アナニアとサッピラの問題

2021年5月30日

彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。
さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。
使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。
彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、
使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。
キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、
妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。
さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。
そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」
すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。

使徒の働き 4章31節~5章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日お読みした使徒の働きの箇所では、イエス様を信じた人々は特殊な状況にありました。「だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた」とあります。このことは、ギブツと呼ばれるユダヤのコミュニティにも見られます。彼らはすべてを共有して生活する人々です。また、これと似て、アーミッシュと呼ばれる共同体で、18世紀の生活を取り入れ、馬車に乗ったり、昔ながらの服装をしたりする人々の生活様式が、今では見直されてきているそうです。

 この使徒の働きに出てくる人々の話に戻りますが、「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」とあります。天の御国はこのようなものであると言えます。そして、彼らは所有していた土地や家を売って、その代金が必要に応じて分け与えられるようにしていました。少しだけ集めたものも、足りなくなることがなかった、とあるように、それぞれの力に応じて捧げていたのです。これは、理想的なコミュニティだと思います。しかし、残念ながら、このような共同体は、現代の核家族と共に消えてしまいました。

 アナニアとサッピラの出来事は、このような共同体の中という、特殊な状況で起こりました。アナニアは、妻のサッピラとともに土地を売り、その代金を自分のために取っておき、その残りの一部を捧げました。そしてペテロは、アナニアに、あなたは嘘をついている、と聖霊によって語りました。

 ここで誤解しないで頂きたいのが、私たちが、今このような共同体をつくり、生活しなければならないかと言うと、そうではないということです。私たちは、聖書のすべてをそのまま適用するわけではなく、アナニアとサッピラの問題が、このような特殊な状況の中で起こった問題であると認識することが必要です。そして、彼らのうちにある問題は、この時代にも大いに問題になること、そして私たち自身のうちにも、問題が起こりうることを心に留めておく必要があります。

 今日見ていきたいのは、アナニアとサッピラの問題の三つのポイントです。

 まず一つ目のポイントは、彼らはお金を愛していた、ということです。言い換えると、彼らはお金に支配されていました。彼らは、地所を売った代金の全部を差し出しすのではなく、その一部を自分たちのために取っておきたかったのです。本当は、病気になったりいろいろな問題が起こったときに、皆が助けてくれるのにも関わらず、金銭欲にかられていました。しかしその金銭欲がまさに、彼らの破滅に繋がるものでした。

 ヨシュア記のアカンの罪も、同じです。カナンの地に導き入れられた民は、「すべてこの地にあるものを聖絶しなさい」とヨシュアに命じられました。しかしアカンは、金の延べ棒や銀を見て、自分のために取りたいと思い、一部を取っておきました。その後、民がアイの地に攻め上ったときに、簡単に勝利すると思ったにも関わらず、打ち負かされてしまいました。なぜなのか、と神様に伺ったときに、神様は「イスラエルの民が聖絶の物の一部を盗んで私を欺いた」と語りました。そして後に、そのことを行ったのは、アカンということが示されました。

 ヨシュアは、アカンになぜそのようなことをしたのか、と問いました。すると彼は、「金の延べ棒などを見てそれが欲しくなって取ってしまった」と言いました。そして神様は、アカンとその聖絶のものを滅ぼすように、と言われました。

 アカンもサッピラも、同じです。彼らは神様に捧げると決めたのに、金銭欲に支配され、金銭を愛しました。これは、サタンに心を奪われることに他なりません。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

テモテへの手紙 第一 6章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉にあるように、金銭を愛することで、いろいろな悪が出てきます。旧約聖書だけではなく、今の時代でも同じです。金銭を追い求めることで信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫くことにならないよう、お金からはまったくフリーになりたいと思います。

その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。
また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、
ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

ルカの福音書 8章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様に仕えていた女性たちは、他の人々からもらうのではなく、自分の財産によって仕えていました。すべてのものを共有していない時代に生きる私たちにとって、この姿勢は大切です。

 また、金銭を愛することにより、人を欺いたり、陥れたり、中には殺人まで犯す人がいます。そして、犯罪でなくても道徳的な問題を引き起こす人もいます。まさしく、この例がアナニアとサッピラです。そしてキリスト教界の中でも、このような話には枚挙にいとまがありません。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

ヘブル人への手紙 13章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが、お金に頼らなくても、一番大切なのは、主の守りであり助けです。私たちは、今与えられているもので満足すべきです。なぜなら、「主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われた」からです。

 神様が捧げなさい、と言われているのに、お金をせっせとためるのではなく、主が語られたときには、捧げていきたいと思います。何よりも、主が助けてくださるという信仰のもとに、主がしなさいと言われたことを忠実に行うことが大切です。

 また、主は、「全部の財産を捨てなさい」とまでは言わず、「十分の一を捧げなさい」と言われている、と言う人もいます。しかし次のように御言葉に書かれています。

そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

ルカの福音書 14章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちにとってお金が大切なのか、それともイエス様の方が大切なのか、と問われる時がいつか来ます。財産は、捨てるべきときに捨てる覚悟が必要です。金銭を愛しながら、主を同時に愛することはできないのです。

 また、お金は過ぎゆくものなので、イエス様も、この世の富を用いて天国に行く友をつくりなさい、と言われました。私たちは、何も持たずにこの世を去ります。イエス様に仕えるため、そしてイエス様に仕える人々をサポートしていくため、すなわち主のために、お金を使っていくことが大切です。

 ここから、さらにアナニアとサッピラの問題の二つ目のポイントに移りたいと思います。彼らは、人々から良く思われたいと思っていました。彼らは、共同体の中にあって、イエス様に従い、自分たちの地所を売って、立派な良い夫婦だ、と人々から思われたかったのです。つまり自分の外側を良く思われたかったのです。

 しかし彼らの内面はどうだったのでしょうか。彼らは外側が人から良く思われたいと思っていましたが、金銭欲、嘘をつく偽りなど、内側は汚れていました。これはイエス様も嫌われた偽善者のことです。これが彼らの二番目の問題です。

また、人々がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに言われた。
「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。
また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」

ルカの福音書 20章45~47節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 律法学者たちは、人々から良く見られるために、「長い衣を着て歩き回ること」を好みました。また、自分たちの見栄のために、長く祈っていました。悪いことを見せる人よりも、自分を良く見せてその内側が悪いものでいっぱいな人々は、より厳しい罰を受ける、とイエス様も言われています。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者たちの墓を建て、義人たちの記念碑を飾って、
こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』
こうして、自分たちが預言者を殺した者たちの子らであることを、自らに対して証言している。
おまえたちは自分の先祖の罪の升を満たすがよい。
蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。

マタイの福音書 23章25~33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、律法学者のことを、次のように言っています。「外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている」、「外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ」、「外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」、と。つまり彼らは、偽善者でした。そしてまさしく、アナニアとサッピラもこの偽善者でした。この二人は、周りからすごいね、と言われることに良い気になっていましたが、内側は金銭欲と偽善で満ちていました。その結果、彼らは滅びてしまったのです。「おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか」とイエス様が律法学者たちに語られたとおりです。

 私たちが、たとえ良い人と褒められたとしても、内側が汚れでいっぱいであれば滅びます。人から認められるのは何の意味もないことです。悔い改めないと、滅びてしまいます。

 私たちは、外側を良く見せることに心を砕くのではなく、内側を清めることに心を注いで、偽善の問題に引っかかることがないように注意しないといけません。

 アナニアとサッピラも、ただ単に金銭を愛するだけで偽善がなければ嘘をつくこともなく、滅びることはありませんでした。つまり、彼らの偽善が問題だったのです。もし彼らが嘘をつかなければ、「私は一部しか捧げられないのでこれだけです」と言い、私の信仰は全部捧げるには至っていません、と素直に示したはずでしょう。そしてペテロが「売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になった」と言ったように、ペテロからしょうがないな、と言われるだけであったはずです。

 最後に、彼らの三つ目の問題について話をします。なぜ、彼らは一部だけ持ってきて、全部だと言って差し出したのでしょうか。それは彼らが、嘘を隠し通せると思っていたからです。しかし聖霊によって、アナニアの欺きは明らかになりました。

すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

使徒の働き 5章3~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして、ペテロは、サッピラに対しても次のように言いました。

そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」

使徒の働き 5章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 すなわち、彼らは聖霊の力を見くびって、軽く見ていたのです。しかし、聖霊にとっては、彼らの嘘を明らかにすることは容易いことでした。そして当然のごとく、聖霊は彼らの行いを責めたのです。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

ヨハネの福音書 16章7~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

ヨハネの福音書 16章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、もっと恐れる心を持たないといけません。神様は、私たちの心の中をすべて明らかにすることがおできになります。嘘や偽り、悪い思い、悪い行いはすべて明らかにされます。しかしアナニアとサッピラは全くそのことを理解できていませんでした。罪がもたらす結果を軽く見ていたのです。「自分の嘘を聖霊の前に隠しとおせる」と思うことは、聖霊を欺き、試みることであり、それは軽く見て見下すことと同じです。そしてそのことは、すなわち、聖霊を冒涜することです。

人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。

ルカの福音書 12章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 彼らが聖霊を冒涜した結果、どうなったでしょうか。

このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。

使徒の働き 5章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。

使徒の働き 5章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 冒涜は死に至る罪でしたが、彼らはその重大さを理解していませんでした。

 罪を犯したなら、その罪を告白し、悔い改めることが必要です。アナニアとサッピラも、悔い改める機会が与えられていました。しかし、彼らはそれを無視し、「罪は犯していない」と言って、その機会を台無しにしてしまいました。

 人は誰でも罪を犯すものです。そのような時は、「私は罪を犯しました」と言って認めることが大切です。そうすれば神様は赦してくださいます。

 ダビデは、罪を覆い隠すために、ウリヤを戦場に送ろうとしました。しかし断られたので、ダビデは、さらに戦いの激しい場所にウリヤを送り、間接的に殺してしまいました。神様は決してそのことを見逃されないお方です。神様はすぐにダビデにナタンを送って、その罪を咎められました。ダビデはその罪を告白して、悔い改めました。罪の刈り取りはもちろんありましたが、ナタンをとおして、ダビデは死なない、と言われました。このダビデの例をとおしても、神様は憐み深いお方だということを、私たちは知る必要があります。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ヨハネの手紙 第一 1章8~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは皆、罪を犯します。だから、「自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いて」いる、と書かれているのです。私たちは、自分の罪を告白することが大切です。

 私たちは、神様を恐れないといけません。どんな、誰も知らない罪でも聖霊様は知っておられます。その聖霊様を、私たちは、試みて欺いてはいけません。冒涜することは、許されない罪であることを覚えていきたいと思います。

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