私の望み、信頼の的

礼拝説教「私の望み、信頼の的」2020年9月6日 動画はこちら

聖書 詩篇71篇1~8節

(序)本日より、3回に分けて、詩篇71篇からお話しいたします。本日は、1~8節より、この詩人の信仰を見たいと思います。特に3つのことをを取り上げます。①私の巌、私のとりで、②私の望み、私の信頼の的、③私の力強い避け所ということです。

一、私の巌、私のとりで

 2~3節を見ると「私を救い出し、私を助け出してください。…私をお救いください。…私を救ってください」と神の救いを求めた祈りが繰り返されています。2節に「あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください」とあります。「あなたの義によって」とは、主なる神の変わることのない「義」によるところの救いであり、助けだということです。いつも申し上げていますように、この「義」ツァデークとは、基本的に「義」という意味ですが、「恵み」「救い」「勝利」と言った意味も含んでいる聖書の大変重要な言葉です。そのような確かな変わることのない「義」によって、神様は、私をお救いくださるという信仰が詩人にはあったのです。

3節を見ますと、「私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです」とあります。主なる神は、がっしりとした何が来ても動くことのない「大岩」のような方だという信仰を、71篇の詩人は持っているのです。

「砦」は、戦いの時に、敵の攻撃から守つてくれるものです。

ですから、詩人は、「主よ。私はあなたに身を避けています」(1節)と信仰の告白をすることができるのです。

二、私の望み、私の信頼の的

5節をご覧ください。「あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。」と主なる神に向かって信仰を告白しています。「私の望み、」と訳されたティカバーという言葉は、イザヤ書40章31節「。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節新改訳2017)の「待ち望む」と訳されたカーバーから派生しています。以前にも申しましたが、「待ち望む」と訳されたカーバーとは、「ロープや糸を撚って強くする」というような意味から来ていると言われています。

 まさに「望み」とは、主に寄り頼み、寄りかかり、から身になってあてにするところに与えられるものです。ですから、詩人は、「あなたは、…私の信頼の的です」と言っています。他の訳では「若い日からの拠り所」と訳しています。この71篇を書いている詩人は、人生の晩年にこれを書いていると思われます。ですから、彼は、若い青年の時代から、「主を信じて来た」いや、6節を見ると「生まれたときから…母の胎から」と言っています。生まれる前、お母さんのおなかにいる時から、祈られて育ってきたと証しているのです。まことに祈られ育てられ、若い時からずっと神様を信じ、神様を賛美してきたのです。

三、私の力強い避け所

7節をご覧ください。「私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです。」(7節)とあります。何という素晴らしい一句でしょう。「私の存在、私が今ここにあるというのは、奇跡なんです」と言っているのです。「あなたが私の力強い避け所だからです」と主の恵みを証ししているのです。

 そして8節にあるように、詩人は「私の口には一日中、あなたの賛美とあなたの光栄が満ちています。」(8節)と歌っています。

「私の口にはあなたへの賛美が、あなたの栄が絶えず満ちています。」(8節新改訳2017)何と祝福と恵みに満ちた証しでしょう。私たちもこのように恵みと賛美にあふれて、主を証ししたいと思います。

第1コリント15章10節をご覧ください。パウロは、「神の恵みによって、私は今の私になりました。」と言っています。エペソ人への手紙2章5節には、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ人への手紙2章5節)とあります。パウロは、「恵み」という言葉をしばしば用いており、しかも神の恵み深い力ある御業を示す重要な言葉として用いています。

最後に、第2コリント12章9節をご覧ください。主が弱さを覚えていたパウロに語られた言葉として記されています。「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。」(第2コリント12章9節)

(結論)詩篇71篇の詩人のように、「私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです」とまた、パウロのように、「私が今あるのは、神の恵みです」と証ししましょう。