日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2020年8月30日 みことば


   
   「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、
    私たちの主キリスト・イエスにある
    永遠のいのちです。」

             ローマ6:23



2020年8月30日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「最後の勧告」     Ⅰテモテ6:17~21
 
 いよいよ、パウロからテモテへ宛てて書かれた手紙、第一の結びとなります。 パウロは6節から10節で、金銭を追い求める人たちのことについて述べましたが、ここでは裕福な人々に対する勧告を記しています。
すでに富める者たちがどのように生きたら良いのか教えていますので共にみことばにきいてまいりましょう。
パウロは、富める者が陥り易い罪を例にあげ、朽ちる富の危険性とその富の用い方を示し、まことのいのちを失うことにならないようにと勧めます。これは、本当に大切な勧めです。どれほど多くの人々が富のために人生を狂わされているでしょうか。金銭自体は、決して悪いものではありません。しかし、使い方を誤る時、神様以上に金銭を愛する時、その人を破滅へと導く恐るべき存在となることを覚えたいと思います。イエス様の弟子の中にイエス様を銀貨30枚で当時の権力者たちに売り飛ばしたユダの例を聖書は記録しています。イエス様は、ユダを心から愛され、最後の最後まで罪を悔い改めるチャンスを彼に提供し続けます。しかし、ユダは、最後までイエス様の救いの手を拒み続け、自ら滅びを選び取ることになったのです。実は、ユダはイエス様から預けられたお金の中からいつも盗んでいたと聖書は記しています。罪を犯し続けることにより、人間の良心は完全に麻痺し、平常心で罪を犯すことが可能となります。そして、罪が神との交わりを妨げ、神の愛を拒絶し、神から離れて行こうと私たちを滅びへ誘います。ですから、私たちは、悔い改めるチャンスが残されている間に自分のうちにある罪を認め、その罪を神の御前に言い表し、その罪を赦して頂き、きよい心、健全な良心、偽りのない信仰を追い求め続ける者になりたいと願います。
 神様は、本気で求める者に惜しみなく豊かに与えてくださいます。教会も、教会を建て上げる私たち一人一人も、神のことばである聖書そのものにとどまり、それ以外のもの、それ以外の教えや考え、主張があれば、心奪われるようなことがあってはなりません。聖書だけが神の言葉であって、足すことも引くこともしてはならない、みことばをそのまま信じる単純で純粋な信仰を持ち続けることの尊さを覚え、いつも自分の霊的な状態をみことばによって点検し、学び続ける謙遜さを持ち続ける者でありたいと願います。

2020年8月23日 みことば


   
 「神は人をご自身のかたちとして創造された。
  神のかたちとして人を創造し、
  男と女に彼らを創造された。」

             創世記1:27


2020年8月23日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「赦しの言葉と新生」     ヨハネ8:1~11
 
 イエス様に対して敵意を抱いた当時の宗教指導者たちは、イエス様を罠にかけ訴える口実を手に入れようと姦淫の現場で捕らえられた女性を連れてきます。彼らは、イエス様がどう答えても罪に定めることができる意地悪な質問を投げかけます。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何といわれますか。」
イエス様が石打ちにせよと答えた場合、彼らはイエス様をローマへの反逆者として当局に通告できます。というのも、当時、イスラエルはローマ支配下にあったため、死刑執行の権限はありませんでした。実際、イエス様の十字架刑による死刑判決は、イスラエルを支配していたローマ総督のピラトがくだしています。
ですから、ここでイエス様が「石打ちにするように」と答えれば、ローマへの反逆者に仕立て上げることができるのです。さらには、イエス様が愛を説き、裁きあわないように説いておられた、日頃のイエス様ご自身の教えとの矛盾に誘導し、指摘することもできます。
反対に、もし「石打ちにするべきでない」とイエス様が答えたら、それは当然、「モーセの律法を犯した」として糾弾することができるのです。しかし、その陰謀は、彼ら自身のさばきとなって彼らの罪を明らかにする結果となったのです。イエス様は、彼らに次のように返答します。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」彼らは、イエス様の言葉に打たれ、年長者たちから始まり、一人、また一人と去っていき、真ん中にいた女性とともに、イエス様だけが残されます。
イエス様は、一人残された女性に次のように宣言ました。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
イエス様を罪に定める為に利用された女性だけがイエス様の赦しの宣言を受け入れ、心から自分の罪を自覚できるようになり、人生の再出発を果たしたのです。
 救いを求め、ご自身のもとに来る者を、イエス様は、決して拒むことなく迎えてくださり、温かいまなざしで、その人の罪の赦しを宣言してくださいます。
イエス様は、あなたを救うために来てくださった救い主です。イエス様の事をもっと知りたいと思われた方がおられたら是非、教会へ足をお運びください。教会は、あなたの新しい人生の出発を応援させて頂きます。

2020年8月16日 みことば


   
 「はじめに神が天と地を創造された。」

              創世記1:1




2020年8月16日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「テモテへの励まし」     Ⅰテモテ6:11~16
 
 キリスト者が追い求めるべきことは何なのでしょうか。
それは、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和です。キリスト者は、恵みによってイエス様の十字架の罪の贖いの業により、神様の御前に義と認められた存在です。義とは「正しさ」、「正しさ」とは神様との関係において正しく生きることであり、敬虔とは、神様を畏れて生きることです。
すべてのキリスト者は例外なく、救われる以前の闇のわざを捨て、神様が喜ばれる光のわざを追い求めることが期待されています。信仰とは、神様に対する信頼と言い換えることができます。私たちは、聖書の中に与えられている神様の約束の言葉に信頼し、みことばに従って生きる時に、少しずつみことばに従うことのできる者に変えられます。
イエス様は、互いに愛し合うようにと何度も弟子たちにお命じになりました。愛するとは、相手を赦すことです。相手を受け入れ、相手の成長を忍耐して待つことです。愛、忍耐、柔和といったものは、信仰によって与えられる徳でもあり、神の御霊である聖霊が結ばせてくださる実でもあります。これは自分の力によって得るものではなく、聖霊に信頼し、聖霊に導かれることによって与えられるものなのです。
 では、信仰の戦いの勝利者が獲得するものとは何なのでしょうか。 信仰の戦いの勝利者が獲得するもの、それは、永遠のいのちです。私たちが永遠のいのちを得ることができるのは、神様がそれを差し出してくださるからです。神様が私たちに永遠のいのちを与えてくださるので、私たちは永遠のいのちを得ることが許されます。永遠のいのちは、神様の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰のみで与えられるものです。人間の功績は、一切必要ありません。私たちの救いと永遠のいのちは「すでに」与えられているものであり、同時に「やがて」完成するものでもあります。私たちが地上に生かされている間は未完成であり、イエス様が再び来られる時に完成するのです。
私たちは今、サタンの誘惑に弱い肉体を持つ、有限な存在として生きています。サタンの誘惑に負け、敗北を味わうこともあり得るのです。だからこそ、パウロは「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」とテモテを励ましているのです。信仰の戦いを勇敢に戦うとき、私たちを支えるのは、主の再臨です。テモテへの励ましは、私たち一人一人に対する励ましでもあります。
 キリスト者はみな、イエス様が再び地上に来られる日まで、神様から頂いた信仰を告白し、現し続け、地の塩・世の光として歩むようにと、与えられた持ち場・立場で、神様のすばらしさを周りにいる人々に伝えていくことが神様から期待されています。主の愛と恵みのうちにとどまり、永遠のいのちの獲得を目指して、イエス様の歩まれた栄光に至る勝利の道を歩ませて頂こうではありませんか。

2020年8月9日 みことば


   
 「良い地に蒔かれたものとは、
  みことばを聞いて悟る人のことです。
  本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、
  あるものは三十倍の実を結びます。」

              マタイ13:23



2020年8月9日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「大きな利益を得る道」     Ⅰテモテ6:1~10
 
 「利益」という言葉とキリスト教は、一見無縁に思われますが、パウロは、利益を求めること自体を否定していません。キリスト者であっても、大きな利益を期待していいのです。大切な事は、神様が私たち人間に与えてくださる、その大きな利益がどのようなものか、聖書に基づいて理解し受け止めているか、ということなのです。
パウロが教える大きな利益とは、すなわち満ち足りる心を伴う敬虔の事です。 6節の聖書の言葉を直訳すると、「自分の心の満足を伴う敬虔は利得である」です。自らの心の満足とは、一般に言われる自己満足の事ではありません。パウロが教える自らの心の満足とは、自分自身満ち足りること、つまり、単純に、今、自分に与えられているものに満足する事です。なぜ、イエス様を信じるクリスチャンは、神様が与えてくださるものを満足し、感謝して受けとめることができるのでしょうか。それは、神様が私たちを愛し、私たちのために御子イエス様を与え、永遠のいのちを持つようにしてくださったからです。神様はそれほどまでに私を、あなたを愛しておられるのです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
  それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
  永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
この、まことの永遠のいのちにとって代わる価値あるものなど、この世には一つもありません。永遠という壮大なスケールで、神様に愛され、神様の恵みの約束が与えられているので、私たちはこの地上のことで一喜一憂せず、満ち足りることのできる心の余裕と平安をもって神様に感謝できるのです。 私たちは、万物の創造者であり、すべてのものを与えてくださる神様を畏れ、敬い、その救いの中で、自ら満ち足りた感謝の心を持って生きることができます。それはただ、主イエス・キリストの十字架の前にひざまずき、罪の赦しを求めて悔い改め、素直な心でキリストの愛を受け取ることによって与えられる信仰によるのです。
すべての人にとって、罪の赦しと永遠のいのちこそ、追求し続けるべきものです。神様が与えてくださったもので満足し、喜び、感謝する。満ち足りる心をもった信仰こそが、大きな利益を得る道なのです。

2020年8月2日 みことば


   
 「これらのことが書かれたのは、
   イエスが神の子 キリストであることを、
   あなたがたが信じるためであり、
   また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

              ヨハネ20:31


2020年8月2日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「指導者たちに対する教会の責任」     Ⅰテモテ5:17~25
 
 初代教会における「長老」は、現代の教会における、「牧師」や「役員」に置き換えることができます。霊的権威が神から与えられている立場にある長老は、教会の教育と牧会の働きをしました。それゆえパウロは、教会を治めることと、みことばを教える務めにフルタイムで専念する指導者(牧師)に対し、教会は尊敬を現すようにと勧めています。ですから、教会は、牧師に対し言葉や態度で敬うだけでなく、報酬の面でも、金銭的に十分に支えることが求められるのです。
 次にパウロが手紙に記した内容は、牧師に対する戒規についてです。教会から尊敬を受け、金銭的にも支えられるべき存在である牧師が罪を犯したなら、重大なことです。それゆえ、その時の対処はかなり厳しいものとなりますが、それだけ慎重に取り扱わなければならないのです。
 教会は、人間の弱さに対しては、この上ない愛と寛容を示しますが、罪に対しては、厳格な処置がとられるところであることを忘れてはいけないのです。指導者たちの罪をそのままにするなら、教会全体が腐敗し堕落します。ですから、牧師だから役員だからといってその人たちが罪を犯していることが明白であるにも関わらず、その罪を否定し続ける場合、戒規を執行しなければなりません。また、教団と教会は安易に按手を授けるべきではありません。なぜなら、牧師や役員の召しを与えられた人であっても、明るみに出されていない罪がある場合があるからです。牧師や役員など、教団と教会がその指導者を任命する時、重大な問題や罪が見過ごされることのないように、決して慌てるべきではありません。補教師が正教師となる為の受験資格を得る為には、3年教会に仕えることを定めるのもその故です。補教師としてみことばを取り次ぐ働きの中で教師自身が問われることになります。自分は、すべてを知っておられ正しく裁かれるお方の御前に生かされている存在であることを事ある度に示されます。その間に、自分のうちにある罪が示され、その罪を言い表し、少しずつ頑な心が砕かれ、みことばを取りつぐ器として整えられるのです。そのようにして主が立てられた指導者たちに対する教会の責任と、一人一人、自分はどうあるべきなのかをもう一度吟味し、そこに神様の祝福があると信じて互いに励まし祈り合いながら、主のみことば、聖書の原則から離れずに歩む群れになろうではありませんか。

2020年7月26日 みことば


   
   「人はみな草のよう。 その栄はみな草の花のようだ。
    草はしおれ、 花は散る。
    しかし、主のことばは永遠に立つ。」

              Ⅰペテロ1:24~25



2020年7月26日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「失われた者を捜して救うイエス様」     ルカ19:1~10
 
 ザアカイは、「罪人」と呼ばれる取税人であり、人々の嫌われ者でした。しかしイエス様は、このザアカイを愛してやまないお方でした。ザアカイを通して私たちに示された、救い主なるイエス様について、ともにみことばにきいてまいりましょう。
 ザアカイは、イエス様に出会うまで、心の中に満たされない大きな空洞を抱えた人でした。彼は、数々の奇蹟を行い、一躍有名人となったイエスという人物がエリコの町を通られるという噂を聞きつけ群衆が集まる方に足を向けます。しかし、彼は背が低かった為、見ることができず、近くにあった木に登ります。そして、イエスというお方が自分の登った木の下まで来ると足を止め、上を見上げて言われたのです。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日は、お前の家に泊まることにしてあるから。」彼は自分の耳を疑います。しかし、それは夢ではありません。彼は大喜びで木から降りるとすぐにイエス様を自分の家に案内しイエス様一行を歓迎しました。この状況を見た人々は、イエス様の行動に躓き、呟きます。なぜなら、イエス様が罪人の所へ行って客になられたからです。イエス様にとって、ザアカイも他の人々も同じように救いを必要とする滅んで欲しくない尊い存在でした。イエス様は、この地上の全人類を、ザアカイと同じように失われた者としてご覧になり、捜して救うために、この世に来られた救い主です。
 人間にとって救いとは、この世における繁栄だけを意味しているわけではなく、罪の力からの解放であり、罪を赦され、永遠のいのちを得る者になることです。イエス様は、神の御子であられ、永遠の昔から父なる神様と共に、この世界を造り治めて来られたお方です。ですから、イエス様を信じる者は、イエス様と一つにされ、永遠に生きる者に変えられます。ザアカイは、イエス様を信じ、自分の心の王座にイエス様を向かい入れ、彼は霊的に新しく造り変えられたのです。彼が救われたことは、彼の行動に現れています。彼は、自分の財産の半分を貧しい人々に施し、騙し取ったものは4倍にして返すとイエス様に約束します。彼は救われたのです。
 イエス様は、ザアカイだけでなく、あなたにも声をかけておられるのです。食卓を囲む交わりのように、自分の事を話し、相手の事を聞き、互いに深く知り合う友となりたいと、イエス様はあなたに申し出てくださっているイエス様を心にお迎えする時、あなたは失われた者ではなく、イエス様に見出され、新しい命に生きる者に変えられます。ありのままの自分をそのまま愛してくださる友なるイエス様と一緒に、幸いな人生を、喜びと感謝に満ち溢れた生涯を送ろうではありませんか。イエス様は、あなたを捜して救うために、この世に来られたのです。

2020年7月19日 みことば


   
   「あなたの信仰は立派です。
    あなたが願うとおりになるように。」

              マタイ 15:28




2020年7月19日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「神の家族に対する勧め」     Ⅰテモテ5:1~16
 
 教会は、多様な人々が集められて構成されている群れです。子どもから大人まで、年齢層にも幅があり、育ってきた環境や文化、今置かれている状況などに目を留めるならば、一つとして共通点がないと言っても過言ではないほどです。けれども、ただ一つ、キリストを信じる信仰によって結ばれた共同体。ここに、神の御業が現されるために、私たちの互いにあるべき在り方について教えられたいと思います。
 まず、教会は、神の家族として、家族のいない人たちを助けるべきであり、身寄りがなく伴侶を亡くした女性に限らず、高齢者、若い人、身体に障害のある人、病を抱える人、困窮にある人たち、兄弟姉妹の物質面だけでなく、感情や心理的な面、霊的な面でも互いに助け合うことが必要です。傾ける耳、具体的な援助の手、励ましの言葉を必要としている一人一人に気付き、届いていく愛を実践すること。そのことにより、教会は互いに助け合い、支え合う、愛の共同体として成長していくのです。
 信仰の歩みは、一人一人様々な道を辿ります。けれども、今、こうして主と共に歩む恵みの中に置かれている。その歩みの背後には、確かに教会のとりなしの祈りがあるのです。教会は、一人一人の名前を挙げて、救いに導かれるように、信仰から離れないように、主に立ち返る日がくるように、とりなし祈り続けてきた事実があります。 そして、教会は、人間の能力や努力で成り立っているわけでなく、ひたすら望みを神に置く祈り手により、夜、昼となく、絶えず神に捧げられている願いと祈りによって支えられていることを覚えたいのです。 神は、あなたに期待しておられます。ひたすら望みを神に置き、神だけを信頼し、神に願い祈るように、と招いてくださるのです。神は、夜昼、絶えず祈る祈りを聞いてくださるお方です。この祈りの火を絶やすことなく、共に集まり、共に祈ることにより、教会の働きを祈りによって支えていこうではありませんか。
 主にあって神の家族とされた者同士、助け合い、支え合いながら、神の家族としての交わりを深め、最後まで教会のためにとりなし祈る、その恵みに留まる者でありたいと思います。


2020年7月12日 みことば


   
   「わたしがいのちのパンです。
    わたしのもとに 来る者は決して飢えることがなく、
    わたしを 信じる者はどんなときにも、
    決して渇くことがありません。」

              ヨハネ 6:35



2020年7月12日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「パウロからテモテへの励ましの言葉」     Ⅰテモテ4:12~16
 
 パウロは、テモテが年若ったために、一部の教会員が彼の指導者としての能力に疑いを持っていたことも知っており、テモテへの助言と励ましの言葉を記したのです。今朝も、テモテに対する励ましの言葉を私たちに対する励ましの言葉として受け取りみことばにきいてまいりましょう。
 パウロは、テモテに信者の模範となるようにと勧めています。12節参。
牧師に求められることの一つは、教会員の模範となることです。どんなに教えている内容が正しくても、教えている者の言動が違っていたら説得力がありません。信者の模範となるべき5つの資質を挙げています。
一つ目は、ことばです。パウロは、テモテに自分が口にすることばに気をつけるよう助言します。二つ目は、態度です。それも、すべての人との関わりの中に見られる態度です。牧師は、いつ誰に対しても公平に、差別することなく、みな同じように愛をもって対応することが求められています。三つ目の信仰は、キリストへの忠実さ、またはキリストへの人格的信頼です。牧師は、何と言っても、キリストに対し、忠実な者であることが求められます。牧師は、主から牧するようにと任された羊である兄弟姉妹たちをみことばをもって養うことに忠実でなければなりません。四つ目は、純潔です。牧師は、思いにおいて行いにおいて、十字架の主によって、きよくあることが求められます。最後は愛です。教会を愛し、主から任された羊である教会員お一人お一人を愛するために召された牧師は、愛すること、それ以上に十字架で死に命をかけて愛してくださったイエス様の愛を誰よりも深く受け取ることにおいて、模範とならなければなりません。
 また、パウロは聖書朗読と勧めと教えに専念しなさいとテモテに命じます。なぜ、そのような指示が必要だったのでしょうか。それは、エペソの教会には、偽教師が存在し、教会員を間違った教えに誘う者たちがいたからです。しかし、礼拝において聖書朗読がなされ、その聖書箇所に関する正しい勧めと教え(教理)が語られるならば教会員たちが偽教師に惑わされることはありません。なぜなら、教理によって本物と偽物を区別することが出来るようになるからです。このように牧師の働きは、テモテ4:1に記された「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れる」ことからの救いのため、まさに、御国を受け継ぐ祝福に与る道を一心に前進していくために、信仰のことばと良い教えによって養い、霊的鍛錬を励まし、信者の模範となり、教えることです。
教会員の一人一人が神の祝福に与ることができるかどうかという重大な責任が牧師にゆだねられているのです。教会は、牧師が主から与えられた務めを果たせるように執り成し祈らなければなりません。牧師も祈られた者として祈りつつ務め励みます。

2020年7月5日 みことば


   
   「ただ、おことばをください。
    そうして私のしもべを癒してください。」

              ルカ 7:7




2020年7月5日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「敬虔のための鍛錬」        Ⅰテモテ4:6~11
 
 「鍛錬」という言葉に、どのような印象・イメージを持たれるでしょうか。辞書によれば、「鍛錬」は「金属を打ちきたえるように、激しい稽古、修養・訓練を積んで心身・技能を磨くこと」であります。
ある目標に向かって進んで行く時、あるいは何かを獲得するためには、乗り越えなければならない苦しみ、試練があるものです。
 パウロは、エペソの教会で悪戦苦闘していたテモテに、その労苦、苦闘がもたらすものについて教え、彼を励ます言葉をここに記しています。牧師の務めは、正しい教理とキリスト者としての実際生活についてしっかり教え、教会を異端から守り、教会員を指導することです。
次にパウロがテモテに勧めていることは、敬虔のために自分を鍛錬することです。「敬虔」とは、「深く敬いつつしむさま」「神につつしんで仕えるさま」を言う言葉です。文語訳聖書では「信心」と訳されており、「敬虔」とは「信心」や「信心深い」と言い換えることの出来る言葉です。つまり、神を信じて祈る「信仰深さ」とも言うことが出来ます。ですから、敬虔のためとは、信仰深くあるため、つまり、どんな苦難や悲劇の中でも私たちを支える信仰を確かなものとするためであるということができます。
 では、敬虔のための鍛錬とは、具体的には何を意味するのでしょうか。それは神を称えること、神に奉仕を捧げる事であって、それによって神が崇められる事です。つまり、礼拝を共に捧げることにより私たちは敬虔な者に変えられるのです。私たちは、毎週、集められ、共に礼拝を捧げることにより、敬虔(神を恐れ、敬うこと)のための訓練を受けています。なぜなら、私たちは受け身ではなく、積極的に神を礼拝するために奉仕するからです。奉仕する人は、必ずその準備の時に祈ります。聖書を読みます。みこころを求めます。そして、みことばを自分に適用し生活しようと試みつつ、礼拝を共に捧げることにより私たちは少しずつ敬虔な者に変えられるのです。
永遠のいのちを約束する敬虔のために自分自身を鍛錬することが、キリスト者の霊的な養いであり、神の祝福を受ける道なのです。神を恐れ、神に信頼して生きる、礼拝者としての生き方の訓練のために、神が愛する者たちの成長を願い、私たちの成長に必要な苦難を与えてくださるのです。
 私たちが望みを置いている生ける神は、敬虔のための鍛錬を通して、地上の日々にも祝福を与え、将来に対する希望をも確かなものとして下さるお方です。この神に信頼し共に礼拝を捧げ続ける群れでありたいと願います。

2020年6月28日 みことば


   
   「イエスは起き上がって風を叱りつけ、
    湖に 「黙れ、静まれ」と言われた。
    すると風はやみ、すっかり凪になった。」

              マルコ 4:39


2020年6月28日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「罪を贖われた者とされ」        使徒10:1~18
 
 ユダヤ人は、自分たちだけが神の選びの民であり、救いの対象は自分たちだけであるという自負がありました。その自負が誇りとなり、自分たち以外の民は、汚れた者であり、神に滅ぼされる定めにある者たちであると認識していたのです。初代教会のリーダー的指導者であったペテロもその一人でした。彼のうちには、差別があり、偏見があり、区別がありました。
 神が被造物に望まれることは、どのように生きることなのでしょうか。神は、初代教会の人々に救いの門がユダヤ人だけでなく、異邦人にも開かれた事を教えるために、コルネリウスという人物の救いを通して明らかになさったのです。
彼は、ローマ人であり、百人隊長でしたが、ユダヤ教に回心し、敬虔なユダヤ教徒になった人です。神は、彼に幻の中で御使いを通して、彼のなすべき事を伝えます。それは使いをペテロのもとに遣わし、彼を家に招くようにという指示です。コルネリウスは、御使いの命じるまますぐに使いを派遣します。同時に、神は、ペテロに対し夢の中で一つの幻を通して、救いが異邦人も開かれた事を教えようとなさったのです。ペテロは、最初、幻の意味が分からずに戸惑います。しかし、コルネリウスの遣わした僕たちが彼の泊まっていた家の門まで来た時、再び、神は、ペテロに語りかけられたのです。あなたを訪ねて来た者と一緒に行きなさい。ペテロは、その命令に従ってコウネリウスの家に迎います。ペテロは、自分を招いてくれたコルネリウスから幻の中で御使いから命じられたことを聞き、自分が見た夢の幻の意味が分かったのです。
ペテロは、長い間、汚れた動物を食べてはならないと神から命じられ、それを守ってきたが、それは汚れた動物を食べる異邦人を神が差別していたわけではなく、異邦人の偶像崇拝の罪と関わり合うことがないようにという配慮からなされた事であることを悟り、イエス様が十字架ですべての人類の罪の罰を代わりに受けてくださることにより、救いの道がユダヤ人だけでなく、異邦人にも開かれたことを理解することが出来たのです。ですから、私たちはサタンの言いなりになり、もう人を裁くことなく、差別することからも解き放たれているのです。
 神が御子の血をもってきよめられた人々を私たちがきよくないと断罪することはできません。では、すべての人はすでに救われているのでしょうか。いいえ、そうではありません。どんなにイエス様の十字架の贖いが完全であっても、その十字架の贖いが有効になる条件がひとつだけあるのです。それが信仰です。イエス様の十字架の罪の贖いがあなたに有効になるためには、あなたがイエス様を信じることが必要なのです。ヨハネの福音書3:16~17節参照。
是非、あなたもこの良き知らせを受け取ってください。聖書を読んでみてください。

2020年6月21日 みことば


   
   「友よ、あなたの罪は赦された。」

             ルカ5:20





2020年6月21日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「神の造られたものはみな良いもの」       Ⅰテモテ4:1~5
 
 パウロは、一章において偽教師の問題について扱っていましたがここで再び、偽りの教えについて取り扱っています。それは、エペソの教会にとって深刻な問題だったからです。
 教会は、すでに2000年、福音を宣べ伝えることにより、伝道の実として多くの魂を獲得してくることが出来ました。しかし、一方で信仰から離れる人々が存在していることを認めなければなりません。偽りの教えと正しい教え、偽りの聖化と真の聖化、被造物をどのように受け入れたらいいのかみことばにきいてまいりましょう。
 偽りの教えとは、肉体は悪であるという思想からくる結婚の禁止。
正しい教えとは、肉体も物質も神が造られたものでみな良いものである。偽りの聖化とは、人間の力で努力で神聖さを勝ち取り、神と自分の結合をこしらえあげようとする事。真の聖化とは自分の力で神に向かって神聖さを勝ち取ろうとせず、神の下にあって、神からの賜物を信仰によって受け取ろうとする事。 サタンに惑わされ、禁欲主義に生きるなら感謝はなく、喜びもなく、暗い気持ちが心を支配することになります。神様は、私たちがいただいたものを感謝して喜んで楽しむことを望んでおられるのです。神様が造られたものを正しく受け取り直し、いただいた賜物(結婚・食べ物など)を正しく用いることにより、心豊かな生活を営む者に変えられたいと願います。


 
                 
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