礼拝説教「あわれみ深い神」2020年10月18日 動画はこちら
聖書 詩篇78篇17~39節
(序)本日は、先週に続いて、詩篇78篇よりお話いたします。
先週もお話ししましたように、この詩篇は、イスラエルの過去の歴史を振り返って、そこで教えられた教訓を後の時代の人々に語り続ける大切さを歌っています。
一、神を信頼せず、神に逆らったイスラエルの歴史
17節に「それなのに、彼らはなおも神に罪を犯し、砂漠でいと高き方に逆らった」とあります。主は、かつて紅海の水を分けてイスラエルの民を渡らせ、砂漠においては岩から水を湧き出させてくださった。「それなのに」ということです。17~22節には、神の恵みの御業を経験しながらも、神に逆らい、神を試み、不平を述べ、神を信頼しなかったイスラエルの歴史が記されています。18節に、「彼らは欲するままに食べ物を求め、心のうちで神を試みた」とあります。出エジプト記16章3節をご覧ください。
イスラエルは、神の奇跡的御業により危機から救われ、神の恵みを経験したのに、神によって立てられたモーセとアロンに「エジプトでは肉なべのそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた」と呟いています。そこで、主なる神は、朝には天からマナを与えて、夕にはうずらを与えられました(出エジプト記16章12~15節)。また、民数記11章4~5節、そして31~34節をご覧ください。民は、「ああ肉が食べたい。エジプトではただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも」と呟いています。そこで主なる神は、うずらの群れを与え、イスラエルの民は、欲望にまかせて肉を食べ、ついには非常に激しい疫病で苦しみ、おおくの者が亡くなります。そして、その所の名をキブロテ・ハッタワと名付けたというのです。詩篇78篇26~31節。さらに詩篇106篇14~15節もご覧ください。神様は、民の激しい欲望に対しても、願いを叶えられますが、何とその欲望のゆえに、民は病に苦しむと言うのです。
二、われみ深い神の赦しと忍耐
しかし、主なる神は、そのようにしばしばつぶやき、反抗する民に対して、天からのパン、マナを与え、肉を降らせられます。それにもかかわらず、民は、なおも罪を犯し、神の奇しいわざを信じませんでした(32節)。
37節を見ると「彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった」とあります。そのような、不誠実極まりないイスラエルの民に対して、主なる神は、あわれみと忍耐を示されたというのです。
38節を見ると「しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった」とあります。
私たちの信じる主なる神は、「あわれみ深い神」であるという事について、出エジプト記34章6~7節、および詩篇86篇5節と15節をご覧ください。
出エジプト記34章6~7節には、イスラエルの民が偶像を作って罪を犯し、モーセの執り成しにより、主なる神が共に行くと約束して下さり、怒ってモーセが砕いてしまった石の板に代わって再度十戒を記した石の板を与えられた時、主なる神が宣言された言葉です。「主。主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代に保ち、咎と背きを赦す者、…」とあります。
詩篇86篇5節、15節は、「ダビデの祈り」と表題にあり、ダビデが、神はいつくしみ深く、あわれみ深く、情け深い神であり、恵みとまことに富んでおられるお方として賛美している歌です。
「あわれみ深い」と訳された言葉ラフームは、「胎、子宮」を意味するレヘムと言う言葉から派生した言葉です。それは、母親がその子どもに対するように、深い憐れみの情を言い表した言葉です。
最後に、詩篇103篇4節をご覧ください。
ダビデは、主の恵みの一つ一つを丁寧に数えています。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れないように」(2節)。と言っています。そして、4節に、「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」と言うのです。
「恵み」とは、ヘセッドと言い、神の変わることのない契約の愛を意味し、「あわれみ」とは、神の深くやさしい愛を意味しています。そのような「恵みとあわれみの冠」をかぶせてくださるのです。これは、全く神の恩寵に基づくものです。私たちは、どれほどに、この神様の「恵みとあわれみとの冠」をかぶらせてくださったかを覚えたいと思います。
(結論)このあわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる神様を信じさせていただいている恵みを感謝しましょう