人から正しく見えたとしても
1.ファリサイ派の祈りと徴税人の祈り
イエス・キリストは、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りを比較しています。
ファリサイ派の人の祈りは、次のようなものでした。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、
また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ルカによる福音書 18章11〜12節
一方、徴税人の祈りは次のようなものでした。
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
ルカによる福音書 18章13節
2.どちらが正しく見えていたか
ファリサイ派の人々と徴税人とでは、どちらが正しく立派に見えたでしょうか?
もちろん、ファリサイ派の人々だったことでしょう。
ファリサイ派の人々は、聖書をしっかり読んで真面目に律法を守っており
はた目には、人からは正しく見えたはずです。
徴税人は、律法に反して異邦人であるローマ人と常に接触しローマ人に仕え
さらには不正な取り立てで私腹を肥やしていたため、人からは罪人とされていました。
3.本当に正しかったのはどちらだったか?
イエスはこのふたりについて、次のように語られています。
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書 18章14節
本当に正しかったのは、自分の罪を認めて悔い改めた徴税人の方だったのです。
自分を正しく立派な者だとして、罪を認めず悔い改めようとしなかったファリサイ派の人は、
神の前に、正しくされなかったのです。
むすび.人から正しく立派に見えても罪人
ファリサイ派の人は、確かに真面目に聖書を読んで研究し、その行ないも立派で
一生懸命律法に忠実であろうとして、努力していました。
略奪、不正、姦通など一切せずに、週に二度断食し全収入の十分の一を献げていました。
「ああ彼は立派に神に従っている」と、そう見えたに違いありません。
けれども、彼も神の前では徴税人と同じように罪人だったのです。
その罪に気付いていなかっただけなのです。
人から正しく見えるかどうかは、神の前には全く関係ないのです。
罪を認めて悔い改めて、神から「義」を頂かなければ
だれも、正しくされることはないのです。
【今日の聖書】
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書 18章14節