イエス様が来られた理由

2020年12月20日(クリスマス礼拝)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネの福音書 3章16~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は、失って初めて恵まれていた、とわかることがあります。それは健康であったり、家族や友人であったり。

今日は、イエス様がこの地に来られなかったら、私達はどうなっていたのか、ということについて見ていきたいと思います。

 まず一つ目に、私達は滅びるものでした。そして永遠の命もありませんでした。

闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。

マタイの福音書 4章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 もしイエス様がこの地に来られなかったら、私達は神様のもとに行けず、断絶がある状態のままでした。そして、神様との親しい交わりも持てませんでした。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

ヨハネの福音書 14章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 二つ目に、イエス様が来られなければ、私達の罪の赦しはありませんでした。

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。
キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。
もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

ヘブル人への手紙 9章22~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 まず、前提としてあるのは、神様の前に出る者は、清い者でなければならないということです。しかし私達は、何度も何度も、罪を犯してしまう存在です。聖書には、血を流すことがなければ、罪の赦しはないと書かれています。イエス様がこの地に来られ、十字架の上で血を注ぎ流して下さることがなければ、私達の罪は赦されることがありませんでした。これが二つ目の点です。

また、三つ目に、イエス様がこの地に来て下さらなければ、私達の罪のとりなしはありませんでした。イエス様は、イエス様のことを三度も否定したペテロをとりなしして祈っておられたように、私達の過去も、今も、将来のためにも、とりなしして下さっています。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ヘブル人への手紙 4章14~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、生まれた時から苦しみの人でした。イエス様がお生まれになった家畜小屋という場所は当時、動物の糞にまみれた、汚い場所でした。また、イエス様が家畜小屋でお生まれになったのは、他にどこも受け入れてくれなかったからです。そういう意味でも、イエス様はお生まれになる前から拒絶を経験されました。また、聖書には書かれていないですが、イエス様は早くから父(ヨセフ)を亡くされたと言われています。そして、イエス様は公生涯に入られた後、人々の妬みを買い、罵られ、嘲られ、十字架の死を遂げられます。

 このように、私達が地上で経験するありとあらゆる苦しみを経験されたイエス様がとりなしして下さるおかげで、私達の信仰は保たれています。

イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。
したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

ヘブル人への手紙 7章24~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして四つ目に、イエス様が来られなければ、聖霊様は私達に降られませんでした。

私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

マタイの福音書 3章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

使徒の働き 2章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。

ローマ人への手紙 8章3~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 常に自分のことばかり考えるのが本来の私達です。そして聖書はそれを肉の人、と呼び、肉にある人は神様を喜ばせることができない、と言っています。しかし、私達には神様の喜ばれることを自分の力(肉)で行うことは決してできません。神様の御心を行うのは、聖霊様によってのみ可能だからです。そしてその聖霊様は、イエス様が与えて下さったのです。

肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

ローマ人への手紙 8章8~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は、自分は正しい、といつも思っています。しかしそれはその人だけの誇りであって、何も誇れるものではありません。また、人は何か自分にメリットがあるから他人を愛するものです。しかし神様は、愛される価値のない、何も良いものがない私達を愛して下さっているのです。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

ヨハネの手紙 第一 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様がこの地に来られなければ、本当の愛はこの地にありませんでした。何の見返りもない愛が、イエス様の十字架によって明らかにされたのです。

 だから、私達は、この時代に何が起ころうとも、心配する必要はありません。神様は私達の必要を全て満たしてくださり、必要なら奇跡も起こしてくださるお方だからです。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

マタイの福音書 6章31~34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神の国と神の義を求める、とは、神様の御言葉に忠実に歩む、ということです。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

ローマ人への手紙 8章32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は、時に、自分の罪や弱さ、人々の罠や策略によって不都合なことを経験します。しかし、聖書にはこう書かれています。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙 8章28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達には、確かに希望があります。

ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

コリント人への手紙 第一 15章58節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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