メッセージ

 

使徒の働き6:1~7「教会に生じる問題と解決」 22.05.22.

序)
 今、私たちは使徒の働きから教えられていますが、先週は私たちの団体の「献身者の日」で、その前は私の休暇でしたので2週続けて使徒の働きから遠のいていました。使徒の働きを読みますと、福音宣教の実を結ぶことが描かれています。しかし、今朝の箇所は教会内に問題が生じ、その問題をどのように解決したのが描かれています。今朝は、教会に生じる問題と解決について共に教えられたいと願っています。

1)教会に生じた問題
 まず、教会に生じた問題について見てみたいと思います。1節の初めに「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは、5:12以降の使徒たちが最高法院で裁判を受けたときであり、5:14に書かれていますように「主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった」ときの頃です。すなわち、今朝の箇所の1節にも書かれていますように、弟子の数が増えつつあるときのことです。信じる人が増えるのは喜ばしいことです。しかし、同時に人が集まるところに問題も生じることを聖書は語っています。それは「神を信じる教会であっても同じである」ということです。ともすると、私たちは「教会はイエス・キリストにあって一つになることを目指す群れだから、教会の中に問題が生じることは問題である」と思いがちになります。しかし、聖書は「教会であっても人が集まれば問題が生じる」と示しているのです。すなわち「教会の中に問題が生じることが問題ではない」ということです。では「何が問題か」と言いますと、「その問題をどのように解決していくのか」です。
 初代教会では、どのような問題が生じたのでしょうか。1節に「ギリシャ語を使う…対して苦情が出た」と書かれています。このことから、教会の中にギリシャ語に精通していたユダヤ人とヘブル語に精通していたユダヤ人がいたことが分かります。ある方は「えっ、ユダヤ人なのにヘブル語に精通していない人がいるの?」と思われるかもしれません。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていましたから、ギリシャ語社会の中で生活していたユダヤ人がエルサレムに引っ越した人が大勢いて、その中からイエス・キリストを信じた人がいたと考えますと、ヘブル語に精通していないユダヤ人がいても不思議ではありません。そのような違うことばや文化の人たちが1つの教会に集まりますと、当然同じことばや文化の人たちとグループを形成してしまいます。これはやむを得ないもので、生じて当然のことです。そのようなことが生じ、教会の中に差別化のような問題が生じるようになったのです。どのような問題かと言いますと、自分たちのグループを優先してしまうという問題です。これは大きな誘惑でもあり、恐るべきものでもあります。
 教会の人数が増えるにつれ、日本人だけでなくブラジル人やフィリピン人の人たちも増えますと、当然同じことばや文化の人たちのグループ形成が生じます。すると、想像もしない問題が生じることがあります。そのような問題は初代教会だけでなく、現代の日本の教会にも起こり得るものでもあることに気づかされます。初代教会は配給の問題が生じたのですが、いろいろな人が集いますと配給とは別の問題が生じることがあります。同じ日本人の中でも、世代が違いますと文化も違ってきます。そうなりますと賛美やメッセージ、さらには礼拝の式次第の意見の食い違いが生じても不思議ではありません。そのように考えますと、今朝の箇所の初代教会の問題は現代の教会に生じる問題と何ら変わることのないものでもあることに気づかされるのではないでしょうか。それと同時に、「初代教会はその問題をどのようにして解決したのか」に耳を傾けることの大切さをも知らされるのではないでしょうか。

2)解決方法
 次に、解決方法について見てみましょう。初代教会は教会の中に生じました問題をどのように解決したのでしょうか。それは原則に立って解決の道を歩んだということです。その原則の第1は、「教会はキリストにあって一つの身体である」ということです。今朝の箇所で生じました問題を解決するのに手っ取り早い解決策は、グループを分けて活動することでしょう。人数が増えたのですから、ヘブル語を使うユダヤ人グループとギリシャ語を使うユダヤ人グループを分けで活動するのが手っ取り早い解決策でしょう。それが一般社会の考え方ではないでしょうか。しかし、初代教会はそのようなことはしませんでした。何よりも一致を保ち続けることを選んだのです。これが「教会的に考える」ということです。グループに分けて活動するのではなく、グループが一緒に助け合いつつ活動する道を選んだのです。何故なら、教会はキリストにあって一つの身体だからです。
 確かにグループに分けて活動するなら、目の前の問題は解決するかもしれません。しかし、そのために「教会はキリストにあって一つの身体である」という何よりも大切なものが崩れてしまいます。1節の最後に「毎日の配給においてなおざりにされていた」と書かれています。「毎日の配給」ですから、ギリシャ語を使うユダヤ人の中に不満がくすぶっていたと思われます。そして、その不満が抑えられなくなり苦情が出たものと考えられます。ですから、その心の中にあった不満は長い期間であったと想像できます。長い間不満を抱いている相手と一緒に助け合うというのは、手っ取り早いものではなく時間がかかることでしょう。ですが、初代教会は時間のかかる方を選んだのです。何故なら先程も話しましたように、教会はキリストにあって一つの身体だからです。この原則に立つのは、現代の教会においても大切なことです。
 原則の第2は、使徒たちは祈りとみことばの奉仕を優先したということです。今までの使徒の働きをみますと、財産の共有を何処に置いたのかと言いますと、4:35と37、5:2に「使徒たちの足元に置いた」と書かれています。このことから、共有したものを使徒たちが責任をもって配給していたと考えられます。また、今朝の箇所の「私たちが…良くありません」という使徒たちのことばからもそのことが想像できます。この共有財産の使い道は、現代に当てはめますと「教会運営」と考えられます。初代教会は使徒たちが祈りとみことばの奉仕をしつつ、教会運営にも当たっていたのです。しかしながら、使徒たちにとって何よりも優先されるものは、祈りとみことばの奉仕なのです。2節にも書かれていますように、教会が神のことばを後回しにするほど悲しく恐ろしいことはありません。これは牧師の能力の問題ではなく原則の問題です。どの牧師においても、祈りとみことばの奉仕が優先されるのです。
 第3の原則は、奉仕者の選びです。この7人の奉仕者が責任をもって教会を運営していくのです。その務めには誰が就いても良いのではありません。3節に「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」と書かれています。この「御霊と知恵に満ちた」とはどのようなものなのでしょうか。それは、先程も話しましたように「教会的に考えられる人」ということです。以前にも話しましたが、役員会では「教会実務を神学する」という本をテキストとして学んでいます。そのp56の最初に「外部献金などは…教育的奉仕の一つです」と書かれています。私たちが献げています献金は、教会に献げているのではなく神に献げているものです。その神に献げられたものを「如何に用いさせていただくか」が教会に問われているのです。ともすると、献金を「教会に献げている」と思ってしまいやすくなります。すると、「教会への献金」という枠の中で考えてしまうようになり、「外部献金は教会の枠の外」と捉えてしまいます。すると、外部献金は教会の枠の外ですから削ってしまいやすくなります。しかし、「献金は神に献げられている」と捉えますと、神の枠の中で考えるようになります。すると、教会と外部献金は同等の位置づけとして捉えられるようになります。これは先日の合同聖会でも話された「全体と個の関係」でもあります。大きな視野を持って全体と個の関係的視点で物事を捉えられるのが、「御霊と知恵に満ちた」ということです。先程の著書から話しますと、教会の経済的必要を満たすために外部献金を削るというのは、「自分たちが属する教会」という個に目が集中し過ぎて、「神のみわざ」という全体に目が向けられていない状態でもあります。本来は神に献げているものが、いつの間にか教会に献げているという錯覚に陥ってしまうことに、私たち一人ひとりは注意したいものです。

3)結果
 最後に、その結果どうなったのでしょうか。1節で生じました問題に対して、教会は「キリストにあって一つの身体である」という視点に立って取り組みました。「その結果どのようになったのか」と言いますと、聖書は7節で「     」と語っています。7節最初の「こうして」ということばは、使徒の働きを理解する手がかりの一つです。9:31には「     」と書かれていますし、13:49にも「     」と書かれています。さらに、19:20にも「     」と書かれています。また、28:14の最後に「こうして、私たちはローマにやって来た」と語っています。1:8でイエス・キリストは「地の果てまで」と話されました。この「地の果てまで」とは「ローマまで」ということです。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていました。ですから、ローマ帝国からの視点ではローマが中心でありエルサレムは地の果てです。しかし、福音の広がりはエルサレムが中心でありローマは地の果てなのです。すなわち、28:14の「こうして、私たちはローマにやって来た」というのは、1:8で話されたイエス・キリストの約束が成就したことを意味しているのです。すなわち、「こうして」とは、「教会がどのように取り組んだか」ということに目を向けさせようとしているのです。
 神のことばである福音はどのように広がって行ったのかと言いますと、教会が直面する問題を避けるのではなく誠実に取り組んだからです。またそれは、「キリストにあって一つの身体」という視点に立って取り組んでいたからです。ともすると、私たちは「個」というものに目が向けられやすく、「からだ」という全体に目が向けられにくくなってしまいやすいものです。だからこそ、御霊なる神から知恵をいただきつつ取り組んで行くことが大切なのではないでしょうか。この取り組みは「私と教会」ということに限られるのではなく、「教会とJBC」ということについてもそうですし、さらには「JBCと世界宣教」ということについても同じです。突き詰めれば、それは「私と世界宣教」ということにもなります。「世界宣教」と聞きますと、「遠い国でなされる福音宣教」と捉えやすいですが、私たちがいます地も世界宣教の一つであるということも覚えたいものです。私たちにとっては、この高蔵寺地区が福音の中心であり、その福音を信じる人が新たに起こされ、福音が広がって行くことに期待しつつ福音宣教に励んでいきたいと願わされます。

結)
 福音宣教が進み人が増えますと、必ず意見の食い違いが生じ問題が起こります。それは「キリストにあって一つの身体」である教会も同じです。大切なのは問題を生じさせないことではなく、生じた問題をどのように取り組むかです。そのためにも御霊なる神から知恵をいただきつつ、「教会的に考える」という原則に立って取り組むことができるように祈っていきましょう。


マタイ9:35~38「働き人を求める」 22.05.15.

序)
 本日は、私たちの教会が属しています日本バプテスト宣教団の献身者の日です。これは私たちの群れから、新たな献身者が起こされることを願って設けられました。ところが、数年間に伝道部が「幅広い献身のメッセージを」という提案が総会で出され、議決されて昨年度までそのようなメッセージをしていました。ところが、昨年度の伝道部は「直接献身に絞ってほしい」という要望がなされ、今年度より直接献身を意識し「献身のメッセージを」ということが総会で提案され議決されました。そのような方向に転換した背景としましては、今年谷口真樹先生が聖書宣教会を卒業され、その後に続く献身者が与えられていないという現状を鑑みて、JBCの将来に対しての危機感があるのではないかと私は個人的に想像しています。新たな献身者が起こされることは、私たちの団体におきましても急務なことです。今朝は、新たな献身者が起こされることを願いつつ、みことばに耳を傾けたいと願っています。

1)現状
 イエス・キリストは、様々な町や村を巡り福音宣教の働きに励んでおられました。その群衆を見られて、イエス・キリストは「深くあわれまれた」と36節に書かれています。何故、「深くあわれまれたのか」と言いますと、その後に「彼らが羊飼いのいない…倒れていたからである」と書かれています。この「弱り果てて倒れていた」ということばに目が留められます。これは実際に倒れていたわけではありません。しかし、イエス・キリストにはそのように見えたのです。それは「羊飼いのいない羊の群れのように」と書かれています。羊という動物は迷子になりやすく、迷ってしまいますと不安に陥ってしまいます。どの方向に行けば良いかも分かりませんから、ウロウロするしかありません。犬の五右衛門は白内障のためほとんど見えません。そのため教会の2階に上がって降ろしますと、今まではすぐに牧師室に入ったのですが、今は薄暗いため別の部屋に行ってしまいます。そのため目の前に私が立ちますと、私に気づきホッとして私の後に着いて牧師室に入ります。
 イエス・キリストは、群衆を見て迷っている羊のように思われたのです。彼らが行く当てが分からず、さまよい歩き疲れ果てた羊のように見えたのです。「弱り果てて倒れていた」とは、不安や悩みなどで苦しんでいる状態を表しています。イエス・キリストを信じる私たちにも、当然不安を抱いたり悩んだりすることがあります。何度も話していますが、不安を抱いて悩むことが問題ではありません。それは人として当然のことです。私たちも不安を抱き悩むことがありますが、頼ることのできる方を知っています。しかし、イエス・キリストを信じていない人は、その頼るべき方が分かりません。ですから、問題を自分自身で抱えなければならないのです。そして、その苦しみの中で生きていかなければならないのです。表面上は元気そうに見え、経済的にも満たされており、大丈夫そうに思える人々。しかし、その心の中には大きな課題を持ちつつ、誰にも言えずに悩み苦しんでいる人が大勢おられます。イエス・キリストは、そのような人々を見て憐れんでおられるのです。私たちは人の表面的なものを見て「大丈夫だろう」とか「どうしたのだろうか」と思います。でも、イエス・キリストは人の心の中を見ることのできるお方です。一人ひとりがどのような課題を抱え、悩み苦しんでいるかを御存知なお方です。しかし、イエス・キリストを信じていない人は、その頼るべきお方を知らないがために、心の必要も満たされることはありません。不安や恐れから何の解決もされず歩み続けなければなりません。
 イエス・キリストは、そのような人を深く憐れまれたのです。イエス・キリストは、真の神であられる主を信じることなく、様々な不安や恐れを抱いて苦しんでいる人に対して、「わたしを信じないから」とその人を責めてはおられません。様々な苦しみに対して、「それはあなたが罪を犯したからだ」とか「良いことをしていないからだ」とも言われてはおられません。ただ、その人を深く憐れまれたのです。愛を持って一人ひとりを見ておられたのです。イエス・キリストとはそのようなお方なのです。私たちの弱さを責める方ではなく、その弱さを憐れみ受け入れてくださるお方なのです。その愛こそが福音宣教の源でもあります。イエス・キリストの福音宣教は、自分の教えを広めるためや、群れを成長させるために始められたのではありません。愛することから始められたのです。

2)神の約束
 そのイエス・キリストは、弟子たちに何と言われたでしょうか。37~38節に「     」と書かれています。まず37節には、「収穫は多いが働き手が少ない」と現実が書かれています。「収穫が多い」とは、本当の羊飼いを持たない羊が多いということです。多くの人は不安や悩みを抱きつつも、心を休める所を持っていません。「この方に着いて行けば大丈夫」という安らぎを得てはいないのです。本当の心の救い・魂の安らぎを大勢の方が求めておられます。イエス・キリストは「収穫は多い」と、「不安や悩みを抱え、心の救いや魂の安らぎを求めている人が多い」と言われているのです。
 また「収穫が多い」とは、実が実っている状態を表してもいます。イエス・キリストは4つの種の譬え話しをされました。道端に落ちた種は、鳥に食べられてしまいました。岩に落ちた種は、根がないためすぐに枯れてしまいました。いばらの中に落ちた種は、いばらにさえぎられ成長しませんでした。成長して実を結んだのは良い地に落ちた種だけでした。その種は30倍・60倍・100倍の実を結びました。「収穫が多い」とは、その良い地に落ちた種のことです。成長して実を結ぶのが多いということです。すなわち、これは不安や悩みを抱え、心の救いや魂の安らぎを求める人が多いだけでなく、その中で神を必要とされている人も多いということです。日本の現状を見ますと、まさしくそうではないでしょうか。経済的には豊かになっていますが、心の中はどうでしょうか。決して心も豊かになったとは言えないのが現状ではないでしょうか。自殺者は減少傾向にありますが2万人を超えています。2021年の自殺者数は20830人でした。2021年の交通事故死者数は2836人です。交通事故死と比較しますと7倍を超えた数字です。
 日本という国は、「独特の精神文化を持っており、福音宣教が難しい国」ということを耳にします。確かに、多くの人は生きている時は宮詣りや七五三などの神道行事をし、亡くなってからは仏教行事をされます。信仰心というものを大切にし、信仰の対象はあまり深く考えないようにも思えます。だから難しいように思えます。しかし、イエス・キリストは「収穫が多い」と言われておられるのです。「心に不安や悩みを抱え、救いと安らぎを求めている方が多く、その中で神を必要とされている人が多い」と言われているのです。それは「神を必要とされている人が多い」ということだけでなく、「真の神を信じる人も多い」ということです。これはイエス・キリストの私たちに対する約束でもあります。多いのですから、私たちはそのみことばを信じ期待して励むことが大切なのではないでしょうか。そのことを信じ期待しつつ、福音宣教の働きに仕え続けられるように祈っていきたいものです。

3)イエスの求め
 イエス・キリストは約束を話されましたが、働き手が少ないのも現状です。最初でも話しましたように、日本では教職者の高齢化が加速し、無牧の教会が急増しています。ここでイエス・キリストが求めておられることは、「働き手が少ないから働き手が起こされるように祈りなさい」ということです。ここで注目したいのは、イエス・キリストは決して「多くの収穫が得られるように」とは求めてはおらないということです。多くの収穫が得られるか得られないかが大切なことではなく、働き人が起こされることが大切なのです。少ないのは収穫ではなく働き人なのです。ですから、その働き人が起こされるのを祈ることを求めておられるのです。
 この37~38節のみことばは、ルカ10:2にも書かれています。ここは、イエス・キリストが72人の人を派遣されたときに語られたものです。ルカの9:1を見ますと、12弟子が派遣されたことが書かれています。さらに、その前の8:1ではイエス・キリスト一人が福音宣教をなされ、弟子たちはそのお供に過ぎなかったことが書かれています。これは1人から12人に、そして12人から72人へと福音宣教に遣わされる人が増えていったことが描かれています。それにも拘らず、72人にも増えたことで「良し」とされているのではなく、イエス・キリストは「収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と語られているのです。イエス・キリストが私たちに求めておられるものは働き人なのです。イエス・キリストが必要とされているのは働き人なのです。
 御存知だと思いますが、私たちの団体のミッションであるNABから最初に遣わされた宣教師は、軽井沢で日本語の勉強をされていました。そのとき「日本で一番福音が必要な地は何処か」と調べました。日本には伊勢信仰というものがあります。伊勢神宮には天照大神が祭られています。今も天皇や首相は伊勢神宮に参拝に行きます。先日も秋篠宮が皇嗣となったことの報告として伊勢神宮に参拝しました。ある面、伊勢神宮は神道の聖地とされています。そのために、日本で一番福音が必要なのは伊勢であるとして始めたのが私たちの団体です。その間様々なことがありました。年数からしますと、数字的には決して多いとは言えない教会数ですし会員数です。しかし、神がこの団体を今日まで導いてくださり、用いてくださっていることは確かなことです。そして、私たちの団体も新たな働き人を必要としています。是非、新たな働き人が起こされるように祈っていただきたいと願います。

結)
 今年の3月に谷口真樹先生が聖書宣教会を卒業され、津教会の教育主事として働かれるようになりました。そのため神学校で学ぶ神学生は、私たちの団体には一人もいません。谷口真樹先生に続く献身者が起こされるように祈っていきましょう。


使徒の働き5:33~42「福音を宣べ伝え続ける」 22.05.01.

序)
 先週は使徒の働き5:29~32を通して、「悔い改めと罪の赦し」について見ました。教会ではイエス・キリストの十字架による死が強調されますが、福音はイエス・キリストの十字架による死だけでなく、イエス・キリストの復活も含まれていることを見ました。何故なら、イエス・キリストの十字架による死だけならば、罪の報酬である死の問題は解決されていないからです。イエス・キリストが死から復活されて、初めて罪の報酬である死の問題が解決されたのです。ですから、使徒たちは29節で語っていますように、「人に従うより、神に従うべきです」と宣言したのです。その宣言から3つの反応が生じました。今朝は、その3つの反応を見てみたいと思います。

1)厳しい反応
 1つはキリスト教に厳しい反応をする人たちです。33節に「彼らは怒り狂い」と書かれています。この怒り狂った人たちはどのような人でしょうか。5:17には「大祭司とその仲間たち、すなわちサドカイ派の者たち」と書かれています。そして、その後に「ねたみに燃えて立ち上がり」と書かれています。これは今朝の箇所の「怒り狂い」と似た表現です。ですから、この怒り狂った彼らとは、大祭司とその仲間たちであるサドカイ派の人たちと考えるのが妥当でしょう。この「怒り狂い」と訳されていることばに*印が付けられています。下の欄外を見ますと、直訳では「心を(のこぎりで)引き切られ」というものです。もう心の中は煮えくり返っている状態を表しています。ちょっとやひょっとでは収まらないのです。そのことをよく示しているのが40節に書かれています。
 彼らは怒り狂って使徒たちを殺そうと考えました。そのとき、ガマリエルという人が彼らに意見を出しました。39節の最後には「議員たちは彼の意見に従い」と書かれています。そして、40節に「使徒たちを…釈放した」と書かれています。議員たちはガマリエルの意見に従うのなら、使徒たちに「イエスの名によって語ってはならない」と命じるだけで良かったのです。ところが、議員たちは使徒たちにむち打ちをしたのです。これは議員たちの心がちょっとやひょっとでは収まらない状態であったことを示しているのではないでしょうか。
 この議員たちは、先程も見ましたようにサドカイ派の人たちです。では、サドカイ派とはどのような人たちでしょうか。マタイ22:23に「復活はないと言っているサドカイ人たちが」と書かれています。ですから、サドカイ派の人たちは死者の復活を信じていない人たちです。彼らも使徒たちが言った「人に従うより、神に従うべきです」ということばは受け入れたことでしょう。しかし、イエス・キリストが甦られたことは受け入れられなかったのです。何故なら、「死者の復活などあり得ない」と決めつけていたからです。この決めつけこそが、真理に目を背けさせてしまう要因です。この「決めつけ」というのは、私たちの中にも起こり得るものでもあることに気づかされます。決めつけた見方をしないように心がけていきたいものです。

2)寛容な反応
 次はキリスト教に寛容な反応です。33節に怒り狂って使徒たちを殺そうと考えた人たちの形相はどのようなものだったでしょうか。これは想像でしかありませんが、とても険しい表情だったのではないでしょうか。その形相を見てガマリエルという人は発言したのではないかと想像できます。このガマリエルという人は、使徒22:3に書かれていますようにパウロに律法について厳しく教育した人で、パウロの恩師です。
 このガマリエルは、チウダとガリラヤ人ユダの例を示して、2つのことを語っています。1つは人間から出た計画は一時的に栄えたとしても、時間の経過とともに自滅するというものです。もう1つは、神の計画は人間がどれほど抵抗しても必ず実現するというものです。このガマリエルの発言に、皆さんはどのように思われるでしょうか。「正しい・間違っていない」と思われるでしょうか。それとも「正しくない・間違っている」と思われるでしょうか。このガマリエルの発言は正しく間違ってはいません。しかしながら注意すべき点もあります。それは38節で発言されています「放っておきなさい」ということばです。これは良く言えば「神に委ねなさい」ということですし、悪く言えば「責任を放棄しなさい」というものです。
 創世記2:15に「     」と書かれています。神は世界を造られ支配されておられます。ですから、この世界は神のみ旨だけがなされるのです。しかし、神は人にエデンの園を耕させ守らせたのです。また、1:26には「     」と仰せられたのです。この「支配する」とは「管理する」ということです。すなわち、神はこの世界を人間に委ねられたのです。ですから、人間は世界を管理する責任が与えられているのです。例えば、現在地球は温暖化で「二酸化炭素を減らそう」という動きがあります。これは人間が世界を管理する責任を果たすものでもあります。それに対して、「いや私たちは何もしないで神に委ねるべきだ」という考え方もあるのではないでしょうか。
 これは伝道についても同じことが言えます。「神は最初から救われる人を選んでおられるのだから、私たちは祈るだけで他は何もしないで神に委ねるべきだ」と言って、伝道しないというのはどうでしょうか。神は人に世界を管理する責任を与えておられますし、福音を伝える責任を私たちに与えておられます。その責任を果たすこともしないで、神に委ねるというのは正しいことでしょうか。何度も話していますが、神は私たちに結果を求めてはおられません。忠実であることを求めておられるのです。私たち一人ひとりに与えられています責任を果たすことを求めておられるのです。コロナ禍で集会を開くことが難しい中で、今年度は一人ひとりが住んでいる地域に福音版を配布することを掲げました。これも責任を果たすことの一つだと思わされています。
 パウロがコリントの町で伝道しているとき、神がパウロに告げられたことが使徒18:9に「     」と書かれています。まず神はパウロに「恐れないで」と語りかけておられます。それはパウロの心の中に恐れが生じていたからです。何故パウロは恐れを覚えたのか、その恐れはどのようなものであったのかは分かりません。確かなことは、恐れを覚えていない人に「恐れないで」とは語りかけないということです。ですから、このときパウロは恐れを覚えていたと考えるのが妥当でしょう。ただ恐れを覚えていても語り続けることを神は求めておられるのです。そのパウロは、テモテに宛てた手紙でも同じようなことを勧めています。Ⅱテモテ4:2に「     」と書かれています。「時が良くても悪くても」というのはテモテ自身が感じている状況です。その中には、多くの人が「そうよね~」とか「分かる~」というものもあるかもしれません。そのような中で、今自分にできることを実践することは大切ではないでしょうか。福音が広がることを神に祈るのは大切なことです。それと同時に、私たちができることを果たすのも大切なことです。祈りながら何もしないのは、放っておくのと同じではないでしょうか。祈りは行動が伴うものであることを改めて教えられます。

3)イエスに従う反応
 最後はイエスに従う反応です。ガマリエルの提案によって使徒たちは釈放されますが、再び「イエスの名によって語ってはならない」という厳しい禁令を受け、むち打ちを受けて釈放されます。しかし、そのような取り扱いを受けたにも拘わらず、彼らは「喜びながら、最高法院から出て行った」と41節の最後に書かれています。何故、使徒たちはこのような取り扱いを受けながら、喜びながら最高法院から出て行くことができたのでしょうか。そのことについて、聖書は「御名のために辱められるに値する者とされたことを」と説明しています。使徒たちの喜びの根拠は、「御名のために辱められたことが喜びの根拠である」と聖書は語っているのです。
 この「御名のために辱められる」という経験は、ペテロの人生において大きな意味を持っていたものと考えられます。何故なら、ペテロもⅠペテロ4:12~13で「     」と語っているからです。それは何よりも、イエス・キリストご自身もマタイ5:11~12「わたしのために…大いに喜びなさい」と話しておられます。11節の「ありもしないことで」と話されていることに注目させられます。「ありもしない」というのは、理由や原因が私たちにあるというのではありません。理由や原因が私たちにあって非難を受けるのは「キリストの故の苦しみ」ではありません。むしろ、ペテロは先ほど開きましたⅠペテロ4:15で「     」と、理由や原因が私たちにあっての苦しみは受けないようにと勧めているのです。ですから、理由や原因が私たちにあっての苦しみを「キリストの故に苦しみを受けている」と捉えるのは間違いです。その所を注意しておきたいものです。
 では、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜んだ使徒たちは、その後どのような歩みを続けたのでしょうか。42節に「     」と書かれています。「毎日、宮や家々で」と書かれていることに注目したいのです。「毎日」とは「日常生活の中で」ということです。また、「宮」とは特別な場所ですが「家々」は特別な場所ではありません。このことから、私たちの何気ない日常生活の中で、場所に囚われずイエス・キリストを証ししていくことの大切さを知らされるのではないでしょうか。ですが、そこには「日々みことばに養われる」ということが前提とされていることも見逃しはなりません。すなわちディボーションです。みことばに養われ整えられない限り、イエス・キリストを証し続けることはできないのです。今までの聖書では、42節の最後のところを「宣べ伝え続けた」と訳されていましたが、今の聖書には「宣べ伝えることをやめなかった」と訳されています。どちらも同じ意味ですが、「やめなかった」という方が「宣べ伝える」ということを強調しているようにも受け取れます。これは私の受け止め方かもしれませんが。
 何度も触れていますが、今年度は住んでいる地域に毎月福音版を配ることとしました。配り続ける中で、「やめよう」と思いが生じることもあると思います。しかし、「宣べ伝えることをやめなかった」とありますように、やめることを選ぶのではなく、配り続けていく・宣べ伝え続けていくことを選び、歩み続けさせられたく願います。

結)
 今朝は、使徒たちの宣言を通して3つの反応を見ました。私たちはイエス・キリストの十字架による死と復活によって、罪の赦しと希望という神の恵みを受けています。その神の恵みを受けている者として、使徒たちのように福音を宣べ伝え続ける者とさせられたいものです。ですが、同時にピリピ1:29に「     」と書かれていますように、キリストのために苦しむこともあるのです。その苦しみは「御名のために辱められる」ことでもあるのを覚えつつ、与えられています使命を果たし続けられるように祈っていきましょう。


使徒の働き5:29~32「悔い改めと罪の赦し」 22:04.24.

序)
 早いもので、4月の主日礼拝も最後の日となりました。来主日は、初夏の時季でもある5月に入ります。先週は、イエス・キリストが死から甦られたイースターでした。そのイエス・キリストの甦りを思い巡らしていますと、今朝の箇所に注目させられました。今朝は「悔い改めと罪の赦し」について共に教えられたいと願っています。

1)悔い改めの重要性
 私たちは悔い改めがどれほど重要であるかを知る必要があります。イエス・キリストは悪魔の試みを受けられた後、ガリラヤ地方に行かれて「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われたことがマタイ4:17に書かれています。また、マルコ1:15では「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と話されたことが書かれています。また、その後イエス・キリストは、12使徒を2人1組にして遣わされました。そして、彼らは「悔い改めるように宣べ伝え」とマルコ6:12に書かれています。さらにルカ24:46~48には、甦られたイエス・キリストが「キリストは苦しみを受け…これらのことの証人となります」と宣言しています。47節に「その名によって」と書かれています。「その名」とは「誰の名によってなのか」と言いますと、イエス・キリストの名によってです。イエス・キリストの名による罪の赦しを得させる悔い改めは、「エルサレムから開始して」と47節に書かれています。悔い改めと罪の赦しは、エルサレムに留まるのではなくエルサレムから始まるのです。そして、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と話されていますように、世界各地に広まっていくことが約束されています。
 使徒の働き2:38には、その約束を経験したペテロがペンテコステの日に、「それぞれ罪を赦して…聖霊を受けます」と語ったことが書かれています。使徒の働きは福音の広がりが描かれていますが、その福音が広がるには一人ひとりの自分の罪の悔い改めが必要であることを語ってもいるのです。この使徒の働きの後半部分は、パウロの伝道旅行に焦点が絞られて書かれています。パウロは熱心なユダヤ教徒でキリスト教を迫害していました。そのパウロは個人的に甦られたイエス・キリストと出会い、自分の罪を悔い改めて神から召しを受けて異邦人への宣教を始めました。
 そのパウロは使徒の働き26:20で「     」と、「悔い改め」ということばを2回も用いています。では、それほど重要な「悔い改め」とはどのようなものでしょうか。悔い改めを知るためヨハネの黙示録2:5が一つの手掛かりを与えてくれます。ここに「どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」と書かれています。まず大切なのは「どこから落ちたのか」という本来居るべき場所を思い起こすことです。それは神のかたちとして造られ、神に愛されている者として存在している所です。その所から落ちて、現在の自分がいる所とを思い比べ、今のままではいけないことに気づき、本来居るべき所に戻ることを決断する。これが聖書の求めている悔い改めです。
 有名な箇所の一つであるルカ15章に描かれています放蕩息子の譬え話は、「悔い改めとは何か」というのをよく示しています。弟息子は父親に愛されていることに全く気づかず、財産を分けてもらうことを要求し、遠い国に旅立って分けてもらった財産を湯水のように使い果たしてしまいました。その時、その地方に大飢饉が起こり彼は食べるものにも困り果て、豚の食べ物で腹を満たしたいほどでした。そのような中で、この弟息子は「我に返って」と17節に書かれています。この「我に返る」ことこそが、聖書の語る悔い改めです。自分が父の息子であり、父と共に生きることこそが、彼にとって本来のあるべき姿です。悔い改めとは、本来のあるべき姿と現在の自分の姿の違いを正直に認めて、神の愛に正しく答えて生きる本来の人間の姿に立ち返ることです。
 では、人はどのようにして立ち返れば良いのでしょうか。人が初めて神に罪を犯したとき、神は人に「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられました。その神の呼びかけに答えることによって道は開かれるのです。「どのようにして立ち返れば良いのか」と言いますと、神の呼びかけに答えることによってです。
 私たちは、「何か奇蹟や不思議な出来事が起これば、悔い改めることが可能になる」と錯覚してしまいがちです。例えば、「その人の身に何か不思議なことが起きたら悔い改めるのではないか」と。ですが、聖書を通しての神のことばに答えないなら、どのようなことも悔い改めへと導かれないのです。先程はルカ15章の放蕩息子の箇所を見ましたが、16:19からは金持ちとラザロの譬え話が書かれています。金持ちは贅沢な生活を過ごしていましたが、ラザロは貧しい生活を過ごしていました。ある日、そのどちらも亡くなりました。そして、ラザロはアブラハムの懐に連れて行かれましたが、金持ちは黄泉で苦しんでいました。27節を見ますと、この金持ちはアブラハムに「父よ。それでは…警告してください」と頼みます。それに対してアブラハムは「彼らには…聞くが良い」と29節で答えています。すると金持ちは「いいえ、父アブラハムよ…悔い改めるでしょう」と答えました。しかし、アブラハムは31節で「モーセと預言者…聞き入れはしない」と返事をして、この譬え話は終わっています。
 その後、この金持ちの兄弟たちはどうなったのでしょうか。そのことは書かれてはいません。皆さんはどうなったと想像されるでしょうか。譬え話が途中で終わるというのは、ルカの福音書の特徴の一つです。例えば、13:6~9のいちじくの木は、その後実を結んだのかどうか書かれていません。また、先程見ました放蕩息子もそうです。15:32で終わっていますが、兄息子は父のことばに対してどのように反応したかは書かれていません。皆さんは、各々の譬え話のその後はどうなったと想像されるでしょうか。実は、この後どうなったかは皆さん一人ひとりの生き方によって描かれていくのです。聖書を通しての神のことばに対して自分の過ちを認め、そのことを悔い改めて神のことばに正しく答えていくことが聖書の語る悔い改めなのです。みことば無くしての奇蹟や不思議な出来事による悔い改めなどは、聖書の語る悔い改めではないのです。聖書の語る悔い改めは、神のことばに正しく答えていくというものなのです。
 その悔い改めは誰もがする必要がありますし、誰もができるものでもあります。ユダヤ人は「自分たちは神の律法を守っており義なる者」と自認していましたが、そのユダヤ人にも使徒たちは悔い改めを求めているのです。何故なら、ガラテヤ2:16に「人は律法を行うことによって…義と認められるためです」と書かれているからです。「私は悔い改める必要などない」というのは間違いですし、「私は悔い改める価値などない」というのも間違いです。誰でも悔い改めは必要であり、悔い改めることは可能なのです。これが聖書の語っている福音なのです。

2)罪の赦し
 使徒たちは、ユダヤ人に対して悔い改めを求めると同時に、罪の赦しの約束をも語っています。イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって十字架に架かって死んでくださり、死と罪に打ち勝って甦ってくださいました。先週の礼拝は、そのイエス・キリストが死から甦られたイースター礼拝でした。そのイエス・キリストの甦られたことによって、Ⅰコリント15:54に書かれていますように「死は勝利に吞み込まれた」のです。イエス・キリストの死と復活は罪の赦しの根拠なのです。決して、人の努力や行いなどでは得られるものではないのです。
 人の努力や行いによっては決して得られない罪の赦しは、ただイエス・キリストの十字架による死と復活を信じることによってのみ与えられるのです。これが罪の赦しの喜ばしい福音です。では、信じるだけで罪の赦しが与えられるのは、あまりにも安易な方法でしょうか。決してそうではありません。罪の赦しは決して安易なものではありません。へブル9:22に「     」と書かれています。ところが、今まで用いていました新改訳聖書第3版までは「律法によればすべてのものは血によってきよめられます」と訳されていました。新改訳2017には「ほとんどすべて」ということばに変えられています。この「ほとんどすべて」ということばは、「ほぼ」とか「大体」という意味です。ですから、本当の意味での「全て」ではないのです。今までの新改訳聖書も「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう」と、ことばを濁して訳されています。
 レビ記16章には贖罪の日について書かれています。15節に「     」と書かれています。この「宥めの蓋」は、以前は「贖いのふた」と訳されていました。大祭司は自分の罪のためには雄牛を代わりにほふり、民の罪のためには雄やぎが代わりにほふられました。それによって大祭司と民の罪は贖われるのです。何が贖われるのでしょうか。それは神の審きが贖われるのです。34節を見ますと、その贖いの儀式は年に一度行うことが定められています。ですから、完全なる神の審きの贖いではありませんでした。ところが、へブル9:25~26には「     」と書かれています。イエス・キリストの贖いは一度だけのものです。それは完全に神の審きの贖いがなされたことを意味しています。しかし、イエス・キリストの十字架による死だけでは不十分なのです。何故なら、死の問題は解決されていないからです。確かに、イエス・キリストの十字架の死によって神の審きから救われ、罪の赦しを受けることはできました。しかし、まだ死の問題は解決されていないのです。ローマ6:23に「罪の報酬は死です」と書かれていますように、死がこの世に入ったのは人が神に対して罪を犯したからです。そのため、死に対する恐れや不安は解決されていないのです。この死の問題が解決されて、初めて死への恐れや不安から解き放たれるのです。そのためにイエス・キリストは死から甦られたのです。
 イエス・キリストの十字架による死は、神の審きの身代わりとしての完全なる贖いです。そして、イエス・キリストの復活は、完全なる死に対する勝利なのです。このイエス・キリストの十字架による死と復活の両方をもって福音なのです。

結)
 今朝は、悔い改めと罪の赦しについて見ました。私たちは神の恵みである罪の赦しを受け、死に対する勝利をも約束されています。この福音を一人でも多くの人に伝えていきたく願わされます。今年度より新たな伝道として、住んでいる地域にクリスチャン新聞福音版を定期的に配ることとしました。それが豊かに用いられ、教会に導かれる方が起こされることを願っています。そして、そのような方々が自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架による死と復活を信じ、罪の赦しと死への恐れからの解放が得られるように祈っていきましょう。


マタイ28:1~10「イエスは甦られた」 22.04.17.

序)
 イースターおめでとうございます。今では、日本でもイースター行事が一般的に行われつつあります。イースターはイエス・キリストが死から甦られた日です。キリスト教はこの日を「主の日」として、神に礼拝を献げる日としました。ですから、主日礼拝とは、イエス・キリストの死と復活を覚えて神を礼拝することです。また、それだけではなく本当の主の日、すなわちイエス・キリストが再びこの世に来られることを待ち望みつつ礼拝するのが主日礼拝です。今朝は、特にイエス・キリストの復活を覚えつつ、その意味は何かを御使いが女性たちに話したことばから、共に教えられたいと願っています。

1)ここにはいない
 まず御使いは、女性たちに「ここにはおられません」と話しました。「ここ」とは何処でしょうか。それはイエス・キリストが葬られたお墓です。墓とは死んだ人が葬られる所です。これは一般社会の常識です。現代では、「散骨」というものが行われたりもしますが、殆どは墓に納められます。教会の葬儀でも死んだ人を墓に葬ります。死んだ人を墓に葬るのは現代でも一般的常識となっています。この女性たちも、イエス・キリストを信じつつ、この一般社会の常識の中で生活していました。ですから、「イエス・キリストは死なれ墓に葬られたのだから御遺体は墓の中にある」と思っていたのです。そのように捉えるのはごく普通でしょう。ですが、御使いは「ここにはおられません」と話し、その後に「前から言っておられたとおり」と語っています。この御使いのことばから、この女性たちもイエス・キリストが甦られることを聞いていたことが分かります。この女性たちはイエス・キリストの話しを聞いていながら、イエス・キリストの話しをすっかり忘れてしまっていたのです。何故でしょうか。イエス・キリストの十字架という衝撃的な出来事を体験したからでしょう。心の動揺が大きく、気が動転してしまい、イエス・キリストの話しをすっかり忘れてしまったのでしょう。或いは、自分の常識という枠の中でイエス・キリストの話しを聞いていたのかもしれません。ただ、彼女たちはイエス・キリストが死なれた後、自分の思いや考えで行動していたのです。
 私たちは、そのような彼女たちのことをどのように思うでしょうか。「なんだ、だらしのない」とか「本当に彼女らはイエス・キリストを信じていたのか」と思うでしょうか。この箇所には、人の本当の姿が描かれています。それは、人は神を信じる信仰が与えられたとしても、大きな出来事を体験し心の動揺を覚えたとき、神のみことばを忘れてしまうということです。または、自分の常識の枠の中で聞いてしまうということです。私たちも突然何かが生じたときは「どうしよう」と思い、神のみことばを忘れてしまい自分の思いや考えで行動してしまうのではないでしょうか。それが私たちの現実の姿ではないでしょうか。ですが、神はそのような私たちに「ここにはいない」とみことばをもって示してくださいます。「ここにはいない」とは、そのような人間の常識の中で行動しても本当の解決はないということです。「前から言っておられたとおり」と、本当の解決は神のみことばにあることを、神は私たちに示しておられるのです。私たちは自分の常識という枠の中で解決を見い出そうとしてしまいやすいのですが、本当の解決は自分の常識の中にあるのではなく、神のみことばによる約束の中にあります。「ここにはおられません」というみことばは、私たちにそのことを示してくださいます。

2)甦られた
 次に、御使いは「よみがえられたのです」と話しました。「甦られた」とは、今も生きていることを意味しています。では、イエス・キリストが今も生きておられるとは何を意味するのでしょうか。2つあります。1つは、イエス・キリストの約束が今も生きているということです。イエス・キリストは、マタイ11:28で「     」と約束してくださいました。イエス・キリストは、あなたの重荷を負ってくださる方です。人の一番の重荷は何でしょうか。それは人間関係ではないでしょうか。人は誰もが人間関係で悩んでしまいます。私たちは「人間関係」と聞きますと、「他人との関係」をまず思い浮かべるのではないでしょうか。確かに、他人との関係も人間関係の一つですが、自分との関係も人間関係の一つです。人によっては、その人間関係があまりにも重過ぎるがために、人生に疲れてしまわれる方がおられます。イエス・キリストは、その重荷を負ってくださるのです。イエス・キリストが重荷を負ってくださるということは、自分の重荷がなくなったということではありません。30節で「     」と話されています。「わたしの荷は軽い」ということは、自分もイエス・キリストの重荷を負うということです。しかし、今までの重荷よりは軽いのです。イエス・キリストを信じることによって、あなたが負われている重荷は軽くされるのです。
 またイエス・キリストは、ヨハネ14:27で「     」と約束してくださいました。イエス・キリストはあなたに平安を与えてくださる方です。イエス・キリストが与えてくださる平安とは、この世が与える平安とは違います。平安とは、心が安らぐことです。心の安らぎというのは、自分という存在が認められ受け入れられることによって得られます。この世は、どのようにして人を認め受け入れるでしょうか。それは、その人の行いという結果によってではないでしょうか。良い結果を出した人を認め受け入れますが、良い結果を出せない人は認め受け入れられません。そうではないでしょうか。仕事で失敗ばかりしている人を受け入れないのではないでしょうか。先日、バイト先でレジのバイトが期限切れの商品券を受け取って処理をしてしまいました。私はレジの精算をしてチェックしているときに期限切れの商品券を見つけ、後で注意をして他のバイトにも注意するように伝えました。その失敗が何度も続きますと、契約更新はされなくなってしまいます。私たちは、そのような社会の中に生かされています。
 ですから、そのような社会が与える平安を求めようとします。そのために、行いや結果を求めて生きるようになります。そのような人生はどうでしょうか。そこには本当の安らぎというものはありません。ただ疲れてしまうだけです。イエス・キリストが与えられる平安とは、この世が与える平安とは違います。その人の行いや結果によってではありません。ありのまま受け入れ認めてくださいます。今のあなたを認め受け入れてくださるお方なのです。失敗ばかりしてしまう私たちを愛し、認め受け入れてくださいます。「こんな私でも愛され受け入れられている」ということを知るとき、人は心の中に本当の安らぎを覚えることができます。今のあなたがありのまま愛され受け入れられているという約束は、今も生きているのです。
 もう1つは、人は死んで終わりではないということです。人が死に甦るというのは、社会の常識では考えられないことです。社会の常識は、人は死んで終わりというものです。ところが、福音のメッセージは「人は死んでも終わりではない」というものです。甦られるということです。何度も話していますが、死が意味するものは絶望でありお終いというものです。ですが、イエス・キリストの復活によって、絶望が絶望でなくなるのです。「もうお終いだ」「お手上げだ」と思っていたことが、お終いではなくお手上げではなくなるのです。死が意味するものが絶望であるならば、生きることは何を意味しているのでしょうか。それは希望です。人は希望があるから生きることができるのです。生きることの希望をなくしたら、その人の人生はとても惨めなものになってしまいます。イエス・キリストが甦られたことによって、あなたの人生には希望があることを明らかにしてくださったのです。たとい、あなたが「もうダメだ」と思ったとしても、神はそのところから道を開いてくださいます。ですから、あなたの人生に「お終い」という文字がなくなるのです。たとい死んだとしても、死んでお終いではないのです。イエス・キリストが再び来られるとき「甦り」という希望が与えられているのです。イエス・キリストが死から甦られたことによって、私たちの人生にはお終いがなくなったのです。あるのは希望だけです。イエス・キリストの甦りは、そのことを示しているのです。

3)わたしに会える
 最後に、御使いは7節で「     」と話しました。何故イエス・キリストは、ガリラヤで弟子たちとお会いされるのでしょうか。ヨハネ21章の箇所でも話しましたが、ガリラヤ地方はイエス・キリストが福音宣教を始められた場所であり、弟子たちを召し出された場所でもあります。ですから、ガリラヤ地方は弟子たちにとって出発点でもあったわけです。その弟子たちは、イエス・キリストが捕えられたときイエス・キリストを見捨てて逃げてしまいました。そして、ユダヤ人を恐れて家の中に閉じ籠っていたのです。弟子たちの心はどのようなものだったでしょうか。失敗をして傷ついています。もう自信喪失状態だったのではないでしょうか。このままでは、イエス・キリストの弟子という自覚と使命を失ってしまう状態だったのです。イエス・キリストは、そのような弟子たちとガリラヤにて再会されるのです。
 ガリラヤでの再会が意味するものは、ヨハネ21:1~14の箇所でも見ましたが原点に立ち返るというものです。イエス・キリストは、弟子たちの心の傷と痛みの全てを御存知です。彼らの心の傷と痛みを癒されるためにガリラヤで再会されるのです。ガリラヤは弟子たちの出発点であり原点だったのです。そのところで、弟子たちはイエス・キリストと再会し、イエス・キリストのみことばによって慰められ励まされて、イエス・キリストの弟子という自覚と使命を回復させていただいたのです。弟子たちは、イエス・キリストの十字架という出来事によってつまずき倒れそうになりました。しかし、それで終わったわけではありませんでした。弟子たちはイエス・キリストによって立ち上がることができたのです。そして、与えられた使命と務めを果たすことができたのです。
 出発点や原点があるというのは、とても心強いものです。何故なら、もう一度戻ることができるからです。私たちも失敗して心の傷や痛みを覚えることがあります。神を信じる者であっても自分の存在意義を見失うことがあります。人生への失望を覚えることがあります。ですが、それでお終いではないのです。神を信じる者には、信仰の出発点・原点があるのです。「あのときにイエス・キリストの十字架と復活を信じた」という所があるのです。このことは、とても心強いものではないでしょうか。迷ったとき原点に戻れるのです。私たちは道に迷うことがありますが、迷ったとき一番良い方法は戻ることです。戻ってもう一度確認することです。人生においても戻るべき所があるのとないのとでは大きな違いが生じます。迷ったとき信仰の出発点・原点に戻って、「神はこのような私を愛してくださり、イエス・キリストを十字架へと導いてくださり、死から甦らせてくださった。イエス・キリストの約束は今も生きており、私を通して神のすばらしさを現してくださる」という、神の愛と約束を再確認することができるのです。ガリラヤでイエス・キリストに会えるとは、信仰の出発点・原点に戻るということです。私たちは、いつも信仰の出発点・原点に戻ることができるのです。

結)
 私たちの人生は、いつも自分にとって良いものとは限りません。「もうダメだ」と思うことが多々あります。ですが、それで終わりではありません。イエス・キリストは甦られたのです。そして、今も生きておられるのです。また、みことばをもって励ましてくださり望みを与えてくださいます。そして、キリスト者として生きる力を与えてくださいます。私たちが信じている神はそのようなお方なのです。イエス・キリストは死から甦られたのです。イースターのこの日に、その神の愛と導きを深く覚えつつ歩まされていきましょう。

マルコ11:1~11「神はあなたを用いられる」 22.04.10.

序)
 今日は、イエス・キリストがエルサレムの町に入られた棕櫚の主日です。今週の金曜日は、イエス・キリストが十字架に架かって死なれた受難日です。そして、来主日はイエス・キリストが死から甦られたイースターです。今朝は、この箇所に登場する人たちを通して、私たちを用いてくださる神を共に教えられたいと願っています。

1)ロバの子の持ち主
 最初に見たいのはロバの子の持ち主です。そのように聞かれますと、ある方は「えっ、ロバの子ではないの?」と思われるかもしれません。子ども讃美歌に「私たちはロバの子です」という歌があります。少し聞いていただきたいと思います「     」。教会学校では、「こんな小さなロバの子もイエス様は用いてくださるのだから、皆さん一人ひとりもイエス様に用いられるんだよ」というメッセージをされたりもします。ですが、今朝は敢えてロバの子の持ち主に目を留めてみたいのです。今朝の箇所を読んでみますと、このロバの子の持ち主の名前は書かれていません。「書かれていない」というよりも登場しないのです。書かれているのは、「そこに立っていた何人か」の人たちです。その中にロバの子の持ち主も居たかもしれませんし、居なかったかもしれません。ただ、1節に「まだだれも…つながれている」とイエス・キリストは話されています。「つながれている」ということは持ち主がいるということでもあります。ですから、ロバの子が用いられたということは、そのロバの子の持ち主を用いられたことでもあるのではないでしょうか。今朝は、そこに目を留めたいのです。
 ロバの子の持ち主は、その場に居たのかどうかも分かりません。しかし、イエス・キリストに用いられたのは確かなことでもあります。私たちもそうではないでしょうか。その場に居合わせたかどうか誰にも気づかれないという経験をすることがあります。「その場に居るのに誰にも気づかれない」というのは寂しい限りです。でも、そのような存在であれ神は用いてくださるお方です。誰の目にも留まらないちっぽけな自分。居ても居なくても変わらないような存在の自分。そのような自分を見つめ続けてしまいますと、自分の存在意義が分からなくなってしまいます。そして「どうせ私なんか」という思いが生じたりもします。「どうせ私なんか」という人生は、とても辛い人生ではないでしょうか。「辛い」という漢字は「辛」と書きます。ここに1本足しますと「幸」となります。辛いと幸いは一つ足すか足さないかです。ちょっとした違いで大きな違いになってしまうのです。
 何度も話していますが、創世記に登場しますアブラハムの妻サラの女奴隷でありましたハガルがそうでした。息子イシュマエルと一緒にアブラハムの家を追い出され、食べ物も飲み物も尽きたとき死を覚悟しました。そのときハガルは神の声を聞いたのです。神はハガルの目を開かれました。そして、井戸を見つけることができたのです。その井戸はハガルの目が開かれたからできたのではなく、ハガルの目が開かれる前から存在していたのです。ただ、絶望のあまりにハガルは井戸に気づくことができなかっただけのことです。「気づく」というのはちょっとしたことです。でも、そのちょっとしたことが大きな違いを生じさせるのです。私たちもこのロバの子の持ち主のような存在かもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、「神はそのような私に目を留めてくださっている」ということを今朝の箇所を通して気づかされるのではないでしょうか。いや、「目を留めてくださっている」だけでなく、そのような私たちを用いてくださることに気づかされるのではないでしょうか。

2)群衆
 次に見たいのは群衆です。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムの町に入って来られたとき、群衆たちは何をしたでしょうか。8節に「     」と書かれています。彼らは自分たちの上着や木の葉を枝ごと道に敷いたのです。この行為はⅡ列王記9:13に「     」と書かれているのと同じです。エフ―という人は、当時のイスラエルの王であるヨラムを殺して自分が王になります。その王になる前の出来事ですが、エフ―は預言者から「あなたがイスラエルの王になる」と告げられました。そのことを部下に告げますと、彼らは自分たちの上着を脱いでエフ―の足元に敷き、「エフ―は王である」と叫んだのです。その後、エフ―は謀反を起こしてイスラエルの王になりました。エフ―の部下たちが上着を脱いでエフ―の足元に敷いたのは、エフ―がイスラエルの王になることを望んだからです。
 イエス・キリストがエルサレムの町に入られたときの人々の心境も同じだったのです。当時イスラエルはローマ帝国に支配されていました。そのローマ帝国の支配から解放してくれる指導者を望んでいました。そして、その指導者を王にしようとしていたのです。ですから、イエス・キリストがエルサレムの町に入られたとき、自分たちの上着を道に敷き9~10節に書かれていますように、叫びながらイエス・キリストを迎えたのです。ですが、その後はどうだったでしょうか。一週間も経たないうちに、その同じ口からイエス・キリストを「十字架につけろ」と叫んでいたのです。この群衆の行為とことばは、その時の気分や世の中の流れに流されているようにも見えます。
 簡単に心変わりをしてしまう群衆です。そのような人々は、神に用いられることはないのでしょうか。使徒の働き2章には、ペンテコステの日にイエス・キリストを信じる人々が聖霊に満たされたことが書かれています。このときペテロは、エルサレムの町で大胆に福音を語りました。すると、どのような反応が生じたでしょうか。使徒の働き2:37に「     」と書かれています。その反応に対して、ペテロは38~39節で「それで罪を赦して…与えられているのです」と答えました。すると、そのペテロのことばを受け入れた人々が起こされたのです。この日はペンテコステの日ですから、外国に住んでいたユダヤ人もエルサレムの町に来ていました。ですから、ペテロのことばを受け入れた人の中には外国に住んでいたユダヤ人もいたことでしょうが、エルサレムの町に住んでいたユダヤ人もいたと考えられます。その中には、イエス・キリストがエルサレムの町に入られたとき喜んで迎え入れましたが、その後で「十字架につけろ」と叫んだ人もいたのではないでしょうか。そのような人も、このペンテコステの日に自分の罪を悔い改めて罪の赦しをいただいたのではないでしょうか。
 そのことを思い巡らしますと、簡単に心変わりをしてしまう人であれ、神は決して見捨てることをされない方であることを改めて知らされるのではないでしょうか。世の中の流れに簡単に流されてしまう者であれ、神はその人の心の中に働かれ、新たな決心へと導き用いてくださるお方です。何故なら、神には不可能なことが何一つないお方だからです。私たちも世の流れに流されてしまいやすい者です。そのため、神が第2・第3になってしまうことがあります。しかし、神はそのような私たちを決して見捨てることをされず、私たちの心に続けて働いてくださり、新たな決心へと導いて用いてくださるお方です。ここに、深い神の憐れみを見ることができるのではないでしょうか。

3)弟子たち
 最後に見たいのは弟子たちです。今朝の箇所には弟子たちは直接登場してはいません。でも、この中に弟子たちはイエス・キリストと一緒にいました。そのことは、11節の最後の「十二人と一緒にベタニアに行かれた」ということばからも分かります。その11節の中程に「すべてを見て回った」と書かれています。ですから、弟子たちも全てを見て回ったと考えられます。ただ大切なのは、「何に目を向けていたのか」ということです。弟子たちは何に目を向けていたのでしょうか。そのことは分かりません。ですが、13:1~2は手がかりの一つではないでしょうか。このとき弟子たちが目を向けていたのは、ヘロデ王が建てた立派な神殿だったのです。弟子たちの多くはガリラヤ地方出身者です。ガリラヤ地方はエルサレムから100㎞ほど北に位置します。当時は車や自転車などのない時代ですから、ガリラヤ地方からエルサレムに行くことはあまりなかったことでしょう。ガリラヤ地方にはない立派な神殿に心が奪われてしまったのではないでしょうか。
 それと似たようなことは私も経験があります。私が卒業しました神学校は当時東京にありました。東京といっても国立市でした。ここらとあまり変わらない住宅街です。奉仕教会も都心ではありませんでしたので、都心に行くのは月に数回程度でした。ですから、高いビルを見ることはあまりありませんでした。ある日、東京駅で新幹線を待っていたときのことです。すると新幹線がホームに入ってきたのですが、すぐにドアは開きませんでした。私は先頭で少し時間がありましたから、高いビルを眺めながら「高いな!」と思っていたのです。すると、いつの間にか新幹線のドアが開き、後ろの方から「ドアが開きましたよ」と声をかけられたのです。とても恥ずかしい思いをしたのを覚えています。多分、弟子たちもそのような思いで神殿を見ていたのではないかと思えます。
 弟子たちが目を向けてしまうのは見えるものです。見えるものに心が動かされ、見えるものに左右されてしまう弟子たち。しかし、イエス・キリストはそのような弟子たちを用いられたのです。復活されたイエス・キリストと出会うまでは家の中に閉じ籠っていましたが、復活されたイエス・キリストと出会った後は外に出るようになったのです。その後も何度も弟子たちの前に現れ、ペンテコステの日に聖霊が彼らに臨まれたのです。その後は、弟子たちは大胆に福音宣教をするようになったのです。「あのような」と思える弟子たちが、神に豊かに用いられる器とされたのです。ここに私たちの想像を越えた神のお取り扱いを見ることができるのではないでしょうか。

結)
 神にとって有名・無名は関係ありませんし、強い弱いというものも関係ありません。何故なら、神には不可能なことが何一つないからです。神のみわざは無限です。1+無限=無限です。1万+無限=無限です。また、過去がどうであったかも関係ありません。何故なら、神は全てのことがともに働いて益としてくださる方だからです。それは、過去のことも用いて益にしてくださる方でもあるということです。その神が私たち一人ひとりを用いてくださるのです。私たちにとって大切なことの一つは、3節にありますように「主がお入り用なのです」ということばに、私たちがどのように応答するかではないでしょうか。このことばは私たちにも問いかけておられることばではないでしょうか。神は私たち一人ひとりを必要とされ、用いようとされていることを覚えつつ仕えていきたく願わされます。

使

徒の働き5:12~32「イエスの証人」 22.04.03.

序)
 2022年度が一昨日から始まりました。今年度はコロナ禍で集会が持ちにくい中で、今の私たちにできる伝道方法の一つとして、住んでいる地域に福音版を定期的に配布していくことを決めました。それは住んでいる所は「偶々そこに住むようになった」と思えるものかもしれませんが、「それも主の導きによるものである」と受け止め、神に遣わされた地域であることを信じ、イエス・キリストの証人として福音を伝えていこうというものです。今朝の箇所は長い箇所ですが、最後の32節に焦点を絞って、使徒たちはどのようにしてイエスの証人として歩んだのかを見つつ、私たちもどのように歩めば良いのかを共に教えられたいと願っています。

1)私たちはこれらのことの証人
 使徒たちは32節で、「私たちはこれらのことの証人です」と告白しています。この「証人」ということばは法律用語で、自分が経験した事柄を法廷の場で偽りなく証言する人のことです。例えば、使徒の働き6:13では、ステパノの裁判に立てられた証人について書かれています。彼らは自分たちが経験していなかったことを証言しています。つまり「偽りの証人」なのです。証人は自分が見たり聞いたりしたことを正しく話す責任が与えられています。使徒たちは、自分たちが何者であるか、そして何をすべきかを自覚しています。それは、自分たちが見たり聞いたりしたことを正しく話すという自覚です。
 では、彼らが見たり聞いたりしたことは何でしょうか。使徒たちは、32節で「私たちはこれらのことの証人です」と語っています。「これらのこと」とは、30節に書かれていますイエス・キリストの十字架による死と復活です。それだけではなく、続けて31節で語っています神の恵みである「悔い改めと罪の赦し」をも宣べ伝えています。これらが彼らに与えられた証人としての務めです。イエス・キリストの十字架と復活の事実だけでなく、神のみわざに基づく「悔い改めと罪の赦し」が、彼らが見たり聞いたりしたことなのです。すなわち、彼らが経験したことなのです。
 ともすると、私たちは「福音宣教を難しいもの」と思えてしまいます。しかし、福音宣教は決して難しいものではありません。何故なら、自分が経験したことを話せば良いものだからです。経験したことがないものまで話す必要はないのです。いや、経験したことがないものを話すなら、それは証人ではありません。それは「偽りの証人」であり話してはいけないのです。「福音宣教を難しいもの」と捉えてしまう要因は、「知らないことを質問されたらどうしよう」というものがあるからかもしれません。何故なら、きちんと答えられなかったら恥ずかしいからです。或いは、「自分がクリスチャンであるのを知られるのが恥ずかしい」という思いがあるのかもしれません。でも、それは「難しい」のではなく、「恥ずかしい」のです。
 質問されて知らなければ知らないで良いのです。後で調べて返事をすれば良いのです。今はネットでいろいろと調べることができます。調べた後で、牧師に「〇〇を質問されて、調べて△△と答えようと思いますが良いでしょうか」と尋ねれば良いのです。何故牧師に尋ねるのかと言いますと、ネットの中にも間違ったことが掲載されているものもありますから、最後は牧師に確認した方が一番良いでしょう。証人は自分が経験したことを証言する人です。使徒たちは「私たちはこれらのことの証人です」と自覚していますように、私たち一人ひとりも「私はこれらのことの証人です」という自覚を持ちつつ歩まされていきたいと願わされます。

2)務めの自覚
 使徒たちは、何故このような告白をするようになったのでしょうか。それは、27~28節に書かれていますように、最高法院に立たされ、大祭司による尋問によってのものです。大祭司は、使徒たちが議会で禁じたものを破ったと告発しています。それは何かと言いますと、4:18に書かれています「イエスの名によって語ることも教えることも一切してはならない」ということです。そして、大祭司は28節の後半で「あの人の血の責任を我々に負わせようとしている」と名誉棄損のような訴えをしています。使徒たちは、この訴えが何を意味しているか、また、告発者たちがどれ程の力を持っているかを知っています。それにも拘わらず、彼らは「人に従うより、神に従うべきです」と29節で告白したのです。そして、30~31節に書かれていますように「     」と証言したのです。
 それは、「イエス・キリストの十字架による死と復活、そしてそれに基づく悔い改めと罪の赦しの宣言こそが神に従うことである」と確信しているのです。その告白の結果はどうなったでしょうか。33節に「     」と書かれています。使徒たちは、そのようなことが生じることを予想しつつも、イエス・キリストの証人としての務めを何よりも大切にし実践していたのです。「何故、そのようなことが予想できたのか」と言いますと、17~18節に「     」と書かれていることを経験していたからです。17節の終わりに「ねたみに燃えて」と書かれています。この妬みの原因は、12~16節に書かれていますエルサレム教会の様子や、ペテロによる癒しの働きによる結果です。13節に「あえて彼らの仲間に…尊敬していた」と書かれています。一歩踏み出す勇気が出せませんでしたが、それでも彼らを尊敬し彼らの許に大勢の人が集まっているのです。この光景を頭に浮かべますと、現代も似たようなことが教会で生じているのではないでしょうか。なかなか一歩踏み出す決断ができませんが、それでも教会に集い続けられる方々がおられます。そのような人たちを決断へと導くのは私たちではなく神ご自身です。神がその人たちの心の内に続けて働いてくださり、決心できるように祈り続けると共に、今の自分たちにできることを忠実に果たし続けていくことの大切さに気づかされるのではないでしょうか。
 大祭司やサドカイ派の人たちの妬みによって、使徒たちは留置場に入れられてしまいました。すると、19節に「     」と書かれています。「ところが」ということばに注目させられます。今後どうなるのか分からない状態の中に置かれた使徒たち。「分からない」というのは不安が生じます。ですが、聖書は「ところが」と、そこに神の想像を越えた働きをなされたことを告げています。そして、20節に「行って宮の中に立ち…すべて語りなさい」と、主の使いは使徒たちに告げています。そのいのちのことばとは、30~31節で彼らが語ったことです。この宮での宣教は、再び逮捕されるものとなりました。そのようなことは、十分承知の上で彼らはいのちのことばを語り続けたのです。何故なら、それがイエス・キリストの証人としての務めだからです。
 このときは留置場の戸が開けられ、外に連れ出されるというものでした。私たちはこのような経験をすることはないかもしれません。でも、神は私たちの想像を越えた備えをしてくださっていることを覚えたいものです。そして、私たちに託されている務めを果たし続けていきたいものです。最初にも話しましたが今年度は、住んでいる地域に福音版を配り続けることを決めました。その地域に配り続けることによって、どのようなことが生じるのかは私たちには分かりません。求める方が起こされるかもしれませんし、同時に想像していなかった問題が生じるかもしれません。それでも、イエス・キリストの十字架による死と復活と、悔い改めと罪の赦しの宣教を続ける証人として歩み続けられるように祈っていきたいものです。

3)聖霊もそのことの証人
 使徒たちは、「私たちはこれらのことの証人です」と証言しましたが、それだけでなく「聖霊も証人です」と証言しています。それは、「神の助けがなければ自分たちの証言は不十分である」ということの自覚でもあります。この自覚は、私たちの歩みにおいてとても大切なことではないでしょうか。それは証言だけではなく、「私たちがします全てのことにおいては、神の助けがなければ不十分である」という自覚です。ともすると、私たちは「私が一生懸命しなければ」と思ってしまいやすくなります。確かに、一生懸命するのは大切なことです。ですが、その「一生懸命」よりも「私が」という思いの方が強くなってしまいがちになります。「私が」という思いが強くなってしまいますと、疲れを覚えてしまうだけでなく、やがて不平不満が生じるようになってしまいます。「私が」という思いが取り除けられるように祈っていきたいものです。
 聖書には、真理の証明のためには少なくても2人以上の証人が求められています。例えば、申命記19:15に「     」と書かれています。彼らはこの原則に立って、「聖霊も証人です」と証言しているのです。「聖霊も証人です」ということは、「私たちも証人である」ということです。すなわち、これは神が私たちを協力者として認めてくださり求めておられるということです。また、ヨハネ15:26~27には、「     」と書かれています。27節の最初に「あなたがたも証しします」と話されていますから、「私が」という思いが強まってしまうのかもしれません。ですから、「私が」という思いが強まってしまうのは仕方のないことかもしれませんが、先程も話しましたように取り除けられるように祈っていきたいものです。
 イエス・キリストは、聖霊についてヨハネ16:14~15で「     」と話されました。では、どのようにして聖霊は私たちに伝えてくださるのでしょうか。イエス・キリストは、ヨハネ14:26で「     」と話されています。私たちがみことばを思い起こすことを通して、聖霊は私たちに伝えてくださるのです。「思い起こす」ということは、「忘れている」ということを前提として話されています。私たちは、みことばを聞いても忘れてしまうのです。この「わたしがあなたがたに話したすべてのことを」ということばは大切です。神は私たちを協力者として用いてくださるために、聖霊が私たちの内に働いてみことばを思い起こさせてくださるのです。具体的にどのようにしてでしょうか。準備をする中で、「そう言えば、聖書に〇〇のようなことばが書かれていたな!?」と思い出すことがあるのではないでしょうか。はっきりとみことばは思い出せませんが、似たみことばを思い出すということがありますね。そのようなとき語句辞典で調べますね。聖書語句辞典というのもありますから、聖書語句辞典から聖書箇所を見つけ出し、正しいみことばを見つけることができます。今は聖書アプリがありますから、そこから調べることができます。
 余談ですが聖書アプリは非常に便利です。私は「近い将来、教会に来られるとき重い聖書を持参されるのではなく、礼拝の中でスマホから聖書を取り出す時代になるのでは」と思っています。しかも値段からすればアプリは半値程です。それで多くの機能がついているのですからとても便利です。「そう言えば、聖書に〇〇のようなことばが書かれていたな!?」と思い出すのも、「聖霊の働きによるものではないか」とも思わされています。神は私たちを証人として用いられるために、聖霊を私たちの内に遣わしてくださいます。ルカ12:12に「     」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。この「言うべきこと」とは、「告白すべきこと」ということです。自分が信じていることを証言するために、聖霊はあらゆる方法を用いて私たちの内に働いてくださるのです。私たちは、その聖霊の支えに導かれているのです。

結)
 私たちはイエスの証人として立てられており、神に用いられる存在とされています。何よりもそのことを自覚しつつ、聖霊の助けによって与えられている務めを忠実に果たしていきたく願わされます。

ヨハネ21:20~25「信仰生活の基本」 22.03.27.

序)
 今日は今年度最後の主日礼拝となりました。今年度も主に礼拝を献げ続けることができたことに感謝したいものです。そして、今日でヨハネの福音書も最後となります。昨日の総会でも話しましたように、新年度からのメッセージは私にとって初めての挑戦でもあります。どこまで準備ができるか分かりませんので祈っていただきたいと願います。皆さんは信仰生活の基本は何だと思われているでしょうか。祈ることでしょうか。聖書を読むことでしょうか。または、毎主日教会に来て礼拝を献げることでしょうか。今朝は、その信仰生活の基本について共に教えられたいと願います。

1)自分の務めを忠実に果たすこと
 信仰生活の基本の第1は、自分に与えられています務めを忠実に果たすことです。イエス・キリストとペテロとの会話は、20節を見ますと「弟子がついて来るのを」を書かれていますから、歩きながら会話されていたことが分かります。その2人の後をヨハネがついて来たのです。後からついて来たヨハネを見たペテロは、「主よ、この人はどうなのですか」とイエス・キリストに尋ねました。何故、ペテロはこのようなことをイエス・キリストに尋ねたのでしょうか。いろいろなことを想像できますが、確かなことは分かりかねます。確かなことは、「他人のことを詮索した」ということです。それに対してイエス・キリストは、「わたしが来るときまで…何の関わりがありますか」と22節で答えられています。そして、イエス・キリストがペテロに求めておられることは、「あなたは、わたしに従いなさい」ということです。ここでは、「あなた」ということばが強調されています。すなわち、「他人のことよりも、あなたがわたしに対してどうであるかが重要である」と話されているのです。
 私たちは奉仕や賜物など、他人と比較してしまいやすくなります。ですが、イエス・キリストは「それが、あなたと何の関わりがあるのか」と言われているのです。それらは、「他人と比較するものではない」と話されているのです。神は他人と比較して報いられる方ではありません。与えられている務めに対して「どうであったのか」ということで報いられる方です。「与えられている務めに対して報いる」とは、何度も話していますが結果によって報いられるのではないということです。神は結果ではなく過程を重視される方です。ですから、「あなたはわたしに従いなさい」と話されているのです。そのようなことを知りつつも、私たちはついつい他人のことが気になる弱さを持っています。牧師と言えどもそうです。昔、開拓伝道者の経済的支援をする「KDK」と言われる団体から支援を受けており、その団体が主催する研修会に参加していました。その報告のときに「2~30人の礼拝出席者がいます」とか「2部礼拝を始めました」とか「伝道所を生み出しました」という報告を聞きますと、心を痛めたことを覚えています。本当は心を痛める必要はないのですが心を痛めてしまうのです。比較する必要はないことは分かりつつも、比較してしまう弱さを私たちは持っています。私たちは他人と比較する弱さを持っていても、神は決して比較して報いる方ではないのです。
 イエス・キリストは、22節で「わたしが来るときまで…わたしに従いなさい」と話されています。決して「他人と比較する心を捨てなさい」とは話されていないのです。「そのような弱さを持ちつつも、与えられている務めに忠実でありなさい。わたしは他人との比較や結果で報いることはしないから」と言われているのではないでしょうか。分かってはいますが、他人のことが気になる私たち。そのような弱さを知りつつも受け入れてくださるイエス・キリスト。そのような弱さを持っていることを責めてはおられませんし、そのような弱さを捨て去ることも求めてはおられません。有名な聖書箇所の一つですが、Ⅱコリント12:9に「     」と書かれています。その中に「キリストの力が私をおおうために」と書かれています。イエス・キリストは、弱さの上にご自身の力を覆ってくださる方なのです。ともすると私たちは、「自分の弱さを捨てて、新たにキリストの力をいただくことがキリスト者である」と考えてはいないでしょうか。しかし、イエス・キリストは弱さを捨てることを求めてはおられるのではなく、その弱さを覆ってくださる方なのです。弱さを持ちつつも、与えられている務めを忠実に果たしていくことが信仰生活の基本です。

2)神のことばに聞くこと
 信仰生活の基本の2つ目は、神のことばに聞くことです。初代教会の中で、「イエス・キリストの再臨があるまでヨハネは死なない」という噂が行き渡っていたようです。ですが、その噂は真実ではありませんでした。弟子たちが誤解して広まったのかもしれません。言い伝えは正しく伝わっていくことは難しいものです。最初は間違っていなくても、時代が経つにつれて変わっていく危険性があります。「伝言ゲーム」というのは皆さんされたことがあるのではないでしょうか。最初は正しく伝えていても、伝えていく中で少しずつ変わってしまい、最後の人の所に行きますと大きく変わっています。それは文字として書かれていないからです。いくら神のことばであっても、その神のことばが文字として書かれていなかったら、時代と共に変わって伝えられていきます。そうならないために、神のことばが書き記され聖書として与えられているのです。私たちはいつでもその聖書に耳を傾けることができます。聖書に戻ることができます。原点に返ることができます。そのことを考えますと、決して変えてはならない神のことばが書き記されている聖書の重大さを改めて知らされるのではないでしょうか。
 少し脱線しますが、そのようなことを聞かれますと「でも改訂版は少しずつ変わっていますよ」と思われる方もおられるかもしれません。私たちは、「聖書は誤りのない神のことばである」と信じています。ですが、それは原典においてです。今はその原典は存在していません。今存在している聖書は写本です。その写本はたくさんあります。多くある写本の中から、「どのことばがより原典に近いのか」というのが「本文研究」というものです。例えば、聖書の最後に「あとがき」というのがあります。今まで用いていました新改訳聖書は、「新約はネストレの校訂本24版、旧約はキッテルの3版以降のものに基づき」と書かれています。今私たちが用いています新改訳2017のあとがきには、「旧約はビブリア・ヘブライカの第4版および第5版、新約はネストレ・アーラントの校訂本第28版ならびに聖書協会世界連盟第5版に基づき訳業を進めた」と書かれています。キッテルというのは著者名で、ビブリア・ヘブライカは書籍名です。ですから、同じと考えていただいても良いものです。本文研究は今も続けられており、今後も校訂版が出版されることでしょう。その新しい校訂版に基づいて訳されている聖書を私たちは用いているのです。ですから、少しずつ変わっているのです。でも、中心的なことは2000年前と全く変わってはいません。
 では、その福音の原点は何でしょうか。それは、人は神のかたちとして神に造られましたが、サタンの誘惑によって神に罪を犯しました。しかし、それでも神は人を愛してくださり、その人の罪を赦すためにイエス・キリストを送ってくださり、そのイエス・キリストが人の罪の身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださいました。人は、イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって十字架に架かり、神の審きを受けてくださったのを信じることによって罪は赦されるのです。これが福音の原点です。私たちは社会で歩む中で、様々な事柄に遭遇して疲れたり不安を抱いたりします。ですが、私たちにはそのような境遇に置かれたとしても、決して変わることのない神のことばが与えられています。その神のことばである聖書に聞くことが信仰生活の基本でもあります。

3)感謝して生きること
 信仰生活の基本の第3は、与えられているものに感謝して生きることです。24節に「彼の証しが真実である」と書かれています。この「彼」とはヨハネのことです。では、「私たち」とは誰のことでしょうか。それは、この福音書を書いた人たちのことです。そうなりますと、このヨハネの福音書の著者はヨハネではないということではありません。ヨハネが語ったことを記録した人々がいたのを表しているのです。キリスト教書物の中には、講演会で語られたものや礼拝で語られたメッセージが書籍として出版されたりします。それは録音されたものを後に聞いて文字にするというものです。その作業の多くは、牧師ではなく牧師夫人や教会員によるものが多いです。ですが、著者名は牧師名となって出版されています。それと同じと考えていただいて良いと思います。
 ヨハネが福音書で主張し続けていることは、イエス・キリストは神であり、ありのままのあなたを愛し受け入れてくださっているということです。ヨハネが語ったことを記録した人々が、何故「彼の証しは真実であることを知っている」と言えたのでしょうか。それは「ヨハネの日々の生活を通してではないか」と考えられます。ヨハネはイエス・キリストから「雷の子」というニックネームを与えられました。それは彼が短気な人だったからです。彼はサマリア人がイエス・キリストを受け入れなかったので、「主よ、私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったことがルカの福音書に書かれています。それほど彼は短気な人だったのです。そのヨハネが、「愛の人」と呼ばれるように変えられたのです。それはヨハネ自身がイエス・キリストに愛されているのを経験したからです。感謝と喜びをもって自分というものを受け入れることができたからです。特別に何かができることが信仰ではありません。生かされていることを神に感謝し喜ぶことが信仰なのです。それが周りの人にイエス・キリストの証しへと繋がるのです。だからと言って、無理をして感謝し喜ぶ必要もありません。祈れないときや感謝できないときもあることでしょう。ですが、そのようなときもイエス・キリストは受け入れてくださっていることを覚えることが大切です。信仰とは聖書知識があり、伝道し、模範的な生活をするように思いやすくなります。確かにこれらはすばらしいことですが、これらが信仰生活の基本ではありません。イエス・キリストの愛に感謝し、喜びをもって日々生かされることが信仰生活の基本です。

結)
 信仰生活は努力して過ごすものではありません。神への礼拝や献金することは大切です。ですが、それが信仰生活の基本ではありません。それらは基本の上に置かれるものです。信仰生活の基本は、すでに与えられているものに感謝し、みことばに耳を傾け喜びをもって生きることです。何が与えられているでしょうか。今、自分に与えられているものを思い巡らしましょう。何よりも、自分というものが与えられているのではないでしょうか。「あなた」という存在は神から与えられているのです。今自分がこの世に存在していることに感謝することは大切です。それには神の愛を知らなければできるものではありません。神の愛を知るには、神のみことばに耳を傾ける必要があります。それによって、与えられている務めを果たしていくことができるのではないでしょうか。

ヨハネ21:15~19「神を愛するとは」 22.03.20.

序)
 「愛には行動が伴う」と言われます。そのことばに間違いはないでしょう。そのことから、「キリスト者は神を愛する者だから、神を一生懸命証ししなければならない」と言われたりもします。確かに神を証しすることは、神を愛することに間違いはありません。ですが、一生懸命証しすることが本当に神を愛することなのでしょうか。神を証しする前に、私たちに必要なことはないのでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願います。

1)自分の愛の弱さを知ること
 イエス・キリストは、弟子たちと共に食事をされた後、ペテロと個人的な会話をされました。この会話には、ペテロの今後の歩みにおいて知る必要のあることです。では、ペテロは何を知る必要があったのでしょうか。その第1は、自分の愛の弱さを知ることです。イエス・キリストは、ペテロに「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」と尋ねられました。「この人たち以上に」というのは、「他の誰よりも」ということです。ですから、イエス・キリストの質問は「あなたのわたしに対する愛は、他の誰にも負けませんか」ということでもあります。何故、イエス・キリストはこのようなことをペテロに質問されたのでしょうか。ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったことが13:37に書かれています。マタイ26:33には、「たとえ皆が…つまずきません」とペテロが告白したことが書かれています。このペテロの告白は、「私のあなたへの愛は、他の誰よりも強く負けません」というものです。ところが、イエス・キリストが捕らえられ大祭司の庭では、イエス・キリストを「知らない」と3度も否んでしまったのです。「イエス・キリストへの愛が誰よりも強い」と確信していたペテロでしたが、他の者と同じ愛でしかなかったのです。
 イエス・キリストは、このペテロへの問いかけを通して、自分の愛の弱さを再確認させているのです。このイエス・キリストの問いかけに対して、ペテロは「この人たち以上に愛します」とは答えていません。ペテロは「はい、主よ…あなたが御存知です」と答えただけなのです。ペテロは自分の愛の弱さを知っていたのです。ペテロのイエス・キリストに対する愛は、周りの状況によって揺れ動いてしまうような弱い愛だったのです。このペテロの答えの意味は、「自分の愛の弱さについてあなたは御存知ですが、それでもあなたを愛していることに変わりはないことをもあなたは御存知であられる」と私には聞こえます。私たちのイエス・キリストに対する愛はどうでしょうか。「他の誰に負けない」と確信されているでしょうか。「どのようなことがあっても、決してくじけることなくイエス・キリストを愛し信じ従い続けられる」と確信されているでしょうか。今はそのように思われていても、実際に問題が生じたときどうでしょうか。喜びや感謝はなくなり、前に進むことができなくなる場合もありますし、祈ることもできなくなる場合もあります。それでも神は愛し続けてくださいます。私たちがまず知ることは、自分の愛の弱さです。それと同時に、「そのような自分を神は愛してくださっている」という神の愛の深さです。

2)神に愛されていること
 私たちが知る必要がある第2は、神に愛されているということです。イエス・キリストは、ペテロに3度「わたしを愛していますか」と尋ねられました。すると、ペテロは「あなたは私があなたを愛していることは御存知です」と3度同じ返事しています。そのペテロの返事の後、イエス・キリストは「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。「子羊」と「羊」・「飼いなさい」と「牧しなさい」と、ことばを変えて言われています。「子羊」と「羊」は、「成長していない人」と「成長している人」、或いは、「弱い人」と「強い人」と考えられます。また、「飼いなさい」とは、食物を与えることで牧場に導くことを意味していると考えられます。「牧しなさい」とは、羊飼いが羊の世話をすることを意味していると考えられます。すなわち、この後ペテロは教会の指導者として立てられることを表していると考えられます。
 教会には様々な人が集います。ですから、信仰の成長度合いが違います。全ての人を同じように接するのではなく、各々に合った接し方があります。イエス・キリストは、そのことをここで教えられているのではないでしょうか。要は、自分のペースで導くのではなく、相手のペースに合わせて導くことを教えられているのではないでしょうか。相手のペースに合わせるには自己犠牲が必要です。これは私たちが苦手としているものではないでしょうか。私など特にそうです。自分のペースが少しでも狂わされると、「なんじゃこれは!」と言ってしまいます。でも、イエス・キリストは「なんじゃこれは!」と言われる方ではありません。一人ひとりに合わせて接し導かれるお方です。そして、弟子たちにも一人ひとりに合わせて接し導かれました。
 イエス・キリストは、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねられ、ペテロは「私があなたを愛することは、あなたが御存知です」と答えています。欄外を見ますと、イエス・キリストが尋ねられた愛は「アガパオ―」という愛です。これは「アガペー」の動詞です。アガペーとは、一方的な自己犠牲の愛です。愛されることを求めない愛です。ところが、ペテロが答えた愛は「フィレオ―」です。これは「フィリア」の動詞です。フィリアとは、「愛されたから愛する」という相互的な愛です。「愛するから愛してほしい」とか「愛されたから愛する」という愛です。イエス・キリストは、ペテロに「神に愛される愛されない関係なしに、あなたは一方的にわたしを愛するか」と尋ねられたのです。ところが、ペテロは「あなたに愛されているから私はあなたを愛する」と返事しているのです。そのことが2度続き、3度目にイエス・キリストは「フィレオ―」ということばを用いています。これは「あなたはわたしに愛されていることを知ってわたしを愛するか」と尋ねられているのです。すると、ペテロはイエス・キリストが「フィレオ―」ということばを用いられたので、今度は「アガパオ―」のことばを用いたのではなく、同じように「フィレオ―」のことばを用いて返事したのです。
 イエス・キリストが3度ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねられたのは、ペテロが3度「イエス・キリストを知らない」と否んだからかもしれませんし、そうではないのかもしれません。何故3度尋ねられたのかは分かりませんが、ペテロは3度「フィレオ―」ということばを用いてイエス・キリストに答えていることに注目したいのです。ペテロは「自分の力でイエス・キリストを愛する」と答えたのではなく、「イエス・キリストに愛されていることを知っているので、その愛に正しく答えていく」と返事しているのです。このペテロの返事の中には、「自分がイエス・キリストを3度も否んだことがもうすでに赦されている」という確信があっての返事なのです。その神の赦しの確信があるかないかによって、その人の歩みは大きく異なってきます。神が「わたしはあなたを愛する」と言われているのは、「あなたの罪を赦す」ということでもあるのです。だからこそ、私たちに必要なのは神に愛されているということです。

3)自分の務めを知ること
 私たちが知る必要のある第3は、自分の務めを知ることです。イエス・キリストは、18節以降で今後のペテロの歩みについて話されています。それは殉教による死です。そのことを示された上で、「わたしに従いなさい」と19節の最後に話されています。「私は誰に従うのか」を知ることの大切さをここで話されています。イエス・キリストは「わたしに従いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と話されています。中心は自分ではなくイエス・キリストなのです。ペテロに与えられている務めは、子羊や羊を牧し飼うことです。でもそれは自分の子羊や羊ではなく、イエス・キリストの子羊や羊なのです。イエス・キリストの子羊や羊を牧し飼うことが、ペテロに与えられています務めなのです。
 神は各々に務めを与えてくださっています。それは外での仕事かもしれませんし、家の中でのことかもしれませんし、教会の奉仕かもしれません。それらの務めにおいて大切なのは、「誰に仕えるのか」を知ることです。決して自己満足のために務めが与えられているのではありません。私自身、この箇所を何度も思い巡らす中で気づかされたことがあります。それは神に忠実に果たすことを求められていますが、成功することを求められてはいないということです。すなわち、結果を出すことを求めてはおられないのです。私たちは結果に目を向けてしまい、その結果に左右されてしまいやすい者です。これは私たちの弱さでもあります。何故、結果を重視してしまいやすいのでしょうか。それは結果を出すことによって、達成感による喜びを経験しているからかもしれません。或いは、務めは神のために行う者であることを理解してはいますが、「神に代わって行っているのだから失敗は許されない」というのがあるのかもしれません。「もし良い結果を出すことができなかったら、神を悲しませてしまい、神の栄光が現されなくなってしまう」というのがあるのかもしれません。
 イエス・キリストは、ペテロに「わたしに従いなさい」と従うことを求めておられるのであって、良い結果を出すことを求めてはおられないのです。ところが、私たちは「良い結果を出さなければ」と勝手に思い込んでしまいやすいのではないでしょうか。昔、稲沢教会が中古住宅を購入して改装するとき、大工の方と一緒に改装を手伝っていました。その大工さんから「先生、〇〇してください」と言われ、その作業をしました。でも、大工さんの目から見れば良くなかったのです。それで大工さんが修正してくださいました。そのことを通して、「私は大工さんの代わりにしているのではなく、ただ手伝っているに過ぎないのだ」と気づかされたことがありました。そして、「イエス・キリストに従って行っても良い結果が出なかったとしても、イエス・キリストがそれを補ってくださり、私はイエス・キリストの手伝いにしか過ぎないのだ」ということに気づかされたのです。そして「失敗をしても、それはイエス・キリストが補ってくださり、私に求められているのはイエス・キリストに従って忠実に行うことなのだ」と気づかされたのです。私たちに求められているのは忠実に行うことなのです。
 ヨハネ20:21の最後に「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」とイエス・キリストが話されました。私たちが住んでいる地域もイエス・キリストによって遣わされた地です。新年度は、その地に福音版を定期的に配布することを計画しています。そこには、それを通して教会に来られる方が起こされることを願い配布するものですが、たとい起こされなくても忠実に行っていくことが私たちに与えられている務めではないでしょうか。

結)
 ペテロはイエス・キリストへの愛の弱さを知りつつも、イエス・キリストに愛されていることを自覚していました。私たちにとって必要なことは、イエス・キリストへの愛が強められることよりも、今の自分がイエス・キリストに愛されていることを覚え、自分に与えられている務めを忠実に果たして行くことではないでしょうか。そして、それが神を愛することになるのではないでしょうか。神が私たち一人ひとりに期待してくださっていることを覚え、自分に与えられている務めを忠実に果たすことができるように祈っていきましょう。

ヨハネ21:1~14②「神にあって生かされる恵み」 22.03.13.

序)
 先週の木曜日に、JBC愛知地区祈祷会が行われました。H先生は、神学生時代にウクライナに約1ヶ月の伝道旅行に行かれたとのことでした。今回の戦争で当時の関係者の方々を心配されていました。日本人である私たちにとって平和であることが当然のように思えますが、この戦争のニュースを耳にしますと当然ではなく有難いものであることを改めて思わされます。平和であることも恵みの一つですが、今朝は神にあって生かされる恵みについて共に教えられたいと願っています。

1)「でもクリ」な弟子たち
 ここには、甦られたイエス・キリストに出会った弟子たちの生活の様子が描かれています。ガリラヤに戻った弟子たちは「何の仕事をしていたのか」と言いますと、漁師の仕事をしていたのです。イエス・キリストと出会う前の仕事に戻っていたのです。では、「その仕事は順調であったのか」と言いますと、そうではなく魚が全く捕れないときもあったのです。今朝の箇所は、丁度その時でした。「魚が全く捕れない」というのは、「その日の収入は全くない」ということでもあります。おそらく、弟子たちは失望の中にあったのではないでしょうか。また霊的にはどうだったでしょうか。岸辺に立たれて声をかけられた方が「イエス・キリストである」と気づきませんでした。このような弟子たちを見ますと、イエス・キリストと出会う前と変わっていないようにも思わされます。甦られたイエス・キリストと出会った後、特別な仕事に就いたわけでもなければ、仕事が全て順調に進んでいるわけでもないのです。苦難を経験しますし、声をかけられた方がイエス・キリストと気づかないのです。「本当に甦られたイエス・キリストに出会ったのか」と思わされるほど、彼らは全く変わっていないようにも見受けられます。
 しかし、この弟子たちの姿は、イエス・キリストを信じる者の姿でもあるのです。「イエス・キリストを信じたから」と言って、特別な仕事に変わるわけでもありません。確かに牧師や宣教師という働きもありますが、それは神から特別な召しを受けてのものです。多くのキリスト者は、神を信じる前と同じ仕事をされているのです。また、「神を信じたから」と言って、日常生活の全てが順調にいくわけでもありません。失敗もあれば問題も生じるのです。また、イエス・キリストが共にいてくださることを忘れてしまいやすいものです。それによって、不安や恐れを抱いてしまうこともあります。この弟子たちの姿を見ますと、甦られたイエス・キリストを信じていても全く変わっていない姿を見ることができるのではないでしょうか。しかし、聖書は「それでも彼らはキリスト者である」と語っているのです。むしろ、「これがキリスト者の本当の姿でもある」と語っているのです。クリスチャン用語の中に「でもクリ」ということばがあります。それは「これでもクリスチャンなの」と、悪い意味で用いられることが多いことばです。私から見れば、この弟子たちは「でもクリ」の代表者であるように思えて仕方がありません。
 ですが、イエス・キリストは、そのような「でもクリ」である弟子たちを用いられたのです。弟子たちが神に用いられ成長したのは、弟子たち自身が頑張って何かをしたのではありません。神が忍耐をもって、愛と憐れみをもって弟子たちを成長させてくださったのです。「でもクリ」の弟子たちを、イエス・キリストは用いられたのです。イエス・キリストは、「でもクリ」の弟子たちを叱り責め見捨てられるのではなく、用いてくださり成長させてくださるお方なのです。

2)寄り添われるイエス
 そのイエス・キリストの様子が5節以降に書かれています。岸辺に立たれたイエス・キリストに気づかない弟子たちに、イエス・キリストの方から声をかけられたのです。5節以降のイエス・キリストの姿は、声をかけられてもイエス・キリストと気づかない弟子たちに寄り添われるイエス・キリストを見ることができるのではないでしょうか。気づかない弟子たちに、イエス・キリストは何をされたでしょうか。1つは、弟子たちのために備えられていました。全く魚が捕れなかった弟子たちに、「舟の右側に…そうすれば捕れます」と語られました。すると、おびただしい数の魚が捕れたのです。以前と全く変わっていない弟子たちに、イエス・キリストはこのような備えをされていたのです。「声をかけられた方がイエス・キリストである」と気づかない弟子たちを叱り責めるのではなく、彼らが気づくように接しられているのです。この出来事を通して、まずヨハネがイエス・キリストであることに気づき、ヨハネのことばを通して他の弟子たちも気づいたのです。そして、弟子たちは急いでイエス・キリストがおられる岸辺に向かったのです。
 イエス・キリストがされたもう一つは、弟子たちと交わりを持たれたということです。弟子たちが岸辺に着く前に、イエス・キリストは炭火をおこされ、魚とパンを用意されていました。それは彼らと食事をするためです。以前にも触れましたが、「食事をする」というのは交わりをすることでもあります。「交わり」というのは一方通行ではありません。「ある人が一方的に話し、別の人が一方的に聞く」というのは交わりではありません。交わりとは「自分も話しますが相手の話しも聞く」というものです。イエス・キリストは弟子たちと食事をされました。このとき、弟子たちは岸辺に立たれ声をかけられた方がイエス・キリストであると気づかなかったことを打ち明けたかもしれません。そして、それをイエス・キリストは受け止められたのです。その交わりを通して、弟子たちはイエス・キリストのことをさらに深く知っていくのです。
 それは教会の食事会も同じです。以前、使徒の働き2:43~47の箇所から、「46節の最後の『喜びと真心をもって食事をともにし』ということばは、別に無くても文脈的には可笑しくはありません。『家々でパンを裂き、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた』でも良いのです。ですが、そうではなく『喜びと真心をもって食事をともにし』ということばが付け加えられているのです。そこには意味があるからです。何故、家々に分散して食事を共にしたのでしょうか。2つのことが考えられます。それは交わりと伝道です」と。そして、47節の後半に「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった」と書かれています。神は救われる人々を加える一つの手段として食事会を用いられたのです。
 今朝の箇所はヨハネの福音書であり、イエス・キリストの周りにいるのは弟子たちだけですので、伝道する必要はなかったでしょう。しかし、イエス・キリストは食事を用いられたのです。それは交わりを通して、弟子たちの霊的成長のためにです。今私たちの教会は礼拝後に分かち合いの時を持っています。食事会をするときは、分かち合いの時をもたず食事会の中ですれば良いでしょう。その場に共にいる人が分かち合わなくても、他の人の話を聞くだけでも実のあるものではないでしょうか。食事会が再開されるとき、雑談も良いのですが雑談ばかりではなく、礼拝メッセージを分かち合う場として用いられたら素敵なことではないでしょうか。それには一人ひとりの意識が大切です。

3)変えられている弟子たち
 甦られたイエス・キリストに再び出会った弟子たちは、表面上は甦られたイエス・キリストと出会う前と全く変わってはいませんでした。ご利益的なものを得たわけではありません。しかし、根本的なものが変えられていたのです。それは何でしょうか。1つは、死を恐れなくなったということです。甦られるイエス・キリストと出会う前の弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて家に閉じ籠っていましたが、今朝の箇所は外に出て漁に出ていたのです。家の中にいたのではなく外に出ていたのです。エルサレムとガリラヤという場所は違いますが、ガリラヤにもユダヤ人は大勢います。当然、ユダヤ人の目に留まり捕らえられても不思議ではありません。それなのに何故外に出ることができたのでしょうか。それは死に対する恐れから解放されたからです。弟子たちは甦られたイエス・キリストと出会い、聖書の教えがその通りであることを知ったのです。人にとって死は終わりではないことを知ったのです。死の先に「甦り」という希望があることを知ったのです。これが弟子たちの変えられたことの1つです。
 もう1つは、イエス・キリストを身近に覚えることができたということです。弟子たちは、イエス・キリストが岸辺に立っておられることに気づきませんでした。これは、弟子たちの失敗ということもできます。ところが、今朝の箇所の弟子たちの姿を見ますと、そのような失敗を気にすることなくイエス・キリストと交わっているようにも見受けられます。何故弟子たちは、平然とイエス・キリストと交わることができたのでしょうか。それは弟子たちが、失敗をそのまま受け入れてくださるイエス・キリストを知ったからです。甦られたイエス・キリストが何度も弟子たちの所に現れてくださることを通して、今まで以上にイエス・キリストを身近に覚えることができたからです。だから、ごく普通にイエス・キリストと交わることができたのではないでしょうか。そして、イエス・キリストと交わりを持つことができるのを、素直に感謝して過ごしているのではないでしょうか。
 表面上は変わっていないような弟子たちですが、内になるものは変えられていたのです。イエス・キリストを信じる人というのは、そのような者ではないでしょうか。表面上は全く変わっていないように見えますが、内なるものは大きく変えられているのです。何が変えられたのでしょうか。それは、「どのようなときであっても望みをもって生きられる」ということではないでしょうか。確かに、世間一般で言われている「御利益」というものが与えられるわけではありません。ですが、人にとって何よりも大切な「望み」というものが与えられているのです。それはイエス・キリストを身近に覚えることができるからです。

結)
 私たちも自分自身を見つめるとき、何一つ変えられていないように思えることがあります。しかし、実はイエス・キリストによって変えられているのです。そして、このような私たちにイエス・キリストはいつも寄り添ってくださり、声をかけ、備えられ、共にいてくださいます。どのような境遇の中に置かれたとしても、イエス・キリストにあって望みをもって生きることができる。何と素敵なことでしょうか。これこそが神にあって生かされる恵みではないでしょうか。

ヨハネ21:1~14 「信仰の再スタート」 22.03.06.

序)
 いよいよ3月に入り、今年度も残すところ1ヶ月を切りました。コロナやウクライナ情勢など、先が見通せない状況の中にありますが、今年度も主に導かれ支えられたことに感謝したいものです。戦争のニュースを耳にしますと、平和であることがどれほど感謝なものであるかを改めて思われます。引き続き、コロナやウクライナ情勢が落ち着くことができますように祈っていきたいものです。コロナやウクライナ情勢も問題の一つですが、私たちも身近な問題は起こり得るものです。今朝は、そのような問題に直面する私たちへのイエス・キリストのお取り扱いを共に見つつ教えられたいと願います。

1)信仰の原点に戻されるイエス
 1節に「その後」と書かれています。この「その後」とは、「いつの後のことか」と言いますと、トマスの前に甦られたイエス・キリストが現れた日の後のことです。そして、「ティベリア湖」とはガリラヤ湖のことです。ですから、21章の場所はガリラヤ湖畔での出来事が書かれているのです。イエス・キリストが甦られたとき弟子たちはエルサレムの町にいましたが、21章からはガリラヤ地方に場所を移動しています。「何故、ガリラヤに弟子たちは行ったのか」と思われるかもしれません。ルカ24:45~49に「     」と書かれています。ここで注目したいのは、「エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります」と話され、49節の最後に「都にとどまっていなさい」と話されています。そして、使徒の働きの1章の場所はエルサレムです。そのエルサレムの町で、弟子たちはイエス・キリストが話されたように、父なる神が約束された聖霊が送られたのです。
 そのことを考えますと、弟子たちはエルサレムの町でイエス・キリストの死と復活を経験した後、故郷であるガリラヤに戻って、再びエルサレムの町に行って聖霊が臨まれる経験をしたということになります。そうであるならば、「わざわざガリラヤに行かなくても良いのではないか。そのままエルサレムの町に留まっていても良いのではないか」とも思えるのではないでしょうか。それなのに、何故ガリラヤに行く必要があったのでしょうか。マタイ28:10に、イエス・キリストが弟子たちに「ガリラヤに行くように」と指示されていることが書かれています。弟子たちは、そのイエス・キリストの指示に従って自分たちの故郷であるガリラヤに行ったのでしょう。そして、その町でイエス・キリストの弟子になる前の仕事である漁師をしていたのです。
 では、何故イエス・キリストは弟子たちの故郷であるガリラヤに行くことを指示されたのでしょうか。弟子たちにとってガリラヤの町は自分たちの故郷でありますが、それと同時にイエス・キリストに出会った町でもあります。いつも通り弟子たちは漁をしていたのでしょう。しかし、その日は全く魚を捕ることができませんでした。そのようなとき甦られたイエス・キリストは弟子たちの前に現れたのです。この光景、思い当たることがあるのではないでしょうか。前にも見ましたが、ルカ5:1~6の光景と同じではないでしょうか。そのときも弟子たちは夜通し働きましたが何一つ捕れませんでした。そのときイエス・キリストは「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言われました。するとペテロは「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と言って従いますと、おびただしい数の魚を捕ることができたのです。そして、今朝の箇所もイエス・キリストに「舟の右側に網を打ちなさい」と言われ従ったとき、おびただしい数の魚を引き上げることができたのです。これは、最初にイエス・キリストに出会ったときと同じ光景です。言うなれば、この出来事は弟子たちの「信仰の原点」とも言えます。
 イエス・キリストが弟子たちにガリラヤの町に行くことを指示された目的は、そこにあるのではないでしょうか。それは「信仰の原点に立ち返る」ということです。弟子たちはゲッセマネの園でイエス・キリストを見捨てて逃げたことに心を痛めていたかもしれません。また、イエス・キリストが甦られる話が上の空で、信じようとしなかったことに心を痛めていたかもしれません。そのような弟子たちをイエス・キリストは御存知であられたので、信仰の原点であるガリラヤに行くことを指示されたようにも受け取れます。自分の信仰に失望してしまうというのは、私たちも経験することがあるのではないでしょうか。「私は大丈夫」と思っていたのに、環境が変わったり何かが生じたとき自分の信仰に失望を覚えることがあるのではないでしょうか。でも、それが悪いのではなく、そのようなとき「イエス・キリストを信じ従う決心をした信仰の原点に立ち返ることが大切である」と知らされるのではないでしょうか。

2)声をかけられるイエス
 弟子たちは「夜通し働いたのに魚が全く捕れない」という状況の中で、失望を覚え港に戻ってきました。すると、甦られたイエス・キリストが岸辺に立たれていたのです。ところが、4節後半には「けれども…分からなかった」と書かれています。このときの弟子たちは、もうすでに甦られたイエス・キリストに出会っているのです。しかも、トマス以外は2回も甦られたイエス・キリストを見ているのです。マグダラのマリアは、甦られたイエス・キリストを見ても分かりませんでした。それはまだ甦られたイエス・キリストに出会っていませんでしたから、「死んだ人が甦り自分の目の前に現れる」というのを理解することなどできません。ですから、マグダラのマリアが甦られたイエス・キリストを見ても分からなかったのは当然のことでしょう。しかし、今朝の弟子たちは甦られたイエス・キリストをすでに見ていますし会話もしたのです。それなのに、岸辺に立たれているのがイエス・キリストであると分からなかったのです。しかも、イエス・キリストからことばをかけられたのに、それでも「その人がイエス・キリストである」と気づかなかったのです。「そんなことがあるのか」と思えたりもします。
 弟子たちが「岸辺に立たれている方をイエス・キリストである」と気づいたのはいつでしょうか。それは、おびただしい数の魚が捕れたときです。それまで気づかなかったのです。気づくことができたのは、おびただしい数の魚が捕れてホッとして、心に余裕ができたからかもしれません。何故なら、それまでは失望の中にいて、見えるものも見えなくなっていた状況だったからです。そのようなことは、私たちもあるのではないでしょうか。弟子たちと同じようにイエス・キリストの復活を信じていますが、
目の前に大きな問題が生じたとき不安を覚え、その不安に苛(さいな)まれて見えるものも見えなくなってしまうということがです。みことばを読んでも、「そのみことばが入って来ない」ということがあるのではないでしょうか。弟子たちは夜通し働いたのに全く魚が捕れませんでしたから、収入は全くない状況に陥ってしまいます。そうしますと、これからの生活に大きな影響を及ぼしてしまいます。その不安に苛まれて見えるものも見えなくなっている弟子たちに、イエス・キリストは続けてことばをかけておられます。
 私たちが信じているイエス・キリストというお方は、そのようなお方なのです。不安に苛まれて見えるものも見えなくなってしまい、みことばを読んでも入って来ない状況の中であっても、私たちを見捨てることをされず語りかけ続けてくださるお方なのです。私たちにとって大切なのは、みことばを読んでも入って来ない状況の中にあったとしても、続けてみことばを読み続けていくことではないでしょうか。そして、そのみことばを聞き続けていくことを通して、見えるように導かれていくのではないでしょうか。何故なら、イエス・キリストはいつも私たちと共にいてくださり、助けて導いてくださる方だからです。

3)家族と認めてくださるイエス
 私はこの箇所を読んで不思議に思ったことがあります。それはイエス・キリストが弟子たちに「子どもたちよ」と呼びかけられたことばにです。イエス・キリストは30歳位から公生涯を始められました。そして、十字架に架かり死なれたのは「長くて3年半」と考えられています。すると、人間の年齢にしますと33歳程です。弟子たちはイエス・キリストよりも年下と考えても、それほど大きく開いた年齢差ではないと思います。50歳程の人が30歳前後の人に「子どもたちよ」と言うのなら分かりますが、それほど年齢差がない相手に「子どもたちよ」ということばに不思議を覚えるのです。数日そのことを思い巡らしていますと、中風の人が4人の人に運ばれてイエス・キリストの所に来た箇所を思い出しました。そこでイエス・キリストは、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。また、会堂司のヤイロの娘の箇所も「子よ、起きなさい」と宣言されました。
 イエス・キリストは、信じる人に対して「子よ」と呼んでくださる方です。「子よ」と呼ばれるのは、家族の一員に入れられたことを意味します。イエス・キリストは、甦られたイエス・キリストに出会い会話までしているのに、失望のあまりに岸辺に立たれている方をイエス・キリストと気づかない弟子たちに「子どもたちよ」と呼ばれているのです。それは、私たちに対しても同じです。私たちも弟子たちと同じように、目の前に問題が生じますとイエス・キリストを見失ってしまいやすくなります。でも、そのような私たちにイエス・キリストは「子よ」と呼んでくださっているのです。イエス・キリストは、信じる私たちに「あなたもわたしの家族の一員である」と宣言してくださる方であり、あなたのことを「子よ」と呼んでくださり、イエス・キリストの家族の一員と認めてくださる方なのです。
 「イエス・キリストの家族の一員にされている」ということは、神の家族の一員にされていることでもあります。私たちは当たり前のように「○○兄」・「〇〇姉」と呼び合っているのではないでしょうか。でも、それは神の家族とされているからそのように呼び合うことができるのです。健全な家族は赤ちゃんとして誕生したときから、家族の一員として受け入れています。何かができるから受け入れているのではなく、その存在自体を受け入れているのです。それと同じように、私たち一人ひとりが神の家族の一員とされているということは、神は私たちが何かができるから受け入れてくださっているのではありません。私たちの存在自体を受け入れてくださっているのです。イエス・キリストが私たちを「子よ」と呼んでくださっているということは、そのことを示してもおられるということです。そして、私たちはその恵みの中に生かされているのです。私が神の家族の一員とされていることに感謝したいものです。

結)
 先ほども話しましたように、私たちも弟子たちと同じように、目の前に問題が生じますとイエス・キリストを見失ってしまいやすくなります。しかし、私たちも弟子たちと同じように、イエス・キリストを信じる決心をした信仰の原点があります。そして、いつでもその所に戻り再スタートすることができます。神は決して私たちを見捨てることをされず、私たちの存在自体を受け入れてくださり、神の家族の一員と認めてくださっていることに感謝しつつ歩まされたく願います。


ヨハネ20:30~31「神の愛に正しく生きる」 22.02.27.

序)
 今年度も残すところ1ヶ月となりました。オミクロン株も収束方向に進んでいますが、今年度もコロナ感染に振り回された1年でもありました。そのような中で、一人ひとりが神によって守られ支えられていることに感謝したいものです。それも神が私たち一人ひとりを愛してくださっているからです。今朝は、その神の愛に正しく生きることについて共に教えられたいと願っています。

1)イエスは神の子キリストであることを信じるため
 まず30節に「     」と書かれています。ヨハネの福音書を書いた著者ヨハネは、イエス・キリストの記録を書いているのではありません。ヨハネはイエス・キリストが多くのしるしを行われたことを知っていますが、敢えて書かなかったものもあれば書いたものもあるということです。では、「何故ヨハネは書かなかったのか」というのが頭の中を過ることと思います。それは、この手紙の目的に必要なことだけが書かれているからです。では、ヨハネの福音書の目的は何でしょうか。そのことが31節に書かれています。ヨハネの福音書の目的の1つは、この手紙を読む人たちがイエスを神の子キリストであることを信じるためです。「イエスが神の子キリストであることを信じるため」と書かれていますから、この手紙は信じていない人に対して書かれた手紙であるようにも受け取れます。しかし、この手紙は教会に出された手紙です。ですから、キリスト者に読まれるために書かれた手紙なのです。ということは、31節の「あなたがた」とはキリスト者に対して言われていることばであることが分かります。
 では、キリスト者に「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」とは、どういうことなのでしょうか。キリスト者であるなら、誰もがイエスを神の子と信じているのではないでしょうか。このことを知るには、この手紙が書かれた時代の背景を知る必要があります。ヨハネの福音書は、1世紀の終わり頃に書かれた手紙であると考えられています。では、1世紀の終わりはどのような時代であったのかと言いますと、哲学では「霊は善であり、肉は悪である」という考えが台頭してきました。その考え方がキリスト教の中にも入り込んできた時代です。そのため、1世紀の終わり頃の時代には「イエスはキリストではない」という考え方が起こりつつありました。それは「キリストは霊なる方であり、肉体を持たれてはいない。ただ肉体を持っているイエスがバプテスマを受けたときにキリストは宿り、イエスが十字架に架かられる前にキリストは離れた」と主張する人たちが出てきたのです。ですから、死者の復活を信じることは当然いたしません。このような考え方の代表的グループが「グノーシス主義」と呼ばれていたグループです。当時のキリスト教は一般社会からの迫害と同時に、キリスト教内での異端との戦いを強いられていました。そのような中で、「イエスは神でありキリストそのものである」と励ました手紙がヨハネの福音書なのです。
 ですから、31節に書かれています「あなたがた」とは、教会の人々のことで主にキリスト者のことです。聖霊の助けによって、イエスがキリストであることを再び思い出すために書かれたのです。ですから、ヨハネの福音書には「思い出した」とか「思い起こした」ということばが、繰り返し書かれているのです。「思い出した」「思い起こした」というのは、忘れていたことを前提としていることばです。聞いていないのではありません。聞いていたけれども忘れていたのです。当時のキリスト者は「イエスがキリストであり、そのイエスを信じることによって喜びに満ちた人生を歩むことができる」と聞いていましたが、直面する様々な事情によって忘れてしまっていたのです。そのためにヨハネは、原点に戻って気づかせるためにこの手紙を書いたのです。
 当時のキリスト教は、「グノーシス主義」という間違った教えに大きな影響を受けていました。グノーシス主義は「霊は善であり肉は悪」という二元論的な考え方をしていました。その結果、対極的な立場が現れたのです。それは禁欲主義と放縦主義です。禁欲主義は「肉的なものは悪」という考え方ですから、我慢して霊的なものを追い求めるようになります。そして、「〇〇してはならない」という教えを守り行うことによって神の祝福が得られるという立場です。その影響を受けたキリスト者は、禁欲主義を唱えるようになり教会の中で問題が生じました。もう一つの放縦主義は、「肉体において犯した罪は影響を受けない」という論理の下に、不道徳な行為を平気で行っていたのです。その影響を受けたキリスト者は、不道徳な行為をすることによって教会の中に問題を生じさせてしまったのです。
 そのような影響を受けて戦っている教会に対して、ヨハネはこの手紙を通してグノーシス主義を退けて、イエスは神であられ人であられることを伝えているのです。ですから、ヨハネの第1の手紙4:20で「     」と語っているように、「霊なる神を愛するなら、肉なる兄弟を愛することである」と語っているのです。すなわち、「霊は善であり肉は悪である」という考えを否定しているのです。そして、イエス・キリストは私たちのために神であられるのに人となってこの世に来られ、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かって神の審きを受けて死んでくださったことを伝えているのです。「まぎれもなくイエスはキリストである」ことを語っているのです。そのことを信じるために、この手紙は書かれたのです。

2)イエスの名によっていのちを得るため
 次に、ヨハネがこの手紙を書いた目的のもう一つは、31節の最後に書かれていますように、イエスの名によっていのちを得るためです。「いのちを得る」というのは、6日の礼拝のときに見ました「いのちの息」の「いのち」のことです。それは神のかたちとして生きるいのちです。6日の礼拝のときにも話しましたが、イエス・キリストを信じていない人と異なる生き方ができるいのちです。私たちが生かされています社会は結果主義であり、結果によって人や物を評価する社会です。そのような見方・生き方とは異なる生き方ができるいのちが、イエス・キリストの名によって得られるいのちです。それは「神のかたちとして造られている」という存在に目を向けさせるいのちです。
 私たちはこの世に生かされていますと、様々なことを経験させられます。ときには失敗をしてしまうこともあります。失敗しますと精神的に落ち込んでしまいます。精神的に落ち込むことは悪いわけではありません。それは人として当然のことです。でも、それが本当に失敗なのでしょうか。その失敗を通して学ぶことは沢山あるのではないでしょうか。そのように考えますと、「失敗は本当に失敗なのか」と思わされたりもします。失敗をして「この方法は間違いである」と学ぶなら、それは失敗ではなく学習でもあります。また、失敗を通して心の痛みを覚えるなら、その心の痛みと似た経験をした人に寄り添うことができます。そのように考えますと、「失敗」と思えてしまう事柄は必ずしも「失敗」ではなく、「その事柄を通して得られる良いもの」と捉えられるのではないでしょうか。これもまた、「すべてのことがともに働いて益となる」というものではないでしょうか。
 先ほども話しましたように、一般社会とは異なる見方・生き方をさせてくれるのが、イエスの名によって得られるいのちです。それは「神のかたちとして造られている」という存在です。「何かができるから価値がある」「役に立つから価値がある」という見方ではなく、「神のかたちとして造られている」という存在からの見方です。すなわち、結果から物事を見るのか。それとも、根本から物事を見るのかの違いです。イエス・キリストは、ザアカイについて何と言われたでしょうか。人々はザアカイのことを「罪人」というレッテルを貼りました。しかし、イエス・キリストは「この人もアブラハムの子なのですから」と、「神のかたちとして造られ、神に愛されている存在である」というところからザアカイを見ておられたのです。「確かに失敗や過ちをするかもしれませんが、そのことが重要ではなく、人は神のかたちとして造られ存在していることが大切である」と、ザアカイを通して話されているのではないでしょうか。イエス・キリストは、ザアカイに可能性があることを見通されたのです。「どのような可能性があるのか」と言いますと、「神の愛に正しく応答する」という可能性です。イエス・キリストは根本から私たちを見ておられますから、一人ひとりに可能性を見出だされ寄り添ってくださるのです。ザアカイは、そのイエス・キリストに触れたから生き方が変えられたのです。だから、ルカ19:8で「主よ…四倍にして返します」と、神の愛に正しく応答する生き方に変えられたのです。それは自分の罪を悔い改めて、神に対して正しく生きるということです。
 人は神から「いのちの息」を吹きかけられたことによって「生きるもの」とされました。ですから、「いのち」とは「生きる」ということでもあります。グノーシス主義キリスト者の中で、「神の愛に対して正しく生きる」というのを禁欲主義的に捉える人たちは、律法的な生き方をしていました。また放縦主義的に捉える人たちは、不道徳な生き方をしていました。そのような両極端な生き方ではなく、すでに与えられているものに感謝しつつ、その与えられているものを豊かに用いていくことが勧められているのではないでしょうか。何故なら、イエス・キリストは神であられるのに肉体をもった人としてこの世に来られ、その肉体を通して父なる神の愛に正しく生きられた方だからです。私たちもすでに与えられているものにもう一度目を留めて神に感謝し、その与えられているものを豊かに用いて、神の愛に正しく生きる歩みができるように祈っていきたいものです。

結)
 ヨハネの福音書が書かれた時代の教会は、「外からは迫害との戦い」「内からは異端との戦い」に強いられていました。そのような中にあって、神の愛に正しく歩もうとしていた教会でもあります。神の愛に正しく生きることは簡単なものではありませんから、パウロがピリピ1:9~11で「     」と祈っていますように、神への愛が知識と識別力によってさらに豊かになるように祈っていきたいものです

ヨハネ20:24~29「見ないで信じる幸い」 22.02.20.

序)
 先週は死から甦られたイエス・キリストが弟子たちの前に現れたところから、神が与えるものについて共に教えられました。今朝の箇所は、そのときに居なかったトマスに焦点が合わされて描かれています。このトマスですが、共観福音書には12弟子の名前が列挙されている箇所にしか登場しませんが、ヨハネの福音書だけにはトマスの行動が描かれています。それは11章のラザロの復活のときと、14章の「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とイエス・キリストが話される前です。そして、今朝の箇所です。これもヨハネの福音書の特徴の一つです。イエス・キリストの復活を信じられないトマスのために、イエス・キリストは再び現れてくださいました。そして、29節で「あなたはわたしを…信じる者は幸いです」と話されました。では、「見ずに信じる者の幸い」とはどういうことでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願います。

1)イエスの復活時に居なかったトマス
 24節に「     」と書かれています。イエス・キリストが死から甦られ、弟子たちが居る所に現れてくださったのに、そのときトマスだけが居なかったのです。「何故この時に居なかったのか」と思いますが、「間が悪い人」というのはおられます。19節には「弟子たちがいた…鍵がかけられていた」と書かれています。ですから、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の中に閉じ籠っていたのです。その中でトマスだけが家の外に出ていたのです。「何をしに行ったのか」と想像をかきたてられます。ユダヤ教指導者らに見つかったら捕らえられ、イエス・キリストと同じように処刑されるかもしれません。それ以上に大切な人に会いに行ったのでしょうか。それとも、ユダヤ教指導者らの動向を探りに行ったのでしょうか。恐れていた弟子たちにとって家の外に出るのは危険が伴いますが、それでも出て行かなければならない事情があったのかもしれません。残念なのは、そのようなときに甦られたイエス・キリストが現れたということです。ある方は、「イエス様もイエス様だ。トマスが居ないのを御存知なのだから、トマスが居るときに現れてくださったら良いのに」と思われるかもしれません。または、「トマスが戻ってくるまで待ってくださっていたら良いのに」と思われる方もおられるかもしれません。
 でも、トマスが居なかったときに現れたことに、イエス・キリストの意図があったのでしょう。何故なら、トマスが居なかったからこそ今朝の箇所をヨハネは記すことができたからです。そのように考えますと、ローマ8:28の「すべてのことがともに働いて益となる」というみことばを思い出させられます。そして、ここに「深い神のご配慮」と言いましょうか、「神のご計画」というのを知らされるのではないでしょうか。私たちも日々の生活の中で、「何故こんな時に」と思えることが生じたりします。「今じゃなくても良いでしょ」と思えるようなことを経験されたことがあるのではないでしょうか。でも、そこに深い神のご計画があることに気づかされるのではないでしょうか。そのときは「何のために」ということは分かりません。分からなくても良いですし、分かる必要もありません。分からなくて当然です。しかし、そこに深い神のご計画があることを覚えるのは大切なことです。
 何事にも深い神のご計画があることに気づかされますと、一つひとつの事柄に対する見方も変えられるのではないでしょうか。感謝なことだけでなく、失望してしまうような事柄の中にも深い神のご計画があることに目を向けられるのではないでしょうか。2年前から続いています新型コロナウイルス感染にしてもそうです。何のためにこのようなことが起きているのかは分かりません。しかし、そこに深い神のご計画があることを覚えたいものです。そして、そこに目を留めつつ22年度という新しい年度の歩みを備えていくことも大切ではないでしょうか。

2)イエスの復活を信じられないトマス
 イエス・キリストが甦られたとき一緒に居なかったトマスに、甦られたイエス・キリストを見た弟子たちは、トマスに「私たちは主を見た」と伝えました。しかしながら、トマスは彼らのことばを信じられませんでした。むしろ25節の中程に「私は…決して信じません」とまで言い切っているのです。同じイエス・キリストを信じている弟子たちのことばを信じられないトマスを見て、皆さんはどのように思われるでしょうか。「何故、弟子たちのことばを信じられないの」と思われるでしょうか。それとも、「そうよね、トマスの気持ち分かるは―」と思われるでしょうか。これは非常に難しい事柄ではないでしょうか。この答えが正しいのかは分かりませんが、どちらも間違っていないと私は思います。何故なら、私たちも同じことを経験するからです。確かに、イエス・キリストの復活は信じています。でも、このときのトマスは、まだ経験していないことを信じるか信じないかが求められているのです。
 そのトマスは、どのような人としてヨハネの福音書に描かれているでしょうか。先程触れました箇所からトマスについて見てみたいと思います。まずは11:1~16のトマスです。この箇所は、先程も話しましたがラザロの復活の箇所です。イエス・キリストは「もう一度ユダヤに行こう」と話されました。すると、弟子たちは8節で「     」と話したのです。これは10:31のことを指していると考えられます。これはエルサレムでの出来事ですが、エルサレムとベタニヤは3㎞ほどの距離です。分かりやすく言えば、この教会から東だと高蔵寺駅ほどの距離であり、西なら熊野町の踏切辺りです。10:39には、ユダヤ人はイエス・キリストを捕えようとしましたが、イエス・キリストは彼らの手から逃れられたことが書かれています。ですから、ベタニヤの町に行けばイエス・キリストが戻ってきたことをユダヤ人は耳にして、今度こそは捕まることを弟子たちは恐れたのです。ですが、イエス・キリストはベタニヤに戻る意思が強かったため、トマスは16節で「     」と言ったのです。このトマスの発言は勇敢的に聞こえます。しかし、今朝の箇所のトマスと照らし合わせながら考えますと、悲観的な発言のようにも聞こえるのではないでしょうか。トマスはエルサレムでの現実を見て、「再びベタニヤに行けば死を覚悟するしかない」と思っての発言とも受け取れるのではないでしょうか。
 また、14:1~6の箇所は、イエス・キリストが「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」と話された箇所です。ここでトマスは、5節で「     」と尋ねています。イエス・キリストは、この箇所で「死んだあと父のみもとに行かれる」ということを話されました。しかし、トマスはそのことばの意味が理解できなかったのです。イエス・キリストは1節で「信じなさい」と話されているのに、トマスは「分かろう」としたのです。「分かる」というのは「理解する」ということでもあります。この箇所から、トマスという人は「理解して初めて信じられる人」ということが描かれているように受け取れます。すなわち、逆に言えば「理解できないものは信じられない人」ということが描かれているように受け取れます。
 それが今朝の箇所にも出ているのではないでしょうか。何故なら、死者の復活など理解できないからです。だから、トマスは同じ仲間である弟子たちのことばであっても信じられなかったのではないでしょうか。「経験していないものを信じる」というのは、「理解できないものを信じる」ということでもあります。そのように考えますと、私たちもそうではないでしょうか。私たちも将来に対して不安を抱くことがあります。将来は先のことです。私たちは自分の先のことなど全く知ることができません。知りませんから当然経験などしていません。小さな事柄ならともかく、大きな事柄なら気が気ではなく不安を抱いてしまいます。何故なら、先のことが分からないからです。そのように考えますと、このトマスの姿は私たちの姿でもあるのではないでしょうか。

3)イエスの復活を信じたトマス
 弟子たちのことばを信じることができずに、トマスは1週間を彼らと一緒に生活しました。その1週間はどのようなものだったでしょうか。いろいろなことが思い巡らっていたかもしれません。そのようなトマスの所に、再びイエス・キリストは現れてくださいました。そして、「平安があなたがたにあるように」と話されました。このことばは、1週間前に弟子たちに話されたのと同じです。しかし、違うことが1つだけあります。それは、その場にトマスも居たということです。そして、その平安とは先週も話しましたが、「不安を抱いたとしても決して見捨てられず共にいてくださる」という確信です。甦られたイエス・キリストを見たトマスは、「私の主、私の神よ」と告白しました。この時、トマスはイエス・キリストの復活を信じることができたのです。
 そのトマスに対して、イエス・キリストは29節で「あなたはわたしを…信じる人は幸いです」と話されました。イエス・キリストは、復活を信じたトマスを喜んでおられないことが分かります。また、このことばはトマスに話されたように書かれていますが、トマスだけでなく弟子たち全員に話されたものでもあります。何故なら、20節の最後に「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれているからです。先週の礼拝でも話しましたが、19節の最初に「その日」と書かれています。この「その日」とは、イエス・キリストがマグダラのマリアに甦って現れた日のことです。マグダラのマリアは、弟子たちの所に行き話しましたが、弟子たちはマグダラのマリアのことばを信じることはしませんでした。弟子たちが信じたのは、甦られたイエス・キリストを見たからです。そのように考えますと、この29節のイエス・キリストのことばは、トマスだけでなく弟子たち全員に話されたのではないでしょうか。そして、私たちもトマスや弟子たちのようになってしまうのではないでしょうか。特に、見えない将来に対して何かと不安を抱いてしまいやすくなります。そのような私たちに、イエス・キリストは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と27節を通して語られているのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、トマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と話されました。イエス・キリストは、甦られたイエス・キリストを見た弟子たちのことばを信じなかったことに注意をされているのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストは十字架に架かられる前から甦られることを何度も話されていたのです。著者ヨハネも20:9で「     」と説明しています。甦られることをイエス・キリストから直接聞いているのに、また旧約聖書にも記されているのに、そのことが信じられなかったのです。続けて、イエス・キリストは29節の最後で「見ないで信じる人たちは幸いです」とも話されました。ここで素直に聖書のみことばを信じるのをイエス・キリストは求めておられるのです。素直に信じることを妨げるものは何でしょうか。それは「でもね」ということばではないでしょうか。ともすると、私たちはそのことばを使ってしまいやすくなります。この「でもね」ということばは、私たちの一歩前進を妨げるものになってしまいます。私たちは「自分の常識」という枠の中で信じようとしてしまいやすくなります。ですが、イエス・キリストはその枠を超えることを求めておられます。自分の枠を超えて信じる者にされるように祈っていきたいものです。

結)
 イエス・キリストは、「見ないで信じる人たちは幸いである」と話されました。「見ないで信じる」とは、経験や理解せずに信じることです。イエス・キリストの公生涯の初めの頃、漁をしていましたが何一つ捕れずに港に戻ってきたペテロに対して、イエス・キリストは「深みに漕ぎ出し…魚を捕りなさい」と話されました。すると、ペテロはルカ5:5で「     」と答えたあと、その通りに従いました。すると、網が破れそうなほどの数の魚を捕ることができたのです。「でもね」ということばではなく、「おことばですから」と言って一歩前に踏み出すことの大切さを知らされるのではないでしょうか。そのとき、経験したことのないすばらしいものが備えられていることを経験するのです。そして、これが見ないで信じる人の幸いです。「おことばですので、網を下ろしてみましょう」ということばが実践できるように、共に祈っていきましょう。


ヨハネ20:19~23「神が与えられるもの」 22.02.13.

序)
 一昨日は、私たちの団体の総会が行われました。この時期は1年間の歩みを振り返りつつ、新年度の備えをさせていただく時でもあります。今年度もコロナ禍にあって、願っている活動が十分にできませんでしたが、教会の歩みが支えられていることに感謝したいものです。神は私たちに多くのものを与えてくださり導いてくださっています。そこには物質的なものと物質的でないものがあります。今朝は、物質的ではありませんが神から与えられているものを共に教えられたいと願っています。

1)平安
 神が私たちに与えてくださるものの1つは平安です。19節の最初に「その日」と書かれています。「その日」とは、「いつの日のことなのか」と言いますと、マグダラのマリアが甦られたイエス・キリストと出会い、そのことを弟子たちに報告した日のことです。マグダラのマリアは、喜びをもって弟子たちにイエス・キリストの甦りを報告しました。それに対して弟子たちの反応はどのようなものだったでしょうか。19節の中程に「ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」と書かれています。これは週の初めの日の夕方のことです。マグダラのマリアが甦られたイエス・キリストと出会ったのは、週の初めの日の明け方でした。その時に、イエス・キリストが甦られたことを弟子たちに伝えるようにマグダラのマリアは告げられましたので、遅くとも週の初めの日の午前中にはイエス・キリストが甦られたことを弟子たちは聞いたと考えられます。しかし、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて家の中に閉じ籠っていたのです。すなわち、マグダラのマリアのことばが信じられなかったのです。
 私たちからすれば「何故信じられないのか」と思えるかもしれません。ですが、恐怖心というのはそうではないでしょうか。私たちはイエス・キリストが死から甦られたことを知っていますから、「何故信じられないのか」と思ってしまうのです。私たちも知りもしないことや経験したことのない恐怖に遭遇したとき、「神が守ってくださる」と信じつつも不安や恐れに苛まれてしまうのではないでしょうか。このときの弟子たちは、まさしくそのような状態だったと思えます。確かに、頭の中では分かっていますが心が伴わないということが、私たちも経験することがあるのではないでしょうか。そのように考えますと、この弟子たちの姿は恐怖に苛まれてしまう私たちの姿でもあることを知らされるのではないでしょうか。
 そのような弟子たちの所に甦られたイエス・キリストは現れ、「平安があなたがたにあるように」と語られたのです。イエス・キリストは、ご自分が十字架に架かられる前に、弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます」とはなされました。すると、弟子たちは「イエスを一緒に死んでも構わない」と断言したのです。ところが、今はユダヤ人を恐れて家の中に閉じ籠っているのです。そのようなときに、甦られたイエス・キリストは彼らの前に現れたのです。彼らのことを責めることもされず、ただ「平安があなたがたにあるように」と語られたのです。この「平安」というのは、14:27や16:33でも語られた平安です。
 では、神が与えてくださる平安とはどのようなものでしょうか。それは不安や恐れを抱かなくなるというものではありません。神を信じていても不安や恐れを抱くことがあります。人である以上、不安や恐れは抱き続けます。そのような中で与えられる平安なのです。その平安とは、「神が共にいてくださる」という平安です。「決して神に見捨てられない」という平安です。神を信じていれば、いつも自信に満ち溢れ、信仰の道から決して外れることなく、間違いを犯さずに歩み続けられるのかと言えば、必ずしもそうではありません。神を信じていながらも弱さを覚え、振り子のような歩みをしてしまう私たちです。しかし、そのような者であっても「神は決して見捨てることをされない」という確信が、神が与えてくださる平安なのです。その平安を得るために努力する必要はありません。何故なら、信じることによってすでに与えられているからです。

2)喜び
 神が私たちに与えてくださるものの2つ目は喜びです。弟子たちは、甦られたイエス・キリストを見て喜んだことが20節の最後に書かれています。ですが、21節でイエス・キリストが話されたことは、弟子たちにとってはもっと大きな喜びでもあったのです。イエス・キリストは、弟子たちに「父がわたしを…遣わします」と話されました。これはどういう意味でしょうか。イエス・キリストは、父なる神の御心を完全に行われました。ですから、これは「弟子たちもイエス・キリストの御心を完全に行うように」ということでしょうか。そうではありません。これは、「父なる神がイエス・キリストを信頼して遣わしたように、イエス・キリストも弟子たちを信頼して遣わす」ということです。弟子たちは不安や恐れを抱いてしまう弱い存在です。そのような弟子たちをイエス・キリストは信頼されているのです。これは現代の私たちにおいても同じです。私たちも弟子たちと同じように不安や恐れを抱いてしまう弱い存在です。しかし、そのような私たちをイエス・キリストは信頼してくださっているのです。私たちに与えられている信仰が強められ不安や恐れを抱かなくなったから信頼されているのではありません。不安や恐れを抱いてしまう者でもあるにも拘わらず、イエス・キリストは私たちを信頼してくださっているのです。
 何故イエス・キリストは、不安や恐れを抱いてしまう私たちを信頼してくださるのでしょうか。もし私たちだったらどうでしょうか。そのような人を信頼することができるでしょうか。私ならできないと思います。でも、イエス・キリストは信頼してくださっているのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストが共にいてくださるからです。私たちが何かをするのではなく、イエス・キリストが私たちを用いてしてくださるのです。それは、父なる神がイエス・キリストを通してご自身のご栄光を現されたのと同じように、イエス・キリストも私たちを通してご自身のご栄光を現されるのです。では、私たちの何を通してご栄光を現されるのでしょうか。自分自身を見つめますと欠けだらけであり、自分のことを優先に考えてしまう者であり、不安や恐れをすぐに抱いてしまう弱い者です。そのような自分の何を通して、イエス・キリストはご自身のご栄光を現されるのでしょうか。それは、そのような私たちのために身代わりとなって十字架に架かられたことを通して、ご自身のご栄光を現されるのです。
 「このような私をも見捨てることをされず愛してくださっている」「このような私を用いようとしてくださっている」ということを知るとき、私たちは神の愛に包まれて生かされていることを知らされます。そのことを知るとき、心の中に感謝と喜びをもって生きることができます。この感謝と喜びをもって生きることが神のご栄光を現す生き方なのです。神は私たちの欠けたところや弱いところを通して、ご自身のご栄光を現してくださる方なのです。欠けたところや弱いところがあるからダメなのではなく、神はそのようなものを豊かに用いることのできるお方なのです。だから、イエス・キリストは私たちを信頼して遣わしてくださるのです。

3)聖霊
 神が私たちに与えてくださる3つ目は聖霊です。イエス・キリストは、22節の最後に「聖霊を受けなさい」と弟子たちに話されました。「聖霊を受ける」とはどういうことでしょうか。22節に「息を吹きかけて」と書かれています。これは人間の創造のときに神がなされた行為と同じです。創造のとき、息を吹き込まれた人間はどうなったでしょうか。創世記2:7の最後に「それで人は生きるものとなった」と書かれています。神は人や動物や鳥を土を用いて造られました。しかし、人間だけに「いのちの息」を吹き込まれたのです。動物や鳥は、「いのちの息」を吹き込まれていませんが生き物として存在しています。そして、人も「いのちの息」が吹き込まれる前から生き物として存在していたと考えられます。ですが、人は神から「いのちの息」を吹き込まれることによって、動物や鳥とは異なる生き方として変えられた存在となったことを表していると考えられます。では、どのような生き方に変えられたのでしょうか。それは神のかたちとして造られた存在としての生き方に変えられたのです。動物や鳥とは異なる生き方ができる存在へと変えられたのです。
 そして、弟子たちもイエス・キリストから息を吹きかけられ、聖霊を受けることによってイエス・キリストを信じていない人とは異なる生き方をする存在に変えられたのです。では、「信じていない人とは異なる生き方」というのは、どのような生き方なのでしょうか。それは「結果のみで評価しない」という生き方です。私たちが生かされています社会は、結果や見えるもので評価します。そのため、良い結果や役に立つものほど高い評価を受けます。そのような社会の中に生き続けていますと、人に対する見方もそのような基準で評価してしまいやすくなります。それは、自分自身に対する見方にしても同じです。ですが、神は人を「神のかたち」として造られました。人は神のかたちとして造れたから、同じ土から造られた動物や鳥よりも価値のある存在とされているのです。イエス・キリストを信じる人は聖霊を受けることによって、その視点に立っての生き方ができる者へと変えられたのです。
 また、イエス・キリストを信じつつも失敗をしたり試練に遭遇することがあります。その失敗や試練に対する捉え方も変えられます。確かに、失敗はしない方が良いのかもしれませんし、試練も遭遇しない方が良いのかもしれません。しかし、避けて通れるものでもないものでもあります。失敗や試練は誰もが経験します。ですが、聖書は「すべてのことがともに働いて益となる」と語っています。神は失敗や試練の中にも働いてくださり、その失敗や試練を用いてすばらしいことをしてくださる方です。それは「その後すぐに」というものではないかもしれません。数年後、数十年後かもしれません。ですが、その経験を神は豊かに用いてくださり、その時の経験が益としてくださいます。そのような視点に立って、目の前の失敗や試練に誠実に取り組む生き方に変えられるのです。神が私たちに備えておられるものは希望です。聖霊を受けることによって、その視点に立っての生き方ができる者へと変えられるのです。ただ、そのような生き方がすぐに変えられるのでもありません。「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」と書かれていますように、一歩ずつに変えられていくのです。

結)
 神が私たちに与えてくださるものは、どのような境遇に立たされても神が共にいてくださるという平安であり、欠けだらけの自分を神は用いてくださるという喜びであり、聖霊を受けることによってこの世の人とは異なる生き方です。これからも様々なことを経験すると思いますが、神が私たちに与えてくださるものを覚えつつ、神が助け導いてくださるのを信じつつ歩まされたく願います。



ヨハネ20:1~18「マグダラのマリア」 22.02.06.

序)
 先週の箇所は、アリマタヤのヨセフとニコデモに焦点を合わせて書かれており、今朝の箇所はマグダラのマリアに焦点を合わせて書かれています。これもヨハネの福音書の特徴の一つです。では、何故マグダラのマリアに焦点を合わせたのでしょうか。彼女はイエス・キリストに7つの悪霊を追い出してもらった女性であることがルカ8:2に書かれています。そして、8:3には自分の財産をもって仕えていた女性の一人であることも紹介されています。他の箇所を見ても明らかですが、彼女は心からイエス・キリストを愛しており、信仰熱心な女性の一人であったことが分かります。今朝は、このマグダラのマリアから共に教えられたいと願っています。

1)週の初めの日に墓に行った女性
 マグダラのマリアは、週の初めの日にイエス・キリストの墓に行った女性です。1節の初めに、「週の初めの日」と書かれています。「週の初めの日」とは、現代の日曜日のことです。何故、週の初めの日に墓に行ったのかと言いますと、安息日が明けたからです。当時のユダヤ教では、安息日に移動できる距離が定められていました。ですから、安息日に墓に行くことはできなかったのでしょう。神は世界を創造されたとき7日目に創造のみわざを休まれました。創世記2:3には「この日を聖なるものとされた」と書かれています。神はこの日を安息日とされました。そして、出エジプト記20:8~11には安息日に仕事を休み、神を礼拝することが命じられています。安息日は週の終わりの日であり、仕事を休んで神を礼拝する日とされたのです。ヨハネ19:31には、イエス・キリストが十字架に架かられ死なれたのは、安息日の前日であることが記されています。そして20:1に「週の初めの日」と書かれており、その日は安息日の翌日であることが分かります。すなわち、イエス・キリストは安息日の翌日に死から甦られたのです。使徒の働き20:7とⅠコリント16:2を見ますと、週の初めの日にキリスト者は集っていたことが記されています。彼らは集って何をしていたのかと言いますと、神に礼拝を献げていたのです。このことから教会は安息日に神を礼拝していたのではなく、安息日の翌日である現代の日曜日に神を礼拝していたのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストが死から甦られた日だからです。そして、教会はこの日を「聖なる日」として神を礼拝し続けてきた群れなのです。
 では、聖書が語る「聖」とは何でしょうか。私たちが浮かべる「聖」とは、特別なきよさではないでしょうか。確かにその通りなのですが、聖書が語っている「聖」とは「区別する」という意味があります。ですから「聖日」とは、他の日と区別した特別な日ということです。そして教会は、そのことを約2000年間告白し続けてきた群れでもあるのです。バプテスマクラス・入会クラスで学ばれたことですが、教会には「見えない教会」と「見える教会」があります。見えない教会とは、イエス・キリストにあって一つであるという公同の教会のことです。そして見える教会とは、各々の地域に建てられている地域教会のことです。その地域教会は、各々によって礼拝する時間を定めています。「何故定めているのか」と言いますと、「この時間帯は他の時間帯とは異なる聖なる時間帯」として神に献げているからです。ですから、各個教会が定めている礼拝の時間は、各個教会が「聖なる時間帯」として神に献げる教会の信仰告白でもあります。その信仰告白は誰に対して告白しているのかと言いますと神にです。すなわち、「この時間帯をあなたに献げます」との告白です。
 ある教会は、主の日に何度も礼拝を行っています。「そのような教会は、『聖なる時間帯』をどのように捉えているのか」と思われる方もおられるかもしれません。これも「聖なる時間帯」です。多い教会は1日3回ほど礼拝をしています。朝に2回行い、夜に1回行っていたりします。これは「どの礼拝に出席しても構いません」というものではありません。その教会に属する一人ひとりが「聖なる時間帯」を決めて、その時間帯に献げられている礼拝に出席されているのです。ですから、ある主日は朝の礼拝に出席し、別の主日は夜の礼拝に出席しても良いというものではないのです。教会は、聖なる日に聖なる時間帯を神に献げ礼拝し続けてきた群れなのです。

2)過去に生きていた女性
 次に、マグダラのマリアは過去に生きていた女性でした。マリアは週の初めの日にイエス・キリストが葬られた墓に行きました。彼女は何をするために墓に行ったのでしょうか。マルコ16:1には「イエスに油を塗りに行こうと思い」と書かれています。ですから、マリアが墓に行った目的は、葬られているイエス・キリストの遺体に香油を塗るためでした。遺体は日数が経つにつれて異臭を放ちます。その異臭を消すために香油をイエス・キリストの遺体に塗ろうとしていたのです。共観福音書には、幾人かの女性と共に行ったことが記されています。そのことから想像できるのは、イエス・キリストの遺体に香油を塗りながら思い出話をしようと思っていたのかもしれません。「あのときはあーだった」「このときはこーだった」という話を女性たちで交わそうと思っていたのかもしれません。
 ところが、イエス・キリストが葬られた墓に行きますと、墓の入り口に置かれていた石が取り除けられていました。そのことを弟子たちに報告しますと、ペテロとヨハネが走って墓に行きました。そして、ペテロは遺体がないのを確認するとヨハネも墓の中に入り、イエス・キリストの遺体がないのを確認しました。すると、マグダラのマリアは泣き崩れてしまったのです。何故でしょうか。彼女が墓に行った目的は、イエス・キリストの遺体に香油を塗ることでした。ですが、その遺体がないのです。ですから、イエス・キリストとの思い出話をしようにもすることができないのです。思い出とは過去のことです。過去を振り返るのは大切ですが、過去にすがりつくのは問題です。マグダラのマリアは、イエス・キリストとの過去にすがりつこうとしていたのではないでしょうか。過去にすがりつきますと前に進むことができなくなります。
 マグダラのマリアは、とてもイエス・キリストを愛していた女性でした。19:25には、イエス・キリストの十字架の前に立っていた女性の一人として紹介されています。またマルコ15:47には、イエス・キリストが葬られる墓を見届けた女性の一人として紹介されています。このことからも、ユダヤ教指導者らに捕らえられる不安を抱きつつも、イエス・キリストの最後を見届けようとする彼女の思いが伝わってくるのではないでしょうか。9節には「     」と書かれています。冒頭の「彼らは」ということばは、ヨハネとペテロを指していることばなのか、それとも、マグダラのマリアをも含んでいることばなのかは難しいところです。ただ11節を読みますと、イエス・キリストが甦られるということをマグダラのマリアも理解していなかったのではないでしょうか。どれほど、イエス・キリストを愛する人であれ、自分の理解という枠を超えられないことを知らされます。超えられないからこそ、「思い出」という過去にすがりついてしまうのではないでしょうか。
 そのために、どのようなことが起きたでしょうか。彼女の後ろにイエス・キリストが立っておられるのを見たのです。しかし、マグダラのマリアはそれがイエス・キリストだとは分からなかったのです。「目で見たのに分からないということがあるのか」と思えそうですが、そのような現象は私たちも経験することがあります。「ない」と思い込んでいて見まわしますと、あるものも見えなくなってしまいます。それはハガルもそうでした。創世記21:14~19にそのことが描かれています。ハガルは息子イシュマエルと一緒に、アブラハムの家から追い出されてしまいました。そして、パンも水も尽き絶望状態に陥ってしまいました。19節には「彼女は井戸を見つけた」と書かれています。神がハガルの目を開かれたので井戸ができたのではありません。ハガルが絶望状態のときにも井戸は存在していたのです。しかし、「何もない」と思い込んでいたがために井戸を見つけることができなかっただけのことです。将来に絶望的になり、過去に目を向けてしまうと可能性をも見失ってしまいます。このときのマグダラのマリアは、まさしくそのような状態であり過去に生きていた女性でもあったのです。

3)新しい使命を与えられた女性
 最後にマグダラのマリアは、新しい使命を生きるように変えられた女性です。では、どのようにして変えられたのでしょうか。彼女はイエス・キリストを心から愛していましたが、イエス・キリストの遺体がない現実を見て絶望感に陥っていました。そのために、後ろに立たれていたイエス・キリストを見ても、その方がイエス・キリストと気づきませんでした。そのような彼女に、イエス・キリストは声をかけられましたが、彼女はそれでもイエス・キリストとは気づきません。このときの彼女は、声を聞き分けられるほどの余裕もなかったのでしょう。それでもイエス・キリストは、彼女と共におられ声をかけられます。人が気づいたから、イエス・キリストは共にいてくださるのではありません。人が気づかなくても、イエス・キリストは共にいてくださるお方なのです。私たちもあまりにも大きな絶望感に陥ってしまい、イエス・キリストが共にいてくださることを忘れてしまうことがあります。そうだとしても、イエス・キリストは共にいてくださるお方なのです。そして、声をかけ続けてくださるお方なのです。
 イエス・キリストがおられることに気づかないマグダラのマリアに、今度は彼女の名前をやさしく呼ばれました。自分の名前が呼ばれることによって、彼女は後ろにおられる方がイエス・キリストだと気づくことができたのです。先程見ましたハガルにおいてもそうです。絶望感に陥っていた彼女に、神は「ハガルよ」と名前を読んでおられることが21:17に書かれています。私たちも絶望感に陥ったとき、みことばを読んでも何も入って来ないことがあります。自分の名前が個人的に呼ばれるということはないかもしれません。でも、神はみことばを通して私たちに語り続けてくださいます。みことばを読んでも何も入って来なくても、みことばを読み続け祈り続けることによって、みことばに気づかされるときがあります。大切なのは、みことばを読み続けることです。読み続けることを通して、マグダラのマリアやハガルのように目が開かれるときが来るのです。
 イエス・キリストに気づいたマグダラのマリアに、イエス・キリストは17節で新しい使命を与えられました。それは、イエス・キリストが甦られたことを弟子たちに伝えるという使命です。今までは過去に目を向けて生きていたマグダラのマリアでしたが、このことをきっかけとして将来に目を向けて生きる女性へと変えられたのです。それはハガルにしてもそうです。神はハガルに「わたしは、あの子を大いなる国民にする」と話されました。このことをきっかけに、ハガルは将来に目を向けて生きる女性へと変えられたのです。神は私たち一人ひとりがイエス・キリストを信じることによって、新しい使命を与えてくださっています。それは福音を一人でも多くの人に伝えることです。その方法は語ることによってかもしれませんし、自分自身の生き方という証しを通してかもしれません。確かなことは、一人ひとりに使命が与えられているということです。その使命に生きる者として歩まされるように祈っていきたいものです。

結)
 信仰が与えられても絶望感に苛まれ、周りを正しく捉えられなくなることがあります。聖書は、それを「不信仰」と示してはいません。むしろ、それが本当の人間であることを示しています。ただ同時に、そのような私たちに神は共にいて声をかけ続けてくださいます。そして、みことばを通して将来に目を向けて歩ませてくださいます。私たちが信じている神はそのようなお方なのです。だからこそ、その神に礼拝を献げる「聖なる時間帯」をもって、礼拝を献げ続ける者として歩まされたいものです。


ヨハネ19:38~42「ヨセフとニコデモ」 22.01.30.

序)
 先週は、イエス・キリストの十字架は決して失敗ではなく、神のご計画によるものであり神の救いのみわざが成し遂げられるものであることを見ました。今朝は、そのイエス・キリストの十字架を機会として一歩踏み出した人たちから共に教えられたいと願っています。

1)苦闘するヨセフとニコデモ
 イエス・キリストが十字架上で死なれたのは、安息日の備え日であったため、ユダヤ人は「イエスを十字架から降ろしてほしい」と願い出ました。そのため、ローマ兵は2人の強盗の脚を折り、イエス・キリストの脇腹を槍で突き刺しました。そのあと、アリマタヤのヨセフという人が、ピラトにイエス・キリストの身体を取り降ろすことを願い出ました。そして、新しい墓に葬りました。マタイ27:60には「岩を掘って…墓に納めた」と書かれています。その墓は、アリマタヤのヨセフが自分のために造った墓であったことが分かります。そして、そこにニコデモという人も没薬と沈香を混ぜ合わせたものを持ってきたことが書かれています。「沈香」とは、香木の一つでお香などに用いられているようです。以前の聖書では「アロエ」と訳されていました。何故「アロエ」と訳されていたのかは分かりません。沈香が用いられたのは、遺体から出る悪臭を防ぐためだと思われます。
 ヨハネは、このヨセフとニコデモをどのような人物として紹介しているでしょうか。ヨセフについては、共観福音書を見ますと、金持ちの議員であり、立派で正しい人であり、神の国を待ち望んでいた人であり、議員の計画や行動に同意しなかった人として紹介されています。ところが、ヨハネは38節で「イエスの弟子であったが…隠していたアリマタヤのヨセフ」と紹介しています。共観福音書は、ヨセフの他人に知られたくないことを伏せていたのですが、ヨハネをそのことを明るみに出しています。またニコデモについては、共観福音書には登場せずヨハネの福音書しか書かれていません。39節には「以前…来たニコデモ」と、人目に隠れてイエス・キリストを訪問した人物として紹介しています。ヨハネは、ヨセフとニコデモの紹介について「光と影」に分けるならば、光の部分を紹介しないで影の部分を紹介しています。ヨセフとニコデモは、自分がイエス・キリストを信じていることを公にしていなかった人として紹介しているのです。
 何故彼らは、イエス・キリストを信じていることを公にできなかったのでしょうか。おそらく、同じ仕事仲間から白い目で見られるのを恐れたのではないでしょうか。同じ仕事仲間が信じていないものを自分が信じている。別に悪いことをしているわけではありませんが、気が引けてしまっていたのでしょう。少なからず私自身もそのような経験をしたことがあります。「お前、あんなものを信じているのか」とバカにされ見下されてしまう。そのことばを怖がり、そのような見方をされることを恐れてしまう。ヨセフとニコデモは、「私たちが信じている聖書には、『ガリラヤから救い主は出ない』と書かれているのに、そんなことも知らないのか」とバカにされ、仕事仲間で形成されている社会から追放されることを恐れたのではないでしょうか。人を紹介するのに、他人に知られたくない影の部分を紹介する仕方があるでしょうか。ヨハネは「愛の人」と呼ばれていた人です。そのようなヨハネが、何故このような紹介の仕方をするのか疑問に思えたりもします。ですが、ここにヨハネの深い思いがあります。
 私から見て、このヨセフとニコデモは現代のキリスト者と重なって見えます。自分に与えられている信仰を徹底できず、悩み苦しんでいるキリスト者が多いのではないでしょうか。ヨセフとニコデモは、「今のままで良い」と思ってはいなかったでしょう。しかし、今の所から抜け出すことができず、悩み苦しんでいたのではないでしょうか。「ある程度の妥協をしないと社会で生きていけない」と考え、信仰的な決断ができずに悩み苦しんでいたのではないでしょうか。それは、今日のキリスト者も同じではないでしょうか。「ある程度妥協しないと今の職場でやっていくことはできない。何故なら、私には生活がかかっているから」と悩み苦しんでいるキリスト者は多いのではないでしょうか。牧師として、妥協した信仰生活を肯定することはできませんが、現実の信仰生活の厳しさを無視することもできません。神を信じているも拘らず、ある程度妥協した信仰生活を過ごしている自分。一歩踏み出すことができず、苦闘しているキリスト者は多いのではないでしょうか。そのような人を「不信仰」と簡単に決めつけることはできません。むしろ、そのような人が神によって成長させられることに期待しつつ、祈っていくことが大切であることを教えられるのではないでしょうか。
 一歩踏み出すことができず苦闘しているキリスト者に対して、神はどのような態度をとられているでしょうか。確かなことは、決して彼らを突き放されていないということです。弱さを覚え、苦闘している人を受け入れられている神の姿を見ることができるのではないでしょうか。イエス・キリストの弟子であることを隠していたヨセフとニコデモが、イエス・キリストの弟子であることをこの行動を通して告白するに至りました。イエス・キリストは、この彼らのためにも祈っておられたのではないでしょうか。そして、現代のキリスト者もヨセフとニコデモのように、一歩踏み出して成長することを祈り待っておられるイエス・キリストの姿を見ることができるのではないでしょうか。イエス・キリストはヨセフとニコデモの心の内を御存知であられたように、現代の私たちの心の内も御存知です。そして、苦闘している私たちを決して突き放すことはされません。受け入れてくださり、私たちのために日々とりなしの祈りをしてくださっているのです。イエス・キリストはそのようなお方なのです。

2)一歩踏み出したヨセフとニコデモ
 ヨセフとニコデモは、「妥協したキリスト者」と言っても過言ではありません。そのような中で、彼らはもどかしさを覚えつつ生活し、仲間外れにされることを恐れていました。そのような彼らが、何故イエス・キリストの遺体を取り降ろし、埋葬する者へと変えられたのでしょうか。ヨセフとニコデモが、このように大きく変えられた要因は彼らの決心です。「イエス・キリストに従っていこう」という決心が、彼らをこのように変えることができたのです。確かに、これも神の導きによるものです。神によって決心へと導かれました。何にしてもそうですが、新しい歩みにおいては決心が伴います。マルコ15:43に「勇気を出して」と書かれています。「勇気を出して」というのは、ヨセフが自ら決心したことを表しています。ヨセフとニコデモは、イエス・キリストの死をきっかけとして信仰を公にする決心をしたのです。
 新しい歩みは、「環境や状況が変わることによってできる」と思われている方が多いのではないでしょうか。そして、信仰においてもそのように考えている人もおられます。しかし、信仰は環境や状況によって変わることのできるものではありません。本人の決心が大切です。ヨセフやニコデモは、自分たちが置かれている境遇は変わっていませんでした。ヨセフは議員のままですし、ニコデモはパリサイ人のままです。環境が変われば、より深い信仰生活が送れるように思いがちですが、必ずしもそうではありません。何よりも大切なのは、その人自身の決断です。
 献身する前の私は医療機械の会社の営業マンでした。その会社は主に卸業でしたので、商品は病院に直接売ることはしないで小売店に売っていました。ですから、小売店の営業マンが会社から病院に行く前か、病院から会社に戻る夜に小売店に行って話をします。日中は病院に行って医師や看護師に商品をPRします。そのため、朝早く出て夜遅く帰宅する日々でした。ですから、夜の祈祷会に出席できるわけがありません。私の中では「仕方がない」と思っていました。しかし、ある日の礼拝のメッセージからチャレンジを受けました。そして、祈祷会に出席する決心へと導かれました。その日から会社の会議が延長しない限り祈祷会に出席しました。当然、他の社員は残業していますが、私だけ午後6時に退社しました。祈祷会に出席するということは、仕事を削ることにもなります。ですが、感謝なことに仕事に影響することはありませんでした。
 このような証しを聞かれますと、「新しい決心をすること」を願っているように聞こえると思います。確かに、一人ひとりが新しい決心をされることを願ってはいます。ですが、今朝語っていることはそのようなことではありません。一歩踏み出すことができず苦闘している方々が多いということです。「これではいけないのではないか」と思いつつも、なかなか決心がつかずにもがき苦しんでおられる方々が多くおられます。ですが、神はそのような一人ひとりをも見捨てることをされず、受け入れて守り支えてくださっています。ただ大切なのは、「受け入れられ守り支えられているからこのままで良い」と神はされているのでないということです。ピリピ3:16に「     」と書かれていますように、一人ひとりが一歩踏み出し成長するのを神は願っておられるのを覚えることです。

結)
 アリマタヤのヨセフとニコデモは、「今のままで良い」とは思ってはいませんでしたが、なかなか一歩前に踏み出すことのできなかった人たちでした。しかし、神はイエス・キリストの十字架という機会を通して、彼らを一歩前に踏み出せてくださいました。エペソ5:16に「機会を十分に活かしなさい」と勧められています。その理由は「悪い時代だからです」とも書かれています。この「悪い時代」とは、「決断を妨げるものが多くある時代」という意味です。決断を妨げるものは昔も今も多くあります。だからこそ、機会を十分に活かすことは大切です。神が備え与えてくださる機会を十分に活かし、一歩前に踏み出す決心ができるように祈っていきたいものです。

ヨハネ19:28~37「イエスの死の意味」 22.01.23.

序)
 以前にも話しましたが、ある異端は「イエス・キリストの十字架による死は失敗である」と主張し、「再臨のメシアが来た」と語っています。現代では、SNSやメールを通して聖書の学びに誘い込もうとしています。私の身近でも、そのような誘いを経験された方々がおられます。その方々はSNSではなく直接のメールによってです。ですから、「聖書の学び」と言って簡単に信用しないでいただきたいと思います。まずは、その学びについて調べていただきたいと願います。イエス・キリストの十字架による死は決して失敗ではありません。では、イエス・キリストの死は何を意味するのでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願っています。

1)神の救いの完了
 イエス・キリストの死の意味の第1は、神の救いの完了を表しています。28節に「それから」と書かれています。この「それから」とは何を指しているのかと言いますと26~27節のことです。そして、28節に「聖書が成就する…と言われた」と書かれています。では、この「わたしは渇く」とは、何を意味しているのでしょうか。ヨハネは「聖書が成就するために」と説明しています。「わたしは渇く」の所に⓸という数字が書かれています。下の欄外の⓸には、詩篇22:15と書かれています。この詩篇22篇は「受難の詩」と言われています。イエス・キリストは十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことが、マルコ15:34に書かれています。これは詩篇22:1の引用です。このことから、詩篇22篇は「救い主の受難の詩」とも言われています。そして、15節は肉体的・精神的苦痛の絶頂を表してもいます。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かられました。ある方は「イエス・キリストは神だから苦しまれることはない」と思われるかもしれません。でも、そうではなかったのです。イエス・キリストの十字架上での苦しみは、私たちが想像できないほどの苦しみだったのです。それほどの苦しみをイエス・キリストは負われて十字架上で死なれたのです。
 イエス・キリストのことばを聞いたローマ兵は、「酸いぶどう酒を…差し出した」と29節に書かれています。これも下の欄外に詩篇69:21と書かれており、旧約聖書の成就であることを示しています。ヒソプの枝は過ぎ越しの子羊の血を門柱に塗るときに用いられます。そして、その子羊の血が門柱に塗られている家は、神は「この家は神のことばに聞き従った」として審きを過ぎ越されました。イエス・キリストは、ヒソプの枝につけられた酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われて息を引き取られました。では、何が完了したのでしょうか。それは神の救いが完了したのです。すなわち、イエス・キリストは過ぎ越しの子羊としての使命を果たされたのです。それは、神の審きが過ぎ越されたことをも意味しています。ですから、「イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって十字架に架かかり、神の審きを受けてくださったことによって私の罪が赦された」と信じる人は、神の審きから救われるのです。また、それは罪の赦しを受けたことをも意味しているのです。完了したのですから、他に何もする必要はないのです。あとは、その神の約束を信じるだけで良いのです。イエス・キリストの十字架は、神の救いの完了を表しているのです。
 昨年の9月の教職者研修会では、最近の異端についての学びが行われました。詳しくは、教育部発行のニュースレターに記載されています。再臨のメシアを強調する異端は、「イエス・キリストの十字架は失敗である」と主張します。しかし、イエス・キリストの十字架による死は失敗ではありません。イエス・キリストは「完了した」と宣言されているのです。そのことを私たちはしっかりと刻みつけておく必要があります。

2)死が事実である
 イエス・キリストの死の意味の第2は、死なれたことが事実であることを表しています。31節に、イエス・キリストが十字架に架かられたのは、安息日の備え日であることが書かれています。安息日とは今日の土曜日ですから、その備え日とは現代の金曜日であることが分かります。しかも、その安息日は「大いなる日」と書かれています。これは過ぎ越しの祭りの安息日であることを指しており、特別な日であることを示しています。ですから、ユダヤ人は死体を十字架につけたままにしたくはなかったのです。それで、十字架から取り降ろすように願ったのです。ローマ兵は2人の強盗の脚を折りました。「何故十字架から降ろすのに、脚を折らなければならないのか」と思われるかもしれません。脚を折られる人は、まだ息をしているからです。息をしているということは、まだ生きているということです。生きている人をそのまま十字架から降ろしますと、回復して再び犯罪を起こす可能性があります。その可能性をなくすために脚を折ったのです。
 ところが、イエス・キリストは脚を折られることはありませんでした。何故なら、ローマ兵がイエス・キリストが死なれていることを確認したからです。そのため、槍でイエス・キリストの脇腹を突き刺したのです。これはイエス・キリストが完全に死なれたことを表しています。先程も話しましたように、イエス・キリストは過ぎ越しの子羊として、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死なれました。そのイエス・キリストの十字架を信じることによって、神の審きは過ぎ越されるのです。出エジプト記の過ぎ越しの子羊は完全に殺されました。その子羊の完全な死によって神の審きは過ぎ越されました。イエス・キリストの罪の身代わりも同じです。イエス・キリストが完全に死ななければ、私たちの罪の身代わりとはならないのです。また、完全な死がなければ、本当の復活もあり得ないのです。イエス・キリストの完全な死は、私たちの罪の身代わりを全うされたことを表しているのです。そして、今朝の箇所でイエス・キリストは完全に死なれたことを表しているのです。

3)神の真実さ
 イエス・キリストの死の意味の第3は、神の真実さを表しています。35節に「これを目撃した者が証ししている」と書かれています。そして、「その証しは真実であり」と書かれています。これはイエス・キリストの十字架による死の確かさを表しています。「その証しは真実であり」というのは、イエス・キリストの十字架による死の真実さだけではありません。神の真実さをも表しているのです。神は旧約聖書時代あら救い主を送ることを約束されていました。その神の約束がイエス・キリストによって成就されたのです。36~37節には、旧約聖書からの引用が書かれています。これは、神は約束通りに行われたことを表しています。神は真実な方です。約束されたことを必ず守られる方です。イエス・キリストの十字架による死は、その神の真実さを表しているのです。
 創世記3:15に「     」と書かれています。これは「原始福音」と呼ばれています。アダムとエバは、神に対して罪を犯し堕落してしまいました。彼らの罪はサタンの誘惑によるものですが、自分たちの意思によって罪を犯したのです。ところが、神はサタンに「おまえの子孫と…敵意をおく」と言われました。神は「罪を犯した人間の側につく」と言われたのです。サタンも神に対して罪を犯した存在ですし、人間も神に対して罪を犯した存在です。しかし、神はサタンを敵側に置かれ、人間を神の側に置かれたのです。それは、神は人間の味方になられたことを意味しています。罪を犯し堕落した人間を神は受け入れられたのです。そして、「女の子孫」と言われていますように、その後も神は人間の味方になられることを約束されているのです。「罪を犯した人間を受け入れる」ということは、「その犯した罪を赦す」ということでもあります。神は人間の罪を赦してくださる方なのです。イエス・キリストの十字架による死は、「神は約束通り罪を赦してくださる」ということを意味し、神の真実さを表しているのです。
 イエス・キリストの死は、私たちの罪の身代わりを全うし、救いを完了されたことを表しています。そして、神は約束を必ず果たされるという真実な方であることをも表しているのです。私たちは神が真実な方であることを知りつつも、日々の生活の中でそのことを忘れてしまい、思い煩ってしまうことがあるのではないでしょうか。伝道者の書3:1に「     」と書かれています。そして、11節には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と書かれています。神は最善のときに最善の方法を用いられる方であることを知りつつも、思い煩ってしまうのが私たちではないでしょうか。思い煩いについて、ある方は「それは罪だ」と言われます。しかし、見方を変えるならば、思い煩うからこそ神に祈り求めることができるのではないでしょうか。そして、思い煩うときが神に近づくチャンスとも捉えることができるのではないでしょうか。
 思い煩い神に祈っても答えられないこともあります。詩篇には、神に対して「なぜ」と訴えている箇所が多くあります。または、「沈黙しないでください」とか「黙り続けないでください」という意味のことばも多くあります。先程開きました箇所ですが、イエス・キリストも十字架上で「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。このことばの解釈には、いろいろな見解があります。どの見解が正しいのかは難しいですが、一つだけ確かなことがあります。それはイエス・キリストの十字架による死を通して、人は罪を赦され神の審きから救われるということと、イエス・キリストは死から甦られたという事実です。そのことを思うとき、ローマ8:28の「全てのことが共に働いて益となる」というみことばを思い出させられます。「何故か」「どうしてか」は分かりません。しかし、神はその課題を通して益にしてくださる真実なるお方であることを、イエス・キリストの死を通して知らされるのではないでしょうか。

結)
 イエス・キリストの死は、神の救いの完了と死の事実と神の真実さを意味しています。イエス・キリストが十字架に架かって死なれたのは、決して失敗ではありません。これが神の私たちのためのご計画だったのです。神の救いのみわざを成し遂げられるために、イエス・キリストは十字架に架かって死なれたことを思いつつ、この1週間を歩ませていただきたいと願います。

ヨハネ19:23~27「教会とは」 22.01.16.

序)
 新年も半月が過ぎますと、新年の気分もすっかり抜けてしまいます。そして、普段の生活習慣に戻ってしまいます。私たちは、目先のものに囚われてしまい、目立つものに目を向けてしまう傾向があります。それは神を信じたからといって、すぐに変わるものでもありません。そのような私たちが集っている所が教会です。だからと言って、「それで良し」とすることには疑問を覚えます。今朝は、教会は何に目を向ければ良いかを学びつつ、「教会とは何か」を共に教えられたいと願います。

1)神の憐れみによって救われた人たちの群れ
 まず教会とは、神の憐れみによって救われた人たちの群れです。ローマ兵たちは、イエス・キリストを十字架につけました。そして、イエス・キリストの着物をくじで引いて分け合っていました。これは詩篇22:18の成就と語られています。イエス・キリストの十字架は旧約聖書の預言の通りであり、神の計画であることを表しています。ヨハネは、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして、十字架に架かられたことを示しています。そして、ローマ兵の姿をも描いています。ローマ兵は、イエス・キリストの十字架に無関心でした。ローマ兵は、イエス・キリストを強盗と同じ罪人の一人としか捉えていませんでした。彼らの関心はイエス・キリストの十字架よりも、イエス・キリストの着物を分配することでした。目の前にあるものに関心が寄せられていたのです。
 ですが、このローマ兵の姿は、この世の姿でもあるのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架の意味が分からず、目先のものに囚われている人々の姿がローマ兵として描かれているのではないでしょうか。自分の罪深さに気づかず、楽しいことや自分の心を満たすものなどに関心を寄せる人々。結局は、自分のことを最優先に考える人々です。目の前に十字架に架かって苦しんでいるのに、そのようなことには全く気を留めることをしないで、自分のことだけに集中する人々。他人がどれほど苦しんでいてもお構いなしに、「自分さえ良ければそれで良し」とする人々。この姿は、昔も今も全く変わってはいません。ルカ23:34には、「父よ…分かっていないのです」と、そのような者をも赦されるようにとイエス・キリストは祈られています。ここに、イエス・キリストの愛を見ることができます。ローマ兵の姿は人間の姿そのものであり、私たちの姿でもあります。私たちも以前はイエス・キリストの十字架に無関心な者であり、自分のことを最優先していた者です。目先のことにこだわっていました。目先のことにこだわるのは、イエス・キリストを信じる今もそうかもしれません。そのような私たちのために、イエス・キリストは十字架に架かってくださったのです。私たちは、ただイエス・キリストの十字架を信じることによって罪が赦され、神の審きから救われた者に過ぎないのです。決して、私たちがすばらしかったからではありません。
 申命記9:4~5に「     」と書かれています。この時のイスラエルの民は、いつも神に不平をつぶやいていました。そのようなイスラエルの民に、神は約束通りにカナンの地を与えられました。彼らが神の約束の地であるカナンを与えられたのは、彼らがすばらしかったからではなく神の真実と憐れみによるものでした。人の罪の赦しにおいても同じです。それは、自分が正しかったからではなく、心が清いからでもありません。ただ神の真実と憐れによってなのです。その神の真実と憐れみによって、罪が赦されたことに感謝したいものです。教会とは、そのような人たちの集まりです。そして、同時にさらに神の真実と憐れみによって、神を信じる人が起こされることを祈っていきたいものです。

2)目に見えない地味な奉仕によって支えられている群れ
 次に教会とは、目に見えない地味な奉仕によって支えられている群れです。25節には、イエス・キリストの十字架に無関心なローマ兵に対して、女性の姿が描かれています。ここに書かれています女性たちは、最後までイエス・キリストを信じ従い通してきた女性たちです。弟子たちはゲッセマネの園で、イエス・キリストを残し全員逃げてしまいました。後で、ヨハネとペテロは大祭司の庭に行きました。しかし、ペテロはイエス・キリストのことを3回も「知らない」と否みました。弟子の中で、ヨハネだけがイエス・キリストの十字架の前にいたのです。他の弟子たちは、このとき何をしていたのかは分かりません。おそらく、「ユダヤ人に捕らえられるのを恐れて隠れていたのではないか」と思います。しかし、この女性たちはそうではありませんでした。では、この女性たちはユダヤ人に捕らえられることを恐れていなかったのでしょうか。多分、恐れを抱いていたと思います。ですが、それよりもイエス・キリストに対する思いの方が強かったのでしょう。その彼らにイエス・キリストは話しかけられました。その場面を想像しますと、イエス・キリストは苦しみの中で大きな声を出すことはできなかったでしょう。小さな声で話しかけ、その声を聞くことのできる所に彼女たちは立っていたと思われます。十字架に架けられて苦しんでおられるイエス・キリストに何もできないもどかしさを覚えたかもしれません。でも、ここに女性たちのイエス・キリストに対する愛を見ることができるのではないでしょうか。
 彼女たちの働きは、弟子たちのように目立った働きではありません。しかし、イエス・キリストに対する愛は、弟子たちに勝るとも劣らないものでもあったのです。それは、この彼女たちの姿を見ても分かるのではないでしょうか。その彼女たちの奉仕は地味なものですが、イエス・キリストの働きを最後で支えていたのです。イエス・キリストと弟子たちは、福音宣教のために多くの町を歩いていました。聖書には書かれていませんから想像でしかありませんが、そのための洗濯や料理をしていたかもしれません。彼女たちの働きは、派手なものではありませんが、イエス・キリストと弟子たちの働きを支えていたのも事実です。この女性たちの働きは、言うなれば雑用的なものです。でも、この雑用的な働きが福音宣教の働きに欠かすことのできないものであったのも事実です。
 Ⅰコリント12:22に「     」と書かれています。この「より弱く」というのは、強弱のことではありません。「目立つ・目立たない」ということです。「目立つ働きは必要ですが、目立たない働きもなくてはならないものである」と語っているのです。何故なら、目立たない働きによって、目立つ働きは支えられているからです。今年の箱根駅伝は青山学院大学が優勝しました。9区は14年間新記録が出ない最も古いものでした。その記録を青山学院大学の中村選手は破り新記録を樹立しました。彼は昨年の箱根駅伝の2区を走りましたが、全体の14位でチームは往路12位という成績に終わりました。彼はケガで悩まされていたようです。今までは練習後のケアを30分程度していたらしいのですが、それを60分程するようにしたというのです。そうすると、「ケガもしなくなった」と話していました。練習後のケアは目立ちませんし地味なものです。でも、それが大切なものであることを聞きながら思わされました。まさしく、Ⅰコリント12:22の通りではないでしょうか。この箇所は教会を身体に例えて語られています。教会とは、そのような目立たず地味な働きによって支えられている群れなのです。

3)神の家族としての群れ
 最後に、教会とは神の家族としての群れです。26節を見ますと、イエス・キリストは、母マリアに愛する弟子のことを「あなたの息子です」と話され、27節では愛する弟子に「あなたの母です」と話されました。何故このようなことを話されたのか不思議に思えないでしょうか。イエス・キリストが母マリアのことを心配されたからでしょうか。もしそうであるならば、血縁としては弟たちがいますから、弟たちに伝えるように言えば良かったのではないでしょうか。では、ここで語られていることは何を意味しているのでしょうか。それは、新しい家族形成がなされるということではないでしょうか。言うなれば、神の家族形成がなされるということです。この世の家族形成は血縁によるものですが、神の家族は信仰によって形成されるということです。すなわち、イエス・キリストの十字架を基として形成されているということです。信仰によって一人ひとりが結び合っており、一人ひとりの信仰による一致がなされている群れが教会なのです。
 マルコ3:35に「     」と、イエス・キリストが話されたことが書かれています。「だれでも」なのです。神の家族の一員となるのに差別はありません。ここに「だれでも神のみこころを行う人」と話されています。この「神のみこころを行う人」とは、「神の教えを守る人」ということではありません。「神のみこころを行う」とは、イエス・キリストを信じることです。そのために、神はイエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。それは誰でもイエス・キリストを信じるなら、その人の罪を赦し神の審きから救うためです。ですから、誰でもイエス・キリストを信じるなら、神の家族の一員となることができるのです。ですから、「教会は信仰による神の家族」ということができます。だからイエス・キリストは、「私の兄弟、姉妹、母なのです」と話されたのです。教会の中で「兄弟・姉妹」と呼び合うのは、同じ神の家族の一員だからです。
 家族というのは、同じ両親の子であっても一人ひとり性格や才能などが違います。同じ兄弟であっても、「できる子」と「できない子」がいます。それでも、同じ兄弟であり家族の一員です。できる子だけが家族ではありません。できない子も「家族の一員」として受け入れています。神の家族も同じです。キリスト者と言っても一人ひとり違います。その違いを認め、一人ひとりを互いに受け入れ合うのが教会です。教会とは、イエス・キリストの十字架を基として形成されている神の家族なのです。

結)
 教会に集います一人ひとりは違います。違いがあって良いのです。いや、違いがあるからこそすばらしいのです。でも、違いだけではありません。共通している点もあります。それはイエス・キリストの十字架によって罪が赦されているということです。教会は神の憐れみによって救われた群れであり、互いに見えない奉仕によって支えられている群れであり、イエス・キリストの十字架を基としての神の家族であることを覚えつつ、一人ひとりが互いに仕え合っていく群れとして歩まされるように祈っていきましょう。


ヨハネ19:16b~22「十字架が現すもの」 22.01.09.

序)
昨年は2年ぶりにクリスマスイヴ礼拝が行われました。イヴ礼拝では、今年の漢字である「金」から話をさせていただきました。「金」という漢字は「きん」と読みますし「かね」とも読みます。金は黄金を連想し、イエス・キリストは王として誕生されました。また、イエス・キリストは「おっかねー」という不安から守ってくださる方であることを話しました。では、イエス・キリストの十字架は何を現わしているでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられたいと願います。

1)神の愛
 まず、イエス・キリストの十字架は神の愛を現しています。共観福音書と比較しますと違う点があります。以前にも話しましたが、違いがあるということは強調点が違うということでもあります。その違いは何かと言いますと、イエス・キリストが十字架を負われたところです。共観福音書には、途中でクレネ人シモンがイエス・キリストの十字架を負わされたことが書かれています。しかし、ヨハネの福音書にはそのことが書かれておらず、最後までイエス・キリストご自身が十字架を負われたように書かれています。何故でしょうか。考えられることは、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして、十字架を負い続けられたことをヨハネは強調したかったからではないでしょうか。
 イエス・キリストは、完全な神であられると同時に完全な人でもあられます。昨年の女性クリスマス会は、流行語大賞から話をさせていただきました。昨年の流行語は「二刀流」でした。大リーグの大谷翔平選手の投打における活躍が話題になった1年でした。ヨハネの福音書は1:1に「ことばは神であった」と書かれており、14節には「ことばは人となって」と書かれ、神が人となられたことを示しています。まさしく、イエス・キリストは二刀流なる方であることを話しました。完全な人ですから、肉体的限界はありますが、霊的には私たちの罪を全て負い通されたのです。当時十字架刑に処せられる人は、自分が張りつけられる十字架を負って運ばなければなりませんでした。それは自分の十字架を負うことによって、自分が犯した罪の重さを知るためです。ですから、十字架は罪の重さの象徴とも言えるでしょう。しかし、イエス・キリストは罪を犯されませんでした。それはピラト自身も認めていました。それなのに、何故イエス・キリストは十字架につけられたのでしょうか。それは、ピラトやユダヤ人の自己中心さの故にです。イエス・キリストが負われた十字架は、人間の自己中心という罪そのものだったのです。イザヤ53:6に「     」と書かれています。まさしく、そのみことばの成就だったのです。イエス・キリストが負われた十字架は、私たちの罪そのものだったのです。
 ヨハネは、イエス・キリストが最後まで私たちの罪を負われたことを強調しているのです。人の中に「自己中心」という罪がなければ、イエス・キリストは十字架を負うことはなかったのです。どのような思いでイエス・キリストは、この十字架を負われていたでしょうか。Ⅰペテロ2:24には「キリスト自ら…その身に負われた」と書かれています。そして、へブル12:2には「ご自分の前に置かれた喜びのために」と書かれています。「何故私が」というのではなく、負っておられる十字架を通して、自分の罪を悔い改め神に立ち返る人が起こされるのを喜びとされていたのです。私たちが神に立ち返るために、イエス・キリストは喜んで十字架を負われたのです。それほど私たちは神に愛されているのです。イエス・キリストの十字架を通して、神の深い愛を知らされるのではないでしょうか。

2)身代わりによる死
 次に、イエス・キリストの十字架は罪の身代わりによる死を現しています。イエス・キリストは、ご自分の十字架を負い「どくろの場所」というゴルゴタに行きました。このゴルゴタは、ラテン語では「カルバリア」と言い、そこから英語で「カルバリ」ということばが使われています。このゴルゴタで、イエス・キリストは十字架につけられたのです。しかも一人ではなく他に2人と一緒につけられました。その他の2人は、共観福音書には「強盗であった」と書かれています。ですから、イエス・キリストは強盗と同じ犯罪人として十字架につけられたのです。事情を知らない人から見ますと、他の2人と何ら変わることのない犯罪人としか思えません。実際に、十字架刑は死刑にあたる重い罪を犯した人が処せられるものだったからです。
 ですが、聖書はイエス・キリストについてどのように語っているかと言いますと、Ⅱコリント5:21に「     」と語っています。イエス・キリストは罪を知らない方なのです。罪を知りませんから、当然罪のないお方でもあります。そのイエス・キリストを神は罪ある者として十字架につけられたのです。何故でしょうか。ある方は「私たちの身代わりとなるため」と答えられるでしょう。確かにその通りです。では、何故身代わりにならなければならないのでしょうか。クリスチャンでない方から「神が私たちの罪を赦す愛なる方であるなら、イエス・キリストを身代わりとして死なせず、そのまま赦せば良いではないか」と言われたら何と答えられるでしょうか。(何度も話してきましたから御存知だと思います。何と答えられますか。)神は愛なるお方であることには間違いありません。しかし、事を有耶無耶にするような方ではありません。神は愛なる方であると同時に義なる方でもあります。義とは正しいことです。罪を有耶無耶にして赦してしまいますと、神の義がなくなってしまいます。ですから、神の赦しには償いが求められるのです。償いのない赦しはないのです。
 例えば、ダビデがバテ・シェバの罪を犯したとき、神はダビデの罪を赦してくださいましたが、ダビデとバテ・シェバの間に生まれた子どもは亡くなりました。それはダビデの罪の償いとしてです。それはマナセ王にしてもそうです。マナセ王について、Ⅱ列王記21:11に「     」と書かれており、16節では「     」と書かれています。そして、23:26には「     」と書かれています。これと似た表現が幾つも列王記に書かれています。南ユダ王国が滅びたのはマナセ王の罪の故にです。ところが、そのマナセ王についてⅡ歴代誌33:12~13には「     」と書かれています。15~16節には偶像崇拝から立ち返り、ユダの人々をまことの神であられる主に仕えさせたことが記されています。マナセ王は自分の罪を悔い改めまことの神である主に立ち返ったのです。それなのに南ユダ王国は滅ぼされたのです。それはマナセ王の罪の償いのゆえにです。確かにマナセ王は罪を赦されましたが、自分が犯した罪の償いは必要だったのです。赦しには償いが伴うことを聖書は語っているのです。
 それは私たちの罪の赦しについても同じです。私たちはイエス・キリストを信じることによって、神の赦しを受けています。そして、私たちは神に対して自分の罪の償いをしていません。私たちは「イエス・キリストを信じることによって神の赦しを得て、神からの審きから救われた」と信じています。確かにその通りです。しかし、償いなしに赦されたのではありません。イエス・キリストが私たちの代わりに神に償ってくださったのです。イエス・キリストが私たちの代わりに犠牲を負ってくださったのです。決して、償いなしに赦されたのではないのです。そのことをきちんと捉えていませんと、イエス・キリストの十字架がぼやけてしまいます。イエス・キリストの十字架は、私たち一人ひとりが負わなければならない罪の償いを代わって行ってくださったものなのです。まさしく、私の身代わりとしての死なのです。

3)権威者
 最後にイエス・キリストの十字架は、イエス・キリストが権威ある方であることを現しています。イエス・キリストは、2人の強盗と共に十字架につけられました。そのイエス・キリストの十字架には、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていました。すると、ユダヤ人は「この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」とピラトに訴えました。しかし、ピラトはその訴えを却下しました。この「ユダヤ人の王」と書いたのは、ピラトのユダヤ人への仕返しとも考えられます。でも、それは真理でもあったのです。何故なら、ルカ1:32には「     」と書かれています。また、マタイ2:2には「     」と書かれています。イエス・キリストは、王としてこの世に誕生されたのです。さらに、ゼカリヤ書9:9には「     」と、救い主は王であることが預言されています。イエス・キリストは、この預言を成就されたのです。
 王は絶対的権威者です。旧約聖書に登場します預言者たちが神のことばを語るとき、「主はこう仰せられる」と言ってから神のことばを宣言しました。ですが、イエス・キリストはそのように話されませんでした。むしろ、「子よ。あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。これは、イエス・キリストが罪を赦す権威を持っておられることを示しています。さらに、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と、死んでも生かすことのできるイエス・キリスト。何故イエス・キリストがこのような権威を持っておられるのかと言いますと、イエス・キリストご自身が神の国の王であられるからです。そして、私たちの王としてイエス・キリストは十字架に架かられたのです。だから、私たちの罪を赦すことができるのです。イエス・キリストの十字架は、あなたの王という権威者であられることを現しているのです。

結)
 イエス・キリストの十字架は、「神はあなたを愛している」という神の愛と、「あなたの罪のため」という身代わりであり、「あなたの罪を赦す」という神の権威を現しています。イエス・キリストの十字架は、全て私たちのためなのです。私たちは、この事実に目を留めたいものです。そして、イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、生かされていることに感謝しつつ共に歩んで行きましょう。

ネヘミヤ8:9~12「生きる力の源」 21.01.02.

序)
 新年あけましておめでとうございます。今日から新しい年が始まりました。昨年はデルタ株が猛威を振るいましたが、10月に入りましたら一転して落ち着きました。ところが、新たなオミクロン株が徐々に増え始めています。なかなか気を抜けませんが、この新しい年を神から力をいただいて歩ませていただきたいと願います。では、その力はどのようにして与えられるのでしょうか。今朝は、そのことについて共に教えられ、今年1年を神から力をいただきたいと願っています。

1)背景
 まず、今朝の箇所までの背景を見てみたいと思います。イスラエルという国は、初代の王がサウルで、その次がダビデでした。そして、ソロモン、レハブアムと続きます。このレハブアムが王になったとき、イスラエルの国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。そして、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、アッシリアの国に捕囚として連れて行かれます。また、南ユダ王国もバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロンの国に捕囚として連れて行かれます。ところが、バビロニア帝国はペルシア帝国に滅ぼされ、ペルシアのキュロス王の時代にイスラエルの民はエルサレムに戻ることが許されました。そして、イスラエルの民の中から幾人かがゼルバベルという人と一緒にエルサレムの町に戻ります。その後、エズラやネヘミヤの時代に城壁や神殿が建設されました。この城壁や神殿建設の時には、周りの人々から罵られたり妨害を受けたりするという苦難に遭遇しました。この時代のイスラエルの民は神を信じて城壁や神殿建設に励んでいたのですが、決して順調な歩みではありませんでした。不安だらけの日々が続いていたのです。そのような中で、ネヘミヤは4:20で「     」と語り、イスラエルの民を励ましていたのです。4:16を見ますと、ネヘミヤはイスラエルの民を工事する半分の者に武器を持つようにしました。それは城壁建設を妨害する人々が襲ってくる危険性があったからです。そのような中で20節のことばを語っているのです。おそらくネヘミヤの中にも不安があったのではないかと想像できます。でもそれと同時に、「もし戦いが生じたとしても神が私たちのために戦ってくださる」と信じてもいたのです。ネヘミヤが頼るべきものは神しかなかったのです。
 不安との戦いというのは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。経済的なこと、今後の進路のこと、仕事のこと、子育てのことなど、いろいろとあるのではないでしょうか。信仰生活というのは不安との戦いでもあります。目の前には問題が山積みです。考えれば考えるほど気が参ってしまいます。私たちの中に「絶対」というものはありません。ですから、生活の中にも不安が生じます。「何故不安が生じるのか」と言いますと、クリスマスイブ礼拝でも話しましたが先が分からないからです。その先に何が生じるかが分かっていれば、それに対して備えることができますから不安は生じないのです。そのようなことを聞かれますと、ある方は「台風が来ることを予想して備えることはできるが、それでも不安を覚える」と言われるかもしれません。確かにその通りなのですが、それは台風の被害がどれほどのものかが分からないからです。私たちには分からないものが多いですから「絶対」というものはありません。しかし、1つだけ絶対なるものがあります。それは、神が最善を尽くして益としてくださるということです。ネヘミヤはそのことを信じて民を励まし、城壁の建設に取り組んだのです。そして、城壁は52日目に完成したのです。これが今朝の箇所に至るまでの背景です。

2)力の源
 ネヘミヤがイスラエルの民を励まし、城壁の建設に取り組むことができた力の源は何でしょうか。今度はそのことについて見てみたいと思います。城壁の完成後、イスラエルの民は水の門の前の広場に集まります。そこでエズラを通して、モーセの律法の書とその解き明かしを聞きます。彼らは聞いて泣くのです。何故泣いたのかと言いますと、モーセの律法を通して、自分たちの罪深さを知らされたからです。自分たちは神に従う者として造られたのにも拘らず、神に背き歩んでいたことを悲しんだのです。日本のことばで言えば恩を仇で返していたのです。私たちも神から様々な恵みをいただいています。健康のこと、家族のこと、仕事のことなど様々です。その神に対してどのように応答しているでしょうか。そのことを思いますと、当時のイスラエルの民と何ら変わらないことに気づかされるのではないでしょうか。そのような民に、ネヘミヤとエズラとレビ人は何と言ったでしょうか。9節に「今日は…泣いてはならない」と語ったのです。何故なら、今日は神のために聖別された日だからです。すなわち、「今日は泣く日ではなく、神を喜び礼拝する日である」と語ったのです。彼らは「自分たちは確かに神に対して罪を犯してきた。しかし、そのような私たちを神は憐れんでくださり、私たちをエルサレムに戻してくださり、城壁を完成させてくださった。律法に照らし合わせるなら、神の審きを受けて当然の者であるのに、神が憐れんでくださったことに喜びなさい。」と語っているのです。
 この彼らのことばから、「何処に目を向けるのか」「何に目を向けるのか」の大切さを知らされるのではないでしょうか。イスラエルの民は、律法と解き明かしを聞いて自分たちが罪を犯したことに目を向け悲しみ泣きました。これはこれですばらしいことです。でも、それ以上に大切なのは、そのような私たちに神は何をされたのかということに目を向けることです。確かに、イスラエルの民は神に対して罪を犯しました。でも、そのイスラエルの民を神は顧みてくださったのです。見捨てることをされず、尚も愛してくださり憐れんでくださったのです。その神の愛と憐れみに目を向けることが何よりも大切なのです。続けてネヘミヤは、10節で「行って、ごちそうを食べ…聖なる日である」と語っています。「ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい」とは「食事会をしなさい」ということです。それは、神が自分たちにしてくださったことを祝うということです。神が自分たちにしてくださったことを分かち合うということです。そのことをネヘミヤは勧めているのです。ここに教会における礼拝後の食事会の意義を見出すことができるのではないでしょうか。礼拝後の教会での食事会は、単なる交わりではなく共に神の愛と憐れみに目を留めることができ、共にその神を礼拝することができた恵みを分かち合うときでもあります。それこそが教会における礼拝後の食事会の意義ではないでしょうか。
 さらに、10節の最後に「主を喜ぶことは、あなたがたの力だから」と、食事会をして喜ぶ理由が書かれています。以前の聖書では、「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」と訳されていました。このことばの直訳は「主の喜びはあなたがたの力です」となります。なのに、何故以前の聖書は「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」と訳されたのでしょうか。調べてみますと、「力」ということばの捉え方の違いのようです。以前の新改訳は「力強い」と捉えて訳されていたようです。ですから、「あなたがたが力強いことを主は喜ばれる」と捉えていたと考えられます。今の訳は「力」を「砦」と捉えての訳のようです。砦を「基地」と考えても良いでしょう。基地の中で食事などをして力をつけ戦いに向かいます。ですから、「力の源」でもあるわけです。「このような私に神は目を留めてくださり、愛し憐れんでくださっている」という所に目を留めて共に分かち合うことが、その人の生きる力の源となるのです。すなわち、神を喜ぶことが生きる力の源なのです。

3)新しい時代に生かされている者として
 今朝の箇所のメッセージを現代の私たちの時代にどのように適用できるでしょうか。今度は、そのことについて見てみたいと思います。生きるとは、ただ何となく生活するというものではありません。「生活」とは「生きて活動する」と書きます。惰性で生きるのではなく積極的に生きて活動するのが生活です。そして、積極的に生きて活動するには、すでにあるものやできることに目を向け感謝し喜ぶことです。自分にないことやできないものに目を留めて責めてもできないのです。最初は「よし頑張ろう」と思うかもしれません。しかし、次第に疲れてしまい倒れてしまいます。何故でしょうか。頑張るからです。何度も話していますが、頑張るとは我を張ることです。神を端っこに追いやって、自分の力でやろうとすることです。そのような歩みは、最初は良いかもしれませんが長続きはしません。そして、喜びも消え失せてしまいます。
 頑張る生き方は、濡れたタオルを絞るのとよく似ています。最初は勢いよく水が出ます。しかし、やがて水が出るのも少なくなり、とうとう水は出なくなります。どれだけ頑張って絞っても水は出ません。何故なら、タオルの中に含まれている水分が少ないからです。そのタオルから水を絞り出すには、水を染み込ませなければなりません。ですが頑張る生き方は、タオルに水を染み込ませようとされる神に対して、「いや大丈夫です」と言って断り、自分の力で一生懸命絞り出そうとするのと同じです。
 自分の足りなさや弱さを責め頑張る生き方は、喜びのない苦しい生き方となってしまいます。喜びのある力のある生き方は何でしょうか。それは、自分の罪がイエス・キリストによって赦されていることを素直に感謝し喜ぶことです。ともすると、私たちは「神が喜ばれることをしよう」と思ってしまいやすくなります。それは別に悪いことではありません。ですが、私たちは神を喜ばそうとする必要がなくなっているのです。ただ神がしてくださったことを喜べば良いのです。私の罪のために身代わりとなってイエス・キリストが十字架に架かって、神の審きを受けてくださったことを素直に感謝し喜べば良いのです。この喜びこそが最大の力なのです。赦され生かされていることに喜びを見出すところに、私たちの生きる力があるのです。今の時代は神を喜ばす時代ではなく神を喜ぶ時代です。何故なら、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かってくださり、私たちの罪をすでに拭い去ってくださったからです。私たちは、その新しい時代に生かされているのです。
 それは神への礼拝もそうです。旧約時代は、「律法に定められているから行う」という消極的なもののように捉えられていました。実はそうではなく、律法を守り行うことのできない者にも目を留めてくださる神に感謝するものだったのです。しかし、律法を強調するがために「ねばならない」というマスト的考え方になってしまったのです。ただ聖書は、旧約であれ新約であれ、「このような自分に神は目を留めてくださり愛し憐れんでくださっていることに感謝することが礼拝である」と語っているのです。

結)
 今日は今年最初の礼拝です。昨年も様々なことがあったことでしょう。今年はどのような年になるでしょうか。もし、喜びの力のある1年を願うなら、まず神を喜ぶことです。そして、神を喜ぶには「神が私に何をしてくださったか」を思い巡らすことです。私の罪がイエス・キリストによって赦され、神を礼拝できる恵みに目を向けることです。また、自分の弱さや足りなさを助けてくださる神に目を向けることです。この新しい年、神を喜ぶ1年として歩まされましょう。

ヨハネ19:1~16a「変わるものと変わらないもの」 21.12.26.

序)
 今年も新型コロナウイルスに振り回された1年でした。当初の従来型からα型に変異し、今はデルタ株からオミクロン株に変異しています。様々なものは移り変わっていきます。それは人の心も移り変わりやすいのではないでしょうか。今朝は、登場する人たちから変わる人と変わらない人を見てみたいと願っています。

1)ピラト
 まず登場する人は、ローマ帝国から遣わされたイスラエル地方の総督であるピラトです。彼は、この地方では一番の権威者です。彼を想像しますと、「自信に満ち溢れていた人ではないか」と思えます。
「自分はこの地域で最高の権威者であり、この地域においては自分の許しなしでは何もできない」と考えていたのではないでしょうか。さらに言うならば、「何でも自分の考え通りにできる」と思い込んでいたのではないでしょうか。しかし、ピラトはイエス・キリストの裁判を通して、その自信はもろく崩れ去ってしまいます。ピラトは、「イエス・キリストは罪を犯していない」と判断しました。そして、18:38の最後に「私はあの人に何の罪も認めない」と言ったのです。ですから、イエス・キリストを釈放しようと思えば釈放できたのです。しかし、その後ピラトはどうしたでしょうか。今朝の箇所の1~5節に書かれていますように、イエス・キリストをむち打ちし、茨の冠をかぶらせ、紫色の着物を着せ、イエス・キリストを惨めな格好にさせたのです。ひょっとしたら、「このようなイエス・キリストの姿をユダヤ人が見れば心も落ち着くのではないか」と考えたのかもしれません。ですが、事はそう簡単なものではありませんでした。そのイエス・キリストの姿を見たユダヤ人は、「十字架につけろ」と激しく叫んだことが6節に書かれています。
 それを聞いたピラトは、「私にはこの人に罪を見出だせない」と宣言しました。しかし、ユダヤ人はさらに強く要求したのです。その彼らのことばを聞いたピラトは「ますます恐れを覚えた」と8節に書かれています。恐れを覚えるほどの気迫をユダヤ人から受けたのでしょう。そのためピラトは、改めてイエス・キリストに問いましたが、イエス・キリストは何も答えられませんでした。10節でピラトは「私にはあなたを…知らないのか」と話します。このときピラトは、「自分はこの地方で最高の権威者である」と思っていたのです。「釈放する権威を持っている」と考えていたのです。イエス・キリストを釈放する努力をしますと、ユダヤ人から「この人を釈放するなら…カエサルに背いています」と訴えられます。その叫びを聞いたピラトは裁判の席に着いたのです。「ここで裁判の席に着いたのなら、今までのやり取りは何だったのか」と思われるかもしれません。「調停の場」と捉えたら分かりやすいのではないでしょうか。お互いの意見を聞いて落とし所を探って和解しようとしていたのです。先程も話しましたように、事はそう簡単なものではなかったのです。そのため、正式な裁判を始めることにしたのです。それが13節に書かれていることです。
 正式な裁判が始まっても、ピラトは自分の考えることを変えることはしませんでした。それは15節のピラトのことばからも想像できます。しかし、そのピラトのことばに対して、ユダヤ人は「カエサルのほかには、私たちに王はありません」ということばにピラトは屈してしまったのです。何故なら、もしイエス・キリストを無罪としますと、今度は自分に矢が向けられるからです。ユダヤ人は「カエサルが自分たちの王だ」と言っているのに、「イエス・キリストをユダヤ人の王」として無罪にしますと、今度は自分が「カエサルに背く者」とされてしまうからです。総督の地位から退けられるだけでなく、自分の命にまでもかかわってくる事柄だからです。「この地域では最高の権威者」と思っていたピラトでしたが、実はユダヤ人の訴えに左右されてしまうような権威しかなかったのです。自分の身の安全を守るために、自分の決意を変えてしまう存在だったのです。

2)ユダヤ人
 では、ユダヤ人はどうでしょうか。ユダヤ人は「自分たちの王は唯一の神しか存在しない」と信じていた人たちです。ですから、自分を神とし王と語っていたイエス・キリストを訴えたのです。ユダヤ人がピラトに訴えたとき、15節の最後に「カエサルのほかには、私たちに王はありません」と言ったのです。今まで自分たちの王は神であると言っていた人たちが、「イエス・キリストが死罪にならない」と思いましたら、カエサルを自分たちの王と主張したのです。自分たちの要求を叶えるために、王を神からカエサルに変えてしまったのです。ユダヤ人の訴えは、自分たちの王である神と等しい存在としているイエス・キリストについてです。ですが、今はもうそのようなことはどうでも良いのです。イエス・キリストを十字架刑に処すことが最大の目的になってしまっていたのです。何故、そのように変わってしまったのでしょうか。それは、自分たちの願いを達成させたいからです。自分たちの願いを叶えるためなら、真理をも曲げてしまう人たちだったのです。
 このピラトとユダヤ人を通して、人の弱さと罪深さというのを知らされるのではないでしょうか。ピラトは自分の地位を守るために、自分の心を偽りながら、イエス・キリストを十字架につけるためにユダヤ人に引き渡しました。ユダヤ人は、イエス・キリストを十字架につけるために、カエサルを自分たちの王にしました。人間というのは自己中心の故に、自分の願いを叶えさせるためなら、あっさりと翻してしまう弱い存在です。その自己中心を聖書は「罪」と語っています。もし、人に自己中心がなければイエス・キリストは十字架に架かられることはなかったのです。私たちの中にあります自己中心が、イエス・キリストを十字架に架けさせたのです。

3)イエス・キリスト
 ピラトやユダヤ人は状況によって変わってしまう人たちでした。では、イエス・キリストはどうだったのでしょうか。イエス・キリストは、状況がどのように変わろうとも、自分の道を変えることをされませんでした。イエス・キリストの十字架は私たちの罪によるものですが、同時に私たちの罪の身代わりでもあります。イエス・キリストは、その十字架に架かられるためにお生まれになられたのです。本当ならば、私たちが十字架に架かって死ななければならなかったのに、その身代わりとしてイエス・キリストが十字架に架かって、神の審きを受けてくださったのです。昨日はクリスマスであり、一昨日はクリスマスイヴ礼拝を献げました。このクリスマスのとき、そのためにお生まれになられたイエス・キリストを覚えつつ年末を過ごし、イエス・キリストにあって新年を迎えたいものです。
 私たちはイエス・キリストを信じつつも、ピラトやユダヤ人と同じように弱さを持っている者です。信仰が与えられていると言いつつも状況に流されたり、「正しい」と分かっていながらもできない弱さを持っています。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、決して変わることのない方を知っています。イエス・キリストは、状況がどのように変わろうとも決して変わることのない方です。「あなたを愛する」と言われたなら、決して変わることなく愛し続けてくださいます。私たちは弱さの故に、聖書の教えに反してしまうことがあるかもしれません。それでも、神は私たちを愛し続けてくださいます。
 私たちは信仰が与えられつつも、生活の中で不安を抱くことがあります。イヴ礼拝でも話しましたが、不安を抱くのは先が分からないからです。そのような私たちに、イエス・キリストは「平安を与える」と約束してくださっています。神が与えてくださる平安は、信仰が強められることによって与えられるものではありません。弱い者であっても、決して見捨てられることがなく、神が守り支えてくださるという確信です。これがイエス・キリストにある平安です。「あなたに平安を与える」という約束も、決して変わることがありません。私たちは、その約束をしてくださったイエス・キリストを知っています。これは何とすばらしいことでしょうか。パウロは、ピリピ3:8の前半で「それどころか…損と思っています」と告白しています。移り変わりやすい世の中にあって、決して変わることのない方を知っている。これほどすばらしいものはありません。信仰が強められることや何かができることはすばらしいことです。しかし、それよりもイエス・キリストを知っていることの方がもっとすばらしいのです。
 ある方は、「イエス・キリストを知ることは当然として、さらにその上にすばらしいものを求める。これが信仰が強められることや何かができること」と言われるかもしれません。ですが、イエス・キリストを知ること以上にすばらしいものはありません。イエス・キリストを知ること以上にすばらしいものを求めるのは、「イエス・キリストを知ることでは満足できない」ということでもあります。厳しい言い方をするならば、それは本当の意味でイエス・キリストを知ってはいないのです。パウロは信仰が強められることや神に義と認められることを熱心に求めていました。しかし、イエス・キリストを知ることによって、「すべてを損と思っている」と告白しているのです。この「すべて」とは、信仰が強められることや何かができることも含んでいます。間違えられると困りますが、「信仰が強められることや何かができることを求めてはいけない」と語っているのではありません。それらを求めることは良いのですが、「イエス・キリストを知る以上のものではない」ということです。私たちは、その決して変わることのないイエス・キリストを知っていることに神に感謝したいものです。

結)
 今年も残すところ約1週間です。今年も新型コロナウイルス感染に振り回された年でした。そして、新たにオミクロン株が日本でも流行しそうな様子です。コロナウイルスも変異しますが、決して変わることのない方に守られ導かれていることを覚えつつ、年末年始を過ごさせていただきたいと願います。

ルカ2:8~20「クリスマスが与える平和」 21.12.19.

序)
 クリスマスおめでとうございます。今日はクリスマス礼拝で、礼拝後には祝会が行われ楽しいひとときを一緒に過ごせればと思っています。多くの日本人は「クリスマスは楽しいもの」と思われているのではないでしょうか。確かに楽しく過ごして良いのです。何故なら、クリスマスは誕生会だからです。では、誰の誕生会なのでしょうか。それはイエス・キリストです。先月の末に、ある方から「駐車場に飾られている人形ですが、夜のライトを怖がる子どもがいるので何とかならないか」と言われました。でも、クリスマスの主役であるイエス・キリストを取り除いてしまいますと、主役がいない誕生会になってしまいます。それで新たにイルミネーションを飾り明るくしました。今週の金曜日に行われるイヴ礼拝のときに見ていただければと思っています。
 さて、今朝の箇所で御使いは羊飼いたちの所に現れて、突然「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人にあるように。」と神を賛美したことが13~14節に書かれています。今朝は、クリスマスが与える平和とは何かを共に教えられたいと願っています。

1)神との平和
 イエス・キリストが生まれた目的の第1は、神とあなたとの平和のためです。御使いは羊飼いの所に現れました。何故、羊飼いたちの所に現れたのでしょうか。羊飼いというのは遊牧生活をしています。ですから、一定の場所に住むことをしないで、点々と住む場所を変えています。日本の劇団などは、ある所に数か月滞在したら別の場所に移動します。そして、その別の場所で数か月上演したら、また別の場所に移動します。すると、その劇団員の家族の子どもは学校を数か月で転校しなければなりません。日本は15歳までは義務教育ですから、子どもは学校に行って勉強することができます。でも、当時のイスラエルには「義務教育」という制度はありませんから、子どもは学校に行って勉強することなどできませんでした。そのため、字を読むこともできなければ書くこともできなかったのです。字を読むことも書くこともできない子どもが大きくなりますと、当然大人になっても読み書きができないままです。そうなりますと、当然収入の高い仕事などに就くことができません。そのため社会的身分は低いままです。羊飼いは社会的身分の低い人を表してもいるのです。
 また、イスラエルの人たちは安息日に仕事を休んで神を礼拝していました。安息日というのは、神は世界を6日間で造られました。そして、「7日目は休まれた」と聖書に書かれており、「その日を安息日として神を礼拝するように」とも書かれています。この安息日は、現代の土曜日にあたります。ですから、ユダヤ教の人たちは土曜日に仕事を休んで神を礼拝されています。ところが、羊飼いは羊の世話をしなければなりません。羊の餌を求めて歩き回らなければならないのです。それを休めば、羊はお腹を空かしてしまい体調を崩してしまいます。そうなりますと、羊飼いの収入は少なくなり生活にも困ってしまいます。ですから、安息日であっても仕事を休むことができなかったのです。羊飼いたちも安息日に仕事を休んで神を礼拝しなければならないことは知っていました。でも、自分たちの生活のために仕事を休むことができなかったのです。
 ところが、一般のユダヤ人から見れば、「羊飼いたちは聖書の教えを守っていない」として、「神に逆らう罪人だ」とレッテルを貼っていたのです。私たちは「犯罪人」とまでは行かなくても、「変な人」と思えるような人に対してどのような態度をとるでしょうか。まず、自分の方から声をかけたり近づくことはしないのではないでしょうか。私が稲沢市に引っ越した頃は、集会所もありませんでしたので集会所探しをしていましたし、集会所を借りることができた後もチラシ配布などをして日中にアパートに戻ったりしていました。すると、近所の人たちは「あの人は何をしている人?」と変な目で見られていたようです。これは後に分かったことですが。今もそうかもしれません。朝夕毎日犬の散歩をしているのですから、「あの人仕事しているの?」と思われているかもしれません。この年齢ですから「退職された人」と思われているのかもしれません。ある人から見れば「要注意人物」の一人かもしれません。羊飼いも同じです。一般の人からは避けられていたのです。彼らは一般人から見れば「変な人」・「要注意人物」にあたるような人たちだったのです。
 でも神は、そのような羊飼いたちの所に御使いを送られたのです。何故でしょうか。一般の人の所に送られても良かったのではないでしょうか。実は、それだと意味がないのです。何故なら、一般の人は「変な人」・「要注意人物」ではないからです。羊飼いたちは、一般人から自分たちが「神に対して罪を犯している人」「変な人」と思われていることに気づいていました。そして、「神からも人からも見捨てられている」と思っていたのです。そのような羊飼いたちの所に、神は御使いを送られたのです。それが意味するものは、神は羊飼いたちを見捨てられていないということです。これは羊飼いたちが勝手に思い込んでいただけであり、彼らの誤解だったのです。
 そのような誤解というのは、私たちにもあるのではないでしょうか。神は決して人を見捨てることをされません。その人がどうであれ愛してくださる方なのです。確かに、懲らしめを受けることはありますが、「懲らしめを受ける」というのは「愛されていない」ということではありません。親は子どもを愛していますが、子どもが間違ったことをした時は懲らしめることがあるのではないでしょうか。それと同じです。この救い主誕生の知らせを聞いた羊飼いたちは、このとき初めて神との平和が訪れたのです。クリスマスが与える平和は神との平和です。

2)自分との平和
 イエス・キリストが生まれた目的の第2は、自分と自分の平和を築くためです。神は生き方を変えた羊飼いたちの所に御使いを送られたのではありません。変わっていない羊飼いたちの所に御使いを送られたのです。それは、ありのままの羊飼いたちを受け入れていることを意味します。それと同じように、神はありのままのあなたを受け入れ愛されています。神は「今のあなたを愛している」と告げてくださっているのです。私たちは、自分が完璧な存在ではないことを自覚しています。ですから、弱さがあり失敗もしてしまいます。時には、そのような自分に自己嫌悪を覚えてしまうこともあります。直さなければならないことは分かっていても、それがなかなかできないのが実情ではないでしょうか。羊飼いたちもそうでした。そして、「私なんか、この世に居ても居なくても関係のない存在」と思っていたかもしれません。自分の存在意義が見えなくなりますと、全てを否定的に捉えて生きるようになってしまいます。
 でも神は、そのような羊飼いたちの所に御使いを送られ、すばらしい喜びの知らせを伝えたのです。羊飼いたちは、この出来事を通して、ありのままの自分が神に愛され受け入れられていることを知ったのです。人は受け入れられたとき変えられます。変わるのではなく、変えられるのです。弱さを持ち、自己嫌悪に陥ってしまう自分に、「そのような者でも良いのだよ」と言って愛し受け入れられていることを知った羊飼いたちは、ありのままの自分を受け入れることができたのです。神との平和が築かれたとき、自分との平和も築くことができたのです。これは頭で理解できるものではありません。クリスマスが与える平和の第2は自分との平和です。

3)他人との平和
 イエス・キリストが生まれた目的の第3は、他人との平和を築くためです。羊飼いたちは、一般の人から避けられていましたから、自分たちの方からも関係を持とうとはしませんでした。人間関係というのは、そのようなものではないでしょうか。自分のことを良く思っていない人を何となく分かるのではないでしょうか。そのような人に、自分の方から積極的に関わろうとは思わないでしょう。仕事など仕方なく関わるというのはありますが、それは消極的なものであり決して積極的なものではありません。羊飼いたちもそうだったのです。
 しかし、神との平和と自分との平和が築かれた羊飼いたちは、その後どうしたでしょうか。そのことが16~18節に「     」と書かれています。16節の最後に「捜し当てた」と書かれています。「捜し当てた」というのは、一軒一軒捜し歩いたことを意味しています。ベツレヘムの町で救い主が生まれたことは聞いていましたが、場所の特定は聞いていませんでした。赤ちゃんが家畜小屋で生まれるなど誰もが想像しないと思います。それを捜し当てたのですから、羊飼いたちは相当苦労したのではないでしょうか。諦めて帰ることもできたのですが、羊飼いたちは諦めることをしないで捜し続け、やっとの思いで捜し当てることができたのです。そして、御使いに告げられたことを周りの人たちに知らせたのです。この周りの人たちは、自分たちのことを良く思っていない一般人です。でも、羊飼いたちは自分たちから彼らに話しかけたのです。関係を持ち始めたのです。この様子を思い浮かべますと、それは彼らが大きな決断をして思い切って話しかけたものではなく、ごく自然な形で話しかけたのではないでしょうか。
 「何故そのようなことができたのか」と考えますと、御使いが話した通りであり彼らの中に喜びが沸き起こっていたからではないでしょうか。ありのままの自分が神に愛され受け入れられる経験し、ありのままの自分を受け入れられたとき、今度はありのままの他人を受け入れることができるように変えられるのです。これは本人がどれだけ努力してもできるものではありません。努力して最初はできるかもしれませんが決して続くものでもありません。努力して行いますと、やがては疲れてしまいその人自身もダメになってしまいます。何故なら、与えてばかりいるからです。与えることができるのは、自分の中に与えるものがあるからです。少ないのに与え続けますと疲れてしまいます。日々、愛され受け入れられていることを経験しますと、努力の必要はなく自然とできるように変えられます。何故なら、自分の中が満たされているからです。羊飼いたちはその経験をしたから、ありのままの他人を受け入れることができたのです。クリスマスが与える平和とはそのようなものです。

結)
 クリスマスを通して、神は私たちに本当の平和を与えてくださいました。イエス・キリストは、その本当の平和を与えるためにお生まれになられたのです。そのクリスマスの意味を思い巡らしつつ、イヴ礼拝に備えクリスマスを迎えたいと願わされます。

ルカ2:1~7「神のすばらしさ」 21.12.12.

序)
アドベントの第3週を迎えました。いよいよ来週はクリスマス礼拝と祝会です。コロナの状態がこのまま落ち着き、2年ぶりに食事会ができるのを期待する一人です。今年のクリスマス、神は私たちにどのようなすばらしいことをしてくださるでしょうか。その神のすばらしさは、私たちにとって喜ばしいこととは限りません。自分自身にとっては喜ばしくないこともあります。今朝は、イエス・キリストの誕生を通して、神のすばらしさについて共に教えられたいと願っています。

1)タイミングを通して
第1に、神はタイミングを通して、私たちにご自身のすばらしさを現してくださいます。1節の最初に「そのころ」と書かれています。これは直接的には、1:67以降に書かれていますバプテスマのヨハネの父ザカリヤが、聖霊に満たされて預言したときの頃です。同時に、ヨセフとマリアが結婚し、まもなく御使いが告げたイエス・キリストの誕生が間近になった頃のことです。では、イエス・キリストの誕生の頃はどのような時代だったのでしょうか。それはローマ帝国がイスラエルを支配していた時代です。ローマ帝国は地中海沿岸地域を支配していました。「全ての道はローマに通ずる」と言われたように道路整備が行われていました。「道路整備がなされる」ということは、「流通がしやすくなる」ということです。そうしますと、当然人の行き来が増えます。当時のことばは、ギリシャ語が共通語として普及していました。共通語が普及すると情報伝達も早くなります。それは、福音が広マリアすい条件が整いかけていたということでもあります。
そのような時代に、皇帝アウグストは住民登録の勅令を出しました。それは徴兵や徴税のためです。ローマ帝国をさらに強め繁栄させるためです。そのようなときに、ヨセフとマリアはベツレヘムに向かうこととなります。何故なら、ヨセフはダビデの子孫であり、ベツレヘムが先祖の町だからです。そして、救い主がベツレヘムに誕生することは、昔から預言されていました。ベツレヘムでの出産はヨセフとマリアにとっては仕方なくというものかもしれません。でも、それが神の導きでもあったわけです。また、ヘレニズム文化が発展し、哲学なども進むにつれ、人々は霊的満たしを求めるようになる時代でした。そのような中、ユダヤ人は旧約聖書に預言されていた救い主の誕生を待ちわびる思いが強まっていたのです。イエス・キリストの誕生は、まさしくそのような時代だったのです。
ガラテヤ4:4に「時が満ちて」と書かれています。また、伝道者の書3章には、何においても時があることが記されています。時は神が定められています。ですから、イエス・キリストの誕生も神が定められた時でもあったのです。神は世界の情勢をも用いることのできる方です。イスラエルの民がローマ帝国に支配され、その皇帝の命令によって先祖の町で住民登録をしなければならないために、ヨセフとマリアは先祖の町ベツレヘムに向かいました。ベツレヘムはキリストの誕生が預言されていた地です。ローマ帝国の支配は、神の御心であったかどうかは分かりませんが、神はその時代の情勢を用いられたことは確かなことです。その時代の情勢を用いられて、神はご自身の確かさというものを示すことのできるお方です。神は最善の時に事を行われます。ここに神のタイミングというものを知らされるのではないでしょうか。その神のタイミングを覚えつつ、最善の時に最善のことをしてくださることに期待しつつ、アドベントのときを過ごさせていただきたいと願います。

2)試練
第2、神は試練を通して、私たちにご自身のすばらしさを現されます。神のタイミングはすばらしいものです。しかし、それは必ずしも本人にとって喜ばしいこととは限りません。ヨセフとマリアは、御使いから「救い主を産む」という約束を受け、その約束を信じて結婚しました。そして、マリアはみごもり出産間近となったとき、皇帝アウグストから「住民登録をせよ」という命令をだされました。出産間近であるにも拘わらず旅に出なければならないというのは、出産間近の女性にとってはとてもきついことです。そして、やっとベツレヘムの町に着いたと思ったら、今度は泊まる宿屋など一軒もないのです。神の約束を信じヨセフと結婚し、ベツレヘムの町に行ったけれども泊まれる宿屋が一軒もない。「何故」と思える状況です。そして、マリアの出産は宿屋ではなく家畜小屋です。イエス・キリストは家畜が食べる餌の籠である飼い葉おけに寝かせられました。出産は親にとっては喜びのときです。その喜びのときが汚い所での出産となったのです。これは辛いものでもあったことでしょう。
マリアはどのような思いだったでしょうか。「やっとゆっくりできる」という安堵感と同時に、「何故こんな所で」という思いではなかったでしょうか。神を信じ従ったのに、待っていたのは辛いことばかりです。イエス・キリストは、そのような辛い中で誕生されたのです。それが意味するものは何でしょうか。イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれる方です。それは「神は私たちと共におられる」という意味です。ヨセフとマリアの辛さの中にイエス・キリストが誕生されたということは、辛さの中にあっても神は共にいてくださるということでもあります。辛さというのは、その人にとっては試練でもあります。私たちは試練に遭遇すると、神に見捨てられたように思えてしまうことがあります。しかし、神は私たちを決して見捨てられはしません。試練の中にあっても共にいてくださいます。このマリアの出産を通して、私たちはそのことを知らされるのではないでしょうか。家畜小屋は、どれだけきれいにしても、私たちから見れば汚い所です。その汚い所にイエス・キリストは誕生されたのです。そして、決してきれいではない飼い葉おけにイエス・キリストは寝ておられたのです。
汚い所にイエス・キリストは来られ寝ておられる。私たちの心は己中心的なものであり、汚れでいっぱいではないでしょうか。そのような私たちの中に主は来てくださったのです。神は「汚れ」というものを嫌われるお方です。その汚れの中に来てくださったのです。しかも、神ご自身が嫌われる所に、ご自身の意志で来てくださったのです。その目的は何でしょうか。汚れた私たちの心を聖めるためです。
私はどちらかと言いますときれい好きです。時々食器などの洗い物をすることがあります。そのとき、やかんや鍋が黒くなっていることがあります。それで、私は金属たわしでこすり落とすことがあります。そのとき、やかんや鍋はどのような思いでしょうか。おそらく痛い思いをしているのではないでしょうか。何故なら、力を入れてこするからです。汚れがひどければひどいほど、力を入れてこすらなければなりません。ですが、こすられる側としたら辛いものです。痛みを覚えます。それは試練でもあります。でもそれはきれいにするためです。
試練とは、痛みを覚えるものではないでしょうか。そして、私たちも神から試練を経験させられ痛みを覚えます。でも、その目的は私たちを聖めるためであり成長させるためです。神は私たちにすばらしいことをしてくださいます。そして、その神のタイミングもすばらしいものです。しかし、そこには試練も伴うことを覚えたいものです。

3)希望
第3に、神は希望を通して、私たちにご自身のすばらしさを現してくださいます。マリアの出産は家畜小屋の中であり、決してきれいな所ではありませんでした。むしろ、衛生的にはひどい所と言えるでしょう。そのような所で出産しなければならなかったマリアにとっては、「複雑な思いではなかったか」と思わされます。そして、そのような中でイエス・キリストは誕生されました。誕生された後、マリアの複雑な思いはなくなったのではないかとも想像できます。誕生は喜びのときです。何故喜ぶのでしょうか。苦しみを通して生んだことによって、苦しんだ甲斐があったからかでしょうか。すなわち、「苦しみが無駄ではなかった」ということへの喜びでしょうか。それもあるかもしれません。しかし、何よりもの喜びは、ここに新しい命が誕生したからではないでしょうか。新しい希望が与えられたからではないでしょうか。誕生というのは人に希望を与えます。イエス・キリストの誕生は、人に本当の希望を与えてくれます。
試練に遭遇しますと、四方八方塞がってしまったように思えます。何処を向いても真っ暗闇のように思えます、神は世界を造られたとき真暗闇でした。その闇の中に「光よあれ」と告げられたとき光が生まれました。光は人に希望を与えます。私たちは試練に遭遇し真暗闇の中にあったとしても、そこに光を見出すことができます。何故なら、ヨハネ1:9に「     」と書かれていますように、イエス・キリストは「まことの光」としてこの世に来られた方だからです。光とはどのようなものでしょうか。まず、方向を示してくれます。夜になると明かりを灯します。灯台は海の上を漂うものに陸があることを示します。そして、船は港の明かりを目指して進みます。飛行機も空港の光を目指して着陸します。光は私たちに進むべき道・方向を示してくれます。イエス・キリストがまことの光として誕生されたのは、暗闇の人生の中にあって、私たちが進むべき道・方向を示すためです。また、光は力を与えます。陸の上に生きる全てのものは、光を受けることによって育ちます。それは光が力に変えられるからです。また、光は輝かせます。電球はスイッチを入れますと輝きます。ですが、電球自体は輝くことはできません。スイッチを入れることによって光が生じ、その光が電球を通して輝かせています。イエス・キリストを信じるなら、その人の内にイエス・キリストが住んでくださいます。そして、その人を輝かすことができます。何故なら、イエス・キリストはまことの光としてお生まれになられたからです。
光は道を示し、力を与え輝かすことができます。生きる希望を与えることができます。イエス・キリストは、そのまことの光としてこの世にお生まれになられたのです。私たちがどのようなときであっても、イエス・キリストは共にいて光を与えてくださいます。「絶体絶命」ということを経験したとしても、その中で希望を持つことができます。何故なら、主は私たちの理解を超えた大いなる方だからです。イエス・キリストは、私たちに本当の希望を与えるためにお生まれになってくださったのです。

結)
いよいよ来週はクリスマス礼拝です。イエス・キリストが誕生されたことを喜ぶ礼拝の日です。その前に、神のタイミングのすばらしさを覚えたいものです。試練も経験しますが脱出の道も備えられていることも覚えたいものです。そして、私たちはいつも神にあって希望があることも覚えたいものです。そのところに目を留めつつ、来週のクリスマス礼拝を迎えましょう

マタイ1:18~25「神はともにおられる」 21.12.05.

序)
12月に入り、イルミネーションが飾られている家が増えてきました。教会は来主日の午後は子どもクリスマス会、16日は女性クリスマス会、19日はクリスマス礼拝と祝会、24日はクリスマスイヴ礼拝を予定しています。昨年はコロナの関係でイヴ礼拝を中止となりましたが、今年は行えられるように祈っていきたいと願います。今朝の箇所は、イエス・キリストの父親であるヨセフの所に御使いが現れたときのことです。御使いは、マリアから生まれる子を「インマヌエルと呼ばれる」と告げました。「インマヌエル」とは、訳されている通り「神は私たちと共におられる」という意味です。では、「神は私たちと共におられる」とはどういうことでしょうか。「神は共におられる」ということばは、クリスマスとは関係のない箇所にも書かれています。それはⅡサムエル23:5です。今朝はⅡサムエル記23:5を中心に、「神は共におられる」ことについて共に教えられたいと願っています。

1)「問題がない」ということではない
第1に、神は共におられるとは「問題がない」ということではありません。Ⅱサムエル記23章は、1節にも書かれているようにダビデの最後のことばであり、ダビデが死ぬ前に語ったことばです。ダビデは、5節で「まことに私の家は、このように神とともにある」と告白しました。ダビデという人は、一般的にはイスラエルの王として知られ、イスラエルを繁栄させた人物として知られています。そのダビデの人生はどのようなものだったのでしょうか。彼は預言者サムエルから油注ぎを受けます。その後、ペリシテ人の戦士であるゴリヤテを倒し、当時イスラエルの王であったサウルの家来となり活躍します。活躍するにつれ、ダビデの人気はサウル王よりも上がり、サウル王は嫉妬してダビデの命を狙うようになりました。そのため、ダビデはサウル王から逃げ回る生活を強いられます。そして、サウル王の死後ダビデはイスラエルの王となりますが、今度は自分の息子アブシャロムによる反乱やバテ・シェバの事件が起こります。また、様々な近隣諸国との戦いも経験しました。
そのように考えますと、ダビデの人生というのは何の問題もなかったわけではありません。むしろ、様々な問題を経験してきたのです。しかし、ダビデは晩年のとき「神は共におられる」と告白したのです。私たちは「神は共におられる=何の問題もないこと」と思いやすいのではないでしょうか。しかし、そうではないことをダビデの人生を通して知らされます。このことはダビデだけではありません。創世記37章から登場するヤコブの息子ヨセフもそうでした。創世記39章に「主はヨセフと共におられ」ということが繰り返し書かれています。繰り返し書かれていることは、そのことを強調しているということです。でも、ヨセフはその後も様々な苦しみに遭遇しました。このことはダビデやヨセフだけではありません。アブラハムやモーセなど聖書に登場する神を信じる全ての人たちは、様々な苦しみを伴ったのです。それは「神は共におられる=何の問題も生じない」というのではなく、神は共におられても様々な苦しみを伴うことを意味します。
イエス・キリストの母マリアもそうでした。イエス・キリストが公生涯の歩みをされてから、聖書には書かれていませんが母マリアは様々な非難を受けたと思われます。確かに「すばらしい」と称賛を受けたりもしたでしょうが、熱心なユダヤ教信者からは非難されたことと考えられます。差別用語になるかもしれませんが、「気ちがい」呼ばわりされたときもあったと思われます。そして、最大の苦しみはイエス・キリストの十字架です。自分のお腹を痛めて生んだ子が、犯罪人とされ十字架に架けられて処刑されます。母親としては、最も痛み苦しむことではないでしょうか。しかし、生まれるときマタイ1:23に書かれていますように「インマヌエルと呼ばれる」と告げられたのです。神は共におられるとは、苦しみや問題がないということではありません。「神は共におられても問題に遭遇する」ということを覚えたいものです。

2)全てのことが備えられ守られている
第2に、神は共におられるとは全ての事が備えられ守られているということです。ダビデは、生涯を通して様々な苦しみを経験しました。しかし、「神は共におられる」と告白したのです。その理由が、その後に「とこしえの契約が私に立てられているからだ。」と書かれています。「とこしえの契約」とは何でしょうか。それは、その後に書かれています「全てのことにおいて備えられ、また守られる」ということです。神がダビデのために全てのことを備えられていることは分かります。そうであるなら、バテ・シェバのことも全て神の備えなのでしょうか。何故なら、それはダビデが罪を犯すことだからです。ですが、ヤコブ1:13後半~14に「神は悪に誘惑される…誘われるからです」と書かれています。ダビデもそうでしたが、人が罪を犯してしまうのは自分の欲に引かれてしまうからです。そして、15節に「欲がはらんで罪を生み」と書かれていますように、その欲を通して人は罪を犯してしまうのです。しかし、神は人がそのような道を歩んだとしても救いの道を備えてくださっているのです。それが神の備えでもあります。後にも触れますが、人が罪を犯すことは神の備えではありません。しかし、人が罪を犯したとしても救いの道を備えてくださっているのが神の備えです。
詩篇8:5に「あなたは人を御使いより、わずかに欠けがあるものとし」と書かれています。神は人を欠けのあるものとして造られました。それは「人は不完全な存在である」ということを意味しています。人は不完全な存在であるが故に、間違いも犯してしまう可能性があるのです。すなわち、神が望んでおられることを選ばない可能性もあるということです。それは罪を犯す可能性があるということでもあります。アダムとエバがそうでした。サタンの誘惑によって、彼らは神に対して罪を犯してしまいました。これは、当初からの神のご計画ではなく人の弱さによるものです。神は人を造られたときに、人に「選ぶ」という選択権を与えてくださいました。神は2つの道を備えられたのです。人がどちらの道を選ぼうとも、神はご自身のすばらしさを現すご計画を備えられていたのです。ただ、人は弱さの故に神に罪を犯す道を選んでしまいました。では、神は人の敵となられたのでしょうか。いいえ、そうではありません。
創世記3:15に「     」と書かれています。これは、人は神に対して罪を犯しましたが、それでも神は人の側につくことを約束されたのです。サタンは「人が神に罪を犯すことで神は人の敵となる」と思っていました。しかし、神は私たち人間の側につき共にいてくださるのです。神はご自身に背いた人間に対して敵となられたのではなく、それであっても味方となってくださったのです。人が神に対して罪を犯すことは、神の御心ではありませんでした。ですが、人はそちらの方を選んでしまったのです。それであっても、神は救いの道を備えてくださったのです。これが神のすばらしさでもあり、神の憐れみ深さでもあります。その救いの道が、神の備えであり守りです。そして、それがⅡサムエル記23:5で語られています「神が永遠の契約を私と立てられた」ということです。
それ故、バテ・シェバの件は神の備えではなくダビデの過ちでありますが、神はそれに対しても救いの備えをしてくださいました。ダビデは、その神の憐れみ深さをここで告白しているのです。その神の約束はダビデだけでなく、今日生かされている私たちに対しても同じです。私たちも不完全な存在であるが故に間違いを犯してしまうことがあります。そのようなとき神は審きを下されるのではなく、救いの道の備えをしてくださるのです。そのことは、自分の歩みを振り返るとき思わされるのではないでしょうか。私たちは神に愛されているにも拘わらず、その神に背を向け神の愛に気づかず自分勝手な歩みをしていました。しかし、神の憐れみ深さと導きによって、神と個人的な出会いをし、神の愛に触れることができました。そのとき、今までも神に愛されていたことを私たちは気づかされ、神を信じる者へとされたのではないでしょうか。人が神の憐れみと神の愛を知ることが、神のすばらしさが現されるということでもあります。私たちがどのような境遇の中に置かれようとも、何処までも神は私たちの味方です。だから、どのようなときでも備えてくださり守ってくださいます。これは、私たちに対する永遠の約束です。何故なら、神はいつもあなたと共にいてくださる方だからです。

3)全てのことにおいて希望がある
 第3に、神は共におられるとは、全てのことにおいて希望があるということです。神は私たちがどのような境遇の中に置かれようとも、あらゆる備えをして守ってくださいます。ダビデは5節の最後で「育んでくださる」と告白しています「育む」とは「養い育てる」ということです。この時季、キリスト教系の学校はクリスマス劇が演じられます。こひじつ園で陽奈ちゃんの演技を見せていただきました。私自身「ここまでできるようになったのか」と思わされましたが、親は自分の子どもの成長を喜んだのではないでしょうか。おそらく陽奈ちゃんは、それまでに何度も練習したと思います。練習することなく上手になれるわけがありません。何度も触れていますが、練習は決して楽しいものではありません。どちらかというと辛いものです。時には先生に注意されたり叱られたりすることがあったことでしょう。そのようなときは辛いものです。
ダビデは「すべて育んでくださる」と告白していますが、これは「神は自分の願いに応えてくださるが、それは成長を通してである」ということです。それは先程も話しましたが、成長するには練習が必要で、その練習は辛く苦しいものであり試練でもあります。ですが、神はその試練を通して私たちを成長させてくださいます。もし私たちに試練がなかったらどうでしょうか。快適に過ごしているでしょうか。子育てを考えてみると分かるのではないでしょうか。子どもに「我慢」というものを教えないで育てたらどうなるでしょうか。子どもは願っていることが全て叶えられるのです。欲しいものは何でも手に入り、嫌なことはしなくても他の人が全てしてくれるとしたらどうでしょうか。子どもにとって、そのような生活は快適かもしれません。しかし、どのような大人になるでしょうか。耐えることを知らない大人になります。身勝手で社会に適応できず、耐えられないからすぐに切れてしまう大人になるのではないでしょうか。子どもは親に注意され叱られて、何が良くて何が悪いのか、何処までは許され何処からは許されないのかを学んでいきます。そのように育てられ耐える力を養っていきます。それは社会に適応して生きられる大人となるためです。子どもはそのように育てられて、忍耐力や常識というものを身につけて成長していきます。
我慢というのは、ある面試練でもあります。その試練によって健全な人間として成長することができます。親が子どもに「我慢」という試練を与えるのと同じように、神は私たちに試練を与えられます。それは育て上げるためです。どのような人に育て上げようとされるのでしょうか。神は私に最善のことをしてくださる方と知る者となるためです。今朝の箇所に書かれています「私の救いと願い」とは、自分にとって最善のことを表しています。その最善とは、「自分の願いが叶えられる」ということではありません。自分の願いとは正反対のものであったとしても、そのことを通して益にしてくださるということです。「その益とは何か」と尋ねられますと、申し訳ありませんが明確には答えられません。ただ「あの苦難があったから、このようなことができるようになった」とか「このように考えられるようになった」というのはあるのではないでしょうか。何のために神は最善のことをしてくださるのでしょうか。それは生きる希望を与えるためです。神の最善を知ったあとも苦難を経験します。しかし、苦難に対する捉え方は以前とは違うのではないでしょうか。「苦難の先にも可能性がある・希望がある」という捉え方ができ、「今自分にできることをしよう」という前向きな生き方に変えられるのではないでしょうか。「神は共にいてくださる」ということは、試練をも含めた全てのことに希望があるということです。

結)
イエス・キリストは、「神は私たちとともにおられる」という意味を持つ「インマヌエル」と呼ばれる方です。「神は共におられる」というのは、問題が生じないということではありません。問題が生じたとしても道が備えられ希望があるということです。しかも、その希望は決してなくなることのない永遠の希望です。イエス・キリストの誕生は、私たちに永遠の希望を与えるためです。そのことを覚えつつ、クリスマスを待ち望んでいきましょう

イザヤ9:6~7「クリスマスに備えて」 21.11.28

序)
今日からクリスマスに備える期間であるアドベントにも入りました。今年もコロナで振り回された1年でしたが今は収まりつつあります。これから寒い冬を迎えますので、まだまだ予断を許さない状況でありますが、このまま収束しクリスマスを迎えられることを願います。そのクリスマスを迎えるにあたり、イエス・キリストとはどのような方であるかを改めて共に教えられつつ、クリスマスに備えていきたいと願います。

1)私たちのために生まれた方
第1に、イエス・キリストは私たちのためにお生まれになられた方です。預言者イザヤが活動していた時代は、イスラエルは南北に分裂し、北イスラエル王国はイザヤが活動していた時代にアッシリア帝国に滅ぼされます。そして、アッシリアに捕囚として連れて行かれます。では、南ユダ王国はどうだったのかと言いますと、彼らも神に頼ったり背いたりしていました。「神であられる主を全く信じない」というのではなく、神を信じてはいながらも偶像の神々を礼拝したりしていたのです。そのような中で、アハズという人が南ユダ王国の王として立てられました。彼については、Ⅱ列王記16:2~4で「     」と紹介されています。そのようなときアラムが南ユダ王国を攻めてきました。そのとき、アハズ王はどうしたかと言いますと、16:7に「     」と書かれていますように、神に助けを求めたのではなくアッシリア帝国に助けを求めたのです。そして、アッシリア帝国の助けによって難を免れたのです。すると、そのアッシリア帝国は、北イスラエル王国を滅ぼして捕囚として連れて行き、アハズの子ヒゼキヤの時代に南ユダ王国に攻めてきました。イスラエルの人々は、アッシリア帝国の強さを知っています。何故なら、アラムが攻めてきたときアッシリア帝国はアラムとの戦いに勝利しましたし、北イスラエル王国を捕囚として連れて行ったことを目の当たりにしているからです。ですから、イスラエルの民は恐れと不安の時代の中を過ごしていました。
そのようなとき、イザヤは救い主の誕生を預言したのです。イザヤ7:1に「     」と書かれています。ですから、今朝の箇所はイスラエルの民が恐れと不安の時代の中で預言したことばです。ここでイザヤは、「一人のみどりごが私たちのために生まれる」と預言しています。この「私たち」とは誰のことでしょうか。それは不安や恐れを抱いているイスラエル人のことです。南ユダ王国は、一人の王の背信によってイスラエルの民全体も神を信じず偶像崇拝をするようになりました。イスラエルの民が不安や恐れを抱く原因は、イスラエルの民が神であられる主を捨ててしまったからです。ですから、「不安や恐れを抱いている人」というのは「神への信仰を捨てた人」とも言うことができます。しかし、イザヤは「私たちのために生まれる」と預言しているのです。イザヤは預言者として立てられています。その預言者というのは、神から聞いたことばをそのまま人々に伝えるのが仕事です。ですから、イザヤがこのように語ったということは、神がイザヤにこのように語られたということでもあります。神は、ご自身に背むいて不安や恐れを抱いている人々に対して、「あなたがたのために一人の救い主をこの世に送る」と約束されたのです。ここに測り知ることのできない神の愛を見ることができるのではないでしょうか。
多くの人は「神は正しい方だから悪い人を罰せられる」と思われています。確かにその通りであり間違いではありません。ですが、それだけでもありません。神はそのような悪い人に対しても、愛の御手を差し伸べてくださるお方です。そのことは、私たちの歩みを振り返るとき、「その通りである」と思わされるのではないでしょうか。神は私たちが神を信じたから愛してくださったのではありません。私たちが神を信じる前から私たちを愛してくださっていました。ただ、私たちがその神の愛に気づかなかっただけのことです。神は条件付きで私たちを愛してくださる方ではありません。ありのままの私たちを受け入れ愛してくださるお方です。「ありのまま」とは何でしょうか。私たちの良い所だけではなく、悪い所も含め全てを受け入れてくださるということです。私たちは、この世にあって不安や恐れを抱きます。そのような私たちに対して、神は「大丈夫わたしが共にいるから」と励ましてくださいます。その神の励ましと愛を見える形として表わされたのがイエス・キリストの誕生でありクリスマスです。ですから、イエス・キリストの誕生は私たちのためにお生まれになってくださったものでもあるのです。クリスマスは神の愛の見える形としての現れでもあります。

2)主権を持っておられる方
 第2に、イエス・キリストは主権を持っておられるお方です。今朝の箇所の6節の2行目に「ひとりの…与えられる」と書かれており、その後で「主権はその肩にあり」と書かれています。ですから、私たちのためにお生まれになられる救い主は主権を持っておられることを表しています。イエス・キリストは全ての主権を持っておられるお方なのです。その主権は、「その肩にあり」と書かれています。「肩」というのは、強さのシンボルであり、問題を背負ってくださることを意味します。それは、私たちが抱えるあらゆる問題をイエス・キリストが背負ってくださるということでもあります。一番大きな問題は私たちの中にある罪です。イエス・キリストは、その私たちの罪をご自身が背負ってくださったのです。どのようにしてでしょうか。御存知のように十字架に架かられることによってです。「十字架」というのは、神の審きであり呪いでもあります。聖書に「木に吊るされた者は呪われた者である。」と書かれています。イエス・キリストは、神に呪われた者として十字架に架かってくださったのです。
犯罪者は罪を犯したのですから、その罪を償わなければなりません。これが犯した罪に対する赦しの条件です。過失であっても、相手に損害を与えたなら弁償しなければなりません。例えば、自動車を運転して物損事故を起こしてしまい、謝って赦してもらえたとしても、相手の自動車の修理代は支払わなければなりません。もし支払わなかったらどうなるでしょうか。当然、裁判所に訴えられてしまいます。これは、赦しには償いが伴うことを表してもいます。このことは、私たちの罪の赦しにおいても同じことが言えます。私たちは、自分の罪に対しての償いが必要なのです。では、私たちは自分の罪を償って赦しを得たのでしょうか。いいえ、私たちは自分の罪を償ってはいません。自分の罪を償うことをしないで神に赦されたのです。何故、自分の罪を償うこともしないで赦されたのでしょうか。それは私たちの代わりに罪を償ってくださった方がおられるからです。それがイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは何の罪も犯されていないのに、私たちの身代わりとなって私たちの罪の償いをしてくださったのです。イエス・キリストの十字架は、私たちの罪という問題をイエス・キリストご自身が背負ってくださったことを表しているのです。「肩」とはそのことを表しているのです。
ヨハネ10:18で、イエス・キリストは「     」と話されました。イエス・キリストは、ご自分の命を捨てる権威を持っておられます。ところが、私たちは自分の命を捨てる権威を持ってはいません。何故なら、私たちの命は私たちのものではないからです。「自分の命は自分のもの」と思われている方がおられます。しかし、私たちの命は私たちのものではありません。私たちの命というのは、神から授けられたものであり所有者は神ご自身なのです。私たちはその命を預かっているだけにしか過ぎないのです。私たちは自分の命を自由に扱う権威など持ってはいないのです。ですから、自殺というのは大きな間違いです。しかし、イエス・キリストはご自身の命を捨てる権威を持っておられます。何故なら、イエス・キリストは神ご自身だからです。だから私たちの一番大きな問題である罪をご自身が背負われ、十字架に架かって私たちの罪を償ってくださったのです。まさしく、イエス・キリストは主権を持っておられる方です。

3)名のある方
 第3に、イエス・キリストは名前のあるお方です。その名前とは何でしょうか。6節の後半に、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と書かれています。「不思議な助言者」とは何でしょうか。士師記13:18でマノアに現れた主の使いは、自分のことを「わたしの名は不思議という」と告げました。不思議とは「奇しい」とも訳されることばです。すなわち、人間の理解を超えた働きをすることを意味します。イエス・キリストは、私たちの理解を超えた働きを通して、私たちに光という生きる希望を与えくださる助け手なのです。「私たちの罪のために、神が人として誕生し身代わりとなって死なれる」というのは、私たちの理解を超えたことでもあります。これは、まさしく不思議なことです。ですが、それによって私たちは本当の生きる希望が与えられたのです。イエス・キリストは、まさしく不思議な助言者なる方です。
次に「力ある神」とは何でしょうか。神様というのは、存在してはいるが働かれない方ではありません。この「力」というは強さを表しています。強さというのは、現実の中に働いて初めて示すことができます。イエス・キリストが「力ある神」ということは、私たちが生かされている現実社会の中で働かれることを意味します。私たちは現実社会の中で様々な問題に直面します。そのような中にあって、イエス・キリストはご自身の強さを示してくださいます。強さを示されるということは、様々な問題に対して解決してくださるということでもあります。イエス・キリストが「力ある神」ということは、私たちの抱えるあらゆる問題を解決してくださる神であるということでもあります。
次に「永遠の父」とは何でしょうか。父親というのは、当時の社会において絶対的権威を持っているのと同時に、家族を守る存在でもあります。ですから、「父」というのは私たちを守り支える存在を表しています。しかも永遠の父なのです。永遠は神しか存在されません。そして私たちは、ヨハネ1:12に「     」と書かれているように、イエス・キリストを信じることによって神の子とされました。イエス・キリストを通して、神と私たちの関係が父と子という深い信頼関係の中に入れられているのです。人間関係の中で一番深いのが家族関係ではないでしょうか。それと同じように、神と人との関係はイエス・キリストを信じることによって深い信頼関係の中に入れられるのです。その信頼関係は、「神に守り支えられている」という平安です。
最後に「平和の君」とは何でしょうか。平和とは、何の問題も生じないということではありません。問題が生じたとしても、「必ず解決される」という安心感があることが、聖書が語っている平和です。何度も話していますが、神を信じたら何の問題も生じないということではありません。神を信じることによって、負わなくても良い問題を負わなければならないことがあります。そのことはイエス・キリストご自身も話しておられます。むしろ、神を信じない方が問題は少ないかもしれません。例えば、神を信じることによって罪に敏感になり、罪責感が強まるということがあります。罪責感を感じるということは問題を抱えるということでもあります。罪責感のことだけでなく、家族との信仰の問題も生じます。さらには社会との問題も生じます。聖書信仰に立とうとすることによって、様々な問題に遭遇します。しかし、問題は必ず解決されるという平安も与えられているのも事実です。そして、その平安こそが本当の平和です。イエス・キリストは、その本当の平和を私たちに与えるためにお生まれになってくださったのです。

結)
今日からクリスマスを待ち望むアドベントに入りました。日本では「クリスマスは楽しむとき」と思われています。多くの人がクリスマスを楽しんでいます。クリスマスを楽しむことは悪いことではありません。クリスマスを楽しんで良いのです。しかし、同時に喜びのときであり感謝のときでもあることを覚えたいものです。何故なら、クリスマスは他の誰でもない私のためにイエス・キリストがお生まれになられたときだからです。今年も楽しむクリスマス、喜ぶクリスマス、感謝するクリスマスを過ごしたいと願わされます。それにはクリスマスの意味を思い巡らすしかありません。これから始まろうとする慌ただしい時期、心を静めてクリスマスの意味を思い巡らし備えていきたいものです。

ヨハネ18:28~40「真理とは」 21.11.21.

序)
 日本で初めてiphoneが販売されたのは2008年でした。その頃は「スマホ」ということばはありませんでした。そして、それから20年後にはガラケーがなくなりスマホの時代となります。会社によって異なりますが、2026年には完全になくなってしまうようです。「ガラケー」と言われる携帯電話が販売されるようになったのは1991年ですから、35年で幕を閉じようとしています。今のような携帯電話が販売されたときは画期的なものに思われましたが、文化や技術はどんどん進歩し移り変わっていきます。それは物質的なものだけでなく、私たちの態度やことばもそうではないでしょうか。そのような社会に生かされていますと、絶対に変わることのないものなどないように思えてしまいます。今朝は、決して変わることのない真理について共に教えられたいと願っています。

1)的外れな熱心さ
 イエス・キリストは大祭司の所から、当時の総督であったピラトの官邸に連れて行かれました。そこで、ローマの法律に従っての裁判を受けられました。しかし、イエス・キリストを訴えたユダヤ教指導者らは、「官邸の中に入らなかった」と書かれています。これは共観福音書には書かれておらず、ヨハネの福音書独特の記事です。当時は「異邦人に接すれば汚れる」と考えられていました。律法によりますと、主の祭りは聖なるものであり、汚れた人は主の祭りに参加することができませんでした。過ぎ越しの祭りは、主の祭りの中でも最重要的な祭りです。ですから、異邦人であるローマ人と接して汚れてしまい、過ぎ越しの食事に参加できないことを避けようとしていたのです。彼らは、汚れに対して細心の注意を払っていたのです。この彼らの姿を見ますと、とても熱心な信仰のように見えたりもします。ですが、その彼らの熱心な信仰は、宗教儀式に与ることにおいての外見的な聖さを保つための熱心さです。別の表現をするなら、形式的なことを重んじることに熱心だったのです。それは安息日を守ることや祈ること、さらには献金することなどには熱心でした。しかし、何よりも大切な内面的なことに対しては鈍感だったのです。自分たちの心を満足させるために、罪のない一人の命を奪おうとしているのです。申命記25:1~3には、人権の尊重が書かれています。1節の最後に「正しい方を正しいとし、悪い方を悪いとする裁定がなされたとき」と書かれています。すなわち、正しい判決がなされたとしても、制限が定められているのです。その理由が3節の後半に、「それ以上を多く…卑しめられることになる」と書かれています。卑しめるとは、「見下す」とか「軽んじる」という意味です。ここに、どのような人であれ人権を尊重することが記されています。しかしながら、このときのユダヤ教指導者らは、そのことには目を留めず自分たちの思いを満たすことに熱心になっていたのです。彼らは熱心ではありましたが、その熱心さは表面的なものに向けられ、的外れな熱心さだったのです。
 このようなことは、私たちにも起こり得ることです。宗教儀式を守ることによって、「信仰的・霊的である」と考えてしまいやすくなります。確かに、私たちにとって宗教儀式の一つである礼拝や祈り・献金などは大切なことです。しかし、それらをすることが一番大切なものではありません。役員会では、今月より「教会実務を神学する」という本をテキストとして学び始めました。その本の中に「教会が現実の地を踏みしめる歩みをするとき、三つの座標軸はキリストの身体なる教会にふさわしい手続きや決まりごとの形成につながり」と書かれています。三つの座標軸とは「正典・信仰・職制」のことですが、要は「客観的基準に基づいて」ということです。すなわち、「主観的に物事を見て判断しない」ということです。主観的な判断について、聖書が示していることは何でしょうか。役員会でも触れましたが、士師記17:6に「     」と書かれており、同じことが21:25にも書かれています。当時のイスラエルの民は「自分に良いと見える」という主観的判断に基づいて行っていたがために、神の道から外れて行ってしまいました。聖書は、そのことの警告を示しています。客観的基準に基づいての判断が大切であり、私たちにとっての客観的基準は神のみことばである聖書です。その聖書に基づいての歩みを身に着けられるように祈っていきたいものです。

2)真理を証しするために来られたイエス
 33節からは、当時の総督であったピラトの取り調べが始まります。その取り調べの中でイエス・キリストは、37節で「わたしは、真理について…世に来ました」と答えられました。当時のユダヤ教指導者らは、「宗教儀式を守ることによって神の審きから救われる」と信じていました。すなわち、「行いによる救い」を信じていたのです。ですから、的外れな熱心さに陥ってしまったのです。しかし、人は自分の行いによって救われるのではありません。人は神の前において罪人であり、誰一人神の律法を守り行うことなどできません。人が自分の罪を赦される方法は、罪深い者である私を愛してくださっている神の愛を知り、自分が間違った歩みをしているのを悔い改めることによってです。イエス・キリストは、そのことを私たちに気づかせるために世に来られたのです。それだけでなく、その私たちの罪が神に赦されるために、イエス・キリストは身代わりとなって十字架に架かって神の審きを受けてくださったのです。そのことがローマ5:8に「     」と書かれています。私たちが正しい行いをするようになったから神は私たちを愛してくださっているのではなく、正しい行いができないときから神は私たちを愛してくださっているのです。そのことを証しするために、イエス・キリストはこの世にお生まれになられたのです。
 罪の赦しは、神の愛を知って初めて得られるものです。神の愛を知らなければ、決して罪の赦しを得ることはできません。このことを間違った捉え方をされている方が多いのではないでしょうか。「神は愛に富んでおられる方」と頭の中では理解できても、実生活の中ではそうではない方が多いのではないでしょうか。「〇〇しなければダメだ」と捉え、「このようでなければ神を悲しませてしまう」とか、「このようなキリスト者であらねばダメだ」という捉え方をされる方が多いのではないでしょうか。でもそれは、律法主義的なキリスト者であり、当時のユダヤ教指導者らと同じ捉え方です。ただ違う点は、イエス・キリストを神と認めているか否かです。ただ頭をすり替えているだけで、根本的なものは何も変わってはいないのです。
 イエス・キリストは「真理を証しするために来た」と話されています。根本的なものから変えられるために来られたのです。すなわち、心から神を喜び、神を愛する者となるために来られたのです。根本的なものから変えられる。これが新しく生まれ変わるということです。「〇〇しなければダメだ」という捉え方から、「〇〇できなくても神は見捨てられず愛してくださっている」という確信に変えられることです。「できる私ではなく、できない私をも愛し受け入れてくださっている」「このような私を愛し受け入れてくださっている」という神の愛の真実さを示されるために、イエス・キリストはこの世にお生まれになられたのです。私たちがどうであれ、決して変わることなく愛し続けてくださる真理なる神を示すために、イエス・キリストはこの世にお生まれになられたのです。今月の3日に、団体のミックスユースがオンラインにて行われたリポートが掲示板に貼られています。相楽姉がメッセージをしてくださいましたが、そのメッセージの要約がリポートに書かれています。簡単にまとめますと、神はありのままの私を愛し受け入れてくださっている」ということです。「後で読んでいただければ」と思っています。来週からは、そのイエス・キリストがお生まれになられたクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。その神の愛を覚えつつ、クリスマスを迎えたいと願います。

3)真理とは
 イエス・キリストが「ご自分は真理について証しするために来た」とピラトに話されますと、ピラトは「真理とは何なのか」と尋ね返します。このような問いかけをされる方は、現代でもおられるのではないでしょうか。移り変わっていく世の中にあって、決して変わることのないものなどないように思える世界です。例えば、ペテロがそうです。「イエス・キリストのためなら命も捨てる」と言いましたが、大祭司の庭ではイエス・キリストを「知らない」と否んでしまいました。イエス・キリストを取り調べているピラトにしてもそうです。自分の意見と正反対であっても、上からの権力には従わざるを得ません。この世は状況によって変わってしまいやすいものです。そのような世界にいますと、「決して変わることのない真理など本当にあるのだろうか」と思えなくもありません。ひょっとしたら、ピラトもそのように考えていた一人なのかもしれません。
 移り変わりやすい世界の中にあって、決して変わることのない真理とは何でしょうか。17:17の最後に「あなたのみことばは真理です」とイエス・キリストは祈られています。ですから、真理とは神のことばです。その神のことばは、決して変わることがありません。では、何故神のことばは決して変わることがないのでしょうか。それは、神はこの世に属していないからです。何故なら、神がこの世界を造られたからです。ですから、この世界がなくなったとしても神はなくなることはありません。移り変わってしまうものは、この世界の中にあるものであり、この世界に属しているからです。イザヤ40:8に「     」と書かれています。ここには全てのものには終わりがあるが、神のことばは決して終わりがないことが告げられています。何故なら、神はこの世に属していないからです。
 その神のことばは、私たちに何を約束しているでしょうか。神の私たちに対する約束は、いつも共にいて愛し支え守り導くことです。この神の私たちに対する約束は決して変わることがありません。まさしく真理そのものです。その真理を見える形として現してくださったのがイエス・キリストの誕生でありクリスマスです。来主日から、そのクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。真理なる方として来られたイエス・キリストの誕生を心から祝う備えをさせていただきたいと願わされます。

結)
 私たちが生かされています世界は移り変わっていきます。しかし、神のことばは決して移り変わるものではありません。どれだけの年月が過ぎようとも決して変わることがありません。先程の繰り返しになりますが、私たちへの神の約束も決して変わることがありません。その神の約束を心に刻みつつ、アドベントを迎えたいと願います。

ヨハネ18:12~27「失敗を栄光に」 21.11.14.

序)
 「失敗は成功の基」と言われます。私などは失敗の多い者ですから、同じことを何度も繰り返したりしてしまいます。その度に落ち込んだりしてしまいます。それが信仰的なことであれば、何か不信仰な者のように思えたりして「私の信仰はダメだ」と評価してしまうことはないでしょうか。今朝は、私たちの信仰を神はどのように用いてくださるかを共に教えられたいと願っています。

1)イエスとペテロ
 今朝の箇所は、2つの場面が交互に書かれています。それはイエス・キリストへの尋問の場面とペテロがイエス・キリストを否んだ場面です。イエス・キリストは、ユダヤ教指導者とローマ兵らに捕らえられ、以前大祭司であったアンナスの所に連れて来られました。そこで尋問を受けられました。そのイエス・キリストの態度はどのようなものだったでしょうか。アンナスからの質問に対しても、堂々とした態度で答えられています。弟子たちのことを聞かれても何も話されてはいません。それは弟子たちを守るためです。また、教えについても「私に尋ねるよりも聞いた人たちに尋ねなさい」と答えられています。それは、その方が客観的なものであり証言となるからです。また、平手で打たれたときも「何故わたしを打つのか」と尋ねられました。ここに、状況によって左右されることのないイエス・キリストの姿を見ることができるのではないでしょうか。
 それに対して、ペテロはどうだったでしょうか。もう一人の弟子に連れられて、アンナスの家の庭に入りました。ペテロはイエス・キリストのことが心配だったのでしょう。そして、イエス・キリストの裁判を見守ろうとしたのかもしれません。ところが、門番の女性がペテロを見て、「あの人の弟子ではないでしょうね」と尋ねられたとき、ペテロは「違う」と否定してしまったのです。このペテロの否定には、幾つかのことが考えられます。イエス・キリストの弟子であると認めることによって、「自分も捉えられる」と思ったのかもしれません。或いは、「捕らえられることによって、イエス・キリストの行為を無駄にする」と思ったのかもしれません。または、「認めることによってアンナスの庭から出されてしまい、イエス・キリストの裁判を見守ることができなくなる」と思ったのかもしれません。これらのことが全て含まれているのかもしれません。しかし、イエス・キリストを否んだことは事実です。時間や状況によって態度が変わってしまうペテロを見ることができます。13:37の「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったことばには偽りはなかったことでしょう。しかし、状況が変われば態度もことばも変わってしまったのです。13章のペテロは、自信に満ちあふれている姿を見ることができます。ここには、「自分の力や信仰でイエス・キリストに着いて行く」というようなペテロの姿が描かれているように受け取れます。
 私たちも、そのような思いに陥る危険性があることも同時に気づかされるのではないでしょうか。そしてそのような信仰は、とてももろく崩されてしまうことを知らされるのではないでしょうか。私たちも時間や場所・状況が変わると変わってしまいやすい者です。しかし、イエス・キリストは時間や場所・状況が変わっても決して変わることのない方であることを覚えたいものです。

2)神の愛と慈しみ
 「イエス・キリストに従うことができるのは、その人の信仰が強いから」と思いやすくなります。でも実際は、その人の信仰が強いからではありません。神がその人の信仰を支えてくださっているからです。ペテロは、この時そのことをまだ知ることができませんでした。ペテロが神の守りと支えを知るようになったのは、イエス・キリストの十字架による死と復活によってです。マタイの福音書には最初は単なる否定でしたが、2回目は誓いをかけての否定であり、3回目は呪いをかけての否定をしました。自分の身の安全を守るためにイエス・キリストを否むことばが強くなっていくのです。ここには、力強いペテロの姿を見ることはできません。周りの状況に左右され、自分の身の安全を守ることだけに必死のペテロの姿しか見られません。この時のペテロはまだ弱い信仰でした。そのようなペテロがすばらしい働きをするようになったのは、死から甦られたイエス・キリストと出会ったからです。
 では、その後ペテロは何にも動じない者となったのでしょうか。ガラテヤ2:11~14に「     」と書かれています。ここには、ペテロが割礼を強調するキリスト者を恐れたことが書かれています。ペンテコステ以降も、動じてしまう弱い信仰を持っていたのです。このペテロの姿は、私たちの姿でもないでしょうか。何の問題もないときは私たちの心は平安であり、信仰が充実しているように思えます。そして、「ちょっとしたことでは動じることがない」と思ったりもするのではないでしょうか。ところが、実際に何かあったときは、すぐに動揺してしまう弱いものにしか過ぎないのです。
 イエス・キリストは、そのような弱いペテロの信仰を全てお見通しなのです。そして、そのことを気にもされていないのです。むしろ、その弱さを用いられるのです。その弱さを通して、ご自身の栄光を現されるのです。ペテロ自身、Ⅰペテロ1:5で「あなたがたは信仰により、神の御力によって守られており」と語っています。「私の信仰はダメだ」と口に出される方がおられます。そのような人は、信仰をどのようにして持つことができたのかを考えていただきたいと思います。今自分が持っている信仰は、自分自身の中から絞り出して持つようになったのでしょうか。それとも、神から与えられて持つようになったのでしょうか。そのことを考えていただきたいのです。「私の信仰はダメだ」と言われる方は、何か自分で信仰を持っているように勘違いされているのではないでしょうか。信仰は人の中から出てきたものではありません。神が私たち一人ひとりに与えてくださったものです。その神が与えてくださった信仰を、「何故ダメだ」と言われるのでしょうか。これは「神は私にダメなものを与えられた」と言っているのと同じです。神は私たちにダメなものを与えられる方ではありません。良いものを与えてくださいます。ですから、一人ひとりに与えられている信仰は良いものなのです。ここでペテロは、「私たちの歩みは最初から最後まで神の守りと支えによってである」と語っているのです。
 また、1:21の最後でも「あなたがたの信仰と希望は神にかかっています」と語っています。私たちの歩みを確かなものにするのは、私たちの信仰ではなく神ご自身なのです。さらに、1:23では「あなたがたが新しく生まれたのは、神のことばによるのです」とも語っています。私たち自身が自分を救ったのではなく、神によって救われたのです。また、2:3では「あなたがたは…確かに味わいました」と語っています。神の慈しみによって、私たちはキリスト者として歩むことができるのです。ここに「味わいました」と書かれています。「味わう」とは、どういうことでしょうか。食べ物を見たり嗅いだりするだけでは味わうことはできません。口に入れて噛むことによって初めて味わうことができるのです。ですから、味わうとは経験することでもあります。ペテロは「イエス・キリストを否認する」という経験をしました。でも、その経験を通して神の深い愛と慈しみを知るようになったのです。今朝の箇所でペテロは失敗をしますが、それは必ずしも意味のないものではなかったのです。この失敗を通して、神の深い愛と守りを知るようになるのです。私たちは自分の弱さや無力さを嘆いてしまうことがあります。でも、そのことを通して神の愛と守りを知らされるのも事実ではないでしょうか。私たちは失敗を無駄のように捉えてしまいます。しかし、Ⅰコリント15:58に「     」と書かれています。この「労苦」とは、苦しんで成功したことだけではありません。失敗したことも含まれています。失敗は決して無駄ではありません。そのことを通して、神の慈しみと知ることができるのです。だから、「堅く立って…主のわざに励みなさい」と勧めているのです。深い神の愛と慈しみに感謝したいものです。

3)動かされることのない信仰
 では、堅く立って動かされることのない信仰とは、具体的にどのような信仰なのでしょうか。「堅く立って動かされることのない信仰」と聞きますと、「振り子のように平安と不安を行ったり来たりしない信仰」のことを思い浮かべてしまいやすくなります。木の枝も風にあおられますと揺れ動いてしまいます。動かされることのない信仰とは、そのような揺れ動くことのない信仰のことなのでしょうか。聖書が語っています「動かされることのない信仰」とは、どのような状況に陥っても動じることのない信仰ではありません。どれだけ揺れ動いたとしても、その支点と言いましょうか元はしっかりと繋がっています。木の枝がどれほど揺れ動いても、枝は幹にしっかりと繋がっています。枝が幹に繋がっていなければ、簡単に幹から離れて落ちてしまいます。
 そのように聞かれますと、「あまりにも強い風だったら枝が幹に繋がっていても折れて落ちることもあるよ」と思われるかもしれません。ですが、同じⅠコリント10:13には「     」と書かれています。ここに「耐えられない試練にあわせられることはありません」と書かれています。折れて落ちてしまうような強い風には、神はあわせられないように守ってくださるのです。ですから、「動かされることのない信仰」とは、「神によって守られ支えられている」ということを覚えることができる信仰です。揺れ動くことが悪いのでもなければ不信仰なことでもないのです。ペテロもヨハネもパウロも、揺れ動く経験を何度もしたから、神の守りと支えを何度も経験して強められていったのです。いや強められるだけでなく、その経験を通して確信を通して、神のすばらしさを現すことのできる器として用いられたのです。何度も語っていますが、経験も賜物の一つです。
 弟子たちは何度も失敗をしました。でも、その失敗を通して神のすばらしさを知るようになったのです。そして、神のすばらしさを現す者として用いられたのです。失敗を栄光に変えるのは、あなた自身ではなく神ご自身です。失敗して「私の信仰はダメだ」と嘆きつつ、自分自身を責めるのではなく、その失敗を受け入れ用いてくださる神を仰ぎ見ることができる信仰が、動かされることのない信仰ではないでしょうか。その神に目を向けられるからこそ、主のわざに励むことができるのではないでしょうか。

結)
 私たちは時や状況によって変わってしまいやすい者です。しかし、神は時や状況によって変わるような方ではありません。決して変わることのないお方です。そのお方がいつも私たちと共にいてくださり、深い愛と慈しみをもって私たちを守り支えてくださっているのです。私たちの信仰は揺れ動いてしまうものです。しかし、神の守りと支えの中にあるのも事実です。いつも神の守りと支えの中にあることを覚え、失敗を用いて栄光に変えてくださることを信じ、歩み続けられるように祈っていきましょう。

ヨハネ18:1~11「あなたを守られる神」 21.11.07.

序)
 11月に入り、今年も残すところ2ヶ月を切りました。今年もコロナに振り回されましたが、神に守り導かれていることに感謝したいものです。そして、今年の残りも神に支えられつつ歩まされたいと願います。さて、1節の最初に「これらのこと」と書かれています。この「これらのこと」とは、17:1~26のイエス・キリストが祈られたことを指しています。これは17:1の時にも話しました。そのときは、「16章まで話されたことを意識しつつ新しい展開に入ることを示唆している」と話しました。ですから、今朝の箇所も同じです。その新しい展開とは、ゲッセマネの園での出来事です。実は、共観福音書に書かれていることは書かれず、書かれていないことが書かれています。これがヨハネの福音書の特徴の一つでもあります。そこにはヨハネの意図があるということです。聖書を理解するための手がかりの一つとして、昔、福音書を比較しての学びをしました。比較して、他の福音書に書かれていないことから解釈するという学びでした。それは、そこに著者の意図でもあるからです。そのことを意識しつつ今朝の箇所を共に見ていきたいと願っています。

1) イエスの行為
 まずは、イエス・キリストの行為について見たいと思います。まず、この箇所を読んで疑問に思うのは、「何故ゲッセマネの園に、ユダはユダヤ教指導者らを連れてくることができたのか」ということです。何故なら、13:30に書かれていますように、ユダは最後の晩餐の途中で退席しているからです。そのことの説明が2節でなされています。ユダが場所を知っていたのは、度々そこに集まっていたからです。ゲッセマネの園は初めて来る場所ではなく、イエス・キリストと弟子たちは度々訪れていた場所でもあったのです。だから、ユダはユダヤ教指導者らを連れてくることができたのです。そのユダの目的は何かと言いますと、イエス・キリストをユダヤ教指導者らの手に渡すためです。そのために兵士や下役も一緒に連れてきたのです。
 そのとき、イエス・キリストの行為が4節に「     」と書かれています。イエス・キリストは、進み出て彼らに尋ねられたのです。イエス・キリストは隠れようとすれば隠れることもできたのです。しかし、隠れることをされず自ら出て行かれ、彼らに尋ねられたのです。Ⅰペテロ2:24に「キリストは自ら十字架の上で」と書かれています。これは自分から進んで十字架に架かられたことを記しています。イエス・キリストは、仕方がないからでもなければ強いられてでもなく、自分の方から進んで選ばれたことを表しています。「何故自分の方から出て行き声をかけられたのか」と疑問に思えたりもします。見つけられたのなら仕方ありませんが、わざわざ自分の方から捕らえられようとするのに疑問を感じるかもしれません。ある方は「それがイエス・キリストの使命であり目的だから」と言われるかもしれません。確かにそうだと私も思います。でも、それだけでもありません。一番は、弟子たちを守るためです。9節に「     」と書かれています。イエス・キリストは、弟子たちを守るためにわざわざ自分の方から進み出て彼らに声をかけられたのです。
 では、弟子たちの何を守ろうとされたのでしょうか。弟子たちの命を守るためであるのは当然のことですが、同時に彼らの信仰を守るためでもあります。もし、弟子たちもイエス・キリストと一緒に捕らえられたなら、彼らの信仰は無くなっていたかもしれません。何故なら、イエス・キリストが捕らえられたとき彼らは逃げてしまったからです。しかも、イエス・キリストが十字架に架けられて死なれた後、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の中に閉じ籠っていたのです。イエス・キリストはギリギリの所で弟子たちを守られたのです。そのイエス・キリストの守りというのは、現代の私たちへの守りにおいても同じです。私たちも人生の歩みの中で「八方塞がりで何をしてもダメだ」と思えてしまうことが起こったとしても、そこに神が働き守ってくださいます。その神の守りの中で歩まされていることを覚えたいものです。

2) ペテロの行為
 そのようなイエス・キリストの守りの中にある中で、ペテロはどうしたでしょうか。10節に「シモン…切り落とした」と書かれています。「何のためにか」と言いますと、イエス・キリストを守るためです。「少しでも時間稼ぎをしたら、イエス・キリストは逃げられるかもしれない」と思ったのかもしれません。このときのペテロは「イエス・キリストのためなら自分の命を捨てても構わない」という思いだったのではないでしょうか。このペテロの思いは「すばらしいもの」と思えるものです。一般的に見れば、このペテロの行為を批判する人は一人もいないと思います。しかし、聖書は一般的な見方とは異なった見方をします。「すばらしい」と思えることが素晴らしくないのです。間違わないでいただきたいのは、聖書はペテロの行為を批判してはいないということです。批判してはいませんが、ほめたたえてもいません。ただペテロがとった行動の事実を描いているだけなのです。
 大切なのは、「イエス・キリストが何のために進み出られたのか」ということを理解することです。残念ながら、ペテロはそのことを理解できなかったのです。このペテロの行為は彼の先走った行為でもあったのです。だから、イエス・キリストは「剣をさやに…いられるだろうか」とペテロの行為を止められたのです。そのような「先走り」と言いましょうか「勘違い」と言った方が的確なのかは分かりませんが、そのようなことは私たちにも起こりやすいのではないでしょうか。「神のために」とか「教会のために」という思いですることが、本当に「神のために」「教会のために」なっているのかを考えるのは大切なことではないでしょうか。
 例えば、モーセが民をさばいていたことが出エジプト記18:13以降に書かれています。それを見た義理の父であるイテロは「あなたがしていることは何ですか」と助言しました。すると、モーセはイスラエルの民が神の御心を求めに来るので、双方の間をさばいて神の掟と教えを知らせるのです」と答えました。その返事に対して、イテロは「あなたがしていることは良くありません」と助言しました。それはモーセも疲れるしイスラエルの民も疲れてしまうからです。一定の人に奉仕が集中するのは、群れとしての機能を成り立たせなくしてしまいます。奉仕をされる人は、「神のために」「教会のために」と思ってされているのかもしれません。しかし、それが本当に「神のためなのか」「教会のためなのか」を考えることは大切です。何故なら、それによって他の人が成長すれば良いのですが、成長しないのであれば群れのためになってはいないからです。モーセはイテロからの助言によってどうしたでしょうか。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長らを立てて群れを組織的に活動できるようにしたのです。
 今、9月の教職者研修会での異端についての学びを整理しています。講師の根田兄は牧師ではなく、一人の信徒として「異端110番」という働きをされています。根田兄は「異端抜きにして聖書を普段から正しく読み解くことができるように教会員を育てることが大切である」と話されていました。「確かにその通りだ」と思わされました。普段から聖書を正しく読み解く力が養われていないと、一つの出来事に対して誤解や錯覚、またペテロのように先走りをしてしまいやすくなります。「イエス・キリストが何故このようなことを話されたのか」という真意を読み取れなくなってしまいます。聖書の読解力を養われたいものです。

3) 信仰による行いとは
 聖書は「信仰は行動が伴う」と語っています。ですが、「神のために」「教会のために」という思いが先行するものでもありません。そのような使命や責任が先行すればどうなるでしょうか。イエス・キリストは、ご自分から進み出て捕らえようとしている人たちの前に出られました。そして、ペテロら弟子たちを守ろうとされていました。ところが、このペテロの行為はイエス・キリストがなされたことを止めてしまうものでもあります。そのようなことは私たちにも起こり得ることです。神が何かをされようとしているのに、それを遮って「神様、あなたは休んでください。私が代わりに行いますから。あっ、これもされなくて良いです。私がやりますから、あなたは休んでください」というのが聖書の語る信仰ではありません。何故なら、それは神の働きを遮るものだからです。また、使命や責任が先行すれば苦しいものになってしまいます。例えば、「礼拝することを聖書は教えているから」とか「礼拝することを神は願っておられるから」ということが先行する礼拝は苦しいものになってしまいます。何故なら、そのスタートは義務感から来るものだからです。
 では、何が先行するのでしょうか。ローマ10:17に「信仰は聞くことから始まります」と書かれています。さらに、「聞くことは、キリストについてのことば」と書かれています。「キリストについてのことば」とは、キリストの福音のことです。すなわち、イエス・キリストが何のために十字架に架かって死なれ甦られたのかということです。それは私たちが神を礼拝する者となるためです。だから、私たちは神を礼拝するのです。しかしながら、その目的が先行しますと苦しくなってしまいます。「何故イエス・キリストは十字架に架かって死なれ甦られたのか」ということにも目を向けることは大切です。それは私たちの罪が赦され神の審きから救われ、私たちが神と共に望みをもって生きるためです。イエス・キリストの福音の根底には、私たちへの愛が満ちているのです。私たちを愛するが故に十字架に架かって死なれ甦ってくださり、今も父なる神にとりなしてくださっているのです。私たちを愛するが故に、イエス・キリストは私たちを守ってくださっているのです。そのイエス・キリストの愛と守りに感謝から生まれるのが私たちの神への礼拝です。それはイエス・キリストの十字架と復活だけでなく、この1週間様々なことがある中での神の愛と守りに感謝しての礼拝であり、今日から始まります新しい週の歩みも神の愛と守りによって導かれることを期待しての礼拝です。
 それは礼拝だけではありません。奉仕においても同じことが言えます。ペテロは自分が持っていた剣で、マルコスという人の耳を切り落としました。でもペテロは、イエス・キリストの真意が分からず間違った方法で剣を用いてしまったのです。剣を「賜物」と捉えることもできるのではないでしょうか。しかしながら、その賜物を間違った方法で用いてしまいますと、神の働きを妨げるものになってしまうことに気づかされるのではないでしょうか。私たちは「神のために何かできますように」と祈ります。その祈りは大切でしょう。しかし、「私が」という思いが強くなりますと間違った方向に進むというのも事実です。信仰は行動が伴いますが、「私が」という思いを抑えつつ状況を見渡しながら、「何が最善であるのか」をみことばと祈りによって探っていくことではないでしょうか。

結)
 共観福音書にも、ペテロが大祭司のしもべの耳を切り落としたことは書かれています。しかし、その前のことは書かれていません。これはヨハネ独特の記事です。ヨハネがこの出来事を記したのはイエス・キリストの守りがあったからこそ、今の自分の信仰が支えられていることを伝えたかったからではないでしょうか。私たちもペテロのように「私が」という思いが強くなってしまうことがあります。そのようなとき「何が最善であるのか」を考えつつ、みことばと祈りによって御心を求める歩みができるように祈っていきましょう。