2021年10月3日
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
ガラテヤ人への手紙 6章7~10節
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
主の私達への御心は、私達が善を行うことです。そして誰しも、それを願っています。しかし、その妨げとなることもあるのは事実です。今日は、善を行い、行い続けることの妨げとなるものと、その対処法について、見ていきたいと思います。
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
ローマ人への手紙 10章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
まず、善を行うことの妨げとなるものの一つ目に、失望があります。そして、この失望について考えるときに、イエス様ではなく、人に信頼するから失望することを覚えたいと思います。私達の失望はどこから来るのかと言うと、主への信頼ではなく人への信頼です。
主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
エレミヤ書 17章5~8節
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達は、人を見て、人に信頼するので失望します。「この人を助けてあげたから、この人は私によくしてくれるはずだ」とか、「私が困った時には助けてくれるはず」とか、「助けてくれなくても少なくとも敵対することはないだろう」などと考えるから、失望します。
実際に、私達が与えた恩をすぐ忘れる人もいるため、私達は、そのような人のことを、恩知らずと思うこともあります。また、時には、私達の恩に対してかえって敵対してくる人びともいます。
こういったことは、人の世の中では必ず起こりうることです。これらは、人の中に、本来秘められているものだからです。
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
エレミヤ書 17章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉から、私達は、人に信頼しても何も良いことがないことがわかります。つくり変えられ、主のようにされていくのが私達ですが、生まれながらの人間はまさにこの御言葉が示すとおりなのです。人は、自分の都合の良い時は私達に良くしてくれますが、都合が悪くなると敵対します。
人を偏り見るのは良くない。人は一切れのパンで背く。
箴言 28章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
人は、自分に少しでも利益がなくなると、今まで良くしてくれていてもすぐに背くものであることを、覚えたいと思います。人は、その時の自分の益のために裏切るものです。
私達も、自分が貸したことはよく覚えていますが、人から借りたものはすぐ忘れてしまうものです。そしてこれが人間の本来の姿です。
だから、「こんなに良くしたのに、こんなことになるなら、もう良くするのはやめよう、傷つくだけだから」と私達は心の中でそう決心します。人を見て、期待するから、失望するのです。
しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、
ヨハネの福音書 2章24~25節
人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、その貧しさによって私達を救い、愛してくださいましたが、イエス様ご自身は、人に自分をお任せにならなかった、とあります。実際、人々は、イエス様が奇跡や良いことを行っているうちは、イエス様についていきました。しかし、彼らにとって何か都合の悪いことを言うと、「これはひどい言葉だ」と言って離れていきました。
イエス様を模範として従う私達も、イエス様と同じ態度を持っていくべきです。イエス様が愛されたように愛することも大切ですが、人のうちに何があるかを知っておくことも大切です。人により頼むこと、すなわち、(仕事をゆだねる、といった意味ではなく)自分の全てを人にゆだねきるのは間違いです。
人は、御霊によって愛を知ることがなければ、どんなにお世話になった人でも裏切って攻撃してしまうものです。だからこそ、聖書は、「人に信頼するものは呪われよ」と私達に警告しているのです。恩を仇で返されると、なんて恩知らずな人なのだと思い、自分が傷つきます。善を行うときに、「この人はずっと自分の味方でいてくれるだろう」「助けてくれるだろう」などと思っていたら大変です。その人ではなく、主に信頼することを意識するべきです。
貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。
箴言 19章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉が語るとおり、主が、私達の行いに報いてくださるという思いを持つことが大切です。その良い行いが、あくまでもその人ではなく、主に貸すことだ、と思うことです。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
マタイの福音書 25章35~40節
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
御言葉に「それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」とあるように、良い行いは、人ではなく、イエス様にしているのだと思えば良いのです。そうすれば、人が豹変しても困ることはありません。主にできて幸いだったと思えば失望することから守られます。
人のことをいちいち見てしまい、期待してしまうから、現実とのギャップが大きくて失望するのです。人に期待すると、罠にかかります。始めから期待していなければ、罠にかかることはありません。そしてブレることはありません。主の御心は、私達が善を行うことです。人ではなく、主を見ていきたいと思います。そうすれば主が報いてくださいます。
二番目に、善を行うことの妨げとなるものを見ていきたいと思います。それは、あきらめです。
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
ガラテヤ人への手紙 6章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉には、「あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります」とあります。中には、あきらめてしまう人がいます。
歴史的に見ても、何回も失敗して失敗して失敗して失敗して・・・どん底に落ちて、それでも諦めずに続けることによって成功を得た人びとがいます。しかし、多くの人はあきらめてしまいます。
無駄になってしまっていると思うようなことがあっても、あきらめないで、善を続けることが必要です。なぜなら、御言葉にはこう書かれているからです。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
ガラテヤ人への手紙 6章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
地においても、天においても、「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」。長く時間がかかるかもしれませんが、神様がいるから、神様はその行いに報いてくださいます。
逆に、悪賢くした人々は、すぐに栄えます。しかしそれは一時的です。しかし、神様が存在しておられるので、この地上にも神様の法則は働きます。何も成果や良いことが見えなくても、諦めないで続けていくことによって、時が来て刈り取ることになります。なぜなら、それが神様の法則だからです。もう少し続ければ、成果が見えたのに、諦めてしまうから、これまでが水の泡となってしまうことが多いのです。諦めないで、善を行い続けていきたいと思います。
三つ目に、善を行うことの妨げとなるものを見ていきたいと思います。
ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。
ガラテヤ人への手紙 6章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達は「機会があるうちに」善を行うことが聖書で語られています。三つ目に、善を行うことの妨げとなるものは先延ばしにすることです。先延ばしにすることによって、私達は、善を行う機会を逸してしまいます。
「今忙しいから」「経済的に苦しいから」などと先延ばしにして善を行うことが妨げられることが実際に多いのです。
私自身も、このことについて苦い経験があるのでお分ちしたいと思います。私が卒業したアメリカの神学校で、大変お世話になった先生がいました。その先生は、私が英語がわからずに苦しんでいたときに、本当に助けて頂いた先生でした。このため、私は、いつか先生に恩返しをしたいと思い、卒業してからも、何か本当に良いことをしようと、考えていました。しかし、いつか何か大きなことをして、先生にお返ししたいと思っている間に、時が過ぎ、ある日先生が天に召されたと聞きました。お返しができなくて本当に残念でした。その時から、私は、何か大きなことができなくても、できることを機会があるうちに行わないと、その機会がなくなってしまうということを学んだのです。例えば、自分が病気にかかったり、相手や自分が亡くなるといったことも起こります。
彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
マルコの福音書 14章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私達は、大きなことをしたいと思いますが、小さなことでも、自分の力に応じて、できる範囲でベストを尽くせば、イエス様は喜んでくださいます。そして、小さいものの一人にしたのは、私にしたのだ、と言ってくださるのです。
私達は、善を行うために神様に召され、神様はその良い行いをも私達に備えてくださった、と聖書にあります。私達は、機会があるうちに、できるところから、善を行うものでありたいと思います。