ありとあらゆる
キリストの伝道の特色の一つは、「ありとあらゆる」という点にあります。
ギリシア語で、下記のような言葉が使われています。
1.ありとあらゆる町や村を巡る宣教
1.1 イエスの伝道は、ガリラヤから始まった
イエスの伝道は、ガリラヤから始まりました。
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある
湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
マタイによる福音書 4章12〜13節
湖畔というのはもちろん、ガリラヤ湖のことです。
荒野での悪魔の誘惑に勝利されたイエスは、荒野からガリラヤ湖畔に移動したのです。
そしてガリラヤ湖畔の町カファルナウムに、イエスは住まわれたのです。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
マタイによる福音書 4章14〜16節
1.2 イエスは様々な道や村を残らず巡回された
ガリラヤから宣教を始められたイエスは、いろいろな地域を巡回されました。
マタイによる福音書には「イエスは町や村を残らず回って」とあります。
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
マタイによる福音書 9章35節
イエスの宣教は、ガリラヤ地方やエルサレム周辺のみならず
イスラエル地方の、ユダヤ人在住地域の一つの地域も残さず網羅した
そのような宣教だったのです。
1.3 サマリア人などユダヤ人以外の住む地域にも行っている
@サマリア
さらにユダヤ人居住地域だけでなく、サマリア人在住のサマリアの町にも行っています。
ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリアを通らねばならなかった。
ヨハネによる福音書 4章3〜4節
Aフィリポ・カイサリア
ガリラヤの北方、フィリポ・カイサリアにも行っています。
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、
弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
マタイによる福音書 16章13節
フィリポ・カイサリア地方は、ヘロデ大王が初代ローマ皇帝アウグストゥスから
この町を与えられています。それまでこの地方では「パン神」という異教の神を礼拝していました。
牧神パンへの信仰が続いており、パンの聖所であるパニアス神殿があったといいます。
しかしヘロデ大王は、礼拝の対象を「パン神」から「ローマ皇帝」に変更したのです。
そしてこの地に、大理石の神殿を建ててそこに皇帝の像を安置したのです。
ヘロデ大王の息子であるヘロデ・フィリポが領主になります。
ヘロデ・フィリポは、ローマ皇帝ティベリウスに敬意を表して町の名を
カイザリヤと改めますが、自身の名も含めてフィリポ・カイサリアという地名になったのです。
シナゴーグもあったことから、ユダヤ人も住んでいたことがわかりますが
元々「パン神」信仰の続いていた地で、その後皇帝崇拝になっていましたので
まさにこの地は、異教の根付いた地だったと言えるでしょう。
そこにイエスは弟子達と共に、出掛けて行ったのです。
Bティルスとシドン
またイエスは、ガリラヤの北西部の地中海沿岸の、
ティルスとシドンの地方にも、行っています。
ここはユダヤ人の地ではなく、カナン人が住む地でした。
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
マタイによる福音書 15章21節
この地でイエスの所に来たのは、この地に生まれたカナンの女性でした。
すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。
娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
マタイによる福音書 15章22節
この女性に対してイエスは、「自分はユダヤ人にしか遣わされていないのだ」
という内容の言葉を、投げかけています。
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
とお答えになった。
マタイによる福音書 15章24節
この言葉から、明らかにこの女性がユダヤ人ではなく、
完全に異邦人であった、ということがわかります。
けれどもこの後、この女性の謙遜な信仰によって娘は癒されるのです。
このように、イエスの宣教はユダヤ人の住むすべての町や村だけでなく、
異邦人の住む地域にも、進められていたことがわかります。
2.ありとあらゆる病気や患いをいやされた
地域と共に、そのなされた癒しのみわざも100%でした。
癒しのみわざについては、「ありとあらゆる病気や患いを癒された」とあります。
イエスに治せなかった病は、ひとつもありませんでした。
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
マタイによる福音書 9章35節
生まれ故郷ナザレでは、人々の不信仰のゆえ
多くのみわざをすることができませんでしたが、それは人々に原因がありました。
人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
マタイによる福音書 13章58節
ナザレ以外では、癒しを求めてきた多くの人々をことごとく癒されたのです。
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。
イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
マタイによる福音書 8章16節
新約聖書を見る時、イエスに治せなかった病気が一つもなかったことに気付きます。
盲人も見えるようになりました。
そこで、イエスは言われた。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。
これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
ルカによる福音書 18章42〜43節
耳の聞こえなかった人も聞こえるようになっています。
歩けなかった人が歩けるようになり、中風で寝たきりの人も完治しています。
新共同訳聖書で「重い皮膚病」と訳されている病気も、きよめられています。
イエスの癒しのみわざは、100%だったのです。
3.キリストの働きは完璧だった
イエスの宣教も、イエスの癒しのわざもすべて完璧でした。
中途半端は、少しもありませんでした。
すべてが真剣で、すべてが完全な働きだったのです。
人間は元々罪をもって生まれてきていますので、弱さがありどこかが必ず壊れています。
その弱さのゆえに、完璧なことができないのです。
中途半端になってしまったり、そもそも取り掛かることすらできない場合があるのです。
しかしキリストは違います。完璧なのです。
なすべき使命を、すべて完全に行われているのです。
それは今でも続いています。
私たちは完全ではありません。けれども、キリストは完全なお方なのです。
私たちがより頼んで従っている方は、完全なお方であるということを忘れてはなりません。
「人にはできないことも、神にはできる」とありますが、イエスにはできるのです。
むすび.完全なイエスにより頼んで生きる
私たちが人により頼もうとすると、どうしてもどこかで破綻します。
親であろうと教師であろうと、多くの財産を持っている人であろうと同じです。
人は完全ではないからです。
しかし、イエスは完全なお方なのです。
完全に、事を成し遂げて下さるお方です。
完全なみわざを、成し遂げて下さるお方なのです。
私たちがイエスに癒しを求めて祈る時、そこに疑いを挟んではなりません。
イエスにはどんな病気も、癒すことができるからです。
風邪であろうと癌であろうと、イエスに治すことができない病など一つもありません。
信じて祈ることを、イエスは求めておられるのです。
その人の人生を、「そこまでだ」と定めておられた場合を除けば
イエスの名によって癒しを求めて祈れば、必ず癒されているのです。
私たちが宣教する時、自分の力に頼ってはなりません。
完全な導きを与え、完全な力を与えて下さるイエスにより頼むのです。
その時私たちの働きも、キリストにあって完全な働きに近づいて行くのです。
【今日の聖書】
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
マタイによる福音書 9章35節