私はカインのような者ではないことを感謝します
1.「カインのような罪人でないことを感謝します」と祈らない
カインは弟を妬み、殺してしまいました。
いくら何でも、殺すことはなかったのに
考えられないことをしたものだと、思います。
「自分だったら、まずそんなことはしない。カインは恐ろしい罪人だなあ」
「神様、私はカインのような罪人でないことを感謝します」
もしこう祈ってしまったら、これこそファリサイ派の人の祈りと同じになってしまいます。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、
姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
ルカによる福音書 18章11節
この祈りを捧げたファリサイ派の人は、神の前に義とされませんでした。
私たちが、「神様、私はカインのような罪人でないことを感謝します」
と祈ってしまうなら、このファリサイ派の人と同じで神の前に義とされません。
2.誰もが心の中にカインと同じ罪を持つ
実際に殺していなくても、人に向かって腹を立てるのは殺人と同じです。
実際に殺していなくても、人に向かって怒りをあらわにし怒鳴りつけるのも殺人と同じです。
実際に殺していなくても、人に向かって「バカ」というのも殺人と同じです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。
人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、
『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書 5章21〜22節
心の中で人が死ぬことを願ってしまうことも、同じです。
その人がいなくなって欲しいと願うのも、同じです。
「いなくなってほしい」というのは、「死んでほしい」と願うのと等しいのです。
3.「神様、私もカインと同じような罪人です。赦してください」と祈る
「神様、私はカインのような罪人でないことを感謝します」という祈りではなく
その逆の祈りを、神に捧げるのです。徴税人の祈りのように
「神様、私もカインと同じような罪人です。赦してください」と祈るのです。
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
ルカによる福音書 18章13節
神の前に義とされたのは、ファリサイ派の人ではなくこの徴税人でした。
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書 18章14節
むすび.自分の心の中の罪に目を向ける
聖書を読む時に、ひどい罪を犯した人が数多く出てきます。
その箇所を読む時に、自分と比較して「自分はこの人よりも正しい」と
考えてしまいがちなのですが、実際は、すべての人が全く同じ罪人なのです。
違いはその罪が、行動となって外に出てしまったか出てしまっていないかの
違いに過ぎないのです。心の中では、同じ罪を犯しているわけです。
ですから罪を赦してくださるイエス・キリストが、どうしても必要なのです。
イエス・キリストは、全人類の罪のために
十字架で血を流して、死んでくださったお方です。
この方を信じる者は、すべて罪が赦されて地獄ではなく天国に行くことができるのです。
【今日の聖書】
信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
使徒言行録 13章39節