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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである

ヨハネの福音書3章16節

 これは聖書のことばで、聖書全体を要約するものと言われています。聖書は永遠のベストセラーと呼ばれるように、時代・言語・文化を超えて愛され、読まれてきました。なぜ聖書がこのように、すたれずにあらゆる人々に読まれてきたのかと言えば、聖書は天地を創造し、今も支配されている真の神のことばだからです。

 聖書に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と記されています。聖書がいう罪は、犯罪ではなく、人間の本来生きるべき生き方に反することを指します。神によって創られた私達が、神を無視して生き、自分の思いのまま偶像の神々を造り拝むことは罪です。また、人に対して、嘘をついたり、悪口を言ったりとか、人を大切にしないことも罪です。

 私達は自分の犯した罪ゆえに滅びる者です。聖書で言うところの滅びは、神との交わりが断たれることを意味します。その結果、不安、怒り、苦々しさ、空虚感等に悩まされます。また死をもって私達は消滅し、すべての苦しみから解放されるわけではありません。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)のです。死後、私達はよみがえり、各自その肉体にあってした行為について、神の御前に立ち、さばきを受けます。私達は、自分の罪ゆえ、火と硫黄との燃える池に投げ込まれ、永遠に昼も夜も苦しみを受けるのです。これが聖書の語る滅びです。

 しかし、神は私達を愛してくださり、ひとり子、イエス・キリストをこの世に送られました。イエス・キリストが十字架にかかり死なれたのは、私達の罪の刑罰を身代わりに受けるためでした。本来、罪を犯した私達が、神の怒りを見に受け十字架にかけられるべきでしたが、イエス・キリストが私達の身代わりに十字架にかかり、神の怒りを受け、血を注ぎ流し死んでくださいました。血を注ぎ流すことなしには、罪の赦しはないからです。イエス・キリストは十字架にかかり死に、墓に葬られましたが、3日目に復活され今も生きておられます。「罪から来る報酬である死」(ローマ6:23)に打ち勝たれ、よみがえられたということは、イエス・キリストは罪に完全に勝利されたことを意味しています。

 だれでも、自分が罪人であることを認め、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、自分の主として信じ受け入れるなら、神は罪を赦し、永遠のいのちを与えられます。永遠のいのちとは、神と親しい交わりを持つこと、神の子とされることです。神と交わりを持つと、平安と喜びが与えられます。そして死後は、永遠の喜びがある天国へ迎え入れられます。

 今はめぐみの時です。めぐみの時が過ぎ去る前に、自分の罪を悔い改め、神が送られた御子イエス・キリストを信じ受け入れ、永遠のいのちを受けられるよう祈ってやみません。聖書を詳しく学ばれたい方、永遠の命を持ちたいと願われる方は是非、教会へおいでください。

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