イエス様はどういうお方か

2020年11月15日

さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。
ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。
日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」
すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」
というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」
弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。
そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。
人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。

ルカの福音書 9章14~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日は、イエス様がどのようなお方か、今お読みした聖書の箇所をとおして見ていきたいと思います。

 今日お読みした箇所の始めの方では、弟子たちが働きを終えてイエス様にそのことを報告した場面が書かれています。それに続いてイエス様は、「彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに」退かれました。このときイエス様は、一日の仕事を終えて疲れが溜まっていたため、弟子たちを連れて休もうとされていたのだと思います。

 しかし、群衆はイエス様の後についてきました。その動機は、自分たちのためでした。なぜなら、彼らは、イエス様が悪霊を制したり、病気を癒やしたりする力を持っておられたことを知っていたからです。実際に、この前の箇所で、弟子たちは、イエス様から力と権威を頂いて、人びとの病気を癒やす働きをしていました。

イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。
そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。

ルカの福音書 9章1~2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。

ルカの福音書 9章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様が休もうと、弟子たちと共にベツサイダにひそかに退こうとされたとき、群衆は、自分たちのためにイエス様についてきました。このとき、イエス様はどうされたでしょうか。

イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。

ルカの福音書 9章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は喜んで、彼らを迎えられたのです。そして「神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された」とあります。このことから、私たちはイエス様について三つのことを知ることができます。

 まず、一つ目に知ることができるのは、イエス様は、「彼らを喜んで迎え」られた、とあるように、ご自身の元に来る人をいつも受け入れて下さる、ということです。このようにイエス様は、あわれみ深く、恵み深いお方です。御言葉にも、次のようにあります。

父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

ヨハネの福音書 6章37節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、ご自身の元に来るものを決して外に追い出したりなさいません。また、イエス様はいつも生きていて、私たちは、24時間いつでも、どんなときでも祈ることができます。

イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。
したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

ヘブル人への手紙 7章24~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 たとえば、私たちは、朝、祈ることができなかったから申し訳なく思うことがあります。しかし、たとえこのように申し訳なく思ったとしても、イエス様はいつでも私たちを迎えて下さるので、私たちはイエス様の元に行き、祈ることができるのです。実際、イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ヘブル人への手紙 4章15~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、私たちは、どんなときでも、大胆に恵みの御座に近づくことができます。あわれみと恵み、そして折にかなった助けを頂くことができるのです。

 そして今日の箇所では、イエス様は群衆を癒されただけではなく、彼らに「神の国のことを話し」た、とあります。二番目に、イエス様について知ることができるのは、私たちを天国に導いて下さるお方だ、ということです。

 イエス様は、ご自身がこの世の者ではない、と次の箇所で言われています。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。

ヨハネの福音書 8章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、イエス様は、ご自身を通してでなければ、天国に行くことはできない、ともはっきりと言われています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

ヨハネの福音書 14章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして、イエス様は、私たちにいのちを与えて下さる唯一のお方です。

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。
それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

ヨハネの福音書 5章21〜節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様が言われているいのちとは、死と対比して語られている、永遠のいのちのことです。また、イエス様が語られている「死人」とは、霊的に死んでいる人です。そして、神の子とは、イエス様ご自身のことです。つまり、「死人が神の子の声を聞く時が来ます(・・・)それを聞く者は生きます」とは、イエス様の語られることを聞いて従う者が、永遠のいのちを与えられる、ということです。

 イエス様は、確かに私たちに永遠のいのちを与えて下さるお方です。このため、イエス様が語られることはとても大切ですし、それを聞いていくこともとても大切です。私たちが、それにどのように反応するかによって、変わってきます。

 そして最後三つ目に、イエス様について知ることができるのは、イエス様は、私たちの必要に応えて下さるお方、ということです。今日の箇所では、群衆の求めに応じて、「癒しを必要とする人たちを治された」とあります。

 また、今日お読みした別の箇所では、イエス様は奇跡を起こされて、大勢の群衆が満腹するまで、五つのパンと二匹の魚を増やされました。このように、イエス様は、私たちが空腹ならそれを満たして下さるだけでなく、そのことを、奇跡を起こしてまで、完全に成してくださいます。

人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

エペソ人への手紙 3章19~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、イエス様は、私たちが求めるなら、「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる」お方です。

 しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、私たちが心配しないようにすることです。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

マタイの福音書 6章31~34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで、イエス様は、私たちが食べるものや飲むもの、着るものについて心配しないように、と言われました。実際、これらは異邦人、すなわち、イエス様を信じていない人びとが心配してとらわれているものなのです。私たちが心配しなくても良いのは、私たちにこれらのものすべてが必要なことを神様はすでに知っておられるからです。

 ここからさらに、イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい」と私たちに命じられました。これは、私たちが求めているものを与えられるための条件です。つまり、私たちは、それらが与えられるため、まず自分で努力した上でイエス様に求めるのではなく、まずは神の国と神の義を求めていく必要があるのです。私たちが、まずそうするならば、「これらのものはすべて、それに加えて与えられます」とイエス様が言われたとおり、神の国とその義に加えて、私たちの求めているものが与えられます。

 今日は、御言葉をとおして、イエス様について知ることのできる三つのことを見てきました。イエス様は、「明日のことまで心配しなくてよいのです」と言われました。確かに、私たちは、イエス様に信頼するなら、何も心配する必要はありません。なぜなら、イエス様は、いつでも私たちを受け入れてくださり、祈りを聞き、永遠のいのちと共にすべての必要を満たして下さるお方だからです。

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