喜び、祈り、感謝すること

2022年1月30日

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は歌の賛美にもなっていますが、今日は一つ一つ見ていきたいと思います。

 まず、いつも喜んでいなさいとありますが、はじめて聞いた方は「何か良いことがあったら喜んでいられるけど、なぜいつも喜べるのか?」と疑問に思われるかもしれません。確かに、なぜ神様はそのようなことを私たちに望まれているのでしょうか。次の御言葉から見ていきたいと思います。

その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。

ルカの福音書 10章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様が指名された七十二人は、イエス様の弟子のことです。イエス様はその中から二人ずつを遣わされた、とあります。

さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
イエスは彼らに言われた。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。
確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

ルカの福音書 10章17~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでは、その七十二人に色々な奇跡が起こったのだと思います。彼らは喜んで帰って来て、そのことをイエス様に報告しました。もちろん、そのような喜びは良いものです。しかし、それは一時的なものだと言えます。イエス様も「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。ここでイエス様は、何か起こった出来事を喜ぶのではなく、自分たちの名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言われたのです。天に名が書き記されているとは、いのちの書に名前が書き記されていることとイコールですが、いのちの書がどういうものかについて聖書の黙示録に書かれています。黙示録には、いのちの書に名前が書き記されているものは天国に入り、書き記されていないものは地獄に入ると書かれています。つまり、いのちの書に名前が書き記されているとは、自分の罪を悔い改め、イエス様を主として受け入れ、神様の交わりが復活して天国に行けるものとなったということです。イエス様はそれゆえに喜びなさい、と私たちに語っているのです。

 イエス様は、ご自分のもとに来るものを決して捨てない、と約束されました。罪の縄目から解放されて神の子とされた人から、イエス様は決して離れられません。聖書には、どんなものもイエス様から私たちを引き離せない、と書かれています。イエス様は、確かに私たちと共にいてくださいます。そのため、死はただの通過点であり、イエス様と共に永遠に過ごす天国に行くことができるのです。

 いつも喜んでいなさい、とは、神の子とされ、天国に行けること、そしてイエス様がいつも共にいてくださるという事実のゆえに喜びなさいという意味です。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

ヨハネの福音書 15章9~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この地上での生涯、たくさんの苦難があったにも関わらず、イエス様のうちには常に喜びがありました。それは、イエス様がいつも天の父なる神様の戒めを守り、その愛にとどまっていたからです。イエス様は、それと同じように、もし私たちがイエス様の戒めを守り、イエス様の愛にとどまっているなら喜びがある、と言われました。つまり、神様の戒めを守り、神様の愛にとどまることによって地上でも私たちは喜んでいられるのです。

 「いやいや、そんなことできないですよ」と言う方もおられるかもしれません。実はこのことは、聖霊の助けによって起こることです。これからお読みするのは、聖霊の実に関する御言葉ですが、私たちは、聖霊と交わることによりその実を結ぶことができます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

ガラテヤ人への手紙 5章22~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖霊こそが、喜びを私たちにもたらしてくださいます。イエス様が共にいてくださり、神様からもイエス様からも愛されているという思いも、聖霊がもたらしてくださいます。また、それは聖霊の賜物でもあります。

 また、それと共に、嬉しいことが神様によってなされ、神様が近くに感じられる喜びもあります。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

ヨハネの福音書 16章24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、祈り求めるなら、それが良いものであれば必ず受けると私たちに約束してくださっています。神様は私たちの求める祈りを聞いてくださいます。私たちが祈り求めたものを受けたとき、神様を身近に感じることができます。「神様は私の祈りを聞いてくださるお父様だ!」と喜びに満ち溢れるようになるからです。

 今、世の中では色々なことが起こっています。これからも、富士山の噴火や南海トラフ、首都圏直下型地震など起こる可能性もあると言われています。阿蘇山のカルデラも、なんと日本人全員を滅ぼすことができるとも言われているそうです。また、それと似たような六つの火山が日本にはありますし、世界でも核戦争が起こる可能性があります。地球が滅ぼされるのは核によってかもしれませんし、また先ほど述べたカルデラによってかもしれません。

 しかし、どんなことがあっても、たとえ地上で命がなくなっても、永遠を過ごす天国に行くことができるという事実を、誰も私たちから奪い去ることはできません。だからこそ、私たちはいつも喜ぶことができるのです。

 次に、絶えず祈るという御言葉について見ていきましょう。

絶えず祈りなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、この地上での生涯において、お忙しい中でもいつも祈っておられました。人びとを癒し、神の国のことを話すといった働きをされる中で、何よりも祈りを大切にされたのです。

夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
こうして町中の人が戸口に集まって来た。
イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。
さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

マルコの福音書 1章32~35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は「朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」とあります。祈りは神様との唯一のコミュニケーションです。そのため、祈りがなくなるなら神様とのコミュニケーションも絶たれます。祈るということは「私たちが全てを神様に依存します」「より頼んでいます」ということです。反対に祈らないのは「自分の力でやっていきます」と言うことと同じです。そのため、イエス様はどんなに忙しくても祈っておられました。

 多くの人は誤解します。神様の働きをするから、聖書を教えているから、教会の働きをするから、やることがいっぱいあるから、祈る時間がないから、祈らなくても良いと誤解しているのです。しかしそのような誤解によって、方向がずれていってしまいます。祈りなしに働くと、その働きが自分でする働き、すなわち肉の働きになるからです。いくら神様の働きと言っても、そのような働きになるとずれていき、滅びに至ります。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

ヨハネの福音書 15章4~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様が言われている、人がイエス様にとどまり、イエス様もその人にとどまる状態とは、いつも祈ることによってイエス様とつながり、御言葉を頂き、その戒めを守っている状態です。イエス様を離れては何もすることができないと御言葉にあるとおり、その働きがたとえ良いことであったとしても、私たちは祈りなしに実を結ぶことはできません。

 多くの人は、イエス様の働きをしているから、それで代用して大丈夫と思います。しかし、そうではなく絶えず祈っていくことが重要です。なぜなら、祈らなければ、次の御言葉が語るように、自分の肉により頼むことになるからです。

主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。

エレミヤ書 17章5~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 人間に信頼する者はのろわれよ、とあります。自分の力により頼むことも人間に信頼することと同じです。これが自分の肉により頼むということです。祈りなしでは、いくら良い働きをしていたとしても心が主から離れていきます。祈りの生活がなくなってしまうと、のろわれよ、ということになってしまうのです。

 反対に、主に信頼する者に祝福があるように、とあります。主に信頼する人は、「私の力ではなく、主よ、あなたがなしてください」とずっと祈っている人です。主を頼りとするから祈るしかないのです。そのような人には、どのような困難が来たとしても心配はなく、祝福があります。

 以上見て来たように、祈りがなくなるとのろいが来て滅びに至ってしまいます。絶えず祈り、主により頼んでいくものには祝福があるように、と聖書が語るとおりです。

 人の努力でできることは少ないです。聖書に「主が建てるのでなければむなしい、主が守るのでなければむなしい」というような御言葉があるように、主が働いてくださって何か素晴らしいことが起こるということがいっぱいあるのです。あの宗教改革で有名なルターも、「私にはたくさんやることがある。だからこそ祈らなければならない」と言いました。忙しいからこそ、私たちは祈らなければなりません。

 最後、三つ目に「すべてのことにおいて感謝する」ことについて見ていきたいと思います。

すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

テサロニケ人への手紙 第一 5章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちの人生は、もちろん、起こることすべてが良いことではありません。しかし、聖書には次の約束があるので、私たちはすべてのことにおいて感謝することができます。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙 8章28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 すべてのことがともに働いて益となるとあるとおり、神様はマイナスのこともすべて益となるように働いてくださいます。

 ユダヤ人のホロコーストに関する歴史ではアンナの日記も有名ですが、『わたしの隠れ家』(知らない方はぜひ読んで頂きたい著書ですが、2022年2月時点で絶版になっていたので大学図書館のリンクを貼っておきます)のコーリー・テン・ブームも有名です。数年前に、オランダのアムステルダムに行ったとき、隠れ家が今も残っていましたが、そこには刺繍が飾ってありました。刺繍は、後ろから見ると色々な糸が雑になっていて、なんなんだこれは、と思います。しかし、前から見ると綺麗に重なり合っていて、同じように神様は私たちの人生にも素晴らしいことをなしてくださる、というメッセージで、それを見たときにとても感動したのを覚えています。

 コーリ・テン・ブームは、若くして隠れ家でも大変な生活を送り、ナチスの収容所にも入れられました。しかし、神様がどのような中にあってもすべてのことを益としてくださることを身をもって体験しました。私たちの人生がたとえ雑に見えたとしても、神様の目から見たらすべてがご計画の中にあり、神様はひと針ひと針、丁寧に針を縫ってくださっています。「どうしてこんなことが・・・」と思えるようなマイナスなことであっても、神様はプラスにしてくださるのです。

 聖書の創世記に出てくるヨセフも、兄弟たちに穴に入れられたのち、エジプトに奴隷として売られるなど、非情な経験をたくさんしました。しかし、そのような中でも神様の御手があったので、エジプトのナンバー2となりました。そして、飢饉のために蓄え、備えをしていたヨセフは、カナンの地から皆を呼び寄せて、兄弟たちを助けました。兄弟たちは、父が生きている間は、ヨセフは父に免じて良いことをしてくれるかもしれないけれども、父が亡くなった後は恨みを晴らすため自分達に仕返しをするのでは、と恐れました。

ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。
そこで、彼らはヨセフに言い送った。「あなたの父は死ぬ前に命じられました。
『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「ご覧ください。私たちはあなたの奴隷です。」
ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

創世記 50章15~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ヨセフは、そのような兄弟たちに対して、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。」と言いました。そして、「それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」と言い、飢饉の中でも神様が助けてくださるために、自分をつかわしたことを証したのです。ヨセフの例から見てもわかるとおり、神様はすべてのことについて働いてくださいます。そして、人が謀った悪でさえも、良いことのために用いてくださいます。だから、私たちはすべてのことについて感謝するように命じられているのです。

 ただし、そうは言っても私たちが感謝するのは難しいことがあります。なぜなら、これは神様との親しい交わりがなければできないことだからです。だからこそ、冒頭でお読みした御言葉の真ん中に、絶えず祈りなさい、とあるのです。祈りこそが、すべてのことについて感謝することを可能にするものです。

 実は、喜ぶことや感謝することは、人の体に良いものです。実際にがん患者でも、喜んだり、笑うことによって良くなっていく人が多く見られるそうです。このように、喜んだり、感謝したりすることによって免疫力が高まります。反対に、怒ったり不満ばかりの人は不健康です。このように、神様の命令は、私たちの健康にもプラスになります。

 以上御言葉から、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝することについて見てきました。これら三つのことを日々実践していく、幸いなものでありたいと思います。

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