礼拝説教「癒され難い痛みの中から」2020年10月4日 動画はこちら
聖書 詩篇77篇1~20節
(序)73篇からずっとアサフの歌が続いています。アサフという人は、ダビデの時代の神殿楽長であり、この77篇は、ユダ王国が、バビロンによって国を滅ぼされ、バビロンに捕囚にあったころの歌と思われており、アサフの子孫の作と思われます。73篇から83篇までのアサフの名による詩篇は、いずれも深い嘆きの淵から歌い出されています。
一、癒され難い痛みの中から
特に、77篇は、癒され難い深い痛みの中から歌い出されています。
2~3節を見ると、詩人の「癒され難い痛み」がひしひしと伝わってきます。「苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。」(2節)私たちは、普通なら神とその御業を切に求め、神の慰めを待ち望むのです。しかし、同時に、詩人は、「私のたましいは慰めを拒んだ」と言うのです。詩人は神の慰めを求めつつ、癒され難い痛みのゆえに、「慰めさえも拒む」のです。詩人の嘆きは続きます。「私は神を思い起して嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる」(3節)とその口から懐疑と絶望がうめきとなってこぼれるのです。普通ならば、どのような苦難の中にあっても、神を思い起すならば、一筋の光を見いだし、力と希望に生かされるのです。しかし、この時の詩人にとっては、神を思い起すことさえも、苦痛なのです。詩人は、神に向かって「あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、ものを言うこともできない」(4節)とさえ言うのです。詩人は、それほどの懐疑と絶望の淵に立っているのです。なおも詩人は、自らのうちに反問するのです。
「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。主の恵みは、永久に断たれたのだろうか。…神はいつくしみを忘れたのだろうか。もしや怒って、あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」と問いかけるのです。8節の「主の恵み」と訳されたところは、ヘセドというヘブル語が用いられており、「契約の愛」と言われている言葉です。決して変わることのない「契約の愛」が永久に断たれてしまったのだろうか、と思い悩むのです。
二、神の御業の想起
しかし、詩人は、単に懐疑と絶望の淵をさ迷って終わってはいません。
11~12節をご覧ください。詩人は、もう一度、過去になしてくださった神の御業を思い起すのです。
「私は、主のみわざを思い起そう。まことに昔からのあなたの奇しい御業を思い起そう。私はあなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(11~12節)
これまで神がなさった御業を思い起すことは、非常に大切です。心を静め、主とその御業に思いを集中するのです。その時、憂いの雲は後なく消えて、やがてまばゆいばかりの光に包まれるのです。
三、神の聖なる道の発見
13節をご覧ください。「神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。」 詩人は、ついに信仰の目を上げ、神の聖なる道を見いだすのです。「あなたの道は聖です」とありますが、「聖」(コーデッシュ)とは、「きよい」という意味と共に「輝く」または「分離」という意味も含んでいるといわれます。神様が「聖」であるとは、力と栄光に輝けるお方、そして、人間がまともに近づく事の出来ない絶対者なる方を意味しています。そして、神の道が「聖」であるとは、神の御心、神のご計画、神の御業が、人間の思いや願いとははるかに超越したものであるということです。ですから、詩人が「神の聖なる道」を見出したとは、14節以降に歌われているように、神の大いなる御力、その御腕をもって神の民を贖い救われた事を見出したということです。この所は、出エジプト記14章21節の出来事を反映しています。同じく出エジプト記15章11節をご覧ください。これは、主が紅海の水を二つに分け、イスラエルを救い出された後に、モーセが歌った歌の1節です。「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか。」(出エジプト記15章11節)
同じように、詩篇77篇の詩人は、大いなる神、奇しいわざを行われる神を見出すのです。その「御力」、その「御腕」、その「贖い」その御稜威と栄光を見出すのです。
そして、最後には、20節に至り、「あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました」(20節)と神のいつくしみに満ちた導きの御手を見出すのです。
(結論)「神よ。あなたの道は聖です」とあるように、奇しいわざを行われる大いなる神を見出し、その「御力」、その「御腕」、その「贖い」その御稜威と栄光をほめたたえる者となりましょう。