御言葉の大切さ

2022年3月27日

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

マタイの福音書 5章17~19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先週は祈りの大切さについて見ていきました。そして、高校二年生の時に私が経験したことをお話しさせていただきました。そのとき、特別な形でイエス様が現れてくださり、三つのメッセージを与えてくださいました。まず一つ目に、御言葉は全て真実だということを教えてくださいました。そのとき、御言葉が与えられていることがどんなに大きな愛で、大いなる恵みかということを感謝しました。二つ目のメッセージは、祈りはどのような祈りでも聞かれている、ということでした。その前までは、心を注ぎ出して祈った祈りしか聞かれていないように思っていましたが、トイレの中で少し祈った祈りでも、どのような祈りであっても聞かれていることを主は語ってくださいました。そこで、祈りを通してだけ私たちは主とのコミュニケションを取れるということを教えていただき、祈りは義務ではなく、本当に大きな愛だということをイエス様に感謝しました。三つ目は主を証するということです。人が聞いても聞かなくても証することが大切だということです。そして、人が信じるか信じないかは全然私の責任ではなく、ただ福音を伝えなさいということを言われました。

 高校二年生の時のイエス様が現れて与えてくださったメッセージは、今から振り返っても本当に大切な三つのことだったな、と思います。クリスチャンとして、信仰生活をするにあたって大切な両輪は御言葉であり、また祈りです。この両輪はどちらも欠くことができないものです。そして、私たちはこの地上にあって主を証していくというミッションが与えられています。先週はこの証をして、祈りの大切さについて、見ていきました。

 イエス様ご自身も、どんなに忙しい毎日を送られていても、翌朝には早く起きて一人で祈っておられたとあります。このように、イエス様は祈りの時間を特別に持たれました。そして、聖書には、ひたすら祈りなさい、絶えず祈りなさい、目を覚ましていなさい、とあります。特に、終末に生きる私たちのためには、目を覚ましていつでも神様の前に立てるように祈りなさい、と言われました。そして、祈らないということは、主とのコミュニケションが絶たれるということです。主に頼らないで自分の力でやっていきます、ということになってしまいます。このように、危険な状態に陥るということをお話しました。そして、祈ることによって私たちは主とのコミュニケーションが保たれ、主により頼んで生きていくことができます。

 ですから、たとえ牧師や主の働きをする人であっても、その生活から祈りが絶たれるのはとても危険な状態です。ともかく祈りがないと、主ではなく、まず自分の力、肉の力ですることになってしまいます。そうすると必ず問題が起こってきます。生活から祈りがなくなってしまうと、途端にサタンの誘惑に遭ってしまいます。そして主の働き自体が破壊されてしまう、ということを私たち覚えていかなければなりません。あの宗教改革者のルターも「私はとても忙しい。だからもっと祈らなければならない」と言いました。本当にその通りです。忙しければ忙しいほど祈っていくことは大切です。本当に、祈りが信仰生活の原動力です。祈りがなくなってしまえば、クリスチャンとしてのエネルギーが枯渇していき、とても危険な状態になってしまいます。ともかく、ひたすら祈りなさい、絶えず祈りなさい、と聖書に書かれているとおりです。特に、終末の時代に、目を覚まして祈っていなさいとあります。そして、いつでもイエス様の御前に立てるようにとありますから、聖書に書かれていることに耳を傾けていく必要があります。確かに、私たちは忙しいですから、トイレの中ででも、短くても、その日のどこか時間と場所を見つけて祈るようにしていきたいと思います。ともかく、寝る前でも、少しの時間でも、祈っていくということ、常に主を目の前に置いて歩むことはとても大切です。そして今日は、もう一つの車輪である御言葉の大切さについて見ていきたいと思います。

 イエス様も御言葉をとても大切にされました。先ほど冒頭でお読みしたマタイの福音書5章の17節から19節で、イエス様は「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」と言われました。ですから、私たちは、旧約聖書であってもないがしろにしたら絶対にいけない、ということです。そして、18節で、「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」と言われました。それほどこの聖書の御言葉を大切にされたということです。そして19節ですは「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」と言われました。御言葉の戒めに対して、どのような態度を取るかということが天国での報いに関わってくるのです。また、同じく、マタイの13章53節と54節を見ていきましょう。

イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、
ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。

マタイの福音書 13章53~54節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、ご自分のご郷里に行かれて、会堂で人々に教え始められた、とあります。会堂はシナゴグと言って、ユダヤ人の集まる場所のことですが、その会堂で、イエス様は人びとに聖書の御言葉を教えておられました。イエス様はこの御言葉をご自分が学び、また教えるということをとても大切にされました。

 そして、イエス様がサタンの試みに遭われた時のことがマタイ4章1節から10節に出てきます。

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

マタイの福音書 4章1~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 以上のように、荒野で三つのことをサタンは試みました。サタンは、イエス様が四十日間断食されて空腹だったので、「あなたが神の子なら石がパンになるように命じなさい」と言いました。このようにサタンが試みた時、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」と、言われました。これは、申命記8章3節の御言葉でサタンの誘惑に応じられたということです。そして、今度はサタンが次のように誘惑しました。「すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」」と。サタンも聖書の御言葉をもって、イエス様を誘惑しようとしたのです。けれどもイエス様は「あなたの神である主を試みてはならないとも書いてある」と言って、申命記6章16節の御言葉を用いて応じられました。また、8節ではこのように書かれています。「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」ここでも、イエス様は、申命記6章13節の御言葉をもってサタンの試みに応じられています。以上のように、全て御言葉をもってサタンに立ち向かえるというわけです。ですから、イエス様がいかに御言葉を大切にされたのか、ということです。悪魔であるサタンは、イエス様を試みたように私たちも試みようとして、吠えたける獅子のように私たちの周りを回っている、とあります。

 そして、私達が戦う時、エペソ人への手紙に書かれている、御言葉の剣があります。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

エペソ人への手紙 6章10~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書には、私達の戦いは、暗闇の世界の支配者たち、天上にいるもろもろの悪霊に対するものだと書かれています。今も悪魔、またその手下である悪霊は働いているわけですが、この邪悪な日に際して、私達が悪魔、また悪霊に対して戦うことができるように、上の全ての武具を身につけるように勧められています。「腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
救いのかぶとをかぶり・・・」とあります。ここで注目していただきたいのは真理の帯、正義の胸あて、福音の備えを足にはくこと、信仰の盾を取ること、そして救いのかぶと・・・これらは防御する武具です。攻撃するものではなく、ただ悪いものから自分たちを守るだけです。けれども、17節にある、御霊の剣だけは、防御にも攻撃にも使えます。この御霊の剣、すなわち神の言葉とありますが、神の言葉は、サタンに対しての防御にも使えます。また、それは攻撃ができる、唯一の神の武具です。ですから、御言葉は大切なのです。イエス様も、悪魔の誘惑に対して、防御するだけでなく、打ち勝つために御言葉の剣を使われたのです。ですから、私たちがサタンの誘惑に遭った時、とにかく御言葉を蓄え、御言葉により応戦していくことが大切です。御言葉を用いていくなら、サタンも手出しできなくなります。御言葉の剣によって、私たちは、サタンをやっつけることもできるのです。そしてイエス様も御言葉をとても大切にされたことがこの荒野での試みからもわかります。

 また、聖書は御言葉が大切だということを何度も何度も語っています。箴言13章13節の御言葉をお読みします。

みことばを蔑む者は身を滅ぼし、命令を尊ぶ者は報われる。

箴言 13章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 更に、聖書には、御言葉を尊ぶ人が報われるともあります。ですから、ここでも御言葉の大切さを聖書は語っているわけです。また、新約聖書でも御言葉の大切さは語られています。使徒の働き20章32節も見ていきます。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

使徒の働き 20章32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 パウロが、エペソの人々にこう語っているわけですが、御言葉を読むことによって、私たちは成長し、御国を受け継ぐのにふさわしく整えられていきます。また、第一ペテロの手紙1章23節から25節の御言葉をお読みします。

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。

ペテロの手紙 第一 1章23~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 主の言葉は永遠に立つ、とあるように、私たちはこの主の言葉によって新しく生まれ、変えられていくということが起こるのです。そして、主の言葉は永遠に立つと言われています。イエス様もまた同じように言われています。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

ヨハネの福音書 17章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様の御言葉は真理ですが、御言葉によって私たちは聖別されていきます。御言葉は私たちを成長させて、御国を受け継ぐにふさわしく整えていきます。御言葉を離れては、私たちは本当に何もできないものなのです。そして、御国から遠ざかってしまうのです。ですから、御言葉によって私たちは日に日に変えられていき、御言葉によって天国に入るものとして整えられていきます。もし、御言葉を読まなくなれば、主から離れてしまうことを覚えておく必要があります。第一ペテロの手紙2章2節にはこのようにあります。

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ペテロの手紙 第一 2章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 御言葉を慕い求めなさい、ということがここで記されています。それによって成長して救いを得るためだということです。私たちが成長して救いを得るためには、御言葉が欠かせないのです。

 このように、御言葉はすごく大切ですが、御言葉を読むにあたっての注意点もあるので、今度はそのことについて見ていきたいと思います。ヨハネの黙示録22章17節から19節までの御言葉を見ていきます。

御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。

ヨハネの黙示録 22章17~19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、聖書の御言葉に、付け加えたり、そこから取り除くことをしてはいけません。これはちょっと不都合だからと言って削ったりとか、こういうのがあったら良いからと言って、都合よく付け加えるなどしてはいけないということが、聖書によって厳しく語られているのです。そこから付け加えても省いてもいけないというのが、御言葉を読む上での注意点の一つ目です。また、第二ペテロの手紙1章20節から21節にもこのように書いてあります。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。
預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

ペテロの手紙 第二 1章20~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書の預言は神様から与えられた言葉ですから、それを勝手に解釈してはいけませんよ、というのが二つ目の注意点です。また、第二ペテロの手紙3章16節から17節を読むと次のように記されています。

その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。
ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。

ペテロの手紙 第二 3章16~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 パウロはたくさんの書簡と呼ばれる聖書の御言葉を記していますが、その手紙でパウロはその中には理解しにくいところがあります、とはっきりと記しています。いや、これは神様の言葉だから皆がわかるんだ、などと言う人もいますが、聖書には理解しにくいところがある、とはっきりと書かれています。そして、「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます」とあるわけです。聖書は理解しにくいからと言って、自分の好きなように勝手に曲解していくならば、身に滅びを招きます。

 そして17節では、「不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい」とあります。聖書の御言葉が理解しにくいところもあるので、勝手に曲解したり解釈する人もいて、よくわからない人を惑わしにかかる場合があるから、滅ぼされないように気を付けなさいということです。御言葉を読んだり読まなかったりとか、正しく理解していないとすぐに騙されてしまうことが起こります。第二ペテロの箇所に書いてあるように、不道徳な者たちが惑わしにかかるので、御言葉を曲解したり、勝手に解釈することに対して、私たちは注意を払わなければいけません。そうしなければ、身に滅びを招いてしまいます。これは本当に大切なことです。

 そして、御言葉を読む時の注意点として、第二テモテ4章2節から4節のの御言葉をお読みします。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

テモテへの手紙 第二 4章2~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は、パウロがその愛弟子のテモテに書き送った手紙ですが、世の終わりの時代が近付くと、人々が健全な教えに耐えられなくなり、自分の耳に心地良い話を聞こうとして、真理から耳を背けて作り話にそれていく時代になると警告しています。そして、実際にこれは起こっているわけです。

 確かに、イエス様の愛によって人は救われますが、だからイエス様の教えに従いなさいと言うのは違う、それは律法主義だ、と言う人がいます。けれどもイエス様は、自分を捨てて、自分の十字架を負って私に従ってきなさいと言われました。それは、自分を捨てて、自分の十字架を負って従わないとイエス様の御言葉に従えないからです。自分の好きなように生きていこうと思ったら、イエス様の教えを実行することはできません。自分に死んでイエス様に従うか、自分の好きなように生きるかのどちらかなのに、天国には行きたいけどイエス様に従っていきたくない、自分の好きなように生きて天国に行きたいと、皆が思ってしまうわけです。そしてそういう人は愛によってだけ救われるのだと言います。確かにそのとおりですけれども、イエス様はイエス様を信じることは、イエス様に聞き従うことだと言われています。ですから、愛によって救われるから自分の好きなように生きても天国に行けるんだ、と言う教えはイエス様が言われた教えと違って、まさしく作り話なわけです。真理から耳を背けて作り話にそれて行くような時代になっているのです。

 また、都合よく、イエス様を一回でも信じると言ったなら、あとはどんな生き方をしても救われるんだ、という教えも人気があります。これも、好き勝手に聖書を解釈しています。なぜなら、聖書をよく読んでみると、一回イエス様を信じても、あとで好き勝手にイエス様を裏切るような生き方をした人をもう一回悔い改めに立ち返らさせることはできない、とあるからです。イエス様を一回でも信じますと言ったからといって、天国に行けるようなものではないですし、天国の門は狭く、それを見出すものもまれだと書いてあるのに、一回でもイエス様を信じたら天国に行けるんですよ、などと言う教えが日本ではとても人気があります。そして、それに意を反したら、異端のような言い方をされるという現実もあります。

 そして、聖書には神様は男と女とに作られて結婚によって性的な結び付きを制定されて、祝福されたとあります。そして、男と男が、女と女が、という同性愛・同性婚に対して聖書は厳しく言っています。そのようなものに怒りが降ると書いてあるのに、今の時代は自分たちの好きなように聖書を否定していきたい、というのがあり、アメリカ合衆国でもオバマ大統領の時に同性婚が合法化されました。そして、それに違を唱える人は憲法違反となって牧師も投獄された、ということがありますけれども、結局、罪深い人間は好きなように聖書を勝手に解釈していっています。

 聖書の時代と今の時代は変わった、時代が変わるように聖書の解釈も変わらないといけない、というようなことを言う人もいますが、これはまさしく、第二テモテの4章3節に書いてあるように、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地良い話を聞こうと真理から耳を背け、作り話に逸れていく時代になっているということです。

 御言葉を勝手に解釈して曲解して自分に都合のいいように作り話を持ってくるという時代になってきています。そして、健全な教えを教える人は反対や迫害を受けるようになってきます。ですから、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の勤めを十分に果たしなさい、とパウロが記しています。私たちが本当にしっかりとイエス様にとどまって生きていきたいと思うならば、多くの迫害に合う、困難に合うということは、イエス様も言われています。それは、外からだけでなく、内からも起こってきます。ですから、クリスチャンの今の流れが健全な流れだという風には思わないでほしいのです。イエス様もこう警告されています。

まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

ルカの福音書 18章7~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様の教えにとどまる本当の信仰者が地上にいるのか、とイエス様は二千年前に言われました。というのは、人々が健全な教えに耐えられずに、自分の耳に都合のいい話にそれていったり、聖書の御言葉に付け足したり省いたり、曲解したり、自分勝手に解釈したりして、イエス様が教えられた教えに留まる人は、本当に少ないということをイエス様もよくご存知だったのです。ですから、今のキリスト教会がどんどん御言葉を軽視して、作り話のような教理が人気が出てますけれども、私たちはしっかりとイエス様が教えられた教えにとどまらなければいけません。そうでないと、せっかく御言葉を読んでいても、曲解したり、自分の都合のいいように解釈していくなら、身に滅びを招くからです。ですから、私たちはイエス様が教えられた教えに正しく留まっていくことがとても大切です。

 また、御言葉の剣ですが、剣もちゃんと使えるようにしないと、むやみやたらに扱うなら、ときには自分を傷つけてしまう可能性があります。剣の使い手がパッと攻撃してパッと身を守り、また、要所にパッと切りつけていけるように、剣の使い手にならないといけない、ということです。御言葉を曲解するなら自分自身を傷つけてしまいます。しかし、御言葉の剣の良い使い手になるならば、御言葉は私たちを成長させ、天の御国に入れるよう、ふさわしく整える力があります。そのことを、今日は皆さんとお分かち合いしたかったのです。

 御言葉はとても大切なものです。イエス様ご自身も、御言葉はとても大切にされました。そして、聖書は御言葉の大切さを繰り返し繰り返し語っています。しかし、御言葉を読むときの注意点があるということを今回、お話しました。来週も続けて御言葉の大切さについて見ていきたいと思います。

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