18節に「いわば被造物の初穂にするため」と書かれています。ここに新しく生まれ変えられた務めが書かれています。それは私たちを被造物の初穂とするためです。
 では、「被造物の初穂にするため」とは、どういうことなのでしょうか。日本では初代キリスト者が多いです。2代目クリスチャンや3代目クリスチャンの方もおられます。私が神学生の時には同じ神学生で5代目クリスチャンがいました。でも、今も多くは初代クリスチャンが圧倒的に多いです。そのことは、当時においてもそうでした。キリスト者の周りには、イエス・キリストを信じていない人が圧倒的に多かったのです。その人たちがイエス・キリストと出会って新しく変えられるために、「自分たちが初穂とされた」と語っているのです。私たちはキリスト者とされ、そこには私たちの務めがあるのです。その務めとは、神のすばらしさを伝えるというものです。そのためにも、「みことばに聞き従う」ということが必要なのです。私たちが新しく生まれ変えられたのは、そのようなことでもあるのです。

結)
 サタンはとても巧妙な方法をもって働いてきます。アダムとエバは「錯覚」と言いましょうか「誤解」と言いましょうか、思い違いをして間違った方向に進んでしまいました。結局は、神のことばよりも自分の思いを優先させてしまったためです。そのような方法をもって迫ってくるサタンの働きは今も同じです。私たちを惑わそうとして働きかけてきます。ですから、騙されないように気をつける必要があるのです。最初に話しました日本の風習や文化もそうです。それは「日本の風習や文化が悪い」と言っているのではありません。ただ、よく考えて取り入れることは大切です。私たちが騙されないように歩み続けるには、何度も話していますが「聖書は何と語っているのか」と、みことばを根拠とすることです。これからも、みことばに耳を傾けつつ歩まされたく願います。


ヤコブ1:13~15「恵みの中に生きる」 22.11.06.

序)
 先週の月曜日は、巷ではハロウィンのニュースが流れていましたが、私たちにとって10月31日は特別な日です。それは宗教改革記念日であり、プロテスタント教会が産声をあげた日です。この日を契機として、プロテスタント教会が誕生し今日の私たちの教会が建て上げられているのです。長い歴史を見ますと、神の導きのすごさというのを思わされます。イエス・キリストの誕生もそうです。これはクリスマスの時に話しましたからしませんが宗教改革にしてもそうです。その時代背景を見ますと、ルネサンス運動や活版印刷の発明などが大きく影響しています。そのことを思いますと、歴史の中に神は確かに働いておられることを思わされます。そして、今も神は歴史の中に働いて私たち一人ひとりを導いてくださっています。私たちは、その神の恵みの中に生かされています。今朝は、恵みの中に生きることについて共に教えられたいと願っています。

1)誘惑とは何か
 まず、誘惑とは何かを見てみたいと思います。2~12節までは、試練について書かれていました。ですが、今朝の箇所には「誘惑」といことばが繰り返し書かれています。皆さんは「試練と誘惑はどう違うのか」と尋ねられたら何と答えられるでしょうか。実は、新約聖書において「試練」ということばと「誘惑」ということばは同じことばが使われています。すなわち、言葉は同じなのですが2つの意味を持っているのです。では、試練と誘惑は何が違うのでしょうか。簡単に言えば、ある事柄を通してその人を成長させるものが試練であり、その人を後退させてしまうもの、それは「ダメにしてしまうもの」と言った方が分かりやすいかもしれませんが、それが誘惑なのです。ですから、生じる出来事は同じなのです。同じなのですが、人によってそれが試練になれば誘惑にもなるのです。
 例えば、アダムとエバの場合です。彼らはサタンから声をかけられました。あのサタンの声はアダムとエバにとっては試練にもなりますし誘惑にもなるのです。大切なのは、そこで彼らがどのような結論を出すのかです。もし彼らが、「いや、私たちはサタンが何と言おうとも神のことばに従って、この木の実を食べない」と決断したなら、それは彼らの成長を意味しますから、サタンからの誘いは試練になるのです。しかし、彼らは「自分の思いを満たしたい」というものを優先し、神のことばに従うことをせず木の実を食べてしまいました。それによって神との関係を損ねてしまったのです。すなわち、神との関係が後退してしまったのです。これが誘惑なのです。
 もっと身近なことで言えば、自分の興味のあるイベントが日曜日の午前に行われるとします。そうなりますと、心の中に葛藤が生じます。それは「イベントに行くか、それとも礼拝に行くか」という葛藤です。そこで心の中に生じるものは、「イベントはこの日しか行われないけれども礼拝は毎週行われる」というものです。そして、「どちらを選ぶか」という戦いが心の中に生じます。その戦いを通して、「それでも礼拝に行く」という方を選んで礼拝に行くなら、それは試練になります。しかし、「礼拝は毎週行われているのだから一度くらい休んでも良いだろう」と言ってイベントに参加するなら、それは誘惑になります。すなわち、妥協することなく神のことばに従うことができたのならば試練になりますが、妥協してしまったら誘惑になってしまうのです。試練と誘惑の違いは、事柄は同じなのですがその人の決断によるものなのです。

2)責任転嫁の禁止
 ヤコブは13節で「だれでも…言ってはいけません」と語っています。何故なら、誘惑は自分の決断によって生じたものだからです。なのに、それを「神に誘惑されている」と言うのは、自分の罪の責任転嫁でもあります。アダムとエバがそうだったのです。アダムは自分が罪を犯したことをエバのせいにしましたし、エバは自分が罪を犯したことを蛇のせいにしました。彼らは自分が決断したことへの責任を他人のせいにしたのです。私たちもついつい自分の過ちを他人のせいにしてしまいやすいことがあります。「あの人が言ったから」とか「その人がこんなことをしたから」とか「仕方がなかったから」などです。そして、信仰的なことになりますと「神がこのようにされた」と言いかねないです。
 そのことが一番よく分かるのが子育てではないでしょうか。子どもに「嘘をついてはいけない」とか「責任を他の人にしてはいけない」と教えているのに、子どもは嘘をつくことがありますし、責任を他の人にしてしまうことがあります。教えていないのに、そのようなことをする時があります。これはアダムとエバの罪を受け継いでいるからです。それは子どもだけでなく、私たち大人も同じです。聖書は私たちの弱さを知っていますから、わざわざこのように語っているのです。何故なら、神は人を誘惑されるような方ではないからです。
 先程も話しましたように、誘惑はその人の決断によって生じるものです。ですから、その責任を他の人に転嫁してはいけないのです。へブル4:15に「     」と書かれています。ここに、イエス・キリストは「私たちの弱さに同情できない方ではありません」と語られています。同情は相手を理解しないとできないものです。「イエス・キリストは私たちの弱さに同情してくださる」ということは、「私たちの弱さを理解してくださる」ということです。アダムとエバがサタンの誘惑によって神に罪を犯した後で、神はサタンに何と言われたでしょうか。創世記3:15に「     」と書かれています。神は神に罪を犯した人を敵とされたのではなく、「サタンの敵となる」と言われたのです。すなわち、神は「ご自分に罪を犯した人間の側につく」と言われたのです。神は、それほど私たちを愛してくださっているのです。あなたという存在は、それほど神に愛されている存在なのです。だからこそ、「誘惑に遭ったとき、神に責任を転嫁するのではなく、自分の弱さにあってであることを認めなさい」と聖書は語っているのです。その前提には神の赦しがあるからです。私たちは赦しの神を覚え、過ちを犯したとき自分の間違いを認める者とされたいものです。

3)罪の根源
 主は赦しの神です。ですが、「だから罪を犯しても良い」と言ってはおられません。赦された者として歩み続ける必要があるのです。その罪と結果について、今朝の箇所の14~15に「     」と書かれています。罪の根源は自分の中にある欲です。その「欲」とは「思い」と言っても良いでしょう。私たちの中には様々な思いが湧き出します。先月の礼拝で見ました士師記の時代の人々がそうでした。最初は、「自分の目に良い」という思いが起こったのです。そして、それを見える形で行うようになったのです。最初は小さなずれかもしれません。しかし、その小さなずれのまま進みますと、どんどん正しい道から外れてしまいます。Ⅰコリント5:6に「     」と書かれているのはそういうことです。
 ヨハネ21:15以降に、イエス・キリストがペテロに「あなたはわたしを愛しますか」という質問にペテロが答えた後、イエス・キリストは「わたしに従いなさい」と話されたことが19節に書かれています。すると、ペテロは後ろから着いてくるヨハネを見て、イエス・キリストに「主よ、この人はどうなのですか」と質問したことが21節に書かれています。そのペテロの質問に対して、イエス・キリストが21節で「     」と答えられたことが書かれています。ここでイエス・キリストが話されていることは、「あなたがわたしに従うことはヨハネには関係がない」ということです。
 ともすると、私たちはこの間違いをしてしまいやすいのです。神に聞き従うとき、人を見てしまいやすくなるのです。神に聞き従うとき、その人を見て「でも、この人には」と思ってしまうことがあります。しかし、自分が神に聞き従うことと、その人とは関係はないのです。そのことをはっきりと語っているのが、Ⅰペテロ2:18です。ここに「     」と書かれています。最後の「意地悪な主人にも従いなさい」と勧められています。意地悪な主人ですから、どう考えても腑に落ちない主人です。それであっても、「自分がすべきことはきちんとしなさい」と勧められているのです。これはパウロも同じ事を語っています。エペソ6:5に「     」と書かれていますし、コロサイ3:22に「     」と書かれています。そして、23節で「     」と勧めています。ペテロもパウロも「あなたが神に従うこととその人とは何の関係もない」と語っているのです。
 ところが、私たちはついつい人を見てしまいやすい者です。そして、「この人には」という思いが起こってしまいます。「この人には」というのは小さなものです。しかし、それが先程も話しましたように、神に聞き従う道から大きく外れてしまうのです。それは先月の礼拝でも話しましたように、自分の目に良いと見えることを基準とした歩みです。そのことを示されますと、「自分の中にも罪の根源がある」ということに気づかされます。

結)
自分の中にも罪の根源がありますが、その私のためにイエス・キリストが十字架に架かって、私の身代わりとなって神の審きを受けてくださったことも深く覚えさせられます。さらに、その私のために今もイエス・キリストが父なる神にとりなしてくださっていることも覚えさせられます。私たちは、その恵みの中に生かされているのです。自分の罪を知れば知るほど、イエス・キリストの十字架ととりなしという恵みの中に生かされていることを覚えさせられます。私たちには、常に神に聞き従う道と聞き従わない道が目の前に備えられています。そのどちらを選ぶのかは自分自身で判断し決断するのです。私たちが神に聞き従う道を選び取る歩みができるように祈っていきましょう。

ヤコブ1:12「試練に耐える人の幸い」 22.10.09.

序)
 今朝の箇所の初めに、「試練に耐える人は幸いです」と書かれています。そのようなことを聞かれますと、「試練の何処に幸いがあるのか」と思われる方もおられるかもしれません。ですが、それは「幸い」というものを自分の視点で捉えているからです。「自分の心が満たされることが幸いなこと」と思われているからです。今朝の箇所の「幸い」は、人の視点ではなく神の視点における幸いです。そのところを見極めて読むことが大切です。当時のキリスト教は、ユダヤ教から迫害を受け、ローマ帝国からも良い目では見られていませんでした。そのような時代背景を考えますと、ヤコブ書に書かれている試練とは「迫害のこと」と考えられます。迫害は信仰の戦いです。「迫害から免れるためには妥協するしかない」という戦いです。そのことを思いますと、マタイ5:10に「     」と話されたイエス・キリストのことばを思い起こされます。今朝は、何故試練に耐える人は幸いなのかを共に教えられたいと願っています。

1)神に義と認められるから
 試練に耐える人が幸いな理由の1つは、神に義と認められるからです。先程も話しましたように、「幸い」と判断するのは自分ではなく神ご自身です。先程のマタイ5:10で、イエス・キリストは「義のために…幸いです」と話されました。義とは、神に「良し」と認められることであり、神に正しく応答することであり、的を射た生き方のことです。そうしますと、義に反した生き方とは、的を外した生き方のことであり、神に対して罪を犯す歩みのことです。神は十戒で「わたし以外に、ほかの神々があってはならない」と言われ、「自分のために偶像を造ったり、拝んだりしてはならない」と命じられました。すなわち、主なる神だけを神として生きることを命じられたのです。
 私たちが生かされています日本という地は、偶像崇拝の盛んな国です。2020年のデータですが、1年以内に初詣をされた人は65%ということです。これは博報堂という所が1992年から2年毎に行われている調査ですが、15回の調査をされて数値は殆ど変わっていません。それが意味しているのは、「日本人の宗教観」と言いましょうか、「社会風土は全く変わっていない」ということです。私たちは、そのような社会の中に生かされているのです。ですから、信仰のことで衝突が生じるのは当然のことです。そのような社会の中で、どのように生きていくかは私たちにとって大きな課題です。それは自分との戦いでもあります。すなわち、妥協した生き方をするのか、それとも妥協せずに生きていくかです。周りからは「社会の中で丸く生きていくには、ある程度の妥協も必要だ」という声があります。キリスト者は戦いを求める者ではなく平和を求める者です。そのためには、「ある程度の妥協も必要」と思えたりもします。しかし、「してはならないこと」は、どのようなことがあってもしてはいけないのです。
 聖書は、そのような生活は決して楽なものではないことを知っています。だから、「試練に耐える人は」と語っているのです。神は私たちの歩みを知らない方ではなく、全てを御存知なるお方です。私たちの日々の戦いをも御存知です。そのような戦いや苦しみの中で、神に寄り頼む者を「義」と認めてくださるのです。何か大きなことができるわけではありませんし、特別に人の役に立つことができるわけでもないかもしれません。ですが、神の目からはそのようなことは関係ないのです。神に寄り頼んでいるかいないかが重要なのです。私たちが幸いな人であるか、義と認められる人であるかは、私たち自身が決めるのではなく神ご自身なのです。神は試練の中にあっても、神に寄り頼む者と「義」と認めてくださっているのです。だから、試練に耐える人は幸いなのです。

2)いのちの冠を受けるから
 試練に耐える人の幸いな理由の第2は、いのちの冠を受けるからです。では、「いのちの冠」とは何でしょうか。「永遠のいのち」と捉えることもできます。それは間違いではないと思います。聖書は信仰生活を競技に譬えて語っています。代表的なのがⅠコリント9:24~27でしょう。ここに「     」と書かれています。競技者は「朽ちてしまう冠」という賞を得るために、その競技の時だけでなく日々の生活の中でも自制しています。自分の好きなことやしたいことだけをしているのではありません。賞を得るためにしたくないこともしているのです。「何故そのようにするのか」と言いますと、賞を得るという目標を見つめているからです。そして、このⅠコリント9:24~27では、キリスト者は朽ちない冠を受けるために、日々の生活の中で自制することが大切であると勧めています。
 ここでは、いのちの冠を「朽ちない冠」ということばで表現しています。また、Ⅱテモテ4:8には「義の栄冠」と書かれており、Ⅰペテロ5:4には「しぼむことのない栄光の冠」と書かれています。ですから、いのちの冠を「永遠のいのち」と捉えても良いのですが、もっと広い意味で「神の祝福」と捉えた方が良いと思います。何度も話していますが、イエス・キリストはマタイ6:33で「     」と話されました。ここには神の祝福の法則が語られています。目の前の事柄の解決よりも、まず神に目を向けて寄り頼むなら、全てのものは与えられるという神の約束です。試練というのは、その人にとっては苦しいものです。神を信じなければ苦しむことをしないで済んだかもしれません。ですが、神は「そのような中にあっても的を射た歩みをするように」と求めておられるのです。すなわち、神を信じ従って、神に寄り頼む歩みをすることを求めておられるのです。
 先週の礼拝で、「私たちは新しい価値観に生きる者に変えられた」と話しました。神を信じる私たちは、目の前の事柄に対して一生懸命でした。いや、今もそうかもしれません。しかし、神を信じる私たちは新しい視点で生きることのできる者へと変えられたのです。目の前の事柄だけを見つめる生き方から、その先にある神の約束を見つめる生き方へと変えられたのです。聖書は「試練に耐える人は幸いです」と語っています。この「耐える」については何度も話してきました。じっと我慢することではなく、積極的に正しいことをする生き方です。ですから、神の祝福を受けるという神の約束に目を留めつつ、神に寄り頼む歩みをするようにと語っているのです。そうすれば、必ず神の祝福を受けることができると語っているのです。何故そのように言うことができるのでしょうか。それは神が真実な方だからです。神は約束を必ず守られる方だからです。試練に耐える人の幸いな理由は、「神の祝福」といういのちの冠を受けるからです。

3)神の約束の確かさを経験できるから
 試練に耐える人の幸いな理由の第3は、神の約束の確かさを経験できるからです。神の約束は、神を信じ従い寄り頼む者を祝福するというものです。その約束は誰に対してなされたのでしょうか。それは神を愛する者になされたのです。では、神を愛する者とはどのような人のことなのでしょうか。今まで「神を信じ従い寄り頼む」ということばを繰り返し語ってきました。ですから、そのような人のことなのでしょうか。確かにそうです。しかし、その歩み方は義務感でもできますし、打算的な考え方からでもできるものです。ですが、そのような歩みは「神を愛する歩み」とは言えません。愛するとは、自発的なものが必要です。私たちが自発的に神を愛するには何が必要でしょうか。決断でしょうか。それよりも大切なことがあります。それは、「今の私が神に愛されている」というのを知ることです。
 人は自分が愛され受け入れられていることを知らなければ、その相手に対して自発的に何かをするということはできません。私たちが神を信じ従い寄り頼んで歩める根拠は、「神が私を愛してくださっている」というものがあるからです。それがなければ、自発的に神を愛することはできないのです。それでも、神を信じ従う者には試練があるのです。何か理解し難いものです。神を信じ従うことによって試練が無くなるのなら分かりやすいと思います。でも、神を信じ従っているのに試練があるというのは、何か矛盾しているようにも思えます。ですが、一番矛盾していることがあります。それは何でしょうか。イエス・キリストの十字架です。罪を犯されていない方が、罪人として十字架に架けられて死なれたのです。しかも、それは父なる神の御心によってなのです。
 イエス・キリストは、父なる神を愛し従っておられました。それなのに、十字架に架けられて死なれたのです。何故でしょうか。「それは私たちの罪のために」と思われるでしょう。確かにその通りで間違いではありません。別の角度から見ますと、イエス・キリストが十字架に架かられたのは父なる神を愛し従ったからとも言えます。イエス・キリストは十字架に架かられる前、ゲッセマネの園で何と祈られたでしょうか。マタイ26:39に「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたことが書かれています。イエス・キリストにとって、十字架に架かられることは大きな試練だったのです。ですが、イエス・キリストは父なる神に従い通すことができたのです。何故でしょうか。父なる神の愛を知っていたからです。そして、父なる神の約束を信じていたからです。ここに人としてのイエス・キリストの生き方が示されています。
 イエス・キリストは、この地上において人としてどのように生きれば良いのかを示してくださったのです。神を愛する者とは、神に愛されていることを知っている人のことです。そして、神は神を愛する人に最善の時に最善の方法をもって事を行ってくださいます。だから、パウロはローマ8:28で「     」と語っているのです。この箇所は何度も話している箇所ですが、その冒頭に「神を愛する人たち」と呼びかけています。ここに注目したいのです。それは「神を愛する私たちは知っています」となります。何を知っているのでしょうか。「神のご計画に従って…益となることを」です。「だから苦難を耐えるように」とパウロも勧めているのです。イエス・キリストは、十字架という試練を通して死からの甦りを経験されたのです。別の角度から見ますと、十字架という試練があったから甦りという恵みを受けることができたのです。十字架という試練を経験されなかったら、人としてのイエス・キリストは甦りという経験をされることはなかったのです。それと同じように、私たちも経験する試練を通して神の約束の確かさを経験するのです。試練というのは、確かにその人にとっては苦しいものです。ですが、神の約束の確かさを経験するときでもあるのです。これが試練に耐える人の幸いの理由です。

結)
 試練は誰もが受けたくないものです。しかし、誰もが経験するものでもあります。神は私たちが経験します試練を恵みに変えてくださいます。試練を通して神のすばらしさを現してくださいます。矛盾に思えることもあるでしょう。そのようなとき、イエス・キリストの十字架を覚えましょう。そして、甦りに目を留めましょう。神は必ず恵みと祝福を与えてくださいます。だから、試練に耐える人は幸いなのです。何度も話していますが、聖書が語る忍耐は、積極的に正しいことを行う力です。神は私を愛するがために、イエス・キリストを十字架につけられ甦らされました。試練に遭遇しても、その神に正しい応答ができるように祈っていきましょう。


ヤコブ1:9~11「新しい価値観で生きる」 22.10.02.

序)
 先週は「試練に打ち勝つ秘訣」というタイトルから、神の約束を疑わずに信じることの大切さを学びました。この世にあって私たちは試練に遭遇しますから、その試練に打ち勝つためにもみことばをもって互いに励まし合うことの大切さを知らされました。私たちは「神の約束に目を向けて生きる」という新しい価値観で生きる者へと変えられたのです。今朝は、その新しい価値観について共に教えられたいと願っています。

1)神の子という身分に誇りを持つ
 第1は、神の子という身分にされていることに誇りを持つことです。9~10節の前半には、「誇り」ということばが用いられています。この「誇り」というのは「自慢する」ということではなく、「光栄とする」ということで喜びことを意味することばです。ですから、「喜びなさい」と訳されてもおかしくないことばです。事実、そのように訳されている聖書もあります。この「身分の低い」とか「富んでいる」というのは、社会的階級のことで、社会的身分の低い人と高い人のことです。当時の社会は階級社会でした。ですから、教会の中には社会的階級の高い人がいれば、社会的階級の低い人もいました。そうなりますと、社会的身分の低い人は、心の何処かに劣等感を持ってしまいやすくなります。また、社会的身分の高い人は優越感を持ってしまいやすくなります。しかし、その身分というのはこの世の社会的なものです。神を信じる人は全てが新しくされているのですから、当然身分も新しくされているのです。では、「どのような身分なのか」と言いますと、「神の子」という身分です。ですから、この世の世界では身分は違いますが、神の国の世界では同じ身分とされているのです。そのことに喜ぶのです。
 ここでヤコブは、「イエス・キリストを信じる人は、同じ神の子とされていることに目を留めるように」と勧めているのです。社会的に身分の低い人は仕えることに慣れています。また、社会的に身分の高い人は仕えられることに慣れています。ですが、教会は互いに仕え合う所なのです。ですから、ガラテヤ5:13に「愛をもって互いに仕え合いなさい」と勧められているのです。私たちが生かされています日本の社会の中にも「身分」というものがあります。ですが、教会の中では「神の子」という同じ身分なのです。これがプロテスタント教会の捉え方です。余談ですが、ローマ・カトリック教会はそうではありません。ローマ・カトリック教会はローマ教皇が神に繋がっており、その教皇に司祭が繋がっており、その司祭に信徒が繋がっているというものです。ローマ・カトリック教会は、「信徒は直接神に繋がっていない」という捉え方です。しかし、プロテスタント教会は「信徒一人ひとりが直接神と繋がっている」という捉え方です。だから「兄弟姉妹」と呼び合うのです。教会においては、一人ひとりが「神の子」という同じ身分とされているのです。「そのところに目を留め、誇りをもって生きることが大切である」と勧めているのです。

2)天に宝を蓄える
 第2は天に宝を蓄えることです。この世に生かされていますと、この世の富とか身分に心を寄せてしまいやすくなります。ですが、神を信じる者は新しい価値観をもって生きる者とされています。10節の後半から11節には、この世の物のはかなさが書かれています。どれほど素敵に見えたとしても、手にしたら心の中に生じるものは何でしょうか。安心があるかもしれません。しかし、それは一時的なものにしか過ぎません。次第に安心から不安へと変わっていきます。それは「今のものを失う」ということへの恐れを抱いてしまうようになります。ですから、物質的なものは永遠の平安というものを与えてはくれないのです。
 ですから、イエス・キリストは何と話されたでしょうか。マタイ6:20に「天に宝を蓄えなさい」と話されたことが書かれています。「天に宝を蓄える」とは、どういうことでしょうか。慈善行為をすることでしょうか。それもあるかもしれません。突き詰めますと神を信頼することです。「天」というのは、目で見ることのできない所ですが、神がおられる所でもあります。ですから、そこには「信仰」というものが拘ってきます。マタイ6:19~21には、何処に心の拠り所を見出だすかが話されています。そして、21節で「     」と話されました。私たちは心の拠り所を何処に置いているでしょうか。仕事でしょうか。社会的身分でしょうか。それともお金でしょうか。そのようなものは、決して心に永遠なる平安を与えてはくれません。むしろ、無くなることへの不安を覚えさせるものです。ここでイエス・キリストは、永遠なる平安は天にあることを話されているのです。ですから、その天におられる神を心の拠り所とすることが、天に宝を蓄えることでもあるのです。
 では、そのことを今朝の箇所に取り入れますとどうなるでしょうか。今朝の箇所は「身分」について書かれています。神は「あなたは高価で尊い」と語られていますし、「神を信じる者は神の子という身分とされている」と語っています。イエス・キリストは、ルカ15:8~10で失われたお金の譬え話をされました。イエス・キリストは、人をお金に譬えて話されたのです。何故でしょうか。それは、お金は新しくても古くても同じ価値のあるものだからです。それだけでなく、傷や汚れがあっても同じ価値のあるものです。人は社会的身分によって価値観が決まるものではありませんし、年齢や能力などで価値観が決まるものでもありません。神の目から見れば、全ての人は同じ価値のある存在なのです。何故なら、全ての人は神のかたちとして造られている存在だからです。
 私たちは、この社会の中に生かされていますと、この社会の価値観で人を評価し、自分を評価してしまいやすくなります。また、この世の常識がキリスト者の常識となる危険性もあります。しかし、イエス・キリストを信じる者は新しい価値観に生きる者とされているのです。この世の価値観や常識ではなく、神の価値観で生きることが大切なのです。それは神のみことばに立って、「聖書は何と語っているのか」に目を向けることです。社会的身分など関係なく、「神は私をどのような存在として見てくださっているのか」が大切なのです。そして、その神に信頼を寄せることが、天に宝を蓄えることでもあるのです。

3)神を信頼して生きる
 第3は、神を信頼して生きることです。私たちは先程も話しましたように、この社会の中で生かされていますと、この社会の価値観・常識であらゆるものを見てしまいやすくなります。私たちは神を信じていますが、目に見える社会の中に生かされていますと、見えるものに心を奪われてしまいやすくなります。8節の「二心を抱く者」とは、「神を信じつつも信じ切れない人のこと」と以前に話しました。別の言い方をすれば、目に見えない神を信頼しつつも、見えるものに信頼を寄せてしまう人のことでもあります。イエス・キリストは、「誰でも二人の主人に仕えることはできません」と話されたことがマタイ6:24に書かれています。ここでイエス・キリストは、群衆に「神か社会か」を迫っておられます。さらに言えば、「神か家族か」でもあります。マタイ10:34~39で「     」とイエス・キリストは話されました。イエス・キリストの十字架は、「私たちの罪の身代わりとなって神の審きを受ける」というものです。では、私たちの十字架は何でしょうか。あなたの十字架は何でしょうか。それは、「私の罪のために十字架に架かって神の審きを受けてくださったイエス・キリストに従い続けていく」というのが、私たちが負っている十字架です。ですから、38節の「自分の十字架を負って」とは、「イエス・キリストに従うか」、それとも「自分の思いに従うか」のどちらを選ぶかという選択のことです。私たちは、常に「神か社会か」という選択という十字架を負っているのです。そのような中で、神を信頼する方を、神に従う方を選び取ることを、イエス・キリストもヤコブも勧めているのです。
 イエス・キリストを信じる者は、新しい価値観をもって生きる者に造り変えられた人です。神を信頼して生きる者へと変えられた人です。ですから、神以外のものに頼る必要はありません。ですが、私たちはどうでしょうか。イエス・キリストを信じつつも、手放すことのできないものがあることに気づかされます。実は、それが私たちの宝でもあるのです。そして、その宝が私たちの中にあることを認めざるを得ません。以前、「信仰生活とは、神に信頼する信仰の戦いの生活でもある」と話しました。自分の宝の問題は信仰生活の戦いでもあります。マタイ6:24の「仕える」とは、「崇める」というのを表していることばです。「崇める」「崇拝する」ということは、それを優先するということでもあります。神よりも優先するものが私たちの中には生じやすいのです。その優先するものを神の次にするのが手放すことでもあるのです。先程も話しましたが、私たちは自分の宝を手放す決断ができれば良いのですが、その決断がなかなかできません。では、そのような私たちは神に見捨てられるのでしょうか。いいえ、神はそのような私たちを見捨てることをされず、いつも共にいて導いてくださるお方です。それは「二人の主人に仕えても良い」ということではありません。神は忍耐をもって、私たちが自分の宝を手放す決断ができるのを待っておられるのです。
 先程も「神は忍耐をもって待っておられる」と話しましたが、その忍耐は「正しいことを積極的に行うもの」ということを以前に話しました。だから、神は私たちを見捨てることをされず共にいて導いてくださっているのです。そのような話しを聞かれますと、「憐れみ深い神様に感謝します」と思えたりもします。その感謝は良いのですが、その感謝だけで終わってしまうなら問題です。何故なら、神はその宝を手放すことを望んでおられるからです。感謝すると同時に、「自分の宝を手放すことができますように」という祈りも大切なのです。その祈りが「神を信頼する」ということでもあるのです。

結)
 私たちはイエス・キリストによって、新しい価値観に生きる者とされています。「信仰生活とは、自分が神に信頼する信仰の戦いでもある」と以前に話しました。この世に生かされていますと、この世の価値観に影響されてしまいます。そして、この世の価値観で物事を見てしまい判断してしまいやすくなります。だからこそ、「私は新しい価値観に生きる者とされている」というのを覚えることは大切です。今の私が神の子とされていることに目を向けつつ、その神を心の拠り所とし、神を信頼して生きる者と成長できるように祈っていきましょう。


ヤコブ1:6~8「試練に打ち勝つ秘訣」 22.09.25.

序)
 先週は「試練に遭遇したとき、まず何を神に祈り求めれば良いのか」というのを見ました。それは知恵であり、神に信頼する信仰が強められることでした。今朝は、どのように祈れば良いのかが書かれていますので、そのことを共に教えられたいと願っています。

1)疑わずに信じて
 6節に「少しも疑わずに、信じて求めなさい」と書かれています。ですから、神への祈りにおいて大切なことの1つは、少しも疑わずに信じて祈ることです。それに対して、私たちはどうでしょうか。自分の生活の中で、全く神の約束を疑わず、全てを信じて祈っているでしょうか。私自身のことを考えますと、「そうではなく疑ってしまうことがある」と認めずにはおられません。「全てのことを少しも疑わずに祈り歩んでいるか」と聞かれ、「はい」と答えられれば良いのですが、実際はそうではない自分を認めざるを得ません。ここに、改めて自分の信仰の弱さというものを思わされます。
 では、そのような私たちが神の約束を少しも疑わずに、信じて祈る者とされるにはどうすれば良いのでしょうか。聖書はそのように語っているのですから、そのように実行すれば良いのでしょうか。確かにその通りであり、実行すれば良いことなのです。簡単なことです。しかし、その簡単なことがなかなか実行できないのが私たちです。実は、それが信仰生活なのです。信仰生活とは、自分が神に信頼する信仰の戦いでもあります。その信仰の戦いにおいて勝利する方法は何でしょうか。結局は、神のみことばしかありません。私たちが神のみことばに養われるかないのです。だからこそ、日々神のみことばに耳を傾けるディボーションが大切なのです。
 日々のディボーションは、毎日続けますとみことばが新鮮に感じることが少なくなってしまいます。そしてマンネリ化してしまいます。何度も話していますが、「マンネリ化」というのは必ずしも悪いことではありません。良いマンネリ化もあります。みことばは「霊の糧」と言われています。霊の糧ですから肉の糧もあります。「肉の糧」というのは、私たちが毎日取っています食事のことです。しかし、毎回食事に感動するわけではありません。皆さんの家庭の食事はどうなのかは知りませんが、私の家庭の食事はそうなのです。「全くない」というわけではありませんが少ないのも事実です。しかし、その食事を取り続けることによって成長していくのです。霊の糧も同じです。感激することは少ないかもしれませんが、毎日続けることによって与えられている信仰は、知らず知らずの内に成長しているのです。何故なら、Ⅰコリント3:6に「     」と書かれていますように、私たちの信仰を成長させるのは自分自身ではなく神だからです。だからこそ、神のみことばに耳を傾けることが大切なのです。私たちが疑わずに信じる者と成長するには、日々神のみことばに耳を傾け養われるしかないのです。

2)疑う人
 続いて、6節には神の約束を疑う人の歩みについて書かれています。そのような人の歩みは、「風に吹かれて…大波のようです」と書かれています。これは不安定な歩みを表しています。さらに7節には「     」と書かれています。「主から何かをいただける」という「何か」とは何でしょうか。それは平安であり、安定した歩みのことです。神の約束を疑う人、すなわち、神のみことばを信じ切ることのできない人は、決して平安で安定した歩みができないというのです。何故でしょうか。それは8節に書かれていますように、「二心」を抱いてしまうからです。この「二心」とは、神のみことばを信じ切ることのできない心のことです。決して、神のみことばを信じていないことではありません。神のみことばを信じてはいるのですが、信じ切れない心のことです。
 私たちには、誰にでも自分の中に物差しというものを持っています。その心の物差しによって、あらゆることを判断してしまいます。別のことばで言えば「常識」というものです。「世間の常識」「自分の常識」などで判断してしまいやいのです。そして、神のみわざというものも、その物差しや常識で判断してしまいやすいのです。そして、その物差しや常識の中で「いくら神であっても無理だ」という判断をしてしまいやすくなります。それが6節に書かれています「疑う人」であり、8節の「二心」の人のことです。
 旧約聖書に、北イスラエル王国の首都サマリアがアラムに包囲されたため物価は上昇し、サマリアの町にいた人たちは食べるものに困り果てました。そのとき、エリシャが言ったことばがⅡ列王記7:1に「     」と書かれています。そのことばに対して、侍従が言ったことばが2節に「たとえ主が…あるだろうか」と書かれています。王の侍従は、エリシャが語った神のことばを信じられなかったのです。6:25には「ろばの頭1つが銀80シェケル…売られるようになった」と書かれています。ろばの頭は煮れば食べられるかもしれませんが、鳩の糞などは食べることはできず肥料にしかなりません。それほど物価が上昇しているのに、「明日は上等の小麦が1セア1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる」というのです。私たちは、この侍従のことばはよく分かるのではないでしょうか。それは自分の物差し・常識で測っているからです。
 ここでヤコブが勧めているのは、「自分の物差しや常識に囚われるな」ということです。自分の物差しや常識で物事を測ってしまうのは仕方のないことかもしれません。しかし、それだけに囚われるのではなく、自分の物差しや常識を超えて働かれる神に目を向けることは大切です。私たちにとって大切なのは、「自分の物差しや常識を超えて働かれる神に目を向けられますように」という祈りです。その神に目を向けられるようになるには、やはり神のみことばに養われることです。自分の物差しや常識に囚われるのは牧師であれ同じです。何故なら、同じ人間だからです。だからこそ、祈っていただく必要があるのです。

3)神の約束に目を留めて
 私たちは、みことばを通して自分の弱さというものを知らされます。そのような私たちに、神は何と語られているでしょうか。詩篇81:10には「     」と語られていますし、エレミヤ33:3には「     」と語られています。神は私たちが考えるような小さな方ではありません。御使いがマリアに話したように、不可能なことが何もないお方です。その神が詩篇81:10で「あなたの口を…それを満たそう」と約束してくださり、エレミヤ33:3の後半で「あなたが知らない…あなたに告げよう」と約束してくださっているのです。すなわち、「神の約束に目を留めよ」と告げられているのです。ですから、その神の約束に目を留めるしかないのです。日々の祈りの中で、「神の約束を信じ切れない私ですが、神の約束を信じ切ることのできる者としてください」と祈るしかないのです。神は私たちの理解を越えた大いなるお方です。ですから、必ずその祈りに答えてくださいます。何故なら、それが神の約束だからです。
 今朝の箇所を見ますと、疑ってしまう信仰の弱い自分しか見出だすことができないかもしれません。ですが、何度も話していますが、神はそのような私たちを御存知の上で、詩篇81:10やエレミヤ33:3などのみことばを語られているのです。ですから、私たちはそこに目を留めることが大切なのです。これは何も、「だからと言って疑っても良い」と話しているのではありません。その点を誤解しないでいただきたいのです。「神は私たちの弱さを御存知だから疑っても良い」というのではなく、「弱さの故に疑ってしまう私たちを受け入れてくださっている」ということなのです。それほど、神の愛は広く深く大きいものなのです。
 私たちは試練に遭遇しますと、目の前の試練に目を注いでしまい、神の約束を忘れてしまいやすい者です。だからこそ、神は私たちに神のことばである聖書を与えてくださっているのです。弱さの故に神の約束を忘れてしまうのは仕方のないことかもしれません。だからこそ、みことばに耳を傾けて神の約束に目を向けることが大切なのです。私たちが神の約束に目を向けられるのは自分自身の力によるものではありません。神のことばである聖書が私たちを神の約束に目を向けさせてくれるのです。先程も話しましたが、日々みことばに耳を傾け続けますと新鮮さがなくなりマンネリ化してしまいます。しかし、そのマンネリ化に負けずに耳を傾け続けさせることのできるものは忍耐です。2~4節の時に話しましたが、聖書の語る忍耐とは「苦難が過ぎ去るのをじっど我慢するものではなく、正しいことを積極的に行い続ける力」です。その忍耐は私たち一人ひとりに与えられています。
 1:1の箇所でも話しましたが、初代教会は神にある交わりを大切にしていました。その交わりを通して、初代教会が互いに励ましを受けてきました。だからこそ、迫害という試練にも耐えることができ今日に至っているのです。その事実に目を向けるとき、改めて神にある交わりの大切さを知らされます。一緒に集まる目的は、へブル10:25に書かれていますように励まし合うためです。それはみことばによる励まし合いです。励ますのではなく励まし合うのです。「合う」というのは一方通行ではありません。交流があるということです。すなわち、交わりであり分かち合いです。みことばの分かち合いは、私たちが遭遇します試練に打ち勝つためにも大切なものです。それを続けさせるのは、正しいことを積極的に行い続ける力である忍耐です。役員会では来月から礼拝後の分かち合いを再開することを決めました。互いに励まし合うための分かち合いであることを覚え、再開したいと願わされています。

結)
 私たちはみことばによる約束を疑いやすい弱い者です。そのために、神は聖書を与え励まし合う交わりを与えてくださっています。だからこそ、「集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と勧めています。私たちが遭遇する試練に打ち勝つ秘訣は、みことばとみことばの分かち合いです。私たちにはその特権が与えられています。その特権を豊かに用いて、一つの群れとして歩まされていきたいと願います。


ヤコブ1:5「神の約束に目を留めて」 22.09.18.

序)
 先週は、「試練は私たちを成長させるために備えられた神の恵みである」ということを見ました。私たちはそのことを知りつつも、その試練や苦しみだけに目を留めてしまいやすい者です。今朝は、そのような私たちが試練に遭遇したとき、どうすれば良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)神に知恵を求める
 私たちが試練に遭遇したときの第1は、5節に「あなたがたのうちに…神に求めなさい」と書かれていますように神に知恵を求めることです。ですが私たちはどうでしょうか。自分自身に当てはめて考えてみますと、まず神に祈り求めることは問題が解決されることではないでしょうか。「試練や苦しみから解放されたい」という思いが強いですから、ついついそのことを祈り求めるのではないでしょうか。しかし、聖書は知恵を求めることを勧めているのです。これは「問題が解決されて、試練から解放されることを願うことが悪い」と語っているのではありません。その点を誤解しないでいただきたいと思います。ヤコブは「それを求めても良いけれども、それが最も大切なことではない」と語っているのです。最も大切なのは、知恵が与えられるのを神に祈り求めることなのです。
 ヤコブは「知恵が欠けている人がいるなら」と語っています。この「知恵」とは、神のすばらしさを知っている知恵です。ですから、「知恵がない」ということではありません。神のすばらしさを知っている知恵は、神を信じるときにすでに与えられています。では、これは何を意味しているのかと言いますと、その神のすばらしさを知っている知恵がきちんと働いていないことを表しているのです。ですから、「知恵が与えられるように」と祈るというのは、「神から与えられている知恵がきちんと機能できるように」と祈ることなのです。
 ヤコブは知恵が与えられるように祈ることを求めているのであって、知識が与えられるのを求めてはいません。知識と知恵は違います。知識というのは、様々なことを学んで身に着けることです。そして知恵とは、その学んで身に着けた知識を実生活の中で用いることです。分かりやすく言えば、知識は身に吸収することであって、知恵は身から出すことです。私たちは聖書を通して、神がどのような方であるかを知っています。これは知識です。その知識は、人によって違います。信仰の長い人は知識が豊富かもしれませんし、聖書を深く学んでおられる人も知識は豊富かもしれません。ですが、どれだけ知識が豊富であっても、その知識を生かすことができないのなら宝の持ち腐れです。その知識を生かすのが知恵です。
 神について多くの知識を持っていても、その知識を生かしていないなら意味はありません。どれだけ神のことを知っていても、その神に信頼していないなら意味のない生活になってしまいます。聖書の神についての知識ならば、聖書の神を信じていない人の中にも大勢おられます。大学などの宗教学者は聖書知識が豊富です。でも、それを実生活の中で生かしているのかと言えば、聖書の神を信じていない宗教学者は生かしていません。何故なら、聖書の神に信頼していないからです。ヤコブは、神についての知識を生かす知恵が与えられるように祈り求めることを勧めているのです。それは、神を信頼する信仰が強められるように祈り求めるということです。

2)恵み深い神を覚える
 私たちが試練に遭遇したときの第2は、恵み深い神を覚えることです。ヤコブは「だれにでも…与えてくださる神」と語っています。神は誰にでも惜しみなく、咎めることなく与えてくださるまことの神です。イエス・キリストが誕生されたとき、天の軍勢は「地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように」と賛美しました。イエス・キリストは、地上に平和をもたらすために誕生されたのです。試練に遭遇したときの私たちの心はどうでしょうか。嵐のように騒いでおり、平安というものは全くありません。そして、何を心配するかと言いますと今後のことです。そのような私たちに対して、ヤコブは「誰にでも…与えてくださる神」と語っているのです。神は恵みを惜しみつつ少しずつ与えてくださるような方ではなければ、人の弱さを責められるような方でもありません。私たちの全てを御存知ですから、恵みの全てを与えてくださる方なのです。神は私たちの弱さを全て受け止めてくださる方なのです。
 パウロはその神についてⅠコリント10:13で「     」と語っています。神は私たちが耐えられないような試練は与えられない方であり、試練から脱出する道を備えてくださっている方です。今までの自分の歩みを振り返りますと、その所々で働いてくださっていた神を思わされるのではないでしょうか。そうであるならば、これから先の歩みについてもそうなのです。ある人は「あの時は偶々そうなっただけのこと」と思われるかもしれません。しかし以前にも話しましたが、私たちが信じている神は、その偶々を用いることのできる方です。神がこの世界を造り、この世界を治めておられるというのはそういうことです。クリスマスのときに話しましたが、イエス・キリストが誕生されたときは、ヘレニズム文化が盛んな時であり、ローマ帝国の支配によって道路が整えられ情報伝達が早くなった時代です。そのような時代にイエス・キリストは誕生されたのです。ある方は「それは偶々である」と言われるかもしれません。ですが、聖書はガラテヤ4:4で「時が満ちて」と語っているのです。「時が満ちる」ということは、「すでに予定されていた時がきた」ということです。以前の聖書では「定めの時がきたので」と訳されていました。イエス・キリストの誕生は偶々ではなく、神がすでに予定されていた時だったのです。
 試練は受ける私たちにとっては、とても苦しいものです。ですが、神は時を定めて脱出の道を備えてくださる方です。脱出の道は、決して偶々ではありません。神は全力を注いで惜しみなく恵みを与えてくださる方です。その恵み深い神に目を留めて求めるのです。祈るのです。これが試練に遭遇したとき大切なことの第2です。

3)神の約束を覚える
 私たちが試練に遭遇したときの第3は、神の約束を覚えることです。ヤコブは「その人は…神に求めなさい」と勧めた後で、「そうすれば与えられます」と断言しています。このことばを通して、マタイ6:33のみことばを思い起こされます。マタイ6:33に「     」と書かれています。私たちは問題に遭遇しますと、ついつい目の前のことに目を留めてしまいます。そして、そのことだけを祈ってしまいます。しかし、実は神に信頼する信仰が強められるように祈ることが大切なのです。それが「神の国と神の義を求める」ことでもあるのです。イエス・キリストは、「そうすれば…与えられます」と約束されているのです。すなわち、神への信頼が強められ、試練からも解き放たれるのです。マタイ6:33とヤコブ1:5は、同じことが語られているのです。
 以前に山上の説教のときも話しましたが、神の祝福の法則とはそのようなものです。6:33の「これらのもの」とは、25節以降に書かれていますことです。すなわち、心配からの解放です。「何故心配するのか」と言いますと不安だからです。試練に遭遇するとき不安を覚えます。大切なのは不安を覚えないことではなく、不安を覚えたときどうするのかです。先程見ましたマタイ6:33には「まず神の国と神の義を求めなさい」とイエス・キリストは話されています。「求めなさい」とは「祈りなさい」ということです。「まず何を祈るのか」と言いますと、先程も話しましたように「神の国と神の義」という神への信頼が強められることを祈るのです。目の前の問題が解決されることよりも、神に頼る自分の信仰が強められることを祈るのです。同じことの繰り返しになりますが、イエス・キリストは「そうすれば…与えられます」と、神に頼る自分の信仰が強められ試練からも解放されるのです。これが神の私たちに対する約束です。
 私たちが生かされています社会では、「問題に遭遇したら目の前のものを一つずつ解きほぐしていくことによって道は開かれていく」というものです。ですから、目の前の問題に目を向けてしまいやすくなります。しかし、神の祝福の法則はそうではありません。まず神に目を向けて、神に信頼する信仰が強められることを祈るのです。試練は受ける人にとって辛いものです。決して幸いなものではありません。「辛い」という漢字は「辛」と書きます。そして、「幸い」という漢字は「幸」と書きます。「一本線があるかないか」というちょっとの違いで大きな違いが生じます。何度も見ていますが、ハガルという女性がそうでした。彼女は息子イシュマエルと共にアブラハムの家を追い出され、食べ物も飲み物も尽き果てたとき死を覚悟し泣き崩れました。そのとき神のことばを聞き、目が開かれて周りを見渡すと井戸を見つけることができたのです。そのときに井戸はできたのではなく、前からその場にあったのですが、ハガルは見つけることができなかったのです。「見方を変える」というのはちょっとしたことです。でも、そのちょっとした違いが「辛い」と思えるか、「幸い」と思えるかという大きな分かれ目でもあるのです。試練に遭遇したとき神の約束を覚え、神に頼る信仰が強められるように祈る者とされたいものです。

結)
 試練はできれば受けたくないものです。しかし、受けずに通れるものではありません。どのような人であれ経験するものです。それは信仰の強弱に関係ありません。試練に遭遇したとき大切なのは神に求めることです。その求めるものは神のすばらしさを知っている知恵と神の恵み深さと神への信頼が強められることです。試練に遭遇したとき、それらのことを祈る者とされたく願います


ヤコブ1:2~4「祝された信仰生活とは」 22.09.11.

序)
 先週は祝された信仰生活について学びました。「祝された信仰生活」と聞きますと、平坦な道を歩み続けるように思えてしまいます。しかしながら、平坦な歩みが続けられることが必ずしも祝された信仰生活とは限りません。ローマ8:28には「すべてのことがともに働いて益となる」と語っています。全てのことが共に働くのですから、そこには自分にとってプラス的なものだけでなく、マイナス的なものも含まれているのです。しかし、それを神は益へと導いてくださいます。今朝は、その祝された信仰生活とはどのようなものかを共に教えられたいと願っています。

1)試練が伴うもの
 まず、祝された信仰生活には試練が伴います。人は誰でも悩みを持ちます。そして、その悩みが解決されることを願います。教会に来られる方の中には、「神を信じたら悩みが解決され、心は平安になり平坦な道を歩み続けられる」と思って来られる方がおられます。しかし、イエス・キリストを信じても悩みは持つのです。決してイエス・キリストを信じたら悩みなどなく、いつも心は平安にされ平坦な道を歩み続けるというものではないのです。ともすると、同じキリスト者の中には「それはあなたの信仰が薄いからだ」と、悩みを持っている人の信仰を責める人もおられます。ですが、悩みというのは信仰の度合いではありません。聖書を読みますと、全ての信仰者は悩みを持ち続けていたのです。
 今朝の箇所で注目したいのは、「様々な試練にあうときは」ということばです。ヤコブは祝された信仰生活を語るにおいて、最初に「様々な試練にあうときは」と語っているのです。様々なのですから、1つや2つの試練ではありません。ですから、「神を信じれば試練や悩みなどなくなる」というわけではないのです。神を信じても様々な試練に遭遇するのです。ですから、試練は信仰の度合いによるものではなく、どのような人であれ経験するものなのです。むしろ、祝された信仰生活を過ごすためには、なくてはならないものなのです。ですから、ヤコブは「この上もない喜びと思いなさい」と語っているのです。「試練を喜びとする」というのはなかなかできるものではありません。
では、「何故試練を喜びと思うのか」と言いますと、そこに神が働いてくださり、改めて神のすばらしさを経験することができるからです。何度も語っていますが、ローマ8:28に書かれていますように、全てのことが共に働いて益となるからです。試練に遭遇しているときは、決して「プラス」とは思えず「マイナス」と思えてしまいます。でも、そのマイナス的なところに神は働いてくださり、プラスにしてくださるのです。ですから、「試練を経験したから」と言って、自分の信仰を責める必要はありませんし、むしろ自分の信仰を責めること自体が間違いなのです。祝された信仰生活を過ごすにおいて、試練は伴うものであるということを覚えたいものです。

2)試練の受け取り方と対処
 「祝された信仰生活には試練が伴う」と聞かれますと、「その何処が祝されているのか」と反発したくもなります。Ⅱコリント12:7に「     」と書かれています。パウロは肉体的な弱さを持っていました。これはパウロにとっては辛いことであり、大きな悩みであり試練でもありました。ですから、8節に「     」と書いています。パウロは「去らせてほしい」と3度も神に祈ったのです。それほど辛いものだったのです。そのパウロの祈りに対する神の答えが9節に「わたしの恵みは…現されるからである」と書かれています。このパウロの肉体的な悩み・試練について、神の答えは「わたしの恵み」と言われたのです。パウロが経験している悩み・試練も神の恵みの一つであるというのです。今までパウロは、この肉体的な悩み・試練を「神の恵みの一つ」とは受け取れていなかったのです。だから3度も神に祈ったのです。ところが、「これも神の恵みである」というのが神の答えだったのです。何故なら、そのところに神の力が完全に現されるからです。悩み・試練を通して、神のすばらしさを知ることができるからです。経験する試練を神の恵みの1つとして受け取るか受け取らないかは、その人の信仰が試されてもいるのです。
 私たちはそのことを知りつつも、「試練を神の恵みの1つ」と受け取れないのが実情ではないでしょうか。どうすれば「試練を神の恵みの1つ」として受け取ることができるのでしょうか。それには「この試練を神の恵みの1つとして受け取れますように」と祈るしかありません。その祈りに対して、神はその試練を恵みの1つとして受け取れるように変えてくださいます。そのように祈るには決心が必要です。でも、その決心がなかなかできないのが私たちです。何故できないのでしょうか。それは自分の願いとは違うからです。私たちの心の中には「自分の願いが叶えられるように」という思いがあります。そのような思いがあることを「悪い」とは言いません。それは人としてあって当然のものです。ただ、その自分の思いを熱心に求めるなら問題です。私たちが熱心に求めるものは自分の願いではありません。
では、何を熱心に求めることを聖書は勧めているでしょうか。Ⅰコリント12:31に「あなたがたは…熱心に求めなさい」と勧めています。この「より優れた賜物とは何か」と言いますと、13章に続きます愛です。「神を愛することを熱心に求める」ことを聖書は勧めているのです。それはヤコブも同じです。1:3で「信仰が試されると忍耐が生まれます」と語り、4節で「その忍耐を完全に働かせなさい」と勧めています。聖書が語る忍耐とは、じっと我慢することではありません。正しいことを積極的に行うことを意味しています。先程触れましたⅠコリント13章は「愛の章」と言われ、その7節には「     」と書かれています。真実な愛というのは、正しいことを積極的に行う力のあるものです。その力を神は私たちに与えてくださっているのです。あとは、その力である忍耐を完全に働かせることが大切なのです。
私たちはこの世にあって、様々な信仰の戦いを経験させられます。確かに、この世の流れに乗っての生活は楽かもしれません。しかし、神は私たちにこの世の流れと戦い抜くことのできる忍耐を与えてくださっているのです。私たちにとって大切なのは、この世の流れに乗ることではなく、神が与えてくださっている忍耐を用いることです。悩みや試練を神の恵みの1つと捉え、神が与えてくださっている忍耐を用いることができるように祈っていきたいものです。

3)試練が与えるもの
 ヤコブは「その忍耐を完全に働かせなさい」と語ったあとで、「そうすれば…完全な者となります」と語っています。この「完全な者」とは、「完璧な人」とか「完成された人」という意味ではありません。この「完全な者」とは、「バランスの取れた人」という意味で、「霊的な大人になった人」ということです。それは信仰の成長を意味しています。試練が私たちに与えるものは、一人ひとりに与えられている信仰の成長です。私たちは試練を経験しなければ、その試練の中に働いてくださる神のすばらしさを知ることはできません。試練を通して、まだ自分が知らない神のすばらしさを経験することができるのです。それはどういうことかと言いますと、「自分が理解できることは神もできるが、自分が理解できないことは神もできない」という捉え方から、「自分が理解できないことも神にはできる」という捉え方に成長させられるのです。そのようなことは頭の中では分かっていますが、経験としては分かっていないのです。だから、不安を覚えるのです。
 私は中学生になるまでマッチで火をつけることができませんでした。何故なら、火をつけた経験がないからです。ですから、マッチをマッチ箱にこすれば火がつくということは分かっていますが、怖くてマッチに火をつけることができなかったのです。初めてマッチに火をつけたときから、その怖さは消えてしまいました。今思えば、「これも大人への一歩の成長やな」と捉えています。不安や恐れから抜け出すことができず、いつまでもその所に留まっているなら前に進むことはできません。すなわち、成長することはできないのです。ですから、試練は私たちに与えられている信仰を成長させるものです。
 20年以上前の話しですが、赤坂泉先生がアメリカに留学されていたときの話しをされました。赤坂先生は「私はアメリカ人から日本語の学んだ」と話されていました。それは何かと言いますと、「危機」という漢字についてです。「危機」という漢字は2つの字から成り立っています。1つは「危ない」を意味することばで、もう1つは「機会」を意味することばです。「危機」をどのように捉えるかで、その人の歩みは違ってきます。「危機」を「危ないもの」として受け止めて引き下がるなら、そこから先を進むことはできません。しかし、「危機」を「良い機会」として捉えるならば、その先を進むことができるということです。その後、私はこのことをいろいろな所で耳にするようになりました。ひょっとされたら、耳にされた方もおられるかもしれません。
 試練は、その人にとって危機的なものでしょう。ですが、捉え方によって前に進めるか進めないかが決まってくるのです。聖書は「試練はその人にとって良い機会のもの」と語っています。試練は信仰を成長させる良い機会なのです。試練が私たちに与えるものは、神のすばらしさを知り、私たちの信仰を成長させる良い機会なのです。試練をそのように受け留められるように祈っていきたいものです。

結)
 ヤコブ書は、本論の最初に試練から始まっています。「何故、試練から始まっているのか」ということを考えました。試練はできれば受けたくないものです。しかし、決して受けずに済むものでもありません。誰もが試練を経験するのです。その試練をどのように受け留めるかで、その人の信仰生活は違ってきます。私たちは「神の恵みは自分にとって良いもの」と思ってしまいやすくなります。ですが、試練も神の恵みの1つなのです。私たちは「恵まれたい。神の恵みをもっと受けたい」と願います。でも、その中には試練は含まれていないのではないでしょうか。祝された信仰生活には、試練は欠かすことのできないものなのです。何故なら、試練も神の恵みの1つだからです。

ヤコブ1:1「祝された信仰生活」 22.09.04.

序)
 8月も過ぎて9月に入りました。今月から当分の間、ヤコブ書から共に教えられたいと願います。このヤコブ書は、信仰による行いが強調されている手紙でもあります。パウロは「信仰によって義と認められる」というのを強く主張し、「行いによって義と認められる」ということに反対していました。ところが、このヤコブ書は「行いによって義と認められる」というのを強調しています。ですから、パウロが語っていることと反対のことを語っているようにも受け取れます。そのため、新約聖書の正典とはなかなか認められませんでした。その最大の理由は「行いによって義と認められる」ということだったからです。ところが、実はパウロの主張とヤコブの主張は正反対なのではなく、同じことを語っているのです。と言いますのは、ヤコブ書は信じた後の信仰生活について語っているからです。人は神の恵みを受けて神に応答します。パウロは「どのように義を受けられるのか」を語っているのですが、ヤコブは「神の恵みを受けた人は、どのように神に応答すれば良いのか」を語っているのです。
 パウロは「人が義と認められるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってだけである」と語っています。そして、信じた後の信仰生活についても語っています。例えば、エペソ4:1には「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」と勧めています。また、ピリピ1:27でも「キリストの福音に相応しく生活しなさい」と勧めています。そのようなキリスト者としてふさわしい歩みについて具体的に語っているのがヤコブ書です。聖書は「人は神の恵みを受けることによって、神に正しく応答することができる」と語っています。決して、神に正しく応答することによって、神の恵みを受けるのではありません。パウロが強調しているのは神の恵みの方であり、ヤコブが強調しているのは人の応答の方です。そのことを覚えつつ、この手紙を読んで行くことが、ヤコブ書を理解する大きな助けとなります。今朝は、祝された信仰生活について共に教えられたいと願っています。

1)明確な回心
 祝された信仰生活を過ごすにおいて大切なことの第1は明確な回心です。「この手紙の著者ヤコブとは誰なのか」というのが議論されています。伝統的には、「イエス・キリストの兄弟ヤコブ」と言われています。ですから、この著者をイエス・キリストの兄弟ヤコブであることを前提として見ていくこととします。ヤコブという人はイエス・キリストの兄弟ではありましたが、ヨハネ7:5を見ますと、最初からイエス・キリストを信じていたわけではなかったことが分かります。ところが、使徒の働き1:14を見ますと、イエス・キリストが天に上げられたあと皆で祈るために集まっていたところに、イエス・キリストの兄弟たちも共にいたことが記されています。おそらく、このとき著者ヤコブもいたのではないかと考えられます。ですから、著者ヤコブは最初からイエス・キリストを信じてはいませんでしたが、後にイエス・キリストを信じる者へと変えられた人であることが分かります。
 このヤコブがどのようにして信じる者へと変えられたのかは分かりませんが、この手紙の中でヤコブは「主の兄弟」とは書かず「イエス・キリストのしもべ」と書ていることからして、心から回心したのは確かなことです。ですが、救いの確信というのは、劇的な出来事を経験するということではありません。そのことを間違わないでいただきたいのです。もし、「救いの確信には劇的な出来事が必要だ」としますと、救いは経験によるものであり行いによるものとなってしまいます。救いの確信は、自分が神に対して罪人であることを認め、「その私のためにイエス・キリストが十字架に架かって私の代わりに神の審きを受けてくださったことを信じて救われる」という神の約束を信じることです。
 ローマ10:9~10に「     」と書かれています。人が信じて告白するには、その人の決心が必要です。聖書は「信じる信仰が大切なのではなく、信じる対象が大切である」と語っています。そして聖書は、神がどのような方であるかをも語っています。神はこの世界を造られた方であり、あなたを造られた方であり、あなたを愛し導いてくださっている方です。しかし、人はその神の愛と導きを無視し背を向けて歩んでいます。それが罪なのです。その私たちの罪のためにイエス・キリストはこの世に来られ、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのです。キリスト者というのは、そのイエス・キリストを信じる者のことです。自分の罪を認め、神のみことばである約束を信じる決心をした者なのです。ですから、その神に立ち返るという決心と回心が祝された信仰生活を過ごすにおいて大切なことなのです。

2)キリストのしもべであることの自覚
祝された信仰生活を過ごすにおいて大切なことの第2は、「私はキリストのしもべである」ということの自覚です。ヤコブは自分のことを「イエス・キリストのしもべ」と語っています。何故「主の兄弟」と書かず、「キリストのしもべ」と書いたのでしょうか。そこには、「自分は何のために信じたのか」という目的がしっかりとあったからです。あなたは何のためにイエス・キリストを信じたのでしょうか。そのことをしっかりと持つのは大切なことです。学生生活にしろ、職場にしろ、目的を持っている人と持っていない人との生き方は全く違ってきます。
 それは信仰生活においても同じです。「自分が何のためにイエス・キリストを信じたのか」という目的意識を持つことは大切です。「自分の罪が赦されるため」「神の審きから救われるため」に信じたのでしょうか。先月の礼拝でも話しましたが、そのことがイエス・キリストが十字架に架かられた目的ではありません。それはイエス・キリストの十字架を信じたことの結果です。イエス・キリストの十字架の目的は、信じる私たちがキリストのしもべとなって神に仕えるためです。では、キリストのしもべとなって神に仕えるとは、具体的にどのようなことでしょうか。2つあります。1つは神を礼拝することです。「最高の仕え方は礼拝である」と言われます。まさしくその通りです。人は神を礼拝するために罪が赦され神の審きから救われたのです。ですから、礼拝は神を信じる者にとって欠かすことのできないものです。礼拝をやめてしまいますと、キリスト者としての目的を見失うことになるのです。信じる私たちにとって、神を礼拝することはとても大切なことです。
 もう1つは教会に仕えることです。以前にも話しましたが、ある方は「私は神に仕える者とされているのであって、教会に仕える者とされているのではない」と言われます。ですが、聖書は「キリストは教会のかしらであり、教会はキリストの身体であり、キリスト者は身体の各部分である」と語っています。聖書は、神と教会とキリスト者を人間の身体に例えて語っています。お腹が空いたとき、「何かを食べたい」と脳が思えば、目は「何かないか」と探しますし、見つけましたら手を伸ばして口に持っていきます。口は食べ物を噛んでお腹に送ります。もし、身体の各器官が「私は脳に仕えるのであって身体に仕えるのではない」と言って、手や口は機能を働かせなかったら、いつまでもお腹は空いたままで、やがて身体は死んでしまいます。身体の各器官は、身体に仕えることによって初めてその機能を活かすことができますし、脳に仕えることになるのです。教会とキリスト者の関係も同じです。キリストの身体である教会に仕えることなしに、神に仕えることはできないのです。それには、「私はキリストのしもべである」という自覚が大切です。

3)キリスト者との交わり
 祝された信仰生活を過ごすにおいて大切なことの第3は、キリスト者との交わりです。ヤコブの手紙の受取人は、国外に散っている12部族です。この12部族とはイスラエルのことを表しています。しかし、実質的なイスラエル人というのではなくキリスト者のことです。何故なら、キリスト者は「霊的イスラエル人」とも呼ばれているからです。新約聖書の時代は、新約聖書を読んで分かりますように、手紙のやりとりがなされていた時代です。手紙のやりとりというのは交わりの1つの方法です。すなわち、新約聖書の時代はキリスト者の交わりが持たれていたのです。それは信仰の成長のためです。以前にも話しましたが、信仰の成長は人の成長と同じです。健全な人間に成長するには、食物を食べ会話をし、適度な運動や学びをし、人と交わることによってです。これらの1つでも欠けてしまいますと、健全な人間として成長することはできません。それらが欠けてしまいますと、偏った人として成長してしまいます。それと同じように、霊的食物であるみことばを読み、神との会話である祈りをし、霊の運動である証しやみことばの学びをし、キリスト者同士の交わりをして健全な信仰者へと成長します。
 へブル10:25に「     」と書かれています。このことから、ある人たちは集まることをやめていたことが分かります。しかし、聖書は「集まることをやめてはいけない」と語っているのです。それは何故かと言いますと励まし合うためにです。集まる目的は、宗教儀式を行うためではなく互いに励まし合うためです。それには交わりがあってできるものです。お互いの近況報告や祈りの課題などを出し合って、共に祈ったりことばをかけ合ったりして励ますことが勧められているのです。お互いの信仰の成長には交わりが必要なのです。何故なら、その交わりを通して自分は一人ではないことに気づかされるからです。
 キリスト者は「神への礼拝だけをすれば良い」と聖書は語ってはいません。神への礼拝は大切なものです。それと同時に、キリスト者同士の交わりも大切なのです。今、コロナ禍にあって交わりを持つことが困難な状況の中に置かれています。先生方の中から「交わりが希薄になった」という声を耳にします。「どのようにして交わりを保てば良いのか」を考えさせられている時です。私たちの教会でも礼拝後の分かち合いを今は持っていません。それは「今は少しでも早く教会から出た方が良いから」というものです。ただ交わりのことを考えますと、礼拝後の分かち合いを復活させた方が良いのか。それとも以前していましたように、メールによるみことばの分かち合い(メールでなくても教会のグループLINEでも構いませんが)を再開するのかを考えさせられています。私たちが祝された信仰生活を過ごしていくためにも、そのことを話し合っていきたいと願っています。

結)
 健全な信仰生活を過ごすにおいて大切なのは、自分の罪を認め神のみことばを信じる決心という明確な回心と、「キリストのしもべである」という自覚と、キリスト者同士の交わりです。私たちが祝された信仰生活を過ごしていくためにも、これらのことを覚えつつ歩まされていきましょう。


使徒の働き8:40「伝道者ピリポ」 22.08.28.

序)
 先週はエチオピア人の宦官がバプテスマを受けたことを通して、バプテスマについて見ました。宦官はピリポからバプテスマを受けた後、自立した信仰の道を歩んだものと考えられます。そして、私たちはバプテスマを受けることは信仰のゴールではなくスタートであることを学びました。そして、バプテスマを受けた後の歩みが大切であり、それはみことばに養われつつイエス・キリストとの交わりを通して成長し、霊的に自立する者となることを目指すものであると教えられました。今朝は、40節を通して宦官の前から姿を消したピリポのその後の歩みについて共に教えられたいと願います。

1)ピリポの宣教活動
 エチオピア人の宦官から離れたピリポはアゾトという町に現れます。このアゾトとは何処かと言いますと、聖書の後ろの地図12を開いて見ますと、地中海沿岸の下の方に「アゾト」と書かれています。さらに南にエチオピア人の宦官と出会ったガザがあります。ですから、ピリポはガザから地中海沿岸を通ってアゾトという町に着いたと考えられます。この「アゾト」とは、地図6を見ますと「アシュドデ」と書かれています。アシュドデはヘブライ語名であり、アゾトはギリシャ語名の違いです。新聖書辞典には、「現在ではエスドゥド」と呼ばれているらしいです。ヨシュア記11:22を見ますと、その地にはアナク人が住んでいたことが書かれています。さらにヨシュア記13:1~2を見ますと、ヨシュアが年を重ねて老人になっていたときも、占領されていない地の一つとしてアシュドデが3節に記されています。新聖書辞典には、ペリシテ人の5大都市の1つとされ、文化的にも政治的にも重要な年の一つとされていたことが説明されています。また、Ⅰサムエル記5:1には、ペリシテ人の領土とされていることが記されています。さらにイザヤ20:1には、アッシリア帝国が支配していたことが書かれています。すなわち、アシュドデという町は異邦人の町だったのです。そのような町に、ピリポは福音宣教をしたのです。
 そして、「すべての町を通って福音を宣べ伝え」と書かれています。この「すべての町」とは、アシュドデからカイサリアに着くまでの町のことを指しています。その中には、使徒9:32のリダや36節のヤッファも含まれていると考えられます。32節には、ペテロが巡回でリダの町に行くときも、「リダに住む聖徒たちの所にも下って行った」と書かれています。それは、ペテロがリダの町に着く前に聖徒たちがいたことを示しています。また、36節のヤッファにしても「ドルカスという女の弟子がいた」と書かれています。このヤッファという町は、預言者ヨナが主の御顔を避けてタルシシュ行きの船に乗った港町です。この町も異邦人がたくさん住んでいた町です。
 そして、ピリポはカイサリアに行きます。新聖書辞典には、「古代にはその地方第一の都市で、フェニキヤに属する要塞都市であった」と記されています。要塞都市ということは、カイサリアには人の行き来が盛んであったということでもあります。当然、異邦人が多く住んでいた町であったことが分かります。アソドの町、すべての町、カイサリアの町の共通点は異邦人が住んでいた町です。すなわち、ピリポの福音宣教は異邦人に伝えるためのものであることが分かります。そして、その最初の地であるガザにピリポをガザに導いたのは主の使いであることが8:26に書かれていることを私たちは見ました。さらに、ピリポは宦官にバプテスマを授けたあと、主の霊がピリポを連れ去られたことが8:39に書かれています。主の霊はピリポを連れ去られアゾトという町に導いたのです。そして、すべての町を巡りカイサリアの町に導かれたのです。ピリポは「一人でも多くの人に福音を伝えたい」という思いがあったのでしょう。そして、「一人でも多くの人の中」に異邦人も含まれ、その異邦人に福音を伝えたのです。そのように導いたのは主の霊によるものです。すなわち、異邦人に福音を伝えるのは神の御心でもあったのです。私たちもこの地において、一人でも多くの人に福音を伝える教会でありたいと願います。

2)異邦人伝道
 次に、異邦人伝道について見てみたいと思います。使徒の働き10章には、ペテロがカイサリアのコルネリウス家族に福音を伝えたことが書かれており、11章前半にはペテロが異邦人と関わったことを非難したキリスト者のことが書かれています。ところが、イエス・キリストを信じた異邦人にも聖霊が下られたことを聞いた人たちは、福音が異邦人にも開かれたことで神をほめたたえたことが11:18に書かれています。少し話しは反れますが、ピリポの異邦人伝道は8章に書かれており、福音が異邦人にも開かれたことで神をほめたたえたのは11章に書かれています。8章に書かれているから、11章の出来事よりも前にピリポは異邦人伝道をしたとは言い切れません。何故なら、8章はピリポに焦点を合わせて書かれているものですから、時間的に11章を越えて書かれているのかもしれません。ひょっとしたら、10章に書かれていますペテロのコルネリウス家族への福音宣教は、8章のピリポの行動と並行してのものだったのかもしれません。
 話しを戻しまして、ペテロのコルネリウス家族への福音宣教と並行して、11:19には「     」と、ユダヤ人以外の人には誰にもみことばを語らなかったことが強調されています。そして、20節の最初に「ところが」と、19節のことを受けて20節に生じた出来事を描いています。それは、アンティオキアの町でギリシャ語を話す人たちにも福音を語りかけると、大勢の人が信じて主に立ち返ったのです。これはピリポのガザの町からカイサリアの町への道のりとは全く違うものです。ペテロのコルネリウス家族への福音宣教と並行して、異邦人が福音を信じたことが描かれています。その知らせを聞いたエルサレム教会は、バルナバをアンティオキアに派遣します。そのアンティオキアでバルナバは皆を励ましたことが23節に書かれています。そして、24節に「こうして、大勢の人たちが主に導かれた」と書かれています。この文脈から、大勢の人たちが主に立ち返ったのはバルナバによるものよりも、バルナバに励まされた人たちによるものと理解できます。
 バルナバはパウロを捜しにタルソの町に行き、パウロをアンティオキアに連れて行きます。そして、大勢の人たちを教えます。おそらく、聖書学校のようなものが行われていたのではないかと想像します。13:1からアンティオキアには教会が建てられたことが分かります。しかも、そのアンティオキア教会はバルナバとパウロを宣教師として派遣し、使徒の働きにはパウロの3回の伝道旅行が記されるようになりました。このようにして、福音は異邦人にまで広がっていったのです。

3)カイサリア
 最後に、使徒の働きにおけるカイサリアの町について見てみたいと思います。9章の前半はパウロの回心が書かれています。そして、31節に「     」と書かれています。そして、32節と36節には先ほど触れましたリダの町とヤッファの町においてのペテロの福音宣教のことが書かれています。そして、10章からはコルネリウス家族のことが書かれており、11:18に「     」と、異邦人宣教も神の御心であることを知ったのです。このように、カイサリアの町はペテロとエルサレム教会にとって、異邦人伝道が神の御心であることを確認する町となったのです。
 また、このカイサリアの町は、パウロの福音宣教においても大切な役割を果たしています。パウロがダマスコ途上でイエス・キリストと個人的な出会いをし、悔い改めてイエス・キリストを信じ、「この方こそ神の子です」とイエス・キリストのことを宣べ伝え始めました。すると、ユダヤ人はパウロの殺害計画をしますが、他のキリスト者の助けによりカイサリアに連れて、タルソに送り出したことが9:30に書かれています。また、第2回と3回の伝道旅行のときもカイサリアの町を通っているのです。それは第2回と3回はエルサレム教会に立ち寄るためだからと考えられます。ギリシャからエルサレムに行くには、カイサリアの港に着くのが一番便利だからです。ただ、21:8を見ますと、ピリポの家に滞在したことが書かれています。ピリポはカイサリアの町に行き、その町に住み続けたのです。ピリポはカイサリアの町に住んで福音宣教を続けると同時に、パウロの宣教の働きにも背後にあって支えていたと考えられます。
 カイサリアの町は異邦人伝道のきっかけとなった町です。それだけでなくピリポが滞在し続けていたことから、パウロの宣教活動においても大きな支えとなっていた町でもあったと考えられます。また、使徒の働き27:2にパウロがローマに向けて出発することが書かれています。聖書の後ろの地図の「パウロのローマへの旅」を見ますと、カイサリアから出発していることが分かります。そのようなことからも、カイサリアの町は福音宣教において重要な役割を果たした町であることが分かります。今朝の箇所の40節の最後に「カイサリアに行った」と書かれています。39節では「主の霊がピリポを連れ去られた」と書かれ、そのピリポは「アゾト」という町に現れます。そのようなことから、ピリポがカイサリアに行ったのも神の導きによるものと考えられます。そこに測り知ることのできない神の深いご計画と備えがあることを知らされます。

結)
 聖書を読む限り、カイサリアの教会のことについては全く触れられていません。伝道者ピリポが長年住んでいた町ですが、その町に教会が建てられていたかどうかは客観的には分かりません。建てられていたとしても小さな教会だったのかもしれませんし、教会は建て上げられなかったのかもしれません。ただ聖書を読む限り、ピリポはどの町に導かれようとも、与えられている務めに対して忠実であったということです。そのことは私たちにとっても同じです。私たち一人ひとりがこの教会に導かれたのも神の導きによるものです。それは神が必要とされているからです。私たちもピリポと同じように、与えられている務めを忠実に果たし続けることです。その務めを果たし続けられるように祈っていきましょう。


使徒の働き8:36~40「バプテスマの意味」 22.08.21.

序)
 先週私たちは、驚くべき神の備えと機会を十分に活かしたピリポのエチオピア人の宦官への福音宣教について見ました。そのことから、機会を十分に活かすにはそれなりの準備が必要であることを学びました。そのピリポの宦官への福音宣教に対して、この宦官はイエス・キリストを信じる応答へと導かれたことが今朝の箇所には書かれています。そして、36節で「     」とピリポに語っています。これは宦官の信仰の決心と告白でもあります。その宦官の告白によって、ピリポはこの宦官にバプテスマを授けました。今朝は、そのバプテスマについて共にもう一度教えられたいと願います。

1)バプテスマとは
 まず、バプテスマとは何でしょうか。36節の冒頭に「道を進んで…場所に来たので」と書かれています。ユダヤ教の中にもバプテスマのような儀式が行われています。旧約聖書の中にも様々な箇所に書かれています。それは何かと言いますと、人が汚れた場合水を浴びることが命じられています。そして、水を浴びることによって聖められることも書かれています。ですから、「汚れを聖めるもの」として水を浴びる方法が取られています。しかし、キリスト教のバプテスマは単なる汚れを聖めるものではありません。バプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを授けていました。キリスト教のバプテスマには、受ける本人の悔い改めが必要なのです。「何の悔い改めか」と言いますと、神に罪を犯していたことへの悔い改めです。ですから、当然そこには「自分は神に対して罪を犯し歩んでいた」という自覚が必要です。その自覚がなければ、心から神に悔い改めることはできません。バプテスマとは、単なる汚れから聖められる儀式ではありません。自分の罪を悔い改める儀式なのです。
 また、8:12には「ピリポが神の国と…バプテスマを受けた」と書かれています。何を信じるのか分からずにバプテスマは受けられないのです。「何を信じるのか」と言いますと、神の国とイエス・キリストです。これは8:12の箇所のときに見ました。それは神が全てを治め導かれ、そのためにイエス・キリストをこの世に遣わされたということです。その「全て」の中には、私自身も含まれています。すなわち、神は私のために備え導き、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。どのような私にでしょうか。神に対して罪を犯している私です。その私の罪のためにイエス・キリストは十字架に架かって、私の身代わりとなって神の審きを受けてくださったのです。それは自分の罪が神に赦されたことに感謝し、その神を礼拝し続ける者として歩み続けるためです。8:12に「信じてバプテスマを受けた」ということは、その人が信じているのを授ける人が分かる必要があります。それは告白です。ローマ10:9~10に「     」と書かれていますように、単に心の中で信じるだけでなく、公に口で告白する必要があるのです。バプテスマとは、自分の罪の悔い改めとイエス・キリストを信じる告白が必要なのです。
 ピリポと宦官は水のある場所に来ました。この「水のある場所」をどのように理解するかです。私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスト教会とは、バプテスマを授けるときは身体の全てを水の中に浸す「浸礼方式」を取っています。それは「バプテスマ」ということばの動詞である「バプトー」は「浸す」という意味だからです。ですから、この「水のある場所」というのは、単なる水たまりではなく池のような全身が浸かれる程の水が溜まっている場所か川と理解しています。ある方は、「ガザに下る道は荒野であり池や川などはない」と言われ、「単なる水溜まりと考えられる」と言われます。しかし、雨期の時季は豪雨で川になったり、水が溜まって池のようなものができたりします。それで、ある方は「ピリポと宦官が出会ったのはそのような時季だったのではないか」と推測されたりもします。私はこちらの理解を取る立場です。それも神の驚くべき備えの一つではないかと理解しています。それらに基づいて、バプテスト教会は本人の信仰告白と浸礼方式を取っているのです。

2)バプテスマの意味
 次に、バプテスマの意味についてです。バプテスマにも3つの意味があります。その1つは、イエス・キリストと一体とされていることを保証するものです。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に架かって死んでくださいました。それによって、私たちも罪に対して死んだのです。ですから、バプテスマは古い罪の私が死んだことを示す葬式でもあります。キリストの死と一体とされ、私たちは罪に対して死んだのですから、罪と死の力は私たちに及ぼすことはできないのです。しかし、キリストと一体とされるのは、単に死においてだけではありません。水の中に葬られるだけでなく、キリストの甦りに堅く結ばれて生きるために、水の中から出てくるのです。ガラテヤ2:20に「     」と書かれている通りです。ですから、バプテスマを受けた人はイエス・キリストと一体とされて生きているのです。
 次にバプテスマは、イエス・キリストに従う決心を告白する機会でもあります。それは結婚式でなされる誓約と同じです。その結婚式でよく朗読される箇所として、エペソ5:21~33を挙げることができます。ここで注目したいのが、25節の「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように」ということばです。ここでパウロは、「キリストは教会を愛するが故に、ご自身を献げられた」と語っています。それは「愛するとは行いが伴うもの」ということです。行いが伴わない愛は本当の愛ではないということでもあります。私たちはバプテスマを受けるとき、キリストに従う決心を告白しました。その告白は神への告白であり、神への誓約でもあります。キリストを愛するが故に、キリストに従いつつ生きるのがバプテスマの意味の2つ目です。
 さらにバプテスマは、私たちの弱さに必要のため与えられています。神はご自身の約束をみことばをもって示してくださっています。しかし、私たちは「神の約束を忘れてしまう」という弱さを持っています。また、「神の約束を忘れてしまう」だけでなく、「神への誓約を忘れてしまう」という弱さも持っています。そのような弱い私たちは、「バプテスマを受けた」という原点に戻ることができます。その原点に戻って神のみことばによる約束やバプテスマを受けたときの誓約を思い起こすことができます。また、他の方がバプテスマを受けられるとき、その方の受洗を喜ぶだけでなく、バプテスマの意味(それは神のみことばによる約束と神への誓約)を思い巡らす機会でもあります。

3)バプテスマの後
 最後に、大切なのはバプテスマの後です。キリスト教信仰とは、イエス・キリストを信じバプテスマを受けることがゴールではありません。ゴールではなくスタートです。私はバプテスマクラスで必ず話すことがあります。それは「人は赤ちゃんとして誕生することがゴールではなく、人としてのスタートである」ということです。人は赤ちゃんとして誕生しますが、そこから食事や家族との交わりを通して成長し、その成長と共に様々なことを学び社会に出て行きます。それは自立することです。これが人の歩みです。霊的な人としても同じです。イエス・キリストを信じバプテスマを受けるのは、霊的な人として誕生したに過ぎないのです。求道者というのは、胎内にいるときの赤ちゃんのようなものです。そして、イエス・キリストを信じ告白するときが、胎内から生まれた赤ちゃんのようなものです。バプテスマは、その霊的赤ちゃんとして誕生したことを見える形として表したものです。そのようなことから、バプテスマは信仰のゴールではなくスタートです。大切なのはバプテスマを受けたことではなく受けた後です。宦官の場合はどうだったのでしょうか。
 ピリポと宦官は水から上がったとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はピリポを見ることがなかったということです。それはどういうことかと言いますと、「自分を導いてくれたピリポに頼ることができない」ということです。宦官が頼れるものは、聖書のみことばとイエス・キリストなのです。それは、聖書のみことばに養われつつ、イエス・キリストとの交わりを通しての歩みです。その繰り返しを通して、与えられている信仰は成長していくのです。何度も話していますが、繰り返しというのはマンネリ化してしまいます。しかし、そのマンネリ化の中に神は働いてくださり、成長へと導いてくださいます。そして、やがて霊的に自立したキリスト者へとさせてくださいます。
 もし、自分の子どもがいつまでも自立することができず、大きくなっても他人に頼ってばかりだったらどうでしょうか。親としては心配で仕方ありません。それは霊的な人においても同じです。神は私たち一人ひとりが霊的に自立する者となることを願っておられます。そのために聖書を与えてくださっています。そして、神との交わりとして祈りをも与えてくださっています。神が願っておられることの1つは、信仰を告白しバプテスマを受けた人が霊的に自立することです。そして霊的に自立するとは、人から導かれるだけでなく人を導くことでもあります。今、ドラマで「家庭教師トラコ」という番組が放映されています。そのドラマの中で、「1万円拾うのと1万円与えるのと、どちらが幸せか」というクイズが出されました。そのドラマの後半で「お金に困っている人に1万円与えると、貰う人は嬉しい気持ちになり、与える人も困っている人を助けて嬉しくなる。どちらも幸せを覚えるから与える方である」という答えが出されました。そのとき、イエス・キリストの「受けるよりも与える方が幸いである」というみことばを思い出しました。霊的に導かれる人よりも、霊的に導く人は導かれる人も喜びを覚えますし、導く人もその人の成長を見て喜びを覚えます。まさしく、受けるよりも与える方が幸いです。霊的自立は、その喜びを覚えることができます。

結)
 今朝は、宦官のバプテスマを受ける箇所からバプテスマについて見ました。バプテスマとは単に汚れを聖めるものではなく、自分の罪を悔い改めイエス・キリストを信じる見える告白です。そして、バプテスマを受けることがゴールではなく、イエス・キリストと一体とされて生きることのスタートでもあります。さらに、みことばに養われつつイエス・キリストとの交わりを通して成長し、霊的に自立する者となることを目指すものです。私たちの歩みがそのような歩みとなりますように励んでいきましょう。


使徒の働き8:26~35「機会を十分に活かして」 22.08.14.

序)
 先週はピリポのサマリア宣教を見ました。今朝の箇所は、ピリポのエチオピア人の宦官への宣教の箇所です。エチオピアというのは、御存知のようにアフリカ大陸に位置します。このことから、福音はユダヤとサマリアだけでなく、アフリカにまで広がったことが見受けられます。その福音の広がりの大切な箇所でもあります。今朝は、どのようにして福音は広がっていったのかを共に見ていきたいと願っています。

1)新しい使命に遣わされるピリポ
 最初に教えられたいのは、新しい使命に遣わされるピリポです。26節に「     」と書かれています。サマリアの地での福音宣教は、25節に書かれていますように使徒たちに受け継がれました。ピリポが続けてサマリアの地に留まるのではなかったのです。では、ピリポはどうしたのでしょうか。主の使いから「立って南へ行き…道に出なさい」と告げられたのです。すなわち、神から新しい使命を受けたのです。このときのピリポはどのような思いだったのかを想像させられます。福音宣教において困難な地で、イエス・キリストを信じる人たちが多く起こされたのです。「このままこの地に留まってさらに福音宣教を続けたい」と願うのが普通ではないでしょうか。もし私なら「何故ですか」と神に問いかけてしまいたくなります。ピリポにもそのような思いがあったのではないかと想像します。だから、主の使いは「立って」と最初に告げたのではないかと考えられます。この「立って」とは、決断を促していることばです。新しい使命に遣わされるとき、そこには必ず本人の中に戦いが生じることを表しています。どのような戦いでしょうか。それは神のことばを優先するのか、自分の思いを優先するのかという自分自身との戦いです。主の使いはそのことを知っているが故に、「立って」と最初にピリポに語りかけたのです。
 ピリポはどのような決断をしたでしょうか。27節に「ピリポは立って出かけた」と書かれています。この「立って」というのも同じです。ピリポは自ら決断してサマリアの地を離れ、ガザに下る道に行くことにしたのです。その地が福音宣教においてどのような地であるかはピリポには分かりません。ピリポは遣わされる地がどのような地であるのか完全に理解しているわけではありません。しかし、ピリポは神に従うことを決断し「立って出かけた」のです。26節の最後には「そこは荒野である」と説明されています。この「荒野」とは文字通りの荒野なのか、それとも霊的荒野なのかは分かりません。その両方を意味しているのかもしれません。でも、ピリポは遣わされる地がどのような地であるのかは分かりませんが、一歩踏み出して神に遣わされる地に行ったのです。
 ピリポがその地に行ったとき、「すると見よ。そこに」と書かれています。ピリポは全てを理解していたわけではありませんが、その地に赴いたときエチオピアの女王の宦官と出会うのです。「彼は礼拝のために…帰る途中であった」と27節の最後から28節に書かれています。驚くべき神のご計画と備えを見ることができます。まさしく伝道者の書3:11に書かれていますように、神のなさることは全て時にかなって美しいものであることを知らされます。この「すると見よ。そこに」ということば。これは私たちに神のはかり知れないご計画と備えがあることを告げています。状況が荒野であっても、また先が分からなくても、神のことばを優先し従うとき「すると見よ。そこに」という経験をさせていただくことができるのです。

2)驚くべき神の備え
 次に教えられたいのは驚くべき神の備えです。ピリポは神のことばに従いガザに下る道に行きますと、エチオピア人の女王の宦官と遭遇します。27節の最後に「彼は礼拝のため…帰る途中であった」と書かれています。女王に仕える宦官は去勢手術を受けなければなりません。申命記23:1に「     」と書かれています。彼は「睾丸のつぶれた者」になりますから、主の集会に加わることが禁じられている一人です。すなわち、ユダヤ教に改宗したくてもできない人です。それでも、彼は神を礼拝するためにエチオピアからエルサレムまで行ったのです。その距離は果てしないものです。彼はユダヤ教に改宗できない人ですから、神殿に入りたくても入れないのです。礼拝するために行っても、神殿の外からしか礼拝できないのです。それでもエルサレムまで行ったということは、どれほど神を求めていた人であるかが想像できます。神はピリポに、そのような人と出会わせてくださったのです。まさしく、驚くべき神の備えです。
 この宦官は、神を礼拝するためにはどのような犠牲をも払う熱心な人です。しかし、自分の熱心さに頼るのではなく、神のことばである聖書に基づいて生きる人でもあったのです。だから、神殿の外からしか礼拝できなくても、それを受け入れて神を礼拝したのです。自分の勝手な思いではなく、神のことばである聖書に基づいて神を礼拝しているのです。何処までも神のことばである聖書に生きる人だったのです。私たちはこの宦官から、「自分は何に基づいて生きているのか」という自分の生き方を学ばされます。
 ピリポがこの宦官に出会ったのは驚くべき神の備えです。それに加えて、この宦官がイザヤ書を読んでいたのも驚くべき神の備えです。この宦官が読んでいたのは、欄外を見ますとイザヤ53:7~8であることが分かります。おそらく、この宦官が読んでいたのは「70人訳聖書」というギリシャ語に訳された旧約聖書でしょう。彼は宦官ですから、先程も見ましたように主の集会に加わることが禁じられている人です。ユダヤ教の人から見れば、どれほどあがいても蔑まれる者、のけ者にされる存在です。自分が屠り場に引かれていく羊のように思えたのかもしれません。それでも、この宦官が神を礼拝し続けることができたのは、イザヤ56:3~7に「     」と書かれているみことばに望みを見出だしていたからだと考えられます。ピリポは、この宦官がイザヤ書53章を読んでいるのを聞きますと、「あなたは読んでいることが分かりますか」と尋ねました。すると、宦官は「導いてくれる人がいなければ、どうして分るでしょうか」と答えます。この宦官は聖書を全て理解していたわけではありませんが、聖書を読み続けていたのです。そして、導き手が必要であることを求めてもいたのです。このとき、ピリポだけでなく宦官も驚くべき神の備えを経験するのです。
 この驚くべき神の備えは、現代の私たちにおいても同じです。ある人たちからすれば、「このピリポと宦官の出会いは偶然であり偶々である」と言われるでしょう。ですが、以前「偶々の神」と題してメッセージのときにも話しましたが、その「偶々」と思えることも神の備えです。神は私たちにも驚くべき備えをして導いてくださっているのです。そのことを覚えつつ歩まされていきましょう。

3)機会を活かしたピリポ
 最後に教えられたいのは、機会を活かしたピリポです。ピリポは神のみことばに従うことによって、自分を必要とする人と出会いました。この宦官はピリポに「預言者はだれについて…ほかの人についてですか」と尋ねました。すると、ピリポは「この聖書の箇所から…彼に伝えた」と35節に書かれています。「この聖書の箇所」とは、宦官が読んでいたイザヤ53章です。この箇所からイエスの福音をピリポは伝えたのです。これはピリポの個人伝道でもあります。「ちょっと待ってください。エルサレムに戻って使徒たちに聞いて伝えます」では遅いのです。何故なら、この宦官はエチオピアに行ってしまうからです。この宦官にイエスの福音を伝えるのは今しかないのです。この機会を逃したら、この宦官は一生イエス・キリストと個人的な出会いをすることはなかったかもしれません。ピリポはこの機会を活かしたのです。
 エペソ5:16に「機会を十分に活かしなさい」と書かれています。それは「悪い時代だからです」と、その後に理由が書かれています。「悪い時代」というのは迫害を指しているとも考えられますが、「悪がはびこっている時代」とも理解することができます。悪がはびこる時代だからこそ、この時を十分に活かして善を行うことが勧められているのです。その勧めはコロサイ4:5にも書かれています。ここでは「知恵をもって行動しなさい」と勧められています。エペソ5:15にも「知恵のある者として」と書かれて16節に繋がっています。神から与えられている知恵を用いて、この悪がはびこっている時代の中で、キリスト者として善を行うことが勧められています。
 そして、機会を十分に活かすのは善を行うことだけでなく、知恵をもってイエスの福音を伝えるのも同じです。何故ピリポは、このイザヤ書53章からイエスの福音を伝えることができたのでしょうか。答えは簡単です。何時でも、何処でも、誰にでも、イエスの福音を伝える備えができていたからです。この「イエスの福音を伝える備え」というのも知恵を用いることの一つです。ですから、「機会を十分に活かしなさい」ということは、「いつでも行うことができる準備をしておきなさい」ということでもあります。準備することなく機会を活かすことは不可能です。それは私たちの個人伝道にしても同じです。
個人伝道において一番助けになるのは自分の救いの経験です。ですから、自分の救いの経験にみことばを付け加えるのです。それによって、自分の救いについても客観的に捉えることができます。自分の救いは主観的なものではなく、聖書に基づいた客観的なものであるということで、救いの確信が強められていきます。初めはぎこちないでしょう。それは当然のことです。ですが、繰り返すことによって自分の身についてきます。それは何でもそうです。初めて人に教えるときも、初めて人前で話すときも、最初はぎこちないものです。しかし、続けていく中で自分のものにしていくことができます。個人伝道も同じです。ピリポはその個人伝道の機会を活かした人です。

結)
 ピリポのエチオピア人の宦官への伝道から、驚くべき神の備えと機会を十分に活かすことを教えられます。機会を十分に活かすには、そのための準備も必要です。準備をすることなく機会を活かすことはできません。神の備えは私たちの想像を越えたものだからこそ、私たちも準備することが大切です。何時でも・何処でも・誰にでも、みことばをもって自分の救いの経験を話すことができる準備をさせていただきましょう。

使徒の働き8:9~25「福音の中心点」 22.08.07.

序)
 先週の箇所は散らされた人たちとピリポの宣教が書かれており、5節以降はピリポのサマリア宣教に焦点を合わせて書かれていました。ピリポがキリストを宣べ伝えるにおいて、その町には大きな喜びが生じたのです。今朝の箇所はその続きです。今朝は、サマリアでの一人の人物に焦点が合わされています。それはシモンという人物です。シモンはサマリアの地で大きな影響力を持つ人物でした。そのシモンを通して共に教えられたいと願っています。

1)ピリポの視点
 最初に教えられたいのはピリポの視点です。9節の最初に「ところで」と書かれています。この「ところで」ということばは、8節の「     」ということばを受けてのものです。すなわち、「サマリアの町に大きな喜びがあったけれども」というものです。「大きな喜びがあったけれどもどうなのか」という関心を読者に抱かせることばです。これは5章のアナニアとサッピラの箇所でも触れました。5:1の最初に「ところが」ということばが書かれています。そのとき、「これは4:32~37のことを受けてのものである」と話しました。ですから、ある方は8:1~13を一つとして捉えておられます。それはそれで正しいことだと思います。ただ私としましては、シモンに焦点を合わせていますので、このような区切りにしたのです。
 ピリポが福音宣教をしているサマリアの地について、「以前からその町には」と書かれています。これはピリポがサマリアに行く前から「シモン」という人がいて、サマリアの人々を驚かせていたことを示しています。その魔術師シモンは、10節に「小さい者から大きい者まで、すべての人々が」と書かれていますように、大きな影響力のある人物でもあったのです。その人々のシモンへの評価はどのようなものだったでしょうか。10節の後半に「この人こそ…神の力だ」という評価だったのです。これはシモンを崇拝しているようにも受け取れることばです。その期間は11節に書かれていますが長い間だったのです。「長い間」ということは、日々の積み重ねによって人々の中に深く浸透していることが伝わってきます。目に見えない様々な不思議としるしで、人々の心を捕えていたのです。
 この「不思議としるし」については、以前7:17~43の箇所で話しました。不思議としるしについて重要なことは、「そのなされる見える業ではなく、その業を通して何処に導こうとしているのか」ということです。その業が人を神から遠ざけようとするものなのか、それとも人を神に近づけようとするものなのかを見定めることが重要です。ピリポがサマリアの地に行くまでは、サマリアの人々はシモンの不思議としるしの虜になっていたのです。そのようなときにピリポはサマリアの地に行ったのですから、サマリアの地での福音宣教は決して易しいものではないことが分かります。状況としては、「最悪」と言っても過言ではないかもしれません。しかし、ピリポはそこで諦めることをしませんでした。彼はサマリアの地での宣教活動が困難であることは分かりつつも、「不可能」とは捉えていなかったのです。困難と不可能を一緒にしていないのです。「サマリアの地での福音宣教は困難ではあるけれども絶望ではない」とし、「この地にも可能性がある」として福音宣教を始めたのです。困難と不可能を混同せずに区別する視点は、私たちの宣教活動においても大切なことです。

2)ピリポの福音宣教
 次に教えられたいのはピリポの福音宣教です。困難な状況の中で、ピリポはどのようにして福音宣教をしたのでしょうか。それは、ピリポの福音宣教に対する人々の反応から見ることができます。12節に人々の反応が書かれています。シモンの魔術に驚かせられていた人々は、ピリポが宣べ伝えたことを信じてバプテスマを受けたのです。では、ピリポは何を語ったのでしょうか。12節に「神の国とイエス・キリストの名について」と書かれています。ピリポが語ったのは神の国とイエス・キリストについてです。
 まず「神の国」についてですが、神の国とはどのような所でしょうか。「神の国」と聞きますと、「天の御国」を思い浮かべられる方もおられるかもしれません。確かに、天の御国も神の国に間違いありません。ですが、もっと広く捉えますと「神の国」とは、神が統治されている国のことです。すなわち、神が支配されている国のことです。讃美歌90番に「ここも神の御国なれば」とあります。讃美歌90番の「ここ」とは何処でしょうか。それは讃美歌90番を歌っている人の所です。すなわち、イエス・キリストを信じている人が居る所が神の国なのです。何故なら、イエス・キリストを信じている人は神に支配されている人だからです。ですから、イエス・キリストを信じている人が集う教会も神の国なのです。さらに言えば、神が計画され行われている所が神の国なのです。
 では、神はどのような計画をなされ行われているでしょうか。神は時間をかけてこの世界を造られました。しかし、人間はサタンの誘惑によって神に対して罪を犯してしまいました。そのために、世界に罪が入り死を経験することとなりました。そして、人は最後に神の審きを受けることとなりました。ですが、神はその審きから救われる計画をなされ実行してくださいました。そのことをピリポは宣べ伝えたのです。その神のご計画はどのようなものでしょうか。パウロはローマ11:33~36で「     」と語っています。特に、36節のことばは神のご計画と実行を指し示しています。それを受けて、12:1の冒頭で「ですから」と語り、1~2節に続けています。神のご計画と実行を知る者として、一人ひとりの身体を神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として献げることを勧め、それこそが礼拝であることを語っています。すなわち、この世にあって様々な選択肢がある中で、神を礼拝することを最優先し歩み続ける者となるために、神は計画され実行されたのです。
 その神の実行がイエス・キリストです。そして、ピリポはそのイエス・キリストについて宣べ伝えたのです。そのイエス・キリストについては、もう御存知の通りです。私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けて死んでくださいました。そして、その3日後に死から甦ってくださいました。それは私たちの罪がイエス・キリストの十字架によって赦され、神の審きのとき無罪とされるだけでなく、イエス・キリストが死から甦られたことによって、私たちも死の支配から解放された者とされていることを知るためです。神の計画は、そのイエス・キリストによって実現されたのです。

3)真の悔い改め
 最後に教えられたいのは真の悔い改めです。その神の国とイエス・キリストを宣べ伝え続ける中で、人々を驚かせていたシモン自身も福音を信じバプテスマを受けるようになったのです。何故信じるようになったかは分かりませんが、13節後半の「しるしと大いなる…驚いていた」ということばから、7節に書かれています不思議としるしという見えるものに関心があったように受け取れます。それは、19節のシモンのことばからも見ることができます。エルサレムに留まっていた使徒たちは、サマリアの人たちが神のことばを受け入れたことを聞いて、ペテロとヨハネをサマリアの地に遣わしました。そして、イエス・キリストの名によってバプテスマを授けますと、聖霊が信じた人たちにも下ったのです。すると、シモンはそれを見て19節のことばを語ったのです。
 このシモンのことばには2つの大きな間違いがあります。その1つは、不思議としるしという見えるものに関心を寄せていたということです。13節の中程に「いつもピリポにつき従って」と書かれています。ピリポにつき従うことは悪いものではありません。ただ大切なのは、「何故」又は「何のため」にピリポにつき従うのかということです。13節の後半には「しるしと大いなる…驚いていた」と書かれています。このことから、シモンがピリポにつき従っていたのは、ピリポが行う不思議としるしを見たかったからであると推測できます。この不思議としるしについては7:17~43のときに話しました。それは「不思議としるし」が行われることが、神が共におられるしるしとは限らない。聖書は「不思議としるし」についてどのように語っているのかということです。大切なのは不思議やしるしではなく、そのことを通して語られる内容です。すなわち、「不思議やしるしを通して人を何処に導こうとしているのか」が重要である。人を神から遠ざけようとする不思議やしるしは、神が共におられるしるしではないということであり、見えるものだけに頼ってしまうのは危険であることを覚えたいと学びました。シモンの大きな間違いの1つは、その見えるものに心が寄せられているという点です。
 もう1つは、「神の賜物を金で買える」と考えたことです。神の賜物は、神がその人に特別に与えられたものです。そこには神のご計画がありますし神の意図があります。その「神のご計画と意図を金で買える」と考えているのと同じです。神の賜物について、合同聖会で遠藤先生は、よりすぐれた賜物を熱心に求めることをパウロは勧め、13章の愛の章に続くと話されました。そして、よりすぐれた賜物は神を愛することであるとも話されました。しかし、シモンはどうでしょうか。神を愛することよりも自分自身のことが全てなのです。これがシモンの大きな間違いの2つ目です。シモンはイエス・キリストを信じつつも、この世の生き方から抜け出せない人でもあったのです。
 シモンの求めに対して、ペテロは20~23節で「おまえの金は…私には見えるのだ」と語っています。とても厳しいことばです。ペテロは平然と「おまえの金はおまえと共に滅びるが良い」と語っていますが、同時に「この悪事を悔い改めて主に祈れ」とも語っています。厳しい審きのようなことばと同時に赦される方法も示しています。24節のシモンのことばは、真の悔い改めなのかどうかは意見が分かれるところです。「その先は私たち自身ではないか」というのが私の見解です。以前、ルカの福音書の譬え話の中には途中で終わっているものがあると話しました。そして、「その先は私たちが築き上げていくものでもある」と話しました。ルカは使徒の働きでも同じことを示しているように私には受け取れます。大切なのは、悔い改めた後どのように生きるかです。そのことを聖書は、24節のシモンのことばから私たちに問いかけているのではないでしょうか。

結)
 ピリポは困難な状況の中に置かれても、困難と不可能を一緒にはしませんでした。この視点での生き方は、私たちの歩みにおいても大きな助けになります。そして、私たちが伝えるべきものは、神の国とイエス・キリストであるということです。これが福音の中心点です。また、困難な状況の中で「どのように生きるか」が私たちに問われています。自分の生き方を通して、福音を伝えていく者として歩み続けられるように祈っていきましょう。


使徒の働き8:1~8「福音の広がり」 22.07.31.

序)
 先週は今朝の箇所の1~3節を中心に見ました。サウロの生き方と迫害の中での教会を通して、自分が信じる生き方について教えられました。イエス・キリストの十字架は、信じる者の罪が赦され神の審きから救われることが目的ではありません。それは信じたことの結果であり、イエス・キリストの十字架の目的は信じる者が神を礼拝し続ける者となるためです。その神を礼拝し続けることの大切さを教えられました。今朝は4~8節を中心に、福音の広がりを共に見ていきたいと願っています。

1)散らされた人たち
 ステパノの殉教を引き金に、激しい迫害がエルサレム教会を襲いました。それによって、使徒たちはエルサレムに留まり群れを支え続けました。しかし、使徒以外の信徒たちは、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされたのです。諸地方に散らされて何をしたのでしょうか。4節に「みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」と書かれています。彼らは諸地方に散らされて安全な場所に避難したのではありません。むしろ人がいる所に行ったのです。何故でしょうか。みことばを宣べ伝えるためです。先週も触れましたが、迫害は教会にとって喜ばしいものではありません。しかし神は、その喜ばしくないものを通して、人が想像もしなかったことを成し遂げられるのです。「迫害」という苦難が、新たな展開へと導かれたのです。
 このことは、現代の私たちの歩みの中でも起こり得るものです。苦難というのは誰もが受けたくないものです。キリスト者同士のAさんとBさんの会話で、AさんがBさんに「何を言ってるの、これ位のことで。私なんかは〇〇の経験をしたのよ」と、Bさん以上の苦しい経験をしたことを話されるのを耳にすることがあります。AさんにとってはBさんの苦難は苦難にならないのかもしれません。それでもBさんにとっては苦難なのです。苦難というのは人によって違います。Aさんは苦難ではなくても、Bさんにとっては苦難なのです。ですが、どのような苦難であれ、神はその苦難を通して想像もしないことをしてくださるお方なのです。何度も話していますし、今朝のY兄の証しにもありましたが、ローマ8:28のみことば。「全てのことが共に働いて」なのです。全てのことですから、喜ばしいことだけでなく喜ばしくない苦難も含まれているのです。そこにも神は働いてくださるだけでなく、そのことを通して想像もしないことを成し遂げてくださるのです。これが聖書の私たちに対する約束です。
 エルサレム教会は、「迫害」という苦難を通して新たな展開へと導かれます。その新たな展開とは福音の広がりです。福音はエルサレムの町だけでなく、ユダヤとサマリアの諸地方に広がっていくのです。11:19には「さて、ステパノのことから…アンティオキアまで進んで行った」と書かれています。このアンティオキアの町ではユダヤ人だけでなくギリシャ語を話す人たちまでにも福音が宣べ伝えられたのです。すると、21節に「     」と書かれ、アンティオキア教会が誕生したのです。このアンティオキア教会は、後にバルナバとパウロを宣教師として派遣する教会となりました。また使徒の働きには、アクラとプリスキラ夫婦が登場しますし、アポロという人も登場します。彼らがどのようにしてイエス・キリストを信じるようになったのかは分かりません。ひょっとしたら、この散らされた人たちの宣教によって導かれたという可能性もあります。この散らされた人たちの働きを通して福音が広がっていったという事実を私たちは決して見逃してはなりません。
 このエルサレムの町から散らされた人たちは、決して安定した条件の良い所に導かれたのではありません。しかし、その散らされた場所で福音を宣べ伝えたのです。そのことを思いますと、この「散らされた」ということばは「遣わされた」ということばに置き換えることができるのではないでしょうか。このことから私たちは大切なことを教えられます。それは一人ひとりが散らされている所、すなわち遣わされている所で福音を宣べ伝えるということです。それは、エルサレムの町から散らされた人たちと同じように、決して簡単なものではありません。ですが、そのことを熱心に祈りつつ歩むことは大切ではないでしょうか。

2)ピリポ
 先ほどは「散らされた人たち」について見ましたが、5節以降はピリポに焦点を合わせて書かれています。このピリポとは12弟子のピリポではなく、6:3に「聖霊と知恵に…七人を選びなさい」と書かれており、4節に選ばれた七人の名が記されている一人のピリポのことです。そのピリポは、5節に「サマリアの町に…宣べ伝えた」と書かれています。ユダヤとサマリアの関係は、ソロモンの息子レハブアムの時代に遡ります。ソロモン王が高い税金を課したがために、サマリアの人たちはレハブアムに税金を軽くしてほしいと頼みました。しかし、レハブアム王はさらに税金を重くすることを伝えたため、サマリアの人たちはヤロブアムを王として分裂することとなりました。そこから関係は悪化しましたが、後に北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされることとなります。そして、サマリアの人々をアッシリアの町々に住まわせ、代わりに外国の人たちをサマリアの町に住まわせました。それによってユダヤ人は、「サマリア人を混血人で汚れた民族である」として避けるようになったのです。
 ヨハネ4:9の最後には、「ユダヤ人は…しなかったのである」と、その関係がイエス・キリストが地上で歩んでおられた時代にまで続いていたことが記されています。そのような時代の中にあって、イエス・キリストはサマリアの町に赴き、サマリアの女性に自分から声をかけ関係を持たれたのです。そして、サマリアの町に2日間滞在され福音を宣べ伝えられたことによって、4:41には「さらに多くの人が、イエスのことばによって信じた」と書かれています。イエス・キリストにとって福音はユダヤ人だけでなく、サマリ人を始め全ての人に必要なものとして伝えられたのです。その思いはピリポも同じです。ローマ1:16に「福音は…神の力です」と書かれていますように、「全ての人に必要なもの」と信じているから、8:26以降に書かれていますようにエチオピアの宦官にも福音を宣べ伝えたのです。
 ピリポはサマリアに行って何をしたのかと言いますと、キリストを宣べ伝えたのです。著者ルカは「福音を宣べ伝えた」と書かずに、「キリストを宣べ伝えた」と書いているのです。非常に印象深いものではないでしょうか。4節には「みことばの福音を伝えながら」と書きつつ、5節では「キリストを宣べ伝えた」と書いているのですから。これは、福音がイエス・キリストと密接な関係があることを示しています。それは福音が単なる教えではなく、実際の生活の中で生きるものだからです。イエス・キリストは私の罪のために十字架に架かって死なれ、その死に打ち勝って甦られ、今も生きて父なる神の右の座にあってとりなしてくださっているのです。ピリポは、そのイエス・キリストを伝えたのです。
それは私たちの場合も同じではないでしょうか。ともすると、福音を難しく捉えてしまいがちです。ですが、福音はイエス・キリストを伝えれば良いのです。すなわち、イエス・キリストがどのようなお方であるかを伝えれば良いのです。そして、今自分がどのように生かされているのかを伝えれば良いのです。6節に「     」と書かれています。ピリポの話しと行いを通して、人々は関心を抱くようになったのです。「関心を抱くようになった」とは、心を開くようになったということです。また「関心を抱くようになった」とは、最初は関心を示していなかったということでもあります。私たち一人ひとりが語ることばや行いを通して、関心を示していなかった人が関心を示すように変えられるのです。改めて、私たちが発することばや行いを点検させられます。日々、私はどのようなことばを発しているのか。そして、どのような行いをしているのかを考えさせられます。
私たちは7章で、神は神殿の中にだけおられる方ではなく、どの地においてもおられ働かれる神であることを学びました。神はエルサレムの町だけで働かれるのではなく、サマリアの地でも働かれ信じる人が起こされました。そうであるならば、私たちが遣わされている各々の地においても、神は働いてくださいます。その神はピリポを通して働かれたように、人を通して働かれるお方です。サマリア宣教は使徒たちではなく、サマリアに遣わされたピリポにしかできない地です。一人ひとりが遣わされている各々の地での福音宣教も、その人にしかできない地でもあります。私たちは、そのことを今朝の箇所から教えられます。

結)
 各々が遣わされている地での福音宣教は、決して簡単なものではなく多くの苦難が伴います。聖書には書かれていませんが、散らされた人たちは散らされた地で多くの苦難を経験しました。しかし、そのような苦難の中でキリストの証人として歩み続けることを通して、8節に書かれていますように「その町には大きな喜び」が起こるのです。福音はそのようにして広がっていったのです。福音の広がりは一気にではなく、徐々にであり一歩ずつです。まさしく使徒の働き1:8で「     」と話されたイエス・キリストの約束の通りです。この地においても、さらに福音が広がることを信じ、各々が遣わされている地でキリストの証人として歩み続けられるように祈っていきましょう。


使徒の働き8:1~8「戦う教会」 22.07.24.

序)
 先週はステパノの死を前にしてのことばから学びました。使徒の働きは、このステパノの殉教をきっかけとして、教会に激しい迫害が起こったことを記しています。その迫害の中で、初代教会のキリスト者はどのような歩みを続けたでしょうか。それは福音を宣べ伝え続けたということです。迫害は福音宣教の前進を拒むことはできず、むしろ福音宣教を前進させたことを聖書は示しています。そして、これが驚くべき神のご計画であり備えであることを、私たちはこの箇所を通して読み取ることができるのではないでしょうか。そのことを意識しつつ、今朝は1~3節を中心に、来主日は4~8節を中心に見ていきたいと思います。

1) サウロの生き方
 最初に教えられたいのはサウロの生き方です。1節に「     」と書かれています。サウロの名前は7:58に初めて登場します。その時のサウロは、証人たちの上着を預かる単なる青年の一人の印象を受けます。しかしながら、今朝の箇所の1節には「     」と、ステパノの処刑に賛成した一人として紹介されています。さらに、3節で「サウロは…牢に入れた」と、単なる青年の一人ではなく積極的にキリスト教を迫害する人物として描かれています。さらに9:1~2には「     」と、サウロが積極的にキリスト教を迫害する人物の一人としてではなく、リーダー的な働きをする人物として紹介しています。
 サウロはエルサレムの町だけでなく、遠く離れたダマスコの地まで足を延ばしてキリスト教を絶滅させようとしていたのです。ここに、サウロのキリスト教迫害に対する意気込みを見ることができるのではないでしょうか。そのことについて、サウロはガラテヤ1:13で「     」と告白しています。さらに、Ⅰテモテ1:13でも「私は以前には…ふるう者でした」とテモテに書いています。そして、15節の最後では「私はその罪人のかしらです」と、自分がどれほど神を冒涜し逆らう者であったのかを告白しているのです。
 しかし、そのサウロは9章に書かれていますように、ダマスコ途上で個人的にイエス・キリストと出会います。イエス・キリストと個人的な出会いをし、自分の罪を悔い改めたサウロはその後どうしたでしょうか。9:19後半~20には「サウロは数日の間…宣べ伝え始めた」と書かれています。20節の「ただちに」ということばに注目したいのです。サウロは何のためらいもなく、今まで否定し迫害していた方を「この方こそ神の子です」と宣べ伝え始めたのです。このサウロの姿から、サウロは自分が信じているものに対してはとても熱心に仕える人であることが分かります。まさしく、サウロは自分が信じているものに生きる人です。
 このサウロの生き方を通して、私たち自身の生き方を考えさせられるのではないでしょうか。マタイ6:24に「     」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。昔、山上の説教のときにも触れましたが、「神と富とに」と訳されている「富」ということばは「持ち物」のことを表しています。それは物質的なものです。すなわち、「神と富とに仕えることはできない」というのは、「霊的なものと物質的なものとに仕えることはできない」ということです。この6:24は、「あなたはどちらを重んじるのか」を私たちに問いかけています。これを現代の私たちに当てはめますと、「礼拝を重んじるのか仕事を重んじるのか」を問いかけられているのではないでしょうか。
先週はステパノの殉教の箇所を見ました。そのところから、自分が信じているものに生きることの大切さを学びました。ステパノの死後、教会からは多くの殉教者が出ました。死の危険が迫っていても、共に集って礼拝を献げることをやめませんでした。それは「礼拝は自分にとってどのようなものであるのか」という告白でもあります。コロナ禍にあって、サウロを始め初代教会の人たちの生き方を通して、自分自身の生き方を考えさせられるのではないでしょうか。礼拝と仕事の二者択一の中で、「礼拝は休みますが仕事には行きます」というのはどうでしょうか。「これが意味するものは何か」を考えさせられます。それは「私にとって礼拝は仕事以下だ」という生き方であり告白でもあります。コロナ禍の時代、そのことが問われているように受け取れます。但し、コロナ感染の最悪の状況の中に置かれ、「ひょっとしたら自分も感染しているかもしれないから、教会に行けば他の人に感染させてしまう危険性があるから休む」というのは別です。これは愛から始まるものですから全く違います。大切なのは、神と人とを愛するものから出ているのか、それとも自分を愛するものから出ているのかです。

2)物事の本質を捉えているサウロ
 次に教えられるのは、物事の本質を捉えているサウロです。サウロは自分が信じているものに生きる人です。その生き方は徹底していますから、物事の本質もしっかり捉えています。そのことを示しているのが、3節の「家から家に押し入って」という行動です。当時のキリスト教会は、教会堂という建物はなく個人の家に集まり集会を持っていました。しかし、3節には「家」と「教会」を分けて表現しています。サウロは教会を荒らすだけでなく、キリスト者個人の家まで探し出して押し入り男も女も引きずり出しては牢に入れていたのです。「キリスト教を絶滅させるには、教会堂を攻撃するだけでなくキリスト者個人を攻撃する必要がある」と考えたのです。何故なら、キリスト教は一人ひとりの中に信仰が生きていることを知っているからです。ですから、その家々をつぶさなければキリスト教を絶滅することはできないと捉えていたのです。何故なら、家々はばらばらな存在ではなく、キリストの身体として一致を保っているからです。ここに、物事の本質を捉え行動するサウロの姿を見ることができます。
 また、そのサウロの行動から教会と家庭・個人との関係を改めて考えさせられるのではないでしょうか。「教会は教会・家庭は家庭」または「教会は教会・私は私」と別物ではなく、教会も家庭も個人も一つであるということです。先日、教育部発行のニュースレター「合同聖会特集号」が届けられ、改めて読み返しました。教会と個人は別物ではなく、御霊によって結び合わされた生きた一つの有機体であることを改めて思わされました。私たち一人ひとりは決してばらばらな存在ではなく、キリストの身体として一致を保つ生きた有機体です。その教会との関係性を覚えつつ歩まされていきたいものです。
 サウロは教会を迫害するとき、男も女も引きずり出して牢に入れました。決して男性だけではなかったのです。女性も捕らえられ引きずり出されて牢に入れられたのです。何故なら、教会における女性の重要な役割をサウロは見抜いていたからです。ここにも物事の本質を捉えているサウロの姿を見ることができます。この春日井教会は、私を除けば全員女性です。「だからどうなのか」ということです。旧約聖書であれ新約聖書であれ、重要なところで女性の働きが書き記されています。この「男も女も」ということばは、教会にとって男性も女性も等しく重要な存在であることを示しています。教会において大切なのは、「男性か女性か」ではなく一人ひとりであるということです。その一人ひとりを大切にする群れとして歩まされたいと願わされます。

3)迫害の中での教会
 激しい迫害の中で、エルサレム教会はどのような歩みをしたのでしょうか。幾つかのことを見ることができます。1つは、1節の後半に「使徒たち以外はみな…諸地方に散らされた」と書かれていますように、使徒たちはエルサレムの町に留まったことです。では、何故使徒たちはエルサレムの町に留まったのでしょうか。その理由について聖書は何も記していません。また、使徒たちがエルサレムの町に留まって何をしていたのかも記されていません。ひょっとしたら、教会の人たちから「使徒たちはエルサレムに留まって教会を守ってほしい」と言われたのかもしれません。迫害によって教会員は散らされますが、戻れる場所があるのは意味のあることです。また、エルサレムの町にしか留まれない人もいたことでしょう。その人たちを牧会する務めが使徒たちには与えられています。その務めを果たすために、エルサレムの町に留まったとも考えられます。
もう1つは、使徒以外の人たちがみことばを宣べ伝えたということです。6章までは、みことばを宣べ伝えたのが使徒たちに焦点が合わされていますが、8章では使徒以外の信徒がみことばを宣べ伝えたことに焦点が合わされています。そして、福音はユダヤとサマリアの諸地方に広がっていったのです。この「信徒による伝道」がどれほど大きな結果を教会に与えたかは測り知ることのできないものです。ステパノの死をきっかけとして始まった大きな迫害は、誰もが予想しなかった福音宣教の前進をさせるのです。誰もが予想しなかった福音の前進ですが、そのことを知っておられた方がおられます。それはイエス・キリストです。1:8に「そして、エルサレム…わたしの証人となります」とイエス・キリストは話されました。死から甦られ天に挙げられる前に、イエス・キリストは今後どのようにして福音が広がっていくのかを御存知だったのです。
ステパノのリベルテンの人たちとの議論が引き金となって、教会は激しい迫害を受けることとなりました。その教会への迫害は福音宣教を閉じ込めてしまうのではなく、むしろ福音宣教を広げてしまうものとなったのです。ユダヤ教の人たちは「これで大丈夫だろう」と思ったことでしょう。しかし、教会の人たちは知恵を出し合って、福音宣教の前進の可能性を探り出し合ったのです。そして、使徒たちはエルサレムの町に残り、信徒が地方に出て行って福音を宣べ伝えるという結論を出したのです。それは自然的な流れのようにも見えます。しかし、その背後に神の深い備えがあることを見逃してはいけません。何故なら、先程も話しましたようにイエス・キリストは、そのことを御存知でありそのために備えられていたからです。
そのことを思いますと、今私たちが経験していますコロナ感染も同じではないでしょうか。コロナ感染によって、「教会で集会を行う」ということが難しくなりました。しかし、オンラインで行うことができるようになりました。その前からオンラインはありましたが、その殆どは会議に用いられていました。「礼拝・集会・学びをオンラインで」という発想は教会にはありませんでした。しかし、今は多くの教会で用いられています。「コロナ感染が収束してもオンライン礼拝は続ける」という教会が多くあります。その理由は、「何らかの理由で教会に来られない人もオンラインで共に礼拝できるから」というものです。「コロナ禍にあるからできない」というのではなく、コロナ禍にあってできるものを模索するのも大切であると知らされます。

結)
 初代教会はステパノの死をきっかけとして、厳しい迫害を受けることとなりました。しかし、迫害は福音宣教を阻むことはできませんでした。むしろ、迫害を通して福音宣教はさらに拡大することとなりました。私たちは、そこに深い神の備えを見ることができます。そして、今日私たちは「コロナ感染」という経験をしています。しかし、このコロナ感染は福音宣教を阻むものではなく、そのことを通して深い神の備えがあり、福音宣教はさらに拡大へと導いてくださると信じ、今できることを忠実に果たしていく大切さを教えられます。本日のタイトルは「戦う教会」です。では何と戦うのでしょうか。それは「あらゆる状況の中で何を信じ、何に期待し生きるのか」という自分自身との戦いです。イエス・キリストの十字架は、信じる者の罪が赦され神の審きから救われることが目的ではありません。それは信じたことの結果であり、十字架の目的は信じる者が神を礼拝し続ける者となるためです。その戦いに勝利し、福音に生きる歩みを成し続けられるように祈っていきましょう。


使徒の働き7:54~60「死を前にしてのことば」 22.07.17.

序)
 先週私たちは、教会は霊的荒野に建てられている群れだからこそ、みことばに恐れおののき聞き従うことの大切さを教えられました。今朝は、死を前にするステパノの3つのことばから、「何故このようなことばを発することができたのか」を共に教えられたいと願っています。

1)ステパノのことばⅠ
 ステパノのことばの第1は、56節の「     」です。「この場面は何処なのか」と言いますと、最高法院の中でのステパノの裁判です。ですから、当然ステパノを含めここに登場する人たちは、全て最高法院の中にいるのです。それなのに、ステパノは「天が開けて…見えます」と語っているのです。皆さんは、このステパノのことばをどのように受け取られるでしょうか。誰かが教会の壇上で「見なさい。天が開けて、人の子が神の右の座に立っておられるのが見えます」と言われますと、私なら「何言っているの、見えるのは天井や」と思うでしょう。しかし、ステパノは天井を貫いて、天におられるイエス・キリストが神の右に立っておられるのが見えたのです。これはステパノだけに見えたものです。すると、それを聞いた最高法院にいた人々は一斉にステパノに殺到したのです。何故でしょうか。今までステパノが語ってきたことは、当時のユダヤ教指導者たちが信じていた「神は神殿の中に住まわれ、律法を守り行うことによって神の審きから救われる」ということを否定されつつ、ついには旧約時代に預言者を殺害した人たちと同じ罪人であることを指摘されたことにはらわたが煮え返る思いで聞いていたのです。すると、さらに「人の子が神の右に立っておられるのが見えます」ということばを聞き、自分たちがイエス・キリストを十字架刑に処したことが、正しい方を裏切る者・殺す者となったことを指摘されたからです。今まで、歯ぎしりしながら堪えて聞いていたのですが、ついに堪忍袋の緒が切れて殺到したのです。
 このステパノのことばで注目したいのが、「神の右に立っておられる」ということばです。「神の右の座におられる」とか「神の右の座に着かれる」ということばは良く出てきます。しかし、「神の右に立っておられる」ということばはここだけです。「神の右の座におられる」とか「神の右の座に着かれる」というのは、座っておられることをイメージされるのではないでしょうか。しかし、ここでステパノは神の右の座から立ち上がられているイエス・キリストを見たのです。これはどういう意味かと調べてみますと、「死を前にするステパノを迎えられているイエス・キリストの姿ではないか」と書かれていました。また、「ステパノが最高法院に立たされているように、イエス・キリストも父なる神の前に立ちとりなしておられるのではないか」とも書かれていました。イエス・キリストは、信じる者をとりなしてくださいます。イエス・キリストは、ルカ12:4~5で「     」と語られ、8節で「     」と約束されています。イエス・キリストは、忠実である者を決して見捨てることをされず、とりなし迎えてくださるお方なのです。ステパノは、そのイエス・キリストの姿を見たのではないでしょうか。

2)ステパノのことばⅡ
 ステパノの第2のことばは、59節の「主イエスよ、私の霊をお受けください」という祈りです。この祈りは、イエス・キリストが十字架上で祈られたのと似ています。ルカ23:45に「    」と書かれています。また、ステパノの最後の祈りもそうです。60節に「主よ…負わせないでください」も、ルカ23:34の「父よ…分かっていないのです」という祈りと似ています。このステパノの死の直前のことばを見るとき、「果たして自分ならどのようなことを言うだろうか」と考えさせられました。おそらく、ここに集われている一人ひとりも「そのように思わされているのではないか」と思います。死を前にして何を祈るのか。それは咄嗟にできることではありません。日々の生活の積み重ねによってできるものです。そのように考えますと、「日々の生活をどのように生きるか」「日々の生活の中で何に目を留めて生きるか」ということの重要性に気づかされます。
 ステパノの祈りは、イエス・キリストが十字架上で祈られたのと似ていますが違う点もあります。その1つは、イエス・キリストは「父よ」と祈られましたが、ステパノは「主イエスよ」と祈っている点です。これが意味することは、イエス・キリストは生きておられるということの告白でもあります。現代も「父なる神様」と呼びかけたり、「イエス様」と呼びかけたりして祈られます。どちらで呼びかけられて構いません。ステパノは死を覚悟して、主イエスに「私の霊をお受け取りください」と祈ったのです。そこには、主イエスが自分の死後をも支配されている方であると信じているからです。死後を支配できる方は神以外にはおられません。このステパノの祈りは、イエス・キリストが神であられるという生前最後の信仰告白でもあるのです。
 もう1つはイエス・キリストは「ゆだねます」と祈られましたが、ステパノは「お受け取りください」と祈った点です。委ねるとは一時的に預けることを意味しますが、「お受け取りください」は全面的に明け渡すことを意味しています。そこにはイエス・キリストへの全き信頼があるからです。人は死後に神の審きを受けることが定まっています。ですが、ステパノにはその神の審きへの恐れはありません。何故なら、赦されることを確信しているだけでなく、イエス・キリストの御許に行けることの喜びの方が強いからです。メッセージ準備をしている中で、「私も死の直前に『私の霊をお受け取りください』と祈れたら良いな」と思わされました。そのように祈れる備えをするのも死後への備えでもあります。

3)ステパノのことばⅢ
 ステパノの第3のことばは、60節の「主よ…負わせないでください」という祈りです。この祈りもイエス・キリストの十字架上での祈りと似ていますが少し違います。1つはイエス・キリストは「父よ」と祈られましたが、ステパノは「主よ」ということばで祈っている点です。この「主よ」は、イエス・キリストのことです。これは先ほど話しましたから省きます。もう1つは、イエス・キリストは「彼らをお赦しください」と祈られましたが、ステパノは「この罪を彼らに負わせないでください」と祈っています。意味合い的には同じです。ですが、イエス・キリストは「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」という理由を祈られましたが、ステパノは理由を祈っていないのです。「何故なのか」を考えていますと、後にこの人たちの中から自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを信じる人が起こされるのを神に期待していたからではないでしょうか。
 事実、58節の最後に「サウロ」という名前が記されています。そして、8:1にも「     」と書かれています。御存知のように、このサウロは後のパウロのことです。9章に書かれていますが、サウロはイエス・キリストと個人的な出会いをし、自分の罪を悔い改めイエス・キリストを宣べ伝えた人です。ステパノはそのような人が起こされることを神に期待して祈りましたし、使徒の働きの著者ルカはステパノの思いが叶ったことを読者に伝えるために記したのではないでしょうか。そのように思いますと、「私は何を神に期待し、何を祈っているのか」を深く考えさせられます。
 ルカ6:28に「     」とイエス・キリストが話されたことが書かれています。また、ローマ12:14にも「     」と書かれています。さらに、Ⅰペテロ3:9にも「     」と書かれています。自分を呪う人や侮辱する人や迫害する人への神の審きを願うことよりも、むしろ神の祝福が受けられるように祈ることが勧められているのです。皆さんはどうなのかは知りませんが、嫌なことをする人に神の祝福があることを祈ります。すると、続けて嫌なことをされますと「もったいないことをした。祈らなかったら良かった」と私は思ってしまいやすくなります。先日の愛知地区祈祷会で奨励をしまして、マタイ10:12~13の箇所を触れました。ここに「     」と書かれています。その家のために平安の祈りをして相応しくなければ、その平安は自分に返ってくることが話されています。相手の祝福を祈り、その相手が相応しくなければ祈った祝福は自分に返ってくるというのです。損得的なことではありませんが、相手の祝福を祈って決して損はしないのです。
 ステパノは決して損得的なことでこのように祈ったわけではありません。心から神が一人ひとりの中に働いて、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストに立ち返る人が起こされることを願って祈ったのです。死を前にしたステパノの祈りから、ステパノが人の救いをどれほど願っていたのかが伝わってきます。そのことを思いますと、「私はどれ程の祈りをしているのだろうか」ということを改めて考えさせられ、自分の祈りが貧弱であることに気づかされます。死を前にしても、他の人のために祈ることができるのは、神の大きな恵みでもあります。

結)
 死を前にしてのことばや祈りは、演技してできるものではありません。それは、その人の生き様に基づいて出てくるものです。今朝の箇所のステパノの最初の「天が開けて…見えます」のことば。この「見えます」ということばは「見つめる」という意味を持っています。単に見るのではありません。見つめるのですから、そこには集中力が必要です。日々の生活の中でイエス・キリストに集中していたから、死を前にした時も神の右に立たれるイエス・キリストを見ることができたのです。そして、ステパノは自分のことは何も祈っていません。何故でしょうか。それはもうすでに、自分のことは解決されているからです。すなわち、自分の罪の問題が完全に解決され、確信をもって生きていたからです。だから、死を前にして他の人のために祈ることができたのです。そのことを思いますと、自分の罪の赦しと神の審きからの救いの確信がとても大切であることを知らされます。そして、イエス・キリストはそのために十字架に架かって、私たちの身代わりとなってくださったのです。そのイエス・キリストの十字架に感謝したいものです。そして、そのイエス・キリストを見つめ続けられるように祈っていきましょう

使徒の働き7:44~53「まことの神の家」 22.07.10.

序)
 約1ヶ月間、ステパノの宣教の箇所から共に教えられています。ステパノが訴えられたのは律法と神殿についてです。ユダヤ教指導者らは、「律法を守り行うことによって神の審きから救われる」とし、「神殿の中に神が住んでおられる」と信じていました。そのことを否定するステパノはリベルテンの人たちに訴えられました。まずステパノはアブラハムとヨセフを通して、神は何処の地においてもおられる方であることを示しました。また、モーセを通して自分たちの先祖はモーセの律法に違反した歩みをしていたことを示しました。そして今朝の箇所は、その神殿について語っています。今朝は、ステパノの宣教からまことの神の家について共に教えられたいと願っています。

1)みことばに基づいて行われる所
 第1に、神殿は神のみことばに基づいて行われる所です。エルサレムの神殿を最初に造った人は、47節に書かれていますようにソロモン王です。ソロモン王が神殿を建てるまでは何だったのでしょうか。それは幕屋です。その幕屋については、出エジプト記25:8に「彼らにわたしのための聖所を造らせよ」と、神がモーセに告げられたことが書かれています。その後で、「そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む」と約束されました。ここにユダヤ教指導者たちは「神殿の中に神が住まわれる」ということの根拠を置いているのです。ですが、続けて9節で「     」と語られているのです。ここは重要な所です。神殿は神が示すように造られなければならないのです。すなわち、神のことばに基づいて造られなければならないのです。そのことはへブル8:5でも示されています。へブル8:5には「よく注意して」ということばが付け加えられています。では、何によく注意する必要があるのでしょうか。それは出エジプト記25:9で語られています「わたしがあなたに示す」という神のことばにです。
 幕屋は神のことばに基づいて造られたものです。ですから、その中で行われる儀式も神のことばに基づいて行われなければならないのです。人は儀式を始めますと、その儀式を行うことに重きを置いてしまいやすくなります。それは旧約時代のイスラエルがそうでした。その儀式に対して、神は何と言われたでしょうか。先週はアモス5:25以降を見ましたが、その前の21~23節で「     」と話されています。ここで「退ける」「かぎたくない」「受け入れない」「目を留めない」「聞きたくない」と言われています。それは神のことばをないがしろにし、儀式を行うことに重きを置いていたからです。それは旧約時代だけでなく、イエス・キリストの時代や使徒の働きの時代もそうでした。幕屋や神殿の中で行われる儀式は、神のことばに基づいて行われるものです。
それは現代の教会も同じです。38節に「荒野の集会」と書かれています。この「集会」ということばは、「エクレシア」ということばで「教会」とも訳すことのできることばです。それは旧約時代の幕屋は、現代の教会を指し示してもいるのです。「礼拝の中心は説教・メッセージである」と耳にすることがあります。ですが、礼拝の中心は説教やメッセージではありません。礼拝の中心はみことばです。すなわち聖書朗読です。その聖書朗読の箇所に基づいて、説教・メッセージが語られるのです。みことばが読まれるとき、聖書朗読だけでなく聖書交読もそうですが、そのときに立ち歩くのは控えるべきです。以前奉仕していました教会では、聖書朗読や聖書交読、そして説教のときは礼拝堂の出入りは禁止でした。トイレなどに行く場合は賛美や祈りのときでした。「神のことばが読まれたり語られたりするときに立ち上がるのはもっての外だ」と、みことばへの畏敬の念を持つということで、そのように定められていたのです。教会も幕屋や神殿と同じように、神のみことばに基づいて行われる所です。

2)神が住まわれる所ではない
 第2に、神殿は神が住まわれる所ではありません。ステパノはモーセの時代に造られた幕屋について、45節の中程に「違法の民の所有地に…それを運び入れ」と語っています。これは幕屋が点々と場所を移動していたことを示しています。実際に、神は幕屋を造るとき組み立て、取り外すことができるようなものを示されました。何故なら、イスラエルの民は約束の地に向かって荒野の中を移動しますから、幕屋も移動できるものを造る必要があったからです。このことにおいても、神の臨在は場所に縛られる方ではないことを明らかにされています。そして、イスラエルの民は神の約束の地であるカナンに入り、モーセの後継者であるヨシュアの時代にカナンの地を支配しました。そして、ダビデ王の心の中に神殿建設の思いが起こされ、ダビデの息子ソロモン王の時代に神殿を建てることができました。何故この時に神殿が建てられたのかと言いますと、イスラエルの民は移動する必要がなくなったからです。
 その神殿を建てたソロモン王は、神殿建立式のとき祈りの中でⅠ列王記8:27に「     」と祈ったことが書かれています。48節でステパノが語っているのは、このことを指しているのです。続けてステパノは48節の最後で「預言者が語っているとおりです」と、49~50節でイザヤのことばを引用しています。欄外を見ますと「イザヤ66:1と2」と書かれています。「わたしの安息の場」と「神が安息できる場が何処にあるのか」と告げられています。当時の人々は「神殿の中に神が住んでおられる」として儀式的なことを行っていました。しかし、その儀式は形式的なもの過ぎませんでした。彼らの心は神にではなく、目に見える事柄に向けられていたのです。そのような形式的な儀式に神はうんざりされていたのです。先程アモス書を開きましたが、1:1に「ユダの王ウジヤの時代」と書かれています。イザヤ1:1には「ユダの王ウジヤ…時代に見たものである」と書かれています。預言者アモスとイザヤの活動時期は重なっていることが分かります。アモス書で、神は「退ける」「かぎたくない」「受け入れない」「目を留めない」「聞きたくない」と言われました。形式的な儀式の中には、神の安息はないことが示されています。
 では、神の安息は何処にあるのでしょうか。イザヤ66:2に「     」と書かれています。神の安息は、「神のことばにおののく者」にあるのです。「神のことばにおののく」と聞きますと、神のことばを恐がるように思われるかもしれません。ですが、そうではなく「畏れ敬う」ことを意味しています。ですから、神殿とは神が住まわれる所ではなく、神のことばが読まれ、その神のことばを畏れ敬う所なのです。神のことばを畏れ敬うとは、神のことばに耳を傾けることでもあります。それは神のことばと自分の生き方を照らし合わせる所でもあります。そして、悔い改める所があれば悔い改めるのです。それが「霊の砕かれた者」であり、有名な箇所の一つである詩篇51:17の「砕かれた霊、打たれ、砕かれた心」でもあります。それが16~17節に語られている神が喜ばれるいけにえです。
 先ほど、「神殿は神が住まわれる所ではない」と話しました。正しく言えば、「神殿だけに神は住まわれるのではない」ということです。神は何処にでもおられる方ですから、もちろん神殿の中にもおられます。ところが、「神殿は神がおられる所」というのを強調し過ぎますと間違った方向に進んでしまいます。Ⅰコリント3:16~17に「     」と書かれています。第3版までは「宮」を「神殿」と訳されていました。ですから、もちろん神はイエス・キリストを信じる全ての人の中に住んでおられます。ですが、「イエス・キリストを信じる全ての人にだけ住んでおられるのでもない」ということです。今も神は何処にでもおられる方です。

3)現代の神の家
 最後に、現代の神の家について見てみたいと思います。先ほど、第3版までは「『宮』を『神殿』と訳されていた」と話しました。厳密にいえば、「宮」ということばも使われていません。正しく訳すならば「そのような類のもの」です。それを「神殿」とか「宮」と訳されているのです。「そのような類とは何か」と言いますと「神殿」とか「宮」です。すなわち、パウロはⅠコリント3:16~17で「キリスト者も神殿と同じ性質を持っている存在である」と語っているのです。そして、そのキリスト者が集う群れである教会も神の家なのです。では、「キリスト者も神殿と同じ性質を持っている」とはどういうことでしょうか。それは先程も話しましたが、私たちの中に神が住んでくださっているということです。「内に住んでくださる」ということは、「共にいてくださる」ということでもあります。神はいつも私たちと共にいてくださるのです。しかし、「私たちの中にだけ住んでおられるのでもない」ということも覚えておくのは大切なことです。神は何処にでもおられるお方です。だからこそ、私たち一人ひとりのために最善の備えをしてくださるのです。旅行であれ仕事であれ、離れた地に行ったとき予想もしなかった神の備えを経験することがあります。それは、神は何処にでもおられるお方だからです。
 また、「キリスト者も神殿と同じ性質を持っている」ということは、「みことばに基づいて行う存在である」ということです。何故なら、神殿は神のみことばに基づいて行われる所だからです。そのことを知らされますと、みことばに対してどのように応答するかを問われていることに気づかされるのではないでしょうか。私たちはこの世の社会の中に生かされています。ですから、この世の社会の常識や基準で物事を見たり捉えたりしてしまいやすくなります。それは仕方のないことでしょう。だからこそ、「みことばはどのように語っているのか」を意識し、みことばに耳を傾けることが大切であることを知らされます。みことばに聞き、みことばに従う人や群れがまことの神の家なのです。

結)
先ほど、「38節の『荒野の集会』は『荒野の教会』とも訳すことができることばである」と話しました。「この世」というのは、キリスト者にとって霊的荒野です。教会は、その霊的荒野の中に建てられている群れです。だからこそ、その荒野に振り回されないように、みことばに聞き従うことが大切なのです。最後に、イザヤ66:2の後半を読んで終わります「わたしが目を留める者…おののく者だ」


使徒の働き7:17~43「旧約時代の罪と現代の罪」 22.07.03.

序)
 今年の上半期が過ぎ、その歩みを主が支え導いてくださったことと、主にあって下半期の歩みに入れたことに感謝したいものです。今年は6月下旬から異例の暑さが続いています。体調が支えられるように共に祈っていきたいと願わされます。さて、先週はモーセとイエス・キリストの共通点を見ました。その共通点の第1は、自分の民から拒まれるということでした。第2は、不思議としるしを行ったということでした。第3は、神と民との仲介者であったということでした。そして、今私たちは仲介者なるイエス・キリストのとりなしという恵みの中に、生かされていることを教えられました。今朝は、先週と同じ箇所から旧約時代の罪と現代の罪をステパノの宣教から共に見ていきたいと願っています。

1)押しのけた(27節)
 イスラエルの罪の第1は、27節に「すると…押しのけながら言いました」と書かれていますように、モーセを押しのけたことです。これはどのような場面かと言いますと、モーセが40歳になった頃、エジプト人がイスラエル人を虐待していたので、それを見たモーセはイスラエル人を救い出すためにエジプト人を殺害してしまったのです。その翌日、今度はイスラエル人同士が争いをしているのを見て仲介しようとしたのです。そのような行動の背景には25節に書かれていますように、「自分を通してエジプトでの奴隷生活から救い出すことをイスラエルの民は理解してくれる」と信じてのものでした。ところが、その行動に対しての反応は「だれがおまえを…私たちの上に任命したのか」というものだったのです。モーセは自分の命を懸けて、エジプト人に虐待されている人を助けたのに、その行動にイスラエルの民は理解を示してくれなかったのです。理解を示さなかっただけではなく押しのけたのです。
 「押しのける」とは、押して除くことですから突き飛ばすことと同じです。その人の存在が邪魔だからです。そうではないでしょうか。この26節の場面は争っていた2人の問題だったのです。そこにモーセが割り込んできたのですから、傷つけていた人からすればモーセは邪魔な存在です。だからモーセを押しのけたのでしょう。ところが、この場面が書かれています出エジプト記2章を見ますと、13~14節に「     」と書かれています。ここには「押しのける」というような行為は書かれていません。しかし、ステパノは「押しのけて」と語っているのです。これが以前に話しました「聖書は聖書をどのように解釈しているのか」ということです。すなわち、新約聖書は旧約聖書に記されているこの出来事を「モーセを押しのける行為であった」と解釈しているのです。それはモーセを邪魔者扱いにした行為であることを示しているのです。
 この「押しのける」と訳されていることばは、ステパノの宣教の中でもう一度使われています。それは39節の「かえって彼を退け」と書かれている「退け」ということばがそうです。確かに26~27節の箇所は、まだモーセは神からの召しを受けてはいません。しかし、39節のときはもうすでに神からの召しを受けているのです。神から遣わされた人を退け邪魔者扱いにしたことがイスラエルの罪だったのです。「邪魔者扱い」というのは、「私にとってあなたは必要がない」ということでもあります。イエス・キリストも私たちのために神から遣わされた方です。そのイエス・キリストを「私にとって必要がない者」とするなら、それは旧約時代の罪と同じであるとステパノは語っているのです。それは現代においても同じです。神があなたのために遣わされたイエス・キリストを「私にとっては必要がない」とするなら、それ自体が罪であると聖書は語っているのです。何故なら、神の備えを拒んでいるのと同じだからです。

2)偶像崇拝
 イスラエルの罪の第2は、39節以降に書かれています偶像崇拝です。これはシナイ山での出来事です。モーセが神から十戒を受け取るためにシナイ山に上りましたが、なかなか降りて来ないのでイスラエルの民はアロンに「われわれに先立っていく神々を、われわれのために造ってほしい」と頼みました。アロンは、彼らの装飾品から鋳物の子牛を造り、「これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と言って、鋳物の子牛に全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えたのです。アロンにすれば、鋳物の子牛は偶像のつもりで造ったわけではありません。「明日は主への祭りだ」と言って、自分たちを導いてくださる神を見える形で示したに過ぎないのです。決して、主なる神以外のものを拝もうとしたのではないのです。ですが、神はその行為を退けられたのです。
 何故でしょうか。出エジプト記20章には十戒が書かれています。20:4が第二戒で「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」とあります。続いて5節には「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」とあります。ここでは、偶像を造ることと拝むことと仕えることが禁止されています。「偶像を造ってはならない」の前に「自分のために」と語られています。これはとても重要なことです。彼らは偶像を「主なる神以外のもの」と捉えていたのです。しかし、神はご自身の偶像をも造ることを禁じておられるのです。何故なら、それは自分のために造られるものだからです。
 この「自分のために」とは、自分の願いを最優先することを意味しています。すなわち、神のことばや教えを第2・第3的なものとしていることを表しています。それは、生活の中心が自分中心になっていることを表しているのです。人によっては生活の中心が自分ではなく、家族や他の人になっているかもしれません。その目的は家族関係や人間関係を悪化させたくないということや、自分が安心したいからかもしれません。しかし、そこには神が第2・第3となっているのです。聖書が語る偶像崇拝とは、主なる神を含む全てのものを見える形として偶像化してしまうだけではありません。主なる神以外のものが最優先になり、主なる神が第2・第3になってしまうことが偶像崇拝なのです。
 では、何故このような行為に至ったのでしょうか。その理由が40節後半に書かれています。それは「あのモーセが…分からないから」というものです。出エジプト記24:12には、神がモーセに「山のわたしの…教えと命令である」と語られました。これから与えられる十戒は、イスラエルの民を教えるためのものであることが告げられています。これは神の約束ですから、必ずモーセは山から下りてくるのです。そのことをモーセは長老たちに伝え、「自分たちが戻ってくるまで、ここに留まりなさい」と14節で告げています。ですから、イスラエルの民はモーセとヨシュアが戻ってくることの神の約束を知っているのです。それにも拘わらず、「モーセがどうなったのか分からないから」と言って偶像を造るのを要求したのです。これは理由ではなく、自分たちの願いを叶えるための口実に過ぎません。それはもう神のためではなく自分たちのためのものです。「自分のために」というのが最優先になってしまうことが聖書の語る偶像崇拝なのです。
それは今朝の箇所のステパノを訴えた人たちも同じです。議論でステパノに対抗することができなかったので、偽りの証人たちを立ててまで自分たちの願いを叶えようとするのです。これが当時のユダヤ教指導者たちの罪です。この「自分のために」というのは、現代の私たちも同じではないでしょうか。ともすると、口実を尤もらしい理由にしてしまいやすくなります。それが本当に「神のためなのか」、それとも「神以外のためなのか」を考えられるように努めたいものです。

3)神の審き
 「自分のために」というのを優先したイスラエルの民に対して、神の反応はどのようなものとしてステパノは語っているでしょうか。42節で「そこで、神は彼らに背を向け」と語っています。神がなされたのは、「イスラエルの民に背を向けられた」ということです。「背を向ける」ということは、「御顔を向けない」ということです。礼拝の最後に祝祷がなされますが、この祝祷は民数記6:24~26に記されているものです。その前の23節に「あなたがたは…祝福しなさい」と神が告げられたことが書かれています。神が御顔を向けられるということは、神が祝福されるということです。それに対して、「神が背を向ける」ということは「祝福されない」ということでもあります。「神が祝福されない」とはどういうことでしょうか。「神の審きを受ける」ということでしょうか。確かにその通りです。ところが、今朝の箇所を読みますと、神の審きにも2つあることが分かります。
その1つは放置です。42節に「彼らが天の万象に仕えるに任せられました」と書かれています。神は偶像に仕えるイスラエルの民を偶像に任せられたのです。私たちも子育てなどで、子どもが言うことを聞かないとき「勝手にしなさい」と言うことがあるのではないでしょうか。親はそのように言いつつも子どもの様子を見守っています。神も同じです。私たちは「何故悪いことをする人に、神は審きを下されないのか」と思うことがあります。それは神が放置されているからです。ローマ1:24~32に「引き渡されました」ということばが繰り返し書かれています。「勝手にしなさい」というのも神の審きの1つです。
もう1つは、43節の最後に書かれています「バビロンのかなたへ捕らえ移す」というバビロン捕囚です。42節からステパノが引用しているのは、下の欄外にも書かれていますがアモス5:25~27です。神はイスラエルの民を「勝手にしなさい」と放置されていましたが、度々預言者を北イスラエル王国にも南ユダ王国にも送られました。しかし、ローマ1章に書かれていますように、欲望や情欲や無価値な思いに引き渡されました。それによってどうなったでしょうか。北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされました。アモス5:25の「ダマスコのかなた」とは、アッシリア捕囚のことを指しています。これは北イスラエル王国に対する神の審きです。そして、南ユダ王国もバビロニア帝国によってバビロン捕囚となりました。これも南ユダ王国に対する神の審きです。神は人の罪に対して必ず審判を下される方なのです。
それは現代においても同じです。今は「人の欲望や情欲や無価値な思いに引き渡しておられる」という放置のときですが、その後に神の審判が下されるのです。へブル9:27に「     」と書かれていますように、全ての人は神の審判を受ける時が来るのです。そのことを覚えておくのは大切なことです。

結)
旧約時代の罪と現代の罪は何ら変わらず同じです。そのことについて、Ⅰコリント10:11に「     」と書かれています。旧約聖書に起きた出来事は現代の私たちへの教訓とするためです。私たちは聖書から「今どのように生きれば良いか」を学んでいく必要があります。そして、その学んだことを日々の生活の中に生かしていくことです。聖書に聞き、聖書に生きる歩みが日々の生活の中でできるように祈りつつ歩んで行きましょう。

使徒の働き7:17~43「モーセとイエス」 22.06.26.

序)
 早いもので、今年も半年が過ぎようとしています。この上半期を神が支え導いてくださったことに感謝したいものです。先週は、苦難に遭遇することがありますが、神はあらゆる苦難から救い出してくださる約束に目を留めつつ、与えられていることに忠実に果たしていくことを学びました。ヨセフについて語ったステパノは、続いてモーセについて旧約聖書に基づいて語っています。今朝と来主日は、この箇所から共に教えられたいと願っています。その最初はモーセとイエス・キリストとの共通点についてです。

1)民から拒まれる
 モーセとイエス・キリストの共通点の第1は、どちらも自分の民から拒まれるということです。ステパノは、17~19節で「     」とモーセが誕生する頃について語っています。「アブラハムに…近づくにしたがい」と、モーセの誕生は神の約束の時であることを示しています。それはイエス・キリストについても同じです。イエス・キリストが公生涯を始められたとき何と言われたでしょうか。マルコ1:15に「時が満ち、神の国が近づいた」と言われたことが書かれています。また、ガラテヤ4:4には「     」と書かれています。この「時が満ち」とは、「何の時が満ちたのか」と言いますと、「神の約束の時が満ちた」ということです。先々週の礼拝で、聖書に聞くにおいて大切なことの1つとして、「聖書は聖書をどのように解釈しているのか」と話しました。モーセもイエス・キリストも神の約束の時が満ちたから生まれたのです。
 モーセが生まれる時の社会情勢はどのようなものだったでしょうか。17節後半~19節にかけて話されていますように、イスラエルの民はエジプトにおいて数が大いに増えたために、ヨセフのことを知らない別の王の時代に苦しめられ、幼子を生かしておけないようにされるという社会情勢でした。これが神の備えだったのです。イエス・キリストが生まれるときはローマ帝国がイスラエルを支配し、そのローマ帝国によって道は整えられ流通が良くなりました。流通が良くなるということは情報も伝わりやすくなるということです。ギリシャ文化やギリシャ語が広がり、「70人訳聖書」と言われるギリシャ語の旧約聖書も普及し、多くの人に読まれていました。そのため旧約聖書で約束されています救い主を待ち望む人が増えてきました。それがイエス・キリストが生まれる時の社会情勢であり、神の備えでもあったのです。社会情勢の中で誕生するというのは偶々のように思えます。いや、一般社会においてはそれで終わらせようとします。しかし、聖書は「偶々ではなく深い神の摂理・備えによってである」ということを示しているのです。
 そのような神の備えによって誕生したモーセは、イスラエル人同士の争いを和解させようとしたとき、片方が「だれがおまえを…任命したのか」(27節)とモーセを拒んだのです。また、神の召しを受けたモーセはエジプトに戻り、ファラオの前に立ちましたが状況は悪化し、イスラエルの民はモーセのことばに聞こうともしませんでした。モーセ自身、出エジプト記6:12で「ご覧ください…聞きませんでした」と告白しています。「イスラエルの民がモーセのことばを聞かなかった」とは、モーセを拒んだのと同じです。しかし、ステパノは35節で「『だれがおまえを』…遣わされたのです」と、「人から拒まれたモーセが指導者また解放者として神から遣わされた」と語っているのです。
 モーセは同じイスラエル人に受け入れられませんでした。では、イエス・キリストはどうだったでしょうか。ヨハネはヨハネの福音書1:10~11で「     」と語っています。イエス・キリストも同じユダヤ人に受け入れられなかったのです。受け入れられなかっただけでなく、十字架刑に処せられたのです。ですが、神はそのイエス・キリストを贖い主として世に遣わされたのです。御存知のようにイエス・キリストの十字架は、私たちの罪を贖い私たちの罪が神に赦されるためです。モーセもイエス・キリストも民から拒まれる存在でしたが、神から遣わされた存在でもあります。

2)不思議としるし
 第2の共通点は36節でステパノが語っていますが、不思議としるしを行ったことです。神はモーセを召し出されたとき、「わたしがあなたと共にいる」と語られたことが出エジプト記3:12に書かれています。それでもモーセは、神に「私は口下手です」と答えて神からの召しを断ろうとしました。しかし、神は「あなたの口とともにあって、あなたが語ることを教える」と告げられました。それでも、モーセは「どうか他の人を遣わしてください」と願ったのです。すると、神は「あなたの兄アロンがいるではないか」と語られ、「わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたがたがなすべきことを教える」と話されました。それでモーセは神の召しを受け入れ従いました。そして、エジプトの地でも荒野の地でも様々な不思議としるしを行ったのです。その不思議としるしによって、神がモーセと共におられることを明らかにされたのです。
 ペテロも使徒の働き2:22で「神はナザレ人イエスによって…証しされました」と語っています。イエス・キリストは、公生涯の中で様々な不思議としるしを行われました。何のためにそのような不思議としるしを行われたのかと言いますと、ご自分が神から遣わされた存在であることを明らかにされるためです。いや明らかにされるだけでなく、そのイエス・キリストの不思議としるしを見た人々が、イエス・キリストを神から遣わされた救い主と信じるためです。ヨハネは福音書の中でイエス・キリストを「ことば」と表現しています。1:1に「     」と書かれており、14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と語っています。ヨハネの福音書において、この「ことば」はイエス・キリストであることを示しています。その「ことば」は、「神とともにあった」と1:1で語っているのです。さらに、その「ことば」は「神であった」とも語っているのです。
 モーセもイエス・キリストも不思議としるしを行いましたが、それは神が共におられたからできたことです。しかも、イエス・キリストは神ご自身でもあられます。ここで注意したいのが「不思議としるし」についてです。「不思議としるし」が行われることが、神が共におられるしるしとは限りません。聖書は「不思議としるし」についてどのように語っているでしょうか。申命記13:1~3に「あなたがたのうちに…聞き従ってはならない」と書かれています。大切なのは不思議やしるしではなく、そのことを通して語られる内容です。すなわち、「不思議やしるしを通して人を何処に導こうとしているのか」が重要なことなのです。人を神から遠ざけようとする不思議やしるしは、神が共におられるしるしではないということです。見えるものだけに頼ってしまうのは危険であることを覚えたいものです。

3)神と民との仲介者
 第3の共通点は、神と民との仲介者であるということです。モーセはイスラエルの民を奴隷として扱われていたエジプトの地から救い出し、神が約束された地に導く者として神から召された人です。しかし、それだけではありません。モーセは神から告げられたことばをイスラエルの民に伝えました。十戒は、その代表的なものでもあります。他にも律法について様々なことを伝えましたし、毎日の食べ物のマナについてもそうです。モーセは神から告げられたことばをイスラエルの民に伝えるという仲介者として立てられていたのです。
 それだけではありません。イスラエルの民をとりなすという、神とイスラエルの民の間に立った人でもあったのです。その代表的なのはモーセがホレブの山に登り、神から十戒を受け取ったときのことです。そのとき、イスラエルの民は麓で何をしていたでしょうか。40節にも書かれていますように、彼らはモーセが山から下りて来ないので、アロンに「モーセがどうなったのか分からないから、私たちに先立っていく神々を造ってほしい」と頼み、アロンが鋳物の子牛を造り「主の祭り」と言って食べたり飲んだりして戯れたのです。そのため神は「イスラエルの民を滅ぼし、モーセを大いなる国民とする」とモーセに告げられました。しかし、モーセは神に「災いを思い直してほしい」ととりなしました。そのモーセのとりなしによって、神は災いを思い直されました。モーセは「とりなし」という点においても、神とイスラエルの民の仲介者として働いたのです。
 神と人との仲介者という点でもイエス・キリストも同じです。イエス・キリストは、父なる神の御心を明らかにされるためにこの世に来られました。そして、様々な不思議やしるしと教えを通して父なる神の御心を人に明らかにされました。仲介者としての最大の出来事は十字架による死です。イエス・キリストは人の罪のために身代わりとなって十字架に架かり、私たちが受けるべき神の審きを代わりに受けてくだいました。それによって、神は私たちに下す審きを思い直されたのです。
 それだけではありません。十字架に架かり死なれたあと死から甦られて天に上り、父なる神の右の座に着かれておられます。そこでイエス・キリストは何をされているでしょうか。ローマ8:34に「     」と書かれています。また、へブル7:25にも「     」と書かれています。さらに、Ⅰヨハネ2:1にも「     」と書かれています。イエス・キリストは、私たちのために父なる神にとりなしてくださっているのです。まさしく、イエス・キリストは神と私たちとの仲介者なるお方なのです。私たちは、そのイエス・キリストのとりなしの中で生かされていることを覚えたいものです。

結)
 モーセとイエス・キリストから3つの共通点を見ました。モーセもイエス・キリストも自分の民から拒まれたにも拘わらず、神によって遣わされ不思議としるしを通して神の御心を明らかにし、与えられている務めを全うしました。私たちも拒まれることがあるでしょうが、それで与えられている務めを全うできるように祈っていきたいものです。また、モーセは神と民との仲介者としてとりなしましたし、イエス・キリストは今もとりなしてくださっています。私たちは、そのイエス・キリストの恵みの中に生かされていることを覚えつつ歩まされたいものです

使徒の働き7:9~16「共におられる神」 22.06.19.

序)
 先週はステパノの姿勢から、「何事においても聖書に聞く」ということを学び、アブラハムからは「神の約束に目を留めて生きる」ということを教えられました。今朝の箇所では、ステパノはヨセフに焦点を合わせて語っています。今朝は、このヨセフに対する神の導きから共に教えられたいと願っています。

1)ヨセフについて
 今朝の箇所で興味深いことの1つは、「何故ヨセフなのか」ということです。御存知のように、イスラエルの起源はアブラハムです。そのアブラハムの子どもは誰だったでしょうか。イサクです。そのイサクには2人の子どもが与えられました。兄エサウと弟ヤコブです。イサクの後継者は兄エサウではなく弟のヤコブでした。そのヤコブには12人の男の子が与えられました。ヨセフは、その12人のヤコブの子どもの一人です。ステパノは、アブラハムの子イサクと孫のヤコブについては8節で簡単に説明し、9節からはヨセフのことを語っているのです。ステパノは、アブラハムの次にイサクやヤコブではなくヨセフに重点をおいているのです。
 何故ステパノは、ヨセフに重点を置いているのでしょうか。ヨセフの生涯はどのようなものだったでしょうか。ヨセフは父ヤコブの11番目の男の子として誕生します。11番目の子であり、ヤコブが何よりも愛していた妻ラケルとの子どもです。ですから、他の子どもたちよりもヤコブはヨセフを愛していました。そのため他の兄弟から妬まれていました。その妬みによって、ヨセフはイシュマエル人に売られてしまい、イシュマエル人はヨセフをエジプトの王の侍従長ポティファルに売りました。そのエジプトにおいても、ヨセフは悪いことはしていないのに牢獄に入れられてしまいます。しかし、その牢に入れられていたとき、エジプトの王ファラオに仕える献酌官長と料理官長が牢に入れられ、同じ日に見た夢をヨセフが解き明かしました。その後、ファラオが見た夢をヨセフが解き明かし、ヨセフはファラオの次の位に就きヤコブ一家をエジプトに迎えるようになったのです。ヨセフの自分に生じる苦難を通して、家族の救いの道が開かれるのです。
 このヨセフの生涯は、イエス・キリストの生涯と似ています。イエス・キリストは何も悪いことをされていないのに、ユダヤ教指導者たちの妬みによって訴えられ十字架刑に処せられました。しかし、それによって人類の救いの道が開かれたのです。いや救いの道が開かれただけでなく、十字架刑によって死なれたあと甦らされたのです。罪の赦しと神の審きからの救いだけでなく、死の問題も解決されたのです。それによって約束の地である天の御国を仰ぎ見つつ歩み続けることができるのです。ヨセフは創世記50:25で「     」と語っています。ヤコブ一家はエジプトの地に留まるのではなく、神が約束された地であるカナンの地に目を向けさせています。
 また、ヨセフはエジプトに連れて行かれても、ポティファルの家で誠実に仕えていました。その後、牢獄に入れられても誠実に仕えていました。だから家と全財産の管理を任されましたし、牢獄に入れられても囚人たちを含め牢獄の中の全ての管理を任されました。ヨセフの生涯は与えられている務めに忠実であったということです。そのこともイエス・キリストと似ています。イエス・キリストもどのような状況の中にあっても、ご自分の務めを忠実に仕えられました。ヨセフの生涯は、イエス・キリストの生涯と似ています。だから、ヨセフのことを語ったのではないかと考えられます。

2)ヨセフへの行為
 兄たちのヨセフへの行為は何によってでしょうか。9節に「ねたんで」と書かれていますように、ヨセフは兄たちからの妬みによってエジプトに売られてしまいました。またイエス・キリストは、ユダヤ教指導者たちの妬みによって十字架刑に処せられてしまいました。では、この「妬み」とはどのようなものでしょうか。私たちは「妬み」と聞きますと、良くないものとして受け取るのではないでしょうか。例えば、創世記37:11に「     」と書かれています。ヨセフの兄たちはヨセフを妬んだのです。また、マルコ15:10には「     」と書かれています。ですが、聖書において「妬む」と訳されていることばは、必ずしも悪い意味だけではなく、良い意味としても用いられています。例えば、Ⅰコリント12:31に書かれています「熱心に」ということばがそうです。また、出エジプト記20:5や34:14では、神はご自分のことを「ねたみの神」と言われています。聖書においては、「妬み」ということばは、「熱望する」とか「真剣に全力を尽くす」という意味でも用いられています。ただ、対人関係において用いられるときの「妬み」は悪い意味として用いられているのです。
 兄たちがヨセフに対して抱いた思いは、決して良いものではありませんでした。それは、創世記26:14に「     」と書かれている「妬み」と同じです。自分と比較して相手が優れていたり、自分のないものを持つのを見るときに、心の中に湧き上がってくる良くない思いです。その心の中に生じた妬みは、後にどのような行動へと移させたでしょうか。創世記37:20に「さあ、今こそあいつを殺し」と書かれています。ヨセフが父イサクの指示によって兄たちの安否を確認しに行ったとき、兄たちはヨセフを殺そうとしたのです。実際にヨセフの命を奪うことはしませんでしたが、父イサクにはヨセフが獣に殺されたことを報告したことによって、父イサクにとってヨセフは死んだのです。何故なら、生きていることの気配が全くないからです。これはもう殺人と同じです。
 ここで注目したいのは、ステパノは「兄たち」と表現せずに「族長たち」と表現していることです。何故「兄たち」ではなく「族長たち」と表現しているのかと言いますと、ステパノが51~52節で「あなたがたの先祖たちが」と繰り返し語っていますように、自分たちの先祖は救いの道のために備えられた人に逆らってきたことを指し示すためです。イスラエルの先祖たちがヨセフやモーセや預言者らを拒んだのと同じことを、救いの道のために備えられたイエス・キリストをも拒んでいることを明らかにするためです。

3)共におられる神
 エジプトの地に売られてしまったヨセフについて、続けてステパノは「しかし、神は彼とともにおられ」と語っています。創世記39:2に「主がヨセフとともにおられたので」と書かれています。ヨセフがエジプトの地に売られてしまっても、神はヨセフと共にいてくださいました。この「主はヨセフとともにおられ」ということばは、欄外にも書かれていますように21節と23節にも書かれています。ヨセフの歩みは神が共にいてくださる歩みであることを示しています。しかし、先程も触れましたが、ヨセフは39:2の後ポティファルの妻によって牢獄に入れられてしまいます。さらに、40章では献酌官長と料理官長が見た夢を解き明かしますが、「献酌官長はヨセフのことを忘れてしまった」と23節に書かれています。ヨセフの歩みは神が共にいてくださる歩みですが、それは苦難の中での歩みでもあったのです。そのような苦難の歩みの中にありましたが、「しかし神は」と神によって苦難から救い出されたことを語っています。
 ヨセフがどの地に居たときでしょうか。約束の地ではなく、エジプトの地に居たとき「神は彼とともにおられ」なのです。それはアブラハムに神が最初に語りかけ召し出されたのと同じです。アブラハムも約束の地ではなくメソポタミアの地でした。それはモーセにおいても同じです。使徒7:30で「シナイ山の荒野において」と語り、31節の最後に「主の御声が聞こえました」と語っています。そして、32~34節でモーセを召し出されたのです。神は場所に限定されることなく、何処においてもご自分の民と共にいてくださるお方なのです。まさしく、インマヌエルなる神です。
 続けてステパノは、10節で「あらゆる苦難から彼を救い出し」と語っています。「あらゆる苦難から」ですから、ヨセフが経験した苦難は1つや2つというものではありません。ヨセフがエジプトで経験しました苦難は、決して生易しいものでもなければ、一時的なものでもありません。ヨセフは17歳の時にエジプトに連れて行かれ、30歳の時にファラオの次の位に就きました。その間、様々な苦難に遭遇したのです。どのような時でしょうか。神が共におられたときにです。ヨセフは様々な苦難に遭遇しましたが、神はヨセフを様々な苦難から救い出されたのです。
 しかも、その神はヨセフを苦難から救い出すだけではありません。父ヤコブ一家を救い出す者としてヨセフを用いられたのです。ここに私たちの想像を絶する神の備えと導きを知らされるのではないでしょうか。そして、そのヨセフと共におられた神が、今私と共にいてくださるという事実に目を留めたいのです。私たちもヨセフと同じように「あらゆる苦難」に遭遇します。「あらゆる苦難」ですから、決して1つや2つではありませんし、決して生易しいものでもなければ一時的なものでもありません。しかし、神は共にいてその苦難から救い出してくださいます。その神の救いは、私たちの想像を絶する備えと導きによってです。

結)
 今朝の箇所から3つのことを教えられます。1つは、私たちが悪いことをしていなくても、良く思わない人から攻撃を受けることがあるということです。そのようなとき「何故」とか「何のために」と思ってしまいます。そのように思えてしまうのは仕方のないことかもしれません。ただ、そのように思えても、目の前に与えられているものに対して忠実に仕えることの大切さを教えられます。もう1つは、神の憐れみです。ユダヤ教指導者たちは、「自分たちの先祖はアブラハムである」ということを誇っていました。しかし、その子孫はヨセフを亡き者にしようとしたり、多くの預言者を拒み殺害してきました。その事実に目を向けるとき、決して誇れるものではないことに気づかされます。それはキリスト者である私たちも同じです。私たちが救われたのは神の選びによってです。ですが、神に選ばれたことを誇るのではなく、このような私に目を留め選んでくださった神の憐れみに感謝することです。何故なら、私たち自身には誇れるものは何もないからです。最後は、神の約束についてです。私たちもヨセフと同じように多くの苦難を経験します。しかし神は、あらゆる苦難から救い出してくださいます。これが私たちに対する神の約束です。私たちの想像を絶する備えをもって導いてくださり、いつも共にいてくださる神に目を留めつつ歩まされていきましょう。


使徒の働き7:1~8「何に立つか」 22.06.12.

序)
 いま日本の社会では、持続化給付金の不正受給について話題となっています。政府は性善説に立って持続化給付金を始めました。これは早く困っている事業主に給付するためです。いろいろと審査していましたら遅くなるだけですので、本当に困っている人は早く給付してもらえると助かります。そのように思いますと、今回の方法は簡単に批判もできないものでもあります。ですが、「何に立つか」ということの大切さにも気づかされます。今朝は、キリスト者として何に立てば良いかを共に教えられたいと願っています。

1)聖書に聞くステパノ
 今朝からの箇所は、「ステパノの宣教」と言われる比較的有名な箇所です。このステパノの宣教のきっかけは何かと言いますと、ステパノとの議論に対抗できなかったリベルテンのユダヤ人が偽りの証人を立てて最高法院に訴えたことでした。それは神殿のこととモーセの律法についてのことでした。そして、彼らは「     」と6:14に書かれていることを訴えたのです。そのことについて大祭司は、「その通りなのか」とステパノに尋ねたことによって、ステパノの宣教が始まるのです。「その通りなのか」と尋ねられますと、「はい」か「いいえ」で答えてしまいやすくなります。しかしながら、ステパノはそのような答えをしなかったのです。何故なら、そこには真実であることと真実でないことが混ざっているからです。そのため、ステパノは「イスラエルの民がどのようにして誕生したのか」という起源に戻って話し始めるのです。しかもそれは、聖書に基づいてのものです。
 そのステパノについて、聖書は6:5で「信仰と聖霊に満ちた人」と紹介しています。先程も話しましたように、ステパノは大祭司から「その通りなのか」と尋ねられたことに対して、「はい」とも「いいえ」とも答えなければ、何か目新しいことを話し始めたのでもありません。ただ、聖書に基づいてイスラエルの起源に戻って話し始めたのです。ここにステパノの徹底的な姿勢を見ることができます。それは「聖書に聞く」という姿勢です。その聖書を正しく理解するには聖霊の助けがなければできません。そのようなことからも、聖書と聖霊は深い繋がりがあることに気づかされます。
 この「聖書に聞く」という姿勢は、私たちにおいても大切なことです。先週も話しましたが、聖書の学びで聖書の流れを学んでいます。そのとき、「その1つとして、その聖書箇所の背景を知って聖書を読み解いていくため」と話しました。もう1つは、「聖書は聖書をどのように解釈しているのか」ということを知るためです。以前にも話しましたが、ステパノが訴えられたのは神殿と律法についてです。「神の臨在は神殿の中に留まらない」ということと、「律法を守り行うことによって救われるのではない」ということです。そのことについて、「聖書はどのように語っているのか」というのを「聖書から聞く」ということです。それがさらに進みますと、私たちの日々の生活の中で生じる一つひとつの事柄においても、「聖書はどのように語っているのか」と、「聖書に聞く」という所に立つことができます。自分の思いや考えではなく、みことばを基とする歩みに繋がっていきます。そのためにも、「聖書に聞く」という姿勢は私たちにおいてとても大切なことです。

2)アブラハムの召し
 では、ステパノは神の臨在についてどのように捉えているのでしょうか。ステパノはアブラハムの召しから話し始めました。アブラハムが神からの召しを受けたのは、「ハランに住む以前…行きなさい」と神がアブラハムに告げられたことが2節の後半~3節にかけて話されています。「わたしが示す地」とは、神の約束の地のことでありカナンの地のことです。しかし、このとき約束の地から遠く離れたメソポタミアの地において神はアブラハムに現されたのです。その事実をステパノは最初に語っています。そして、宣教の最後の方でもソロモンが建てた神殿に言及して、48節で「しかし…お住みになりません」と語り、神は特定の場所や建物に限定されないことを旧約聖書に基づいて語っているのです。
 栄光の神は、アブラハムがメソポタミアにいたときにアブラハムに現れ、「あなたの土地…地へ行きなさい」と語り召し出されたのです。このアブラハムの召しから2つのことを知らされます。その1つは、アブラハムは住み慣れた場所や親族から離れる必要があるということです。おそらく、アブラハムは神の召しを受けるまでは、メソポタミアの地を出るなど考えたこともなかったことでしょう。何故なら、このメソポタミアの地はアブラハムにとって居心地の良い地だったからです。しかし、その地に住み続けることによって、アブラハムは本当の自由を得ることはできないのです。アブラハムがメソポタミアに住み続けることは、「居心地が良い」ということの奴隷でもあるからです。だから、神はアブラハムに離れることを求められたのです。そのことは私たちにとっても同じです。
メッセージ準備をしている中で、アブラハムの召しの箇所である創世記12:1~9からメッセージをしたことを思い出しました。どのようなことを語ったかを調べてみましたら、「住み慣れた町ということは、そこに自分の生活習慣が染みついているということでもあります。その町から出るということは、自分の生活習慣を変えるということでもあります。自分の生活習慣を変えるということは、自分の生き方も変えるということに近いのではないでしょうか。アブラムにとっては、そのことを主に求められたのと同じではないでしょうか」と話していました。「居心地が良い」というのは、「生活習慣にどっぷり浸かっている」ということでもあります。神は私たちに「その所から離れよ」と語りかけておられるようにも聞こえます。
しかし、神は「離れよ」と言われているだけでなく、「わたしが示す地へ行きなさい」とも話されていることにも注目したいのです。居心地の良い地から離れるだけでは不十分なのです。何故なら、離れたあとも自分勝手な方向に進み、そこで自分に居心地の良い地で生きるなら、それは本当の意味で「奴隷からの解放」とは言えないからです。神はアブラハムに「わたしが示す地へ行きなさい」と告げられたのです。「わたしが示す地へ行きなさい」というのは、アブラハムだけに告げられたものではありません。モーセを始めイスラエルの民にも同じことを告げられました。神がモーセを召し出されたとき、神はモーセに出エジプト記3:8で「     」と語られました。エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を救い出すことが神の目的ではありません。イスラエルの民をエジプトから救い、乳と蜜の流れる地に導き入れることが目的なのです。それに向けて歩み続けることが本当の意味での救いなのです。
そのことはガラテヤ5:1で「     」とパウロも同じことを語っています。神が私たちを罪の奴隷から解放してくださったのは本当の自由を得させるためです。そして、本当の自由とは、13節の最後で勧めていますように愛をもって互いに仕え合うことです。それは先月の合同聖会でも「どのような賜物や奉仕も愛がなければ無に等しい」と話されました。愛をもって互いに仕え、神のすばらしさを現していくために、私たちは罪の奴隷から解放され自由を与えられたことを覚えたいものです。「〇〇からの自由」だけでなく、「〇〇に向けての自由」を歩み続けることが、神が与えてくださる本当の自由であることをアブラハムの召しから教えられます。

3)神の約束に生きるアブラハム
 では、神の約束の地に導かれたアブラハムは、どのような生き方をしたのでしょうか。5節に「ここでは…お与えになりませんでした」と書かれています。アブラハムは神の約束を信じ、神が示される地に着いて生活を始めました。しかし、所有することが許されなかったのです。しかも、子どもも与えられていないのです。慣れ親しんだ地を離れ、神の約束を信じ神が示される地に行ったのに、その地を所有することもできず子どもも与えられていないという現実の中で、尚もアブラハムは神の約束を信じ生きたのです。
 さらに、6節には神がアブラハムに「彼の子孫は…奴隷となって苦しめられる」と告げられたのです。「あなたは所有できないが、あなたの子孫が約束の地を受け継ぎ所有できる」というのではないのです。もし、私たちが神にこのようなことを告げられたらどうでしょうか。私なら、神の約束を信じ従って見知らぬ地に来たのに、その土地を所有することができず、まだ子どもも与えられていない。しかも、神から「子孫は他国の地で寄留者となり400年の間、奴隷となって苦しめられる」と聞かされますと、「何のために神を信じ従ってきたのか。こんなことなら住み慣れた地に居た方が良かった」と思うことでしょう。このことを聞いたアブラハムはどのように思ったのかは書かれていません。
 しかし、神は続けて7節で「彼らが奴隷として…仕えるようになる」とアブラハムに告げられたのです。神は「あなたの子孫がどの地に行き、どのような境遇の中に生かされようとも、わたしはあなたの子孫と共にいて守り導き、再びこの地に戻って神を礼拝するようになる」と告げられたのです。ここで神は「あなたの歩みは決して平坦なものではないが、あなたが何処に居ようとも何が起ころうとも、わたしはあなたとあなたの子孫と共にいて必ず守り導く」と約束されているのです。その約束のしるしとして、アブラハム家族が割礼を受けることを命じられたのです。
 実際アブラハムは約束の地に居たとき、飢饉が生じてエジプトに滞在することにしました。そのエジプトで彼は失敗をしてしまいますが、そのエジプトの地でも神はアブラハムと共におられ守られました。神は特定の場所だけに臨在される方ではありません。私たちが何処に居ようとも共にいてくださるお方です。アブラハムは、その神の約束を信じ生きた人でもあったのです。私たちも神の約束を信じ歩み続けたのに、予想とは全く違う出来事に遭遇することがあります。そして「何故」とか「何のために」と思うことがあります。そのように思うことは仕方のないことでしょう。しかし、たとえそうであったとしても、神は共にいてくださいます。そして、守り導いてくださいます。それが神の私たちへの約束です。私たちもアブラハムのように、その神の約束を信じ生きる者でありたいと願います。

結)
 私たちは、ステパノの生き方とアブラハムの生き方から2つのことを教えられます。1つは「聖書に聞く」という姿勢です。私たちは社会生活の中で様々な事柄に遭遇します。その社会の中で生かされていますから、社会の視点で物事を捉えやすくなってしまいます。ですが、大切なのは社会の視点ではなく聖書の視点です。「聖書はどのように語っているのか」と聖書に聞くことを身に着けていきたいものです。もう1つは、神の約束に目を留めることです。神を信じ歩みつつも自分にとって良いことばかりではありません。「何故」とか「何のために」と思えてしまう事柄に出くわします。しかし、そのような中にあっても神は共にいてくださいます。そして、最善な備えをし最善な方法をもって導いてくださいます。私たちに大切なのは「わたしはあなたと共にいてあなたを守る」という神の約束です。その約束に目を留め、神の約束を信じ歩み続けられるように祈っていきたいものです。私たちが立つものは、聖書と神の約束です。この2つに立って歩み続けられるように祈っていきましょう。

ゼカリヤ4:6「わたしの霊によって」 22.06.05.

序)
 本日は、聖霊がイエス・キリストを信じる一人ひとりにとどまれたペンテコステの日です。何度も触れていますが、「ペンテコステ」とは「50」という意味です。その由来は旧約聖書から来ています。レビ記23:15に「七週の祭り」について書かれています。この「七週の祭りは何から数えて七週目なのか」と言いますと、23:9から書かれています初穂の祭りからです。この初穂の祭りは、レビ記23:1~8に書かれています過越しの祭りの翌日に行われます。イエス・キリストが十字架に架かり死なれたのは過越しの祭りの前日であり、イエス・キリストが死から甦られたのは過越しの祭りの翌日です。それは、イエス・キリストが死からの甦りの初穂であることを示しています。そして、その初穂の祭りから数えて七週目の祭りがペンテコステの日なのです。ですから、「ペンテコステの日」というのはキリスト教から始まったものではなく、ユダヤ教にてすでに行われていたのです。今朝は、この箇所から「神の霊」について共に教えられたいと願っています。

1)背景
 まず、このゼカリヤ書の背景について見てみたいと思います。1:1に「     」と書かれています。「ダレイオス王の第二年」とは、どのような年でしょうか。1節に①と記されています。下の欄外には、「エズラ4:24」と書かれています。ここに「     」と書かれています。では、エズラ記には何が書き記されているでしょうか。エズラ記1:1に「     」と書かれています。イスラエルという国は、ソロモンの息子であるレハブアムの時代に国が南北に分裂してしまいました。そして、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。そして、バビロニア帝国はユダヤ人を捕囚として自分たちの国に連れて行きました。ところが、そのバビロニア帝国はペルシャ帝国に滅ぼされてしまいました。そのペルシャ帝国の王であるキュロスによって、捕囚として連れて来られていたユダヤ人をエルサレムに帰ることを許したのです。そして、2節以降に書かれていますように主の宮、すなわち神殿を建てることを命じたのです。
 ところが、キュロス王が亡くなりクセルクセス王の時代に、神殿建設を良く思わない人たちが告訴状を書き、アルタクセルクセス王の時代に神殿建設を中止することが命じられ中断することになりました。それが「ペルシャの王ダレイオスの治世の時まで続いた」とエズラ記4:5に書かれています。そして、4:6には「     」と書かれています。その告訴状によって、アルタクセルクセス王は4:21~22に書かれていますように、再建中止の命令を出したのです。4:24には、5節と同じことが「     」と書き記されています。バビロン捕囚からエルサレムに帰って来たユダヤ人は、エズラ記1:6を見ますと「     」書かれており、神殿再建の意気込みが強いことが伝わってきます。しかし、反対者によって神殿再建が中止へと追い込まれてしまうことによって、その絶望感はどれほど大きなものだったでしょうか。「もう何をしても無理だ」という絶望感に苛まれたのではないでしょうか。
 今朝の箇所に戻りますが、そのようなとき1:1に「     」と書かれていますように、主のことばが預言者ゼカリヤに告げられたのです。また、欄外の①には、「ハガイ1:1」とも書かれています。ハガイ1:1には「     」と書かれており、ゼカリヤに告げられたのと同じことが、預言者ハガイにも告げられたことが記されています。ハガイ1:14には「主が…すべての霊を奮い立たせた」と、ユダヤ人は主のことばによって心が奮い立たされ、神殿の再建工事を再開し完成へと至ったのです。
 今はコロナのため学びを中断していますが、その学び会は旧約聖書の流れを学んでいます。何故、聖書の流れを学ぶのかと言いますと、その1つはその聖書箇所の背景を知って聖書を読み解いていくためです。背景を無視して聖書のことばを読み解いていこうとしますと、それは思い込みによる解釈になってしまい、間違った捉え方をしてしまいます。そして、みことばを曲解し都合の良い解釈をしてしまう危険性があります。そうならないための学びであることを覚えていただきたいと願います。

2)主のことば
 今までは、今朝の箇所の背景を見てきました。では、預言者ゼカリヤやハガイを通して、ゼルバベルとヨシュアに語られた主のことばはどのようなものでしょうか。そのことは具体的には書かれていませんから分かりません。ですが、今朝の箇所の4:6から想像できます。神は「権力によらず、能力によらず」と語られています。ゼルバベルとヨシュアについては、ハガイ1:1に「ユダの総督ゼルバベルと…大祭司ヨシュアに」と書かれています。ですから、ゼルバベルはエルサレムの行政を治める長として、ヨシュアはユダヤ人の霊的指導者の長として立てられていることが分かります。彼らの中には「私がしなければ」という思いが強過ぎたのではないかと想像できます。そのような思いは私たちにも起こり得るものです。教会の働きで何かを任されたとき、「神様の栄光を現すために私がしなければ」という思いが生じます。そのような思いはすばらしいことです。しかし、「私が」という思いが強過ぎてしまいますと問題が生じることに気づかされるのではないでしょうか。何故なら、神のみわざは私がするのではなく神ご自身がなされるものだからです。
 だから、神はゼルバベルに4:6のみことばをかけられたのではないでしょうか。このみことばは、「神のみわざはあなたがするのではなく、主であるわたしがするものである」と言われているのです。「私が」という思いが強過ぎてしまいますと、神は陰にされたり隅に追いやられたりしてしまいます。さらに怖いことは、そのことに気づかないことです。いや「気づかない」というよりも、むしろ「神は私を用いてくださっている」と錯覚することです。それはゼルバベルとヨシュアも同じでした。彼らは日常生活にも霊的にも問題のある人ではありませんでした。むしろ、模範とするような人たちでした。それでも、このような錯覚に陥ってしまうことがあるのです。
 そのようなとき、神はゼカリヤやハガイを通して気づかせてくださるのです。ここに神のみわざのすばらしさを知らされます。そのことを気づかせてくれるのは人を通してかもしれませんし、ディボーションを通してかもしれません。ただ確かなことは、みことばをもって気づかせてくださるということです。そして、彼らは「私が」という思いを捨てるとき新たな道が開かれたのです。そのことを知らされますと、「私が」という思いは信仰的なように見えますが、それが強過ぎてしまいますと非信仰的なものであることを知らされます。何故なら、神が隅っこに追いやられてしまうからです。ゼルバベルとヨシュアはそのことに気づかされたとき、心が奮い立たされ神殿を再建することができたのです。
 先月の合同聖会の午後の集会で、講師の遠藤先生はⅠコリント12:31で「     」とパウロは語り13章へと続けていると話されました。その13章は「愛の章」とも言われている箇所であり、「愛こそが私たちが熱心に求める賜物である」と話されました。さらに、「純粋な愛の動機から自己実現の喜びにすり替えられてしまうことがある」とも話されました。ゼルバベルとヨシュアも最初は神への純粋が動機からだったでしょうが、次第に「私が」という自分への思いが強まっていったのではないでしょうか。それによって神の御心を見失ってしまい、空回りをしてしまうようになったと考えられます。しかし、ゼカリヤやハガイからの神のみことばによって戻ることができ、心が奮い立たせられ与えられている務めを全うすることができたのです。

3)神の御霊によって
 神はゼルバベルに「権力によらず…わたしの霊によって」と語られました。神の道を閉ざしてしまうものは、権力や能力に頼ってしまうことです。権力とは何でしょうか。それは目に見える物質的なものです。社会的地位やお金というものに目を留め頼ろうとする思いです。そして能力とは、「私がしなければ」という思いです。「神のために私がしなければ」という思いはすばらしいことです。しかし、「私がしなければ」という思いが強過ぎますと、主観的に物事を捉えてしまい間違った方向に進んでしまいやすいのも事実です。神殿再建の完成は権力や能力によってではなく、「わたしの霊によって」と神は「神の霊によって成し遂げられる」と語っておられるのです。
 「神の霊によって成し遂げる」と神が約束されているということは、成し遂げられるために必要なものは全て備えられているということでもあります。だから、権力や能力に頼る必要はないのです。頼るものはただ神の霊なのです。それは神殿再建についてだけではありません。イエス・キリストは、使徒1:8で「聖霊があなたがたの上に臨むとき、わたしの証人となります」と話されました。そして、聖霊がイエス・キリストを信じる全ての人に臨まれ、彼らは大胆に福音を語ることができたのです。その聖霊はいつ彼らに臨まれたのでしょうか。使徒2:1に「五旬節の日」と書かれています。この五旬節の日とは、最初にも触れましたように旧約聖書に定められています七週の祭りの日です。この日は離散していたユダヤ人も巡礼するためにエルサレムに来るときです。神は最初からこの日を備えられていたのです。何でもない日に聖霊がイエス・キリストを信じる人たちに臨まれたのではなく、七週の祭りの日に聖霊がイエス・キリストを信じる人たちに臨まれたのです。私たちは、この神の時を見逃してはいけません。神は最善の時に最善の方法をもって備え導いてくださるお方なのです。ここに神のみわざのタイミングを改めて知らされるのではないでしょうか。
 その事実を見るとき、その神は私たち一人ひとりの歩みにおいても同じであることに気づかされるのではないでしょうか。私たちは日々の歩みの中で様々なことを経験します。それは感謝こともあれば辛いこともあります。ゼカリヤやヨシュアのように、「八方塞がり」という場面に遭遇することもあります。たとえそうであったとしても、神はあなたのために最善の備えをしてくださっています。そして導いてくださっています。何故なら、神はあなたを愛しておられるからです。その神の愛に目を向けさせるものは神の御霊です。その神の御霊は、私たち一人ひとりにも注がれているのです。その神の御霊によって歩まされていきたく願います。

結)
 また聖会の話しになりますが、遠藤先生は午後の集会の中で「愛は愛を求める」と話されました。私にとって、このことばはとても新鮮でした。神が私たちに何よりも求めているものは神への愛であるということです。さらに、「具体的な奉仕ができなくない時が来たとしても、神を愛することができることを覚えておきたい」とも話されました。真心から神を愛することを基として、与えられている務めが全うできるように祈っていきましょう。

使徒の働き6:8~15「神を愛する人ステパノ」 22.05.29.

序)
 先週はキリストにあって一つの身体を形成する教会であっても、人が集まるとき問題が生じることを見ました。そのことを通して、大切なのは目の前の問題を解決することよりも、御霊と知恵によって教会的に考え取り組むことの大切さをも教えられました。今朝は、その御霊と知恵に満ちた一人であるステパノに焦点が合わされ書かれています。今朝は、そのステパノから共に教えられたいと願っています。

1)中心人物ではない人
 使徒の働きの前半は主にペテロの宣教に焦点が合わされ、後半はパウロの宣教に焦点が合わされています。しかし、今朝の箇所はそうではなくステパノという人に焦点が合わされています。ステパノは、使徒の働きの中心人物ではないのです。そのステパノについて聖書は8節で「恵みと力に満ち」と書かれています。「恵みに満ちる」というのは、「神から与えられた恵みに満ちていた」と、多くの人は想像されるのではないでしょうか。私もそのように捉えています。「神から与えられた恵み」とは、罪の赦しと救いです。そのことに大きな感謝と喜びをもって生きていたことを表していると考えられます。では、「力に満ち」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストは、使徒1:8で「聖霊が…力を受けます」と話されました。ですから、この「力に満ち」とは、聖霊が与えてくださる力のことと考えられます。聖霊が与えてくださる力とは、イエス・キリストの証人として歩み続けられる力です。そのようなことから、ステパノという人は罪の赦しと救いに大きな感謝と喜びをもって歩み続けると共に、何処においてもイエス・キリストの証し人として歩み続けている人だったのではないでしょうか。
 今朝の箇所にはステパノに焦点が合わされていますが、8章にはピリポの働きが描かれています。このピリポは12弟子のピリポではなく、6:5に名前が書かれているピリポのことです。使徒の働きの多くは、ペテロとパウロの宣教活動によって福音が前進していくように書かれています。しかし、そのような中心人物だけでなく、ステパノやピリポのような人たちの活動によっても福音は前進していたことにも目を向けさせようとしているのではないでしょうか。先々週は献身者の日で、礼拝の中で湯澤先生の献身の証しが代読されました。その証しの中に、「役員でなくてもその人の特技や知識、賜物が用いられて教会の働きとなるなら広義の献身です。そのような教会の皆さんの献身があって主の教会が建て上げられていきます。」と書かれていました。
 先日の合同聖会でも、講師の遠藤先生が「からだは各器官が違う役目を果たすから一つの有機体として成り立っており、身体全体が同じ器官であるなら異様な怪物である」と話されていました。また、「自分に与えられている賜物を卑下するなら、それは神のみ旨への反逆でもある」と話されていました。福音宣教の働きは特定の人によってなされるのではなく、教会に属する一人ひとりの奉仕と証しによってなされていることを覚えたいものです。

2)神を愛した人
 次に、ステパノは神を愛した人でした。ステパノについては「恵みと力に満ち」、「大いなる不思議としるし」を行う人として8節に紹介されています。このところから、一つのことを知らされます。それは統一性と多様性です。先程も触れました合同聖会でも、遠藤先生は「キリストのからだである教会は多様性であり一つである」と話されていました。その多様性と一つが8節に書かれています。その一つである統一性は「恵みと力」です。これは先程も話しましたが、「罪の赦しと救い」という神の恵みと、1:8で約束されていますイエス・キリストの証し人としての聖霊によって受ける力です。この恵みと力は、イエス・キリストを信じる全ての人に与えられているものです。Ⅰコリント12:3に「     」と書かれています。イエス・キリストを救い主と信じ告白できること自体が、聖霊による助けであり神の賜物として聖霊が与えられていることの証拠です。大切なのは、今朝の箇所に登場しますステパノに与えられている「恵みと力」が、今の私にも与えられているということの自覚です。この「恵みと力」は、全てのキリスト者に与えられている神からの賜物です。
 次に、「大いなる不思議としるし」という多様性です。この「大いなる不思議としるし」は、神がステパノに与えられた特別な賜物です。この特別な賜物は全てのキリスト者に与えられているわけではありません。合同聖会で遠藤先生も話されていましたように、神は一人ひとりに異なる賜物を与えられています。その中で印象的だったのは、「以前は奉仕していたが今は奉仕できない人もおられる。たとえそうであっても、教会に属する一人ひとりは神が教会になくてならぬ器官として備えられた一人である。その一つひとつの器官が組み合わされて一つのからだを成している」ということばです。身体的に奉仕ができなくなったとしても、背後で祈るという「祈りの器官」として存在されているのです。
 大切なのは、「どのような賜物が与えられているのか」とか、「どのようなことができるのか」ということではありません。聖会の午後はⅠコリント12:29~31から話されました。その中で、「どの働きや奉仕も同じであるが、最も大切なのは神への愛である」と話されました。そして、「その神への愛を抜きにした働きや奉仕は無に等しい」とも話されました。ステパノが大胆に福音宣教を続けることができたのも、「この神への愛によるもの」というのは確かなことではないでしょうか。私たちの働きや奉仕も、神への愛の内に活動していきたいと願わされます。

3)予想外のことに遭遇した人
 最後に、ステパノは予想外のことに遭遇した人でした。8~9節を見ますと、ステパノが大いなる不思議としるしを行っていたとき、「リベルテン」と呼ばれる会堂に属する人々がステパノと議論し始めたと受け取れます。すなわち、ステパノが福音宣教の活動をしているときに、キリスト教を良く思わない人たちが横やりを入れてきたと考えても良いでしょう。この「リベルテン」というのは、「自由に解放された者」という意味で英語の「リベラル」と捉えていただいても良いでしょう。調べてみますと、この「リベルテン」と呼ばれる会堂には、離散したユダヤ人らが集っていたようです。その後に書かれています地方からエルサレムに移住し、奴隷から解放された人やその子孫たちが集っていた会堂と考えられます。その人たちがステパノと議論をしたのです。ただ、10節を見ますと、何を議論したのかは書かれておらず「対抗することができなかった」としか書かれていません。しかし、議論の焦点は7章のステパノのことばから推察することができます。
 その1つは、7:48に「     」とステパノが語ったことが書かれています。ユダヤ人は「神殿に神が住んでいる」と理解していました。これはダニエルの行為からも想像できます。ダニエルもエルサレムの方角に向かって祈っていたのです。それはエルサレムに神殿が建てられていたからです。これは出エジプト記で、神が「幕屋の中に住む」と言われたことを根拠としていると考えられます。しかし、ステパノはイザヤ書を引用しつつ否定しています。欄外を見ますと、イザヤ66:1~2からの引用であることが分かります。その前の65:17には「見よ…創造する」と書かれています。66章はその続きです。ステパノは、イエス・キリストによって新しい天と新しい地の創造の時が来たことを告げているのです。それ故に、「神は手で造った家にはお住みになりません」と語り、神殿を救いの根拠にすることを否定しているのです。
 もう1つは、律法を守り行うことによっての救いを否定しています。そのことは7:53のステパノのことばから推察できます。ユダヤ人は「律法を守り行うことによって神の審きから救われる」と信じていました。しかしながら、そのユダヤ人が律法を守り行っていないのです。事実、このステパノの裁判には「偽りの証人を立てて」と6:13に書かれています。申命記19:18~19には「     」と、悪い者を除き去るようにと命じられています。その律法を平気で破り、偽りの証人を立てているのです。それはイエス・キリストの裁判の時もそうでした。マタイ26:60には「多くの偽証人が出てきたが」と数名の偽証人を立ててまでイエス・キリストを有罪にしようとしたのです。人は律法を守り行うことによって救われるのではなく、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じることによって救われるのです。
 今朝の箇所の9節最後の「議論」とは、「そのようなことではなかったか」と推察できます。それに対してユダヤ人は対抗することができませんでした。そのためどうしたのかと言いますと、11節に「ある人たちをそそのかして」と書かれています。「そそのかす」とは、悪い方へ誘い込むことです。彼らはある人たちを悪い方へ誘い込み、さらには12節に「民衆と長老と律法学者たちを扇動し」と書かれていますように、自分たちに有利な方に導くのです。しかも、先程も触れましたが13節に「偽りの証人たちを立てて」と、自分たちが勝つためにはなりふり構わないのです。そのような手段を用いて、ステパノは裁判の席に着かせられたのです。これはステパノが好んでしたことではありません。福音を忠実に宣べ伝えている中で、このような出来事に遭遇したのです。このようなことは、私たちも遭遇することがあります。ただ福音を伝えているだけなのに、良く思わない人から横やりを入れられることがあります。そのようなことに怯(ひる)んでやめてしまうのではなく、神の愛に正しく答えることができるように祈りつつ全うさせていただきたいと思わされる。

結)
 ステパノという人は聖書の中心人物ではありませんが、恵みと力に満ちて心から神を愛する人でした。だからこそ、自分に与えられています賜物を豊かに用いて、どのようなことに遭遇してもイエス・キリストを証しすることができたのです。私たちも神への愛が強められ、イエス・キリストを証しし続けられるように祈っていきましょう。

使徒の働き6:1~7「教会に生じる問題と解決」 22.05.22.

序)
 今、私たちは使徒の働きから教えられていますが、先週は私たちの団体の「献身者の日」で、その前は私の休暇でしたので2週続けて使徒の働きから遠のいていました。使徒の働きを読みますと、福音宣教の実を結ぶことが描かれています。しかし、今朝の箇所は教会内に問題が生じ、その問題をどのように解決したのが描かれています。今朝は、教会に生じる問題と解決について共に教えられたいと願っています。

1)教会に生じた問題
 まず、教会に生じた問題について見てみたいと思います。1節の初めに「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは、5:12以降の使徒たちが最高法院で裁判を受けたときであり、5:14に書かれていますように「主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった」ときの頃です。すなわち、今朝の箇所の1節にも書かれていますように、弟子の数が増えつつあるときのことです。信じる人が増えるのは喜ばしいことです。しかし、同時に人が集まるところに問題も生じることを聖書は語っています。それは「神を信じる教会であっても同じである」ということです。ともすると、私たちは「教会はイエス・キリストにあって一つになることを目指す群れだから、教会の中に問題が生じることは問題である」と思いがちになります。しかし、聖書は「教会であっても人が集まれば問題が生じる」と示しているのです。すなわち「教会の中に問題が生じることが問題ではない」ということです。では「何が問題か」と言いますと、「その問題をどのように解決していくのか」です。
 初代教会では、どのような問題が生じたのでしょうか。1節に「ギリシャ語を使う…対して苦情が出た」と書かれています。このことから、教会の中にギリシャ語に精通していたユダヤ人とヘブル語に精通していたユダヤ人がいたことが分かります。ある方は「えっ、ユダヤ人なのにヘブル語に精通していない人がいるの?」と思われるかもしれません。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていましたから、ギリシャ語社会の中で生活していたユダヤ人がエルサレムに引っ越した人が大勢いて、その中からイエス・キリストを信じた人がいたと考えますと、ヘブル語に精通していないユダヤ人がいても不思議ではありません。そのような違うことばや文化の人たちが1つの教会に集まりますと、当然同じことばや文化の人たちとグループを形成してしまいます。これはやむを得ないもので、生じて当然のことです。そのようなことが生じ、教会の中に差別化のような問題が生じるようになったのです。どのような問題かと言いますと、自分たちのグループを優先してしまうという問題です。これは大きな誘惑でもあり、恐るべきものでもあります。
 教会の人数が増えるにつれ、日本人だけでなくブラジル人やフィリピン人の人たちも増えますと、当然同じことばや文化の人たちのグループ形成が生じます。すると、想像もしない問題が生じることがあります。そのような問題は初代教会だけでなく、現代の日本の教会にも起こり得るものでもあることに気づかされます。初代教会は配給の問題が生じたのですが、いろいろな人が集いますと配給とは別の問題が生じることがあります。同じ日本人の中でも、世代が違いますと文化も違ってきます。そうなりますと賛美やメッセージ、さらには礼拝の式次第の意見の食い違いが生じても不思議ではありません。そのように考えますと、今朝の箇所の初代教会の問題は現代の教会に生じる問題と何ら変わることのないものでもあることに気づかされるのではないでしょうか。それと同時に、「初代教会はその問題をどのようにして解決したのか」に耳を傾けることの大切さをも知らされるのではないでしょうか。

2)解決方法
 次に、解決方法について見てみましょう。初代教会は教会の中に生じました問題をどのように解決したのでしょうか。それは原則に立って解決の道を歩んだということです。その原則の第1は、「教会はキリストにあって一つの身体である」ということです。今朝の箇所で生じました問題を解決するのに手っ取り早い解決策は、グループを分けて活動することでしょう。人数が増えたのですから、ヘブル語を使うユダヤ人グループとギリシャ語を使うユダヤ人グループを分けで活動するのが手っ取り早い解決策でしょう。それが一般社会の考え方ではないでしょうか。しかし、初代教会はそのようなことはしませんでした。何よりも一致を保ち続けることを選んだのです。これが「教会的に考える」ということです。グループに分けて活動するのではなく、グループが一緒に助け合いつつ活動する道を選んだのです。何故なら、教会はキリストにあって一つの身体だからです。
 確かにグループに分けて活動するなら、目の前の問題は解決するかもしれません。しかし、そのために「教会はキリストにあって一つの身体である」という何よりも大切なものが崩れてしまいます。1節の最後に「毎日の配給においてなおざりにされていた」と書かれています。「毎日の配給」ですから、ギリシャ語を使うユダヤ人の中に不満がくすぶっていたと思われます。そして、その不満が抑えられなくなり苦情が出たものと考えられます。ですから、その心の中にあった不満は長い期間であったと想像できます。長い間不満を抱いている相手と一緒に助け合うというのは、手っ取り早いものではなく時間がかかることでしょう。ですが、初代教会は時間のかかる方を選んだのです。何故なら先程も話しましたように、教会はキリストにあって一つの身体だからです。この原則に立つのは、現代の教会においても大切なことです。
 原則の第2は、使徒たちは祈りとみことばの奉仕を優先したということです。今までの使徒の働きをみますと、財産の共有を何処に置いたのかと言いますと、4:35と37、5:2に「使徒たちの足元に置いた」と書かれています。このことから、共有したものを使徒たちが責任をもって配給していたと考えられます。また、今朝の箇所の「私たちが…良くありません」という使徒たちのことばからもそのことが想像できます。この共有財産の使い道は、現代に当てはめますと「教会運営」と考えられます。初代教会は使徒たちが祈りとみことばの奉仕をしつつ、教会運営にも当たっていたのです。しかしながら、使徒たちにとって何よりも優先されるものは、祈りとみことばの奉仕なのです。2節にも書かれていますように、教会が神のことばを後回しにするほど悲しく恐ろしいことはありません。これは牧師の能力の問題ではなく原則の問題です。どの牧師においても、祈りとみことばの奉仕が優先されるのです。
 第3の原則は、奉仕者の選びです。この7人の奉仕者が責任をもって教会を運営していくのです。その務めには誰が就いても良いのではありません。3節に「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」と書かれています。この「御霊と知恵に満ちた」とはどのようなものなのでしょうか。それは、先程も話しましたように「教会的に考えられる人」ということです。以前にも話しましたが、役員会では「教会実務を神学する」という本をテキストとして学んでいます。そのp56の最初に「外部献金などは…教育的奉仕の一つです」と書かれています。私たちが献げています献金は、教会に献げているのではなく神に献げているものです。その神に献げられたものを「如何に用いさせていただくか」が教会に問われているのです。ともすると、献金を「教会に献げている」と思ってしまいやすくなります。すると、「教会への献金」という枠の中で考えてしまうようになり、「外部献金は教会の枠の外」と捉えてしまいます。すると、外部献金は教会の枠の外ですから削ってしまいやすくなります。しかし、「献金は神に献げられている」と捉えますと、神の枠の中で考えるようになります。すると、教会と外部献金は同等の位置づけとして捉えられるようになります。これは先日の合同聖会でも話された「全体と個の関係」でもあります。大きな視野を持って全体と個の関係的視点で物事を捉えられるのが、「御霊と知恵に満ちた」ということです。先程の著書から話しますと、教会の経済的必要を満たすために外部献金を削るというのは、「自分たちが属する教会」という個に目が集中し過ぎて、「神のみわざ」という全体に目が向けられていない状態でもあります。本来は神に献げているものが、いつの間にか教会に献げているという錯覚に陥ってしまうことに、私たち一人ひとりは注意したいものです。

3)結果
 最後に、その結果どうなったのでしょうか。1節で生じました問題に対して、教会は「キリストにあって一つの身体である」という視点に立って取り組みました。「その結果どのようになったのか」と言いますと、聖書は7節で「     」と語っています。7節最初の「こうして」ということばは、使徒の働きを理解する手がかりの一つです。9:31には「     」と書かれていますし、13:49にも「     」と書かれています。さらに、19:20にも「     」と書かれています。また、28:14の最後に「こうして、私たちはローマにやって来た」と語っています。1:8でイエス・キリストは「地の果てまで」と話されました。この「地の果てまで」とは「ローマまで」ということです。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていました。ですから、ローマ帝国からの視点ではローマが中心でありエルサレムは地の果てです。しかし、福音の広がりはエルサレムが中心でありローマは地の果てなのです。すなわち、28:14の「こうして、私たちはローマにやって来た」というのは、1:8で話されたイエス・キリストの約束が成就したことを意味しているのです。すなわち、「こうして」とは、「教会がどのように取り組んだか」ということに目を向けさせようとしているのです。
 神のことばである福音はどのように広がって行ったのかと言いますと、教会が直面する問題を避けるのではなく誠実に取り組んだからです。またそれは、「キリストにあって一つの身体」という視点に立って取り組んでいたからです。ともすると、私たちは「個」というものに目が向けられやすく、「からだ」という全体に目が向けられにくくなってしまいやすいものです。だからこそ、御霊なる神から知恵をいただきつつ取り組んで行くことが大切なのではないでしょうか。この取り組みは「私と教会」ということに限られるのではなく、「教会とJBC」ということについてもそうですし、さらには「JBCと世界宣教」ということについても同じです。突き詰めれば、それは「私と世界宣教」ということにもなります。「世界宣教」と聞きますと、「遠い国でなされる福音宣教」と捉えやすいですが、私たちがいます地も世界宣教の一つであるということも覚えたいものです。私たちにとっては、この高蔵寺地区が福音の中心であり、その福音を信じる人が新たに起こされ、福音が広がって行くことに期待しつつ福音宣教に励んでいきたいと願わされます。

結)
 福音宣教が進み人が増えますと、必ず意見の食い違いが生じ問題が起こります。それは「キリストにあって一つの身体」である教会も同じです。大切なのは問題を生じさせないことではなく、生じた問題をどのように取り組むかです。そのためにも御霊なる神から知恵をいただきつつ、「教会的に考える」という原則に立って取り組むことができるように祈っていきましょう。


マタイ9:35~38「働き人を求める」 22.05.15.

序)
 本日は、私たちの教会が属しています日本バプテスト宣教団の献身者の日です。これは私たちの群れから、新たな献身者が起こされることを願って設けられました。ところが、数年間に伝道部が「幅広い献身のメッセージを」という提案が総会で出され、議決されて昨年度までそのようなメッセージをしていました。ところが、昨年度の伝道部は「直接献身に絞ってほしい」という要望がなされ、今年度より直接献身を意識し「献身のメッセージを」ということが総会で提案され議決されました。そのような方向に転換した背景としましては、今年谷口真樹先生が聖書宣教会を卒業され、その後に続く献身者が与えられていないという現状を鑑みて、JBCの将来に対しての危機感があるのではないかと私は個人的に想像しています。新たな献身者が起こされることは、私たちの団体におきましても急務なことです。今朝は、新たな献身者が起こされることを願いつつ、みことばに耳を傾けたいと願っています。

1)現状
 イエス・キリストは、様々な町や村を巡り福音宣教の働きに励んでおられました。その群衆を見られて、イエス・キリストは「深くあわれまれた」と36節に書かれています。何故、「深くあわれまれたのか」と言いますと、その後に「彼らが羊飼いのいない…倒れていたからである」と書かれています。この「弱り果てて倒れていた」ということばに目が留められます。これは実際に倒れていたわけではありません。しかし、イエス・キリストにはそのように見えたのです。それは「羊飼いのいない羊の群れのように」と書かれています。羊という動物は迷子になりやすく、迷ってしまいますと不安に陥ってしまいます。どの方向に行けば良いかも分かりませんから、ウロウロするしかありません。犬の五右衛門は白内障のためほとんど見えません。そのため教会の2階に上がって降ろしますと、今まではすぐに牧師室に入ったのですが、今は薄暗いため別の部屋に行ってしまいます。そのため目の前に私が立ちますと、私に気づきホッとして私の後に着いて牧師室に入ります。
 イエス・キリストは、群衆を見て迷っている羊のように思われたのです。彼らが行く当てが分からず、さまよい歩き疲れ果てた羊のように見えたのです。「弱り果てて倒れていた」とは、不安や悩みなどで苦しんでいる状態を表しています。イエス・キリストを信じる私たちにも、当然不安を抱いたり悩んだりすることがあります。何度も話していますが、不安を抱いて悩むことが問題ではありません。それは人として当然のことです。私たちも不安を抱き悩むことがありますが、頼ることのできる方を知っています。しかし、イエス・キリストを信じていない人は、その頼るべき方が分かりません。ですから、問題を自分自身で抱えなければならないのです。そして、その苦しみの中で生きていかなければならないのです。表面上は元気そうに見え、経済的にも満たされており、大丈夫そうに思える人々。しかし、その心の中には大きな課題を持ちつつ、誰にも言えずに悩み苦しんでいる人が大勢おられます。イエス・キリストは、そのような人々を見て憐れんでおられるのです。私たちは人の表面的なものを見て「大丈夫だろう」とか「どうしたのだろうか」と思います。でも、イエス・キリストは人の心の中を見ることのできるお方です。一人ひとりがどのような課題を抱え、悩み苦しんでいるかを御存知なお方です。しかし、イエス・キリストを信じていない人は、その頼るべきお方を知らないがために、心の必要も満たされることはありません。不安や恐れから何の解決もされず歩み続けなければなりません。
 イエス・キリストは、そのような人を深く憐れまれたのです。イエス・キリストは、真の神であられる主を信じることなく、様々な不安や恐れを抱いて苦しんでいる人に対して、「わたしを信じないから」とその人を責めてはおられません。様々な苦しみに対して、「それはあなたが罪を犯したからだ」とか「良いことをしていないからだ」とも言われてはおられません。ただ、その人を深く憐れまれたのです。愛を持って一人ひとりを見ておられたのです。イエス・キリストとはそのようなお方なのです。私たちの弱さを責める方ではなく、その弱さを憐れみ受け入れてくださるお方なのです。その愛こそが福音宣教の源でもあります。イエス・キリストの福音宣教は、自分の教えを広めるためや、群れを成長させるために始められたのではありません。愛することから始められたのです。

2)神の約束
 そのイエス・キリストは、弟子たちに何と言われたでしょうか。37~38節に「     」と書かれています。まず37節には、「収穫は多いが働き手が少ない」と現実が書かれています。「収穫が多い」とは、本当の羊飼いを持たない羊が多いということです。多くの人は不安や悩みを抱きつつも、心を休める所を持っていません。「この方に着いて行けば大丈夫」という安らぎを得てはいないのです。本当の心の救い・魂の安らぎを大勢の方が求めておられます。イエス・キリストは「収穫は多い」と、「不安や悩みを抱え、心の救いや魂の安らぎを求めている人が多い」と言われているのです。
 また「収穫が多い」とは、実が実っている状態を表してもいます。イエス・キリストは4つの種の譬え話しをされました。道端に落ちた種は、鳥に食べられてしまいました。岩に落ちた種は、根がないためすぐに枯れてしまいました。いばらの中に落ちた種は、いばらにさえぎられ成長しませんでした。成長して実を結んだのは良い地に落ちた種だけでした。その種は30倍・60倍・100倍の実を結びました。「収穫が多い」とは、その良い地に落ちた種のことです。成長して実を結ぶのが多いということです。すなわち、これは不安や悩みを抱え、心の救いや魂の安らぎを求める人が多いだけでなく、その中で神を必要とされている人も多いということです。日本の現状を見ますと、まさしくそうではないでしょうか。経済的には豊かになっていますが、心の中はどうでしょうか。決して心も豊かになったとは言えないのが現状ではないでしょうか。自殺者は減少傾向にありますが2万人を超えています。2021年の自殺者数は20830人でした。2021年の交通事故死者数は2836人です。交通事故死と比較しますと7倍を超えた数字です。
 日本という国は、「独特の精神文化を持っており、福音宣教が難しい国」ということを耳にします。確かに、多くの人は生きている時は宮詣りや七五三などの神道行事をし、亡くなってからは仏教行事をされます。信仰心というものを大切にし、信仰の対象はあまり深く考えないようにも思えます。だから難しいように思えます。しかし、イエス・キリストは「収穫が多い」と言われておられるのです。「心に不安や悩みを抱え、救いと安らぎを求めている方が多く、その中で神を必要とされている人が多い」と言われているのです。それは「神を必要とされている人が多い」ということだけでなく、「真の神を信じる人も多い」ということです。これはイエス・キリストの私たちに対する約束でもあります。多いのですから、私たちはそのみことばを信じ期待して励むことが大切なのではないでしょうか。そのことを信じ期待しつつ、福音宣教の働きに仕え続けられるように祈っていきたいものです。

3)イエスの求め
 イエス・キリストは約束を話されましたが、働き手が少ないのも現状です。最初でも話しましたように、日本では教職者の高齢化が加速し、無牧の教会が急増しています。ここでイエス・キリストが求めておられることは、「働き手が少ないから働き手が起こされるように祈りなさい」ということです。ここで注目したいのは、イエス・キリストは決して「多くの収穫が得られるように」とは求めてはおらないということです。多くの収穫が得られるか得られないかが大切なことではなく、働き人が起こされることが大切なのです。少ないのは収穫ではなく働き人なのです。ですから、その働き人が起こされるのを祈ることを求めておられるのです。
 この37~38節のみことばは、ルカ10:2にも書かれています。ここは、イエス・キリストが72人の人を派遣されたときに語られたものです。ルカの9:1を見ますと、12弟子が派遣されたことが書かれています。さらに、その前の8:1ではイエス・キリスト一人が福音宣教をなされ、弟子たちはそのお供に過ぎなかったことが書かれています。これは1人から12人に、そして12人から72人へと福音宣教に遣わされる人が増えていったことが描かれています。それにも拘らず、72人にも増えたことで「良し」とされているのではなく、イエス・キリストは「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と語られているのです。イエス・キリストが私たちに求めておられるものは働き人なのです。イエス・キリストが必要とされているのは働き人なのです。
 御存知だと思いますが、私たちの団体のミッションであるNABから最初に遣わされた宣教師は、軽井沢で日本語の勉強をされていました。そのとき「日本で一番福音が必要な地は何処か」と調べました。日本には伊勢信仰というものがあります。伊勢神宮には天照大神が祭られています。今も天皇や首相は伊勢神宮に参拝に行きます。先日も秋篠宮が皇嗣となったことの報告として伊勢神宮に参拝しました。ある面、伊勢神宮は神道の聖地とされています。そのために、日本で一番福音が必要なのは伊勢であるとして始めたのが私たちの団体です。その間様々なことがありました。年数からしますと、数字的には決して多いとは言えない教会数ですし会員数です。しかし、神がこの団体を今日まで導いてくださり、用いてくださっていることは確かなことです。そして、私たちの団体も新たな働き人を必要としています。是非、新たな働き人が起こされるように祈っていただきたいと願います。

結)
 今年の3月に谷口真樹先生が聖書宣教会を卒業され、津教会の教育主事として働かれるようになりました。そのため神学校で学ぶ神学生は、私たちの団体には一人もいません。谷口真樹先生に続く献身者が起こされるように祈っていきましょう。


使徒の働き5:33~42「福音を宣べ伝え続ける」 22.05.01.

序)
 先週は使徒の働き5:29~32を通して、「悔い改めと罪の赦し」について見ました。教会ではイエス・キリストの十字架による死が強調されますが、福音はイエス・キリストの十字架による死だけでなく、イエス・キリストの復活も含まれていることを見ました。何故なら、イエス・キリストの十字架による死だけならば、罪の報酬である死の問題は解決されていないからです。イエス・キリストが死から復活されて、初めて罪の報酬である死の問題が解決されたのです。ですから、使徒たちは29節で語っていますように、「人に従うより、神に従うべきです」と宣言したのです。その宣言から3つの反応が生じました。今朝は、その3つの反応を見てみたいと思います。

1)厳しい反応
 1つはキリスト教に厳しい反応をする人たちです。33節に「彼らは怒り狂い」と書かれています。この怒り狂った人たちはどのような人でしょうか。5:17には「大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たち」と書かれています。そして、その後に「ねたみに燃えて立ち上がり」と書かれています。これは今朝の箇所の「怒り狂い」と似た表現です。ですから、この怒り狂った彼らとは、大祭司とその仲間たちであるサドカイ派の人たちと考えるのが妥当でしょう。この「怒り狂い」と訳されていることばに*印が付けられています。下の欄外を見ますと、直訳では「心を(のこぎりで)引き切られ」というものです。もう心の中は煮えくり返っている状態を表しています。ちょっとやひょっとでは収まらないのです。そのことをよく示しているのが40節に書かれています。
 彼らは怒り狂って使徒たちを殺そうと考えました。そのとき、ガマリエルという人が彼らに意見を出しました。39節の最後には「議員たちは彼の意見に従い」と書かれています。そして、40節に「使徒たちを…釈放した」と書かれています。議員たちはガマリエルの意見に従うのなら、使徒たちに「イエスの名によって語ってはならない」と命じるだけで良かったのです。ところが、議員たちは使徒たちにむち打ちをしたのです。これは議員たちの心がちょっとやひょっとでは収まらない状態であったことを示しているのではないでしょうか。
 この議員たちは、先程も見ましたようにサドカイ派の人たちです。では、サドカイ派とはどのような人たちでしょうか。マタイ22:23に「復活はないと言っているサドカイ人たちが」と書かれています。ですから、サドカイ派の人たちは死者の復活を信じていない人たちです。彼らも使徒たちが言った「人に従うより、神に従うべきです」ということばは受け入れたことでしょう。しかし、イエス・キリストが甦られたことは受け入れられなかったのです。何故なら、「死者の復活などあり得ない」と決めつけていたからです。この決めつけこそが、真理に目を背けさせてしまう要因です。この「決めつけ」というのは、私たちの中にも起こり得るものでもあることに気づかされます。決めつけた見方をしないように心がけていきたいものです。

2)寛容な反応
 次はキリスト教に寛容な反応です。33節に怒り狂って使徒たちを殺そうと考えた人たちの形相はどのようなものだったでしょうか。これは想像でしかありませんが、とても険しい表情だったのではないでしょうか。その形相を見てガマリエルという人は発言したのではないかと想像できます。このガマリエルという人は、使徒22:3に書かれていますようにパウロに律法について厳しく教育した人で、パウロの恩師です。
 このガマリエルは、チウダとガリラヤ人ユダの例を示して、2つのことを語っています。1つは人間から出た計画は一時的に栄えたとしても、時間の経過とともに自滅するというものです。もう1つは、神の計画は人間がどれほど抵抗しても必ず実現するというものです。このガマリエルの発言に、皆さんはどのように思われるでしょうか。「正しい・間違っていない」と思われるでしょうか。それとも「正しくない・間違っている」と思われるでしょうか。このガマリエルの発言は正しく間違ってはいません。しかしながら注意すべき点もあります。それは38節で発言されています「放っておきなさい」ということばです。これは良く言えば「神に委ねなさい」ということですし、悪く言えば「責任を放棄しなさい」というものです。
 創世記2:15に「     」と書かれています。神は世界を造られ支配されておられます。ですから、この世界は神のみ旨だけがなされるのです。しかし、神は人にエデンの園を耕させ守らせたのです。また、1:26には「     」と仰せられたのです。この「支配する」とは「管理する」ということです。すなわち、神はこの世界を人間に委ねられたのです。ですから、人間は世界を管理する責任が与えられているのです。例えば、現在地球は温暖化で「二酸化炭素を減らそう」という動きがあります。これは人間が世界を管理する責任を果たすものでもあります。それに対して、「いや私たちは何もしないで神に委ねるべきだ」という考え方もあるのではないでしょうか。
 これは伝道についても同じことが言えます。「神は最初から救われる人を選んでおられるのだから、私たちは祈るだけで他は何もしないで神に委ねるべきだ」と言って、伝道しないというのはどうでしょうか。神は人に世界を管理する責任を与えておられますし、福音を伝える責任を私たちに与えておられます。その責任を果たすこともしないで、神に委ねるというのは正しいことでしょうか。何度も話していますが、神は私たちに結果を求めてはおられません。忠実であることを求めておられるのです。私たち一人ひとりに与えられています責任を果たすことを求めておられるのです。コロナ禍で集会を開くことが難しい中で、今年度は一人ひとりが住んでいる地域に福音版を配布することを掲げました。これも責任を果たすことの一つだと思わされています。
 パウロがコリントの町で伝道しているとき、神がパウロに告げられたことが使徒18:9に「     」と書かれています。まず神はパウロに「恐れないで」と語りかけておられます。それはパウロの心の中に恐れが生じていたからです。何故パウロは恐れを覚えたのか、その恐れはどのようなものであったのかは分かりません。確かなことは、恐れを覚えていない人に「恐れないで」とは語りかけないということです。ですから、このときパウロは恐れを覚えていたと考えるのが妥当でしょう。ただ恐れを覚えていても語り続けることを神は求めておられるのです。そのパウロは、テモテに宛てた手紙でも同じようなことを勧めています。Ⅱテモテ4:2に「     」と書かれています。「時が良くても悪くても」というのはテモテ自身が感じている状況です。その中には、多くの人が「そうよね~」とか「分かる~」というものもあるかもしれません。そのような中で、今自分にできることを実践することは大切ではないでしょうか。福音が広がることを神に祈るのは大切なことです。それと同時に、私たちができることを果たすのも大切なことです。祈りながら何もしないのは、放っておくのと同じではないでしょうか。祈りは行動が伴うものであることを改めて教えられます。

3)イエスに従う反応
 最後はイエスに従う反応です。ガマリエルの提案によって使徒たちは釈放されますが、再び「イエスの名によって語ってはならない」という厳しい禁令を受け、むち打ちを受けて釈放されます。しかし、そのような取り扱いを受けたにも拘わらず、彼らは「喜びながら、最高法院から出て行った」と41節の最後に書かれています。何故、使徒たちはこのような取り扱いを受けながら、喜びながら最高法院から出て行くことができたのでしょうか。そのことについて、聖書は「御名のために辱められるに値する者とされたことを」と説明しています。使徒たちの喜びの根拠は、「御名のために辱められたことが喜びの根拠である」と聖書は語っているのです。
 この「御名のために辱められる」という経験は、ペテロの人生において大きな意味を持っていたものと考えられます。何故なら、ペテロもⅠペテロ4:12~13で「     」と語っているからです。それは何よりも、イエス・キリストご自身もマタイ5:11~12「わたしのために…大いに喜びなさい」と話しておられます。11節の「ありもしないことで」と話されていることに注目させられます。「ありもしない」というのは、理由や原因が私たちにあるというのではありません。理由や原因が私たちにあって非難を受けるのは「キリストの故の苦しみ」ではありません。むしろ、ペテロは先ほど開きましたⅠペテロ4:15で「     」と、理由や原因が私たちにあっての苦しみは受けないようにと勧めているのです。ですから、理由や原因が私たちにあっての苦しみを「キリストの故に苦しみを受けている」と捉えるのは間違いです。その所を注意しておきたいものです。
 では、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜んだ使徒たちは、その後どのような歩みを続けたのでしょうか。42節に「     」と書かれています。「毎日、宮や家々で」と書かれていることに注目したいのです。「毎日」とは「日常生活の中で」ということです。また、「宮」とは特別な場所ですが「家々」は特別な場所ではありません。このことから、私たちの何気ない日常生活の中で、場所に囚われずイエス・キリストを証ししていくことの大切さを知らされるのではないでしょうか。ですが、そこには「日々みことばに養われる」ということが前提とされていることも見逃しはなりません。すなわちディボーションです。みことばに養われ整えられない限り、イエス・キリストを証し続けることはできないのです。今までの聖書では、42節の最後のところを「宣べ伝え続けた」と訳されていましたが、今の聖書には「宣べ伝えることをやめなかった」と訳されています。どちらも同じ意味ですが、「やめなかった」という方が「宣べ伝える」ということを強調しているようにも受け取れます。これは私の受け止め方かもしれませんが。
 何度も触れていますが、今年度は住んでいる地域に毎月福音版を配ることとしました。配り続ける中で、「やめよう」と思いが生じることもあると思います。しかし、「宣べ伝えることをやめなかった」とありますように、やめることを選ぶのではなく、配り続けていく・宣べ伝え続けていくことを選び、歩み続けさせられたく願います。

結)
 今朝は、使徒たちの宣言を通して3つの反応を見ました。私たちはイエス・キリストの十字架による死と復活によって、罪の赦しと希望という神の恵みを受けています。その神の恵みを受けている者として、使徒たちのように福音を宣べ伝え続ける者とさせられたいものです。ですが、同時にピリピ1:29に「     」と書かれていますように、キリストのために苦しむこともあるのです。その苦しみは「御名のために辱められる」ことでもあるのを覚えつつ、与えられています使命を果たし続けられるように祈っていきましょう。


使徒の働き5:29~32「悔い改めと罪の赦し」 22:04.24.

序)
 早いもので、4月の主日礼拝も最後の日となりました。来主日は、初夏の時季でもある5月に入ります。先週は、イエス・キリストが死から甦られたイースターでした。そのイエス・キリストの甦りを思い巡らしていますと、今朝の箇所に注目させられました。今朝は「悔い改めと罪の赦し」について共に教えられたいと願っています。

1)悔い改めの重要性
 私たちは悔い改めがどれほど重要であるかを知る必要があります。イエス・キリストは悪魔の試みを受けられた後、ガリラヤ地方に行かれて「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われたことがマタイ4:17に書かれています。また、マルコ1:15では「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と話されたことが書かれています。また、その後イエス・キリストは、12使徒を2人1組にして遣わされました。そして、彼らは「悔い改めるように宣べ伝え」とマルコ6:12に書かれています。さらにルカ24:46~48には、甦られたイエス・キリストが「キリストは苦しみを受け…これらのことの証人となります」と宣言しています。47節に「その名によって」と書かれています。「その名」とは「誰の名によってなのか」と言いますと、イエス・キリストの名によってです。イエス・キリストの名による罪の赦しを得させる悔い改めは、「エルサレムから開始して」と47節に書かれています。悔い改めと罪の赦しは、エルサレムに留まるのではなくエルサレムから始まるのです。そして、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と話されていますように、世界各地に広まっていくことが約束されています。
 使徒の働き2:38には、その約束を経験したペテロがペンテコステの日に、「それぞれ罪を赦して…聖霊を受けます」と語ったことが書かれています。使徒の働きは福音の広がりが描かれていますが、その福音が広がるには一人ひとりの自分の罪の悔い改めが必要であることを語ってもいるのです。この使徒の働きの後半部分は、パウロの伝道旅行に焦点が絞られて書かれています。パウロは熱心なユダヤ教徒でキリスト教を迫害していました。そのパウロは個人的に甦られたイエス・キリストと出会い、自分の罪を悔い改めて神から召しを受けて異邦人への宣教を始めました。
 そのパウロは使徒の働き26:20で「     」と、「悔い改め」ということばを2回も用いています。では、それほど重要な「悔い改め」とはどのようなものでしょうか。悔い改めを知るためヨハネの黙示録2:5が一つの手掛かりを与えてくれます。ここに「どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」と書かれています。まず大切なのは「どこから落ちたのか」という本来居るべき場所を思い起こすことです。それは神のかたちとして造られ、神に愛されている者として存在している所です。その所から落ちて、現在の自分がいる所とを思い比べ、今のままではいけないことに気づき、本来居るべき所に戻ることを決断する。これが聖書の求めている悔い改めです。
 有名な箇所の一つであるルカ15章に描かれています放蕩息子の譬え話は、「悔い改めとは何か」というのをよく示しています。弟息子は父親に愛されていることに全く気づかず、財産を分けてもらうことを要求し、遠い国に旅立って分けてもらった財産を湯水のように使い果たしてしまいました。その時、その地方に大飢饉が起こり彼は食べるものにも困り果て、豚の食べ物で腹を満たしたいほどでした。そのような中で、この弟息子は「我に返って」と17節に書かれています。この「我に返る」ことこそが、聖書の語る悔い改めです。自分が父の息子であり、父と共に生きることこそが、彼にとって本来のあるべき姿です。悔い改めとは、本来のあるべき姿と現在の自分の姿の違いを正直に認めて、神の愛に正しく答えて生きる本来の人間の姿に立ち返ることです。
 では、人はどのようにして立ち返れば良いのでしょうか。人が初めて神に罪を犯したとき、神は人に「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられました。その神の呼びかけに答えることによって道は開かれるのです。「どのようにして立ち返れば良いのか」と言いますと、神の呼びかけに答えることによってです。
 私たちは、「何か奇蹟や不思議な出来事が起これば、悔い改めることが可能になる」と錯覚してしまいがちです。例えば、「その人の身に何か不思議なことが起きたら悔い改めるのではないか」と。ですが、聖書を通しての神のことばに答えないなら、どのようなことも悔い改めへと導かれないのです。先程はルカ15章の放蕩息子の箇所を見ましたが、16:19からは金持ちとラザロの譬え話が書かれています。金持ちは贅沢な生活を過ごしていましたが、ラザロは貧しい生活を過ごしていました。ある日、そのどちらも亡くなりました。そして、ラザロはアブラハムの懐に連れて行かれましたが、金持ちは黄泉で苦しんでいました。27節を見ますと、この金持ちはアブラハムに「父よ。それでは…警告してください」と頼みます。それに対してアブラハムは「彼らには…聞くが良い」と29節で答えています。すると金持ちは「いいえ、父アブラハムよ…悔い改めるでしょう」と答えました。しかし、アブラハムは31節で「モーセと預言者…聞き入れはしない」と返事をして、この譬え話は終わっています。
 その後、この金持ちの兄弟たちはどうなったのでしょうか。そのことは書かれてはいません。皆さんはどうなったと想像されるでしょうか。譬え話が途中で終わるというのは、ルカの福音書の特徴の一つです。例えば、13:6~9のいちじくの木は、その後実を結んだのかどうか書かれていません。また、先程見ました放蕩息子もそうです。15:32で終わっていますが、兄息子は父のことばに対してどのように反応したかは書かれていません。皆さんは、各々の譬え話のその後はどうなったと想像されるでしょうか。実は、この後どうなったかは皆さん一人ひとりの生き方によって描かれていくのです。聖書を通しての神のことばに対して自分の過ちを認め、そのことを悔い改めて神のことばに正しく答えていくことが聖書の語る悔い改めなのです。みことば無くしての奇蹟や不思議な出来事による悔い改めなどは、聖書の語る悔い改めではないのです。聖書の語る悔い改めは、神のことばに正しく答えていくというものなのです。
 その悔い改めは誰もがする必要がありますし、誰もができるものでもあります。ユダヤ人は「自分たちは神の律法を守っており義なる者」と自認していましたが、そのユダヤ人にも使徒たちは悔い改めを求めているのです。何故なら、ガラテヤ2:16に「人は律法を行うことによって…義と認められるためです」と書かれているからです。「私は悔い改める必要などない」というのは間違いですし、「私は悔い改める価値などない」というのも間違いです。誰でも悔い改めは必要であり、悔い改めることは可能なのです。これが聖書の語っている福音なのです。

2)罪の赦し
 使徒たちは、ユダヤ人に対して悔い改めを求めると同時に、罪の赦しの約束をも語っています。イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって十字架に架かって死んでくださり、死と罪に打ち勝って甦ってくださいました。先週の礼拝は、そのイエス・キリストが死から甦られたイースター礼拝でした。そのイエス・キリストの甦られたことによって、Ⅰコリント15:54に書かれていますように「死は勝利に吞み込まれた」のです。イエス・キリストの死と復活は罪の赦しの根拠なのです。決して、人の努力や行いなどでは得られるものではないのです。
 人の努力や行いによっては決して得られない罪の赦しは、ただイエス・キリストの十字架による死と復活を信じることによってのみ与えられるのです。これが罪の赦しの喜ばしい福音です。では、信じるだけで罪の赦しが与えられるのは、あまりにも安易な方法でしょうか。決してそうではありません。罪の赦しは決して安易なものではありません。へブル9:22に「     」と書かれています。ところが、今まで用いていました新改訳聖書第3版までは「律法によればすべてのものは血によってきよめられます」と訳されていました。新改訳2017には「ほとんどすべて」ということばに変えられています。この「ほとんどすべて」ということばは、「ほぼ」とか「大体」という意味です。ですから、本当の意味での「全て」ではないのです。今までの新改訳聖書も「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう」と、ことばを濁して訳されています。
 レビ記16章には贖罪の日について書かれています。15節に「     」と書かれています。この「宥めの蓋」は、以前は「贖いのふた」と訳されていました。大祭司は自分の罪のためには雄牛を代わりにほふり、民の罪のためには雄やぎが代わりにほふられました。それによって大祭司と民の罪は贖われるのです。何が贖われるのでしょうか。それは神の審きが贖われるのです。34節を見ますと、その贖いの儀式は年に一度行うことが定められています。ですから、完全なる神の審きの贖いではありませんでした。ところが、へブル9:25~26には「     」と書かれています。イエス・キリストの贖いは一度だけのものです。それは完全に神の審きの贖いがなされたことを意味しています。しかし、イエス・キリストの十字架による死だけでは不十分なのです。何故なら、死の問題は解決されていないからです。確かに、イエス・キリストの十字架の死によって神の審きから救われ、罪の赦しを受けることはできました。しかし、まだ死の問題は解決されていないのです。ローマ6:23に「罪の報酬は死です」と書かれていますように、死がこの世に入ったのは人が神に対して罪を犯したからです。そのため、死に対する恐れや不安は解決されていないのです。この死の問題が解決されて、初めて死への恐れや不安から解き放たれるのです。そのためにイエス・キリストは死から甦られたのです。
 イエス・キリストの十字架による死は、神の審きの身代わりとしての完全なる贖いです。そして、イエス・キリストの復活は、完全なる死に対する勝利なのです。このイエス・キリストの十字架による死と復活の両方をもって福音なのです。

結)
 今朝は、悔い改めと罪の赦しについて見ました。私たちは神の恵みである罪の赦しを受け、死に対する勝利をも約束されています。この福音を一人でも多くの人に伝えていきたく願わされます。今年度より新たな伝道として、住んでいる地域にクリスチャン新聞福音版を定期的に配ることとしました。それが豊かに用いられ、教会に導かれる方が起こされることを願っています。そして、そのような方々が自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じ、罪の赦しと死への恐れからの解放が得られるように祈っていきましょう。


マタイ28:1~10「イエスは甦られた」 22.04.17.

序)
 イースターおめでとうございます。今では、日本でもイースター行事が一般的に行われつつあります。イースターはイエス・キリストが死から甦られた日です。キリスト教はこの日を「主の日」として、神に礼拝を献げる日としました。ですから、主日礼拝とは、イエス・キリストの死と復活を覚えて神を礼拝することです。また、それだけではなく本当の主の日、すなわちイエス・キリストが再びこの世に来られることを待ち望みつつ礼拝するのが主日礼拝です。今朝は、特にイエス・キリストの復活を覚えつつ、その意味は何かを御使いが女性たちに話したことばから、共に教えられたいと願っています。

1)ここにはいない
 まず御使いは、女性たちに「ここにはおられません」と話しました。「ここ」とは何処でしょうか。それはイエス・キリストが葬られたお墓です。墓とは死んだ人が葬られる所です。これは一般社会の常識です。現代では、「散骨」というものが行われたりもしますが、殆どは墓に納められます。教会の葬儀でも死んだ人を墓に葬ります。死んだ人を墓に葬るのは現代でも一般的常識となっています。この女性たちも、イエス・キリストを信じつつ、この一般社会の常識の中で生活していました。ですから、「イエス・キリストは死なれ墓に葬られたのだから御遺体は墓の中にある」と思っていたのです。そのように捉えるのはごく普通でしょう。ですが、御使いは「ここにはおられません」と話し、その後に「前から言っておられたとおり」と語っています。この御使いのことばから、この女性たちもイエス・キリストが甦られることを聞いていたことが分かります。この女性たちはイエス・キリストの話しを聞いていながら、イエス・キリストの話しをすっかり忘れてしまっていたのです。何故でしょうか。イエス・キリストの十字架という衝撃的な出来事を体験したからでしょう。心の動揺が大きく、気が動転してしまい、イエス・キリストの話しをすっかり忘れてしまったのでしょう。或いは、自分の常識という枠の中でイエス・キリストの話しを聞いていたのかもしれません。ただ、彼女たちはイエス・キリストが死なれた後、自分の思いや考えで行動していたのです。
 私たちは、そのような彼女たちのことをどのように思うでしょうか。「なんだ、だらしのない」とか「本当に彼女らはイエス・キリストを信じていたのか」と思うでしょうか。この箇所には、人の本当の姿が描かれています。それは、人は神を信じる信仰が与えられたとしても、大きな出来事を体験し心の動揺を覚えたとき、神のみことばを忘れてしまうということです。または、自分の常識の枠の中で聞いてしまうということです。私たちも突然何かが生じたときは「どうしよう」と思い、神のみことばを忘れてしまい自分の思いや考えで行動してしまうのではないでしょうか。それが私たちの現実の姿ではないでしょうか。ですが、神はそのような私たちに「ここにはいない」とみことばをもって示してくださいます。「ここにはいない」とは、そのような人間の常識の中で行動しても本当の解決はないということです。「前から言っておられたとおり」と、本当の解決は神のみことばにあることを、神は私たちに示しておられるのです。私たちは自分の常識という枠の中で解決を見い出そうとしてしまいやすいのですが、本当の解決は自分の常識の中にあるのではなく、神のみことばによる約束の中にあります。「ここにはおられません」というみことばは、私たちにそのことを示してくださいます。

2)甦られた
 次に、御使いは「よみがえられたのです」と話しました。「甦られた」とは、今も生きていることを意味しています。では、イエス・キリストが今も生きておられるとは何を意味するのでしょうか。2つあります。1つは、イエス・キリストの約束が今も生きているということです。イエス・キリストは、マタイ11:28で「     」と約束してくださいました。イエス・キリストは、あなたの重荷を負ってくださる方です。人の一番の重荷は何でしょうか。それは人間関係ではないでしょうか。人は誰もが人間関係で悩んでしまいます。私たちは「人間関係」と聞きますと、「他人との関係」をまず思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、他人との関係も人間関係の一つですが、自分との関係も人間関係の一つです。人によっては、その人間関係があまりにも重過ぎるがために、人生に疲れてしまわれる方がおられます。イエス・キリストは、その重荷を負ってくださるのです。イエス・キリストが重荷を負ってくださるということは、自分の重荷がなくなったということではありません。30節で「     」と話されています。「わたしの荷は軽い」ということは、自分もイエス・キリストの重荷を負うということです。しかし、今までの重荷よりは軽いのです。イエス・キリストを信じることによって、あなたが負われている重荷は軽くされるのです。
 またイエス・キリストは、ヨハネ14:27で「     」と約束してくださいました。イエス・キリストはあなたに平安を与えてくださる方です。イエス・キリストが与えてくださる平安とは、この世が与える平安とは違います。平安とは、心が安らぐことです。心の安らぎというのは、自分という存在が認められ受け入れられることによって得られます。この世は、どのようにして人を認め受け入れるでしょうか。それは、その人の行いという結果によってではないでしょうか。良い結果を出した人を認め受け入れますが、良い結果を出せない人は認め受け入れられません。そうではないでしょうか。仕事で失敗ばかりしている人を受け入れないのではないでしょうか。先日、バイト先でレジのバイトが期限切れの商品券を受け取って処理をしてしまいました。私はレジの精算をしてチェックしているときに期限切れの商品券を見つけ、後で注意をして他のバイトにも注意するように伝えました。その失敗が何度も続きますと、契約更新はされなくなってしまいます。私たちは、そのような社会の中に生かされています。
 ですから、そのような社会が与える平安を求めようとします。そのために、行いや結果を求めて生きるようになります。そのような人生はどうでしょうか。そこには本当の安らぎというものはありません。ただ疲れてしまうだけです。イエス・キリストが与えられる平安とは、この世が与える平安とは違います。その人の行いや結果によってではありません。ありのまま受け入れ認めてくださいます。今のあなたを認め受け入れてくださるお方なのです。失敗ばかりしてしまう私たちを愛し、認め受け入れてくださいます。「こんな私でも愛され受け入れられている」ということを知るとき、人は心の中に本当の安らぎを覚えることができます。今のあなたがありのまま愛され受け入れられているという約束は、今も生きているのです。
 もう1つは、人は死んで終わりではないということです。人が死に甦るというのは、社会の常識では考えられないことです。社会の常識は、人は死んで終わりというものです。ところが、福音のメッセージは「人は死んでも終わりではない」というものです。甦られるということです。何度も話していますが、死が意味するものは絶望でありお終いというものです。ですが、イエス・キリストの復活によって、絶望が絶望でなくなるのです。「もうお終いだ」「お手上げだ」と思っていたことが、お終いではなくお手上げではなくなるのです。死が意味するものが絶望であるならば、生きることは何を意味しているのでしょうか。それは希望です。人は希望があるから生きることができるのです。生きることの希望をなくしたら、その人の人生はとても惨めなものになってしまいます。イエス・キリストが甦られたことによって、あなたの人生には希望があることを明らかにしてくださったのです。たとい、あなたが「もうダメだ」と思ったとしても、神はそのところから道を開いてくださいます。ですから、あなたの人生に「お終い」という文字がなくなるのです。たとい死んだとしても、死んでお終いではないのです。イエス・キリストが再び来られるとき「甦り」という希望が与えられているのです。イエス・キリストが死から甦られたことによって、私たちの人生にはお終いがなくなったのです。あるのは希望だけです。イエス・キリストの甦りは、そのことを示しているのです。

3)わたしに会える
 最後に、御使いは7節で「     」と話しました。何故イエス・キリストは、ガリラヤで弟子たちとお会いされるのでしょうか。ヨハネ21章の箇所でも話しましたが、ガリラヤ地方はイエス・キリストが福音宣教を始められた場所であり、弟子たちを召し出された場所でもあります。ですから、ガリラヤ地方は弟子たちにとって出発点でもあったわけです。その弟子たちは、イエス・キリストが捕えられたときイエス・キリストを見捨てて逃げてしまいました。そして、ユダヤ人を恐れて家の中に閉じ籠っていたのです。弟子たちの心はどのようなものだったでしょうか。失敗をして傷ついています。もう自信喪失状態だったのではないでしょうか。このままでは、イエス・キリストの弟子という自覚と使命を失ってしまう状態だったのです。イエス・キリストは、そのような弟子たちとガリラヤにて再会されるのです。
 ガリラヤでの再会が意味するものは、ヨハネ21:1~14の箇所でも見ましたが原点に立ち返るというものです。イエス・キリストは、弟子たちの心の傷と痛みの全てを御存知です。彼らの心の傷と痛みを癒されるためにガリラヤで再会されるのです。ガリラヤは弟子たちの出発点であり原点だったのです。そのところで、弟子たちはイエス・キリストと再会し、イエス・キリストのみことばによって慰められ励まされて、イエス・キリストの弟子という自覚と使命を回復させていただいたのです。弟子たちは、イエス・キリストの十字架という出来事によってつまずき倒れそうになりました。しかし、それで終わったわけではありませんでした。弟子たちはイエス・キリストによって立ち上がることができたのです。そして、与えられた使命と務めを果たすことができたのです。
 出発点や原点があるというのは、とても心強いものです。何故なら、もう一度戻ることができるからです。私たちも失敗して心の傷や痛みを覚えることがあります。神を信じる者であっても自分の存在意義を見失うことがあります。人生への失望を覚えることがあります。ですが、それでお終いではないのです。神を信じる者には、信仰の出発点・原点があるのです。「あのときにイエス・キリストの十字架と復活を信じた」という所があるのです。このことは、とても心強いものではないでしょうか。迷ったとき原点に戻れるのです。私たちは道に迷うことがありますが、迷ったとき一番良い方法は戻ることです。戻ってもう一度確認することです。人生においても戻るべき所があるのとないのとでは大きな違いが生じます。迷ったとき信仰の出発点・原点に戻って、「神はこのような私を愛してくださり、イエス・キリストを十字架へと導いてくださり、死から甦らせてくださった。イエス・キリストの約束は今も生きており、私を通して神のすばらしさを現してくださる」という、神の愛と約束を再確認することができるのです。ガリラヤでイエス・キリストに会えるとは、信仰の出発点・原点に戻るということです。私たちは、いつも信仰の出発点・原点に戻ることができるのです。

結)
 私たちの人生は、いつも自分にとって良いものとは限りません。「もうダメだ」と思うことが多々あります。ですが、それで終わりではありません。イエス・キリストは甦られたのです。そして、今も生きておられるのです。また、みことばをもって励ましてくださり望みを与えてくださいます。そして、キリスト者として生きる力を与えてくださいます。私たちが信じている神はそのようなお方なのです。イエス・キリストは死から甦られたのです。イースターのこの日に、その神の愛と導きを深く覚えつつ歩まされていきましょう。

マルコ11:1~11「神はあなたを用いられる」 22.04.10.

序)
 今日は、イエス・キリストがエルサレムの町に入られた棕櫚の主日です。今週の金曜日は、イエス・キリストが十字架に架かって死なれた受難日です。そして、来主日はイエス・キリストが死から甦られたイースターです。今朝は、この箇所に登場する人たちを通して、私たちを用いてくださる神を共に教えられたいと願っています。

1)ロバの子の持ち主
 最初に見たいのはロバの子の持ち主です。そのように聞かれますと、ある方は「えっ、ロバの子ではないの?」と思われるかもしれません。子ども讃美歌に「私たちはロバの子です」という歌があります。少し聞いていただきたいと思います「     」。教会学校では、「こんな小さなロバの子もイエス様は用いてくださるのだから、皆さん一人ひとりもイエス様に用いられるんだよ」というメッセージをされたりもします。ですが、今朝は敢えてロバの子の持ち主に目を留めてみたいのです。今朝の箇所を読んでみますと、このロバの子の持ち主の名前は書かれていません。「書かれていない」というよりも登場しないのです。書かれているのは、「そこに立っていた何人か」の人たちです。その中にロバの子の持ち主も居たかもしれませんし、居なかったかもしれません。ただ、1節に「まだだれも…つながれている」とイエス・キリストは話されています。「つながれている」ということは持ち主がいるということでもあります。ですから、ロバの子が用いられたということは、そのロバの子の持ち主を用いられたことでもあるのではないでしょうか。今朝は、そこに目を留めたいのです。
 ロバの子の持ち主は、その場に居たのかどうかも分かりません。しかし、イエス・キリストに用いられたのは確かなことでもあります。私たちもそうではないでしょうか。その場に居合わせたかどうか誰にも気づかれないという経験をすることがあります。「その場に居るのに誰にも気づかれない」というのは寂しい限りです。でも、そのような存在であれ神は用いてくださるお方です。誰の目にも留まらないちっぽけな自分。居ても居なくても変わらないような存在の自分。そのような自分を見つめ続けてしまいますと、自分の存在意義が分からなくなってしまいます。そして「どうせ私なんか」という思いが生じたりもします。「どうせ私なんか」という人生は、とても辛い人生ではないでしょうか。「辛い」という漢字は「辛」と書きます。ここに1本足しますと「幸」となります。辛いと幸いは一つ足すか足さないかです。ちょっとした違いで大きな違いになってしまうのです。
 何度も話していますが、創世記に登場しますアブラハムの妻サラの女奴隷でありましたハガルがそうでした。息子イシュマエルと一緒にアブラハムの家を追い出され、食べ物も飲み物も尽きたとき死を覚悟しました。そのときハガルは神の声を聞いたのです。神はハガルの目を開かれました。そして、井戸を見つけることができたのです。その井戸はハガルの目が開かれたからできたのではなく、ハガルの目が開かれる前から存在していたのです。ただ、絶望のあまりにハガルは井戸に気づくことができなかっただけのことです。「気づく」というのはちょっとしたことです。でも、そのちょっとしたことが大きな違いを生じさせるのです。私たちもこのロバの子の持ち主のような存在かもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、「神はそのような私に目を留めてくださっている」ということを今朝の箇所を通して気づかされるのではないでしょうか。いや、「目を留めてくださっている」だけでなく、そのような私たちを用いてくださることに気づかされるのではないでしょうか。

2)群衆
 次に見たいのは群衆です。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムの町に入って来られたとき、群衆たちは何をしたでしょうか。8節に「     」と書かれています。彼らは自分たちの上着や木の葉を枝ごと道に敷いたのです。この行為はⅡ列王記9:13に「     」と書かれているのと同じです。エフ―という人は、当時のイスラエルの王であるヨラムを殺して自分が王になります。その王になる前の出来事ですが、エフ―は預言者から「あなたがイスラエルの王になる」と告げられました。そのことを部下に告げますと、彼らは自分たちの上着を脱いでエフ―の足元に敷き、「エフ―は王である」と叫んだのです。その後、エフ―は謀反を起こしてイスラエルの王になりました。エフ―の部下たちが上着を脱いでエフ―の足元に敷いたのは、エフ―がイスラエルの王になることを望んだからです。
 イエス・キリストがエルサレムの町に入られたときの人々の心境も同じだったのです。当時イスラエルはローマ帝国に支配されていました。そのローマ帝国の支配から解放してくれる指導者を望んでいました。そして、その指導者を王にしようとしていたのです。ですから、イエス・キリストがエルサレムの町に入られたとき、自分たちの上着を道に敷き9~10節に書かれていますように、叫びながらイエス・キリストを迎えたのです。ですが、その後はどうだったでしょうか。一週間も経たないうちに、その同じ口からイエス・キリストを「十字架につけろ」と叫んでいたのです。この群衆の行為とことばは、その時の気分や世の中の流れに流されているようにも見えます。
 簡単に心変わりをしてしまう群衆です。そのような人々は、神に用いられることはないのでしょうか。使徒の働き2章には、ペンテコステの日にイエス・キリストを信じる人々が聖霊に満たされたことが書かれています。このときペテロは、エルサレムの町で大胆に福音を語りました。すると、どのような反応が生じたでしょうか。使徒の働き2:37に「     」と書かれています。その反応に対して、ペテロは38~39節で「それで罪を赦して…与えられているのです」と答えました。すると、そのペテロのことばを受け入れた人々が起こされたのです。この日はペンテコステの日ですから、外国に住んでいたユダヤ人もエルサレムの町に来ていました。ですから、ペテロのことばを受け入れた人の中には外国に住んでいたユダヤ人もいたことでしょうが、エルサレムの町に住んでいたユダヤ人もいたと考えられます。その中には、イエス・キリストがエルサレムの町に入られたとき喜んで迎え入れましたが、その後で「十字架につけろ」と叫んだ人もいたのではないでしょうか。そのような人も、このペンテコステの日に自分の罪を悔い改めて罪の赦しをいただいたのではないでしょうか。
 そのことを思い巡らしますと、簡単に心変わりをしてしまう人であれ、神は決して見捨てることをされない方であることを改めて知らされるのではないでしょうか。世の中の流れに簡単に流されてしまう者であれ、神はその人の心の中に働かれ、新たな決心へと導き用いてくださるお方です。何故なら、神には不可能なことが何一つないお方だからです。私たちも世の流れに流されてしまいやすい者です。そのため、神が第2・第3になってしまうことがあります。しかし、神はそのような私たちを決して見捨てることをされず、私たちの心に続けて働いてくださり、新たな決心へと導いて用いてくださるお方です。ここに、深い神の憐れみを見ることができるのではないでしょうか。

3)弟子たち
 最後に見たいのは弟子たちです。今朝の箇所には弟子たちは直接登場してはいません。でも、この中に弟子たちはイエス・キリストと一緒にいました。そのことは、11節の最後の「十二人と一緒にベタニアに行かれた」ということばからも分かります。その11節の中程に「すべてを見て回った」と書かれています。ですから、弟子たちも全てを見て回ったと考えられます。ただ大切なのは、「何に目を向けていたのか」ということです。弟子たちは何に目を向けていたのでしょうか。そのことは分かりません。ですが、13:1~2は手がかりの一つではないでしょうか。このとき弟子たちが目を向けていたのは、ヘロデ王が建てた立派な神殿だったのです。弟子たちの多くはガリラヤ地方出身者です。ガリラヤ地方はエルサレムから100㎞ほど北に位置します。当時は車や自転車などのない時代ですから、ガリラヤ地方からエルサレムに行くことはあまりなかったことでしょう。ガリラヤ地方にはない立派な神殿に心が奪われてしまったのではないでしょうか。
 それと似たようなことは私も経験があります。私が卒業しました神学校は当時東京にありました。東京といっても国立市でした。ここらとあまり変わらない住宅街です。奉仕教会も都心ではありませんでしたので、都心に行くのは月に数回程度でした。ですから、高いビルを見ることはあまりありませんでした。ある日、東京駅で新幹線を待っていたときのことです。すると新幹線がホームに入ってきたのですが、すぐにドアは開きませんでした。私は先頭で少し時間がありましたから、高いビルを眺めながら「高いな!」と思っていたのです。すると、いつの間にか新幹線のドアが開き、後ろの方から「ドアが開きましたよ」と声をかけられたのです。とても恥ずかしい思いをしたのを覚えています。多分、弟子たちもそのような思いで神殿を見ていたのではないかと思えます。
 弟子たちが目を向けてしまうのは見えるものです。見えるものに心が動かされ、見えるものに左右されてしまう弟子たち。しかし、イエス・キリストはそのような弟子たちを用いられたのです。復活されたイエス・キリストと出会うまでは家の中に閉じ籠っていましたが、復活されたイエス・キリストと出会った後は外に出るようになったのです。その後も何度も弟子たちの前に現れ、ペンテコステの日に聖霊が彼らに臨まれたのです。その後は、弟子たちは大胆に福音宣教をするようになったのです。「あのような」と思える弟子たちが、神に豊かに用いられる器とされたのです。ここに私たちの想像を越えた神のお取り扱いを見ることができるのではないでしょうか。

結)
 神にとって有名・無名は関係ありませんし、強い弱いというものも関係ありません。何故なら、神には不可能なことが何一つないからです。神のみわざは無限です。1+無限=無限です。1万+無限=無限です。また、過去がどうであったかも関係ありません。何故なら、神は全てのことがともに働いて益としてくださる方だからです。それは、過去のことも用いて益にしてくださる方でもあるということです。その神が私たち一人ひとりを用いてくださるのです。私たちにとって大切なことの一つは、3節にありますように「主がお入り用なのです」ということばに、私たちがどのように応答するかではないでしょうか。このことばは私たちにも問いかけておられることばではないでしょうか。神は私たち一人ひとりを必要とされ、用いようとされていることを覚えつつ仕えていきたく願わされます。

使

徒の働き5:12~32「イエスの証人」 22.04.03.

序)
 2022年度が一昨日から始まりました。今年度はコロナ禍で集会が持ちにくい中で、今の私たちにできる伝道方法の一つとして、住んでいる地域に福音版を定期的に配布していくことを決めました。それは住んでいる所は「偶々そこに住むようになった」と思えるものかもしれませんが、「それも主の導きによるものである」と受け止め、神に遣わされた地域であることを信じ、イエス・キリストの証人として福音を伝えていこうというものです。今朝の箇所は長い箇所ですが、最後の32節に焦点を絞って、使徒たちはどのようにしてイエスの証人として歩んだのかを見つつ、私たちもどのように歩めば良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)私たちはこれらのことの証人
 使徒たちは32節で、「私たちはこれらのことの証人です」と告白しています。この「証人」ということばは法律用語で、自分が経験した事柄を法廷の場で偽りなく証言する人のことです。例えば、使徒の働き6:13では、ステパノの裁判に立てられた証人について書かれています。彼らは自分たちが経験していなかったことを証言しています。つまり「偽りの証人」なのです。証人は自分が見たり聞いたりしたことを正しく話す責任が与えられています。使徒たちは、自分たちが何者であるか、そして何をすべきかを自覚しています。それは、自分たちが見たり聞いたりしたことを正しく話すという自覚です。
 では、彼らが見たり聞いたりしたことは何でしょうか。使徒たちは、32節で「私たちはこれらのことの証人です」と語っています。「これらのこと」とは、30節に書かれていますイエス・キリストの十字架による死と復活です。それだけではなく、続けて31節で語っています神の恵みである「悔い改めと罪の赦し」をも宣べ伝えています。これらが彼らに与えられた証人としての務めです。イエス・キリストの十字架と復活の事実だけでなく、神のみわざに基づく「悔い改めと罪の赦し」が、彼らが見たり聞いたりしたことなのです。すなわち、彼らが経験したことなのです。
 ともすると、私たちは「福音宣教を難しいもの」と思えてしまいます。しかし、福音宣教は決して難しいものではありません。何故なら、自分が経験したことを話せば良いものだからです。経験したことがないものまで話す必要はないのです。いや、経験したことがないものを話すなら、それは証人ではありません。それは「偽りの証人」であり話してはいけないのです。「福音宣教を難しいもの」と捉えてしまう要因は、「知らないことを質問されたらどうしよう」というものがあるからかもしれません。何故なら、きちんと答えられなかったら恥ずかしいからです。或いは、「自分がクリスチャンであるのを知られるのが恥ずかしい」という思いがあるのかもしれません。でも、それは「難しい」のではなく、「恥ずかしい」のです。
 質問されて知らなければ知らないで良いのです。後で調べて返事をすれば良いのです。今はネットでいろいろと調べることができます。調べた後で、牧師に「〇〇を質問されて、調べて△△と答えようと思いますが良いでしょうか」と尋ねれば良いのです。何故牧師に尋ねるのかと言いますと、ネットの中にも間違ったことが掲載されているものもありますから、最後は牧師に確認した方が一番良いでしょう。証人は自分が経験したことを証言する人です。使徒たちは「私たちはこれらのことの証人です」と自覚していますように、私たち一人ひとりも「私はこれらのことの証人です」という自覚を持ちつつ歩まされていきたいと願わされます。

2)務めの自覚
 使徒たちは、何故このような告白をするようになったのでしょうか。それは、27~28節に書かれていますように、最高法院に立たされ、大祭司による尋問によってのものです。大祭司は、使徒たちが議会で禁じたものを破ったと告発しています。それは何かと言いますと、4:18に書かれています「イエスの名によって語ることも教えることも一切してはならない」ということです。そして、大祭司は28節の後半で「あの人の血の責任を我々に負わせようとしている」と名誉棄損のような訴えをしています。使徒たちは、この訴えが何を意味しているか、また、告発者たちがどれ程の力を持っているかを知っています。それにも拘わらず、彼らは「人に従うより、神に従うべきです」と29節で告白したのです。そして、30~31節に書かれていますように「     」と証言したのです。
 それは、「イエス・キリストの十字架による死と復活、そしてそれに基づく悔い改めと罪の赦しの宣言こそが神に従うことである」と確信しているのです。その告白の結果はどうなったでしょうか。33節に「     」と書かれています。使徒たちは、そのようなことが生じることを予想しつつも、イエス・キリストの証人としての務めを何よりも大切にし実践していたのです。「何故、そのようなことが予想できたのか」と言いますと、17~18節に「     」と書かれていることを経験していたからです。17節の終わりに「ねたみに燃えて」と書かれています。この妬みの原因は、12~16節に書かれていますエルサレム教会の様子や、ペテロによる癒しの働きによる結果です。13節に「あえて彼らの仲間に…尊敬していた」と書かれています。一歩踏み出す勇気が出せませんでしたが、それでも彼らを尊敬し彼らの許に大勢の人が集まっているのです。この光景を頭に浮かべますと、現代も似たようなことが教会で生じているのではないでしょうか。なかなか一歩踏み出す決断ができませんが、それでも教会に集い続けられる方々がおられます。そのような人たちを決断へと導くのは私たちではなく神ご自身です。神がその人たちの心の内に続けて働いてくださり、決心できるように祈り続けると共に、今の自分たちにできることを忠実に果たし続けていくことの大切さに気づかされるのではないでしょうか。
 大祭司やサドカイ派の人たちの妬みによって、使徒たちは留置場に入れられてしまいました。すると、19節に「     」と書かれています。「ところが」ということばに注目させられます。今後どうなるのか分からない状態の中に置かれた使徒たち。「分からない」というのは不安が生じます。ですが、聖書は「ところが」と、そこに神の想像を越えた働きをなされたことを告げています。そして、20節に「行って宮の中に立ち…すべて語りなさい」と、主の使いは使徒たちに告げています。そのいのちのことばとは、30~31節で彼らが語ったことです。この宮での宣教は、再び逮捕されるものとなりました。そのようなことは、十分承知の上で彼らはいのちのことばを語り続けたのです。何故なら、それがイエス・キリストの証人としての務めだからです。
 このときは留置場の戸が開けられ、外に連れ出されるというものでした。私たちはこのような経験をすることはないかもしれません。でも、神は私たちの想像を越えた備えをしてくださっていることを覚えたいものです。そして、私たちに託されている務めを果たし続けていきたいものです。最初にも話しましたが今年度は、住んでいる地域に福音版を配り続けることを決めました。その地域に配り続けることによって、どのようなことが生じるのかは私たちには分かりません。求める方が起こされるかもしれませんし、同時に想像していなかった問題が生じるかもしれません。それでも、イエス・キリストの十字架による死と復活と、悔い改めと罪の赦しの宣教を続ける証人として歩み続けられるように祈っていきたいものです。

3)聖霊もそのことの証人
 使徒たちは、「私たちはこれらのことの証人です」と証言しましたが、それだけでなく「聖霊も証人です」と証言しています。それは、「神の助けがなければ自分たちの証言は不十分である」ということの自覚でもあります。この自覚は、私たちの歩みにおいてとても大切なことではないでしょうか。それは証言だけではなく、「私たちがします全てのことにおいては、神の助けがなければ不十分である」という自覚です。ともすると、私たちは「私が一生懸命しなければ」と思ってしまいやすくなります。確かに、一生懸命するのは大切なことです。ですが、その「一生懸命」よりも「私が」という思いの方が強くなってしまいがちになります。「私が」という思いが強くなってしまいますと、疲れを覚えてしまうだけでなく、やがて不平不満が生じるようになってしまいます。「私が」という思いが取り除けられるように祈っていきたいものです。
 聖書には、真理の証明のためには少なくても2人以上の証人が求められています。例えば、申命記19:15に「     」と書かれています。彼らはこの原則に立って、「聖霊も証人です」と証言しているのです。「聖霊も証人です」ということは、「私たちも証人である」ということです。すなわち、これは神が私たちを協力者として認めてくださり求めておられるということです。また、ヨハネ15:26~27には、「     」と書かれています。27節の最初に「あなたがたも証しします」と話されていますから、「私が」という思いが強まってしまうのかもしれません。ですから、「私が」という思いが強まってしまうのは仕方のないことかもしれませんが、先程も話しましたように取り除けられるように祈っていきたいものです。
 イエス・キリストは、聖霊についてヨハネ16:14~15で「     」と話されました。では、どのようにして聖霊は私たちに伝えてくださるのでしょうか。イエス・キリストは、ヨハネ14:26で「     」と話されています。私たちがみことばを思い起こすことを通して、聖霊は私たちに伝えてくださるのです。「思い起こす」ということは、「忘れている」ということを前提として話されています。私たちは、みことばを聞いても忘れてしまうのです。この「わたしがあなたがたに話したすべてのことを」ということばは大切です。神は私たちを協力者として用いてくださるために、聖霊が私たちの内に働いてみことばを思い起こさせてくださるのです。具体的にどのようにしてでしょうか。準備をする中で、「そう言えば、聖書に〇〇のようなことばが書かれていたな!?」と思い出すことがあるのではないでしょうか。はっきりとみことばは思い出せませんが、似たみことばを思い出すということがありますね。そのようなとき語句辞典で調べますね。聖書語句辞典というのもありますから、聖書語句辞典から聖書箇所を見つけ出し、正しいみことばを見つけることができます。今は聖書アプリがありますから、そこから調べることができます。
 余談ですが聖書アプリは非常に便利です。私は「近い将来、教会に来られるとき重い聖書を持参されるのではなく、礼拝の中でスマホから聖書を取り出す時代になるのでは」と思っています。しかも値段からすればアプリは半値程です。それで多くの機能がついているのですからとても便利です。「そう言えば、聖書に〇〇のようなことばが書かれていたな!?」と思い出すのも、「聖霊の働きによるものではないか」とも思わされています。神は私たちを証人として用いられるために、聖霊を私たちの内に遣わしてくださいます。ルカ12:12に「     」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。この「言うべきこと」とは、「告白すべきこと」ということです。自分が信じていることを証言するために、聖霊はあらゆる方法を用いて私たちの内に働いてくださるのです。私たちは、その聖霊の支えに導かれているのです。

結)
 私たちはイエスの証人として立てられており、神に用いられる存在とされています。何よりもそのことを自覚しつつ、聖霊の助けによって与えられている務めを忠実に果たしていきたく願わされます。