2022年4月10日
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
コリント人への手紙 第一 15章3~7節
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今日の御言葉には、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」、そして、大勢の人びとに復活のイエス様が現れたことが、最も大切なことであると記されています。つまり、イエス様の十字架の死と復活が私たちクリスチャンにとって一番大切なことだということです。
キリスト教会暦では、今週は受難週です。イエス様は木曜日に最後の晩餐をもたれ、ゲッセマネの祈りをされました。そして、捕えられ、裁判を受けられたあと、十字架にかかられました。十字架につけられたのが金曜日の朝九時だったのですが、最後三時に息を引き取られ、葬られました。そして、日曜日の朝、復活されました。
受難週は、イエス様の御苦しみを覚える特別な週です。特に今週は、これまでの受難週と趣きを変えて、イエス様の御苦しみを覚えるために、聖書の御言葉をたくさん読み、順だってイエス様の受難について見ていきたいと思います。そして特に、イエス様の地上での最後の24時間にフォーカスを当ててみていきます。
先ほどお読みした第一コリント15章の3節では、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」ことが、とても大切なことだと記されています。何週間か前に、エゼキエル戦争のこともお話しましたが、この戦争は2600年前に聖書で預言されている戦争です。ロシアが、イランやトルコと軍事同盟を結んでイスラエルを責めるという預言ですが、そのとおりに今世界が動いていることを見ても、聖書の預言がいかに確かなものかが分かります。そして、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに」とあるように、実にイエス様の十字架刑の700年も前、今から2700年も前に、預言者イザヤがイエス様の十字架のことを克明に預言しました。イザヤはメシアの預言者とも言われていますが、「聖書に書いてあるとおりに」イエス様が死なれたことを確認する意味でも、イザヤ書の御言葉をお読みします。
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
イザヤ書 53章1~12節
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このとおりイエス様が十字架にかかられる700年も前に、イザヤが克明にイエス様の十字架のことを預言し、記しているわけです。イザヤは、イエス様の十字架の苦しみは私たちのためだと記しています。また、イエス様は私たちの咎をおって死なれ、私達のためにのけ者にされ悲しみの人で病を知っていた、と。私たちの病を負い、痛みを担って死んでくださったのに、私達はイエス様が神様に罰せられ、苦しめられたと思った、とも記しています。しかし、実際には私たちの咎のために苦しんで死んでくださったとあります。そして、7節にあるように、イエス様は口を開きませんでした。これから見ていきますけれども、ピラトやヘロデが色々と聞いてもイエス様は一言もお答えになりませんでした。そしてそれにはピラトも驚いた、と聖書にありますけれども、イエス様は無駄なことは何も話されず、自己弁護されることもなく黙々と十字架に向かって歩まれました。そして、11節であるように、イエス様は「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う」とあります。そして12節の後半には「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」あります。
これはイエス様が十字架にかかられる時の描写と、イエス様の十字架の目的は何だったのかということを、700年も前に預言者イザヤが克明に預言したということです。ですからイエス様も、この天地が滅び失せない限り律法や預言者、つまり聖書の一点一画も廃れることはない、全部が成就する、と言われたのです。たとえそれが今から2000年以上前のことであっても、それは神様の言葉ですから、イザヤのあと700年後にイエス様の十字架と復活が成就しました。そして、もちろんエゼキエル戦争もこれから聖書のとおりになっていきます。
このように聖書がいかに正確な神様の言葉であるのかということと、それをいかに大切にしなければいけないのかがわかります。そして冒頭でお読みした第一コリント15章の御言葉では、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」とあります。イザヤの書に書かれているとおり、私たちの罪のためにイエス様が死なれたということが、私達が覚えるべき大切なことということです。次の御言葉をお読みします。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ローマ人への手紙 6章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「罪の報酬は死」だとあります。前の訳では「罪の支払う報酬は死」ですが、「罪の報酬は死」と聞くと、「いやいや、そんなの当たり前じゃないか。私たちみんな肉体が滅んで死んでしまうんだから。それは当たり前でしょ」と思われる方もいるかもしれません。しかし、聖書がここで言っている死は、肉体の死を指しているのではなく、「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあるように、永遠の命に対しての死、なのです。もちろん、私たちの肉体は滅びます。それは病気であるのか、事故であるのか、もちろんわかりませんけれども、人は健やかであっても120年しか生きないわけですから、ここにいる私たちは皆、100年経ったら誰もいないということだけは確かです。このように、皆死にますけれども、「罪の報酬は死」というのは、肉体の死ではなく、神様との関係の断絶です。反対に、「永遠の命」とは、神の子とされて、神様とイエス様を知り、親しく交わり、そしてこの地上の生を終えたなら天国に行ける、ということです。つまり、永遠の命は今この地上から始まっているのです。そして、最終的に神様がおられ、イエス様がおられる天国にいけるということです。
しかし「死」というのはそれと対比するものです。聖書に書いてあるように、肉体が滅んだあと、神様もイエス様もおられない、悪いものしかない、火と硫黄の燃える池の地獄に投げ込まれて、昼も夜も永遠に苦しみ、滅びるということです。また、神様やイエス様との関係も永遠に断絶することが「死」です。命と対比されるのが、この「死」なのです。
そして、イエス様は、イザヤが預言したとおり、私たちの代わりに罪を背負われて十字架で死なれました。実はイエス様の十字架の死は、私たちが経験する死とは全く質の違う死です。私たちクリスチャンは皆死を経験しますけれども、ある人は殉教者として死にます。しかし、殉教するものは幸いだとあります。イエス様とイエス様の言葉によって死ぬものは幸いなのです。ある本を読むと、その人たちは火あぶりの刑にされるのに喜んで死んでいった、とあります。それなのに、イエス様が十字架に向かわれた時の様子は全然違いました。本当に、苦しまれ悶えられて、できればこの杯を取ってほしいと神様に三度も祈られたのです。ですから、たとえ私たちクリスチャンにとっての死が殉教の死であったとしても、私たちが迎える死とイエス様の死は全然違います。「罪の報酬は死」であるこの「死」を、イエス様は私達の身代わりに経験されました。
ですから、イエスさまの迎えられた死は、神様から私たちの罪に対する呪いを一身に受けられ、呪われたものとなって十字架にかかり、文字どおり地獄の苦しみでした。対して私たちクリスチャンの死は違います。確かに肉体の苦しみを通されるところがあったとしても、「私は世の終わりまであなたがたと共にいる」とイエス様が約束された通り、最後の息を引き取る時までイエス様は共にいてくださいます。また、聖霊に満たされ、永遠の命を頂いて、古い肉体を脱ぎ捨てて天国に行けるという約束を受けています。私達にとっての死は永遠の命への通過点に過ぎないわけです。ですから、私たちが迎える死と、イエス様の十字架の死は全然違うものです。イエス様は私たちの罪のために呪われたものとなって、神様との親しい関係が断たれ、地獄の苦しみという、死を迎えられました。イエス様は非常に苦しまれたということを聖書の御言葉から知ることができます。そして、先ほどお話したように、今日は聖書を読みながら、イエス様が地上で過ごされた24時間にスポットを当ていきたいと思います。
それは本当に濃厚な24時間でした。どんなに私たちのために、神の子であるイエス様がイザヤが預言されてるように嘲られ、罵られて、本当に苦しまれて死を迎えられたのか見ていきたいと思います。今日はマルコの福音書をメインのテキストにしていきますが、実はイエス様の最後の24時間を全て一つの福音書が記していることはありません。このため、マルコの福音書をメインとして、そこに書かれていないことについては他の福音書から見ていきます。このことをとおして、イエス様のお苦しみはどんなに大きいものだったのか、そして私たちの罪が本当に大きいものだったのでイエス様はどんなに苦しんで死なれたのかについて、もう一度振り返りたいと思います。まず、マルコの福音書14章10から11節をお読みします。
さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。
マルコの福音書 14章10~11節
彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
十二弟子の一人であるイスカリオテユダは、非常にお金が好きな人でした。そして、自分の金銭欲に目がくらんで、イエス様を引き渡し、お金を欲しいと思ってイエス様を裏切ったのです。ずっとイエス様と3年も一緒に行動を共にした弟子の一人が、色々たくさん教えてきたのにも関わらず、お金という欲のために裏切ってきたのです。これはイエス様にとって本当に大きい悲しみ、苦しみだったと思います。ウクライナの女性も、「あの人は兵士の妻だ」と密告されてロシア兵にレイプされ、本当に苦しかった、もう死にたいと言っていましたけれども、ずっと一緒にいた人から裏切られること、その人の欲のために裏切られることは本当に大きな悲しみ、苦しみです。
そして、ここから最後の晩餐の場面に移ります。最後の晩餐ですから、夕食です。イエス様が十字架で死なれたのは3時ですから、そのちょうど24時間前の5時ぐらいから始まったのか、何時に始まったのかは書かれていませんが、この最後の晩餐をイエス様はお弟子さんたちと持たれました。その場面がマルコの福音書の12節から25節まで記されています。
種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
マルコの福音書 14章12~25節
イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。
そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。
すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。
夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。
そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」
イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。
人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
これが最後の晩餐の場面ですが、十字架にかけられる前日、木曜日の夕方に12人のお弟子さん達と一緒にイエス様は最後の晩餐を持たれました。この最後の晩餐には2つの意味があります。そのうちの一つは、「イエス様は過越の成就としてこられた」ということです。それでは、過越とはどういう意味でしょうか。
イスラエルがエジプトで虐げられて奴隷となっていた時に、あまりにもその苦しみが大きかったので、その声が神様に届き、神様は指導者モーセを立てられました。そして、虐げられていたイスラエルの民をエジプトから引き出、約束の地カナンに連れて行こうと計画されました。しかし、エジプトのファラオは心をかたくなにして、神様の色々な奇跡を見たにも関わらず頑として行かせようとしませんでした。そして、最後の奇跡として神様はエジプトのすべての家の長子と家畜の初子を打つと言われました。でも、イスラエルに対しては、あなた方は子羊かやぎの血を2本の門柱と鴨居に塗りなさい、と言われました。そうすれば神様はそれを見て、そこを過ぎ越して、その家の長子と初子は死なない、と言われたのです。そして、実際にこのことが起こりました。エジプトはすべての長子と初子が打たれて亡くなりました。しかし、2本の門柱と鴨居に小羊かやぎの家が塗ってあった家は何の害もありませんでした。この出来事が過越です。
旧約聖書はこれから来るものの陰で本体は新約聖書にあります。そして、この過越の出来事は、イエス様にあって成就しています。イエス様が死なれたのはこの過越を記念する日でした。イエス様の血が塗られている者を神様は過ぎ越して下さるということなのです。本来なら、すべての人が罪人で、「罪の支払う報酬は死」ですから、皆滅びるべき者です。けれども、子羊とやぎの血が塗られている家を神様が見過ごされ、何の害もなかったように、ただイエス様の血潮によって、罪ある者なのに罪赦され、見過ごしてくださるという意味なのです。
そして、最後の晩餐のもう一つの意味は、聖餐の制定です。マルコの14章22節から24節をもう一度お読みします。
さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
マルコの福音書 14章22~24節
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様の裂かれた体を象徴するパンが裂かれ、イエス様の血潮を象徴する杯を飲むことによって、イエス様の十字架を覚えるのが聖餐です。この聖餐の制定が最後の晩餐の二つ目の意味です。このように一つ目の意味が過越、そして二つ目の意味は聖餐の制定です。次にマルコの福音書14章26~31節もお読みします。
そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。
マルコの福音書 14章26~31節
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。
しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
最後の晩餐を終えて皆で賛美の歌を歌いながらオリーブ山に行った、とあるように、皆がイエス様を中心として神様を称える良い時を持ちました。しかし、このあとイエス様は「あなた方はみなつまずく」と言われました。そして、「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあることが成就するけれども、「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」と言われました。その時、イエス様に皆がつまずいても私はつまずかないと、ペテロが大見栄を切って言いました。しかし、イエス様は彼に言われました。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
最後の晩餐が終わったのは夜の7時か8時ぐらいでしょうか。鶏が鳴く夜明け前にはもうペテロはイエス様を知らないと三度も否定して、みなも同じように、イエス様を見捨てて逃げてしまうということが実際に起こりました。そこをちょっと飛んで見てみましょう。マルコの福音書14章66~72節です。ここではイエス様が言われたように、10時間もたたないうちにイエス様を否定しているわけです。
ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。
マルコの福音書 14章66~72節
ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」
ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように10時間後にはイエス様を知らないとペテロは言いました。そして、嘘ならのろわれてもよいと言ったときに、鶏が鳴いたので、ペテロはイエス様が「鶏がなく前にあなたは3度私を知らないと言います」と言われた言葉を思い出して激しく泣いた、とあります。
よく、イスカリオテのユダとペテロはどう違うんですか、という疑問を聞きますが、二人は全然違うわけです。イスカリオテのユダは最初からイエス様を裏切ってお金を手に入れたいと思っていました。イエス様よりもお金の方が大切で自分の欲望を満たすことが大切という前提に立つ人だったわけです。しかし、ペテロはイエス様に本当は従いたかったけれども、自分の弱さゆえに従いきれずに、知らないと三度も否定してしまいました。そのためイエス様が言われたことを思い出して激しく泣いた、とあるのです。最初からイエス様よりお金の方が大切と思っていた人と全然違います。なので、イスカリオテのユダには「そんな人は生まれてこない方が良かった」と言われたのに対して、ペテロには「私はあなたの信仰がなくならないようにとりなしました」とイエス様は言われたのです。イエス様は、このことが起こるということをご存知だったのでペテロをとりなして、「あなたは立ち直ったら他人を立ち直らせてあげなさい」と言いました。ペテロを愛して強められたのです。ですから、イスカリオテのユダとペテロとは違います。このように、私たちが皆から見捨てられるとしても、最初から自分の欲のために裏切る人と、弱さのゆえに本当はそうしたくないんだけれども、そうしてしまう人とをしっかりと見分けていく必要があります。そして弱さのゆえに裏切った人をイエス様がされたように赦し、とりなし、強めていくことが大切です。
しかし、どちらにしても、イエス様は皆から見捨てられるという大きな悲しみを経験されました。次にゲツセマネの祈りという場面に入っていきます。
さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
マルコの福音書 14章32~42節
そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様はペテロ、ヤコブとヨハネを一緒に連れてゲッセマネの園で祈られました。そこでイエス様は深く悩みもだえられた、とあります。そして「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい」と言われました。特に信頼をおける3人の弟子たちを連れて一緒に祈ってほしいと言われたのです。このように、イエス様の死は殉教者が迎える死と全然違います。私たちには最後までイエス様がいてくださいます。そして、天国に連れていってくださるという面で平安に満ちた最期を迎えることができます。けれどもイエス様は私たちの罪を背負って神様の呪いを受けて十字架で死なれました。それまで神様との親しい関係が絶たれるなんてことを経験されたことは一度もなかったのです。この地に来られる前からも、世界の創造の時も、その前からずっとイエス様は神様と共におられました。しかし、イエス様は、これから神様との関係が引き裂かれ、苦しめられ、地獄の苦しみを味わうことをご存知でした。なのでイエス様は深く悩みもだえて「悲しみのあまり死ぬほどだ」と言われたのです。そしてこう言われました。「父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」
人々の罪の呪いを受けて地獄の苦しみを味わうのはあまりにも大きいことなので、できればこの杯を取り去ってください、と言われたのです。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られました。この祈りを3度繰り返されたあと、全てを神様にゆだねられて、イエス様はゲッセマネでの祈りを終えられました。そしてそのあとイエス様は捕えられることになったのです。ですから、ゲッセマネの祈りは、イエス様のこれから起こる苦しみをよく表しており、私たちが迎える死とは全く異なるということを覚えておく必要があります。そして、次の箇所は、ユダに裏切られてイエス様が捕えられる場面になります。
そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
マルコの福音書 14章43~52節
イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このようにイエス様はユダに裏切られ、律法学者、祭司長たちや長老たちから差し向けられた群集によって捕えられました。そのとき、イエス様のためなら死んでもいいとさえ言った弟子たち皆が逃げてしまうということを経験されました。そしてもうこの時点では真夜中でした。そこからイエス様を十字架につけるための裁判が始まりました。イエス様が十字架についたのは朝9時ですから、急ピッチで裁判が行われたのです。
裁判は2回あります。まずユダヤ人の議会です。指導者たちは、最初からイエス様に対する妬みで十字架にかけて殺したいと思っていたので、その決議を議会でしようとしたのです。その議会の場面が3場面あります。そして、そこからローマ総督のピラトの前で裁判を受けられました。というのは、当時のユダヤはローマ帝国の属国だったので、ユダヤ人達が人を死刑に定めることはできなかったからです。ですから、彼らは当時のローマの総督であったピラトに、イエス様を死刑にしてほしいと頼みました。こうしてイエス様は最初の議会で死刑に定められたあと、最終的にローマ総督のピラトのもとで十字架につけられることになりました。
そして、どういう風にイエス様の裁判が行われたのかについて見ていきます。まずアンナスの前にイエス様は連れていかれました。これはヨハネの福音書にしか記されていない箇所です。
一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
ヨハネの福音書 18章12~14節
まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。
カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。
ヨハネの福音書 18章19~24節
イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。
なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」
アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
アンナスはその年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったのですが、彼は非常に権力を握っていた人でした。捕えられたあと、このアンナスのところにイエス様は連れていかれました。そして、その下役の一人が「大祭司にそのような答え方をするのか」といって平手でイエス様を打った、とあります。この様にイエス様はそこでひどい仕打ちを受けられました。そしてアンナスは、カヤパのところにイエス様を送りました。そこからイエス様はユダヤの議会で裁判にかけられました。マルコの福音書に戻ってお読みします。
人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。
マルコの福音書 14章53~65節
ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。
さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
お読みしたように議会は真夜中に招集されました。そして祭司長たちと最高法院全体は、イエス様を最初から死刑にするためイエス様に不利な証言を得ようとしましたが、何も見つかりませんでした。ある者は偽証したけれども一致が得られなかったので、大祭司は再びイエス様に尋ねました。お前は本当にキリストなのか、神の子なのか、と。イエス様はそれまで黙ったままでしたが、このとき初めて口を開いて「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と言われました。
これは預言で言われていたことなので、当然のことをイエス様は言われたのです。しかし大祭司は自分の衣を引き裂いて、これ以上証人はいらない、神様への冒涜だ、と、イエス様は死に値する、と言いました。全く死には値しないのですが彼らは勝手にそうと決めつけたのです。言ってみれば不当な裁判だったわけです。しかも当時、真夜中から明け方にかけてこんな裁判をすること自体が違法でした。彼らは最初から死刑にするつもりで全く違法な裁判にイエス様をかけたのです。そしてこの議会でイエス様は死を宣告されました。
先ほど申し上げたようにユダヤはローマ帝国の属国でしたから、イエス様を死刑にすることができませんでした。またこのような裁判を起こすこと自体違法だったため、彼らは夜明けにこの裁判の判決を法的に有効なものとしました。これがマルコの福音書15章の1節に記されています。
夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
マルコの福音書 15章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、違法な裁判を真夜中から夜明けまでやっていたので、夜が明けてからもう一度、律法学者たちや長老たちは最高法院で協議を行ないました。イエス様が神様を冒涜したので死刑に値すると正式に認定したのです。そしてユダヤ人たちには死刑にする権限がなかったので、その権威を持っているローマ総督のピラトのもとに送りました。次に、イエス様がピラトの前に出られたときについて書かれている箇所をお読みします。
ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
マルコの福音書 15章2~5節
そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。
ピラトは再びイエスに尋ねた。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。」
しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここでは預言者イザヤが語ったように、ピラトが尋ねてもイエス様は何もお答えになりませんでした。イエス様は彼らの言うことに対して何も反論されなかったのです。
次にピラトはイエス様をヘロデのところに送りました。この場面はマルコの福音書からは抜けているので、ルカの福音書から見ていきます。
ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には、訴える理由が何も見つからない」と言った。
ルカの福音書 23章4~12節
しかし彼らは、「この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」と言い張った。
それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、
ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。
ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。
それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。
ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。
この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このようにピラトはイエス様がガリラヤの出身であることを知り、当時ガリラヤの司法権を持っていたヘロデのところに送ってイエス様を裁いてもらおうとしました。ヘロデはイエス様を見ると非常に喜んで話を聞こうとして、いろいろ質問しましたが、イエス様は何もお答えにならなかった、とあります。ここでも、イザヤの預言が成就したのです。そこでヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエス様を侮辱したりからかったりしてから、派手な衣を着せてピラトに送り返しました。そして最後、再度ピラトのもとで判決が下されます。これがマルコの福音書15章の6節から15節にあります。
ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。
マルコの福音書 15章6~15節
そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。
群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
そこでピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」
ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。
しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。
そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ピラトは、妬みから死刑に処せられるためイエス様が自分の元に送られてきたのを知っていたので、なんとかイエス様を救い出そうとしました。けれども、祭司長たちに先導された群衆は十字架につけろ、十字架につけろと叫んでやみませんでした。それでピラトは群衆を満足させようとイエス様をむちで打ってから、十字架につけるために引き渡すことにしたのです。このようにしてイエス様の十字架刑が確定したということです。全く理不尽な裁判によってイエス様は十字架にかけられたわけですが、マルコの15章からまた続きをお読みします。
兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
マルコの福音書 15章16~39節
そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。
彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このようにイエス様を十字架につけるために、ピラトはむちで打ってからイエス様を兵士達に引き渡しました。その兵士達はイエス様に紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶせて「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼しました。このようにからかって侮辱したわけです。また、葦の棒でイエス様の頭を叩いて、唾をかけたり、ひざまずいて拝んだ、とあります。このように非常な苦しみをイエス様は経験されました。そして、イエス様を十字架につけるために連れ出した、とあります。25節を読むと彼らがイエス様を十字架につけたのは午前9時でした。
十字架につけるとき、両手首に大きな釘を打ちます。また足首のところにも大きい釘を打ちます。十字架刑は全体重を両手と両足首にかけて、苦しみ悶え、衰弱して死を待つという無惨な刑でした。これはあまりにも酷いローマの死刑方法だったのでローマ市民には適用されませんでした。イエス様はこのような処刑法にかけられたのです。木にかけられるものは呪われたものとありますから、イエスさまは本当に文字どおり呪われたものとなり、私たちの罪に対する神様の怒りを全部引き受けてくださったのです。そして通りすがりの人も頭をふりながらイエス様を罵って、十字架から降りてきて自分を救ってみろ、などと言いました。祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、変わるがわるイエス様を嘲って「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう」と言いました。このようにイエス様は十字架にはりつけにされながら、人々から罵りも受け、苦しまれました。
そして33節を見ると「十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた」とあります。この時、イエス様は神様との完全な断絶を経験されました。これはまさに地獄の苦しみで、イエス様にとって初めての経験でした。私たちの罪に対する神様の呪いを受けられることによって神様との親しい関係が断たれたので、神様との親しい関係を持つなんてことはありえないわけです。イエス様にはこれまで神様との親しい関係があったのに、この3時間はもう神様を呼んでもおられない、本当に文字どおり地獄の苦しみでした。私たちの罪の呪いを背負われて文字どおり地獄の苦しみを3時間にわたり経験されたのです。
そしてイエス様は午後三時に大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と。これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。実はこれをもってキリスト教の異端とされる人たちは言います。「だからイエス様の十字架は失敗だったんだ。神様から捨てられたから失敗だったんだ」と。しかしそうではありません。そう叫ばれだからこそ、イエス様の十字架は成功だったのです。私たちの罪の呪いを受けられて、神様との断絶によって地獄の苦しみを経験されたので、罪の支払う報酬である死に打ち勝ちました。こうして私たちはそれをもってイエス様の十字架は成功だったと確信して言えるのです。
そしてイエス様は大声をあげて息を引き取られました。38節を読むと、すると神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた、とあります。これはどういう意味かと言うと、神殿には至聖所と聖所を分ける幕があったのですが、聖所は大祭司が年に一度だけ神様の臨在の前に出るために行ける場所でした。年に一度、しかも大祭司だけ入れた場所だったのに、その幕が真っ二つに裂けたのです。これが象徴しているのは、イエス様の死によって神様と私たちを隔てるものがなくなり、いつでも神様の臨在に近づけるということです。
そしてイエス様の正面に立っていた百人隊長は、イエス様がこのように息を引き取られるのを見て、「この方は本当に神の子であった」と証言しました。そしてイエス様の葬りが40節から47節に記されています。
女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
マルコの福音書 15章40~47節
イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。
さて、すでに夕方になっていた。その日は備え日、すなわち安息日の前日であったので、
アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。そして百人隊長を呼び、イエスがすでに死んだのかどうか尋ねた。
百人隊長に確認すると、ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。
マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このようにイエス様が十字架にかけられてからもう夕方になっていました。そしてそのときは安息日の前日だった、とあります。ユダヤ人にとって安息日は土曜日ですが、その前日でもユダヤ人にとっては夕方から一日が始まります。ですから、安息日が始まるのでイエス様のからだを引き渡してほしいと、有力な議員であったヨセフがピラトに頼みました。そしてピラトはイエス様の遺体をヨセフに下げ渡したので、ヨセフはイエス様を降ろして、亜麻布でそのからだを包んで、岩を掘って造った墓に納めました。そして墓の入口には石を転がしておきました。マグダラのマリアとヨセフの母マリアはイエス様がどこに納めれらているのかしっかりと見ていた、とあります。
当時は誰もそのことがわからなかったのですが、イエス様は聖書に書かれているとおりに私たちの咎のために死なれました。また、イエス様は人が顔を背けるほど人々からのけ者にされたのに、全く口を開かず、反論もされませんでした。このイエス様の出来事の700年も前にイザヤによって預言されたとおり、イエス様は十字架で死なれたのです。
イエス様の十字架の死は単なる死ではありません。その支払う報酬が死である罪、すなわち、神様との永遠の断絶を解決したのです。そしてイエス様は永遠の命である神様との親しい交わりを取り戻すため、その死によって私たちのために道を開いてくださったのです。神の子であるイエス様が私たちの咎と罪のために、地獄の苦しみを経験し死んでくださいました。
ちょっと今日は長く聖書をお読みしましたけれども、以上のことが聖書に書かれているとおり起こったということを見てきました。イエス様の最後の24時間がどんなに苦しい24時間だったのかを思い起こして、イエス様の十字架を感謝して、この受難週を過ごしていきたいと思います。