扇動
1.イエスは「民衆を扇動している」と誤解され訴えられた
人々の救いのために、ガリラヤから始めてエルサレムに至るまで、
ユダヤ全土で教えておられたイエスのことを、反対者たちは
「民衆を扇動している」と、誤解してしまっていました。
しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、
ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
ルカによる福音書 23章5節
それは決して扇動などではなく、正しい救いの道を示されていただけなのです。
正しいことを語っていたにもかかわらず、それを誤解し反対する人が起きていました。
イエスは民衆を扇動していたのではなく、救いへと導いておられただけなのです。
2.イエスの教えと当時の教えの大きな乖離が原因だった
正しいことを行なっていたのに、なぜ「扇動」と捉えられてしまったのか、
それは当時の伝統的な生活習慣や文化と、イエスの教えがあまりにもかけ離れていたからです。
当時の人々も、聖書の神を信じ従っているつもりでいました。
しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちが教えていた教えは
人間の考えた戒律を重んじ、神の本来の教えから外れていたのです。
要するに、的をはずしていたのです。
彼らの教えていた「聖書の教え」自体は正しい教えでした。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。
しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。
言うだけで、実行しないからである。
マタイによる福音書 23章2〜3節
正しく聖書の教えを語ってはいても、それを実行していませんでした。
さらに彼らは、聖書の教えに人間の教えを付加してしまっていたのです。
その結果、本来の聖書の教えから逸脱してしまい形骸化していました。
3.イエスを誤解していた人々は「扇動している」と捉えた
けれどもイエスの教えは、正しい的を射た権威ある教えでした。
人々はその教えに非常に驚いた。
律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マルコによる福音書 1章22節
当時の人々は、律法学者のようにではなく、
権威ある者としてお教えになった、イエスの教えに驚いたのです。
さらに悪霊までも追い出すイエスの権威に、驚いていたのです。
人々は皆驚いて、論じ合った。
「これはいったいどういうことなのだ。
権威ある新しい教えだ。
この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
マルコによる福音書 1章27節
イエスは、彼らの形式的な的をはずした教えを鋭く指摘し、正しく神のみ旨を教えられました。
そのため、当時の宗教指導者たちの反感を買い民衆を扇動しているととられてしまったのです。
間違っていた人々は、正しい教えを「間違った教え」と認識してしまったのです。
「イエスは間違った教えで人々を扇動している」と、認識して訴えてしまったのです。
むすび.正しい方が「扇動だ」と訴えられ十字架で死なれた
正しいことを行っていても、それに対する人々の反応は2つに別れます。
一つは、「正しいことを受け入れて、それに従う」という反応で
もう一つは、「正しいことを受け入れず、それに反対する」という反応です。
本当に正しいことをなされたイエスも、「民衆を扇動している」と訴えられました。
正しいことをしていても、誤解され反対され訴えられていたのです。
イエスは訴えられていましたが、実は正しかったのはイエスの方だったのです。
イエスは訴えられても、それに対して反論しませんでした。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
イザヤ書 53章7節
ただただ訴えられるままになって、最後に十字架にかけられて死んでしまわれたのです。
私たちの罪のために、十字架で死んでくださる道を歩まれたのです。
【今日の聖書】
しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、
ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
ルカによる福音書 23章5節