主の再臨について

2022年1月16日

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。
ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。
神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。
ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章1~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 昨晩の津波警報で飛び起きた方も多かったと思います。この茨城県でも津波警報が鳴りましたし、岩手県の方でも、まだ警報は出ています。今このような状況ですけれども、日本でも近い将来、80%の確率でマグニチュード7クラスの地震がこれから起こるのではないかと言われています。それが首都圏直下型地震なのか、南海トラフなのかはわかりません。富士山噴火だって、起こるかもしれません。

 今、私たちはコロナでも大変な中にいます。今までであれば、長い間ホッとできる期間があったのに、その間隔がだんだん短くなってきています。そして今の時代は、常に災いに追われる時代になっています。聖書の終わりの時の預言が成就していると言えます。そして、それとともに、イエス様のご再臨もこれから成就することになります。

 今日は、先ほどお読みした御言葉をとおして、主のご再臨について、その特徴がどのようなものか見ていきたいと思います。

主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

テサロニケ人への手紙 第一 5章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今お読みした主の日とは、イエス様のご再臨のことです。その日は、盗人が夜やって来るように来る、とあります。これは、その日が突然やってくるということです。

 このように、イエス様のご再臨の日は突然に来ます。まだかな、と思っているときに急にばっ、と来るのです。

次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

マタイの福音書 24章43~44節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉でも、人の子は思いがけない時に来る、とあります。このとおり、泥棒が夜来るようにイエス様のご再臨は突然に来ます。

 このことについて、クリスチャンでない人とクリスチャンとでは意味合いが違ってきます。クリスチャンでない人にとっては、自分勝手に生きていく中で、急に思い描く者が崩れ去る破滅の時となります。これは、プライドとおごり高ぶりが砕かれるさばきの時です。このように、クリスチャンでない人にとっては、イエス様のご再臨がさばきの側面を持っています。突然として破壊が訪れるのです。

 反対に、クリスチャンにとってイエス様のご再臨は恵みの時です。例えば、学生の時に、抜き打ちテストをする先生がいましたよね。そして、私たちは、その先生の科目は、他の教科よりも身を入れて準備していたと思います。これと同じように、私たちクリスチャンは、常に良い緊張感を持って世の終わりに備えることができます。それが突然であるからこそ、十分備えられる恵みがあるのです。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

テサロニケ人への手紙 第一 5章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。

テサロニケ人への手紙 第一 5章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今お読みした二つの御言葉は、クリスチャンとそうでない人との対比と言えます。クリスチャンでない人にとっては、イエス様のご再臨は突然の破滅が襲う日となります。しかし、クリスチャンにとっては、それは救いの完成の日、恵みの時です。

 しかし、ここで注意したいのが、主のご再臨の日がいつなのかは、決してわからないということです。

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

マタイの福音書 24章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 その日、すなわち、主の日、ご再臨の日がいつなのかは誰も知らないと聖書に記されています。ただ父だけ、すなわち、神様だけが知っておられるとも書かれています。もし、この日にイエス様が再臨されます、と言う発言があれば、それは異端的な発想だと思わなければいけません。あるところでは、この日にイエス様が再臨されます、と言う言葉を信じた人びとが皆、白い服を着て山に登って待っていた、と言う話もあります。もちろん、イエス様はその時、来られなかったわけですけれども、私たちは惑わされないように気をつけなければなりません。

 ただし、聖書には、こういった日にイエス様が来られる、というヒントも記されています。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

テサロニケ人への手紙 第一 5章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、人々が「平和だ、安全だ」と言っているときに、イエス様が来られると聖書は語っています。そして、それは突然である、とここでも記されています。また、次の御言葉にもこのことが記されています。

洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。

マタイの福音書 24章38~39節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様のご再臨は、ノアが箱舟に入る日のように実現する、と書かれています。人びとが食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしているこの時に、イエス様が来られるということです。

 今世界では平和を実現しましょう、という動きが盛んです。核兵器を保有する国が核を戦争で使わないようにしましょうと話し合い、条約を結んだ、というニュースも目にします。しかしながら、人びとが神様抜きに平和と安全な世界をつくるため努力したとしても、それが続くわけではありません。むしろ、つくれると思うこと自体が間違いです。

 神様の怒りは積まれています。聖書が終わりの時代について語るとおり、こんな風に人を裏切ったり中傷したりするのか、とびっくりするくらい、人びとの愛は冷えています。神様に反抗し、無視する人びとに怒りが降る日が近いと感じます。

 人びとが平和だ、安全だ、と言っているときに主のご再臨が起こることに注意しなければなりません。もう一度第一テサロニケ5章3節をお読みします。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

テサロニケ人への手紙 第一 5章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 突然の破滅が彼らを襲います、とあるように、終わりはやってくるし、それを逃れることは決してできません、とあるように、それは必ず起こります。そしてその時は、女性が赤ちゃんを産む苦しみの時のようだ、と聖書は語っています。私たちは、このことをしっかりと心に留めておく必要があります。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

マタイの福音書 24章35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様は、イエス様が語られたすべての言葉が成就することを言われています。それは、イエス様がこの地に再臨され、終わりが来るということです。イエス様が必ずこの地に来られるということも、覚えていかなければなりません。

 また、先ほどお読みした第一テサロニケ5章では、それが突然くるということも示されています。クリスチャンでない人にとっては、突然の破滅が及び、おごり高ぶりが砕かれる日です。しかし、イエス様を信じるクリスチャンにとっては、緊張感を持って備えることのできる恵みの日です。また、主と出会える喜びの日でもあります。

 以上お話ししたように、主の日は突然来ます。また、人びとが平和だ安全だ、と言っている日に来ます。人の努力によって平和が保たれるわけではありません。そして、その日は必ず来ます。それゆえに、聖書は次のように私たちに励ましています。

ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

テサロニケ人への手紙 第一 5章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで聖書が言っている目を覚ますとは、霊的に、また、信仰的に覚醒している状態のことを指します。

あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

ルカの福音書 18章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、ご自身がこの地に来られるときに、はたして地上に信仰が見られるのか、と言われました。自分の都合の良いように聖書を解釈する自分勝手な信仰は見られるかもしれないが、イエス様が言われた本当の意味をしっかりと握って歩む本当の信仰が見られるのだろうか、と言われたのです。私たちは、イエス様を自己実現のために利用するのではなく、本当に従っていく信仰が必要です。これが、目を覚ましているということです。

ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

テサロニケ人への手紙 第一 5章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、目を覚ますの反対、眠っているとは、酒を飲んだ人のようだと聖書は語っています。

眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。

テサロニケ人への手紙 第一 5章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

ルカの福音書 21章34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちの教会の中で、放蕩や深酒に該当する人はいないと思います。しかし、生活の思い煩いで押しつぶされている状態にあることはあると思います。聖書は、この状態についても、眠った状態と言っています。生活の思い煩いで押しつぶされた状態とは、この世の生活のことで頭がいっぱいのことです。この状態のときに、主の日が罠のように突然襲うことがないように気をつけなさい、と聖書は私たちに語っています。

 人びとが自分のことをどう評価しているのかという思い煩いや、ゲームなどに依存してこの世のことで心がいっぱいだということがないように気をつけなければいけません。

今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、
善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、
来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。

テモテへの手紙 第一 6章17~19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書は、この世の富を追い求めて望みをおくのではなく、神様に望みをおいて天に宝を積むように私たちに命じています。そして、貧しい人や困っている人には、惜しみなく分け与えるようにとも命じています。このような生活が、身を謹んで生活するということです。

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

テサロニケ人への手紙 第一 5章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 確かに、お金を愛したりすることによってこの世の思い煩いに押し潰されないようにしなければならないことも事実です。しかし、これは、〜してはいけない、というように、ある意味否定的な表現です。聖書には、このような表現だけでなく、肯定的な、積極的な表現として身を謹んでいくことが語られています。それは、愛を追い求めていくということです。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

コリント人への手紙 第一 13章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 いつまでも残る信仰と希望と愛のうち、最もすぐれているのは愛とあるように、愛は多くの罪をおおうものです。これは、ゆるす、ということにも通じています。私たちは人をゆるすことも大切ですし、また人に親切にすることも大切です。私たちは、相手が良い人だから愛するのではなく、無償の愛で愛することも大切です。

 このように、身を謹むことは、肯定的な意味でも、否定的な意味でも必要なことです。肯定的な意味では、信仰と希望と愛をしっかりと握っていくこと、反対に否定的な意味では、深酒をしないということです。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

テサロニケ人への手紙 第一 5章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 主とともに生きるとは、イエス様から目を離さないようにすることでもあります。このため、私たちは、聖霊を受けていく必要があります。そうすることによって、イエス様と親しい交わりを持って生きていくことができます。これは、肉によって生きるのではなく聖霊により生きること、つまり、聖霊を悲しませないで主とともに生きることです。

 また、御言葉は次のようにも私たちに命じています。

ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このイエス様を否定する社会にあって、クリスチャンがお互いに徳を高め合っていくことも必要です。神様との関係ももちろん大切ですが、横のつながりも大切だからそれを絶やさないように、と聖書は語っています。

 以上のことをまとめると次の通りです。まず、主のご再臨の時まで、私たちは目を覚ましている必要があります。目を覚ますとは、霊的に、信仰的に覚醒している状態のことを指します。これは、聖書の教えをしっかりと握っているということです。また、二つ目には、身を慎むことも必要です。放蕩したり、世にどっぷりと浸かったりすることなく、イエス様から目を離さずに御言葉をしっかりと握っていくということです。三つ目は、二つ目にも通じますが、主とともに生きることです。これは、聖霊に満たされて生きることと同じ意味です。そして最後四つ目には、横のつながりも大切です。誘惑に会うと一人では潰されてしまいます。しかし、信仰に留まることが大切ですよと言い、お互いに励ましあうことによって、そのことを免れることができます。私たちは、主の日を待つ間、これらのことを守って生きていきたいと思います。

 今日は、イエス様のご再臨の日について、Ⅰテサロニケの御言葉をとおして学んできました。ご再臨は突然に、そして必ず来ます。そして、先ほど挙げた4つの点が大切であると御言葉は言っているので、そのことをしっかりと握って、イエス様のご再臨の日まで生活していきたいと思います。

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