2020年11月22日
日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」
ルカの福音書 9章12~17節
すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」
というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」
弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。
そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。
人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
クリスチャンとは、何でしょうか。それはイエス様のしもべです。しもべとは、ギリシャ語で「奴隷」という意味です。イエス様は、ご自身の死をもって私達を買い取って下さいました。それで私達は、イエス様に仕える者となったのです。もはや私達が生きているのではなく、イエス様が私達のうちに生きておられるのです。イエス様は、以下のように、私達に語られています。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。
ヨハネの福音書 12章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様が私達に語られた「わたしについて来なさい」という言葉は、「わたしに仕えなさい」という意味です。私達クリスチャンはまず、神様に仕えるように召されています。
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
ローマ人への手紙 12章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
まず神様に仕えていくことの他に、もう一つイエス様が私達を召して下さっていることがあります。それは、自分ではなく、人々に仕えていくということです。イエス様が、「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」と言われたのは、「あなたがた」が群衆に仕えるように、と言われたのです。この言葉は私達にも、当てはまります。つまり私たも人々に仕えるように、イエス様は命じられているのです。イエス様は、私達が人々に仕えるように、ご自身の身を持って模範を示された方でした。
あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
ヨハネの福音書 13章13~15節
主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
マルコの福音書 10章42~45節
しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
神様は、私達が人々に仕えていくために、必要なものを全て与えて下さるお方です。私達は、自分の力で何とか人々に仕えようとしてもできず、場合によっては燃え尽きてしまうからです。私達に人々を助ける力はありませんが、主にはできます。私達には無理でも、主に不可能なことはありません。私達は、主の力を制限してはいけないのです。
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
ピリピ人への手紙 4章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達一人一人には、神様から与えられた賜物があります。才能や能力だけでなく、健康や経済、時間等も神様から私達に与えられている賜物です。また、神様は私達一人ひとりに、異なる御霊の賜物も与えられます。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
コリント人への手紙第一 12章7〜11節
ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。
ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、
ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
こうした全ての賜物は、人によって異なり、ある人には一タラント、ある人には五タラント、といった様に、与えられた賜物の量も違います。しかしある一タラント与えられた人が、他の人が五タラントも与えられているからと言って、その人と自分を比べたり、自分を卑下したりする必要もありません。また逆に、ある五タラント与えられた人が、一タラント与えられた人と自分を比較して、優越感に浸ってもいけないのです。なぜなら、神様が評価されるのは、その人が自分に与えられたタラントを神様のためにいかに用いたかであって、神様は他の人とその人を比べて相対的に評価する、といったことは決してされないからです。
そして、私達一人一人に与えられた異なる賜物は、自分を喜ばせるためではなく、互いに仕えあうために用いていくものです。
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに支え合いなさい。
ペテロの手紙第一 4章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。
ガラテヤ人への手紙 5章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達が人々に仕えていくのにあたって、覚えておくべき大切な原則があります。それは、自分の持っているものを喜んで主に捧げることから始めれば、主はそれを増し加えてくださる、ということです。
神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
コリント人への手紙 第二 9章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達の持っているものがたとえ、ほんの小さなものであったとしても、私達が心で決めた通りにし、それを喜んで捧げていくならば、神様は私達を愛し、喜んでそれを増し加えて下さいます。
私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
コリント人への手紙 第二 9章6~7節
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
また、主は、次の御言葉を通しても、私達の持っているものがわずかだとしても、それを増やしてくださると約束して下さっています。
「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。
コリント人への手紙 第二 9章9~10節
種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
19世紀にイギリスで孤児院を経営したジョージ・ミュラーは、1万人ほどの孤児達を祈りだけで養いました。私達が主に目を留めていくならば、主は私達にとっての不可能を可能にしてくださるお方です。私達が、「主よ、増し加えて下さい」と祈るなら、主は喜んで、それを何十倍、何百倍にもして、人々に仕えるための必要を増し加えてくださるのです。
また、人々に仕えるために必要なことは、まず、主の指示を受けることです。これはつまり、主の御言葉に従うということです。私達はともすれば、「私は主のためにこうするので、祝福して下さい」と祈りがちです。しかしそうではなく、まず主に聞くことが大切です。主の指示に聞かなければ、主は祝福されません。このことを、ツァラアトに冒されたナアマンの例を通して見ていきたいと思います。
こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。
列王記 第二 5章9~14節
エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」
しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。
そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達も、ナアマンのように、自分の思い通りにならないと激怒する者です。しかし自分の考えだけで行動するのでは、決して上手く行かないどころか、神様の祝福を逃してしまいます。ナアマンは、そのしもべ達の進言によって最終的に神様に聞き従ったので、そのツァラアトが癒されました。私達も同じように、主の御言葉通りに行うことが必要です。次の御言葉からもわかる通り、私達が御言葉の通りに行うことによって、主はそれを大いに祝福し、必要を満たして下さいます。
シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
ヨハネの福音書 21章3~6節
夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
主の働きのために仕えていた牧師や伝道者が、最終的に道を踏み外してその働きがストップしてしまう、ということが実際に起こっています。このことは私達への、神様からの警告であると受け止めたいと思います。私達が、自分の力だけで何とかしようとするところから、物事がおかしな方向へと進んで行ってしまいます。私達がイエス様から離れてしまうと、このようなことが起こるのです。
それでは、これらの道を踏み外した牧師や伝道師と、先の例であげたジョージ・ミュラーとの違いは何でしょうか。それは、ジョージ・ミュラーはまず神様に祈ってから働きをした、ということです。私達が、自分で先走って祈ることなく働きをしても害になるだけです。イエス様にまず私達が繋がった上でなければ、働きは実を結びません。
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
ヨハネの福音書 15章4~8節
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
たとえ最初は良い動機でその働きを始めようとして、祈りなしに邁進してしまうのであれば、たとえ良い動機でイエス様に仕えようとしていたとしても、最終的にはイエス様から離れて、滅ぼされてしまいます。もし、私達のうちに主に仕えていきたい、という思いがあるのなら、まず何事も祈りから始める者でありたいと思います。