ヤロブアム王への宣告

2021年6月13日

このころ、ヤロブアムの子アビヤが病気になったので、
ヤロブアムは妻に言った。「さあ、変装し、ヤロブアムの妻だと分からないようにしてシロへ行ってくれ。そこには、私がこの民の王となることを私に告げた預言者アヒヤがいる。
パン十個と菓子数個、それに蜜の瓶を持って彼のところへ行ってくれ。彼は子どもがどうなるか教えてくれるだろう。」
ヤロブアムの妻は言われたとおりにして、シロへ出かけ、アヒヤの家に行ったが、アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができなかった。
しかし、主はアヒヤに言われた。「今、ヤロブアムの妻が来て、子どものことをあなたに尋ねようとしている。その子が病気だからだ。あなたは、これこれのことを彼女に告げなければならない。入って来るときには、彼女はほかの女のようなふりをしている。」
アヒヤは、戸口に入って来る彼女の足音を聞いて言った。「入りなさい、ヤロブアムの妻よ。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたに厳しいことを伝えなければなりません。
行って、ヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしは民の中からあなたを高く上げ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、
ダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。しかしあなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。
ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。行って自分のためにほかの神々や鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。
だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。イスラエルの中の、ヤロブアムに属する小童から奴隷や自由な者に至るまで絶ち滅ぼし、人が糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家の跡を除き去る。
ヤロブアムに属する者は、町で死ぬなら犬がこれを食らい、野で死ぬなら空の鳥がこれを食らう。』主が、こう言われたのです。
さあ、家に帰りなさい。あなたの足が町に入るとき、その子は死にます。
全イスラエルがその子のために悼み悲しんで葬るでしょう。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、彼だけです。ヤロブアムの家の中で、彼だけに、イスラエルの神、主のみこころにかなうことがあったからです。
主はご自分のためにイスラエルの上に一人の王を起こされます。彼はその日、いや、今にもヤロブアムの家を絶ち滅ぼします。
主はイスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖に与えられたこの良い地の面からイスラエルを引き抜き、あの大河の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシェラ像を造って主の怒りを引き起こしたからです。
ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪のゆえに、主はイスラエルを捨てられるのです。」
ヤロブアムの妻は立ち去って、ティルツァに着いた。彼女が家の敷居をまたいだとき、その子は死んだ。
人々はその子を葬り、全イスラエルは彼のために悼み悲しんだ。主がそのしもべ、預言者アヒヤによって語られたことばのとおりであった。

列王記 第一 14章1~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日は少し長い箇所をお読みしましたが、預言者アヒヤが、北イスラエル王国の王様だったヤロブアムに語った預言から、学ぶことのできる三つの点を見ていきたいと思います。

 最初に時代背景をおさらいします。イスラエルが南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂したあと、南ユダ王国を統治したのがレハブアム、北イスラエル王国を統治したのが、今回登場するヤロブアムでした。イスラエルがなぜ二つに分裂したかと言うと、それは異国の妻たちをめとり、その妻たちに惑わされて偶像崇拝の罪を犯したソロモン王の罪ゆえでした。実際に、ソロモン王のあとに国が分裂し、ヤロブアムが王様になることは、神様によって、預言者アヒヤをとおして預言されていたことでした。

ツェレダ出身のエフライム人、ネバテの子ヤロブアムはソロモンの家来であった。彼の母の名はツェルアといい、やもめであった。ところが彼も王に反逆した。
彼が王に反逆するようになった事情はこうである。ソロモンはミロを建て、彼の父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。
ヤロブアムは手腕家であった。ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフの家のすべての役務を管理させた。
そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者であるアヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい外套を着ていた。彼ら二人だけが野にいた。
アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、
ヤロブアムに言った。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。
ただし、ソロモンには一つの部族だけ残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ都、エルサレムに免じてのことである。
というのは、人々がわたしを捨て、シドン人の女神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アンモン人の神ミルコムを拝み、父ダビデのようには、わたしの目にかなうことを行わず、わたしの掟と定めを守らず、わたしの道に歩まなかったからである。
しかし、わたしはソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。わたしが選び、わたしの命令と掟を守った、わたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておく。
わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。
彼の子には一つの部族を与える。それは、わたしの名を置くために選んだ都エルサレムで、わたしのしもべダビデが、わたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。
わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。
もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。

列王記 第一 11章36~38節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 こうしてアヒヤが神様から取り次いだとおり、ヤロブアムは王様になります。

このようにして、イスラエルはダビデの家に背いた。今日もそうである。
全イスラエルは、ヤロブアムが戻って来たことを聞いたので、人を遣わして彼を会衆のところに招き、彼を全イスラエルの王とした。ユダの部族以外には、ダビデの家に従う者はいなかった。

列王記 第一 12章19~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 しかしながら、ヤロブアムは神様に罪を犯します。そして、アヒヤをとおして、神様から、ヤロブアムへの宣告がなされます。最初にお読みした箇所ですが、再度お読みします。

ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。行って自分のためにほかの神々や鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。
だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。イスラエルの中の、ヤロブアムに属する小童から奴隷や自由な者に至るまで絶ち滅ぼし、人が糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家の跡を除き去る。
ヤロブアムに属する者は、町で死ぬなら犬がこれを食らい、野で死ぬなら空の鳥がこれを食らう。

列王記 第一 14章6~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この預言は、のちに成就します。

ユダの王アサの第二年に、ヤロブアムの子ナダブがイスラエルの王となり、二年間イスラエルの王であった。
彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪の道を歩んだ。
イッサカルの家のアヒヤの子バアシャは、彼に謀反を企てた。バアシャはペリシテ人のギベトンで彼を討った。ナダブとイスラエル全軍はギベトンを攻め囲んでいたのである。
こうして、バアシャはユダの王アサの第三年にナダブを殺し、彼に代わって王となった。
彼は王となったとき、ヤロブアムの全家を討ち、ヤロブアムに属する息ある者を一人も残さず、根絶やしにした。主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われたことばのとおりであった。
これはヤロブアムが犯した罪のゆえ、またイスラエルに犯させた罪のゆえであり、彼が引き起こしたイスラエルの神、主の怒りによるものであった。

列王記 第一 15章25~30節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、ヤロブアムの子どもに関しても、その前に預言が成就していたことがわかります。

さあ、家に帰りなさい。あなたの足が町に入るとき、その子は死にます。

列王記 第一 14章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ヤロブアムの妻は立ち去って、ティルツァに着いた。彼女が家の敷居をまたいだとき、その子は死んだ。

列王記 第一 14章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 以上のことからわかるとおり、アヒヤをとおして語られたとおりに、すべてのことはなったのです。まず、一つ目にここで覚えておきたいことは、神様の御言葉、すなわち、神様が語られたことは、時がくれば必ず成就する、ということです。

 新約聖書にも、その例があります。バプテスマのヨハネの誕生が預言された箇所を見ていきましょう。

ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」

ルカの福音書 1章18~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで御使いガブリエルが語った「その時が来れば実現する私のことば」とは、神様の言葉のことです。この神様の言葉、すなわち御言葉は、時がくれば必ず実現します。それがたとえ、私たちにとって遅いように見えたとしても、です。

 イエス様の誕生について、預言を受けたマリアも、次のように語っています。これは、マリアだけではなく、主を信じる私たちにとっても同じです。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

ルカの福音書 1章45節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 中には、何百年も経ってから、実現する言葉もありますが、すべての御言葉は実現することが、次の箇所からもわかります。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

マタイの福音書 24章35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、すべての御言葉は実現することを信じて心に留め、守り行い、聞き従っていくことが大切です。

 二番目に、ヤロブアムの問題について見ていきたいと思います。

 実はヤロブアムは、王様になるという預言を受けたとき、次のような素晴らしい約束も神様から受けていました。

もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。

列王記 第一 11章38節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 確かに、アヒヤが語ったとおり、ヤロブアムは王様になりました。しかし、その後どうなったかが、次の箇所に書かれています。

ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。
ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。
この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」
それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。
このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。
それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。
そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。
彼は、自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを献げた。このように、彼はイスラエルの人々のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえを献げ、香をたいた。

列王記 第一 12章25~33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「ヤロブアムは心に思った」と書かれているとおり、自分で考え思い、心配しました。そして神様に聞くのではなく、「相談して金の子牛を二つ造り」、「レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命」し、「自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日」に祭壇でいけにえを献げた、とあります。

 ヤロブアムは、まったく神様を除外して、勝手にこのことを行ったのです。

 また、ヤロブアムは、子どものことをとても心配して、自分の妻を預言者であるアヒヤのもとに遣わしました。しかし、彼がアヒヤのもとに遣わしたのは、神様を求めていたからではなく、人を求めていたからでした。

ヤロブアムは妻に言った。「さあ、変装し、ヤロブアムの妻だと分からないようにしてシロへ行ってくれ。そこには、私がこの民の王となることを私に告げた預言者アヒヤがいる。

列王記 第一 14章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このとき、ヤロブアムが妻を変装させたのは、自分がアヒヤの言葉を守らなかったので、自分だとわかったときに責められたら困る、と考えたからでした。また、このとき、アヒヤのことを「私がこの民の王となることを私に告げた」と説明しています。それはヤロブアムが「彼の言うことは当たる」と、まるで占い師であるかのように思っていたからでした。「その人」に力がある、と考えていたのです。ヤロブアムが、妻をアヒヤのもとに遣わしたのは、「的確なことを言ってくれたからあの人に聞きに行こう」と思ってのことでした。

 彼の視点は、自分も含め、人、人、人・・・ただこれだけでした。そしてまったく神様をその視点から除外していたのです。

 これは、私たちも陥りやすい間違えです。私たちは、素晴らしいクリスチャンたちを崇めたり、その言うことに聞き従ったりします。その人びとが、明らかに御心に反することを言ったり、行ったりしていたとしても、です。その人が、カリスマ的であったり、的確な預言をしていたりすると、私たちは神様ではなく、その人に聞かなければと思い、人を偶像化してしまいます。

 たとえば、癒しの賜物を持っている人がいたとします。私たちは、癒しが必要な時には、神様に聞く前に、その人のところに行ってしまうこともあります。その人は、ただ、神様から油注がれて用いられている器であって、土くれであり、鼻で息をしている人間に過ぎません。

 人は成功、名誉、栄誉を得ると、すぐに高ぶってしまう存在です。そしてこれまでと同じ心で神様に仕えていくことができなくなることが多いのです。そして、私たちがそのようなクリスチャンたちを慕っていると、彼らと同じ方向に行ってしまう危険性があります。

 私たちは、人を求めるのではなく、神様を求めなければいけません。

主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。

エレミヤ書 17章5~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「人間に信頼する者はのろわれよ」とあるとおり、いくらその人が素晴らしいクリスチャンであったとしても、いくら油注がれていたとしても、その人を求めて神様から心が離れてしまうなら、祝福はなく、のろわれた者となってしまいます。このことは大きな落とし穴となるので気をつけなければなりません。ただ、「主に信頼する者に祝福が」あります。

ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

コリント人への手紙 第一 3章4~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。」パウロはこのように語り、この人びとはただの人だ、と言っています。そして大切なのは、成長させてくださる神様だ、と。

 困ったときに、的確な預言や励まし、慰めを与えてくれる人がいたとしても、その人が素晴らしいから慕い求めるのではなく、あくまでも神様が大切です。なぜなら、その人の背後で働いておられるのは、神様だからです。このため、私たちは人に全幅の信頼を置くべきではありません。あくまで神様だけを求めることが大切です。

 三番目に、ヤロブアムへの、その子どもに関する宣告から、見ていきたいと思います。ヤロブアムは、子どもが重い病気になってどうなるのだろう、と心配になったので、妻をアヒヤに遣わしました。そしてアヒヤの預言のとおり、妻がその家の敷居をまたいだとき、その子は死にました。

 覚えておきたいのは、その人が若死したからと言って、神様が喜ばれていないとか、罪を犯したからではないということです。むしろその反対のこともあるのです。ヤロブアムの子どもは、神様に喜ばれていたがゆえに若死したことが、次の箇所からわかります。

全イスラエルがその子のために悼み悲しんで葬るでしょう。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、彼だけです。ヤロブアムの家の中で、彼だけに、イスラエルの神、主のみこころにかなうことがあったからです。

列王記 第一 14章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 クリスチャンの中でも、あの人は罪を犯したから若死した、などと思うときがあります。しかし、自分の目で見たとおりに、自分のフィルターをとおして、そのように思うべきではありません。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

イザヤ書 55章8~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、ちっぽけな自分の思いや考えで神様のことを見極めることはできません。その人が地上で苦しみに合わないために、神様があえてその人を早く取った、と言うこともありうるのです。

 私たちは、自分のちっぽけな判断で人を裁くような勇み足でいてはなりません。このことにより、神様に敵対することになるからです。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

ローマ人への手紙 11章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 たとえ、私たちの思いと反することが起こったとしても、自分のものさし、フィルターでそのことを見てはいけません。早急に人のことを判断したり、勝手にああだこうだ決めつけて裁くことなく、神様の御思いは知り尽くすことができないというところに立っていきたいと思います。

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