2022年8月28日
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
マタイの福音書 28章18~20節
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
先週まで私たちは、イエス様が求めておられる信仰の質について、どういう信仰を求めておられるのかを見てきました。イエス様を私たちは、自分の救い主として受け入れた後は、イエス様の大きな愛に応えて、自分自身をイエス様に育てていただく。自分自身をイエス様に全てゆだねてゆくということです。そして聞き従う。このような信仰をイエス様は求めておられます。イエス様を救い主としてだけでなく、自分の主人として受け入れて、イエス様に自分の生涯、自分のすべてをゆだねて聞き従う。イエス様こそ私の主人ですと受け入れるということです。イエス様を救い主としてだけでなく、主人として受け入れるならば、必然的に神様のみ心を行う、良い行いを行うということは、必ず伴なってくるので、聖書は行いによって裁かれ報われると、一貫して語っていますが、それは当然のこととなるわけです。
そして今日は冒頭でお読みいただいたザ・グレートコミッションをみて、次に、イエス様の命令の中でも、必ず守らなければいけない命令について見て行きたいと思います。
なぜ私が少し無理をしてでも、皆様方に病床の中からこのメッセージを発信させていただいているかと申し上げれば、一人でも多くの方が天国に入ってほしい。決して地獄に行ってほしくないと思うからです。地獄に一度入ってしまえば、そこからは決して出ることができません。そして夜も昼も永遠に苦しみを受けるとあります。地獄に行ってから、もう一度チャンスがほしいと言っても、叶わないことです。ですから、このメッセージを聞いて、一人でも多くの人が、そうだったのかということに気が付いて、悔い改めて、悔い改めにふさわしい実をむすび、良い行いをするものとされ、天国に行ってほしいとねがっています。
では、最初にザ・グレートコミッションを見て行きましょう。イエス様が復活され、昇天される前に私たちにゆだねられた大切な任務ですが、日本語ではザ・グレートコミッションのことを大宣教命令と翻訳されていますが、この訳では誤解が生じているように感じます。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
マタイの福音書 28章18~20節
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ザ・グレートコミッションとは、この19節と20節ですが、原文はギリシャ語で書かれていて、動詞は一つだけです。そのメインの動詞とは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」です。あらゆる国の人々を弟子としなさいというのが、このグレートコミッションの心臓部なんですね。そして三つの変容系で、どのようにして弟子をつくるのかということが記されています。
まず、あなたがたは行くことによって、すなわち、伝道することによってです。二つ目は父子聖霊の名においてバプテスマを授けることによってです。先ほど申し上げたように、このグレートコミッションを日本の教会では大宣教命令と訳していますから、ここでおわってしまって、福音を伝え、イエス様を主と信じたらそれでこの命令を果たしたと勘違いしているところがありますが、そうでなくて、3つ目の命令がとても大切な命令です。それは、私があなたがたに話しておいたすべてのことを守るように教えることによって、弟子としなさいと言われたのです。
あらゆる国の人々を弟子としなさい、それは伝道や宣教することによって、また父子聖霊の名においてバプテスマを授けることによって、またイエス様が命じられたすべてのことを守るように教えることによって、あらゆる国の人々を弟子としなさいとイエス様は命じられたのです。
そして「イエス様を救い主として受け入れて命令を守る」というところですが、すべての命令は勿論大切ですが、実はその中でも、とても大切な、どうしても守らないといけない、それを守らなければ天国に入れないという命令が二つ、はっきり示されています。その二つの命令が、今の時代には、どうもいい加減に取り扱われていますので、このイエス様の命令の中で、私たちが守らなければいけない大切な命令についてお話したいと思います。
まず第一に、その命令を守らなければ天国に行けないという命令は、人を赦すことです。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
マタイの福音書 6章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちの負い目を赦してくださいと神様にお願いするとき、私たちは私たちに負い目のある人を赦しますと宣言した上で、この祈りを捧げているということです。
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
マタイの福音書 6章14~15節
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この命令はとても軽く取られている傾向にありますが、はっきりと、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しにならないと書かれています。神様が赦してくださらなければ、私たちは天国に入れずに、地獄に行くことになります。これだけはっきり書いてあっても、この命令はないがしろにされているという悲しい現状があります。
私が神学校に行った時にショックだったことをお話しますと、トリニテイ神学校の組織神学の教授で、私がとても尊敬している先生が、あるとき、「人を赦さないなら神様は赦されないから天国にゆけないとは私たちが信じている神学とは違う」と言われました。私はその時とてもびっくりしました。神学が神様の御言葉である聖書に優先するのかと思って愕然としたのを覚えています。
後で分かったことですが、私の親友もその教授と同じ神学の熱心な信奉者で、「人を赦さなければ神様が赦されない。そして天国に入れないというのは違う」と言っていました。そのために何回かぶつかったこともありましたが、その親友が人を赦さないということはないので、それ以上は言わなかったのですが、神学に合致しないから聖書の御言葉を退ける、聖書の御言葉よりも神学を優先するというのは、よくみられることです。
そして、彼らの信奉している神学だけでなく、そのことを信奉する神学がほかにもたくさんあります。ですから私たちは、そういう時代に生きているいうことを理解しなければなりません。私たちの時代では、聖書の御言葉よりも神学が優先されて聖書を読んでいると言うことです。それで皆さんに一つ、とても参考になる地獄を見てきた人の証をご紹介したいと思います。今の時代、多くの人が地獄は必ずあるということを示して、神様は天国や地獄をしっかり人々に見せています。
地獄を見てきた人の証言ですが、ある人が地獄に行ってそこである女性にであった。そのご夫人というのは、長年イエス様に仕えて、教会学校にも忠実に奉仕されていたので、彼女が地獄にいるのを見て驚いてイエス様に「なぜこの人が地獄に連れて来られたのですか?」と尋ねたそうです。するとイエス様が言われました。「そのご婦人はご主人を決して赦そうとはしなかった。だから御言葉どおり、人を赦さなかったから地獄に連れて来られたんですよ」と言われたそうです。
私たちは、この、地獄を見てきた人の証言を、心して聞く必要があります。自分の神学と違うから、人を赦さなくても天国に行けると信じていても、地獄を見てきた人が、ご主人を絶対赦さなかった日曜学校を忠実にやっていた人が地獄に居たというこの証言を、私たちは真摯に聞いていかないといけないと思います。
人を赦すというのは、口で言うのはやさしいですが、実行するのは難しいと感じます。私の体験をお話します。6月に、ある知識の賜物を持つ人が、私のために祈ってくれたことがありました。この知識の賜物というのは、御霊の9つの賜物のひとつで、その人について全然知識は無くても、聖霊なる神様が賜物を与えて、その時々に必要な知識をその人に明らかにされます。その知識の賜物を持つ人が私に言われたのは、「あなたには赦してない人がいますから赦しなさいと言われていますよ」ということでした。私はびっくりしました。この場に及んで赦してない人がいるとは、私は全部赦してるはずでしたのに、みんなを赦してるはずだったに、赦してない人がいると言われてびっくりして1週間祈って考え抜きました。誰を赦してないんだろう?赦していなければ天国に入れないではないか?これは大変なことだと思って一週間悩んだのですが、誰もでてこなかったので、これは違っていたのかもと自分で納得しようとしていました。すると2ヶ月後の先週になって、SNSにその人が突然姿を現したのです。私はずっと前のことでしたので、もう忘却の彼方にその人のことを忘れてしまっていました。実際に顔と顔を合わせる人でしたら覚えているのですが、SNSの世界というのは、今とても巧妙で、人をあざむくとか被害をこうむる人がたくさんいますが、その人は私が使ってるSNSから姿を消しましたので、すっかり忘れていたのです。でもその人が突如として、SNSに姿を現したので、私は愕然としました。それは、その人に対する怒りがこみ上げてきたからなのです。ああ私は、この人のことを赦して無かったと気がついたんですね。そして、その人を赦すために、まる一日格闘する必要がありました。格闘の末に赦すことができたのですが、私はその人がSNSにもう一度、姿を現してくれたことをとても感謝しています。そうでなければ、私は人を赦さないままで、地獄に行くことになってしまったと思いました。なんとか一日格闘して赦すことができましたが、人を赦すと口で言うことは簡単ですが、実行するのは難しいと改めて思いました。
しかし、イエス様ははっきりと、人を赦せないなら、天の父もあなた方の罪は赦されないとおっしゃいました。天国には入れない、地獄に行くということです。私たちはもっと真摯に、御言葉を受け取らないといけないですし、その日のうちに赦していない人を赦さないと、私のように忘却の彼方に埋もれてしまい、赦す機会がなくなってしまうこともありますので、注意が必要だと思い、みなさまにシェアさせていただきました。
また赦されないもう一つの罪は、聖霊を汚す罪です。
そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
マタイの福音書 12章22~32節
群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」
イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。
もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。
また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。
わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は御霊によって悪霊を追い出されていたと、ここで記されています。しかし人々は、御霊よってではなく、悪霊によってイエス様は悪霊を追い出していると批判しました。するとイエス様は、聖霊に対する冒とくは赦されないと彼らに言われました。聖霊にさからうものは、この世であっても、のちに来る世でも赦されないと、このように言われました。きびしい言葉を当てられました。赦されない罪というのは御霊を冒とくする罪というわけです。
地獄に行った人も、御霊を冒とくしたために赦されず、地獄に行った人と出会ったと証言しています。私たちはそのことも心していなければなりません。
あるとき、著名な先生が来られるので、ぜひその集会においてくださいと近隣の牧師から連絡を受けて、近隣の教会と交わることも大切だと思って出かけていきました。その集会の中で、講師の先生は、聖霊を冒とくしても赦されますと言われたので、びっくりしました。集会中でしたので口を挟むわけにもいかなかったのですが、お昼になって主催者の牧師が、せっかくですから講師の先生の横にどうぞと、席をつくってくださいました。これはいいチャンスだと思って講師の先生に、聖霊を冒とくする罪は赦されないと聖書にしるされていますが、先生はどうして赦されると言われたのですかと聞いてみました。すると講師の先生は、「聖霊を冒とくしたから天国に入れないと悩んでいる人がいっぱいいるのに、どうしてそんな冷たいこと、愛のないことを言えるのですか」と怒られました。また、もう一つ先生は、この部分は異邦人に教えられたのではないので、ユダヤ人はイエス様の教えをきちんと守らないといけないが、私たち異邦人はその必要がなくて、イエス様が言われたことは参考にすればいいのですと言われました。私はそれを聞いてびっくりしました。聖霊を冒とくした人たちが悩んでいるのでかわいそうと、人の気持ちで聖書を解釈するのはよくないことです。
しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
マタイの福音書 16章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
人のことを思って聖書を解釈するというのは、イエス様が喜ばれることではありません。またイエス様はユダヤ人に教えられたのであって異邦人にではないとある神学は言いますけれども、先ほどお読みしたザ・グレートコミッションで、イエス様は、すべての国の人々を弟子としなさいと言われました。ユダヤ人だけではなくあらゆる国の人々を弟子としなさいと。ユダヤ人でない人々にもイエス様が命じられたすべてのことを守るように教えなさいと言われているわけですから、ユダヤ人だけに教えたらいいというのではありません。私たちはみな、命じられる教えを守り行うようにしなければいけないということです。聖霊を冒とくする罪は、ユダヤ人だけでなく、日本人である私たちも赦されないということを私たちは理解しておく必要があると思います。
このように、神様より人のことを思って御言葉を否定する。また、自分の信仰してる神学を御言葉よりも重んじて御言葉を否定する傾向が見られるということを、私たちは注意しなければなりません。私たちは主を大事に、愛して従うべきですし、聖書が与えられ、イエス様が与えられました。ずっと後に出来た神学を御言葉より権威あるものとして御言葉を否定するのは、間違ったやり方だと私は思っています。
私たちは御言葉をイエス様が命じられたように受け止めてしっかり守り、天国に入るものとなりたいと思います。地獄に行ったらもう出られないのです。勘違いだったとわかってもダメです。だから私たちはとくに、人を赦すということにおいては、一回赦さなかったらおわりだと言われているのではなく、赦してないなら赦しなさい、そうすれば神様も赦してくださって天国にゆけると言ってくださっています。ですから私たちは、もし赦していないならその日のうちに格闘してでも、赦しを宣言してゆくということが大切だと思います。また、聖霊を冒とくしないように、私たちは充分に気を付けてゆきたいと思います。
今日はザ・グレートコミッションを読んで、私たちは行って宣教して、その人が洗礼をうければ終わりと思ってしまいがちですが、もう一つザ・グレートコミッションには、イエス様が命じられたすべてのことを守るように教えてゆくことが私たちの大切な務めであるということが書かれていて、この三つをして初めてイエス様の弟子をつくることができるということを覚えていきたいと思います。
イエス様の命令はどれも守るべき大切な命令ですけれども、今日は特に聖書の中で、これを頑張らなければ赦されないということを二つ見てきました。人を赦すことと御霊を冒とくしないこと。このふたつはとても大切な命令です。今の時代、人のことを思って、また神学の影響で、これらの命令がないがしろにされているという悲しい現実があります。それに影響されてしまって、一人でも天国に入れないことがないようにと願います。みなさまが、イエス様が命じられる命令を大切にして、天国に凱旋されるものでありますように心から願います。
お祈りします。
愛する天の父なる神様、あなたさまの大いなる御名をほめたたえます。今日は大宣教命令から、イエス様の命じられた命令を全て守るように教えていくことがとても大切だということ、そしてその中にどうしても守らなければいけない命令が二つあるということ、それは人を赦すということと聖霊を冒とくしないことの二つであるということを教えてくださってありがとうございます。隠された罪があるなら、人を赦していない罪があるなら、クリアにされ赦すことができるように、私たちに教えてください。天国に入れるように助けてください。とうとい救い主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。