2021年6月27日
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
ガラテヤ人への手紙 6章7~8節
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちが日々蒔いていく種は、二種類しかありません。一つは、自分の肉に蒔くこと、そして二つ目には、御霊に蒔くことです。私たちの生きる動機は、自分を喜ばすことなのか、それとも聖霊を喜ばすことなのか、どちらかしかありません。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
ガラテヤ人への手紙 5章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
まず、自分の肉に蒔くことと御霊に蒔くこととの違いを見ていきます。
「肉の欲望を満たす」とは、自分の肉に蒔くことです。それは自分の肉を喜ばすこと、すなわち、自己中心に生きるということです。他者との関係においても、御言葉は次のように語っています。
気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。
ガラテヤ人への手紙 5章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「かみつき合ったり、食い合ったり」することは、自分の肉に蒔く者の特徴です。また、自分の肉に従って歩む者の例として、次の行いがあります。
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
ガラテヤ人への手紙 5章19~21節
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のもの」が自分の肉に蒔く者の行いです。そして、このように自分の肉に蒔くことは、神様との関係や他者との関係を破壊するものです。このようなことをする者は、うぬぼれて、ねたみ合う者です。
うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。
ガラテヤ人への手紙 5章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、御霊に蒔く者は正反対の性質を持っています。私たちは、御霊によって歩むように命じられています。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
ガラテヤ人への手紙 5章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
御霊様は、神様が喜ばれること、すなわち、御心を示して下さるお方です。
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
ヨハネの福音書 16章12~15節
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
御霊によって歩むことにより、私たちは御霊の実を結ぶことができます。御霊の実には、次のような特徴があります。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
ガラテヤ人への手紙 5章22~23節
柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
また、御霊によって歩むことによって、他者との愛の関係を結ぶことができます。
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。
ガラテヤ人への手紙 5章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
たとえ誰かが何かの過ちに陥っているのを見たとしても、御霊によって歩む人は、愛の心でその人に手を差し伸べることができます。上から目線では、相手には聞かれないので、柔和な心でその人を正すようにと、聖書は語っています。
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
ガラテヤ人への手紙 6章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
また、誰かが痛み、悲しみ、困難の中にあるとしたら、御霊によって歩む人は、その人に寄り添い、何か具体的な助けが必要なら手助けしていく人です。聖書には、互いの重荷を負い合うようにと語っています。
互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
ガラテヤ人への手紙 6章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
そして、御霊によって歩む人は、人びととすべての良いものを分ち合います。
みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
ガラテヤ人への手紙 6章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、御霊によって歩むことを続けていけば、時が来て良いものを刈り取ることができます。
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
ガラテヤ人への手紙 6章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このような人は、神様との関係も良好です。肉に蒔く人とは正反対です。
たとえ良いことをしているようであっても、その動機が悪い例もあります。例えば、その人を利用するためであったり、束縛するためであったりすることもあります。
私たちは、自分の行いが肉のためであるのか、それとも御霊を喜ばすためであるのか、吟味していく必要があります。私たちの行いは、神様や人との関係を破壊するのか、それとも神様や他者と愛の関係を築くのか、どちらかに集約されるのです。
次に、蒔いたものは必ず刈り取ることになるということについて、見ていきたいと思います。
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
ガラテヤ人への手紙 6章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り」とあるとおり、罪深い性質で肉に蒔く人は、結局のところ滅び、地獄にいきます。それだけではなく、地上でも刈り取りはあります。
私たちは、次のオバデヤ書1章15節の御言葉を、心して覚えておかなければなりません。
なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。
オバデヤ書 1章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このため、私たちは恐れを持って生きていく必要があります。自分の肉によって他の人を苦しめるのであれば、周りまわって自分に返ってきます。つまり、罪深い性質のまま、自分を喜ばすために行うなら、報いは必ず返ってくるのです。
不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。こうして彼への激しい怒りのむちは終わる。
箴言 22章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
また、人をさばくことも、自分の肉に蒔くことです。そのようなことを行えば、自分もさばかれる、と聖書は語っています。
さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
マタイの福音書 7章1~2節
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
そのときは、自分の肉を喜ばすためにわーっと種を蒔くのですが、結局は滅ぼされることになります。
そして報いは、その相手からというよりも、他の人から返ってくることになります。例えば、人をだますと、もっと酷い詐欺に合う、といったことが起こります。悪いことをすれば必ずその人の頭上に返るといった出来事を、私たちが日々、ニュースで目にするとおりです。
不正を蒔くことには必ず刈り取りが伴います。他者をさばいて落とし入れるなら、何年かして刈り取ることを、私自身もまわりで見てきました。
反対に、御霊によって歩む者、主を喜ばして歩む者は永遠のいのちを頂き、天国に行きます。それだけでなく、地上にあっても良いものを得ます。
与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。
ルカの福音書 6章38節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
御言葉に従うと、必ず予期しないところから必ず与えられます。私自身も、与え、与えられる、といったことを何度も経験してきました。これは学生時代の話ですが、与えたときに、神様はどのように返してくださるのかな、と考えていたら、学生寮のメールボックスに、匿名の人から自分が与えたもの以上のものが入っていたという経験もしました。
たとえ時間がかかったとしても、良いものを蒔いて良いものをたくさん返してもらう人生は良いものです。
聖書には、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す」とあります。愛を持って他者に仕え、助け、重荷を負い合い、わかち合うならば、自分自身もそれらを受けることを経験できます。
その時は与えても、その人からは返ってこないし、返してもらうつもりで行うのではありません。しかし、御言葉には次のように書かれています。
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
コリント人への手紙 第二 9章7~10節
神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。
種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「神は、喜んで与える人を愛してくださる」とあるとおり、私たちが喜んで与えることをすれば、神様はいつも「あらゆる恵みをあふれるばかりに」与えてくださいます。そして、私たちの義の実を増やしてくださいます。私たちが御霊に蒔くことを決めたなら、もっともっと与えられるように、神様は必要なものを与えてくださいます。
その最適な例がジョージ・ミラーです。彼は貧しかったのですが、二千人の孤児を養うため、また、中国の奥地に宣教師を送るため、サポートをしました。当時、暗黒の国とも呼ばれた中国の奥地への宣教では、ハドソン・テイラー宣教師のミニストリーに宣教師を送りたい、助けたい、と考え、ある時期は一人でこのミニストリーを支えてたこともありました。そして、最後、94歳の生涯を終えたときには、ほんの少しの財産しか残っていなかったと言われています。しかし、このような彼の人生は本当に良いものであったと言えます。
私たちの行いは、それがどのような性質のものであっても、周りまわって循環します。このため、私たちは、日々注意していかなければなりません。
例えば、スイカの種を蒔いたらメロンはできません。これは農家の人でなくてもわかる当たり前のことです。しかし、人間はこのシンプルなことが、実際にはわかっていません。御言葉には、次のように書かれています。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
マタイの福音書 7章13節〜14節
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
マタイの福音書 7章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
多くの人は、御心を行わず、自分の肉に蒔きます。だから、「その道は広く、そこから入って行く者が多い」のです。自分の肉に蒔くと滅びを刈り取ることがわかっているのに、多くの人は自分の肉に蒔いて地獄に行きます。なぜ、このような単純なことなのに、それでも人は自分の肉に生きるのでしょうか。その答えのヒントが次の御言葉にあります。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
ガラテヤ人への手紙 6章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
一つ目に、私たちは思い違いをしています。他の人のことであれば、客観的になれて見えるのですが、自分のこととなるとバイアスがかかって甘くなるのです。例えば「これはしょうがないことだ」「これにはこういう理由があって大丈夫だ」といった風にです。人は、自分はいつも正しいと思うものです。「これは例外だ」とか「自分だけは」といった言い訳をいっぱい作ります。人から何それ、などと言われても、自分の理論で押し通そうとします。このように、自分のことになると、ねじ曲がってバイアスがかかり正しい判断ができなくなります。
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
エレミヤ書 17章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、私たちは、そのようなときに神様を侮っているのです。「神は見ておられない」「神の目には隠されている」、そのように自分に言い聞かせ、御言葉を軽く捉えて真剣に取っていません。しかし、次のとおり書かれています。
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
マタイの福音書 24章35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
神様は、私たちの蒔くものをすべて見ておられます。そして蒔くものは刈り取る、という御言葉は私たちにとって重いものです。
主よあなたは私を探り知っておられます。
詩篇 139篇1~12節
あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。
ことばが私の舌にのぼる前になんと主よあなたはそのすべてを知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議あまりにも高くて及びもつきません。
私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。
たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。
私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも
そこでもあなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます。
たとえ私が「おお闇よ私をおおえ。私の周りの光よ夜となれ」と言っても
あなたにとっては闇も暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、人はその法則を侮り、無視して生きます。肉に蒔く者の方が多いのです。
残念ながら、過去に蒔いたものは、キャンセルしようがありません。しかし、地上においてはまだチャンスがあります。これからは御霊に蒔いていきたいと思います。先ほどお読みしたオバデヤ書1章15節の御言葉は、悪い意味にも良い意味にも適用できます。
実際に、そんなことしたら自分に返ってきてしまうのだから、やめた方が良いと思う例を、これまでも見てきました。肉に蒔くとき、そのときは楽だけれども、後に刈り取ることになります。ひどい刈り取りは確かにあります。このため、御霊に従い、神様に喜ばれるために蒔いていきたいと思います。御霊に蒔くことを毎日決断していきましょう。