2021年10月24日
さて、ペリシテ人はイスラエルと戦った。イスラエル人はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺されて倒れた。
歴代誌 第一 10章1~14節
ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。
攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえに傷を負った。
サウルは道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、私を刺し殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私をなぶりものにするだろう。」しかし、道具持ちは非常に恐れて、とうていその気になれなかった。それでサウルは剣を取り、その上に倒れ込んだ。
道具持ちは、サウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に身を伏せて死んだ。
こうしてサウルは死に、彼の三人の息子も彼の全家も、ともに死んだ。
谷にいたイスラエル人はみな、兵たちが逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見て、自分たちの町々を捨てて逃げた。それで、ペリシテ人がやって来て、そこに住んだ。
翌日、ペリシテ人が、刺し殺された者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルとその息子たちがギルボア山で倒れているのを見つけた。
彼らはサウルからはぎ取り、彼の首と武具を取った。そして、ペリシテ人の地の隅々にまで人を送り、彼らの偶像と民とに告げ知らせた。
彼らはサウルの武具を彼らの神々の神殿に奉納し、彼の首はダゴンの神殿にさらした。
ヤベシュ・ギルアデの人々はみな、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちをすべて聞いた。
そこで勇士たちがみな立ち上がり、サウルの亡骸と彼の息子たちの亡骸を取り上げ、これをヤベシュに運んで、彼らの骨をヤベシュにある樫の木の下に葬り、七日間、断食した。
このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、
主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
先週は、ダビデから学ぶことについて、見てきました。今週は、反対にサウルの問題について、見ていきたいと思います。この二人は、神様から、同じように油注ぎを受けて王になりました。しかし、サウル王は、神様の御心を損ねて、退けられ、息子たちも自分も悲惨な最後を遂げました。ダビデ王も、もちろん問題はありましたが、見習うべき素晴らしいところもあり、ダビデとサウルは、全く逆の性質であったことが聖書を読むとわかります。二人は、スタートは同じように切ったのに最後は違いました。今日は、そのサウルの問題について、見ていきたいと思います。
先にお読みした箇所を見ると、「サウルは主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ」とあります。その「不信の罪」とは、「彼は主のことばを守らず」という箇所に示されています。サウルは神様の言葉を守りませんでした。そして、「そのため、主は彼を殺し」とあるとおり、悲惨な最後を遂げました。悲惨な最後を遂げたのは、それを許された神様が背後におられたからです。
私たちは、サウルを自分たちの反面教師として、どんな歩みをしたら良いのか、そして反対にしてはいけないのか、見ていきたいと思います。
まず、先にも触れたように、サウルは神様の言葉を守りませんでした。そして主の言葉を守ることは、個々人の自由意志にゆだねられています。サウルが神様の言葉を守らなかった例について、以下で見ていきます。
私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」
サムエル記 第一 10章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
サムエルは、サムエルがサウルのところに着くまで、そこで七日間待たなければならない、とサウルに指示しました。ところがサウルの行動はどうだったのか、次の御言葉に記されています。
全イスラエルは、「サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち殺し、しかも、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った」ということを聞いた。兵はギルガルでサウルのもとに呼び集められた。
サムエル記 第一 13章4~14節
ペリシテ人はイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように数多くの兵たちであった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。
イスラエルの人々は、自分たちが危険なのを見てとった。兵たちがひどく追いつめられていたからである。兵たちは洞穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水溜めの中に隠れた。
あるヘブル人たちはヨルダン川を渡って、ガドの地、すなわちギルアデに行った。しかしサウルはなおギルガルにとどまり、兵たちはみな震えながら彼に従っていた。
サウルは、サムエルがいることになっている例祭まで、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした。
サウルは、「全焼のささげ物と交わりのいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。そして全焼のささげ物を献げた。
彼が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た。サウルは迎えに出て、彼にあいさつした。
サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。
今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」
サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。
しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
サウル王は、サムエルの指示を守らず、自分で勝手に、全焼のささげ物を献げました。しかしそれだけではなく、「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて〜まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです」などと、兵たちのせいにして、言い訳をしました。サウルのもう一つの罪もそうですが、サウルは自分が罪を犯した、というへり下りがなく、必ず言い訳をしています。ダビデのように、悔い改めたのなら、状況は変わったであろうに、そうすることなく、人のせいにしました。
また、聖書は、神の言われた言葉は必ず成就するから、忍耐して待ちなさい、と言ってます。しかしサウルは、遅いと、焦って待てない罪も持っていました。
この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。
ハバクク書 2章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉は、終わりについての幻ですが、それ以外でも原則は一緒です。もう少しサウルが、忍耐して待っていたなら、サムエルは来て、状況は違っていたはずです。聖書は、必ず成就するから、遅れることはない、と語っています。私たちは、サウルのように焦って、疑って不信仰になり、変な方向に行ってしまうことがないようにしなければなりません。
現代社会において、神様は、日本や世界の人を忍耐して待っておられるので、約束の成就が見えない状況にあります。しかし、だからと言って神様の言われたことは成就することはないのだ、と思うことなく、私たちは待っていく必要があります。神様が何もされないから、成就しないと思うことがないようにしなければなりません。しかしサウルは待てませんでした。彼は、焦ってなんとか自分の力で解決しようとして、なんとか兵たちの心を自分に引き止めようと努力しました。しかし、この時、サウルは次の神様の命令を退けていたのです。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
箴言 3章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
サムエルは、七日間待ちなさい、そうすればサムエル自身が全焼のささげ物を献げるから、と言ったのに、サウルは何とか今の状況を打開しようとして、自分の悟りに頼りました。そしてそれを指摘されたのに、言い訳をして悔い改めませんでした。
こうしてサウルは、サムエルの預言によって、「今や、あなたの王国は立たない」と宣言されてしまいました。以上述べてきた罪のために、サウルは神様から退けられたのです。
それから、サウルの罪は他にもあります。主は、サムエルをとおして、サウルに「アマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい」と言いました。しかし、サウルはそれを守りませんでした。
サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。
サムエル記 第一 15章9~10節
主のことばがサムエルに臨んだ。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
サウルは、自分のために、最も良いものを取っておきたかったのです。そしてサムエルから問い詰められた時に、言い訳をしました。
主はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
サムエル記 第一 15章18~24節
なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」
サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。
兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令と、あなたのことばに背いたからです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
サウルは、サムエルから「なぜ主の御声に聞き従わなかったのですか」と聞かれた時に、「私は主の御声に聞き従いました」と言い訳をしました。そして「兵たちは〜分捕り物の中から羊と牛を取ったのです」と言って、その責任を人になすりつけました。サウルは自分の欲望を悔い改めませんでした。こうしてサムエルから、「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と言われて、裁きの言葉がさらに厳しくなったのです。
サウルは、物欲のために神様に従えないという罪がありました。彼は、一部だけ献げようと思い、それで自分を納得させようとしました。それで神様も許してくださるだろう、と思ったのです。最高のものは自分にとっておいて、残りを神様に献げればそれで良いだろうと思っていました。それによって自分はよくやっていると慢心してしまっていたのです。
神様が、私たちから欲しいのは、最高のものを献げたい、という私たちの心です。私たちの信仰は、神様の御前にどうなのか、吟味していく必要があります。人生に与えられているもので、最上のものを献げるならば、神様はもっと良いものを与えてくださいます。私たちが何か持ったままで、イエス様に献げることはできないのです。
そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。
ルカの福音書 14章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
物欲でも、他のものでも、何か持っていると、私たちはイエス様に従うことができません。イエス様の弟子たちは、どうだったでしょうか。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
ルカの福音書 5章8~11節
彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここでイエス様の弟子たちは、漁師だったけれども、漁師としての持ち物もすべてを捨てて、イエス様に従いました。
イエス様は、私たちがすべてのものを捨てるならば、迫害の中でも百倍受け、永遠のいのちを受けると約束されました。私たちは、イエス様のために捨てるというところも通されます。しかし、捨てるならば、イエス様はもっと最高のものを私たちにくださいます。もしもサウルが、全部主が言われたように聖絶のものを献げたなら、自分が欲しかった以上のものを与えてくださったはずです。
何かのものに私たちの心が行ってしまうならば、主に献げきることはできなくなります。そして主の御言葉を守れないという罠となってしまいます。このように、私たちの欲望が、主に従うことの妨げとなりますが、私たちが主に献げ切るならば、主の恵みは私たちが欲しいと思うもの以上に、百倍あります。主は、このことのゆえに私たちが100%献げ切ることを求めておられるのです。
サウルが、その王国は確立されないと宣告を受け、主から退けられたように、主の御言葉を守らないことによって大きな損害を招くことになります。サウルは、サムエルが来なかったからです、とか、自分の部下たちが、とか人のせいにして言い訳をしました。私たちも、状況が、とか、こうしようと思った、とか自分が悪いと認めないことがあり、それが落とし穴となります。主に言われたことは、必ず守っていく必要があります。
さらに、サウルの罪が他にもあります。最初にお読みした箇所の最後の方をもう一度お読みします。
このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、
歴代誌 第一 10章13~14節
主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
サウルは、「霊媒に伺いを立てることまでして、 主に尋ねることをしなかった」とあります。その具体的な箇所をお読みします。
サウルは家来たちに言った。「霊媒をする女を探して来い。私が彼女のところに行って、彼女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。」
サムエル記 第一 28章7~8節
サウルは変装して身なりを変え、二人の部下を連れて行った。彼らは夜、女のところにやって来た。サウルは言った。「私のために霊媒によって占い、私のために、私が言う人を呼び出してもらいたい。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
霊媒に伺いを立てることについて、御言葉には次のようにあります。
あなたのうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、
申命記 18章10~12節
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。
これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。これらの忌み嫌うべきことのゆえに、あなたの神、主はあなたの前から彼らを追い払われるのである。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
霊媒に伺いを立てることは、主に忌み嫌われることです。そしてそのようなことをすると、実際に悪霊が働きます。
私たちは、自分がどうしたら良いかわからない時に、主に尋ねなければなりません。ダビデは、先週の箇所で、主によって奮い立って、主に聞きました。私たちが主に信頼して、主に聞くなら、神様は必ず答えてくださいます。
イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
イザヤ書 30章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。
イザヤ書 30章18~21節
ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。
たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。
あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちは、自分の悟りでいっぱいになり、主の御声を閉ざしてしまうことがあります。それを真白にすることが必要です。このようにして、私たちが、「どうしたら良いですか。教えてください」と聞くなら、神様は必ず答えてくださいます。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」と書いてあるとおりです。サウルのように、なんとかこの状況を打開しようと焦るのではありません。
サウルは、主に頼ることをせず、霊媒に頼りました。こうして主の油注ぎを取られて、悲惨な最後を遂げることになりました。
私たちも、サウルの悲惨な生涯から学ぶ必要があります。彼は王として、前途揚々なスタートを切ったにも関わらず、主に従わなかったゆえに、悲惨な死を遂げました。私たちは、地上での人生と死後のことを、人生の大きな目で俯瞰する必要があります。目先の欲望や益に囚われるのではなく、何が大切なのか、悟っていく必要があります。自分の刹那的な欲望を満たしたり、目先の利益に目を眩ますのではなく、主に喜ばれることを求めることが大切です。一番大切なことは、主の御手が私たちの上にあることです。
人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。
箴言 10章22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
サウルも、自分で色々なことをやりましたが、すべてが水の泡となりました。言い換えるなら、主に喜ばれなかったので、すべてが徒労に終わってしまったのです。このように、主が共におられるのでなければ、色々なことをやったとしても、その時は良いように見えても、結局は意味がなくなります。
主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
詩篇 127篇1~2節
あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
主は、眠っている間にも働いて備えてくださるお方です。自分の力で道を切り開こうとしても、主がともにおられるのでなければその努力は虚しいのです。そして最後に、人生を振り返るときに、この人生は何だったのか、と思うことになってしまいます。私たちがもし主に従うなら、その時はまどろっこしいことをしていると思っても、最後に振り返った時に、本当に良い人生だった、と思うことができます。
悪者はしばらくの間栄えていなくなり、主に信頼するものはずっと祝福されて、栄えていく、と聖書に書かれています。私たちの人生は、主が喜ばれるかどうかにかかっています。もし、主が喜ばれて、主の御手があるなら、私たちは、困ることはありません。