天国に入るために必要なこと

2020年12月13日

ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

ルカの福音書 16章25~31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書は私達の人生を、手幅ほどのものと表現しています。とりわけ若い人にとってはこの先の人生は長いもののように思えますが、実は人生は、永遠と比べれば、聖書が語るようにあっという間の短いものです。

 そこで重要になってくるのが、私達が永遠をどこで過ごすか、ということです。聖書は、努力して天国に入るように、と語っています。なぜなら、入りたくても入れない人が多いのだから、と。ではどうやって天国に入るのでしょうか。今日はそのことについて上の箇所から見ていきたいと思います。

 上の箇所で、金持ちはなぜ地獄にいたのでしょうか。まず覚えたいのが、金持ちは神様のことも御言葉も知っていた、ということです。そして、ラザロのことも、彼が貧しいことも知っていました。しかし、そのことを全て知っていながら、金持ちはラザロを助けなかったのです。

あなたの手に善を行う力があるとき、受けるべき者にそれを控えてはならない。

箴言 3章27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。

マタイの福音書 25章41~46節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 上の箇所では、助けることができるのに、助けるべき人を無視することによって、永遠の刑罰に入った者達について語られています。

 この者達は、神様のことを知り、信じていました。しかし、それだけでは十分でないことがわかります。私達は、聖書(御言葉)が何を言っているのか、真剣に捉えていく必要があります。

 救われるために必要なこととして、まず、主に聞き従うことです。そして主に聞き従うこととは、要約すれば、神様を第一とし、自分の隣人を自分自身のように愛することです。

すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。

マタイの福音書 25章40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は人を助けるべきですが、上の箇所で「これらのわたしの兄弟たち」とあるように、特に、信仰を共にする兄弟姉妹達を優先して助けるべきです。

 ただし、その人を自分に依存させるのは良くありません。ここで、聖書に出てくる良きサマリア人が模範となります。良きサマリア人は、必要なことだけ助け、自分には依存させませんでした。私達は人を助ける際、一人一人が、自分ではなく神様に依存するように持っていくことが大切です。

イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

ルカの福音書 10章30節~35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 さて、旧約聖書は一貫して、人々が主に聞き従うかどうかを語っています。

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。

申命記 28章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。

申命記 28章15~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、
わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。
ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。

民数記 14章22~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は旧約の時代、「主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる」と語られました。そして神様は、時代によってそのご性質が変わられる方ではないので、今を生きる私達にも、同様に語られています。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「聞き従わない者は(・・・)神の怒りがその上にとどまる」とある通り、聞き従わない者は永遠の刑罰に入ることが定められているのです。つまり神様の言葉(御言葉)を知っているだけでは人は救われません。もちろん、人は行いによって救われるわけではありません。自分の罪を悔い改めて、イエス様の血潮により罪の赦しを受けなければなりません。ただ、悔い改めとは、180度方向転換をして、自分の行いを改めていくことです。罪を告白するだけでは十分でなく、自分中心から神様中心に変わり、聞き従う生き方を選び取っていかなければなりません。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、
あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。
あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。

ヤコブの手紙 2章14~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでは、主の命令に聞き従うかどうかが信仰者と悪霊の違いであると語られています。そして本物の信仰者には、良い行いも伴うのです。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。
からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヤコブの手紙 2章21~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。

ヤコブの手紙 4章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

前のページに戻る