天使について②

2021年6月20日

私は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」

ヨハネの黙示録 19章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先々週の礼拝メッセージ「天使について①」では、天使をとおして、私たちに対する神様の愛を知ることができることについてお話しました。

 おさらいをすると、まず、天使が罪を犯すと地獄に行き、救われないのに対して、人にはイエス様をとおして救われる道が残されています。また、イエス様によって救われた私たちは、天使をとおして守られる存在です。私たちが死ぬときは天国に帰るときであり、この地上で使命がある限り、天が崩れ去ろうと、地震が起ころうと、守られます。そして、天使によって、私たちの日々の必要が満たされるということも起こります。天使が、ホレブの山でパンと水を渡してエリヤを導いたのがその例です。

 天使は、目に見えない霊的な存在ですが、救いを受け継ぐ者に遣わされています。以上のことを述べてきましたが、今日は、その後半として、天使について注意すべき点を見ていきたいと思います。

 まず、天使は礼拝の対象ではありません。

あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。

コリント人への手紙 第一 6章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、今は天使をさばくことはありません。なぜなら、天使の方が、私たちよりも力があるからです。しかし天国においては私たちの方が高く上げられるため、天使をさばくようになる、と御言葉にあります。

 そして、次のようにも書かれています。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

ピリピ人への手紙 2章6~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、「人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」それゆえ神様は、「この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」だから、「イエスの名によって、(・・・)すべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰する」とあります。

 このことから、神様のみが礼拝の対象であることが、わかります。

 実際、天使を礼拝することは、御言葉によって禁じれられています。

自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、
かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

コロサイ人への手紙 2章18~19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「御使い礼拝を喜んでいる者」とは、「自分は他人と違って天使を見た、啓示を受けた」「あなたがたは見ていない、二流のクリスチャンたちだ」と言っておごり高ぶっている人を指します。そして、こういう人は「自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません。」と御言葉に書かれています。

 ここで述べられている「かしら」とは、イエス様のことです。「このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していく」とありますが、ここで述べられている「からだ全体」とは、イエス様を信じる人びとが集まっている教会のことを指します。そして、私たち一人ひとりは、神様によって成長する存在であることが語られています。

 このため、覚えておきたいのは、天使は私たちと同じ神様のしもべであり、直接祈ったり、「現れてください」と求めたり、また、礼拝したりする対象ではない、ということです。ただし、神様に、「天使を送って守ってください」と祈ることは良いです。次の御言葉に書かれているとおりです。

主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。

詩篇 91篇11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 二つ目に、天使について注意すべき点を見ていきましょう。聖書には、天使をとおして神様のメッセージを伝えられた人びとの話が出てきます。しかしながら、これらのメッセージは、普遍的な神様の命令や、教理的な教えではありません。つまり、これらはあくまでも、個人的なメッセージです。

 天使は、今の時代でも現れることはあります。しかし、語られるメッセージは、例えば「どこどこに行きなさい」とか、「何々さんに会って話しなさい」とか「危険だからそこには行かないように」とか、個人的なことであって、決して新しい教理や、新しい教えではありません。

 ここで、聖書の登場人物が天使によって語られた場面の例から、天使をとおして語られるメッセージは個人的なものであるということを見ていきたいと思います。まず、ザカリヤの例を見ていきましょう。

すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」

ルカの福音書 1章11~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 次にマリアの例を見ていきます。

さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

ルカの福音書 1章26~33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 次にピリポの例です。エチオピア人の女王カンダケの高官は、神様を求め、イザヤ書を読んでいました。神様は彼を助けたいと思い、天使をとおしてピリポに語られました。

さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。

使徒の働き 8章26~29節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 同じ使徒の働きのコルネリウスも、天使をとおして神様に語られました。コルネリウスは、神様の御前に多くの施しをしていた人でした。

ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、「コルネリウス」と呼びかけた。
彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、何でしょうか。」すると御使いは言った。「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。
さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。
その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。

使徒の働き 10章3~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして、神様はペテロにも、天使をとおして個人的なメッセージを送り、牢から連れ出し救い出されました。

ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。戸口では番兵たちが牢を監視していた。
すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
御使いは彼に言った。「帯を締めて、履き物をはきなさい。」ペテロがそのとおりにすると、御使いはまた言った。「上着を着て、私について来なさい。」
そこでペテロは外に出て、御使いについて行った。彼には御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていた。
彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。彼らは外に出て、一つの通りを進んで行った。すると、すぐに御使いは彼から離れた。
そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」

使徒の働き 12章6~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして最後に、パウロも天使について次のように言っています。

昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、
こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』

使徒の働き 27章23~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 暴風が吹き荒れる中、船の中で何日も過ごしていたパウロに、神様は天使をとおして、「恐れることはありません」と、すなわち、「難破して死ぬことはない」と語られました。そしてさらに、「神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます」と言われ、パウロが神様のことを語り、船の中の皆が信じるようになる、と言われました。

 以上例に挙げたとおり、神様が天使をとおして人びとに語られたのは、すべて個人的なメッセージであり、新しい教理や教えではありませんでした。

しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。

ガラテヤ人への手紙 1章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 上の御言葉のとおり、人であれ天使であれ、「グッドニュース」とも呼ばれる福音に反することを宣べ伝える、つまりそれに付け加えたり除いたりするなら、「そのような者はのろわれるべき」とあります。

 異端と呼ばれる宗教の中でも、「天使と会った」「天使がこの教えを授けてくれた」と言って、聖書に付け加えて新しい教えを宣べ伝えるようになったものもあります。このような教えは、時が来てもそれが成就しないので、何度も訂正されたりしてきています。このようにして、天使を見たことに安住して、変な方向に行ってしまった人びともいます。

 以上述べてきたことをまとめると、天使がその人に現れたからといって、その人が偉いわけでもないし、天使がその人に新しい教えを授けるわけでもないということです。

 次に注意すべき点として、次の御言葉を見ていきたいと思います。

しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。

コリント人への手紙 第二 11章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「サタンでさえ光の御使いに変装」する、とあるとおり、天使だと思っても、それが天使の形をしたサタンということもあります。先ほどの異端の発端となった天使も、「光の御使いに変装」したサタンと言えます。

またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。

ユダの手紙 1章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた」とは、高ぶった、という意味です。そして、このとおり高ぶり、罪を犯した天使のかしらがサタンです。ミカエルは「御使いのかしら」と聖書に書かれていますが、天使の中でも最高位にある天使です。このミカエルと同様、最高位の天使であった天使のうちの一人が神様に背き、サタンとなったのです。そしてさらに、それに同調した天使が悪霊です。

明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。
おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

イザヤ書 14章12~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「明けの明星、暁の子」は、「天から落ち」、神様に背いた天使たちのことを指します。そして、「私は天に上ろう」「いと高き方のようになろう」と思った天使のかしらがサタンになり、それについて行った天使たちが悪霊となったのです。このように、サタンと悪霊は、元々は神様によって創られた天使だったので、天使に変装することが可能なのです。

 天使と同様、サタンと悪霊も霊的な存在です。それだけでなく、彼らは私たちに敵対しているので、注意が必要です。これまでも述べてきたとおり、天使は力を持っているため、サタンも力を持って私たちを惑わそうとしてきます。そして自分たちのところへ引き込もうとしてくるのです。

 このように、神様に忠実な天使もいれば、神様に反する、天から落ちたサタンと悪霊もいます。このため、霊的な存在をすべて信じてはいけません。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。

ヨハネの手紙 第一 4章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 世の終わりには、惑わしが、より一層激しくなります。その霊が神様からの霊かそうでないかということは、私たちが見極めていかなければならない大切なことです。

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。

マタイの福音書 24章24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「偽キリストたち、偽預言者たち」は、龍とも呼ばれるサタンが協力している者たちです。サタンと悪霊は、その滅びのときが近いので、ますます盛んに今の時代に働いて、「選ばれた者たち」、つまり、クリスチャンたちでさえも惑わそうとしてきます。そして、サタンは霊的な存在であり、神様ほどではありませんが、ある程度力を持っているため、「大きなしるしや不思議を」行います。

 このように、サタンや悪霊は確かに働いていますが、私たちがしっかりとイエス様に目を向けていれば、神様は、間違ったものを示してくださいます。実際に、霊を見分ける賜物もあり、聖霊によってそれらがわかることがあります。聖書は、「実によって見分けなさい」と私たちに語っています。その人が、神様に栄光を帰しているのか、それとも自分に栄光を帰しているのか、実によって判断することになります。御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を結んだ人が、神様の霊に導かれている人です。現象によってではなく、実によって見分けなさい、と神様は言われています。

 その人が、イエス様に心を向けて祈っているかどうかによっても、その人が本物かどうかがわかります。本物ではなくても、「癒し」「何かを言い当てる」「奇跡をなす」といったことを行うこともあります。それらを行うからというだけで、絶対に信じてはいけません。これらのことに惑わされると、結局行き着くところは滅びです。私たちは、気をつけなければなりません。

 感謝なことに、悪霊に力があっても、神様はさらにその上にいるので、神様の方がより力があります。サタンや悪霊は、神様のゆるしなしには何もできません。私たちが「守ってください」と神様に祈れば、神様はそれが惑わしかどうかを示し、私たちを守ってくださいます。

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