復活されたイエス様が望まれていること

2021年4月4日(イースター礼拝)

さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

マタイの福音書 28章1~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日はイースターで、イエス様の復活をお祝いする日です。そして、この金曜日はイエス様が十字架に架けられた日で受難日と呼ばれます。ところで、「受難日」とはなんだかネガティブなニュアンスですよね。しかし、受難日のことを英語ではGood Friday(グッドフライデー)と呼びます。イエス様は、この日に血を流され、十字架の上で死なれました。イエス様が身代わりとなって下さらなければ、私達は永遠に神様と断絶され、地獄に行く者でした。イエス様の血潮だけが、私達を清める力があります。そしてイエス様は、イースターの日に墓からよみがえられました。

 これまでは、土曜日がユダヤ人の安息日でした。しかしイエス様のよみがえりが日曜日だったため、クリスチャンは日曜日に安息日を守るようになりました。

 イエス様のよみがえりがなければ、罪は強かったのです。しかしイエス様の十字架が有効となった時に、罪の力は無効となりました。私達クリスチャンは、一度死んでも、イエス様と共によみがえることが約束されています。それでは、復活にあって、イエス様が私達に望まれていることとは何か、今日の御言葉から見ていきたいと思います。

 今日の箇所には、「いつも喜んでいなさい。」と書かれています。しかし、新型コロナウイルスが蔓延し、自然災害もあり、これから経済もどうなるかわからない、そのような中で、いつも喜んでいるのは難しいのではないか、そのように思えます。実は、この手紙が書かれた時、テサロニケの人々は非常な困難な中にありました。

兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。

テサロニケ人への手紙 第一 2章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。
あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。

テサロニケ人への手紙 第一 3章3~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この手紙が書かれた当時、テサロニケの人々は「自分の同胞に苦しめられた」とあるように、非常な迫害の中にありました。もしかしたら殺されるかもしれない、そのような中でパウロはこの手紙を記したのです。これからの経済の不確かさ、コロナウイルス、そして災害など、世の中が終末に向かっている時代に生きている私達も、同じ状況にあると言えます。今日の御言葉に書かれているとおり、神様は私達にも、いつも喜ぶことを望まれています。そしてイエス様が復活されたからこそ、私達にはそのことが可能なのです。

 この地上に生きる私達にとって、良いことが起こることと悪いことが起こること、どちらの方が多いのでしょうか。それは神様を除くならば、苦しみのほうが多いのです。私達はこの人生で、良い結婚相手が与えられたり、学校で良い成績を取ったりすると喜びます。しかし苦しみの方がこの人生では多いと言えます。この世の中では、家庭で虐待が起こります。また勉強をしなさい、と親が子どもに対して厳しくあたります。そして学校ではいじめや仲間外れが起こります。アメリカでは、現にアジア人の差別や暴力が増えてきています。正しいことをしていても、理不尽な仕打ちを受けることもしばしばです。また、さらには老いる中で色々な病気にかかる心配もあります。

 しかしよみがえられたイエス様にあって、私達には本当の、しかも永続する喜びがあります。神様の前にだけ本当の喜びと楽しみがあることが、次の御言葉に書かれています。

それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。
あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

詩篇 16篇9~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

いのちの道を知らせてくださいます」とは、私達が滅びないで、永遠のいのちを得て、天国にいけるという希望があることを示しています。しかし神様を離れては、私達には苦しみがあります。

実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。
その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。
人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。
実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。
なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。

伝道者の書 2章22~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 富も名誉も名声も得た有名人が、自殺するのを私達はニュースで耳にします。このことを思う時に、人生における本当の喜びとは、イエス様から永遠のいのちを頂くことにより、はじめて得られるものとわかります。クリスチャンである私達には、この地上での神様との交わりを得て、天国でも永遠の喜びと楽しみが与えられました。しかもそれを奪い去るものは何もないのです。

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

ヨハネの福音書 16章22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この短い人生には色々なことが起こります。それらに影響を受けると、上がり下がりが激しくなります。しかしイエス様にある喜びは、環境には左右されません。次の御言葉にあるとおり、私達は何かうまくいったから喜ぶのではなく、神様が天に迎えてくださることを喜ぶように、と言われています。

確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

ルカの福音書 10章19~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、次の御言葉にはこう書かれています。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

ピリピ人への手紙 4章4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「いつも主にあって喜びなさい」とは、永遠の命を与えられ、天に私達の名前が書き記されていることを喜びなさい、という意味です。神の子とされた私達の喜びは、誰も奪い去ることがなく永遠に続くのです。

 また、今日の箇所では「絶えず祈りなさい」と書かれています。なぜなら、イエス様はいつも祈りを聞いてくださるお方だからです。

イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。
したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

ヘブル人への手紙 7章24~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は、常に助けが必要な者です。イエス様はそのことをよくご存知です。なのでこのように書かれています。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ヘブル人への手紙 4章15~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 さらに、イエス様は、なんでも私に求めても良い、と言われました。

その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

ヨハネの福音書 16章23~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「名」とはその人の全てを指す言葉です。「わたしの名」、つまりイエス様の名で求めることとは、イエス様と同じ心で求めるという意味です。そしてイエス様の御心は、完全に良いものです。

 私達は、祈っても与えられないことがあります。なぜなら、私達は見間違えることがあるからです。聖書には、親は自分の子どもには蛇を与えない、と書かれています。それは当時ガリラヤ湖の魚は、うなぎだったからです。このため子どもがよく蛇を魚と見間違えたのです。また、本当は石ころなのに、子どもがパンと見間違えてそれを欲しいと言っても、親は与えないとも聖書には書かれています。神様も一緒です。私達は見間違えることがあるので、神様は私達を愛されているが故に、与えられないことがあるのです。そして、神様は、私達が与えられた時に、「与えられた!」と言って喜ぶ姿を見て喜ばれるお方です。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ピリピ人への手紙 4章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、祈りによって、神様の御心が示されます。私達は、色々な苦難があっても祈ることにより知恵や知識が与えられるので、何も思い煩う必要はありません。さらに、私達は、思い通りにいかなくても平安が与えれます。十字架の死から復活されたイエス様は、大祭司として神様の右に座しておられるので、いつも私達のためにとりなして下さっています。以上のことから、祈りは私達の信仰生活にとって非常に大切です。

 最後に、「すべてのことについて感謝しなさい」という箇所について見ていきましょう。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙 8章28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、神様を愛する私達にとって良いことも悪いことも、全てを益としてくださるお方です。このことについて、創世記に出てくるヨセフが最良の例です。彼は、兄弟の妬みをかってエジプトに奴隷として売られました。そのことを反省した兄弟達は、ヨセフから仕返しをされるのでは、と恐れていました。しかしその時、ヨセフはエジプトの王となり、兄弟達を大きな飢饉から救うことができるようになっていました。ヨセフだけではなく、私達にとっても、たとえ人から意地悪をされたとしても、それは神様の御手にあって、次のステップに進む良い機会となるのです。ヨセフは次のように兄弟達に言いました。

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

創世記 50章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日お話してきたことをまとめると、イエス様の復活には意味がある、ということです。状況がどのようになったとしても、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する、そのような者でありたいと思います。

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