アベルは罪人ではなかったのか?
1.アベルは神に正しい献げ物を献げた
アベルは、神の前に正しい献げ物を持ってきました。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
創世記 4章4節
主なる神は、アベルとその献げ物に目を留められています。
「主はアベルとその献げ物に目を留められた」ということは
献げ物を献げた時の「神に対するアベルの心」が、神の前に正しかったということです。
イエスもアベルについては、「正しい人アベル」と語っておられます。
こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺した
バラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、
あなたたちにふりかかってくる。
マタイによる福音書 23章35節
2.アベルは罪をもっていなかったのか?
それではアベルは、罪を持っていなかったということなのでしょうか?
カインだけがアダムとエバの罪を引き継いでいて、アベルは両親の罪を
まったく引き継いでいなかったのでしょうか?
決してそうではないのです。アベルもれっきとした罪人でした。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
ローマの信徒への手紙 3章10節
世の中に、罪のない正しい人などひとりも存在していないのです。
アベルもまた、そのような罪人のひとりだったのです。
アベルも、例外ではなかったのです。
3.なぜ罪人であったのに正しいと言われているのか?
それではなぜ、アベルは正しい人と言われているのでしょうか?
それは「アベルが羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」ことによります。
ただそれだけです。アベルのその他の行動が、すべて良かったわけではありません。
アベルの「神に献げ物をささげた時のその信仰」、この信仰によって
彼は神の前に、正しいとされていただけなのです。
彼が生まれた時から罪を犯さず、正しく立派に生きていたのではありません。
決して正しくはない罪人のひとりではあったけれども、神の前に
「群れの中から最上級の肥えた初子を持って来る」という信仰をもって
神に近づいた、その信仰こそが彼を正しいとしているものなのです。
当然のことながら、そのような信仰は献げ物をした時だけのものではなかったはずです。
常日頃から、神に対してそのような信仰の姿勢もって生きていたことは容易に想像できます。
そのアベルの神に対する信仰の姿勢こそが、罪人であるにもかかわらず彼を正しいとしていたものなのです。
むすび.私たちも罪人であるけれども十字架の血を信じる信仰によって神に近づける
私たちも、確かに神の前に罪人のひとりです。
けれども、その罪のためにイエス・キリストが十字架で血を流して下さり
罪を赦して下さったのです。
このイエス・キリストの十字架の血潮が、私の罪のために流されたと信じ
イエス・キリストを自分の主として受け入れるなら
私たちも、アベルが神の前に正しいとされたように正しいとされるのです。
間違ってはなりません、自分の正しい行いによっては
誰一人、神の前に正しいとされることはありません。
ただイエス・キリストを信じることによってのみ、神の前に正しいとされるのです。
【今日の聖書】
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、
その信仰によって、正しい者であると証明されました。
神が彼の献げ物を認められたからです。
アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙 11章4節