私達が信じるもの

2020年11月29日

ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

ルカの福音書 16章19~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達クリスチャンが信じているのは、この世界をつくり、おさめておられる唯一まことの神様です。

はじめに神が天と地を創造された。

創世記 1章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、今のこの世界をも支配し、全てを御心のままに行っておられます。今、世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルスも、実は前もって聖書で預言されていました。

 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。

ルカの福音書 21章10〜11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様の御心は人を滅ぼすことではなく、救うことです。神様は、神様に反抗し、無視して生きる人間に怒られ、色々な災いを通して、一人でも多くの人が神様に立ち返るように願われています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネの福音書 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様を信じる者は、永遠のいのちを持つことができると書かれています。しかしここで重要な問いがあります。「信じる」とは、実際どういうことなのでしょうか。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この箇所で対比されているのは、「信じる者」と「聞き従わない者」です。つまり、「信じること」と「聞き従うこと」とがイコールなことが、この箇所からわかります。神様は、私達が自分勝手、自分中心に生きることから、神様中心に変わることを願われています。そしてそれを行うことが、「悔い改め」です。

 では、自分中心から神様中心に生きることを願う私達にとって、神様に聞き従うことは果たして可能なのでしょうか。悲しいことに、私達皆に、人間の弱さというものが常につきまといます。私達は、自分の力によっては自分の肉(罪)に打ち勝つことができないのです。

 しかし幸いなことに、イエス様は、私達が罪に打ち勝つ力を与えてくださいました。それは、聖霊様です。生まれながらの私達は、確かに神様に従えない弱さを持っています。しかし、聖霊様によって、私達は、自分中心ではなく神様中心に、変えられていくことが可能なのです。もちろん、すぐにというわけにはいきません。イエス様が人々を愛されたように、私達も人々を愛することができるよう、徐々に変えられていくのです。これは、肉、つまり人の力によってではなく、聖霊の力によるものです。聖霊様によって、私達は、神様の御心を行える者に変えられていきます。これは「御霊の実が結ばれていく」ということです。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

ガラテヤ人への手紙5章22〜23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様に従うことによって、どのようなものが得られるのでしょうか。それは、神様との親しい関係に入れられることです。また、イエス様が言われたように「わたし(イエス様のこと)を信じる者は死んでも生きる」、つまり、天国に入ることができるのです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

ヘブル人への手紙 9章27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

ヨハネの黙示録 20章12~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は、例外なく皆、死んだ後に神様のさばきを受けることが定まっています。「大きい者も小さい者も」、とありますが、これは大人でも子どもでも、えらい人でもそうでない人でも、という意味です。「数々の書物」とは、私達一人一人が地上でした行い全てが書かれている書物です。そしてもう一つの書物、「いのちの書」とは、天国に行ける人々の名前が書かれている書物です。この「いのちの書」に名前が記されていない人は皆、火の池、つまり地獄に投げ込まれる、と書かれています。

 イエス様は、私達罪深い人間のために、十字架にかかり、血を流して死んでくださいました。そして私達がこれまでの(神様の基準で言う)悪い行いを捨て去り、自分中心から神様中心に変わって、イエス様に従うことを通して、私達は神様との親しい関係に入ることができ、天国に入ることができるのです。

 さて、それでははじめに紹介した聖書の箇所から、天国と地獄について見ていきたいと思います。

金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

ルカの福音書 16章23~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 金持ちは、なぜ地獄にいたのでしょうか。それは神様に従わなかったからです。金持ちは、一応神様のことは信じていました。それは「父アブラハムよ」と言っていることからわかります。アブラハムは信仰の父、とも呼ばれています。金持ちは、そのアブラハムを父と認めていた、つまり、信仰や神様のことも知っていました。しかし従ってはいなかったのです。

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。

ヨハネの黙示録 21章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 金持ちは地獄で、炎の中に入れられ、苦しくてたまりませんでした。金持ちがいた地獄は、神様の臨在や良いものが全くない場所、ただ暗闇と苦しみの場所でした。金持ちの遠くには、アブラハムとラザロがいました。彼らは天国にいました。しかしそれは金持ちにとって遠い遠い場所でした。そしてそれは永遠に続くことになるのです。

するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

ルカの福音書 16章25~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 地獄は希望が全くない場所です。しかしそこに一度行ってしまえば、それを変えることは決してできません。苦しみが昼も夜も、永遠に続くのです。

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。

ヨハネの黙示録 20章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 それでは、天国はどのような場所でしょうか。聖書には次のように記されています。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

ヨハネの黙示録 21章1~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 天国には、もはや死はありません。また、悲しみも、叫びも、苦しみもありません。永遠の喜びだけがあります。また、罪も拭い去られ、全てが新しくなります。そして何より神様との親しい交わりがあります。

 そうであることを知れば、私達は何が何でも天国に入りたい、地獄には絶対行きたくない、そう思います。しかし信じるだけでは天国に入れません。私達は神様中心に生きる必要があるのです。

金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

ルカの福音書 16章27~31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 誰かが死人の中から生き返る、そのような奇跡を目にするだけでは、人は救われません。アブラハムがここで言っている「モーセと預言者」とは、モーセ五書と預言書からなる、旧約聖書のことを言っており、現代を生きる私達にとっては聖書全体、つまり御言葉です。私達は天国に入るために、御言葉に耳を傾け、その通りに生きることが必要不可欠なのです。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

使徒の働き 20章32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

前のページに戻る