日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2023年9月17日 みことば






「信仰の創始者であり完成者である
イエスから、目を離さないでいなさい。」  


              


   


「イエスから目を離さないでいなさい。」   マタイ14:22~33

人生はいつも平穏無事であるとは限らず、突然の嵐に直面する事もあります。イエス様は、私たちを強いてそこに向かわせることがあるのです。イエス様の神の御子としてのお力は、私たちが自分の無力さに打ちひしがれている時にこそ分かる…故に、ただ主だけを信頼する状況に置かれるのではないでしょうか。本日の聖書箇所は、今年度の教会標語と重なるところです。改めて、「イエスから目を離さない」という事について共にみことばにきいてまいりましょう。
本  
イエス様は、多くの群衆が自分を王として祭り上げ(ヨハネ6:14~15)、自分たちの先頭に立たせて、ローマ帝国の支配から解放してもらおうとしている気運の高まりを鋭く読み取られ、弟子たちを群衆から引き離し、群衆を解散させました。 22節をお読みいたします。 イエス様が弟子たちを強制的に船に乗り込ませた理由は、弟子たちがこの群衆に巻き込まれないようにするため、弟子たちを休ませるためであったと思われます。 群衆は、イエス様がイスラエルの国を再建する政治的メシヤであることを期待していました。弟子たちもまた、イエス様が再建される王国で高い地位に就くことを期待する思いがありながらイエス様に従ってきた事を、イエス様はご存知だったからです。 この時、イエス様はひとり山へ退かれ、天の父なる神様との時間を十分に持つ必要がありました。23節をお読みいたします。「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。」 イエス様は、いつもどんな時も、自分一人で勝手に判断し行動なさることはありませんでした。常に、天の父なる神様との交わり、祈りの時間を何よりも大切にし、父なる神様に相談し、何がみこころであるのか一つ一つ確認されていました。 神の御子としての役割と責任、使命を果たす為、感情や状況に流されることのないように、群衆や弟子たちからも離れて一人静まり、父なる神さまとの交わりの時を求めて山へ退かれたのです。 イエス様のこのお姿と行動に、私たちも倣うべきです。どのような状況であっても、どんなに忙しくても、父なる神様の前に静まり祈る時間は、私たちにとっても一番必要な、大切なことだからです。私たちが失敗をするのは、祈ることなく、みこころを求めることなく、自分で判断し、自分の力で何かをしようと行動する時でしょう。 私たち人間は、目先の利益に囚われて判断を誤ったり、自分を取り巻く周囲の状況に目を奪われ、困難な出来事や自分の弱さを見てしまい易いものです。だからこそ、主に心を向け、目を上げて、イエス様が選ばれる道を私たちも選び取ることができるように、イエス様なら、どうされるだろうかと立ち止まって考えること、慎重に祈りつつ、今、なすべきことはこれで良いのか、天の父なる神様に相談する者でありたいと願います。  船に乗った弟子たちに目を向けてみましょう。24節をお読みいたします。「舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。」   波に悩まされる弟子たちは、日々の歩みの中で、困難なことに悩み苦しむ私たちの姿であるとも言えるでしょう。いつもの生活の中に、突然、逆風が吹き、前に進めなくなってしまう・・・小さな船に乗り、湖の真ん中で強い向かい風に悩まされる弟子たちの姿は、いつも通り、計画通りにはできなくなり、先を見通すことも別の道へと進むこともできない中で悩み苦しむ、私たちの姿であると思うのです。 イエス様は、弟子たちが風と波に悪戦苦闘している只中に、自ら足を向け、歩み寄って下さいました。25節をお読みいたします。「夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。」 イエス様は、愛する弟子たちが闇の中で苦しみ悩まされていることをご存知で、ご自身が共に居て下さることを知らせるために、弟子たちのもとへ歩いて行かれました。イエス様にとって、弟子たちのところへ行くのに、水の上も地面の上も違いがありません。イエス様はどこであっても、ご自分の方から私たちの元へと来て下さる愛に満ちた全能の主です。  ところが弟子たちは、暗闇の中で、水の上を歩いて自分たちの方に近づいてくる人影を見ると、子どものようにおびえて「あれは幽霊だ。」と叫び声をあげたのです。大の大人がなんと情けないことかと思われるでしょう。 しかし、これが私たちの現実の姿なのではないでしょうか。弟子たちが、イエス様の姿を自分たちの常識や、人間の理性で考えられる範囲内で捕らえておびえたように、私たちも、自分の常識を超えた出来事に直面すると慌てふためき、パニックに陥って、冷静さを失ってしまうものです。イエス様は、恐怖のあまり冷静さを失った弟子たちに、ご自分から優しく声をかけられました。27節をお読みいたします。 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」 「しっかりしなさい。」というお言葉は、叱責ではなく、「安心しなさい」という意味の慰めに満ちた言葉です。「わたしだ」というお言葉は、ギリシャ語で、「エゴー・エイミー」と記され、「わたしはある」と訳すことができます。イエス様は、ご自分が父なる神様と一体の方であることを宣言し、言葉一つで波を静めることのできる力ある主であることを示した上で、「わたしはあなたとともにいる」と励まして下さったのです。 このイエス様のお言葉を聞いて、すぐに応答した弟子がいました。それはペテロです。28節をお読みいたします。 『するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」と言った。』 ペテロは「わたしだ」というイエス様のお言葉に、「あなたでしたら」とすぐに応答します。それは、イエス様がまことの神としてのご自分を現わされたことを素直に信じる信仰の現れでもあります。 ペテロは、イエス様の声を聴き、イエス様のところに行きたいと願いました。それは、ただ単に水の上を歩いてみたいという好奇心からではありません。 「私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」と、イエス様の命令さえいただけるなら、水のうえでさえも歩くことができると、水の上を歩く力の根源をイエス様の権威に置き、信仰を働かせてお願いしたのです。 私に命令して下さい、み言葉を下さい、そうすれば私が水の上を歩くことも出来ると信じます、と言ったペテロの信仰、純粋な願いを、イエス様は受け入れてくださり、彼がイエス様のお力を体験するチャンスを与えてくださいました。 ペテロはイエス様の命令に従って水の上を歩きはじめます。ペテロのうちに信仰があったことは、彼が水の上を歩くことができたという事実により証明されました。  ペテロの水上歩行を可能にした力の根源は、イエス様の命令にありました。ペテロがどんなに望んでも、イエス様の命令がなければ水の上を歩くことは不可能です。イエス様の命令とペテロの信仰が一致したことにより、はじめて水の上に立つことができたのです。ペテロがイエス様から目を離さないでいた間、彼は水の上を歩き続けることができました。 この出来事は、常識的には受け入れられない作り話と思われるかもしれません。人間が水の上を歩くなどあり得ない、超自然的、非科学的な出来事だからです。 しかし、信仰が与えられると、聖書に書かれている超自然的な出来事も、その通り信じることが出来るようになるのです。 なぜなら、その奇蹟を行われたお方が誰であるかを知っているからです。 私たちに信仰があるならば、イエス様から力をいただいて水の上でさえも歩くことができるのです。 実際、私たちが、イエス様を主と信じ、キリストの弟子としてこの世を歩んでいくことは、水の上を歩いていくような事、本来私たちには出来ないことです。 目に見えるものしか頼ろうとしなかった私たちが、目に見えない神様の存在を信じることができる者に変えられたということ事態が奇蹟としかいいようがありません。 イエス様の十字架の死による罪の赦しを信じ、イエス様を神の御子であると本気で信じて、私の主、私の神と告白できること、主の復活と永遠のいのちの希望を抱いて生きていること事態が奇蹟、あり得ないことなのです。 ペテロは一心にイエス様を信頼し、イエス様を見つめて、確かに水の上を歩きました。ところが、です。 30節をお読みいたします。「ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ。助けてください。」と叫んだ。」 ペテロは風に気を取られて、イエス様から目を離してしまったのです。その途端に彼の体は、沈み始めました。 ペテロはイエス様だけを見ていた時は、水の上を歩くことができました。しかし、風を見てしまった時に恐怖に襲われ、その結果、沈んだのです。 「沈み始めた」から「怖くなった」のではなく、「怖くなった」から「沈み始めた」…イエス様から目を離した結果、恐れに支配されてしまったということに目を向けるべきでしょう。  私たちの日々の信仰の歩みも、この状況と重なることを思わされます。私たちの地上における信仰の歩みは、まさに水の上を歩いているようなものです。 私たちの周りには誘惑が満ちています。私たちをイエス様から、目を離させようとするものに溢れています。サタンは、巧妙な手をつかい、私たちに気づかれないように私たちの関心をこの世のことに向けさせることに成功しているのです。それは、私たちの心が何に普段向けられているのかを思い出してみるならば明らかです。何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようかということに多くの時間を奪われ、あまりにも地上のことだけ、自分のことだけに目が向けられていることはないでしょうか。  私たちが本気で神様を第一として生きようと願うならば、この世との闘いは避けられません。愛する家族でさえ、私たちを攻撃する者となる場合もあるのです。なぜなら、サタンは、私たちを神様から引き離そうと、私たちの身近な人々を誘惑し、私たちを神様から引き離そうとするからです。サタンの攻撃に対しては、徹底的に抵抗しなければなりません。 サタンが国家という大きな組織を用いて、偶像崇拝を私たちに強要するような時代が再びくることも想定できます。そのような時にも、神様の御前に自分の弱さを告白し、素直に「助けてください」と祈り求めるなら、神様は必ず、試練と共に脱出の道を備えてくださるのです。 ペテロも、風を見て恐怖に襲われ、沈みかけた時、「主よ。助けてください。」と叫び、イエス様に助けを求めました。イエス様は「すぐに」「彼をつかんで」助けて下さったのです。イエス様がペテロの叫びにすぐに応え、助けて下さった事実を、深く心に留めたいと思います。私たちも、心に沸き起こる恐れや不安を「祈り」に変え、イエス様を信頼する力として頂くことが出来るのです。
結)
ペテロは、イエス様と共に歩む中で、イエス様のご命令があれば水の上でさえも歩くことができると信じる信仰が与えられていました。信仰とは、神様への信頼です。ペテロはイエス様を心から信頼していたのです。 けれども、ペテロや他の弟子たちのイエス様への信頼は、絶対なものではなく、信仰は小さなものでした。イエス様のすぐそばに居て、直接おことばを聞き、素晴らしい御業を目の当たりにしていたにも関わらず、彼らは何度も恐れ、何度もつまずきました。彼らは不信仰なのではなく、イエス様への信頼を保てなかったのです。 沈みかけ、助けを求めたペテロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われたイエス様のお言葉は、恐れや不安に捕らわれて沈みかけたペテロを、また世の波に溺れてしまうような弱い私たちを叱咤激励する言葉です。それは非難ではなく、励まし、力づける言葉です。 私たちの信仰は、初めから強くはありません。弱弱しく、小さな信仰です。けれども、確かに、イエス様を、全能なる神様を信じる信仰が与えられています。 イエス様に助けを求めることを諦めず、どんな困難の中でも主に信頼して祈り求める…イエス様がその祈りに応え、手を取り助けて下さった経験の積み重ねによって、信仰は少しずつ強められていくのです。 私たちも、日々、聖書を読み、イエス様のご命令に従うこと、イエス様に対する信頼を強める体験を積み重ねることを通して、イエス様から目を離さずに、みことばに従って生きる喜びと幸いを体験する者になりたいと願います。 私たちには常識的に考えて不可能と思われることがあったとしても、その不可能を可能とされるのはイエス様ご自身、全能なる神様であることを信じましょう。 私たちは、イエス様から目を離さないでいる限り、この世のどんな困難の中にも溺れることはありません。ペテロはイエス様から目を離さないでいた間、水の上を歩くことができたのです。 私たちの地上での信仰の歩みは、ペテロの水上歩行のような、たどたどしい歩みかも知れません。けれども、イエス様から目を離さないでいるかぎり、沈むことも、溺れること、困難に打ち負かされることもないのです。信仰によってイエス様を見上げ、イエス様と繋がって力をいただき、イエス様がなしてくださる御業をペテロのように体験させていただく者になろうではありませんか。 今日、ここから遣わされていく私たちの歩みは、波に悩まされることの少なくないものです。しかし、私たちのすべてを知り、一人ひとりを覚えて、いつもとりなしていて下さるイエス様が共に居られるのです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と励まして下さる主の御声を聞き、主に助けを求め、主が応えて下さる恵みを味わいながら、「まことに、あなたは神の子です。」と確信をもって信仰を告白する者とさせて頂きたいと願います。 「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」
  
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