心の中の炎

聖霊降臨日、2013年5月19日

先週は主の昇天主日でした。復活して40日目に、イエス様は天に上げられました。説教の中で検討したのは、もしイエス様が昇天されなければ、物質的にこの地上から離れなければ、どうなるだろうかと言う事でした。結局、私達の救いの為に、私達のクリスチャン人生の為に、昇天されて良かったです。なぜならば、父なる神様の右に座して、天のすべての力と権威を持って、イエス様は私達のすべての祈りを聞いて、かなえる事が出来るからです。

ペンテコステの説教で、同じように、もし聖霊は強い風と炎の舌と外国語の舌を持って弟子達の上に下らなければ、どうなるでしょうか。すぐ分かってきたのは、ペンテコステに聖霊が降りて来なかったならば、先ず、私はここに立って説教していません。この教会はここにありません。キリスト教は世界的な宗教になりません。  最初の弟子達が死ぬ時点で、キリスト教も死ぬでしょう。 それが示すのは、聖霊の働きとは、神の御言葉と聖礼典によって、信仰を私たちの心に起こす事です。 もし弟子達に聖霊の力がなければ、全世界に出かけて行って福音を述べ伝えなかったでしょう。

例えば復活の後に、ペテロと弟子達は甦られたキリストを見まして、福音を述べ伝える権利を与えられました。しかし福音を告げるよりも、ペテロは「私はつりに行きます」と言いました。ほかの弟子達の数人も共に行きました。その時ペテロは、ただ聖霊の降臨を待っていたか、救いのミッションをあきらめたか、その事を議論する事が出来ます。しかし、福音を述べ伝える聖霊の力や伝道する気分がまだなかったのです。ペンテコステの後にのみ、ペテロとほかの弟子達は福音を述べ伝え始めました。聖霊の力が必要でした。

その事で私達はおどろかされていないでしょう。私達も何かをする為に動機が必要です。私達が動かないので、誰かが私達を押したり、けとばしたりする必要です。ロバのように、私達の目の前にニンジンがなければなりません。時々、おどしや警告が必要です。「ダイエットしなければ死ぬよ。」と。動く為に力が必要です。朝のコーヒーの一杯、美味しい朝ご飯、3時おやつのお菓子。車にはガソリンが必要です。又、行く場所とそこに行く道が分からなければいけません。

私達のクリスチャンの人生の為にも同じです。動機が必要です。力が必要です。時々、ペテロのように私達も釣りに行きたいと思います。クリスチャンの人生につかれるでしょうか:教会に行く、教会の活動、良い人いて、いつも十戒を守る、隣人を初め、敵も神様も愛する事、人を教会に誘う、自分の信仰を証しする事などに疲れているでしょうか。又、ペテロのように、イエス様を否定します。「あなたはイエス様の弟子ですか。」「いいえ、違います。」いじめられましたら、どう答えますか?「あなたは、いつも良い事ばかりをするクリスチャンですか?」「まーー。」又、私達はただ怠け者でしょうか。

クリスチャンの動機と力が、色々な言葉で呼ばれています:信仰、愛、希望、喜び、平和、ミッション、ヴィション、パッション、熱心など。今日はペンテコステです。それで、そのものすべての源とは聖霊であると分かります。

ペンテコステの日、聖霊の炎は、弟子達の頭の上にだけではなくて、彼等の心の中にもありました。私達の為に同じです。聖霊の風は、弟子達にすずしい風を  与える為にではなくて、その風は弟子達の声に息を与えました。神の御言葉を述べ伝える為でした。同じように聖霊は私達の声に息を与えます。ペンテコステの日の一番大きい奇跡とは、聖霊の力によって、弟子達は、勇気と知恵を持って、皆が理解するように神の御言葉を述べ伝える事が出来た事です。このメッセージは、全世界のすべての人種とすべての国の人々の為でした。ペテロが言う通りでした、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒2:21)。それから、ペテロはイエス様の死と復活について話しました。イエス様は約束されたメシアでした。そして、このように話しました、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:38-39)。その日、3000人が洗礼を受けました。

今日信仰のギフトをお祝いします。今日英語の礼拝で、堅信式がありました。聖霊は3人の若い人に信仰を与えたのでお祝いします。赤ちゃんの時に洗礼を受けましたが、今日、この青年は聖霊が彼らに、イエス・キリストを信じる信仰を下さった事を告白します。
堅信式の証しを読みましょうか。

ペンテコステをお祝いする為に、クリスマスのキャンドル・サービスに使った蝋燭を出せば良いでしょう。火をつけて頭の上に持ちます。そして、そのまま家に帰ります。人々は私達の「後光」を見て、「あの人はクリスチャンだ」と言うでしょう。しかし、聖霊の炎は私達の頭の上にある訳ではなくて、私達の心の中にあります。しかし、それで私達の信仰が隠れている訳ではありません。人が私達を見たら、「あの人はクリスチャンだ」と言えるはずです。山上の説教に、イエス様が言われたようです、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)。私達の振舞いによって、人々はイエス様の振舞いを見るべきです。私達の親切、私達の愛、私達が他の人を尊敬するのを見るからです。欲張りとずるい事を見ないで、かえって、私達の正直と忠実を見るからです。愛によって十戒を守る人生を見るからです。私達の人生の中に、主の祈りが絶えずかなえられた事を見るからです。それで、私達は自分が他の人より良い人としてではなく、又、私達はこの世から自分を離す訳でもありません。かえって聖霊があるので、愛と赦しによって、私達はこの世界のものを清い、聖なるものにします。それは、聖霊がキリストの福音を私達の心の中に下さったからです。私達が聖なる者になるのは、私達の行いによってではなくて、キリストが私達の罪を赦して、聖霊が私達に信仰を下さったからです。このようにして、私達は聖なる者になります。

私達の心の中の聖霊の炎によって生きるのです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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