御言葉を理解することの大切さ

2021年3月28日

その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。

ペテロの手紙 第二 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 御言葉には、私達を救う力があります。しかし、今日お読みした箇所に書かれているように、それらを曲解して自分自身に滅びを招く危険もあります。このため、聖書の御言葉を正しく理解することが本当に大切です。

また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

テモテへの手紙 第二 3章15~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書抜きの信仰はあり得ません。そして聖書を正しく理解することなしには、イエス様に対する信仰による救いは得られないのです。

 聖書を読むにあたり私達が覚えておかなければならないことがあります。それは、理解しにくいことが確かにある、ということです。

 聖書は神様のラブレターだから誰でもわかると主張する人々がいます。しかし聖書には、それは理解しにくいところがある、と書かれています。

 まず、理解しにくいのは、元々書かれた言語が異なるからです。旧約聖書はほとんどがヘブル語で書かれています。そして新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。つまり正しく翻訳することは難しいのです。

 このことをよく表しているのが、昔アフリカで起こった出来事です。ローマ人への手紙12章には、「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。そうすれば「彼の頭上に燃える炭火を積むことになるから」と。この御言葉を文字通り受け取ったあるアフリカの部族は、「敵対する人に燃える炭火をおけばいいんだ!」とそれを本当に実行してしまいました。すると大変なことになった、と昔読んだ宣教師のレポートに書かれていました。聖書に書かれている「燃える炭火」とは、当時親切な行いとして、必要な人々に配るものでした。そうすることにより、分け与える人々の心も満たされたのです。

 また、もう一つ誤解しやすい御言葉の例としては、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」というルカの福音書の16章の御言葉です。それを読んだ人が、実際に「悪いことをしても良いんだ」と思ったそうです。しかしこの御言葉はそういう意味ではなく、この地上にあるお金や富を、人々がイエス様を信じて救われるために用いなさい、と言う意味なのです。

 そして理解しにくいその他の理由としては、聖書が書かれた時代背景が異なる、という点です。当時は、私達が生きている時代のように、テレビやラジオもありませんでした。また、聖書が書かれたのも、私達が住む日本ではなく、その地球の反対側、イスラエルでした。つまり文化も違いました。これらの理由から、聖書が理解しにくいのは確かであると言えます。私達にとって理解できるところもありますが、理解しにくい部分もあるということを覚える必要があります。

その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。

ペテロの手紙 第二 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 上の箇所で書かれている「無知な」とは、聖書についてよく理解していない人を指します。また、「心の定まらない人たち」とは、聖書を知らないか、聖書を知っていても神様と自分の肉を行ったり来たりする人のことを指します。

 聖書は、一人の著者によって書かれました。その著者は聖霊様です。そして聖霊様は人を用いられました。しかし人をロボットのように用いられたわけではありません。その人の特性をも用いられたのです。例えばルカの福音書を記したルカは、当時の医者でした。このことからルカの福音書では、女性や弱者に対する配慮が所々で見られます。例えば、ペテロが大祭司のしもべの耳を切りつけた場面では、他の福音書では、イエス様が「剣を収めなさい」と言うところだけで終わっていますが、ルカの福音書だけは、イエス様がしもべを癒された、と記しています。

 聖書は一人の著者が記していますから、矛盾がないのは大前提です。しかし無知な人は、一つの御言葉だけを取り出して曲解する可能性があります。サタンも、詩篇に書いてある御言葉を取り上げて、イエス様に対して、崖から飛び降りなさい、と言いました。聖書全体を知らなければ、確かにそうするべきだ、と思うでしょう。しかしイエス様は、申命記を取り上げて、神様を試みてはならない、と言われました。先に挙げたアフリカの部族の事例では、彼らが聖書の時代や文化背景を知らなかったので、敵に炭を投げつけたのです。

 また、心の定まらない人とは、先ほど申し上げたように、時には神様に従い、また時には自分の肉によって歩む人です。その人は、聖書を自分の都合の良いように解釈する傾向にあります。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

テモテへの手紙 第二 4章3~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 人間は、自分をボスとし、自分中心に歩みたい、という思いが根本にあります。そして聖書を都合の良いように解釈して、天国には入りたいが自分の好きなように生きたい、と思うものです。「私達は信仰によってのみ救われ、行いは関係ない」と言って、イエス様を信じれば救われるということばかり強調します。また、自分の十字架を負って、自分を捨てて人々を助けなさい、と言われたイエス様の言葉はユダヤ人だけに語られている、と主張します。

 聖書を曲解する人は、二つのカテゴリに分けられます。一つは無知であること、そしてもう一つは自分中心であることです。

その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。

ペテロの手紙 第二 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 御言葉は、自分勝手に曲解することにより、返って自分自身を突き刺すことになり、注意が必要です。

救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

エペソ人への手紙 6章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 確かに、御言葉は敵を攻撃することのできる唯一の神の武具です。しかし、その使い方を間違えると自分を切りつけることがあります。例えば次の御言葉があります。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。

ヘブル人への手紙 13章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は、人々を支配するためにある人たちがよく使う御言葉です。そしてひどい時には、性的な関係を持つよう強制するために用いられることがあります。しかし、聖書には次のようにも書かれています。

結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。

ヘブル人への手紙 13章4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 もし、その人が無知であるならば、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」という御言葉を取り上げて関係を持つよう強要されると、「本当だ、そう書いてある」と思って従う可能性があります。また、もしその人が心の定まらない人であれば、その牧師と関係を持ちたい、と思い、誘惑に陥ることもあり得ます。いずれにせよ、その人は聖書を曲解することになるので自分自身に滅びを招くことになります。

 「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」の御言葉の後には、「この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです」とも書かれています。つまり、その指導者が、「神に申し開きをする者として」人々の「たましいのために見張り」をすることを忠実になしているのならば、その指導者に服従しなさい、ということなのです。例えば、群れから出て神様から離れそうな人、すなわち姦淫をしそうな人に対して、指導者がそれはだめですよ、と言ったなら、それに従わないといけない、ということなのです。

 以上述べてきた要点は、まず御言葉は理解しにくいところがある、ということ、そして無知で心定まらない人々は御言葉を曲解してしまうおそれがあること、そして最後に御言葉を曲解してしまうならば、自分自身に滅びを招くということです。すると私達はどのように聖書を読めば良いのでしょうか。

 まず一点目に覚えなければならないのは、聖書は神の霊感によって書かれた、ということです。つまり聖書の真意を知るためには、聖書を記された聖霊様に聞くしかない、ということです。そしてこのことが一番大切です。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。
預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

ペテロの手紙 第二 1章20~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、無知になるのではなく聖書の正しい知識を身につけるためには、聖書全体を読んで理解する必要があります。このことも大切です。しかしここで問題があります。それは、文化・時代背景や言語が異なり、理解しづらいということ、そして実際、なかなか勉強する時間もない、ということです。だから私達には教師が必要なのです。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

エペソ人への手紙 4章11~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで語られている使徒は、イエス様の時代に生き、よみがえられたイエス様と会った人々であり、聖書の時代の後に、十二人とパウロ以外で使徒は出なかったというのが私達のスタンスです。しかし伝道者や牧師、また牧師と同じ意味である教師は、それ以外の時代にも出てきて、今の時代にも立てられています。牧師や教師が立てられていくことは、私達が正しい信仰をもってキリストのからだを建てあげるため、そして奉仕をしていくために必要なことです。

 ある人たちは、一人一人が聖霊によって教えられるから牧師や教師は必要ない、と主張します。しかし信仰と知識を正しく教えていく人が必要です。次の御言葉にはこう書かれています。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 教師がより厳しいさばきを受けるのは、人々が最初に聞いたことを信じて間違った方向に行ってしまうことが往々にしてあるからです。

 牧師は人ではなくイエス様ご自身が建てられるものです。彼らは私達だけでは理解できない、難しい聖書の箇所を私達が教えてもらうために大切な働きをしています。そのことを理解することもとても大切です。

 今日の話をまとめるとこうなります。まず、御言葉は理解しにくいところが確かにあるということです。このため、私達は惑わされないようにしなければなりません。そして無知で心の定まらない人々は、御言葉を曲解して滅んでしまいます。大切なのは、一人の著者である聖霊様に聞くことと、聖書全体を何度も読むこと、そして教師から理解しにくい箇所について教えを受けることです。

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