“ペトロ、信仰を言い表す” マルコ 8:27〜38

September 15, 2024

マルコ8:27−38
  8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
  8:28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。  
 8:29 そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
  8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、8:32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
8:34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。8:36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。8:37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。8:38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。


私達皆は聖ペテロのようです。私達も、ある時、信仰を告白して、イエス様がキリストである、即ち、救い主のメシアであると告白しました。日曜学校の子供の時や大人になった時に、信仰に入りました。子供でしたら、祈ったり歌ったりします。初倍餐、堅信式、洗礼を受ける時、洗礼を受けさせるために自分の子供を連れて来る時、または礼拝の為に教会に来る時、わたしたちは聖ペテロと同じように告白します、「あなたこそキリストです」。あなたは私の救い主です。

私達皆は聖ペテロのようです。私達もイエス様の教えを聞きました。イエス様が多くの苦しみを受け、十字架上でころされて、3日目に復活する必要について聞きました。そして、聖ペテロのように、私たちにも十字架が必要であると聞いて、私達もショックを受けました。私達も救い主の死を恥ずかしいと思うのです。 2つの事で恥ずかしいです。 まず、自分の救い主が死ぬ事は、救い主の弱さを現すので、恥ずかしいと思います。 本当のヒーローでしたら、戦いに勝って、勝利のうちに生きるはずだと思うからです。ですから自分のヒーローが弱いと思いましたら、自分の信仰が弱くなると思うかもしれません。これは伝道をする時、一つのつまづきになります。 もしイエス様が全能の神様でしたら、どうして死ななければならないでしょうか。 イエス様は皆が赦されていると宣言して、罪や死なしに、私たちすべてを天国に連れて行く事が出来ないのでしょうか。

勿論、イエス様が苦しみを受けて死ぬことは、しばしば人々が恥ずかしいと思うことの一つです。人々は愛について恥ずかしいと思います。 何故ならば、愛は私達の心やハートを開くので、私達の弱点になります。愛はほかの人を助けたり、自分を犠牲にしたりして、自分のために利己的に生きるのではなく他の人がしてほしいとおもうことをします。愛の為に、イエス様は私達を助けて、私達の為に最高の犠牲をして、喜んで私達を救いました。イエス様の苦しみと死は、私達の弱さのしるしであるので、私達は恥じるのです。 私達は弱いです。自分で自分を支配する事、コントロールする事が難しい、いや不可能です。 ですから、私達は誘惑に陥(おちい)って罪を犯します。全世界にたいして私が罪人であると叫びます。それは恥ずかしいです。 これは真実ですが、しかし罪人であると知られている事を恥ずかしいと思います。

私達皆は聖ペテロのようです。ペテロはイエス様をいましめました。ペテロは、イエス様が御自分の計画を変えるようにしたいと思いました。イエス様が十字架上で死なないで私達を救う事を勧めました。しかし、それは罪の赦しがなくなることを意味しますので、ですからイエス様はペテロを悪魔であると言われました。 「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。この世に罪を持って来た悪魔は、この世をそのままの状態にしておきたいと思います。ですから、ペテロが悪魔の働きをして、イエス様が御自分のご計画を変えるように誘惑しました。自分のプランの方がイエス様の計画よりも良いと思うとき、私たちもペテロのようになります。

私達の為のイエス様のプランはこれです:「34だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」しかし、私達はイエス様の私達の為のプランを変えたいと思います。ペテロはイエス様が苦しんでほしくないし、ペテロ自身も苦しみたくありませんでした。同じように、私達も苦しみたくありません。イエス様に従う事は良いことだと思います。なぜなら永遠の命と幸せにまでイエス様に従いたいと思います。しかし、私達は苦しみたくない、自分の十字架を背負いたくない、自分の命を失いたくないのです。自分の十字架を背負って苦しむ事とは、毎日の人生の問題に苦しむことですが、 しかし、この聖書の箇所でイエス様が意味するのは、私達がイエス様に従う人であるので苦しむのだといいます。

私はクリスチャンであるので嬉しいです。キリストに従う人であることに誇りを持っています。しかし、自分の罪にきずく時、クリスチャンとして恥ずかしいと感じます。このときイエス様が私のことをほこりに思わない事をしてしまいます。そのような時、私に出来る事は一つしかありません。それは、自分の罪を告白して、赦しをイエス様にこいねがいます。ですから、教会での礼拝の罪の告白の時、私たちはひざまずき、頭をたれます、それは、けんそんや恥のしるしで、その姿勢は自分の心に語り、自分の罪を告白して、キリストご自身からの罪の赦しを受け入れるのです。私達の救い主であるイエス・キリストの愛を受け、その愛の内に喜びます。

私達皆は聖ペテロのようです。私達は主に従ってキリスト信者としての人生を神様の愛によって導かれています。 しかし、今日の福音書の中には、私達の心の中に「神様にたいする恐れ」を入れる言葉があります。 イエス様は言われました、「8:36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。8:37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。8:38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。世の終わりにイエス様が栄光の内に帰る時、イエス様はあなたに対して恥じるでしょうか。又、イエス様は、あなたの罪が赦されているのは、あなたがイエス様をあなたの主、救い主として信じているからだと、見ておられるでしょうか。 イエス様の愛と赦しは私達の罪よりも偉大です。 ですから私達は、世の終わりのキリストの再臨を待ち望みます。 なぜならそれが救いの日であると分かるからです。

  アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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Michael Nearhood, Pastor
Okinawa Lutheran Church


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