弟子たちが激しい突風の中で学んだ教訓

2021年7月18日

イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。
さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

マルコの福音書 4章33~41節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

今日は、上の御言葉から、激しい突風の中で弟子たちが学んだ教訓について、見ていきたいと思います。

 イエス様は、人々や弟子たちにみことばを話され、その日の夕方になって弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われました。こうして弟子たちは舟に乗り込んだのですが、激しい突風が起こり、舟は転覆しそうになりました。

 「ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた」とあります。船が転覆しそうな状況にあっても、イエス様は弟子たちと共におられたことが、わかります。

 弟子たちは、イエス様を起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言って助けを求めました。こうしてイエス様は、「起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」」と言われました。そして、「風はやみ、すっかり凪になった。」とあります。

 先ほど述べたように、イエス様は弟子たちと共におられました。しかし、弟子たちが具体的に助けを求めなければ、イエス様は起き上がって助けられなかったのです。

父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

ヨハネの福音書 6章37節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉でも語られているように、イエス様は、ご自分の方からその人を拒絶しません。捨てません。イエス様は、その人を見放さず、共におられます。私たちの側から、イエス様を捨てることはあっても、イエス様からはそのことをなさいません。

わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

マタイの福音書 28章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」とイエス様が言われたとおり、イエス様は私たちを捨てないですし、見捨てられません。いつも共にいてくださいます。これは揺るがされない真実です。

 しかし、私たちはまず第一に、覚えておくべきことがあります。それは、イエス様は共にいてくださいますが、自動的に働いてくださるのではなく、私たちが助けを求めるように、言われています。

苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。

詩篇 50篇15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

「彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。
彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。
わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせわたしの救いを彼に見せる。」

詩篇 91篇14~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える」とあるように、助けが必要なときに、私たちがイエス様を呼び求めれば、答えてくださいます。

この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと主は彼らを苦悩から救い出された。

詩篇 107篇6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、私たちは具体的に主に求めることが必要です。誰でも具体的に主に祈り求めるなら、それを受けることができます。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

マタイの福音書 7章7~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この、御言葉の原文は、求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい、です。私たちは、具体的に祈ると同時に、祈り続けることも必要です。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

ヨハネの福音書 15章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 欲しいものがあっても、主に求めなければ与えられないものはたくさんあります。主は、何でも欲しいものを求めなさい、と言われています。

 また、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」とイエス様は言われていますが、それは、御心のうちにあるものなら何でも求めても良い、という意味です。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

ヨハネの福音書 16章24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「わたしの名によって」求めるとは、主の御心に従って、という意味です。御心に従って求めることの、御心とは、私たちにとって良いものです。それが私たちにとって良いものなら与えられるのです。そして、主は、求めなさい、と私たちに勧められています。なぜそう勧められているのかと言うと、「あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるため」とあります。主は、求めたら受けますよ、と言われています。それは私たちが受けたときにそのことが感謝となり神様の栄光となるからなのです。

 以上のことから、主は、私たちに求めていくことを勧められています。そして、弟子たちが具体的に助けを求めなければ、主は働かれませんでした。そのようなことが実際には多いのです。このため、私たちは「主よ、助けてください。私は必要としています。」と求めることが必要です。

 主は、「求めなさい。それが御心にかなうなら与えられますよ。」と私たちに言われています。そしてそれを受けることによって、感謝に、喜びに私たちが満ちあふれるようになれば、それは神様の栄光になるのです。

イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」

マルコの福音書 4章39~40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、風を叱りつけて、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。こうして風は静まりました。そして弟子たちにこう言われました。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と。

 怖がることは、信仰がない、ということです。何が起こっても、怖がる必要はまったくありません。なぜでしょうか。それは、イエス様は神の御子であって、いくら突風が吹き付けても自然界を支配され、それを治める権威を持っておられる方だからです。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

マタイの福音書 28章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 どのような自然現象や、疫病でも、この上に主は権威を持っておられるお方です。主が、叱りつけると私たちに危害を与えることはできません。だから、恐れる必要はないのです。

 主は、それと同時に、私たちに良いものを与えたいと思われておられます。そしてその良いものを与えてくださいます。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

ローマ人への手紙 8章32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 主は、イエス様でさえも死に渡されるほどですから、もちろん私たちに求めるものを何でも与えてくださいます。そしてその主は、自然界でさえも治めておられるのです。

 コロナウイルスのラムダ株が、南米から入ってくるのではないかと言われています。それはワクチンでさえも、効かないようなウイルスだそうです。しかし、主はそのことでさえも支配されているお方です。主が、近づいてはいけないと言われるなら、それが近づくことはありません。

 また、ドイツでは、大洪水で多くの人の命が失われました。そしてアメリカ・カナダ・ロシアでは、熱風によって多くの人が亡くなりました。韓国では、ワクチンを摂取した34歳の高校の教師が亡くなりました。彼は敬虔なクリスチャンだったそうです。彼は脳梗塞と意識障害によって亡くなったそうですが、このようにクリスチャンでも若くして亡くなることについて、どのようなことが言えるのでしょうか。

 ここで、はっきりとわかることは、この時代に早く命を取られること自体は悪くないということです。南ユダ王国でも、若い王子が瀕死の状態になったとき、早く命を取られました。誰でもイエス様を喜び、イエス様から喜ばれる心ならば、主は愛して最善をなしてくださいます。私たちが命を取られる時は、天国に行く最善の時なのです。

 パウロも、この肉体を離れて天に行く方が良いと言いました。また、天国に行く体験をした人が、この地上に愛する奥さんと11人の子供がいても、地上には帰りたくなかった、と語っています。

 このため、私たちは何も怖がる必要はありません。怖がることは、信仰がないしるしとなります。たとえ自然災害があったとしても、まだ地上に使命がある限り、主は私たちを守られます。この世界では、次何が起こるかわからない、終末の様相を呈しています。しかし主は私たちを愛しておられ、自然界を支配されているお方です。

さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。

マルコの福音書 4章35~36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われました。弟子たちが舟に乗り込み突風に遭遇したのは、実は主が導かれたことでした。何か物事が上手くいかなかったり、問題があったり、自分の思い通りにならないと、自分には罪があるから、とか、他の人はうまく言っているのに・・・とか思う人が多いです。しかし弟子たちが激しい突風に遭い、死にそうな状況にあった時でさえ、彼らは主の御心の中におり、主は共におられました。このように、私たちが、主の御心の中にいるときでさえも、弟子たちのように、大混乱するような大きな問題に遭遇することもあるのです。

 激しい突風の中で、彼らには学ぶことがありました。イエス様が叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われると、凪になりました。

彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。

マルコの福音書 4章41節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして、この出来事が起こる前には、イエス様は御言葉を弟子たちに語られていました。

イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。
たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。

マルコの福音書 4章33~34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして、イエス様は、夕方になって向こう岸に渡ろう、と弟子たちに言われました。イエス様は、この出来事を通して、ご自身が自然界を支配されていることを弟子たちに教えたかったのです。

 夕方までは、頭の中で理解できるように御言葉を教えられました。しかしこれだけでは十分ではありませんでした。イエス様は、ご自身が力を持っておられる御子であること、そしてご自分の力を見せたいと思われたので、彼らが命を落としそうな状況に導かれたのです。

 パウロは、知恵深い人でしたが、頭の中だけの信仰ではなく、経験をした上で、信仰を建て上げていくことが大切と、次の御言葉で語っています。

そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

コリント人への手紙 第一 2章4~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様には、弟子たちにしっかりとご計画をお持ちでした。この突風に遭う出来事をとおして、彼らはイエス様の力を知りました。また、怖がった自分たちの問題にも気づきました。そして自分たちの信仰はまだまだだ、ということを悟ったのです。この突風に遭遇したことでしか、学べないことがあったのです。

苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。

詩篇 119篇71節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、この出来事を通して、ご自分の力を示したかったし、自分たちの問題を悔い改めて欲しかったのです。だからこそ、私たちも、主がともにおられても、御心の中にあっても、私たちが悶え苦しむような問題が起こるのです。それは主が私たちを愛されているからです。

 このため、問題が起こった時、「私の中の何が悪かったんだろう」とか「主は愛されていない」とか思うことはやめて頂きたいと思います。これからは、主のご臨在と導きを疑うことなく、信頼して歩みたいと思います。

 何か、大きな問題が起こった時、「主は、その御力を経験させたいのだ」「私の問題が炙り出されて悔い改めに導かれたいのだ」と、視点を変えて、思ってほしいと思います。

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