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長野県南佐久郡小海町大字小海4355-27
牧師 荒籾 実
愛する者たち。
私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。 Ⅰヨハネ4:7
「人生は礼拝」 ローマ12:1~2
神は、罪の中にあって永遠のゲヘナで滅ぶべき私たちを愛して、御子イエスの完全なご生涯と十字架と復活を根拠として義と宣言し、御国に招いてくださいました。だから私たちは「からだを」つまり人生をまるごと神にささげて生きるべきです。主日だけでなく、残りの6日間も主にささげて生きるのです。十分の一だけでなく、手元の十分の九も主のみ旨にかなう用い方をして生きるのです。生活の全領域において神をあがめて生きるのです。あなたの生活のなかで、まだ神におゆだねしていないところはないでしょうか。イエス様はあなたのお客さんではなくて、あなたの主となることを望まれるのです。主にささげるのは「聖なる生きたささげ物」としてのあなたの人生です。旧約時代、神に対する捧げものは必ず血が流されなければなりませんでした。罪から来る報酬は死であるからです。ところが「あなたがたのからだを・・・聖なる生きたささげ物としてささげなさい」といわれています。それはこのささげ物は、罪の償いのための犠牲ではなく、感謝のささげものだからです。神の御子イエスが、私たちの罪の身代わりの犠牲となって、いっさいの罪の償いを完了してくださいました。だから、私たちは自分の罪滅ぼしのために生きる必要はありません。そうではなく、「こんな罪人が赦された!」という神への感謝にあふれて、自分の全生活を主におささげするのです。これが、新約の時代に生きる私たちキリスト者の礼拝の生活の原理です。「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」とは、「あなたがたのなすべき礼拝」「理にかなった礼拝」という意味です。何が理にかなっているかというと、まず神が創造主であって私たちはその作品であるからです。作品が創造主にお仕えするのは当然でしょう。次に神の御子キリストがあなたのために命まで惜しまなかった救い主だからです。命の恩人に感謝して生きるのは人として当然のことでしょう。理にかなった礼拝者として、生活の全領域で神様をあがめ、神様の栄光を現して生きるためには、まず、悪魔が支配する「この世」と調子を合わせないで、「心(ヌース:むしろ頭)の一新によって自分を変えていただく」ことです。人は考えているように生きるものですから、聖書のみことばと教理をきちんと理解し、蓄えることが肝心です。そうしていれば、私たちの生活全体が、神への礼拝とされていきます。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためです。
ルカ5:32
御霊に満たされて隣人を愛するとは、具体的にはどうすることなのでしょうか。その事を思い巡らす時、殉教したステパノの姿が思い出されます。ステパノの心は、御霊様に支配されていたのです。だからこそ、自分に対して敵意を抱き、殺意をもって石を投げる人々の救いのために執り成し祈ることができたのです。それは、ステパノが御霊様に自分の心の王座に着いて頂き、イエス様の愛を頂いて、隣人を愛していたからです。ステパノは、イエス様の十字架の祈りを知っていたのでしょう。
イエス様は、ステパノより前に、十字架の上で、愛の極みを示されました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」私たちは、十字架のイエス様こそが本当の意味で律法を全うし、命をかけてすべての人を愛されたお方であると信じています。これは本当に、神の愛であるところの奇蹟としか言いようのないことです。また、敵を愛するステパノの姿、十字架のイエス様の執り成しの祈りに思い出される宣教師たちがいます。以前にも、お話したことがありますが、ジャングルの奥地に住む首狩り族に福音を伝えた5人の宣教師とその家族です。彼らは、イエス様が隣人を愛されたように首狩り族の人々を愛し、彼らの友となるために命を犠牲にしました。「ビティ・ミティ・プーニムーパー」「私はあなたが好きです。あなたと友達になりたい」と最後まで言い続けながら、福音を伝えた宣教師たちの心も、確かにイエス様の愛と御霊で満たされていました。
私たちは、イエス様のお姿にならったステパノや宣教師たちのように、自分の命をかけてまで隣人を愛することなどできないと思うかもしれません。しかし、イエス様の十字架によって罪赦され、神の子として生きる一人の人間であることに、何ら変わりはないのです。私たちはみな、土の器です。空っぽの、欠けだらけの器なのです。そこに神様が無限に注いで下さる愛と御霊で満たされて、溢れるばかりになる時、私たちも、もっと深く、隣人を愛することができるようになるのです。なぜなら、私たちもすでに神の子どもとされているからです。天の父なる神様が、私たちを子として愛して下さり、養い、導いていて下さる、その歩みの中で、神様を愛し、隣人を愛する御国の民としての新しい生き方が示されました。私たちが、イエス様の愛と御霊で満たされて、精一杯、隣人を愛する小さな愛の業一つ一つが、神様に喜ばれるものとなり、主の愛と福音を運ぶ器として用いて頂けるよう、心から祈ります。