今日は、全生徒の主日です。1949年11月6日も全生徒の主日でした。その日に、僕の両親は洗礼を受ける為に3週間生まれたばかり僕を教会に連れて来ました。その洗礼式によって、僕は神様の家族のメンバーになりました。又、聖徒の交わりに登録されました。
今日は全聖徒の主日です。ある聖書に出てくる聖徒には、教会のカレンダーで、特別の日があります。例えば、聖ペテロ(6月29日)や聖ヨハネ(12月27日)です。教会の歴史の中には、多くの殉教者、伝道者、宣教師、教師などがいます、そして、その誕生日や殉教者として死んだ日が記念されています。有名な教会の聖徒の一人は聖パトリックです。彼はアイランドで福音を述べ伝えました(3月17日)。このような人々を覚えるのは、彼らは私達の信仰の生き方の模範になるからです。迫害があっても、福音を述べ伝える勇気を与えます。私達の毎日の生活に力を与えます。しかし、有名ではないし、又知られていないし、また 忘れられた多くの素晴らしいクリスチャンもいます。全聖徒の日にはその人の為に、神様に感謝する機会です。
又、今日、有名な聖徒を覚えながら、私達が個人的に大切にする聖徒をも覚えます。その人は私たちの両親、親戚、教師、友達、又自分のクリスチャンの人生に影響を与えた人です。ですから今日の礼拝には、特別昇天者のための記念の祈りがあります。
「聖徒」とは何でしょうか。「聖徒」と言う言葉の意味とは、「聖なる人」です。しかし、人を「聖」にするのは何でしょうか。「聖なる事」には、「清い」や「罪が無い」との意味もあります。その人々が完全に罪が無いのは、この罪深く、誘惑の多い世に住んでいたからです。しかし、聖徒達が聖になったのは、罪が無い人生を送ったからではなくて、十字架上のイエス様の犠牲によって赦されていた人達です。
又は、その人が聖なる人になったのは、彼らが今日の福音書、マタイ5章の人々だったからでしょうか。「幸いである者は、心の貧しい人、悲しむ人、柔和の人、義に飢え乾く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、迫害された人です。」ある時は聖徒たちはその通りです。そして、彼らは私達の為の模範で、私達が彼らと同じようになる事が出来ます、迫害があってもです。しかし、その人々がそのような人だったから聖なる者ではありません。彼らの性格によって聖なるものになった訳ではありません。彼らにそのような生き方があったのは、先ず、自分が聖にされたからです。
今日、「聖」と言う言葉をこのように定義しようと思います: 聖なる事とは、聖なる神様に属している事です。例えば、私には2冊の本があります。一冊は普通の小説です。もう一冊は聖書です。聖なる書物であるのは、神様の御言葉であるからです。神様の本であるので聖です。洗礼の水は聖です。普通の飲み水と違うのは、神様の御言葉と神様の約束に属しているからです。その約束とは、マルコ16:16 です。「信じて洗礼を受ける者は救われる」と。聖餐式が聖であるのは、キリストの体と血であるからです;ですから普通の食パンと違います。この物は聖なる神様と結ばれています。
人を聖にするのは、その人が神様とつながれているからです。そのつなぎとはイエス・キリストです。神様の恵みと愛によって、イエス様がこの地上に送られていました。キリストは人間になって、産まれて、苦しんで、死んで、葬られて、復活しました。キリストは御自分を私達とつなぎました。十字架の釘でつながれていました。それで、赦しと命と救いがあります。赦しとは、私達を神様から遠く離すものが無い事です。神様と結ばれている事があるので、私達は聖です。
聖なるバプテスマによって、私達は神様に属しているので、洗礼によって、私達を聖なる者になります。聖餐式の時、キリストは御自分の契約の約束を再び、思い起こしますので、私達は彼の聖なる体と血によって聖になります。私達は聖です。私達は聖徒です。
私達が神様の聖徒ですが、正式に言うと、今日の全聖徒の主日のお祝いは、まだ生きている私達の為ではありません。しかし、私達はどこでも、いつでも、すべての教会とすべてのキリスト信者たち、地上にいる者も天国にいる者もと共に神様を誉めたたえます。神様の誉れは限りなく永遠です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会