信仰によって生きる

2025年8月10日
ルカ12:22-34
 ヘブライ11:1-16
 創世記15:1-6


信仰によって生きる事。それは今日の3つの聖書日課のテーマです。ヘブライ人の手紙の日課は多くの旧約聖書の勇士(ゆうし)について語ります。危ない時にも、将来が見えない時にも、彼等は信仰を捨てないで主なる神様に忠実でした。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、ヤコブ、モーセ、ギデオン、サムエル、ダビデ、ダニエルなどは信仰によって生きました。「ヘブライ11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」この言葉は私達にも勇気を与えます。それで、私達も信仰を持って忠実に生きる事が出来ます。

その大きな例とはアブラハムの信仰です。神様は彼に2つの約束を下さいました、1つは土地、もう1つはそこに住む子孫(しそん)です。その約束を信じて、アブラムは故郷のウルを出て、カナン地方に行きました。そこは彼にとって新しい土地でしたが、そこに定住しませんでした。彼は生涯、テントに住みました。彼は年を取り、妻も年取って子供がいませんでした。アブラハムはその子孫に対する約束に失望していた時に、主の御言葉が彼に来ました。

創世記15:4『見よ、主の言葉があった。「その者{あなたのしもべ}があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

アブラハムは175歳で死にました。自分の息子イサクを見、二人の孫のヤコブとエサウを見る事が出来ました。その上、もう一人の息子イシマエルとイシマエルの子供達も見る事が出来ました。しかしアブラハムは最後までテントに住みました。「ヘブライ11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」アブラハムは神様の約束を信じました。約束の地である国とその約束した国民である子孫もです。アブラハムは神様を信じて、その信仰によって生きました。

新約聖書のイエス様の約束とは、神の国が近づいた事です。この国はパレスチナとその地域に限られていません。それはアブラハムに約束された故郷と違います。神の国には国と国の間ので国境に限られていないので、場所にも時にも限られていません。今は地上にあり、また天国では永遠です。これはイエス様が私達に与えられた約束です。私達はイエス様の約束を信じますので、私達はアブラハムと共に義とされています。

イエス様は弟子達に言われました、「12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」それこそは神の群れになった私達の問題です。私達は恐れるからです。私達は心配します。安心していません。パニック状態になる時もあります。イエス様によりますと、それは信仰の問題です。イエス様は「信仰の薄い者たちよ」と言われます。このように考えたらどうでしょうか。あなたの国籍はどこの国でしょうか。天国の国民でしょうか、それともこの地上の国の国民だけでしょうか。神様に信頼するか、あなたの国の政府に信頼するでしょうか。神様はあなたの王様でしょうか、それとも、だれか他の人があなたの人生を支配するでしょうか。もし心配事が食べ物や着物、住まい、泥棒があなたの家に押し入ることなどでしたら、あなたの住んでいる町の役場や警察に頼って下さい。全世界のすべての人はそれらを求めます。イエス様は言われました。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」神様はあなたが何を必要とするかが分かります。ですから、主の祈りで「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈る時、感謝の祈りのようになります。「主よ、日々の糧を下さいますので、ありがとうございます」と。そして、そのように祈る事が出来ましたら、私達がもうこの地上の事を心配しません。その時、神の国とその義を求めています。「御国を来らせたまえ 。。。。国の力と栄。アーメン。」

これが信仰によって生きる事です。勿論、人生には問題が起こります。どのようにして神様が私達の問題を解決するでしょうかと不思議に思います。それで私達の人生の中で働く神様の奇跡を待ち望みます。

私達が信仰によって生きる事が出来るのは、神様に信頼する事が出来るからです。私たちが神様に忠実である事が出来るのは、神様が私たちに忠実であられるからです。神様は約束を建てて、今まさにそれを守ってきたので、これからもその約束を守られます。例えば、アブラハムに対する約束を守りました。ダビデ王に対する約束を守りました。イエス様は、御自分が私達の罪の為に死んで3日目に甦ると言う約束を守りました。約束された聖霊がペンテコステに来られました。ですから、イエス様が御自分の約束を守られることを信じます。再び来られて、私達を天国に連れて行きます。これは神様の約束です。

私達は神様に忠実であると約束しました。洗礼を受ける時にその約束をしました。堅信式を受ける時にその約束を再び結びました。又、聖餐式をいただく時、その約束を再び確認します。キリストの血による新しい契約です。そして、その聖礼典によって、キリストは御自分の約束を再び結びます。それは忠実であるという約束です。

これが信仰によって生きる事です。即ち、私たちに約束してくださった神様の忠実の中で生きる事です。ですから、アブラハムのように、私達も信仰の旅が出来ます。自分の信仰によって立つ事が出来ます。ダニエルと彼の友達のように、(ライオン)獅子の洞窟の中にあっても、燃え上がる炉の中にあっても、信仰によって立ちます。信仰にとって生きる事は、空の鳥のように自由です、野原の百合のように美しいです。

しかし、本当にそのように活きる事が出来るでしょうか。沖縄に住む私達の場合、そのような信仰深い人生は活きやすいと思います。私達には、家を初め、洋服があり、食卓の上に食べ物があり、良い仕事や良い年金があります。しかし、もし私達が貧困の生活の中でしたら、失業しお金がなかったらどうでしょうか。戦争があるガザや80年前の沖縄のような食料が少ないか、またほとんど無かったらどうでしょうか。突然に仕事を首になって失業したら、国の政府がめちゃめちゃになって、社会の秩序、治安がなくなったらどうでしょうか。健康が悪くならば、空の鳥のように自由で、野原の百合のように美しく活きれるでしょうか。信仰があなたの飢えている胃袋を満腹にしますか。詩篇23篇を歌ったり、信仰のヒーロー、ダビデのような信仰があるでしょうか。「主は私の羊飼い、私には何も欠けることがない。。。。 死の陰の谷を行くときも/私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。」

それこそは信仰によって歩む事、信仰によって生きる事です。旧約聖書の信仰の勇士・ヒーロー達にとっては、簡単ではありませんでしたし、私達の為にも簡単ではありません。しかし、人生のもっとも暗い時、信仰が光をあたえます。最も失望した時、希望を与えます。自分が神様に見捨てられたと感じる時にも、神様を信頼する勇気を与えます。それで、イエス様は私達にも昔の弟子達にも言われます、「12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

御国を来たらせてたまえ。アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト

Michael Nearhood, Pastor
Okinawa Lutheran Church


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