2021年7月25日
しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
コリント人への手紙 第一 2章6~16節
私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。
それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。
人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。
しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。
御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。
「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
先日の礼拝でも見た、人のなすべき課題について、今週は第三回目となります。第二週では、人のなすべき課題の解決は、人の側からはできないこと、また、修復できないことについて見ました。そして、それらの解決は、ただ恵みによって私たちに与えられたものであることも見ました。確かに、このように神様は、私たちのために道を開いてくださいました。しかし、それで十分ではないことが、今日の御言葉からわかります。
それではまず、今日の御言葉から、一つ一つ見ていきたいと思います。「しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります」とあります。「成熟した人たち」とは、イエス様にあって成熟した人たちのことを指します。この人たちの間で語る知恵とは、「この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません」。つまり、この知恵は、この世で見出せる知恵とは異なることがわかります。そして、この知恵は、「神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられた」とあるように、神様が人のために定められた救いの全体の計画です。また、「奥義のうちにある、隠された神の知恵を語る」とあるように、この知恵は神様によって秘められたものです。そして、この手紙を記したパウロが、「神の知恵」、すなわち、救いに必要なことを語る、と記しています。
この知恵を「この世の支配者たち」、つまりイエス様を十字架につけた律法学者、パリサイ人、ポンテオピラトなどローマ人の指導者たちは「だれ一人知りませんでした」。もし知っていたのなら、「栄光の主」すなわちイエス様を「十字架につけはしなかったでしょう」、とあります。「しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」とあります。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」とは、前述した神様の知恵であって、神様の救いのことです。そしてそれを、神様は、人の哲学や思想、宗教ではなく、御霊、すなわち聖霊によって私たちに啓示してくださった、とあります。聖霊は、神様からの清い霊であり、聖霊なる神様のことです。この聖霊なる神様が、私たちに啓示されたのです。
「人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません」とあります。私たちは、その人について上辺はある程度理解できますが、その人のすべては完全に理解できません。それと同じように、「神の霊」、すなわち聖霊様の他に、神様のことを理解できるお方はいません。「それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知る」とあるように、聖霊様により初めて、私たちは神様が与えてくださった恵みを理解できるのです。ここで注意しなければならないことは、神の霊の他にも、霊はたくさんいるので、すべてを信頼してはいけません。
「それについて語るのに、(・・・)御霊に教えられたことばを用います。」とあります。そしてこのことばとは、「人間の知恵によって教えられたことば」ではない、とあります。これはつまり、私たち人間が心に浮かんだこともない、人間の知恵によっては理解できないことばのことです。そしてその(御霊に教えられた)ことばによって、「御霊のことを説明する」とあります。御霊なる神様のことも、その神様の言葉も、御霊様によってしか理解できません。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」とあるように、聖霊を受けていない人は、「神の御霊に属すること」、すなわち、人の課題とその神様による解決を受け入れることができません。それらは、その人にとって「愚かなことであり、理解することができない」のです。「御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません」とあるように、御霊を受けている人は、御霊を受けていない人からは理解されず、受け入れられません。
主の心は、聖霊によってしか知ることはできません。「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」と書いてあるとおりです。しかし、「私たち」すなわち、聖霊を受けている人は「キリストの心」を持っている、とあります。
以上、御言葉から見てきたように、神様の裁き、人の救い、イエス様による罪の贖い、これまでに述べてきた人の課題など、こういったことすべては、人の生まれ持っている力や知恵によっては理解でません。これらはすべて、聖霊による知恵だからです。聖霊を受けることによってのみ、神様が私たちに与えてくださる宝がいかに素晴らしいかがわかります。そして、聖書に書かれているたとえで、商人が持っているものすべてを売り払ってでも、一つの高価な真珠を買うように、それが私たちがすべてをかけて求めていくべきものであることがわかるのです。
主が与えてくださる宝に比べたら、私たちが今持っているものはすべてガラクタのようなものに過ぎません。パウロも、この世で得と思えるものすべてを得ていましたが、イエス様を知ってからは、自分の持っているものはすべて塵に等しいと思うようになりました。その彼は、イエス様を迫害していたひとりでした。しかし御霊を受けることにより全く変えられていきました。逆にイエス様を宣教する人へと変えられていったのです。それはすべて御霊を受けたことによるものです。
言葉は、ギリシャ語ではロゴスですが、聖霊によって働きかけてくる言葉は、生ける神の言葉となり、レーマとなります。聖霊によってしか、神様の言葉、つまり神様のことは理解することはできません。
イエス様は、神様の救いの計画を実行されたお方です。私たちのために、救いの道を完成されたお方です。そしてそのイエス様が、天に帰られたあと、もう一人の助け主を送る、と約束されました。
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
ヨハネの福音書 14章16~17節
この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「もう一人の助け主」とは、聖霊様のことです。聖霊様は、三位一体なる神様のうちの、内なる聖霊様です。このように聖霊様は、私たちの内におられるお方です。生まれながらの人間はイエス様を受け入れることはできませんが、聖霊様を受けることによって、受け入れることができるようになります。
また、イエス様は、イエス様ご自身が目の前におられることよりも、聖霊様が一人ひとりのうちに住んでおられる方が益になる、と弟子たちに言われました。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
ヨハネの福音書 16章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
先ほども述べたように、イエス様が、救いの道を開いてくださいました。そういう面で、イエス様は私たちを助けてくださいました。聖霊様は、私たちのうちにおられることによって、神様が計画された救い、すなわち、イエス様が開いてくださった救いの道を完成させてくださるお方です。聖霊様が、私たちと神様との関係を回復させてくださるお方なのです。
イエス様は、金曜日に十字架に書かられ、三日後の日曜日に復活されました。その後40日にわたって、500人以上もの人びとに現れました。そしてその時、弟子たちには、聖霊様があなたがたのうちに入られるまで、エルサレムを出ずに待ちなさい、と命じられました。
イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
使徒の働き 1章8~11節
使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様が弟子たちの前で天に登られたあと、白い衣を着た二人の人、すなわち天使が弟子たちに現れて、イエス様の再臨について告げます。しかしこの再臨についての預言も、聖霊様を受けていなければその人にとってはナンセンスな話になってしまいます。
聖霊様によって、私たちはこのような愚かな話も理解できるようになります。しかし、私たちは気をつけなければなりません。聖霊様は人格を持っておられるので、悲しまれると私たちから去っていかれます。私たちがせっかく、親しい交わりを持っていて、私たちが与えられたものがどんなに素晴らしいものかがわかっても、聖霊様を悲しませて去らせてしまうなら、これらのことが理解できなくなってしまいます。信じて、百パーセント確信を持っているものであっても、聖霊様を悲しませると本当に再臨はあるのか、と疑う者になります。その時は、もう一度、聖霊様を受けていかなければなりません。
イエス様がよみがえられてから50日たち、イエス様の約束のとおり、弟子たちは聖霊様を受けました。そのことが次の御言葉に書かれています。
五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
使徒の働き 2章1~4節
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
聖霊様を受けたとき、皆が「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」とあります。聖霊様を受けたときには、はっきりとした形で聖霊様を受けたことがわかります。その反対に、聖霊様が去られたときも、そのことははっきりとわかります。
あの天才と呼ばれたパスカルも、聖霊を受けたひとりです。彼は数学者、物理学者、哲学者であり、神様と出会いました。彼は、フランスのありとあらゆる貴族の名誉や豊かさを享受した人でした。しかし、存在する神様とイエス様にある素晴らしいもの、すなわち死後に受けるものと比べたら、この世のものは糞のようなもの、ということに気がつきました。彼は、ある日、馬車に乗っていて命を落としそうになりました。また、姪の目が見えなかったのに、祈ってもらったら癒されたことを見ました。こうして彼は、神様を求めるようになりました。そしてその夜、聖霊を受けてこのことが分かったのです。○年○月○日に、そのことがわかった、とはっきりと書かれている彼の日誌があります。そして、そのことに気づいた彼は、貧しい人々に食事や毛布を配るようになりました。
パスカルのように、神様が与えられているものがいかに素晴らしいものかを理解するためには、聖霊様受けることが必要です。そして受けたあとも、悲しませて去らせてしまうなら、理解できなくなってしまいます。助けてくださる方がおられなければ、理解できないだけでなく、私たちは天国に行くこともできません。
ある人は、聖霊様を受けてからは、これまで頭の中の理解だけだったが、「イエス様は救い主」ということが本当に、分かったと言っていました。
天国に行く保証は、聖霊様がうちにおられることです。聖霊様がうちにおられなければ、神の子ではないのです。私たちのうちにいつも、ずっと、聖霊様がおられるように、求めていきたいと思います。