復活のイエス様からの使命

2022年4月24日

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイの福音書 28章16~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先々週は受難週の礼拝で、イエス様の十字架の御苦しみについて、そして、先週はイースター礼拝で、イエス様の復活について見ていきました。イエス様が私たちの罪のために死なれたこと、そして確かに三日目によみがえり、500人以上の弟子達に会われたことが、聖書の中で最も大切なことだということをお話しました。二週間にわたって「イエス様の十字架」と「復活」がとても大切ということを見ていきましたが、そのことを通して学んだのは、「イエス様が確かに死からよみがえられたことによって、イエス様の十字架は有効だった」ということです。罪の支払う報酬である死に打ち勝たれたため、イエス様にあって私達にはもう罪の影響はない、ということです。そしてイエス様が復活されたように、私達もイエス様と同じ形で、しかもはっきりとわかる形で、体を持ってよみがえることも、聖書から見ていきました。また、イエス様の死からの復活という人類史上なかったことが起こったことによって、私達の理性では到底受け入れられないような聖書の箇所も確かに信頼に値することも見ていきました。そして、イエス様は確かに天に帰られましたが、助け主である聖霊様を送って下さいました。イエス様は、イエス様を信じて聞き従うものに聖霊様を与えて下さいます。聖霊様を通して、イエス様は私達と共におられ、永遠の命が与えられて、私達は天国に行けるのです。けれども、永遠の命である、神様とイエス様との親しい関係は、今からでも持つことができます。その様な素晴らしい祝福に今から預かることができるということを、先週お話しました。

 今週は、復活されたイエス様が、私達に与えられたミッションについて見ていきたいと思います。

 まず、今日の箇所で、復活されたイエス様は11人の弟子達に「ガリラヤに行くように」と言われました。そして「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った」とあります。17節を見ると、「そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた」と書いてあります。聖書ははっきりと、良いことでも悪いことでもそのまま書いています。人が小説を書く時、ちょっと都合の悪いことは書かないものですけれども、ここにはっきりと「11人の中には疑う者達もいた」とあります。これは不都合なことと言えば不都合なことですが、はっきりと書いてあります。聖書はそういう面で本当に信頼がおけます。イエス様は「ダビデの子」と呼ばれています。そのダビデは確かに聖書の中に出てくる王様、ヒーローです。しかし、聖書は包み隠さず、ダビデがバテシェバと不倫の罪を犯して、バテシェバが妊娠したのでそれを覆い隠すために、その夫であるウリヤを殺害した、と書いています。普通「ヒーローを作り上げよう」ということになったら、不都合なことは書かないものです。しかし、聖書は人の悪いことも良いことも全部書いています。私達は、それだけで聖書が人が書いた作り話ではなく、本当に信頼に値するものだということを知ることができます。

 そして、イエス様は20節の最後で「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束されています。また、18節で「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と言っておられます。復活されたイエス様は、天の父なる神様から、天においても地においても全ての権威を委譲されて、今持っておられます。神様には不可能がないように、イエス様にも不可能なことがないのです。ですから、私達が御心にかなう良いものを願うなら、神様はイエス様を通して、その願いを聞いてくださるという約束も与えられています。そして、世の終わりまで、いつも、イエス様は私達と共にいてくださるという素晴らしい約束も与えられています。

 イエス様は復活後、40日にわたってご自身を弟子達に現された後、昇天されたわけですが、天に帰られる前、私達にミッションを与えられました。それが英語で言う“ザ・グレイト・コミッション”です。イエス様が私達に与えられたミッションは19節から20節にあります。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

 この部分は日本語で読むとはっきりしないのですが、聖書が書かれたギリシャ語で読むと、実は意味がすごくはっきりしています。それは、命令形は一つだけ、ということです。「あらゆる国の人々を弟子としなさい」というのが命令形です。私達は「あらゆる国の人々を弟子とするように」という命令を復活されたイエス様から受けました。「あらゆる国の人々を弟子とする」すなわち「イエス様の弟子とする」という命令は、何も特別なクリスチャンに言われているわけではありません。実はクリスチャンの全てがイエス様の弟子なのです。ヨハネ3章36節には次のように記されています。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「御子」とはイエス様のことです。そして「信じる」とは、原語のギリシャ語では、ただ単に頭の中で「イエス様を救い主として信じます」という信仰ではありません。本当にイエス様に信頼して、自分の全てを委ねていくことです。また、「御子(イエス様)に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」とあります。実は「信じる」とはイエス様に聞き従うことにも通じています。ですから、「イエス様を信じます」と言う時、「イエス様は私のために死なれました。イエス様は私の救い主です。私の主です。はい、信じます」とただ心で同意するだけではないのです。そうではでなく、自分自身と人生を委ねてイエス様に聞き従う人こそがクリスチャンなのです。そして、そういう人は永遠の命を持っている、ということです。ですから、イエス様に自分自身の全てを委ねて聞き従う人こそが、イエス様の弟子そのものなわけなのです。

 イエス様が私達に与えられた「イエス様の弟子を作る」というミッションは、「自分自身を全部委ねてイエス様に聞き従う人を作りなさい」ということです。ですから、何か困った時「イエス様〜!」と呼ぶ人とか、何かちょっと助けてほしい時だけ「イエス様〜!」と呼ぶ人ではなく、「本当に自分自身を委ねて聞き従う弟子を作るように」とイエス様は言われているのです。イエス様に従うことにおいて、イエス様ご自身が厳しいことを言われています。マタイ10章32節と33節を見ていきます。

ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

マタイの福音書 10章32~33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 特に日本のように同調圧力が強い社会の中で、イエス様を信じることが難しいこともあるかもしれません。しかし迫害の中、イエス様を信じるだけで逮捕されたり、命に関わる様な状況の中でも、イエス様を「知らない」と言うならイエス様もその人を「知らない」と言う、と言われています。ですから、私達はいつも「イエス様は私の主、私の救い主です」と告白することが大切です。続いてマタイ10章34節から39節を見ていきましょう。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

マタイの福音書 10章34~39節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでもイエス様は厳しいことを言われました。34節で「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来た」と言われています。イエス様を信じることによって家族の分裂が起こるけれども「イエス様よりも父や母を愛する者、また息子、娘を愛する者はイエス様にふさわしくない」とはっきりと言われいるわけです。優先順位はあくまでもイエス様が一番ということです。息子や娘、父や母の言うこととイエス様が言われることが対立する時、イエス様を優先する人でなければ「わたしにふさわしくない」ということです。それがたとえ、愛する両親であっても息子また娘であったとしても「イエス様を大事にしなさい」ということです。でもここで誤解してほしくないことがあります。イエス様は「律法を廃止するために来たのではない」と言われたので、父や母を敬うということをすごく大切にされたのです。「父母はもう捨てていいですよ」と言われているのではなく、「イエス様のために父や母を捨てないといけない状況になった時にはイエス様を選びなさい」ということです。父や母と別に対立も何もしていないのに「捨てなさい」とは言われていないのです。イエス様は十字架に磔にされた時でも、母親のマリアを敬うというところを見せられています。ヨハネ19章25から28節を見ていきましょう。

イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

ヨハネの福音書 19章25~28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように十字架の上で息を引き取られるという苦しい中でも、イエス様はご自身の肉的な母親であるマリアをその愛する弟子ヨハネに託されたのです。当時ユダヤ人の社会においては、長子が両親の世話をすることになっていました。そしてイエス様が十字架にかかられた時、大工であったお父さんのヨセフはもう既に亡くなっていたと言われています。ですからイエス様の兄弟姉妹達はいたと書いてあるものの、お母さんは未亡人で一人でした。息を引き取ることにより長子としての義務が果たせなくなるため、母マリアの老後を見てほしいと言って、イエス様は愛する弟子ヨハネに託されたわけです。

 そして「父と母を敬いなさい」とは、育ててくれたその恩に報いて、お父さんとお母さんが年老いた時に助けていくことです。イエス様はそれを文字通り実行されたのです。「父と母を敬いなさい」と聞いたら、「彼らの言うことは全部正しいから尊敬しなさい」という風に誤解する人がいます。けれどもモーセの十戒が書かれた時、それを聞いていたのはいつも荒野で神様に文句ばかり言う人達だったのです。そんな神様に文句ばっかり言う人達を「尊敬しなさい」という意味で「父と母を敬いなさい」と言われたのではありません。その本当の意味は「お父さんとお母さんが年老いた時、育ててくれた恩に報いて彼らの世話をしなさい」ということです。私達はそのことを覚えておく必要があります。ですからイエス様は、十字架の上で死んで天に帰ることを良くご存知だったので、長子としての義務を果たすために愛する弟子ヨハネにお母さんの世話を委ねられました。十字架の苦しい中でも「父と母を敬う」ということを文字通り示されたわけです。

 ですから、お父さんとお母さんを何事もないのに「捨てなさい」と言っているわけではなく、イエス様に従う時に父母や息子娘の言うことが気になって従えない、というのでは駄目で「私にはふさわしくないですよ」とイエス様は言われているのです。肉親の情が勝ってイエス様に従えない様な人は「私にふさわしくない」ということです。優先順位はあくまでもイエス様だと言われているのです。厳しいのです。ともかくイエス様を一番にして従う人がイエス様の弟子です。

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

マタイの福音書 16章24~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました。誰でも「イエス様についていきたい」「イエス様の弟子になりたい」と思うなら、「まず自分を捨てなければ従えないですよ」と言われたのです。それが神様の御心と合致すれば良いですが、合致しないのに、常に人がどう思うかや人の評価が気になったり、家族の意見がどうかと気になったり、自分は絶対にこうしたいんだということに固守するならば、イエス様に従うことの妨げになってしまいます。だからイエス様は、自分を捨てて、自分の十字架を負って従うのでなければ従いきれない、と言われたのです。人には負うべき十字架があり、苦しみがあるということです。それを覚悟の上で自分を捨てて、イエス様を常に第一として従うしかないのです。自分の夢も大切だし、人が自分をどう評価してくれるかも大切だし、自分のやりたいことも、自分がこうなりたいという地上での夢も大切だ、などと色々なものをたくさん持ったままでイエス様に従うことはできないのです。「その道は本当に細くてその門は狭い」とある通りです。ですから「まず自分を捨てなさい」「自分の負うべき十字架があるので、それを負って私に従ってきなさい」とイエス様は言われました。また「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」とも言われました。「みんなから良いように思われたい」「両親からも評価されたい」「これは私の夢」などと言って自分を捨てられない者はその命、つまり永遠の命を失う、と言われたのです。しかしイエス様のために自分の命を失う者は「それを見出す」と言われたのです。永遠の命を見出すのは自分を捨てて、自分の十字架を負ってイエス様に従う者だけなのです。

 そして、イエス様は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」と言われました。例えばある人が、全世界の人々から賞賛されて、この世の富も名誉も全て手に入れたとします。しかし、永遠の命を失い神様とイエス様から断絶されて、短い地上での生涯を終え地獄に行き、火と硫黄の燃える池の中で昼も夜も永遠に苦しみを受けるなら「それは何の得があるのか」とイエス様は言われているのです。「そのことを良く考えてみなさい」と。この地上での短い私達の人生を、神様は長くても120年と定められた、とあります。そしてこのことは医学会でも証明されています。どんなに医学が発達しても人間の機能を見ると、120年生きるのが限界だ、と医学者達は言っています。そしてこれは聖書と一致します。神様が「人の齢を120年と定められた」とあります。このため私達が健康であっても120年しか生きられないわけです。しかし、永遠から見たら120年なんてあっという間です。

 「これから素晴らしい人生が待ってるわ」などと思って私も静岡で大学時代を過ごしました。今になっては(まだ終えてはいませんが)人生はあっという間だな、短いもんだな、と思います。まあ確かに大学時代はよかったですが、人生なんて長いものではないですし、この世でどんなに有名になって、どんなに人々から賞賛されて、どんな風に欲しいもの全てを手に入れたとしても、それで地獄に行ってしまうのであれば、それは何の得にもならない、と今は本当に思うのです。そんなこの世が与えてくれるものよりも、神様、イエス様がおられる天国に行って、永遠をそこで過ごす方が、ずっとずっと価値があることだと思います。そのために、イエス様が要求されてることは「自分を捨てなさい」「自分の十字架を負って私に従って来なさい」ということです。二つのことを天秤にかければ、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に聞き従って、永遠の命を受ける方がずっと良いわけです。自分にこだわり、イエス様に聞き従わないで、永遠の命を持たずに破滅を迎えて地獄に行ってしまうことの方がよっぽど悲劇だと思います。

 そしてイエス様は言われました。「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。」と。ここで御再臨のことを言われているわけです。「そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います」とも言われました。イエス様を信じて善を行い、イエス様に従っていく者には良い報いが与えられ、自分の思いどおりに生きるために人を欺いて、ないがしろにして生きていった者にはその報いが来る、ということをイエス様は言われています。聖書には、人が生きてきた全てのことが書き記されている書物が開かれる、とあります。最後の裁きの時に皆がよみがえって、一人一人、神様とイエス様の御前で裁きを受けるのですが、その時、私達がしてきたことが全部その書物に記されているのです。人はそれぞれの行いに応じて報いられる、とも言われています。ですから私たちは、本当に恐れを持って、一日一日を過ごしていくことが大切です。私達がしたことで良い報いを受けられれば良いですけれども、嘘をついたり、人をないがしろにして、その悪い報いを受けることがないよう気をつけていきたいと思います。

 そして24節で「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」とイエス様が言われた時、イエス様に従う道は困難な道なので、その覚悟を促すために言われたのです。自分を捨てず自分の十字架を負わずにイエス様に従えるもんじゃない、ということをイエス様ははっきりとご存知でした。ヨハネ15章18節から20節を見ていきましょう。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。
もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。
しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

ヨハネの福音書 15章18~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい」と言われました。イエス様は犯してもいないような罪を当時のユダヤ人のリーダーからなすり付けられて、十字架にかかられました。そしてイエス様は良いことをたくさんされたのに、人々から嘲られ、罵られ、鞭打たれ、十字架の苦しみを受けられました。そして最後に弟子達にも見捨てられるという道を通られました。この世の人達は本当に故なくイエス様を排除したわけです。そうであれば「あなたがたも、イエス様に従う者として同じことをされることは、覚悟が必要だ」とイエス様は言われたのです。何もやましいことはしていないし、悪いことをしていないと思っても、言っていないことも言ったなどと言ったり、ともかく色々な理不尽な仕打ちをされることがあります。イスカリオテのユダのように、愛して育ててきたのに裏切られたりもします。外からも内からもそのような苦難がある、と言われたのです。イエス様がそうされたので、私達も、イエス様に従う者として、理由なくこの世の人々からその様な仕打ちを受けることはあるのだ、ということを「覚えておきなさい」と。ですから、その時「いや、私は正しい、私は正しい」などと言って、自分を捨てないで持っていたら、イエス様に従いきれないのです。ですから、「誰でも私についていきたいと思うなら自分を捨てなさい。そして自分の十字架を負ってイエス様と同じ様に歩むことを決心しなさい」と言われているわけなのです。特に、終末の時代には苦しみがあることをイエス様は言われています。

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

マタイの福音書 24章3~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これは終末の時代、すなわち、イエス様がご再臨される前の時代の「しるしは何ですか」と弟子達が聞いた時にイエス様が語られたことです。ここで私達が覚えなければならないのは、14節で「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」とイエス様が言われていることです。実は2000年に、私はオランダのアムステルダムの世界伝道者会議に出席しました。その時、本当に世界中から、大勢のキリスト教の代表者が来ていました。私はそんな代表となる者ではなかったのですが、事務局の人が友達で、日本人の参加者があまりにも少ないので「奨学金出してあげるからおいでよ」と言われて出ることにしたのです。そこで見たら、隣はバングラデシュとかで、本当に日本人で出席するクリスチャンは少ないな、と思いました。反対にアフリカはもういっぱいで、大きい会議室もいっぱい使っていました。アメリカはもちろん、すごく大きいホールを使っていました。それを見て、他の日本の牧師と「いやあ、日本は惨めですね」などと言ったり、日本の小さい国旗が置いてある小さいテーブルで「いやあ、これが天国の配分なんですかね」などと言って慰め合ったのを覚えています。まあこれは余談ですけれども、その会議で発表されたのは、すでに2000年の時点で「福音が全世界にほとんど宣べ伝えられて、もう終わりました」ということでした。実は世界各国からの代表者がその年で一番多かったので、この会議はギネスブックに登録されたのですが、そこで発表されたのは「ほとんど全世界の民族に福音が宣べ伝えられて、もういつイエス様が来られても良い時代が整えられています」ということでした。その会議の前までは12時がイエス様のご再臨だとしたら「3分前だ」と言われていたのですが、その会議で「いや、もう1分を切りました、秒読みの状態に入りました」と宣言されたのです。

 このことから覚えなければいけないのは、もう終末の時代に入っているということです。そして、終末の時代には色々な困難があります。平和ボケした私達は、まさかロシアがウクライナを侵略して、こんな戦争や虐殺がこの時代に起こるとは思わなかったわけです。しかし、実際にロシアはウクライナに侵攻しましたし、聖書に書かれているエゼキエル戦争も起こりそうなのです。実は、全然クリスチャンでないある方から「次、ロシアはイスラエルを狙いますよ、イスラエルに侵攻しますよ」という様なことも聞いています。ですから、聖書が預言している終末の時代の舞台設定が刻々とでき上がってきているわけです。しるしや預言がなければ人は思いのままに振る舞うから、御言葉は確かであることを示すために、たくさんの終末の預言が聖書に書かれています。それは今本当に成就しつつあって、いつイエス様がご再臨されても良い様な時代に入っていることを覚えなければいけません。そこで9節に注目したいと思いますが、「そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」とあります。終末の時代は、クリスチャンにとって生優しいものではない、ということです。「苦しみに合わせ、殺されるものもいる」と。獣と龍も黙示録に出てきますけれども、人の額か右腕に印を付けられる、とあります。多分マイクロチップが埋められるのではないか、と言われています。それがないと売り買いできないような時代になるのではないか、と。今はもう、動物にマイクロチップを入れていますし、認知症の人に入れたりしている国もあります。反キリストを拝んで使えなければ殺される、苦しい時代に入ってきつつあることを覚えて備えなければいけません。

 残念ながら本当に世界は大きく変わっています。今までの様に幸いな時代はもう来ないかもしれません。この2年前までは、マスクなんか誰もしていなかったわけですが、今は手放せません。コロナによって今、全世界の多くの方が亡くなっていますし、ビル・ゲイツ氏がちょっと不気味なことを言っていました。「今年度後半には新しい疫病が全世界を襲いますよ」と。確かに聖書には、はっきりと、疫病で多くの人が亡くなること預言されています。私達はそういう面で、本当に困難な終わりの時代に入りつつあります。その時代には、クリスチャンが全ての国の人々に憎まれて、イエス様につくのか、それともイエス様を捨てて生きるのか選ばされる時が来るから覚悟していなさい、と聖書にあるのです。ですから、生半可に「イエス様を信じて従います」などとは言えない時代、本当に文字通り自分を捨てて自分の十字架を負って従わなければイエス様に従えない、そういう時代を迎えつつあることも覚えておく必要があります。

 ちょっと厳しい話をしましたけれども、イエスさまの故に迫害される者に対して、大きい励ましの御言葉もあります。

人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

ルカの福音書 6章22~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様も「人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです」と言われました。なぜなら、「天においてあなたがたの報いは大きいのですから」と。この地上でなくなる宝をもらうのではなく、天国で永遠になくならない宝が積まれているということです。確かに終末の時代には、困難な時が来ることが言われています。イエス様の名の故に罵られ、悪しざまにけなされ、時には殺される人も出ますが、天での報いは非常に大きいとイエス様は励まされています。そしてこの天の報いは、地上で私達が手にするどの様なものより素晴らしいものです。私達は覚えなければいけません。イエス様の弟子になるということは、ある意味素人のマラソン大会に申し込んで登録することと同じです。出るのは簡単なのです。クリスチャンになって、「はい。イエス様を信じます。イエス様こそ私の救い主です」と言って、スタートラインに立つのは誰でも申し込めばできます。しかしこのマラソンは、42キロとか想像を絶するような長い距離で、苦しんで多くの人が脱落していくようなものです。スタートラインに立つのは簡単でもゴールし切るのは大変なのです。マラソンで走っている時本当に苦しくて棄権してしまうこともあるように、イエス様を信じることにおいても辛抱強く従っていくことが難しいのでゴールインする人は少ない、ということも覚えておく必要があります。ですからイエス様は「決心が必要だ」と言われました。ルカ14章25節から33節を見ていきましょう。

さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。
計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、
『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。
もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。
そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

ルカの福音書 14章25~33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様はまた厳しいことを言われています。26節で「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」とあります。「憎む」はユダヤの特別な言い回しです。これを日本語でそのまま解釈して、憎まないといけないのか、と思うかもしれませんが、この意味は「より少なく愛する」ということです。イエス様をもっと、一番に愛するということです。もちろん、父母、兄弟姉妹、自分の命は愛するんだけれども、より少なく愛してイエス様をもっと愛するということです。そのことを表現する時に「憎む」とユダヤでは表現していくわけなのです。その様にイエス様を大事にしていくのでなければ、イエス様の弟子になることはできないということです。「塔を建てようとするとき十分なお金があるかどうかまず考えてみなさい」と。計算しないで仕事を始めても、お金がなくなって途中でやめてしまったら人は嘲って「この人は建て始めたのに完成できなかった」と言われるし、戦いをする時も同じで、「十分勝ち目があるのかよく考えてからにしなさい」と言われました。イエス様は弟子になってイエス様に従うためには「非常に大きな決心が必要ですよ」と言われたのです。その決心はどれほどの決心なのかと言うと23節にあります。

そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

ルカの福音書 14章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これは「今すぐ捨てなさい」というわけではなく、その心構えが必要だ、ということです。「イエス様のためなら自分が持っているものは全部捨てても良い」という覚悟が必要とイエス様は言われているのです。その覚悟がないんだったら、途中で塔を建てようとするか、あるいは戦いを始めたけれども勝ち目がないからやめてしまう、という風になってしまうので、本当に全てをイエス様のために献げていくことを覚悟した上で従いなさい、と。イエス様に従ってイエス様の弟子となっていく道は生優しいことではないとイエス様は言われたのです。そのことをしっかり理解した上で、どうするのか決めなさい、ということなのです。先ほども言ったように、マラソンのスタートラインに立つのは誰でもできます。申し込んで登録すれば、誰でもスタートラインに立てますけれども、42キロも距離があると暑さと乾きと足の痛み、息苦しさ、もう色々な苦しみが入ってきて、走るのが大変で、ゴールする人は本当に少ないのです。それと同じことがクリスチャンの人生に起こると言えます。特にこの終末の時代には、自分の親、兄弟や子供、また自分の命が大切だと思ってる人は私にふさわしくない、とイエス様は言われました。「いや、イエス様の方が大切です。そのために、私は全部捨ててでもイエス様に従います、という人が私について来なさい。しっかりとその覚悟を持った上でついてきなさい。中途半端では駄目ですよ」とここで警告されているのです。天国に行く道は本当に狭いです。マタイ7章の13節と14節を見ていきましょう。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

マタイの福音書 7章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この様に「天国への門は狭く道は細い」と言われています。そして「天国に入る人はわずかだ」と警告されています。また、ルカ13章の23節と24節には次のように記されています。

すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。
「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。

ルカの福音書 13章23~24節
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 ですから、しっかりとイエス様に従う道には非常に犠牲がある、ということです。自分を捨てなければとてもではないけどイエス様に聞き従って天国に行くのは難しいのだ、ということなのです。また、イエス様は「生ぬるいものは自分の口から吐き出す」とも言われています。

また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。
わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。

ヨハネの黙示録 3章14~16節
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 自分を捨てて熱くイエス様に従うのか、それともイエス様を拒絶して歩むのか「どちらかであってほしい」「生ぬるい生き方は口から吐き出す」とあるので、せっかく「天国に行ける」と思っても行けなくなってしまうのです。アメリカ人で天国の幻を見た方が次の様に報告していました。最後の裁きの時に「自分は天国に行ける」と思って、賛美をしながら待っていた人達がいた、と。「絶対自分は天国に行ける」と思っていたのに、裁きの時に「地獄行きだ」と言われて、地獄に落とされた、と。そして、その人が幻で見たのは、自称クリスチャンのうち、天国行けると思って最後裁かれる時を待っていた人の中で、10人に一人ぐらいしか天国に行けなかった、ということでした。そして私がある時、アメリカのカンファレンスに行ってある牧師と話をしたのですが、アメリカでも本物のクリスチャンは、教会に通っている人のうち一割しかいない、と言われていました。アメリカでも本当に自分を捨てて聞き従っていくクリスチャンは10人に一人しかいない、ということです。その話を聞いて「ああ、あの幻と一致するな」と思いました。多くの人は天国に入ろうと思っても入れなくなる人が多いので、熱い心を持って「イエス様のためには、私は自分を捨てて聞き従います」という覚悟が必要です。いっぱい自分のものを抱えていたのでは天国に入れないのです。ですから、自分を捨ててイエス様に従うにはコストがかかり、犠牲が必要なので、「イエス様もよく考えてからにしなさい」と言われたのです。イエス様はもちろん私達を招かれていて、「私のもとに来なさい、私が休ませてあげます」と言われています。イエス様は本当に両手を広げて私達を待っておられますけれども、イエス様は「よく考えてからにしなさい」と言われています。「自分の全財産を捨てるつもりでなければ、とてもでないけど、私の弟子になることはできないんだから、よく考えてからにしなさい」と。しかし、天国に行くことと地獄に行くことは本当にもう、比べ物にならないくらい大きな差があることも覚えて頂きたいと思います。確かに、この地にあってはイエス様を信じるが故の苦しみもあります。常に自分を捨てて、自分の十字架を負って従う道は、苦しいところもあるわけです。けれども、その報いは非常に大きい、ということです。この地が与えてくれるものなんか比べ物にならないぐらい大きいものなので、たとえ道が細くて狭くても、天国に行く道は本当に幸いです。そして「人は全世界を手に入れても、真のいのち永遠の命を損じたら何の得になるのか」とイエス様は言われています。ですから、この短い地上での人生において、私達は自分を捨てて自分の十字架を負い、「もう全てを捨ててイエス様に従います」という決心を持っていく必要があるのです。

 そこまで言うと、もしかしたら中には「私はもう歳をとり過ぎていて、今までの生き方はちょっと生ぬるくて、これでは駄目じゃないか」と心配されている方もいるかもしれません。全然大丈夫です!今からが大切なのです。中には教会行くのをやめて、この世を愛して、どっぷりとイエス様から離れて生活されていた方もいるかもしれません。しかし今からが大切なのです。聖書には「過去どの様に良い生き方をしていても、後から悪いことをするならその良いことは何も覚えられないし、反対に、過去どの様な生き方をしてきても、これから本当に主に従って生きるなら過去のことは何も覚えられない」とあります。今からどういう風にして生きていくかが大切なのです。今から「自分を捨てて自分の十字架を負って、イエス様を愛して従います」と言うなら、あなたがこの中で一番天国で大きな報いを受ける人になる可能性は十分にあるわけなのです。

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。

マタイの福音書 19章29~30節
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 このようにイエス様は、素晴らしい約束を与えてくださいました。イエス様のために「家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け」るとある通り、私達がイエス様のために捨てたものの百倍をイエス様は与えてくださいますし、「永遠のいのちを受け継ぎます」という約束を私達は受けているのです。私達が捨てるものは、その代わりに受けるものから比べれば百分の一しかないのです。しかも永遠の命を受けるとの約束もあります。これは神様との親しい交わりをこの地上で持ち天国に行ける、という約束です。そしてイエス様はこう言われました。「先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になります」と。ですから、心配しないでください。後から「イエス様を信じて従います」と言っても、他の人よりも先になることは十分にありえるのです。今から「自分を捨てて、自分の十字架を負ってイエス様に従います」という決心を持つことが大切です。そして、何かイエス様のために捨てることがあったとしても、その百倍の報いをする、とイエス様ははっきりと断言されています。そして、永遠の命を与える、と言われました。永遠の命を受けることを目標にして、本当に自分を捨てて、自分の十字架を負ってイエス様に従っていくことは本当に素晴らしいことです。また、復活されて天国に帰られる前のイエス様が「遺言」として残されたのが「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という命令です。生半可に「イエス様を信じます」と言う人ではなく、「本当に全てを捨ててイエス様に従う人を作りなさい」と言われています。その人こそ「本当に天国に行く永遠の命を持っている人」なので、私達自身がそうなることを目標にしたいと思いますし、そのような人を作っていくことを人生の目標としていきたいと思います。

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