多くの人の思い違い

2022年1月2日

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。
人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。
そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

ヤコブの手紙 1章13~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日の御言葉をとおして、多くの人がおかしてしまう思い違いについて見ていきたいと思います。

 まず、私たちは、滅びの原因は自分にあることを知らないといけません。

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。

ヤコブの手紙 1章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、ご自分でだれかを誘惑することもありませんと御言葉にはっきりと書かれています。しかし、私たちはなかなか自分の非を認めず、責任を神様に転嫁しやすいものです。

 聖書は、人が誘惑にあう原因を次のように記しています。

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。
そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

ヤコブの手紙 1章14節〜15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが誘惑にあうのは、自分の欲に引かれるからです。そしてその欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます、とあります。聖書の言う死とは、神様との断絶を指します。これは、霊の死、すなわち滅びのことです。

 これがどういうことなのか例をお話します。

 例えば、不倫の罪について考えてみましょう。不倫を犯す罪も、自分の欲からきています。この欲は、性的な関係を持ちたいという欲望です。この欲望によって自分の配偶者を裏切る、ということさえしてしまいます。そして、ひどい場合、殺人という罪にも発展してしまいます。このように、欲望は色々な罪を生み、結果的に自分に滅びを招きます。

 これは、誰でも陥りやすい問題であると聖書は語っています。

 例えばダビデ王は、神様から油注がれた素晴らしい王様でした。しかし、唯一の間違いを犯しました。それは、バテシェバとの不倫と、そのことによる妊娠を覆い隠そうとしたところ、その夫であるウリヤが拒んだので、とうとうウリヤを殺してしまったことです。

 このように私たちも、状況があるならどんなことでも犯してしまう欲をうちに秘めています。

 また、もう一つの例では、良い暮らしをしたい、という欲もあります。外車や良い時計が買いたいという思いに引かれていくと、不正を働き、仮に会計を担当している人であれば最初は10万だったのが100万になり、いつのまにか10億という額に膨れがっている、ということが起こるのです。

 これらは、結局自分に跳ね返ってくるものですが、このような罪を引き起こしているのは自分の欲であって、誰か他の人のせいではありません。そして聖書は、このことによって自分に滅びを招くのだ、と言っています。

 よく言われるのが、自分の身を滅ぼす三つの大きな欲望です。まず一つ目に、お金を愛する金銭欲です。二つ目に、間違った性欲です。そして三つ目に、人の上に立ちたいという名誉欲です。これらは特に危険で、求めると罪を犯してしまうようになります。私たちは気をつけなければなりません。

 罪を犯すと、しばらくは満足が得られますが、続けていくと罪の奴隷になる、と聖書は語っています。

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

ヨハネの福音書 8章34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 金銭欲に捉えられると、お金を求め、もっともっと、と言って歯止めが効かなくなります。そして不正会計などに発展してしまいます。また間違った性欲にとらわれると、ダメだとわかっていてもやめられなくなります。また、人よりも上に立ちたいという名誉欲を求めると、これも同様にやめられなくなります。これらによって、しばらくは満足を得られますが、罪の奴隷となり、やめたいと思ってもやめられなくなってしまいます。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙 6章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 罪の報酬は死、というのは、罪が滅びを招くという意味です。滅びを招くのは自分の欲望を抑えられないからで、自分の責任で罪を犯して滅びを招いているのに、私たちは責任転嫁しやすいのです。このことは、初めの人間が犯した罪の例からも、はっきりとわかります。

神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

創世記 2章16~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、最初の人、アダムとエバに、園のどの木からでも自由に食べて良い、と言われました。そしてその例外として、善悪の知識の木からは、食べてはならないと命じられました。しかし、人間は結局食べてしまいました。

すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

創世記 3章4~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様が食べてはならないと命じられた木の実を食べるように蛇が惑わしたとき、エバにとって、その木は食べるのに良さそうであった、とあります。これはエバがその欲に引かれたということです。そしてエバは蛇の言葉にだまされてしまいました。そしてエバはアダムにも与えたので、ふたりはその実を食べてしまいました。

主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
神である主は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」

創世記 3章11~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 その実を食べたことについて、神様から問われたとき、アダムは「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と言いました。まず、この女が、と言ってエバに責任転嫁しました。そして、その女を神様、あなたが与えたのですよ、と言って神様にも責任転嫁しました。へりくだって、自分が罪を犯した、と言うのではなく、自分が食べたのは妻のせい、そしてその妻を与えた神様、あなたのせいですよ、と神様のせいにしたのです。そしてエバも、蛇が私を惑わしたのですと言って、自分の責任なのに蛇のせいだ、と言いました。

 問題は、自分が悪いのに環境や両親、最終的には神様のせいにして、自分以外の何かのせいで自分は悪くないと思ってしまうという人の本質にあります。このことが、悔い改めを難しくしている要因です。

 しかし、神様は悪くないどころか、実際には良いお方です。

すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

ヤコブの手紙 1章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書は、このように、本当に良い贈り物は神様から来る、と言っています。私たちは、この事実について思い違いをしないようにしなければなりません。私たちは、どこか漠然と、神様が良いものをくださらないお方だと思ってしまっています。しかし、神様によってしか、良いものや完全なものは来ないのです。

 神様は、永遠の滅びから、私たちが救われるための道も開いてくださいました。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

ローマ人への手紙 7章24~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは本当にみじめな人間で、だれが滅びから救い出してくれるのか、と問うたあとに、神様がそのことをなしてくださったのだ、と聖書は言っています。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。

ローマ人への手紙 8章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書は、血を流すことがなければ赦されることはない、と語っています。本当は自分が十字架にかかり、滅びるものだったのに、イエス様が代わりに刑罰を受けてくださいました。そして恵みとして、聖霊を私たちに送ってくださいました。このことにより、勝てない罪の誘惑にも勝てるようにしてくださったのです。また、神様の命令も思い起こさせてくださいました。私たちが、御言葉を行うよう選択できるようにしてくださるのも聖霊様です。

 神様が救いを計画され、イエス様が十字架の贖いを実行され、聖霊様が救いを完成されました。このように三位一体の神様が救いをなしてくださったのです。

 今も、聖霊様は、私たちのうちに働き、御心を行わせてくださいます。これは、神様の恵み以外の何ものでもありません。私たちの肉の力では絶対に御心を行えません。罪の赦し、イエス様の十字架、そして聖霊様の働きによって、神様は究極的に良いことを私たちになしてくださったのです。

 救われる道はイエス様以外にありません。そのイエス様を送ってくださったのも、聖霊様を送ってくださったのも神様です。そして、私たちは、その神様によって天に引き上げられます。神様は私たちを天国に連れていってくださるのです。

 天国は良いものだけあり、地獄は悪いものだけあります。また、この地上は神様が働かれているので、良いものも悪いものも混在しています。実は、神様は、天国に連れて行ってくださる道を私たちに与えてくださっただけでなく、この地上でも良いもので満たしてくださるお方です。

 預言者であるナタンをとおして、神様がダビデの罪を責められた時に言われたのは、ダビデに良いものを与え続けるのは私なのだ、ということでした。

ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。

サムエル記 第二 12章7~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 まず、神様はダビデに「わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした」と言われました。神様がダビデを王としたのです。また、「わたしはサウルの手からあなたを救い出した」と言われました。本当はあなたは滅んでいたが、奇跡的に救い出したのは私ですよ、と言われたのです。さらに、神様がダビデの主君、すなわちサウルの家を与え、サウルの妻たちを与え、イスラエルとユダの家、すなわち王国全体を与えた、と言われました。このことを言われた上で、もっと求めるのだったらあなたにこれらのものを与えたのですよ、とダビデに言われたのです。

 このように、ダビデに良いものを与え続けたのは私なのだ、と主は言われました。私たちは、このことになかなか気づかず、自分の能力や努力で成し遂げたと思ってしまうものですが、持っているのは神様から与えられているからなのです。

 ダビデが特別な人間なのでは決してなく、皆が罪の性質を持っています。神様が良いものを与えて導いてくださり、求めればすべて与えてくださるのです。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

ピリピ人への手紙 4章19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。

コリント人への手紙 第二 9章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

ローマ人への手紙 8章32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで聖書が語っているのは、イエス様さえ与えてくださったのだから、神様はそれ以下のものは惜しみなく与えてくださるということです。すべての良いものを本当に与えてくださるのですが、ここで注意しなければなりません。それは、神様は良いお方なので、良いものだけ与えてくださるということです。実は、私たちは、良いものと悪いものとの見分けがつかないものです。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

マタイの福音書 7章7~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 求めなさい探しなさいたたきなさい、という御言葉は、ギリシャ語原文で読むと、求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい、という意味です。これらは「祈り続けなさい」という三つの表現です。そうすれば開かれる、とあるのは、与えられるという意味です。つまり、それは与えられるから諦めないで求め、祈り続けなさい、と聖書は私たちに語っているのです。

 自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか、とあるのは、当時のパンは硬く、小さい子はパンと石の見分けがつかなかったからです。また、魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか、とあるのは、当時ガリラヤ湖にいる魚と言えばウナギのことだったので、小さい子は魚と蛇の見分けがつかなかったからです。同様に私たちも良いものと悪いものとの見分けがつかないので、神様は悪いものを与えないで良いものだけを与えてくださるという意味をここでは指しているのです。

 本当に人間は見間違えるものです。例えば人生の伴侶を探すことにおいても例外ではありません。恋愛では熱病のようにこれだー!と思ってしまう傾向にあるので、自分が絶対にこの人と結婚したいと思っても、DVを内側に秘めているような相手であれば、いくら求めても与えられません。会社を探すことにおいてもそうです。この会社が自分には絶対合ってるし、ここだ!と思っても、もし実態がブラックであればいくら求めても与えられません。

 聖書は、求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさいと私たちに言っています。そうすれば神様は良いものを与えてくださる、という約束です。ここで私たちに求められる信仰は、神様がおられるだけではなく、求めるものには報いてくださること、すなわち良いものを与えてくださる方であることを信じていくことです。

 思い違いをしているのは私たちであって、神様が意地悪なのではありません。イエス様は私たちが罪に打ち勝つことができるように聖霊様を送ってくださいました。また、全ての必要を満たしてくださり、良いものを私たちの祈りに従って与えてくださいます。そしてこれは昔に起こったことではなく、今の時代も、一人ひとりになしてくださることです。

すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

ヤコブの手紙 1章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで聖書は、神様には移り変わりはありません、と言っています。また、この地では皆既月食などあるけれども、そういう影のようなものは神様にはない、と語っています。神様が良いものを与えてくださるという事実は、昔も今も、変わることは決してありません。昔与えたが今はもう与えない、ではないのです。聖書は次のように私たちに忠告しています。

私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。

ヤコブの手紙 1章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これまで見てきたように、人が滅びるのは自分の欲のせいです。自分の欲のせいで罪に引っ張られ、滅びを招くのです。しかし神様は完全なものすべての与え主であり、永遠の命と、それ以下のものを良いものなら、すべて与えてくださるお方です。

 このことは、自分も含め人に信頼してはいけないことに繋がっています。私たちが信頼して良いのは、神様だけです。

主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。

エレミヤ書 17章5~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書がここで言っている信頼する、とは、ゆだねていくということです。自分も含め、人間に信頼する者はのろわれよ、とあります。これは自分の力で何とかしいこうとか、人に寄りかかっていこうとすること、また、人や自分が何か良いものを持っているなどと思うことです。しかし、主に信頼する者に祝福があるように、とあります。その人は水のほとりに植えられた木であり、流れのほとりに根を伸ばし〜とあるのは、主に信頼するものが本当に幸いであり、祝福を受けるのだ、と言っているのです。

 この2022年、人に自分をゆだねるのではなく、あくまでも神様に目を向けて思い違いを避けていくことが重要です。

 これまでをまとめると、滅びの原因は自分にあり、神様のせいでも人のせいでもないということを見てきました。また、良いものを与えてくださるのは神様であり、私たちは祈り続けることが求められています。祈っても与えられないのは、良いものではないからだということも見てきました。

 私たちは、思い違いをしないで、神様に目を向けてすべてをゆだね、良いものを神様から受け、究極的には天国に行けるものでありたいと思います。

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