日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2020年2月2日 みことば





   「あなたの道を主にゆだねよ。
    主に信頼せよ。 主が成し遂げてくださる。」

              詩篇37:5




2020年2月2日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「いつも主にあって喜ぶ者となる」        ピリピ4:4~5
 
 パウロは、手紙の最終章において、再び、喜ぶようにと勧めます。
「いつも主にあって喜びなさい。」私たちは、いつも喜んでいるでしょうか。それとも、怒ったり、悲しんだり、浮き沈みの激しい生活を過ごしているでしょうか。私たちは、外から来る状況や状態に影響され、喜んだり悲しんだり怒ったりしながら生活しています。私たちの体験している喜びとは、条件づけられたもので、喜べる状況の時は喜び、悲しい状況の時は悲しむというものです。しかし、パウロが勧めている内容は、喜べる状況の時にだけ喜ぶだけでなく、喜べない状況の時にも喜べという意味なのです。
 パウロは、人間的に見れば不自由な状況の下に置かれていました。彼は、囚われの身であり、自由が制限された中で生活していました。しかし、パウロの心は自由だったのです。誰にもどんな状況にも束縛されることなく、彼は心から今、与えられている状況を喜ぶことができました。その秘訣はどこにあったのでしょうか。それは主にあって彼が喜んでいたという点です。主にあるとは、主イエス・キリストとの生きた人格的な交わりがあるという意味です。パウロが不自由な状況の中で喜ぶことができたのは、彼がイエス様との生きた交わりを持っていたからなのです。
 パウロは、救われる以前、キリスト者を捕らえ、牢獄に入れ、彼らをユダヤ教に回心させることが自分の使命であると信じ、がむしゃらに迫害の道を突き進んでいた人でした。しかし、彼はイエス様と出会い、気づかされたのです。自分は全く的外れな事をしてきたのだと。そして、パウロは異邦人宣教という召しを与えられ、その召しを成し遂げるために全力で正しい目的に向かって走りはじめたのです。彼は誰に対しても平等に福音を伝えました。自分がどう思うかではなく、主(イエス様)がこの人を救おうとご計画されたのなら、その計画を自分が邪魔することはできない。なぜなら、主は近いから。いつ、主の再臨かあるか分かりません。ですから、主から与えられたチャンスを逃すことなく、赦せる時に赦すことを選択する者になろうではありませんか。求めるならば主は必ず私たちに赦せる心を与えてくださいます。主に期待しつつ、喜びに満ちた新しい人生の第一歩を踏み出してまいりましょう。  

2020年1月26日 みことば

      

   「あなたがこの王国に来たのは、
    もしかすると、 このような時のためかもしれない。」

              エステル記 4:14




2020年1月26日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「主にあって堅く立つ」        ピリピ 4:1~3
 
 「主にあって同じ思いになってください。」同じ思いになる。残念ながら地上の教会は、完全ではなく必ず問題が起るものです。ピリピの教会も例外ではなく争う二人の婦人がいたようです。主にあって堅く立ち和解へ至る道について共にみことばに聞いてまいりましょう。
 パウロは二人の間にあるわだかまりを解消させるために、ピリピの教会の兄弟姉妹たちの支援を求めます。3節参照。「本当に、真の協力者よ」この協力者と訳された言葉は、共働者、仲間、配偶者とも訳せる言葉です。この言葉のはもう一つ「共にくびきにつながれている」という意味があります。力を合わせて宣教するには、同じくびきを負うことが必要です。どんなに本人たちの自我が頑なでも、周囲の真剣な勧めと周囲の愛による協力があるならば、必ず和解が成し遂げられます。でも、和解へ至る道にどうしても必要なことが一つあるのです。それは、一人一人が「主にあってしっかりと立つ」ことです。主にあるとは、私たちが信仰によって、主イエス・キリストの救いに与り、生ける主との交わりに与るという意味です。つまり、生ける主イエス・キリストとの人格的な結びつきにおいてという意味が主にあるという言葉に込められています。ですから、パウロは、ピリピの教会の兄弟姉妹たちに生ける主イエス・キリストとの生きた交わりがあるなら、その主にあって堅く立つことができるのだと励ましているのです。
 これは私たちに対する励ましでもあります。ここに私たちの希望があります。どんなに仲たがいしている者同士であっても、その二人が互いに主にある者であることを思い出す時、イエス様がいのちがけで愛された者を「受け入れられません」と拒むことはできなくなるはずなのです。イエス様から何度も何度も無条件で自分の罪を赦していただきながら、自分を傷つける人の言葉や配慮のない態度、思いやりのない扱いに対し、「赦せない」とは言えなくなるはずなのです。
同じ主にあって救われた者同士であるならば必ず和解の道が開かれます。そして、イエス様との生ける交わりが回復すると、上からの愛を受け取ることができるようになり、その愛で自分を愛するように兄弟姉妹たちを本当の意味で愛せる人に変えられるのです。そこから和解の喜びに満たされた主あって堅く立つ新しい人生がはじまるのです。

2020年1月19日 みことば

      

   「ダニエルは穴から引き上げられたが、
    彼に何の傷も認められなかった。
    彼が神に信頼していたからである。」

              ダニエル6:23



2020年1月19日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「天国民の希望」        ピリピ3:17~21 
 
 私たちの希望は、どこにあるのでしょうか。地上にでしょうか。それとも、天の御国にでしょうか。今朝、共にみことばにきいてまいりましょう。
 ピリピの教会にはすでに自分は完全な者にされたと思い上がっていた人たちがいました。彼らの特徴は、彼らの関心事が肉の事に向けられていた点です。パウロは、それを欲望と表現しています。パウロは彼らの神はその欲望だと言っています。欲望を神とするとは、彼らの願いが自分を満足させることにあるという意味です。もっと別の言い方をすれば彼らの本当の願いは、自分が食べることにあるという意味です。つまり、自分の生活が重要なのです。しかし、それでよいのでしょうか。パウロは、天国民が関心を向けるべきことを教えます。それはやがて与えられる栄光の体です。今、私たちに与えられている体は、罪の誘惑に負けてしまう体ですが栄光の体は完全であり誘惑に負けることはありません。病気になることも、元気を失うこともない完全な体をいただくことができるのです。これは私たちにとってすばらしい希望です。
さらに、天国民の最大の希望は、主が再び地上に来られることです。初代教会の人々は、イエス様がすぐに再臨されることを願い、自分たちが地上に生かされている間に再臨があると信じて待ち望みつつ生活していました。それは、私たちも同じです。今の世界を見渡してみる時、悲惨な状況がいたるところに見られます。私たちの知ることのできない隠れた悪も沢山あるはずです。しかし、すべての事には必ず終わりがあるのです。イエス様が再び地上に来られたならばすべての事が明らかにされ、公平に報いを受けることが定められています。これは私たちにとって大きな慰めであり、励ましです。
世の人は、正直者が馬鹿を見るとまじめに生きることを過少評価することがあるでしょう。しかし、すべてを知っておられるお方を侮ることほど愚かなことはありません。私たちは、すべての思いと行いの報いを刈り取る時が必ず来ます。私たちは、弱い存在です。この戦いの多い、誘惑に満ちた世界でキリスト者として天国民として生きることは容易なことではありません。
 一週間に一度は、主の御前に自分の生活を顧みる時をもち、自分の歩みが神様のみこころから外れたものになっていないかどうか、確認し、みことばの光に照らされて、自分の生活をみこころに沿ったものに軌道修正し、天に国籍を移された者としての自覚を新にし、キリスト者としてふさわしい生活を実行する決断を更新し続ける者でありたいと願います。

2020年1月12日 みことば

      

   「わたくしたちが仕える神は、
    火の燃える炉から、わたくしたちを
    救い出すことができます。」

              ダニエル 3:17



2020年1月12日 メッセージ  折戸 正義 師

「献身と変革」        ローマ12:1~2 
 
1、あなたをささげなさい。
その条件 ① 「神に受け入れられる」 これは、旧約時代のいけにえ礼拝を前提にしています。いけにえは欠点のない動物であること。値打ちの高いもの。私たちクリチャンの場合、自分自身のこと。
②「聖い」は、クリチャンの場合、キリストの贖いを受けて、「聖い」とされた者です。
③「生きた供え物」というのは、現在の自分自身のこと。つまり、礼拝者は、自分を生きたまま供えものとして、自分を神様に捧げるように、勧めています。
「神に捧げる、ということは、死を意味します。つまり、ローマ6 : 4にあるように、キリストとともに死に、キリストとともに生き返るのです。「死につつ生きる」のです。自我に死に、キリストとともに生きるのです。

2、あなたを変えなさい「2節」
この世というのはキリストを信じない世界をいいます。聖書は、この世をサタンが支配しているといいます。もちろん、サタンと言えども、神の支配下にありますが、神は、深いみこころを以て、サタンの動きを許容しておられます。私たちは、この世にある限り、社会の一員として反社会的であっては、なりません。
キリストを第一として生きるものは「この世と調子を合わせてはいけません。」
キリストと社会の二者択一、つまり、キリスト第一生活は、「この世」の捨てるべきものを判断し、大胆に捨て続けなければなりません。この世と結びやすいのは、「我欲」ですから、「自分を捨て続ける生活」が求められます。

3、あなたがたを生かしなさい
キリストに従う時、この世の抵抗を受けます。時には激しく、時には誘惑的やさしさで。キリストを選択するとき、不可能を可能にする神の助けが、あります。その助けを得るために必要なのは信仰です。自分を生かすのは、神への信頼です。「世に勝つ者とは、だれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。」 (第一ヨハネ5 : 5)

2020年1月5日 みことば

      

   「この世と調子を合わせてはいけません。」

              ローマ 12:2




2020年1月5日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「すでにと未だの間に生かされて」     ピリピ3:12~16 
 
 ピリピの教会には、すでに完全な者とされたと思い上がっている人々がいたようです。確かに、神様の救いの御業は、完全であり、神様が一度救った者を滅ぼされることはありません。だからと言って私たちの救いは、地上に生かされている間、未完成であることもまた真理なのです。なぜなら、救われた後も私たちは罪を犯す罪人に変わりはないからです。神様は、救われた者たちが救ってくださったイエス様のご性質に似た者に変えられることを望んでおられるのです。
 聖書を読む時、自分の好きな聖書個所ばかりを選んで読むことを控え、バランス良くみ言葉の糧をいただくことが必要です。どうして、自分の嫌いな聖書個所を読むことが必要なのでしょうか。それは、自分の心の痛いところをみことばが示してくるからです。目をそむけたくなるような箇所ほど重要な箇所であると認め、そのみことばを自分の生活に適応しみことばと格闘し、自分の願いや思いよりもみこころを優先することを選択し、みことばに従って実際に行動することにより、私たちの信仰ははじめて成長することができるのです。これは実に実践的な営みです。
 パウロは、本気で自分の不完全さを自覚していました。人間の目から見ればパウロほど完全な者は他に見られないほど隙のない生き方を実践していたはずです。しかし、彼は多くの失敗を通して自分の高慢さを打ち砕かれ、謙遜な者と変えられ、最後の最後まで完成を目指して追求する者でありたいと願う者に変えられていました。これはこの地上でキリスト者としてふさわしく生きるために必要な自覚なのです。自分は、未完成な者なのだ。確かにすでに救われている。しかし、未だその救いは完成していない。完成の日に向かって少しずつ新しく造り変えられ続けている者であることを心にいつも覚える者でありたいと願います。
 パウロは目先のことではなく、ずっと先のことに照準を定め、天の御国でイエス様から「良くやった。良い忠実なしもべよ」とお褒めの言葉をいただけるように生きることに徹しようと心に決めたのです。パウロは、自分に課せられた使命を全うし、悔いのない人生を走り貫いたと言い切っています。Ⅱテモテ4:6~8参照。
 私たちも彼の生き様にならい。地上においてキリスト者としての役割を果たし、自分にできることはすべてやり尽くしたと思い残すことはもう何もないと晴れやかな心で人生の最後を迎える者になりたいと願います。

2019年12月29日 みことば

      

   「神は霊ですから、神を礼拝する人は、
    御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

              ヨハネ 4:24



2019年12月29日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「キリストを知った喜びに生きる」     ピリピ3:1~11 
 
 ピリピ人への手紙は喜びの書簡を呼ばれるほどなんども喜びという言葉が記されています。パウロは、どこまでも寛容な人でしたがなんでもかんでも容認していた人ではなく、言うべき時には厳しく語る人でもありました。パウロは、2章までの手紙の様子とは、ガラリと変わって厳しい口調でピリピの教会の兄弟姉妹に警告します。2節参照「犬どもに気をつけなさい。」パウロが「犬」と呼んでいる人々は、ユダヤ人キリスト教徒たちの事です。彼らは、パウロが宣教し建て上げた教会に混乱をもたらした人々です。彼らが主張した内容は、救われるためには信仰だけでなく、割礼を受けることと律法を守ることが不可欠であるというものでした。パウロは、この教えに対し絶対にそんな必要はないといのちがけで抗議し、救いの条件は、ただ一つ信仰のみであると一歩も妥協することなく断固として最後までその主張を貫き通しました。
 救われる以前のパウロは割礼を受けること律法を守ることが救われるためには必要不可欠であると主張する側の人間でした。しかし、パウロは、イエス様と出会い、キリストを知った喜びに満たされ変えられたのです。彼は、イエス様に出会い、はじめて気づいたことがありました。自分がキリストを知る前から自分はイエス様に覚えられていたのだと、彼は、イエス様から知られていた喜びを体験します。それは私たちも同じです。私たちもイエス様から一人一人覚えられているのです。「わたしはあなたを知っている。わたしはあなたが地上に誕生する前からわたしはあなたがいつどこで生まれ、どのような人生を送ることになるかすべてを知っていたのだと。そして、これからもあなたのことをいつも見守っている」とおっしゃってくださる方と私たちは出会うことによりキリストに知られている喜びに満たされるのです。パウロはイエス様のいのちがけの愛を受け取り、その愛に自分もいのちがけで応答し、全心、全霊で宣教に取り組み、自分に出来ることはないかと祈りつつ奉仕に励み、キリスト者として悔いの残らない歩みをしようと奮闘します。
天の父なる神様は、パウロのように喜んで主のために、仕える人になることを私たちに期待しておられるのです。
 新しい年、主が何を自分に求めておられるのか。一人静まってみことばに聴く時をつくり、主から示されたみことばを握りしめ、地上の残された日々を精一杯生かさせていただこうではありませんか。


2019年12月22日 みことば

      

   「主は私たちの王、
    この方が私たちを救われる。」

             イザヤ33:22



2019年12月22日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「神がともにおられる幸い」     マタイ1:18~25 
 
 マタイの福音書を書いたマタイは、福音書の最初と最後にインマヌエルと呼ばれる主がおられることを記しています。神がともにおられることがどれほど私たちにとって幸いなことなのか。ヨセフに主の使いが現れた箇所を通してみことばに聴いてまいりましょう。
 救い主の誕生は、聖霊の働きのよるものであるとヨセフは、主の使いの口を通して知らされます。ヨセフは、自分たちの経験したことをどのように家族や親族に説明したら良いか苦悩したことでしょう。しかし、主の使いは、マリヤの胎に宿った子どもは、人々からインマヌエルと呼ばれる。インマヌエルとは、「神が私たちとともにおられる」という意味の名で呼ばれる者になると告げられたのです。これはヨセフにとってどれほど大きな慰めとなったことでしょう。彼がこれから背負うことになる苦悩は自分だけでは到底担いきれない重荷であることは間違いありません。しかし、それらの重荷をともに負ってくださる方がおられるのだ。しかも、そのお方はこの世界を何もないところからことばだけで造られた全能者であられる。そのお方が自分と共に居てくださる。これ以上に心強い励ましと慰めは他にありません。それでも、ヨセフは、自分に委ねられた使命の大きさに心が押しつぶされそうになることがあったはずです。しかし、彼はその度に自分から目を離し、自分にこの尊い使命を与えてくださった神様に目を向け直すことにより、上から新しい力と勇気と平安をいただき立ち上がることができたのです。
 皆さんの中にも、今、大きな試練の中におられる方がいらっしゃるかも知れません。また、これから自分が経験することになる苦難を予測して恐れを覚えておられる方がいらっしゃるかも知れません。誰でも未知の事に向かう時、恐れや不安をいだくものです。その時に思い出していただきたいことがあるのです。それは、あなたは一人ではないということです。小さなことから大きなことまで神様のご計画とご支配のもとに置かれているという事実です。
神様が私たちを救うために愛する独り子であられるイエス様を地上に遣わされたクリスマスを毎年、お祝いできる幸いを心から神様に感謝し、どんな時でもともに居てくださる神様がおられることを心に刻みつつ、これからも神様とともに神様から力と勇気をいただいて自分に与えられた使命と責任を全うする者になりたいと願います。


2019年12月15日 みことば

      

   「私のたましいは主をあがめ、
    私の霊は 私の救い主である神をたたえます。」

             ルカ1:46~47



2019年12月15日 メッセージ  荒籾 実 牧師

「神に喜ばれる決断」     ルカ1:26~38 
 
 救い主の母親として選ばれたマリヤとは、どのように生きた人だったのでしょうか。御使いからメシヤの母となることを告げられたマリヤの態度から神に喜ばれる決断についてみことばに聴いてまいりましょう。
マリヤは、御使いの口を通して告げられた約束のことばだけを信じて、恐れつつ、とまどいつつ、神に仕え、その召しに従う決断をしたのです。神様は、マリヤの決断を喜ばれたのです。このマリヤのうちに見られる素直さと従順さは、イエス様のうちにも受け継がれます。
 マリヤは、イエス様が物心着く前からイエス様がどのようにしてマリヤの胎に宿ったのか。御使いから告げられた内容をイエス様に聞かせながら育てたはずです。イエス様は、幼い時から聖書を読み、聖書に記されているメシヤ預言が自分の事を指していることを一つ一つ確認し、受け入れられます。自分が地上に派遣された目的について、その目的を果たす前に人々からどのように扱われることになるか。家族からも兄弟たちからもやがて理解してもらえない時が来ることも承知のうえでその苦難の道を選ぶ決断をします。
 天の父なる神様は、私たちではなく、あなたと一対一の親密な関係に親子関係に入ることを望んでおられるのです。では、神と人間の親子関係はどのように結ばれるのでしょうか。それは、あなたが神様の約束のことばを信じて実際に従って行動してはじめて結ばれるのです。マリヤは、御使いの口を通して告げられた約束のことばだけを信じて、恐れつつ、とまどいつつ、神に仕え、その召しに従う決断をしたのです。信仰の世界とは見ずに信じることが求められるところです。信仰の世界は、実際に入ってから分かるようになる面が沢山あります。自分を安全地帯に置いたままでは、決して味わうことのできない驚きと感動に満ちた世界です。その素晴らしい世界に入るようにと神様は、マリヤを選ばれたように、あなたを選ばれ、あなたに声をかけておられるのです。
 マリヤが御使いの受胎告知を素直に受け入れ、「神にとって不可能なことはなにもありません」と言った主の使いの約束の言葉を信じたように、私たちも神様の変わることのない愛を信じ、変わることのないみことばの確かさの故に、前にむかって勇気を出して父なる神様との一対一の関係に入るために新しい一歩を踏み出す者になりましょう。天の父なる神様は、あなたのその決断を喜んでくださいます。
   
   
 
    
             
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