絶えず待ち望み、賛美する

礼拝説教「絶えず待ち望み、賛美する」2020年9月13日 動画はこちら

聖書 詩篇71篇9~17節

(序)本日は、先週に続いて詩篇71篇よりお話いたします。

一、助けを求める祈り

詩篇69篇1節、70篇1節、71篇2節、そして12節に「私を救ってください。」「急いで私を助けてください。」または「私を助け出してください」という祈りが記されてます。すなわち、これらの詩篇は、一貫して神の助けを祈り求めています。

71篇の9節を見ると、「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」(9節)とあります。

詩人は、今や老境に入り、心身ともに衰えを感じています。私たちは何によって老いを感じたことがあるでしょうか。私は、朝、あるいは夕方、散歩をしているのですが、平いたんな所ではサツサと歩けるのですが、坂道になるととたんに足が動かなくなってしまいます。そんな時、つくづく年寄ったなと感じます。

詩人は、ただからだの衰えを感じるばかりではありません。悪しき者が、詩人のいのちをつけねらい、痛めつけ、侮辱してくるのです。

「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」(9節)とは、年老いた詩人の切実な祈りです。

二、絶えず待ち望む

 詩人は、逆境と苦難の中で、神を信頼し、神の助けを待ち望むことを学びます。それは、先週も見た詩篇71篇5節に「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です」とありました。詩人は、若い時から一貫して、神に寄り頼み、神を私の望み、私の信頼の的として生きて来たのです。そして今も、「しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう」(14節)と信仰の告白をするのです。ここにおける「待ち望み」ヤハルは、5節の「私の望み」と訳されたティカバーとは異なる他のヘブル語が用いられています。同じ言葉は、詩篇130篇5節、7節に用いられています。

詩篇130篇の1節に、「主よ、深い淵から、私はあなたを呼び求めます」とあります。詩人は、「深い淵」、暗黒と絶望の極みから、たましいの奥底からこの詩を祈っているのです。詩人は、イスラエルの民の罪のゆえに、惨めな状況になっていることを思い、また自らも罪深い者であることをたましいの奥底に感じ取って、そのたましいの「深い淵」から、主を待ち望んでいるのです。5節をご覧ください。「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ち望みます。」(詩篇130篇5節)詩人のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を切に待ち望むというのです。そして、イスラエルの民に対して、「イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある」((詩篇130篇7節))と告げているのです。

 まさに「待ち望み」とは、主をたましいの奥底から切に待ち望むことです。詩人のたましいは、詩篇71篇5節にあるように「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。」(詩篇71篇5節)と主ご自身に焦点が合わせられているのです。

三、賛美に満ちあふれて

詩人は、ただ助けを祈り求め、主を待ち望む祈りをささげるだけではありません。祈りに祈り、祈り抜けたとき、その口から賛美が溢れ出しているのです。14節の後半に「いよいよ切に、あなたを賛美しましょう」(14節)とあり、15節~17節において、主なる神とその救いの御業を賛美しほめたたえています。「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私はその全部を知ってはおりませんが。」(詩篇71篇15節)

詩人は、主なる神の限りのない義と救いの御業を覚え、ちっぽけな人間の限られた知恵では、知り尽くすことの出来ない神の無尽蔵の義と救いであると賛美しているのです。

最後に、エペソ人への手紙1章18~19節をご覧ください。「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ人への手紙1章18~19節)とあります。これは、パウロの祈りです。パウロは、信仰のゆえにローマの牢獄につながれながらも、エペソの教会のクリスチャンの霊の目が開かれて、神の無尽蔵の富と力を知るようにと祈っているのです。

(結論)私たちもどの様な境遇に置かれようとも、霊の目が開かれて、神の無尽蔵の富を知り、神を賛美する者とさせていただきましょう。