宣教の働きに専念する
1.働かざるもの食うべからず
「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と、パウロは
テサロニケの教会への手紙で、語っています。
また、あなたがたの所にいた時に、
「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。
ところが、聞くところによると、
あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、
働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。
こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、
主イエス・キリストによって命じまた勧める。
テサロニケの信徒への手紙二 3章10〜12節
当時のテサロニケの教会には、働けるのに働こうとせず
いたずらに動き回っているような怠惰な人々がいた、ということです。
そういう人に対してパウロは、静かに働いて自分で得たパンを食べるように諭しているのです。
2.顔に汗して働くことは男に定められた神の定め
顔に汗して働くことは、男に定められた神の定めなのです。
更に人に言われた、
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
地はあなたのためにのろわれ、
あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
創世記 3章17〜19節
エデンの園で最初の男と女が罪を犯した後、女の産みの苦しみが増やされ
男には、顔に汗して働くことが定められてしまったのです。
エデンの時のように、楽して食べ物を得ることはできなくなってしまったのです。
3.宣教の働きも顔に汗して働くれっきとした働き
そして福音を宣べ伝え、それに伴う奇蹟を行うこともれっきとした働きなのです。
福音を宣べ伝えることは、働きもせずいたずらに動き回る事ではなく働きです。
働きには当然、報酬が伴います。宣教は、ボランティアではないのです。
「宣教師も牧師も、宣教だけでなく他に仕事をしながら行うべきだ」という方もおられますが
宣教自体が大きな仕事であり、本来片手間にできるようなものではないのです。
やむを得ず、他の仕事をしながら牧師をしている方々もおられますが、
本来は、宣教の働きというのは専念すべき働きなのです。
パウロもコリントに初めて足を踏み入れた時、当初は天幕造りをしながら宣教をしていましたが
その後シラスとテモテが、マケドニヤから下ってきてからは、
パウロは御言を伝えることに専念し、パウロの手によって力強い働きがなされていきました。
シラスとテモテが、マケドニヤから下ってきてからは、
パウロは御言を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを、
ユダヤ人たちに力強くあかしした。
使徒言行録 18章5節
宣教の働きに専念するということは、とても大切な事なのです。
むすび.宣教師や牧師は報酬を得て働きをしている
現代の教会においても、宣教師や牧師等の働きをしている人々は
きちんと生活できる報酬を得ながら、その働きをなし続けています。
教会はそのように、働き人をみんなで支えているのです。
【今日の聖書】
旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。
働く者が食べ物を受けるのは当然である。
マタイによる福音書 10章10節