2021年12月5日
私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。
ペテロの手紙 第二 3章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今日は短い箇所ですが、この短い御言葉をとおして、イエス様とは私たちにとってどういうお方なのか見ていきたいと思います。
私たちは、イエス様にあってどういうことにおいて成長しなければならないのでしょうか。また、イエス様にあって私たちが求めていくべきものは何なのでしょうか。
イエス様は、私たちにとって救い主であり、主であるお方です。救い主、という点に関しては、この方以外に救いはなく、私たちに与えられている名はありません。神様は、ベツレヘムの地に、処女マリアをとおしてイエス様がお生まれになるようにしてくださいました。このことについて、今クリスマスの時期、感謝したいと思います。
また、イエス様は、30歳で公生涯に入られ、福音を人びとに伝えられました。そして人びとの病を癒やし、人びとを悪霊から解放されました。そして33歳で十字架にかかり、罪の身代わりになって、死なれました。
イエス様の血潮だけが、罪を洗い清めると聖書にあります。誰でも自分を罪人と認め、イエス様が私のために死んでくださったと受け入れるものに救いが与えられます。私たちは、イエス様の十字架の死によって、そのような大きな恵みに預かることができました。罪は死とイコールです。イエス様が死に打ち勝ったということは、罪は私たちに何の影響もない、ということです。イエス様をとおして、このような救いに預かることができたということは、多くのクリスチャンたちが賛同するはずです。
しかし、多くの日本のクリスチャンたちが気にしないのが、先ほどお読みした御言葉の最初の「主である」という部分です。このことが、日本では弱いような気がするのです。
イエス様が、私たちにとって救い主であるより前に、主であられるということに改めて気付かされた出来事があります。それはアメリカ人のクリスチャンたちが、”Our Lord Our Savior”と言って主を褒め称えていたことです。”Our Lord”すなわち「私たちの主」という言葉が、”Our Savior”すなわち「私たちの救い主」と言う言葉の前に来ていました。それまで、私は、なんとなくそう言うのが弱かったな、と感じました。それまで私は、そのことをあまり意識していなかったのです。
主が私たちの主人であるということがあやふやだと、信仰がおかしくなってしまいます。なぜなら、もし、イエス様が救い主だけであれば、自分勝手に生きていいんだ、と思ってしまうからです。
主のしもべ、と聖書では日本語に訳されていますが、イエス様は主人であり私たちはその奴隷である、という方が原文に近いです。イエス様は主人であり私たちはその奴隷であるということは、イエス様は、私たちが完全に従うべきお方であるということです。このことは日本のクリスチャンには弱いな、と感じます。
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
マタイの福音書 16章24~26節
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、「だれでも」と言われてすべてのクリスチャンたちにこの御言葉を語られています。そして「だれでもわたしについて来たいと思うなら」例外なく、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました。自分の十字架とは、自分を刺し通すものです。そして、「自分を捨て」とは自分の夢、願い、思い描くものをまず捨ててイエス様に従いなさい、という意味です。また、人がどう思うとか、人の評価とか承認を捨ててイエス様に従いなさい、という意味でもあります。私たちは、そうしなければイエス様を主人として生きられません。イエス様のために死ぬと言う覚悟がなければイエス様に従うことはできません。
イエス様は、永遠のいのちを与えられたい、という人を招かれています。自分を捨てて、自分の十字架を負って従う者こそが、永遠の命を受けるのです。このため、イエス様は、自分の欲しいもの、世界にあるものすべてを受けても、自分のいのちを失ったら何の益があるのでしょうか、と言われました。イエス様に従う生き方こそ永遠のいのちを受ける幸いに預かることができる道です。
永遠のいのちを受けるために、私たちはイエス様を自分の主、主人として受け入れる覚悟が必要です。これは、自分を捨て、自分の持っているすべてのものを捨てて、イエス様は主人で私は奴隷ですと言う覚悟を持って従う、という意味です。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマ人への手紙 10章9~10節
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「もしあなたの口でイエスを主と告白し」とあるのは、当時の世界では命がけの告白でした。この御言葉は、当時ローマ皇帝の支配下に置かれていたローマのクリスチャンたちに向けて語られました。当時ローマ皇帝は人びとを支配する絶対的な存在で、ローマ皇帝のしもべだ、と言わせるのがその支配の仕方でした。つまり、ローマ皇帝ではなくイエス様を主人として公に告白することは、逆らう者と思われて殉教する恐れがあったのです。そして、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とあるのは、私の主人はローマ皇帝ではないです、と公に命がけの告白することで救われる、という意味なのです。
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく」とは、イエス様を主人としない人は永遠のいのちを得ることがない、と言う意味です。私たちは、イエス様のことをただ単に救い主だと信じるだけではダメで、イエス様は私の主人で全面的に聞き従います、という信仰が必要です。
以上見てきたとおり、イエス様は、主であり救い主である、という点は、私たちがおさえておくべき大切な点です。私たちは、すべての点において主に聞き従うことが必要です。自分は絶対にこうしたい、と言うのではなく、御心を第一とすることが必要なのです。そして御心とは、本当に良いものです。私たちが幸いを得る唯一の道は、従うことです。たとえイエス様が、この道を行きなさいと言われるとき、行きたくないな、と思うことがあってもそれに聞き従うことが最善の道なのです。また、私たちは、自分の夢を捧げなければならないときも通されます。確かに葛藤はありますが、イエス様を自分の主人として歩むのが幸いの道です。
それでは、私たちはどういう点において成長しなければならないのでしょうか。
私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。
ペテロの手紙 第二 3章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「恵み」とは、受ける価値がない者に神様が祝福して与えてくださるものです。そして「憐れみ」という言葉もありますが、これは当然受けるべき刑罰を見過ごしてくださるということです。御言葉は、「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と私たちに言っています。
では、まず一つ目に、恵みにおいて成長するとはどう言うことでしょうか。
そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
ヨハネの福音書 10章7~10節
わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、ご自分のことを羊の門に例えられました。そして私たちがその門を出たり入ったりして牧草、つまり良いものを見つけると言われました。そして、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」とあるとおり、私たちが豊かにいのちを得るため、満たされていくため私は来た、と言われました。
豊かにいのちを得るとか、満たされるとは具体的にどのようなことでしょうか。一つには霊的な祝福があります。私たちは、本来は滅びるもので、私たちの肉は役に立たない、腐りきって悪臭を放つものです。しかし、霊的に古い体質で、悪い、肉の滅びる存在から、イエス様の似姿に変えられたものとなりました。次の御言葉にあるとおりです。
主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
コリント人への手紙 第二 3章17~18節
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
また、イエス様は、私たちの心の面においても、精神的な面においても、物質的な面においても、恵みを与えてくださるお方です。私たちは、霊的かつ、心をもち、肉体的な必要をもつ存在です。イエス様は、私たちに、折にかなった助けを与えたい、と願われているお方です。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ヘブル人への手紙 4章15~16節
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉は、私たちに、どのような精神的な、肉体的な必要があったとしても、折にかなった助けを受けるために、イエス様の御前にでて、積極的に、大胆に求めていこう、と語っています。私たちの必要が精神的なものであったとしても、病の癒しであったとしても、また人間関係がうまくいかないとか、私たちが遭遇するであろうどのような困難に対しても、必要の満たしを受けるために大胆に神様に近づこうと言っているのです。
もし、私たちが、願って受けるという経験をしないならば、イエス様の恵みにおいて成長することはできません。もし、願ったものを受けたなら、私たちはますますイエス様と親しくなって、信頼が生まれます。このため私たちは、自分の必要を持って行き、それを受けていくことが必要です。イエス様が、本当に私のことを愛してくださる、必要を満たしてくださる良いお方だ、という恵みにおいて成長することが大切です。
では、ここから信仰とはどういうことなのか、見ていきたいと思います。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
ヘブル人への手紙 11章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉は、信仰の定義が記されています。神がおられることは当然のこととして、「神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならない」と聖書は語っています。私たちは、確かに主がおられて、求めるものに報いを与えてくださる方であると言うこと、すなわちこのような恵みにおいて成長することによって、ますます神様に対する信頼が強くなっていきます。また、親しく関係を持っていくことができます。
それでは、もう一つの成長するべき点は何でしょうか。もう一度、先ほどお読みした箇所をお読みします。
私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。
ペテロの手紙 第二 3章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
二つ目は、イエス様の知識において成長する、と言う点です。
たましいに知識がないことは良くない。急ぎ足の者は罪に陥る。
箴言 19章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉の古い訳は、「熱心だけで」「知識がないことは良くない」です。これは、「正しい知識がないとよくないですよ。なぜなら先走ってしまうと、罪に陥ってしまうからですよ」と言う意味です。よく、燃え上がって、すごく熱心になる方がいます。すごく熱心だな、と思うのですが、正しい知識がないので、強力なカリスマ的リーダーがおかしなことを言っててもすぐ飛び乗ってしまい、おかしな方向に行ってしまいます。このように、熱心だけれども、急ぎ足で罪に陥って、つまずいてしまう人を見てきました。
このため、イエス様がどういうお方なのか、聖書をしっかりと学び、正しい知識を持っていく必要があります。終わりの時代になると、偽教師が大勢出てきて何とかイエス様から私たちを離そうとします。それなので、地味かもしれませんが、聖書の継続的な学びが欠かせません。
今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。
使徒の働き 20章32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
御言葉は、このようにイエス様に関する正しい知識を与えてくれます。そして私たちに、御国、すなわち天国を受け継がせることができます。御言葉の継続的な学びなしに、感情的な、正しい知識に裏付けされていない信仰だけでは、私たちはつまずいてしまいます。
それでは最後に私たちが求めるべきものは何なのでしょうか。御言葉は次のとおり語っています。
私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。
ペテロの手紙 第二 3章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちは、生きている限り、自分の栄光ではなくイエス様の栄光を求めていくべきです。もし、自分が素晴らしいなどと言われるのであれば、それは私たちにとって大きな誘惑となってしまいます。反対に、イエス様素晴らしいですね、と言われるのであれば、私たちをとおしてイエス様の栄光が現れたということであり、それは感謝で良いものです。イエス様をとおして、その栄光が現れることを常に求めることが大切です。自分が評価を求めるべきではありません。
今日は、一節だけの短い御言葉でしたが、大切なことが記されていました。まず、永遠のいのちを得るためには、自分を捨てて、イエス様は私の主人、私はイエス様の奴隷です、と言って聞き従うことが大切です。また、どのような霊的、精神的、肉体的な必要であってもそれを願って受けることによって、イエス様の恵みにおいて成長することも大切です。また、熱心だけで正しい知識がなければつまずいてしまいますから、継続的な聖書の学びによって、イエス様に関する知識において成長することが必要です。