使徒の働き14:8~18「生ける神に立ち返る」 23.11.26.
序)
先週の箇所で、私たちはパウロとバルナバがイコニオンの町での宣教を見ました。1節に「イコニオンでも同じことが起こった」と書かれています。この「同じこと」とは何かと言いますと、福音宣教をすることによって信じる人が起こされたが、迫害によって町を出ざるを得なくなるということです。要は同じことの繰り返しですが、パウロとバルナバは「どうせ」という思いではなく、神のみわざに期待しつつ福音宣教を続けました。この彼らの姿から、「どうせ」という思いが福音宣教を妨げる大きな要因の一つであることを学びました。今朝の箇所は、そのイコニオンからリステラという町に避難し、その町で起こった出来事が記されている箇所です。今朝は、このリステラでのパウロのメッセージから共に教えられたいと願っています。
1)出来事のきっかけ
このリステラという町は、地図⑬の現在のトルコの中央辺りに「フリュキア」と書かれています近くにピシティアのアンティオキアという町があります。そこから少し右を見ますと「イコニオン」と書かれており、その少し下に「リステラ」と書かれています。この町はイコニオンから約40㎞に位置し、1日の道のりで行ける町です。その町でパウロとバルナバは大きな出来事に遭遇します。そのきっかけについて8~10節に書かれています。この出来事を通して、使徒3章に書かれていますペテロが美しの門で行った奇蹟を思い起こす方もおられるかもしれません。共通点は、どちらも生まれながら足が不自由であったこと。そしてペテロもパウロも彼を見つめたこと。最後に、足の不自由な人は彼らのことばによって、飛び上がって歩き出したことです。違う点もあります。それは足の不自由な人はパウロの話しに耳を傾けていましたが、ペテロの場合は美しの門に入ろうとしただけです。もう一つは、リステラの男性は癒されるにふさわしい信仰があるという点です。さらに、ペテロの場合は右手を取って立たせましたが、パウロは「自分の足で立つように」と命じたことです。すると、彼は飛び上がって歩き出したことが10節の最後に書かれています。
この出来事で何よりも目を留めたいのは、「彼はパウロの話すことに耳を傾けていた」ということばです。すなわち、熱心にパウロが語ることに耳を傾けていたのです。その姿勢がパウロに伝わったのです。それによって、この足の不自由な人は今までにない大きな経験をします。それは自分の足で歩き出すという経験です。しかも、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と半強制的なものです。この箇所を準備する中で、9月に召されました赤坂良男先生を思い起こされました。私が良男先生と初めて会ったのは48年前で、当時JBCで行われていた高校生~青年までを対象とした「ともしびキャンプ」です。私は毎年ともしびキャンプに参加していました。今でも忘れませんが、高校3年のときのキャンプの最終日に、食堂で良男先生と数名のキャンパーで話をしていました。その後、ファイヤーを囲んで同じキャンパーと話し込んでいましたら、突然私は呼び出されまして良男先生がいる食堂に行ったのです。そして、いろいろと話をされました。後で思い起こしますと、「食堂で話をしていたとき熱心に聞いているようみ見せかけていたからではないか」と思わされています。それで良男先生は「脈があるのではないか」と思って私を呼び出したと理解しています。キャンプ後、教会に行きますと「牧師室に行くように」と言われ、行きますと強制的に学び会に参加させられました。それは何とバプテスマクラスだったのです。やり方に少し問題があるように思いますが、結果的には私にとってはそれが良かったと思っています。何故なら、それがなかったら信仰の決心をしなかったでしょうし、今ここに立つことはなかったと思っているからです。改めて、全てのことが共に働いて益となることを思わされています。
「耳を傾ける」というのはちょっとしたことです。しかし、神はそのちょっとしたことを豊かに用いられる方でもあります。パウロも足の不自由な男性のちょっとしたことを見逃さなかったのです。それによって、この男性の人生は大きく変えられたのです。今まで一度も歩くことができなかったのに、歩くことができようになったのですから。人のちょっとしたことを見逃さない観察力を養われたく願わされます。それと同時に、語られるメッセージをどのように聞くかで、その人の歩みも大きく変えられることを知らされます。私たちの聞き方の大切さも教えられます。
2)群衆の反応
この足の不自由な男性が歩き出したという出来事を見た群衆は、どのような反応をしたでしょうか。11~13節に「 」と書かれています。このことについては学び会で触れられていました。ゼウスというのはギリシャ信仰では最高神であり、ヘルメスは神のメッセージを伝える役と説明されていました。そのため、群衆はバルナバの方を偉いと思ったのでしょう。そして、ギリシャ神話の話しをされました。
昔、ある町にゼウスとヘルメスが貧しい旅人に装い町にきた。夕方になり「今晩泊めてほしい」と一軒一軒を回ったけれども、誰も彼らを相手にせず泊めなかった。最後に町の外れにあった小屋に行き、その小屋に住んでいたお爺さんとお婆さんは彼らを招き最高のもてなしをした。ワインをついても空にならなかった。お爺さんとお婆さんは彼らのことを神と分かった。ゼウスとヘルメスは「この無礼な町を滅ぼす」と告げ、「しかし、お前たちは町の丘に行くように」と丘の上に連れて行かれ、町は洪水で滅ぼされたという神話があるということでした。そして、その神話を知っている人たちは、「自分たちの町に神々が来た」と思い、このようなことをしたと理解できると話されていました。このリステラの地形は、学び会で見ましたが小さな盆地になっている所です。そのリステラの町の横には川があります。ですから、「山から多くの水が流れてリステラの町は大洪水になって滅ぼされる」と群衆は思い込んで、このようないけにえを献げようとしたとも考えられると話されていました。
私たちは、この群衆の反応を通して1つのことを教えられます。それは、「奇蹟的なことが起きても大きな変化はない」ということです。Ⅱ列王記17:24以降に、北イスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされてしまい、人々はアッシリアに連れて行かれます。そしてアッシリアの王は、代わりに外国人をサマリアの町に住まわせました。すると、獅子が彼らの何人かを殺しました。すると、26~28節に「 」と書かれています。そして、次の29節には「 」と書かれています。結局は自分たちが信じているやり方でしてしまうのです。このリステラの人たちもそうだったのです。自分たちのやり方で行ってしまったのです。奇蹟が起きても間違った方向に進むだけなのです。大切なのは奇蹟ではなく神のことばです。「神のことばである聖書はどのように語っているのか」ということに耳を傾け、それに聞き従う以外に正しい神への応答はないことを知らされます。
このことは、私たちの日々の生活においても大切な事柄です。私たちはリステラの人たちのような極端ではないにしても、表面的に聖書のみことばを受け留め、自分勝手な判断で歩もうとする危険性があることを知らされます。「本当に自分の判断が聖書的なのか」を確認し、改めるべき点は改めていく。これこそが私たちが求め続ける歩みであることを教えられます。
3)生ける神に立ち返る
群衆が間違ったやり方をしようとしたとき、パウロとバルナバはどうしたでしょうか。14節の最後に「衣を裂いて…叫んだ」と書かれています。では、パウロとバルナバは何を叫んだのでしょうか。15節に、まず「皆さん…同じ人間です」と叫んだのです。これはとても重要なことです。ともすると、人は現人神や生き仏にされてしまうことがあります。また、死んだ後に神や仏として祭られてしまうことがあります。特に、私たちが生かされています日本という社会はそのような社会です。今、NHKの大河ドラマで「どうする家康」が放映されています。豊臣秀吉が亡くなり豊国神社が建てられましたし、徳川家康が亡くなりますと久能山東照宮や日光東照宮が建てられました。そして、それらの神社に参拝する人が多くおられます。また、有名人でなくても人が亡くなりますと墓に葬られ拝まれたりします。9月の良男先生の葬儀の時も、喪主であられる泉先生が「良男さんを拝むことがないように」と参列者の方々に説明されました。人は拝まれる存在ではありません。拝まれる存在は、この世界を造られた神のみです。私たちは全て同じ人間であり、決して拝んだり拝まれたりする存在ではありません。その死者崇拝も偶像崇拝です。
続けて、「そして…空しいことから離れて」と語っています。「このようなものを拝むことは空しい」と語っています。何故空しいのでしょうか。預言者イザヤは、イザヤ書44:9~11で「 」と語っています。何故空しいのかと言いますと、何の役にも立たないからです。何故なら、見ることも知ることもできないものだからです。そのようなものに頼ろうとするのは、本当に意味のないことであり空しいものです。では、人はどうすれば良いのでしょうか。「そのような空しいものから離れて、この世界を造られた生ける神に立ち返ることだ」とパウロとバルナバは語るのです。生ける神なのです。それは今も生きておられる神ということです。真の神は死んだ方ではなく、今も生きておられるお方なのです。しかも、真の神は世界の全てを造られた方ですから、全てのことを御存知なるお方なのです。私たちは家電製品が故障しますと販売店に持っていき、その販売店はメーカーに送ります。何故なら、その家電を作ったメーカーは、何処を修理すれば良いのかを知っているからです。創世記1章を読むとき、神は世界を造られたことが書かれています。このとき、神は物質的なものだけを造られたのではありません。同時に時間をも造られたのです。ですから、「時」というのも御存知なのです。伝道者の書3:1に「全ての営みに時がある」と書かれています。真の神は、その「時」を用いることのできるお方なのです。だからこそ、「偶像崇拝という空しいことから離れて、生ける真の神に立ち返るように」とパウロとバルナバは語っているのです。
結)
その生ける神は、17節に書かれていますようにご自分を証しされる方です。人の身勝手な歩みを許されていますが、それでもご自分がどのような存在であるかを示し続けてこられた方です。その頂点がイエス・キリストの十字架による死と復活です。そして、その生ける神に立ち返ることこそが、人が人として歩むべき道でもあります。来週からは、そのイエス・キリストが誕生されたことを祝うクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。このクリスマスの時季、一人でも多くの人が生ける神に立ち返られるように祈っていきましょう
使徒の働き14:1~7「福音宣教を妨げるもの」 23.11.19.
序)
先週、私たちは神の一方的な憐れみと恵みによって選ばれ、イエス・キリストを信じる者とされたことを学びました。それは私たちの中に何か良いものがあったからではありません。私たちが目を向けるものは、ただ「このような私を神は選んでくださった」ということへの感謝です。ところが「感謝」というのは、与えられ続けられますと感謝の思いが薄れ、「当然」と思うようになってしまいます。それと同じように、福音宣教においても同じことが続きますと何が生じるでしょうか。今朝は、福音宣教を妨げるものについて共に教えられたいと願っています。
1)イコニオンでも
パウロとバルナバは、ピシディアのアンティオキアの町で反発が強まったため、彼らはその町に居られなくなりイコニオンという町に行くこととなりました。このイコニオンという町は、ピシディアのアンティオキアの町から直線で約130㎞離れた町です。学び会では約160㎞と話されていました。それは車で走った距離だと話されていました。当時は徒歩ですから1日40㎞歩くとしても4~5日かかる距離です。単に通読だけですと、そのことに気づかずに「ピシディアのアンティオキアの町を出て、パウロとバルナバはイコニオンの町に行った」と思ってしまいます。ですが、実際はそうではなくイコニオンまで途中の町に滞在したのです。その間のことについては、著者ルカは何も記していません。その理由は分かりません。パウロとバルナバのことですから、途中の町でも福音を宣べ伝えたものと考えられます。ですが、そのことには何も触れずイコニオンの町でのことに触れています。何故イコニオンの町でのことに触れたのかを考えますと、8節以降のリステラの町での出来事に繋げるためと考えられます。ですから、14:1は13:51の翌日ではなく、かなりの日数があったと考えられます。
パウロとバルナバはピシディアのアンティオキアの町からイコニオンの町に着くまで、別の町でも数日間滞在し福音宣教をしましたが、どの町においてもピシディアのアンティオキアの町で生じた事柄と同じことが起こり、パウロとバルナバはイコニオンの町に行ったものと思われます。そのように考えますと、1節の「イコニオンでも、同じことが起こった」ということばは注目させられます。何故なら、「イコニオンでも、ピシディアのアンティオキアの町と同じことが起こった」と読み取ることもできますが、イコニオンに着くまでの町で生じたことと同じことが起こった」とも読み取ることができるからです。それほどユダヤ人の反発が強かったことを表してもいます。
イコニオンの町に入ったとき、パウロとバルナバは何をしたでしょうか。1節に「ユダヤ人の会堂に入って話をすると」と書かれています。パウロとバルナバは同じようにユダヤ人の会堂に入って話をしたのです。以前にも話しましたが、このパウロとバルナバの行動は一貫しています。必ずその町のユダヤ人会堂に入って話をしているのです。それはキプロス島でもそうでしたし、ピシディアのアンティオキアの町でもそうでした。彼らは何の話をしたのかと言いますと、イエス・キリストの十字架による死と復活という福音の話しです。パウロは、ローマ15:18で「私は、異邦人を…話そうとは思いません」と語っています。「キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと」とは、ダマスコ途上でのパウロの経験です。パウロは「これこそが正しい道」と信じキリスト教を迫害していましたが、ダマスコ途上で復活のイエス・キリストと個人的な出会いをし、今までしていたことが実は間違っていたことを知ったのです。その自分のためにイエス・キリストは身代わりとなって十字架に架かり神の審きを受けてくださっただけでなく、その死から甦って自分を朽ちて滅びることのない者へと変えてくださいました。さらに、そのようなことをしていた自分であっても、神は赦してくださるだけでなく用いてくださる方であることを経験したのです。パウロが宣べ伝えているものはそれだけなのです。それはイコニオンの町でもそうだったのです。
先程も触れましたが、この「イコニオンでも」ということばは注目させられます。この「でも」ということばは、「同じことの繰り返し」というのを表しています。その後にも「同じことが起こった」と書かれています。何処で語ろうが同じ反応が繰り返し起こることを表しています。ですが、パウロとバルナバはそのようは反応に屈していないのです。最初の方で触れましたが、ピシディアのアンティオキアの町からイコニオンの町まで直線で約130㎞ですから途中の町で宿泊したことでしょう。その町でもパウロとバルナバは、福音宣教をしていたことでしょう。ですが、どの町でも同じことが起こり、イコニオンの町でも同じことが起こったのです。ですが、彼らはどの町でも同じことを繰り返し語り続けていたのです。「あの町であのようだったから、この町でもどうせ」とは考えなかったのです。ただひたむきに福音を語り続けたのです。
これは私たちが学ばせられることの一つです。ともすると、私たちは「あの人があのようだったから、この人もどうせ」とか「あの時あのようだったから、この時もどうせ」と思いやすくなります。ですが、パウロとバルナバはそのようには考えなかったのです。この「どうせ」主義こそが、福音宣教の前進を妨げる大きな要因の一つではないでしょうか。この「イコニオンでも」ということばを十分に味わい、福音宣教のみわざに励んでいきたいものです。
2)福音の前進
パウロとバルナバの福音宣教によってイコニオンの町でどのようなことが起こったでしょうか。まず1節に「二人がユダヤ人の会堂に…大勢の人々が信じた」と書かれています。彼らはユダヤ人の会堂に入って話をしたのです。どのような話かと言いますと、勿論イエス・キリストの福音の話しです。その結果、ユダヤ人も異邦人改宗者も大勢の人々が信じたのです。ですが、2節の最初に「ところが」と書かれています。これは反対勢力の行動を示しています。2節に「信じようとしない…悪意を抱かせた」と書かれています。これは13:45に書かれていることと同じような事柄が起こったと考えられます。ですが、パウロとバルナバは3節に書かれていますように、「それでも…大胆に語った」のです。これもまた、ピシディアのアンティオキアの町と同じです。口汚くののしられても、「二人は長く滞在し」と書かれています。彼らはイコニオンの町に滞在し続けたのです。身に危険が及ばない限り、決して諦めることなくその町で福音を語り続けたのです。
彼らがイコニオンの町で福音を語り続ける中で、3節の後半に「主は彼らの手によって…その恵みのことばを証しされた」と書かれています。欄外には「証拠としての奇蹟」と書かれています。このしるしと不思議が「主の奇蹟」とも理解することができます。実際にその「しるしと不思議」がどのようなものであるかは分かりませんが、確かなことは神が共にいて働いてくださったということです。それは彼らの働きを用いられたということでもあります。先程も話しましたが、福音宣教を続ける中で困難に遭遇します。困難に遭遇したとき「どうせ」と思って諦めてしまうなら、福音宣教の前進は決してあり得ません。「今まではダメだったとしても今回は」という思いを持ち続けることの大切さを教えられます。
彼らのひたむきな活動によって信じる人がさらに起こされ、町の人々はユダヤ人の側と使徒たちの側という二派に分かれました。「二派に分かれた」というのは「二分した」ということではないと思われます。数的には圧倒的にユダヤ人側の方が多かったと考えられます。ですが、たとえそうであったとしても信じる人たちが起こされたのです。これは福音宣教の前進でもあります。9月の日本伝道会議で「今の日本のキリスト教界は数的には低迷しているというよりも下降気味である」ということが報告されました。多くの教会が困難に直面し悪戦苦闘されています。しかし、神は信じる人を起こしてくださっています。そのところに目を留めて、これからも福音宣教の働きに励んでいきたいと願わされます。
3)宣教の結果
パウロとバルナバが福音宣教を続けることによって、福音を信じる人たちが起こされました。しかし、同時に信じようとしないユダヤ人も沢山いたのも事実です。この「信じようとしない」と訳されていることばは、使徒19:9では「聞き入れず」と訳され、ローマ2:8では「従わず」と訳されています。これは何を意味しているのかと言いますと、積極的に拒むことを意味しています。すなわち、自らの意思で従わない方を選んだということです。しかも、それを自分の心の中に留めるだけでなく、異邦人たちを扇動して石打ちの刑に処しようとしたのです。ピシディアのアンティオキアでは、ユダヤ人と異邦人によっての単なる迫害が起こりました。「単なる迫害」と表現しましたが、単なる迫害であっても受ける側は大変です。しかし、その迫害がイコニオンでは石打ちの刑に処しようとする動きまで進展したのです。これが迫害の仕方が強まっていることを示しています。福音宣教が前進するとき、その反対する力も強まってくるという同じことの繰り返しです。それでも、パウロとバルナバは福音宣教を続けたのです。
「初代教会の時は、福音がどんどん進み信じる人が大勢起こされ良いな」というのではありません。この時代においても、福音宣教が前進するに伴い反対する力も強まっていたのです。そのようなことは今も昔も何ら変わることはありません。使徒の働きを読み続けますと、本当に福音宣教の働きが前進している様子が頭の中に描かれます。何故描かれるのかと言いますと、著者ルカがそのように書いているからです。ですが、その背後には私たちの想像以上の信仰の戦いがあったのも事実です。著者ルカは迫害の強さよりも、各々の町で信じる人たちが起こされていることに目を留めていたからです。それはパウロとバルナバも同じです。先程も話しましたように、「どうせ」という思いは抱かなかったのです。福音宣教を続けると様々な方法をもって抵抗されるというのは昔も今も変わることはありません。その抵抗に屈しない信仰が支え続けられるように祈っていきたいものです。
パウロとバルナバは自分たちの命の危険を知ったとき、イコニオンの町を出てリステラとデルベの町に避難し、その町で福音宣教を続けました。彼らが去ったあと、イコニオンの町で信じた人たちはどうなったのでしょうか。聖書には書かれていませんが、ピシディアのアンティオキアのときと同じように、神の恵みに留まり続けて生きることを勧めたものと考えられます。2回目の伝道旅行のとき、リステラの町に行きました。そこでテモテに会います。16:2に「 」と書かれています。この「イコニオンの兄弟たち」というのは、イコニオンの町にいるキリスト者のことです。パウロとバルナバがイコニオンの町を去ったあとも、イコニオンの町にはイエス・キリストを信じ続ける人がいたのです。この「イコニオンの兄弟たち」ということばは、私たちに大きな励ましを与えてくれることばです。パウロとバルナバが去ったら、その町にはイエス・キリストを信じる人が居なくなるのではありません。それでもイエス・キリストを信じ続ける人が居たのです。神がその人たちを養い続けられておられたのです。福音宣教の働きは決して無駄ではなかったのです。Ⅰコリント3:6に「 」と書かれていますように、神が一人ひとりに働いてくださり守り支え導かれておられたのです。
結)
今朝は、イコニオンの町でのパウロとバルナバの宣教の働きから学びました。何よりも「イコニオンでも」ということばに目を留めたいものです。私たちの働きも同じことの繰り返しです。そのようなことが続きますと「どうせ」という思いが生じます。福音宣教の妨げの要因の一つは、この「どうせ」という私たちの中に生じる思いです。ですが、同じことの繰り返しのようであっても、私たちの歩みはバネのように前進しているのです。私たちに与えられている務めを遣わされている所で果たせるよう祈っていきたいものです。そして、その務めを神は用いてくださり、信じる人を必ず起こしてくださいます。何故なら、人の心に働き導くのは私たちではなく神ご自身だからです。これからも、その神に祈りつつ私たちにできる最善のことを果たせるように祈っていきましょう。
使徒の働き13:44~52「チャンスは目の前に」 23.11.12.
序)
先週は「神の恵みにとどまる」というタイトルから、朽ちて滅びることのない新しい存在とされた者として歩み続ける・生き続けることの大切さを学びました。それはイエス・キリストを礼拝し続けるということでもあります。今朝の箇所は、そのパウロとバルナバの勧めを通して、次の安息日に生じた出来事が描かれています。その出来事は予想もしなかったものと思われます。この予想外の出来事を通して、私たちは何に目を留めるべきであるのかを共に教えられたいと願っています。
1)予想外の出来事
44節に「 」と書かれています。皆さんは、このことばからどのようなことを思われるでしょうか。「すごいな!私たちの教会もこのような反応があれば」と思われるでしょうか。私はそのように思わされます。来月は久しぶりにクリスマスライヴが行われます。一人でも多くの方が集われることを願っています。ピシディアのアンティオキアのユダヤ教会堂には、多くの人らが集ったのですが45節を見ますと大歓迎ではなかったことが分かります。不思議にも思えます。42節には「人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ」と書かれているのです。この「人々」とは誰のことかと言いますと、15節に書かれています会堂司たちと考えられます。すなわち、このユダヤ教会堂の指導的立場の人たちが、パウロとバルナバに「次の安息日にも同じことを話してほしい」と頼んだのです。それなのに、この多くの人が集った光景を見たとき、パウロとバルナバに反対し口汚くののしったのです。「何故なのか」というのを考えさせられるのではないでしょうか。
私の勝手な想像ですが、「42節で頼んだ人たちは次の安息日を楽しみにしていたのではないか」と想像します。「今日はどのような話をしてくれるのだろうか」など、いろいろなことを考え楽しみにしていたと思います。すると次の安息日には、ほぼ町中の人々が集まったのですから、ユダヤ教会堂には入りきらないほどの人だったと思われます。これは彼らにとって予想外の出来事だったでしょう。どのようにしてこのような大勢の人が集まることができたのでしょうか。考えられるのは、パウロとバルナバは1週間何もしなかったのではなく、個人的に福音を伝え信仰に導いたと考えられます。またそれだけでなく、43節のことを通して信じる決心へと導かれた一人ひとりも、1週間の中で出会う一人ひとりに福音を伝えたり証しをしたりしていたとも考えられます。このような1週間を通して、ユダヤ教会堂には多くの人が集ったと想像します。
しかし、ユダヤ人たちは妬みを覚え、パウロとバルナバに反対し口汚くののしったのです。何が原因なのでしょうか。幾つかのことが思い浮かべられます。1つは、「たった1週間でこんなにも多くの人が集った」ということへの妬みです。彼らも「改宗するように」とユダヤ教を伝えていたと考えられます。数年も十数年も費やしても成し得なかった成果を、たった1週間でそれ以上の成果を挙げたことに対しての妬みです。もう1つは、異邦人がそのままユダヤ教の会堂に入って来たということです。彼らは律法を重んじる人たちです。「改宗した異邦人とは違い、改宗していない異邦人に接するなら汚れる」と理解していた人たちです。自分たちだけでなく会堂まで汚されたことへの怒りもあったことでしょう。また、主よりもイエス・キリストを強調したことへの反発もあったものと考えられます。この反発は幾つかの要因があったと考えられます。
2)チャンスを逃した人々
そのような反応に対して、パウロとバルナバはどうしたでしょうか。そのことが46節以下に記されています。パウロとバルナバは、「神のことばは…者にしてしまいます。」と語ったのです。この「あなたがた」とは、ユダヤ教会堂の指導者たちでユダヤ人に対してのものです。それは「福音はまずユダヤ人に対して宣べ伝えられることは正しい」というものです。続けて、「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちに相応しくない者にした」と語っています。この「『それを』とは何か」と言いますと、福音を信じるチャンスのことです。「せっかく信じるチャンスが与えられ、永遠のいのちを得られる機会だったのに、あなたがたはそれを拒んだ」と語っているのです。この口汚くののしった人々は、チャンスを逃した人々と言えます。福音を信じる機会は今の時代にも与えられています。その機会を見逃すか見逃さないかで、その後の歩みは大きく異なってきます。朽ちて滅びることのない新しい存在へと変えられたことに喜びと望みを抱いて歩む生き方と、朽ちて滅びる者としてこれからも歩み続ける生き方は大きく異なってきます。私たちが信じる機会を生かして、福音を信じる者とされたことを神に感謝したいものです。
続けてパウロとバルナバは、「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と、異邦人伝道を始めることを宣言しました。そして、47節でイザヤ書49:6の後半部分を引用して語っています。この「あなたを国々の光とし」の「あなた」とは、イエス・キリストのことを示しています。ヨセフとマリアはイエス・キリストを連れて、エルサレムの神殿に行きました。すると、シメオンという人がイエス・キリストを抱いて、神をほめたたえたことがルカ2:29~32に書かれています。この32節のことばはイザヤ書49:6です。イエス・キリストは国々の光として、すなわち世界の光として誕生されたのです。ところが、今朝の箇所の47節をよく読んでみますと少し違います。それは「あなたを」ということばはイエス・キリストではなく、パウロとバルナバのこととして語られているということです。さらに言いますと、「福音を信じた人」のことです。すなわち、神はイエス・キリストを信じた人を世界の光とし、地の果てまで救いをもたらす者としてくださったのです。
イエス・キリストだけが世界の光ではなく、そのイエス・キリストを信じる一人ひとりも世界の光とされているのです。そのようなことを聞かれますと、「えっ、こんな私が世界の光?」と思われるかもしれません。でも、私たちは世界の光とされているのです。イエス・キリストも「あなたがたは世の光です」と話されました。この「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じる一人ひとりのことです。私たちは世界の光とされているのです。何故なら、聖霊なる神がイエス・キリストを信じる一人ひとりの内に住んでくださっているからです。私たちの中にはイエス・キリストの光が輝いているのです。聖書は「その私たちを地の果てにまで救いをもたらす者とする」と語っているのです。このことばは、イエス・キリストを信じる私たちにとって厳しいことばでもあります。何故なら、もし救いを自分だけのものにしてしまうなら、それは福音を拒んでいるのと同じだからです。イエス・キリストの十字架の目的は、自分の罪が赦されたことに感謝するだけではありません。そのことに感謝しつつ、この世にあって歩み続けるため・生き続けるためです。さらに言うならば、世界の光として歩み続けるためです。私たちは、そのことを見失わないようにしたいものです。そして、その神のご計画が自分自身を通して成就することを熱心に求め続けたいものです。
3)チャンスを生かした人々
「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と宣言したパウロとバルナバのことばによって、「異邦人たちは…主のことばを賛美した」と48節に書かれています。「次の安息日にも同じことについて話してほしい」と言われましたが、次の安息日には予想もしなかった強い反対が生じました。しかし、このパウロとバルナバの証しを通して新たな展開へと導かれていくのです。そして、48節の後半に「永遠のいのちに…信仰に入った」と書かれています。口汚くののしった人々がチャンスを逃した人々であるなら、この人々はチャンスを生かした人々ということができます。
「永遠のいのちに定められた人たち」と書かれています。誰によって、永遠のいのちに定められたのでしょうか。それは神によってです。すなわち、神は永遠のいのちが与えられる人を定められているのです。これを「神の選び」と言います。この信仰に入った人たちが神に選ばれたのは、彼ら自身に何が良いものがあったからでしょうか。そうではありません。彼らに優れた点は何一つなかったのです。ただ一方的な神の憐れみと恵みによって選ばれたに過ぎないのです。これは現代の私たちも同じです。私たちが神を信じる者と選ばれたのも、私たちに何か優れた点があったからではありません。ただ神の憐れみと恵みによって選ばれたに過ぎないのです。ですから、私たちには自分を誇るべきものは何一つないのです。私たちにあるものはただ一つです。それは、このような私を救いへと選んでくださったことに対する神への感謝です。この信仰に入った人たちは、その神の憐れみと恵みに感謝し、日々の生活を歩み続けたことでしょう。何故なら、その生き方が神の恵みに留まるという生き方だからです。聖書はその生き方に対して、49節で「 」と語っています。ここでも、神は一人ひとりの生き方を用いられることを示しています。
すると、50節に「 」と書かれている出来事が生じました。45節には、ユダヤ人たちが反対し口汚くののしったことが書かれています。ですが、50節には「ユダヤ人は…扇動して」と、自分たちだけでなく他の人をも巻き込んで反対する動きへと進展したのです。以前にも触れましたが、神のみわざが前進するとき、それに反対する力も強まることを改めて知らされます。その結果どうなったでしょうか。パウロとバルナバは、この地方から追い出されてしまったのです。すなわち、この町で福音宣教ができなくなったのです。そのため彼らはイコニオンという町に行くこととなりました。ピシディアのアンティオキアにイエス・キリストを信じる群れが誕生しました。しかし、パウロとバルナバはこの町に留まることができなくなり、この町を去ることとなりました。折角この町に群れが誕生したのに、その指導者が居なくなるのです。この町でイエス・キリストを信じた人たちの反応はどのようなものだったでしょうか。52節に「 」と書かれています。パウロとバルナバがこの町を去ることに深い悲しみを覚えていたのではなく、喜びと聖霊に満たされていたのです。
この52節のみことばは考えさせられるものではないでしょうか。折角信じる群れが誕生したのに、その指導者たちが居なくなることの失意を覚えるのが自然のように思えます。しかし、彼らは失意よりも喜びと聖霊に満たされていたのです。何故でしょうか。答えは1つです。「パウロとバルナバが居なくなっても、神は私たちと共にいてくださり守り導いてくださる」という信仰です。パウロとバルナバは「神の恵みにとどまるように」と勧めました。彼らを朽ちて滅びることのない存在へと変えたのは、パウロとバルナバではなく神ご自身です。その神がこれからも共にいて群れを導いてくださるという信仰を持ち続けたからです。Ⅰコリント3:6に「 」と書かれています。これはコリント教会に語られていることですが、ピシディアのアンティオキアの群れにおいても同じです。目を留めるものはパウロやバルナバでもなければアポロでもありません。成長させてくださる神です。それこそが信じる者が目に留めるものです。
結)
福音を信じるチャンスは目の前に置かれています。そのチャンスを逃すか生かすかは、一人ひとりの選択によってです。何よりも私たちがそのチャンスを生かし、イエス・キリストを信じられたことに感謝したいです。また、チャンスが目の前にあるのは福音を信じることだけではありません。福音宣教の前進のチャンスも目の前に置かれています。今朝の箇所は予想外の出来事が生じた箇所ですが、この出来事を通して福音宣教は前進したのです。そのことを思いますと、信じるチャンス・宣教のチャンスは目の前に置かれていることを知らされます。私たち一人ひとりは、「世界の光として救いをもたらす者とする」との神の約束を受けている一人ひとりです。あと3週間でアドベントを迎えます。私たちが世界の光として証しし続け、共に歩み続ける群れとして歩み続けられるように祈っていきましょう。
使徒の働き13:42~43「神の恵みにとどまる」 23.11.05.
序)
前回はイエス・キリストは朽ちて滅びることのない方であり、そのイエス・キリストを信じる者も朽ちて滅びることのない新しい存在として生きる者へと変えられたことを見ました。そして、その知らせが福音であることも学びました。その福音を伝えられたピシディアのアンティオキアの人々の反応について書かれているのが今朝の箇所です。パウロとバルナバは、その人々に「神の恵みにとどまるように」と話しました。今朝は、その神の恵みにとどまることについて共に教えられたいと願っています。
1)人々の反応
パウロはピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂に入り、旧約聖書が朗読されてから会堂司らによって話すことを勧められ語りました。今朝の箇所は、そのパウロが語ったことへの反応が描かれている箇所です。どのような反応が起きたでしょうか。2つの反応があったことを聖書は記しています。その1つは、42節に書かれていますように「次の安息日にも同じことについて話してほしい」という依頼です。これはパウロの話しが多くの人々に強い関心を引き起こしたことを表しています。このような箇所を読むたびに、「集会でこのような多くの人に強い関心を引き起こせるメッセージができたらいいな」と思わされます。そのように願いつつ準備をしているのですが、なかなかそのような反応に至らないことに、メッセージ作りの難しさを感じさせられています。これはルカが書いたものですから、パウロのメッセージの要約と考えられます。どのような口調や表情で語ったのか。また、これはメッセージの要約ですから聖書には書かれていないパウロの話しはどのようなものなのかなど想像します。メッセージ準備のために祈っていただきたいと願います。
もう1つの反応は、43節の「会堂の集会が…ついて来た」ということです。「ついて来た」ということから、パウロとバルナバは礼拝のあと会堂を出て他の所に行こうとしたのでしょう。ひょっとしたら、泊っている宿に戻ろうとしたのかもしれません。しかし、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちは帰ることをしないで、パウロとバルナバについて行ったのです。「ユダヤ人と神を敬う改宗者たち」と書かれています。このことから、「会堂に集っていた人たちはユダヤ人だけではなかった」というのが分かります。ユダヤ教を信じる異邦人もいたのです。しかも「神を敬う」と書かれていることから、「ひときわ熱心な異邦人ユダヤ教信者の人たち」と考えられます。
おそらく、自分の中にある罪に悩む中で、ユダヤ教に接し真の神を信じ、「その神が与えてくださった律法を守り行うことによって、義と認められ生きることができる」と信じ歩み続けていたと思われます。しかし、どれだけ律法を守り行っても罪の問題は解決することができなかったのです。律法を守り行い続けることによって心の中に生じるものは、「守り行えなかったとき罪に定められる」という不安です。そのような日々の生活を過ごしている中でパウロのメッセージを聞いたのです。先週の箇所には書かれていませんが、「おそらくパウロは『イエス・キリストの十字架による死は、私たちの罪の身代わりとしての神の審きであり、そのイエス・キリストの十字架を信じることによって私たちの罪は神に赦される』ということも語ったのではないか」と私は勝手に想像しています。
イエス・キリストが死から甦られ、朽ちて滅びることのない方であるから、そのイエス・キリストを信じる人も神の審きへの恐れや死に対する恐れから解放されることを知り、さらに詳しく知りたいと思ってパウロとバルナバについて行ったのではないかと考えられます。死に対する恐れからの解放。これは当時の人だけでなく、現代にも多くの方が抱いている事柄です。この問題を解決するものは一つだけです。それは死から甦られ朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストを信じることです。私たちは、その福音を神から委ねられているのです。そのことを覚えつつ、続けて福音宣教に携わっていきたいものです。
2)彼らと語り合った
パウロとバルナバについて来た人たちに対して、パウロとバルナバは何をしたでしょうか。2つのことが書かれています。その1つは彼らと語り合ったのです。おそらく、パウロが語ったことに対して、新たに発見したことや質問などが出たことでしょう。また、パウロが語ったメッセージに対する自分の感想を伝えた人もいたことでしょう。私も講壇交換などで奉仕させていただくとき、礼拝後に近寄って来られてメッセージの感想を伝えてくださる方がおられます。これは牧師にとっては大きな励ましです。自分が準備し語ったものが、一人ひとりにどのように伝わっているのか。そして、そのことを通して今後どのように準備すれば良いのかを考えさせられる時でもあります。「教会員が牧師を育てる」ということばを耳にしますが、その一つはそのようなことです。コロナ前は礼拝後、お茶とお菓子を食べながら交わりのときがありました。その多くは雑談で終わってしまうものでした。それも悪くないのですが、私の中には「自分が語ったメッセージがどのように届いているのか」とずっと思わされていました。そのために、「分かち合いと祈りのとき」というのを礼拝後に持たせていただくこととなったのです。パウロらが彼らと語り合ったのは、まさしく「分かち合いのとき」と言えます。
パウロとバルナバは「彼らと語り合い」と書かれていますので、彼らの一つひとつの問いに答えていったと考えられます。それは語られたメッセージが一方的に語られて終わるというのではなく、一人ひとりの必要や求めにきちんと対応したということです。このパウロとバルナバの所に集まった人たちはユダヤ教信者です。ですから、まだイエス・キリストを信じていない人たちです。ですから、パウロとバルナバの所に集まった人たちにパウロとバルナバが語ったのは、その内容からイエス・キリストのことを伝えたということでもあります。すなわち、「イエス・キリストを信じることによってどのような者へと変えられるのか」ということを伝えたのです。それは、まさしく個人伝道です。
では、イエス・キリストを信じることによってどのような者へと変えられるのでしょうか。自分の罪が赦され、天の御国に入る者へと変えられることでしょうか。そのことについては先週の礼拝で学びましたですね。これはパウロの福音の中心点です。イエス・キリストにある福音は、自分の罪が赦され天の御国に入るということではありません。それは信じたことの結果であって目的ではありません。イエス・キリストの福音の目的は、死の支配から解放され、朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びることのない新しい存在として生きることです。さらに言えば、そのような者に変えてくださった神に感謝し礼拝し続ける者となるためです。もし、イエス・キリストの十字架による福音の目的が罪の赦しと天の御国に入ることであるなら、イエス・キリストを信じることによって達成されるのです。そうであるなら、「何故神を礼拝するのか」が分からなくなってしまいます。
先月、スーパー銭湯「満天望」に行きますと、春日井栄光教会の関先生にお会いし話し込んでしまいました。その話の中に「オンラインが定着しつつある中で、礼拝をオンラインで済ませようとする方がおられることが日本の教会の課題の一つである」と話されていました。私もそのように捉えている一人でして、私の意見を述べさせていただきました。これは「礼拝に対する姿勢の問題である」と私は捉えています。私自身、オンライン礼拝を反対する者ではありません。正当な理由で教会に集うことができず、オンラインにて礼拝を献げることは良いことと捉えています。しかし、「楽だから」とか「時間がないから」という理由でのオンライン礼拝には問題を覚えます。何故なら、イエス・キリストはご自身の命を犠牲にしてまで私たちの罪のために十字架に架かられました。そのイエス・キリストの十字架を信じることによって、私たちは朽ちて滅びる古い存在から、朽ちて滅びることのない新しい存在として生きる者へと変えられました。そこには、イエス・キリストがご自身の命を献げるという大きな犠牲が伴っているからです。礼拝とは、そのイエス・キリストの犠牲への感謝と1週間の神の守りと導きへの感謝です。そうであるならば、「私たちも犠牲を負って神を礼拝する必要がある」と私は理解しています。それが「楽だから」とか「時間がないから」という理由であるならば、それは「私にとっての神礼拝は、その程度の価値しかない」という告白でもあります。時間がなければ時間を作れば良いだけのことです。それは「そのような犠牲を負うほど私にとって礼拝は価値あるもの」という神への告白に繋がります。神礼拝は、信じる私たちにとってそれほど価値があり大切なものです。
3)神の恵みにとどまる
もう1つパウロらがしたことは、「神の恵みにとどまるように」と勧めたことです。今の聖書には「説得した」と書かれています。今までの訳ですと「勧めた」と訳されていました。「説得した」ということばの方が「神の恵みにとどまる」ことへの強い勧めであるように受け取れます。それほどの「神の恵み」とはどのようなものでしょうか。それは、先程から話しています「朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びることのない新しい存在に変えられた」という恵みです。「その神の恵みを覚えて留まるように」とパウロとバルナバは勧めたのです。
では「神の恵みにとどまる」とは、具体的にどのようなことを語っているのでしょうか。この「とどまる」とは、「留まり続ける」ということです。継続が求められているのです。神の恵みに留まり続けるには、この世にあって生き続けることでもあります。ですから、「朽ちて滅びることのない存在へと変えてくださった神に感謝し、この世にあって生き続けるように」ということをパウロとバルナバは勧めているのです。そして、この世にあって朽ちて滅びることのない存在へと変えられ生き続けるということは、そのような者へと変えてくださったイエス・キリストの証し人として生き続けるということでもあります。何度も話していますが、イエス・キリストが十字架に架かって私たちの罪の身代わりとなって死なれ甦られた目的は、そのイエス・キリストを信じる人の罪が赦されて天の御国に入るためではありません。信じる人の罪が赦され天の御国に入ることができるのは、イエス・キリストを信じたことの結果であり目的ではありません。イエス・キリストの十字架の目的は、朽ちて滅びることのない存在に変えられたことに感謝し生き続ける者となるためです。すなわち、イエス・キリストの証し人として生き続ける者となるために、イエス・キリストは十字架に架かって死なれ甦られたのです。
そのことがきちんと分かっていないと、「イエス・キリストを信じることによって私の罪は赦され天の御国に入ることができる」ということで終わってしまいます。そうなりますと、「何故、毎週教会に集い礼拝をしなければならないのか」という疑問が生じます。すると礼拝が苦痛になり、やがて礼拝から足が遠のいてしまいます。これは本末転倒です。イエス・キリストの十字架の目的は、このような私が朽ちて滅びることのない存在へと変えられたことに感謝し、この世にあって生き続ける者となるためです。イエス・キリストの証し人として生き続けるためです。さらに言えば、そのような者へと変えてくださった神に感謝し礼拝し続ける者となるためです。これが神の恵みにとどまるということです。
パウロとバルナバがこのように勧めたのは、この世にあって患難に遭遇するからです。そのことを彼らはよく知っているのです。何故なら、彼ら自身も患難に遭遇していたからです。神の恵みに感謝し信じることは容易い方です。しかし、信じた後の患難との戦いは決して容易いものではありません。むしろ、そちらの方が大変なのです。イエス・キリストもそのことを御存知だから、「世にあっては苦難があります」と話されたのです。ですが、その後で「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と話されたのです。死に勝利し朽ちて滅びることのない方が共にいてくださり、守り支え導いてくださっているのです。私たち一人ひとりを「決して見捨てない」と約束してくださった方が共にいてくださるのです。患難との戦いは決して容易いものではありませんが、その神の恵みに留まり続けて生きることが真の力でもあります。
結)
私の友人で、よく「感謝です」ということばを口癖にしていた人がいます。神学生のときは「変わった奴や」と思っていました。でもそれは「苦難を経験していない」ということではありませんでした。様々な苦難を経験されていたのです。でも、その一つひとつを神が導いてくださり、全てのことを共に働かせて益としてくださることに感謝していたのです。そのことを知ったとき、彼に対する見方が「変な奴」から「すごい奴」へと変えられました。神は私たちの歩み一つひとつの事柄を共に働かせて益としてくださる方です。私たちは、その神の恵みの中に生かされているのです。このような私を決して朽ちて滅びることのない存在へと変えてくださった神に感謝しつつ、この世にあって生き続けられるように祈っていきましょう。
使徒の働き13:32~41「朽ちて滅びない方」 23.10.22.
序)
前回私たちは13:13~31の箇所から、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人会堂で語ったパウロのメッセージを通して、神は約束に従ってご自身の真実さ・確かさを示され、その神の真実さ・確かさは現代も変わることなく同じであることを学びました。そして、その神が今も私たち一人ひとりに働いてくださり、導いてくださっていることを確認いたしました。今朝は、そのパウロのメッセージの後半の部分です。今朝はこの箇所から、2つの点に注目し共に教えられたいと願っています。
1)朽ちて滅びることのない方
その1つは、「イエス・キリストは朽ちて滅びることのない方である」ということです。パウロは旧約時代の出来事と現在の出来事を通して、神は約束に従ってご自身の真実さ・確かさを示されたことを語りました。続けて、「私たちもあなたがたに」と、32節で「私たちもあなたがたに神の約束である福音を宣べ伝えている」と言って、33~37節で旧約聖書を引用しつつ語っています。まずパウロは「神はイエスを甦らせ」と語っています。この「甦り」を意味するギリシャ語は「アナステーシス」ということばです。これは「アナ」と「ステーシス」を合わせたことばです。「アナ」とは「再び」という意味を持つことばです。例えば、バプテスト教会の中でも「アナバプテスト」というグループがあります。これは再びバプテスマを授けるグループを指しています。バプテスマには浸礼・滴礼・灌水礼があります。私たちの団体は浸礼の立場です。これは「私たちの団体が執行するバプテスマは浸礼が原則である」という立場です。ですから、転入される方に対しては、私たちの団体の信仰告白を受け入れるのであれば、滴礼を受けている方も受け入れる」というものです。しかし、団体によっては受け入れない所もあります。そのため、「転入されるならもう一度バプテスマを受けていただく」という立場がアナバプテストです。「ステーシス」とは「立つ」とか「置く」という意味のことばです。これは英語の「ステーシス」の語源です。英語のステーシスは「停止」を意味します。何故そのような意味になったのかと言いますと、立っているだけで動かないからです。甦り・復活を意味するアナステーシスとは、「再び立って活動し始める」という意味を持ったことばです。ですから、この「神はイエスを甦らせ」とは、「神はイエスを再び立たせられた」ということを表しています。
これは22節の「そしてサウルを…ダビデを立て」ということばと関連しているのです。36節に書かれていますが、ダビデは神によって王として立てられましたが、やがて死んで葬られ朽ちて滅びる者となりました。これは決して否定することができない事実です。しかしパウロは、37節で「 」と語っています。同じことが34節でも語られています。「何故神はイエス・キリストを死から甦らされたのか」と言いますと、34節に「わたしはダビデへの…あなたがたに与える」という旧約聖書を引用しつつ、「それが神の私たちへの約束だからである」と語っているのです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に架かって死なれ葬られましたが、神はそのイエス・キリストを死から甦らせてくださることによって、神の私たちへの約束は成就されたと語っているのです。
イエス・キリストは死から甦られたことによって、朽ちて滅びることのない方となられたのです。それは単に死から生き返ったということではありません。そうであれば、またやがては死んでしまい朽ち滅びてしまいます。ですが、イエス・キリストの甦りは全く異なるものです。私たちが生かさています日本には「死者を拝む」という風習があります。それは神社だけでなく墓もそうです。ですが、その死者礼拝が如何に空しいものであるかをイエス・キリストの復活は示しています。死んで葬られ朽ち果てた者に、生きている私たちを救う力など全くないのです。罪と死の奴隷とされている私たちを解放し、真の自由な者としてくださる神の救い。この神の救いは、朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストによってしかないのです。へブル7:25に「 」と書かれています。イエス・キリストはいつも生きておられるから、人々を完全に救うことができるのです。これがパウロの語っているメッセージの1つです。
2)罪の赦し
もう1つパウロが語っているのは罪の赦しです。33~37節で「朽ちて滅びることのない方」となられたイエス・キリストの復活を語って後、38節の前半でパウロは「 」と語っています。朽ちて滅びることのない方であるイエス・キリストによってしか罪の赦しは与えられないのです。だから、「そのイエス・キリストを信じるように」というのがパウロのメッセージの結論です。
では、罪の赦しとは何でしょうか。皆さんは「罪の赦しって何ですか?」と尋ねられたらどのように答えられるでしょうか。「自分の罪が赦されること」と答えられるでしょうか。そうですと、「自分の罪が赦されるとはどういうこと?」と尋ねられるでしょう。或いは「天の御国に入れること」と答えられるでしょうか。そうなりますと、罪の赦しは天の御国に入ることが目的となってしまいます。そのような質問に対して、どのように答えられるでしょうか。「私には分からないから牧師に聞いてください」でしょうか。それでも良いのですが、それでは全く解決にならないのです。何故なら、他の人から同じ質問をされても同じことの繰り返しだからです。一番良い方法は、自分自身が牧師に尋ねて学ぶことです。「知り合いからこのように尋ねられたのですが、何と答えれば良いのか」と尋ねることによって答えが分かり、今度からは同じことを尋ねられても答えることができます。これは大事なことです。それをしないといつまで経っても成長することはありません。へブル5:12に「あなたがたは…必要があります」と書かれています。年数からすれば他人に教える立場であるのに、それができていないのです。13~14節に「 」と書かれています。生まれたばかりの赤ちゃんや幼子は乳や離乳食を食べますが固い食べ物は無理です。それはもう少し成長してからです。聖書は「生まれたばかりの赤ちゃんではいけない」と語っているのです。人は成長する者として誕生したのと同じように、信仰も成長するものとして与えられているのです。そのことをきちんと覚えておく必要はあります。
話しが反れてしまいましたが、罪の赦しを一言で言えば「本来の人間に立ち返ること」です。神が本来ご計画され、創造された人間本来の在り方から罪の故に的外れな存在となっているのが、私たちの現実の姿です。いのちの源であられる神から離れて、自己中心になって勝手に生きているつもりであっても、行き着く先は墓であり朽ちて滅びてしまいます。これが私たちの現実であり罪人の姿です。そのような私たちの所に、イエス・キリストは来てくださり十字架で死なれ葬られるという経験をされたのです。それは罪の中にある私たちと同じ朽ち果てる道を歩まれたのです。まさに「どん底」と言っても良い死者の中からイエス・キリストは甦られ朽ちて滅びることのない方となられたのです。
いや、それだけでなく「 」と39節でパウロは語っています。「イエス・キリストによって、信じる者はみな義と認められる」とは、「どん底の状態から解放される」ということです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって死なれましたが、罪と死に打ち勝たれ甦られたのです。それはイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストと一つとされ死からの甦りに与ることができるということです。すなわち、死の支配から解放されるのです。朽ち滅びる古い存在ではなく、朽ちて滅びない新しい存在とされるのです。パウロはそのことをⅡコリント5:17で「 」と語っています。この朽ちて滅びる古い存在から朽ちて滅びない新しい存在とされることが罪の赦しなのです。罪の赦しは天の御国に入るためではありません。この世にあって、朽ちて滅びることのない新しい存在として生きるためです。
これがパウロの語っている福音の中心点です。41節にパウロが旧約聖書を引用し語っていることが書かれています。これは欄外に書かれていますようにハバクク書1:5の引用しつつ警告しています。へブル2:3に「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合」と書かれていますように、パウロはピシディアのアンティオキアのユダヤ教の人たちに、「ないがしろにしないように」と勧めているのです。この福音は嘲る人たちには信じがたいものです。しかし、信じる者にとっては神の力なのです。
結)
今私たちは朽ちて滅びる存在から、イエス・キリストにあって朽ちて滅びない新しい存在とされています。この希望が、この良き知らせが福音なのです。福音は「死んだら天の御国に入れる」という死後に対する良き知らせではありません。今この世にあって朽ちて滅びることのない新しい存在に変えられ、生きるために神から送られたすばらしい知らせなのです。このすばらしい知らせを、私たちが生かされています家庭・地域・職場で一人でも多くの人に伝えていけるように祈っていきましょう。
使徒の働き13:13~31「約束に従って」 23.10.08.
序)
先週は、キプロス島でのパウロらの宣教について見ました。パウロらはユダヤ教会堂に入り、神のことばを宣べ伝えました。そして、今朝の箇所でもユダヤ教会堂に入って神のことばを宣べ伝えています。先週、私たちのこのような一貫したパウロらの行動を通して、神はその生き方を用いられ、人の想像を超えた不思議な導きによって、総督が信仰に導かれたことを見ました。今朝は、そのキプロス島からピシディアのアンティオキアの町での宣教の箇所です。このピシディアのアンティオキアにおいては、パウロが語った宣教に焦点を合わせて書かれています。今週と来週は、そのパウロの宣教から共に教えられたいと願っています。
1)ユダヤ教会堂にて
まず、13節に「パウロの一行は…ペルゲに渡った」と書かれています。この「ペルゲ」とは何処かと言いますと、地図13を見ますと掲載されています。地図を見ますと、「アタリア」の少し内陸部に位置していることが分かります。このアタリアも港町なのですが、聖書にはアタリアに寄らずにペルゲに直接渡ったことが書かれています。直接内陸部にあるペルゲの町に渡ったことに不思議に思えます。学び会のときに触れられていましたが、当時は川幅も広く、海から直接ペルゲの町に入港していたことが発掘作業で分かっているということでした。そのペルゲからピシディアのアンティオキアには「王の道」というものが作られていました。それはローマ帝国が軍を速やかに派遣できるようにするためです。ピシディアのアンティオキアは、ローマ帝国の軍事都市の一つであったと考えられており、アクロポリスが作られ、その地域の中心都市で神殿も建設されており皇帝崇拝が行われていた町です。そのような町にパウロらは行ったのです。
そして、彼らは安息日に会堂に入ります。この会堂とはユダヤ教会堂のことです。ユダヤ教会堂がローマ神殿の前の一等地に建てられていたことが発掘作業で明らかにされています。ローマ帝国の軍事都市に大勢のユダヤ人が住んでおり、ユダヤ教会堂が神殿の前の一等地に建てられていることが不思議に思えます。ですが、ヘレニズム時代には周辺民族との戦いがあり、反シリア派の人が大勢いたため、バビロン捕囚時代にシリアを支持するユダヤ人を住まわせ、ユダヤ人にある程度の地位が認められたことを学び会で見ました。そのため、パウロの時代にも多くのユダヤ人がこの町で生活をしていたのです。ですから、ユダヤ教会堂があっても不思議なことではありません。そのユダヤ教会堂にパウロが入りますと、旧約聖書の朗読の後に会堂司によって話すことを依頼されます。今朝の箇所は、パウロの最初の説教の箇所です。
ここで、まずパウロは「イスラエルの…神を恐れる方々」と呼び掛けています。このことばから、「イスラエル人の皆さん」とはユダヤ人のことと分かります。では、「神を恐れる方々」とは誰のことでしょうか。それはユダヤ教に改宗した異邦人です。ですから、ピシディアのアンティオキアのユダヤ教会堂には、ユダヤ人と改宗した異邦人が共にいたことが分かります。このパウロの呼びかけから、福音はユダヤ人であれ異邦人であれ、どちらにも必要なものであることが分かります。それは、イエス・キリストによる罪の赦しは、ユダヤ人にも異邦人にも必要だからです。パウロはローマ1:16で、「福音は…神の力です」と語っています。この「ギリシャ人」とは異邦人のことです。イエス・キリストの福音は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、信じる全ての人に救いをもたらす神の力なのです。
2)過去の事実から
まずパウロは、17~22節において旧約聖書の大きな流れを指し示しています。「この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び」と、アブラハムと族長たちを選ばれたことを語っています。イスラエルの民のエジプトでの奴隷生活とその地からの驚くべき解放の神のみわざ。そして、40年間の荒野での生活における神の守りと導きの恵み。さらに士師時代から預言者サムエルを通してサウルを王とする王国が建てられ、そのサウルが退けられてダビデが王に立てられたことが語られています。創世記15:13~14には、神がアブラハムに子孫が400年の間奴隷として苦しめられるが、そこから解放されることが語られています。さらに、創世記15:18~21にはアブラハムの子孫に与えられる土地の広さが語られています。これはソロモン王の時代に制圧された地域です。神はアブラハムへの約束に従って、アブラハムの子孫を導かれたことをパウロは語っているのです。
アブラハム~ダビデまでの約千年の間、イスラエルの民は様々な経験をしてきました。しかし、神はご自分の約束に従ってイスラエルの民を守り導かれ、ご自身の確かさを現わされたことをパウロは語っているのです。そして、22~23節で神の真実が頂点に達するイエス・キリストの出来事を示しています。22節では、サウル王が退けられたのに対して、ダビデについては「わたしの心にかなった者」と言われ、ダビデをイスラエルの王とされたことを示しています。ですが、そのダビデ王朝は息子ソロモンへと継承されますが、ソロモン死後に南北に分裂してしまいます。そして、北イスラエル王国は紀元前722年のアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国は紀元前587年にバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロン捕囚として多くのユダヤ人はバビロニア帝国に連れて行かれます。
このように見ますと、ダビデ家の子孫による王権は永久になくなってしまったように思えます。しかし、預言者エレミヤは23:5で「 」と語りますし、エゼキエルは34:23~24で「 」と、ダビデの子孫から王となって治める者が起こされることが語られています。23節では、これらの約束に従って、神はダビデの子孫から救い主イエス・キリストが送られたことを語っています。マタイ1章にはイエス・キリストの系図が書かれており、16節に「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ」と書かれています。ですから、イエス・キリストの父ヨセフはダビデの子孫です。そのダビデの子孫であるヨセフの職業は何だったでしょうか。マタイ13:55に「この人は大工の息子ではないか」と、イエス・キリストの父ヨセフの職業が大工であったことが分かります。ダビデ王家の子孫が大工という職業に就いているのですから、ダビデ家の子孫による王権復活は永久にないようにも思えます。しかし、神はご自分の約束に従って、ご自身の確かさ・真実さを現わされたのです。パウロは過去の事実から、神のダビデに対する約束は、イエス・キリストによって成就されたと語っているのです。
3)現在の事実から
アブラハム~ダビデ、ダビデ~イエス・キリストまでの旧約聖書の証言に従って、神が真実なる方であることを語ったパウロは、続けて現在の時代からも語っています。まずパウロは、24~25節でバプテスマのヨハネの証言に基づいて、イエス・キリストが神の約束に従って送られた救い主であることを示します。26節で「アブラハムの子孫…恐れる方々」と、16節と同じことばをかけています。それは、これから語ることに注目してほしいからです。何に注目してほしいのかと言いますと、神の約束は現在も生きているということにです。だから、パウロは26節の後半で「この救いのことばは、私たちに送られたのです」と語っているのです。すなわち、「旧約聖書における神の約束は、旧約聖書の時代の人々だけにではなく、現代の私たちにもなされている」と語っているのです。
そしてパウロは、まずイエス・キリストにしたエルサレムの人々とその教指導者らについて語っています。彼らはイエス・キリストを認めず、むしろイエス・キリストを罪人と定め、十字架刑に処して殺し墓に納めたことを27~29節で語っています。「エルサレムの人々とその指導者たち」と語っています。パウロが今いる所は、エルサレムではなくピシディアのアンティオキアです。このことばは、「あなたがたではなく、エルサレムの指導者たちの罪によって神の救いの約束は果たされなかったように思えるけれども、神はイエス・キリストを死者の中から甦らせてくださった」と30節で語っているのです。さらに、神はイエス・キリストを死から甦らせただけでなく、多くの人たちに現されたことを31節で語っています。そして、「そのイエス・キリストの証人が、あなた方の前に立っている」と語っているのです。何故、ピシディアのアンティオキアの人たちの前に、イエス・キリストの証人が立っているのでしょうか。それは、神の救いの約束はピシディアのアンティオキアの人たちにも送られているからです。
出エジプトの時代、士師記の時代、分裂後の時代の人々は、自分たちの願いを満たすために神に対して罪を犯し続けてきました。しかし、神はそのようなイスラエルの民に対して見捨てることをされず、養い導かれることを通してご自分の愛を示されていました。そして、イエス・キリストの時代においても、ユダヤ教指導者らは自分の願いを満たすために、イエス・キリストを十字架刑に処して殺しました。それでも神は人を見捨てることをされず、むしろイエス・キリストを死から甦らせることによって、ご自分の愛を明らかに示されました。「神はご自分の約束に従って、決して人を見捨てることをされず、御手を差し伸べ続けて、ご自分の愛を明らかにされている。それはピシディアのアンティオキアの人々に対しても同じである」とパウロは語っているのです。
結)
このパウロが語り続けている福音。神の救いの約束は、私たちが生かされています現在においても同じです。現代の私たちも自分の願いを満たしたいがために、神に対して罪を犯してしまいます。しかし、神はそのような私たちを見捨てることをされず、救いの方法を取ってくださっています。それは、自分の罪を悔い改めて神の約束を信じることです。その神の約束とは、「イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのを信じることによって赦される」というものです。神はその約束に従って、現代も一人ひとりに働いてくださっています。その福音を一人でも多くの人に伝えられるように祈っていきましょう。
使徒の働き13:4~12「キプロス島での宣教」 23.10.01.
序)
先週はパウロの伝道旅行の前文と言っても良い箇所で、どのようにしてパウロは伝道旅行を始めるに至ったのかを見ました。それはアンティオキア教会の人たちが断食をして主を礼拝している中で、聖霊の語りかけによって始まったものです。この「断食し」ということばは、別になくても不自然ではありませんが、わざわざこのことばを書き加えているということは、アンティオキア教会の人たちがどれほど備えて礼拝に臨んでいたかを教えられます。パウロの伝道旅行はこのようなアンティオキア教会の礼拝に対する備えを通して、そして神のみわざによって始まったものであることをルカは記ているのを私たちは学びました。今朝の箇所はキプロス島での宣教です。この箇所から「宣教するにおいて何が大切であるか」を共に教えられたいと願っています。
1)パウロらの生き方
聖霊によって送り出されたパウロとバルナバは、ヨハネを助手として連れて行きます。この「ヨハネ」とは、12:15に書かれています「マルコと呼ばれるヨハネ」のことです。すなわち、マルコの福音書を書いたマルコのことです。このヨハネについては、12:12にも「マルコと呼ばれている…家に行った」と書かれています。多くの人が集まり祈るほどの家ですから、裕福な家庭で大きな家に育った人だと想像できます。また、この家は1:13以降に書かれています祈るために集まっていた家とも考えられます。彼らはアンティオキアの町からセレウキアという町に行きます。この「セレウキア」という町は、学びのときに見ましたがアンティオキアから海の方に20㎞程離れた港町です。今でも小さな港がありますが、その港はパウロらが船出した港ではないことを覚えておられることと思います。その近くに、昔あった港の形跡が残されており、発掘作業がなされる中で大きな港があったことを学びました。当時のアンティオキアの町はローマ帝国の中で3番目に大きな町でしたから、セレウキアの港も大きな港でした。その港からパウロらはキプロス島に船出したのです。パウロと同行したバルナバはキプロス生まれですから、この地での伝道は深い思いがあったのではないかと想像します。この町はイスラエルからは近い大きな港町ですから、大勢のユダヤ人が住んでいました。そのため、ユダヤ人の会堂も幾つかありました。パウロらは、そのユダヤ人会堂に入って福音を宣べ伝えたのです。それはローマ1:16に「福音は…神の力です」と書かれていますように、「ユダヤ人をはじめ」なのです。パウロらは異邦人伝道に遣わされていますが、決してユダヤ人伝道を軽んじてはいないのです。それは使徒13:46で語られているように、神のことばはまずユダヤ人に語られる必要があったからです。ですから、パウロらはどの町に行こうともユダヤ人会堂に入って福音を語ったのです。全くぶれることのないパウロらの生き方を知らされます。
その後、パウロらは島全体を巡回してパポスという町に行きます。このパポスという町はキプロス島の中心都市です。この町には地方総督であるセルギウス・パウルスという人がいました。「セルギウス・パウルス」というのはラテン語です。この「パウルス」というのは「パウロ」です。以前の聖書では「セルギオ・パウロ」と訳されていました。「何故ラテン語の名前を用いたのか」と言いますと、学び会のときに話されていましたが「パウロと区別するためではないか」と考えられます。その町に「バルイエス」という名前の魔術師にパウロらは出会います。この魔術師は、「地方総督であるセルギウス・パウルスのもとにいた」と7節に書かれています。何か不思議な神の導きのように思えます。
ですが、このことだけに目を向けてしまいますと危険なように私は思えます。パウロらはどの町に行こうとも、最初にユダヤ人会堂に入って福音を語りました。それは「ユダヤ人をはじめ」というパウロらの一貫した伝道方法です。おそらくパウロらは、パポスの町でもユダヤ人会堂に入って福音を語ったことでしょう。その過程で、バルイエスに出会うように神はパウロを導かれたのです。神はパウロらの一貫した伝道方法・生き方を用いられたのです。決してぶれることのないパウロらの生き方。その生き方を私たちは学ばされます。
2)バルイエス
では、そのパポスの町で何が起こったのでしょうか。このパポスの町で2人の人物が挙げられています。それは先程からも見ているバルイエスと地方総督のセルギウス・パウルスです。まずは、バルイエスについて見てみたいと思います。6節の後半に「バルイエスという…偽預言者であった」と紹介されています。「バルイエス」の「バル」とは「子」という意味です。ですから、「イエスの子」となります。「え、イエス・キリストの子なの」と思われるかもしれませんが、「イエス」という名は普通の名前です。「イエス」とは「主は救い」という意味です。旧約聖書に「ヨシュア」という人がいます。モーセの後継者でイスラエルの民をカナンの地に導いた人です。彼の元々の名は「ホセア」でした。この「ホセア」とは「救い」という意味です。モーセは、このホセアを「ヨシュア」に改名しました。「ヨシュア」とは「主は救い」という意味です。すなわち、ヨシュアのギリシャ語がイエスなのです。ですから、当時のイスラエルにおいて「イエス」という名は決して珍しい名前ではなかったのです。
この「バルイエス」と呼ばれていた人物はユダヤ人ですから、彼が行う魔術を通して「この人が主から遣わされた救い主である」と人々に思わせていたとも考えられます。その噂が地方総督のセルギウス・パウルスの耳に入り、バルイエスを召し入れていたと思われます。当時、キプロス島には多くのユダヤ人が住んでおり、またヘレニズム文化がどっしり腰を据え降ろしている地域です。そのような島の中で「救いの子」を意味するバルイエスによる大きな影響を人々は受けていたと考えられます。7節前半の「この男は…もとにいた」ということばから、地方総督であるセルギウス・パウルスは何かとバルイエスに寄り頼んでいたものと想像できます。ところが、聖書はバルイエスのことを「偽預言者であった」と書き記しています。すなわち、神から遣わされた預言者ではなかったということです。むしろ、神の道を曲げている人だったのです。
このバルイエスは、パウロらが総督の所に招かれますと、「二人に反対して…遠ざけようとした」と8節に書かれています。何故二人に反対したのかと言いますと答えは明白です。彼の目的は人を神から遠ざけることだったからです。ところが、パウロらが語る神のことばによって、人が神に近づくことを恐れたからです。神のことば・神のみわざが前進しようとするとき、サタンの働きも強まることを聖書は示しています。でもそれは当然のことです。今ラグビーのワールドカップが行われています。相手チームが自分たちの陣地に入り押し込まれているとき、得点を入れられないように必死に抵抗します。それと同じです。福音が前進しようとするとき、サタンの抵抗も厳しくなります。私たちは福音がなかなか前進しないことに落胆してしまうことがあります。でも、その要因の一つはサタンの抵抗が厳しいからでもあります。サタンの側も必死なのです。
そのバルイエスの抵抗に対して、パウロは「彼をにらみつけて」と9節の最後に書かれ、パウロがバルイエスに対して言ったことばが10~11節に書かれています。すると、バルイエスに何が起きたかと言いますと、11節の後半に「するとたちまち…探し回った」と書かれています。この情景を思い浮かべますと、パウロがダマスコ途上で経験したものと似ているように思えます。しかし違う点は、パウロは悔い改めて神に祈りましたが、バルイエスにはそのようなことが書かれていないという点です。バルイエスは自分の罪を悔い改めたのかどうかは分かりませんが、私たちは自分の罪を示されたとき悔い改めることが大切であるのをバルイエスの出来事から気づかされます。
3)セルギウス・パウルス
もう一人の人物は、地方総督であるセルギウス・パウルスです。この地方総督であるセルギウス・パウルスについて、著者ルカは「この総督は賢明な人で」と紹介しています。調べてみますと、彼は総督になる前は川の管理官として行政に携わっていたようです。行政官時代の働きが評価されて総督に任じられたと考えられます。ですから、とても才能のあった人だったと想像できます。しかし、そのような人であっても魔術や迷信に惑わされ、欺かれてしまうのです。そのような人は現代にもおられるのではないでしょうか。とても優れた人がカルト集団に入ってしまうというのを耳にします。そのようなとき「何故そのような人が」と思わされたりもします。しかし、そこに人間の限界を見せられるのではないでしょうか。
そのような状況下に置かれていた総督でしたが、バルイエスから解放される時が訪れました。それは神のことばです。パウロらが語っていた神のことばに「聞きたい」という思いが起こされたのです。どのようにして総督にまでパウロのことが伝えられたのかは聖書に記されてはいません。ですから、パウロらがキプロス島に着いてから、どれほどの時間が経っていたのかは分かりません。しかし、確かなことは総督にまで神のことばが届いたということです。6節に「島全体を巡回してパポスまで行った」と書かれています。パウロらの地道な働きを通して、この地方の総督の耳にまで届いたのです。このことばは「地道な働きは決して無駄ではない」という励ましを与えてくれます。「こんなことをして無駄ではないか」と思えることは多々あります。「巡回して」なのですから一つひとつなのです。その一つひとつを神は用いてくださるのです。それは現代においても同じです。何故なら、神は永遠なるお方だからです。この時代に一つひとつを用いられた神は、今の時代も一つひとつ用いてくださるお方なのです。そのことを覚えつつ、神のみわざに続けて参与していきたく願わされます。
「神のことばを聞きたい」と願った総督に対して、聖書は「ところが」と8節で語っています。バルイエスが反対したのです。先程も話しましたように、神のみわざが前進しようとするときサタンは抵抗します。しかし、そのサタンの抵抗はもろくも崩れ去ります。パウロは聖霊に満たされ語ります。すると、たちまちバルイエスは目が見えなくなってしまいます。これはパウロの力ではなく、「聖霊に満たされて」と聖霊なる神によってであることを聖書は示しています。総督はこの出来事を見て信仰に入りました。癒しや奇蹟などを通して信仰に導かれる方がおられます。それは、その人にとっての神の導き方です。癒しや奇蹟が大切なのではありません。人を救いに導くのは神のことばです。私たちはそのことを見逃してはなりません。パウロ自身、Ⅰコリント1:18で「 」と語っています。十字架のことば・神の福音のことばこそが救いを得させる神の力なのです。導かれ方はいろいろありますが、人を救うのは神のことばなのです。私たちは、そのことをセルギウス・パウルスから教えられます。
結)
このキプロス島での宣教を通して、私たちは一貫した彼らの生き方から教えられます。その背後には、教会と神から遣わされているという自覚です。私たちは今週も、各々の家庭・地域・職場にて日々の生活を続けます。それは主の日に共に集い礼拝を神に献げるだけでなく、この教会と神から各々の生活の場に遣わされるものでもあります。その場での証しや宣教は地道なものかもしれません。しかし、その証しや宣教を神は用いてくださいます。そのことをキプロス島での宣教を通して教えられます。各々の場でキリスト者としての証しや宣教が豊かに用いられることを祈っていきましょう。
使徒の働き13:1~3「みことばの広がり」 23.09.24.
序)
先週の月曜日には東海フェスティバルが行われ、火曜日~金曜日は日本伝道会議が行われました。私と家内はその両方に参加しましたが、通いで疲れたため金曜日は休みました。多くの恵みをいただき良い交わりと祈りの時を持たせていただきました。私にとって一番感動したのは、初日の岐阜市長の挨拶でした。私は初めて知ったのですが、岐阜城の最後の城主は織田秀信という信長の孫でキリシタン大名であったということです。今の柴橋岐阜市長はクリスチャンであることを公言され、「クリスチャン市長として証しし続けられるように」と祈りの要請を出されました。さて、今日からは使徒の働きから当分の間共に教えられたいと願っています。今朝の箇所は、パウロの伝道旅行の始まりについて描かれている箇所です。この箇所を通して、神のみことばがどのように広がったのかを共に教えられたいと願っています。
1)アンティオキアとは
初めに少し使徒の働きを振り返りたいと思います。11:19~20に「 」と書かれています。エルサレムの町での迫害が強まり、使徒たち以外のキリスト者は地方に散らされたことが8:1に書かれています。その散らされた人たちのある人たちは北の方のフェニキア地方に進み、そこからキプロス島に行く人とアンティオキアの町に行く人らに分かれたのか。それとも、キプロス島を経由してアンティオキアの町に行ったのか。どちらかです。記載されている文章では、どちらとも取れるものです。ただ使徒の働きの著者ルカは、アンティオキアの町に焦点を合わせて描かれているということです。
では、アンティオキアとはどのような町でしょうか。学びでも触れられていましたが、現在はトルコのハタイ県の県庁所在地で「アンタキヤ」と呼ばれています。この町は、紀元前307年にアレキサンダー大王の部将の一人であるアンティゴノスによって作られ、その名前もアンティゴネイアと呼ばれました。彼の死後、息子で後継者のセレウコス1世によって再建されて「アンティオキア」と改名されました。紀元前2世紀になると、文化や経済の中心都市としてヘレニズム世界で繁栄しましたが、セレウコス朝は徐々に弱体し紀元前63年にローマ帝国によって滅亡しますと、この都市はローマのシリア属州となり、ローマ時代には東地中海随一、またローマ、アレキサンドリアに続く3番目に大きな都市でした。日本で言えば、東京・大阪に次ぐ名古屋のような町と言っても良いのかもしれません。なお、相次ぐ地震で何度も崩壊しましたが、その都度再建された町でもあります。記憶に新しいのは、今年の2月におきましたトルコ南部地震ではないでしょうか。この地震で町の多くの建物が崩壊した写真を見ました。学び会で見ました「ティトスのトンネル」などの世界遺産がどうなっているのかは分かりません。
学び会のとき、アンティオキアはシルクロードの終着点であり、このアンティオキアの町を中心として、現在のヨーロッパやアフリカ、イラク方面へと繋がる中心的な町でした。ですから、ローマ帝国においては、なくてはならない町でもあったことを学びました。そのような町ですから、人の往来が多い町であることは想像しやすいものです。人の往来が多いということは、いろいろな人種の人たちが集うということでもあります。ユダヤ人に限定すれば、ヘレニズム文化にどっぷりと浸かっているユダヤ人もいたということです。例えば、使徒の働き6:1に「そのころ…苦情が出た」と書かれています。この「ギリシャ語を使うユダヤ人」とは、ヘレニズム文化にどっぷりと浸かっているユダヤ人のことです。エルサレムの町でも、このような人たちが大勢いたのですから、アンティオキアの町であれば尚更のことと想像できます。ローマ帝国の三大都市のローマはイタリアですし、アレキサンドリアはエジプトです。アンティオキアはシリアです。ですから、アンティオキアの町はシリア地方の最大都市であったことが分かります。そして、その町を拠点として福音宣教が始められたことにルカは焦点を合わせて描かれていることが分かります。
2)神のことば
その大都市であるアンティオキアの町に一つの教会が誕生しました。それがアンティオキア教会です。その教会には、「バルナバ…教師がいた」と書かれています。バルナバはキプロス生まれのユダヤ人です。また、「ニゲル」とは「黒」を意味することばですから「黒人系」と考えられます。また、クレネ人は北アフリカ地方の人のことです。そして、サウロは生粋のユダヤ人です。このように見ますと、アンティオキア教会には様々な人種の人たちが集っていた教会であったことが分かります。さらに、「預言者や教師がいた」と書かれています。このことから特別な賜物が与えられていた人たちも数名いたことが推測できます。これらの人たちを教会の指導者として、アンティオキア教会はこの地で福音宣教を続けて行ったと考えられます。
しかし、今朝の箇所の中心の1つは、どのような人たちが集っていたのかではなく、どのような生活を過ごしていたのかです。2節の初めに「彼らが主を礼拝し、断食していると」と書かれています。彼らは共に教会に集って主に礼拝を献げていたのではなく、断食して主に礼拝を献げていたのです。この断食がどのような断食であるかは分かりませんが、私自身断食して礼拝に集ったことはありません。断食について調べてみますと、新聖書辞典には「断食は、それに伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と恐れをもって神に近づく者の熱心な祈りと悔い改めを表現しているのである」と紹介されています。この後に、聖霊が彼らに語られたことを私たちは知っていますが、集っていた人たちはそのようなことを知る由もありません。ですから、毎週このように断食をしつつ礼拝に集っていたと考えられます。前日から礼拝に心を寄せ、祈りつつ礼拝に備えていたのかもしれません。最近は耳にしませんが、私の若い頃は土曜日を「礼拝の備え日」と言われていました。ですから、「心身ともに礼拝に備えるように」と教えられていました。この「断食をしていると」ということばから、彼らはどれほど礼拝に備えて集っていたかを知ることができます。「主に礼拝を献げられるのを特別なこと」として過ごしていたことが伝わってきます。これが今朝の箇所の中心の1つです。
当時の礼拝形式がどのようなものであったのかは分かりませんが、彼らが共に集って主に礼拝を献げていますと、聖霊の語りかけを聞くという出来事が生じました。これは聖霊が直接一人ひとりに働いて語りかけられたのか、それとも一人の預言者を通して語りかけられたのかは分かりません。どちらとも取れる表現です。しかし、確かなことは聖霊なる神が一人ひとりに語りかけられたということです。すなわち、直接であれ一人の人を通してであれ、神が一人ひとりに「神のことば」を語りかけられたのです。そして、その神のことばに一人ひとりは真剣に耳を傾けていたのです。この姿勢に私たちは学ばせられます。これは少し違いますが、私は礼拝で聖書を読むときすぐに読まない時があります。時間の制約もありますので、「全て」とは言いません。でも、それは全員がその個所を開くのを待っているからです。何故なら、聖書は神のことばです。その神のことばが朗読されるからです。私自身の中では、「語られるメッセージよりも神のことばに耳を傾ける方が重要である」と捉えているからです。
少し話しが反れてしまいましたが、彼らは神のことばに祈りをもって耳を傾けていたのです。すると、その神のことばは「バルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」というものです。アンティオキア教会は、エルサレムの町から散らされた人たちの伝道によって生み出された教会です。そして、エルサレム教会はアンティオキアの町に教会ができたことを聞いてバルナバを派遣しました。11:22~24には「 」と書かれています。このことから、バルナバはアンティオキア教会の指導者であったと考えられます。そのバルナバはサウロを捜しにタルソの町に行き、アンティオキアの教会に連れて来て教え始めたことが11:26に書かれています。ですから、アンティオキア教会にとってバルナバとサウロは「中心的指導者」と言っても過言ではありません。その彼らを神は「わたしの召した働きに就かせなさい」と告げられたのです。神のことばは私たちの想像以上のことを発せられることがあるのを知らされます。
3)アンティオキア教会の対応
アンティオキア教会の人たちは、主を礼拝している中で想像すらしていなかったことを告げられました。このことを聞いた人たちはどのように思ったでしょうか。聖書にはそのような内容は書かれていませんので想像するしかありません。おそらく驚いたことと思います。中には「何故なの!彼らは教会の中心的人物であり、この2人が抜けたら教会はどうなるの」と思った人もいたことでしょう。しかし、教会は何をしたのかと言いますと「彼らは断食して祈り」と書かれています。教会がしたのは断食と祈りです。この「断食」ということばから、教会はすぐに答えを見出だしたのではないと思われます。数日かかって答えを見出だしたものと考えられます。その間、教会の中では様々な意見が出され議論し合ったことと想像します。そのような中で、教会が出した結論は「神の召しに対して人は反論できない」ということです。
「全てを御存知の神は、これからのバルナバとサウロを用いられご自身のすばらしさを現されるのと同時に、このことを通してアンティオキア教会の歩みも祝福してくださる」と信じたのです。ヤコブの手紙からも教えられましたが、「何に目を向けるのか」の大切さを改めて教えられます。神の約束の確かさに目を向けるのか、それとも目の前の事柄に目を向けるのか。何に目を向けるのかで、その後の歩みは大きく異なってきます。アンティオキア教会が目を向けたのは神の約束の確かさです。先程も触れましたが、そこまで辿り着くには数日かかったものと思われます。しかし、確信が与えられるまで待ち続けたアンティオキア教会の姿勢に教えられます。同時に、正しい判断をするまで待ち続けられた神の愛と忍耐をも知らされます。
では、バルナバとサウロに与えられた働きとはどのようなものでしょうか。それは4節以降に書かれています「伝道旅行」という働きです。アンティオキア教会はエルサレム教会とは異なることが生じていました。それは11:19~26の時にも話しましたが、異邦人キリスト者が生じたという出来事です。20~21に「ギリシャ語を話す人たちにも語りかけ、大勢の人が信じて主に立ち返った」と書かれています。この「大勢の人」の中には異邦人もいたことと考えるのは自然的なことです。ですから、アンティオキア教会はエルサレム教会とは異なる神の祝福を受けていたのです。その神の祝福をアンティオキアの町に留めるのではなく、その神の祝福をさらに別の町にも広げていくことを神は求められたのです。そのことを悟ったアンティオキア教会は、バルナバとサウロの上に手を置いて祈り送り出したのです。
このことから、神から受けた祝福は自分の中に留めるのではなく、その神の祝福を広げる大切さを教えられます。私たちはイエス・キリストの十字架によって、罪の赦しと神の審きからの救いという恵みと祝福を受けました。その神の恵みと祝福を私たちの家族や友人・知人、さらに地域の方々にも伝えていく務めを再確認させられます。そして、私たちの春日井神領キリスト教会も家族伝道や地域伝道、さらには世界伝道をも見据えた働きを続ける群れとして用いられたく願わされます。
結)
何度も触れていますが、使徒の働きの中心は1:8の「 」というイエス・キリストのみことばです。このみことばがどのようにして成就されていったのかが使徒の働きには描かれています。それは8節の最後に書かれています「わたしの証人」です。それはイエス・キリストの証人であり神の証人です。一人ひとりが神の証し人として歩み続けることを通して、主のみことばは前進し広がっていったのです。前進するとき困難も覚えます。ですが、困難に臆することなく、続けて神の証し人として、主のみことばが広がることを祈りつつ、日々の生活を歩まされていきたく願います。
ヤコブ5:13~20「祈りとは」 23.09.17.
序)
ずっと見てきましたヤコブの手紙ですが、いよいよ最後の箇所となりました。このヤコブの手紙は行いが重視されていますが、そこには「すでに神の恵みを受けている」という前提があってのものです。そのヤコブの手紙の締めくくりは祈りです。祈りとは神との会話であり、「霊の呼吸」とも言われています。祈りは信仰のバロメーターであり、祈りが貧弱だと信仰も貧弱になってしまいます。今朝は、その祈りについて共に教えられたいと願っています。
1)祈りとは何か
祈りとは、先程も話しましたように神との会話であり、「霊の呼吸」とか「霊の交わり」とも言われています。祈りは、自分と神との関係の深さを表してもいます。私たちは様々な人間関係の中で生かされています。ですが、全ての人と関係の深さは同じではありません。関係が浅い人もいれば深い人もいます。どういうことかと言いますと、ある人とは挨拶程度かもしれませんが、別の人とは世間話をしたりします。さらに関係が深い人とは、相談事をする人もいるでしょう。そのように私たちは様々な人間関係の中に生かされていますが、その関係の深さは人によって異なります。
祈りが「神との会話」であるなら、その祈りを通して神と自分との関係の深さをも表しています。その祈りが単なる表面的な祈りであるなら、「私は神とそれほど深い関係ではない」ということを表しています。ある人は「私は忙しいから深く祈る時間がない」と言われる方がおられます。しかし、それは祈る時間がないのではなく、深い祈りができないだけのことです。私たちは家族の中で何かあったとき話し合うと思います。特に大事なことは、時間など関係なく話し合うのではないでしょうか。どれほど夜が遅くなったとしても、どれほど忙しくても話し合う時間を作るのではないでしょうか。何故でしょうか。それは大事なことだからです。または、話し合うだけでなく聞くだけであったとしても、「今聞く必要がある」と思うから時間を割いてでも聞くのではないでしょうか。それは相手との関係がそれほど深いからです。時間のあるなし関係なく、親密な人とはそのような時を持つのではないでしょうか。
ところが、祈りについては、「時間」ということばを持ち出してくるのです。そして、自分の忙しさを主張するのです。これは「長い祈りをしましょう」と言っているのではありません。祈りは神との会話です。あなたと神との関係を表すものです。表面的な祈りで済ませるのか、それとも具体的な祈りをするのかによって、自分と神との関係深さを知ることができます。祈りは私と神との関係深さのバロメーターです。
一般的には、祈りは神への願いであり、神に訴えるものと思われています。しかし、聖書が語る祈りはそのようなものではなく、神との会話であり関係深さのバロメーターです。イエス・キリストは、マタイ6:7で「 」と話されました。「同じことばをただ繰り返す」というのは訴えです。では何故同じことばを繰り返し訴えるのでしょうか。イエス・キリストは続けて「ことば数が…思っているからです」と話されています。彼らの神理解は「訴えないと知ってもらえない」という神理解だからです。8節の中程でイエス・キリストは、「あなたがたの父は…知っておられるのです」と、「神は私たちの心の中の全てを御存知である」と話されました。主なる神を信じている人と信じていない人との神理解は全く違います。キリスト者の祈りは、決して神への訴えではなく神との会話です。
訴えと会話の違いは何でしょうか。訴えは自分から神への一方通行です。ですが、会話は一方通行ではありません。私たちは人と会話するとき、自分の思いを伝えますが相手の思いにも耳を傾けます。相手の意見や思いに耳を傾けないなら、それは訴えとか命令になってしまいます。祈りは神への訴えや命令ではなく神との会話です。ですから、伝えると同時に耳を傾けて聞くことも必要です。ですから、祈りとは「神との霊的ことばのキャッチボール」ということもできるでしょう。
2)祈りの力
ヤコブは14~16節で、「病気の人や罪を犯した人は祈ってもらうように」と語っています。それは、その祈りによって癒しや赦しがもたらされるからです。14節に病気の人は「オリーブ油を塗って」と書かれています。ですが、これはオリーブ油に何か特別な力があるということではありません。ここでの強調点は「主の御名によって」です。私たちは病気をしますと多くの人は薬を飲まれます。私も風邪をひきかけたときには風邪薬を飲みます。昔テレビ番組の中で専門家の方が「薬自体に病気を癒す力はない」と話されました。そして、「身体の中には病気を癒す力があり、その力を引き出すのが薬である」と話しておられました。続けて、「薬がすごいのではなく、その力を引き出すことができる身体がすごい」とも話されていました。
神はそのような身体を造られたのです。神は薬を用いて、身体の内に働いてくださっているのです。私たちはそのような文明社会の中で生かされています。ですから、何でも科学的に解決しようとしてしまいやすくなります。しかし、科学で解決できないことも沢山あります。今月の祈り会では、家内が準備した「進化と創造」のyoutubeを見ました。私にとって新たな発見は「身体はDNAに書き込まれた情報によって組み立てられており、その情報は解読されて初めて意味がある」ということばでした。そして、「解読されなければ単なる文字の羅列に過ぎず、解読するには知っていなければできない」というのです。私は聞きながら「なるほど」と思わされました。知っているから文字を配列して文章ができます。それはDNAも同じです。知っているからDNAをきちんと配列することができ、完成した生き物を造ることができるのです。それは偶然では絶対にあり得ないことです。ところが、この創造は科学では解決できないものです。何故なら、科学を超えたものだからです。「神が天と地を創造された」ということは、「神は科学を超えたお方である」ということです。
祈りは、その神との会話です。そして、神は私たちの祈りを聞かれ、最善の時に最善のことを行ってくださるのです。それを多くの人は「偶々」ということばで済ませようとします。この「偶々」というのは「偶然」ということです。「偶然」というのは科学で証明できるものではありません。何故なら、偶然というのは法則がないからです。法則のないものを科学では証明できません。しかし、神はその「偶然」と思えるようなものを用いることのできるお方なのです。「偶々そうなった」と思える事柄の中に、実は神のみわざがなされているのです。神は私たち一人ひとりの祈りを聞いてくださり、その祈りに対して最善の時に最善のことを行ってくださいます。その神のみわざは「偶々」と思えるような、私たちの理解を超えたものです。「信じるだけで自分の罪が赦される」というのは理解しにくいものです。また、癒しについても医学的に考えてしまいます。罪の赦しも癒しも人の理解を超えた神のみわざがなされるのです。それをもたらすものは祈りです。主の御名によって祈る祈りに神は耳を傾け、ご自身のみわざを成してくださるのです。祈りは、そのような力のあるものです。
3)祈りの実践
ヤコブは16節の最後で、「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」と語っています。これは「正しい人の祈りは特別な力がある」ということではありません。「正しい人の祈りを神は聞かれ、みわざを成してくださる」ということです。その例として、17~18節でエリヤの出来事が書かれています。欄外に「Ⅰ列王記17:1」と書かれています。17:1の最後に、「私が仕えている…雨も降らない」と、エリヤがアハブ王に語ったことが書かれています。そして、18:1には「 」と書かれています。そして、18:41に「 」と書かれており、45節に「しばらくすると…大雨となった」と書かれています。ヤコブ5:17~18に書かれていますことは、この出来事を表しています。今朝の箇所でヤコブは、「祈りなさい」とか「祈ってもらいなさい」と、祈りを実践することを勧めています。神への祈りがどのようなものであるかを知るのは大切なことです。ですが、知るだけでは不十分です。祈りを実践することによって、初めて祈りを生かすことができるのです。
私たちは「お金は必要なものを買うことができる」と知っています。ですが、そのお金は用いて初めて生かすことができます。もし、お金を用いなければ必要なものを手に入れることができません。お金を用いて初めて手に入れることができるのです。お金は用いて初めてその価値を発揮することができるのです。それは祈りも同じです。「祈りとは何か」とか「祈りの力」を知っていても、その祈りを実践しないなら祈りの力を経験することはできません。ルカ11:9に「 」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。御存知だと思いますが、この「求めなさい」とか「探しなさい」とか「たたきなさい」というのは、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」ということです。継続することが語られています。祈りもそうです。祈り続けることが大切です。
16節でヤコブは「ですから…互いのために祈りなさい」と語っています。ここに書かれています「癒される」というのは病気の癒しだけはなく罪の癒しも含まれています。それには「互いに…祈りなさい」と勧められています。この「互い」ということばは重要です。「互い」とは「一人ではない」ということです。「複数の人で」ということです。イエス・キリストが天に上がられ、ペンテコステの日まで信じる人たちは何をしていたでしょうか。使徒1:14に「 」と書かれています。彼らは共に心を一つにして祈っていたのです。マタイ18:20にも「 」と、一人ではなく集まることの重要性をイエス・キリストは話されています。ヤコブ5:16の「正しい人」とは誰のことかと言いますと、文脈的には「罪を言い表し癒された人」、すなわち罪が赦された人と考えられます。ここにも共に集まって祈り合う実践が求められているのです。
結)
キリスト者にとっての祈りは神との会話です。決して神に訴えるだけではありません。祈りは神との霊的交わりでもあります。その霊的交わりが深められるためにも具体的に祈ることが重要です。そして祈り続けることを通して、私たちは神のすばらしさをさらに深く知ることができ、祈りの力を経験することができます。私たちが神のすばらしさをさらに深く知るためにも、共に祈り合うことが大切です。何故なら、以前にも見ましたが、Ⅰヨハネ4:20の後半に「目に見える兄弟を…愛することはできません」と書かれています。ことばを変えて読みますと、「目に見える兄弟と霊的交わりを持たない人に、目に見えない神と霊的交わりを持つことはできません」とも聞こえるからです。以前にも話しましたが、コロナによって多くの先生方から「交わりが希薄した」ということばを耳にしました。聖書には「ともに」とか「互いに」ということばを多く書かれています。「ともに」も「互いに」も一人ではできません。19節の最後に「連れ戻すなら」と書かれています。連れ戻すのですから、そこにはお互いの交わりがあること示しています。霊的交わりは教会の成長に欠かすことのできないものでもあります。霊的交わりを大切にしていきたく願います。
天におられる父なる神様。祈りは神との会話であり神との霊的交わりです。私たちの群れも霊的交わりを持ちつつ、互いに励まし合う群れとして歩み続けることができますように導いてください。そして、祈りには大きな力がありますから、互いのことを覚え祈り合う群れとしても歩み続けられますように導いてください。主イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお献げいたします。アーメン
ヤコブ5:12「誠実に生きる」 23.09.10
序)
あと2回で、ヤコブの手紙を終わろうとしています。今朝の箇所を読まれて、イエス・キリストが話されたことを思い出された方もおられるのではないでしょうか。今朝はヤコブ5:12からではなく、イエス・キリストが話されたマタイ5:33~37の箇所を通して共に教えられたいと願っています。
1)背景
まずは、イエス・キリストが話された背景を見てみたいと思います。イエス・キリストは33節で「 」と、当時の教えを引用されました。実は、このようなことは旧約聖書には書かれていません。欄外の①に「レビ記19:12」と「民数記30:2」と書かれています。まず、レビ記19:12には「 」と書かれており、偽りの誓いが禁じられています。民数記30:2では「 」と、誓ったことを果たさなければならないことが書かれています。これらのことから、マタイ5:33でイエス・キリストが引用された教えは、レビ記19:12と民数記30:2を合わせたものと考えられます。そして、マタイ5:33の欄外には「申命記23:21」も書かれています。ここでは「 」と書かれており、誓ったことを果たさなければ罪に定められることが書かれています。ですから、神に対して誓ったことは、どのようなことがあろうとも絶対に果たさなければならないのです。
そこでユダヤ教指導者たちは考えたのです。「何を考えたのか」と言いますと、果たせなかったことを考えての誓いです。誓ったけれども何らかの事情によって果たせなかったときに、罪に定められることのない誓いを考えたのです。それが天や地や都や自分の頭などを指しての誓いです。それは誓いを果たせなかったとき、「神に誓ったのではないから」という言い訳をして、罪に定められないようにするためです。そのような人々をイエス・キリストは「偽善者」と呼ばれ非難されました。
2)神に対する誠実さを
そのような背景があることを踏まえつつ、マタイ5:33~37の箇所を見ていきたいと思います。この箇所を理解するにあたって大切なことは、5:21~48は17~20節の神を愛し人を愛することの具体例として話されているということです。何故、「17~20節が神を愛し人を愛することなのか」と思われるかもしれません。イエス・キリストは17節で「 」と語られています。「律法や預言者を成就する」とは、旧約聖書の約束を成就するということです。イエス・キリストは戒めの中で最も大切なことは「神を愛し人を愛すること」と話されました。それを成就するために、イエス・キリストはこの世に来られたのです。20節に「義」ということばが使われていますが、「義」というのは行いが伴うものです。ここでイエス・キリストは「あなたがたの行いが、律法学者やパリサイ人の行いにまさるように」と話されているのです。そして、21節以降に続くのです。ですから、そのことを意識しつつ5:33~37を読み取っていくことが大切です。
この箇所は、イエス・キリストが誓うことを禁じられているようにも受け取れます。何故なら、34節で「決して誓ってはいけません」と話されているからです。しかし、イエス・キリストは決して誓うことを禁じられているのではありません。むしろ、「誓いとはどのようなものか」を話されているのです。神はこの世界の全てを造られました。ですから、その世界の中にある全てのものは、どれを指したとしても神に通じるものであると指摘されているのです。ですから、誓ったことは果たすようにと話されているのです。
当時のユダヤ教指導者たちは、誓いが果たせなかった場合のことを考えて、その抜け道として神以外のものを指して誓っていたことが多かったのです。ですから、軽い気持ちで誓っていたこともあったのです。イエス・キリストは軽々しく誓うことを禁じられているのです。十戒の中に、「主の名をみだりに口にしてはならない」と書かれています。この「みだりに」というのは「偽って」とか「軽々しく」という意味を含んだことばです。また「口にする」と訳されていますことばは、以前までは「唱える」と訳されていました。そちらで覚えておられる方が多いと思います。これは誓うことを意味したことばです。ですから、この「主の名をみだりに口にしてはならない」とは、「神に対して軽々しく誓ってはならない」ということでもあります。神は偽りの誓いや軽々しい誓いを禁じられているのです。何故でしょうか。それによって、主の御名が汚されるからです。
ですから、イエス・キリストは誓いそのものを禁じられているのではなく、主の御名が汚されない誓いをすることを勧めておられるのです。民数記30章には、神への誓願について書かれています。2節の最後に、「すべて自分の…実行しなければならない」と告げられています。これは男性に対してですが、それは女性の場合は父親か夫が誓願を「無効」とした場合は赦されるからです。しかし、「無効」とされないなら実行しなければならないのです。旧約聖書もイエス・キリストも語られていることは、「軽率な誓いはするな」ということです。「自分が誓う誓いをきちんと果たすことができるのか」をよく考える。これは神に対する誠実さから来るものです。何故なら、「神との関係を大切にしよう」としているからです。神に対して誠実であることが、神を愛することでもあります。
3)日々の生活における誠実さを
聖書は「神に対して誠実であることが、神を愛することでもある」と語っています。37節でイエス・キリストは「 」と話されました。「これはどういう意味なのか」と言いますと、「小細工するのではなく事実だけを言いなさい」ということです。すなわち「自分が出すことばに誠実に生きなさい」ということです。何故なら、誓いは果たすことで初めて成し遂げられるものだからです。このメッセージ準備をしているとき、ふと平城教会の山本圭介先生の牧師就任式のときを思い出しました。当時の実行委員長であられた湯澤先生が牧師就任式の司式をされました。そして、牧師の誓約のあとに教会員の誓約がなされました。教会員には誓約のことばが印刷され各自に配布されていました。湯澤先生は教会の方々に「誓約文を捨てるのではなく各自残しておくように」と伝えられたようです。何故なら、自分たちが何を誓ったのかを忘れることがないためです。すなわち、教会員が神に対して誓ったことを果たし続けるためです。私はそれを聞きまして「大切なことだな」と思わされました。「誓いを果たし続ける」ということは、「行い続ける」ということでもあります。そして、「行い続ける」とは生き続けることでもあります。何故なら、生きていないと行うことはできないからです。
聖書の中に「主は生きておられる」ということばが何度も書かれています。それはⅠ列王記18:15、Ⅱ列王記2:2~6、Ⅱ列王記4:30などです。これらは「誓い」というよりも「約束」と言った方が的確かもしれません。約束は果たすことが求められます。誓いと約束の違いを調べてみますと、「誓いは自分自身の中での決め事であり、約束は相手との関係の中での決め事」と書かれていました。そして、「約束は守らなければならないが、誓いは自分の中のことであるから本人の判断による」というようなことが書かれていました。「なるほど」と思いつつ読んでいましたが、聖書における誓いは神が関わってきます。ですから、「聖書における誓いは神との関りであり、約束は人との関り」ということができるかもしれません。そうなりますと、どちらも守らなければならないものとなります。ましてや、誓いは神に対してなされるものですから、「約束よりも強いもの」と捉えることができると思います。
私たちも「主は生きておられる」と信じています。ですから、私たちの口から出る誓いは、生きておられる神に対してもなされるものです。ですから、誓ったことは果たしていく責任があることを知らされます。そして、その責任を果たしていくことが神に対する誠実さでもあります。そのように聞かれますと、「全てを果たしていくことなどできない」と言われるかもしれません。確かに私たちは弱さを持っていますから、全てを果たしていくことなどできません。だから、イエス・キリストがとりなしてくださっているのです。そのイエス・キリストのとりなしがあることを覚えつつ、少しでも誠実に歩むように心がけることが大切ではないでしょうか。
結)
今朝の招詞の箇所ですが、ホセア6:6に「 」と書かれています。「真実な愛」と訳されていますが、今までは「誠実」と訳されていました。表面的な生き方ではなく、誠実な生き方を神は喜ばれます。そして、6節の最後に「神を知ることである」と書かれています。「神を知る」とは、「ありのままの自分を受け入れてくださっている」というのを知ることです。何故、その神を知ることを神は喜ばれるのでしょうか。それは、ありのままの自分が受け入れられているのを知るとき、その神への感謝が生まれるからです。聖書には「感謝のいけにえを献げよ」と書かれています。私たちが毎主日教会に来て神を礼拝するのは、それが信仰者の務めだからではありません。神への感謝です。1週間、神が共にいて支え導いてくださったことへの感謝です。その神への感謝が強まれば強まるほど、その神に誠実に生きようとする思いが強められます。人は神を知れば知るほど、誠実に生きることができます。さらに深く神を知ることができるように祈っていきましょう
ヤコブ5:7~11「耐え忍ぶ者の幸い」 23.09.03.
序)
聖書は神を抜きにした生活を非難しています。そのような生活は、目的・目標を見失っている生活でもあります。私たちが自分の罪を赦され神の審きから救われた目的は、天の御国に入るためではありません。神の栄光を現すためです。天の御国に入るというのは、自分の罪が赦され神の審きから救われたことの結果であり、決して目的・目標ではありません。それなのに当時の教会の人たちの中には、イエス・キリストを信じることによって自分の罪が赦され神の審きから救われたことによって天の御国に入れることに安心し、神を抜きにした生活をしていたのです。そのような生活は、現代の私たちの内にも起こり得ることです。「なるべく楽な道を歩みたい」と願い、「その方を選んでしまう」ということがです。聖書はそのような生活を非難し、神を中心に据える歩みを勧めています。それにはどうすれば良いのでしょうか。今朝の箇所でヤコブは7節で、「主が来られるときまで耐え忍びなさい」と語っています。楽な道を選ぶのではなく、苦しみ痛みに耐え忍ぶのです。聖書が語る「耐え忍ぶ」とは、我慢することではありません。単なる我慢は苦しいだけです。聖書が語る「耐え忍ぶ」とは、神に望みを抱いて目の前の事柄を耐え忍ぶことです。そこには望みがあります。その望みとは何でしょうか。今朝の箇所から見ますと、「耐え忍ぶ」ということばと同時に、「見なさい」ということばも繰り返し書かれています。この「見なさい」ということばがカギです。この「見なさい」ということばをカギとして、私たちが耐え忍ぶために大切な3つのことを共に教えられたいと願っています。
1)神の恵みの確かさに目を向ける
耐え忍ぶために大切な第1は、神の恵みの確かさに目を向けることです。第1の「見なさい」は7節に書かれています。「農夫は…待っています」と書かれています。イスラエルには雨が降る時季が2回あります。時季は違いますが、日本にも梅雨の時季と秋雨の時季の2回あります。それと同じです。イスラエルでは、種を植えたあとに雨が降り、実が熟する前に雨が降ります。農夫はその雨が降るのを期待します。ですから、農夫にとって雨は恵みそのものです。その雨季の間は、種を蒔いたものが枯れないように守らなければなりません。これが農夫にとって大変の時でもあります。野菜作りをされている方はよく分かるのではないでしょうか。しかし、農夫は大変ですが耐え忍んで待っているのです。何故なら、雨季のときに雨が降り、実が実り収穫できると信じているからです。農夫は「良い実り」という希望に目を向けているから、その間が大変であっても耐え忍ぶことができるのです。もし、そこに目を向けていないなら、「辛いから」とか様々な口実をつけて怠けてしまいます。そして、何もないときに片手間に農作業をします。そのような仕事で実りの良い収穫を得ることができるでしょうか。答えは明白です。実りの良い収穫など得ることはできません。
「私たちの生活も同じである」とヤコブは語っているのです。「神の約束」という望みに目を向けていないと、目の前の事柄に左右されてしまいます。そして、神が求めておられることよりも、「自分が嫌なことはしたくない」という、神を抜きにした生活になってしまいます。ですから、ヤコブは「農夫が収穫という恵みに目を向けて、その時その時を一生懸命励んでいるように、あなたがたの日々の生活も神の恵みに目を向けて歩むように」と語っているのです。何故なら、ローマ8:28に書かれていますように、神が全てのことを共に働かせて益としてくださるからです。ここを基盤として歩むか歩まないかで、その人の歩みは大きく異なってきます。
ルカ19:11~27には「十ミナの譬え話」が書かれています。これはタラントの譬え話と似ていますが、違う所も幾つかあります。1つは話す相手です。タラントの譬え話は「弟子たちに」ですが、ミナの譬え話は「人々に」です。また、タラントの譬え話は能力に応じて与えられる数量は違いますが、ミナの譬え話は全員同じ数量です。さらに、タラントの譬え話は主人が旅に出るにあたってですが、ミナの譬え話は王位を授かって戻って来るにあたってです。タラントの譬え話は、与えられている賜物や能力は一人ひとり異なるが豊かに用いることの大切さが話されています。しかし、ミナの譬え話は王位を授かって戻って来ることから、イエス・キリストが審き主として戻って来られる再臨の日までのことです。それまで与えられている事柄に忠実であることの大切さが話されています。イエス・キリストはミナの譬え話を通して、「神の審きのときまで忠実であるように」と話されているのです。しかも、その話す相手は人々です。この「人々」とは異邦人ではなくユダヤ人のことです。すなわち、旧約聖書を信じている人たちのことです。それは教会で言えば「教会員」と言えます。ヤコブが語っていることも同じです。「農夫が農作業を忠実に励んでいるように、あなたがたも再臨のときまで忠実に歩むように」と勧めているのです。
2)信仰の先駆者に目を向けること
耐え忍ぶために大切な第2は、信仰の先駆者に目を向けることです。先程、ミナの譬え話のことを話しました。1ミナを預かったけれども何もしなかった人は取り上げられてしまいました。この「取り上げられる」というのは審きの一つです。ヤコブは9節で「さばかれることが…やめなさい」と勧めています。マタイ24~25章には世の終わりについて書かれています。24:2に、「イエスは弟子たちに言われた」と書かれています。この「弟子たち」とは、「12使徒」と限定するよりも、イエス・キリストを信じている人」とも理解できます。弟子たちがイエス・キリストに、「世の終わりの時のしるしは、どのようなものですか」と尋ねたことが3節に書かれています。そこから、イエス・キリストは世の終わりについて話され25章の終わりまで続いています。ですから、この世の終わりの話しは、イエス・キリストを信じている人たちに話されたものです。25章にはタラントの譬え話が書かれています。このタラントの譬え話もイエス・キリストを信じている人に話されたものです。そして、30節に「 」と話されています。とても厳しいことばです。さらに、25:46のことばも厳しいことばです。ヤコブは「さばかれることがないように」と、暗闇に追い出されたり、永遠の刑罰に入れられることがないことを願っています。
ヤコブは9節の中程で「見なさい」と語り、審き主なる方が戸口に立っておられることを示しつつ、10節で「主の御名によって…模範にしなさい」と勧めています。すなわち、信仰の先駆者に目を向けるようにと勧めているのです。10節の「預言者」とは、イスラエルが南北に分裂してからの預言者のことと考えられます。偶像崇拝に陥ってしまった南北のイスラエルの中で、神のことばを語り続けた預言者たち。神の御心に従って神のことばを語り続けましたが、経験したのは苦難と忍耐でした。特にエレミヤなどはひどいものでした。神は南ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされることを定められていたにも関わらず、エレミヤに南ユダ王国の人たちに神のことばを語り続けることを求められました。そのため偽預言者のように扱われ、罵られつつ多くの苦難に遭遇します。彼は自分が語っても人々は悔い改めないことを知りつつも、自分に与えられた務めを最後まで忠実に果たし続けたのです。自分の周りがどうであれ、「神に対してどうであるのか」を第1にしていたのが預言者の生き方でした。
そのような生き方をしていたのは預言者だけではありません。へブル11:35~40に「 」と書かれています。ここには無名の信仰者たちの歩みが書かれています。彼らは様々な苦難の中で神に忠実に歩み続けた人々です。そして、12:1に「 」と書かれています。へブル書の著者は、「無名の多くの信仰者たちの歩みがあって、今の私たちの歩みがあるのだから、自分の前に置かれている事柄に対して、忍耐をもって歩み続けることが大切である」と勧めているのです。これはどういうことかと言いますと、「私たちは先駆者から『信仰』というバトンを受けているのだから、私たちも次の世代に『信仰』というバトンを繋いでいこう」というものです。それには「信仰の創始者であり…目を離さないことである」と2節で勧めているのです。へブル書の著者もヤコブも、信仰の先駆者たちに目を向けさせています。何故なら、そのような人たちから忍耐について学ぶことが多いからです。
3)神の慈愛と憐れみに目を向ける
耐え忍ぶにおいて大切な第3は、神の慈愛と憐れみに目を向けることです。ここでヤコブは、ヨブのことを語っています。ヨブは神をとても愛し、神を恐れていた人でした。そのヨブに対する神の評価はどのようなものだったでしょうか。ヨブ記2:3に「彼のように…地上には一人もいない」というものでした。ヨブはそれほどの評価を神から受けていたのです。ところが、そのヨブは全身に悪性の腫物ができました。それでも彼は神を呪うことをせず、2:10で「私たちは幸いを…受けるべきではないか」と言った人です。ですが、そのヨブも友人たちからのことばによって、自分の義しさを主張し神に呟いてしまったのです。しかし、ヨブは神のことばによって自分と神とは対等ではないことを改めて知り、心から悔い改めたのです。その時ヨブが目を向けたのは、神の慈愛と憐れみです。
5月の合同聖会の1日目の夜に、講師の山口先生より日本キリスト教史の講義をしていただきました。その終わりの方で、第二次世界大戦中の日本は教会を日本基督教団にまとめられ、教団代表者は伊勢神宮に参拝し、発足したことの報告をして祈願したことが話されました。山口先生のことばをそのまま拝借しますと「バアルに膝を屈める教会となった」ということです。戦後、日本のキリスト教会の多くは日本基督教団から脱退し、各々の団体を発足し活動を始めました。それと同時に、戦中にしてきたことを告白し悔い改めました。「キリスト教は悔い改めの連続である」と話されたのと同時に、「罪を告白するのと告白しないのとは雲泥の違いでもある」と話されました。そして、「日本のキリスト教会は神に滅ぼされても仕方のないものだったのに、新しい教会を生み出さしていることは神の慈しみであり憐れみである」とも話されました。
私自身もそのように思わされています。キリスト者は「罪赦された罪人」です。自分の信仰がすばらしいからキリスト者として立つことができるのではありません。ただただ神の慈愛と憐れみによってキリスト者として立たせていただいているだけなのです。ヤコブは、その神の慈愛と憐れみに目を向けるように勧めているのです。それはヤコブだけでなく、ペテロも同じことを語っています。Ⅰペテロ2:3に「 」と書かれています。「味わった」とは「経験した」ということです。そして、私たちはその連続でもあります。私たちがキリスト者として生かされているのは、ただ神の慈愛と憐れみによってなのです。私たちは自分の生活に信仰を合わせようとしてしまいやすい者です。それでも、神は私たちを見捨てることをされず、いつも共にいて守り支え導いてくださっています。その神の慈愛と憐れみに目を向けたいものです。山口先生は最後に、「コロナ禍後、代わりゆく時代の中で『私たちが福音を証ししていくのはどういうことか、また私たちはどのように変わらなければならないか』を考えるときを歩んでいると思う」と話されました。福音の証し人として変えられていくには、神の慈愛と憐れみに目を向けることです。その神の慈愛と憐れみに目を向けることによって、私はどのように歩めば良いのかが見えてくるのではないでしょうか。
結)
神は私たちに生きる望みを与えてくださっています。その生きる望みが与えられているから耐え忍ぶことができるのです。ただ大切なのは、「何に目を向けるのか」ということです。目を向けるものを間違ってしまいますと、間違った方向に進んでしまいます。昔、「金八先生」というドラマの中で、金八先生が「親という字は、木の上に立って見ると書く」と話し、「親は木の上に立って見て、子どもに進むべき方向を示す存在である」と話していました。ただ、大事なのは目を向けて見た方向が正しいかどうかです。間違っていたら、子どもに間違った方向に進ませてしまいます。それには、まず大人である私たちが「何に目を向けるのか」を良く知ることが大切です。
ヤコブ5:1~6「真実な愛」 23.08.27.
序)
ヤコブは4:17で「 」と語り、神を片隅に追いやり自分に神のみわざを合わせようとする歩みについて「それはその人の罪です」と断罪しました。なすべき良いことを知っていながら行わないのですから、これは神を信じていない人よりもたちが悪いものです。でも、このようなことは私たちにもあることです。そのような私たちのために、イエス・キリストがとりなしてくださっていることを先週の礼拝で学びました。そのように思いますと、昔も今も人の心は何ら変わることがないのに気づかされると同時に、神の愛とイエス・キリストのとりなしも何ら変わることがないことを知らされます。その神の愛とイエス・キリストのとりなしに対して応答するのは真実な愛です。今朝は、その真実な愛について共に教えられたいと願っています。
1)正しく応答するもの
まず真実な愛は正しく応答するものです。ヤコブは「金持ちたちよ、よく聞きなさい」と語っています。当時の教会にも裕福な人たちが集っていました。決して、身分の低い人や貧しい人たちだけではありませんでした。ところが、ヤコブはその金持ちたちを非難する内容のことを語っています。ともすると、金持ちが悪いような印象を受けてしまいます。例えば、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい」とイエス・キリストは話されましたし、金持ちとラザロの譬え話もそうですし、以前話しました金持ちの豊作の譬え話もそうです。ですが、聖書は「金持ちは悪い」と語っているのではありません。金持ちが陥りやすいのは、自分の財産にまず目を向けてしまうというものです。本当はまず神に目を向けることなのに、自分の財産に目を向けるという誘惑に陥りやすいのです。富める青年もそうです。財産から目を離すことができないために、貧しい人に施すことができなくてイエス・キリストの前から去って行きました。そのことを考えますと、今朝の箇所に書かれている「金持ち」とは、文字通りの金持ちではなく、「自分の財産にまず目を向ける人」とも言えるのではないでしょうか。さらに言いますと、「見えるものに目を留めてそれに頼る人」と言えるのではないでしょうか。
私たちもついつい見えるもの目を留めて頼ってしまいやすくなります。マタイ6:20で、イエス・キリストは「自分のために、天に宝を蓄えなさい」と話されました。その理由は、虫やさびで傷物になったり、盗人に盗まれないためです。この「宝」とは、本人にとって大切なもので「これさえあれば」というものです。この「これさえあれば」というのは人によって異なります。ただ「蓄える」というのは、積み上げることを意味し「熱心になる」ということを表しています。熱心になりますと、それが最優先になります。優先順位が変わってしまうのです。そのようなことは私たちにも起こり得ることです。信仰が与えられたときは「神様第一」としていたものが、いつの間にか「第一になっていない」ということがあります。以前、ピリピ1:9~10から「霊的整理整頓」が強められることを話しました。整理整頓とは「必要なものと不必要なものを分けるのが整理であり、必要なものを順序立てることが整頓である」と話し、ヤコブも「霊的整理整頓を勧めている」と話しました。
「信仰の父」と言われたアブラハムも、そのようになりかかっていた時がありました。アブラハムが熱心になっていたものは、自分の一人子イサクでした。そのアブラハムに対して、神は「イサクをわたしに献げなさい」と言われました。アブラハムも「神を優先するか、イサクを優先するか」を迫られたのです。優先順位が混乱することが悪いわけではありません。「優先順位が混乱してしまう」というのは誰にでも起こり得るものです。そして、「優先順位が混乱している」ということになかなか気づかないのも事実です。そのことに気づかせてくれるのは、みことばでありディボーションです。大切なのは、気づいたときにどうするのかです。神に愛されていることに気づきつつもそのままにするのか、それとも正しく応答しようとするのかです。真実な愛は、正しく応答するものです。
2)正しく管理し用いる
次に、本当の愛は正しく管理し用いることでもあります。今朝の箇所は、金持ちに対して書かれています。その金持ちとは、「見えるものに頼る人のことでもある」と話しました。それは、「自分の生活の安定を優先する人」と理解しても良いでしょう。聖書は「全ては神が私たちに与えてくださったもの」と語っています。それは「与えてくださったものだから、自分の好きなように使っても良い」ということではありません。厳密に言えば、与えてくださったのではなく委ねてくださったのです。それは賜物と同じです。大切なのは、委ねてくださったものをどのように用いるかです。聖書は「全て神から委ねられたものであるから、それを正しく管理し用いるように」と勧めているのです。決して「好きなように使っても良い」と言っているのではないのです。
先程、「正しく管理し用いる」と話しました。では、「正しく管理し用いる」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストは、ルカ12:42の最後で「忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか」と話されて、43節以降で譬え話をされました。45節以降の不忠実な管理人は、使用人を自分の好きなように使い、自分は何もしていない人です。しかし、忠実な管理人は使用人を的確に用いる人であり、自分の能力を最善に用いる人です。それと同時に、16:1~13でも管理人について話しておられます。ここには、不正な管理人が褒められている箇所です。この箇所を読んで、「何故こんな人が褒められるのか」と思われる方もおられると思います。「証文を書き直しさらなる不正をしたのですから、余計に罰を与えるのが当然ではないか」と思わされます。ここで主人は、不正をしたことを褒めているのではありません。賢く行動したのを褒めているのです。そのことをきちんと区別する必要があります。この不正な管理人は今後の生活のことを考え、そのための備えをしたのです。主人はそのことを褒めただけなのです。9節の「不正の富で、自分のために友を作りなさい」というのは、「不正をしても良い」と話されているのではありません。「不正の富」とは、この世のもののことです。与えられているこの世のもの正しく用いることを勧めておられるのです。
キリスト者の中には、老後のために蓄えることを不信仰のように思われる方がおられます。何故なら、「神が私たちを養ってくださるのだから、老後のために蓄えるというのは神の養いを信じていないことだ」と思われているからです。皆さんはどうでしょうか。私はそのような考えに対して「NO」なのです。神は一人ひとりに労働というものを与えておられます。どのような仕事をするのかは一人ひとりによって異なりますが、どのような仕事であれ「それが神から与えられたもの」と捉えてされているのであれば、「それは良いもの」と私は思っています。そして、その仕事を通して報酬が与えられます。その与えられた報酬をどのように用いるかは、その人の判断に任されています。「今与えられている報酬は、老後のための蓄えのために用いるものとして神は与えてくださっている」と捉え、そのために蓄えるのであれば、それは決して不信仰なものではないと私は捉えています。この譬え話は、そのことを表していると私は理解しています。
そのことを聞かれますと、ある方は「レプタ銅貨2枚を献げた女性の話しはどうなのか」と思われる方もおられるかもしれません。イエス・キリストは「彼女は誰よりも多く献げた」と話され、それは「生きる手立ての全てを投げ入れたからだ」と話されたことが、ルカ21:2~3に書かれています。同じことがマルコ12:41~44にも書かれています。これは彼女の神が養われることの信頼を話され、その信頼強さを話されているのであり、「このようにしなさい」と勧められているのではありません。私たちがこの箇所から学ばせられるのは神への信頼であって、全てを神に献げることではありません。先週の礼拝で、愚かな農夫の譬え話を見ました。彼は今後の生活のための蓄えをしたのではありません。「食べて、飲んで、楽しめ」という自分の快楽のために蓄えたのです。先週も話しましたが、この愚かな農夫は神を抜きにした計画を立てたのです。神を抜きにするならば「正しい管理」とは言えません。与えられているものを正しく管理し用いることは真実な愛です。
3)行いが伴うもの
最後に真実な愛は行いが伴うものです。ヤコブは「私は神を愛している」と言いながら、与えられているものを正しく管理せず、自分の満足を求める人たちに対して、6節で「あなたがたは…定めて殺しました」と語っています。これは非常に厳しい言い方をしています。本当に人を殺したというのではなく、「実質的には人殺しと全く変わっていない」ということです。聖書は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と語っています。これは「自分に対するのと同じように他者にもしなさい」ということです。そこには「他の人への心配り」というものがあります。ところが、問題の金持ちの人たちは、自分の生活のことしか考えていないのです。そのため他者への心配りに欠けているのです。すなわち、隣人のことを思っていないのです。ある人は「いや、私は心にかけている」と答える人もいたかもしれません。ヤコブは、そのような人に対して何と語ってでしょうか。2:14~17で「 」と語ったのです。16節の「安心して…食べなさい」ということばは、心を配っているようにも思えます。しかし、「必要なものを与えてないなら、何の役に立つでしょう」と語り、「それだけでは死んだものです」と語っています。「死んだもの」とは、「していないのと同じだ」ということです。
聖書は心の中で思うだけでなく、決断し実行することを求めているのです。それは救いにおいても同じです。以前にも見ましたが、ローマ10:9~10に「 」と書かれています。ここには、心の中で信じたことを口で告白することが求められています。それは「心の中で信じただけなら救われない」と語っているのではありません。ですが、神が求めておられるのは口ではっきりと告白することなのです。心の中で信じることは「思うこと」と理解できます。そして、口で告白することは「行うこと」と理解できます。実は、それが神に従うことであり、神を愛することなのです。神も同じことをされました。神は私たちを愛するが故に、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、十字架へと導いてくださいました。神は心の中で思われただけでなく、そのことを行われたのです。神の私たちに対する愛は行いが伴っているのです。だから、私たちは神の愛を知ることができたのです。
それと同じように、神は私たちにも心の中で思うだけでなく、その思いを見える形で行うことを求めておられるのです。ヤコブは6節の最後で「彼は…抵抗しません」と語っています。この「彼」とは、心配りをされる側の人のことです。そして、「抵抗しない」とは「黙っている」ということです。でも、黙っているから良いということではありません。ヤコブは「だからこそ、あなたがたの方から心配りをしなさい」と語っているのです。それが本当に愛するということです。ともすると、私たちは「本人が『それで良いです』と言っているのだから良いんじゃないですか」と言って片づけてしまうことがあります。ですが、そこには本当の心配りがないことを、準備をする中で改めて気づかされました。せめて別の提案をして、少しでも相手に自分の思いを伝えられるようにすることが行いであり、それが真実な愛でもあります。真実な愛は行いが伴うものです。
結)
今朝は真実の愛について見ましたが、そのように思いますと「自分の中に真実の愛があったのか」と思わされます。そして、真実の愛に生きていない自分を見出だしてしまいます。ですが、そのような私たちのためにイエス・キリストは十字架に架かり死んでくださいました。そのような私たちのためにイエス・キリストはとりなしてくださっています。イエス・キリストは今も私たちのために真実の愛をもって行ってくださっています。そのことを思いますと、私たちも行いが伴う愛を実践できるように祈る必要があることを知らされます。行いが伴う愛に生きる者とされるように祈っていきましょう
ヤコブ4:13~17「私たちの生活の中心」 23.08.20.
序)
ヤコブの手紙から学び、あと数回で終わろうとしています。皆さんは、「このヤコブの手紙が送られた教会はどのような教会か」と頭に描きつつ聞かれているでしょうか。乱暴な言い方になりますが、私の頭の中では「口先だけの教会」というイメージが頭の中に描かれています。それは信じていることと生き方が伴っていないということです。それは1:8に書かれています「二心を抱く」生き方です。その時にも話しましたが、それは神を信じつつも「自分の常識」や「世間の常識」を優先する生き方です。そのため、見えるものや理解できるもので判断してしまいやすくなります。ヤコブの手紙は行いが強調されていますが、それはキリスト者の生き方が強調されていると言っても過言ではありません。それは、「私たちがこの世にあってどのように生きるか」を問うている手紙でもあります。今朝は、私たちの生活の中心について共に教えられたいと願っています。
1)神を抜きにした歩み
まずヤコブは、13~14節で「 」と語っています。「商売をしてもうけよう」ということから、商売に対する自信が見られます。このことばから、今までも商売をして成功していたと考えられます。そして、さらに商売の範囲を広げようと計画しているのです。「そのような計画を立てる」というのはどうでしょうか。私は「別に悪いことではない」と思います。何をするにも計画を立てるのは大切なことです。ところが、この手紙を読みますと、計画を立てることを非難しているように聞こえます。ですが、ヤコブは計画を立てることに非難しているのではありません。では、何を非難しているのでしょうか。御存知のように、この手紙は1:1に「離散している12部族にあいさつを送ります」と書かれています。その時にも話しましたが、これは「霊的イスラエル」のことを表しており、教会に宛てて書かれた手紙です。その教会は、キリストのしもべとして生きることを決心した人たちに群れです。ところが、この13節の「今日か明日…もうけよう」というのは、今までの自分たちの経験や考えだけで行おうとしているものです。すなわち、神を抜きにした計画です。ヤコブは、そのことを非難しているのです。それは「計画を立てるのはすばらしいことであるが、神を抜きにした計画は本末転倒である」ということです。
では、何故本末転倒な考え方になってしまったのでしょうか。それは二元論的な生き方をしていたからです。人間論的生き方とは、「信仰は信仰、生活は生活」と区別する生き方です。私たちは「自分そのような生き方はしていない」と思われているのではないでしょうか。私もそのように思っています。ですが、そのような生き方になってしまいやすいのです。その代表的な譬え話が、ルカ12:16~21に書かれています愚かな農夫の話しです。この農夫は、自分の予想以上の豊作でとても喜びました。それを自分のために使おうと計画を立てました。ここには、神を抜きにした計画を見ることができます。この譬え話の農夫はイスラエル人ですから、神を信じている人と考えられます。ですが、この計画は神を抜きにしたものを立ててしまったのです。それに対して、神は「愚か者」とこの農夫に言われたのです。何故なら、その後で農夫の命が取られてしまうからです。この譬え話の後で、イエス・キリストは21節で「 」と話されました。
私は「もし、この農夫が命を取られるのではなく、大きな災害を受けて倉が壊れてしまったらどうするのか」と考えました。「おそらくこの農夫は、神に対して『何故、こんな目に私を遭わせるのか』と不満を言ってしまうのではないか」と思わされました。自分の神に対する信仰のことは何も触れず、神に文句を言ってしまうのではないかと想像します。物事が順調に進みますと自分の知恵や力を誇り、神を抜きにしてしまう歩みに陥ってしまいやすくなります。それは神を信じる私たちにも起こり得ることです。「そのことを意識するのは大切ではないか」と思わされます。
2)神に合わせて
では、私たちはどのような歩みをすればよいのでしょうか。それは、神を抜きにしない歩みです。「神を抜きにしない歩み」とはどのようなものでしょうか。ヤコブは15節で「 」と語っています。これは神に合わせる歩みを示しています。私たちの人生は、自分が主役ではなく神が主役です。ある方は「私の人生は私のものだから、私の人生の主役は私である」と思われています。そのような捉え方は、神を信じている人にも起こりやすいものです。しかし、私たちの人生の主役は自分ではありません。ヤコブは14節で「 」と語っています。先程の愚かな農夫の譬え話でも、イエス・キリストはルカ12:20で「 」と話されました。私たちの命は、神から与えられているに過ぎません。人の命は自分のものではなく神のものです。ところが、私たちはそのことを忘れてしまい、自分の命は自分のものであり、自分の人生も自分のものと捉え、自分が人生の主役になってしまいやすいのです。
自分が主役になりますとどうなるでしょうか。全てを自分に合わせようとしてしまいます。何故なら、自分が主役なのですから他のものは全て脇役になるからです。「脇役は全て主役に合わせるもの」と捉えてしまい、「神の働きも私に合わせるべきもの」と思ってしまうからです。そのため結果が自分の願いと違っていると、「私はそれを受け入れられない」と言って協力しなくなります。そして、そのような結果を出した相手を心の中でさばいてしまうのです。ヤコブがこの手紙を出した教会は、そのようなことが生じていたのです。ヤコブは14節で「あなたがたには、明日のことは分かりません」と、「結果は分からない」と告げています。さらに続けて15節で「 」と語っています。これは「どのような結果であれ、それが祈ったことの結果であるなら、それらを主の御心として受け入れるように」ということです。
ここで注目したいのは「私たちは生きて」ということばです。このことばは、別になくても良いことばです。「主の御心であれば、このこと、あるいは、そのことをしよう」でも通じます。なのに、ヤコブはわざわざ「私たちは生きて」ということばを用いているのです。何故でしょうか。旧約聖書には「生きよ」と命じられていることばが幾つか書かれています。この「生きよ」というのは、「その中で最善を尽くせ」ということです。先程の聖書交読の箇所もそうです。神はゼデキヤ王にバビロンの王に仕えることを命じられました。しかし、ゼデキヤ王はバビロニア帝国に反逆したのです。ゼデキヤは最善を尽くさず反逆したために家族を目の前で殺され、彼はバビロンに連れて行かれて死ぬのです。神はエルサレムを顧みるとき、全てのものを戻すと約束されているのです。その神の約束を信じて、その中で最善を尽くすことがゼデキヤ王に求められたことだったのです。ヤコブは、「祈った結果が自分の願いと違ったとしても、それを神の御心として受け入れ、その中で最善を尽くすように」と勧めているのです。「『結果が自分の願いとは違ったから協力しない』というのではなく、むしろ神の御心として受け入れ、その中で最善を尽くすように」と勧めているのです。それが「神に合わせる」ということでもあるのです。
私たちには、自分の願いや思いがあります。そして、その自分の願いや思いの通りになることを願います。ですが、全てが全て自分の願いや思い通りになるわけではありません。反対の結果が出ることもあります。そのとき心の中には戦いが生じます。これも信仰の戦いの一つです。信仰の戦いは、外から来る迫害や誘惑だけではありません。自分の心の中に生じる戦いも信仰の戦いなのです。私たちにとって何が最善なのかと言いますと、自分の願いや思いが叶えられることではありません。神に合わせることが最善なのです。結果は自分が祈った神の御心であり、それを受け入れその中で最善を尽くすことが神に合わせることです。
3)イエスのとりなしによって
ヤコブは16節で「 」と語っています。これは実際の生活が神を抜きにして、自分中心の生活をしていることへの批判です。それは自分が忠実な信仰者と捉えつつも、神を抜きにして自分中心の生活をしているからです。「大言壮語」と訳されていることばは、以前は「空しい誇り」と訳されていました。「空しい」というのは、実際にはないのにあるかのように装うことです。実際は忠実な信仰者でないのに、忠実な信仰者のように装うことは、「全て悪いことです」とヤコブは批判しているのです。
この13節の「今日か明日…もうけよう」ということばですが、これは今まではそのようにして順調であったことを前提としているものです。今までは問題なく進んでいたのです。神を信じている人が、神を抜きにした歩みを続ける中で問題が生じるのではなく、何の問題も生じることなく順調に進んでいたのです。何か不思議な気もします。ですが、そのようなことを大いにあり得ることです。私はワイシャツを着るとき上からボタンをはめていきます。急いでいますと、最初のボタンと穴をはめ間違えることがあります。ですが、途中では気づかないのです。何故なら、ボタンは問題なく穴にはめられているからです。ところが、最後の方に来ますと間違っていることに気づくのです。すると、最初からやり直しです。
それは先ほども見ました愚かな農夫の譬え話もそうです。彼は神を信じていましたが、神を抜きにした生活をしていました。それなのに、仕事は順調に進むところか豊作だったのです。彼が予想していた以上の成果が出たのです。しかし、神の評価は「愚か者」という評価だったのです。何故なら、神を信じているのに、実際の生活は神を抜きにした生活をしていたからです。そのことを思いますと、ついつい自分中心に物事を考え判断する自分自身を見出だされます。そして、「ひょっとしたら、この『愚か者』と評価された農夫は自分自身ではないか」とも思わされます。しかし、そのような私がキリスト者として立つことができるのは、イエス・キリストのとりなしによるものであることに気づかされます。もっともっと、イエス・キリストのとりなしに感謝する必要があることを知らされます。ですがそうであるのに、もし「自分の信仰生活が受け入れられている」と誤解するなら、それはとても恐ろしいことでもあります。Ⅰヨハネ2:1の後半に「しかし、もし…おられます」と書かれています。私たちの日々の生活は、イエス・キリストのとりなしによって支えられているに過ぎないのです。そのことを覚えつつ、感謝し歩まされたいものです。
結)
私たちが陥りやすいものは神を抜きにした生活です。それは「信仰を捨てる」ということではありません。神を片隅に追いやって、自分の思いや願いを中心に置くということです。そして、神のみわざをも自分に合わせようとすることです。そのような行為について、ヤコブは17節で「 」と語っています。これはとても厳しいことばです。そのようなことに陥ってしまいやすい私たちのために、イエス・キリストはとりなしてくださっています。私たちの生活の中心は自分ではなく神です。その神に合わせる歩みが続けられるように祈っていきましょう。
ヤコブ4:11~12「教会の基本」 23.08.13.
序)
教会は、罪赦された罪人の集まりです。ですから、教会の中に争いが生じる可能性はあります。その争いの大きな要因は、自分の考えや思いを貫き通そうとする欲望です。その解決方法は、みことばと祈りとへりくだりです。教会は、これらによって整えられ1つになって歩む群れです。そのようにして、教会は建て上げられて神の栄光を現す群れとなることができます。「教会が整えられて建て上げられていく」ということは、「その教会に集う一人ひとりが、みことばと祈りとへりくだりによって整えられていく」ということでもあります。ですから「教会」というとき、「私」と置き換えることもできます。ヤコブは、その教会において最も基本的なことを今朝の箇所で語っています。今朝は、その教会の基本について共に教えられたいと願っています。
1)徳を高めるように
教会の基本の1つは、互いに徳を高め合うことです。ヤコブは11節で「兄弟たち…いけません」と語っています。これは誰への悪口かと言いますと、教会に集っている人たちへの悪口です。教会は一人ひとり考えや思いが違います。自分と全く違う立場の人もおられます。当時の教会は、そのような人たちに対して、互いに悪口を言い合っていたという問題があったのです。そのような初代教会の様子を思い浮かべますと、がっかりされる方もおられるかもしれません。何故なら、「初代教会は全員が一致して福音宣教のみわざに励み、様々な戦いの中で教会を建て上げながら、神の栄光を現していった群れ」と思えるからです。ですが、残念なことですが現実はそうではなく、現代と同じように教会の中に様々な問題が生じていたのです。エレミヤ17:9に「 」と書かれています。この箇所は比較的有名な箇所です。ひょっとしたら、以前の訳なら覚えておられる方もおられるかもしれません。以前は、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」と訳されていました。この「癒しがたい」「直らない」と訳されていることばは、「不治の病にかかっている」という意味です。ですから、人の心にあるものは陰険であり、ねじ曲がった思いなのです。それは時代が変わろうとも変わらないものです。何故なら、それが罪だからです。だからヤコブは、11節の初めに「自分の兄弟に…いけません」と語っているのです。
では、悪口を言い合うのでなければ何をすれば良いのでしょうか。パウロはⅠコリント12章で御霊の賜物について語っています。そして、31節で「あなたがたは…求めなさい」と勧め13章に続いています。この13章は「愛の章」と言われている箇所であり、何よりも優れた賜物は「愛である」ということです。そして、14:1に「愛を追い求めなさい」と始めて勧められています。この14章には、繰り返し語られていることばがあります。それは「成長」とか「育てる」ということばです。どちらも同じ語源です。今までは、これらのことばを「徳を高める」と訳されていました。私としては「今までの訳の方が良い」と思っています。直訳すれば「家を建てる」となります。ですから、「成長」とか「育てる」という訳でも良いわけです。ただ、聖書の中で「徳を高める」ということばは、人が前向きに生きられるようにすることを意味しています。教会の中で言うならば、「一人ひとりが前向きに考え、各々に与えられている賜物を用いられるように励まし合う」ということです。しかし、悪口は人を前向きに生かそうとするのではなく、人の心を傷つけ落ち込ませてしまいます。そこには「思いやり」というものはありません。
それだけでなく、関係も悪くなってしまいます。関係が悪くなりますと、教会は建て上げられなくなります。エペソ4:16に「 」と書かれています。ここに「組み合わされ、つなぎ合わされ」と書かれています。これらは交わりであり関係を表しています。教会というのは、より良い関係の中で一人ひとりの賜物が用いられ、互いに励まし合い助け合っていく群れです。ですから、より良い関係が悪くなりますと、教会は建て上げられなくなってしまいます。ですから、悪口は関係を悪くしてしまい教会の成長を妨げてしまいます。だからヤコブは、「悪口を言い合ってはいけない」と勧めているのです。私たちの教会も互いに徳を高め合う群れとして歩まされたいと願います。互いに徳を高め合うことは教会の基本の1つです。
2)隣人を愛する
教会の基本のもう1つは隣人を愛することです。互いに徳を高め合うというのは、その人を愛していないとできない行為でもあります。ヤコブは、2:8で「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とレビ記19:18を引用し語りました。当時の教会の中では、愛し合うのではなくさばき合っていたのです。では、「あなたの隣人」とは誰のことでしょうか。この戒めは全ての人に対して与えられたのではなく、イスラエルの民に対して与えられたものです。ですから、「あなたの隣人」とは、同じイスラエル人のことです。では、何故イスラエルの民に告げられたのでしょうか。それは神にとってイスラエルの民は特別な存在であり、特別に愛しておられたからです。イスラエルの民一人ひとりは、荒野の歩みの中で「わたしはある」という神が、いつも共にいて守り導くという特別な愛が注がれている一人ひとりなのです。「特別な愛が神から注がれている自分を愛するように私も隣人を愛する」というのが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということです。
この特別な愛について、パウロはエペソ5:25で「 」と語っています。この「キリストが教会を愛し」というのは、キリストの特別な愛をもって教会を愛されていることを示しています。その特別な愛は、ご自身を献げられるほどのものです。前にも話しましたが、人を愛する愛と家族を愛する愛は質的に異なります。家族への愛は特別な愛です。キリスト者というのは、神から特別な愛をもって愛されている一人ひとりなのです。そして、その隣人とは教会に集うキリスト者のことです。ヤコブは教会に集う一人ひとりに対して、「あなたの隣人とは同じ教会に集う一人ひとりであり、さばき合うのではなく特別な愛をもって愛し合うように」と勧めているのです。
そのことはヨハネもⅠヨハネの手紙4:19~21で「 」と語っています。「まず神が私たちを特別な愛をもって愛してくださったから、私たちも特別な愛をもって兄弟を愛することができる」と語っています。この「兄弟」とは、同じ主にある兄弟のことです。すなわち、同じイエス・キリストを信じる人たちのことです。ですからヨハネは、「同じ主にある兄弟姉妹に特別な愛をもって愛せない人に、神を愛することはできない」と語っているのです。まず特別な愛をもって愛する実践は、主にある同じ兄弟姉妹に対してなのです。何故なら、それが実践できない人が全ての人に実践することはできないからです。すなわち、「近くにいる人を愛せない人は、遠くにいる人を愛することはできない」と語っているのです。ですから、「隣人」とは、同じ教会に集う一人ひとりのことです。隣人を愛することも教会の基本の1つです。
3)自分を愛する
教会の基本の最後は自分を愛することです。先程「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という箇所を見ました。これは「自分を愛するように隣人を愛する」ということです。ですから、自分を愛することが前提となっています。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というのは、「自分にしてもらいたいことを他人にし、自分がされたくないことは他人にもしない」と理解されている方もおられます。その理解は間違いではありません。ですがそれだけでもありません。神は世界を造られたとき「非常に良かった」と評価されました。その中には、当然人も含まれています。さらに神は、人だけを神のかたちとして造られ、いのちの息を吹き込んでくださいました。世界の被造物の中で、人だけが特別な存在として造られたのです。
先程見ましたが、神は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と告げられました。そして、この戒めは全ての人に対して与えられたのではなく、イスラエルの民に対して与えられたものであり、「隣人」とはイスラエルの民のことであり、さらに言えば「同じ教会に集う兄弟姉妹である」と話しました。さらに深く見ますと、神は「自分自身のように」と告げられています。どのような自分自身なのでしょうか。それは、神から特別な愛をもって愛されている自分自身です。ですから、この戒めは「特別な愛が神から注がれている自分を愛するように私も隣人である教会員を特別な愛をもって愛する」というのが、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということです。ですから、この教えには、「私は神から特別な愛をもって愛されている」という自覚と、「その自分自身を愛する」というものが前提とされているのです。自分自身を愛せない人が隣人を愛することはできないのです。
愛するというのは義務から出ているものではありません。その人の存在に感謝し喜ぶものから出ているものです。「隣人を愛する」とは、その人が存在していることに感謝し喜ぶことです。そして、それを実践するには、まず自分自身が生かされていることに感謝し喜ぶことです。それなくして、隣人を自分自身のように愛することはできないのです。では、私たちはどのようにして自分自身が生かされていることに感謝し喜べるのでしょうか。それは「わたしはある」というお方が、いつも共にいて守り導いておられることに目を留めるしかありません。「当然」とか「偶々」と思える事柄の中にも、神が働いてくださり全てのことを共に働かせて益としてくださり、導いてくださる神に目を留めるしかありません。その神の目に見えない備えと導きに目を留めるとき、自分自身が生かされていることに感謝し喜ぶことができます。自分を愛することも教会の基本の1つです。
結)
このように見ますと、今朝の箇所は逆から見たように思えます。互いに徳を高め合うには隣人を愛さないとできません。そして、その隣人を愛するには自分自身を愛さないとできません。すなわち、教会が互いに徳を高め合う群れとなるには、その教会に集う一人ひとりが神から特別な愛をもって愛されているということに目を留めることが大切です。教会の基本は、まず「私は神から特別な愛をもって愛されている」という自覚と感謝です。何故なら、その自覚と感謝がなければ隣人を愛することはできませんし、互いに徳を高め合うことができないからです。今の私が神からの特別な愛で愛されていることを覚え、そのことに感謝しつつ歩まされていきましょう。
ヤコブ4:7~10「神の恵みを受けるには」 23.08.06.
序)
松原湖小学ベース第1キャンプではキャンパーの中からコロナ感染者が出たとのことですが、無事に戻ることができたことを神に感謝すると同時に、皆様のお祈りにも感謝します。今回のキャンプで参加された方々は多くの神の恵みを受けられたことと思います。一人ひとりに多くの恵みを注いでくださった神にも心から感謝したいと思います。人は誰でも「神様から恵みを受けたい」と願います。では、その神の恵みを受けるにはどうすれば良いのでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。
1)神に従う
神の恵みを受けるに必要なことの第1は、神に従うことです。「神に従う」というのは、私たちはよく知っています。そして、「あなたはいつも神に従っていますか」と尋ねられたらどのように答えられるでしょうか。「はい、私はいつも神に従っています」と答えられるでしょうか。それとも、「いや、いつもではありません」と答えられるでしょうか。もし、そのように答えますと、今度は「何故いつも従えられないのですか」と聞かれることでしょう。そのように聞かれたらどのように答えられるでしょうか。「私の弱さの故に」とか「私の中に罪があるから」と答えられるでしょうか。その答えは間違いではなく正解です。しかし、その答えが一番危ないのも事実です。何故なら、「罪」ということばで簡単に片づけられてしまうからです。確かに、「弱さ」や「罪」の故にではありますが、神に従う方を選び取ったなら、自分の願いや考えを捨てなければいけません。実はそれが嫌なだけのことです。それを「罪」という別のことばで言い替えているだけのことです。変な言い方をすれば、「きれいなことばで」と言いましょうか、聖書的なことばで言い替えているだけのことです。
では、「神に従わない」とはどういうことでしょうか。神のみことばを守り行わないことでしょうか。確かに、これは神に従わないことです。それと同時に、口実をつけることもそうです。私たちは「でも」ということばを使います。この「でも」ということばは、自分の正しさを主張しようとすることばでもあります。自分の願っていることや考えていることを「正しい」と思いたいですし、分かってもらいたいのです。私たちの心の中にはそのようなものがあります。そのような私たちが、どのようにして神に従うことができるのでしょうか。それは自分の努力で行えるものではありません。みことばを読んでも実践できないのです。何故なら、みことばを知っているのに実践できないからです。
では、どうすれば良いのでしょうか。実は、今までの神の導きを思い起こすしかありません。その今までの神の導きを思い起こさせてくださるのが聖霊の働きでもあります。何故なら、ヨハネ14:26に「 」とイエス・キリストは話されています。今までの神の導きを思い起こさせ、神のみことばによる約束の確かさを思い起こさせるのは聖霊の働きだからです。その神の導きを思い起こされることによって、神への信頼が強められ従う者へと整えられていくのです。マタイ25章ではタラントの譬え話が書かれていますし、ルカ19章ではミナの譬え話が書かれています。この共通点は、1タラントを預けられた人と1ミナを預けられた人は何もしなかったので持っているものを取り上げられ、10タラント儲けた人や10ミナを儲けた人に与えられたというものです。そして、持っている人はさらに与えられ豊かになり、持っていない者は持っているものまで取り上げられるということです。これは行いを表していますが、行うことによって何が豊かになるのかと言いますと神への信頼であり神の恵みです。神の恵みを豊かに受けるには神に従うことであり、それはチャレンジすることでもあります。マタイ25:15には「能力に応じて」と書かれています。神は一人ひとりの能力を御存知の上でチャレンジを与えておられるのです。ですから、できないことを備えてはおられないのです。あとは、その人の決心次第なのです。その決心をするかしないかが、神に従うか従わないかです。「神の恵みを受けられるかどうかは、私たち一人ひとりの決心にかかっている」と言っても過言ではないでしょう。
2)神に近づく
神の恵みを受けるに必要なことの第2は、8節に書かれていますように神に近づくことです。では、「神に近づく」とはどういうことでしょうか。イエス・キリストを信じる私たちには、神が内に住んでくださっているのですから、もうすでに神に近い者と言えます。この「神に近づく」というのは距離的なことではなく関係的なことです。ですから、「深まる」とか「強められる」ということです。ヤコブは神に近づくことを勧めています。そのことだけに目を留めてしまいますと、「私の方から神に近づかなければならない」と思えてしまいます。ですが、ヤコブはそのように語っているのではありません。何よりも、神の方から私たちに近づいてくださったことを前提として語っているのです。例えば、ある人と関係が壊れてしまったけれども、その人から関係を回復するために握手の手が差し伸べられたとします。その人との関係を回復するには、その握手の手に自分の手を差し伸べることです。自分の手を差し伸べなければ関係を回復することはできません。ヤコブは差し伸べられている手に、あなたも自分の手を差し伸べることによって、神との関係が回復し近づくことができると語っているのです。
神は私たちが罪人であったときに、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架に架けて私たちの罪を背負い、私たちの罪の身代わりとして神の審きを受けてくださいました。何よりも、神は私たちに近づいてくださいました。そして、私たちは自分の罪を知り悔い改めてイエス・キリストを信じました。それによって神に近づくことができました。それで終わったわけではありません。その後の私たちの歩みはどのようなものでしょうか。日々、神の御心に従って歩んでいるでしょうか。残念ながらそうではありません。自分の考えや思いを優先し、神の御心に反した歩みをしてしまいます。それでも神は私たちに手を差し伸べてくださっています。その神の御手に手を差し伸べることが神に近づくことです。それには自分の罪を悔い改めることが必要なのです。そのことを語っているのが8節の後半~9節です。
どのようなことであれ、いつも神はあなたに手を差し伸べてくださっています。後はあなた次第なのです。申命記30:1に「あなたの前に置いた祝福と呪い」と書かれています。私たちの前には、いつも祝福と呪いが置かれているのです。それは何のためにかと言いますと、神の祝福を受けるためです。決して、呪いを受けるためではありません。そして、その神の祝福は11~14節に「 」と書かれています。すなわち、神の祝福は私たちの近くにあるのです。パウロはこの箇所を引用して、ローマ10:6~10で「 」と語っています。パウロも「結局はあなた次第である」と語っているのです。神はいつも私たちの前に「神に近づく」という祝福を置いてくださっています。「あとは私次第である」ということを覚えたいものです。神は私たちの決断を待っておられるのです。
3)主の御前でへりくだる
神の恵みを受けるに必要なことの第3は、主の御前でへりくださることです。実は、この「主の御前で」ということばが大切です。「主の御前で」というのは、「主に対して」ということでもあります。何を嘆き、何を悲しみ、何を泣くのでしょうか。それは、神を信じつつも神を片隅に追いやり、自分の考えや思いが中心に来ていることに嘆き悲しみ泣くのです。バプテスマを受けるとき、神を信じ従う決心をして誓ったにも拘わらず、それが実行できていない自分を嘆き悲しみ泣くのです。そして、神に従う再決心をすることが、10節で語られている「主の御前でへりくだる」ということです。
私たちは祈りにおいても、ことばにおいても「委ねる」ということばを用います。私自身も「あとは委ねるしかない」と言ったりします。ですが、私自身は「委ねる」ということばをあまり使わないようにしています。それは、ともすると信仰的なことばで片づけてしまいやすいからです。それは以前にも話しました「私は教会に仕えるのではなく神に仕えるのだ」というのと同じです。このメッセージ準備をしているとき、数年前の教会指導者研修会に聖契神学校の校長であられる関野祐二先生を招き、関野先生が話されたことを思い出しました。私が開会礼拝をして祈り、そのあと関野先生に講義をしていただきました。その講義の最初に関野先生は、「松浦先生は研修会の開会祈祷で『委ねる』ということばを使われなかった」と話し、「私も『委ねる』ということばに抵抗を持つ一人である」と話されました。それは研修会の途中で大地震が起こるかもしれない。「『委ねる』ということは、それをも受け入れることでもあり、私はそれをなかなか受け入れられないだろう」というようなことを話されました。私も考え方としては関野先生と同じです。「委ねる」というのは、自分にとって受け入れられないことをも受け入れることです。それができないのであれば、「委ねる」ということばを使ってはいけないのです。もし使うなら、それは高慢です。私も祈りの中で「委ねます」ということばを使うことがあります。ですが、その時には必ずその後で「私の願いとは反対の結果が出たのとしても、それを受け入れることができますように」と祈ります。
ヤコブは10節の後半で「そうすれば…くださいます」と語っています。「神にへりくだる人を神は高く上げてくださる」ということは、「神にへりくだらない人は低くされる」ということでもあります。神にへりくだらない人とは、6節に書かれています「高ぶる者」のことです。10節の「高く上げてくださる」とはどういうことでしょうか。「神に認められる」ということでしょうか。それもあるかもしれません。箴言11:2に「 」と書かれています。「高ぶりが来れば、辱めも来る」と訳されていますが、以前の訳では「恥もまた来る」と訳されていました。要は「最後は自分が恥をかく」ということです。先週の礼拝で見ましたが、エレミヤ42章以降に書かれていますヨハンナたちの行為がそれです。彼らはエジプトに行きましたが、43:10以降にはバビロニア帝国がエジプトを支配することが告げられています。結局は、神が備えておられるものから逃れることはできないのです。先週の礼拝でも触れましたが、神は最善の備えをして導いてくださいます。たとえ結果が自分の願いや思いと違っていたとしても、神の備えと導きを信じて受け入れることが「神にへりくだる」ということです。
結)
神が私たちに備えてくださっているものは恵みです。時には目の前の結果は、自分にとって良くないものかもしれません。ですが、それは一時的なものです。神は永遠なる方ですから、長いスパンで見れば自分にとって良いものなのです。何故なら、神は全てのことを共に働かせて益としてくださる方だからです。10節のみことばを覚えて歩まされたく願います。
ヤコブ4:4~6「へりくだる者に」 23.07.30.
序)
聖書には、神にへりくだることが勧められています。今朝の礼拝の招詞の箇所もそうです。「神にへりくだる」というのは、神の力を認めて全てを委ねることです。ところが、私たちはなかなか神にへりくだることの苦手なものです。そのような私たちが神にへりくだる者とされるには、どうすれば良いのでしょうか。今朝は、2つのグループの人々を通して、神にへりくだることについて共に教えられたいと願っています。
1)神に敵対するグループ
最初のグループは、神に敵対するグループです。ヤコブは、神に敵対するグループの人々を「節操のない者たち」と厳しい口調で呼んでいます。「節操のない人」というのは、「姦淫を犯す」ということです。結ばれているのに、他の人と関係を持つことです。十戒の中にも「姦淫してはならない」と定められています。この「姦淫」というのは肉的姦淫のことだけではありません。「霊的姦淫」も含まれています。「霊的姦淫とは何か」と言いますと、神を愛していながら、この世のものを愛することです。それは「私は神を愛し信じ従います」と誓いながら、神が求めておられないものを愛し、そちらを優先させてしまうことが霊的姦淫です。キリスト教では、結婚するときに2人に誓いをしていただきます。そして、その誓いに基づいて夫婦関係が成立します。ですが、結婚後その誓いが破られたらどうでしょうか。破られた方の心は傷つきます。ある夫婦は、それによって「離婚」というものに進展します。破られた方の心が傷つくというのは神も同じです。神は私たちが神との約束よりも他のものを優先させてしまいますと、ご自分の心を痛まれるのです。
エペソ4:30に「 」と書かれています。文脈から見ますと、この箇所は罪を犯すことについて書かれています。30節の「神の聖霊を悲しませてはいけません」とは、人が神に対して罪を犯すことによって、聖霊が悲しまれるということです。偽りや盗み、また悪いことばは、人の心を傷つけてしまいます。何故そのようなことを人は行ってしまうのでしょうか。それは自分を守ったり、自分の心を満たしたいがためです。どれも自分のためであり、他者のことは考えていません。肉的姦淫であれ、霊的姦淫であれ、原因は他者のことを考えない自己中心から出ているのです。その自己中心が「御霊を悲しませる」とパウロは語っているのです。この世への愛と神への愛は、決して交わることはないのです。むしろ敵対関係にあるのです。そのことを語っているのは、ヤコブやパウロだけでなくヨハネもそうです。Ⅰヨハネ2:15に「 」と書かれています。ヨハネは15節の後半で、「だれかが世を…愛はありません」と強い口調で語っています。
この「世を愛する」とは、「誰が何と言おうとも我が道を行く」ということです。極端なことを言えば、神に祈ったけれどもその結果が自分と違ったとき、それに従わないということです。具体的にどのようなことかと言いますと、エレミヤ42章に書かれている事柄です。1節に、軍の全ての高官たちはエレミヤの所に行ったことが書かれています。3節に「 」と願い、5節で「主が、私たちに…全て行います」と告げました。10日後にエレミヤは彼らを呼び寄せ、10~12節で「この地に留まるように」と告げました。43:2~3に「 」と彼らは言い、4節に主の御声に聞き従わず、7節に「エジプトの地に行った」と書かれています。自分たちの願いと委ねた結果が違ったとき従わなかったのです。これが世を愛することであり、それは「神に敵対することで神への愛はない」と聖書は語っているのです。
そのことを思いますと、本当に自分の到らなさを痛感させられます。バプテスマを受けるときに誓った誓いを果たしていない自分に気づかされます。しかし、そのような私が今日キリスト者として立たせていただいているのは、ただ深い神の憐れみによるものであることにも気づかされます。自分が頑張っているからキリスト者として歩んでいるのではない。ただただ深い神の憐れみによって歩まされているだけであることを強く思わされます。そのことに気づかされますと、神にへりくださるしかないことを知らされます。
2)神に敵対しないグループ
先程は神に敵対するグループについて見ました。では、神に敵対しないグループはどのような人でしょうか。先程話しましたように、それは神にへりくだる人です。さらに言えば、我が道を行かない人のことです。それは祈った結果が自分の願いと違ったとしても、その結果を受け入れ従うことです。ヤコブは5節で「神は、私たちの内に住まわせた御霊を」と語っています。私たちの中には御霊なる神が住んでくださっています。その御霊の働きは、キリストにあって一つになり神の栄光を現すことです。ところが、ともしますと「キリストにあって一つになる」ということに目が向けられてしまい、「そのためなら何をしても構わない」と錯覚してしまいやすくなります。「何をしても構わない」というのは、「優先順位を無視する」ということです。16日の礼拝で、「ピリピ1:10の『見分ける』とは、その必要なものに優先順位をつけることで、『キリストにあって一つとなる』ための優先順位を見分ける力のことです」と話しました。「キリストにあって一つになる」ということに目を向けるのはすばらしいことですが、そのための優先順位を無視してしまいますと混乱してしまいます。私たちに必要なのは、識別力と見分ける力である霊的整理整頓です。その霊的整理整頓が養われるように祈っていきたいものです。
さらに続けて、ヤコブは「ねたむほどに慕っておられる」と語っています。この「ねたむ」というのは、罪から生じます妬みとは違います。以前にも触れましたが、ヨエル2:18に「主はご自分の地をねたむほど愛し」と書かれています。また、ゼカリヤ1:14の最後に「ねたむほど激しく愛した」と書かれ、8:2でも「シオンをねたむほど激しく愛し」と書かれています。この「ねたむほど愛する」とは、「熱心に愛する」という意味です。または「特別な愛で愛する」ということです。神は私たち一人ひとりに特別な愛をもって愛してくださっているのです。それは私たちの家族への愛と同じです。私たちは一人ひとりを愛しています。ですが、その愛は家族への愛と同じではありません。家族への愛は特別なものです。キリスト者という存在は、あなたが家族を特別な愛をもって愛するのと同じほどの愛をもって神に愛されている存在なのです。
その特別な愛をもって愛してくださっている神が、私たちに害となるものを与えられるでしょうか。絶対にそのようなことはありません。パウロはローマ8:28で「 」と語っています。「全てのことが共に働いて」なのです。この「全てのこと」とは、「こんなはずじゃなかった」と思えるような事柄も含まれています。「こんなはずじゃなかった」とは、本人の願いとは正反対の結果が出たときに生じる思いです。ですが、神はそのような事柄の内にも働いて益としてくださる方なのです。私たちにとって大切なのは、自分の願いが叶うことではなく、全てのことに働いて益としてくださる神を信じる信仰です。イエス・キリストご自身もマタイ7:9~10で「 」と話されています。神が私たちに与えてくださるものは良いものなのです。その神の約束を信じ前に進ませてくださるのが聖霊の働きです。その聖霊と共に歩もうとする人が神に敵対しないグループの人のことです。
3)神の恵み
ヤコブは6節で「神は…与えてくださる」と語っています。人は一人ひとり自分の思いや考えがあります。それを優先しないことは心に痛みや不安を覚えます。ともすると、「自分の思いや考えの通りに実現することが神の恵み」と思いやすくなります。箴言16:2に「人には…見える」と書かれています。その後に「しかし」と書かれています。この「しかし」ということばには、「自分の行いは純粋に見えるが実はそうではない」という意味が含まれています。出エジプトの時代、イスラエルの民は荒野で神が与えてくださるマナを毎日食べていました。毎日同じものを食べていますと飽きてしまいます。イスラエルの民もマナに飽きてしまい「肉が食べたい」と不平を言いました。そのことが民数記11章に書かれています。すると、神は「イスラエルの民は1ヶ月肉を食べるようになる」とモーセに告げられました。その神のことばにモーセは「本当にそのようなことができるのか」と疑問を抱きました。そのモーセのことばに対して、神は23節で「この主の手が…今に分かる」と告げられたのです。すると、その翌日うずらが海から飛んで来て、そのうずらをイスラエルの民は捕らえて肉が食べられたのです。
23節のことばを神が告げられたから、うずらは荒野に向かって飛び始めたのではありません。うずらは、その前から荒野に向かって飛んでいたのです。神はイスラエルの民の思いを御存知だから、その前からうずらを荒野に向けて飛ぶように備えておられたのです。ただ、そのことはモーセを含めイスラエルの民は知らないだけのことなのです。これは私たちの日々の生活においても同じです。私たちは先のことは全く知りません。この後に何が生じるかは全く分かりません。しかし、神は御存知なのです。その神は私たちのために最善の備えをしてくださっているのです。何度も話していますが、私たちには見える現実と見えない現実があります。そして、見える現実だけで私たちは判断してしまいやすくなります。でも、見えない現実にも目を向けることは大切です。その見えない現実とは神の備えです。神は私たちのために最善の備えをしてくださっています。何故なら、神は私たちを妬むほど愛してくださっているからです。
ヤコブは「さらに豊かな恵み」と語っています。「さらに豊かな恵み」とは、自分の想像を超えた神の備えと導きのことです。その神の偉大さを知るとき、私たちはもう神の前にへりくだるしかありません。6節の後半には「神は高ぶる者には…恵みを与える」と書かれています。これは箴言3:34からの引用です。この「嘲る者」とは、神の備えと導きを信じられない人のことです。信じないのですから神を見下します。ですが、そのような人を「神は嘲る」と語っています。すなわち、神がそのような人を見下されるのです。神から見下される。非常に悲しいことです。「神から見下されないために、神の備えと導きを信じましょう」と言っているのではありません。「神は私たちの想像を超えた備えをもって導いてくださるから、そのことを信じて歩んで行こう」と語られているのです。その一歩を踏み出して進むとき、私たちの心配や不安を超えた神の守りと導きを知ることができるのです。それが6節の最後に書かれている「恵み」です。
結)
Ⅱコリント6:1~2に「 」と書かれています。祈りの結果は神の恵みです。それを無駄にしないようにしたいものです。さらに、2節に「今は恵みの時」と書かれています。神の恵みはいつも注がれています。いつも私たちの前にあるのです。それを神の恵みとして受け取るか受け取らないかは私たち次第です。いつも神は私たちに最善の備えをして導いてくださっています。自分の納得よりも、神の備えと導きに信頼することが、神にへりくださることです。そのような者へとされるように祈っていきましょう。
ヤコブ4:1~3「キリストにあって一つ」 23.07.23.
序)
先週は、「真の知恵と偽りの知恵」と題して見ました。真の知恵は、キリストにあって一つとなるためへの識別力と見分ける力が養われることです。そのための最優先されるものは神のことばです。すなわち、「聖書はどのように語っているか」ということに耳を傾けることです。ですから、そこには秩序があります。ところが、偽りの知恵はその秩序を乱してしまうものです。秩序を乱してしまいますと混乱が生じてしまいます。混乱が生じますと争いが生じてしまいます。今朝の箇所で、ヤコブはその争いについて語っています。
1)争いの原因
「教会の中に争いが生じる」と聞かれますと、信じられない方もおられるかもしれません。悲しいことですが現実として起こり得るものです。何故でしょうか。それは私たちの中に罪の性質があるからです。ヤコブは「争いの原因は欲望である」と語っています。以前にも話しましたが、キリスト者はイエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神に義と認められた者です。ですが、罪がなくなったのではなく、ただ罪が赦されただけのことです。ですから、キリスト者を「罪赦された罪人」と言われたりします。私たちは自分の罪が赦されただけであって、決して罪がなくなったのではありません。教会は、そのような人たちが集っている所です。ですから、争いが生じる可能性はありますし、争いが生じることは特別な問題ではないのです。
では、今朝の箇所で語られています「欲望」とは何でしょうか。ここで語られています「欲望」とは何かを欲しがることではなく、自分の思いを実現させようとすることです。教会に集う一人ひとりは、各々育った背景が違いますから考え方や受け取り方に違いがあります。すると意見の違いが生じます。過激な言い方をすれば、意見の対立があります。意見の対立は悪いことではありません。どちらも自分の都合のことではなく、教会のことを思ってのこともあるからです。動機的には悪いものではありません。そのような中で妥協点を見出だしたり、どちらかが折れたりします。しかし、もしどちらも自分の意見を貫き通そうとしますと、争いが生じてしまいます。その「自分の思いや考えを貫き通そう」とする思いが、今朝の箇所に書かれています「欲望」なのです。争いが生じる原因は、「自分の意見や思いを貫き通そう」とする欲望なのです。
2)争いが生じさせるもの
その争いが強まりますと、心の中に何が生じますでしょうか。2節の前半に「あなたがたは…人殺しをします」と書かれています。この所を読まれてどのように思われたでしょうか。「まさか教会の中で人を殺すなんてあり得ない」と思われたでしょうか。或いは、「ある人と意見が対立して『あの人さえ居なければ』と思うことはあるけれども、『あの人を殺したい』と思ったことは一度もない」と思われる方もおられるかもしれません。しかし、「あの人さえ居なければ」という思いが表すものは何でしょうか。それは、「その人の存在を消したい」というものです。「存在を消す」というのは、その人を殺すことでもあります。
イエス・キリストは、マタイ5:21~22で「 」と話されました。この箇所は、「殺してはならない」という戒めについて話されています。イエス・キリストは当時の戒めを引用されつつ、22節で「しかし…言います。」と話されました。この「しかし」というのは、律法を否定されているのではなく、当時の人々の律法理解を否定されているのです。律法には、人のいのちを奪うことが禁じられています。レビ記24:19~21には、怪我を負わせたらそれと同じ代償を受けなければならないことが戒められています。当時の人々は、自分が同じ代償を受けるのを避けるために律法を守っていたのです。ですから、律法を守っていたのは自分のためでもあったのです。これは私たちにもあるのではないでしょうか。「法律を破れば自分が罰せられるから守る」というものです。例えば、自動車のスピードがそうではないでしょうか。規定速度を守らずスピードを出しますが、警察が取り締まっている所はスピードを落として、法定速度で走る方々が多いのではないでしょうか。先日も、母が診察を受けるために家内と一緒に津に向かいました。名二環を走っていますと、覆面パトカーがサイレンは鳴らしていませんが赤色灯を回しながら私たちを追い越し、走っている車の集団の先頭に入ってスピードを落としました。しばらくしますと、私の車を追い越す車が何台かいたのですが、覆面パトカーの近くに行きますとスピードを落とすのです。「それは何のためか」と言いますと、自分が捕まって点数が減点され、反則金を支払うのが嫌だからです。すなわち自分のためにです。当時のイスラエルの人々もそうでした。
イエス・キリストは、ここでさらに深く踏み込んだことを話されたのです。まずイエス・キリストは、いのちの大切さを話されています。22節に書かれています「怒る者」と話されています。イエス・キリストは、「人に対して怒ることは殺人と同じである」と話されているのです。怒りというのは、誰にでも生じるものです。怒らない人は一人もいないと思います。私たちからすれば、怒りというのはとても小さなことのように思えるのではないでしょうか。ですが、神の目からすれば怒りというのは決して小さなものではないのです。何故かと言いますと、「ばか者」とか「愚か者」という批判の思いは、怒りから出ているものだからです。しかし、「ばか者」とか「愚か者」という批判は、相手を見下したものであり、相手の心を傷つけ人格を傷つけてしまいます。人格を傷つけることは、神のかたちとして造られた人を傷つけることであり、神の創造のみわざに対して逆らう行為でもあるのです。イエス・キリストは、「相手の心を傷つけてしまうような批判や怒りは神に逆らう行為である」と話されているのです。
イエス・キリストは、人格の尊重を訴えられているのです。一人ひとりを重んじるように話されているのです。すなわち、「自分が行う行為に対して自分がどのようなものを受けるのか」ということよりも、「自分が行う行為に対して相手がどのようなものを受けるのか」ということに気を配ることを教えられているのです。すなわち、「自分のことを思うよりも隣人のことを思いなさい」と話されているのです。それが神を愛することでもあります。申命記8:3には「人は…生きる。」と書かれています。イエス・キリストご自身もマタイ4:4で引用されたみことばです。人は肉体と霊によって生きる者とされています。どちらかがあれば良いというのではなく両方とも大切なのです。どれだけ食物が与えられていたとしても、霊的に飢え乾いていたら人は健全に生きることはできません。殺人というのは、肉体的ないのちを奪うだけではありません。霊のいのちを奪うことも殺人なのです。何故なら、先程も話しましたように、人は肉体と霊によって生きる者とされているからです。争いは人の存在を亡き者としてしまいます。
3)争いの解決法
その教会内での争いを解決する方法はどのようなものでしょうか。教会は罪赦された罪人の集まりです。ですから、その罪の故に争いが生じることがあります。私たちは教会の中に争いが生じますと「大きな問題」と捉えてしまいます。聖書は「そのような争いにも解決法がある」と語っています。それは、相手を赦し受け入れることでしょうか。確かにその通りなのですが、それがなかなかできないのが現実です。ヤコブは2節の後半から3節にかけて「 」と語っています。ここに「求め」ということばが3回繰り返し書かれています。この「求め」とは祈りのことです。ヤコブは、まず神に祈ることを勧めているのです。
大切なのは「何を祈るか」です。自分の願いが実現することを祈るのなら、それは3節に書かれていることと同じです。それがどれほど良い意見や考え方であったとしてもです。イエス・キリストは、マタイ5:23~25で「 」と話され、和解することを勧められました。23節に「兄弟が自分を…思い出したなら」と話されています。ですから、本人はすっかり忘れていたのです。それは忘れてしまうほど小さなものなのです。また、忘れてしまうほどのものですから、「自分は悪くない」「間違っていない」と思っていたものでもあります。そうだとしても、自分の方から和解することを勧めておられるのです。「自分は間違っていない」「悪くない」と思っているのに、自分の方から相手の方に出向き和解することには抵抗を覚えます。誰かに指摘されたら、「何故私が」とか「何故私の方から」と言い返したくなります。そのようなことあるのではないでしょうか。
箴言21:2に「 」と書かれています。2節の前半の「まっすぐに見える」というのは、「正しい」「間違っていない」ということです。私たちは殆どのことが「正しい」「間違っていない」と思って行動しています。ですが、聖書は2節の後半で「しかし」と語っているのです。この「しかし」ということばは、「実は正しくない」ということを示しています。何が正しくないのでしょうか。「その人の考え方や捉え方が正しくない」ということではありません。「神にあって一つになる」ということに「正しくない」ということです。
先程のマタイ5:22に「兄弟に対して」と書かれています。また、22節には「兄弟が」と書かれており、23節には「兄弟と」と書かれています。この「兄弟」とは、血縁関係の兄弟ではなく神の家族としての兄弟のことです。このマタイの福音書は、ユダヤ人キリスト者に対して書かれた手紙と考えられています。そのユダヤ人キリスト者に対して「兄弟」と書くとき、それはイエス・キリストにある家族のことを指しています。すなわち、同じキリスト者のことを指しているのです。そのように考えますと、自分の思いや考えが間違っていないとしても、「それがイエス・キリストにあって一つになることの妨げとなるならば間違っている」と語られているのです。教会で生じる争いを解決する方法は、イエス・キリストにあって一つになることを祈り求めることです。
結)
教会の中に意見の対立によって争いが生じるのは大きな問題ではありません。何故なら、最初にも話しましたように、集う一人ひとりの背景が違うことによって考え方や捉え方が違うからです。では「何が問題なのか」と言いますと、キリストにあって一つになることを求めないのが問題なのです。マタイの福音書から見れば和解しないことです。先週の礼拝で見ましたが、必要と不必要を識別する力と優先順位を見分ける力が養われ、キリストにあって一つになる群れとして歩まされていきたいと願います。
ヤコブ3:13~18「真の知恵と偽りの知恵」 23.07.16.
序)
人は誰でも「他人から良く見られたい」という思いがあります。例えば、知らないのに「知っている」とか、できないのに「できる」と言ってしまうこともなくはありません。そのように答えるのは、「良く見られたい」とか「良く思われたい」という思いがあるからです。そのような思いは人として当然のことですが、行き過ぎますと大変なことになってしまいます。何においてもそうですが、「行き過ぎ」というのは問題を生じさせてしまいます。「賢く思われたい」というのもそうです。ヤコブは今朝の箇所で、真の知恵と偽りの知恵について語っています。その真の知恵と偽りの知恵とは、どのようなものであるかを、今朝は共に教えられたいと願っています。
1)知恵の根源
まず、真の知恵と偽りの知恵は何処から来るのでしょうか。その知恵の根源について見てみたいと思います。まず、真の知恵は17節に書かれていますように上から来るものです。「上から」というのは、神によって与えられるものであるということです。ですから、真の知恵は人が努力して獲得するものではありません。Ⅰコリント1:30に「キリストは、私たちにとって神からの知恵」と書かれています。イエス・キリストを知ることによって、人は自分の存在意義を初めて知ることができます。それは、「この世界の中にあって、私とはどのような存在あり、何処に向かって歩むべきであるか」を知る知恵が与えられます。私たち一人ひとりはどのような存在であり、何処に向かって歩んでいるのでしょうか。何度も触れていますが、今年の合同聖会は「ともに、主にとどまる」というテーマで山口先生が2回の講演をしてくださいました。ホセア書1:9に「あなたがたは…神ではないからだ」と書かれています。「わたしはあなたがたの神ではない」とはどういうことでしょうか。「わたしはある」とは、「わたしは存在する」という意味であり、それは留まってくださることを意味したことばです。その神が「あなたがたの神ではない」ということは、「あなたがたに留まらない」ということでもあります。そのことから、山口先生は「本当に悲しい箇所である」と話されました。まさしくその通りです。「私」という存在意義を見失う人生は本当に悲しい人生でもあります。
「私」という存在はどのような存在でしょうか。この世から見れば、居ても居なくても影響がない小さな存在にしか見えません。しかし、そのような私に神は留まってくださっているのです。この世界を造り治め導いておられる神が、私の内に住んでくださり留まり続けてくださっているのです。「私」という存在はそのような存在なのです。この知恵は上からしか与えられないのです。決して、人が努力して獲得できるものではないのです。合同聖会でヨハネ8:24の箇所を触れられました。ここに「わたしが…なるからです」と、イエス・キリストは話されました。「私の中に神が留まってくださっている」と信じることの大切さが話されています。あなたという存在はそのような存在であり、その神と共に天の御国に向かって歩んでいるのです。何度も触れていますが、出エジプトの記事は私たちの霊的信仰の歩みを表しています。イスラエルの民はエジプトでの奴隷生活から解放され、神と共に神が約束されたカナンの地に向かって歩み続けました。しかし、その途上は荒野でした。彼らは苦難を経験しつつカナンの地に入ったのです。私たちの信仰の歩みも同じです。神が共にいて留まり続けてくださっていますが、この世における信仰の歩みは霊的荒野で苦難との戦いの連続です。イスラエルの民のように、神に対して不平不満をつぶやいてしまうこともあるでしょう。しかし、私たちが目指しているのは神の約束の地である天の御国であることを決して忘れないようにしたいものです。そのことに気づかせ目を向けさせるのが真の知恵です。
次に、偽りの知恵について見てみたいと思います。偽りの知恵は、15節に書かれていますように「地上のもの」です。真の知恵は上から与えられますが、偽りの知恵は下からなのです。それは「この世的なもの」であり、この世的なことを最優先させてしまいます。そして、それを邪魔するものを拒んでしまいます。「偽りの知恵」と聞きますと、「神の存在を否定したり信じないこと」と思いがちですが、それだけではありません。何故なら、この手紙は神の存在を信じているキリスト者に対して書かれた手紙だからです。
では、偽りの知恵とはどのようなものでしょうか。16節に「ねたみや利己的な思い」と書かれています。これらにあるものは自分のことを優先するものです。自分の思いを貫き通したいがために、様々な口実をつける知恵のことです。そのことを思いますと、自分自身のことを指摘されているようです。準備をしている中で、「確かにそのようなことあるな」と思わされました。何度も触れていますが、ヤコブの手紙は行いが強調されています。それは、この手紙を受け取る側の方に行いが伴っていないからです。神のことばよりも自分の思いを優先していたのです。神のことばに従わず、自分の思いを通そうとする知恵が偽りの知恵です。
では、具体的にどのようなものでしょうか。ヤコブは3章の前半で「舌」について語りました。それは「ことば」と言い替えても良いでしょう。偽りの知恵は、そのことばを巧みに用います。例えば、「私は教会に仕えるのではなく神に仕える」ということばです。これはとても信仰的なことばのように聞こえますが、実は偽りの知恵です。私たちが神に仕えるのは教会を通してです。なぜなら、イエス・キリストは教会のかしらであり、教会はキリストの身体であり、キリスト者は身体の各部分だからです。パウロはローマ12章やⅠコリント12章でそのように語っています。身体の各部分が身体から離れてしまいますと、その各部分は自分の機能を果たせなくなります。ですから、「私は教会に仕えるのではなく神に仕える」ということばは信仰的なことばのように聞こえますが、実は教会の決定に従いたくないだけのことであり、それは偽りの知恵から来ているものです。ヤコブは15節で「 」と語っています。そのことを知らされますと、自分も偽りの知恵を用いてしまいやすい存在であることに気づかされます。この世の歩みは霊的戦いの連続の歩みでもあります。そのような歩みの中で、「神が私の中に留まり導いてくださっている」ことに目を向けることができるように祈っていきたいものです。
2)知恵の働き
真の知恵は上から来るものであり、偽りの知恵は下から来るものです。出てくる所が全く違います。では各々の知恵はどのような働きをするのでしょうか。ヤコブは各々の生き方が全く違うことを示しています。17節には真の知恵は「第1に清いものです」と語っています。この「清い」とは純粋なことを意味しており、16節に列挙されているものとは全く違うものであることを表しています。続いて、「平和・寛容・協調性」などが続いています。何故、真の知恵はそのようなものを生み出すことができるのかと言いますと、教会には同じ一つの目的・目標が与えられているからです。それは「キリストの身体である教会を建て上げて神の栄光を現す」という目的・目標です。
教会に集う人たちは、育った背景が違いますし、考え方や捉え方も違います。違った者同士が一つになるというのはなかなかできるものではありません。その人数が増えれば増えるほど、一つになることは難しいものです。しかし、教会は一つになることができるのです。何故でしょうか。5月の合同聖会で、山口先生は「三位一体の神」というタイトルから話してくださいました。そして、ヨハネ17:21から、「教会が一つであるというのは、気の合う人たちが一つになるとか、仲良しが一つになるのとは決定的に違う。様々な違い(性格・背景など)の人たちが一つにされるのは主の奇蹟であり、神が三位一体なる方であられるから一つになれる」と話されました。そして、「その三位一体の神が私たちに留まってくださっているから、私たちは一つになることができる」とも話されました。真の知恵の働きとは、キリストにあって一つの群れとして歩み続けることを目的・目標として歩むための様々なことです。
この準備をしている中で、今行われている春日井・小牧地区祈祷会を思わされました。この祈祷会は春日井・小牧地区の福音宣教が前進するために、その地区にある教会が共に集い心を合わせて祈る会です。この祈祷会には、「福音派」と言われる異言を強調しないグループと、「ペンテコステ派」と言われる異言を強調するグループが集っています。しかし、祈りのときペンテコステ派の先生方は異言による祈りをされていません。私は直接聞いたわけではありませんので断言はできませんが、私の理解の中では「福音派と共に心を合わせて祈るために敢えて異言の祈りをされていない」と捉えています。そのことを思いますと、本当にペンテコステ派の先生方に頭が下がる思いです。17節に「協調性があり」と書かれていますが、まさに「その通りだ」と思わされています。自分たちの意見を強調することもできますが、「キリストにあって一つとなる」ということのために、自分たちの意見を抑えておられるように感じ取れるのです。これが「真の知恵の働き」と思わされています。
それに対して偽りの知恵はどのような働きをするのでしょうか。ヤコブは17節の最後に、「偽りもありません」と語っています。真の知恵は偽りがないのです。では「偽り」とは何でしょうか。偽りを「嘘」と思われている方もおられることと思います。確かに、調べてみますとそのように書かれています。今までの新改訳聖書は、このところを「見せかけのものではありません」と訳していました。「見せかけ」とは、本物のように装うことです。ともすると「本当のように」「真実のように」と見せかけること、思わせることが偽りなのです。ですから、偽りの知恵の働きは本物・真実のように見せかけてきます。
私たちに必要なのは、その偽りの知恵の働きを見破る力です。そのような力を私たちが身に着けるにはどうすれば良いでしょうか。パウロはピリピ1:9~10の前半にかけて、「あなたがたの愛が…できますように」と祈っています。私たちに必要なのは見分ける力です。この「見分ける力」とは、9節に書かれています「識別力」とは違います。9節の「識別力」は、必要なものと不必要なものを見分ける力のことです。ですが、10節の「見分ける」とは、その必要なものに優先順位をつけることです。「キリストにあって一つとなる」ための優先順位を見分ける力のことです。ピリピ人への手紙が書かれた一つは、教会内で生じている不一致を解決するためです。すなわち、キリストにあって一つになるためです。教会の中で様々な意見が出ます。その中にはどちらも正しく必要な意見が出されることがあります。そのとき大切なのが優先順位です。「その見分ける力をピリピ教会の人たちが持つことができるように」と、パウロは祈っているのです。
それを私たちの身近な生活で言えば整理整頓です。整理とは、必要なものと不必要なものを分けて、不必要なものを捨てることです。そして整頓とは、必要なものを秩序立てて配置することです。秩序立てて配置するのですから、この場所に配置するものの優先順位が決まってきます。それが整頓です。そして、ヤコブも「識別力と見分ける力」という霊的な整理整頓が強められるように勧めているのです。何故なら、必要なものと不必要なものが混乱していたら、教会は一つになって神を証しする群れとして歩み続けることはできないからです。このヤコブの手紙を受け取っている教会の中には、一致が見られず争いが生じていました。キリストにあって一つになるために、霊的な整理整頓という真の知恵を持つことができることをヤコブは願っているのです。
結)
教会は神を証しする群れとして立てられています。その神を証しするには、真の知恵と偽りの知恵を識別する力が必要です。それと同時に、必要なものの中から優先順位をつける「見分ける力」も必要です。それは教会に属する私たちの日々の生活においても大切なことです。何故なら、私たち一人ひとりも神を証しする者として立てられているからです。私たちの日常生活において、識別力と見分ける力が増し加えられるように祈っていきましょう。
ヤコブ3:1~12「互いの霊的成長を願う者に」 23.07.09.
序)
ヤコブは、「信仰は行いが伴うものであり、行いが伴わない信仰は死んでいる」と語りました。ヤコブが目指しているのは成熟したキリスト者です。ですが、成熟したキリスト者にも注意すべき点があります。それはことばです。そのことばは舌を通して出てきます。ヤコブは「ことば」を「舌」に置き換えて語っています。「ことば」というのは、私たちが日常生活でよく使うものの1つです。普段私たちは、どのようなことばを用いているでしょうか。今朝は、その「舌」又は「ことば」について共に見ていきたいと願っています。
1)人生に影響を及ぼすもの
まず、「舌」または「ことば」は、その人の人生に大きな影響を及ぼすものです。舌は口の中にある小さなものです。ですが、その舌が強い力を発揮することを、3~4節の譬え話を通して語られています。この共通点は、「小さいものであるが自由に操ることができる」ということです。もっと身近なもので考えれば、自動車や自転車のハンドルです。部品としては一部ですが、そのハンドルを操ることによって行きたい所に進むことができます。そのハンドルを誤ってしまいますと、取り返しのつかない大きな事故となってしまいます。舌も小さなものですが、その舌を通して出ることばは人を生かすこともできますし、落ち込ませることもできます。それほど強いものです。
私たちは日々どのようなことばを用いているでしょうか。人に対して「何してんの早くしなさい」というのは、「早くしてほしい」という思いがあるからです。人から何かを頼まれて「できません」と答えるのは、「自信がない」か「したくない」という思いがあるからです。ことばを漢字で書きますと「言」と書きます。この字を横にしますと、「言」となります。この字は「心」と「口」という漢字で成り立っています。すなわち、「心の口」となります。イエス・キリストは、マタイ12:34で「 」と話されました。心の中にあるものが口を通して出てくるのがことばなのです。舌はとても小さな器官ですが、人を生かすこともできれば落ち込ませることもできる力のあるものです。
それは他人だけではありません。自分自身に対しても同じことが言えます。「できない」と心の中で言い続けますと、いつまで経ってもできることはありません。「心の中で言い続ける」とは、心の中で思い続けることでもあります。それは、「心の中でどのようなセルフイメージを持つのか」ということでもあります。5月の合同聖会Ⅱのメッセージを先月の礼拝で聞きました。今年の合同聖会のテーマは、ヨハネ15:5から「ともに主にとどまる」でした。そのとき山口先生は、「三位一体の神の交わりに留まりなさい」というのが神の呼び出しのことばである。そのような教会において、人は神を求めるようになり信じるようになり、豊かな実を結ばせていく。今回ヨハネ15:5の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」ということばを聖書全体の中から考えているわけであるが、そのようなイメージを膨らませていきたい。と話されました。「そのようなイメージ」とは、「神が私に豊かな実を結ばせてくださる」というイメージです。このセルフイメージは大切なことです。「舌」または「ことば」は、人の生き方に大きな影響を及ぼすものであることを教えられます。
2)破壊する力のあるもの
第2に、「舌」または「ことば」は、破壊する力のあるものです。5節に「同じように、舌も小さな器官ですが」と、3~4節のことを繰り返し語っています。そして、5~8節は舌の良いことは書かれておらず、悪いことしか書かれていません。特に、6節には「舌は火です。不義の世界です」と、舌は悪そのもののように語られていますが、決して舌は悪そのものではありません。何故なら、創世記1:31に神は造られた全てのものを見られ「非常に良かった」と評価されているからです。その評価の中には、当然舌も含まれています。ですから、神は舌を悪いものとして造られたのではなく、良いものとして造られたのです。
では、何故ヤコブは舌を「不義の世界」と語っているのでしょうか。舌が悪のようになってしまったのは人が神に対して罪を犯してしまったからです。人は神に対して罪を犯し、神からその罪を指摘されたときどうしたでしょうか。アダムもエバも自分が罪を犯した責任を他人のせいにしました。彼らは自分がした行為に対して責任を負うのではなく、ことばを利用して責任から逃れようとしたのです。彼らがすべきことは自分の過ちを素直に認めて、その責任を負うことでした。それをしなかったがために、彼らはエデンの園から追放されてしまったのです。それまで人はエデンの園の中で生き、「神が共におられる」という恵みの中で生かされていました。ところが、罪を犯し責任から逃れようとしたために、エデンの園から追放され、「神が共におられる」という恵みを徐々に忘れていく歩みとなってしまったのです。自分を守るために出したことばが、不安と恐れの中を歩むものへとなってしまったのです。本当に舌は破壊する力のあるものです。
神は世界を造られたとき、人を地上を管理する者とされました。それ故に、人はこの地上を制する者とされています。そのことをヤコブは7節で語りつつ、8節で「しかし…誰もいません」と、自分の舌を制することのできる人は誰一人いないことを語っています。さらに続けて、「舌は休むことの…満ちています」と語っています。マルコ7:20~23に「 」と、イエス・キリストが話されたこと書かれています。心の中に思い描いてしまう悪い考えが悪い行動へとして出てくると話されています。それはことばにしても同じです。ヤコブが「舌は悪であり、死の毒で満ちている」と話すのは、実は人間の心の問題を取り上げているからです。
キリスト者というのは、イエス・キリストの十字架の贖いによって自分の罪が赦された者です。自分の罪が赦された者であって、決して自分の中の罪がなくなったわけではありません。ですから、「間違いを犯してしまう存在である」と自覚することは大切です。私たちの中にある舌を通して出ることばは、人の徳を高めることもできれば、人を破壊することのできる力のあるものです。そのことを覚えつつ、ことばに注意を払う者として歩まされたく願います。
3)賛美と呪いを出すもの
また、舌は賛美と呪いを出すものでもあります。9節に「 」と書かれています。私たちにも、そのようなことがあるのではないでしょうか。「神を信じている」「神を愛している」と言いながらも、自分に害を加えようとする人に災いに遭遇することに期待する。ヤコブは「そのようなことがあってはなりません」と語ります。何故なら、その人も神に愛されている人だからです。ヤコブは「神に愛されている人に災いを期待することは間違っている」と指摘しているのです。むしろ、2:8で語っていますように、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と勧めています。「自分自身のように」とはどのような自分でしょうか。神に対して罪を犯していた自分。そのような自分に神は憐れみをもって寄り添ってくださいました。寄り添うだけでなく、イエス・キリストはご自分の命を犠牲にしてまで、私たちの罪を背負い十字架に架かって神の審きを受けてくださいました。そのような神の憐れみを受けた自分のように、隣人にそのように接することが勧められています。
そのことを知らされますと、ついつい自分の中には「そのようなことを実践できない自分」というものを見出ださせられます。つい「カッ」となって、発してはいけないことばを発してしまいます。本当に聖書が語ることを日々の生活の中で実践できないことを痛感させられます。そのようなとき、どうすれば良いのでしょうか。「仕方がない」と言って放っておくこともできます。この準備をしている中で、詩篇51:17の「 」というみことばが頭の中をよぎりました。表題には「ダビデがバテ・シェバと…来たときに」と書かれています。ダビデがバテ・シェバに対して犯した罪を、神は預言者ナタンを通して指摘されました。ダビデは心から自分の罪を認め悔い改めました。大切なのは、この姿勢ではないでしょうか。アダムやエバのように自分の罪を責任転嫁するのではなく、きちんと認め神に告白し赦しを乞う。すなわち、神の前にへりくだることではないでしょうか。
聖書通読で民数記を読んでいました。イスラエルの民は神のみわざを体験しているにも関わらず、何度も神やモーセに対して不平不満を言っていました。そのイスラエルの民の姿は、まさしく自分自身であることをこの準備を通して再認識させられました。神を賛美する口から、人を蔑んでしまうことばを出してしまいます。本当に自分の到らなさを知らされます。ダビデは自分の罪を指摘され、自分の過ちに気づかされたとき、最初に神に告白したことばは「神よ、わたしをあわれんでください」ということばです。結局、私たちは神のあわれみに頼るしかない存在なのです。決して誇れるような存在ではありません。そのことを覚えたいものです。
結)
私たちの口から出ることばは、人を生かすこともできれば破壊することもできます。パウロはⅠコリント14:26の最後で「そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい」と勧めています。第3版までの新改訳聖書では「徳を高めるために」と訳されていました。また、欄外にはローマ14:19と書かれています。ここにも「お互いの…追い求めましょう」と勧められています。私たちの口から出ることばが、聞く人の霊的成長に役立つことばを出し続けることができるように祈っていきましょう。
ヤコブ2:20~26「生きた信仰」 23.07.02.
序)
私たちの団体ではユース集会が年に4回行われています。これは中高生を対象とした集会です。そこにスタッフとして大学生なども含め、ミックスユースとして行われています。主に東賢作先生ご夫妻が中心となって行われています。その東賢作先生が中高生のとき、私がリーダーとして「中高生キャンプ」というのを行っていました。ある年に、講師としてアーサー・ホーランド先生を招いて行いました。そのときの話しを今も覚えています。先生が博多駅を降りたら、一人の男性が先生の前に来て「あなたのために祈らせてください」と言われました。ですが、その人の顔を見ると生き生きしていないので「祈られたら自分も生き生きできなくなる」と思って、「私があなたのために祈ってあげます」と言って祈られたらしいのです。これはメッセージの導入として話されたのですが、先生はそのメッセージで「信仰はその人の生き方に出てくる」と話されました。すなわち、「信仰は日々の生活と深く結びついている」と話されたのです。そして、「信じていることが自分の生活に生かされていないなら、それは本当の信仰とは言えない」と話されたのです。私自身、深く考えさせられたひとときでした。今朝の箇所は、そのことを示している箇所でもあります。ヤコブは2人の人物を出して語っています。今朝は、この2人を通して生きた信仰について共に教えられたいと願っています。
1)アブラハム
その一人目はアブラハムです。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれていました。ですが、彼は完璧な信仰を持っていたわけではありません。弱さを持ってもいたのです。でも、彼は神に「義」と認められていたのです。21~22節の出来事は、アブラハムが一人子であるイサクを神に献げようとしたときのことです。ところが、アブラハムが神に義と認められたのはいつだったでしょうか。創世記15:6に「それが彼の義と認められた」と書かれています。アブラハムは神の約束を信じることによって義と認められたのです。これはイサクが生まれる前のことです。ですから、義と認められるのは行いによってではなく、信じることによってなのです。人は行いによって義と認められるのではなく、信じる信仰によって義と認められるのです。
それはアブラハムも同じです。彼は神の約束を信じるという信仰によって義と認められたのです。しかし、そのアブラハムの信仰は、行いと共に働いてもいたのです。そのことを示しているのが今朝の箇所の2:22です。すなわち、義は行いによって与えられるものではありませんが、行いと共に歩み続けるものでもあるのです。アブラハムは神から子どもが与えられ、その子孫が増えることを信じていました。アブラハムに対する約束の子はイサクだけです。他の子どもたちは、神の約束の子ではありません。その約束の子イサクを「全焼のいけにえとしてわたしに献げなさい」と、アブラハムは神から告げられたのです。全焼のいけにえですから、イサクを献げたらイサクは亡くなります。このときのイサクは、まだ小さな子どもですから当然子どももいません。ですから、イサクを全焼のいけにえとして献げたら、子を失ってしまうだけでなく子孫も残らなくなります。
アブラハムにとって良いことは何一つないのです。あるのは「子と子孫を失う」という痛みや苦しみだけなのです。アブラハムは、イサクをとても愛していました。イサクのためなら何でもしていたかもしれません。そのイサクを神はアブラハムから取り上げようとされているのです。これはアブラハムにとって大きな痛みです。アブラハムには「神のみことばに従うか」「愛するイサクを守るか」という決断が迫られていました。アブラハムの頭の中は様々なことが巡っていたことでしょう。そのような中で、創世記22:5で若い人たちに「 」と言ったアブラハムのことばが書かれています。この「戻ってくる」ということばには複数形が用いられています。そのことについて聖書はどのように解釈しているでしょうか。へブル11:17~19に「 」と書かれています。アブラハムは「イサクを献げたとしても、神はイサクを死から甦らせてくださる」と信じ行ったことが書かれています。アブラハムが目に留めたものは神の約束です。「イサクは決して失うことはない」という神の約束を信じ、一歩前に踏み出したのです。そのことが創世記22:10に書かれています。
続けて11節に「そのとき」と書かれています。「そのとき…呼びかけられた」と書かれています。アブラハムが行ったとき、神からことばかかけられたのです。そして、12節に「その子に手を下してはならない」と言われ、アブラハムが目を上げると、一匹の雄羊が角を藪に引っ掛けていたのを発見し、その雄羊をイサクの代わりに全焼の献げ物として献げました。アブラハムが行わなかったら、この神からの語りかけもなければ、雄羊を発見することもなかったのです。これが神の備えであり導きなのです。一歩踏み出さなければ、アブラハムはこのような経験をすることはなかったのです。この経験を通してアブラハムはさらに神のすばらしさを知るのです。
2)ラハブ
次に書かれているのは「ラハブ」という女性です。このラハブの出来事は、ヨシュア記2章に書かれています。ラハブはエリコの町の人ですからカナン人でありイスラエル人ではありません。ですが、今までの神のみわざを聞いて、主であられる神を信じた女性でもありました。ヨシュアから偵察隊として2人の人がエリコの町に遣わされました。すると、エリコの王は偵察隊が入って来たことを知り、部下をラハブの家に遣わします。すると、ラハブはヨシュアから遣わされた偵察隊の2人を匿ったのです。エリコの町は城壁に囲まれ、簡単に打ち破られるような町ではありませんでした。それほど頑丈な町で生活しているラハブが、何故主を知らない異邦人であるラハブが彼らを匿ったのでしょうか。その理由がヨシュア記2:9~11に書かれています。ラハブがイスラエルの神を信じるようになったのは、主のみわざを聞きエリコの町の人たちも心が萎え気力を失った事実を目の当たりにしたからです。アブラハムは神のことばを聞いて信じたのですが、ラハブは神のみわざを通して信じたのです。
信じる方法は違いますが、アブラハムもラハブも神を信じたという点においては同じです。ラハブは神のみわざを信じているから、偵察隊の2人を匿ったのです。この2人がヨシュアの所に帰ろうとするとき、ラハブに「窓に赤いひもを結ぶように」と告げます。それは、その家の中にいる者が助かるためです。ラハブは言われた通りに実行したため、その家の中にいる全ての人は助かりました。しかも、そのラハブは、マタイ1:5に書かれているラハブです。彼女は系図においては、イエス・キリストの祖先となったのです。また、へブル11:31には「信仰によって、遊女ラハブは」と紹介しています。彼女は信じていただけで何もしなかったのではありません。偵察隊の2人を匿い、彼らから言われたことを実行したのです。何故でしょうか。それは彼女が信じていたからです。ラハブの信仰も行いが伴う信仰だったのです。
3)信仰と行い
アブラハムもラハブも、自分たちが信じていることを行いました。では、私たちはどうでしょうか。日々の生活を考えますと、私たちは信じていることを行っているのではないでしょうか。何のために仕事をするのかと言いますと、一番大きな理由は日々の生活を支えるためではないでしょうか。仕事をすることによって報酬が得られ、家族の生活が支えられると信じているから働くのではないでしょうか。もし働いても報酬が得られないのであるなら、仕事を変えられるのではないでしょうか。仕事をする理由が「使命が与えられているから」というのもあるでしょう。それも、「その仕事をすることによって使命を果たすことができる」と信じているからではないでしょうか。私たちも日々の生活の中では、自分が信じていることを行っているのです。すなわち、信じていることと行いは伴っているのです。
それは神との関係における信仰も同じことが言えます。私たちは神の約束を信じているから行うのです。創世記2:7に、神は人を形造られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれたことが書かれています。人は鼻にいのちの息を吹き込まれてどうなったでしょうか。7節の最後に「それで人は生きるものとなった」と書かれています。聖書の語る「生きる」とは、望みをもって与えられている務めに励むことでもあります。何に望みを抱くのでしょうか。それは「神に」です。神に望みを抱くことが聖書の語る信仰です。「その神に望みを抱かず行わないなら、そのような信仰は死んでいる」とヤコブは26節で語っているのです。
ハバクク2:4にも「正しい人はその信仰によって生きる」と書かれています。神が与えてくださる信仰は生きる信仰です。以前にも話しましたが、健全な人として生きるには食物・呼吸・学び・運動・交わりが必要です。これら1つでも欠いてしまいますと、人は健全に生きられなくなります。それは健全な信仰者として歩むにおいても同じです。霊的食物・呼吸・学び・運動・交わりが必要なのです。ヤコブは、「神が与えてくださる信仰は行いが伴うものである」と語っています。そして、「行いが伴わない信仰は意味のないものであり死んでいる」と語ります。信仰と行いは別々のものではなく1つです。
結)
神が私たちに与えてくださった信仰は生きた信仰であり、行いが伴う信仰です。パウロは、Ⅱテモテ1:7で「 」と語っています。テモテはエペソの教会を牧していましたが、教会に生じる様々な問題によって、召しの確信が揺らぎ悩んでいました。そのテモテに対して書かれたのがテモテへの手実が第2です。パウロは6節の後半で「あなたのうちに…立たせてください」と語り7節に続きます。ですから、神が私たちに与えてくださる「力と愛と慎みの霊」とは、目の前の問題に対して臆するのではなく、神に望みを抱いて踏み出す信仰を強めるものです。その霊が私たち一人ひとりにも与えられています。目の前の事柄に対して臆することがあります。臆することが悪いのではなく、そのときに「強めてください」という祈りが大切です。その祈りが私たちの信仰を生きたものとしてくださいます。
ヤコブ2:18~19「聖書の語る信仰」 23.06.25.
序)
私たちは「信仰」ということばを用います。それはキリスト教に限らず、他の宗教でも用います。キリスト教と他の宗教との大きな違いは、キリスト教は「信じ救われるには行いは必要がない」というものです。他の宗教は、信じ救われるためには修行などの行いが必要です。そして、救われることがゴールでもあります。クリスチャンの中にも、救われることが信仰のゴールのように捉えておられる方がおられます。しかし、キリスト教の信仰のゴールは救われることではありません。救われた後も続くのです。すなわち、この世を全うするまで続くのです。今朝は、聖書が語る信仰とは何かを共に教えられたいと願っています。
1)悔い改め
まず、聖書の語る信仰とは何でしょうか。神である主はただ一人であり、イエス・キリストを信じることによって自分の罪が赦されることでしょうか。すなわち、イエス・キリストを信じれば自分の罪は赦されるが、信じなければ自分の罪は赦されず神の審きを受けるということでしょうか。それだけが聖書の語る信仰であるならば、聖書は「そのような信仰はサタンも持っている」と語っています。ヤコブは19節で「 」と語り、「サタンは神の存在を否定しておらず、むしろ神の存在を信じている」と語っています。サタンは無神論者ではないのです。
イエス・キリストは弟子たちとともに福音を語られ、病気の人や悪霊につかれている人を癒されました。そのようなとき、汚れた霊は何と告白したかがマルコ3:11に書かれています。彼らはイエス・キリストを「あなたは神の子です」と告白したのです。サタンはイエス・キリストを神の子であられるのを知っているのです。またマルコ5章には、イエス・キリストがゲラサ人の地に行かれると、汚れた霊につかれた人がイエス・キリストによって癒される記事が書かれています。11節に、汚れた霊たちがイエス・キリストに追い出さないように懇願したことが書かれています。「追い出す」というのは審きの一つでもあります。汚れた霊たちは、イエス・キリストが審き主であられることを知っているのです。そして、「身震いしている」とヤコブ2:19に書かれています。悪霊はイエス・キリストが神の子であられ、審き主なる方であることを信じているのです。
ですが、最終的に悪霊は神に審かれてしまうのです。神が唯一なる方であり、イエス・キリストが神の子であられることを信じ、また審き主なる方であるのを信じているのに最終的には審かれてしまうのです。何故でしょうか。それは行いが伴っていないからです。どのような行いでしょうか。それは「自分の罪を悔い改める」という行いです。サタンは神が唯一であり審き主であられることを信じてはいますが、決して自分の罪を認め悔い改めようとはしないのです。だから、神の審きを恐れるのです。しかし、神が与えてくださる信仰は、神の審きを恐れない信仰です。それには、自分の罪への悔い改めが必要なのです。確かに、へブル9:27に「 」と書かれています。イエス・キリストを信じる私たちも、死んだ後に神の審きを受けなければなりません。イエス・キリストを信じた人は神の審きを受けないのではありません。神の審きは全ての人が受けなければならないのです。ただ、イエス・キリストを信じる人は、その神の審きで「無罪」という判決を受けることが約束されているのです。ですから、神の審きを恐れる必要はないのです。何故なら、自分の罪を悔い改めて罪の赦しと神の審きからの救いをすでに経験しているからです。これが聖書の語る信仰がもたらすものの第1は悔い改めです。
2)証し
では、聖書の語る信仰がもたらすものは何でしょうか。Ⅱコリント5:17に「 」と書かれていますように、「人を新しく造り変える」というのが聖書の語る信仰であり、神が与えてくださる信仰です。この箇所は有名な箇所の一つですし、この箇所を愛唱聖句とされている方も少なくありません。では、何のために神は人を新しく造り変えられたのでしょうか。その目的が5:15に「それは、生きている人々が…生きるためです」と書かれています。救いの目的はここにあり、信仰の目的もここにあります。自分のために死んで甦ってくださった方のために生きることが、神が私たちを新しく造り変えられた目的なのです。
パウロは、その前の14節で「キリストの愛が私たちを捕えているからです」と語っています。このみことばから、私の神学生時代のクラス担任であられた天田繋先生は「キリストの愛我に迫れり」という歌を作られました。口語訳聖書では「捕えている」と訳されていますことばを「強く迫っている」と訳していました。新改訳聖書では第3版までは「取り囲んでいる」と訳されていました。今は「捕えている」と訳されています。本来のことばは「板挟みにする」ということばです。「キリストの愛が迫ってくる」とか、「キリストの愛に取り囲まれている」というのではなく、キリストの愛にがっちり掴まれている状態のことです。キリストの愛に捕らえられて身動きができない状態のことを表しているのです。そこまで私たちはキリストに愛されているのです。そのキリストの愛を知ることが聖書の語る信仰なのです。
確かに私たちの歩みを振り返りますと、神に愛されていることを強く気づかされます。当たり前のように私たち一つひとつの歩みが神によって支えられています。以前、「私たちが信じている神は密なる神である」と話しました。この「密」という漢字は「密かに」とも読むことができます。「密かに」とは、「気づかない内に」ということを表しています。私たちが気づかない内に、神は私たち一人ひとりのために備え導いてくださっています。私たちが気づかないから、私たちは「当然」のように思ってしまいやすくなります。ですが、私たちが「当然」と思っていることは、実は「当然」ではなく神の備えと導きによるものなのです。そのことを知るのが信仰ですが、そのキリストの愛を知るだけでは足りないのです。大切なのは、知った後どうするかです。
すなわち、そのままにするのか、それとも一歩前に踏み出すのかです。パウロは14節で「私たちはこう考えました」と語り、15節で「もはや自分のためにではなく…生きるためです」と語っています。「自分のために死んで甦ってくださった方のために生きることが信仰である」と語っているのです。生きるとは行うことでもあります。ヤコブも今朝の箇所の18節の最後で「私は行いによって…見せてあげます」と語っています。それは「自分の生き方を通して自分の信仰を見せる」ということです。そして、ヤコブの手紙を受け取っている人たちに、「あなたがたが信じている生き方をするように」と迫っているのです。何故なら、その生き方が証しに繋がっていくからです。聖書の語る信仰がもたらすものの第2は証しです。
3)生きること
人はイエス・キリストの十字架による死と復活を信じることによって、新しく造り変えられます。ともすると、「イエス・キリストを信じることによって罪が赦され、神の審きから救われたことに感謝します」と言って終わってしまいやすくなります。何故でしょうか。一番大きな要因は、私たちが生かされています社会環境にあると考えられます。私たちが生かされています社会は、偶像崇拝という異教の社会です。その異教の信仰のゴールは「救われる」というものです。私たちもそのような考えの社会の中に生かされていますから、信仰もそのように捉えてしまいやすくなります。また、キリスト教のメッセージも救いを強調し過ぎてしまうということにも要因があると考えられます。確かに、イエス・キリストの十字架による死と復活は大切なことです。これは人が正しく生きる者とされるにおいて欠かすことのできないものです。しかし、イエス・キリストの福音を強調し過ぎますと、イエス・キリストの福音を信じることが信仰のゴールと錯覚してしまいやすくなるのも事実です。
ヤコブの手紙が書かれた時代は、ローマ帝国が安定していた時代です。また、この時代は階級政治で身分の低い人たちは苦しんでいました。そのような中にあって、「誰でもイエス・キリストを信じるなら、自分の罪が赦され天の御国に入ることができる」というメッセージが語られていたのです。イエス・キリストを信じれば、今生きている時代は苦しいかもしれないが、この時代を全うした後は天の御国に入れられ、平安な生活を過ごすことができると信じていたのです。彼らには、天の御国に入る確信が与えられていました。それはとても素晴らしいことです。しかし、そこで終わってしまっていたのです。「天の御国に入ることができるからもう大丈夫だ」となって、日々の生活は世俗的なものへとなってしまったのです。すなわち、「信仰に生きる」という生き方をしなくなってしまったのです。そのことに対して、「そのような生き方が聖書の語っている生き方ではない」と書かれたのがヤコブの手紙です。聖書がどのように語っているかを正しく理解していないが故に、「信仰のゴールを救われること」と誤解するようになったのです。
聖書のメッセージは、イエス・キリストの十字架による死と復活という福音を信じることと、信じた後の歩みの両方が大切であるというものです。比重は同じです。私が休暇のときの礼拝では、先月行われました合同聖会の2回目のメッセージを聞きました。山口先生は「私たちの主は唯一の神であり、父・子・聖霊という位格を持ち、その神との交わりに留まっている」と話されました。「三位一体の神」という考え方は、ユダヤ教にもイスラム教にもないキリスト教独特のものです。「わたしはある」という神は、父・子・聖霊との交わりを持っておられる神であり、その交わりの神が私たちに留まっておられることを覚えるとき、教会は一つになれるとも話されました。「この世において交わりの神に留まる」とは、「この世において交わりの神に生きる」ということでもあります。聖書の語る信仰がもたらすものの第3は、信じているものに生きることです。
また、イエス・キリストは使徒の働き1:4で「エルサレムを…約束を待ちなさい」と話されました。そして、弟子たちは祈りをもって心を一つにして父の約束を待ち続けました。彼らは祈って何もしなかったのではありません。祈りを通して、父なる神の約束が成就されたとき、キリストの証し人となれるように備えていたのです。だから、聖霊が臨まれたとき大胆の語り始めることができたのです。人は聖霊に満たされたら自動的にできるというものではありません。パウロはエペソ5:16で「機会を十分に生かしなさい」と勧めています。その「機会を十分に生かすことができるように備える」のも行いの一つです。
結)
このように見ますと聖書が語る信仰とは、行いが伴うものであることを改めて知らされます。私たちが機会を十分に生かすには、いつでも行動できるように備えておくことではないでしょうか。以前に、「何時でも・何処でも・誰にでも」という合言葉が流行ったことを思い出しました。私たちも「何時でも・何処でも・誰にでも」主の証し人として用いられる備えができるように祈っていきましょう。
ヤコブ2:14~17「信仰と行い」 23.06.18.
序)
聖書は「罪の赦しと救いは、その人の行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による」と語っています。ともしますと、信仰生活もそのところを強調してしまいやすくなります。すなわち、「信仰生活も行いはそれほど重要ではない」と考えてしまいやすくなります。では、聖書はどのように語っているでしょうか。今朝は、その信仰と行いについて共に教えられたいと願っています。
1)行いの重要性
まず、14節に「 」と書かれています。ここでは、「信仰生活には行いが大切である」と語られているのです。前回のとき、「良きサマリア人」という名前がつけられている譬え話の箇所を見ました。そして、イエス・キリストは「あなたも行って同じようにしなさい」と話されました。マタイ7:24には「わたしのこれらの…行う者はみな」と話されており、行うことが求められています。さらにマタイ25:31~46では、隣人愛の実践が話されています。そして、実践した人は神の祝福を受け、実践しなかった人は永遠の刑罰を宣告されたのです。何故、イエス・キリストはこのようなことを話されたのでしょうか。それは、信仰生活は行いが伴うものだからです。
パウロはローマ人への手紙はガラテヤ人への手紙において、「救いはその人の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰による」ということを強調しています。しかし、それは神の審きからの救いのことに対してであって、救われた後の信仰生活についてではありません。ですから、パウロもローマ2:6で「 」と語っていますし、12章以降は実践的なことを語っているのです。パウロ自身も「信仰生活においては行いが必要である」と訴えているのです。
ヤコブは14節で「誰かが自分には信仰があると言っても」と語っています。ですが、大切なのは「どのような信仰なのか」ということです。ある方は「それはイエス・キリストを信じる信仰」と答えられるかもしれません。確かに、イエス・キリストを信じる信仰は大切なことです。でも、それはイエス・キリストの何を信じる信仰なのでしょうか。罪の赦しや神の審きからの救いを信じる信仰のことなのでしょうか。それとも、そのことを信じた後の歩みにおける神の働きを信じる信仰なのでしょうか。ヤコブは、この手紙で「罪の赦しと神の審きからの救いを信じた後の歩みにおける神の働きを信じる信仰」について語っているのです。すなわち、日々の生活における信仰について語っているのです。それには「行いが必要である」と主張しているのです。
例えば、子育てにしてもそうです。子どもに「愛している」と口では言っても、子どもに構うことを全くしないならどうでしょうか。子どもは親から「愛しているよ」と言われつつも、その愛は子どもには伝わりません。親の愛を子どもに伝えるには親の行いが必要です。神を信じるとは、神を愛することでもあります。ですから、愛には行いが伴うものであるならば、信仰も行いが伴うものです。その例として、15~16節で「 」と語られています。信仰とは行いが伴うものです。
2)行いのない信仰
では、行いが伴わない信仰とはどのようなものでしょうか。14節の中程に「その人に…立つでしょうか」と書かれています。また、17節には「 」と書かれています。すなわち、「行いが伴わない信仰は意味のないもの」と語られています。ヤコブは14節で「だれかが…と言っても」と語っています。私たちも「私には信仰がある」と思っています。では、その私たちの信仰とはどのようなものでしょうか。実は、そのところが大切です。「神はただ一人の神であり、私たちを愛してくださり、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって罪を赦してくださり、神の審きから救ってくださる方」という信仰でしょうか。確かにその通りですし、そのことを信じるのはすばらしいことです。ですが、それは救いについての信仰です。
救われた後の信仰についてはどうでしょうか。「いつも共にいてくださり、守り導いてくださる方」という信仰でしょうか。その信仰もすばらしいことです。それと同時に、「私たちを用いてくださる方」でもあります。「私を用いる」とは、「私の行いを通して神はご自身のすばらしさを現してくださる」ということでもあります。そこまで行くことが聖書の語る信仰です。14節の最後に「そのような信仰が…できるでしょうか」と書かれています。この「そのような信仰」とは、行いが伴わない信仰のことです。「行いが伴わない信仰は人を救うことができるでしょうか」という質問の答えは「できない」というものです。私たちがイエス・キリストを信じることができたのは、誰かが福音を伝えてくれたからです。もし、誰も福音を伝えてくれなかったら、私たちは今もイエス・キリストを信じることはできなかったのです。
ある先生は「祈ることは行うことだ」と話されました。私自身、聞きながら「なるほど」と思わされました。例えば、受験生は受験のために祈ります。ですが、祈って何もしないわけではありません。祈ったあと受験のための勉強をします。スポーツもそうです。祈るのと同時に練習もします。伝道もそうです。祈ることは大切ですが、同時に祈ったことを行うのも大切なことです。バプテスマクラスで学ばれたことと思いますが、健全な人として成長するには食事と呼吸と交わりと運動です。これらは人が健全であるために必要なことです。それは信仰においても同じです。霊的食事である聖書を読み、霊的呼吸である神との祈り、そして神とキリスト者との交わり、霊の運動である証しです。ヤコブがこの手紙で書いている行いは証しのことです。すなわち、信じていることを日々の生活の中で行うことです。その「行いのない信仰は死んだものである」と17節で語っているのです。
3)行いが伴う信仰
では、行いが伴う信仰となるには、どうすれば良いのでしょうか。このことが、神を信じる者にとって大きな課題でもあります。「隣人を自分自身と同じように愛しなさい」と言われつつも、ついつい自分自身のことを優先して、そのことを完全に実践できていない自分を見出だします。そのような私たちが、行いが伴う信仰を実践し続けるにはどうすれば良いのでしょうか。
結局のところは、イエス・キリストの十字架に戻るしかありません。「イエス・キリストの十字架に戻る」というのは、「神の憐れみに目を留める」ということでもあります。先月の合同聖会で、何度も「神の憐れみ」ということばが語られました。神が私たち一人ひとりの弱さを御存知ですから、神は私たちを憐れんでくださり私たちに留まってくださっています。神が私たちに留まってくださっているから、神は私たちと共にいてくださるのです。そして、神が私たちに留まってくださっているから、私たちも神に留まることができるのです。そのことを先月の合同聖会で山口先生は話してくださいました。その神の憐れみに目を留めることが、行いが伴う信仰を実践する第一歩です。
では、「第二歩は何か」と言いますと前回のときに見ました。「あなたの隣人を…愛しなさい」ということの実践です。前回のとき「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とは、「神が憐れみをもってあなたに寄り添ってくださったように、あなたもあなたの隣人に憐れみをもって寄り添いなさい」と捉えることができると話しました。神は「あなたを愛している」とことばをかけられただけでなく、その「あなたを愛している」ということばを実践してくださったのです。それがイエス・キリストの十字架です。神は私たちにかけられたことばを見える形として表してくださったのです。どれだけすばらしいことばをかけたとしても、そのことばを見える形として表さないなら意味がないのです。そのことを語っているのが今朝の箇所の15~16節です。
信仰とは、心の中で信じているものです。しかし、心の中で信じるだけでなく、その信じていることを見える形として表すものでもあります。パウロもローマ10:8~10で「 」と語っています。心に信じたものを心の中で終わらせるのではなく、見える形として口で告白することの大切さを語っています。「告白が見える形なのか」と思われるかもしれませんが、告白することによって人に伝わります。今朝の箇所の15~16節やローマ10:8~10は、人に伝わることの大切さが語られています。信仰は心の中で信じることは大切ですが、それだけでなく心の中で信じているものを人に伝えることも大切です。
17節でヤコブは、「伝わらないものであるなら死んだものである」と語っています。神は私たちに、イエス・キリストを通してご自身の存在を明らかにしてくださいました。そして、私たちにその神を信じる信仰を与えてくださいました。その神が与えてくださいました信仰は、心の中で信じるものとしてだけでなく、人に伝わるものとしても与えてくださったのです。ですから、心の中で信じるだけでは不十分なのです。その信じているものを行いとして表していくことも大切なのです。それが「信仰に生きる」ということでもあります。
結)
今朝は「信仰と行い」について見ました。信仰と行いは深い繋がりがあります。自分が信じているものを日々の生活で行い表すものとして、神は私たちに信仰を与えてくださいました。それは「自分が信じているものを生きる」ということでもあります。私たちが信じているものを日々の生活の中で表す歩みができるように祈っていきましょう。
使徒の働き2:43~47「ペンテコステの意味」 23.05.28.
序)
本日はペンテコステの日です。「ペンテコステとは何ですか」と尋ねられたら、皆さんは何と答えられるでしょうか。「教会が誕生した日」と答えられる方が多いのではないでしょうか。確かにその通りであり、その答えは間違ってはいません。ですが、教会が誕生する前からペンテコステの日は存在していたのです。新約の時代にペンテコステの日が誕生したのではありません。それ以前から存在していたのです。今朝は、そのペンテコステの意味について共に教えられたいと願っています。
1)ペンテコステとは
以前にも話しましたが、「ペンテコステ」とは「50日」という意味のことばです。「何から50日か」と言いますと、初穂の祭りから数えて50日目というものです。では、「初穂の祭りとは何か」と言いますと、レビ記23章に書かれています。4~8節には過越しの祭りについて書かれています。そして、9~14節には初穂の祭りについて書かれています。11節の「安息日の翌日」とは、過越しの祭りの翌日のことです。過越しの祭りの翌日に、初穂の祭りが行われることが定められたのです。また、申命記16章には三大祭りについて書かれています。1~8節には過越しの祭りについて書かれており、9~12節には七週の祭りについて書かれており、13~15節には仮庵の祭りについて書かれています。レビ記23:15に「奉献物の束を…満七週間を数える」と書かれています。それが申命記16:9に書かれている「七週間」のことです。ですから、ペンテコステの日とは教会が誕生した日ではありますが、旧約時代から七週の祭りとして存在していたのです。その七週の祭りをキリスト教は教会の誕生した日に変えたのではありません。
クリスマスは何の日かと言いますと、イエス・キリストが誕生されたことを祝う日です。ですが、イエス・キリストは12月25日に誕生されたのではありません。12月25日はイエス・キリストの誕生を祝う日ですが、その日にイエス・キリストが誕生されたのではありません。昔、ローマの皇帝が12月25日を太陽神の誕生の日と定め祝われていました。イエス・キリストは「世の光」として誕生され、キリスト教が広がるにつれて「この日をイエス・キリストの誕生を祝う日にしよう」としたのが、クリスマスの始まりです。ペンテコステの日もクリスマスと同じように、旧約聖書が定めていた七週の祭りをキリスト教が「教会の誕生の日」にしたのではありません。ペンテコステの日は、七週の祭りと深い繋がりがあるのです。私たちは、そのことをきちんと理解する必要があります。
2)初穂の祭りの意味
では、どのような繋がりがあるのでしょうか。それには、まず初穂の祭りについて知る必要があります。聖書には初めてのものは全て神のものであることが書かれています。例えば、出エジプト記13:2に「 」と書かれています。また、出エジプト記23:19には「 」と書かれており、神に献げられるものと定められています。これは神が与えてくださったことに感謝するためです。過越しの祭りは、神の審きが過ぎ越されたことに感謝しての祭りです。本当ならば神の審きを受けて当然の者が、子羊の血を鴨居と柱に塗ることによって「神のことばに従った」と見なされ、神の審きが過ぎ越され神の審きから救われました。そのことに感謝しての祭りが過越しの祭りです。その翌日に初穂の祭りが行われるのです。何故でしょうか。その理由については旧約聖書には書かれていません。旧約時代のユダヤ人は、それが神から定められたものであるから従っていたのです。ただ「初穂」とは、初めての実りですから、これも神のものとして献げられるものです。
過越しの祭りは安息日に行われていました。その安息日は現代の土曜日です。イエス・キリストは、その過越しの祭りの前日に十字架に架けられ死なれました。そのイエス・キリストの十字架による死の意味は、私たちの罪の身代わりとして神の審きを受けられたというものです。そのイエス・キリストの十字架による死を信じることによって、その人の罪は赦され神の審きから救われます。そして、イエス・キリストは安息日の翌日に死から甦られました。すなわち、現代の土曜日の前日である金曜日に十字架に架けられて死なれ、土曜日の翌日である日曜日に死から甦られたのです。そして、キリスト教は安息日に神を礼拝するのではなく、イエス・キリストが甦られた日に神を礼拝するようになったのです。すなわち、安息日の翌日に神を礼拝する群れとなったのです。使徒20:7に「週の初めの日に…裂くために集まった」と書かれていますし、Ⅰコリント16:2でも「あなたがたは…蓄えておきなさい」と集まっていることが書かれています。これはイエス・キリストが甦られた日に、教会が神を礼拝していたことを示しています。
またイエス・キリストの甦りについては、Ⅰコリント15:20に「 」と書かれています。2最初に「しかし、今や」と書かれています。これは以前の新改訳聖書もそのように訳されていますが、新共同訳聖書には「しかし実際」と訳され、口語訳聖書では「しかし事実」と訳されています。これはイエス・キリストの復活を否定している人に対して、イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを強調しています。そのイエス・キリストは「眠った者の…よみがえられました」と書かれています。この「眠った者」とは、イエス・キリストを信じ死なれた人のことです。イエス・キリストは、その死んだ人の初穂として甦られたのです。先程、「初穂は初めての実りですから、これも神のものとして献げられるものである」と話しました。それと同時に、この後にも続くというのを意味しています。すなわち、イエス・キリストを信じる者も必ず甦ることができるということです。
例えば、新しい実験をする人は「果たしてこれでうまくいくだろうか」と結果が出るまでは心配します。そして、期待通りの結果が出て初めて安心します。それだけでなく、「この方法で行えば、必ずこの後も同じ結果が出る」という確信を持つことができます。キリストの初穂というのも同じです。私たちは必ず死にます。また、死に対して不安や恐れを抱きます。そして、「できれば永遠の命を得たい」と望みます。ですが、いくら望んだとしても客観的に証明されない限り安心はできません。あるのは「本当にこれで良いのだろうか」という不安だけです。しかし、イエス・キリストは死んだ者の初穂として甦られました。イエス・キリストの甦りは歴史的事実です。そのことを認めるとき、「自分も必ず死を経験するけれども、イエス・キリストと同じように甦ることができる」という確信を持つことができます。視点を変えて言うならば、イエス・キリストの甦りは新しい実験の結果なのです。すなわち、神を信じる者はイエス・キリストに続いて死んだ後も甦ることができるということなのです。
死についてはイースターのときに話しましたが、それは人が神に罪を犯したことへの神の呪いであり神の審きです。しかし、神の審きから過ぎ越された者は死んだ後に甦ることができるのです。そのことを明らかにされたのがイエス・キリストの甦りです。そして、それが初穂の祭りの本当の意味なのです。
3)ペンテコステの日が意味するもの
ペンテコステの日は、初穂の祭りと七週の祭りと深い繋がりがあることを見ました。では、ペンテコステの日が意味するものは何でしょうか。ペンテコステの日に聖霊を受けた人々は外に出て福音を宣べ伝えた後に何をしたでしょうか。そのことについて書かれているのが今朝の箇所です。今朝の箇所で目に留まるのは「一つ」ということばです。このことばが3回も用いられています。これは強調していることを表してもいます。ペンテコステの日の後、教会がしたことは一つになることだったのです。では、「一つになる」とは何を意味しているでしょうか。そのことを考えたいと思います。
「一つになる」とは、一人ではないことを表しています。複数のものが合わされて一つになることを意味しています。合同聖会の開会礼拝でも話しましたが、新約聖書には「ともに」とか「互いに」ということばが多く書かれています。「ともに」とか「互いに」というのは一人ではできないことです。複数でなければできないものです。そして、共に歩むとか互いに助け合うというのは、交わりを通して相手を知って初めてできることです。みことばに養われるのは一人でもできることです。一人で聖書を読み、いろいろなことを調べて、みことばから養われることができます。しかし、交わりというのは決して一人ではできないものです。他の人がいて初めてできるものです。教会というのはそのような所なのです。以前、私は「教会に行かなくても一人で聖書を読み祈っていれば良い」と考え、教会に行かなくなったことを話しました。ですが、それは間違いであることを示され教会に行くようになりましたが、礼拝が終わったら挨拶程度で、誰とも交わることなく帰っていました。しかし、その後「それも正しくない」ということを示され、教会の人と交わるようになりました。教会はただ神を礼拝する所だけでなく、互いを深く知るための交わる群れでもあるのです。
また「一つになる」とは、意識しないとできないものでもあります。初代教会の人たちは、ペンテコステの日に聖霊が臨まれて自然と一つになったのではありません。聖霊は、その人の意思を無視して働かれる方ではありません。一人ひとりの意思を尊重してくださいます。私たちの歩みには、いつも神に対して正しい道と正しくない道があります。どちらの道を選ぶかは私たちが決めるものです。教会が一つになるというのもそうです。一人ひとりが「一つになる」というのを意識しないと教会は一つになることはできないのです。一つになることを意識し始めるとき、神は一つにしてくださるのです。それが47節の最後に書かれている「主は一つにしてくださった」ということです。すなわち、「その思いを神は用いてくださる」ということです。
結)
ペンテコステの日に、キリスト者は聖霊を受け福音宣教を始めました。それによってイエス・キリストを信じる人が起こされ、教会が形成されるようになりました。その教会形成は自然となったのではありません。一人ひとりが意識し合って形成されていったのです。それがペンテコステの日が意味するものです。その「意識し合う」というのが聖霊の力でもあり、1:8でイエス・キリストが話された「聖霊があなたがた…力を受けます」ということでもあります。私たちの教会も一人ひとりが意識し合って、キリストの身体である教会をさらに建て上げていけるように共に祈っていきましょう。
創世記22:1~14「神に従う」 23.05.21.
序)
本日は、私たちの教会が属しています日本バプテスト宣教団の献身者の日です。私たちの団体から新たな献身者が起こされることを願い、「献身者の日」が設けられました。現在、私たちの団体では、神からの召しを受けて神学校で学んでおられる方はおられません。新たな献身者が起こされることを祈っていきたいと願います。皆さんは2030年問題を御存知でしょうか。現在、日本には約8千の教会があります。ところが、「このままだと、7年後の2030年には約4千の教会が無牧となる」と言われています。7年後ですから目の前の問題です。それほど日本の教会の現状は厳しいものであり、献身者を必要としています。そのことを覚えつつ、献身者が起こされることを祈っていただきたいと思っています。
1)アブラハムの試練
1節に「神はアブラハムに試練を会わせられた」と書かれています。アブラハムへの試練とは、一人子であるイサクを神のために全焼の献げ物として献げるというものです。全焼の献げ物とは、文字通り「全てを焼く」ということです。すなわち、残るのは骨だけです。これは神への献身を表しています。イサクはアブラハムが100歳のときに、神によって与えられた子どもです。神がアブラハムに「子どもを与える」と約束されたのはいつのことでしょうか。15:4に「あなた自身から…なければならない」と、神がアブラハムに告げられたことが書かれています。その後、妻のサラは自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与え、「イシュマエル」という子どもが生まれました。何故なら、妻サラは70歳程の年齢になっていたからです。常識に考えますと子どもを宿す年齢ではありません。神のアブラハムへの約束と現実を見据えて考えますと、サラの行動は間違っていないようにも思えます。ですが、アブラハムとハガルの間の子であるイシュマエルが神の約束の子ではなく、妻サラの子が神の約束の子だったのです。そして、神はアブラハムに「わたしは来年の…男の子が生まれています」と語られたことが18:10に書かれています。このときイシュマエルは13歳ですから、最初の神の約束から少なくとも15年程は経っていると考えられます。その1年後にサラの子イサクが誕生しました。それはアブラハムが100歳の時です。そして今朝の箇所の6節以降には、イサクが薪を背負って歩いたことやアブハムとの会話が書かれていますから、おそらく今の小学生くらいに成長していたと考えられます。アブラハムが何歳で結婚したのかは分かりませんが、少なくとも80年以上はサラの子が与えられることを祈り続けたと想像できます。
そのようなイサクですから、アブラハムにとっては目に入れても痛くない子であったと考えられます。そのイサクを神は「全焼の献げ物として献げよ」とアブラハムに命じられたのです。これは本当にアブラハムにとっては大きな試練です。「神に従うのか、イサクを守るのか」という大きな試練です。「一晩中眠れなかったのではないか」と想像します。「何故、神はそのようなことをアブラハムに求められたのか」というのを考えさせられます。2節に「あなたの子…イサクを連れて」と書かれています。しかし、元々は「あなたの子、あなたの愛しているあなたの一人子イサクを連れて」と、「あなた」ということばが3回も書かれています。これは、アブラハムが何を中心に生活していたかを示してもいます。「アブラハムの生活の中心がイサクになりかけていたのではないか」と考えられます。確かに、神への信仰を捨てたわけではありません。ですが、神中心の生活ではなくイサク中心に移り変わっていこうとしていたとも考えられます。そのことに気づかせるために、神はアブラハムにこのことを求められたとも考えられます。
神の約束から20年以上も経ってやった与えられたイサク。長年祈り続け待ち望んでいた子供がやっと与えられたのです。アブラハムがイサクを特別に愛する思いはよく分かります。ところが、そのイサクがアブラハムにとって一番の宝物になりつつあったのです。主は、その危険を察してこのことをアブラハムに求められたのです。2節の神のみことばは、アブラハムにとって今までの歩みにおいて最も大きな出来事であり試練となりました。何故なら、イサクを神に献げるということは、イサクを自分から手放すことでもあるからです。
私たちの中にも「これだけは絶対に手放すことができない」という宝物があると思います。「いくら神が命じられることであってもこれだけは」というものが。それを手放すことは、その人にとっては大きな試練です。別の人にとっては「こんなこと」と思えるものであったとしても、その人自身にとっては宝物なのですから大きな試練です。その宝物を手放して神に献げることが献身の第一歩です。
2)アブラハムの選択
2節の神のみことばに対して、アブラハムはどのような反応をしたでしょうか。そのことが3節に「 」と書かれています。3節の初めに「翌朝早く」と書かれています。ですから、2節の神のみことばの次の日の朝早く、神のみことばに従ったということです。このアブラハムの反応について、皆さんはどのように思われるでしょうか。「アブラハムはすごい。私にはできない」と思われるでしょうか。文字だけを読みますとそのように思えたりもします。しかし、その間にアブラハムの中に何があったかを想像してみたいのです。おそらく、神のみことばを受けてすぐに自分の優先順位の間違いに気づいて、神のみことばに従う決心をしたとは考えにくいです。アブラハムの中に「何故神はこのようなことを求められるのか」という思いがあったことと考えられます。或いは、「イサク以外なら何でも喜んで献げることができるのに」と思ったかもしれません。アブラハムは一晩中眠れず苦しみ悶え続けたのではないかと想像できます。何度も何度も神に祈ったかもしれません。自分の心の中にあるものを神にぶつけて、ぶつけて、ぶつけ続けたことでしょう。
そのようなアブラハムが、どのようにして神のみことばに従う決心をすることができたのでしょうか。5節でアブラハムは「おまえたちは…戻ってくる」と語っています。「私と息子はあそこに行って礼拝をし、一緒に戻って来る」と語っているのです。このことについて、ヘブル11:17~19に「 」と書かれています。特に、19節に目を留めたいのです。アブラハムは、神に献げたイサクを神は必ず甦らせてくださると信じたのです。アブラハムは、「自分にとって大切なものを神に献げたとしても、神は必ず返してくださる」と信じたのです。アブラハムは「神は取られたままで終わらせる方ではなく、それ以上の祝福をもって返してくださる」と信じたのです。アブラハムは一晩中苦しみ悶える中で、神の約束と神が自分にしてくださったことを思い巡らしていたことでしょう。神はアブラハムに、「あなたの子孫を地のちりのように増やす」と約束されました。もし、イサクを神に献げイサクが死んだままであったなら、神の約束は破られたことになります。ですが、神は約束されたことを破られる方ではなく、必ず守り果たしてくださる方です。そのことを思い巡らす中で、「神はイサクを死者の中から甦らせてくださる」とアブラハムは信じたのです。死者の甦りというのは、人の頭では理解できないものです。アブラハムが頼ったものは神の約束だけでした。そして神の導きを思い巡らすとき、その神の約束に基づいて導かれていたことに気づいたと考えられます。その神の約束と導きに目を留めたから、イサクを神に献げると決心ができたのです。
神の導きは一人ひとり違います。育った背景が違いますし、場所も違いますから、当然神の導かれ方も違います。ですが、確かなことは最善を尽くしてくださったということです。それならば、これからも神は最善を尽くしてくださいます。私たちが目を留めるべきものはそこです。私に対する神の約束と導きです。先日の合同聖会で講師の山口先生より「ともに、主にとどまる」というテーマから、「私たちがどのように主に留まるかは大切であるが、神は私たちを留まらせざるを得ない神であることを考えたい」と話され、「わたしはある」という神の名から話してくださいました。アブラハムも神の約束と導きに目を留めながら、「無茶ぶりを求められるけれども、それでも神に留まらなければ」と考え、神に従うことを選んだと考えられます。
3)神の備え
神の求めに従ったアブラハムは、その後どのような経験をしたでしょうか。イサクと2人だけで山に登り、神が指定された場所に着いてイサクを縛ってほふろうとしました。そのとき、神はアブラハムに「その子に手を下してはならない」と言われたのです。そして神は、イサクの代わりに雄羊を備えられていたのです。この出来事から何よりも神を第一とするとき、神は私たちの想像を超えた備えをしてくださることを知らされます。イエス・キリストは、マタイ6:33で「 」と話されました。神を第一とするとき必要なものは全て与えられるのです。
マタイ6:33で語られている神の祝福とは、霊的祝福と物質的祝福です。物質的祝福とは、「これらのもの」と話されていることで、31節で話されている生活に必要なものです。そして霊的祝福とは、「神が必要なもの全てを備えてくださっているから大丈夫だ」という平安です。これは将来に対する希望です。確かに苦しみを経験しますが、神は最善の時に最善の方法をもって解決してくださるという平安です。この平安のある人生と平安のない人生とでは大きく違ってきます。そして、この平安のある人生が神の祝福なのです。
アブラハムは、神は取られたままで終わらせる方ではなく、それ以上の祝福をもって返してくださる方と信じました。そのことはヨブ記からも見ることができます。ヨブ記1:2~3に「 」と書かれています。その後、ヨブは神によって子どもと家畜の全てを失いました。そしてヨブ自身も病気で苦しむこととなりました。ヨブはその病気で苦しみ悶えつつ、自分の正しさを訴え続けました。ですが、ヨブは神のことばによって、自分の間違いに気づかされ悔い改めました。その後、神はヨブに対してどうされたでしょうか。42:12~13に「 」と書かれています。子どもは同じ数が与えられましたが、家畜は2倍に増えました。ヨブは病気で苦しむ前よりも多くの祝福を受けたのです。「ヨブ記は神の義について書かれている」と言われています。確かにその通りですが、もう一つの面を見ることができます。それは、神は取られたままで終わらせる方ではなく、それ以上の祝福を備えておられる方であることをも示しているということです。その神の備えは、アブラハムやヨブだけでなく、私たちに対しても同じです。神は、私たち一人ひとりに豊かな祝福をもって備えてくださっているのです。
結)
今朝は献身者の日として、創世記22:1~14を通して神に従うことについて見ました。私たちの中に「これだけは絶対に手放すことはできない」というものがあると思います。それを手放すのは大きな痛みを覚えますから、決して簡単なことではありません。しかし、神は決して取られたままで終わらせる方ではありません。それ以上に豊かな祝福を備えていてくださっています。私たちは、その神の恵みの中に生かされているのです。その神の恵みの中に生かされていることを覚えつつ、これからも共に神に従い続けられるように祈っていきましょう
ヤコブ2:5~7「いつも目に留めるもの」 23.05.14.
序)
先週は、神を愛し神に仕えることを学びました。それは神の熱心な愛を受けている者として、目の前の小さな人や弱い人を愛し仕えることが、神を愛し人を愛することでした。私たちはそのことを知りつつも、なかなか実践できない者でもあります。この2章には差別のことが書かれています。私たちも知らず知らずの内に差別してしまいやすい者です。「差別」というのは一つの判断です。そこには判断する基準があります。私たちの判断基準は何でしょうか。今朝はそのことを学びつつ、私たちがいつも目に留めるものは何かを共に教えられたいと願っています。
1)神の選び
私たちがいつも目を留めるものの一つは神の選びです。ヤコブは5節で「神は…富む者とし」と、神の選びに目を向けさせています。この「貧しい人たち」とは、「無に等しい者」ということで、「この世において価値がない」と見なされている人のことです。ですが、神はこの世において価値がないと見なされている人を選んでくださったのです。この箇所から、創世記2章に書かれています人間の創造を思い起こされます。7節に「 」と書かれています。神は大地のちりで人を形造られたのです。ちりとは価値のないものです。私たちは掃除をしてちりを集めますが、そのちりを残しておく人はいないと思います。ちりを集めたら捨てるのではないでしょうか。何故捨てるのかと言いますと「価値がない」と判断するからです。「価値がある」と判断するなら捨てることはしませんし、それを「ちり」と呼ぶことはありません。ですが、聖書は「人をちりから形造られた」と語っているのです。神は価値のないものに、いのちの息を吹き込まれたのです。それによって、人は生きるものとなったのです。この「生きるもの」とは、「価値のあるもの」となったということです。神は「価値のないもの」を「価値のあるもの」としてくださったのです。これが神の選びなのです。
何度も話していますが、私たちは世の中から見れば小さな存在です。自分一人が居ようが居まいが分からないような存在です。そのように思いますと、私たちの存在というのは「大地のちり」のような存在です。しかし、神はそのちりで人を造られ、いのちの息を吹き込まれたのです。そして人は、神にいのちの息を吹き込まれることによって、生きるものとされたのです。「生きるものとされた」とは、「可能性を見出だされた」ということでもあります。昨年のアドベントのときに見ましたミカ5:2もそうです。神は「ベツレヘム…あまりにも小さい」と言われました。「あまりにも小さい」とは、「特別に小さい」ということです。単なる小さいではないのです。しかし、そのあまりにも小さいベツレヘムに神は目を留められたのです。そして、「あなたから…治める者が出る」と言われ、ベツレヘムを選ばれたのです。
私たち一人ひとりも同じです。世の中から見れば「あまりにも小さい」存在です。しかし、そのような私に神は目を留めてくださり選んでくださったのです。私たちは「あまりにも小さい」という見える現実に目を留めると同時に、「そのような私に神は目を留めてくださり選んでくださっている」という見えない現実にも目を留めることが大切です。神が私たちを選んでくださったのは、私たちに何かすばらしいものがあるからではありません。ただ、神の一方的な恵みによってなのです。私たちは、その神の恵みの中で生かされているのです。その神の恵みに感謝しつつ、神の選びに目を留めつつ歩まされていきたいものです。
2)神の約束
私たちが目を留めるものの第2は神の約束です。ヤコブは5節で「神を愛する者に…されたではありませんか」と、神の約束に目を向けさせています。私たちに対する神の約束は、「御国を受け継ぐ者とする」というものです。「御国を受け継ぐ」とは、天の御国に入ることができるということでしょうか。確かにその通りです。ですが、それだけではありません。相続権があるのは、一般的には子どもに対してです。ですから、「相続できる」ということは、「子とされている」ということでもあります。イエス・キリストを通して神を信じる人は、もうすでに神の子とされているのです。しかし、私たちは神を信じつつも弱さを持っています。そのような弱さを持つ自分を見ると嘆いてしまいやすくなります。そして、そのような自分を責め神の子とされていることに疑問を抱くこともあります。ですが、神の約束は「イエス・キリストを通して信じる者は神の子とされている」というものです。その神の約束は決して変わることがありません。どれだけ弱さを持とうが、イエス・キリストを通して神を信じる人は、もうすでに神の子とされているのです。この神の約束をしっかりと覚えておきたいものです。
また、御国とは神が中心であり、神が共におられる所でもあります。イエス・キリストは、マタイ28:20の後半で「 」と話され、神を信じる者と共にいてくださることを約束してくださっています。私たちの日々の生活には、様々な信仰の戦いがあります。特に、異教社会の中で生きる日本においては、その戦いは大きいものではないでしょうか。その信仰の戦いにいつも勝利するとは限りません。弱さの故に、負けてしまうこともあります。すると、罪責感を覚え自分を責めてしまいやすくなります。そして、「不信仰な者」と責めてしまいやすくなります。以前にも話したことがありますが、「弱さ」と「不信仰」とは違います。神は私たちの弱さを御存知の上で選んでくださり、共にいて用いてくださいます。神は決して弱さを持たない人を選び、その人と共にいて用いられる方ではないのです。私たちが信じている神は、信じる者を決して見捨てることをされず、いつも共にいて支え導いてくださる方なのです。何故、そこまでしてくださるのでしょうか。それが神の私たちに対する約束だからです。この神の約束をしっかりと覚えたいものです。
3)神の選びと約束から目を反らす結果
ところが、ヤコブは6節の最初に「それなのに」と語っています。これは、「神の選びと約束という神の憐れみを受けているにも関わらず」ということを表しています。私たちは神の子として生きることができるのは、ただただ神の憐れみによってです。決して、自分たちの行いや才能がすばらしいからではありません。それなのに、神の憐れみによって選ばれたことを忘れてしまって、見た目で人を判断していた人たちに対してヤコブはこのように語っているのです。ですが、そのようなことは私たちにもあるのではないでしょうか。日々の生活の中で他人をさばいてしまうということが。日本のことわざに「他人の振り見て我が振り直せ」というのがあります。これは「他人の行動を見て、良い所は見習い悪い所は改めよ」というものです。イエス・キリストご自身も、ルカ6:41~42で「 」と話されています。42節の「兄弟…除かせてください」とはさばきの一つです。他人のちょっとした欠点には敏感であるが、自分の欠点には鈍感であるということです。
私たちは誰であれ似たり寄ったりな者です。他人の欠点には敏感ですが自分の欠点には鈍感です。それが私たちの弱さです。しかし、そのような私たちを神は選んでくださり、日々の生活の中で用いてくださっているのです。これはもう神の憐れみによるものです。先日の合同聖会の夜の集会では、山口先生より日本キリスト教史の学びの時がありました。その中で、表現は違いますが「信仰を捨てたかのような人たちがキリスト教に戻ることができたのは神の深い憐れみによるものである」と話されました。私たちは、その神の深い憐れみの中で生かされているのです。その神の憐れみによる選びと約束から目を反らしてしまいますとどうなるでしょうか。この世のものに目を向けてしまい、この世のものに頼ってしまうようになります。さらに言えば、目に見えるものに頼り、目に見えるものを基準として判断してしまいやすくなります。ヤコブは先週の箇所で、譬えを通してそのことを語りました。立派な身なりの人とみすぼらしい身なりの人への対応の違いの基準は、見た目によるものです。その見た目による判断の基準は自分です。自分の中にあるもので判断してしまいます。これは自己中心でもあります。神の選びと約束から目を反らしてしまいますと、自分中心の生活になってしまいます。そして、自分の考えや感情を優先させてしまいます。このような生き方は、神を信じつつも神を隅に追いやってしまう生き方であり、神を抜きにした生き方と同じです。
また、それは1:8に書かれています「二心を抱く者」の生き方でもあります。それは、信仰と実生活を別々にした生き方です。口では信仰的な言い方をしつつも、実生活は全く違った生き方です。そのような生き方は安定を欠いた生き方であり、不安定な生き方になってしまいます。さらに、目に見えるものによって左右され、結果重視の生き方になってしまいます。そして、喜びや感謝のない生き方になってしまい、頑張る生き方になり疲れ果ててしまう生き方となってしまいます。そして、あるのは何かと言いますと、将来に対する不安と恐れです。だから、そのような不安と恐れを埋めようとして、さらに頑張る生き方になってしまいます。もうこれは悪循環です。そこには何の解決もないのに、そこから目を離せなくなってしまいます。6~7節でヤコブが願っていることは、神の憐れみに目を留めるようにということです。それは、ただ神の憐れみによって選ばれ救われたということです。その視点に立って物事を見ていくことを願っているのです。いつも神の憐れみに目を留めつつ歩まされたく願います。
結)
神の憐れみによる選びと約束は、決して目に見えるものではありません。しかし、Ⅱコリント4:18には「 」と書かれています。神の憐れみによる選びと約束は目には見えませんが、永遠に続くものなのです。先日の合同聖会のテーマは「ともに、主にとどまる」でした。そして、そのテーマで山口先生は視点を変えて話してくださいました。私たちが神に留まることができるのは、神が私たちに留まってくださっているからです。今朝の箇所の人たち何ら変わることのない私たちが神の子とされているのです。これも神の深い憐れみです。その神の深い憐れみの中で生かされていることを覚え、神の憐れみによる選びと約束に目を留めつつ、これからも共に歩まされるように祈っていきましょう。
ヤコブ2:1~4「神を愛し神に仕える」 23.05.07.
序)
6年ぶりに1泊2日の合同聖会が行われ、姉妹教会の方々との交わりが持てましたことを神に感謝したいです。また、明日からは新型コロナウイルスが2類から5類に引き下げられます。徐々にコロナ前の状況に戻りつつあります。1月から使徒の働き9~12章を共に見てきましたが、今日からは当分の間ヤコブの手紙に戻り、共に教えられたいと願っています。少し振り返りますと、ヤコブの手紙は信仰による行いが強調されている手紙です。日々の生活の中で、みことばを行うことが勧められています。何故なら、それが神を愛し神に仕えることだからです。その具体的なことが2章に書かれています。その1つがえこひいきです。今朝の箇所の1節の最後に「人をえこひいきすることがあってはなりません」と書かれています。えこひいきは、「誰もが悪いこと」と思われているのではないでしょうか。キリスト者であるならば、「えこひいきする人などいない」と思われている方は多いと思います。しかしヤコブは、そのキリスト者に対して「えこひいきしてはならない」と語っているのです。そこには、キリスト者の中にもえこひいきする人がいるからです。2~3節に書かれているのは譬えですから、そのようなことはなかったのかもしれません。しかし、故意にではないかもしれませんが、気づかない内にしてしまう可能性はあります。今朝は、神を愛し仕えるとはどういうことなのかを共に教えられたいと願っています。
1)えこひいきとは
1節の最後に「えこひいきすることがあってはなりません」と語られていますが、えこひいきとは何でしょうか。それは差別です。ある人を優遇し、ある人を優遇しないことです。そのえこひいきについて、4節で「悪い考えでさばく者となったのではありませんか」と語っています。ですから、えこひいきは悪い考え方です。欄外に「ヨハネ7:24」と書かれています。ここには「 」と書かれています。えこひいきの基準は、うわべによる判断です。うわべとは、見た目や自分の好みなどで判断するものです。故意ではなくても、見た目や自分の好みで人を判断することは、私たちにもあるのではないでしょうか。
旧約聖書に登場するサムエルがそうでした。彼は神がサウル王を退けられたので、新しい人を選ぶためにエッサイという人の所に行きました。そして、エッサイの息子エリアブを見て「彼が主に油注がれる人だ」と判断したのです。しかし、神はそのエリアブを退けられたのです。そして、一番下のダビデを選ばれたのです。サムエルは信仰深い人ですが、その彼であってもうわべによって判断してしまうのです。神はサムエルに「人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われました。神は、人がうわべによって判断する弱さを御存知です。ですから、私たちは「えこひいきが良い悪い」という前に、「自分はえこひいきしてしまう弱さを持っている」と認めることが大切です。
そのような弱さを持っている私たちのために、イエス・キリストは十字架に架かって死んでくださったのです。弱さを克服した私たちではなく、克服できない私たちのために、イエス・キリストは十字架に架かり死なれ、その死から甦ってくださったのです。それだけでなく、そのような私たちを神は用いてくださっているのです。私たちは、その神の恵みの中に今生かされているのです。その神の恵みの中に生かされていることに何よりも感謝したいものです。
2)神はえいこひいきをされない
では、何故神はそれほど恵み豊かな方なのでしょうか。ローマ2:11に「 」と書かれています。神が恵み豊かな方であるのは、神はえいこひいきをされる方ではないからです。しかし、ローマ2:6に「 」と書かれています。神は一人ひとりの行いに応じて報いられるお方なのです。この「その人の行いに応じて報いる」とは、私たちの努力を強調しているのではありません。私たちの努力ではなく心のことです。さらに言えば信仰です。2:6で語られています「その人の行い」とは、受けているものに対してどのように応答するかということです。私たちは誰かから何かをプレゼントされたら「ありがとう」とお礼のことばをかけます。ですが、「プレゼントされて当然」と思っていたら、お礼のことばなどかけることはしません。何故なら、「当たり前」と思っているからです。
私たちの日常生活の多くは、大きな問題もなく過ごしています。そのような歩みは「できて当然」と思っていたなら、それに対して感謝の思いは全く起こりません。そして、多くの人はそのような歩みをされています。ですが、実は私たち一人ひとりの歩みは、神の守りと導きによって支えられているのです。今朝、この教会に集い一緒に礼拝を神に献げています。教会に来ることができたのは、当然ではなく神の守りと導きによってです。ですが、私たちはそのようなことを意識しないのではないでしょうか。むしろ、当然のように思ってしまいます。しかし、当然ではなく神の守りと導きという恵みの中に生かされているのです。その恵みの中に生かされていることに気づかない人にも、神は守り導いてくださっているのです。何故なら、神はえこひいきをされる方ではないからです。
そのように思いますと、「それなら別に神に感謝せずに今のままで良いじゃないか」と思われる人もいることでしょう。ですが、最後の審判のときに、神はその人の行いに応じて報いられるのです。正しく神に応答した人には赦しを与えられ、正しく応答しなかった人には赦しを与えられることはありません。エゼキエル書33:20に「 」と書かれています。神の審きの基準はこれです。18~19節に「 」と書かれていますように、最後に不正を行うか、それとも公正と義を行うかです。公正と義というのは、14節に書かれていますように自分の罪から立ち返ることです。すなわち、罪を悔い改めて神に正しく応答することです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かって神の審きを受けてくださいました。神は「そのイエス・キリストの十字架を信じ受け入れるなら、その人の罪を赦す」と宣言してくださっています。自分の罪を悔い改めて神に正しく応答するとは、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じ生きることです。その神の赦しは、今までどのような生き方をされてきた人でも与えられます。何故なら、神はえこひいきをされない方だからです。
3)神を愛し仕える
神は一人ひとりをえこひいきすることなく愛してくださっています。その神の愛はどれほどのものかと言いますと、ヨエル2:18に「主はご自分の地をねたむほど愛し」と書かれています。また、ゼカリヤ1:14の最後に「ねたむほど激しく愛した」と書かれ、8:2でも「シオンをねたむほど激しく愛し」と書かれています。この「ねたむほど愛する」とは、「熱心に愛する」という意味です。私たち一人ひとりは神から熱心に愛されているのです。だから、神はご自分の熱い愛に正しく応答することを求めておられるのです。その具体的な応答が今朝の箇所の2~3節の譬えです。さらに言えば、エペソ6:7に書かれています「人にではなく主に仕えるように喜んで仕える」ということです。
ここで注目したいのが「喜んで」ということばです。「強いられて」でもなければ、「嫌々」でもありません。「喜んで仕える」ということは、自ら進んで仕えることを意味しており、「積極的に」ということです。人を差別することなく、どのような人にも積極的に仕えることが神の熱心な愛に正しく応答することというのです。何故でしょうか。6:6に書かれていますように、キリストのしもべとされているからです。以前にも、使徒の働き12章で見ましたし先週の学び会でも学びましたが、私たちは「キリスト者」すなわち、「クリスチャン」とされています。この「キリスト者」「クリスチャン」とは、「キリストに仕える者」という意味であり、「キリストの奴隷」という意味です。彼らはヘレニズム文化が浸透し個人の自由が強調されている社会の中で、キリストの奴隷として生きていたのです。何故そのような生き方をするのかという理由は1つです。それは「これがキリストの教えだから」というものです。
でもそれは、強いられてでもなければ嫌々でもありません。喜んでなのです。何故、喜んで人に仕えることができたのでしょうか。それは神の熱心な愛を受けていることを知っていたからです。神のことばは必ずしも腑に落ちるものではありません。どちらかと言えば、腑に落ちないことの方が多いのではないでしょうか。ペテロもそうでした。ルカ5:4~6に「 」と書かれています。ペテロは夜通し漁をしましたが何一つ捕れませんでした。しかし、イエス・キリストはペテロに「深みに漕ぎ出して網を下ろして魚を捕りなさい」と言われました。すると、ペテロは「夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網をおろしてみましょう」と言って、その通りにするとおびただしい数の魚が捕れたのです。この「おことばですから」というのは積極的なものではありません。それでも、そのとおりにするとおびただしい数の魚が捕れたのです。
このときのペテロは、まだ神の愛を知りませんでした。でも、従ったとき想像もしなかったことが起きたのです。私たちは神の愛を知っています。そして、その神は熱心に私たち一人ひとりを愛してくださっていることも知っています。だからこそ、この「おことばですから」というのは重要なものであることを知らされます。たとえ腑に落ちなくても、私たちに対する神の熱心な愛は知っていますから、「おことばですから」と従うことが神を愛し仕えることでもあります。
結)
神はえこひいきされる方ではなく、一人ひとりを熱心に愛してくださっています。それと同時に、その神の熱心な愛に正しく応答することも求めておられます。イエス・キリストは、神の審きのときについてマタイ25:31以降で話されています。40節の最後に「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」と話されました。この最も小さい者たちの一人にすることが、神を愛し仕えることです。神を愛し神に仕える者の一人として、実践できるように祈っていきましょう。
使徒の働き12:20~25「神に栄光を帰す」 23.04.30.
序)
先週、私たちはペテロの牢からの脱出を通して、群れの祈りの大切さと人の想像を越えた神のみわざを見ました。そして、私たちはその想像を越えた働きをなされる神に祈っていることをも学びました。その神のみわざは、今朝の箇所においても同じです。今朝は、この箇所から神に栄光を帰すことについて共に教えられたいと願っています。
1)
20節に冒頭は「さて」ということばから始まります。このことばは、ペテロの牢からの脱出の出来事から話題が変わることを示しています。そして、ヘロデ王が神に打たれて亡くなる出来事が描かれています。ある方は「何故ヘロデ王のことについて書かれているのか」と疑問を抱かれる方もおられるかもしれません。まず、ヘロデ王は「ツロとシドンの…腹を立てていた」と書かれています。「何故ヘロデ王がツロとシドンの人々にひどく腹を立てていたのか」という理由を聖書は語っていません。当時、ツロとシドンという町は、フェニキア地方の港町として栄えていました。人というのは物事が順調に進んで行きますと有頂天になってしまいやすくなります。ツロとシドンの町の人たちも有頂天になっていたのでしょう。ツロとシドンはフェニキア地方の町ですから、ヘロデ王の支配下にある町ではありません。何しろ町は好景気で、昔の日本のバブル時代のように順調なのですから、外国の指導者のことばなど無視していたと考えられます。
そうなりますと、面白くないのはヘロデ王です。一国の王が無視される。これは王のプライドに関わってくるものです。そのことにヘロデ王はひどく腹を立てたと考えられます。そのため何をしたかと言いますと、20節最後のことばからフェニキア地方に食糧を送るのを禁じたと考えられます。ユダヤ地方から食糧が入って来なくなり困ったフェニキア地方の人たちは、ヘロデ王に和解を願い出たのです。このときヘロデ王は「それ見たことか」と良い気分に浸り、有頂天になっていたことでしょう。そして、「定められた日に…演説をした」と21節に書かれています。
このことについて、当時の歴史家ヨセフスは「ユダヤ古代誌」にて、ヘロデ王は皇帝の安泰のために誓願を立てて祝う祭りがあることを知らされたので、皇帝を崇める催し物を開いた。その祭りには、彼の領土の主だった人や身分の高い人々が、おびただしく集まって来た。祭りの二日目に、ヘロデは全体が銀と素晴らしい織物とでできている衣をまとい、朝早く劇場に入って来た。衣の銀は日光のまばゆい反射に照らされて驚くほど輝いた。やがて、彼にへつらう人々が「彼は神様だ」と叫び始め、「我々を憐れんでください。今まであなたをただの人間として敬ってきましたが、今後は、朽つべき者に勝る方として崇めます」と語り加えた。王はこれを聞いて彼らを叱りもせず、へつらいを退けようともしなかった。と書いています。続けて、「このとき腹に激痛が起こり、王は急ぎ王宮に運び入れられ、五日間もだえ苦しんだのち、54歳で7年の支配を終えた」と書かれています。
このことについて聖書は、22~23節で「 」と語っています。23節最後の「彼は虫に…息絶えた」とは、食物の中に寄生虫がいて、その寄生虫によって腹痛が起こり亡くなったのかもしれません。22節の「神の声だ。人間の声ではない」ということばを退けることをせず、神に栄光を帰さないヘロデ王に対する神の審きとして書かれています。それに対して、ペテロはコルネリウスがペテロにひれ伏して拝もうとしたとき、「お立ちください。私も同じ人間です」と言って、ひれ伏し拝まれることを拒みました。私たちが栄光を帰するものは、「自分に」ではなく「神に」であることを改めて教えられます。
2)神のことば
続いて、聖書は24節で「 」と語っています。これはキリスト教を迫害しているヘロデ王が亡くなったからではありません。ヘロデ王が亡くなったのは、「ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである」と23節で語られています。決して、ヤコブを殺害しペテロを捕らえたから、神の罰として虫に食われて亡くなったのではありません。この24節の冒頭には、実は「しかし」ということばで始まっています。この「しかし」ということばは、ヘロデ王が自分を神のような存在とし、さらに勢力を強めていこうとする野望が神によって阻まれたことに対してです。先程も話しましたように、ヘロデの野望が阻まれたのは神に栄光を帰さなかったからです。しかし、それに対して「神のことばはますます盛んになり」というのは、「神のことばが神に栄光を帰しているからである」ということを示しているのです。それは、「ヘロデ王のことばは滅んでしまったけれども、神のことばはますます盛んになり広まった」ということです。
神のことばとヘロデ王のことばの違いは、神に栄光を帰しているか帰していないかです。そして、聖書は「神に栄光を帰するものが栄える」と語っているのです。「神に栄光を帰する」ということばは、皆さんも耳にすることばではないでしょうか。では、「神に栄光を帰する」とはどういうことでしょうか。「神のすばらしさを現すこと」と答えられる方もおられると思います。確かにその通りです。聖書には「神に栄光を帰する」というようなことばが何度も書かれています。どのような意味合いで用いられているのかを調べますと、「自分の間違いを認めて神に謝り、その神の御心に従う」ことを意味するときに用いられています。ですから、「神に栄光を帰さない」というのは、自分の間違いを認めないことです。ヘロデ王は、自分が神であるかのように装って、自分の間違いを認めなかったのです。これが「神に栄光を帰さない」ということです。
ペテロはコルネリウスが自分にひれ伏して拝んだとき、「私も同じ人間です」と言ってコルネリウスがひれ伏すのを拒みました。また、パウロとバルナバもリステラの町で、人々が「神々が人間の姿をとって、私たちの所にお下りになった」と言って、いけにえをパウロとバルナバに献げようとしたとき、彼らは「私たちもあなたがたと同じ人間です」と言って拒みました。彼らは、自分たちが神であるかのようにされるのが間違いであることを告げたのです。正しい意味ではありませんが、ユダヤ教指導者たちは目の見えない人がイエス・キリストによって癒された人に対して、「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と言いました。これもそうです。ユダヤ教指導者たちは、イエス・キリストによって目が癒された人に「自分の間違いを認めなさい」と言っているのです。ですから、「神に栄光を帰する」とは自分の間違いを認めることであり、「神に栄光を帰しない」というのは自分の間違いを認めないことです。
そして、聖書は「神のことばはますます盛んになり」と語っています。先程も話しましたように、ヘロデ王の野望は滅んでしましたけれども、神のことばはますます盛んになったのです。その違いは、神に栄光を帰しないか帰するかです。神に栄光を帰するとき、神のことばは広まっていくのです。そのことを信じ、神のことばをこれからも伝え続けていきたく願わされます。
3)神に栄光を帰す教会
25節には、エルサレムのための奉仕を果たしたバルナバとパウロが、マルコと呼ばれるヨハネを連れてアンティオキア教会に戻ってきたことが書かれています。この「エルサレムのための奉仕」とは、11:30に書かれています救援物資をエルサレム教会に送るため、アンティオキア教会の責任のあるバルナバとパウロの手に託したことと考えられます。何故、バルナバとパウロがまること呼ばれるヨハネを連れてアンティオキア教会に戻って来たことが25節に書かれているのかと言いますと、13:5の第1回宣教旅行の初めにヨハネが助手として連れて行くことが書かれています。そのためであると考えられます。「その記事が何故この箇所に書かれているのか」ということに考えさせられます。単に第1回伝道旅行に繋げるためのものであるなら、11:30の後に記せば良いだけのことです。
また、バルナバとパウロがヨハネを連れてアンティオキア教会に戻って来た時と、ヘロデ王が亡くなった時には時間の隔たりがあったと考えられます。何故なら、ヘロデ王はツロとシドンに食糧を送るのを禁じたと考えるならば、エルサレムには食糧が豊富だったと考えられます。しかし、11章の終わりの箇所は大飢饉が起こりエルサレムの町には食糧で困っていたのです。そのようなことから時間的隔たりがあったと想像できます。それなのに、著者ルカはヘロデ王の死と神のことばの広がりの箇所で載せているのです。そこにはルカの意図があったと考えられます。
では、その著者ルカの意図は何でしょうか。27節は「さて」ということばから始まっています。この「さて」とは、最初にも話しましたようにペテロの出来事から話題が変わることを示すものです。しかし、著者ルカは確かにペテロの出来事から話題は変わるのですが、「関連付けて書いているのではないか」と考えられます。それは11:27~30のことです。集まった会衆は神に栄光を帰するのではなく、ヘロデ王に栄光を帰しました。そして、ヘロデ王はそのことを拒まず受け入れました。そのため主の使いによって打たれました。しかし、アンティオキア教会はそうではなく困っている兄弟姉妹や教会を助ける方を選んだのです。それは必要なものを神から与えられているからです。「必要なものは必ず神が満たしてくださる」と信じ、救援物資をエルサレム教会に送るためにバルナバとパウロの手に託したのです。その奉仕を果たしたということは、「実行した」ということでもあります。それは「神に栄光を帰した」ということでもあります。ヘロデ王と教会の対比として、ルカは25節の出来事をパウロの第1回伝道旅行と繋げるためにも、この箇所で記しているのではないかと考えられます。
結)
ヘロデ王は神に栄光を帰するのではなく、自分に栄光を帰したために神によって打たれ滅びました。しかし、教会は神に栄光を帰する歩みを続けたために、滅びることなく神に支えられました。その教会の歩みは、ローマ国家から見ればとても弱く小さなものかもしれません。ですが、神はその教会を守り支えられたのです。私たちの教会も社会から見れば、とても弱く小さなものに見られるでしょう。しかし、私たちの群れは神が守り支え導いてくださっています。その神に栄光を帰す歩みが続けられるように祈っていきましょう。
使徒の働き12:1~19「祈りと神」 23.04.23.
序)
先週は、「教会はキリストの身体であり、そのキリストの身体として歩む」ということの大切さを学びました。今朝からの12章は、エルサレム教会での出来事に焦点を合わせて書かれています。今朝の箇所はヤコブとペテロが捕らえられた出来事が記されている箇所です。今朝の箇所は、ヤコブについては殺害されたという事実だけが述べられ、ペテロに起きた出来事に焦点が合わされています。その出来事を通して、祈りと神について共に教えられたいと願っています。
1)群れの祈り
最初に教えられたいのは群れの祈りについてです。今朝の箇所の冒頭に「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは「何時のことか」と言いますと、11:19以降に書かれていますアンティオキア教会に異邦人が救われる人が増え、エルサレム教会はバルナバをアンティオキア教会に派遣し、アンティオキア教会はバルナバとパウロによって成長していったころのことです。エルサレム教会は、バルナバを始め預言者たちをアンティオキア教会に遣わし交わりを持っていました。そのことだけに目を留めますと、エルサレム教会は安定していたかのように思えてしまいます。しかし、実はそうではなかったのです。ヘロデ王は、エルサレム教会への迫害を強めていたのです。そして、使徒ヤコブを捕らえ剣で殺害したのです。19節に「さて、ステパノのことから…進んで行った」と書かれています。エルサレム教会は迫害と戦いつつ、福音宣教だけでなく姉妹教会との交わりも大切にしていたことが分かります。
そのようなとき、ヘロデ王は教会を苦しめるためにヨハネの兄弟ヤコブを捕らえ殺害しました。イエス・キリストの弟子は12人いましたが、特別なときはペテロとヨハネとヤコブしか連れて行きませんでした。そのようなことから、エルサレム教会においてこの3人は特別な存在だったと考えられます。その中のヤコブが捕らえられ殺害されたのですから、エルサレム教会においては激震が走るような出来事です。そのことがユダヤ人に喜ばれたのを見たヘロデ王は、さらにペテロをも捕らえて牢に入れました。しかも、「四人一組の兵士四組に監視させた」と書かれています。ペテロは四六時中監視されているのです。そして、「過越しの祭りの後に、民衆の前に引き出すつもりであった」と書かれています。おそらく、民衆の前で処刑する予定であったと考えられます。そのようなとき、教会はペテロのために「熱心に祈りを神にささげていた」と5節の最後に書かれています。
ある方は、「ヤコブの時、教会は祈っていなかったの?」と思われるかもしれません。ですが、ヤコブの時も教会は祈っていたと考えられます。ヤコブの誤解がとれて釈放されることを教会は熱心に神に祈っていたと思われます。ですが、ヤコブは無残にも殺害されてしまったのです。さらに続けて、ペテロをも捕らえられてしまいます。教会の人たちにできるのは神に祈るだけでした。おそらく、ヤコブのときと同じように、「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」で、共に集まり祈り会が持たれていたのです。個人の祈りではなく、群れとしての祈り会が持たれていたのです。17節の「このことを…知らせてください」というペテロのことばから、マリアの家だけでなくいろいろな場所で集まり祈り会が持たれていたと考えられます。改めて、群れとしての祈りの大切さを教えられます。
2)神の導き
次に教えられたいのは、神の導きについてです。教会の祈りと並行して、牢の中では何が起こっていたでしょうか。7節の冒頭に「すると見よ」と書かれています。このことばは、これから書かれていることを読者に注目するように促しています。主の使いがペテロのそばに立ち、ペテロの脇腹を突いてペテロを起こします。そして鎖が外れ、御使いに導かれつつ外に出ることができたのです。この時間が何時なのかは分かりませんが、教会の人たちが祈っているときペテロは寝ていたのです。ペテロが祈っているときに、主の使いがペテロの前に現れたのではありません。ペテロが寝ているときに主の使いは現れたのです。ペテロが何故寝ていたのかは分かりませんが、おそらく肉体的・精神的に疲れていたのではないかと考えられます。
ペテロは眠っていましたが、神はうとうとすることもなければ、眠ることもないお方です。今日の聖書交読の箇所ですが、詩篇121:1~4に「 」と書かれています。まどろむこともなく、眠ることもなく守ってくださるお方が、最も必要なときにペテロを起こされたのです。おそらく、ペテロも教会の人たちと同じように牢の中で祈ったことでしょう。ですが、その祈りのときにこのような出来事が起こったのではありません。それが何故なのかは分かりませんが、このことを通して私たちが眠っている間も神は守ってくださるお方であることを教えられます。また、私たちが祈ることを忘れていたとしても、神は私たちを守ることを決して忘れられないお方であることも教えられます。私たちが祈っているのは、このような神に対して祈っていることも教えられます。
では、ペテロはどのようにして外に出ることができたのでしょうか。まずは、立ち上がることによってです。「立ち上がる」とは、従うことを決心するということです。初めに大切なのは決心することです。そして、ペテロは帯を締め履物を履き、上着を着て御使いに着いて行きました。「着いて行く」とは従うことでもあります。決心しただけでなく、その決心を行動として表したのです。次に、10節に「彼らが、第一、第二の衛所を…進んで行った」と書かれています。神はペテロを起こされて一瞬の内に外に出すことのできるお方です。しかし、聖書はそのように語ってはいません。外に出るまでの一歩一歩の歩みが書き記されています。そして、これが神の導きであることを私たちは知らされます。何度も語っていますが、Ⅱコリント3:18に「栄光から…変えられていきます」と書かれていますように、一歩ずつによって導かれていくのです。私たちは一瞬の内に解決されることを期待してしまいます。神は一瞬の内にすることのできる方ですが、神の導きの多くは一瞬の内にではなく一歩ずつなのです。
外に出て御使いが離れたとき、ペテロは我に返ったことが11節に書かれています。それまでは幻を見ているように思えたのですが、このとき正気に戻ったのです。そして、「今、本当のことが分かった」とペテロは告白したのです。今までの聖書では「今、確かに分かった」と訳されていました。この「今、本当のことが分かった」とか「今、確かに分かった」というのは、「あっ、そうだったのか」ということでもあるように思わされます。「あっ、そうだったのか」というのは私たちも経験することがあるのではないでしょうか。「あの時のあの出来事は、この時のためだったのか」ということあるのではないでしょうか。その時は分かりませんが、後になって「このためだったのか」ということをです。そして、そのような経験を通して、神の導きの確かさを学び成長させられていくのです。
3)想像を越えた神
最後に教えられたいのは、想像を越えた神についてです。我に返ったペテロは、その後どうしたでしょうか。12節に「マルコと…家に行った」と書かれています。ペテロは神の驚くべき導きを教会の人たちに伝えて行ったのです。そのとき、「多くの人々が…祈っていた」と12節の最後に書かれています。すると、ロダという女性が喜びのあまりに、門も開けずに中にいる兄姉たちに知らせに行ったのです。ここは笑えてしまう箇所です。何か、昔のアメリカのドラマを見ているようです。ロダは中にいる人たちに知らせに行きましたが、彼らは「あなたは気が変になっている」とか「それはペテロの御使いだ」と言って、ペテロが神によって救い出されたことを信じなかったのです。皆さんは、この光景を頭に浮かべてどのように思われるでしょうか。ある方は「彼らは何を祈っていたの」と思われるでしょう。また「何で信じないの」と思われた方もおられるかもしれません。
ですが、彼らはヤコブが捕らえられたときも熱心に神に祈っていたのです。しかし、残念ながらヤコブは殺害されてしまったのです。この経験がありますから、「ペテロにおいても同じだろう」と思っていた人たちは少なくなかったと思われます。ひょっとしたら、その経験からペテロが救われることよりも、「ペテロの信仰がなってしまうことなく全うできるように」と祈っていたのかもしれません。でも、確かなことは16節の最後に書かれていますように、「非常に驚いた」出来事が起きたということです。この「非常に驚いた」というのは、彼らの思いや願いをはるかに越えた出来事が起きたことを表しています。神は私たちの想像以上のことをなさり導いてくださるお方です。私たちは、そのような神に祈っているのです。
私たちは今まで歩んできた自分の経験というものがあります。そして、その経験に基づいて様々なことを判断します。その経験に基づいての判断は間違いではありません。しかし、今朝の箇所を通して、「神はそのような経験を越えたことをなされるお方である」ということを改めて気づかされるのではないでしょうか。そして、先程も話しましたように、私たちはそのような神に祈っているのです。その私たちの経験以上のことを成してくださる神に、これからも祈り続けていきましょう。
結)
ヤコブとペテロの出来事を通して、エルサレム教会は共に集い祈りました。ですが、共に集って祈ったのは、この時だけではありません。1:14に「いつも心を一つにして祈っていた」と書かれていますし、2:42にも「彼らは…祈りをしていた」と書かれています。この「いつも」というのは「毎日」とも理解できますし、「定期的に」とも理解することができます。どちらにしろ、何かあったとき特別に集まって祈り会を持っていたのではありません。普段から、集まり心を一つにして祈り会を持っていたのです。私たちは、この事実を決して見逃してはいけません。そして、私たちは祈り以上のことを成してくださる神に祈っていることも覚えつつ、心を合わせて共に祈る群れとして歩まされたいと願います。
使徒の働き11:27~30「キリストの身体として」 23.04.16.
序)
先週は、イエス・キリストが死から甦られたイースターでした。神は私たちが神の呪いから解放されるために、イエス・キリストを死から甦らせてくださいました。私たちは、その神の恵みの中に今生かされています。そして、同時にそのイエス・キリストの身体の一部として歩まされています。今朝は、教会がキリストの身体であることを覚えつつ、教会としての歩みについて共に教えられたいと願っています。
1)教会間の交わり
最初に教えられるのは、教会間の交わりです。27節に「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは、「いつのことか」と言いますと、文脈的に見ますと、大勢の人たちが主に導かれ「キリスト者」と呼ばれるようになった頃と考えられます。どれ程の年月であったのかは分かりませんが、アンティオキアで福音宣教を始め教会が形成された頃と考えられます。そのような頃、27節に「預言者たちが…下ってきた」と書かれています。この「エルサレムから」というのは、エルサレム教会のことを指しています。そのようなことから、アンティオキア教会は孤立した群れではなかったということです。エルサレム教会は一方的にバルナバをアンティオキアに派遣したのではなく、いろいろな面で関係を築いていたのです。すなわち、教会間で交流がなされていたのです。そのことは、29節の「ユダヤに住んでいる兄弟たちに」ということばからも推測することができます。
エルサレムとアンティオキアは、直線で500㎞ほどの距離があります。春日井市からどれ程の距離があるのかと調べてみました。北東では仙台市ですし、西ですと山口県に入ったところです。それ程の距離がエルサレムとアンティオキアにはあります。それ程の距離ですから頻繁に行き来していたわけではないでしょうが、彼らの意識としては身近な存在となっていたと考えられます。500㎞程の距離がありますから、着いたらすぐに帰るということはなかったでしょう。何日間は滞在し、教会の兄弟姉妹たちと交わりがなされていたと想像できます。その交わりを通して関係が深まり、お互いに助け合っていたと考えられます。
今年度の教会標語は「交わる教会」です。その中の⓶には「兄姉との交わり」を挙げています。総会の時には説明しましたが、「兄姉との交わり」とは教会の中の兄姉だけでなく、教会を越えた主にある兄姉をも含んでいます。以前、名古屋教会で行われた女性セミナーの時だったのでしょうか。掲示板に姉妹教会から送られている週報が貼られているのを見られた方が、その方法を当教会にも取り入れられました。見るのにとても便利になりました。このようなことは交わりを通してです。交わりを通して、私たちはいろいろなヒントをいただくことができます。5月の合同聖会での兄姉との交わりに期待したいものです。
2)互いを深く知る
次に教えられるのは、互いを深く知るということです。エルサレム教会からアンティオキア教会に、何人かの人が訪れる中にアガボという人は世界中に大飢饉が起こることを御霊によって預言し、それがクラウディウス帝の時に起こったことが28節に書かれています。この文脈からでは、アンティオキア教会は、アガボの預言を通して大飢饉が生じる前から救援物資の準備をしていたのか、それとも大飢饉が生じてから救援物資を集めたのかは分かりません。確かなことは、アンティオキア教会はエルサレム教会に救援物資を送ったということです。しかも「世界中に大飢饉が起こる」のですから、アンティオキア地域も何らかの影響は受けたと考えられます。しかし、アンティオキア教会はエルサレム教会に救援物資を送ることを決めたのです。
今、私たちの地域では年に3回春日井・小牧地区祈祷会が行われています。この地区祈祷会をするようになったのは、「東海福音フェローシップ」という団体の中に「地震委員会」というのがあります。随分前の話しですが、その委員会がいろいろな地区を訪れ、東南海地震が生じたとき教派を越えて教会間で助け合っていく説明会を行っていました。そして、春日井地区にも訪れ説明会がなされました。そのときに出たのが、「教会の人の顔を知っていたとしても、話したことがなければ助け合うことはできない」ということでした。「互いの顔を知り、交わりを持つためにも地区の祈り会が必要である」ということになり生まれたのが、春日井・小牧地区祈祷会です。祈祷会の会場が持ち回りになっているのは、教会の場所を知るためでもあります。
では、アンティオキア教会はどのようにして救援物資を送ったのでしょうか。29節に「それぞれの力に応じて」と書かれています。助け合いは強いられてするものではなく、個人が自ら進んで行われたことが記されています。決して強いられてしたのでもなければ、自分の限界以上のことをしたのでもありません。自分にできる最善の努力をもって行ったのです。救援物資を受ける側は、それなりの被害を受けています。このとき「良きサマリア人」の譬え話を思い出しました。以前にも話しましたが、ルカ10:33の最後に「かわいそうに」と書かれています。この「かわいそうに」とは、同じ立場に立って行動することを意味することばです。アンティオキア教会は、エルサレム教会の痛みを自分の痛みと捉えて行ったのです。そこには、アンティオキア教会とエルサレム教会との交わりは、単なる表面的な交わりではなく、主にある深い交わりがあったからではないでしょうか。それは教会間だけでなく、個々のキリスト者間も同じです。互いが互いをさらに深く知る群れとして成長できるように祈っていきたいものです。
3)教会組織としての動き
最後に教えられるのは、教会組織としての動きです。アンティオキア教会は「それぞれの力に応じて」という、個人の尊重と自発性を重視して救援物資を送ることを決めました。この「決めた」というのは、「教会」という群れが決めたことを表しています。個人の自主性を重視すると同時に、群れとしての決定をしたのです。「各々が自主的に送れば良い」というのではなく、一つの群れとして救援物資を送ることにしたのです。ここにキリストの身体としての働きを見ることができます。それは個人と群れは決してバラバラではなく、一つの有機体として機能しているということです。一人ひとりの思いが群れの思いとして献げられていくということです。「教会を通して」ということばを耳にされると思います。それは、このことを意味しているものです。
アンティオキア教会は、それぞれの力に応じて献げられたものを、アンティオキア教会としてエルサレム教会に送ることを決め、30節に「それを実行し」と書かれています。アンティオキア教会は、群れ全体で決めたことを実行したのです。どれほどすばらしいことを決断したとしても、それを実行しなければ意味がありません。ともすると、「決断したことを実行するのは当たり前のことではないか」と思われるかもしれません。ですが、私たちの日々の生活の中で、決断しても実行できないことが多々あるのではないでしょうか。新年度に入り半月が過ぎました。「今年度はこのようなことをしよう」と決断しつつも、年度末で振り返りますと「できなかった」ということがあるのではないでしょうか。そのように思いますと、「実行する」というのは当たり前のことではありません。
では、アンティオキア教会はどのようにして実行することができたのでしょうか。30節に「バルナバとパウロの手に託して」と書かれています。何故、アンティオキア教会はバルナバとパウロの手に託したのでしょうか。エルサレム教会に行けそうな人が彼らしかいなかったからでしょうか。そのことも考えられなくもありません。そのようなことよりも、アンティオキア教会は「群れとしての献げ物」を送るのですから、群れの代表者を選出したと考えられます。すなわち、教会はキリストの身体ですから、身体のかしらはイエス・キリストですが、それに準ずる者を選出したと考えられます。それがバルナバとパウロだったのです。何故なら、彼らがアンティオキア教会を共同牧会していたからです。
この救援物資は「誰に手渡されるのか」と言いますと、30節の最後に「長老たちに送った」と書かれています。すなわち、「エルサレム教会の長老たちにバルナバとパウロは手渡すように」と、バルナバとパウロは指示をアンティオキア教会から受けたのです。「長老たち」とは、教会代表者のことです。ある方は「えっ、エルサレム教会の代表は使徒たちではないの?」と思われるかもしれません。そのことについて、Ⅰペテロ5:1に「 」と書かれています。ペテロは、この手紙を通して自分のことを「長老の一人として」と語っています。ですから、今朝の箇所の「長老たち」の中には、使徒たちも含まれていたと考えられます。アンティオキア教会の責任のある人たちが、エルサレム教会の責任のある人たちに手渡したのです。ここに教会としてどのように機能しているかを学ぶことができるのではないでしょうか。教会がキリストの身体とされていることの意味を教えられます。このことは、私自身も非常に考えさせられています。それは教会からの献げ物は、教会の責任のある役員の人たちを通して行われるということをです。
結)
今朝はアンティオキア教会から、教会としてのあるべき姿を見ました。それは、地域教会は孤立した存在ではなく互いに交わりながら、互いに励まし合っていく群れであるということです。そして、教会からとしての献げ物は、手渡しする場合は責任のある人が責任のある人に渡すということです。それは教会がキリストの身体だからです。私たちの教会もキリストの身体として歩み続けられるように祈っていきましょう
Ⅰコリント15:50~58「死に打ち勝つ」 23.04.09.
序)
今日はイエス・キリストが死から甦られたイースターです。イエス・キリストが死から甦られたということは、死に勝利されたということです。「死に打ち勝った」ということは、死はイエス・キリストに負けたということでもあります。死はイエス・キリストに、何の影響も与えることができなくなったということでもあります。死の力はイエス・キリストに対しては無に等しいのです。
今年のイースター礼拝は、先に天に召された方々を覚えての礼拝です。この教会から最初に天に召された方は大野英樹兄です。2004年12月12日にイエス・キリストを救い主と告白され、18日に病床洗礼を受けられたことが記録されています。翌年2005年2月6日に天に召されました。その次が小林春夫兄です。小林兄は2003年2月16日にバプテスマを受けられ、2011年9月26日に天に召されたことが記録されています。その次が大野伊都子姉です。1980年4月20日に名古屋猪子石キリスト教会にてバプテスマを受けられ、2000年3月12日に当教会に転入されました。そして、2017年4月23日に天に召されたことが記録されています。
「人は2回死ぬ」ということばを耳にします。1回目は、この世を去る肉体的な死の時です。2回目は、その人が忘れられてしまう時です。昔私が奉仕していました教会では、イースターの早朝に教会墓地で墓前礼拝を献げます。そして、納骨堂に納められた遺骨を遺族の方々が取り出し、埃を払って納骨堂に納めます。遺族がおられない方の場合は牧師がされていました。私たちの教会では、昨年は都合でできませんでしたが毎年10月に召天者記念礼拝をしています。ですから、決して天に召された方々を忘れることはありません。では、天に召された方々は今どうされているのでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。
1)朽ちない身体に変えられる
第1は、51節の最後や52節の最後に書かれていますように、天に召された方々は神によって朽ちない身体に変えられます。パウロは50節の後半で「血肉のからだは…できません。」と語っています。神の国を相続できない人とは、どのような人なのかと言いますと、「血肉の身体を持っている人や朽ちるものを着ている人である」と語っています。この「血肉の身体」というのは、自分の罪が解決されていない人の身体を意味しているのではありません。すなわち、罪の赦しを受けていない人の身体のことではありません。聖書は罪が赦されていない人の身体のことを「肉」と表現していますが、決して「血肉」とは表現してはいません。では、ここに書かれています「血肉の身体」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。それは、人間の身体そのものを表しているのです。すなわち、イエス・キリストを信じている人であるかは関係ないのです。ですから、イエス・キリストを信じている人であっても、このままの身体では神の国を相続できないということが語られているのです。「神の国の相続」とは、天に御国に入るということです。ですから、このままの身体では天国に入ることはできないのです。何故なら、イエス・キリストを信じている人も信じていない人と同じように、土から造られた存在だからです。結局は朽ちてしまう存在なのです。では、どのようにして天国に入ることができるのでしょうか。そのことが51節に語られています。
それは変えられることによってです。51節に書かれています「眠る」というのは、死ぬことを表現しています。ですから、「眠るわけではありません」ということは、全員が死んでしまうのではないということです。イエス・キリストがもう一度この世に来られる時があります。これを「再臨」と言いますが、イエス・キリストが再臨される前に死ぬ人もいますが、死なない人もいることを示しているのです。例えば、旧約聖書に書かれていますエノクやエリヤがそうでした。エノクの場合は、「神が彼をとられたので、彼はいなくなった。」と書かれています。エリヤの場合は、「竜巻の上って天へ上って行った。」と書かれています。彼らは死ぬことなく天に上げられたのです。また、マタイ24:37~41には「 」と書かれています。死んだ人だけが天国に入ることができるのではなく、生きている人も天国に入ることができるのです。イエス・キリストは、そのように語られています。
今朝の箇所に戻りますが、「みな、眠るわけではありませんが」の後に、「みな変えられます」と書かれています。全員が変えられることが宣言されています。現在の私たちの身体は、先程も話しましたように土から造られたものですから朽ち果ててしまうものです。しかし、「神によって朽ちない身体に変えられる」と聖書は語っているのです。人は自分の努力や修行によって、身体が清められ天国に入るのではありません。私たちの行いは一切関係ないのです。ただ、神の一方的な働きによって変えられるのです。神は私たちのことの身体を朽ちないものに変えることのできるお方なのです。その神によって変えられて人は天国に入ることができるのです。そして、先に天に召された方々も神によって朽ちない身体に変えられ、今も天国で生きておられるのです。
2)感謝をもって生きておられる
第2は、感謝をもって天国で生きておられます。何故、天国で生きることができるのでしょうか。それは自分の罪が解決されたからです。「自分の罪が解決された」ということは、「自分の罪が神によって赦された」ということです。では、人はどのようにして自分の罪が赦され解決されるのでしょうか。私たちは誰かに過ちを犯したとき、その相手に謝罪し赦されて初めて「ホッ」とするのではないでしょうか。相手の人に赦されていなければ、心の中で「ホッ」とすることはありません。いつまでも、心の中にわだかまりを抱いたままです。罪の問題も同じです。聖書は誰に罪を犯しているのかと言いますと、「神に罪を犯している」と語っています。ですから、神の赦しが必要なのです。
神は人を造られたとき、「何をしても良いが、善悪の知識の木の実を食べてはならない」と命じられました。その善悪の知識の木の実を食べることが神に罪を犯すことになるのです。そして、その善悪の知識の木の実を食べるとき、「あなたは必ず死ぬ」と宣言されました。死は神の呪いでもあります。だから人は、神の呪いでもある死を恐れるのです。その死への恐れから解放されるには、神から赦されるしかないのです。人は神の赦しを受けて、初めて心の中に安らぎを覚えることができるのです。その神の呪いから解く方法を神は備えておられたのです。それがイエス・キリストの十字架による死です。聖書に「木に架けられた者は神に呪われた者である」と書かれています。イエス・キリストは、私たちが受けている神の呪いをご自分が代わりに受けてくださったのです。私たちに注がれている神の呪いの全てをイエス・キリストが代わりに受けてくださったのが、イエス・キリストの十字架による死なのです。それが一昨日の金曜日です。
神は「そのイエス・キリストの十字架による死を信じることによって神の呪いから解き放たれる」と約束してくださいました。先に天に召され生きておられる方々は、そのイエス・キリストの十字架による死を信じ受け入れた方々です。それは、イエス・キリストが私の代わりに神の呪いを受けてくださったと信じた方々です。そして、死への恐れから解放された方々です。死の問題が解決されていますから、死に対する恐れからも解放されました。そして、今もそのことに感謝をもって天国で生きておられるのです。天に召された人は今どうされているのかと言いますと、自分の罪が赦され死に対する恐れから解放されたことに感謝をもって天国で生きておられるのです。
3)甦りの時を待っている
第3は、甦りのときを待っておられます。今朝の箇所の15章は「復活の章」とも言われ、イエス・キリストが死から甦られたことを書かれている箇所です。1節に「私があなたがたに…改めて知らせます」と語り、3節の後半から「キリストは…現れたことです」と5節にかけて書かれています。そして、その復活について書かれているのです。イエス・キリストの十字架による死を信じることによって、人は朽ちない身体に変えられます。この53節に書かれています「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」とか「死ぬべきものが死なないものを着る」とはどういうことかと言いますと、分かりやすく言えば「着替える」ということです。
「死への恐れが神の呪い」と話しましたが、死なないものに着替えた人に対して死は何の影響も及ぼすことができないのです。だから54~56節で「 」と語り、57節で「 」と語っているのです。イエス・キリストが死から甦られたことによって、死は信じる人に対して何の力も及ばないのです。何故なら、イエス・キリストは死を打ち破り甦られたからです。Ⅰテサロニケ4:16に「 」と書かれています。先に天に召された方々は、イエス・キリストと同じように甦られるのです。17節には「それから…彼らと一緒に」と書かれています。先に天に召された方々と再会することができるのです。再会してから、一緒に空中で神であられる主と会い、いつまでも主と共にいることになるのです。先に天に召された方々は、その甦りの時を待っておられるのです。
ですから、先に天に召された大野ご夫妻や小林春夫兄は、死んでおられるのではなく天の御国で今も生きておられるのです。そして、朽ちない身体で甦られ再会するときを待っておられるのです。ですから、17節に「これらのことばをもって互いに励まし合いなさい」と聖書は勧めているのです。それは今朝の箇所の58節でも同じことが言われています。「堅く立って」と書かれています。「何に堅く立つのか」と言いますと、朽ちない身体に変えられて甦ることによって死に勝利し、再び会えるということに堅く立つのです。
結)
生きているものは必ず死を経験します。何故なら、朽ちてしまうものだからです。しかし、朽ちない身体に変えられるのです。そのことを明らかにされたのがイエス・キリストの甦りです。そして、そのことを再確認するのがイースターです。人は死に負けるのではありません。イエス・キリストにあって甦ることを通して、死に打ち勝つことができるのです。先に天に召された方々と再会できる日を待ち望みつつ、共に歩まされていきましょう
使徒の働き11:19~26「キリストの奴隷」 23.04.02.
序)
2023年度が昨日から始まりました。今日は棕櫚の主日で、イエス・キリストがエルサレムの町に入られた日です。そして、今週の金曜日はイエス・キリストが十字架に架かり死なれた受難日であり、来週の日曜日はイエス・キリストが死から甦られたイースターです。それは全て私たちのためです。このような私のためにイエス・キリストは十字架に架かって身代わりとなって死なれ、その死から甦ってくださいました。今朝は、そのイエス・キリストの十字架による死と復活を覚えつつ、私たちがどのような者として歩む必要があるのかを共に教えられたいと願っています。
1)アンティオキアにて
今朝の箇所は、「さて」ということばから始まります。この「さて」ということばは、今までのコルネリウスから生じた事柄から別の事柄に移ることを表しています。その事柄とは何かと言いますと、「ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々」のことです。この「ステパノから起こった迫害とは何か」と言いますと、8:1に「使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた」と書かれている出来事です。今朝の箇所の19~21節は、エルサレムから散らされた人たちの中で、北の方に進んだ人たちに焦点を合わせて書かれているのです。この人たちは「フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行った」と書かれています。エルサレムから北上した人たちは、フェニキア地方にまで北上したのです。フェニキア地方とは、地図12「使徒たちによる初期の宣教」の上の方に書かれています。エルサレムからサマリア地方やガリラヤ地方で伝道しつつ北上し、フェニキア地方にまで行ったのです。そのフェニキア地方には大きな港町であるシドンがあります。このシドンは、使徒の働き27:3にパウロが船でローマに行くとき、船に乗った港町シドンのことです。おそらく、このフェニキア地方からキプロス島に行く人たちと、船には乗らずそのまま陸地を北上する人たちがいたのでしょう。そして、著者ルカは陸地を北上してアンティオキアの町に行った人たちに焦点を合わせています。
19節の後半には「ユダヤ人以外の…語らなかった」と書かれています。ある方は、この箇所を読まれて「何で?」と思われるかもしれません。何故なら、エルサレム教会は「『それでは神は…お与えになったのだ』と言って神をほめたたえた」と18節に書かれているからです。ですが今朝の箇所は、コルネリウスの出来事の後のことではありません。この人たちはコルネリウスの出来事を知らない人たちなのです。言うなれば、割礼を受けている人たちであり、「福音はユダヤ人のみ」と考えている人たちなのです。だから、ユダヤ人以外には誰にもみことばを語らなかったのです。
20節に「ところが…何人かいて」と書かれています。エルサレム教会から散らされ北上した人たちの中には、キプロス人とクレネ人が何人かいたのです。ある方は「外国人もいたの?」と思われるかもしれません。先週の総会で「パウロの伝道旅行の学び会を始める」と話しましたが、私はそのビデオを見てやっと理解できたのです。註解書には、「このとき初めて外国人に福音を伝えた」と書かれています。しかし、私はそのことに納得できませんでした。このキプロス人やクレネ人というのは、キプロスやクレネで育ったユダヤ人のことです。すなわち、ユダヤ系キプロス人であり、ユダヤ系クレネ人なのです。例えば、ナカノ・ユリ宣教師はカナダ人です。でも顔は日本人です。彼女のご両親は日本人です。ご両親がカナダに移住され、カナダで生まれ育たれたのがユリ宣教師なのです。顔は日本人ですが完全なカナダ人です。ですから、カナダ人の考え方が根付いておられます。それと同じです。ユダヤ人が外国に移住し、そこで生まれ育った人の顔はユダヤ人ですが、ことばや思想はヘレニズム的です。その彼らが福音を聞きイエス・キリストを信じたのです。その彼らがギリシャ語で福音をギリシャ語を話すユダヤ人に伝えたのです。すると、大勢の人たちが信じて主に立ち返ったのです。このような出来事がアンティオキアの町に起きたのです。
さらに、この「ギリシャ語を話す人たち」とは、もう一つの面を持っていると考えられます。それは「ギリシャ語を話すユダヤ人だけではなかった」ということです。割礼を受けていたユダヤ人は、ギリシャ語を話すユダヤ人に伝えていたことでしょう。ですが、ヘレニズム文化で育ったユダヤ人は、そのような枠に囚われなかったのです。ヘレニズム文化を一言で言いますと、今までは「国家のために」という国家主義の考えから、「自分の幸せのために」という個人主義の考え方です。これがヨーロッパの原型とも言われています。そのような人たちですから、「良いものは誰にでも紹介する」という文化が根付いていました。だから、ユダヤ人だけに限らずギリシャ語を話す人たちにも福音が伝えられたという見方もできます。すなわち、「アンティオキアでは異邦人にも福音が伝えられ、異邦人の中にイエス・キリストを信じる人たちが起こされた」と見ることができます。これが「ギリシャ語を話す人たちに」ということばに秘めているもう一つの事柄と見ることができます。ですから、註解書の「このとき初めて外国人に福音が伝えた」というのは間違いではありません。ただ、流れとしてはそのようなものであったと考えられます。
2)バルナバの派遣
すると、この知らせを聞いたエルサレム教会は、「バルナバをアンティオキアに遣わした」と20節に書かれています。「この知らせ」とは、「大勢の人が主を信じた」という知らせです。ここで「何故バルナバなのか」と疑問に思われるかもしれません。このバルナバについて、4:36に「 」と紹介されています。バルナバはキプロスで生まれ育った人です。すなわち、ヘレニズム文化に精通している人なのです。ですから、アンティオキアの人たちの考え方を理解できる人です。このバルナバは本名ではありません。本名はヨセフです。バルナバというのはニックネームと考えられます。「慰めの子」と呼ばれていた人ですから、一人ひとりに寄り添うことのできる人だったのでしょう。おそらく、細かい所まで配慮のできる人だったと考えられます。アンティオキア教会にはユダヤ文化に拘る人もいれば、ユダヤ文化に拘らない人もいます。その両方を熟知しているバルナバがアンティオキアに派遣されたのは自然なことです。
では、バルナバはアンティオキア教会で何をしたでしょうか。1つは23節の後半に書かれていますように、「心を堅く保って…皆を励ました」ことです。イエス・キリストを信じることは大切なことですが、もっと大切なのはイエス・キリストを信じ続けることです。すなわち、主にとどまり続けることです。ユダヤ文化が大事であるか大事でないかよりも、主に留まり続けることが何よりも大事なのです。バルナバは、この一点に絞っていたのです。「心を堅く保って」と訳されていることばは、直訳では「心の決心によって」となります。「決心」ということばは、「前に置く」「公衆の面前に出す」または「自分の目の前に見えるようにする」という意味のことばです。すなわち、自分が信じている生き方を世の人々の前で表すということです。そこには一人ひとり様々な信仰の戦いがあります。不安や恐れもあれば、「人の前でこんなことをするのは」という誘惑もあることでしょう。そのようなことを乗り越えられる励ましをバルナバはしたのです。その結果どうなったのかは後で見たいと思います。
バルナバがアンティオキア教会でしたことのもう1つは、パウロを捜しにタルソまで行って見つけ、そのパウロをアンティオキア教会に連れてきたことです。何故、パウロを捜しにタルソまで行ったのでしょうか。タルソという町は地図14に書かれていますが、アンティオキアから西に直線で150㎞ほど位置した所です。春日井市から大阪市ほどの距離です。徒歩で4日程かかる道のりです。そこまでしてパウロを捜しに行ったのは何故でしょうか。パウロはガマリエルに学び律法に精通していた人です。それに対して、バルナバはヘレニズム文化に精通した人です。アンティオキア教会にはユダヤ文化を背景に持つ人たちと、ヘレニズム文化を背景に持つ人たちで形成されています。バルナバの足りない所をパウロが補うのです。しかもパウロは律法に精通していますから、律法からユダヤ文化を背景とする人たちを正しく導くことができます。そのためにパウロを捜しにタルソまで行ったと考えられます。
3)アンティオキアの町で
バルナバとパウロの共同牧会を通して、アンティオキアの町で何が起きたでしょうか。26節に「初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と書かれています。「キリスト者」と訳されていますが、原語は「クリスティアノス」ということばです。これは「キリストに従う者」という意味で、「キリストに属する者」「キリストのしもべ」とか「キリストの奴隷」とも言われています。今まではこれで終わっていたのですが、先程も話しまたようにビデオでは分かりやすく説明されていました。アンティオキアでイエス・キリストを信じた人たちは、今までの生き方が変えられました。周りの人たちはヘレニズム文化で生きている人たちです。その彼らがイエス・キリストを信じた人を見て、「何故そんなことをするのか」と尋ねられると、「これはキリストに教えられたからこのようにするのです」と答えると、「それじゃまるでキリストの奴隷じゃないか」と言われバカにされていました。それを聞いた彼らは「その通りです。私はキリストを主、私の主人であり、わたしはしもべに過ぎません。キリストの奴隷なのです」と喜んで受け入れ、「私たちはクリスチャンです」と名乗るようになったというのが始まりと話されていました。非常に分かりやすい説明です。
アンティオキアの町はヘレニズム文化が根付いている町です。ユダヤ文化の人から見れば異国の町です。何故なら、ヘレニズム文化は個人の幸せを重視する文化だからです。それに対してユダヤ文化は、「律法に従って自分はどうであるか」という文化です。ですから、自分を中心にして物事を捉える生き方ではなく、キリストの教えに従って生きる人を異様に見えたのです。しかし、アンティオキア教会はイエス・キリストを信じる人が増え、やがてバルナバとパウロを宣教師として送り出す教会へと成長しました。そのように成長したのは神のみわざによるものは勿論のことですが、同時にその地でイエス・キリストを信じる人たちの生き方によるものでもあります。すなわち、彼らの日々の証しが用いられたことを見落としてはなりません。何度も話していますが神は人を用いられ、人を通して働かれます。何故なら、何度も触れていますが1:8の「わたしの証人となります」というイエス・キリストの約束に基づいているからです。そして、この原則は私たちの教会が建てられているこの地域でも同じです。
結)
昨日から2023年度が始まりました。また、今日から受難週に入りました。そのとき、この26節の最後のことばを噛みしめたいものです。「キリスト者」とはキリストに属する者であり、キリストのしもべでありキリストの奴隷です。私たちもアンティオキア教会の人たちと同じように、キリストの奴隷とされていることに喜びをもって証しし続ける者として歩まされるように祈っていきましょう。