日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

電話でのご予約・お問い合わせはTEL.0267-88-7169

〒384-1102
長野県南佐久郡小海町大字小海4355−27
牧師 荒籾 実

2018年1月7日 みことば 


    「イエスはますます知恵が進み、
     背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」
             
                  ルカ2:52


2018年1月7日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「聖霊のバプテスマ」        使途19:1〜7  
 
  聖書には4つのバプテスマ(洗礼)の記事が記されています。一つ目は、ヨハネが授けていたバプテスマです。マルコ1:4参照。二つ目は、モーセと関係のあるものです。Iコリント10:2参。これは、イスラエルの民がエジプトを出て荒野を旅した時、指導者として立てられたモーセと民が心を一つにしたことを意味したバプテスマです。バプテスマという言葉は、原語でバプテゾーといい、一つにする、結び合わせるという意味とバプト一浸すという意味があります。三つ 目は、聖霊によるものです。Tコリント12:13参。このバプテスマは、人間がキリストを救い主として信じ受け入れた時に、その人をキリストのうちにある者とし、キリストの体に結び合わせる聖霊の働きを意味しています。これはキリストを信じるすべての人に信じた瞬間に起こることです。四つ目のバプテスマは、水によるバプテスマです。使徒8:38参。これはキリストを救い主として信じた人が、その信仰を公にするために証として受けるものです。
 パウロからキリストについて教えられるまで、ヨハネのバプテスマしか知らなかった彼らは、やがて来られるキリストだけを知っていました。しかし、すでにキリストは来られたのです。パウロも、キリスト者を迫害していた時、すでに来られたキリストを知らずに生きていました。パウロは、復活されたキリストに出会い、キリストを受け入れ聖霊に満たされ、力強くキリストの死と復活を宣教する人に変えられました。それは、パウロだけに起こった特別なことではなく、私たちにも起こることなのです。私たちがキリストを主であると告白できるということは、人間の力ではありません。キリストの御霊(聖霊) が私たちのうちに与え られたからできることなのです。あなたは、いつバプテスマを受けましたかと聞かれたら、何年何月何日ですと答えるでしょう。しかし、それは水のバプテスマのことであり、イエス様を主として信じた時、私たちは、その時、すでにキリストと一つにされ、聖霊をうちに宿す者とされたのです。それが聖霊のバプテスマです。イエス様を信じる時、あなたもイエス様と一つにされ、聖霊なる神様とも 一つにされるのです。ですから、すでにキリストのうちにバプテスマされた者と して、キリストを信じた人は、洗礼を受けてその信仰を公にすることが主から命 じられています。マタイ28 :19参。そして、主を受け入れた者には、自分の心の王座を聖霊なる神様にご支配していただくことが必要です。なぜなら、救われた後も救われる以前の古い罪の性質は残っているからです。自分の力ではなく、聖霊の力により頼んで生きる時、新しい喜びに満ちた人生がはじまるのです。

2017年12月31日 みことば 


    「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって
     私たちに、いのちを得させてくださいました。
     ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
             
                  Tヨハネ4:9


2017年12月31日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「教会が建て上げられるために」        使途18:24〜28  
 
 プリスキラとアクラは、アポロの説教を聞いて彼のうちに欠けている点があることに気づきます。アポロの説教に欠けていた点とは、救い主の十字架の死と復活と昇天と聖霊降臨と教会の誕生についてです。これらの事はとても重要なことです。特にキリスト教にとって救い主の十字架の死と復活の事実は欠かすことのできない点です。プリスキラたちは、それをアポロに教えたいと考えたのです。その際、プリスキラたちは、アポロを人々の前で教えるような事をせず、ひそかにアポロを自分の家に招待し、彼に必要な情報を提供します。これはとても大切な点です。もしプリスキラたちがアポロに対し、人々の前で彼の説教の足りない点を指摘したとしたらどうなったでしょうか。おそらくアポロは、落ち込んで自信を失ったり、精神的に大きな傷を受けることになったかも知れません。プリスキラたちがそのように配慮したのは、単にアポロのことが好きだったからではありません。教会の将来を考え、彼がこれから主の教会が建て上げられるために神様から用いられる器になって欲しいと願いつつそれらの事を行ったのです。すべては主のためです。
 神様の期待しておられることは、先に救われた兄弟姉妹が神の子として共に成長することです。単に人々が福音を受け入れ天国に入ることができるようになることではありません。天の父なる神様は、救われた私たちが霊的に大人になることを望んでおられるのです。大人になるとは、自分のことばかりではなく、同じ主にある兄弟姉妹のためにとりなし祈る者となり、実際に兄弟姉妹を助ける者になることです。さらに救われていない家族や親せきや友人や知人に愛の業を実践する者になることです。そして、それらの愛の実践のためには、愛の供給源である神様から愛を受け取り続ける必要があるのです。
 では、どのようにして神様からの愛を受け取るのでしょうか。それが礼拝の中の説教です。ですから、牧師はそのために日々、みことばを準備しているのです。さらに、牧師の使命は、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせることです。エペソ4:12参照。
  教会の成長を願うなら、どうすべきかは明らかです。神様の恵みにより、あわれみにより、信仰を与えられ、キリストのからだである教会の一員に加えられた者たちは、その恵みに感謝して、すべてのことを神様のために行うことが期待されています。新しい年、主の教会が建て上げられていくために自分にできることは 何か。共に祈りつつみこころを求めてまいりましょう。そして、自分のなすべきことが示されたら素直に従いましょう。ローマ12:2〜8参照。
  

2017年12月24日 みことば 


   「主は富んでおられたのに、あなたがたのために
     貧しくなられました。それは、あなたがたが、
     キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
             
                  Uコリント8:1:21


2017年12月24日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「すばらしい喜びの知らせ」        ルカ2:8〜12  

 さて、クリスマスと言えば今では日本中どこでも華やかに飾られ、各家庭の年中行事のひとつとして位置づけられているほどメジャーなものとなりました。クリスマスがキリストの誕生日であることを知る人々も増えてきております。しかし、キリストが自分の罪のために十字架に架かり身代わりになって罪の罰を受けてくださるために誕生されたお方であることを正しく理解している人々は多くはありません。どうして、神の御子が十字架に架からなければならなかったのか。共に考えてまいりましょう。
 一番はじめに確認したいことは、人間が犯す罪のためにその罪を赦されるためには罪のないお方の血が流される必要があったという点です。他に罪が許される方法があれば神様がそれを選ばれたはずです。私たちは、それをまず心に留める必要があるのです。次に、罪について確認しましょう。聖書が教える罪とは、神様の命令に従いたくないという思いの事です。これは人間にもともとあるもので自我と言い換えたら分かりやすいでしょう。私たちは、禁止されていることを守ることができません。それは罪がある証拠です。そして、罪を犯すと罪責感に苦しむことになり罪の罰として与えられた死に対する恐れもあるために平安がありません。人間が真の平安を得るためには、神様との交わりが回復される必要があります。キリストが地上に来られた目的がここにあるのです。
 キリストは、神様と人間との交わりを断絶させた罪を処理されるために十字架に架かり、罪の罰を受け、人間の罪が許され、神様との交わりが回復される道をつくってくださったのです。これが福音です。私たちは、自分の罪のために十字架にかかり死んでくださったキリストを神の御子であると信じるだけで、罪を悔い改めるだけで、罪を赦していただけるのです。そんな事で罪が許されるのかと思われる方もおられるでしょう。しかし、自分が罪人であることを本当の意味で自覚することは口で言うほど簡単なことではありません。聖書を読んで罪が何であるかが分かるようになるのは神様の働きによるものです。さらに、自分が罪を犯さないでは生きられない罪人であることが分かった時、はじめて救いを求める飢え渇きがその人のうちに与えられるのです。神様は、このすばらしい喜びの知らせを携えた御使いを羊飼いのもとに送られました。ここに、弱い者、虐げられた者、小さき者に対する神様のあわれみが現わされています。羊飼いは、御使いの言葉を聞き、喜び勇んでキリストのもとに駆けつけます。私たちも、彼らのようにこの素晴らしい喜びの知らせを受け取る者になりましょう。

2017年12月17日 みことば 


    「マリヤは男の子を産みます。
     その名をイエスとつけなさい。この方こそ、
     ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
             
                  マタイ1:21



2017年12月17日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「確かな救い」         ヘブル10:1〜10  

 私たちは、救われた後も罪人に変わりはありません。イエス様を信じて心にお迎えしたら 、罪を犯さなくなるわけではないからです。サタンは、罪を犯す私たちにあなたは本当に救われたのかとささやきかけるのです。聖書には、神様の約束のお言葉が満ちています 。10:1〜3参照。
旧約時代の人々は、モーセの律法に従って毎年、大祭司が人々の罪を贖うために動物を犠牲として捧げていました。しかし、動物の犠牲では人々の心のうちから罪責感を拭い去ることはできなかったのです。天の父なる神様は、罪に対して完全な血による贖いを求められるお方です。どんなに多くの動物の血が捧げられても、どんなに人々が自分のもっているものの最高のものを捧げても、それによって満足されるお方では ありません。10:4〜9参照。天の父なる神様の罪を犯した人間に対する要求はその人のいのちです。私たちは、この現実を忘れてはいけません。そして、自分が滅びに向かって歩んでいた者であることが分かる時、私たちは自分の救いの価値を正しく理解できるようになります。
 私たちは、イエス様を今、「神の御子である」と信じています。しかし、 それは当たり前のことではありません。罪人として生まれ、罪を犯し続けてきた者がまことの神様を信じる者となり、その神様が用意された救いを受け入れるということは奇蹟以外の何ものでもありません。目に見えるものしか信じない。この世でいかに栄えるか、権力を求め、地位や人々からの称賛を得るために必死に生きてきた者がそれらのものに関心を示さなくなる。それは人間業ではありません。まさに神業です。神様だけが罪人である人間を救うことができます。私たちに聖霊を与え、信仰を与え、罪の自覚を与え、信仰告白に至るまで導いてくださったお方の存在がなければ「誰ひとり救われる人はいない」のです。神様のもとを離れ、自分勝手な道を滅びに向かって歩んでいた者たちがイエス様の十字架の死の犠牲を通して、本来の神様との関係を回復する道が開かれたのです。
 誰でも イエス様を主であると告白し、自分の罪を悔い改めるならば罪を赦され、天の父なる神様との親子関係に入ることができます。ヨハネ1:12参照。神の御子の血は、完全であり 、全人類の犯す罪をすべて贖うことが十分にできます。天の父なる神様は、疑い深い私たちにイエス様の十字架の罪の贖いの死が十分であることの「保証」としてイエス様を死者の中からよみがえらされたのです。ローマ4:25参照。
 救いの確かさは、聖書にあります。聖書の約束の言葉に信頼し、イエス様の血の完全さによって「聖なるものとされている」ことの幸いを喜びつつサタンの誘惑を退けてまいりましょう。

2017年12月10日 みことば 


    「神にとって不可解なことは
     一つもありません。」

              ルカ1章37節


2017年12月10日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「沈黙の服従」         マタイ2:13〜23  

  はじめての子育ては、誰にとっても未知の世界であり、神様の助けなくしては成しえない偉業です。さらに信仰継承の課題は、親に大きな責任があり、信仰継承の難しさを時代や環境のせいにすることはできません。なぜなら、子どもの一番の先生は、なんと言っても 親であり、子どもに一番影響を与えるのも親だからです。親がどのように生きているか。 子どもが一番よく知っていることを忘れてはならないのです。自分が何を話し、何を大切にし、何を目的に生きているか。子どもたちは、じっと見て観察し、分析し、自分の生き方に取り込みます。
今朝は、イエス様の父親に選ばれたヨセフの生き方に目を向けてみましょう。神様は、ヨセフに対し、夢で彼がどのように行動すべきかを命じます。13節参照。ヨセフは生まれてまもないイエス様と妻のマリヤを連れてエジプトの国に出発します 。神様は、すべてを知っておられ幼子のいのちが危険にさらされる度に、ヨセフを通してイエス様を守るという行動を選択されました。神様は、全能なお方です。御子のいのちを狙うヘロデの心を変えることも、ヘロデの命を奪うこともできました。しかし、神様は、わざわざヨセフたち夫婦を用いて幼子を守られようとしたのです。ここに、神様のご計画があることが分かります。神様は、これらの出来事を通して、ヨセフとマリヤの信仰を成長させようとなさったのです。これから先、どのような「試練」が彼らを待ち受けているか彼らには分かりません。しかし、すべてを知っておられる神様に従うならば必ず、道が開かれることをこの逃亡生活を通してヨセフたちは体験します。その時の体験は、おそらくイエス様にも繰り返し語られたはずです。イエス様は、両親から実際に天の父なる神様が生きて働いておられる事実を聞くことにより、それがイエス様の天の父なる神様への絶対の信頼と服従の基礎をつくることに繋がっていったのです。ヨセフは、夢で天の使いからエジプトへ逃げるように指示されるとその夜のうちに幼子と母マリヤを連れてエジプトに旅立ちます。私は、このヨセフの行動に彼の信仰姿勢を垣間見ることができたのです。ヨセフは、何一つ文句を言わず、神様の命令に黙々と従います。神の御子であられるイエス様も天の父なる神様のご計画に沿って十字架の苦難の道を沈黙のうちに従われたことを心に覚え、主の歩まれた道を私たちも選択する者になりたいと願います。イザヤ53:7 参照。
信仰故に受ける苦難の先に必ず栄光が用意されています。ローマ8:16〜17参 照。サタンとの闘いに勝利し、十字架の死を打ち破りよみがえられ、天に凱旋された主を仰ぎつつ共に励まし合いながら地上の生涯を歩んでまいりましょう。

2017年12月3日 みことば 


   「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる
    ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」

              イザヤ9章6節


2017年12月3日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「原罪」               ローマ5:12  

  神学者のJ・I・パッカー博士は、原罪を次のように説明しています。「罪深さは生まれた時からすべての人に及んでいて、実際に罪を犯す前から動機が歪んでいる心というかたちで存在する。このような内側の罪深さが、私たちが犯すすべての罪の起源である。原罪は神の前で私たちの最初の代表であるアダムから、不可解ではあるが現実的に私たちに引き継がれている。」
なんでアダムが犯した罪の責任をその子孫が受け継がなければならないのかと不満に思う方もおられるでしょう。確かに、アダムが罪を犯したならアダムだけが 罰せられるべきではないかと文句を言いたいところです。しかし、文句を言っても過ぎてしまったことは変えられません。大切な点は、私たちがアダムのもった罪の性質を受け継いでいるために「死ぬ」ものとされているという事実です。死んだらみんな同じところに行くのだと考える人がいますが、聖書は人間は死後、天国に行く者と地獄に行く者とどちらかしかないと教えています。誰でも天国に行きたいと願うでしょう。しかし、神様はすべての人が天国に入れるわけではなく、地獄に行くものもいると聖書を通して教えておられます。ですから、罪の悔い改めが必要になります。聖書は、人間が罪人であるために罪を犯すのだと教えています。これが理解できる時、自分に救いが必要であることが分かります。なぜなら、私たちは、日々罪を犯し続けているからです。ですから、自分が滅びに 向かっている者であることを自覚できることは有難いことなのです。
また、自分とアダムの連帯性が分からないと罪人としての本当の意味での自覚が生じません。アダムに起きた出来事を他人事として考えている間は、救いの素晴らしさと必要性が分かりません。アダムが罪を犯したことにより、そのアダムの罪の性質を自分も受け継いでいる者であることが自覚できるとき、救いを求める思いが生じてきます。そして、アダムとの連帯性が分かるようになるとイエス様との連帯性も分かるようになります。なぜなら、罪がひとりの人を通して全人類に及んだように、救いがイエス様を通して全人類に及ぶことになることが受け入れられるからです。18節参照。
イエス様が自分の罪のために身代わりとなって罪の罰を受けてくださったことを信じる時、その信仰によりイエス様と一つとされ、イエス様の十字架の贖いの故に罪を赦していただくことが可能となります。そして、私たちがイエス様と繋がっている時、私たちはアダムから受け継いだ罪の性質から解放され、罪を犯さない自由を得ることができるのです。ですから、絶えず、イエス様に繋がり続けることができるように罪を悔い改め続けてまいりましょう。

2017年11月26日 みことば 


    「あなたの道を主にゆだねよ。
     主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

              詩篇37章5節


2017年11月26日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「神の摂理に従って」       使途18:18〜23  

  ウエストミンスター小教理問答の間11に神の摂理に関する説明があります。「神の摂理の御業とは、神が、最もきよく、賢く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。」もう少し分かりやすく言うと、創造とは、世界を存在させるために神がご自身の力をもってなされた業であり、それに対し摂理とは、創造と同じカを継続して行う神の業を意味しています。つまり、神様は、ご自身のみこころに従って、すべての被造物を造られ、その造られたものを保ち、すべての出来事に関わられ、すべての事をそれぞれの定められた目的へと導かれるのです。パウロは、その神様の摂理に従って歩んでいました。彼は、コリントからエペソに向け出発します。18:18〜9参照。
 エペソは、パウロたちが第二回伝道旅行の際に一番はじめに行こうとしていた宣教地です。しか し、パウロたちの当初の計画は聖霊により変更されたのです。16:6参照。パウロたちは、エペソではなくマケドニヤに行くように導かれ、その導きに従って彼らは、ピリピの町で宣教し、その後、テサロニケ、ベレヤ、アテネ、を経てコリントの町に導かれそこで宣教してきました。そして、ついにパウロは念願であったエペソの町に辿り着くことができたのです。しかし、パウロは、エペソをすぐ離れ、エルサレムに向かいます。彼は人間の計画よりも神様のご計画を優先することをいつも選択します。パウロは、自分の立てた計画をいつでも変更できる余地を残していました。
 私たちは、どうでしょうか。何か計画を立てるとき、その計画の中に神様の介入される余地を残しているでしょうか。それとも、自分の 計画を変更することなく、強引に押し進めようとしているでしょうか。私たちの生き方が神様に対する心の態度を表すことになるのです。
 パウロは、いつでも自分の立てた計画を変更できる余地を残していたことから謙遜な者に変えられていたことが分かります。パウロは、復活されたイエス様と出会い、自分のうちにあった高慢さを示されました。イエス様に出会う前のパウロは、自信に満ち、律法を完全に守り、自力で神様から義と認められていると自負するところのある人でした。その高慢さをパウロは、度重なる試練を通して打ち砕かれ、謙遜な者に変えられていったのです。私たちも、みことばの光により自分のうちにある高慢な態度を示されたならぱ素直にその態度を悔い改め、神様だけに頼りつつ、いつでも計画を変更できる余地を残す謙遜さを身につける者に変えられていきたいと願います。それが神の摂理に従って生きる者に求められる態度であり、キリスト者の目指すところとなるのです。

2017年11月19日 みことば 


    「主の山の上には備えがある。」

              創世記22章14節




2017年11月19日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「天国で一番偉い人」       マタイ18:1〜4  

  誰が一番偉いかという弟子の質問のなかに、人間がいかに高慢なものであるかが現されています。弟子たちの関心は、この世であろうと天であろうとどこであっても結局のところ自分の地位にありました。「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」イエス様が神の国を建設された暁には、その国を自分も治めたいという野望を弟子たちの誰もがいだいていたのです。イエス様は、自分の地位のことばかり心配し、互いに自己主張し合い、ねたみ争っていた弟子たちに向かって、彼らの考え方の誤りを示すために実物教育をなさったのです。マタイ18:2〜3参照。
 イエス様のお言葉は、当然天の御国に入れると思っていた弟子たちにとって、驚くべき宣言となりました。弟子たちは悔い改めをイエス様から求められたのです。悔い改めとは方向転換を意味します。弟子たちは、誰が一番偉いかと互いに論じ合っていましたが、天の御国においては自分を低くする者が偉いと評価されるのです。「偉さ」ではなく「低さ」に目を向けるようにとイエス様は弟子たちを教えられたのです。そして、低さの手本として近くにいた子どもを呼び寄せ、 弟子だちの前に置かれました。3節参照。
 子どもたちのようにとは、大人の世界 から見た場合の子どもたちの存在の低さと小ささを現しています。子どもは、こ の世において何の地位もありません。自分を誇り、偉ぶることもしません。また、謙遜さをもっていて喜んで人に譲ります。私たちは、どうでしょうか。表面的には、人に譲るような態度を示すことがあります。しかし、心の中では自分のしたいことをいつ必ず実現しようという野望をもっています。また、私たちは人から指摘されたり、強制されることを好みません。また、自分は何もできない、何も持っていないとロでは言いながら、自分のしてきたことを誇ったりするところがあります。しかし、良く考えてみるならば、私たちが自分で得たものなど何もないはずなのです。
 救いに関しても同じことです。私たちの救いは神様の恵みです。神様の一方的なあわれみで救われ、御国の民とされた罪人です。だれ一人自分の努力で救いを勝ち取った人はいません。行ないによる義ではなく、信仰による義の教理を正しく自覚していれば、その事実を素直に認めることができるなら、 御国で誰が一番偉いかという愚かな質問は生じてこないはずなのです。
 神様は、私たちが心から高慢であったことを認め悔い改めるならば、その罪を赦し、神様との交わりを回復させてくださいます。小さい子どもは、私たちの霊の状態を教えてくれる先生のような存在です。子どものように神様を信頼し、祈り、みことばを素直に受け入れ、主に従う者になれるように祈り求めてまいりましょう。

2017年11月12日 みことば 


(アブラハムは)神には約束されたことを
 成就する力があることを堅く信じました。」

              ローマ4章21節


2017年11月12日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「真の同情者イエス・キリスト」       へブル4:15〜16  

 私たちは、生きて行くとき、さまざまな苦しみや悲しみを経験します。その中でも、愛する人との別れは大きな試みです。いのちある者は、必ず死を迎えることが定められています。例外はありません。聖書は、その悲しみをどのように乗り越えることができるかを教えています。15節参照。
この大祭司とは、イエス様のことです。イエス様が私たちと同じように、試みにあわれたお方であることが重要です。なぜなら、試みの中で苦しむ人にとっての一番の慰めは、同じような苦しみを経験したことのある人の言葉や態度によることが大きいからです。ところが、人間が経験できる試みの数には限りがあり、その種類もさまざまです。同じような経験をした人が必ず身近にいるとは限りません。しかし、落胆する必要はありません。なぜなら、聖書は驚くべき良き知らせを私たちに提供しているからです。その良き知らせとは、神の御子であられるイエス様が罪を犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みにあわれたお方であることです。自分だけが特別な試みを経験しているわけではなく、すでに同じ試みを受けられたお方がいてくださることは大きな励ましであり慰めです。イエス様も愛する家族や友人との別れを経験されています。
また、試みは、誘惑とも訳される言葉です。サタンが人間に働きかけることが誘惑です。イエス様もサタンの誘惑にあい、壮絶な戦いを経験されました。なぜなら、 イエス様には不可能なことが何もないからです。すべてのことが誘惑となります。例えば 、何も食べるものが身近にないときに道端に落ちている石をパンにしたらどうですかというサタンの誘惑もイエス様には有効なのです。イエス様は、サタンのあらゆる誘惑の言葉に聖書の言葉で対応され、勝利され続けます。ですから、私たちもイエス様に倣い聖書のみことばをもってサタンの誘惑に勝利することができるのです。
私たちの先に私たちが今経験しているすべての試みにすでに打ち勝たれたお方が共にいてくださることを覚えましょう。そして、何よりイエス様が罪の力と死ののろいから私たちを解放してくださったことを感謝し、死の先にある御国で永遠に神様と共に過ごす日が来ることを待ち望む者になって行きたいと願います。
そして、私たちには、天の御国ですでに地上で別れた家族や友人と再会できる希望があるのですから、いつまでも悲しみの中に留まることなく今、自分が生かされている意味を考えながら自分のなすべきことに全力で取り組む者になろうでは ありませんか。

2017年11月5日 みことば 


この世と調子をあわせてはいけません。」

              ローマ12章2節


2017年11月5日 メッセージ 鈴木聖仕 牧師 

「神のわざが現れるために」       ヨハネ 9:1〜12

  私たちは、毎日選びながら生きています。でも自分では選べないことがあります。それは、どのように生まれてくるかということです。この箇所に登場するのは、「生まれつき」の盲人です。人々は、盲目になった原因は、この人か両親の罪のせいだろうと勝手に判断していました。つまり、人が背負っている不幸の原因は罪の結果だと考えて、非難や軽蔑の態度をとる人が多かったのです。そして、なんとイエス様の弟子たちですら、「この人がこうなったのは、だれのせいですか。 だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それとも両親ですかとイエス様に尋ねる始末です。
1.イエス様の見方
 さて、この生まれつきの盲人に対して、イエス様は、なんと言われたでしょうか。3節で、イエス様は、こう答えられました 。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」イエス様の見方は,私たちの見方とは、まったく違っています。 つまり、過去に原因を探るのではなく「これからこの人の人生に神のわざが現されようとしている。そのために今があるのだ」という見方です。つまり、私たちには不幸に見える、マイナスに 思えることすらも、神様は、そのことを通してみわざを現してくださるというのです。
2.シロアムの池
 イエス様は、この盲人に奇妙なことをなさいました。つばきで泥を作って、その泥をこの盲人の目に塗られたのです。イエス様は、その場で、すぐにこの盲人の目を見えるようにすることもできたはずです。それなのに、わざわざ盲人の目に泥を塗られて、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのでしょうか。そしてイエス様が近づいてこられ、「この人が盲目なのは、神のわざがこの人に現れるためです」と言われたのです。今まで開いたことのない言葉でした。 イエス様に出会って、この盲人は初めて希望を持つことができました。 そして、イエス様の言葉に従って、シロアムの池に行って洗うと、目が見えるようになったのです。
 7節には、「シロアム」とは 「遣わされた者」という意味である、という注釈がわざわざ書かれています。実は、ここには、象徴的な意味があります。神から遣わされた者とはいったい誰ですか?イエス・キリストです。つまり、シロアムの池に行って洗うと目が開かれるというのは、イエス様の言葉を信頼し、イエス様のもとに行って洗うなら、目が開かれる、というメッセージです。イエス様が、十字架について流してくださった血は、私たちをすべての罪からきよめることができます。そして、三日目によみがえられたイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様は、世の光として私たちを照らし導き、また、決して渇くことのないいのちの水を与えてくださいます。
 神様から遣わされた方であるこのイエス様のもとに行くとき、私たちは、目が開かれ、すべてのことを働かせて益としてくださる神様が私たちの人生を導いておられることを知り、神様のわざが現される生涯を歩む者とされるのです。

2017年10月29日 みことば 


何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、
 神はその願いを聞いてくださるということ、
 これこそ神に対する私たちの確信です。」

              Tヨハネ5章14節



2017年10月29日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「神の子どもに求められること」       ローマ 8:28〜29

 神様は、救われ、神の子とされた私たちの霊的、人格的成長のために、新しい家族を与えてくださいました。新しい家族とは、同じ信仰告白をする同じ教会に属する兄弟姉妹です。ローマ8:29参照。
私たちは、イエス様を長子とする家族の一員なのです。教会は召し出された者たちの群れです。教会に属する一人一人は、自分でその教会に属する者になったような感覚を抱きますが実はすべての人が神様によって今の教会に導かれているのです。ローマ8:28参照。本人が教会を選んだのではありません。いろいろな思いがあっても神様は今、置かれているその教会で自分を訓練し成長させてくださろうとしていることを覚えましょう。長く教会生活を送る時、人間関係に悩むこともあります。あの人がいなければもっと教会に行くことが楽しいのにと思われる事があるかも知れません。神様は、苦手な人をあえて備えてくださり、私たちがイエス様の命令に従い、受け入れ難い人を受け入れることができるように成長するのを期待しておられます。
また、教会には、いろいろな奉仕があります。救われたばかりの時は、自分のしたり、喜んでできる奉仕を優先することもよいでしょう。しかし、人が嫌がる奉仕を率先してすることが必要な場合もあるのです。例えば人間関係で争う兄弟姉妹がいた場合、間に入りその争いを和解に導く奉仕などは誰にとっても荷が重いものです。しかし、当事者同士ではどうにもならない場合もあるからこそ、助けとなる存在が必要です。中立の立場にある者が、お互いの意見を公平に聴き合い、お互いが歩み寄る点を見つけ出す。その骨のおれる作業をするには、愛が必要です。使徒の働きにバルナバという人物が登場しますが、彼は敵対する者同士を和解させることのできた人でした。バルナバの執り成しがなければ、パウロはキリスト者の仲間に入ることはできなかったはずです。キリスト者には、和解の務めという尊い奉仕があることを覚えたいと思います。いつの日か私たちもバルナバのように、人々に慰めを与えることのできる存在に変えられていきたりと願います。父なる神様は、はじめから完壁を求めるお方ではありません。心のこもった捧げものならばどんなものでも父なる神様は喜んでくださいます。ですから、どんな奉仕でもチャレンジしてみましょう。失敗を恐れずに自分にできることなら何でもさせていただく、その姿勢を忘れることなく神の子どもとされた特権を感謝しつつ喜んで互いに仕え合う者に変えられていきたいと願います。

2017年10月22日 みことば 


「わたしは全能の神である。
 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

              創世記17章1節



2017年10月22日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「神のみこころだけが成る」       使途acts 18:12〜17

 聖書を読む時、覚えたいことは歴史の背後にいつも神様のご支配があるという事実です。人間は、自分たちが世界の支配者であり、歴史も支配しているかのよ うな錯覚を抱くことがあります。しかし、実際に人間ができることは小さなこと であり、まことの支配者であられる神様の許しの範囲内で人間は物事を行ってい るに過ぎません。今から約2000年前にイエス様を十字架にかけた人々も、これで邪魔者がいなくなったと喜びました。しかし、それは人間の浅はかな企てであり、天の父なる神様の人類を救うご計画は変更されることなく成就したのです。なぜなら、イエス様の十字架の死も、イエス様のよみがえりも、すべては神様のご支配のもとに起こった出来事だったからです。目先の事だけで物事を早急に判断する人間には理解に苦しむことですが、長い歴史の中で神様がどのように働かれ てこられたかを思い出すならば、確かに神様のご支配のなかですべての事が成就 してきたことは歴史が証明している事実なのです。
今日、お読みした箇所にも神様のご支配が隠されています。サラッと読んでしまうと何の驚きもない箇所ですが、起こった出来事の重要性を知る時、新しい発見があります。パウロに対する判決の有無は教会にとって大きな意味がありました 。なぜなら、総督の下す判決は他の州でも有効であり、他の総督が前例として使うことになるからです。仮にパウロが総督から有罪であると判決を受けたならば、キリスト者に対する迫害は勢いをまし、キリスト者は法による保護を失い福音を宣べ伝えることが難しくなります。神様は、福音が人々の間に広まり、主の教えが人々の生活に浸透する時間を与えてくださったのです。神様は、常に歴史の背後で働かれ、ご自身のご計画を確実に進めておられるお方です。
今日は、投票日です。誰が選挙に勝つか。誰にも分かりません。しかし、一つだけはっきりしていることがあります。それは、神様のみこころだけが成るという事実です。誰が当選しても、どんな人でも神様によって変えられない人はいないのです。問題は、誰がリーダーとなるかではなく、その背後におられる神様が何をしてくださるかを期待し、とりなし続けることです。みこころだけが成ると信じ、自分に与えられた使命を果たし続けましょう。
地の塩として、世の光として、その役割を果たし、その使命を全うできるように祈りつつみことばに従って生きることを選択しましょう。
 

2017年10月15日 みことば 


「平和をつくる者は幸いです。
 その人たちは、神の子どもと呼ばれるから。」

              マタイ5章9節



2017年10月15日 メッセージ 山本将信 師 

「赦されて生きる」       マルコ 2:1〜12

 ここに中風の者が物体のように運ばれて来ました。ここに来るに際して、一体誰の意志だったかさえ不明確です。主イエスは「彼らの信仰を見て、中風の者に『見よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた」のです。
 ここでは「中風の者の信仰を見て」とは記されていません。一体、他人の信仰を借りることは出来るものでしょうか。もちろん信仰は一人一人が信じることで、他人の信仰を代行したり、代用したりはできません。それにも拘わらず「彼ら」に運ばれてやって来ます。信仰は全く個人のプライベートなものなのではなく、またあってもなりません。信仰には「とりなし」と言う本質があります。「子よ、あなたの罪は赦された。」この言葉は私への言葉です。
 私が聖書に出会った最初は実はこの「生きることは赦される」でした。聖書が道徳書でなく、生命の書として私の前に姿を現したのは中学3年を卒業したときでした。我が家が倒産して一家ばらばらになり、私は義務教育を終えると大阪に集団就職で働きに出ました。その時、結核で血を吐きながら医療保護で入院していた兄に挨拶に行きました。我が家では彼が唯一のカトリック信徒でした。兄は年端も行かない弟が一人大阪に行くのは不憫だっだのだろうと思います。さりとて何もしてやることもできません。「存在そのものが迷惑」として生きていた兄の信仰告白だったのだと、今にして思います。こう言って私を励ましました。「将信、しっかり生きて行けよ。食い詰めてしまったら盗人になっても生きて行け。そのような時は泥棒も赦されると聖書にちゃんと書いてある。」私は びっくりしました。泥棒しても良いと兄貴が言うだけでなく、聖書にそう書いてあると言うのです。後の日、それが聖書のどこに書いてあるかを探して読み始めました。そんなこと書いてありません。
「存在自体が迷惑」な人に「子よ、あなたの罪は赦された」と主イエスは宣言しておられます。そして「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われました。彼は「赦された存在」として家に帰って行きました。人は失意の「床を取り上げて」立ち直り、生きることが赦されています。なので生きていかなければなりません。否、生きていくことができるのです。

2017年10月8日 みことば 


「人を恐れるとわなにかかる。」
 しかし主に信頼する者は守られる。
              
          箴言29章25節


2017年10月8日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「主の力強い励まし」        使徒acts 18:1〜11

 バウロは、宣教する時、さまざまな苦しみを経験します。Uコリント11:23〜29 参照。神様は、そのような多くの苦難の中でパウロをいつも励まし続けてくださったお方です。その一つが今日の箇所の出来事になります。
 コリントの町でパウロは、敬虔なキリスト者夫妻と出会います。アクラとプリスキラ夫妻です。この二人の名前は、パウロの書簡に度々登場する名前です。この夫婦は、以前ローマに住んでいましたが迫害に合い、コリントに逃れてきて住んでいたようです。パウロにとって、アクラたちの存在は大きさ励ましとなったと考えられます。なぜなら、知り合いのいないコリントの町にきて仕事をすると言っても簡単に仕事が見つかるわけではありません。神様は、パウロがコリントに来る前に同じ主にある兄弟姉妹の夫婦をコリントの町に派遣され、パウロが宣教するうえで必要な収入を得ることができるように同業者のアクラたちを備えてくださっていたのです。神様の行き届いた配慮をここでも見ることができます。さらに、
 神様のパウロに対する励ましは続きます。5節参照。神様はパウロのもとにシラスとテモテという強力な助け手を送ってくださり、パウロは宣教に専念できるようになります。神様は、このようにパウロを励ましてくださるのです。しかし、福音はコリントの町でもユダヤ人から拒まれます。福音を拒む人々に対し、パウロは宣言します。6 節参照。福音を拒んだユダヤ人のもとを去る決断をしたパウロが、次に向かった宣教の相手は、異邦人です。パウロは、神を敬うテテオ・ユストという人の家を拠点にして宣教を続けます。コリントの町におけるユダヤ人に対する宣教は、思った以上の成果を得られませんでしたが、このコストと会堂管理者の家族が救われたのです。7節参照。これはユダヤ人の救いを心から望んでいたパウロにとって大きな励ましになったことでしょう。ところが、パウロはここでスランプに陥ることになります。パウロも私たちと同じ弱さをもった人間です。不安になることや落ち込むこともあったでしょう。そんな彼を神様は、幻の中で励まされたのです。9〜1O節参照。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけ ない。わたし(神)があなたとともにいるのだ。」全宇宙と全世界を創造されたまことの神様がパウロとともにいてくださり、彼を守ってくださると約束してくださったのです。これにまさる励ましはありません。私たちも、同じ神様に日々守られながら、生かされていることを感謝しつつ宣教に励んでまいりましょう。