2022年4月17日
夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。
マタイの福音書 27章57節~28章15節
この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。
ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。
マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。
明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、
こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。
ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」
ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」
そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。
さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。
そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。
もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
キリスト教の教えの中で最も大切なことは、先週、第一コリント15章から見ていきました。最も大切なこととして、パウロが伝えたのは、次の御言葉の通りです。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと」、そして、三日目によみがえり、500人以上のお弟子さん達に現われられたことです。ですから、一番大切な私たちの信仰の核となるのが、イエス様の十字架と復活です。
先週は、受難週の礼拝でした。イエス様の十字架のお苦しみ、また、意味について見ていきました。今週は、イエス様が墓からよみがえられた日、イースターの礼拝です。世界には三大宗教がありますけれども、墓からよみがえって、今も生きておられるというような聖人は、他に誰もいません。イエス様だけが墓からよみがえられ、今も生きておられるお方です。
今日は、先ほどお読みした、マタイの27章57節から28章15節を通して、イースターのメッセージを、主から聞いていきたいと思います。イエス様は確かに、死なれて、葬られて、27章60節を読むと、岩を掘って作った新しい墓に納められていました。そして、墓の入り口に大きな石を転がしておいて、その日は安息日だったので、皆が立ち去りました。金曜日の夕方から安息日が始まって、どんな仕事もしてはいけないので、皆は金曜日の夕方、安息日が始まる前にイエス様を墓に納めました。ユダヤの日の考え方というのは、私たちが考えるのと違って、ユダヤ教徒にとっては、朝からではなく夕から一日が始まります。ですから、安息日も、土曜日の夕方、日が沈んでから、日曜日の日が沈むまでです。
それはともかく、安息日が始まる前に、イエス様は葬られました。そして、イエス様が墓に納められていたのを、マグダラのマリアともう一人のマリアは見ていました。大きな石を墓の入り口に置いて、封印していたのですが、28章の1節には「安息日が終わって週の初めの日の明け方(日曜日の早朝のこと)、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである」と書かれています。天使が天から降りてきて、石を脇に転がしたのです。そして「その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった」つまり、気絶してしまったのです。そして、御使いたちは、マグダラのマリアともう一人のマリアに言いました。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい」と。このように天使が言いましたけれども、イエス様は、確かに、墓からよみがえられました。そして、女たちはイエス様がよみがえられたことを伝えに、喜んで、急いで墓から立ち去りました。しかし、9節を見ると、イエス様が「おはよう」と言って彼女たちの前に現れました。「彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した」と、あります。
イエス様は、確かに、よみがえられて、このように、マグダラのマリアともう一人のマリアに現われてくださったのです。そして、ここで注目したいのは、最初に天使が、イエス様の復活のメッセージを伝えたのも、最初に復活されたイエス様に会ったのも、十二人の使徒達とか、男性のリーダーたちではなかった、ということです。それはマグダラのマリアとマリア、いわゆる名もない女性だったわけです。当時は、女性の地位はとても低く、男性しか働けない時代でした。この時代に女性が働いて、金銭を得たり生活の糧を得ることは無理で、女性の地位は非常に低かったのです。けれども、イエス様の復活のメッセージは、最初に女性たちに伝えられました。そして、イエス様が最初に出会われたのは女性だったということは、私たちに本当に大きな慰めと励ましを与えてくれます。
イエス様は、その人の性別、地位や経済状態、この世でどんな人かを見ておられるのではありません。そうではなく、マグダラのマリアともう一人のマリアのように、イエス様を本当に求めて「イエス様はどうなったんだろう」と墓を見に行き、イエス様のことを本当に心から愛して思っていた、女性に現われてくださったのです。聖書には、「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。どんなに外見が立派であっても、その心が主にかなわない人は退けられます。でも、女性であるとか、歳が行っているとか、経済的な地位も何もない、と言っても、本当に心からイエス様を求める人に、イエス様は出会ってくださいます。その人を愛してくださいます。ですから、私たちは、本当に、心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、主を愛していくことがすごく大切です。主が喜ばれるのは、本当に主を愛する人だということです。そして、その人の社会的地位とか、関係なく、イエス様は現われてくださいます。もう、誰にでもオープンなのです。年齢も何も関係なく、イエス様を心から求める人にご自身を現し、メッセージを与えてくださいます。そして、そのことは、イエス様が、女性たちに最初に現われてくださったことからも知ることができます。
そして、ユダヤ人とそのリーダーたちについてですが、イエス様のご遺体が盗み出されると困るからと言って、ピラトのところに行って、お願いしました。番兵を出して、弟子たちがイエス様を盗み出さないようにしてください、とピラトに願い出ました。ピラトは番兵たちを送り、墓に、決して人が簡単には動かせないような、大きな石で封印しました。そして弟子たちが遺体を盗み出すことがないように、しっかりと寝ずの番もさせました。しかし、先ほど読みしたように、上から天使が降りてきて、大きな地震が起こり、石が転がされて、イエス様はよみがえられました。それを知った、ユダヤ人の祭司長やリーダーたちは、多額のお金を番兵たちに与えて、「弟子たちが夜やってきて、私たちが眠っている間にイエス様を盗んでいった、ということにしてくれ」と言いました。
けれども、そんなことはあり得ないわけです。当時のローマの兵士というのは、寝ずの番をしなさいと言われたら、もう命がけで寝ずの番をしていました。もし、彼らが任務を忘れて、眠りこけていたならば、「あの、ちょっと寝てしまいました」と言って頭を掻いて、それで終わりではなかったのです。そうではなく、彼らは任務を遂行しない、ということで、命さえ取られるような危険にあったのです。当時のローマの兵士の規則は、非常に厳しいものでした。ですから、彼らが眠りこけるということは、まずありません。それに、イエス様はどうなったのか、見に行こうとしてる人はマグダラのマリアともう一人の女性だけでした。あのペテロを始め、十二人たちは、イエス様が死からよみがえる、という様なことは何も思っていませんでした。大体、彼らは、イエス様が生きていらっしゃった時から、心はイエス様に従いたいと思っていましたけれども、怖くて、イエス様を知らないと言って、見捨てて逃げてしまった人たちなのです。そんなイエス様も見捨てて逃げた人たちが、ローマの兵士が寝ずの番をしているところに行って、大きな石を皆で転がして、イエス様の遺体を盗む、なんてことは、絶対にあり得ないわけです。
お金によって買収された兵士たちによって、「弟子たちによってイエス様は盗み出された」という話が今もある、と聖書に書かれています。確かに、そういう風にイスラエルで言われていることもありますが、そういうことはあり得ないのです。イエス様は、確かに、死からよみがえられて、墓からよみがえられたことを、マタイの27章から28章までの御言葉から知ることができます。
そして、ここから、イエス様の復活が意味するところを見ていきたいと思います。イエス様がよみがえられたことによって、私たちは次のことがはっきりとわかります。それはイエス様の十字架は有効だった、ということです。もし、私たちの罪の報酬である死のためにイエス様が十字架にかかって、私たちの罪の呪いを受けて死んでくださり、墓に葬られたままだったなら、その十字架が成功だったかどうか、わかりません。本当に、私たちの罪を背負って、身代わりに十字架につけられて死なれたのかどうか、わからないわけです。いくら、そうです、そうです、と言ったとしても、です。でも、罪の支払う報酬である死に打ち勝ち、よみがえられたことによって、イエス様は確かに、私たち人間の罪を全部背負って十字架で死んでくだり、それは本当に成功だったことがわかるのです。
主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
ローマ人への手紙 4章25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、イエス様は、神様の私たちに対する罪の呪いを全部背負って死んでくださいました。そして、「私たちが義と認められるために、よみがえられました」とあります。すなわち、イエス様の十字架は有効で、成功だったこと、そして、イエス様にあって、罪は完全に無効になったことがわかります。そして私たちが行ったわざではなく、イエス様の十字架の上で流された血潮の贖いのゆえに、罪赦され、義と認められるために、よみがえってくださった、と聖書にあります。
そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
コリント人への手紙 第一 15章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、イエス様がよみがえられなかったら、私たちの信仰は虚しいのです。イエス様は私の罪のために死んでくださったと言っても、イエス様が死んだまま墓におられるというのは、虚しいわけです。そして、私達の罪はどうなったのかも、わからない状態です。しかし、イエス様はよみがえり、死に打ち勝ってくださいました。私たちの信仰はおおいに意味があるということです。そして、イエス様は確かに、イザヤが預言したように、私たちの病を負い、私たちの咎、罪を負い、十字架で死んでくださったことが、有効になったのです。イエス様にあって、私たちは病の癒し、そして、罪の赦しを受ける恵みに預かりました。ヨハネ3章16節には次の様に記されています。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
神様が、実にその一人子であるイエス様をお与えになるほど、私たちを愛してくださいました。そして、それは御子、イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためであると、あります。永遠の命とは、神様、またイエス様を知り、親しい交わりを持つことです。この肉体が滅んでも、それは単なる通過点であって、新しい体をいただき、イエス様と神様がおられる天国に導かれるという、永遠の命を今から私たちは持てるということです。
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様を信じるとは、イエス様は神様の一人子であって、私たちの罪のために十字架で死なれ、確かに葬られたけれども、三日目によみがえってくださったということ、そして、私たちの罪の赦しはイエス様にあってある、ということを信じることです。イエス様を私たちの救い主、また主として受け入れることが、信じることです。そして、そういう者は永遠の命を持っている、とあります。ですから、永遠の命は天国で与えられるものではなくて、神様とイエス様との親しい交わり、つまり永遠の命を私たちは、もうこの地上から持っているということです。
そして、「御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」とあります。多くの人は誤解して、イエス様を私の救い主、私の主ということに対して、「はい!信じます」と言います。しかし、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出す」とイエス様は言われたのです。実は、イエス様が言われたように、自分の十字架を負うことは、犠牲も必要です。好き勝手に生きてイエス様に従うとことはできないわけなのです。ですから、「イエス様は、主です、救い主です」ということに対して、人は「はい!」と言いますが、「日々、自分の十字架を負って私に従ってきなさい」という招きに対しては、なかなか「はい」と言える人はいないのです。
でも、ここではっきり言われてるのは、「御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」ということです。「信じるだけで救われる」という言葉が一人歩きして、「イエス様を救い主、主として信じるだけで天国に行けるんですよ」と言われています。けれども、そうではないのです。イエス様は、「私に従いなさい。もし、私についてきたいと思うなら、その者も私がいるところにいるべきです」と言われました。これは、特別な人だけでなく、皆に呼ばれてるわけです。イエス様に従いなさい、と。そして、イエス様に聞き従う者こそ、永遠の命を得る、と言われたのです。そして、この永遠の命は、世界のどんな宝を持ってしても買えない、本当に素晴らしいものです。確かに、イエス様に「はい!」と言うのは簡単ですが、「イエス様に従います」と言うのは難しいので、「天国に行く道は狭い。それを見出すものは稀だ」とあります。けれども、「イエス様が辿られた苦しみの道を、自分の負うべき十字架を負って従いなさい」とイエス様は招かれていますから、それに対して私たちは「はい」と言って聞き従うことが大切です。
そして、「そういう者は、永遠の命を持っている」とあります。「信じる者」と書かれていますが、原語で読むと、どちらかと言うと「信頼する」ことです。信頼して、自分自身を委ねきるというのが、3章36節の意味です。ですから、ただ単に、「イエス様は私のために十字架で死んで下さった。私の救い主です、主です」と言うことから、もっと深い意味があるのです。信頼して、全部をイエス様に委ねていく、そして、従っていく、ということです。
そして、イエス様が歩まれたように、私たちも負うべき十字架があります。イエス様は、何も、幸せな道を用意されて、それが私たちの前途にあるとは言われませんでした。この世にあっては、あなた方は確かに苦難がある、と言われたのです。イエス様を信じる、と告白するが故に苦難もあると言われました。ですから、私たちもイエス様と同じように、自分の十字架を負って、イエス様に従う時には苦しみもあります。イエス様に聞き従うための苦しみもありますけれども、イエス様に聞き従うものは永遠の命を得られるのです。そして、それはこの世の宝の何ものにも比べられないほど、高価なものです。神様との親しい交わり、イエス様との親しい交わりを地上で持って、そして天国に行く、という確証が私達に与えられています。私たちは、イエス様の十字架は有効だった、ということと、確かにイエス様にあって全ての罪は許されているということを、ぜひ、覚えていきたいと思います。そして、その赦しを受けるためにイエス様に全てを委ね、「私は罪人です。今まで罪を犯してきました。でも、これからはイエス様に信頼して、イエス様に聞き従って生きていきます」と言う者でありたいと思います。
イエス様は主であり救い主だと聖書にあります。最初「主」という言葉が先に来ます。主人には聞き従うものです。ですから、イエス様が十字架で私の罪のために苦しみ、刑罰を身代わりに受け、私のすべての罪の代価を十字架で支払ってくださったということを信じ、従うものに、イエス様は永遠の命を与えると約束されています。でも、イエス様を信じなければ、「神の怒りがその上にとどまる」とあります。神の怒りがとどまったら、大変ですね。命を見ることがない、とありますが、神様もイエス様もおられないところがが地獄です。火と硫黄の燃える池の中で、昼も夜も永遠に苦しみを受けるところが地獄です。この地上はまだ中間で、神様もイエス様も、まだおられるので、良いものも悪いものも共存しています。けれども、地獄に行ったら神様はおられないし、イエス様もおられない、何も良いものはないです。本当に絶望しかありません。そのようなところで、永遠に昼も夜も苦しみを受け、地獄に投げ入れられる、とあるのです。神様の怒りが留まる、というのは、そういうことです。
十字架の死と復活が示すことは、まず、復活されたことによって、イエス様の十字架は成功だったということです。そして、イエス様がよみがえられたのなら、イエス様を信じる私たちもイエス様のようによみがえる、ということです。
そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
コリント人への手紙 第一 15章17~22節
そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」とあります。私たちイエス様を信じる者も、イエス様にあってイエス様と同じようによみがえる、という約束を与えられているのです。イエス様と同じような形で、新しい体を頂くのです。
天国に行った幼いコルトン君が、地上で全然会ったこともない、ひいおじいちゃんから、天国で、「私はあなたのひいおじいちゃんだよ」と紹介を受けたり、コルトン君のお父さんと牧場で遊んだ話をしてもらいました。その時、コルトン君は、「ひいおじいちゃんなのに全然年取ってないな」と思ったそうです。そして、地上に帰ってきた時に、「僕はね、ひいおじいちゃんと会ったよ。お父さんがちっちゃいとき、牧場で遊んだことを話してくれたよ」というようなことを言ったので、お父さんは、自分のおじいちゃんにあたる人の写真を取り寄せてきました。そして、「この人と天国であったのか?」と聞いたら、「こんな年寄りじゃないし眼鏡もかけてない」とコルトン君は言いました。そこで若い時の写真を取り寄せて見せたら、「この人、この人」と言ったそうです。どうやら、天国では、地上で一番、エネルギッシュな30歳ぐらいのときの姿でよみがえるということがわかります。けれども、はっきりと、この人だと分かる形で、しかも、眼鏡なんかいらない、そういう形でよみがえるようです。
イエス様と同じようにして、私たちもよみがえることが、イエス様の復活を通して、保証として与えられています。そして、三つ目に、私たちがイエス様の復活によって、はっきりと分かるのは、イエス様が言われたことは全部信用できる、ということです。私たちだって、イエス様が復活される、なんてことはとても信じられなかった者です。理性的に、死んでも復活するなんて、信じられなかったのに、確かにイエス様は復活されたのです。ですから、聖書に書かれている全てのことは、例えば、私たちの理性が受け入れられなかったとしても、全部信頼に値するものです。
イエス様の言葉は本当にすべて、真剣に聞いていかないといけないし、守っていかないといけない、ということを私たちは知ることができます。
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ルカの福音書 21章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今、ウクライナの方で、核戦争の問題があって、次は日本も、北海道も核でやられるんじゃないか、とか、日本も核配備しないといけないんじゃないか、ということが真剣に取り沙汰されています。そして、「世の終わりは、火で焼かれるためにとっておいてある」と聖書にはっきりと記されています。もしかしたら、最後は核戦争でこの地が滅びるのかもしれません。それか、もしかしたら、この地上には大きなカルデラ火山が六つあるので、それが爆発して地球は滅んでしまうのかもしれません。ともかく、「この天地は消え去る」と、「火で焼かれる」と記されています。しかし、イエス様の言葉は、「決して消え去ることはない」とあります。イエス様の言葉は滅びないということです。ですから、私たちは真剣に、イエス様の言葉を聞いて、心に留め、イエス様の命令は、どんなに小さな命令であっても、聞き従っていくことが大切です。イエス様は、「神様の言葉を守る人が、私の兄弟であり、姉妹であり、母だ」と言われました。そして、「幸いなのは、この言葉を聞いて守る人だ」と言われました。ですから、イエス様が復活されたように、イエス様の言われた言葉は全部信頼できるので、私たちは、本当に、心して御言葉を学び、それに聞き従っていくことが大切です。
そして、最後、4番目に、イエス様の復活が意味しているのは、イエス様は墓の中ではなく、よみがえられて、今も生きておられる、ということです。そして、イエス様は次の様に約束されました。
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
マタイの福音書 28章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここで、イエス様は、遺言のような言葉を残されました。「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」ということです。聞き従うにしても、イエス様が言われたことは何なのか教えられる必要があるので、教えていくことが大切ですよ、ということです。そして、最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」という言葉も残されました。この世界が滅びるまで、私たちがそれぞれ最後の息を引き取る時まで、「いつもあなた方と共にいる」と言われたのです。
イエス様は、神様ですから、全体ももちろん見ておられますけれども、個々人とも共にいてくださるお方です。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われました。そして、「私のところへ来る者を私は決して捨てない」と。そして、先程、イエス様が最初に現われてくださったのはマグダラのマリアともう一人のマリアだったと、話しましたが、イエス様にとっては、この地上で、その人がどんな人か、なんて全然関係ないのです。イエス様を本当に、心から愛して慕う人に、イエス様は現われてくださるのです。本当に、私たちが、心からイエス様を求めていく時、イエス様は、私たちに、ご自身を現してくださり、そして、いつも私たちと共におられるのです。私たちは、この世の色々なことに、心を奪われて、イエス様のことを忘れてしまったりすることはありますけれども、イエス様を求めていくならば、イエス様は、私たちに近づいてくださり、ご自身を現してくださる方なのです。そして、私たちが、最後の息を引き取るその時まで、いつも共にいてくださると、約束されています。
神の一人子であるイエス様が、共にいてくださるし、全ての必要を満たしてくださるし、助けてくださるし、守ってくださる。そして、私たちが最後の息を引き取る時は、天国に連れていってくださるし、この世の終わりまで共におられるという、神様の愛は本当に大きいものです。そして、イエス様は、ヨハネ16章の22節から24節まででも、次のように約束されています。
あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
ヨハネの福音書 16章22~24節
その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、イエス様は言われました。「あなたがたも今は悲しんでいます」と。イエス様が十字架にかかり、お弟子さんたちのところから去っていくと言われたので、弟子達は悲しんでいたわけです。「しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」とイエス様は言われました。そして、イエス様の名によって、とはユダヤ的な表現ですが、すなわち、イエス様と同じ心を持って求めるものは、「何でも、父はあなたがたに与えてくださいます」と言われたのです。イエス様は、私たちのために、ご自分を与えてくださいましたから、私たちのために本当に良いものは何でも、与えてくださるのです。イエス様の心にかなうものは、私たちにとって本当に良いものです。
そして、「求めなさい」とイエス様が招いておられます。「そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるため」です。これも今、イエス様が生きておられるから、可能になるものです。先ほど申し上げたように、イエス様が心に留められるのは、マグダラのマリアやもう一人のマリアのように、本当にへり下って、本当にイエス様を求め、愛し、イエス様のところに行く人でした。その様な人をイエス様は喜んで受け入れてくださいます。そして、ご自身を現してくださいます。私たちの主は今も生きておられますから、私たちが本当に、イエス様を愛し、求めて生き、イエス様のもとに行くなら、ご自分を現してくださるのです。
そして、イエス様の名によって求めるなら、御心にかなうものは何でも、私たちに与えてくださり、私たちの喜びが満ち溢れるようになる、とイエス様は招いて下さっています。神様は、生きておられるので、私も、本当にたくさんの奇跡を経験しました。それについて語っていたら、全然時間が足りないので省略しますけれども、本当にイエス様と共に生きる人生はすばらしいです。人間の考えでは及びもつかないことがたくさん起こりましたし、イエス様は生きておられることは、動かしがたく、否定しがたい事実です。イエス様は今も生きておられるので、私たちの祈りを聞き、ご自身を現し、私たちを助け、またイエス様の名によって求めるものは何でも、御心にかなうものは何でも与えてくださいます。そして、共にいてくださり、この地上での生を終えるとき、天国に入れてくださるのは、本当に大きな愛です。
イエス様は今も生きておられます。確かに、十字架で私たちの罪すべてを背負って死んでくださいました。しかし、復活されたことによって、十字架の死は確かに有効で、イエス様が本当に罪の報酬である死を全部支払ってくださったことがわかります。そして、私たちも、イエス様がよみがえられたように、同じ形で、よみがえることがわかります。イエス様が死からよみがえられたので、イエス様の言われていることは全て信頼に値するのです。ですから、聖書の御言葉を学ぶのは意味がある、ということです。そして、神様は今も生きておられるので、実際に私たちの祈りを聞いて助けてくださり、私たちの必要の全てを、願いを超えて、思いを超えて、施してくださいます。このような、大きな愛を私たちは与えられています。
この復活祭に、イエス様がよみがえってくださったということを、本当に心から感謝していきたいと思います。