礼拝説教「神の定めの時」2020年8月30日 動画はこちら
聖書 詩篇75篇1~10節
(序)本日は、詩篇75篇よりメッセージを導かれています。
一、神の定めの時
まず2節をご覧ください。「わたしが定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく」(2節)とあります。伝道の書3章1、11節には、「何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。…神のなさることは、すべての時にかなって美しい」とあります。私たち人間は、自分で何かを計画し、時を定めることができると考えています。しかし、すべての事は神のご計画、神の御手の中にあります。神が時を定めておられるのです。私たちは、神が定められたご計画と時の中で、すべての営みをしているにすぎないのです。神様は、ご自身の主権的なご計画の中で、すべてを動かし定めておられるのです。75篇では、特に「公正なさばき」という事において、時を定めておられる事が歌われています。
3節をご覧ください。「地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる」(3節)とあります。この「揺らぐ」と訳されたネモギーム(ムーグのニファル形)は、詩篇46篇6節で「神が御声を発せられると地は溶けた」と訳されている言葉と同じです。すなわち、液状化現象という埋め立てた土地が地震でドロドロ状態になったことがありましたが、そのように今までしっかりしていると思われていた社会的基盤が何かの拍子に確かさを失ってしまうことです。しかしそのような中にあっても、主なる神は、「わたしは地の柱を堅く立てる」(3節)と言われるのです。御手をもって、私たちが頼り寄りかかることの出来る確かな義の柱、確かな救いの柱を立ててくださるのです。
二、審判者である神
主なる神は、どんなに悪しき者、高慢な者が、角を上げて高ぶっても、神様が、彼らに「誇るな。…角を上げるな。…横柄な態度で語るな」(4~5節)と告げられる時があるのです。7節をご覧ください。「それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれをあげられるからだ。」(7節)とあります。主なる神は審判者です。さばく方です。引き上げるのも、引き下ろすのも、すべて神の御業です。主なる神が一切の主権を行使されるのです。8節をご覧ください。「主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。主がこれを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう」(8節)とあります。「あわだつぶどう酒の杯」とは、神のさばきのことを暗示しています。
主イエスは、ゲツセマネの園で「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願う事ではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14:36)と祈られました。
私たちが飲み干すべき神のさばきの杯を、主イエスは、十字架の上で代わりに飲み干してくださったのです。
三、御救いを感謝しての賛美
もう一度、7節をご覧ください。「それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ」(7節)とあります。主なる神は、どんな状況にあろうともそこから救い、引き上げてくださるのです。
詩篇75篇のはじめと終わりには、感謝と賛美が歌われています。詩人は「神は私たちを高く引き上げてくださる」という信仰に立ったのです。
1節に「御名は近くにあり」とありますが、「御名」とは、神ご自身を示しており、「御名は近くにあり」とは、神のいと近き臨在を意味しています。詩人は、神のいと近き臨在を覚えているのです。「近くに」と訳されたヘブル語カーローブは、詩篇34篇18節「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」(詩篇34篇18節)に用いられています。
さて、創世記39章23節をご覧ください。「それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39章23節)とあります。創世記に出て来るヨセフは、17歳の時、兄弟たちの手によって、商人に売られエジプトのポテパルという人の奴隷となります。主がヨセフとともにおられたので、すべてヨセフのすることは成功し、主人に認められ全財産の管理を任されます。しかしポテパルの奥さんの誘惑を退けたため、奥さんから濡れ衣を着せられ、牢獄に送られます。しかしそこでも、主が共におられたので、ヨセフは監獄の長に認められ、牢獄内の全ての管理を任されます。そんなある日、献酌官長と調理官長の夢を解き、そのヨセフの解いた夢のとおりになります。「私を思い出してください」と言ったヨセフのことを、牢獄から出してもらった献酌官長は、すっかり忘れていました。そんな時、エジプトの王パロが夢を見ます。だれもパロの夢の意味を解く人がいません。その時かの献酌官長がヨセフのことを思い出し、ヨセフがパロの夢を解きます。そしてついに、ヨセフは、エジプトのすべてを任される宰相の地位にまで引き上げられました。そして、父や兄弟を飢饉から救う働きをするのです。まさに、ヨセフと共におられた神がヨセフを引き上げてくださったのです。
最後に、第1ペテロ5章5~7節をご覧ください。ペテロは、その手紙の中で謙遜であることを勧め、「神は高ぶるものに敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第1ペテロ5章5~7節)と諭しています。私たちは主の御前にへりくだっているでしょうか。思い煩いをゆだねているでしょうか。すべてのことを感謝しているでしょうか。主とその御業を賛美することを忘れていないでしょうか。
(結論)神の力強い御手の下にへりくだりましょう。思い煩いを、いっさい神にゆだねましょう。詩篇75篇の作者と共に、神が近くにいてくださることを覚え、感謝し、主なる神を賛美しましょう。