取税人マタイから学ぶこと

2020年10月18日

その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。
するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。
それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。
すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」
そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

ルカの福音書 5章27~32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日、注目したいのは、新約聖書の最初の書である、あの有名なマタイの福音書を記した、マタイです。このマタイから、私たちが学ぶべき3つのことについて、お話ししていきます。

 今日、お読みした箇所に登場する「レビという取税人」は、マタイのことです。マタイの福音書10章2節に書かれているとおり、シモンとペテロは一緒ですが、それと同じように、レビとマタイも同一人物です。彼は、マタイ書ではマタイと呼ばれています。今日これからお読みする箇所でも、レビが主に出てきますが、簡単にするために、説明文では統一して、マタイを使用します。

 今日の箇所に書かれているとおり、マタイは取税人でした。そして取税人は、当時、人びとから大変忌み嫌われていました。彼らは、自分の私腹を肥やすために、ローマに納める税金の上からさらに上乗せして、民から税を取り立てていたからです。しかし、マタイは、自分は罪人だと自覚していました。

 その対照にあるのが、パリサイ人です。彼らは、取税人たちとともに食卓に着いていたイエス様の弟子たちに向かって、「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」と小声で文句を言いました。彼らは、自分を正しいと思っていたのです。彼らは我こそは、などと大変おごり高ぶっていました。

 実際、彼らはそのことに対して、全く悪気はありませんでした。しかし、それを正当化することはできません。なぜなら、自分ではなく、神様の前にどうか、ということが重要だからです。イエス様も、次のように言われました。

医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。

ルカの福音書 5章31~32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様がここで言われている正しい人とは、本当に正しい人を指して言われているのではありません。イエス様がここで言われている正しい人とは、パリサイ人のように、自分の罪を自覚していない人びとのことを指して言われているのです。この地上で生きてきた人の中で、罪がない人は、イエス様以外には、誰もいないからです。その逆に、イエス様がここで言われている罪人とは、自分の罪を自覚している人びとのことを指します。そして、イエス様は、正しい人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来た、とあります。悔い改めてイエス様に従うためには、私たちは、マタイのように、自分が罪人であることを自覚することが大切です。

 また、二つ目にマタイから学ぶべきことは、次の御言葉に書かれています。

その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。
するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。

ルカの福音書 5章27~28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでマタイは、イエス様の御声を聞いて、すぐに行動しました。私たちも、マタイのように、チャンスが来たらすぐに行動しなければ、それを逃してしまいます。人生は、いかにチャンスに反応するかが鍵です。

 さらに、マタイは、ここで御声を聞いて、すべてを捨ててイエス様に従いました。私たちは、この世のものや宝に心奪われていたら、イエス様に従うことはできません。イエス様も次のように言われました。

そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

ルカの福音書 14章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、自分の財産すべてを捨てなければ、イエス様の弟子になることはできません。これは、心の中ですべてを捨てる覚悟でイエス様についていかなければならないことを意味します。私たちは、たとえ、すべてを奪われたとしても、イエス様に従っていくことが大切です。

 マタイが取税人の仕事を捨てることは、十二使徒の中でもっとも勇気がいることだったと考えられます。なぜなら、その仕事があれば、生涯安泰であることは保障されていたからです。しかし、イエス様は、主のために捨てたものの百倍は返してくださることを保障してくださっています。そして、主は、最終的に永遠のいのちを与えてくださいます。ここから学ぶべき二つ目のことは、すべてを主のために捨てることが重要、ということです。

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

マタイの福音書 19章29節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、マタイは、イエス様にすべてを捨てて従い、福音を宣べ伝える者となりました。三つ目に私たちが学ぶべきことは、自分の仲間にイエス様を宣べ伝えることが大切であるということです。私たちには、次のことが命じられています。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

テモテへの手紙 第二 4章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は次のようにも、命じられています。

それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

マルコの福音書 16章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は、文脈上は使徒たちに語られましたが、使徒たちだけではなく、私たちにも命じられていることです。ここで覚えておきたいことは、イエス様は、私たちに、福音を宣べ伝えることを命じられていますが、その結果はイエス様の御手の中にあるということです。天の御国においては、いかに命令に忠実であったかが評価されます。何人救われたかが、求められているわけではありません。つまり、結果は求められていないのです。私たちは、次のような御言葉に耳を傾け、命令に忠実な者でありたいと思います。

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

ローマ人への手紙 10章12~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。

コリント人への手紙 第一 1章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが、地上で主に従ったことは、たとえ小さなことであっても、自分が思う以上に神様に喜ばれています。以上お話しした三つのことを覚えて、主の御心にかなう歩みをしていきたいと思います。

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