2021年5月2日
ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。
ヨハネの黙示録 14章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
黙示録の14章11節までを読むと、獣と偽預言者が現れ、人々が獣の像を拝むようにします。しかし拝めば、神様の純粋な怒りがその人に降ります。その人は御使いとイエス様の前で苦しみ、昼も夜も安らぎがありません。その人は地獄に行きます。
12節になると、上の御言葉でお読みしたように、聖徒たちについて語られます。今日は、聖徒たちとはどういう人たちか、見ていきたいと思います。
聖徒たちとは、獣の刻印を受けない人たちです。つまり、神様につかえて、天国に入るクリスチャンたちのことを指します。聖徒たちとは、殉教者のことを言っている、と言う人もいます。しかし彼らは殉教者に限らず、決して特別な人たちではありません。
上でお読みした御言葉からは、聖徒たちについてその特徴が読み取れます。「聖徒たち、すなわち」以降から読み取ることができますが、一つ目の特徴は、神の戒めを守る人たちです。よく、人は信仰によって救われ、行いによるのではない、と主張する人たちがいます。確かに、人は良い行いによっては救われることはできません。しかし、聖書に一貫して書かれているのは、神様の戒めを守ることが救われる条件である、ということです。
日本でなぜこんなにも、信仰によって救われる、ということが強調されるようになったのか、歴史に遡って見ていきたいと思います。歴史的には、プロテスタントが起こった時、宗教改革者のルターが「行いによるのではなく、信仰によって救われる」と言ったことから始まっています。確かに、ルターの言う通りなのですが、ヤコブ書には、行いを守ることが大切と書かれています。ルターは、そのことが気に食わない、なぜ聖書にヤコブ書が入っているのだ、と言ったそうです。
私たちは、自分たちの良い行いによっては救われません。しかし、神様の戒めを守ることは、天国に入るためには大切、いや、必須なのです。このことを受け入れることのできない人たちはたくさんいます。しかし、上でお読みした黙示録の14章には、「すなわち神の戒めを守り」とはっきりと書かれています。
ここで、このように言う人たちもいます。「私たちはイエス様のものだから、イエス様の戒めを守れば神様の戒めを守らなくても良い」と。しかし、イエス様はこのように言われています。
だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
ヨハネの福音書 12章47~50節
わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。
わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、ご自分は神様が言われたとおりのことをそのまま話している、と言われました。つまり、神様の命令とイエス様の命令は一緒なのです。そして、イエス様を拒み、イエス様の言葉を受け入れない人は、終わりの日に裁かれる、とも言われました。さらに、イエス様が、戒めがいかに大切かと言うことを教えてくださっているのが、次の箇所です。
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
マタイの福音書 5章17~19節
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
戒めの最も小さいものでも破り、破るように教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれます。それほど戒めは、たとえどのような小さなものであったとしても、守ることが大切だ、とイエス様は語られたのです。そして、イエス様は、次のようにも言われました。
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
マタイの福音書 22章36~40節
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、律法や預言者、つまり聖書がこの二つの戒めにかかっている、と言われました。それは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」ということ、そして「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということです。そして、重要な第一の戒めとして語られた、「主を愛しなさい」とは、モーセの十戒の最初の四番目に関わることです。
神様の戒めを守らなければ、重大な損害を被ることになることが、聖書の例を見ると色々と出てきます。例えば、旧約聖書では、イスラエルの民が神様の戒めを守らず殺されてしまったなど、です。サウル王も、戒めを守らなかったので、神様から退けられました。また、新約聖書にも、神様の戒めを守らなかったが故に滅ぼされた例が書かれています。今回お読みしたヨハネの黙示録でも、反キリストの獣の像を拝む人に、神様の御怒りが降った、とあります。獣の像を拝むことは、神様以外のものを拝むということですから、モーセの第一戒と第二戒に反することになります。
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
出エジプト記 20章3~6節
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
一戒目は、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」というところです。二戒目は、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」、そして「それらを拝んではならない」というところです。
ここから、隣人を自分自身のように愛することについて見ていきましょう。聖書には次のように書かれています。
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
マタイの福音書 25章41~46節
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここでは、助ける力があるのに助けが必要な人たちを助けなかった人のことが書かれています。この者たちは永遠の刑罰に入る、と書かれています。これは私たちに対する、とても恐ろしい警告です。
果たして、私たちは、新約の時代に入ったからと言って、旧約の時代と違って、神様の命令を守らなくても、急に天国に入れるようになったのでしょうか。イエス様は次のように言われています。
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
マタイの福音書 7章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様が新約で言われたことは、ユダヤ人たちに言われたことで、使徒2章以降がクリスチャンたちに語られたことなのだ、という人たちがいます。しかし、聖徒たち、すなわちイエス様の御言葉を守る人たちが天国に入ることを、心にとめる必要があります。
「イエス様の御言葉を守る」とは、「神様の御言葉を守る」こと、「聞き従う」こと、そして「御心を行う」ことに置き換えることができます。これらはとても大切です。
現代のクリスチャンたちは、あまりにも信仰に重きを置きすぎています。信じればあとはどのような生活をしても良いのでしょうか。そうではありません。聖書が自分の都合の良いように解釈されるのは、世の終わりの兆候と言えます。イエス様も、この地にもう一度来られた時には、果たして本当の信仰がこの地に見られるのだろうか、と言われました。私たちは、恐れを持って聖書の御言葉に向き合う必要があります。
さらに、現代では、一回でもイエス様を信じれば天国に入れるという考え方が人気です。しかしそれだと狭い門ではなくなります。確かに、日本ではクリスチャンが1パーセントに満たないから狭い門という人たちがいます。しかし、多くの者が、神様の戒めを守ることにおいてつまずくから狭い門と言われているのです。
それでは、神様の戒めを守るために私たちはどうすれば良いのでしょうか。まず第一に、神様の戒めを知る必要があります。つまり御言葉をしっかりと学ぶことです。
教会に熱心に通っていたのに、地獄に連れて行かれたグループがいました。クリスチャンになったアルコール中毒の人が、奥さんが病気になったのでお金を貸してほしいと言ったのに彼らは貸さなかったからでした。また、日曜学校で教えていた女性が、夫を生涯許さなかったので地獄に連れて行かれました。これらの例を見ると、イエス様が次のように語られたのがいかに大切かがわかります。
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
マタイの福音書 28章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、このことが大切でなければ、ご自身が天に登られる前の地上での最後の日にこのことを語られませんでした。イエス様が命じられたすべてのことを守ることは、永遠をどこで過ごすかを決める大切なことなのです。
神様の戒めを守るために覚えておきたい二番目のことは、私たち生まれたままの人間は、肉の欲のまま行うため、御霊に満たされることが大切ということです。
肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
ローマ人への手紙 8章5~9節
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
肉のままの人間は、そのままでは純粋に、下心なく、神様を愛し、従うことはできません。人に怒ったり、悪口を言ったり、人を妬んだりするののは、生まれながらの人の特徴です。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
ローマ人への手紙 8章13~14節
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちが、いくら御言葉を学んだからと言って、肉の力では決して神様の戒めに従うことはできません。このことは、聖霊に満たされて始めて可能だからです。だから天国に入るための確証は、聖霊様がその人のうちにおられるかどうかなのです。大切なことは、聖霊に満たされて、聖霊を消さずに、聖霊に導かれて歩む、ということです。
「毒親」は許さなくても良い、と言う牧師もいますが、どんなに有名な、教育を受けた牧師が言ったとしても、神様の戒めに反することを言うならそれに聞くべきではありません。はっきりとノーと言うべきです。
ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。
ヨハネの黙示録 14章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「イエスに対する信仰」がなければ、私たちは絶対に天国には入れません。イエス様に対する信仰を、忍耐を持って持ち続けることが必要です。
あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。
ヨハネの黙示録 2章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
聖書には、「死に至るまで忠実でありなさい。」と書かれています。そうすれば「いのちの冠を与える」と約束されています。もし、イエス様を知らないと言うなら、イエス様もその人を知らない、と言われます。
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、
ヘブル人への手紙 6章4~6節
神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ここで語られている、堕落してしまった人は、滅びてしまいます。天国で過ごすのと、地獄で過ごすのとは雲泥の差です。受験で受かった、受からなかったなどと言う話とは到底レベルの違う話です。私たちは、永遠をどこで過ごすのか、いつも考えながら、イエス様に従って、この地上での人生を全うしていきたいと思います。