日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2022年6月12日 みことば
この方以外には、だれによっても

救いはありません。  使徒4:12



2022年6月12日 メッセージ 荒籾実牧師

岩の上に人生の土台を据える」           マタイ7:21~29

イエス様は、人生の土台をどこに置くのか。あなたはどうするかといつも問いかけてくださいます。

7章24節

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」

ぜひ、イエス様が山上の説教で教えられた祝福の約束のことばを受け取ってください。そして、その祝福の約束を頂くために、みことばに従う生き方を、日々、選択してまいりましょう。

私たちが人生を歩む時、嵐のような出来事に突然襲われることもあります。しかし、イエス様ご自身と、イエス様の教えの上に人生の土台を築くなら、どんな試練の中にあっても完全に打ち負かされることはなく、あなたの信仰は揺るがされることはありません。

なぜなら、イエス様が約束されたとおり必要な時に必要な助けが与えられ、天の父なる神様が、試練と共に必ず脱出の道を備えてくださるからです。

私たちは、5章からはじまった山上の説教を3章に渡って聴き続けてきました。イエス様は、ご自分のもとに来た人々に天の父なる神さまから語るようにと命じられたことを教えてくださいました。イエス様が教えてくださったことは、まことのいのちを得るためになくてはならないことばかりです。


イエス様が教えておられる一番大切なことは、天の父なる神様の御手の中で、神の子どもとして、父なる神様の愛を受けて生きることなのです。私たちは、世の終わりの時代に生かされています。まことの王であるイエス様が再び地上に来られる日に備えつつ、みことばに聞き従い、示された真理のみことば、救いの岩なるイエス様に人生の土台を据えて生きていきたいと願います。

7章25節

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」

  


2022年6月5日 みことば


   

聖霊があなたがたの上に臨むとき

あなたがたは力を受けます。  使徒1:8



2022年6月5日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「聖霊によって」   ヨハネ14:15~26

 

今日は、復活されたイエス様が、弟子たちに約束された通りに聖霊が降り、地上に教会が誕生した日をお祝いする「ペンテコステ=聖霊降臨日」です。ヨハネの福音書14章から16章は、イエス様が十字架に架かられる前、弟子たちに語られた「告別説教」と呼ばれます。その中から、イエス様が聖霊について予め語られたみことばを通して示された、恵みの約束と大切な真理について教えられたいと願います。

ただ聖霊によって、信仰を与えられ、イエス様を愛し、イエス様のご命令に従う者と変えられた者が、神の子キリストとしてのイエス様の真の姿を認めることができるのです。私たちは、確かに真理の御霊である聖霊を頂いています。

聖霊は、いつまでもともにいてくださり、私たちを助け、導いて下さいます。弟子たちもそうでしたが、私たちも信仰の歩みにおいて、失敗を繰り返しながら、自分の弱さや足りなさ、罪深さを示され、悔い改めて、心の底から聖霊に助けを求める者に変えられていくのです。 

イエス様が約束し与えられる聖霊は、私たちをすべての試練と誘惑から完全に助け出すことがお出来になるお方です。初代教会の弟子たちが激しい迫害を耐え忍び、喜んで宣教する者と変えられたのは、助け主である聖霊が彼らと共に居て、彼らを励まし、慰め、愛と勇気を与えてくださったからです。

私たちがここから派遣される一週間の旅路の中にも、沢山の試練と誘惑があるでしょう。目に見える迫害がないように思えたとしても、私たちがイエス様のご命令に従って互いに愛し合う者になろうとする時、必ず、その歩みを妨害することが起こります。

その時、思い出したいのです。イエス様が弟子たちに約束されたまことの助け主であるお方が、いつも私たちとともに居てくださる事を。あなたは確かに主に愛されています。聖霊によってイエス様のことばを思い起こし、イエス様のことばに従うことができるのです。


聖霊はあなたと共に、あなたの内におられ、あなたを慰め、あなたを励まし、あなたを助け、あなたを導いてくださいます。聖霊によって永遠の命を生きる者とされ、主を愛し、主のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。


イエス様を主と告白する者に真理の御霊が与えられ、聖霊によって真理を知る者とされた恵みと、イエス様を心から愛する者とされた恵みに感謝し、これからもイエス様のご命令に従い、愛されている者として、互いに愛し合う幸いのうちを歩んでまいりましょう。

 

 

2022年5月29日 みことば

    「わたしはあなたのために
     あなたの信仰がなくならないように祈りました。」

                      ルカ22:32



2022年5月29日 メッセージ  荒籾 実 牧師

良い木は良い実を結ぶ」      マタイ7:15~20

 

イエス様は、狭い門から入りなさいと命じられた後、「偽預言者たちに用心しなさい」と警告されました。偽預言者が現れるのは、イエス様が地上に来られるずっと前から繰り返し続いてきたことです。

この世界を創造されたお方がイスラエルの民のもとに預言者を遣わされると、同時に偽預言者も現われます。そして、イスラエルの民は、本物の預言者ではなく偽預言者の言葉を信じたために、滅されてきた歴史があります。

 イエス様は、私たちが偽預言者に惑わされ、滅んでしまうことがないように、予め、偽預言者を警戒するようにと命じておられるのです。

 なぜ、イスラエルの民は偽預言者の言葉に従ったのでしょうか。それは、偽預言者が人々の耳ざわりの良いことだけを告げていたからです。偽預言者が、イスラエルの民に罪を悔い改めるように警告する代わりに、彼らの行っていた罪を肯定し、そのままで大丈夫だと安心させたのです。

イエス様は、狭い門から入るようにとお命じになった後、偽預言者、惑わす者が同時に現れると警告してくださいました。ペテロもパウロも、偽預言者たちに気をつけるようにと何度も警告しています。それは現代も同じです。

時代が進めば進むほど、本物と偽物を見分けることが、ますます難しくなるでしょう。それは、彼らが羊の衣をまとっているからです。しかし、見分けることが困難に思われても、必ず良い木が良い実を結ぶように悪い木は、悪い実を結ぶものです。

時間がかかりますが、私たちは、イエス様の警告のお言葉に耳を傾け、偽りの教えと真理を見分けることができるように正しい教理を学び、毎日聖書に親しみ、いつも本物に触れていたいと願います。

みことばを信じるだけでなく、自分の生活の中で従っていく時、良い木と悪い木を識別できるよう成長させて頂けるのです。御霊様の助けを頂きながら、良い木として、良い実・御霊の実を結ぶ者として、まことのぶどうの木であるイエス様としっかりつながって歩んでまいりましょう。

2022年5月22日 みことば



    「
あなたは生ける神の子キリストです。」

   マタイ16:16




2022年5月22日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「生きた信仰」                   マタイ17:14~20 

私たちは人間的な思いや判断で、神様に全幅の信頼を置かずに、神様の御力を見限って、これは無理だろうと諦めたり、投げやりになったり、自分の力で解決しようと、もがいてしまうことはないでしょうか。

確かに、人間には、限界がありますが、神様に限界はありません。おできにならないことは
一つもないのです。その全能の神様が、たとえからし種ほどの信仰であっても、私たちが心から信じて祈り求めるならば、「あなたがたにできないことはありません」と約束された通り、私たちには到底無理だと諦めていた事であっても、闇に蓋をしてきたことに光を照らして、和解や赦し、痛みからの回復を与えてくださるのです。

神様は、私たちが自分の力に頼ることをやめ、すべてをゆだねるところまで待たれる場合があります。汚れた霊に憑かれた子どもの父親が最後の望みをかけて藁にもすがるような思いでイエス様のもとに来たように、私たちもイエス様だけにより頼むものとなるまで試練の中に置かれるのです。そして、完全に神様にすべてを明け渡した時、神様への信頼という生きた信仰で神様とつながる時、生きて働かれる主の御業を体験する恵みに与ることができるのです。

「イエスは言われた。あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。
もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に、ここからあそこに移れ。と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

「あなたがたにできないことは何もありません。」なんという大胆な宣言ではないでしょうか。すべてを支配し今も生きて働いておられる天の父なる神様に対する絶対の信頼で繋がっておられる神の御子、イエス様だからこそ宣言できた言葉です。

この宣言を私たちは真摯な態度で受け止めているでしょうか。「できないことは何もありません。」とは何でもできるということです。つまり、私たちは生きた信仰、神様への信頼によって、全能なる神様の力と繋がっているという意味です。神様が働かれるならば不可能なこと一つもありません。神様の力は無限です。「あなたがたにできないことは何もありません」と宣言されたイエス様のおことばを信じましょう。あなたがすべてを明け渡し、天の父なる神さまを信頼して生きる時、あらゆる問題、悩み、困難も、不思議な力によって変えられていく、神様のご計画の中で動き出す恵みを、共に体験させていただこうではありませんか。

 

2022年5月15日 みことば


しっかりしなさい。わたしだ。

恐れることはない。  マタイ14:27

             



2022年5月15日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「狭い門から入りなさい」           マタイ7:13~14


イエス様は、信仰のゆえに迫害された時、その人が受ける報いについて次のように教えています。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」マタイ5:11~12                           

私たちが救われる以前と同じようにまことの神さまを信じない人々と同じように生活をしていれば迫害されることはありません。多くの人が選択するのは、迫害されない広い道です。

しかし、イエス様を信じ、イエス様に従うことを選び取ることは、狭い門を通り、細い道を歩むこと、それは、いのちを選び取る道、天の御国に通じる道なのです。イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」ヨハネ14:6

抱えているものを手放さなければ通れない狭い門を通り、決して見栄えのよい道でもなく、楽な道でもない道を歩いていく…けれども、この道こそ、永遠のいのち、天の御国に至る道であり、イエス様が先立って導き、イエス様と共に歩む道なのです。この狭い門、細い道は、単に苦労の多い困難な道というのではありません。

天の御国に至る道そのものであるお方が、共に歩いて導いて下さる、決して迷うことのない一本道。どこへ向かっているのかを見上げる時、希望と平安、感謝と喜びに溢れた道なのです。

イエス様が示された狭い門は、誰も通ったことのない門ではありません。私たちの信仰の先輩たちがすでに通った門です。そして、何よりイエス様ご自身が十字架に架かることにより、天の父なる神さまに従い通され、狭い門から天の御国に入り、困難に満ちた細い道を通られ、天に凱旋さたのです。

イエス様のそのお姿に倣い、イエス様のために迫害されたことを喜んだ弟子たちに倣い、主と同じ苦しみに与ることができる特権を与えられたことを感謝して、イエス様の歩まれた、いのちに至る道、天国に通じる道を共に歩んでまいりましょう。

 

2022年5月8日 みことば

   

愛する者たち。

私たちは互いに愛し合いましょう。

愛は神から出ているのです。  Ⅰヨハネ4:7

2022年5月8日 メッセージ 水草修治 牧師

「人生は礼拝」           ローマ12:~2

神は、罪の中にあって永遠のゲヘナで滅ぶべき私たちを愛して、御子イエスの完全なご生涯と十字架と復活を根拠として義と宣言し、御国に招いてくださいました。だから私たちは「からだを」つまり人生をまるごと神にささげて生きるべきです。主日だけでなく、残りの6日間も主にささげて生きるのです。十分の一だけでなく、手元の十分の九も主のみ旨にかなう用い方をして生きるのです。生活の全領域において神をあがめて生きるのです。あなたの生活のなかで、まだ神におゆだねしていないところはないでしょうか。イエス様はあなたのお客さんではなくて、あなたの主となることを望まれるのです。主にささげるのは「聖なる生きたささげ物」としてのあなたの人生です。旧約時代、神に対する捧げものは必ず血が流されなければなりませんでした。罪から来る報酬は死であるからです。ところが「あなたがたのからだを・・・聖なる生きたささげ物としてささげなさい」といわれています。それはこのささげ物は、罪の償いのための犠牲ではなく、感謝のささげものだからです。神の御子イエスが、私たちの罪の身代わりの犠牲となって、いっさいの罪の償いを完了してくださいました。だから、私たちは自分の罪滅ぼしのために生きる必要はありません。そうではなく、「こんな罪人が赦された!」という神への感謝にあふれて、自分の全生活を主におささげするのです。これが、新約の時代に生きる私たちキリスト者の礼拝の生活の原理です。「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」とは、「あなたがたのなすべき礼拝」「理にかなった礼拝」という意味です。何が理にかなっているかというと、まず神が創造主であって私たちはその作品であるからです。作品が創造主にお仕えするのは当然でしょう。次に神の御子キリストがあなたのために命まで惜しまなかった救い主だからです。命の恩人に感謝して生きるのは人として当然のことでしょう。理にかなった礼拝者として、生活の全領域で神様をあがめ、神様の栄光を現して生きるためには、まず、悪魔が支配する「この世」と調子を合わせないで、「心(ヌース:むしろ頭)の一新によって自分を変えていただく」ことです。人は考えているように生きるものですから、聖書のみことばと教理をきちんと理解し、蓄えることが肝心です。そうしていれば、私たちの生活全体が、神への礼拝とされていきます。

 


2022年5月1日 みことば


   

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためです。

ルカ5:32



2022年5月1日 メッセージ  荒籾 実 牧師

御国の民として」  マタイ7:12

 

御霊に満たされて隣人を愛するとは、具体的にはどうすることなのでしょうか。その事を思い巡らす時、殉教したステパノの姿が思い出されます。ステパノの心は、御霊様に支配されていたのです。だからこそ、自分に対して敵意を抱き、殺意をもって石を投げる人々の救いのために執り成し祈ることができたのです。それは、ステパノが御霊様に自分の心の王座に着いて頂き、イエス様の愛を頂いて、隣人を愛していたからです。ステパノは、イエス様の十字架の祈りを知っていたのでしょう。

イエス様は、ステパノより前に、十字架の上で、愛の極みを示されました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」私たちは、十字架のイエス様こそが本当の意味で律法を全うし、命をかけてすべての人を愛されたお方であると信じています。これは本当に、神の愛であるところの奇蹟としか言いようのないことです。また、敵を愛するステパノの姿、十字架のイエス様の執り成しの祈りに思い出される宣教師たちがいます。以前にも、お話したことがありますが、ジャングルの奥地に住む首狩り族に福音を伝えた5人の宣教師とその家族です。彼らは、イエス様が隣人を愛されたように首狩り族の人々を愛し、彼らの友となるために命を犠牲にしました。「ビティ・ミティ・プーニムーパー」「私はあなたが好きです。あなたと友達になりたい」と最後まで言い続けながら、福音を伝えた宣教師たちの心も、確かにイエス様の愛と御霊で満たされていました。

 私たちは、イエス様のお姿にならったステパノや宣教師たちのように、自分の命をかけてまで隣人を愛することなどできないと思うかもしれません。しかし、イエス様の十字架によって罪赦され、神の子として生きる一人の人間であることに、何ら変わりはないのです。私たちはみな、土の器です。空っぽの、欠けだらけの器なのです。そこに神様が無限に注いで下さる愛と御霊で満たされて、溢れるばかりになる時、私たちも、もっと深く、隣人を愛することができるようになるのです。なぜなら、私たちもすでに神の子どもとされているからです。天の父なる神様が、私たちを子として愛して下さり、養い、導いていて下さる、その歩みの中で、神様を愛し、隣人を愛する御国の民としての新しい生き方が示されました。私たちが、イエス様の愛と御霊で満たされて、精一杯、隣人を愛する小さな愛の業一つ一つが、神様に喜ばれるものとなり、主の愛と福音を運ぶ器として用いて頂けるよう、心から祈ります。

 

2022年4月23日 みことば




   「あなたがたは行って、
     あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
                 マタイ28:19






2022年4月23日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「真の信仰に至るまで」  ルカ24:13~35

 今、クリスチャンとして歩んでいる一人一人も、最初から聖書に書かれてあることがすべて理解できたわけではありませんでした。聖書を読み、礼拝に集い、みことばの説き明かしを聞き続ける中で、だんだんと聖書が教えていることの理解が深められてきたのです。
信仰の知識は「自分なりに」努力して得られるものではありません。イエス様が二人の弟子に、「ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」とあるように、聖霊に導かれた聖書の説き明かしを聴く必要があるのです。みことばが説き明かされること、イエス様との交わりと聖霊の助けがあって初めて、私たちは本当の意味で、救い主なるイエス様、死からよみがえって今も生きておられるイエス様、とこしえまでも共におられるイエス様を信じることができるのです。人間の知識や経験で理解しようとすると、かえって分からなくなってしまうのは、イエス様が、人間の知識や経験をはるかに超えたお方だからです。
復活の主を信じて生きるため、真の信仰に至るためには、一人一人、エマオへの道のりが必要なのです。イエス様が共に歩いて下さるエマオへの道のりは、みことばの説き明かしと、イエス様との交わりによって導かれ、はじめは失望や疑いに閉ざされた目が、確かな希望への確信に開かれるという恵みに満ちた道のりであり、私たちが向きを変えて、イエス様の元へと立ち返る歩みです。それは、とりもなおさず、私たち一人一人が「真の信仰に至るまで」の道のりです。
教会の礼拝に集い、みことばの説き明かしを聞き続けていくなら、聖書が伝えるイエス・キリスト、今も生きておられる救い主イエス様が、必ず分かるときが来ます。それは、イエス様が、今から2000年前の人々だけでなく、今も私たちのところへ、求める者のところへ、ご自分から足を運んで出会ってくださり、共に歩んで導いて下さるため、イエス様が送られた聖霊が、語られるみことばと共に働いてくださるためです。
 私たちがイエス様と共にいること、イエス様のみことばに聞き、イエス様との交わりの中にいることが大切なのです。今日、イエス様との交わりは、イエス様が与えてくださる助け主、聖霊様によって持つことが出来ます。
真理を求める旅は、まだ始まったばかりです。どうぞ、永遠のいのちに至る道があなたのために備えられていることを信じて、共に歩み続けようではありませんか。イエス様は、あなたが求めるならばご自身の予定を変更し、同じ宿に泊まってくださるほど優しいお方です。そして、あなたが真の信仰に至るまで、聖書から真理のみことばを語り、導いてくださいます。イエス様は、命をかけて愛し、今も生きて共におられる、あなたの救い主だからです。

2022年4月17日 みことば



    「ここにはおられません。
     前から言っておられた とおり、
     よみがえられたのです。」

                 マタイ28:6



2022年4月17日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「よみがえられたイエス様」  マタイ28:1~10

 イエス様は次のように約束してくださいました。 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 弟子たちがイエス様のことを裏切ったとしても、イエス様を一人残し逃げ出したとしても、イエス様は、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束してくださるのです。
  死を打ち破り、よみがえって今も生きておられるイエス様、まことの王であり、全世界、全宇宙を天の父なる神様と一緒に創造されたイエス様が私たちとともにいてくださるのです。イエス様は、「あなたがたはわたしとともにいます。」とは言われませんでした。もしイエス様が「あなたがたは」と言われたなら、弱い自分たちには到底イエス様にはついて行くことができないと、弟子たちも私たちもあきらめてしまったかも知れません。しかし、イエス様は、「わたしは」と、自らを差し出し、私たちの歩みが順調な時も、困難な時も、迫害の日にも、悩みの日にも、孤独を感じる時も、どんな時にも、私たちの手を離さないでいて下さるのです。それは、この世の終わりまで変わることはありません。
それがキリスト者の勝利の理由です。弟子たちが迫害を耐え忍び、殉教することができたのも、よみがえって今も生きておられるイエス様が彼らとともにいてくださったからです。彼らの熱心さや意志の強さによるものではありません。イエス様は、人間の目には、十字架にかけられ殺された無力な人と映りましたが、死んで葬られ、3日目によみがえられた復活の主です。ただ一人死の力に完全に勝利されたイエス様が、弟子たちとともにいてくださったことが弟子たちの力の源になっていたのです。
同じように、イエス様は、私たちとともにいてくださいます。死の力を打ち破ってよみがえられたイエス様がともにいてくださることを思い出し、イエス様の約束を信じて、イエス様とともに生きる者であり続けたいと願います。
 イエス様の復活は、確かな事実として、私たちが今生きる道につながっています。まことに主はよみがえられました。私たちの疑いや誤解、弱さ、罪を、遥かに大きく深く包み込んで、事実、イエス様は今も私たちと共におられます。この喜びと希望をもって、十字架を見上げ、共に主の道を歩ませていただきましょう。 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

2022年4月10日 みことば



    「キリストは、すべての人の贖いの代価として、
     ご自分を与えてくださいました。」

                 Ⅰテモテ2:6




2022年4月10日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「まことの王」  マタイ27:27~44

 イエス様はいのちをかけて愛した人々からののしられ続けました。
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」 イエス様は、十字架から降りることができなかったのではなく、降りることができたにも関わらず、ご自身の意志で天の父なる神様のご計画に従って人間が受けるべき罪の罰をすべて受けられることを選択なさったのです。 ここに、イエス様のまことの王であるお姿があります。イエス様は、私たちを罪の力から解放し、救い出すために来てくださった「まことの王」です。
 十字架の死は、人間にとって敗北であり愚かなことです。誇り高いユダヤ人にとっては、不名誉な事であり、蔑みの対象以外の何ものでもありません。 しかし、イエス様は十字架の死においても、父なる神様への信頼を失うことはありませんでした。御国の王として、御国に生きる者のあるべき姿を示されたのです。
 天の父なる神様が人類を救うためにご計画されたのは、十字架にかけられたイエス様を仰ぎ見る者を救うことでした。ちょうど、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見たイスラエルの民が救われたように、十字架のイエス様をまことの王として仰ぎ見る者は救われるのです。これは、人間の常識を超えた救いのご計画です。
なぜなら、十字架にかけられた者は、神に見捨てられたもの呪われた者であると人々は信じていたからです。そして、実際にイエス様は、神に見捨てられた者、のろわれた者となり、私たちの背きの罪の罰を一身に受けられました。それ故に、私たちは、本来受けるべき罪の罰を受けずに救いに与ることができるのです。
イエス様を罵った群衆も、祭司長たちも、ローマ兵も、犯罪人も、私たちも神様の御前には同じ罪人です。天の父なる神様を無視し、神の御子を無視し、自分勝手に自分の生きたいように生きてきた者たちです。しかし、私たちは十字架の主を神の御子であると信じる信仰を与えられ、自分の罪のためにイエス様が身代わりとなって、その罪の罰を受けてくださったことを信じ、死んで三日目によみがえり、今も生きておられるイエス様の弟子として生きていく者に変えられたのです。
日々、天の父なる神様との交わりの中で示されるみことばに従って生きることができるようにこれからも主に祈り求めてまいりましょう。

2022年4月3日 みことば



    「主であり、師であるこのわたしが、
     あなたがたの足を洗ったのであれば、
     あなたがたもまた、
     互いに足を洗い合わなければなりません。」

                 ヨハネ13:14



2022年4月3日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「求め続けよ」  マタイ7:7~11

 「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」という、これら三つの言葉には、文法的な共通点があります。それは、原語の「現在命令形」が使用されていることです。その時制を踏まえて訳すと、「~し続けなさい」「常に、継続的に、習慣的にそうし続けなさい」という意味になり、三つの言葉は、それぞれ「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」となります。つまり、私たちが熱心に、主体的、意欲的に祈り求め続けることが教えられているのです。 また、私たちが祈り求める、その祈りを聞いて下さる天の父なる神様がどのようなお方であり、神様と自分がどのような関係であるかに目を向けさせてくださるお方です。
イエス様を信じた人々は、一方的な恵みにより、父なる神様から信仰を与えられ、神の子の身分を与えられて、父なる神様と親子の関係に移されます。ですから、親子とされた者たちは、遠慮することなく、大胆に父なる神様に祈り求めることが出来るのです。さらに、イエス様は、天の父なる神様が求める者に一番良いものである聖霊様を与えてくださることを教えてくださいます。私たちは遠慮することなく、心からのさけびをもって、天の父なる神様に聖霊様に満たしてくださいと祈り求め続けてまいりましょう。
 これまで以上に天の父なる神様との霊的な交わりが深められ、与えてくださると約束された沢山の祝福を受け取る者となるために、何よりも私たちが父なる神様が与えてくださった良いものである聖霊様を自分の心の王座にお迎えし、自分が本当に望んでいることが、神様のみこころにかなうものとされていくことを、日々の生活の中で体験し、その恵みを深く味わう者でありたいと願います。 子どもとして大胆に祈ること、キリストの弟子として、キリストの命令に心から従うこと。この二つのことは、私たちの心が聖霊様にご支配され続けている時に可能となり、私たちはどのような苦しみも悲しみも感謝と喜びに変えられ、嵐の中でも平安をもつことができる…すばらしい約束の祝福にあずかることができるのです。
 最後にイエス様の弟子たちに対することばを記します。 「あなたがたが、わたし(イエス)の名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父(神)にお願いすると、父はもう一人の助け主(聖霊)をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」ヨハネ14:14~16

2022年3月27日 みことば



    「わたしの何が主に喜ばれることなのかを
     吟味しなさい。」

              エペソ5:10



2022年3月27日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「罪人を招かれる主」   マタイ9:9~13

 マタイは自分が罪人であることを自覚していたことでしょう。彼は職業柄、同胞のユダヤ人から、遊女や異邦人と同じように罪人と呼ばれていることを知っていました。人間的に見れば、将来が保障されている職業に就き、金銭面では何の心配もいらない生活を送っていましたが、心の底に満たされない虚しさを抱えていたのでしょう。マタイは、本当の意味で愛してくれる友や、心を開いて本音を語れる相手がいなかったと思われます。そんな彼に、自分からは決して近づくことの出来ないお方であるイエス様の方から声をかけて下さったのです。
 イエス様は、本当に不思議な魅力に満ちたお方です。罪という恐るべき病に魂を侵され、富と権力の虜にされていたマタイは、イエス様と出会い、何のためらいもなく、イエス様の招きに従って立ち上がることができたのです。そして、イエス様の弟子となり、罪の力から解放されました。イエス様は、マタイの病を癒すため、彼の罪を取り除くために、彼のもとに足を運ばれた魂の医者です。イエス様は、患者である罪人が、御許に来るのをただ待つのではなく、自分から多くの犠牲を払って罪人である私たち人間のもとに来てくださり、その身代わりとなって、十字架にかかり、罪の罰を代わりに受けてくださったお方です。そして私たちの友となり、人生を共に歩んで下さいます。
私たちの魂は、イエス様と出会い、自分の罪を素直に認め「ごめんなさい」と悔い改める時、罪が赦され、罪の力から解放されるのです。 イエス様は、マタイのためだけでなく、あなたを招くためにも来てくださった救い主です。「わたしについて来なさい」とイエス様はあなたを招いておられるのです。愛されていること、ゆるされていることを知り、確認し続ける尊い食卓をともに囲むことをゆるし、喜んでくださる…神の子としてくださる、この招きが、まさしく罪人である自分のようなものに与えられているとは、なんという素晴らしい知らせ、喜びに満ちたグッドニュースではないでしょうか。これこそが福音です。
 イエス様は、罪人である私を、あなたを招き、救うためにこの世に来て下さった神の御子です。「わたしについて来なさい」と、イエス様はあなたに語られるのです。 今日、この招きに応答し、イエス様に従い、共に生きる決断をしようではありませんか。そこからあなたの新しい人生がはじまります。罪赦された罪人としての平安と希望、幸いに満ちた人生を共に歩んでまいりましょう。

2022年3月20日 みことば



     「わたしの家は、
      あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」

              マルコ11:17



2022年3月20日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「識別力を働かせて」   マタイ7:6

 イエス様は、私たちに否定的な意味でさばくことについて、「さばいてはいけません」と言われましたが、何に対しても分析や評価や判断を放棄するように言われたわけではありませんでした。6節のみことばは、そのことを譬えで語り、さばくことの肯定的な意味である、分析や評価や判断など、識別することの重要性を教えておられるのです。聖書の各所で、私たちが判別したり、識別したりすることを尊び、勧めています。分かりづらい異端やにせ預言者たちに対峙できるよう、彼らの教えを分析し、評価し、判断して、ふさわしくさばくことは、教会内に悪を蔓延させないためにしなければなりません。愛する兄弟姉妹が罪を犯しているような場合も、愛をもって忠告し、その罪から決別する生活を選択するように諭すことが求められるのです。
 また、私たちが福音を宣べ伝えていくときにも、識別力を発揮して、限られた時間と労力を、本当に大切なことのため用いさせて頂きたいと願います。イエス様も、弟子たちに次のように勧められました。「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。」マタイ10:23福音を頑なに受け入れようとしない人々は神様にお委ねして、福音が届けられることを待っている人々のところへ積極的に福音を伝えるために、向きを変えることも必要です。福音を伝えていく時、どのように伝えたらよいのか、迷うこともあるでしょう。そんな時、私たちの一番の模範となるお方は、やはりイエス様です。イエス様がどのように人々と関わられ、ふさわしい仕方で福音を伝え、救いに導いていかれたのか。イエス様は、どのような人に対しても天の父なる神様の愛をもって福音を届けられたお方です。
 イエス様は、罪人である私たちの身代わりに、その罪の罰を受けられるために地上に来てくださいました。そのお方の愛をいただいた者として、イエス様がいのちがけで愛しているすべての人々に、天の父なる神様からいただいた福音を届けてまいりましょう。
 私たちがなすべきことは、私たちの目から丸太を取り除き、罪を赦し、恵みの内に生かして下さっている神様に感謝することです。そして与えられている聖なるもの、真珠を大切にしつつ、神様の恵みを、愛すべき隣人へ宣べ伝えることです。私たちは、周りの人々とどのように関わり、どのようにしたら、福音を素直に聞いてもらえるか。父なる神様から愛されている子としての自覚をもって識別力を働かせ、福音を伝える相手の状態や状況を正しく受け止め、見極めて、愛をもってみことばを伝えられる人に成長させて頂きたいと願います。

2022年3月13日 みことば



     「見よ、あなたの王があなたのところに来る。
      義なる者で、勝利を得、
      柔和な者で、ろばに乗って。」

              ゼカリヤ9:9




2022年3月13日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「たましいに安らぎを」   マタイ11:28~30

 イエス様の御許に来て、そのみことばに聴き、天の父なる神様と、主イエス・キリストを知ることの中に、真の安らぎがあります。その安らぎは、この世の悩みや問題があったとしても揺れ動くことのない、罪の赦しからくるたましいの安らぎ、つまり、イエス様の十字架による救いと、その救いに導く恵みのみことばによって与えられる安らぎです。
 他の何かをすることによってではなく、ただ主と共に同じくびきを負っていること、聖霊に生かされている恵みに心を注いで、主の御前に静まることを何よりも大切にしていきましょう。イエス様のみことばを聴くことこそが、私たちにたましいの安らぎを与える、ただ一つの、変わることのない道だからです。
 私たちは、イエス様に招かれています。私たちがイエス様に出会えたことも偶然ではありません。天の父なる神様のご計画の中で、今、私たちはこの時代に生かされ、イエス様の招きの声を聴いているのです。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしの くびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
 イエス様は、あなたを招いておられます。イエス様の招きに従い、その愛と恵みにお応えしましょう。あなたのうちにあるどんな傷も痛みも、自分の力では到底解決できない問題や悩みも、包み隠さず、イエス様のもとに下ろしてください。イエス様が与えてくださる平安と希望の約束の中に飛び込んでください。そうすれば、そこに真の安らぎを見出すことができるのです。
 日常の多忙な手の業をやめ、時間を取り分けて共に礼拝をささげ、共にみことばに耳を傾けることは、キリスト者の一番の喜びであり、祝福の道です。 日々の生活の中でも、祈りとみことばに取り分ける時間を大切にしていきましょう。主のもとでたましいに安らぎを得て、心に平安を頂き、豊かな実を結ぶ者として、心の耕地を整える新たな一年をスタートさせて頂きたいと願います。

2022年3月6日 みことば



     「人の子は、
      失われた者を捜して救うために来たのです。」

               ルカ19:10




2022年3月6日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「さばいてはいけません」   マタイ7:1~5

 イエス様は、私たちが互いにさばき合うことを戒め、否定的な意味のさばきについて、兄弟姉妹を「さばいてはいけません。」と言われました。イエス様は、最終的にはすべてをさばかれる天の父なる神様からさばかれることになると警告しておられるのです。
 私たちは、日ごろから自分の犯している罪は棚にあげ、人を簡単にさばいてしまっていることを認めずにはいられません。口に出すことがなかったとしても、心の中で、私たちは周りの人の言葉や態度をさばいてしまうことがあるからです。もし教会の中にさばき合いがあるとしたら、イエス様はどれほど心を痛められるでしょうか。私たちは、互いにさばき合うために主によって新しくされたのではありません。互いに愛し合うために、選ばれ、この世にイエス・キリストの愛を、天の父なる神様の愛を現していくために召された者たちです。この光栄ある使命を果たす者にふさわしく生きる者に変えられていこうではありませんか。
イエス様は、私たちのためだけに十字架に架かられたのではなく、私たちが心の中でさばいている人のためにも血を流されたお方です。十字架こそ、赦すこと、愛することの希望です。 心の中で互いにさばき合うことをやめ、互いに愛し受け入れ合い、励まし合い、キリストのからだである教会を共に建て上げるために仕え合う者とされていきたいと願います。イエス様の姿にならい、人を愛すること。赦すこと。私たちは、イエス様に愛されています。最後にコロサイ人への手紙3章12節のみことばを以下に記します。
 「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」

2022年2月27日 みことば



     「あなたの信仰があなたを救いました。」

              マルコ10:52





2022年2月27日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「すばらしい宝」   マタイ13:44~46

 「あなたの宝は何ですか?」と聞かれたら、何を思い浮かべるでしょうか。家族や友達、思い出や経験、人との出会いや心に残る言葉、あるいは自分が持っている物の中で、高価な物、貴重な物などを挙げられるでしょうか。 「宝」という漢字には、比喩的に「かけがえのない人」という意味があるそうです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言って下さる神様は、まさに私たち一人一人を「かけがえのない存在=宝」として見て下さり、私たちを救うために、ご自分の独り子イエス様のいのちをお与えになるほどに愛して下さっています。そのような私たちは、何を、誰を宝としたら良いのでしょうか。
 私たちは、自分にとって大切なものを宝とします。「プライスレス」という言葉がありますが、お金では買えない、値段がつけられないほど貴重でかけがえのないもの、その人にとって「言葉で表せないほど、最高に価値あるもの」というニュアンスで使われる言葉です。イエス様との出会いは、まさに「プライスレス」、私たち人間の価値観を根底から変えてしまうほど、価値あるものの中で最大の発見です。あなたも福音を通して、イエス様と出会い、イエス様を通して、神の愛を知るものとなり、十字架の愛を感謝して生きる時、これまでの価値観が、人生が変えられます。教会を通し、聖書を通して出会うことのできるイエス様だけが、本当の意味でたましいの飢え渇きを満たし、死に打ち勝ついのちと、永遠の祝福を与えてくださるのです。
 すでにイエス様と出会い、イエス様と共に歩んでおられる方も、日々、聖書を読み、天の御国の宝を発見していることでしょう。けれども、聖書には、私たちがまだ知らない宝が無限に隠されています。イエス様がどのようなお方であるのか、さらに深く知り、イエス様に愛されている者として、イエス様に従うことを心から願い、聖書に隠されてある真理を正しく知ることに、力と思いを注ぎたいと思います。私たちは、日々の生活の中でイエス様と出会うことができ、その素晴らしさを知り、喜ぶことができるのです。 福音にはどんな犠牲を払っても、その真理を求める価値があります。イエス様と出会い、イエス様を信じて救われたところで満足し、留まってしまうことなく、霊的に成長し続け、どのような命令に対しても喜んで従って行けるキリスト者に変えられていきたいと願います。

2022年2月20日 みことば



     「人には出来ないことが、
      神にはできるのです。」

              ルカ18:27





2022年2月20日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「心配しなくてよいのです」   マタイ6:25~34

 この世界を創造された天の父なる神様に愛され、神の子とされている私たちに求められていることは何なのでしょうか。それは、天の父なる神様との交わりを通して、さらに神様を知り、神様のみこころを知る者となり、そのみこころに喜んで従って生き、神様の祝福を受け取ることです。
 イエス様のご命令は、「まず神の国と神の義を求めなさい」です。神の国とは神様のご支配、神の義とは神様の御心にかなった歩みです。つまり、私たちの心が神様に支配され、私たちが神の義を求め、聖められていくことを求めなさいという意味です。イエス様は、私たちが地上で生きて行くために必要なものは、神の国と神の義を第一に求めるなら、それに加えて、与えられると約束しておられます。
 日々、天の父なる神様の御前に静まる時間をつくり、聖書を開き、みことばに聞いて、父なる神様がどのようなお方であるかを知るようになると、愛してくださる父なる神様が何を自分に求めておられるのかという事に心が向けられ、この世のさまざまな出来事に心を奪われることが少なくなっていくのです。なぜなら、聖書を読むことにより、自分がどんなに神様から愛されているかが分かるようになるからです。神様は、ご自分が造られた人間たちをこよなく愛され、ご自身の作品である動物や草木を通して、私たちの心を感動させてくださるお方です。神様は、太陽と雨と大地を用いて、作物を成長させてくださり、その豊かな恵みに私たちが与ることができるようにしてくださいます。何よりも、ご自身の愛する独り子であるイエス様のいのちと引き換えに、救いの道を備えてくださいました。このような愛なる神様が、私たちが生きるために必要な物を与えてくださらないはずはないと確信が与えられるのです。
 イエス様は、私たちに、天の父なる神様への信頼に生きることを教えてくださいました。目には見えない真の神様、このお方の愛と恵みを確かに信頼し、ゆだねる信仰をもって、目に見える支えではなく、まず神の国と神の義を求めていくのです。最後にイエス様は、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。」とおっしゃいました。
私たちは、明日、何が起こるのか分かりません。今日、何が起るのかさえ分からないものです。そのような私たちは、神様から与えられたその日その日を精一杯生き、明日のことは心配しないで父なる神様におゆだねするのです。

2022年2月13日 みことば



    「必要なことは一つだけです。
     マリアはその良いほうを選びました。
     それが彼女から取り上げられることはありません。」

             ルカ10:42



2022年2月13日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「天に宝を蓄えなさい」   マタイ6:19~24 

 私たちは、何に心を向けて生きているでしょうか。天の父なる神様の子として生活し、父なる神様に似た者に変えられることでしょうか。
それとも、この世での繁栄や安定でしょうか。 富は、管理するものであり、仕える対象ではありません。富を私たちの偶像としてはなりません。
私たちの所有しているすべてのものは、みな父なる神様の所有物なのです。私たちは、父なる神様から一時的に預けられたものに過ぎません。時が来ればすべて父なる神様にお返しするものであることを心に覚えたいと思います。
 私たちには、それぞれが神様から与えられたタラント(賜物)があります。その賜物をどのように使ったら良いのか。一人一人にその使い方は委ねられています。そこで重要なのは、そのタラントを預けてくださったお方を喜ばせるために使うことなのです。救いに与った今、私たちは、すべてのものが天の父なる神様の恵みによって、一時的に預けられているものであると正しく自覚できるように変えられました。これは本当に幸いなことです。それは、神様からいただいた恵みは、みなで分かち合うものであることに気づかされ、受ける幸いだけでなく、与える幸いがあることを知り、人生がより深く豊かなものとされているからです。
 イエス様のご生涯は、天の父なる神様を愛するが故に、父なる神様のご命令に従って生き、人間を愛し、罪から救うために十字架に架かられる…死に至るまで、父なる神様のみこころに従うこと、その一事を貫かれたのです。 私たちも、イエス様の生き方に倣い、常に天の父なる神様が喜ばれることは何か、天に心を向け、父なる神様に目を向け、一心に神様の御心を求める…そのように神様に仕え、人々を愛し、天に宝を蓄える生き方をする者でありたいと願います。
「天に宝を蓄えなさい」と言われたイエス様のお言葉は、私たちが何を本当に自分の宝とし、拠り所としているかということを問われているのです。私たちの宝は、父なる神様の愛と恵み、その素晴らしさが現わされること。私たちは主のご栄光のために生かされている者です。 天の父なる神様の恵みこそ、私たちが本当に拠り所とする宝であることを知り、主を仰いで、主に信頼し、まことの神様だけを礼拝して従って生きること、それが天に宝を蓄えるということなのです。


2022年2月6日 みことば



     「よくやった。良い忠実なしもべだ。
      おまえはわずかな物に忠実だったから、
      多くの物を任せよう。」

              マタイ25:21



2022年2月6日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「隠れたところで見ておられる神」   マタイ6:16 

 「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。」とイエス様は言われました。本来、神様に心を集中させて祈るためになされる断食という行為が、いつの間にか、人からの称賛を得るための行為に変わってしまったところに偽善者たちの問題、人間の内にある偽善の罪があることを教えられました。
 イエス様に「偽善者たち」と言われた人々は、人からの称賛を得るために頭に油を塗らず、断食していることが誰の目にも分かるようにして、人々の前で祈り、人々の前で施しをしました。彼らの関心は、隠れたところで見ておられるお方ではなく、人の目に自分がどう映るかという事だけだったのです。私たちも気を付けていないと、彼らと同じように人の目だけに関心が向かうようになり、自分でも気づかないうちに、人から称賛されることで満足し、心が神様から離れてしまいかねない者です。
サタンの誘惑は、私たちの目を人々に、自分に向けさせようと働きます。隠れたところで見ておられる神様よりも、人にどう思われるか、自分がどう評価されるかを意識する思いが心の中に湧き起こってきたなら、警戒しなければなりません。自分の祈りが人にどう聞かれているだろうか。自分の捧げたものを人がどのように評価しているだろうか。自分がどんなに大きな犠牲を払って神様のために奉仕しているのかを人に知ってもらいたい、評価してもらいたい、褒めてもらいたい、という思いが湧き上がることがあるかも知れません。自分を欺いて、神様のためにと口では言いつつも、自分の誉れのためにしていることがあると示されたなら、素直にそれを認め、その罪を悔い改める者でありたいと願います。
私たちが人から目を離し、父なる神様を見つめていく時、そこには、私たちの善い行いによってではなく、神様の恵みによって与えられる、すばらしい報いが見えてくるのです。私たちが断食をすること、善い行いをすることの究極の目的は、自分の栄誉ではなく、神様の栄光を現わすことです。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」Ⅰコリント10:31 
 砕かれた悔いた心で捧げられる祈りを、礼拝を、奉仕を、すべてを、隠れたところで見ておられる神様に心を向け、神様との交わりを尊び、私たちの心がいつも神様の近くにあることを求めて歩んでまいりましょう。そして、いかにも自分は罪を真剣に嘆いているというような、暗い顔をした生き方ではなく、イエス様の十字架の贖いによって、罪の赦しを与えられた感謝と喜びに溢れて生きる者でありたいと願います。

2022年1月30日 みことば



     「目を覚ましていなさい。
      その日、その時を
      あなたがたは知らないのですから。」

              マタイ25:13



2022年1月30日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「悪より救い出したまえ」   マタイ6:13 

 イエス様が主の祈りの中で言われる、この「試み」という言葉は、
原語では「ペイラスモス」と言い、「試練」とも「誘惑」とも訳すことができます。試みを受ける私たち人間にとっては、試練と誘惑は表裏一体のものであると言えるからです。 時に、神様の主権のもとに与えられる試練は、その人の信仰や忍耐、神様に対する愛を強めるためであり、その人に益と恵みをもたらそうという目的で、神様が特別に与えて下さる経験です。その試みによって、私たちの信仰の真価が問われていく、どのような時も神様を信じ、神様が喜びも悲しみを与えて下さると信じることができる「本物の信仰」であるかどうかが問われる「信仰の試み」です。心から神様を信じる者は、悲しい時にこそ、神様を信じ、寄り頼み、そこに支えと希望を見出していきます。
 しかし、この主の祈りの中で「試み」と言われている言葉は、わたしたちの益と恵みとなる試練というよりも、私たちを神様から引き離そうとする「誘惑」であると考えて良いでしょう。「誘惑」とは、私たちを神様の与えて下さる恵みから引き離し、神様のもとで生きることをやめさせようとする罪に至らせる「悪の試み」です。 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」という祈りは、私たちが罪と誘惑、サタンの試みに満ちたこの世界を、イエス様と共に歩み通すため、イエス様が共に祈り、執り成して下さっている祈りです。
サタンは、実に巧妙に私たちを誘惑し、私たちに罪を犯させ、神様と私たちの関係を妨害し、私たちの心を救われる以前の高慢な状態に戻そうと、私たちを神様から引き離し、永遠の滅びに至る罪を犯させようと働きかけてきます。 私たちは弱く、試みを受けることによって神様の恵みを見失ってしまうこともあるでしょう。しかし、イエス様の執り成しの祈りによって、何度でも、父なる神様の愛に立ち返ることが出来るのです。
 この恵みのうちに、自分の弱さと、サタンの誘惑に対して無力な者であることを素直に認め、私たちがへりくだった心で、真剣に神様に助けを求めて祈る時、私たちの口には、父なる神様に対する賛美が溢れてくるのです。

2022年1月23日 みことば



    「だれでも自分を高くするものは低くされ、
     自分を低くするものは高くされるのです。」

               ルカ18:14




2022年1月23日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「主よ、憐れんでください」   マタイ15:21~28  

 カナン人の母親は、自分の願いがすぐに聞き届けられなくても、主の御前にある自分の立場をわきまえつつ、自分の願うことがかなえられるまで忍耐し、あきらめない粘り強さ、謙虚さ、信頼をもって、主に求め続けたのです。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」ヤコブの手紙1:2~4
 イエス様は、私たちにも試練を与え、私たちの信仰を試されることがあります。私たちは、その試練の中で天の父なる神様と自分との関係を自覚できるようになり、自分の立場をわきまえることができる者に変えられます。私たちは、罪人です。神様のあわれみなくして、何もできない無力な存在です。私たちに与えられた試練を、信仰によって肯定的に受け止め、心から主の憐れみを求めるなら、その試練は、私たちの信仰を強め、私たちの信仰を成長させる機会、糧となるのです。私たちは自分の頑張りではなく、信仰の目をイエス様に向け、イエス様の愛と力、その憐れみ深さに信頼を置いて、謙遜な思いで「主よ、その通りです。」とみことばに素直に聞き、「私をあわれんでください。」と祈り続けるものでありたいと願います。
「主よ、憐れんで下さい。」「キリエ・エレイソン」という言葉は、信仰の全ての願いを簡潔に述べた祈りの言葉です。 主は求める者の心をご覧になられ、求める者の信仰が成長することを何よりも願われるお方です。主のみこころを求めつつ、主がよしとされるならば、主が必ず求めたもの以上を与えてくださると信じて、祈り求めてまいりましょう。 私たちのイエス様への信頼、信仰が、私たちが祈り求め続ける力となり、時至って、その願いは叶えられると信じることが出来るのです。 どのような試練や苦しみ、自分ではどうすることも出来ない悩みの中にあっても、神様の前に素直に、謙遜に、主への確かな信頼をもって生きる時、与えられる平安と幸いを受け取るよう、あなたも招かれているのです。

2022年1月16日 みことば



     「神は愛です。」

               Ⅰヨハネ4:16




2022年1月16日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「赦された者の祈り」   マタイ6:12.14~15  

 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」イエス様は、「このように祈りなさい」という祈りの中で、私たちが「負い目を赦してください」「赦します」と祈ることの大切さを教えて下さいました。
 神様の赦しは「恵み」であり、私たちの行いや、態度によって頂けるものではありません。恵みとは、本来頂く資格のない者が、神様から無償で頂くことのできるものなのです。神様は、私たちが願う前、むしろ生まれる前から、成し遂げて下さった、イエス様の十字架の死による贖いという恵みによって、無条件に赦してくださいました。罪人であるために、神様の命令に従うことができずに罪を犯してしまう私たちの身代わりとして、神の御子が十字架に架かり、その罪の罰を御子イエス様が負ってくださったので、御子イエス様を信じ、自分の罪を告白する者たちの罪を赦して下さるのです。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」という祈りは、罪赦されて神様と共に生きる私たちのための祈りであると言えます。それは、私たちが本当に神様から罪を赦されていることを感謝し、その恵みの大きさを理解する時、人から受けた負い目を赦すことができる、キリスト者は神様の恵みによって「赦します」、さらには「赦しました」と祈ることができる、そのような者に変えられているのだという希望に満ちた約束のことばでもあります。神様から罪を赦されていることの自覚が、必ず人を赦すことに現れる…人を赦すことと、天の父なる神様から赦されることとは、切り離せないものです。ですから、私たちが人から受けたしうちを赦すことができないとするなら、自分が神様から罪を赦された自覚がないことを現わすことになります。
 心から人の罪を赦す時、私たちは罪の力から解放され、天の父なる神様との霊的な交わりも回復されて、父なる神様と御子なるイエス様と共に生きる喜びと平安、幸いを得るのです。私たちが心から願うなら人間の力では不可能でも、聖霊様の助けによって、神の子とされた者にふさわしく、人の罪を赦すことを願う者に変えられます。
 私たちは、今一度、神様の愛と、十字架のイエス様に目を向け、心からの感謝と喜びをもって、「赦された者の祈り」を祈りながら、イエス様にならい、愛と赦しの道を歩んで行こうではありませんか。

2022年1月9日 みことば



  「あなたのとなりびとを
   自分自身のように 愛しなさい。」

               ルカ10:27




2022年1月9日 メッセージ  山本 浩 師

「神との真実な出会い」   マタイ2:1~11   

 ・エピファニー(顕現日)  
『教会歴』によれば12月25日のクリスマスから12日数えた日を顕現日と言い、そこから一番近い主日を「顕現主日(エピファー)」と呼び、この日は幼きイエスと東方の博士たち出会う日、キリストが異邦人に現れたことを記念する日だと言います。
博士とは原語では「マゴス」と言い、宗教的祭儀に携わる人々という意味があります。そんな彼らが神の救いの約束を強く信じ、およそ数千キロにも及ぶ長い旅路をやってきたのです。身の危険を感じることも多くあったでしょう。しかし、彼らは神の約束を信じ、期待に胸を膨らませてやって来たのです。この博士たち姿勢には、私たちが見るべき信仰者の姿が示されています。   
・「やって来る」(1節):
彼らは、メシアを探し求めて「やって来」ました。イエスは福音書で「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」とおっしゃっています。神であるイエスが人のかたちをとられ、私たちに救いの条件を提示されました。しかし、その救いを受け取るためには私たちの方からイエスを求めて行かなくてはなりません。
・「ひれ伏す」(11節a):
星に導かれ、目にしたキリストは地上の王とかけ離れた環境下にいました。しかし、博士たちはこの幼子こそメシアであると信じひれ伏して礼拝しました。先導してくれた星がイエスがメシアであることを教えてくれたのです。「ひれ伏して礼拝した。」とは、それが信仰の対象であるということを示しています。
・「献げる」(11節b):
ひれ伏して心からの礼拝をささげた後、彼らは最も大切としてきた贈り物を献げました。贈り物は、受け取る人にとって相応しいかどうか思い浮かべ用意します。博士たちの贈り物は、王としての『黄金』、祭司としての『乳香』、身代わりとなって死んでくださるメシアへの『没薬』でした。博士たちはこの贈り物をもってメシアに対する信仰を告白していたのです。
  私たちも、救い主を求め、ひれ伏して礼拝し、献げます。イエス様は、異郷の地にある異邦人であっても、真実な心をもって礼拝に臨むとき、それを良しとして受け入れてくださるお方です。主の御前に安心して進み出ましょう。

2022年1月2日 みことば



  「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。
   神も、キリストにおいて
   あなたがたを赦してくださったのです。」

                エペソ4:32



2022年1月2日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「感謝の心をもって」   マタイ6:11   

 私たちは、イエス様が「このように祈りなさい」と教えて下さった
「主の祈り」を、これまで3回学んできました。「御名が聖なるものとされますように」、「御国が来ますように」、「みこころが天でおこなわれるように地でも行われますように」と、すべて神様に心を向けた祈りであったのに対して、この祈りは「私たち」のことを祈るよう勧められています。
イエス様が、私たち人間に関する祈りの課題として最初に挙げられたのは、日ごとの糧についてです。 イエス様が「日ごとの糧を与えてください」と祈るように教えられたのは、私たちが天の父なる神様の恵みにより、生かされている者であることを忘れないため、私たちが自力で生きているのではなく、天の父なる神様のあわれみのゆえに、恵みによって生かされていることを喜び、心から感謝するためです。 この祈りの中で求めている「私たちの日ごとの糧」とは、肉なる体を養う食べ物や、体を守るために着る物、住む場所、健康や環境など生きていくのに必要なもの全般を指しているだけでなく、さらには、魂の糧、私たちを本当に生かす糧を指して、父なる神様に求める祈りであると言うことができます。
 私たちの生活、人生は、全て神様が与えて下さる糧によって支えられ、養われています。神様によって養われて生きるとは、神様との交わりに生き、神様から「糧」をいただいて、その「糧」によって生きるということです。その「糧」とは、神様の「みことば」です。私たちはまず、神様が与えて下さる「いのちの糧」「みことば」を求めていかなければならないのです。
イエス様は、荒野で四十日四十夜の断食をした後、石をパンにかえて食べたらどうかと試みられた時、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われました。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」と心から祈る時、私たちの全ての必要を神様が備えて下さるのです。私たちの日々の労働、働き、人には知られないような小さな手の業にまで及んで、私たちの全てを、いのちのパンである「みことば」によって養い、神様の祝福で満たして下さいます。
 新しい年、心新たに、すべてのものを与えてくださる父なる神様に信頼し、感謝の心をもって主の祈りを心から祈りつつ、歩んでまいりたいと願います。
 
  
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