2021年10月17日
ダビデとその部下が三日目にツィクラグに帰ったとき、アマレク人はすでに、ネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、
サムエル記 第一 30章1~31節
そこにいた女たちを、子どもも大人もみな捕らえ、一人も殺さず、自分たちのところへと連れ去っていた。
ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。
ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。
ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。
ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。
ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。
ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
ダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残ることになった者は、そこにとどまった。
ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡れなかった二百人の者が、そこにとどまった。
兵たちは野で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。
さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二房の干しぶどうをやると、そのエジプト人はそれを食べて元気を回復した。彼は三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったのである。
ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。
私たちは、クレタ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィクラグを火で焼き払いました。」
ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は言った。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神にかけて私に誓ってください。そうすれば、あの略奪隊のところに案内いたします。」
彼はダビデを案内して行った。すると、なんと、アマレク人たちはその地いっぱいに散って食べたり飲んだりし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から奪った分捕り物が、とても多かったからである。
ダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを討った。らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかは、一人も逃れることができなかった。
ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。
子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。
ダビデはまた、すべての羊と牛を奪った。兵たちは家畜の先に立って導き、「これはダビデの戦勝品だ」と言った。
ダビデは、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来た。彼らは、ダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデは、この人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。
ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」
ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。
だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」
その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。
ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」
その送り先は、ベテルの人々、ラモテ・ネゲブの人々、ヤティルの人々、
アロエルの人々、シフモテの人々、エシュテモアの人々、
ラカルの人々、エラフメエル人の町々の人々、ケニ人の町々の人々、
ホルマの人々、ボル・アシャンの人々、アタクの人々、
ヘブロンの人々、すなわち、ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今日の箇所は長いですが、この箇所でダビデがなしたことから、私たちが学ぶべきことについて見ていきたいと思います。
まず、今日の登場人物についてお話しますと、ダビデはイエス様の影ともいうべき人物です。イエス様は、ダビデの子孫としてお生まれになることが預言され、実際にそのことが実現しました。ダビデは、今日お読みした箇所ではまだそうではありませんでしたが、後にイスラエルの王になる人物です。イスラエルが一番栄えた時期の王は、ダビデの子であるソロモン王でしたが、その礎を築いたのがダビデでした。
そして、今日の箇所の背景についてもお話しします。先ほども少し触れたとおり、今日お読みした箇所ではまだダビデは王ではありませんでしたが、当時はサウルがイスラエルの王でした。ダビデはサウル王の妬みを買って、逃亡していました。その追撃が厳しかったために、ダビデはイスラエルの敵、ペリシテの地に逃げ込みました。敵なので普通は受け入れられないのですが、ダビデとその弟子たちは、ペリシテ人のガテの王、アキシュのところに身を寄せたところ、かくまわれて、信頼を得るようになっていきました。こうしてダビデとその弟子たちは生きながらえることができました。このことと関連する御言葉が次のとおりです。
主が人の行いを喜ぶとき、敵さえもその人と和らがせる。
箴言 16章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「敵さえもその人と和らがせる」のは、神様がなさることです。私達においても、必要であれば、神様を喜ばせる時にそのことが起こります。
こうしてある時、ペリシテ人とイスラエル人が戦うことになりました。そしてそこにいたダビデにも出陣するように命令が下ったのです。ダビデは、この時、自分の同胞であるイスラエル人と戦わなければならない状況という、窮地に立たされました。そして、不本意ながらも出陣することになりました。
しかし、神様はこの時のダビデの状況も見ておられて、働かれました。神様はペリシテ人の心に働いて、ダビデが出陣するのを反対させたのです。彼らは、ダビデがイスラエル人なので、自分たちを裏切るかもしれないから戦いから外すように、と言いました。こうしてアキシュ王は、仕方なくダビデに帰ってくれ、と言ってダビデは出陣しなくても良くなりました。以下の御言葉が語るように、神様が働いてダビデを守られたのです。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙 8章28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、神様は時に、私たちが何かできない状態になって、不利にならないように助けてくださるのです。
こうして、ダビデとその部下たちは、戦わなくても良いと言われて、自分たちの居住していたツィクラグに喜んで帰って行きました。すると今日お読みしたとおり、大変なことが起こったのです。
アマレク人という別の部族の略奪隊が、その地を攻撃して、自分たちの目に良いと思うものすべてを奪い、ツィクラグの町を焼き払う、ということが起こりました。このことにより、ダビデに忠実だった部下たちも、声をあげて泣き、ダビデを石で撃ち殺そうとまでしたのです。
たとえ主に従っていたとしても、いつもいつも自分の思い通りに行くわけではなく、苦境に立たされることもあります。ダビデが経験したように、私たちクリスチャンにも、必ずこのようなことは起こります。すべてが上手く行くわけではなく、また違った困難に遭遇することが起こるのです。
それでは、神様を信じているのに、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。その理由が次の御言葉に書かれています。
あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
申命記 8章2~5節
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今お読みした御言葉は、モーセがいよいよカナンの地に入ろうとする時に、イスラエルの民に語った言葉です。それまで、イスラエルの民が、紅海が分かれて追ってきたエジプト人から助けられ、神様を褒め称えて行くと、また水がない、食べ物がないといった状況になり、問題が起こりました。神様がおられて、祝福してくださるのは確かに事実です。しかし毎回、いつも上手く行くわけではありません。それではなぜ、神様は私たちを苦しい目に遭わせられるのでしょうか。
それは、苦しめることによって、その人の心に何があるのか炙り出されて知るためであった、と聖書にあります。苦しい目に遭わせるのは、サタンではありません。主が、愛する人を、目的を持って苦しめられるのです。
私たちは、物事が上手く行っているといくらでも良い人になれます。しかし苦しめられるのには、以下の二つの理由があります。
それは第一に、私たちが、神様の御口から出る言葉によって生きることを知るためです。そして神様が奇跡を起こし、助けてくださることを経験するためです。
そして二つ目に、私たちを訓練するためです。実のところ、人が強くなり、人格が練られていくのは、すべて物事が上手く行っている時ではなく、苦境にある時です。そして神様はそのことを良くご存知なのです。
神様は、その愛する者に鞭を与えられる、と聖書に書かれています。何も問題がないのがクリスチャンの人生ではありません。祝福も確かにあり、感謝だけれども、大きな問題も起こるのです。
以上述べてきたとおり、クリスチャンたちでも、苦境に立たされることはあります。そしてダビデもそうでした。ここから、苦境に立たされた時ダビデが何をしたのか学ぶことによって、私たちも苦境に立たされた時にするべきことは何か見ていきたいと思います。
ダビデはこの時、自分が留まっていた町を焼かれ、妻や子どもも奪われ、自分の部下たちからも殺されそうになるという、大変な窮地に立たされていました。普通なら、自分を殺そうとした部下たちに対して、どうして自分を裏切るのか、と怒りが来るのが多くの人間にあることです。しかし、ダビデは違っていました。
ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。
サムエル記 第一 30章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ダビデは、怒るのでもなく、「何言ってるんだ」と言って自分を殺そうとした部下たちに危害を加えるのではなく、「自分の神、主によって奮い立った」のです。そして次の御言葉に書いてあるとおりのことをしました。
ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。
サムエル記 第一 30章7~8節
ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ダビデは神様に聞いたのです。そして、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」と神様から助言を頂き、実行しました。すると最初にお読みしたとおり、エジプト人に助けられ、自分の妻や子どもたちを取り戻すことができただけでなく、戦勝品として羊や牛も得ました。
このように、私たちは、苦境に立たされた時に、自分の悟りに頼るのではなく、主によって奮い立ち、主に聞くことが大切です。もし、ダビデが自分の悟りに頼っていたなら、内紛状態になって全部取り返すことはできなかったでしょう。そして自分の力に頼っていたならば、エジプト人に出会うこともなく、広大な地で略奪隊に追いつくことができず、ダビデの徒労に終わってしまったことでしょう。
確かに、私も、自分の人生を振り返る時、自分の力で何とかやろうとした時に何も上手く行かなかったことを経験しています。以下の御言葉のとおり実行することが大切です。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
箴言 3章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちにとって、主に働いて頂くことが、遠回りに見えて一番の近道です。主によって奮い立ち、主に聞いて従うことが、一番目にダビデから学ぶことです。
二番目に学ぶべきことは、働きが異なっても同じように主にあって働いたならば同じように分け合うべき、ということです。
ダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残ることになった者は、そこにとどまった。
サムエル記 第一 30章9~10節
ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡れなかった二百人の者が、そこにとどまった。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ダビデが略奪隊を追っていったとき、疲れ切って途中で離脱したものもいました。そして彼らはそこにずっと留まっていました。そして、ダビデは戦いに出てすべてを取り戻しました。
ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。
サムエル記 第一 30章18~20節
子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。
ダビデはまた、すべての羊と牛を奪った。兵たちは家畜の先に立って導き、「これはダビデの戦勝品だ」と言った。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、次のことが起こります。
ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」
サムエル記 第一 30章22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここでは、「意地の悪い、よこしまな者たち」と書いてあります。そのような者たちが、疲れ切って途中で離脱した者たちには、取り戻した分捕りものは分けてやるわけにはいかない、と言いました。しかし、ダビデは次のように言いました。
ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。
サムエル記 第一 30章23節~25節
だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」
その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
主に与えられたものは、分かち合うことが大切で、それは当然の結果です。なぜなら、ベソル川を渡れた人に、神様が力を与えられ、渡れなかった人には与えられなかったからです。渡れた人は、神様からの特別な力があって渡れたのです。
この世の教育は、あなたの頑張りでどうとでもなると教えます。しかし、神様が、それぞれに与えられているものは違います。ある人には1タラント、ある人には2タラント、ある人には5タラント、といったようにです。5タラント与えられた人が、5タラントあるからと言って、1タラントや2タラントの人を努力が足りない、とは言えないのです。この世の教育は自分の努力で得た、と言いますが、自分の健康や能力も、もともと主によって与えられたものです。私たちは、自分が主によって得たものを分かち合うことが大切です。
私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。
ローマ人への手紙 15章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。
コリント人への手紙 第二 8章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
自分にたとえ能力や力、健康が今、与えられてたとしても、自分がいつまでもできるというわけではなく、病気になることもありますし、助けてもらわないと行けない状況になることもあります。次の御言葉にあるとおり、私たちはお互いに、持ちつ持たれつの関係でもあるのです。
今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。
コリント人への手紙 第二 8章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
主から恵みを頂いた時に、自分が頑張ったからと言って独り占めするのではなく、常に分かち合うことを、自分のポリシーとする必要があります。
あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。
伝道者の書 11章1~2節
あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
神様によって分かち合ったものは、たとえその人からでなくても、神様が返してくださるから、持たない人に分けていくことが大切です。
また、三つ目にダビデから学ぶべきことを見ていきたいと思います。
ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」
サムエル記 第一 30章26~31節
その送り先は、ベテルの人々、ラモテ・ネゲブの人々、ヤティルの人々、
アロエルの人々、シフモテの人々、エシュテモアの人々、
ラカルの人々、エラフメエル人の町々の人々、ケニ人の町々の人々、
ホルマの人々、ボル・アシャンの人々、アタクの人々、
ヘブロンの人々、すなわち、ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ダビデは、サウルの追っ手から逃げて逃亡者としてさまよい歩いていた時に、自分を助けてくれた人を忘れずにいました。そして戦勝品をその人びとに贈り物として送りました。このように、自分の受けた恩を忘れずに報いることも大切です。これは昔ながらの日本の文化だから、今の時代にはやらなくても良い、というものではなく、神様が喜ばれることです。
しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
ルカの福音書 6章35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉に「恩知らずな者にも悪人にも」とあるように、恩知らずな者と悪人とが同列に置かれています。つまり、恩に報いない人、恩知らずな人は悪人である、と聖書は言っているのです。御言葉は、次のようにも語っています。
もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。
テモテへの手紙 第一 5章4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この場合は親だけれども、聖書は恩に報いることの大切さを語っています。
また、もし、恩に報いたいけれども何もできない時には、祝福を祈る、ということも大切です。
逆に、自分たちが恩を与える立場になる時に、心得ておかなければならないことがあります。御言葉には次のように書かれています。
返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。
ルカの福音書 6章34~35節
しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
返してほしくて与えるのなら、返してもらえなかった時に、怒りがきます。しかし、返してもらうつもりで与えるのではなく、神様から報いを頂けることだけに期待することが大切です。
今日は、ダビデを通して、私たちが苦境に立たされた時、神様に聞き、神様に信頼して従っていくこと、また、分け与えていくことと、人の恩に報いていくことが大切であることを見てきました。この人生では、苦境に立たされることがいくつも起こります。しかし、そのような時にこそ、今日学んだことを実行していく者でありたいと思います。