2022年6月12日
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私達はみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
ローマ人への手紙 6章3~8節
私達は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私達も、新しいいのちに歩むためです。
私達がキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
私達は知っています。私達の古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私達がもはや罪の奴隷でなくなるためです。
死んだ者は、罪から解放されているのです。
私達がキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私達は信じています。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今日は洗礼式なので、洗礼の意味について見ていきたいと思います。また、それと同時に聖霊を受けることが大切な理由についても、見ていきたいと思います。
まず、洗礼はゴールではなく始まりです。モーセにつくバステスマを受け、奴隷状態であったイスラエルの民が航海を渡ったのが、洗礼の雛形だと言われています。それから40年間、イスラエルの民は荒野で旅をしながら苦しめられました。しかしその主導権を握っていたのは神様だったと申命記にも書かれています。神様が苦しめ、試み、彼らが本当に神様の命令を守るかどうか試されたとあります。その40年の荒野の旅路の中で、多くの民は神様につまずき、つぶやき、不平を言いました。そして結局、カナンの地に入れたのはヨシュアとカレブの二人だけでした。このことは、終わりの時代を生きる私達にとっても、大きな教訓となっています。苦しみの中にあっても主に信頼するようにと言われています。人生には良いときもあれば悪いときもあり、色々あります。しかし、どのような中にあっても、主を信頼して歩むことがとても大切だと教えられています。
そして先ほども申し上げたように、この洗礼式というのはスタートです。モーセにつくバプテスマを受け、航海を渡ることがスタート地点だったことと同じです。イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から、約束の地カナンを目指していたことは、私達が天国を目指していることを象徴しています。これから洗礼をうけるYさんがクリスチャン生活を歩むにあたって、もう一度、洗礼の意味、すなわちイエス様と共に歩むことの意味について見ていきたいと思います。また、そのために絶対必要な、聖霊の助けについても見ていきたいと思います。
先ほどお読みした箇所の3節には、このように書かれています。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私達はみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
私達は、イエス様が、天の御位を捨てて、この地に来てくださったことを信じ受け入れています。そして、イエス様は、私達が経験するであろう全ての苦しみや試みにあわれ、十字架につけられました。私達の罪、咎の全てを負って十字架で死んでくださったわけですけれども、イエス様の十字架の尊い贖い、つまりイエス様が注ぎ流された血だけが私達の罪を洗い清める力があります。
私達は、イエス様が私達の罪を身代わりに背負い、罪の呪いを十字架で受けてくださったと信じて、イエス様を救い主として受け入れています。しかし、それと同時に悔い改めが大切になってくることも覚えなければいけません。
私は神学教育はアメリカで受けたのですが、アメリカと日本の大きな違いは、「イエス様は救い主」と言うところは一緒でも、「イエス様は主」というところは日本の教会は抜けていることが多いと思います。そもそもバプテスマというものは、「イエス様と共に私は死にます」と言うことです。すなわち、「自分中心の生き方を改めます」と言うことです。水の中に浸かるということは、「イエス様と共に私は死んで葬られました」ということを意味するわけです。全ての罪を私は悔い改めて、これからは自分中心で生きていくのではなく、イエス様中心、神様中心で生きていきます、という信仰告白なのです。
罪の本質は、英語のsinがよく表していると言われています。SとNの間にI、自分があります。罪はいつも自分中心です。自分中心が実は罪の本質なのです。自分が中心だから色々な戦争も起こるし、人をおとしめたいということも起こります。色々な問題が自分中心から起こってくるわけです。人の悪口を言い、人をおとしめ、自分が良い思いをしたりすること、ともかくこれらの自分中心が罪の本質です。
イエス様は、その私達の罪を背負って十字架で死んでくださいました。罪の赦しはイエス様が十字架で流された血潮以外にはありません。イエス様と共に葬られることを象徴するバプテスマを受けることは、「今までの自分中心の生き方を悔い改めて、イエス様と共に生きます」という信仰告白です。イエス様と共に水から上がるとき、それは「イエス様と共に生きます」ということです。今まで自分が心の王座を占めていたけれども、今度は心の王座をイエス様に譲っていくのです。このとき自我というものもありますが、常にイエス様を第一にし、イエス様の御心に従い、イエス様に聞いていきます、という信仰告白なのです。
ですから、もう私が生きているのではなく、イエス様が私のうちに生きておられる、ということになるわけです。これがバプテスマの意味です。今まで自分中心で生きてきたけれども、今度はイエス様を中心にして生きていきます、という信仰告白で、その決心をするのが洗礼式というものなのです。
そしてイエス様は、イエス様を信じてバプテスマを受ける者は救われます、と約束されました。洗礼を受けたときに与えられている約束について見ていきたいと思います。使徒の働き2章38節と39節です。
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
使徒の働き 2章38~39節
この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて」と言いました。悔い改めですから、罪を後悔することではなく、180度方向転換するということです。自分中心の生き方から神様中心の生き方に悔い改め、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」ということです。そうすれば、賜物として聖霊を受けます、と言われています。
実は、私達が洗礼を受けてから、イエス様中心に生きていくといっても、肉の力では神様の御心を成していくことはできません。天国に行くことも肉の力では無理なのです。そこでイエス様と共に歩む決心をした人に、賜物として聖霊が与えられるという約束が、ここで与えられているのです。そしてこの約束は、私たちとその子孫、遠くにいる人びとみな、主が召される人なら誰にでも与えられていると言われています。
それでも大切な前提は、悔い改めるということです。聖霊を受けられないという人の中に、自分中心で生きていて悔い改めていない人がいます。そうすると洗礼は受けたけれども、聖霊がその人のうちに与えられていなくて、いつまでたっても自分中心の人生を生きているのです。私はそういう人を実際に見てきました。
大切な前提として、自分は罪人であるということを認め、悔い改めることです。そして、イエス様と共に葬られ、イエス様とともに生きますという洗礼を受け、聖霊を賜物として受けることが大切です。
ですから、本当に悔い改めず、自分中心の生き方をして、洗礼を受けた方もいらっしゃいましたけれども、その方はいつまで経ってもイエス様中心ではなく、自分中心の人生だったわけです。私達は、罪を告白して悔い改め、水のバプテスマを受け、その罪を捨てて歩めば賜物として聖霊を受けます。そしてこの荒野の40年間、本当に良いときもあれば苦しいときもあります。しかし、聖霊様がうちにおられることによって、主の助け、聖霊の助けを受けることが大切です。
イエス様が天に帰られる前、「私が去っていくことは、あなた方にとって益だ」と言われました。「なぜなら私が去っていかなければ、助け主である聖霊は来られないから」と言われたのです。そしてイエス様が昇天された後、10日後に、聖霊様が降られたことを先週のペンテコステ礼拝で祝いましたけれども、聖霊を受けて歩むことが大切です。三位一体なる神様は、父なる神様、子なるイエス様、内なる聖霊様と言われています。神様が私達人間を救おうと計画されました。そして、その救いの計画を実行されたのがイエス様です。十字架にかかり、罪の赦しを成し、私達が神の子とされる道を開いてくださいました。でも、それだけでは私達は孤児なのです。イエス様は「私はあなた方を捨てて孤児としない」と言われました。「私は戻ってくる」と言われました。すなわち、助け主、聖霊様によって戻ってこられたのです。私達のうちに聖霊様が与えられることによって、私達が天国に行けるように救いを完成させてくださるのです。
神様が救いを計画し、イエス様が救いを実行され、聖霊なる神様が救いを完成させてくださいます。ですから、この三位一体なる神様が、私達にとって大切なのです。
私達は、イエス様の十字架によって贖われ、救われました。そして、肉によって良い行いをしようとか、頑張って救いを完成させようとするのではなく、聖霊なる神様の助けによって救われるのです。聖霊なる神様は、私達が神様の御心を行うのを助けてくださいます。
イエス様は、天に戻られる前、弟子たちに「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい。ヨハネは水のバプテスマを授けたけれども、今度は、あなた方は聖霊のバプテスマを授けられる」と言われました。そして「聖霊があなたがたに臨むとき、あなた方は力を受けて、私の証人となる」と言われました。ですから、聖霊様によって主を証していく力も与えられます。また、聖霊様は罪について、裁きについて教えてくださる、とあります。ですから、私達が気づかない罪でも示し、悔い改めに導いてくださいます。また、私達の肉の力では本当に弱いですけれども、罪に打ち勝つ力も与えてくださる、とあります。このように肉に打ち勝つ力も与えられます。そして全ての真理に導かれる、とあります。そして、これから起こることも必要なら私達に示してくださるのが聖霊様です。イエス様が言われたことを私達に教えてくださり、思い起こさせてくださる助け主、聖霊様によって、私達は神様の御心を実行することができるのです。
私達は自分の力で神様の御心を実行していくことはできないですが、聖霊様の助けによってできるようになります。
そして、実は、聖霊様は、受ければいいというものではなく必ず受けなければいけないものです。そのことを聖書から知ることができます。エペソ1章13節と14節をお読みします。
このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
エペソ人への手紙 1章13~14節
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」とあります。そして、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証」とあります。つまり、私達が「天国に行ける保証は何ですか」と聞かれたら、「イエス様を信じているからです」と言うわけではないことがわかります。なぜかと言えば、イエス様もはっきりと言われています。マタイの7章13節と14節、そして21節から23節を見ていきましょう。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
マタイの福音書 7章13~14節
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
マタイの福音書 7章21~23節
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様はこのように厳しい言葉を言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです」と。私達は日本に住んでいると、クリスチャンになること自体が少数で「もう自分は狭い門を選び取った」と安心してしまっていますが、実はそうではないことがわかります。21節で、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」と言われました。
イエス様に向かって「主よ、主よ」と言う者は、いわゆるイエス様を信じた人で、イエス様は救い主、私の主人だ、と言っています。もちろん、イエス様を主、救い主として受け入れる人が天国に入りますけれども、そのような人がみな天国に入るのではなく、「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」とイエス様は言われたのです。私達はここを見落としてはいけません。
日本でクリスチャン人口は少ないですし、「イエス様を信じたら救われる」とか、「イエス様を信じる者は永遠の命を持つ」というところの、日本語の「信じる」はすごく曖昧です。「イエス様が言われたことを全部信じますよ」「イエス様を救い主と信じますよ」と言ったらそれで「信じている」という風に多くの日本人は解釈しています。しかし原語で聖書の「信じる」という言葉を見てみると、それはただ単にイエス様が言われたことに同意するというよりも、自分自身を委ねていく、信頼するという意味で使われています。ですからイエス様は、「自分を捨てて、自分の十字架を負って、私についてきなさい」と言われました。「命を救おうと思うものはそれを失う。私のために命を捨てるものは、それを得る」と言われたのです。
ですから、全てイエス様に委ねていくことです。先ほど申し上げたように、人間は自分中心で、ときには人を落とし入れ蹴散らしても、自分さえよければいいという性質があります。そうではなく、イエス様は自分を捨てて、自分にして欲しいように他の人にしなさい、自分を愛するように隣人を愛しなさい、と言われました。これが第二の戒めでとても大切だと言われました。第一は心を尽くし思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神様を愛することです。二番目には、自分と同じように隣人を愛しなさい、と言われたのです。しかしこれは決して自分の力でできるものではありません。
また、「主よ、主よ」と言って、「イエス様は私の主です、救い主です」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、神様を全力で愛し、隣人を自分自身のように愛していく人が天の御国に入ると言われたのです。私達はこの40年の荒野の生活でいろいろな中を通らされます。しかし、このような御心を、自分の力で全うすることは決してできません。私達のうちに与えられる聖霊様によって、それを克服して、天の御国に入ることができるのです。私達は、天の御国に入るのはそう簡単なことではないということも覚えなければいけません。
私はあるとき奨学金を頂いたので、アメリカのオルフォード先生の説教学のセミナーに行ってきました。そのときオルフォード先生が言われたのは、アメリカ人で教会に集っている人の中で、本当に神様に従っている人は一割、ということでした。そんなに少ないのか、と思いました。そうしたらあるとき、裁きを見てきた人の証しを聞きました。一人ひとり、イエス様の前に立って裁きを受けるけれども、裁きを待つ間、「私は絶対天国に入れる」と思っていた人が実は地獄に行っていた、と証ししていたのです。そしてなんと、9割の人は地獄に行っていた、ということです。そのことを聞いて私は驚きました。オルフォード先生が、アメリカ人で教会に行っていても本当に神様の御心を行っている人は一割、と言われたことと、妙に数が一致したからです。
イエス様も「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていくものは多い」と言われました。私はその証を聞いて絶望的になりました。ちょっとそれはできないんじゃないか、私自身にも色々な罪はあるし、と。そう思っていたときに、ヨハネの手紙第1章7節から9節の御言葉が与えられました。
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙 第一 1章7~9節
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように8節で、「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はない」と書かれています。私達のうちには自覚する罪、そして知らないで犯した罪があります。そして私達がその自覚している罪を告白するなら、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる」と約束されているのです。
自分が罪を犯したと認めることも、実は聖霊様の助けです。私はちょっと体調を崩して、先月9日間入院していました。そのとき、絶食して安静にしててくださいと言われて、ベッドの上で何もすることがなかったので、自分の人生を振り返るときを持ちました。そのとき、すごく大きな罪を示されたのです。私はその罪にずっと気がつかないでいたけれども、聖霊様の助けによって示されて、その罪の告白に導かれました。9節で「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる」と約束されているように、神様はその罪から私を清めてくださいました。このように聖霊様は、私達が気がつかない罪も示してくださいます。そして、その罪を認め、告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。そして7節に「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださる」とあります。私達のうちにどのような大きな罪があったとしても、私達がそれを認めて告白するなら、イエス様にあってそれは赦されるのです。そして、聖霊様との親しい交わりを持つことができ、神様の御心を行うこともできます。そうする者が天の御国に入る、ということを言われているわけです。
ですから大切なことは、私達は肉の力では決して神様の御心を行うことなどできなくても、聖霊様の助けによって私達の隠された罪も示されるし、全ての真理に導かれるし、私達のために聖霊様が働いてくださる、ということです。そして、イエス様の教えもそのときどきに教え、思い起こさせてくださるので、私たちにとって、聖霊様の助けは、神様の御心を行うために絶対不可欠なものなのです。
洗礼を受けるY姉妹にとって、これからは長い人生だと思います。色々な苦しみのときも通されると思いますけれども、聖霊様の助けがなければ神様の御心を行い、従っていくことは決してできません。しかし聖霊様を受けることによって、神様の御心を行うことができるようになっていくのです。私達のうちに聖霊様がおられることが救いの保証だ、と書かれているのは、聖霊様がおられなければ肉の力では絶対に神様の御心を行うことはできないからです。
このようなことを言うと、神様の御心を行うことによって救われるのか、と批判されたことがあります。確かに救いはイエス様の十字架の贖い以外に決してありません。どんなに私達が善行を積んだとしても、罪の赦しは決してありません。イエス様の十字架の血潮だけが私達の罪を洗い清めます。救いはイエス様の十字架以外にないのです。けれども、先ほど申し上げたように、自分に死に、イエス様と共に葬られるバプテスマを受け、悔い改め、自分中心の生き方からイエス様中心の生き方に変えられていく中で、本当に信仰を持ってイエス様に信頼していくならそれは聞き従うこととセットになってきます。英語でよく言いますが、信仰の本質は、trust(トラスト)とobey(オベイ)、すなわち、信頼と従うことです。
ですから救いはイエス様の十字架以外にないですが、本当に信じることによって、行いも後からついてくるということなのです。自分を捨て、聖霊を受けてイエス様に従い、神様の御心を行う中で、良い行いもついてくるということです。ですから、その人が本当に悔い改めて、聖霊を受けて歩み、その人のうちに聖霊様がおられるかどうかは、その人が自分中心の生き方から神様中心の生き方に変えられていっているかどうかが、大切な見分けるポイントになります。
イエス様も言われました。本物か偽物か「実によって見分けなさい」と。どんなに良いことを言っていたとしても、偽物はやっぱり自分中心です。そして本物は本当にイエス様中心です。また、聖霊様がもたらす実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を実らしていくわけです。ただ、すぐにそういう実が実るわけではなく、うちにおられる聖霊様によって少しずつ変えられていきます。聖書に「栄光から栄光へと主と同じ形に変えられていく」とあります。「この人変わったね」と言うとき、その人のうちに確かに聖霊様がおられて働いておられることがわかるのです。
この聖霊様によって私達は救いの保証をいただき、確かに天国に行けます。イエス様をただ単に救い主として信じているから天国に行けます、というのではないことがわかります。
いろいろな奇跡を行ったり、預言をしたり、悪霊を追い出したりといった働きも素晴らしいものです。しかし、そういう働きや言葉によってではなく、神様の御心、すなわち、父なる神様を全力で愛し、自分の隣人を自分と同じように愛していくこと、イエス様と同じ御形がその人のうちになっていくことが聖霊様の働きによるものなのです。
イエス様はマタイ7章23節でこのように言われました。「わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」これはお前達を全く知らないし、何の親しい交わりも持ってないということです。その人は聖霊様と親しい交わりを持っていない、という宣告です。ですから、私達はしっかりと覚えなければいけません。私達の救いはイエス様の十字架の贖いによるもので、私達の良い行いによるものではありません。イエス様が私達のために十字架で血を流して死んでくださったと信じることによって、信仰はスタートします。しかし、イエス様につくバプテスマを受け、イエス様と共に死にイエス様と共に生きますと言ったとしても、助け主であられる聖霊様抜きには、神様の御心も行えないし、天の御国にも入れないのです。ですから、救いの保証は何ですか、と聞かれたら、「イエス様を信じていることです」と言うのではなく、「私のうちにおられる聖霊様が保証です」と言うことになるのです。
イエス様も聖霊を受けることは必須だと言われました。ヨハネの3章1節から6節をお読みします。
さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
ヨハネの福音書 3章1~6節
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
6節には「肉によって生まれた者は肉のまま」だとあります。私達がどんなに善行を積んだとしても、その動機は、自分のための善というものが多いわけです。
本当に他者のためを考えての善ではなく、自分は他者のためにやってあげている甲斐甲斐しい人だ、という自己満足が隠されていることが多いのです。親子の愛は本当に美しいものですけれども、それでも中には、自分のために子供を利用しようとか、そういうものも入っていたりします。本当に何の見返りも求めない愛というものは、イエス様を知ることによって初めて知ることができるものだ、とヨハネの手紙にもあります。
生まれながらの人間は肉なので、神の国に入ることはできません。3節で、イエス様はニコデモに次のように言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」肉のままでは神の国に入れない、新しく生まれなければいけない、と言われたのです。そしてイエス様は5節で、どのようにして新しく生まれることができるのか、ということについて答えられました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」イエス様は、本当に大切なことを言われるときに、「まことに、まことに」と言われました。ここでイエス様が言われたことは、とても大切なことです。そして、イエス様がここで言われた「水」は水のバプテスマを指しています。自分の罪を認め、悔い改めて、水のバプテスマによって罪の赦しを受けるということです。そして、次に「御霊」とは、御霊を受けることによって変えられていく、ということです。水のバプテスマと聖霊を受けることによって、古い肉の、自分のために生きる者から、神様のために生きる者、イエス様と同じ思いを持って生きる者として変えられていかなければ、神の国に入ることはできないと言われたのです。
ですから、御霊を受けていくことは必須だということです。ローマ8章9節を見ていきましょう。
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
ローマ人への手紙 8章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
キリストの御霊、すなわち聖霊様をうちに持っていなければ、私達はイエス様のものではないということです。ローマ8章14節をお読みします。
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
ローマ人への手紙 8章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
聖霊様によって導かれる人は、神の子供なのです。ですから洗礼を受けて「イエス様は救い主です」と告白するだけでは十分ではないのに、多くの日本人はここで終わってしまっています。そしてそれ以上のことを言うと、「いやあ、律法主義だ」とか、「行いによる信仰だ」と言われます。また、「今は恵みのときなんですよ」とも言われます。
しかしそうではありません。イエス様も言われているのは、イエス様の十字架によって罪赦されたことを受け入れ、洗礼を受けることがスタートであり、そこから古い自分に死に、イエス様と共に生き、主の御心を行っていくことが必要なのです。しかしそのためには、聖霊様の助けが必須です。
そして、水のバプテスマを受けたことが、私達が救われる保証になるのではありません。もちろん水のバプテスマを受ける必要はあります。しかし聖霊を受け、新しく変えられることによって、自分中心の生き方から神様中心の生き方に変えられる必要があるのです。すぐに変えられるわけではありません。御霊の実ですから時間がかかります。その人のうちに聖霊様が来られても、聖霊様と親しく交わっていくなら、栄光から栄光へとイエス様と同じ形に変えられていくのです。ですから徐々にイエス様と同じように変えられていくなら、その人のうちに聖霊様がおられる、ということなのです。
そして、聖霊様と親しく交わるということは、もちろん祈りを通しても大切ですが、御言葉が大切です。イエス様は、ヨハネ6章63節でこのように言われました。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。
ヨハネの福音書 6章63節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、「命を与えるのは御霊だ」「肉は何の益ももたらさない」と言われました。自分の肉の力によって救いを完成することはできない、ということです。また、私達に新しい命を与えてくださるのは、御霊だということです。そして、イエス様の言葉が、霊であり命なのです。
ですから、イエス様と交わることは聖霊様と交わるということです。そのとき祈りを通して親しく交わることもできますが、同時に御言葉を通しても交わることもできます。イエス様の御言葉が命であり、霊であるからです。ですから、両方とも大切なのです。
祈りも大切ですし、常に御言葉に接していくことも大切です。信仰生活の両輪は祈りと御言葉です。聖霊が御言葉をもたらし、御言葉が聖霊をもたらすとも言われています。私達は御言葉を読み、祈ることによって、聖霊様と親しい交わりを続けて持つことができます。
今日見てきたように、悔い改め、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受け、求める者に、天の父は聖霊を必ず与えてくださると約束されています。これからY姉妹はクリスチャン生活を始めますけれども、聖霊を受け、毎日御言葉を読み、祈ることによって、聖霊様と親しい交わりを持っていってほしいと思います。そして、栄光から栄光へと、イエス様と同じ御形に変えられる人生を歩んでいってほしいと思います。