行いによって裁かれる

2022年8月21日

 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

マタイの福音書 16章24~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 はじめてこのシリーズを聞かれる方もいらっしゃると思いますので、少し振り返りをさせてください。先々週は、ザアカイの話をしました。イエス様を喜んで迎えいれるということが大切ですけれども、そこで終わってはいけない。罪を告白し、悔い改めることが大切になりますが、そこでも終わってはいけない。悔い改めて、ふさわしい実をむすんではじめて、私たちは救いというめぐみにあずかれる、ということをお話しました。

 そして先週は、今お読みしたマタイ16章24節から27節を通して、罪のゆるしというのは、イエス様の十字架以外にありえないということをお話ししました。私たちには、イエス様以外に救われる方法は、与えられていません。イエス様の十字架で流されたとうとい血潮だけが、私たちの罪を洗い清め、ゆるす力があります。私たちのちっぽけな善い行いは、決して私たちの救いをもたらすものではないのです。このことをお話ししました。

 さて今週ですが、今お読みしたマタイ116章24節から27節でイエス様は、「誰でも私について行きたいと思うなら、自分を捨てなさい」と言われました。誰でも、です。クリスチャンはイエス様の弟子ですから、クリスチャンみんなに言われています。誰でもわたしについて来たいと思うなら自分を捨てなさい。すなわち、自分自身を全部、主にゆだねて信頼しなさいということです。そして自分の負うべき十字架をおって、私に従ってきなさいと言われました。これは、誰でもイエス様について行きたいと思うなら、イエス様にまったき信頼を置くということです。自分のすべてをゆだね、イエス様に従って来なさいとイエス様は言われました。そして、そうするものが永遠のいのちを受けるんだ、ということを言われたわけです。

 ですから、確かに始めは、イエス様を救い主として受け入れるところから始めなければ、何も始まりません。でも、そこにとどまってはいけないと言われました。イエス様は「私にまったき信頼をおいて私に従って来なさい。そうするものが永遠のいのちを受ける」ということを言われたわけです。そしてそれを拒むのは永遠のいのちを失ってしまう、全世界よりも永遠のいのちは重い、と言われたのです。

 そしてイエス様は続けて、「人の子は父の栄光をおびて、み使いたちと共にこられる」そして「それぞれの行いに応じて報いる」と言われました。この「行いに応じて報いる」と言われた報いは、「天国にみんな入ることができるが、それぞれに報いが違うから、そのことだ」と言う人がいますが、永遠のいのちということをイエス様が言われた後に「報い」と言われるのですから、これを永遠のいのちとするほうが自然な流れです。

 それはさておき、聖書は、報いや裁きは、行いにより裁かれる、と記されています。そこのところをどうぞ覚えておいてください。「頭の中でイエス様は私の救い主で、私のために死なれたと信じて、同意して、それで救われる」と書いてあるところは、聖書にはどこにもありません。その行いによって報われる、そして裁かれると聖書に書かれています。それではまず、人は行いによって報われる、というところを見て行きましょう。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

コリント人への手紙 第二 5章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちはイエス様の裁きの座において、「善であっても悪であっても報いを受ける」と書かれています。ここでいうところの報いは、永遠のいのちともとれますし、天国での報いともいえます。また、ヨハネの黙示録22章12節もお読みします。

「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。

ヨハネの黙示録 22章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでも、「わたしはすぐに来る」そして「それぞれの行いに応じて報いるために」とあります。これは永遠のいのちを与えること、そして日本語の聖書で読むと、天国での報いとも取れるところですが、このように聖書の箇所を3つ読んでも、「私たちは善であっても悪であっても、それぞれの行いによって報われる」と、はっきりと記されています。行い以外によって報われるというみことばは、ありません。

 裁きも行いによってなされるということが、はっきりと記されている聖書の箇所があります。その箇所を2箇所、お読みします。

神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、
利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

ローマ人への手紙 2章6~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここではっきりと、「神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます」とあります。「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え」るとあります。ですから神様は、一人一人それぞれの行いに応じて報いられる、そして、この報いは永遠のいのちの報いだ、ということであります。「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え」るとあるわけですから、この報いは永遠のいのちだとわかります。そして、そうでない人には神様の怒りと憤りが下る、とあるわけです。ですから、この永遠のいのちを与えるということも、報いという意味でここで記されているということを、私たちはまず知っておく必要があります。

 もっとはっきりと記されている箇所は、マタイ25章の31節から46節です。ちょっと長いですが、裁きの座についてダイレクトに書いてあります。

人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

マタイの福音書 25章31~46節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これは最後のさばき、天国に行くかどうかのところです。「人の子」つまりイエス様が「その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき」というのは、もう最後の時ですね。そして天国に行く人と地獄にゆく人を選り分けるということが記されています。

 そして、「すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます」とあります。この、右の人たちはどういう人であったのかと言うと、イエス様が旅人であったときに宿を貸し、空腹の時に食べさせ、渇いたときにのませ、病気のときには見舞い、牢というのは、悪い事をしたというのではなく、福音のために当時は牢にいれられる人が多かったので、福音の為に牢獄に入れられた人たちを訪問する、ということです。そういうことをあなたがたは私にしてくれたと。

 すると、その人たちは、「私たちはいつ、そのようなことをしたのですか?」と尋ねました。 イエス様は、「私の兄弟たち、しかも最も小さいもののひとりにしたのは、私にしたのだ」と答えました。そして、彼らは永遠のいのちをいただくと、34節にはっきり書いてあります。

 それからイエス様は言われました。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい」と。イエス様を信じる小さい者たちのひとりにしたのは私にしたことなので、あなた方は天国にどうぞ入ってください、入れますよと、イエス様は招かれています。でも、左の人たちには、イエス様を信じる小さな兄弟たちのひとりにしなかったのは、私にしなかったのだと言われ、「このたちは永遠の刑罰に入れられた。そして永遠のいのちを受けられなかった」と46節に書いてあります。助ける力があるのに助けなかったということは、わたし(イエス様)にしなかったのと一緒ですから、永遠の刑罰に入る、と言われているわけです。

 ですから、行いだけで裁かれています。この聖書の箇所はちょっと、「なぜこんな」と言う人がいらっしゃるかもしれませんが、これは大切なところです。はっきり申し上げておきます。行いによって、私たちは裁かれます。

 今、世の終わりが近いので、人々に警告を与えるように、イエス様は多くの人に天国や地獄を幻や臨死体験を通して見せられます。地獄を訪れた人の話を聞いたことがあります。地獄にその人の教会の人たちがいた、とのことでした。

 どうして彼らはこのように、集団で地獄に来たのだろうと不思議に思い、その人は、地獄を案内してくれたイエス様に「どうしてこの教会の人たちは地獄に行ってしまったんですか?イエス様、教えてください」と尋ねました。そしてイエス様は、彼らのグループの中に、いわくつきのアルコール中毒の人がいたことを言われたそうです。このアルコール中毒の人は、あるとき、本当に回心をしましたが、教会の人たちはなかなか信じなかったそうです。彼はまだアルコール中毒だろうと思っていたのです。そんな中、アルコール中毒の人の奥さんが重病にかかり、医者にかからなければ今にも死ぬという状況になりました。そして、その人は教会の人たちをまわって、「妻が死にそうです。お金を貸してください。必ず返しますから、妻に病院を受診させてあげてください。お金を貸してください」と、次から次へと訪問したのですが、みんなは「またお金をアルコールに使うに違いない」と思って冷たく拒んだそうです。そうしているうちに奥さんは亡くなり、そのご主人の、もとアルコール中毒の人は悲しみにくれたそうです。そして時がたってみな死に、地獄に連れて行かれた、と言うことだったのです。

 ですから、イエス様を信じる小さい者たちのひとりにしなかったのは、私にしなかったということだ、とイエス様は言われます。

「いや、私はいつも十分に捧げて、人を助けていますよ」と言っても、もし一人の小さい本当にイエス様を信じる人を無視したら、それはイエス様にしなかったのと一緒だと、聖書にはっきり書いてあるんですね。50%やったらいいんですよとは、書いてないのです。小さなもの一人にしなかったのは、わたしにしなかったと言われているわけです。

 ですから、私たちは、自分に助ける力があるときに、それを拒んではいけないということです。自分に助ける力があるとき、イエス様を信じる小さい人たちがお金を貸してくださいと言った時に、本当によろこんで貸してあげたらいいわけなのです。そして愛と励ましのことばをかけてあげたら、その教会のコミュニティの人達はみな天国に入れたのだと思います。

 普段からの信仰の姿勢が、とっさの行いをもたらす、ということがあります。聖霊で満たされて、イエス様にすべてをゆだねて従うという信仰を持つならば、そういう状況の中でも喜んで、イエス様を信じる小さい人を助けることができる、ということです。私たちは、行いによって裁かれるということを、もっと真剣に聖書から聞いていく必要があります。

 最近は、「イエス様を一回でも信じたら天国にゆけますよ」という教えがとても人気がありますが、しかし、私たちは聖書に立ち帰って、聖書はどう言っているのかということに、いつも心をとめていく必要があります。自分は天国にゆける、良いおこないをしたから天国に行けると思っていて、実は、小さい弱い、イエス様を信じるひとりの人を無視していなかったかということを、この聖書のみことばを読んで、私たちは悔い改める必要があるわけです。

 私たちは行いによって裁かれる。これは聖書の一貫した教えです。よい行い、そして正しく歩む。それが、私たちが本物のクリスチャンがどうかの証明です。なぜなら、よい行い自体が救いなのではなくて、イエス様を救い主として受け入れて、イエス様にすべてを信頼して従って行くなら、よい行いや正しく歩むということが必然として、実となって現れてくるからです。

 よく伝道会などで読まれる、ヨハネ3章16節のみことばは、少し誤解をまねくところもありますので、もう一度見ていきましょう。ヨハネ3章16節は有名なみことばで、聖書66巻を一節にまとめるならば、この一節に要約できると、ある人たちは主張していますけれども、それほど大切なみことばです。そして伝道会でよく読まれますので、誰でも知っているみことばです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネの福音書 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださった。「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」この「御子を信じる」と記されているところで、人々の理解が違ってきます。先ほど申し上げたように、「イエス様を救い主として受け入れ、イエス様に自分のすべてを委ね、信頼して、従って、あゆみます」というのは、信じる信仰です。

 しかし、「信じる」と言う時、日本の八百万の神の信仰が邪魔をして、知識として、イエス様は神様の独り子で救い主だということを受けいれ同意しますと、そのようなレベルで「信じる」ととる人もいるわけです。しかし、ヨハネ3章36節を見ると、そのような、ただ単に頭の中で信じて同意するという意味ではないことがはっきり分かります。同じヨハネが記しているヨハネ3章36節をみましょう。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 前半の、「御子を信じるものは永遠のいのちを持つ」というところは同じなのですが、御子を信じないもの、御子にきき従わないものは、永遠のいのちを見ることがない、と言われています。ですからヨハネがこの3章16節で「御子を信じる」と言ったときには、イエス様が言われたように、自分のすべてをゆだね、全信頼をイエス様に置き、聞き従う信仰を持つものは、永遠のいのちを持っていますが、聞き従わない者には、神様の怒りがとどまりますよ、という意味で、ヨハネは「信じる」という言葉を使っています。どういう意味で「信じる」が使われているのか、日本語の「信じる」というのはすごく幅が広いので、注意しなければいけません。

 そして先ほど申し上げたことですが、イエス様が求められている信仰は、ただ単に「イエス様は救い主です、ハレルヤ主よ」という人たちが天の御国に入るのではなく、神様の御心を行う者が天の御国に入る、と言われました。神様の御心を行うというのは、十字架の血潮だけが私の罪を洗い清めると信じる信仰で、イエス様に全幅の信頼をおき、きき従う。イエス様を主として受け入れる。そういう人が永遠のいのちを持つのです。

 そういう人とは誰でしょう。それは神様の御心を行う人です。イエス様に聞き従っていくならば、よい行いや、正しく歩むということが当然ついてきますし、神様の栄光をあらわしてゆきたいという思いで、神様をほめ称える人になります。そういう人こそ本物のクリスチャンの証明です。そういう人は神様の御心を行う人であって、天国に入れますよということを言われているのです。これは、聖書でずっと一貫しています。よい行いが大切というよりも、イエス様に信頼を置いてきき従っていくなら、よい行いや、神様に栄光をあらわすことは、ついてくるのだと言うことを、聖書は話しているわけです。

 ですから、行いによって裁かれるということは、何の不思議でもないわけです。十字架につけられたイエス様を私の主として受け入れる。そしてイエス様を信頼し、聞き従う。このことが救いのために大切です。

 皆さんがせっかく自分は天国に行けると思っても、最後の最後に、いや違うんだとわかったら、大変なことになるので、前もってお話させていただきましたが、時間的に全部をおえるのが難しくなりました。主がみちびかれましたら来週、行い、むくい、さばきと言うことについて、もう少しお話して、このシリーズのまとめとさせていただけたらと思います。お祈りします。

愛する天の父なる神様 あなたさまの大いなるみ名を褒めたたえます。私たちが聖書を読む時は、誤解したり、うわべだけで読んでしまったりしますけれども、あなたさまの語られたことは、聖書で一貫して知らされていますから、私たちがそれを正しく学び、受けとめて、どうかみんなが天国に向けて正しく歩めるように助けてください。
今オンラインで聞いてくださっている方々、また世界中でこのメッセージを後で聞いてくださる方がいらっしゃると聞いてますけれども、どうかそのような人々が今一度、立ち止まって、天国に行くためには何が必要なのか、もう一度 立ち返って考えるときの助けとなるように、助けてください。
本当に今、世の中は終末に向かっていますけれども、私たちがどうか主のみことばの真理によって立つことができるように、聖書の真理に立って正しく礼拝してゆくものとなるように助けてください。
メッセージを聞いてくださったひとりひとりの上に豊かな恵みがあり、だれひとりで漏れることなく天国に入れるように助けてください。
とうとい救い主イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン

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